お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
本年最初の料理クラブは「ルーネベリ・ロールケーキ」を作ります。2月5日はフィンランドの国民的詩人ルーネベリの記念日です。その日フィンランドではルーネベリ・タルトでお祝いします。
アーモンド、シナモン、ラズベリーの味が引き立つルーネベリ・タルトは、長い冬を過ごすフィンランド人にとって楽しみな味の一つです。料理クラブでは、ロールケーキの形にしてクリームもクリームチーズを用いて上品な味わいに引き立てます。
「ルーネベリ・ロールケーキ」を一緒に作ってみませんか?
参加費は一人1,800円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1773707851iamg@1773707851arumi1773707851hsoy.1773707851iviap1773707851 まで。
今年最初の手芸クラブは1月28日に開催しました。外は冬の寒さでしたが、教会の中は温かいので寒さを忘れて心地よく手芸が出来ました。
今回は寒い季節の足元や手首を温めるレッグウォーマー「Säärystimet (サーリスティメット)」と手首ウォーマーを編みます。参加者の皆さんは自分の好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。初めに自分の作りたい編み物を決めて編み地サンプルを作ります。それから編み目を編んでいきます。今回はスタートということで、次回に続きをします。一人の方は以前かぎ針編みで編んだスマホケースの続きをしました。可愛い色のスマホケースがもう少しで完成というところまできました。
今回も楽しくおしゃべりしながら編み物をしました。
いつものように時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドのコーヒーブレッドPullaを味わいながら歓談の時を持ちました。そこで聖書のお話を聞きました。今回は今年最初の手芸クラブなので、私たちが年の初めに立てる新年の誓い(フィンランドでは「新年の約束」と言います)と、私たちといつも共にあるという天の神さまの約束についてのお話でした。今回も楽しい歓談のひと時でした。
次回の手芸クラブは2月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
年が明けたのはついこの間だと思ったのに、もう一月の終わりになりました。今日は今年初めての手芸クラブなので、一年の目標についてお話したく思います。新年になると、多くの人は「新しい年はもっと良い生き方をしよう」と考えてさまざまな目標を立てます。フィンランドでは新年の目標を「新年約束」と言います。フィンランド人が立てる「約束」は、普通は自分自身に関するものです。例えばこれからもっと健康的に食べる、体力を向上させる、家族や友達の関係をもっとよくする、新しい趣味を始めるなどです。これらの「約束」はとても良いものですが、少し高すぎてプレッシャーを感じる人もいるかもしれません。初めは皆一生懸命ですが、しばらくして諦めてしまう人が多いです。それで「約束」は簡単に忘れられてしまいます。多くの人はもう2月の中旬には全て忘れてしまい、生活はまた以前と同じに戻ってしまうと言われています。
このように私たちが自分と交わす約束は長続きしないことが多いです。それに気付くととてもがっかりします。私たちは約束を守るのが得意ではありません。しかし、この世には長く守り続ける方がいらっしゃいます。それはどなたでしょうか。天と地と人間を造られた天の神さまです。神さまは私たち人間に様々な約束をされました。それらは聖書の中に書かれています。
今日は神さまの約束の中から一つを紹介したく思います。それは新約聖書の「マタイによる福音書」に書かれているみ言葉です。これは復活したイエス様が信じる者たちに語られた約束です。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」 マタイ28章20節
ここでイエス様は、今年も毎日、私たち一人一人と共にいてくださると約束しておられます。私たちはイエス様と密接につながって生きることが出来れば、安心感を得られます。これは私たちにとって大きな励ましであり、大きな希望でもあります。しかし私たちはこの約束を素直に信じられるでしょうか。疑ってしまう時もあると思います。毎日が順調で、幸せな時、全てがうまくいっている時には、イエス様の約束を信じることが出来るでしょう。しかし、病気になったり、仕事を失ったり、自然災害などが起こったときには、「イエス様は本当に共にいらっしゃるのだろうか、私のことなど、忘れてしまったのではないだろうか」と不安になります。
そんな時、私はある有名な詩を思い出します。それは、人の人生の歩みを砂浜の上に続く足跡にたとえた話です。イエス様がその人と一緒に歩いていた時、砂の上には二人分の足跡が残っていました。しかし、その人の人生が終わに近づいたとき、浜辺を振り返ってみると、あるところで
は足跡は一人分しかありませんでした。その人は、足跡が一人分しかない時、イエス様は一体どこに行ってしまったのだろうか、と考え込みました。しかも、その時は、その人の人生で最も辛い時期だったことを思い出しました。不安になったその人はイエス様に尋ねました。「イエス様、あの時、私はとても苦しい状態にあったのに、どうして一緒に歩いて下さらなかったのですか?あの頃、一体どこに行ってしまわれたのですか?」イエス様がお答えになりました。「あの時、あなたが大変な時期だったことはよく知っている。しかし、私はあなたのそばから離れたことはなかった。あの時、私はあなたを背負って歩いていたのだ。だから足跡は一人分しか残らなかったのだ。」
この話のように、私たちの人生に困難があるときにも、イエス様は私たちを離れないで、いつも共にいて下さいます。そのことは、どのようにして知ることが出来るでしょうか?それは、私たちが困難な状態にあっても、イエス様は毎日生きる力を与えてくださって、心の中に平安を与えてくださることからわかります。今年もイエス様が毎日私たちと共に歩んでくださることは、私たちの生きる土台になります。その土台を持っていれば、私たちは安心して前に進むことが出来ます。このことを忘れないで本年も歩んでいきましょう。
最後に旧約聖書のエレミヤ書のみ言葉です。
「私は、あなたたちのために立たてた計画をよく心に留めている、と主は言われる。 それは平和の計画であって、 災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。」 エレミヤ書29章11節です。
The name of Christian in Japanese
洗礼を受けてイエス・キリストを救い主を信じる人のことを何と呼ぶか?英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語などでは統一した言葉がある。日本ではいろいろな言い方があるようだ。あなたはどう呼びますか?
クリスチャン 子供の頃、キリスト教の人が自分をそう呼んでいるのを聞いて、アグネスチャンみたいで可愛いなと思った。中学生になって英語由来とわかったが、なぜ何でもかんでも英語っぽくしないといけないのかなどと思ったりもした。しかし、考えてみれば、室町末期~江戸時代初期の「キリシタン」もポルトガル語由来だったので、やはり、どうしても伝えた国の言葉に左右されてしまうということか。
キリスト教徒 自分をこう言う人はあまり多くはない感じがする。世界史の教科書などでキリスト教徒とイスラム教徒が対立したなどとあるので「文明の衝突」を想起させ、あまり穏やかな感じがしないのかもしれない。
キリスト者 最初の呼び名と同じ位に多く使われているのではと思う。ひょっとしたら宗教色を出さない場合にも使える名称ではないか?と言うのは、教派や教会によってはイエス・キリストの復活や処女受胎などはなかったと教えたり、またはそこまではっきり言わなくても、それらをただの言葉の綾のように唱えるところもあり、そういうところの人が自分をこう呼んでいるのを聞いたことがある。宗教色がなければ何か?哲学?イデオロギー?
では、スオミ教会の牧師はどう呼ぶか?フィンランドではkristitty(「キリスト教化した」という意味)が一般的だが、これは洗礼を受けた人みんなを意味する。ただし、洗礼を受けても礼拝に行かない聖書を繙かない人が大半というのが現実(ただし近年若者に回帰の傾向が見られる)。それで、それと区別するために「信じている人、信仰者uskovainen」という言い方もする。私は両者をくっつけて「キリスト信仰者」と言っている。日本語として少し味気ないかもしれないが、「クリスチャン」や「キリスト者」より立場表明がはっきりして正直な呼び方だと思う(時々、説教などで思い切って「キリスト教徒」と言うこともある)。
古い歌を新しい歌に
ギター教室に通っている息子が新しい課題曲に「花は咲く」を練習したいと先生に申し出た。いつも息子の希望を聞いてくれる先生はもちろんOKだったが、私は少し困ってしまった。 というのは、メロディーはとても美しい歌だが、内容はキリスト信仰者としてどうかなというところがあるからだ。東日本大震災の後で歌が公表された時、歌詞の主人公は生きている人か死んでいる人かどっちかというちょっとした議論が起きたと聞いたことがある。もし後者なら、キリスト信仰とは相いれない。死者とコミュニケーションは取らないというのが聖書の立場なので、死者が何を考えているか思いを馳せたりはしない(レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル上28章、列王上21章6節、イザヤ8章19節を参照のこと)。キリスト信仰者は、あの方と共に歩めた日々を父なる神に感謝し、今は神のみぞ知る場所にて安らかに眠るその方と「復活の日」に再会できるという希望を神に祈り願いながら、その希望を胸に抱いて今を生きるというスタンスなのだ。創造主の神を介して過去の思い出と将来の復活の希望が現在を満たすのだ。
歌詞の中には「いつか生まれる君に」とあって、まるで主人公がこの世とは別の世界でこれから生まれる人間を見ているようなところがある。童話の「青い鳥」の中に確かチルチルとミチルがこれから生まれる子供たちが舟に乗ってこの世に旅立つ場面に出くわすところがあった。イエス・キリストの少し前の時代のユダヤ啓示思想文書の一つ「エノク書」にもエノクがそういう場面を天使に示される下りがあった。「青い鳥」の作者メーテルリンクは「エノク書」を読んだのだろうか。しかし、それらはいずれも、生きた者が天使に別の世界を見せてもらうというもので、死んだものが見る筋合いではないのだ。
さて、「花は咲く」はどうしたらよいか?特別支援の息子のやる気を失わせないためにも希望を叶えてあげたいが、キリスト信仰と異なる霊性とは距離を置いてほしい。そこで、考えたのは歌詞を少し替えてみることだ。次のようにしてみた。
「いつか生まれる君に」 ⇒ 「いつか生まれる人に」
「わたしは何を残しただろう」 ⇒ 「わたしは何をすべきだろう」
どうだろう、これで歌詞は生きている人の呟きになることがはっきりするのではないだろうか?ギターの先生にも歌詞の変更を理由を添えてお願いしたら了承してもらえた。自分がキリスト信仰者であることも公けにでき、まさに一石二鳥であった。
宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その4最終回)
(1月4日のコラムの続き)カギは2節の聖句にある。
「あなたたちは、『心』を新たにされたのだから、何が神の意思であり、何が善いことか御心に適うことか完全なことかを熟慮する者へと自分を変えていきなさい。」 (これは新共同訳と異りますが、以下の議論から妥当な訳と考えます。もちろん文法的にも説明できます。)
「心」の元にあるギリシャ語の言葉はヌース。この日本語訳は厄介である。私は「意識」や「自覚」もありかなと思うのだが、「心」が無難かもしれない(ただし、ルター派は以下の議論から明らかなように絶対に「理性」と訳してはいけない)。
実はヌースは既に7章の23節と25節に出ていて、その正体が明らかにされていた。肉体は罪が命じることに従ってしまうものだが、ヌースは神の命じることに従って罪が命じることに反抗するものなのだ。まさにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることでヌースが新しくされたのだ。上記2節の聖句はこのことを指すのだ。キリスト信仰者は、新しくされたヌースにおいて神の命じることに従うが、肉体において罪の命じることに従うという苦しい二律背反の状況に置かれてしまうのだ。パウロはローマ7章でその苦悩を正直に告白する。理性は、ルターに言わせれば、信仰を骨抜きにするものにしかすぎずこの二律背反に真の解決をもたらさない。それでパウロは、救いにとってはヌースが新しくされたことで十分、それで神の裁きに定められないというギリギリの真実に踏みとどまる(8章1節)。聖霊が、新しくされたヌースのお伴としてあり、肉体の罪の実行を阻止できるように助けてくれる(同13節)。そのように生きる者は実は復活に与かれるという希望をあらゆる希望の大元にしているのだ(同24節)。
ヌースを新しくされたキリスト信仰者は、何が神の意思で何が御心に適うことか吟味する。パウロが2節で倣ってはいけないと言う「この世はそんなことをしない。吟味しない生き方は世に倣う生き方であり、理性を含めて肉体だけで生きる生き方である。御心に適うことを吟味してその通りにしようとすることが、まさに罪に従う肉体を神聖な生贄にして捧げることになるのだ(1節)。具体的には、3節から21節まで言われていることが肉体を生贄にして捧げることになる。3節から8節までは信仰者同士の関係において、9節から21節までは信仰者同士から人間関係一般に広がるキリスト信仰者の立ち振る舞い行動様式の全容だ。どちらの場合もキリスト信仰者は相手よりも高く出ないでとことん自分をヘリ下させることが貫かれている。
キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそのような「心」を好むと好まざるとにかかわらず宿命的に植え付けられた者である。そういう者になりたいという問題ではないのだ。洗礼を受けてイエス・キリストを救い主と公けにする者が気づいていないのならば、すぐローマを3章から12章までじっくり読み通すべきだ。それが難儀ならば、毎週日曜日の礼拝に出るべきだ。そもそも礼拝というのは、キリスト信仰者に新しくされたヌースがあることを思い出させ、その新しさを保たせ強めるためにあるのだから。
以上のことを思い巡らした後、急接近していた巨大彗星はまた宇宙の彼方へと飛び去って行ったのである(了)。
まだ冬が続きます。今回は、レッグウォーマーを編みます。フィンランド語で「Säärystimet (サーリスティメット)」と言います。
足元を温めてくれるレッグウォーマーはお家の中だけでなく、散歩やお買い物など外出時にも大活躍。レッグウォーマーは難しくなく初心者の方にも編みやすいものです。単色・多色のどちらでも、また模様編みに挑戦することもできます。
参加費: 1000円
持参するもの: 毛糸100g、毛糸に合わせた編み棒4本または5本
手芸クラブでは今回のテーマ以外にご自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。
おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。
お子さん連れのご参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1773707851iamg@1773707851arumi1773707851hsoy.1773707851iviap1773707851
℡ 03-6233-7109 スオミ・キリスト教会
宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その3)
(12月28日のコラムの続き)確かにローマ12章は命令文が多い。しかし、「ローマ」を最初から丹念に中断することなく根気強く読み進めて12章に到達すると、これらの命令は普通の命令とは異なる響きを持つのだ(ギリシャ語原文では12章は動詞の命令形は少なくて大半は分詞の形である、この観点からの考察は別の機会に譲る)。どんな響きかというと、「読者諸君よ、君たちの立ち振る舞い行動様式はこのようなものになるのだ」と気づかせてあげるようなものなのだ。どうしてそんなことが言えるのかというと、読者は12章に到達する前に少なくとも2回、心を揺さぶられて神の御前に跪くような心の状態になっているからだ。
まず3章から8章までパウロは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰と洗礼によって人は神から義人と認められ死の滅びから救われるという「信仰義認」を説く。そして8章の終わりで、何ものもこの義認と救いを奪い取ることはできない、それ位に神の愛は強いものであることが説得力をもって説かれる。読者はここで心を揺さぶられて感謝のあまり神の御前に跪くことになる。
次は9章から11章まで。パウロはユダヤ人の多くが信仰義認を受け入れず、掟を守ることで義人と認められようとする路線を取り続けている現状を悲しむ。他方で異邦人が信仰義認のキリスト信仰をどんどん受け入れる現状がある。これをパウロは、将来ユダヤ人が信仰義認を受け入れるようになるために今異邦人のキリスト信仰受け入れが起こっているのだ、神はユダヤ人を決して見捨ててはいないのだという恩恵を旧約聖書の預言に見出だす。11章の終わりで読者はパウロと共に人知を超える神の先見にただただ敬服し神の御前に跪くしかなくなる。
このように読者は2回心を揺さぶられて神の御前に跪くという、とことんへりくだった状態で12章に到達する。そこで冒頭の「神の憐れみによってあなたたちに勧めます」を目にすると、もうその通りにするしかない、それ以外に在りようがないという心になるのだ。なぜなら「神の憐れみ」には、3章~8章と9章~11章で言われていたことと8章と11章の終わりで結実しているものが詰まっているからだ。
このようにローマ12章の諸々の命令は、神の御前に跪きへりくだった状態にあるキリスト信仰者が聞いてその通りにするしかない、それ以外に在りようがないというものばかりなのだ。しかし、信仰者がそれらをそのように当たり前のように聞き入れる心を持てるのは、「神の憐れみ」に対する感謝と敬服のゆえだけではない。実は聞き入れる「心」そのものを神から与えられているのだ。(さらに続く)
司式・説教 吉村博明 牧師
聖書日課 民数記6章22~27節、ガラテヤ4章4~7節、ルカ2章15~21節
説教題 「主にある大元の喜びと嬉しさを忘れずに」
讃美歌 49、3、467、51
特別の祈り
全知全能の父なるみ神よ。
あなたは天と地と人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。その上、罪を持つ私たちを救いの業によってあなたの目に適う者になれるようにして下さいました。どうかこの新しい年も、この救いの実現して下さったイエス様を真(まこと)の救い主と信じる信仰を携えて、日々あなたへの感謝を忘れず、あなたの意思に沿うように毎日を送れるように私たちを力づけ見守って下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン
宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その2)
(12月14日のコラムの続き)ローマ12章の意味を確認していた時、16節は新共同訳では「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」となっているが、「身分の低い人々」のギリシャ語は、私の使っている辞書では「取るに足らないこと」、つまり人ではなく事柄である(私の辞書はギリシャ語・スウェーデン語、神学を勉強した大学がスウェーデン語系の大学だったため)。「交わりなさい」も「心を注ぎなさい」だ。どっちが正しいのか?前の文の「高ぶらず」を正確に訳すと「大業なことを考えない」となる。つまり事柄を言っている。それで、二つの文は二つの事柄を対比していると考えると、ここの訳は「自分を高くするようなことは考えず、自分を低くするようなことに心を傾けよ」になるのでは、と思った瞬間、賢治の「みんなにでくの坊と呼ばれ褒められもせず苦にもされず」が響いてきた。
そこでもう一度、9節から意味を意識しながら唱えてみた。愛は見かけではいけない、悪を忌み嫌い、善から離れないようにし、互いに兄弟愛をもって心から愛し、お互いを尊敬をもってたたえ合い、怠けず熱心になり、霊に燃え、主に仕え、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、祈りを絶やさず、聖なる者の欠乏を自分事とし、完璧なもてなしを目指し、迫害する者を祝福して呪わず、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、互いに思いを一つにし、自分を高くするようなことは考えず、低くするようなことに心を注ぎ、自分は賢い者と自分で決めず、誰に対しても悪をもって悪に報いず、全ての人の前で良いことのために力を尽くし、少なくとも自分の側からは全ての人と平和な関係を築くようにし、自分では復讐せず、神の怒りに任せ、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませ、悪に凌駕されず、善をもって悪に打ち勝て、という内容だ。
自分をとことん低くして自分ファーストにならずに社会に善が増し加わり悪が廃れるように立ち振る舞い行動するというのは、雨ニモ負ケズの精神と相通じるのではないかと思いきや、すぐ違いにも気がついた。賢治の場合は最後に「そういう者に私はなりたい」と言っている。つまり、「雨ニモ負ケズ」から始まってずっと述べてきた立ち振る舞い行動様式は追い求める理想像なのだ。他方、パウロの場合は「~しなさい」、「~してはならない」と命令形なのだ。ということは、仏教徒は自分で追い求める理想像を描けるが、キリスト教徒は命令されないとわからない動かないという情けない存在なのか?(さらに続く)