牧師の週報コラム 

ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月8日の日課から

これぞ、キリスト信仰者が苦難困難に遭遇した時の心意気!

「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(詩篇118篇1節)

『我々はいかなる不運に遭遇しても、それ自体に目を奪われてはいけない。そんなものは神が我々に灯してくれた光なんだと思わなければならない。それは、神の恵みと善き業が本当は数えきれない位の出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるための光なんだと。そうすれば、不運などというあの虫けらのような害悪は、我々からすれば燃え盛る炎の海に落ちていく一滴の雫にしかすぎなる。そうでなければ、せいぜい大海の中に落ちていく微小な火花にしかすぎない。不運がこの光にかき消された時、日課の聖句は我々に最も身近で麗しいものになる。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」

この言葉で言い表される心意気は次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと誠実で慈しみ深く神聖な神でおられることか。私に対してもこの世に対しても大いなること善いことをこんなに沢山して下さっていたとは。私の感謝は全てあなたに向けられますように。」

これと同じ聖句は聖書の中で、特に詩篇の中でしばしば登場する。この聖句は我々に正しくて最も御心に適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きくて優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである。』

このように不運を神が灯してくれた光と受け止めると、本当に神の恵みと善き業が数えきれない出来事にあったことが見えるようになるのでしょうか?私は思います、数えきれない出来事を積み重ねた山の頂上にイエス様の十字架と復活があるとわかれば見えるようになると。

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教会のカレンダー

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手芸クラブの報告2025年2月26日

ストール

2月の手芸クラブは26日に開催しました。前日までは寒い日が続きましたが、この日は朝から太陽が輝いて穏やかな天候の日となりました。

今回は1月の手芸クラブに続いてストールを編みました。初めに前回参加された方々がお家で頑張って編み続けたものを見せて下さいました。「きれいな色ね」、「可愛らしい」「暖かそう」「柔らかい」とお互いにほめたたえる声が。皆さん「Silmukannostotekniikka」が上手になってストールをきれいに編まれました。それぞれ色がきれいで、完成されたかたもいらっしゃいました。

前回参加された方はストールを編み続けます。始めて参加された方はストールを前回と同じやり方で編み始めます。始めての方もあっという間に「Silmukannostotekniikka」が編めるようになって網の模様が見えてきました。それを他の参加者に見せると「色合いが可愛い」との声が聞こえてきました。

ストール皆さんはおしゃべりをしながら編み続け、ストールはどんどん長くなって完成させた方もいらっしゃいました。

今回、お家で編み始めた方はマフラーを持参してそれを編まれていました。長いものになっていましたが、これからどのようなものになるか楽しみです。

春に向かって暖かくなりますが、まだストールが必要な寒さが戻ってくるかもしれません。編まれたストールを首に巻いたら暖かくなるでしょう。自分で編んだものだから特に暖かさも身近に感じるのではないでしょうか。

編み物に集中した後はコーヒータイムで一息入れます。今フィンランドではラスキアイスプッラの時期なので、ジャムとクリームを挟んだラスキアイスプッラをコーヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、フィンランドのラスキアイネンの日の過ごし方やラスキアイネンから始まる受難節、イエス様が盲人を癒やす奇跡の業の出来事についてのお話がありました。今回も楽しい歓談のひと時を一緒に持ちました。

次回の手芸クラブは3月26日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブのお話2025年2月

フィンランドのカレンダーでは来週の火曜日はラスキアイネンと呼ばれる日です。この時期になると多くの家庭ではラスキアイスプッラを作って美味しく味わいます。ラスキアイスプッラはちょうど今の期間にお店でも喫茶店でも一番多く販売されています。

ラスキアイネンの日とはどんな日でしょうか?ラスキアイネンは「下る」という意味で、季節がイースターに向かって下って行く最初の日のことです。その日からイースターの準備期間になります。イースターの準備期間のことを「受難節」と言います。イエス様の十字架の受難の前の40日間の期間です。イースターの日はクリスマスと違って毎年変わります。今年は4月20日でいつもより遅くなります。それで今年のラスキアイネンの日は遅くて来週の火曜日となります。

パンラスキアイスプッラは普通は1月頃から「受難節」の前までの期間に食べられます。フィンランドではラスキアイネンをどのように過ごすでしょうか。この日の習慣としてフィンランド人は雪の中をそりですべったり、美味しいラスキアイスプッラを味わったりします。大人も子供も寒い中そりで滑った後で暖かい部屋に入ってラスキアイスプッラを暖かい飲み物と一緒に楽しみます。それがラスキアイネンの雰囲気を作ります。私は子どもの時、兄弟たちとラスキアイネンの朝に誰が一番早くそりで滑るか競争したので、その日は学校に行く前に朝5時や6時に滑ったこともあります。

ラスキアイネンの日が過ぎたら受難節に入ります。フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも続いているからです。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、人によって好きなお菓子を食べないとかSNSを使うのを減らすとか生活に変化を与えることをする人もいます。受難節を少しでも意味のあるものにしようとするのです。

受難節は自分の生活を新しい視点で見るのに良い期間だと思います。生活の中には慣れることが多くていろんなことが当たり前のことになります。当たり前のことの中に何か問題や新しい事が起きても気がつかなくなってしまうかもしれません。その時、私たちは目があっても見えない人のようになってしまうかもしれません。しかし見えるようになるために時々助けが必要です。

ここで新約聖書の「ヨハネによる福音者7章」にある、イエス様が盲人をいやす奇跡の業の出来事を紹介したいと思います。イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない男の人を見かけられました。弟子たちはその男の人を見て、「この人が生まれつき目の見えないようになったのは、彼が罪を犯したからですか?彼の両親ですか?」と聞きました。そこでイエス様はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」イエス様は唾で土をこねて目の見えない人の目にお塗りになりました。イエス様はその人に「シロアムという池に行って洗いなさい」と言いました。その人はイエス様が言われたことを疑わずにその通りにしました。すると目が見えるようになったのです。この人は目で見えるようになりましたが、それだけではなく心の目も開けかれました。それではイエス様が天の神様の子でこの世に送られた方であるとわかって信じるようになったのです。

CC0受難節は聖書を読むのに良い期間だと思います。聖書を読みイエス様を信じることには、私たちの心の目をあける力があります。生活の慣れて当たりまえになってしまったいろんなことの中で、天の神様の愛やみ心は何だろうかと考えるようになります。中には難しいこともあって、神様の愛やみ心をはっきり分からないかもしれません。でも、それは神様が私たちに祈りなさい、と勧めていることなのです。神さまの愛や御心がはっきり分かって大きな喜びに包まれたら、神様に感謝しなさい、ということなのです。

神さまが私たちの心の目を開くと、全ては新しい目で見ることが出来るようになります。

牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月7日の日課から)

キリスト信仰は「する」信仰ではなくて「受け取る」信仰であること、「受け取った」後で「する」ことが出来るようになる信仰であると教える説き明かしです。

「主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう」(イザヤ62章2節)

『我々が「キリスト教徒」と呼ばれるのは、良いことを沢山するからではない。キリストから受け取り、キリストから頂くからそう呼ばれるのだ。キリストから受け取ることを止めたら、もうキリスト教徒ではなくなる。「キリスト教徒」という呼び名はひとえに「頂く」ことに基づくのであって、「する」ことに基づくのではない。キリスト以外の何ものからは受け取らないことに基づくのだ。

もちろん、人は良いことをしなければならないし、他者を助けたり、助言を与えたり、与えたりしなければならないというのはその通りである。しかし、そのために人がキリスト教徒と呼ばれるのではない。ものを白さのゆえに白と呼び、黒さのゆえに黒と呼ぶように、また大きさのゆえに大きいと言うように、我々がキリスト教徒と呼ばれるのは、我々と結びつき我々が良きもの全てを頂くお方、すなわちキリストのおかげなのである。

もし私がキリストのおかげでキリスト教徒と呼ばれるのならば、自分が行った良いことのゆえにその名を持つのではない。それゆえ、誰も行いのゆえにキリスト教徒にはならない。行いのゆえにキリスト教徒になると教える者は、はっきり言ってキリスト信仰の裏切り者である。

行いのゆえに、私のことを「断食をする者」とか「祈る者」とか「巡礼をする者」と呼ぶことができよう。しかし、それでキリスト教徒とは言えない。たとえ、私が行った良いこと全てをかき集めて、それに他の人の良い行いをつけ加えても、それでキリスト教徒になるのではない。キリストはそれらとは全く別物であり、神が命じることや人間が作った掟をはるかに超えるものである。そのキリストから受け取ることに徹すれば、私がキリスト教徒と呼ばれるのには正当な理由があるのである。』

イエス様が十字架と復活の業をもって築いて下さった計り知れないものを受け取り続けることがキリスト信仰の真髄です。本気で受け取ろうとすれば、私たちの器はすぐ一杯になります。そこから溢れ出たものが良い業になって出ていきます。十分受け取っていないのに、何かをしようとすると無理強いになって力尽きてしまいます。ここスオミ教会の礼拝でも、皆さんのキリストから受け取るものが最大限になるように努めてまいる所存です。

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牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月14日の日課から

重い皮膚病を患っていた10人をイエス様が癒す奇跡を行った時のこと。

「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。」ルカ福音書17章15節

以下、ルターの説き明かし

『福音書は、鍛えられて経験を積んだ信仰がどんな業を行うかについて教えてくれる。ある人たちは神のために教会を建て、別の人たちは神のために教会の鐘をならし、他の人たちは神のためにロウソクに火を灯す。あたかもそうすることで神がよく見えるようになるかのように。彼らが行う業は実は、神というのは我々から良いものとお仕えを必要とし、それらがないと何もできないような子供扱いでそうするのである。

神への正しいお仕え、正しい礼拝とはそのようなものではない。神のもとに戻り、声高に神を賛美することが神への正しいお仕えであり礼拝である。それこそ、天においてもこの地上においても最も偉大な業であり、我々が神に対して成しえる唯一の業なのである。その他のものを神は必要とはしていない。神がなさることは、我々の神に対する愛と賛美を受け取ることだけである。

神のもとに戻るというのは、神から頂いた恵みとその他の良いものを神のもとに持ち帰ることである。それらのものを自分のもとに留めないことである。それらにしがみつかないことである。それらのゆえに他人に対して優越感を抱かないことである。それらをもとにして栄光を求めないことである。いかなる点においても他の人たちよりも優れた者として立ち振る舞わないことである。それらをもとにして自分を愛することをしないことである。そういう自己愛を享受しないことである。享受、自己愛、誇り、栄光は全て、それらを与えて下さった神のところにあるのが当然である。我々のところにあるべきものではない。だから我々は、神は私たちに与えた賜物をまたご自分のもとに引き戻される方でもおられるのだということを心に留めてこの真実に下に自分を服させていよう。そして神がそうされる時も、賜物があった時と同じ位に神を賛美し愛そう。しかし、実際どれくらいの者がこのように神のもとに戻るだろうか?10人のうち一人でもいたらいい方だろう。』

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手芸クラブのご案内 2月26日(水)10時~13時

ストールを編んでみませんか。

2月の手芸クラブは1月に始めたストール編みの続きです。表面が網のようになるテクニックを使ってストールを編みます。

フィンランド語で「Silmukannostoneule」という編み方です。詳しくはクラブでご説明します。

持ち物: モヘア毛糸40g

メリノ毛糸または他のウールの毛糸30g

毛糸に合わせて編み棒2本

参加費: 1000円

毛糸のご用意が難しければ、こちらで用意しますので、お好みの色をお知らせ下さい。申し込みの際にご連絡くだされば幸いです。

手芸クラブは、お子さん連れの参加も歓迎です。

皆様のご参加をお待ちしています。

おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話もあります。

お問い合わせ  お申し込み
if.ye1746137397ls@ar1746137397umihs1746137397oy.iv1746137397iap1746137397

電話03-6233-7109
福音ルーテルスオミ・キリスト教会

 

料理クラブの報告2025年2月8日

今年最初の家庭料理クラブは2月8日に開催されました。今回は寒い季節にも合うフィンランドの伝統的なカルヤラン・ピーラッカを作りました。カルヤラン・ピーラッカは日本でも近年よく知られるようになったので多くの方々が興味をもって参加されました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にピーラッカの生地を作ります。材料を順番にボールに入れて捏ねていくと生地の出来上がりです。それを、作るピーラッカの個数に分けて一つ一つを丸め、麵棒で薄く伸ばします。参加者の皆さんはカルヤラン・ピーラッカ用の麵棒で生地をよく伸ばせるようになって、薄い皮がどんどん増えていきます。その次は、丸形の薄めの生地の上にお米のお粥をのせて広げます。それから、ピーラッカの周りの皮を人差し指で閉めていくとピーラッカの形になっていきます。

きれいな形に作るのは難しいですが、皆さんとても上手に作っていました。そうして、鉄板にはきれいな形のピーラッカがあっという間に沢山並びました。ピーラッカは300℃くらいの高い温度のオーブンで焼きます。しばらくして台所から美味しそうなピーラッカの香りが漂ってきたので味わうのが待ち遠しくなってきました。ピーラッカを焼いている間に玉子バターを準備します。焼き上がったピーラッカに溶かしたマーガリンを塗って出来上がりです。


お皿の上に玉子バターとサーモンをきれいに盛りつけてピーラッカを美味しく頂きながら歓談の時を持ちました。最後にカルヤラン・ピーラッカの歴史やカルヤラの人たちが大事にしていたもてなしの心、そして聖書の「マルタとマリア」のお話を聞きました。

 

今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝します。次回の料理クラブの日程は未定です。決まりましたら教会のホームページに案内を載せますのでどうぞご覧ください。

 

料理クラブお話2025年2月8日カルヤラン・ピーラッカ

カルヤラン・ピーラッカはフィンランドの食文化のシンボルです。それは歴史を辿ってフィンランドの国民食になりました。カルヤラン・ピーラッカは、フィンランドの東にあるカルヤラという地方から始まり、もともとはただピーラッカと呼ばれていました。そのピーラッカはどのようにフィンランド全国に広がって国民食になったでしょうか?

第二次大戦でカルヤラ地方の一部はソ連に取られてしまいました。そこに住んでいた人たちは自分の故郷を去らなければなりませんでした。当時フィンランドでは他のヨーロッパの国々と違って難民の人たちに一時的な住まいを建てることはしませんでした。彼らをフィンランドの西の地域の家庭に分散して住まわせたのです。それで東と西の地方の人たちは一緒に暮らすようになって、ここから二つの文化の出会いが始まったのです。食文化はその一つです。新しい地域に移住したカルヤラの人たちはカルヤラン・ピーラッカやパンを自分の故郷と同じように作るようになりました。出来上がりのカルヤラン・ピーラッカを住まいを提供している家族の人たちにも分けて一緒に食べました。フィンランド人は最初はカルヤラン・ピーラッカをそれほど美味しいとは思いませんでした。彼らは「パンはパンとして、お粥はお粥として食べるものだから。」と言っていました。カルヤラン・ピーラッカのようにパンとお粥を一緒にした食べ物には馴染みがなかったからです。しかし彼らもカルヤラン・ピーラッカの味覚が好きになっていつの間にか全国に広がっていきました。そして、カルヤラ地方の伝統的な食べ物だったカルヤラン・ピーラッカは、今ではフィンランド全国にとって伝統的な食べ物になったと言える位、とても一般的な食べ物になりました。

カルヤラの人たちが食文化の他に大事にしていたことがあります。それが、彼らがもてなしがとても上手でもてなしは彼らのライフスタイルと言われていました。1925年に出版された雑誌には「カルヤラの人たちにはもてなしの心がある」と書かれていました。彼らは自分の故郷を去らなければならなず、いろいろなものを失われましたが、滞在した場所でももてなしを大切にして作ったものをいつも分けて一緒に味わいました。カルヤラの人たちを通してフィンランド人のもてなしが豊かになったかもしれません。

フィンランドでは昔は近所の人たちはお互いに尋ね合ったりしてもてなしを大事にしていました。お客さんにいつもコーヒーの他にお菓子を何種類も出しましたが、「家には何もないんです」などと言っていました。

現在はもてなしの仕方はもっと簡単になったと思います。

もてなしは聖書の中にもよく出てきます。一つ有名な「マルタとマリア」のお話を紹介したいと思います(ルカによる福音書10章38-42節)。

ある日イエス様は弟子たちと一緒にマルタとマリアという姉妹の家を訪問しました。マルタとマリアはイエス様の親しい友達でした。イエス様と弟子たちは家の中に入ると、お姉さんのマルタは美味しい食事を出したかったので、すぐもてなしの準備を始めました。マルタにとってイエス様は有名なお客様だったので、良いもてなしをしたかったのです。でも妹のマリアはどうしたでしょうか?マルタが驚いたことに、マリアは食事の準備を手伝わないで、イエス様の足元に座って、弟子たちと一緒にイエス様の教えを聞いていたのです。忙しくしていたマルタは、イライラしてしました。それでマルタはイエス様のところに行って、マリアも一緒に食事の準備をするように言って下さい、とお願いしたのです。この場面を考えると、マルタの気持ちがよく分かります。一生懸命もてなしの準備をしていたのに、マリアが手伝わないでただイエス様の足元に座っていたのです。これではイライラしてしまうのは当然でしょう。もし私がマルタの立場でしたら、同じように考えたと思います。

描画 www.christiancliparts.net 2006-09-01 by MMBOX PRODUCTION

イエス様はマルタにどのようにお答えになったでしょうか?「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それはとりあげてはならない。」このように優しくお答えになりました。イエス様の答えはきっとマルタを驚かせたでしょう。イエス様の答えは何を意味しているでしょうか?イエス様はマルタのことを批判することではなく、マルタがやっているもてなしの準備をやめなさいとは言いませんでした。それではなくて、「しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」とおっしゃったのです。料理とか、もてなしとか、生活の中で必要なものは私たちにとって大事ですが、それらよりもっと重要なことがあります。それはイエス様が教えられたように天と地と人間を造られた神様について知って信じることです。マリアはイエス様の足元に座ってイエス様のお話を聴いていたのはこの為だったのでした。

イエス様がおっしゃった「良い方を選んだ」とはどんな意味でしょうか? それは天の神さまの側にいて神さまのお話を聴いてその話を通して癒されることです。そして、神様の計りしれない愛を知ってイエス様を通して与えて下さる救いを受け取ることです。神さまは愛と救いを聖書のみ言葉を通してもっと豊かに与えて下さいます。イエス様が言われたように「取り上げてはならない」ものです。

故郷を失ってカルヤラの人たちがカルヤラン・ピーラッカを作って住まいを提供してくれた人たちに分け与えたのは美しいもてなしでした。イエス様は私たちをみ言葉を通して私たしの魂に栄養を与えてくださいます。イエス様はみ言葉を通して私たちをもてなして下さるのです。そのことを忘れないように行きましょう。

 

牧師の週報コラム

聖書は原語で読めなくても大丈夫(その3)

今回は、聖書を原語で読むことの落とし穴についてです。前々回の時、原文にあたって見ると、訳の少しぼやけた感じが照準定まった感じになると申しました。一つ例をあげると、使徒言行録2章37節に「人々は心を打たれ、」とあります(新共同訳)。これは読んで違和感を覚えるところです。というのは、ペトロは群衆に向かって、イエスを十字架につけたのはお前たちだ、と言っているのに、「心を打たれ」と言ったら、群衆はそれに感動してしまったみたいだからです。ギリシャ語の動詞カタニュッソーは「突き刺す」という意味です。それで、ここは「人々は心に突き刺さるものを感じて」と理解します。

こういうふうに照準が定まることが多い反面、逆に収拾がつかなくなることも多くあります。辞書を開けば、一つの単語に沢山の異なる意味があって、どれを選んだらいいのか?文法書を開けば、この属格は主語的用法?目的的用法?所有的?部分的?材料的?解釈的?この未完了形の意味は未完了のままか間接的命令か?辞書や文法書で解明できたと思っても、次は、この句はどこにかかるか?等々。選び方次第で解釈に違いが生じるということが出てくるのです。昔、W.バウアーの世界的権威の聖書ギリシャ語・ドイツ語辞書を使って調べものをしていた時、何の単語が忘れましたが、数多くある意味の一つに「この意味はあまりにもルター派すぎる!」などと括弧書きで注釈がしてありました。

原語で読んで、どれを選んだらよいかという時はどうしたらいいのか?私はさっさとキリスト教の伝統的な信条集プラス、ルター派の信条集を意識してそれらからはみ出ないことを心がけて選ぶようにしています。そんなのは正統主義の威を借りるやり方だ、と蔑む人もいるのですが、私は、別にいいじゃん、と思っています。正統主義に囚われずに訳を追求することは偉大な挑戦です。でも、それは命がいくつあっても足りない世界なので、私は限られた寿命の中で出来ることはこれと思って今のやり方で行きます。

人によっては、偉い学者が書いた参考書をそのまま引用披露する方もいますが、それではその学者が選んだ結果を拝借するだけで自分が無さすぎます。説教者はやはり自分で悩むこともあった方がいいと思います。

あと、自分で原語で読んで理解が現代語から離れすぎていると気づいたら、他の国はどう訳しているか覗き見もします。私が対応できる現代語の聖書は日本語の他は、フィンランド語(ルター派国教会の)とスウェーデン語(Bibel2000)と英語(取りあえずNIV)とドイツ語(新約のみ、ルター訳とEinheitsübersetsung訳)の4つだけですが、必ず同志に出会えます。覗き見で一つ気がついたことがあります。日本語で説教するようになってまだ15年足らずでサンプルは十分ではないかもしれませんが、日本語と英語の訳が一致して、フィンランド語とスウェーデン語とドイツ語がそれとは違う意味で一致していることが多いと思います。もちろん、これとは異なる一致の組み合わせもありますが、大体60~70%はそんな感じです。聖書の翻訳には、日米同盟と欧州連合の対決があるみたいで面白く感じています。

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牧師の週報コラム

聖書は原語で読めなくても大丈夫(その2)

どうして聖書は原語で読めなくても大丈夫なのか?それは、聖書は日本語ででも全体を繰り返して読んでいくと、わからない個所の理解は別の個所が助けてくれるように出来ているからです。 まさに、聖書の解釈は聖書にしてもらうということです。先週、新共同訳はヘブライ語のミシュパートをほとんど自動的に「裁き」と訳していると申しました。「裁き」とは、もともとの意味は有罪か無罪かを決めることでしたが、「お前を裁いてやる」という言い方があるように、実際には断罪の意味が強いです。それで、旧約聖書で「裁き」という言葉に出くわすと、どうもしっくりいかないことが多い。しかし、旧約聖書全体を何回も読んでいくと、これは断罪ではないと感覚的にわかってきます(因みに、私の使っているヘブライ語・英語の辞書では「正義」、フィンランド語の聖書もそう訳すことが多いです)。

そういうわけで、聖書を原語で読むというのは、全体の繰り返し読みをしないで済まそうとする横着なやり方とも言えます。

「聖書の解釈は聖書にしてもらう」という聖書の理解法の大敵は、解釈を聖書にさせず、聖書外のものでさせようとすることです。例えば、先週の例にあげた詩篇36篇6~7節について、何か「真実」をテーマにした小説を読んで大変感動したとします。それで、詩篇36篇6節の「神の真実」もそれと同じなんだと理解してしまう。(聖句は違いますが、実際にその手の説教を聞いたことがあります。牧師曰く、「これが、今日の個所でイエス様がおっしゃりたいことではないでしょうか?」) しかし、詩篇36篇6節の「神の真実」は、正確には「神の揺るがぬ頼り甲斐」です。それで、その節が「真実」のことを言っていると思い違いして、小説に結びつけてしまったら、神が御言葉を通して言おうとしていることからどんどん離れていきます。

そう言うと、じゃ、「揺るがない頼り甲斐」をテーマにした小説を読んで感動したら、それは結びつけてもいいんだな、と言われるかもしれません。しかし、それもダメなんです。というのは、詩篇で言われるように、神の揺るがない頼り甲斐は、雲にまで至るほどの高いものです。人間の頼り甲斐は背丈ほどの高さです。なので、小説の登場人物の頼り甲斐に感動したら、神の頼り甲斐はもっともっと高いものなんだ、人間の頼り甲斐でこれだけ感動したら、神の頼り甲斐がもたらす感動は計り知れないのだ、というように予感できないといけないのです。神を人間のレベルに引き下げないことです。

そう言うと、神はひとり子を人間としてこの世に送ったのだから、神を人間レベルで扱ってもいいじゃないかと言われるかもしれません。それも違うんです。神がひとり子を送った心というのは、天にまで届く「恵み」と「頼り甲斐」、聳え立つ山々のような「義」、地の底まで覆いつくすくらいの「正義」の4つを総合したものです。人間の心とは比較にならないものです。

次回は、聖書を原語で読むことの落とし穴についてお話しします。

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