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庭の野草
〈15人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編103:15・16〉
白州の家の小さな庭にも年毎に色々な野草の花が咲きます。去年はアジサイ、一昨年はギボウシ、その前はカワラナデシコ、もっとその前は・・・・・忘れました。今年はなんとヤマオダマキが咲いていました。ヤマオダマキは確か以前にも咲いたことがありました。こうして見ると草花は互いに譲り合って咲く順番を決めているのかもしれませんね、競い合うよりもずうっと良いと思いました。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その12
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ 」5月7日の日課から) 『今日立てられているものは全てあなたの決定による。なぜなら、全てのものはあなたに 仕えるものだからだ。』(詩篇119篇91節フィンランド語訳の聖書による) (注意 日本語訳「この日に至るまであなたの裁きにつき従ってきた人々はすべてあなた の僕です」は問題です。私から何度も指摘しましたが、ヘブライ語のミシュパートは日本 語訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されますが、辞書(Holladay)にはその意味はなく 、「仲介による決定」とか「正義」が基本的な意味です。日本語訳は89節からの流れを踏 まえておらず、90節のエムーナーテカー(あなたの誠実さ)も誤訳しています。訳した人 たちは自分で何を言っているかわからなかったのでは。フィンラン語訳には「なぜなら」 がなく、ヘブライ語原文にはあるので付け加えました。) 『ふつう、「運」と「不運」はお互いかけ離れたことを意味すると言われる。しかし、理 性はこの聖句を前にして顔面蒼白になる。なぜなら、両者は実は背中合わせにあるくらい 近い存在であるということを理性はわからないからだ。我々はそれを信じられなければな らない。例えば、ヨセフが牢獄に閉じ込められていた時、彼はもう一生そこから出られな いと思われた。しかし神は、全ての膝が彼の前で跪かねばならなくなると既に決めていた のだ。このように命と死は一方が他方の中に秘められていると言っていいくらい近い存在 なのだ。死の中に命が、幸運の頂点の最中に不運が、貧しさと惨めさの中に豊かさと喜び 祝いが、何も心配はないと思っていた人生の中に一瞬の死が秘められているのだ。 同じことは我々の死にも当てはまる。我々は、死に臨む時、あたかもそこに永遠に埋没し てしまうかのように思われるかもしれない。しかし、まばたきした瞬間に今の天と地が終 わって新しい天と地が創造される日になっている。その時、我々は声をあわせて叫ぶ。「 ああ、私は永遠に生ける者になっている!」 以上のことを神は聖書の中で我々に数多くの事例をもって示しているではないか。神は低 い者を高くし、高い者を低くされる。全てのことはそうされる方の御言葉通りに進む。そ れは、我々が神を度外視して自分の知恵と力だけで物事を成そうとしないように、全てを 最終的には神の御心に委ねるしかないと観念して全面的な信頼を寄せられるようにするた めなのだ。キリスト信仰者であれば、全てのことは一字一句自分の考えや計画通りになら ないことは、これまでの人生の中で既に経験済みではないか。』(以上ルターの説き明か し、2026年5月11日の週報に所収したものを少し修正しました。)
偽アカシア(別名:針槐 ハリエンジュ)
〈神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 創世記1:29〉
山梨県は四方を山に囲まれています、東に秩父山地、西に南アルプス、南に御坂山地、北に八ヶ岳です。ぐるりの山々から甲府盆地目がけて釜無川、笛吹川、大武川等の川と更に多くの支流を合わせて流れ込み富士川となって太平洋に向かっています。それらの川筋に沿って高さ約20メートル程の針槐の疎林が続きます。初夏になると、それらの木々に一斉に白い英をつけます。香りのよい花は天ぷらにすると上品な味のする一品になります。五月の連休明けに山梨に行ってきました、釜無川の河原に降りて心行くばかりに針槐の花を愛でて来ました。帰りには勿論、英の沢山ついた小枝を手に。
〈1たしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。詩編121:1・2〉
半年ぶりに北斗市白州に行ってきました。山道に続く入口で「俺の木(誰の木か知りませんが、勝手に俺の木と呼んでいます)」が出迎えてくれました。「今年は来るのが遅かったじゃないか」と言って枝を少し揺すって見せました。上から見下ろしていた甲斐駒の団十郎が「ま、折角来たんだからいいじゃないか」と宥めてくれていました。
5月の手芸クラブは27日(水)10時~13時に開催します。
今回はビーズ刺繡のテクニックを使ってアクセサリーを作ります。ビーズ刺繡とは布地に様々な形や色とりどりのビーズを縫い付ける刺繡です。もともと服の飾りに使われた伝統的な手芸のテクニックで、今でも人気があります。このテクニックを使ってアクセサリー、ブローチ、イヤリング、ボタンなど様々な模様の作品を作ることが出来ます。
是非ご一緒にビーズ刺繡をしてみませんか?
参加費: 1000円 材料費: 500円 (ピーズ、糸、針 など)
手芸クラブでは今回のテーマ以外にもご自分の好きな編み物をすることができます。作りたいものがあれば、是非ご自由にお持ちください。 おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。
お子さん連れのご参加も大歓迎です! 皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み ℡ 03-6233-7109 www.suomikyoukai.org
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その11
3月1日のスオミ教会定例総会にて採択された2026年度の主題聖句と主題およびその趣旨です。
主題聖句 「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす光」
詩篇119篇105節
主題 「どんなに深い闇に覆われようともキリスト信仰者には失われない光がある」
主題の趣旨
「あなたの御言葉」とは「神の御言葉」のことです。聖書の御言葉が「神の御言葉」であると言われるのは、記述した人がみな神からこのように記しなさいと聖霊に教えられて書き記したものだからです。それで聖書は真に神からの贈り物です。そのようなものを手にして繙くことができるというのは何と言う幸いでしょうか。
神の御言葉が肉体を伴って人間の姿かたちを取ったのが御子イエス様です(ヨハネ1章)。なので、イエス様が教えたこと行ったこと、そして彼の十字架と復活の業を通して神の御言葉である聖書を正しく理解することができるのです。イエス様は「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました(ヨハネ8章12節)。「命の光を持つ」とは、死を超える永遠の命という光を持つことです。その光を目指してこの世を歩むので暗闇の中で躓いて倒れたり立ち往生することがないのです。イエス様という光はまた、人間には罪があることを明らかにする光であり、その真実に背を向けず悔い改める者を罪の赦しへと導く光でもあります(ヨハネ3章19~21節を参照)。
このようにしてキリスト信仰者は聖書を与えられた神と結びつきを持ってこの世の人生を進んで行きます。人間的に見てどんなに深い闇に覆われようとも、霊的なキリスト信仰者には失われない光があるのです。何も光が感じられないような時は、目を閉じてみて下さい。目の前には瞼の裏側の黒赤のようなものしか感じられません。その時、イエス様の教えられたこと行ったこと、他の聖書の励ましの言葉を思い浮かべて下さい。好きな讃美歌を頭に響かせても宜しいです。そうすれば、すぐそこに光があることを感じられるはずです。そして目を開ければ大丈夫です。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その10
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月5の日課から)
『私たちの忍耐と聖書が与える慰め励ましを通して私たちは希望を持ち続けることができるのです。』(ローマ15章4節、昨年度のスオミ教会の年間聖句、スウェーデン語訳の聖書”Bibel2000”から)
『この聖句でパウロは二つのこと、すなわち私たちの忍耐と聖書の慰め励ましを結びつけている。聖書は私たちを苦痛、逆境、死から解放してくれない。逆に聖書は神聖な十字架を私たちに負わせる。だから、忍耐が必要になるのだ。まさにその時、聖書は苦しみのただ中にある者を慰めて力づけてくれるものになる。忍耐が萎えることがないように、苦難を突き破って打ち克つことができるように聖書は力づけてくれる。私たちが喜んで勇気を持ってへりくだって苦難に臨むことができるのは、神が繰り返し語るあの御言葉を耳にするからである。「私はあなたと共にいて、あなたを守る。」
キリスト信仰者にとって忍耐強くあるというのは不可欠なことだ。なぜなら、この世の人生とは永遠の死に定められている内なる古い人間アダムを日々死なせていく過程に他ならないからだ。次に到来する世を私たちはまだ手にすることも感じることもできない。それ故、私たちには忍耐強くしがみつく何かが不可欠なのだ。それは神の御言葉に他ならない。神の御言葉に忠実でいれば、私たちは次に到来する世の人生を手に掴んでいることになり、それに繋がっていることになるのだ。私たちは神の御言葉を信頼し、御言葉に踏みとどまる。その時、私たちは安全な船で航海するが如く、この世の人生から次に到来する世の人生に向かって旅をする者となる。御言葉に留まる限り、希望が裏切られることはない。
私たちが苦難にある時、悲しんでいる時、死に直面している時に聖書が私たちを慰めるものになっていれば、それは正しく用いられていることになる。それゆえ、苦しみについて何も知らない者、死を自分に関係ないもののように考えている者は、聖書の慰め励ましについて何も知らないのである。それは言葉を通してだけでは学ぶことはできない。経験を通してでもないとできないのだ。』
スウェーデン語訳聖書を用いた理由 新共同訳は「忍耐」も「慰め」も聖書が与えるものとしています。フィンランド語訳も英語訳(NIV)も同じです。ギリシャ語原文は、忍耐は忍耐、慰めは聖書が与えるという書き方です。ドイツ語のルター聖書(1912年版)はギリシャ語の書き方のまま。スウェーデン語はそれに少し補足した形で分かりやすいので選んだ次第です。
野菜の花
〈5涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。6種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。詩編126:5・6〉
野菜は美しい花を咲かせて見ていても楽しくなります、先日の散歩で丘の上の畑に見慣れない花が咲いていました。帰宅後調べてみましたらブロッコリーを「とう立ち」と言うかたちで咲かせた花でした。「とう立ち」とはブロッコリーを収穫せずに茎を伸ばして花を咲かせる事のようです。隣の畑にはエンドウも白い花をつけていました春の畑はまさに野菜の花園でもあります、北海道ではジャガイモ畑の花見があると帯広から来た同僚が言っていました。