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2025年4月13日スオミ教会礼拝説教
ルカによる福音書23章1〜25節
「その声はますます強くなった」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
1、「ピラトの前に立たされる」
この23章では、祭司長や律法学者たちに捕えられたイエス様が大祭司、そして議会である最高法院での尋問の後に、今度は、ローマの総督であるピラトのところに連れて行かれるところから始まっています。ピラトからの裁判を受けるためです。ピラトはローマの皇帝から任命され派遣された総督で、この地域の実質的な支配者です。イエス様は大祭司、議会と前に立たされ、23章ではローマという当時の世界の覇権であった帝国の統治者の代理人の前に立たされるのです。そのユダヤの宗教指導者達の訴えですが、2節にこうあります。
2、「偽りの証言」
「そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
2節
22章では、祭司長たちは「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」あるいは「ではおまえは神の子か」と尋ね、イエス様は確かに「そうだ」とは答えているのですが(ルカ22:67〜70)、しかしそれ以上に、ここでのピラトへの彼らの訴えにはかなり事実でないことが含まれていることが分かります。
確かにイエス様の教えた「神の国」の教えは、当時のユダヤ教徒にとって新しい教えであったでしょう。ですから全く誰も「惑わされる」人がいなかったということではないかもしれません。しかし多くの人はその教えを喜びました。イエス様は惑わすどころか、むしろ誰も交わず避けるような罪人のところに行きました。そして、彼らを裁くのではなく、むしろ受け入れて共に食事をし、友になり、罪の赦しを伝えました。人々はそれを見て、聞いて、そして実際、受け取り、喜び、安心を得た場面がいくつもあります。確かにある人々は勝手に、イエスに「政治的な」解放や革命としてのメシアを望んではいたことでしょう。けれども、イエス様自身は、決してそのような政治的に扇動をしたり、社会を混乱させたり不安にさせたりするということは全くなかったわけです。なぜなら、イエス様の与える神の国は、地上の政治的な王国ではなく、十字架の死と罪の赦しを与えることによって開かれる神の国であったからです。決して国民を惑わしてはいませんでした。
そして「皇帝の税」については思い出すエピソードがあります。ファリサイ人たちは以前、20章22節ですが彼らは「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 (20:22)と質問したのでした。それは20章20節に「イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした」とあるように彼らの悪巧みでした。良いことだと言えば、ユダヤ人たちの支持を失うし、悪いことだと言えば、ローマに訴える口実ができる、そのような罠としての質問でした。けれども、イエス様はその質問に対して、デナリオン銀貨に皇帝の肖像があるのだから、皇帝のものは皇帝に返しなさいと、答えたのでした。イエス様は皇帝に税金を収めることを禁じてはいないことがわかります。ですから、今日のところの彼らの訴えは、イエスが「自分はキリストだ」と言ったこと以外は、全て虚偽の証言、偽り、うそであることがわかるのです。そのような彼らの言動はむしろ皮肉なことに、彼らが大事にするモーセの十戒に「隣人について偽りの証言をしてはいけない」とあるのですが、そのイエスを告発している議員や祭司たちが錦の御旗の如く掲げ、自分は完全に守っていると自負してきたはずの神の律法に、彼ら自らが反し背く罪を犯してしまっているという皮肉というか矛盾が現れています。けれどもそんなことはお構いなしなのか、気づかないでいるのか、彼らは告発するのです。そのような偽りの証言をするほどに、彼らのイエスへの妬み、憎しみ、なんとしてでも有罪にして殺したいという思いが強いのがわかります。
3、「世界の覇権ローマからの総督による裁判」
A, 「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」
しかしその訴えに対するピラトです。3節以下です。
「そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。 4ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。」(3〜4節)
ピラトはユダヤ人たちの「国民を惑わした」という訴え、「皇帝に税金を納めることを禁じた」という訴えについては触れません。なぜなら、マタイの福音書27章18節にあるように、そもそもピラトはユダヤ人たちの訴えは妬みから出ていることを知っていたからです。さらにはマタイの福音書27章19節には、ピラトが奥さんからも「「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」 (27章19節)と訴えを受けていたことまで書かれています。他の福音書でも、ピラトはイエスに彼らの訴えに当たるようなことは認められなかったとも記録しています。ですから、ピラトはここでもはっきりと言うのです。「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と。しかし訴える人々はそれに反論します。5節、イエスの宣教は「民衆を扇動しているのだ」と。
ピラトはその後、8節以下になりますが、今度はヘロデのところにイエスを送り返します。しかしヘロデは自分の感情のままに対応するだけで、イエスを侮辱し、ピラトに送り返します。そこでピラトは再度言います。14節以下ですが、13節からお読みしますと、
「ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 14言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。 15ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 16だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
ピラトは再度言います。取り調べた上で、この人にその訴えに当たるような罪は何の罪も見つからないと。より具体的です。そしてはっきりと言っています。「死刑に当たることは何もしていない」と。「死刑」と言ってますが、ユダヤ人たちの訴えが、イエスの死刑であることも知っています。しかしそのような罪は全くないとピラトは断言するのです。
B, 「バラバか?罪のない正しい人か?」
しかしです、18節以下ですが、
「しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。 19このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 20ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。
他の福音書を見るとわかりますが、バラバは、ピラトがイエスを釈放するために身代わりとして連れてきた人物です。バラバこそ「死罪に値する人物」だったわけで、もはや誰が見ても判断しても罪が明らかな人物を連れてきてイエスと比べさせるわけです。バラバこそ死罪になるべきだと誰もが言うだろうと。しかし、なんということでしょう。それさえも祭司長たち律法学者たちは覆していうわけです。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と。もはやユダヤ人たちに理性とか法とかはありません。彼らの妬み、そして「除け」という感情がまさっていて、もはや歯止めが効いていません。それでもイエスを無罪にするよう訴えるピラトに対して、彼らはさらに叫びます。
「十字架につけろ。十字架につけろ」
と。それでもピラトは3度目、言います。22節
「ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
ピラトは一度だけではなく、「三度」、イエスに罪は認められない、何の悪いこともしていない。死罪には当たらないと、断言するのです。
C,「世界の最高権力の代理人が「罪がない」と宣言した」
このことは何を伝えているでしょう。イエス様は「神の御子」である方が、聖霊によって人となられた方です。そして、イエス様の洗礼の時の「天からの声」にあるように、まさしく「神の前」にあって神が宣言した「正しい聖なる方、神の喜び」です。罪のないお方です。しかしそれだけでなくて、当時の地上の最高権力のローマの総督が、正しく裁判をして「この人には何の罪も認められない」と宣言しています。このようにイエス様は、天においてはもちろん、地においても、正しいお方であったということが宣言されているということを意味しているのです。しかもそれとともにイエスには「死罪に当たる罪が何も見つからない」と繰り返されています。つまり、イエス様は「十字架の刑に値する方ではない」という宣言も地上の最高権力によってされているということでもあるのです。
4、「それでもイエスは十字架の死へ」
しかしそれにもかかわらず、イエス様は十字架にかけられるのです。23節
「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 24そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。 25そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
A,「罪の世、人の罪がイエスを十字架につける」
この「その声はますます強くなった」という言葉ーこれは新改訳聖書ですと「ついにその声が勝った」と訳されていますが、この言葉は実に意味深いです。「その声」というのは「ピラトの声」ではありません。「地上の最高権力の正義の声」ではありません。「妬みと憎しみにかられ、理性を失い感情的になったその罪深い声」が、ますます強くなった。あるいは、勝ったということです。ピラトは何とか釈放しようとしました。しかし、マタイの福音書では、彼はその群衆の勢いに押されて、コントロールができなくなり、暴動になりそうになるのを恐れたとも書いていますし、マルコでは、彼は群衆の機嫌を取ろうとしたとも書いています。その通り彼も結局は、公の正義よりも、自分だったわけです。しかしそんな彼の姿を見て「ああなんてみっともない」「なんて身勝手な、なんて愚かな」と他人事のように私たちは言えるのでしょうか?いやむしろ、彼の姿は誰にでも起こりうる人間の弱さであり罪深さではありませんか。それはもちろん地上の正義を否定するということではありません。そうではなく総督、いや皇帝でさえも、どんな最高権力であっても人はどこまでも不完全であるということであり、「人の正義」は、決して完全ではないということです。この記事はそのことをまず私たちに気づかせてくれています。事実「悪が正義のようになり、正義が悪のようになる」ということは、どこの社会でも、私たちの社会でも当然、起こることでしょう。そして「扇動」に関して言えば、一部の人、あるいは多数派の思いや感情によって世の中が動かされていくことは今まさに起こっていることでしょう。現代は、そのような扇動や風潮がまさに吹き荒れ、本当かどうかわからない情報によって人々が扇動されています。しかし、それは決して新しい現象ではなく、いつの時代も人間は繰り返してきていることです。まさにこの場面でも、イエスが民を扇動したと彼らは訴えるのですが、民を扇動しているのは、イエスではなく、祭司長た律法学者たちであるのも皮肉なことです。しかも偽りの都合の良い情報によってでです。彼らはそれに気づいていません。そしてピラトも時の権力者でありながら、そのことに流され、まさに扇動されていっているのです。そのようにして死罪に当たる罪は全く見当たらないイエス様が、十字架の刑の宣告を受けるのです。
この出来事は何を伝えているでしょうか?それはこの世は「罪の世」であることをまさに明らかにしています。人は皆、どんな人であっても、これほどまでに罪深い。つまりイエス様を十字架につけたのは、他でもない人間であり人の罪です。人の妬み、人の憎しみ、人の偽りの証言、人の扇動、人の自己保身やプライド、正義よりも自分の立場、などなどが、イエス様を十字架につけるのです。人間の理性や良心、正義などもここでは打ち勝てませんでした。人間の罪の前に、理性や良心はある程度は抵抗しても、しかしどこまでも不完全でしょう。そして「負けた時」には、理性も良心も罪の力に対してはもはや何もできません。まさにピラトの姿を通して、この十字架の前に、その現実が実に鮮明に浮かび上がってきます。罪に対する人間の無力さです。そして、そのことは同時に、まさに人間が、そしてその罪深さこそが、イエス様を十字架につけるのだということです。
B,「私がイエスを十字架につけた」
みなさん、そのピラトの姿、人々の姿は、私たち人間を現しています。いや私自身です。祭司長、律法学者たちの姿、周りで十字架につけろと叫ぶ群衆の姿、そして何が正しいかをわかっていながらも自分を守り、自分のプライドのために判断してしまうピラトの姿を、皆様も自分自身に当てはめてみるなら、あるいはその立場に自分を置いてみるなら「自分は彼らのように、群衆のように、ピラトのようには決してしない」「正しい人を命を賭しても守り切る」「扇動されている群衆に刃向かってでも正義を守る」とは誰も言えないでしょう。弟子たちでさえも皆「他の誰かが裏切っても自分は決して裏切らない。イエスを知らないなどとは決して言わない」と誓って自信に溢れて断言しました。しかしその結果は逆でした。みな、イエスを見捨て逃げました。ペテロは3度「知らない」と言いました。実に、イエスを歓迎し支持していながら、イエスを信じていながら、イエスに従えない自分、背いてしまう自分、知らないという自分、裏切ってしまう自分、除いてしまう自分、そのようにして感情のまま思いのままに行動してしまう自分、それは弟子だけではない、周りのユダヤ人だけではない、誰でも日々の生活を振り返る時に痛感させられる自分自身の姿、いや、私自身の姿であることを気付かされます。実に、イエス様を十字架につけたのは、私であり、私たち人間の罪なのです。私たち自身、私自身なのです。まさに今日のピラトの記録、弟子たちの記録を通して私たちは自らの罪を示され心を刺し通されるのです。
5,「罪を示され刺し通される私たちのための福音」
しかし、聖書のメッセージはそれで終わりではありません。私たちがそのように罪を示され心が刺し通される時に、聖書はそのように私たちを断罪して裁いて終わりの書なのでしょうか?それだけが聖書が伝えたいメッセージなのでしょうか?それなら一切、聖書には救いはありません。むしろそのような現実が私たちに示されるからこそ、その時に聖書が何よりも伝えたい聖書の中心のメッセージが私たちに明らかにされるでしょう?そう、まさにそれら、正しい人を十字架につけるような私たちの圧倒的な罪の全てをご存知の上で、裁くためではなく、その罪から救うため、罪の赦しを与えるため、その罪の全てを黙って、その身に負われこの十字架に従われるお方がいるではありませんか?それはイエス・キリストご自身であり、その十字架こそ私たちに指し示されているのです。
そこで改めて「ついにその声がますます強くなった、勝った」という言葉。実に意味深い言葉です。皆さん、イエス様はゲッセマネの祈りで何と祈りましたか?「みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください」と祈ったでしょう。みなさん「ついにその声が強くなった、勝った」その時に何が起こっているでしょうか?ーその時、その罪の力、罪の声が勝った、その時、神様は沈黙されているでしょう。しかしその沈黙にこそ、イエス様のゲッセマネの祈りの求めに対する神様の御心、答えがあるでしょう。聖書には「神にとって不可能なことは何一つありません」とあります。つまり、神様はその群衆の罪深いの声を覆し、ピラトの正義の声を勝たせることもできますし、イエス様ご自身の言葉にもあるように、イエス様が天の軍勢を遣わして罪深い声の人々全てをそこで裁いて滅ぼすこともできるのです。しかし神はそうなされないでしょう?神は沈黙されているではありませんか?そう、だからその声が、罪の声が勝ったのです。それは神が沈黙されるからです。そして、そこに「主よ、御心の通りになりますように」と祈ったことへのその答え、神様の御心があるからです。それは、その声が勝ち、ピラトの声が負け、その人々の罪によってイエスが十字架にかけられること、その十字架で死ぬことこそ、神様の御心だということです。しかしそこに私たちへの救いの福音があるでしょう。そうそのようにイエス様が十字架にかけられるからこそ、つまり、イエス様がその全ての罪を背負って十字架にかけられるからこそ、イエス様が代わりにその罪をおって十字架で刑を受けるからこそ、私たちは神様からその本来私たちが受けるべき罪の刑罰を課せられない。罪を課せられない。神の前に罪ある者とされない。このイエス様の私たちの身代わりの十字架のゆえにこそ、イエス様が私たちが受けなばければいけない罪の罰を代わりに受けてくださったからこそ、私たちは神の前に罪赦され、罪のない者とされる。そう事実、尚も私たちは罪人のままですが、それにもかかわらず、私たちの義ではなく、イエス様の正しさ、その十字架の義のゆえに、神はそれを信じそのまま受け取る私たちに「あなたは正しい、あなたには罪を認めない」と宣言してくださる。それは全て私たちの苦しみ、私たちの十字架のゆえではなく、全てこのイエス様の苦しみ、十字架、死のゆえに、ではありませんか。イザヤ53章の約束にもある通り、イエス様の打傷のゆえに、私たちは皆、癒され、救われるのです。その遥か昔の約束が、まさにこのイエス様の十字架のゆえに私たちに実現しているでしょう。ですから「ついにその声が強まった、勝った」その時。その神の沈黙の中で、神は誰を見ているでしょう。それは私たち一人一人を見ているのです。私たちの罪を赦すため。滅びから死から、裁きから救うため。「ぜひあなたを救いたい」というその眼差し、その想いです。その眼差しがこのみ言葉に見えてきませんか?私は見えるのです。そう、そして聖書にある通り、それほどまでに、愛する一人子の十字架の死の決定に沈黙され、イエスを十字架の死に引き渡すほどに、神は私たちを愛してくださっているという福音が響いてくるでしょう。そのことがこのところからの変わることのない、私たちへの救いの答えに他なりません。
6、「終わりに」
イースターを前にし受難週を迎えた今日の聖日もイエス様はその真実な約束のゆえに、私たちに「受け取りなさい」と福音を差し出してくださっています。今日もイエス様がここにおられイエス様がみ言葉とパンと葡萄を持ってこのイエス様のからだと血を与えてくださり、この十字架と復活のゆえに私たちに今日も宣言し遣わしてくださいます。「あなたの罪は赦されていまます。今日もあなたのいのちは日ごとに新しい。だから安心して行きなさい」と。ぜひその信仰を持ってそのまま福音を受け取り、平安のうちにここから世へと遣わされ行きましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。