スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回は5月22日(水)10時―13時の開催です。

shugeiフィンランド風の刺繍を作ってみませんか。

次回の手芸クラブは刺繡をします。

今度はクロステージのテクニックを使って室内飾りを作ります。

静かにおしゃべりしながら楽しく作りましょう!

参加費: 1000円

お子さん連れの参加も大歓迎。

皆様のご参加をお待ちしています。

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お問い合わせ、お申し込み

03-6233-7109

福音ルーテルスオミ・キリスト教会

東京都新宿区鶴巻町511-4―106

www.suomikyoukai.org

フィンランド人の心の歌を一緒に歌う集い 5月19日(日)

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ご案内のテキスト版

福音ルーテル・スオミ教会 フィンランド人の心の歌を一緒に歌う集い

5月19日(日)聖霊降臨祭の礼拝の後(当日の流れついては下記をご覧下さい。)

☞ フィンランドの全国の小中学校の終業式で毎年ある決まった讃美歌が歌われることをご存じですか?
☞ シベリウスの「フィンランディア」はフィンランドでは讃美歌ではありませんが、世界の多くのキリスト教会で讃美歌になっていることはご存じでしたか?
☞ 宗教改革のルターの讃美歌「力なる神は」は第二次大戦中の困難な時期にフィンランド国民を勇気づけた歌だったことは?

こうしたフィンランド人の心の歌をフィンランド語でも日本語ででも歌いましょう!

~ 歌のリスト ~
1. Suvivirsi/清夏賛歌
2. やすかれ我が心よ(フィンランディア)
3. Jumala onpi linnamme/力なる神は
4. Kesäpäivä Kangasalla/夏の日カンガスアッラにて
5. Saman korkean taivaan alle/この青い空の下に

どの歌も日本語の訳を用意してあります。最初にメロディーに馴染んでから歌います。

当日の流れについて
⛪✝   10時30分~12時 聖霊降臨祭(※)の礼拝
☕ 🍰  12時~12時45分 コーヒー・ティータイム
♪♪   12時45分~13時30分くらい 歌の集いです!

 

(※)聖霊降臨祭とは、クリスマス、イースターに並ぶキリスト教会三大祝祭の一つです。是非、礼拝からご参加下さい。スオミ教会の礼拝の司式はフィンランドのルター派教会のものに倣っていますので、それもご覧になれます。ご都合つかなければ、礼拝後のご参加でも大歓迎です。日本では、ルター派教会のことを「ルーテル教会」と呼びます。

牧師の週報コラム 

「しなければならないことをしただけです」

最近あまり耳にしなくなった言葉だが、「男女共同参画」に関する新聞のコラムでの話。ある共働きの夫婦、夫は家事を怠ける人ではないのだが、妻としては何かしっくりいかない。 なんだろう。それがわける出来事が起きた。妻が家事に追われている時、夫はソファーに座って新聞を読んでいる。妻は「ちょっと、私一人だけにさせないでよ」、それに対して夫は新聞に目を落としたまま、「何をしてほしいか言ってくれたら、手伝うよ」。それで妻は切れてしまったと。

これは私にも身に覚えのある話。読んで身につまされる思いがした。一人暮らしが長かったので炊事洗濯掃除はちゃんと身についていると自負していたのだが、結婚するや、父親が会社員、母親が専業主婦という過去の面影が息を吹き返してしまったのだろう、「言ってくれたら手伝うよ」を口にしてしまったのだ。相手はそういう昭和のコンテキストとは全く無縁。怒りに当惑が混ざったのも無理はない。家事育児は夫婦の共同事項という本当の意味は、極端に言えば、何かやり残していることはないか、それを先を競うようにして見つけ、見つけ次第さっさと率先して片づけてしまうということだったのだ。ソファーに座るのが許されるのは、「何かやり残していること」がない時なのだ。「言われて手伝う」というのは、まだ共同参画でも何でもないのだ。

これは教会も同じ。かつて講壇交換で他教会に赴くと、ある教会では大学の元理事長も週報を折ってハト箱に入れている、別の教会では著名な弁護士が壁のポスターで古くなったものを外して新しいものに貼り換えている、さらに別の教会では、某大国の大使も務められた元外交官が受付に立ち、来訪者一人一人に挨拶をして聖書と讃美歌集を手渡している。男だろうが女だろうが社会的に高い地位だろうがなんだろうが全く関係ない。みんなが、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』(ルカ1710節)でなければならないのだ。

スオミ教会フィンランド語クラスのご案内

finrandogo日時 5月16日 (木)
19時~20時10分

フィンランド語クラスは
【初級】だけとなります。

初級はフィンランド語がはじめての方向けですが、フィンランド語が少し出来る方もどうぞ!


finrandogo授業は19時~20時、その後10分くらい聖書日課を読んだり讃美歌を歌ったりします。

参加費 1000円

申し込み順で受け付けます。
お問い合わせ、お申し込み

03-6233-7109

スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4

 

牧師の週報コラム 

 キリスト信仰の「平和」と「平安」

イエス様は、「私はあなた方に平和を残しておく、私の平和をあなた方に与えるのだ。私は平和をこの世が与えるようには与えない」と言われました(ヨハネ1427)。 今、世界を見渡すと悲惨な戦争ばかり。戦争がない国でも人が人を傷つることが氾濫してしまっています。 イエス様の平和の約束は空しく聞こえるかもしれません。

しかし、キリスト信仰で言う「平和」の一番大元にあるものは、神と人間が平和な関係にあることです。人間が持つ罪のために神と敵対関係に置かれてしまっていたが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで平和な関係を持てる可能性が開かれた。人間はそれを受け取ると内に揺るがない「平安」を得て、波風猛る世にあっても雄々しく進むことが出来るようになる。どうして出来るのか?宗教改革のルターが次のように教えています(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」1878年初版 430日の個所から)。

『イエス様が言われる「平和」は、不幸がない時に心を安らかにするというものではない、不幸のただ中にあって、外面的には全てが動揺している時に心を安らかにするものだ。

この世の「平和」とキリストの「平和」の間には大きな違いがある。この世の「平和」とは、動揺を引き起こした悪がなくなることである。これとは逆にキリストの「平和」は、外面上は不幸が続いている状態、敵や疫病や欠乏や罪や死や悪魔が取り巻いている状況でも、内面的には心に慰めと励まし、「平安」があるというものだ。その時、心は不幸を意に介しないばかりか、不幸がない時以上に勇気と喜びに溢れて駆け上がっていく。それゆえ、この「平和」と「平安」は人知を超えていると言われるのだ。

理性が把握できる「平和」はこの世の「平和」だけである。理性は、悪がまだ残っているところに「平和」があるなどと理解できない。理性は心を安らかにする術を知らない。なぜなら、悪がある限り「平和」はないと考えるのが理性だからだ。キリストが私たちを顧みて下さる時、ひょっとしたら私たちの外面的な惨めさは取り除かれていないかもしれない。しかし、主が確実になさることは、キリスト信仰者を強くし、怯える者を恐れない者に、動揺する良心を落ち着かせることである。それで信仰者は、この世全てが恐れおののき青ざめる時でも、よく守られ喜びを失わないでいられるのだ。』

注 上記文の中で「平和」と「平安」と二つ類語が出てきますが、ギリシャ語の原文では両方ともエイレーネ―という一つの同じ言葉で言い表します。訳し分けたのは、「平和」と言うと、日本語ではどうしても戦争の反対の意味で捉えられてしまうからです。エイレーネ―は内面の「平和」すなわち「平安」も含みます。英語のpeaceやフィンランド語のrauhaも、外面的な「平和」と内面的な「平安」を両方含んでいます。面白いことに、スウェーデン語は日本語と同じように二つに区別しているようです。例えば、ローマ1218節でパウロが全ての人と「平和な」関係を保ちなさいと言う時、fredという言葉を使い、イエス様が「平和」を与えると言う上記ヨハネ1427節では、fridという言葉を使っています。大体、外面的な「平和」はfredが用いられています(例えばルカ1432節)。しかしながら、神との「平和な」関係について述べているローマ5章1節ではfredではなく、fridを用いているので、そこでは外面的なものと内面的なもの両方が含まれていると考えられていると思います。

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聖書入門ご案内

 次回5月15日 (水) 10時30分~11時30分

聖書をわかりやすく解説します。毎回違うテーマでお話します。

フィンランドのルター派教会の聖書の学びです。講師はフィンランドの大学の神学部で博士号を取得した吉村博明牧師です。

誰でもお気軽にご参加ください。

お申し込み、問い合わせはヨシムラ・パイヴィまで。


03-6233-7109
福音ルーテル・スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106
www.suomikyoukai.org

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

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次回の家庭料理クラブは5月11日(土)13時に開催します。

春から初夏にかけてフィンランドはお祝いの季節になります。 次回の家庭料理クラブではお祝いのパーティーにも出される「ウィルヘルミーナ・クッキー」Wilhelmiinapikkuleipäと「ベリー・スープ」Marjakiiseliを作ります。バター風味の香ばしさとサクサク感が合わさったクッキーはパーティーの人気者。あっという間にテーブルからなくなります。ベリー・スープはフィンランドの伝統的なデザートの一つ。普段の食卓にも出されますが、ベリーの種類を増やしてホイップ・クリームをのせて高級感を出せば、お祝いのデザートにもなります。

ウィルヘルミーナ・クッキーとベリー・スープを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1,500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、
まで。

電話03-6233-7109

福音ルーテル スオミ・キリスト教会

牧師の週報コラム

 復活の日の再会の希望を抱いて

フィンランドの教会の葬儀では司式をする牧師が柄杓で土を棺桶の上にかけ、「土から生まれ土に戻る」と言います。これは、最初の人間アダムが神の手で土(ヘブライ語でアダマ)から造られたことを想起させるものです。 続いて牧師は式と説教を通して、肉の体は朽ちても復活の体を与えられて復活の日に再会できるという希望を遺族や会衆と一緒に確認します。以下の聖句とルターの説き明かしは、この希望を強めてくれる教えです(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」1878年初版 47日の個所から)。

「全ての人間はアダムと結びついて死する者となったのであるが、今度は逆にキリストと結びついて生きる者に替えられるのである。」(第一コリント1522節、フィンランド語の聖書からの訳)

強い信仰はこの御言葉を大きな文字で心に書きつける。また、地上から遠く離れた大空一杯に描くように高く書き上げる。信仰はこの御言葉で言われていること以外には何も聞かず何も考えず何も知らない。あたかも、この世にはこの御言葉以外に書かれたものは何もないかのように。生きること活動することの全てはこの御言葉の中だけであるかのように。このように信仰することができるならば、我々は喜びのうちに生き喜びのうちに死ぬことができよう。この信仰が我々に教えていることは、キリストは自分自身のためだけに復活されたのではなく、我々のために復活されたということだ。それで我々はキリストの復活という防壁で守られて、かの日には我々も復活を遂げて彼と共に永遠に生きることになるのだ。

確かに我々の復活はまだ秘められたことで目の前で起こることにはなっていない。しかし、それはもう既に起こったと言っていい位に確実なことなのだ。心の目を将来の復活にしっかり向けていれば、今目に見える全てのものは中身のない殻にしか過ぎなくなるだろう。天と地において目にすることは他には何もないというくらいに。それで、我々はキリスト信仰者が埋葬されるのを目にする時、信仰の目では全く別のことを見ているのだ。そこには墓も遺体もない。見えるのは、死を超えた命であり麗しい園であり、そこで憩う新しい人たち、永遠の命に与って生きる至福の人たちなのだ。

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牧師の週報コラム

遠藤周作「沈黙」から帚木蓬生「守教」へ

(先週の週報コラムで和辻哲郎の「鎖国」と渡辺京二の「バテレンの世紀」について書いたら、礼拝後のコーヒータイムの席で遠藤周作の「沈黙」が話題になりました。それで今回はその時の話の続きとして)

昔、遠藤の「沈黙」についてある青年キリスト信仰者と話し合った時のこと。イエス様は自分を公けに主と認める者を神の御前で認める、しかし、拒否する者は神の御前で拒否すると言われた(マタイ10章32~33節)。そこで、イエスを拒否しないとこの者たちは死ぬんだぞと、拷問に苦しむ人たちの声を聞かされたら、どうしたらいいのか?「沈黙」ではそれで棄教した宣教師があたかも自分こそが真のキリスト信仰者であるかのように気取って終わる。信仰を告白することが愛のなさになってしまうのはなんともやりきれない(遠藤は欧米キリスト教に一泡ふかせたかったのか)。

そこで考えたのは、はい、信仰を捨てます、と言って(表情は無念の苦渋を滲ませ、心の中ではあかんべー)、踏み絵を踏んでキリシタンの人たちを助けたら、また伝道と礼拝を始める、そしてまた捕らえられて同じ脅迫を受けてまた「棄教

する、そしてまた伝道と礼拝を始める、これを繰り返したらどうだろう。もちろん繰り返しなんかありえず、2回目でバッサリだとは思うが、どうせキリスト教徒でいることは死を意味する時勢なのだから。

帚木の「守教」はおそらくこの考え方と軌を一にしているのではないかと思った。潜伏キリスト教徒たちは確かに踏み絵を踏んで檀家制度に組み入れられた。しかし、彼らは独自の連絡網を築いて信仰の共同体を維持。宣教師が彼らに言う。殉教は宣教師のすること、信徒がすべきことは次に宣教師が来るまで何百年かかろうとも共同体を守ること。潜んだとは言え、キリスト教徒たちは全く安泰ではなかった。発覚すれば拷問と死罪。登場人物も言うように、薄氷の上を歩くのと同じだったのだ。氷が割れて落ちてしまった人たちも大勢いただろう。踏み絵を踏んだ棄教の宣教師は身の安全を保証されて余生を送れたが、潜伏キリスト教徒たちは全く正反対の境遇に置かれた。

「守教」の最終章は幾世代も続いた潜伏が劇的な展開を遂げて終息に向かう。もちろん、開国はしても禁教が解けるまで20年近くあるのでまだ波乱万丈は続く。しかし、200年以上に渡る苦難の歴史の終わりがやっと始まったという幕開けの感動が漲る。渡辺京二は日本と西洋とファースト・コンタクトとセカンド・コンタクトの間には断絶があると論じた。確かに国家レベルではそうだろう。しかし、この世界の片隅にあった連続性は認めてもいいのでは?「守教」には棄教宣教師に対する批判も出てくる。「沈黙」に対する見事なアンチテーゼの書だと思う。 

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