牧師の週報コラム

621日に開催された「チャーチカフェ&コンサート

の牧師のチャーチカフェ・スピーチの抜粋 

本日は北欧の国々では夏至祭の休日です。スウェーデンではミドソンマルと言い、これは英語のミッドサマーと同じです。ところがフィンランドでは「ヨハンヌス」の日という言い方が公式になってます。これは新約聖書に登場する洗礼者ヨハネを意味します。ルカ福音書1章によれば、ヨハネはイエス様よりも半年前に誕生したので、イエス様の誕生を12月とするとヨハネは6月になり、夏至祭の日が彼を覚える日に定められたのです。

洗礼者ヨハネはいかなる人物だったでしょうか?彼は、人々に罪の悔い改めを勧めて洗礼を授けました。旧約聖書を受け継ぐ人たちは、この世は始まりがあったように終わりもある、それは神の怒りの日で神は逆らう者を滅ぼすと信じていました。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、その日がいよいよ来ると思ったのです。それで大勢の人たちが洗礼を受けにヨハネのもとに来たのでした。洗礼を受けた人たちは、神に対してやましいところは洗い清められた、もうこれで大丈夫と思ったかもしれません。

ところがヨハネは、そうではないと言ったのです。彼の後に偉大な方が来られる、その方が大丈夫にして下さるのだと。実は彼が施した洗礼は、人が自分には神に対して罪ある者と認める印であり、だから神の裁きから守ってくれる方を必要としていますという印だったのです。その守って下さる方を神は私たちに贈って下さったのです。それがイエス様でした。

私たちがイエス様を受け入れて自分のものにすることが出来れば、たとえこの世が終わろうとも守られて乗り切ることができるのです。このような安心を持てれば、この世の人生で苦難や困難があっても揺るがない安心があります。なぜなら、この世の終わりの苦難や困難の大きさと言ったら、この世の苦難や困難とは比べものにならないもので、そこで大丈夫ならこの世ではもっと大丈夫だからです。

さきほど、カンテレグループのSointuTuuliの皆さんが素晴らしい演奏を聴かせて下さいました。その中の一つは、有名なバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」でした。ドイツ語の題名は「イエスは私の喜びであり続ける」(Jesus bleibet meine Freude)だそうです。その歌詞を見たら、イエス様を受け入れて自分のものにすることができるとどんなに心を励ましてくれるかを歌い上げていることがわかりました。その趣旨に沿って歌詞を訳してみましたので、以下にご紹介します。(日本基督教団の讃美歌第二編に228番「こころに主イエスを」としてあります。)

私にとって幸いなことは、

私にはイエスがあるということ、

ああ、どんなに私は彼にしっかり

掴まっていることか、

私が病気の時、悲しみにある時に

彼は私の心を爽やかにしてくれるからだ。

私にはイエスがある、

私を愛し、私のものになるようにと

ご自身を捧げられたイエスが、

だから、私がイエスを手放すことなど

ありえない、今すぐ心が砕けても。

イエスは私の喜びであり続ける、

私の心の慰め、潤いであり続ける

イエスは全ての苦しみから守って下さる、

彼は私の生きる力、

私が目にすることができる楽しみ、太陽、

私の魂の宝、嬉しさ、

だから、私はイエスを手放さない、

心と目から遠ざけない。

 

訳者からのお勧めです。ドイツ語は英語と違ってローマ字読みで割といける言語なので、歌ってみてはいかがでしょう。ドイツ語の歌詞は、https://classic-fan.com/jesujoy-of-mans-desiring/ で見つかります。

発音について細かいことを言えばキリがないのですが、この歌に関してなら、以下の三点だけでも注意したら結構いけると思います。一つ目は、EIをエイと読まずアイと読むこと、二つ目は、CHを英語みたいにチ(Church)やキ(Christ)と読まず、ここではただヒと読むこと、三つ目は、Jesusは英語のジーザスではなくイェーズス。これだけで随分ちがいます。別にドイツ人やドイツ語が出来る人に聞かせる必要はありません。この歌は自分で意味を知って口ずさむだけで気分が上向きになること請け合いです!

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2025年6月29日(日)聖霊降臨後第三主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書9章51−62節

律法ではなく福音による「従う」恵みと幸い。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

1、「はじめに」

今日のところ、特に57節以下を注目して見ていきますが、難しい箇所のように思えます。「イエスに従うことは良いことなのに、なぜイエスはそれを受け入れないのだろうか。なぜ従うのにこんな厳しいことを言うのだろうか。これでは誰も従うことなどできないではないか」等思うかもしれません。あるいはこれまでこの箇所から「私たちが従うには、これぐらいのことをしなければいけないんだ。従うということはこれぐらい責任と重荷があることなんだ。」というような律法の説教や勧めを聞いたこともあるかもしれませんし、そのように読む方もいることでしょう。けれどもこのところが伝えていることもまた律法ではなく福音と恵みに他なりません。そして主なる神イエス・キリストにあって、「従う」ということは本当はどのようなことなのかを教えられるのです。

2、「自から「従います」ー自信」

今日のところには、54節のヨハネとヤコブも含めて様々な「服従」「従う」が書かれていますが、57節からの三人に注目して見ましょう。まず一人目、57節。

「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。」(57節)

 私たちからすれば、この人の言葉は非常に献身的な声に聞こえます。しかしイエスは答えます。

「イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 」(58節)

 事実、イエスの宣教の旅には定まった自分の家がありませんでした。イエスや一行に場所を提供し、食事などをもてなしてくれる人々のところに滞在しながらの宣教の旅でした。ですから、もし「おいでになる所、どこにでも」と言う時には、まさにそのような旅になることを意味しています。彼に対するイエス様の答えは何か厳しい返答のように聞こえます。しかしここにはどのようなメッセージがあるでしょうか?弟子たちとイエス様との宣教は、確かに、そのような枕するところが定まっていない歩みではあるのです。しかし、その旅はこれまでも日々、その旅の必要は満たされて来て、神は必要な物を備え与えて下さってきた歩みでした。つまり、イエス様の言葉の背景には、人の目には十分ではなく貧しそうで枕するところもないような歩みに見えたとしてもです、そのように、イエスご自身の歩みも、そしてイエスと一緒の旅も、「天にあって」、神の前にあって、つまり、常に必要を満たしてくださる神への信仰にあっては、いつでも豊かで確かで不安のない恵みがある歩みであることをも示唆しているでしょう。つまり信仰の歩みは「天の神の恵みとその確かさへの信頼が、イエスとの旅の大事な持ち物である」ことを伝え用途してくれているのです。このイエスのことばを聞いて、この人はどう理解し答えたのかは書かれていません。

3、「「ついてきなさい」という天のプレゼント」

  二人目はどうでしょう。

「そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。

59節

 今度の人は、イエスが「わたしに従いなさい」と言っています。しかしその人は、まず父を葬らせてくださいと言うのでした。この人は拒んでいるわけではありません。父を葬ったらついて行くという意味でしょう。それに対しイエスは言うのです。

「 60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」

60節

A, 「召しゆえに従う恵み」

 これもまた何か非常に厳しい言葉です。お父さんを葬ってからついて行くのは別に良いことのように私たちは思うのです。しかし鍵は、後半の「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」にあります。そして「イエスが」「ついてきなさい」と招いていることも重要な鍵です。思い出すことができますが、イエスの弟子達は、自分から「従います。ついて行かせてください」といって従っている弟子達ではありません。皆、イエスの方から、彼らに声をかけました。ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブは漁師で、湖の畔で、漁を終えて、網を洗っているところにイエスがやってきました(ルカ5:1〜11)。そこでイエスは、イエスの方からまずしるしを与えて自分が神であることを示しました。前の晩に魚が一匹もとれなかったのに、イエスは舟を出させて網を下ろすようにいいます。ペテロ達は誰も取れるとは思っていませんでしたが、その通りにした時に、舟が沈みそうな程の魚が取れたという出来事がありました。その後で、イエスが彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言って召した、そして彼らがそれに従ったのが、弟子達とイエスの歩みの始めでした。取税人レビはどうであったでしょうか(ルカ5:27〜32)。レビの所にも、イエスの方からやってきて、イエスが彼に「わたしについてきなさい」と声をかけて招いているでしょう。ヨハネの福音書にあるナタナエルもそうですし、他の弟子達一人一人もそうであったでしょう。「イエスが」「ついてきなさい」と招いて彼らは従っているのです。このように「従う

というのは、まず「イエスの召し、ことばがあってこそ

なのです。

B, 「自信、自信過剰ではなく」

 しかし、今日の箇所のまず最初の人と、そして61節の三人目は、自分から「従います」と言っています。しかしこの「従う」の言葉は「自信」や「自信過剰」という意味がともなっています。しかしイエスに「従う」というのはそのように私たちの「自信」が伴う行動なのでしょうか?イエスにあってはそれはノーでした。むしろ「従う」ということは、私たちの側からの何か、自信によって従うということでは決してないと言えるでしょう。私たちに自信があるから、自分には従うことが出来る。あるいは、そのように自身の根拠となるような従える何かを自分は持っている。そのような何かが自分にあるから従える。従えてる。ということでもないでしょう。むしろイエスは彼らの敬虔そうな「従います」という言葉には「彼らの「自信」」を見ていたことでしょう。その表向きの言葉や自信は人の前では立派なことかもしれません。しかしそれは神の前では違います。神の前での「従う」とはそういうことではないのです。イエスに「従う」ということ、それはどこまでもイエスが「ついてきなさい」と召してくださる招き・召命と、そこにある約束が伴ったものです。イエスがみ言葉を与えて彼らを「ついてきなさい」「従いなさい」と招いた時には、彼らには何もなくこれから何が起こるかさえわからなくとも「あなたは人間を取る猟師になる」という「神の約束」が伴っていたでしょう。創世記12章でアブラハムへの「いきなさい」「従いなさい」の言葉があった時にも、神様のあなたの子孫を祝福するという約束が伴っていたでしょう。モーセもそうですね。彼は自分は従いたくない、他の人を行かせてくださいと言ったでしょう。しかし、そんなモーセに「わたしがする」という神の約束がありました。つまり神の前の「従う」は「私たちの自信」や、私たちの持っている何かによるのでは決してないのです。事実、既についてきている弟子達は何か優れていたわけではありません。いや皆、彼らは不完全な罪人です。9章ではそのような姿が何度も出てきます。まさにこの前の所、49節以下でも54節以下でも、ヨハネやヤコブのまさに弟子としての特別意識、傲慢さ、まさに自信過剰さえ見えるのです。今日のところにある三人とは変わらない一人一人でもあります。しかし彼らが弟子であり、彼らがついてきているのは、彼らに何か才能があり敬虔であるから云々ということは一才関係ない、いや彼らにはそのようなものはありません。どこまでも罪人の彼らでしたが、まさに、イエスが「ついてきなさい」と招いたその召しとイエスが全てのことをなすという約束があるから彼らは従ってきているでしょう。イエスのことばが、そして約束があるからです。これは私たちの「従う」もそうなのです。自分たちの何かではない。自分の自信でもない。私たちも罪深い一人一人、しかしそのような私たちをイエスが「わたしについてきなさい」とみことばを持って招いてくださった。み言葉を与えて下さったからこそ、私たちは今、従っているのです。

C, 「神の所有として使わされる召しの恵み」

 そして、そこに約束も溢れているでしょう。そのように「召され」従うことは、それは主ご自身が全てをなすということ、そして、神が私たちを神の所有としてくださり救ってくださる約束を伴っておりキリストの責任と恵みと計画、そしてキリストの力と実行のうち、つまり天からの恵みのうちに歩むことを意味しています。そうであるなら二番目の人への言葉は、決して意地悪ではなく、天の恵みにある歩みへの招きの言葉とも言えます。「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」と。この「神の国を言い広めなさい」というのは、まさに天からの使命であり約束でもあります。もちろん父を葬ることも大事なことですが、しかしそれは地上の営みです。イエスは「その地上のことは地上の営みに任せなさい。それ以上に、わたしが、あなたを招いているのだから、あなたにはそれ以上の私の計画があり、天からの恵みの使命がある、それを与えよう」とイエスは彼を遣わそうとしているのです。イエスが、従うように召し、招くということは、実にこのようなことです。恵みであり約束なのです。地上の物事、地上の限られた枠や限界や営みに納まること以上の計り知れない天の恵みに招かれて、天の使命が与えられている。そのようにイエスが「ついてきなさい」と言って召してくださっている、そしてその召しゆえに従うものとされていることの、はかり知れない程、大きな素晴らしさがあるのです。つまり地上にあっては非常に大事で崇高な営みである「葬る」ということさえも小さくなる位、それよりもはるかに大きなプレゼント、恵みこそを、私たちは天からイエスから受けている、頂いているということなのです。それは「わたしに従いなさい」そして「天の恵みを、キリストの与える平安を、自由を、神の国を広めなさい」と、みことばによる召しと、その従うという約束と恵みのうちに歩んでいることなのです。「従う」ということは、決して私たちから出たものではない。私たちの自信や決心でもないのです。

4、「従うとは、自分の決心でもない」

 三番目の人は、最初の人と同様、自分から「従います」と言いました。しかし加えて「まず家族にいとまごいに行かせてください。」ともいいました。これも私たちの目から見ると「別にかまわないのでは」と、思うのですが。しかしイエスは、

「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない

62節

 と言います。彼は「鋤を手にかけた」、つまり、彼には「従います」という「決心」はありました。しかしそれはやはり「彼の決心」であったのです。人間の決心、それは決して完全ではありません。むしろ誰でも決心しても後ろを見てしまうものではないでしょうか。むしろ彼は私たちから見ればそんなに後ろを向いてはいません。家族に別れを言うだけのことです。本当に私たちから見れば素晴らしい「彼の」決心です。しかし、イエスはそのような彼自身から出た「人間の決心」が神の国にふさわしいとは言わないのです。つまり従うということは、私たちの決心にかかっているのではないのです。私たちの決心は不完全です。私たちは決心しても「うしろを見てしまう」のです。

5、「神の国のふさわしさとは?」

A, 「私たちの自信や決心はもろい」

 今日のところは何を伝えているでしょう。それは、もし従うということが、私たちから出たことにかかっているなら、つまり、もし私たちの自信や決心で、キリストに従うということが求められているのであるなら、それでは誰も「神の国にふさわしくない」のです。そうでしょう。弟子達の「決心」はどうでしょうか。まず弟子達の「従う」というのは、先程も述べました、イエスが、弟子達のそのような不完全さ、罪深さを全てご存知で、全て受け入れられて「わたしについてきなさい」とイエスが召してくださった恵みでしょう。そしてついて行きました。まさに恵みによって彼らは弟子とされたのです。しかしそれを忘れ始めたのでしょうか。イエスが有名になり、その弟子であることの特権意識という「彼らの自信」は何を生みましたか。49節以下、ヨハネとヤコブは、自分たちの弟子ではないものが、イエスの名を使って悪霊を追い出しているのを勝手に、当然のように、自分にその責任と権利があるかのようにやめさせました。さらに54節以下、イエスを受け入れないサマリヤの町に対して、天から火を呼び下し焼き滅ぼしましょうとも言いました。そして「彼らの決心」はどうでしょう。十字架の出来事の前に、彼らはイエス様が誰かがご自身を裏切ると告げられた時に、他の誰が裏切っても自分は最後までついて行く、死にまでも従うと、彼らは言い、まさに「自信」を持って「決心」するでしょう。しかしその彼らの決心は、その通りに「従う

ことができたでしょうか?彼らはみな逃げたでしょう。ペテロの「決して知らないなど言わない」という「決心と自信」も、まさに脆くも崩れ去ったではありませんか。私たちは、自らでは、イエスに従うことに、まったく無力です。私たちは皆、自分の意志や力で決心しても、後ろを見るものです。決心の通りにできない、無力なものです。私たちは自らでは、そのままでは皆、神の国にふさわしくないもの。自分たちでは「従います」と従えないものなのです。

B, 「イエス・キリストこそ全てー「従う」それは律法ではなく福音・恵み」

 しかし福音書はまさに私たちに、イエス・キリストの恵みを指し示しているでしょう。イエス・キリストこそ全てである。救いである。恵みであると。弟子達は立派ではない、十字架のときまでもそれ以後も罪深かったけれども、そのような弟子達をご存知の上で「わたしについてきなさい」と言って招いてくださった。そしてそのイエスとの一緒の歩みにおいては、まさに定まった家も食事をする場所もなかったけれども、神がイエスを通しイエスのことばをとおして、全てを満たし乏しいことはなかったでしょう。イエスにあって彼らはいつでも緑の牧場に、憩いの水の畔に導かれたように、全てを満たされた歩みとなるでしょう。そして実にその究極は、その罪深い弟子達、拒む人々、イエスを罵り唾をかけ鞭打ち十字架につけるその全ての人々、いやこの何千年の人類の歴史の中で生きてきた全ての人々、つまり私たちのためにも、イエスはその全ての罪、私たちが神の前で負うべきであったその十字架を代わりに負って死なれるでしょう。私たちはその罪のゆえにまさに神の国に、神の前にふさわしくないものでした。しかしイエスはその十字架によって、私たちに罪の赦しという人間にとって神の前で一番なくてはならない必要なものを、そして神の国を一方的に与えて下さったではありませんか。ふさわしくない私たちに、イエスはこの十字架と復活で、私たちに罪の赦しを与え、それによって神の国に、神の前にふさわしいものとしてくださったでしょう。ただイエス・キリストのゆえにです。「従う」ということ、「神の国のふさわしさ」、それは律法では決してないどこまでも神からの恵み、福音なのです。イエスが「ついてきなさい」と召してくださったからこそ、私たちは今がある。イエスがただ与えて下さったものをそのまま受けるからこそ、私たちは救われている。誰でも救いはその人のものになります。私たちの自信、決心ではありません。今日も、イエスがみことばによりここで宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ信じて喜んで安心してこのイエスが与えて下さる福音を受けようではありませんか。そしてぜひ平安のうちにここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2025年6月22日(日)聖霊降臨後第二主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年6月22日(聖霊降臨後第二主日)スオミ教会

イザヤ65章1~9節

ガラテア3章23~29節

ルカ8章26~39節

説教題「聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、墓場を住みかにしていたと。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというような不気味な光景が思い浮かび上がるかもしれませんが、ここで言われる墓場は岩にくり抜いた墓穴があるところです。墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露をしのいでいたということです。イエス様がその男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名はレギオンと言いました。それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味する言葉です。つまりそれくらい沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。悪霊たちは男の人から追い出されると今度は豚の群れに入り、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。

 この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つです。ここで、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取ったり病気になったりする話は聖書によくあるし、キリスト教以外にも沢山あります。異常行動や病気をなくすために悪霊の追い出しということがあるわけです。しかし、それは現代社会には相応しくないと考えられます。現代では病気や異常行動の解決には医学的、精神医学的、心理学的な解決がはかられるからです。問題の原因は悪霊のとりつきにあるとして、それを追い出して解決しようとするのは前近代的と考えられます。それではイエス様の悪霊追い出しは前近代的なことで、今は医学的、精神医学的、心理学的に解決させるのが当然と言ったら、イエス様のやったことは私たちには意味のないことになります。意味がないばかりか、危険な考えを生み出すものとさえ見なされます。というのは、現代にも医学の力では解決できない問題は多くあり、その時、原因を悪霊のとりつきにあるとしてその追い出しで解決を得ようとする人もいるからです。その場合、誰が追い出しをするのかという問題がでてきます。そこにはいろいろな危険があります。でも、解決を求める人は藁にもすがる思いなので危険など二の次になります。

 今日の説教では、イエス様の悪霊追い出しは前近代的なことだと言って軽く見てはいけない、それは現代にも意味があるということを明らかにします。結論を先に言うと、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。聖礼典とは洗礼と聖餐式のことです。聖書の御言葉と聖礼典にそのような力が働いていることをわかるために、イエス様の悪霊追い出しを細かく分析することは大事です。今日はそのような分析を行います。

2.悪霊に取りつかれた男の人と神の旧約での約束

 本日と同じ出来事はマタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、マルコと今日のルカでは出来事の場所はゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域となっています。これは、イエス様が地上で活動した時は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していたのが、後にガダラに属したことによります。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「イエス様がおられた時あの崖はゲラサに属していた」という意味です。マタイがガダラと言うのは「イエス様が天に上げられた今はあの崖はガダラに属している」という意味です。いずれにしても同じ崖です。

 この他にも、3つの福音書の記述には違いがあります。しかし、根幹部分はは3者とも共通しています。イエス様がガリラヤ湖の対岸に渡って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って群れは崖に突進して湖に飛び込んで溺れ死んでしまったということ、これがマルコ、マタイ、ルカの三者に共通しています。細かい点で違いが生じたのは、最初の目撃者の証言が言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりしたためです。しかし、付け足しや省略に付されない根幹部分があって、それが実際に起こった出来事を映し出しているということです。

 さて、今日の福音書の日課はルカなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。私たちの新共同訳では「ゲラサ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民です。ゲラサ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけてこの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していました。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族が汚れた動物と見なした豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。

 町の人たちの多数派が異邦人と考えられる理由は、豚の放牧以外にもあります。それは、町の人たちがイエス様の奇跡の業を見て彼に退去するように言ったことです。もし同じことがガリラヤ地方かユダヤ地方で起こったとしたら、人々はきっと預言者の到来だとかメシアの到来だとか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言ったでしょう。ところが、ゲラサの町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているに違いないと恐れたのです。彼らが旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待など持っていないことを示しています。

 それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?聖書の記述をよく見れば、ユダヤ人だったことが見えてきます。どうしてそんなことが言えるのかというと、イエス様は伝道の対象をイスラエルの民に絞っていたことに注目します。12人の弟子たちを伝道に派遣する時にこう言いました。異邦人の道に入るな、イスラエルの家の失われた羊のところへ行け、と(マタイ10章5~6節)。それで、悪霊に取りつかれた男の人は、異邦人が多数派を占める地域で少数派として暮らすユダヤ人とみることができるのです。まさにイスラエルの家の失われた羊なのです。イエス様の伝道の主眼は、旧約聖書を受け継ぐイスラエルの民を相手に天地創造の神について正確に教え、宗教エリートたちの誤りを正し、来るべき日に到来する神の国について教えたのです。もちろん、イエス様の十字架と復活の業は、ユダヤ民族だけでなく全ての民族が神の国に迎え入れられるようにするためになされました。しかし、それはまだ先のことです。エルサレムでの受難の道に入る前のイエス様の伝道はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。

 そう言うと、イエス様はローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたりして異邦人も相手にしているじゃないか、と言われるでしょう。しかし、百人隊長と女性の場合は、イエス様が彼らとのやり取りを通じて、異邦人にもこんなに深い信仰があるのだととても驚き感心したことが癒しの実現に結びついています。つまり、二人の場合は例外的なことだったのです。本日の悪霊にとりつかれた男の人は、そういう異邦人がどうのこうのという問題は現れず、ストレートに癒しの対象になりました。それでユダヤ人だったと言えるのです。

 悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えて下さいとお願いします。しかし、イエス様は家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の人たちに、旧約聖書に預言されたことがいよいよ実現し始めたことを伝えよと命じたのでした。ところが男の人は家に行くどころか、イエス様を拒否したゲラサの人々に伝え始めたのです。これは、イエス様の伝道は旧約聖書を受け継ぐユダヤ民族を相手にするものとして始まったのであるが、救いはユダヤ民族を超えて全ての民族に及ぶことが伝道の本質部分にあったことを示しています。この伝道の本質について既にイザヤ書49章6節で言われていました。そこで神は主の僕、つまりイエス様に対して次のように言われました。お前はヤコブの諸部族を復興させ各地に散らばったイスラエルの残存者を連れ帰らせる役目を負っているが、それでは不十分である、私はお前を全ての国民の光にして救いが全世界に及ぶようにすると。見かけはユダヤ民族に限った伝道でも、それを行うことで世界大の伝道も進むというのが神の構想なのです。

3.聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし

 次に、イエス様が悪霊を追い出した時に用いたのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということを見ていきましょう。男の人が癒されるプロセスをよく見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったのではありません。それはあり得えないことです。なぜなら、悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力がある方だとわかっていて恐れているからです。何を好んで自分から進んで彼のもとに行く必要があるでしょうか?それなのに男の人はイエス様の前に行きました。これはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方を見ると、舟から上陸したイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明白です。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどうやってイエス様の前に行くことができたのでしょうか?

 それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されようとも、イエス様に会う意志があれば、それを悪霊は妨げられない、そのような悪霊に逆らう力がイエス様の方から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、あれは今やガリラヤ全土で預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と誰かが叫んだのを聞いたのかもしれません。あるいは、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊が動揺するのを男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していけばいくほど悪霊の動揺はどんどん大きくなり、悪霊の方も男の人がイエス様を目指して行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということではないかと思います。どちらにしても確実に言えることは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊の嫌がることをする意志さえ持てば、邪魔する力は弱まりだし、その意志にしがみついてさえいれば、あとは神の力が勢いを増して、あれよあれよとイエス様のもとに行けるということです。

 さて、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は放牧中の豚にして下さいと。どうして豚を選んだかというと、こういうことだと思います。悪霊が人間にとりついても人間がイエス様のもとに行こうとする意志を持てば、最初どんなに小さな意志でも、イエス様に方向付けられたら最後、悪霊がもう何もなしえなくなる位の大きな意志になるのです。悪霊も、もう人間にとりついても無駄だと観念したのでしょう。豚だったらイエス様のもとに行こうとする意志など持たないだろうから楽だ、パニックに陥ることもないということだったのでしょう。そしてどうなったか?案の定、豚は一直線に自己破滅に突き進んでしまいました。

 この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のようにどんなに小さくとも破滅から助かろうとする意志があって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔するものが次々になぎ倒されていくような神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば代わりに神の力が働いてくれてイエス様のもとに行けるのです。

 しかしながら、私たちの場合は、悪霊追い出しの奇跡をする生身のイエス様が身近におられません。今イエス様は再臨の日まで天の父なるみ神の右におられるからです。しかし、心配には及びません。聖書を繙けばイエス様の教えと業が数多く証言されています。あわせて十字架と復活の業を成し遂げられたことも証言されています。目撃者は目で見た通りに耳で聞いた通りに信じました。私たちの場合は、聖書に記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。そうすることで、イエス様が十字架で果たしてくれた人間の罪の償いがこの私にとっての償いになり、罪を償ってもらったのこの私は神から罪を赦された者として見なされて創造主の神と結びつきを持って生き始めます。本日の使徒書の日課ガラテア3章27節でパウロは、洗礼を受けた者はキリストを衣服のように身に纏っているのだと言います。神は私たちが纏っているキリストをご覧になるので、私たちのことを罪を償われて赦された者と見て下さるのです。悪霊はイエス様の前で動揺しパニック状態になりました。私たちは身に纏っているイエス様を悪霊に示してあげれば、悪霊はあの時と同じようにパニックに陥るのです。

4.勧めと励まし

 悪霊が目指すことは、キリスト信仰者が身に纏っているイエス様の衣を手放させて、人間と神との結びつきを断ち切ることです。しかし、神は私たちが衣をしっかり纏えるように、神との結びつきを保てるように聖書の御言葉と聖礼典を私たちに与えて下さいました。聖書の御言葉を通してイエス様が救い主であることはその通りですという心があれば、それは洗礼を通して与えられた聖霊がその心の持ち主に働いている証拠です。悪霊が取りつく島などありません。その上、聖餐を受ければ、パンとぶどう酒を介してイエス様そのものを自分の内に取り込むことになり、受けるごとにイエス様との結びつきは強まります。イエス様の衣がしっかり纏われている状態になります。

 主にある兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰者が聖書の御言葉と聖礼典に密接に結びつけばつくほど悪霊が忌み嫌うことをしていることになり、悪霊を無力にすることになるのです。まさにこれが、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

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6月の料理クラブは梅雨に入った14日に開催しました。今回はフィンランドのポテト・フラットブレッド「Rieska」と「田舎風サラダMaalaissalaatti」を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、リエスカのマッシュポテトを作ります。茹でたジャガイモをつぶして塩と牛乳を加えます。それから生地作りに入ります。マッシュポテトに材料を順番に加えて混ぜると柔らかい生地が出来ます。生地を鉄板の上にのせて薄く伸ばして沢山の丸いリエスカで一杯にします。

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イーストsaradaを使わないのですぐオーブンに入れて焼きます。焼き上げている間、台所から美味しいそうな香りが広がってきました。オーブンの中を覗くと早くもきれいな焼き色のリエスカが出来ています。「美味しそう、早く食べてみたい」の声が。

リエスカの次はサラダの番です。皆で一緒にサラダの材料を洗って刻み、ポテトをフライパンで炒めて準備完了。ボールにレタス、ピクルス、ポテト、焼きサーモンを順番に重ねるように入れてきれいな色とりどりのサラダの出来上がりです。さて、どんな味のサラダなのかなあ、とみんな楽しみでした。

saradaテーブルのセッティングをして、出来たばかりのリエスカと田舎風サラダをみんなで一緒に味わいます!リエスカにエッグバターをのせてサラダと一緒に味わうと、「美味しい!」、「リエスカもサラダもぴったり合って美味しい!」との声があちこちから聞こえてきました。皆さんと一緒に美味しく頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。その時にフィンランドの新じゃがや天の神さまの祝福について聖書のお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて神さまに感謝です。料理クラブは夏の間お休みになります。秋の再開の日程は教会のホームページでお知らせしますので是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、また秋にお会いしましょう!

 

2025年6月14日料理クラブのお話

今日皆さんが作ったジャガイモのリエスカはフィンランドの伝統的なパンの一つです。私の母もお祖母さんも作っていました。今も家庭でも作れるし、お店でも販売しています。

昔リエスカは、薪で暖めるオーブンで300℃から400℃の高い温度で焼くのが普通でした。私の母も、パンを作る時は、薪で暖めたオーブンで一番初めにリエスカを焼いて、オーブンの温度が下がってから他のパンを焼きました。いつも母がパンを作る時は、子供たちはリエスカが出来上がるのを楽しみにしていました。出来上がった熱いリエスカにバターを塗って美味しく食べたことをよく覚えています。

sarada今日作った「田舎風」のサラダにもジャガイモも入れたので、今日は新ジャカを沢山使ったメニューでした。フィンランド人は殆ど毎日ジャガイモの料理を作るので、ジャガイモはフィンランドの食文化の中でとても重要な役割を果たしています。5月6月になると、フィンランド人は、その夏の新ジャカが待ちどうしくなります。私の実家にもジャガイモの畑があり、ジャガイモを育てました。新ジャガはいつ食べられるかなと、みんな毎日畑を見に行きました。十分大きくなったらジャガイモ掘りです。低木みたいなものを茎から一気に引き抜くと、長い根にジャガイモが沢山付いていました。新じゃがは少し小さいですが、白くてとてもきれいで、茹でてバターをのせただけでも美味しいです。

たった一つの種芋から沢山のジャガイモがとれるのはいつも不思議に感じました。これは天の神さまの御手の業だと思いました。天の神さまはこのように目で見える形で祝福して下さるのだと感じたのです。このような神さまの祝福は私たちの生活の中でも様々な形で表れていると思います。

聖書は神さまの祝福について沢山教えています。有名なのは「五つのパンと二匹の魚」のお話です。それを紹介したいと思います。

ある時イエス様の教えを聞くために大勢の人たちが集まってきました。人々はイエス様の教えに夢中になって、時間が立つのも忘れてしまいました。ところが時間も遅くなり、みんなだんだんお腹がすいてきました。弟子たちは心配してイエス様に言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、みんな近くの村に行って何か食べ物を買うことができるでしょう。」しかし、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物をあげなさい」と言ったのです。弟子たちはお金はみんなのを合わせて五千人の人たちにパンを買うにはとても少なすぎました。弟子たちはイエス様に「この金額では無理です」と言いました。そこでイエス様は、群衆の中にパンを持っている人がいるか調べるように命じました。

弟子たちは五つのパンと二匹の魚を持っている男の子を見つけました。弟子たちはこんな少ないパンと魚で一体何ができるのだろうかと思いましたが、イエス様の言う通りにしました。イエス様は五つのパンと二匹の魚を高く掲げて、神様に感謝してお祈りしました。その後で弟子たちにパンと魚を渡して、群衆に分けるように命じました。すると不思議なことに、五千人の人たちはパンと魚をお腹いっぱいになる位に食べたのです。そして、残ったパンのかけらを集めると、十二の籠が一杯になったのです。

2006-08-12 by MMBOX PRODUCTION christiancliparts.net2006-08-12 by MMBOX PRODUCTION christiancliparts.net

この出来事で神さまの祝福が目で見える形で現れました。祝福とは何でしょうか。その言葉は皆さんもよく聞くと思います。キリスト教では祝福とは神さまの良いみ心が見える形や見えない形で現れることを意味します。神さまの良いみ心が見える形で現れるのは自然の美しさや豊かさがそのものです。私たちの日常の生活の中にもあります。私たちが当たり前のように持っている食べ物、服、住まい、健康にも神さまの良いみ心が現れています。

しかしもし食べ物に困ったり、病気になったりしたら神さまの良いみ心がなくなってしまったことになるのでしょうか。イエス様を信じる人はそのように考えません。信じる人は食べ物に困ったり、病気になったりしたら、神さまは助けて下さると信頼してお祈りしたら歩み続けます。困っている時は神さまの良いみ心が見えない形で働いている時なのだと信じているからです。どうしてそのように信じれるのかは、パウロがローマの信徒への手紙の中でこう言っているからです。

「私たち全ての為に、その御子をささえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」
ローマの信徒への手紙8章32節

弟子たちが五つのパンと二匹の魚を見た時、これには何も意味はないと思ったでしょう。しかしイエス様を信じて言い通りにしたら、意味がないと思ったものの中に神さまの良いみ心が見えない形で働き出したのです。そして気がついたら大きなことが起きたのです。これが神さまの祝福です。

牧師の週報コラム 

キリスト教系老人ホーム「東中野キングスガーデン」の小礼拝「心の時間」にて行った説教の抜粋(2025611日)

「岩の上に家を建てる人と砂の上に立てる人」

マタイ72427節 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

岩の上に家を建てれば土台がしっかりしているので嵐や洪水がきても大丈夫。しかし、砂の上に建てたら嵐や洪水が来たら倒壊してしまう。岩の上に家を建てる人とはイエス様の教えたことをする人、しっかりした土台がある人。砂の上に建てる人はイエス様の教えたことを聞くだけで行わない人、土台がない人。イエス様の教えたことをすれば、苦しいことや辛いことがあっても倒れないですむ土台を持てる。ならばイエス様が教えたことをしようではないか。

ところが、イエス様の教えたことは難しいことばかり。人を憎んではいけないとか。悪いことをされても、神さま、あの人をやっつけて下さいとお願いしてはいけない、反対に、あの人に善いことをしてあげて下さいとお願いしないといけないとか。明日のことを今日心配してはいけないとか。それと、神さまの国という、目には見えない国を沢山思う心を持たないといけないとか。神さま、あなたの国に私を迎え入れて下さいとお願いしないといけないとか。他にもまだまだ難しいことをたくさん教えました。これらをしないと、砂の上の家みたいになってしまうと。さあ、大変。

でも、神さまは私たちが自分の力で土台を持てないことを存じでした。それで土台を持てるようにとイエス様を贈って下さったのです。イエスさまは完璧な神さまと至らない私たちを結びつけて下さる方です。それで、至らない私たちがイエス様を信じて教会で洗礼の儀式を受けると、神さまと結びつきができます。その時、神さまは、ようこそ、私の国に、と仰って下さいます。私たちの心は神さまの国を沢山思う心になります。そうすると、憎んではいけない、仕返ししてはいけないは、その通りだなあと思うようになります。心配ごとも全部神さまにお伝えして持っていってもらえます。そうしたら今日は明日のことを心配しなくなります。イエス様のおかげでしっかりした土台を持てるようになります。

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2025年6月15日(日)三位一体主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方とあるように。 アーメン                  2025、6月15日(日)

聖書:ヨハネ福音書16章12~15節

題:「御霊の導き」

ヨハネ福音書16章ではイエス様は弟子たちに5節以下のところでこう告げておられます。「今、私は私をお遣わしになった方のもとへ行こうとしている。」この事を告げるとあなた方の心は悲しみで満たされているだろう。しかし、私が去って行くのはあなた方のためになる。私が去って行かなければ弁護者はあなた方のところに来ないからである。弁護者と訳してありますが、真理の御霊とも言えます。わかり易く言えば助け主です。もし、私が行けばそれをあなた方に遣わそう。とこう話されて、イエス様はやがて父なる神の身許に去って行かれる時にイエス様の代わりに助け主として御霊が来てくださる。その御霊の働きについて8節から語られてゆきます。そうして、いよいよ今日の聖書16章12節になります。

12節「言っておきたい事はまだ沢山あるが、いまあなた方には理解できない。しかし、その方、即ち真理の御霊が来るとあなた方を導いて真理を悉く悟らせる。」

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此処からはイエス様が弟子たちに心に沿って丁寧に言っておられます。私はいつまでも復活の姿でお前達といるわけにはいかない。間もなく天の父のもとへと帰って行かなければならない。そうすると弟子たちだけでこれから全世界へとこれまでイエス様が教えられた事を広めて行かねばならない。そこで私の代わりに真理の御霊をあなた方のところへ来させよう。まだまだお前たちに言っておきたい事は沢山あるが、今はあなた方には理解できない。私の代わりに来る真理の御霊が助け手となって真理にの事如くを悟らせてくれる。口語訳の方では此処のところを「あらゆる真理に導いてくれるであろう」となっています。「あらゆる真理に導く」とはどう意味であろう、という問題で議論されたのであります。ある人々の考えでは文字通りどんな文化や学問、あらゆる科学やあらゆる人間の領域の分野に渡って真理に導いてくれるのだ。そうすると御霊によって導かれたたクリスチャンはあらゆる分野に渡ってその真理へと導かれ世の中で偉い者になれるはずだ・・となる。いや、そうではない。此処で「あらゆる」と言うのは前後の文脈から見て、ここで御霊が遣わされて来るのは、あくまでイエス・キリストの罪の購いをなして下さった業に基づいて来るところの救いの助けの事を語っているのだから「あらゆる真理」とは言うまでもなく救いに関わる真理へと導いてくれる、キリスト的なあらゆる真理の事である。こちらの方が大方の考えの用であります。

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次に16章13節の終わりの言葉で、イエス様は「来るべき事をあなた方に知らせるであろう」と言われました。御霊が知らせてくれる「来るべき事」「これから起こる」というのはどういう事でしょう。いろいろ意見の違いもありますが、ある人々の考えは教会に聖霊が降ってこの御霊が預言者たちを霊感して未来の出来事を預言させる。例えば使徒言行録11章28節にはアンティオキア教会の預言者アガボという者が世界中に大飢饉が起こるだろう、と御霊によって預言したところ果たしてそれがクラウディウス帝の時に起こった、とあります。そのように旧約聖書の預言者のように新約時代の教会にも預言者が御霊によって立てられ、いろいろ預言した、この事を言っているのではないかと考える人々もあった。或いはまた、此処で言われた「来るべき事」と言うのはユダヤの言葉で「来るべき者」と言えばメシヤのことを言っていた。そのように「来るべき事」とは起こり来る全ての事を言うのではなくメシヤの現れる終末の事を指すのである、と考える人々もあった。いや、そうではないと第三は「来るべき事」とは今イエス様が語っていらっしゃる最後の晩餐という時点から考えてこれから起ころうとしている事、即ちご自分の十字架の死と蘇えりと父のもとに昇天される…そういうごく目の前に迫った事を言うのであると考える。この考えが一番良いのではないかと言われています。共同訳で書かれている「これから起こる事を聖霊があなた方に告げるからである。」という言葉と合います。だから、此処で約束されています御霊の導きは結局あのイエス様の十字架の死と蘇えり、という歴史的な出来事の啓示の意味を深く理解させて行く導きのことであります。14節に「御霊は私に栄光を与える。私のものを受けてあなた方に告げるからである。」このようにイエス様が仰るように、あくまでも此処の聖霊の導きはイエス・キリストに栄光あらしめる働きに他なりません。イエス様の身にこれから起こる事、十字架の死と蘇えり、そして父のもとに昇天されるという、この一連の起こり来る全ての事を弟子たちは想像だに出来ないし、とても理解出来ない事であったでしょう。その全てを聖霊だけが目に見えない形で弟子たちの中に導いて行ける、啓示の働きであります。この聖霊によって働く啓示の事をある聖書学者は次のように表現しています。聖霊である御霊の偉大な働きは神の真理を人々にもたらすことである。「神の真理をもたらす」ことを現すのに一つの特別な名前がつけられている、それは「啓示」と呼ばれている。新約聖書の中でこの箇所ほど啓示の原則と呼ばれるものを良く示している箇所は無いのである。それで啓示の特徴としては。

第一に啓示は漸進的な過程であらねばならない。つまり、一つ一つの順序を追って進まねばらない、ということです。イエス様は何時も父なる神と相談し、祈って行かれた、だから父なる神のものはイエス様のもの、多くのことを知っておられたが、それを弟子たちに一度に教えるわけには行かなかった。彼らはそれを一度に把握する事が出来なかったのです。ですから相手が理解できるだけしか教える事は出来ない。どんな啓示もそれを受け入れる人間の能力に合ったものでなければ教えられない。子どもに数学を教えるのにいきなり多項式とか因数分解など教えない、その子どもの能力に合わせ一つ一つ順序を踏んで進むことです。

  • 人間に対する神の啓示も同様であります。神が人間に教える事が出来るものは人間が学び得るもの、学ぶにふさわしいものです。
  • 聖霊が神に代わって順序を踏んで導いてくれる、と言うものであります。

第二に神の啓示には終わりが無い、と言うことです。神の真理を人々にもたらす啓示には何時の時代でも何処の場所であっても聖霊として働いてゆく終わりの無い働きであります。神の啓示は歴史のある時点で止められたのではない。神の御霊は常に活動している。神は常にご自分を啓示しておられる。明らかに示しておられる神の最高の啓示はイエス・キリストにおいてもたらされたものです。イエス・キリストは聖書の中の一人物ではない、今も生きて働いて下さるお方です。今ひとつの啓示の原則についてです。啓示されるものは神から来る、と言うことです。神は真理の所有者であると共に真理を与える方、真理は人間の発見物ではない。それは神の賜物であります。啓示は書物や信条や印刷された文字を通して私たちに顕されるものではない。

  • 啓示は生ける人間を通して私たちに顕されるものです。そして私たちは主なるイエス様を信じ、全てを主に委ねてイエス様をより深く知れば知るほど益々イエス様は私たちにより近く語ってくださるようになるのです。

イエス様によって顕された啓示を受けるためには、私たちはイエス様が主であることを受け入れなければならない。私たちはどうしても自分が主であるのではないでしょうか。主キリストへの明け渡しとキリストを知ることが同心歩調で進むこと、そこに神がその啓示を顕すことが出来るのです。

人知ではとうてい測り知ることが出来ない神の平安が、あなた方の心と思いを

キリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

牧師の週報コラム 

ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月7日の日課から)

キリスト教徒はじたばたしない、往生際が良いのだ(その5)。

『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから。』 (第一ペトロ57節、フィンランド語訳聖書にもとづく)

(牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel&Fridrichsen)を見ると、「投げ出す、放り出す」です。英語(NIV)、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書もそれで訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめな訳ですが、上記4カ国語はギリシャ語の「与格・メレイ・ぺリ・属格」を「神は面倒を見る、世話を焼く、ケアをする」と訳しています。日本語訳では見えてこない、この聖句の力強さがわかると、以下のルターの説き明かしがぐっと心に迫ってきます。)

『事を自分の重荷にとどめてはいけない。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされてしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して神にパスしてしまうのだ。パスする時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私の主、私の神です。あなたは、私など何も存在しなかった時に私をお造りになり、その上、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言ってこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手くいきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せてきます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなたの助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅々まであなたの目を注いで下さい。」

 これこそ神の御心に適う対処法である。神が私たちにしなさいと言っているのは、委ねられた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられるかについての心配は神のすることであって、私たちのすることではないのだ。

 このようにキリスト信仰者は他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い主と信じる信仰があるので心配事を放り出してよい父が天におられるからだ。そうでない人たちは心配事を抱いて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を握りしめ、神は嘘をつかない方だから御言葉はその通りだと信頼して前に進む。(以上ルターの説き明かし)』

 

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スオミ教会 手芸クラブのご案内

 

次回は6月25日(水)10時―13時の開催です。

スマホケースを作りましょう!

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次回の手芸クラブは、前回に続いてかぎ針編みのスマホケースを作ります。かぎ針編みの基本の編み方を使って編みます。表情豊かな可愛いらしい模様のケースが出来ます。是非、素敵なスマホケースをご一緒に作りましょう!

夏の軽い首飾りラリエットもかぎ針編みで作れます。それを選ばれてもよろしいです。

以前作ったバンド織りキーホルダーをご希望の方はそれを作ってもよろしいです。

手芸クラブではその他にも自分の好きな編み物もすることができます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

ナウハ持物持物: 綿糸 100g
糸に合わせてかぎ針
参加費 1000円

お子さん連れの参加も大歓迎。
皆様のご参加をお待ちしていま。

お問い合わせ、お申し込み
moc.l1757559378iamg@1757559378arumi1757559378hsoy.1757559378iviap1757559378
03-6233-7109

福音ルーテル スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106