説教「教会の中でも隣人愛が増し加わるために」 吉村博明 牧師 、マタイによる福音書18章15-20節

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主日礼拝説教 2020年9月6日(聖霊降臨後第十五主日)

聖書日課 エゼキエル33章7-11節、ローマ13章8-14節、マタイ18章15-20節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所でイエス様は、あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか教えます。「あなた」と「あなたの兄弟」は両方ともイエス様を救い主と信じる者です。問題が当事者同士で解決できなければ教会に持ち込めと言っているので二人とも教会に属する者です。つまり、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者です。それでは、キリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯したら、どう対処すればよいのでしょうか? そもそもキリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯すとはどういうことでしょうか?

「罪を犯す」と言うと、何か犯罪を犯すみたいに聞こえますが、要は十戒の掟に示された神の意思に反することをしてしまうことです。本日の使徒書の日課ローマ13章でパウロは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟は一括りにすると「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」に尽きると言います(9節)。これと同じ教えは既にイエス様が教えていました(マルコ12章31節等)。パウロがイエス様の教えを忠実に受け継いでいるのは明らかです。隣人を自分を愛するが如く愛さない、つまり、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟を行為のみならず考えや言葉でも破ってしまうことが「罪を犯す」ということです。要約すると、「罪を犯す」とは神の意思に反することを行為、考え、言葉で表してしまうことです。本日の個所では、神の意思の中でも人間関係に関するもの、隣人愛が言われているのです。

ところで、「隣人」とは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、本当は自分が属している民族その他共同体の境界を超えた全ての人が相手になります。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。ただし、本日の福音書の個所の教えでは対象が絞られていて、信仰者が別の信仰者に隣人愛の掟を破ったら、どうするかということです。

2.赦された者として相手に赦しを願う心を呼び覚ます

まず冒頭の「兄弟があなたに対して罪を犯したら」について、聖書の訳によっては「あなたに対して」がないものがあります。つまり、「罪の犯し」が「あなた」を越えて第三者に及ぶのです。どうしてそういう違いがあるのかと言うと、古代の写本にあるものとないものがあり、どっちを元にするかで違いが出るのです。どっちを選んだらよいか困るところですが、本日の個所の後でペトロがイエス様に「私の兄弟が私に対して罪を犯したら何回まで赦してあげるべきですか?」と聞いているので、ここも「あなたに対して」で行きます。

さて、信仰者は隣人愛を破った相手に対してどう出るべきか?イエス様は、まず当事者同士で「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり伝えるべきと教えます。具体的な言葉遣いはこの通りでなくても、趣旨がきちんと伝わる言い方を考えます。まさに私たちの日本語の能力が問われるところです(私も含めて)。もし相手が「おっしゃる通りです、申し訳ありませんでした」と認めて赦しを願えば赦してあげる。相手は、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正したことになるので、信仰の兄弟を取り戻したことになると言うのです。

この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節の神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」を土台としています。罪を犯された信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で、こんちくしょう、あの野郎、と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと神に見なされてしまうというのです。相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたことになります。しかし、聞き従わない場合は罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人に責任はないのです。これと同じことが、本日の旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7-9節でも言われていました。「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち返るよう警告したのに、彼がその道から立ち返らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

以上から「二人だけのところで教え戒める」というのは、単に仲直りの手順ではないことがわかります。それは、隣人愛を破った者にそれは神の意思に反することだと気づかせて赦しを願う心を呼び覚ますように導くということです。信仰者はそういう導きをする大事な役割を持つということです。

さらに大事なことは、相手が気づいて自分のしたことを悔いて赦しを願う時は、信仰者は赦さなければならないということです。それも神の意思です。どうしてか?それは、神がイエス様を私たちに贈られたのは私たちが罪の赦しという恵みの中で生きられるようにするためだったからです。創世記の堕罪の出来事以来、人間には神の意思に反しようとするものが備わってしまいました。それを聖書は「罪」と呼ぶのですが、そのために初めにあった神と人間との結びつきが失われてしまいました。神は失われた結びつきを人間に取り戻してあげようと決めました。そうすれば人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去る時も結びつきを持ったまま去ることができ、復活の日には永遠に神の御許に迎え入れらます。それで、本当なら人間が受けなければならない罪の罰を御自分のひとり子に代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようにして下さいました。それが、ゴルゴタの十字架でイエス様が死なれたことでした。こうしてイエス様は私たちの身代わりとして死なれましたが、神は彼を三日後に死から復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る扉を私たち人間に開いて下さったのです。

そこで今度は人間がイエス様の命じた洗礼を受けると彼の死と復活に結びつけられて古い自分は死に新しい自分が生き始めます。この新しい自分は、罪は全てイエス様に償ってもらった、だから彼こそは真に私の救い主だという信仰に満たされています。こうして信仰者は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後も結びつきのゆえに復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるのです。

罪の赦しという神の恵みを受け取ってその中で生きるようになった者は、赦しを願う者に対して自分も神からしてもらった以上は赦してあげないといけないのです。あと、罪が何だかわからず赦しを願う心がない者に対しては神の恵みを受け取ることが出来るように祈り導いていかなければならないのです。

赦しを願う者を赦すというのは、その者に対して何か優位に立つということではありません。この自分こそが神から赦しを与えられた取るに足らない者であることに思い至らなければなりません。そして、赦すというのは、赦した後は罪は以後不問にするということです。ミカ7章19節に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあります。神が人間から罪を取り除くというのは、まさにこのことです。罪を神の意思に反することであるとはっきり言い、そこから赦しを願う心を呼び覚まして赦しを与えることで罪を消滅させていくということです。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

3.断罪はしない

イエス様の教えの次を見てみましょう。残念なことに当事者だけでは教え戒めることが功を奏せず、相手が耳を貸さなかった場合はどうするか?私は神の意思に反していない、君の方こそ過剰反応ではないか、話を捻じ曲げている、などと言った時です。その場合は、証人として信仰者の中から一人か二人呼んで、それはやっぱり神の意思に反することだったということを確認してもらうことになるとイエス様は教えます。この証人を立てるという教えは申命記19章15節の神の命令に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様が旧約の伝統の上に立っていることの一例です。

さて、証人から見てもやはり隣人愛を破ったと認めざるを得ないということになりました。これで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて信仰の兄弟を取り戻したことになります。でも、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は教会に委ねられるとイエス様は教えます。なんだか教会員全員の前で吊し上げするような感じがしますが、そうではありません。最初は当事者だけ、それがだめなら二人か三人の証言でと言っているように、イエス様の教えは罪を大っぴらにしないという方向性がはっきりあります。神の意思に反した者の神との結びつきを修復することが目的です。糾弾したり、ましては裁くことではありません。教会を代表する者が当事者と証人と話をすることになります。

そこで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。異邦人とは、天地創造の神を信じず、イエス様をこの世に送られた神を信じない人のことです。徴税人とは、当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の租税官吏となったユダヤ人のことです。彼らは権力を笠に着て同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしたので民族の裏切り者と見なされていました。神の意思に反したことを最後まで認めない、心が頑なな信仰者はこうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。果たしてそうでしょうか?

ここで、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」を注意して見てみます。ギリシャ語原文は次のような意味で書かれています。「その人は、あなたにとって異邦人か徴税人のようになってしまえ。」日本語訳の「見なしなさい」は害を受けた人にそうしろと言う命令ですが、そうではありません。三人称単数形の命令なので「なってしまえ」が正確です。「あなたにとってそうなってしまえ」と、「あなたにとって」と限定的に考えているのです。全ての人にとってそうだとは言っていません。しかも、「異邦人のように」なので「異邦人」そのものだとも言っていません。ここは断罪的ではないのです。それなので、問題兄弟と神との結びつきの回復可能性を考えることができます。実はこのことについて神自身が本日の旧約の日課エゼキエル33章11節で言っているのです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と。その一つ前の10節でイスラエルの民は罪の重荷の苦しみを述べています。民が自分たちの罪を認めた後で神はこのように裁きではなく憐みの言葉をかけて下さるのです!

それなので、隣人愛を破られた人は教会の訓戒が功を奏しなかった場合でも、あいつなんか最後の審判の時に地獄に堕ちてしまえばいい、などと呪ってはいけないのです。相手が気づいて悔い改めるように、証人になった人も教会の代表者も一緒に祈らなければならないのです。

4.使徒の権限

18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「あなたがた」とは、18章の冒頭から明らかなようにイエス様の弟子のことです。「つなぐ」「解く」という言葉のペアは、イエス様が話をしたアラム語の言葉のペア、シェラー、アーサルが土台にあります。意味は「禁止する」、「許可する」です。イエス様は以前16章で同じ「地上でつなぐこと、解くこと」を言い、それを彼をメシアと告白したペトロに委ねると言いました。今日の18章ではやがてイエス様をメシアと宣べ伝えることになる弟子たちに委ねると言っているのです。ペトロを中心とした弟子たち、すなわち使徒たちが教会を形成して、彼らがこの地上でダメと言ったり、OKと言ったりすることは天の国でもお墨付きを得るということです。なぜ使徒たちにこんな権限が与えられるのかと言うと、それは彼らがイエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になったからです。その後は迫害にも屈せず命を賭してまで見聞きしたことを証ししイエス様が救い主メシアであると宣べ伝える役割を担ったからです。イエス様の昇天の後、神の意思は何かを地上で明らかにする権限は彼らに委ねられたのです。

19節と20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神は叶えて下さるというような一見、願い事は何でも叶うと言っているように見えます。これも注意が必要です。これは今言った使徒の権限の続きです。19節の意味は原文を解説的に訳すと次のようになります。「お前たちのうち二人がこの地上で祈り求めようとする事柄全部について合意して祈り求めれば、それは天の父なるみ神のお墨付きを得て実現する」ということです。18節では使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言っていました。19節ではそのためには使徒一人ひとりが決めるのではなく二人以上が合意することが必要だ、そして20節でイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だと言います。願い事が何でも叶うということもあるかもしれませんが、全体の流れから見ると、信仰者同士のいろいろな問題について、何が神の意思に沿っているか、沿っていないかを明らかにしなければならない、その時、二人以上の使徒がイエス様の名前のもとに集まって合意して祈り求めたら、それは天のお墨付きを得たことになり、その通りになるという意味です。

5.勧めと励まし

そうすると、ここで言う「あなたたち」は使徒のことで、私たち信仰者への呼びかけではないのかという疑問が起きると思います。もちろん、私たちへの呼びかけでもあります。ただし、私たちには使徒のような権限はありません。ただ、それとは別に二人以上の信仰者が集まって祈り求めることはできます。例えば、本日の個所のように隣人愛を破って心を頑なにしている兄弟のような、当事者一人では解決できない課題です。そのような場合は別の信仰者に来てもらったり牧師のところに行って事情を話して理解してもらって一緒に解決を祈り求めます。第三者と話し合えば、祈るのに相応しい言葉も見つかるでしょう。この祈りは、掟を破った兄弟のためにもしなければなりません。

ここで見落としてはならないことは、二人以上が集まる時、「イエス様の名前のもとに」そうするということです。先の申命記19章15節では二人以上の証言をもって事の立証がなされるということでした。イエス様は、この二人以上の証人ということに「自分の名前のもとに」を付け加えました。罪を犯した信仰者を二人以上の証人をもって教え戒める時も、イエス様の名前のもとに集まることになります。このように旧約聖書の掟に「イエス様の名前」という新しい要素が付け加わりました。信仰者が集まる時、祈る時、イエス様の名前が付け加えられることで、集まる人たち祈る人たちはみんなイエス様のおかげで天地創造の神との結びつきを持てていることを確認、告白します。

こうしてみると、まだイエス様の名前がない旧約の時には神との結びつきを確認、告白しようとしても何か決め手がなかったことになります。まだ十字架と復活の前だから仕方ありません。イエス様の名前が付くと、彼の十字架と復活の業のおかげで神との結びつきが持てるようになったことがはっきりします。神が罪を海の深みに沈めると言うミカの預言も、それだけ聞くと神は憐れみ深い方だとわかりますが、どのようにしてそんなことが起きるのかはわかりません。ありがたくは聞こえますが、よく考えると漠然としています。それが、イエス様の十字架と復活の出来事があったので、もう考えるまでもなく神は本当に罪を海の深みに沈められたのだとわかります。それがわかれば隣人愛を破った兄弟に対する私たちの心も一気にそれに倣うようになっていきます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

歳時記

 

飛行機雲

〈13 すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。
    14 わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。 創世記9:13・14〉

朝の散歩で何時ものベンチに腰かけて空を見上げたら一筋の飛行機雲が丹沢の上空を西に向かって棚引いていました。よく見ると小さく機影も見えました、今季初めて見る飛行機雲です。上空の大気が寒冷化してきて冬の空になった証拠ですね。白州の家の上空は西に向かう定期便の航路になっていて滞在中はよく眺めていました。大きな青空をキャンバスにアブストラクトな白い線をいっぱいに描いているを見るのが楽しみでした。でも悲しい事に大空の絵は直ぐに風に流されてモヤモヤになってしましました。

 

歳時記

老鯉(LaoLi)

<9 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。10 「見よ、これは新しいものだ」と/言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。11 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。 伝道の書1:9、10。11>

「解剖台上のミシンンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」これは原作C.ボードレール(訳ロートレアモン)の「マルドロールの歌」の詩の一節です。この歌を切っ掛けに美術界に於けるシュールレアリスムの運動が始まりました。私の方は俎板ならぬ手術台の上に乗せられた老いた鯉と大きなモニタリング画面、それと対峙している二人の医師と手元の操作パネル。さらに二本の湾曲したアームが天球儀のように下の装置を覆いかぶさるように据えられています。その真下に老鯉が一匹横たわっています。やがて二本のアームが忙しく動き出したました。一本は縦方向に他の一本は横方向に動きます。それぞれにアームにはセンサーパネルが取り付けられています。突然、天頂からセンサーが私目掛けて急降下してきました。額の数センチ手前でピタリと止まりまたすぐ天頂目掛けて移動して行くと今度は横から滑るように他のアームが伸びて来て私の胸の辺りでピタリと止まりまたすぐに横にスライドして行きます。二本のアームが上下左右に天球儀の表面なぞる様に移動しながら私の胸の辺りを探っていました。やがて全てが止まり静寂の中で二人の医師が何やらぼそぼそと会話しています。思えばこれとよく似た装置がウクライナの戦場でも活躍しています。大きなモニタリングは小さなノートパソコンのサイズに、操作パネルは玩具のコントローラーに医師の代わりに兵士が、センサーパネルはカメラと爆弾を携えたドローンに老鯉の代わりに互いの戦車や兵士です。一方は人の命を救うために、もう一方は殺戮と破壊を目的に。なんと不条理な世界でしょうか。老いた鯉は手術台の上で大人しくなされるままに横たわっていました。会話が終わると再び天球儀が忙しなく動き回りました。暫くしてまた全てが止まって今度は胸の辺りに何か熱い物が注入されたような感じがしました。全てが終わり医師が私の所へきて13本目のステントが所定の位置におさまった事を告げてくれました。13本、凄いですね内訳は脳に8本、首(頸動脈)に1本、冠動脈に4本です。我ながら凄いなと感心していました。冒頭に載せた歌は偶然の出会いに美を感じさせていましたが現代の偶然の出会いに美を感じるでしょうか。ドローンに出会った兵士は死の恐怖を感じますし手術台に横たわった老鯉もまた恐怖を感じていました。(今回は此処まででこの後の集中治療室での修羅場についてはまた機会があればお話したいと思っています。)

 

 

2026年8月30日(日)10時半 聖霊降臨後第十四主日 礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年8月30日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書16章21~28節

説教題:「イエス、死と復活を予告」

今の時代”人生百年”と言われます。戦後の日本、敗戦直後の物のない時代でも人生五十年、或いは六十年とも言われていましたが今や百歳になる老人が彼方此方です。考えて見ると、自分の人生何年とか自分の未来に何時この世での終わりを迎えるのか誰にも決められないし又自分の運命など何もわからないのです。ところで、今日の聖書で主イエス様は驚くなかれ、これから自分がどういう苦しみの中で死んでゆくのかという事を弟子たちに予告されているのです。

マタイ福音書16章21節から見ますと。「この時からイエスはご自分が必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され三日目に復活する事になっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」これを聞いた弟子たちはもう吃驚です。誰が考えても当然でしょう。弟子たちは自分たちのこれまでの人生を、つまり職業を捨て家族を捨て収入もないこれからどうなってゆくかも分からない自分全てをイエス様に預けて弟子となったのです。全てをかけて頼りにしている主人、師匠がもうすぐエレサムで苦しみを受け殺されると言うのですから決してそんな惨い事があってはならないと大変な驚きともう反発でしょう。イスラエルの民を苦しめている権力者たちと戦って/\死んでしまうんだと言うのとは全く違う。イエス様はどのようにして、誰によって殺されるのかと言う事まで具体的に弟子たちに自分の運命を示されたのです。これまでイエス様を中心に弟子たちがやっている事、民衆の病を癒し考えらえない奇跡の業を起こして神の力神の業を示してゆかれる感動的な神の国の教え。これを見て聞いた大勢の群衆がイエス様について行っている。この大衆の動きを一番恐れて見ているユダヤ教の指導者とローマ帝国の皇帝たちからイエスを殺そうと命を狙っている連中から間もなくエレサムで殺されるんだ!イエス様ご自身がその事を分かって弟子たちに告白し弟子たちに覚悟を決めさせておられるわけです。イエス様のなさっている教えや業が余りにも活動が大きくなりそのうちに民衆の暴動が起こりかねない、といったローマ帝国の権力者たちの恐れと言った事より、もっと/\大事な事が此処で展開されているのです。暴動の社会民衆の動きよりイスラエルの民が長年待ち望んでいた救い主メシアこそがイエス様ではないかという問題です。弟子たちでさえイエス様の姿と活動の全ての中に我らの真の救い主メシアであられると内心期待していた事でしょう。

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今日の聖書の箇所の前のところの16章13節以下のところで「イエスはフィポ・カイサリア地方に行った時、弟子たちに『人々は人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」人々の言っている事を聞いて15節にイエスが言われた「それではあなた方は私を何者のだと言うのか」。シモン・ペテロが「あなたはメシア生ける神の子です」と答えたのです。それに対して20節を見ますと、「それからイエスはご自分がメシアである事を誰にも話さないようにと弟子たちに命じられた。」とあります。そうして今日の聖書でイエス様の運命の予告です。ですから弟子たちも皆んなイエス様こそメシアであられる、とこれからのイスラエルの救いを期待していたところへ、いきなり自分は苦しみを受け殺されるのだと言うのですからペテロをはじめ弟子たちはもう吃驚です。16章22節以下に「するとペテロはイエスを脇へお連れして諫め始めた。『主よとんでもないことです、そんな事があってはなりません。』ペテロはイエス様を「メシア、救い主」と告白したのです。イエス様に予告されてもイエス様の言葉を理解せずイエス様が受難の道に進まれる事を阻止しようとしました。それは主イエス様の道行きがペテロたちが期待したメシアの道とはあまりにもかけ離れたものであったからでありましょう。23節を見ますと、イエスは振り向いてペテロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神の事を思わず人間の事を思っている。」と。主イエス様はこのように厳しくペテロを叱りつけられています。何故、このような言葉で言われたのか、次の24節以下で言われている「私について来たい者は自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが私のために命を失う者はそれを得る。」と言って、ペテロに対して此処までの言葉を言って叱っておられるのです。「あなたはメシアです」と告白したペテロにそように告白する事も大切な事は確かですが自分の事を誰にも言うなと厳しく戒められた。その意味は主イエス様が更に言われている。「自分を捨て、自分の十字架を負って主に従うのでなければ軽々しくそのような事を口にするな」。このように仰せになっているのです。「サタンよ、引き下がれ」と厳しく叱られたペテロに更に言われる。口先だけの告白でなく人の子であるイエス様の苦難の道を死に至るまでペテロも共にする事をイエス様はペテロに求めておられるのであります。「自分を捨てて、自分の十字架を背負え」と言うのは自分を否定せよ、自分に死ねと言う事であります。パウロの言葉で言えばそれは霊の導きに従って生きる事であります。ガラテヤの信徒への手紙5章22節~25節で次のように言っています。「霊の結ぶ実は愛であり喜び平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。キリスト・イエスのものとなった人たちは肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。私たちは霊の導きに従って生きるなら霊の導きに従って前進しましょう。」弟子たちの実際の望みはメシアであられるイエス様に苦しみの中にあるユダヤの民を開放してくださる事であったのです。それをイエス様は私と共に苦しみの道に従って来いと説得しておられるのです。私のために命を失う者は永遠の命を得るのだ。26節「人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか」最も大事なことは27節で言われます。「人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来るがその時、各々の行いに応じて報いるのである」だから、この世にあっては辛い言葉でも「自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい」このことは主イエス様のために、また福音のために命を失うこと、それはイエス様に従うことです。

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みんなが牧師になれと言うのではない。キリスト者は皆、主イエス様のため、福音のため、イエス様を証しする事であり人生の究極の目的とする事です。何故、この事をイエス様は私たちに命じられるのでしょうか。それは、この事こそが命を救う事に通じるからであります。この命はもはや単なる自然的生命ではありません。死によっても途絶える事のない新しい命であります。パウロはロマ書6章4節で次のように言っています。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られその死に預かる者となりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように私たちも新しい命に生きるためなのです。」その新しい命を死に打ち勝って甦り給うた主イエス様が与えて下さるのです。受難の主イエス様に従う者の道は世の目には受難の道でしかありません。しかし、主イエス様のため、福音のために命を捨てる者はそこで新しい命を与えられる事を知らされ驚きと感謝であります。それはまた、主イエス様の十字架の死に根底から支えられている事を知っている人生でもあるのです。

人知ではとうてい測りに知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

2026年8月23日(日)10時半 聖霊降臨後第十三主日 礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2026年8月23日スオミ教会礼拝説教

マタイによる福音書16章13−20節

説教題 「信仰も教会も宣教も律法ではなく福音」

田口 聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

1、「今日のメッセージ」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 今日の福音書は、信仰は律法ではなく、恵みであり福音であるということ。教会も律法ではなく、恵みであり福音であるということ。そして宣教も律法ではなく、恵みであり福音であることを教えてくれています。

2、「人々はイエスが生ける神の御子キリストと告白できない」

 イエス様は弟子たちに尋ねるのです。13節からですが、

「13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。」

 「人の子」と言う言葉は、イエス様がご自分を言い表すためによく用いている言葉です。福音書以外ではあまり見られませんが、福音書ではおよそ80回も用いられています。イエス様は真の救い主であり真の人であることを示す言葉でもあります。イエス様はここでご自身について人々はどのように言っているのかをまず尋ねるのです。弟子たちは答えます。14節

「 14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 」

 世の人々は、イエス様が病気の人々を癒したり、悪霊を追い出したりしたことはよく知っていました。5千人以上の人々を5つのパンと2匹の魚だけで養ったことも知っていました。あるものは直接、それらを見たり聞いたりしたことでしょう。だからこそ人々はイエスのもとに集まってきていましたし、そこでイエス様が語る神の国の福音を聞いたのでした。

 しかし群衆の多くの人々は、イエスを真の救い主、神の御子であるとはいいませんでした。彼らにとってはイエス様は、洗礼者ヨハネに並ぶもの、あるいはエリヤやエレミヤなど旧約の偉大な預言者の一人としてしか見ることができませんでした。確かに彼らは偉大な預言者であり尊敬されていました。しかし彼らは神でも救い主でもありませんでした。彼らは皆、私たちと同じ罪人でした。人々のあるものは、ヨハネにせよ旧約の預言者たちにせよ、彼らを神に遣わされた存在として見ていたでしょう。彼らはイエスを見てもそのような存在とは見ていたでしょう。しかし、イエスこそ真の神が約束し指し示してきた真のメシアであると誰も告白できなかったのでした。

3、「弟子たちの告白」

 しかしイエス様は弟子たちに問うのです。15-16節

「15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

A,「「あなたはメシア、生ける神の子です」の告白は経験や能力の度合いによる?

 イエス様は今度は弟子たちに聞くのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 それに対して、弟子のリーダー的な存在であったペテロが答えるのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」。

 弟子以外の人々は、イエスは真の救い主とは答えることができませんでした。しかしペテロは答えることができました。ではなぜペテロはそう答えることができたのでしょうか?それはほんのわずかな期間、イエス様と一緒に歩んできたのでわかってきたからなのでしょうか?そのように徐々に学んできたからなのでしょうか?そしてそれはペテロや弟子たち自身にそのように学ぶ力があり、そのように告白する力があったからなのでしょうか?人の目には確かにそのように見えるかもしれません。何か人間の側で説明できる、時間の長さとそれに関係する理解力など、物理的なものの蓄積が、つまり人間に経験や能力の度合いが高まることによって、このような告白に導いたのだ。そう見えるかもしれませんし、そのように教える説教もあるかもしれません。

B,「人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 しかし、この後、そのことについて、そうではないことをイエス様がはっきりと答えているのです。17節

「 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 イエス様は言うのです。

「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 「ペテロ、そのわたしを生ける神の子、救い主と告白するその信仰の告白をあなたに現したのは、あなた自身から出たものではないのです。わたしの天の父によるもの、その信仰告白は神があなたに現したものなのだ。」それがイエス様が伝えた真実でした。ペテロも他の弟子たちも、まわりの人々と何ら変わりません。長く過ごした中で、彼らが経験を通して自分たちで理解力を養ってきて自分でその知識に至った、彼らにはそのような力があった、周りの環境や経験がそうさせた、と言うことではないのです。彼らも、天の父によらなければ「あなたはメシア、生ける神の子です」とは決して告白できないのです。確かにペテロの口からその言葉は出ました。そう、信仰の告白は人の口から出てくるものです。その通りです。しかし、そうであっても、その告白は人の力によって現されるものではないとイエス様ははっきりいうのです。事実、弟子以外の周りの人々もイエス様を体験してきたのです。しかしできなかったでしょう。弟子たちも彼らだけではそれと変わらないのです。しかし父なる神が弟子たちに現してくださったからこそ、ペテロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのです。それが神の前に真実なことなのです。もちろん、共に過ごしてきたことは関係ないと言うことでありません。しかし、それはその共に過ごしてきた時間で、弟子たちが自らの力で学び理解してきたということではありません。「人間ではなく」とある通りに。共に過ごしてきた時間に、イエス様が自らでは悟ることも信じることもできない弟子たちに、そのみ言葉と聖霊を通して働いていたからこそ、この告白に神が導いて神が現したと言う意味で、この共に過ごした時間は意味と価値があったのです。

C,「信仰は神の賜物。行いによらない」

 そう、これはパウロが教えていることに一貫しています。エフェソ2章8−9節

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」

 信仰は、私たち自身から私たちの力で信じるようになったと言うものではないのです。信仰は律法ではないのです。信仰は、恵みとして神から与えられた神の賜物なのです。信仰が神の賜物であり恵みであるからこそ、そして聖書がそう約束しているからこそ、私たちが「信仰によって救われた」と言う時に、それは確かに恵みによって救われたと確信を持っていえるでしょう。もし信仰が自分たちの力で信じなければならない律法であるとするなら、みなさん。救いは人のわざになってしまいますよ?全ては私たちの力、私たちの努力になりますよ?それだと、教会で「救いはキリストの恵みです」と何度教えられても矛盾するのです。信仰は律法ではなく賜物、恵みであり、律法ではなく福音であるからこそ、私たちの救いは神の恵みによるのだと証しできるのです。そのような信仰、そのような信仰告白が、私たち自身からではなく、神が私たちにも恵みとして現してくださっている。これまでも。今日のこの日も。そしてこれからも。素晴らしい事実ではありませんか。まさに私たち自身には起こり得ないことが、私たちに起こっている。これは正しく神の奇跡です。神の奇跡が私たちに正しく起こっているのです。

4、「信仰告白の上に、主の教会を主ご自身が建てる」

 そして、イエス様の教えはさらに恵みの上にさらに恵みを伝えています。18節以下

「 18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」

 イエス様は、わたしは「この岩の上にわたしの教会を建てる」といいます。この岩の上とは、ペテロ一人を指す言葉ではありません。ペテロは確かにリーダー的存在であったかもしれません。そして、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネをとりわけ愛したと、確かにあります。しかし、12人の中でペテロだけ別格の地位を与えたわけではありません。イエス様は12人の使徒を任命し遣わしたのでした。悔い改めず自ら命を絶ったイスカリオテのユダの後にマッテヤが建てられ、その12人を、使徒として遣わし、その使徒たちの上に教会が始まっていきます。ペンテコステの朝、説教をしたのはペテロでしたが、12人が異国の言葉で話しました。そのようにまさに教会と宣教は父なる神、イエス様と聖霊によって、ペテロをはじめとする12人の、神から現された岩のごとき信仰告白の上にはじまっていくのです。

 皆さん、私たちの教会と宣教。それは、人のわざではなく、キリストが教会を建てるのです。教会は人の作り出す組織や建物ではなく神の賜物の上に神が建てる神の恵みなのです。ゆえに、その宣教も神の宣教、キリストの宣教であり、キリストの福音の力が全世界に広がっていく神の恵みの現れなのです。なぜならイエス様が、使徒達に現した信仰の告白の上に自ら教会を建てられるとイエス様が言っているからです。

 同じように私たちの信仰告白も、私たち人間の力によるものではなく天の父によるものです。読んでいただいた今日の使徒書の箇所、ローマ12章でパウロは確かに「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と言っています。しかしそのところでパウロは「献げる」と言うことを、律法としての信仰のわざとして教えていないでしょう。3節では「わたしに与えられた恵みによって」とあり「各自に与えてくださった信仰」とあるでしょう。そう私たちは応答していきます。信仰によって生きます。しかしその信仰は決して律法ではありません。信仰は自分で掴んだり作り出したり達成したものではない。それはできないのです。聖書が約束する通り、信仰はどこまでも賜物であり恵みであり、信仰は律法ではなく福音なのです。イエス様はその御自身が与えた信仰の上にご自身の教会をイエス様が建てると言われているのです。そしてそれはイザヤでも約束されていることです。今日の旧約聖書のイザヤの言葉。そこで主はイザヤを通して、「あなた方が自分で平安を得なさいとか、自分で荒野を楽園にしなさい」とは決して言っていないでしょう。イザヤ51章3節「主が慰める」と言われる。「主が」荒野を楽園にすると言っているでしょう。主が私たち人間の力によるものではなくどこまでも、「わたしに聞け、耳を傾けよ」と主がその言葉で「主に始まり主がなす」と約束している、だからこそ6節「わたしの救いはとこしえに続きわたしの恵みの業が絶えることはない。」と励ますことができるでしょう。これが教会に約束されていることなのです。その変わらぬ神の恵みと真実があるからこそ、イエス様はそれは黄泉の力も対抗できないと言い、つまりその教会の歩みも、全て主が助け、守り、すべて与えてくださることを伝えているのです。

5、「鍵の権能」

 そして、イエス様は教会に「鍵を与える」といいます。権能を与えると言われます。皆さん、教会の福音のわざ、教会が何であり、教会が何のために存在し、教会が何をなすかわかりますか?もちろん、隣人愛も大事なこと。社会で良いわざをしていくこと、困った人を助け、弱った人を力付けることも教会において大事なことです。しかしそれは世の人々や教会以外の様々な団体もするようなことです。しかしクリスチャンの良きわざは、単なる熱心から出る人のわざとは違います。エフェソ2章10節に「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」とあります。その言葉の通り、教会の真の良いわざとは、主が与えて下った福音と信仰から溢れ出る主のわざであり、私たちはそのために用いられている存在。主が与える福音によって力を与え、主が私たちを用いて主のわざを行なっているのです。だから、私たちは自分を誇りません。イエス様は

「良いことをしても「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17章10節)

 と言っています。そう、真の良いわざは、福音と信仰から溢れ出る神が私たちになさる信仰のわざです。イザヤはさらに切り出された岩、アブラハムとサラを見よといいます。二人はまさに罪人に与えられた信仰とその恵みの歩みの記録であり、その賜物としての信仰のゆえにアブラハムはその信仰を義と認められました。私たちと同じ罪深い人間が、神からの信仰を受けて歩んだ証です。同じように私たちも神から福音を受けるからこそ私たちの信仰からもその福音の証しが溢れ出てくるのです。ではその受ける福音とは何か?それはまさに、ここにある通り、罪の赦しです。教会に与えられた鍵とは、罪の赦しの宣言です。私たちはまさに教会においてイエス様によって罪赦されたからこそ救われた。教会を通してイエス様が私たちを罪から解いてくださった。罪の縄目から。鍵の権能を用いて。洗礼において、説教で、聖餐で、「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」とイエス様が言ってくださり、罪の赦しを与えてくださり、それを受けるからこそ私たちは喜んで、この素晴らしい平安を喜びを、神の愛を、罪の赦しを隣人に分かち合い与えたいと出ていくことができます。それは人間の自分中心な愛ではありません。本当の隣人愛となっていきます。その全ての源は私たち自身にはありません。この十字架、この罪の赦しの福音からこそ宣教も隣人愛も溢れ出てくるのです。だからこそイザヤを通して主は「わたしにきけ」と言っているでしょう。パウロも、「神に喜ばれる聖なるいけにえ」と言っています。神が喜ばれる生贄は、前回の通り、砕かれた悔いた心でそのまま福音を受け取る信仰だと学びました。ですから、このローマ12章の言葉は、律法のようで律法ではない。これが可能になるのは、まず福音をそのまま受け取るからこそ、このことは可能になるのです。だからこそパウロは「与えられた恵みによって」と繰り返し述べていることを忘れてはいけません。決して私たちの意志の力とか私たちが搾り出す努力とかでこれをしなさいと言っているのではないのです。どこまでも真の生贄、砕かれた悔いた心で、神の憐れみを、十字架の罪の赦し、福音をそのまま受け取ることから始まります。その信仰、信頼からこそ、この真の礼拝、神が喜ばれること、良いことがわかり、各々が与えれれた賜物に従って、強いられてではない、喜んで、平安のうちに隣人に仕えていくことができ証ししていくことができるのです。それは律法ではなく福音から溢れ出る泉です。それがイエス様が私たちに与えてくださった信仰告白の上にイエス様が建ててくださっている、真の教会の姿であり現実なのです。

 今日もイエス様は私たちに変わることなく福音を差し出し、そのまま福音を受けるように、宣言してくれています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。主が用いてくださいます。ぜひ平安のうちに今日もここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

歳時記

サンゴジュ

〈主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 へブル書13:5〉

教会の近くの鶴巻公園にサンゴジュを見つけました。卒業後、憧れの設計事務所に入り初めての住宅の設計を任されました。図面が完成した後でクライアントの奥さんから生垣には何が良いか尋ねられました。咄嗟だったのでまごついていましたらすかさず脇から上司がサンゴジュが宜しいでしょうと言いました。この時初めてサンゴジュの木を知りました葉が大きく密生していますので目隠しにもなるので生垣に適しています。以来、個人的には好みの木ではありませんでしたが久し振りに見たサンゴジュはオレンジ色の実をたわわに実らせていました。今まで見たことのないサンゴジュの姿に改めて興味が湧いてきました。当分、この道を通って教会通いが続きます、サンゴジュとの再会が楽しくなりそうです。

 

歳時記

臭木(kusagi)

〈43悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。
44 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。ルカ6:43,44 〉

散歩道の途中の藪の手前に白い小さな花をいっぱいつけた木があります。時々立ち止まって観察しています、近寄って花の香りを嗅いだら香水の香りによく似た香りでジャスミンの香りでした。調べてみたら「臭木(くさぎ)」と言う木でした。藪の所に最初に侵入する先駆植物です、この木も藪の先端に生えていました。花が終わると丸い小さな黒い実をつけます、根元の赤いガクと黒い実のコントラストは鳥たちの格好の餌のシグナルとなって多くの鳥たちがやって来ます。秋の林を歩くとこの実によく似たゴンズイと言う木を見かけます。樹木も子孫を残すために色々な工夫を凝らしていますね。ところで、木の名前の「臭木」は枝や葉を傷つけると強い不快な臭気を発することからつけられたようです。

 

歳時記

鉈の思い出

〈わたしはいにしえの日を思い出し、あなたが行われたすべての事を考え、あなたのみ手のわざを思います。 詩編143:5〉

先週の話の中に鉈が出てきましたがあの鉈にも苦い思い出があります。鶏の首を切り落として変な勇気が出たのか一年坊主の私はやたらに鉈を使うことを覚え振り回していました。或る日、何を切ろうとしていたのか覚えていませんが何かを押えて鉈を振り下ろした先に左手の親指がありました。小学一坊主の親指はあっけなく切られましたが幸い鉈の刃はなまくらだったので切断には至らずに皮一枚でつながっていました。母は血の滴る指を手拭いで縛り学校に駆けつけました。幸い校医がいて見てくれましたが指が小さすぎて縫うこともかなわずに広い部屋(講堂?)に腹ばいにさせられて母と医者に押さえつけられて親指に注射(麻酔?)を打たれて何やらやっていましたが痛くて思い切り泣きわめきました。漸く治療が終わり消毒して包帯でぐるぐる巻きにしておしまいでした。八十五歳になった今でも両手の親指を並べて見ると左の親指の先端に小さな突起が見えます。この小さな突起は小学一年坊主の時の私の親指の名残です、小さな指をしていたなと今でも時々眺めています。

 

歳時記

 

小綬鶏(コジュケイ)

〈 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。

                                                   ソロモンの雅歌2:12〉

朝の散歩で桜美林教会の生垣まで来ると時々、鳩より少し大きい二羽の鳥を見かけます。コジュケイではないかとカメラを用意すると、すうーっと生垣の中に消えてしまいます。撮るのが難しい鳥ですが鳴き声はけたたましく「チョットコイ /\」と叫ぶように啼いています。過日、教会の門の所で捜していたコジュケイと思しき二羽がいました。彼らも驚いたのか慌てふためいてうろ/\していました、これ幸いと撮った写真がこれです。敬愛する太田愛人牧師のエッセイに清泉女子大に講演に行った折に鴨料理を伝授しようと思ったが生憎鴨が手に入らず困っていたら外の方からチョットコイ /\と呼ばれたので行って二羽のコジュケイを捕まえて来てコジュケイを捌き鴨料理を始めましたら回りにいた女子大生が可哀そうと言っていましたが料理が出来て食べ始めると美味しい/\と嬉しそうに食べたそうです。コジュケイを見るとこの話を思い出しています。

 

牧師の週報コラム

アウグスブルグ信仰告白20条と現代(その3)

私は、アウグスブルグ信仰告白20条は内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、500年近く経った今でもそうしたことを考える材料として有用ではないかと思います。同告白のフィンランド語訳を読んだ時にそれを強く感じました。それで今回、同20条をフィンランド語訳に基づいて、ラテン語原文をチラチラ覗きながら訳してみました。紙に書いたものをコーヒータイムの時に読み上げます。(このコラムの後に添付します。)

殆どはフィンランド語訳に引きずられた訳ですが、ラテン語に関していくつか申し上げますと、

・ bona opera「善い行為」は、先週のコラムで述べたように、「御心に適う行為」と意味を特定化しました。

・ 17項のcertamen perterrefactae conscientiae「恐れ脅える良心の戦い」は何を意味するのか?良心の平安を得るための戦いではないかと考えて解説的に意訳しました。

・ 36項のprimi aut secundi praecepti「第一あるいは第二の掟」は、イエス様が十戒を二つにまとめたもの、神を全身全霊で愛するという掟と隣人を自分を愛するが如く愛するという掟のことと解しました。

・ あと、最後の歌ですが、ラテン語版とフィンランド語訳では内容が異なっています。フィンランド語訳の解説によると、歌はVeni Sandte Spiritus(来たまえ、聖霊よ)の一つのバリエーションとのこと。ラテン語版の方は、聖文舎の日本語訳がそれで、同じ歌の一部とのこと。どうして違う内容なのかは調べていないのでわかりません。紙には両方載せておきます。

20条にはよく、恐れる心、脅える良心、脅える魂などと、平安が失われた状態の問題が出てきます。これは、一義的には、神の意思に反するもの、罪が自分にあることを自覚して、神の怒りや裁きを恐れる心を意味します。そのような心は、イエス様の十字架と復活の業を信じて自分のものにすることで平安を得ます。それでは、罪以外が原因で心に平安がなくなった時は、どうなるのか?私は、これもイエス様の十字架と復活の業が平安を与えてくれるものであると考えます。私たちは、罪と関係なくて困難や苦難に見舞われて、心が心配や恐れに覆われてしまった時は、神は目を注いでくれない、私のことを無関心でいる、神は私に背を向けた、という疑いを持ちます。しかし、その場合でも、イエス様の十字架と復活の業を信じて自分のものにすることができれば、まず、そういう疑いはなくなります。そして、試練は神と一緒に通り抜け乗り越えるプロセスに変わります。

 

アウグスブルグ信仰告白 第20条 信仰と神の御心に適う行為について

1)彼ら(ルターの改革に賛同する教師たち)が神の御心に適う行為を禁じているなどと言って我々のことを非難するのは間違いである。

2)彼らが、いかなる生活の仕方や行為が各人の召命において神を喜ばせるものであるかを説明する時、あらゆる生活様式と義務について有益な仕方で教えきたことは、彼らの十戒について論じた書物や同じテーマに属する他の書物が証明している。

3)これらの事柄について、説教者たちは以前はほんの少ししか教えなかった。彼らはただ子どもじみた不必要な行為を勧めてきた。定められた聖日を守ること、特別に決められた断食、同胞団の結成、巡礼、聖人崇拝、ロザリオの使用、修道院に入ること、その他類似の事柄がそれである。

4)こうしたことについて、我々に反対する者たちは注意を喚起されてきた。彼らは今ではこれらのことを止めつつあり、もはや以前のようにはこれらの無益な行為について説教することはなくなった。

5)彼らはまた信仰について語り始めるようになった。それについては、驚くべきかな、以前は彼らは沈黙していたのだ。

6)彼らは、我々は行為のみによっては義なる者になれないと教えている。しかし、彼らは、信仰と行為を結びつけて、我々は信仰と行為によって義なる者になれると言っている。

7)この教理は、彼らの古い教理よりは許容できるもので、またより多くの慰めを与えてくれるものである。

8)教会の中心的な教理でなけらばならない「信仰の教理」がこれほどの長い間忘れ去られてしまったため、- 説教では信仰による義認が完全に沈黙させられ、代わりに「行為の教理」が教会内で多すぎるほど論じられてきたことは全ての者が認めなければならない - そのために我々に属する者たちは信仰について諸教会に次のように注意を喚起してきたのだ。

9)第一に、我々の行為は神との和解をもたらすことはできず、また罪の赦しや恵みや義を見返りとして得させることもできない。我々がそれを達成できるのは、キリストのおかげで我々は恵みの中に受けいれられると信じる時、まさにその信仰を通してのみ達成できるのである。そのキリストは、唯一の仲介者、和解の道具として立てられた方であり、彼を通してでなければ父なる神との和解は得られないという方なのである。

10)それゆえ、行為によって恵みを見返りに得るということに信を置く者は、キリストがご自分について「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)で言っているにもかかわらず、彼こそが見返りであることと彼の恵みを排除し、神のもとに至る道をキリストなしに人間の力で探し求める者である。

11)この「信仰の教理」はパウロがいたるところで論じているものである。「あなたがたは恵みによって信仰を通して救われたのである。救いはあたたちから出てくるものではない。神の贈り物である。行為から出てくるものではない」等々(エフェソ2章8節)。

12)誰も我々がパウロの新しい解釈を作り出したなどと非難する口実を得ることができなくなるために、この教理の全ては教父たちの証しの中に土台があることを示そう。

13)アウグスティヌスは多くの書物の中で行為の見返りの役割に反対して、恵みと信仰による義が正しいと論じている。

14)アンブロシウスも著書『異邦人の召しについて』やその他のところで同じことを教えている。同著書の中で彼は次のように言う。「義認は恵みによって起こるものなのに、もし前提にあるのだと言って行為の見返りということに依拠してしまったら、キリストの血による贖いは無価値になり、神の赦しの憐れみは人間の行為の陰に隠れてしまうであろう。そうすることで義認は与える方が見返りなど無関係に自由に与える贈り物ではなくなり、行為者が見返りに得る報酬になってしまうのである。」

15)この教理はたとえ信仰の経験の浅い者からは軽蔑されても、敬虔で神を畏れて震える良心は、まさにそれこそが最大の慰めと励ましを与えてくれると経験を通して知っているのだ。なぜなら、良心はいかなる行為をもってしても平安を得ることはできないからである。そうではなく、キリストのおかげで神との関係が保たれていると良心が本当に納得した時に、この信仰を通してのみ平安を得ることができるからである。

16)パウロは次のように教えている。「われわれは、信仰によって義とされたのだから、我々には神と平和な関係がある」(ローマ5章1節)。

17)この教理全体は、恐れ脅える良心が平安を得るための戦いの武器としてあるのであって、その戦いがなければ把握することができないものである。

18)それゆえ、信仰的に無経験な人々または世俗的な人々がキリスト信仰の義は社会正義ないし哲学が構築する正義以外のものではないと夢想する時、自分たちの粗悪な理解力を露呈するのである。

19)良心は以前、「行為の教理」に煩わされていて、福音から何の慰めも励ましも聞くことができななかった。

20)そのような良心に駆りたてられて、ある人たちは荒野へ行き、あるいは、修道士の生活をすれば見返りに恵みを得られると期待して修道院に入った。

21)別の人たちは、恵みを見返りに勝ち得て罪を償うことができるための別の行為を考案した。

22)それゆえ、このキリストを信じる「信仰の教理」を提示し新装することは真にもって必要不可欠だったのである。それは、恐れ苦しむ良心から慰めと励ましが欠け落ちてしまうことがないようにするためであり、恵みと罪の赦しと義はキリストを信じる信仰にあって得られるということを良心が知るためであった。

23)さらに人々の注意を喚起しよう。「信仰」という言葉は単に歴史的知識を意味するものではない。そのような知識は神を信じない者や悪魔でさえ持っている。「信仰」は歴史的出来事に向けられるものだけでなく、それらの出来事の効用、すなわち罪の赦しの表明にも向けられる信仰を意味する。この教理によれば、キリストを通して我々には恵みと義と罪の赦しがあるのだ。

24)さて、キリストを通して自分には恵み深い父があると知っている人は、本当に神のことを知っているのであり、自分が神に世話されているとわかっており、神に助けを呼び求める者であり、異邦人のように神なしで存在する者ではない。

25)悪魔と神を信じない人たちはこの教理、すなわち罪が赦されることを信じることができない。このため彼らは、神が敵であるかのように神を憎む。彼らは神に助けを叫び求めることもせず、神から良いものが与えらえることを信じもしない。

26)アウグスチヌスも読者に「信仰」の概念についてこのように注意を喚起しているのであり、聖書の「信仰」という言葉を習得された知識として捉えてはならないと教えている。そのようなものは神を信じない者も持っているからだ。そうではなくて、脅える魂を慰め励ましてくれる信頼として捉えるべきであると教えているのだ。

27)我々に属する者たちはさらに、御心に適う行為をすることは必要であると教える。それらは、することで恵みを見返りとして得ることができるなどと信頼するがために行ってはならない。そうではなくて、行うことは神の意思だから行わなければならないのだ。

28)ただ信仰によってのみ罪の赦し、すなわち恵みを手にすることができる。

29)そして、信仰によって聖霊が受け取られるので、心はすぐ新しくされ、新しい方向性を得て、その結果、神の御心に適う行為に自分を合わせることができるようになるのである。

30)アンブロシウスもこのように教えているではないか。「信仰は御心に適う意思と正しい行為の親である。」

31)というのは、聖霊がなければ人間の力は神を信じない心の動きに満たされしまい、神の御前で御心に適う行為を生み出すには弱すぎるからだ。

32)加えて、人間の力は悪魔の支配下にあり、悪魔は人間をあらゆる罪に、神を信じない考え方に、そして明白な悪へと駆り立てる。

33)このことは、哲学者たちの辿った人生から見て取ることができる。彼らは、自分では申し分のない生き方をしようとしたのであるが、それに成功しなかったばかりでなく、多くの明白な悪に手を染めてしまったのだ。

34)人間は、信仰と聖霊なしで生きようとする時、また、人間的な力だけで自分を律しようとする時、こんなにも弱いのである。

35)この教理を、御心に適う行為を禁じているなどと言って非難してはならないことは明白である。それどころか、いかなる仕方で御心に適う行為をすることができるかを示しているので感謝されなければならないのである。

36)というのは、信仰がなければ、人間の本性は第一の掟にしろ第二の掟にしろその行為を行うことができないからである。

37)信仰がなければ、人間の本性は神に助けを叫び求めることもせず、神から助けが来ることを待つこともせず、十字架を忍耐強く背負うこともしない。その代わりに人間の支援を求め、それに信頼する。

38)信仰と神に対する信頼が離れ去る時、心を支配するのはあらゆる種類の欲望と人間的なはかりごとである。

39)そのためにキリストは言われる。「私なしでは、あなたたちは何も成しうることができない」(ヨハネ15章5節)。

40)そして教会も次のように歌うのである

 

「もしあなたがあなたの霊を取り上げるならば、

無垢な者は存在せず、

あるのは空っぽで貧しい人間だけ。」

 

「あなたのみ力なしには

人の中には何もなく

無害なものは何もない」

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