牧師の週報コラム

 復活の日の再会の希望を抱いて

フィンランドの教会の葬儀では司式をする牧師が柄杓で土を棺桶の上にかけ、「土から生まれ土に戻る」と言います。これは、最初の人間アダムが神の手で土(ヘブライ語でアダマ)から造られたことを想起させるものです。 続いて牧師は式と説教を通して、肉の体は朽ちても復活の体を与えられて復活の日に再会できるという希望を遺族や会衆と一緒に確認します。以下の聖句とルターの説き明かしは、この希望を強めてくれる教えです(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」1878年初版 47日の個所から)。

「全ての人間はアダムと結びついて死する者となったのであるが、今度は逆にキリストと結びついて生きる者に替えられるのである。」(第一コリント1522節、フィンランド語の聖書からの訳)

強い信仰はこの御言葉を大きな文字で心に書きつける。また、地上から遠く離れた大空一杯に描くように高く書き上げる。信仰はこの御言葉で言われていること以外には何も聞かず何も考えず何も知らない。あたかも、この世にはこの御言葉以外に書かれたものは何もないかのように。生きること活動することの全てはこの御言葉の中だけであるかのように。このように信仰することができるならば、我々は喜びのうちに生き喜びのうちに死ぬことができよう。この信仰が我々に教えていることは、キリストは自分自身のためだけに復活されたのではなく、我々のために復活されたということだ。それで我々はキリストの復活という防壁で守られて、かの日には我々も復活を遂げて彼と共に永遠に生きることになるのだ。

確かに我々の復活はまだ秘められたことで目の前で起こることにはなっていない。しかし、それはもう既に起こったと言っていい位に確実なことなのだ。心の目を将来の復活にしっかり向けていれば、今目に見える全てのものは中身のない殻にしか過ぎなくなるだろう。天と地において目にすることは他には何もないというくらいに。それで、我々はキリスト信仰者が埋葬されるのを目にする時、信仰の目では全く別のことを見ているのだ。そこには墓も遺体もない。見えるのは、死を超えた命であり麗しい園であり、そこで憩う新しい人たち、永遠の命に与って生きる至福の人たちなのだ。

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牧師の週報コラム

遠藤周作「沈黙」から帚木蓬生「守教」へ

(先週の週報コラムで和辻哲郎の「鎖国」と渡辺京二の「バテレンの世紀」について書いたら、礼拝後のコーヒータイムの席で遠藤周作の「沈黙」が話題になりました。それで今回はその時の話の続きとして)

昔、遠藤の「沈黙」についてある青年キリスト信仰者と話し合った時のこと。イエス様は自分を公けに主と認める者を神の御前で認める、しかし、拒否する者は神の御前で拒否すると言われた(マタイ10章32~33節)。そこで、イエスを拒否しないとこの者たちは死ぬんだぞと、拷問に苦しむ人たちの声を聞かされたら、どうしたらいいのか?「沈黙」ではそれで棄教した宣教師があたかも自分こそが真のキリスト信仰者であるかのように気取って終わる。信仰を告白することが愛のなさになってしまうのはなんともやりきれない(遠藤は欧米キリスト教に一泡ふかせたかったのか)。

そこで考えたのは、はい、信仰を捨てます、と言って(表情は無念の苦渋を滲ませ、心の中ではあかんべー)、踏み絵を踏んでキリシタンの人たちを助けたら、また伝道と礼拝を始める、そしてまた捕らえられて同じ脅迫を受けてまた「棄教

する、そしてまた伝道と礼拝を始める、これを繰り返したらどうだろう。もちろん繰り返しなんかありえず、2回目でバッサリだとは思うが、どうせキリスト教徒でいることは死を意味する時勢なのだから。

帚木の「守教」はおそらくこの考え方と軌を一にしているのではないかと思った。潜伏キリスト教徒たちは確かに踏み絵を踏んで檀家制度に組み入れられた。しかし、彼らは独自の連絡網を築いて信仰の共同体を維持。宣教師が彼らに言う。殉教は宣教師のすること、信徒がすべきことは次に宣教師が来るまで何百年かかろうとも共同体を守ること。潜んだとは言え、キリスト教徒たちは全く安泰ではなかった。発覚すれば拷問と死罪。登場人物も言うように、薄氷の上を歩くのと同じだったのだ。氷が割れて落ちてしまった人たちも大勢いただろう。踏み絵を踏んだ棄教の宣教師は身の安全を保証されて余生を送れたが、潜伏キリスト教徒たちは全く正反対の境遇に置かれた。

「守教」の最終章は幾世代も続いた潜伏が劇的な展開を遂げて終息に向かう。もちろん、開国はしても禁教が解けるまで20年近くあるのでまだ波乱万丈は続く。しかし、200年以上に渡る苦難の歴史の終わりがやっと始まったという幕開けの感動が漲る。渡辺京二は日本と西洋とファースト・コンタクトとセカンド・コンタクトの間には断絶があると論じた。確かに国家レベルではそうだろう。しかし、この世界の片隅にあった連続性は認めてもいいのでは?「守教」には棄教宣教師に対する批判も出てくる。「沈黙」に対する見事なアンチテーゼの書だと思う。 

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手芸クラブの報告

4月の手芸クラブは24日に開催しました。朝から雨がしとしと降り少し涼しい日になりましたが、季節はまだ新緑がきれいな春です。

今回の作品はクロスステッチの刺繡です。初めにモデルを見て自分の作りたいものを選びます。それから作りたいものの糸の色と布を選んで、早速刺繡に取りかかります。クロスステッチには少し細かいことがあるので少し難しく感じたところもありましたが、皆さん一生懸命頑張りました。だんだん可愛い模様が見えるようになると、「可愛い!」「素敵!」「きれいな色合い」などの声があちらこちらから聞こえてきました。刺繡は完成まで時間がかかります。それで、来月も刺繡を続けたいと希望する声があがりました。来月は今回の続きでも良いし、または新しい少し簡単なクロスステッチのものを作ることにします。

クロスステッチ刺繡で細かい作業に集中した後はコーヒータイムで一息入れます。フィンランドのコーヒーブレッドPullaを味わいながら歓談の時を持ちました。そこで刺繡の歴史などについてや、私たちと共にいつもいて下さる父なる神さまについてのお話がありました。

次回の手芸クラブは5月22日に開催予定です。開催日が近づきましたらホームページに案内案内を載せますので是非ご覧ください。

手芸クラブの話

刺繡は世界中に愛されている古い伝統的な手芸の一つです。刺繡は同じテクニックや材料を使いますが、それぞれの国の文化の影響も受けて違いもあります。

刺繡は古代オリエントのエジプト、バビロニア、ギリシャで始まったと言われます。最初は布を縫い合わせる時に刺繡のテクニックが使われましたが、後で布をきれいに飾り付けるためのものになりました。

刺繡はフィンランドでも伝統的な手芸の一つです。かつて刺繡は飾りとして服、シーツ、テーブルクロスなどに付けられました。女性たちはシーツやタオルを縫う時、最後にイニシャルを刺繡しました。テーブルクロスにはきれいな花の模様を刺繡して華やかなものにしました。

刺繡にはいろいろなテクニックがありますが、最も一般的なのは今日皆さんが作ったクロスステッチです。フィンランドでは1800年代にクロスステッチのテクニックがとても盛んになったので、クロスステッチの世紀とも言われています。そのテクニックは簡単で早く覚えられるので盛んになりました。クロスステッチではいろいろな模様が出来ます。昔クロスステッチの模様のデザインのモデルがなかったので、デザインは自分で考えなければなりませんでした。女性たちは作ったデザインを交換し合ったのでクロスステッチのいろんな模様が広がっていきました。フィンランドの西と南の地方ではスウェーデンから模様が伝わりました。shugeikurabu東の地方はロシアから伝わりました。そのため西と東の刺繡の模様は少し違うのです。特に東のカレリアという地方の刺繡はロシアの刺繡の影響を強く受けています。それは他の刺繡とどのように違うでしょうか?カレリア地方の刺繡の基本は白い布に赤い糸でな模様を作ることです。

刺繡は昔からキリスト教会にとっても大事な技能でした。多くの教会の聖壇の布には聖書に関係する模様が刺繡してあります。教会からも刺繡のいろんなテクニックが広く社会に普及しました。聖壇の布に刺繡してある模様はいろいろありますが、よく見られるものは三角形の模様です。その中に目の模様の刺繍を付けることもあります。これはどんな意味があるのでしょうか?三角形は天の父なる神さまを表しています。その中にある目の模様は神さまが私たちのことをいつも見守ってくださり、いつも共にいて下さることを表します。このように聖壇の布の模様を通して、神さまの存在や神さまが私たちといつも一緒にいて下さることを見る人に確信させる役割を果たすのです。

ところで、私たちはどうでしょうか?天の神さまが私たちと共にいて下さることをいつも感じることが出来るでしょうか?神さまがどこか遠くに行ってしまったと感じることが時々あると思います。そのような時、私たちはどうしたら良いでしょうか?

shugeikurabuこの間、息子の悦才と博明が一緒に家の近くの神田川にジョギングに行った時の出来事です。悦才は支援が必要な若者です。二人は出発の前にどこまで走るか話し合って走る道を決めました。しかし、途中で悦才はとてもスピードを出して走るようになったので、博明は追いつかなくなり悦才の姿は見えなくなってしまいました。博明は息子は出発点で待っていると思いましたが、そこに着いたらいなかったので、もう家に帰ったと思って家を見に行きました。しかし息子は家には帰っていませんでした。博明はまた神田川に戻っていろいろ捜しましたが、見つかりません。それでもっと遠くまで探しに行けるようにまた家に戻って自転車を取り出しました。自転車で出発点に向かうと、そこで息子が大きな声で「お父さーん!お父さーん!」と叫んでいる姿を見つけました。それから二人は無事に家に帰ることができました。

聖書は、天の神さまは私たちの父であると教えています。私たちは人生の中で自分の行きたい道を進みたいと思って進んでみると、迷ってしまって正しい方向がわからなくなってしまうことがあります。ちょうど息子の悦才と同じようにです。どうやったら正しい道に入れるかわかりません。そのような時は天の神さまの方を向いて「お父さーん、お父さーん」と叫べばよいのです。旧約聖書の詩篇には次のようなみ言葉が書いてあります。「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、私に耳を傾けて下さる。生涯、わたしは主を呼ぼう。」詩編116篇1-2節です。このように天の神さまはいつも私たちを見守っていて下さり、いつも私たちの叫び声も聞いてくれるので、私たちは安心して平安を得られるのです。本当に天の神さまは私たちのことをよくご存じですので、叫び声をあげることが出来ないときでも、その時は静かな囁きでも神さまは一言ももらさないで聞いてくださいます。

私たちの人生の中にはいろんな時があります。それでも、天の神さまは私たちがどんな状況にあるのか、いつどこにいても良くご存じで、それで、いつも一番良い歩む道を示して下さいます。それに信頼できればどんな時があっても安心や平安の中で生活が出来るのです。

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

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4月の料理クラブは桜もそろそろ終わり始めの13日、爽やかな春の陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのフィンランドのコーヒーブレッド、アウリンコ・プッラを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。

pullaまず、プッラの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加えます。生地をよく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを加えて、またよく捏ねて生地を仕上げます。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。その時にプッラのトッピングを作ります。卵以外のものをボールに入れて味見をし、もう少し砂糖を加えてみてから卵を混ぜて完成です。トッピングを準備している間に生地は大きく膨らみました。そこでプッラの形作りです。生地を細い棒の形に丸めて切り分け、切った生地を一個一個丸めていきます。初めは少し難しかったですが、何個か丸めていくうちに皆さん上手になってきて、きれいなプッラが次々と鉄板の上に並べられていきます。それから二回目の発酵をさせます。今回は幼稚園のお子さんと小学生のお子さんがお母さんと一緒に参加して、大人と一緒に一生懸命プッラの生地を捏ねて上手に生地を丸めていました。

二回目の発酵の時にちょっと一休み。あちこちから楽しそうな会話の声が聞こえてきます。さて、プッラはあっという間に大きく膨らみました。一つひとつプッラの真ん中にコップで溝を作って、そこにトッピングをのせます。鉄板には最初の丸形とは違う形のプッラがきれいに並べられました。それをオーブンに入れて焼き始めます。少し経つとオーブンから美味しそうな香りが教会中に広がりました。

pullaきれいな焼き色になったプッラをオーブンから取り出してよく冷まします。その間にコーヒーやテーブルのセッティング。それからアイシングを作って、冷ましておいたプッラのトッピングの周りに太陽の光の筋の模様を描きました。

そうして、出来たてのアウリンコ・プッラをコーヒー・紅茶と一緒に味わう時間になりました。皆さんと一緒にプッラを頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。この時にフィンランドのプッラや太陽についてと、「天地創造の神さまは私たちと共にいる」という聖書のお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝です。次回の料理クラブは5月

11日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブのお話2024年4月13日

ryourikurabuフィンランド人はコーヒーブレッド、Pullaが大好きです。フィンランドには色んな名前のプッラがあります。例えばバター・プッラ、クリスタル・プッラ、ブルーベリー・プッラ、ラフカ・プッラなどなど、そして今日皆さんと一緒に作ったアウリンコ・プッラもその一つです。プッラはフィンランドではコーヒーや紅茶と一緒に食べます。プッラは初めは貴族のおやつでしたが、1880年頃から一般の人も食べるようになりました。その時はプッラは家庭で作られるものではなくお店で買うものでした。第二次世界大戦の後、砂糖やイーストなどプッラの材料が普通に販売されるようになってプッラは多くの家庭で作られるようになりました。昔、プッラは高価なものだったので、イースター、夏至祭、クリスマスのようなお祝いの時しか食べませんでした。他にプッラが出される大事なお祝いとして赤ちゃんの誕生祝いがありました。赤ちゃんが生まれると近所のお母さんたちが大きめで丸い形のプッラを焼いて、それを赤ちゃんが生まれた家族に持って行きました。このプッラは赤ちゃんの誕生をお祝いに来る親戚や近所の人たちをおもてなすために出されるもので、赤ちゃんのお母さんにとって助けになりました。

時代は変わり、プッラは毎日食べられるおやつになって、ほとんどの家庭で毎週プッラを焼くようになりました。奥さんが美味しいプッラを作るのは大事な技能と考えられました。私の母は毎週金曜日にプッラを焼きました。私たち兄弟姉妹が学校から帰ると、焼きたてのプッラの香りが家の外にまで広がったものです。家族みんなで暖かいプッラを冷たい牛乳と一緒に食べました。

プッラを作るのはそんなに簡単ではありません。イーストを使って2回発酵させるので、時々硬くなったり、表面がちぎれることもあります。美味しいプッラが出来るために、時間と発酵の温度は大事です。それから生地を十分にこねることです。今日皆さんは、とても上手にきれいな美味しいプッラを作りました。

今日作ったプッラは太陽のイメージなのでアウリンコ・プッラという名前です。ちょうど2週間前はイースター・復活祭のお祝いがありました。フィンランドでは暗い冬が終わり日光時間が長くなる季節になりました。人々の気分も明るくなります。アウリンコ・プッラはこの季節にピッタリなプッラです。

この季節にフィンランドの教会では天の神さまの創造の業についての讃美歌がよく歌われます。天の神さまは太陽や月、湖や森や人間も造られたという歌詞で始まる明るい感じの歌です。これは子ども向けの讃美歌として歌われますが、大人も大好きです。これから、この讃美歌を一緒に聴きましょう

旧約聖書の一番最初は創世記という書物で、神さまの天地創造について書かれています。神さまは太陽や月や星を造られました。神さまは光と闇を分けられ、太陽は昼、月は夜、この地上を照らすようになりました。私たちは太陽が照る時間が長いと明るい気分になります。逆に照る時間が短いと少し落ち込む気分になるでしょう。私はフィンランドの父に毎週電話しますが、父はいつもフィンランドの天気のことを話しします。去年の秋と今年の春は太陽の照る日が少なかったので、太陽はどこに行ってしまったのかといつもがっかりした様子で話していました。sora

太陽は雲のない青空できれいに輝きますが、空が厚い雲に覆われたら太陽は見えません。しかし太陽は見えない時でも雲の上の空にあります。天の神様も太陽と同じように考えることができます。旧約聖書の申命記という書物には次のように書かれてあります。「主ご自身があなたに先立って行き、主ご自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」申命記31章8節です。

私たち人間の人生にはいろんな段階、幸せの時、試練や困難の時があります。太陽が青空に輝いている時は幸せや喜びの時とすれば、太陽が雲に覆われて見えない時は試練や困難の時です。試練の時、神さまがいなくなってしまったと思うかもしれません。でもそうではありません。太陽は雲に隠れてしまっても、それは太陽がなくなってしまったのではなく、雲の上で輝いています。天の神さまも同じです。神さまを信じて受け入れると、いつも神さまが共にいて下さるという確信が生まれます。試練の時でも、雲の上で輝く太陽を思えるように、共にいて下さる神さまを思えるようになります。その時、今読んだ申命記のみ言葉は真実になります。天の神さまは見放すことも見捨てることもせず、いつも私たちと共にいて下さるのです。

牧師の週報コラム

 和辻哲郎「鎖国」から渡辺京二「バテレンの世紀」へ

和辻哲郎の「鎖国」は驚くべき本である。中心テーマは室町時代末期から江戸時代初期にかけてのキリシタン盛衰記だが、序説がなんとローマ帝国の崩壊から始まる。 十字軍とルネサンスまでの西洋史を振り返り、第1章でスペインとポルトガルの新大陸進出、第2章は両国が喜望峰を越えてインド洋、東南アジア、東アジアに進出していく過程の詳細な記述。あれっ、私は何の本を読んでいたんだっけと戸惑うことも。一体いつになったら日本が出てくるのか?それでも、だんだん近づいてついに種子島に。ここから日本列島の自由闊達な者たちと西洋流「普遍」との交流と対話が始まるのだ。しかし結果は、「普遍」を遮断するようにして「日本人」が作られるようになってしまうことに。序説の出だしはこう、「太平洋戦争の敗北によって日本民族は実に情けない姿をさらけ出した」。さらに、キリスト教を排斥して代わりに古代シナ(!著者の言葉遣い)の思想である儒教を思想的主柱にしたことが日本人に合理的な思考を起こさせない要因になったとも。そして締めくくりは、「現在のわれわれはその決算表をつきつけられているのである」。「現在」とは昭和25年。日本は占領下にあり、まだ焼け跡と闇市が社会風景の時だ。

その後、日本は復興を遂げ経済は急成長し世界第2位の経済大国にのし上がった。しかし、バブルがはじけた後は、失われた10年が20年、30年(?)と続き、経済は4位転落、平均賃金、1人当たりGNPも韓国が上に。キリスト教は戦後一時期ブームになったそうだが、その後頭打ちとなり、信徒数は総人口の1%のまま。

そんな時代の2017年に出版されたのが「バテレンの世紀」。渡辺京二は「鎖国」の現代版を試みたそうだ。それで、スペイン・ポルトガルの海洋進出から始めるのだが、新大陸は割愛、インド洋アジア地域のみ。現在の世界の政治経済の重心が同地域に移っていることを意識したのか。ローマ帝国やルネサンス等の西洋史にも触れないのは、西洋流「普遍」に冷めた態度があるからか。渡辺のキリシタン記述は和辻ほど理想的ではない。宣教師の不祥事にも触れたりして現実的である。しかし、私が目を見張ったのは終わりの総括のところだ。キリスト教は日本人の体質に合わないという思考様式を批判的に論じている。日本のキリシタンはカトリック本国の平民以上に受容していたと。遠藤周作は、「沈黙」に登場する棄教の宣教師に、キリスト教は日本人には不向きな宗教と言わせた。武力で壊滅・根絶させられたのに、ほら、日本人の体質に合わなかっただろ、とは何という言い草だろう、筋違いも甚だしいと言わざるを得ない。

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牧師の週報コラム

キリスト教徒の目のつけどころ

昔、スオミ教会が中野上高田にあった頃、復活祭の祝会にて信仰の証しを行い、キリスト信仰者になる前となった後で物の見方がどう変わったかについて話したことがある。一例として、信仰者になる前に読んだ本、観た映画で強く印象に残ったものを、信仰者になった後でもう一度読んだり観たりしたら新しい発見が一杯あったということについて。取り上げた本はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」、映画はW. Beatty監督の「レッズ」。どんな新発見があったか、もう覚えていらっしゃらなければ、また別の機会に。

最近またキリスト教徒だからこんな見方、こだわりをするというのが二つほどあったので紹介します。一つは、池澤夏樹の新聞連載小説「また会う日まで」。主人公は秋吉利雄という旧海軍の将校でキリスト教徒という歴史上実在した異色の人物。天皇の軍隊でどうやってキリスト信仰を貫けたのか興味を持って読み続けた。しかし、かつての部下が今は亡き秋吉の墓参りをして線香をあげるラストシーンでがっかり。線香をあげるというのは死者との交信を始める合図のようなもの。キリスト信仰では手を合わせて話しかける相手は神のみ。死者とは対話しない。復活の日の再会に希望を託す。「また会う日まで」はその希望を歌い上げる讃美歌である。なんと題名にそぐわない終わり方をするのかと失望した。

もう一つは沢木耕太郎の「暦のしずく」。これも新聞の連載小説だが、まだ終わっていない。主人公は江戸時代中期に活躍した馬場文耕という講談師。これも歴史上実在した人物で講壇の内容が幕府の怒りを買い処刑されてしまう。私の注目の的は里見樹一郎という謎の浪人。文耕の講壇の倫理的側面にいつも儒教離れしたコメントをして文耕を驚かせる。私はすぐキリシタン関係者?と直感。案の定、先々週号では里見が自分の背景を謎めいた言い回しで文耕に語った。自分は九州の山奥から天狗に連れられて江戸に来た、徳川幕府の行く末を見届けるために、などと。私は思わず、おぉ!と唸ってしまった。予想は当たらないかもしれないが、これもキリスト教徒ならではのこだわりだろう。

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2024年3月30日(土)チャーチカフェ&ミニコンサート

聖金曜日と復活祭/イースターの間の土曜日にチャーチカフェ&ミニコンサートを開催しました。今回は西日本福音ルーテル教会で活動しているフィンランドの音楽伝道宣教師アウヴィネン夫妻をお招きしてのミニコンサートでした。

マリカイサさんの心にしみわたる美しい歌声とトーマスさんのテクニカルなギター演奏を通して聖書のメッセージを歌い上げて下さいました。なかでもマリカイサさんの作詞作曲による「自由になりたい」は、許せないという思いに囚われて身動きできなくなってしまった人をイエス様が自由にして下さるというメッセージで、聴く人の心を清める力に溢れていました。

3回の歌と演奏お疲れさまでした!

今回のチャーチカフェのメニュー、ピーチのクリームチーズケーキも好評でした!

牧師の週報コラム

イースターおめでどうございます!

クリスマス夜の同様に、天使はイースターの朝にも良いお知らせを告げに現れました。

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 

婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。(マタイによる福音書 2801 節–02節、05節 – 08節)

罪と死と悪魔の力に打ち勝たれた、私たちの救い主は生きておられます 〜 ハレルヤ!!!

「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、           

喜び躍ろう。」(詩編/ 118024節)

この良いお知らせをこれからもご一緒に広げましょう!

主にあり、

Päivi & Martti Poukka

2024年3月31日 ヘルシンキより

セイヤ&パーヴォ・ヘイッキネン夫妻

Pääsiäismessuun kokoontunut Suomi Kirkko seurakunta!

Elämme alkuvuotta 2024. Tuo määrä vuosia on kulunut jostakin todella käänteentekevästä historian murroskohdasta. Aikaa lasketaan ennen sitä ja sen jälkeen. Toki on muitakin ajanlaskutapoja. Mutta Kaikkivaltiaan, Iankaikkisen Jumalan Poika syntyi ihmiseksi 2024 vuotta sitten. Ajatus on huimavan suuri  historiallinen tapahtuma; todellinen käännekohta.

Kuten tiedätte, hän kasvoi vastasyntyneestä vauvasta aikuiseksi, noin 33 vuoden ikään. Evankelistat Matteus, Markus, Luukas ja Johannes kirjoittivat Pyhän Hengen johdatuksessa Hänen elämänsä, opetuksensa, kärsimisensä, kuolemansa, kuolleista ylösnousemisensa ja taivaaseen paluunsa valtavista  teemoista. Johannes, päättäessään evankeliuminsa kirjoittaa: “On paljon muutakin, mitä Jeesus teki; ja jos se kohta kohdalta kirjoitettaisiin , luulen, etteivät koko maailmaan mahtuisi ne kirjat, jotka pitäisi kirjoittaa.” Johannes 21: 25 Mutta kaikki tarpeellinen on kirjoitettu, kaikki. 

Tunnemme tämän Pyhän Kirjan nimellä RAAMATTU. Tämän Raamatun sanaa, Vanhaa ja Uutta Testamenttia pastorinne teille opettaa ja julistaa. Ja sitä samaa Raamattua te myös kotonanne luette. 

Evankeliumikirjojen, Matteuksen, Markuksen, Luukkaan ja Johanneksen evankeliumit sisältävät Vapahtajamme Iankaikkisen ennalta olemisen, ihmiseksi syntymisen, noin 33v. vuotta kestäneen ihmiselämän, hänen kärsimisensä, kuolemansa, kuolleista ylösnousemisensa ja taivaaseen paluunsa tosiasiat. Ja myös sen, että Herra palaa näkyvällä tavalla tälle maapallolle, josta Japanikin muodostaa osansa. 

Niin, ensimmäisenä Pääsiäisenä herätti Jumala kuolleista  Ainoan Poikansa; Hänet, joka todellisesti kuoli meidän syntiemme tähden. Liian monet ihmiset ohittavat olankohautuksella tuon ennen kuulumattoman sanoman, tuon historiallisen tapahtumaan. Ja se ohitus on seurauksiltaan äärimmäisen suuri vahinko. 

Mutta älä sinä ole yksi niistä, jotka tuon Hyvän Uutisen kuultuaan  ohittavat sen olankohautuksella; älä. Pysähdy miettimään, ala tutkimaan yhdessä ja yksin, mitä ja KUKA Jeesus on! Ja teet löydön tai paremminkin sinut löydetään. Johannes kirjoittaa evankeliuminsa I luvussa Andreas nimisestä ihmisestä, joka lausuu ihmetellen ja iloiten veljelleen: “Me olemme löytäneet Messiaan…” Kristuksen. Se tapaaminen oli hänen elämälleen  käänteen tekevä.  Ja sitä se olisi sinullekin. Kuuntele tarkasti pastorisi opetusta/julistusta. Hän kuuluttaa HYVÄÄ UUTISTA. 

HYVÄÄ PÄÄSIÄISTÄ!

Paavo ja Seija (muinoiset Suomi-Kirkkolaiset.)

 

シルッカリーサ&ペッカ・フフティネン夫妻

スオミ・教会で集まっている皆様

今週中天の父なる神様の大いなる恵みや愛を感動しています。世の罪を取り除く神の小羊は三日に復活された。このすばらしいことをスオミ・教会の皆さんを含めて全世界のクリスチャンが感謝します。

イエス様の御復活おめでとうございます

Pekka Sirkka-Liisa HuhtinenHelsinki

高木賢氏

「彼は侮られて人に捨てられ、

悲しみの人で、病を知っていた。

また顔をおおって忌みきらわれる者のように、

彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

まことに彼はわれわれの病を負い、

われわれの悲しみをになった。

しかるに、われわれは思った、

彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、

われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲しめをうけて、

われわれに平安を与え、

その打たれた傷によって、

われわれはいやされたのだ。」

(「イザヤ書」53章3〜5節、口語訳)

十字架で私たちの罪のゆえに死んでくださり、私たちを義とするために復活してくださった主イエス様に感謝します。

高木賢 (フィンランド・ルーテル福音協会)

 

ティーナ&ミカ・ラトヴァラスク夫妻

スオミ教会の皆様へ、

イエス・キリストはこう言われます。

「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、

また生きている者である。一度は死んだが、見よ、

世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」

(ヨハネの黙示録11617節)

この聖書の箇所は、私たちに勇気や希望をもたらしてくれます。どんな試練や困難があっても、恐れる必要はありません。復活された主イエスは、世々限りなく生きておられ、天と地の一切の権能を授かって、死と陰府の鍵を持っています。全能の神は私たちを愛しておられ、キリストは私たちの罪の罰を受けてくださったので、イエスの名を呼び求める私たちは基本的には大丈夫です。

明るい春の日差しが、スオミ教会に届きますように。

世界中のクリスチャンと一緒に復活祭をお祝いしましょう!

ティーナとミカ

 

ペンティ・マルッティラ牧師

Ylösnousseen Herramme Jeesuksen Kristuksen nimessä,

Tokion Suomi-seurakunta tekee erittäin arvokasta työtä, kun se todistaa Herrastamme Jeesuksesta Kristuksesta.

Sillä maailmassa ei ole muuta toivoa kuin Jeesus, Hänen kuolemansa ja ylösnousemuksensa.

Omalla kuolemallaan Hän voitti synnin, kuoleman ja paholaisen vallan.

Jokainen, joka uskossa laittaa toivonsa Jeesukseen, saa synnit anteeksi ja iankaikkisen elämän Jumalan yhteydessä.

Tätä ilosanomaa meitä kutsutaan julistamaan kaikkialla.

”Älkää te peljätkö; sillä minä tiedän teidän etsivän Jeesusta, joka oli ristiinnaulittu. Ei hän ole täällä, sillä hän on noussut ylös,” (Matt. 28:5-6)

Pentti Marttila

Aasian aluekoordinaattori

 

イヴァン・ラプテヴ監督

2024年3月29日(金)19時 聖金曜日 礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネの福音書19章16−30節

「イエスは何を「成し遂げられた」?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 聖金曜日の今日の箇所は、18章から記録されているイエス様の受難の記録の一部になりますが、「ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した」で始まり、「イエスは、自ら十字架を背負い」と続き、そして最後は、「成し遂げられた」(30節)、これは新改訳聖書では「完了した」と訳されていますが、その言葉とともに「息を引き取られた」あるいは「霊を引き渡された」と「死」で結ばれる、とても意味深い箇所であります。もちろんこの死は復活へと繋がるのですが、このところは何より私たちキリスト教信仰の核心が伝えられいると言えるでしょう。聖金曜日のこの日、神はこのみ言葉を通して、私たちにその信仰を問いかけているのです。「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」、そし十字架の死で「何が成し遂げられ、何が完了したのか」をです。今日はそのことを18章19章の流れを踏まえながら、共にみ言葉から教えられていきましょう。

2、「十字架の前に義人はいない」

「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」それは、私たち人間の最も深刻な、そして最悪の現実である罪のために他なりません。この今日のところのみならず、18章からは、まさに人間の圧倒的な罪深い姿、現実がまざまざと記されていきます。まず18章3節では、園で祈っていたイエスと弟子たちのところに、裏切ったユダが「一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。」とあります。イスカリオテ・ユダはわずかなお金のためにイエスを裏切りユダヤ人指導者たちに引き渡します。彼はイエスと一緒に過ごしてきたのですから、イエスが暴力的革命家でも混乱で社会を転覆しようというお方ではないし、その弟子たちも決して武装蜂起しようなどとも考えていないことはよく分かっていたことでしょう。しかし、彼は前もって宗教指導者たちと計画を立てたのでしょう、そんなイエス一人を捕まえるために、数人の兵士ではありません。わざわざ一隊の兵士たちと、そして武器を持ってやってきているのです。ルカ22章52節にはそれを見たイエスの「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。」という言葉もあるのです。

 この行動は、イエスがそれほどまでして逮捕することが必要な犯罪人であることをまさに周りに印象付けています。事実、この後イエスは、極悪人のかけられるローマ最悪の処刑である「十字架」を負わされるよう扇動されていくのです。次に書かれているのは、ユダの裏切りに乗った祭司長やパリサイ派たちや役人などです。彼らは、社会の宗教エリートであり指導者でもありました。幼い時から律法と預言をよく学び、他の誰よりも自分たちはその律法の内容や教えを知っているだけでなく実践もしていると自負している人々でした。しかし皮肉なことに、そんな彼らが、その律法と預言が指し示してきて、その約束の通りこられた救いの御子とその正しい聖書の教えを受け入れられないのです。それどころか自分たちの伝統とプライドを守ることに躍起になりイエスに対して妬みを抱き続けてきました。そして何度もイエスを陥れようとしながら、その敵意と妬みが最高潮に達して、このようにユダと共謀しこのイエスの逮捕へと行動しているのです。その彼らの行動には、信心深さや聖書的な根拠などはもはや見られません。民に神のみ言葉を指し示して、信仰による行いに導き駆り立てるどころか、民をその敵意と妬みに巻き込み、そして偽りと策略によって煽動します。そして、18章39節以下では、罪のないイエスよりも明らかな犯罪を犯した強盗のバラバを釈放してほしいとまで叫ばせ、今日の箇所の直前の19章15節では彼らは「私たちには、皇帝の他に王はありません」とさえ叫ばせるのです。実に節操のない言動ですが、これが、妬みと憎しみによる自己中心な感情と欲求の実であり、罪の実であり、偽りの実の現実なのです。彼ら宗教指導者たちは、自他共に認める聖書をよく知り行いも立派な人々でした。表向きには社会に尊敬もされる敬虔な人々と見られていたでしょう。しかし、そのような「人の目」に評価され、いかにでも振る舞うことのできる人間の行いの敬虔さというのがこのように、十字架の前、神の言葉の前、神の前にあっては、いかに脆く、愚かなものであるのかが教えられます。

 では次にピラトはどうでしょうか?ピラトは、18章38節や19章4節で、イエスには「私は、あの人には罪を認めません。」とイエスには十字架刑に値する様な罪はないことを何度か認めているのです。さらには、19章12節にあるように、イエスを釈放しようとさえ努めます。しかし、彼はローマ社会で実績を残してきて皇帝に託された責任あるローマの総督、高官ではありましたが、王でもなければ神でもありません。彼も一人の罪人にすぎません。彼も何が正しいことかわかっていて、その内なるところではそこには良心も理性も働いたことでしょう。しかし、ユダヤ人の勢いや強い言葉と暴動を恐れ、そしてやはりそこには自分のプライドとメンツという自己中心な感情や欲求が勝り、正しい罪のない、十字架刑に値しない人を十字架刑に引き渡す法的な実行者責任者になるのでした。周りにいるローマ兵も、上司上官に言われるがまま、無実の男を平気で鞭打つだけでなく、残酷なほどにイエスの肉体を苦しめ、辱め、馬鹿にします。そして無実のイエスの肉を十字架に釘打つ刑の執行者となるのですした。

 そして、忘れてはいけません。十字架の出来事の、その周辺の人々として、目を閉ざしてはいけないのは、イエスの弟子たちです。彼らはイエスと一緒にいたから、信仰が与えられていたから、イエスの味方、弟子だからと、罪から自由な、立派な、完全な、聖人君子であったでしょうか?とんでもありません。弟子の一人ユダは、最初に見たように、わずかな金のためにイエスを裏切り売り渡しました。ペテロはイエスの御心ではない、剣で歯向かい、大祭司の僕の耳を切り落としてしまいます。そしてヨハネによる福音書にはありませんが、マルコの福音書14章50節には、「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

とあるのです。彼らは、この前に、イエスから弟子の誰かが裏切ることをことを予め伝えられたときに「まさか私ではないないでしょう」と皆がいい。ペテロは「他の誰が裏切っても自分は決して裏切らない」と言い、そんなペテロにイエス様が「あなたは三度私を知らないという」と告げられた時には、マルコ14章31節にこうあるのです。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

 ペテロだけではない、他の弟子たちも皆、自分は決して裏切り者にはならない。決して知らないなどとは言わない。ペテロは「他の誰が裏切っても自分は裏切らない」「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22章33節)とまで言うのですが、ユダ以外の他の弟子みなも同じ思いと自信があったことでしょう。彼らの意思では、決して嘘ではない意思の表明であったと思われます。しかし、そのような立派な人間の意思や決心も神の前にあって、神の計画の実現の前にあって、十字架の前にあって、いかに無力で脆く、決してその通りに実現しないし、実現できないことが福音書は伝えているでしょう?何よりペテロはその証人ではありませんか?彼は一人、イエス様の審問が行われている大祭司カヤパの庭に入って、イエスを見に行きます。しかし、18章15節以下、ペテロは前に豪語した、自分の立派な決意を実践したのではなく、イエスの言っていた通り、三度、イエスを「知らない」と言ったのでした。誰よりも強い意志と立派な敬虔に忠実従おうとする言葉を表してきたペテロですが、彼の意思、決意、自信は何一つなりませんでした。ただただイエスの言葉だけがその通りになったのでした。

 みなさん、今日のところからまず教えられることは、神の前、十字架を前に、ここに罪のない正しい人は誰一人いません。もちろん、「人の前」、ローマ社会、ユダヤ社会では、それなりの地位があり、功績と名声があり、立派な行いと敬虔な振る舞いで、人々からも尊敬される人々は沢山いたでしょう。しかし、この「十字架の前」、イエスが背負われる十字架、そして完了したという、その神の計画の前、み言葉の前にあって、今見てきた通り、正しい人はいませんね。罪のない人は一人もいませんね。もちろん女性達は、墓に至るまでついてはいきました。人の目には、そんな弟子達よりは立派に見えます。しかし、その女性達は聖女であり罪はなかったとは聖書には書かれてはいません。彼女達もやはり罪人でした。神の前に、義人はいないのです。まず何よりも、聖書は、その現実を私たちに突きつけています。

3、「例外はいない:「自分に限ってはそんなことはしない」と言い切れるか?」

 もちろん、人間の理性や善を信じたい、自分はそんなに悪い人間ではないという人々の中には、自分は良い人間だから、意志も強いし罪も犯さないから、自分に限っては、彼らの様にはしないと言いたい人もいるかもしれません。しかし、もし自分が、これまでの自分の地位と行いに誇りとアイデンティティーを置いてそれを支えにそれを守って生きてきたユダヤ人宗教指導者としてその場にいたならどうでしょう?あるいは、日頃その様なユダヤ人たちに指導され、敬意を払うこと、従うこと、倣うことが当たり前の日常で、そのような社会的大多数の価値観の生活する一人であったならどうでしょう?大多数派の価値観や声に動かされず、自分は決して煽動されない、それでも否と言える自信がありますか?あるいは、ピラトのように実績と名声に支えられやっとつかんだ総督の座にありながら、その治める地のユダヤ人が暴動を起こさないようにしなければならない、実績に傷をつけてはならない、そんな立場で群衆が「イエスを十字架につけろ」と叫び続ける中でも、周りの声が望まない正しい判断をあなたは絶対することできますか?あるいは、上官の命令には絶対のローマ兵の立場であったならどうでしょうか?それでも、総督の決定、上官の命令に逆らってでも自分は鞭打たない、釘を打たないとあなたは断言できますか?そして、ペテロのような決心を持った強い敬虔な言葉を発しながら、自分もイエスと一緒に仲間として十字架にかけられるかもしれない恐怖の中、「あなたは仲間でしょう」と問われた時に、自分はそれでも弟子達のように逃げない、ペテロのように「知らない」と否定しないと言い切れ断言できる人がいるでしょうか?仮に断言できたとしても、実際にその場で、なんの躊躇いもなく、葛藤もなくそれを実行することができる人がいるでしょうか?私はその自信がありません。いや、たとえ、その様な、立場に置き換えるということがフェアではないとしても、しかし聖書は、まさに堕落の初めから、はっきりとその人間の罪の事実を、つまり、人は神のみ心、み言葉を、疑い、反対し、背くものであり、そして間違った道をいくものとなったことをはっきりと私たちに伝えているでしょう。神はノアの洪水の後に「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」(8章21節)と言っています。そして神の怒りを受けてなおも背いていく神の民の性質について、神は、イザヤを通して、こう言っています。イザヤ書57章17節(新改訳)

「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおもそむいて、自分の思う道を行った。

 そう、聖書が変わることなく何千年もそのようにはっきりと伝えてきた人間の事実、現実が、十字架の前にまざまざと実現しており、はっきりとしているのです。「義人はいない。一人もいない」そのことです。イエスが引き渡される時、イエスが自分で十字架を負う時、そこにはただただ人の罪が取り囲んでいます。人の罪が、救い主として、王としてこられた約束の救い主、御子キリストを拒むのです。そのように私たちの罪こそが、どこまでもキリストを拒み、必要ないとし、そして「十字架につけろ」と叫び、殺すのです。ここで見てきた罪深い一人一人は、、私たち一人一人であり、私たちの姿であり、私たちも御子キリストを拒み十字架につけた一人であり、そこに例外はないのです。もちろん、私自身もその一人であることをまずここから教えられるのです。

4、「福音の核心:何のために?何を成し遂げた?」 

 しかし、「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」、そして「何が成し遂げられ、何が完了したのか」その究極の答えもここにあるでしょう。イエス様は、マタイの福音書26章53節以下で、ペテロが剣を持って祭司の僕の耳を切り落とした時に「53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ26章53節)と言っています。しかしその後、こう言っています。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」と言っています。つまり、その取り囲む人間の圧倒的な罪を「天の軍勢を送って」断罪し火で焼き滅ぼすことができるけれども、しかしそれが神の御心、聖書の約束ではなく、その様にするのではなく、まさに「必ずこうなると書かれている聖書の言葉が実現する」ために、つまり、そう、これまでまっすぐと目をむけ弟子達にも伝えてきた十字架にかかって死ぬことのために。つまりその取り囲む彼ら、そして私たちの罪を全てその身に負って、私たちの代わりにその罪を報いを、裁きを、死を受けて、私たちを滅びから、永遠の死から、罪の報いから救うため、罪から贖うことをイエス様はどこまでも見ているし従っているのです。ヨハネ18章でも11節、イエス様はこのように言っています。

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と。この逮捕の前に、イエス様は園で祈っていたでしょう。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(26章39節)と。その祈りに対する父が与えてくださった答え、その杯は今、まさに表されたからこそ今こそそれを飲むべきではないかとイエス様はペテロに伝えていることがわかります。さらにヨハネ18章36節でも「36 「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

 とピラトに答えています。まさに神の与える杯、神の御心、それは、地上の国とは違う神の国をイエスは見ていて、この罪に溢れた裁判も断罪も、神の御心、杯として、黙って受けているでしょう。なぜですか?それはご自身がその人類の全ての罪を黙って背負って、十字架にかけられて死ぬためではありませんか。罪人が受けなければならないその十字架という刑罰と死、それは罪人である私たちが受けなければならない十字架であり、刑罰であり死のはずでした。しかしまさに、イエス様はこのように、人間の神への罪、敵意を一身に黙って受けて、十字架に従われることによって、人類の代わりに、つまりそこにいた全ての人々、そして私たち一人一人の代わりに、その罪の報いである、私たちが受けなければならなかった刑罰と死を受けられているのです。しかし、そのイエス様のこの十字架のゆえにこそ、神の御心は実現したことを聖書は伝えていますね?ヨハネはここで、「聖書の言葉が実現するため」(24節)「聖書の言葉が実現した」(28節)「聖書の言葉が実現するため」(36節)と繰り返しています。つまりこの福音書を記したヨハネもまさに、この十字架、この救いには、人の思いは一切ない、これは、神の御心が実現することなのだと繰り返していますが、その御心とは何ですか?それは遥か昔から神が一貫して約束されてことでした。創世記3章の約束もそうですが、イザヤを通しても変わることなく神はその身代わりの死による贖いの御心を伝えています。イザヤ53章

「5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。〜10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」

 と。みなさん、私たちを罪から贖う十字架の死はその変わることのない神の救いの御心の実現なのです。「完了した」「成し遂げられた」。何がですか?その神の御心がです。剣によってでも、革命や暴力によってでもない、天の軍勢の裁きによってでもない、神の御子が、神ご自身が私たちと同じ肉体を取り人となられ、私たちの代わりに、私たちが受けなければならない罪と滅びという大きな深刻な、そしてどうすることもできない問題、十字架の死を全て代わりに背負われて、死んでくださった。その十字架のゆえに神は変わることなく私たちに罪の赦しを宣言してくださるのです。私たちは神の前に圧倒的な罪の現実に絶望するしかありませんでした。しかし、その罪を認め悔い改めて十字架の前に立ち、その神の御子キリストの贖いは私のためであると信じるものは誰でも、その罪の赦しがそのままその人のものになるとイエス様は約束しています。誰でも悔い改める者に、イエス様は「あなたの罪はこの十字架ゆえにもう赦されています。だから心配しなくて良い。安心して行きなさい」と言ってくださるのです。その罪の赦しのため、その平安のため、安心のため、安心していくことができるその救いのために、「引き渡され」「自ら十字架を背負い」そして「完了した」「成し遂げられた」なのです。

5、「成し遂げられた:福音はまだ未完成で残りは人が完成させなければならない」ではない」

 そして大事なのは「完了した」「成し遂げられた」のですから、救い、罪の赦しは100%イエス様が果たしたということです。つまり、福音は未完成であり後はクリスチャンの努力で福音を完成させなければならないという教会もある様ですが、そんなことは決してない。福音や救いは、残りの半分は後は私たちが果たしてくださいというものでも決してないということなのです。「完了した」「成し遂げられた」とイエス様が私たちのために宣言してくださっていることは幸いです。福音というのはイエス様が完了し、完成してくださったものを、そのまま受け取るだけのものなのです。そのルター派の教えに対し、「福音の後にやっぱり律法の力や人間の数%の努力や意思の力も必要だ」と教える教会では「物足りない、だからルター派は弱いんだ」と言いますが、決してそんなことはありません。人間には決して実現できないことを成し遂げ「完了した」と宣言してくださったイエス様のその福音が何にもまして、人の思いを超えて遥かに力があることは明らかではありませんか?むしろ人の力ではどんなに立派な良い行いをしても敬虔そうに装えても限界があったでしょう?しかし、イエス様の福音こそ、逃げた弟子たちを命をかけた宣教師に変えました。迫害者でありパリサイ派であったパウロを、180度変えてイエスの福音に生き伝えるものにしたでしょう。それは人間の力や律法ではない、福音によって遣わされた平安な宣教の証しなのです。「未完成」ではなく「完了した」罪の赦しをはっきりと宣言され、その完全な罪の赦しを受けるからこそ、私たちは罪の赦しの確信をもち、救いの確信を持ち、安心していくことができるのです。

6、「結び」

 結びます。私たちが神の前にどこまでも罪人であることを知ることはとても大事な聖書のメッセージです。そんな暗い、人が聞きたくないことはやめて、罪とか悔い改めなど語るのはやめて、もっと明るいポジティブな愛とか成功とか繁栄とか語りましょう。もっと人が集まり人が支持するような万人受けするような教えで教会を沢山の人で満たしましょう。聖書の古い暗い、聞きたくない教えは蓋をしてもいいから、皆が受け入れやすい様に聖書を解釈して、今の社会風な教えと教会を変えましょう。そのように人間に都合のいいように方向転換する教会は少なくありません。事実、それが正義であるかのように讃えられ、罪と悔い改め、十字架の罪の赦しを説教することが時代遅れとか悪であるかのようにさえされます。事実、人の前では、その様な方向転換の教会が見た目は栄え、数的に大きくなるようなことはあるのです。しかし、人中心で神の言葉を再解釈することが堕落の初めであり、変わることなく自己中心、人間中心こそ、神を排除しようとする十字架を取り囲む人々に溢れていた罪の現実ではありませんか?それは現代においても、結局は、理性と感情とマンパワーによる教会へとなって行きますが、平安は無くなってしまします。それは世の与える平安は伝えられますが、イエスが与える平安は絶対に伝えられません。聖書はいつまでも変わらぬ真理と救いと真の平安を伝えています。私たちはどこまでも罪人である。しかしその罪のためにこそ、イエス様は十字架にかかって死なれた。それが御心であった。それが救いの「完了した」であったのだと。私たちが罪人であることがはっきりとわかり認め悔い改めに導かれるからこそ、聖書が伝える真の救い、十字架と復活にある、罪の赦しと新しい命の素晴らしさ、真の神の愛がわかります。それが私たちを平安にし、救いの確信を与えるのです。罪を知らされる、悔い改めに導かれるからこそ、そこに、真の天からのいのちの光、神の前に安心して歩むことができる平安な道が開かれているのがわかるのです。今日もイエス様は宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。ぜひそのまま福音を受け取り、安心してここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

牧師の週報コラム

フィンランドの幸福度とルター派キリスト教の関連性?

国連が毎年発表している「世界幸福度ランキング」で今年もフィンランドが1位になった。7年連続だそうだ。何を基準に幸福度を決めるのかというと、1人当たりのGDP、社会福祉、健康寿命、自由、寛容度、腐敗に対する認識の6項目についての評価だそうで、これらを基にした幸福度はフィンランドだけでなく北欧諸国が軒並み高い(デンマーク2位、アイスランド3位、スウェーデン4位、ノルウェー7位、日本は51位)。

北欧諸国と言えば、宗教は伝統的にルター派のキリスト教が主流である。それでか、北欧諸国の幸福さとか先進性とルター派には何か関連性があるのか、ルター派には国民を幸せに先進的にする要因があるのか、というような質問を時たま受けることがある。

それに対する私の答えは、物事はそんなに単純なものではないということである。まず各国のルター派教会の所属率だが、この30年位の間に急激に低下した。1980年代まではどこの国も国民の90%以上がルター派の国教会ないし中央教会に所属していた。ところが、昨年の統計ではスウェーデンは52%、フィンランドは62%まで低下。国内分布でも、ヘルシンキ首都圏では50%を切っている。ここまで落ちたら、法制度上特別な地位を持つ「国教会」の存在理由はあるのだろうか?(スウェーデンのは2000年に国教会をやめて一宗教団体になった。)

それから、フィンランドの話だが、国教会に属する人たちに、どのように信じていますかと聞くと、大半は教会が教えるようには(つまりルター派の信条集に基づいて)信じない、自分の信じたいように信じるという答えが返って来る。SLEYをはじめとする国教会のミッション団体の教会から一歩外に出れば、周りの普通の教会はそういう風潮に呑み込まれてしまって、ルター派の信条集どころか真に聖書に基づいて教えるところは少なくなってしまったと思う。国教会に属しているからと言って、聖書的、ルター派的とは限らないのだ。

他にもいろいろあるが、私の結論は、30年位前だったら国民の幸せ度や先進性の要因をルター派に探し求めても良かったかもしれないが、国民の教会離れ聖書離れがここまで進んだら、別の視点で考える必要があるだろうというものだ。

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