スオミ教会 チャーチ・カフェのご案内

2024年3月30日(土)11~15:30

素晴らしい音楽の演奏とおいしいお菓子を用意してお待ちしています。どうぞよろしくお願いします。

ミニコンサートは予約の必要はありません。お好きな時にいらしてください。

チャーチカフェ

スオミ教会 フィンランド語クラスのご案内

フィンランド

日時 3月21日 (木) 19時~20時10分

フィンランド語クラスは【初級】だけとなります。

初級はフィンランド語が
はじめての方向けですが、
フィンランド語が少し出来る方もどうぞ!

授業は19時~20時、その後10分くらい聖書日課を読んだり讃美歌を歌ったりします。
フィンランド

参加費 1000円

申し込み順で受け付けます。

お問い合わせ、お申し込み

03-6233-7109
スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4
www.suomikyoukai.org

 

フィンランド

スオミ教会の2024年度の活動方針

3月3日、教会の2023年度の年次総会が開かれました(教会員、オブザーバー、委任状提出含めて20名の参加)。宣教師がまとめた総会資料に基づいて昨年度の活動の総括と収支報告の承認を行い、新年度の活動や予算を話し合って採択しました。

以下、総会資料中の「牧師報告」の巻頭言「激動の時代にあって流されない生き方」と、採択された教会の新年度の主題と聖句、活動方針について紹介します。

 牧師報告

【総会巻頭聖句】

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。心を新しくされた者として自分を変えていき、何が神の御心であるか、何が善いことで、御心に適うことか、また完全なことであるかを吟味するようになりなさい。」ローマ12章2節(ギリシャ語原文からの訳※)

(※ 総会の時に、なぜ日本語訳の聖書を用いず、ギリシャ語原文から直接訳したものを掲げたか説明しました。日本語訳では「心を新たにして」というふうに、人間が心を新たにしなければならなくなっていますが、ここは本当は、キリスト信仰者は神によって既に心が新たにされたという意味です。それなので「新しくされた心をもって」とか、「心を新しくされた者として」と訳したほうが良いと思います。「心」はギリシャ語でヌースνους、「意識」、「自覚」とも訳すことが出来ます。「理性」と訳す人もいますが、それはルター派的ではありません。キリスト信仰者は既にヌースが新しくされているということは、ローマ7章のパウロの教えからはっきりわかります。)

【激動の時代にあって流されない生き方】

世界を見回すと、ウクライナ戦争はまだ続く上に、10月にはイスラエルとパレスチナのガザ地区が戦争に突入してしまいました。内戦状態や市民への弾圧が続く国々が数多くあります。悲しむべきことはこれらを解決できない状態が続いていることです。自由と民主主義の国々が国の内外から挑戦状をたたきつけられているような状況に陥っています。温暖化の阻止も待ったなしです。

日本国内を見ても、人口や経済の縮小が続き、国の将来に悲観的な見方が広がっていると思います。国の政治も、統一教会問題や裏金問題のため、政治に対する不信と諦めが漂っていると思います。

そして私たちが繋がるキリスト教会も世界を見渡すと、いろいろな教派があるのは昔からですが、伝統的な教会が見解の相違のために分裂状態に陥っています。フィンランドでも国民の教会離れが進み、1980年代までは国民の90%以上がルター派の国教会に属していましたが、現在は60%程度、ヘルシンキ首都圏では50%まで落ちています。国民の教会離れ聖書離れは、キリスト教が伝統的な宗教であった国々で進んでいます。

ただ、そのような時代にあっても、フィンランドでは、教会を支えよう、聖書の御言葉を大事にする信仰者としてこの世を生きよう、という人たちは大勢残っています。彼らが国内と海外の伝道を支えています。私たちのスオミ教会もそのような兄弟姉妹の支援を受けていることを忘れないようにしましょう。

この世がどのような方向に流れていくにしても、私たちは、上記の聖句が教えるように、イエス様の十字架と復活の業と洗礼のおかげで心を新しくされた者として、何が神の御心か、何が善いことで、御心に適うことか、完全なことであるか、吟味しながら日々を生きる(吟味のためには聖書を開く必要があります)、そうすることで、流れを変えることは出来ないかもしれないが、ただ単に流されるだけで自分を見失ってしまうことはないと信じます。

♰♰ 2024年度の主題聖句、主題、主題の趣旨、伝道方針、年間行事予定

【2023年度の主題聖句と主題】

主題聖句 詩篇23篇4

「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ。汝、共にませばなり。」(文語訳)

「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。」(新共同訳)

主題 「いかなる状況にあっても御言葉と聖礼典がある限り主が共にいて下さることは揺るがない。」

【主題の趣旨】

吉村が牧師になったことで、聖礼典も執行できるようになりました。これでやっと、御言葉と聖礼典という「恵みの手段」(ルター派の言い方)を用いて、信徒一人一人の信仰の成長の手助けができます。

「信仰の成長」とは何か、少し具体的に述べます。昨年12月17日の週報コラムで「信仰の証し」についてお教えしました。「信仰の証し」とは、①自分はどのようにして十字架と復活の業を成し遂げたイエス様と出会ったか、②一時そのイエス様から遠ざかってしまったが、また身近になった、③現在、平穏な時/大変な時にあるが、それでも十字架と復活の主が身近におられることは揺るがない、この3つのいずれかについて話し分かち合うことです。その際、聖書の何々の個所がそういう出会い/再会/随伴を確信させてくれたということがあれば申し分なし。日々聖書を開いて、自分の日々の歩みや思いを御言葉に照らし合わせて見直すことをしていれば、主が身近におられることが当たり前になり、「証し」をして下さいとお願いされても慌てないですみます。これが「信仰の成長」であると考えます。礼拝の説教と聖餐はまさに主が身近におられることを揺るがないものにするものです。また、牧師・宣教師と話をしたり祈ることでも、聖書のあの個所が決め手になった!というようなものが見つかります。

主が身近な存在になるかどうかは結局は信徒一人ひとりにかかっていますが、牧師・宣教師はそのお手伝いをするというスタンスでいます。

【2024年度の伝道方針および年間行事予定等】

礼拝は会堂とオンラインのハイブリッド方式を続けますが、礼拝と聖餐と聖徒の交わりを実現する本来の場所は会堂です。様々な事情で会堂に来れない方が教会に繋がれるための手段としてオンラインはやむを得ないと思います。

諸集会はコロナ前と同じ水準で行っていきます。諸集会に教会員やキリスト信仰者の参加があると、ノンクリスチャンに対する伝道力が一気に高まることをお覚え下さい。今年もチャーチカフェを開催します。新宿区の保健所から菓子製造販売の許可証を得たので堂々と開催できます。

教会歴に沿った年間行事予定は、大きなものは3月24日受難週、同29日聖金曜日、同31日復活祭、5月19日聖霊降臨祭、12月1日待降節、同22日クリスマス礼拝、同月24日イブ礼拝となります。伝統のバザーもクリスマス期間に出来るでしょうか?

今年の宣教師の一時帰国は長めのものになります。6月中旬から9月初旬まで位になると思います。期間については正確にわかり次第お伝えします。

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聖書入門ご案内

 次回3月13日 (水) 10時30分~11時30分

聖書をわかりやすく解説します。毎回違うテーマでお話します。

フィンランドのルター派教会の聖書の学びです。講師はフィンランドの大学の神学部で博士号を取得した吉村博明牧師です。

是非ご参加ください。

お申し込み、問い合わせはヨシムラ・パイヴィまで。


03-6233-7109
福音ルーテル・スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106
www.suomikyoukai.org

手芸クラブの報告

2月の手芸クラブは28日に開催しました。前日は冷たい北風が吹きましたが、この日は朝から太陽が輝いて穏やかな天候の日となりました。

前回に続いて今回もバンド織のキーホルダーを作りました。フィンランド語でNauhaと言います。前回参加された方たちは新しい模様のキーホルダーを作りました。毛糸は既に準備したものを用い、各自それぞれの場所で織始めました。初めて参加された方にはいろいろ細かい準備をして、それから織始めました。

新しい模様のバンド織の毛糸は細かったので、今回はどんな模様になるか皆さん楽しみにしながら織進めていきます。すると、可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。

今回の毛糸は黒色が多かったので少し織りづらかったようでしたが、皆さん一生懸命頑張ったので今回も素敵なバンド織のキーホルダーが出来上がりました。

初めての方もテクニックを早く覚えてNauha はどんどん長くなって、かわいい春らしい色のNauhaが出来上がりました。Nauhaに星やハートなどの形の輪を入れて結ぶと可愛いキーホルダーの完成です!

肩をリラックスしてコーヒータイムに入りました。フィンランドのチョコレート・マフィンを味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、毛糸のNauhaや天の神さまが私たちに与えて下さる人生のNauha についてお話がありました。

3月の手芸クラブはお休みになります。次回は4月24日に開催予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

手芸クラブの話2024年2月

今日もきれいなバンド織のキーホルダーが出来ました。皆さんは覚えが早いので、あっという間に出来上がりました。今日はバンド織について少しお話をしたいと思います。

バンド織は地中海の地域で古くから作られた手芸の一つです。イタリアでは1200年代に作られたものが発見されています。バンド織作りは中世期に北欧にも広がってフィンランドのトルゥクでは1400年代に作られたものが発見されています。

バンド織はフィンランド語でPirtanauhaと言います。Pirtanauhaは1800年代から1900年代にかけてとても人気がありました。バンド織で作ったものは貴族の間では使われませんでしたが、農民の人たちはそれを使ったので女性たちがよくバンド織をしました。母親たちは織り方を娘たちに教えたので、このスキルは世代から世代へ伝わっていったのでした。

バンド織はどのようなものに使われていたでしょうか。一番多かったのはベルトでしたが、靴のひも、バッグの持ち手、服の飾りなどに使われました。バンド織は何本も繋げていくと生地にもなりました。

フィンランドでは1900年代から1970年代まではバンド織を作る人はあまり多くいませんでしたが、1970年代からまた人気を集めるようになりました。現在は作る人はそれほど多くはいませんが、フィンランドの伝統的な手芸の一つですので、手芸センターなどでバンド織のコースが時々開催されます。

Nauhaは色んな長さや色んな色のものに作ることが出来ます。フィンランド語のNauhaは、「ひも」という意味です。Nauhaという言葉はいろいろな文脈で使われます。人生を象徴する時、Nauhaということもあります。人生が一本の長いひもにたとえらえるのです。フィンランドの子どもの讃美歌には次のような歌があります。「人生の日々は美しいNauha、一つ一つの思い出は真珠の粒、日々の連なりは真珠をひもに通した飾りのように高価なもの。そのどれもNauhaから外すことはできない。」

この歌は人生の日々の連なりをNauhaに、そこにある一つ一つの思い出を真珠にたとえています。沢山の真珠があるNauhaは素晴らしく見えます。Nauhaの中にある真珠の一つ一つは思い出の一つ一つですが、よく見ると明るい色や暗い色があります。それでもNauhaの全体は素敵なものになります。私たちの人生のNauhaは振り返って見ると、いろんな色の時期があったと分かります。一つ一つの色には意味があります。明るい色は幸せや喜びの時期を表しますが、暗い色は悲しい時、困難な時期です。私たちの人生には両方の時期があると思います。私たちはもちろん幸せを求めますが、ずっと続くとは限りません。自分で選ばないのに悲しい時がきます。

聖書には、人生の中にいろんなことががあっても心配したり恐れる必要はないと教えるところが沢山あります。その中でも旧約聖書の詩篇23篇は有名な箇所です。

この詩篇は、「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」という文で始まります。「羊飼い」とは天と地と人間を造られた神様のこと、「羊」は私たち人間を意味します。羊は弱くて、野生動物に簡単に捕まって食べられてしまいます。そのため羊飼いは羊を守って導いていきます。羊飼いが羊を守り導くように、神様が私たちを守って導いて下さると詩篇の言葉は伝えています。もし人間を造られた神様が私たちの羊飼いならば、神様は信頼して大丈夫な方です。神様の導きのうちに生活する時に大きな安心があります。神様はどのように私たちを導いてくださるのでしょうか?

この詩篇には「主はみ名にふさわしく、正しい道に導かれる」と書いてあります。神様は私たち一人一人のことをよくご存じで、いつも歩むべき道を示して下さいます。神様は私たちを愛しているので、良い場所に導いて下さいます。良い場所とは、「きれいな青草の原」、「憩いの水のほとり」と詩篇の中で言われます。ただ、そこに至る道はいつも明るい安全な道とは限りません。詩篇では、「死の陰の谷」を通ることもあると言われます。私たちの人生の中には喜ばしいことだけでなく悲しいこともあります。もちろん、私たちは喜ばしいことを望んでいます。それで、悲しいことが起こると受け入れるのは簡単ではありません。しかし神様は実は悲しい時でも、喜ばしい時と同じくらいに共にいて下さると詩篇で言われているのです。この詩篇の箇所は、このように神様の人間に対する愛が示されているので、いつも安心と感謝の気持ちで一杯になります。

私たちの人生のNauhaにはいろんな色があります。しかし、神さまがいつも一緒にいて下さると信頼できればこれからも真珠をつけていくことができます。このことを忘れずに歩んで行きましょう。

 

2024年2月25日(日)四旬節第二主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

         主日礼拝説教2024年2月25日 四旬節第二主日

創世記17章1‐7、15‐16節

ローマ4章13‐25節

マルコ8章31ー38節

説教題 「一般的な道徳からキリスト信仰の道徳へ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っている有名なイエス様の教えです。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これを読んだ人はたいてい、ああ、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているんだな、と理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値あるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。誰にでもわかる道徳をイエス様は教えているのだと。

 ところがイエス様はこの言葉の前で何と言われていたでしょうか?「わたしの後に従いた者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。

皆さん、しっくりいくでしょうか?「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救う」などと聞くと、大方の人は、ああ、迫害を受けて殉教した人は天国に行けることを言っているんだなと理解するでしょう。そうすると、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というのは、殉教の道を歩めと言っているように聞こえてきます。そうなると一方で、命は地球より重い、それくらい価値あるものなのだ、などと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのはOKというのは矛盾しているのではないでしょうか?

 実はイエス様は矛盾したことは何も言っていないのですが、なぜ矛盾しているように聞こえるのかと言うと、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」、この部分を「命は地球より重い」という一般的な道徳で理解してしまうからです。この部分をよく目を見開いて見ていくと、一般的な道徳とは違うことを言っていることが見えてきます。ここには一般的な道徳ではなく、キリスト信仰の道徳があるのであり、それが見えてくるとイエス様が言っていることは筋の通ったものになります。そういうわけで本日は皆さんを一般的な道徳からキリスト信仰の道徳へと道案内したく思います。

2.神の人間救済の計画

まず、本日の福音書の日課マルコ8章31~38節ですが、その少し前の27節~30節を見ると、イエス様が弟子たちに、人々は私のことを何者と言っているかと質問をします。どうやら人々はイエス様のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていたようでした。それに対してペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、メシア・救世主と信じていることを明らかにします。

 そこで今日の31節が来ます。イエス様は自分の受難と死からの復活について預言します。それを聞いたペトロは敬愛するイエス様が殺されることなどあってはならないと思って否定します。それに対してイエス様はペトロのことをサタン、悪魔と言って叱責します。お前は「神のこと」を思わず、人間のことを思っている、と。これを読む人はイエス様の強い語調に驚くでしょう。その場にいたペトロや弟子たちに至っては大ショックだったでしょう。しかし、神の人間救済計画を全世界の人たちのために実行すべくこれから十字架の死を受けなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのはまさしく神の計画を邪魔することになります。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないというのは悪魔に加担することと同じになってしまいます。それでイエス様は強く叱責したのです。ペトロが思っていない「神のこと」とは、まさしく神の人間救済計画のことです。

 それでは神の人間救済の計画とはどんな計画か?それがわかるとイエス様が教えていることは一般的な道徳を越えてキリスト信仰の道徳であることがわかってきます。当教会の説教で毎回教えていることですが、復習しましょう。

キリスト教信仰では、人間は誰もが創造主の神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまったという大問題が立ちはだかります。どうして壊れてしまったかと言うと、創世記に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、それを聖書では罪と言いますが、それを持つようになってしまったからです。人間は神聖で永遠の神のもとにいられなくなって死ぬ存在となりました。使徒パウロがローマ6章23節で言うように、死ぬというのはまさに罪の見返りなのです。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできてしまったのです。

これに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持てて生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても復活の日に目覚めさせて復活の体と永遠の命を付与して造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この計画はどのように実現したか?罪が人間の内に入り込んで神との結びつきが失われてしまったのだから、それを人間から除去しなければならない。しかしそれは、イエス様がマルコ7章で宗教指導者たちとの論争で明らかにしたように人間の力では不可能です。律法という神の意思を表す掟があります。しかし、人間はそれを行いだけでなく心の中でも完全に永続的に守り通すことはできないのです。律法は、人間が不完全で罪があることを示してしまうのです。人間が自分の力では無罪(むつみ)の状態になれないとすれば、どうすればいいのか?なれないと、神聖な神と結びつきを持つことも神のもとに戻ることもできません。

この問題に対する神の解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に贈って、彼に人間の罪を全部背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運び上げさせ、そこで人間の身代わりに神罰を受けさせて死なせたのです。つまり、ひとり子イエス様に私たち人間の罪の償いを果たさせたのです。そこで私たち人間がこのことは歴史上、本当に起こった、それでイエス様は本当に救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを持てるようになって、この世をその結びつきの中で歩むことができるようになります。

イエス様が果たしたことは罪の償いだけではありません。十字架の死から3日後、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちのために開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになったのです。神との結びつきを持ちながら進んでいくのです。

 ところで、神から罪を赦された者と見てもらえるようになったとは言っても、この世にいる間は私たちは肉の体を纏っているので私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。確かに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた以上は注意深くなって罪を行為や言葉で表に出してしまうことはなくなるかもしれませんが、心の中で持ってしまいます。どんなに注意していても、人間的な弱さのため、また隙をつかれて罪が行為や言葉で出てしまうこともあります。そのような時はどうなるのか?イエス様が果たして下さった罪の償いを台無しにしたことになり神から赦しをキャンセルされてしまうのでしょうか?神との結びつきは失われてしまうでしょうか?

 そうではないのです。もし自分に罪があるとわかったら、すぐそれを神の御前で認めて、イエス様を救い主と信じますから赦して下さいと祈ります。そうすると神は、「お前は心の目をあのゴルゴタの丘の十字架に向けて見よ。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられている。わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないようにしなさい。」そうおっしゃって下さいます。そうしてキリスト信仰者は再出発します。

 キリスト信仰者といえども神の意思に反する罪を内に抱えています。それで自然、罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すことになります。罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すというのは、イエス様の十字架の下に行くことです。また自分が受けた洗礼の地点に戻ることです。洗礼の地点に戻って十字架の下に立つというのは、私は罪に与しない、罪を忌み嫌って生きているということの偽りのない表われです。なので、罪を認めることと赦しを受けることを繰り返せば繰り返すほど、内に宿る罪は圧し潰されていきます。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者のこの世の人生というのは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスです。怒りや憎しみ、口を制御することができないとか、えこひいき自分もひいきされることを望むとか、そういう愛のなさが染みついている古い人。これを神から頂く罪の赦しを重石のようにして圧し潰していくプロセスです。

 やがて、このプロセスが終わる日がきます。生きている人も死んでいた人も全ての者が創造主の前に立たされる日です。その時、各自に審判が下されます。その時、「お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと認められれば、それで十分です。そう認められた人は、その時もう自分には圧し潰すものがなくなっていて、自分自身の体が神の栄光を映し出して輝いていることに気づきます。これが復活の体です。ルターが言うように、キリスト信仰者が本当に完全な信仰者になるのはこの世を去って肉の体にかわる復活の体を着せられた時なのです。

3.一般的な道徳からキリスト信仰の道徳へ

以上が神の人間救済の計画とそれがどう実現したかについてです。それでは、イエス様がつき従う者つまり私たちキリスト信仰者に背負いなさいと言っている十字架とは何かに?それについて見ていきましょう。そして、命を救う、失う、と言っていることはどういうことか、それも見ていきましょう。

 まず、キリスト信仰者が背負う十字架について。これは、イエス様が背負った十字架と同じでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって人間の罪を全部引き受けてその神罰を全て受けて人間の救いを実現しました。私たち人間が同じような十字架を背負うことは出来ないし、そもそも救いの十字架は一度打ち立てられて完結したのです。

 それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど、キリスト信仰者の人生は罪を圧し潰していくプロセス、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスだと申しました。

 それで、「自分を捨てる」というのは、まさに古い人を死なせ、新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。つまり捨てるのは肉に結びつく古い人です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まりました。ただこれはプロセスですので、この世を去るまでは捨てることは続きます。「自分を捨てる」と言うと、何だか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえます。また逆に、自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえるかもしれません。一般的な道徳の耳で聞くとそういうふうに聞こえるのです。しかし、そういうことではありません。罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すことで古い人が圧し潰されて衰えて代わりに新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てること、これがキリスト信仰の道徳から見た「自分を捨てる」です。

 そういうわけで、私たちが十字架を背負うというのは、洗礼を受けた時に始まる、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いを戦うということになります。戦いの内容は、それぞれが置かれた状況によって異なってきます。人間関係の中で死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てきます。人を妬むことで古い人が強まります。あるいは、キリスト信仰者であると公けにすると立場が悪くなってしまうから黙っていよう、などと言ったら、新しい人が育たなくなります。このように背負う十字架は中身は違っても、新しい人を育て古い人を死なせるという点ではみな同じです。そういうわけで、「十字架を背負う」とか「自分を捨てる」というのは殉教そのものではありません。罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がなくても日常生活のどこにでもあります。

 このように、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入ることだとわかると、続く35節と36節で「命」(後注)を救うとか失うとか言っていることもわかってきます。次にそれを見ていきましょう。

 35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは前の繋がりで見ると、自分の命を救いたいと思う者とは、自分を捨てることもせず自分の十字架を背負うこともせず、従って罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入らなかった人のことです。それなので、復活の体と永遠の命が待つ神の国に向かって歩んでおらず、この世での命が全てになってしまう人です。そのような人にとって新しい世での新しい命などありえないことですから、この世での命にしがみつくしかありません。まさに、「自分の命を救いたいと思う」人です。しかし、この世での命は永遠に続きません。だから、「それを失う」のです。

 次に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」先ほど、自分の十字架を背負い自分を捨てるというのは殉教そのものではない、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあると申しました。しかしながら、信仰を捨てるか命を捨てるかのどっちかを選べ、と権力者から迫られたらどうするかという問題は歴史上あちこちでありました。今日でもあります。たとえ罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いが殉教で中断させられてしまっても、命落す日まで戦いを続けたことは父なるみ神の「命の書」に記されます。最後の審判で、お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと必ず認められるでしょう。

 そして36~37節です。イエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」ここの「命を失ったら」の「失う」ですが、前の35節に二回出てくる「命を失う」と原語のギリシャ語の動詞が異なります。35節はアポリュミαπολλυμιという動詞で、それは文字通り「失う」という意味がありますが、36節はツェーミオオーζημιοωという動詞で、その正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため辞書によっては、イエス様のここの言葉を「命を失う」と訳してはいけないと注意するものもある位です。新共同訳ではそう訳してしまっています。ここは「命に傷がついている、ダメージを受けている」という意味です。そうなると、イエス様は「命は地球より重し」という一般的な道徳を教えていないことになります。一体イエス様は何を教えているのでしょうか?

 36~37節の意味はこうです。「人はたとえ全世界を手に入れても、命が傷つきダメージを受けていたら、そんな命は何の役にも立たない。なぜなら、どんなにこの世で永らえようとしてもいつかは時が来るのだし、その時、手に入れたもので命を買い戻そうとしても無駄である」ということになります。ここでの問題は「命に傷がついている、ダメージを受けている」とはどういうことかということです。

 それは、ここで言われている「代価」がカギとなります。人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。それによって人間は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩みだします。このようにイエス様は私たち人間を罪と死の支配下から神のもとに買い戻して下さったのです。神聖な神のひとり子が十字架で流された血を代価として私たち人間を神のもとに買い戻されたのです。買い戻されたというのは難しい言葉で「贖われた」とも言います。「代価」と訳されるギリシャ語の言葉アンタラグマανταλλαγμαは「身代金」の意味を持ちます。人間は罪と死に売り渡されたも同然だったが、神が痛い身代金を払って買い戻して下さった、人間を罪と死の支配から御自分のもとに贖い出して下さったのです。

 それで、傷ついている、ダメージを受けている命というのは、贖われていない、買い戻されていない状態のことです。そのような状態の人が死を間近にして慌てて自分が手に入れた全世界でも、財産でも、名声でも業績でも何でも、代価にして死を免れようとしても、そんなものは神のひとり子の犠牲に比べたら何の力にもならないのです。そういうわけで、ここは、一般的な道徳では命が大事と言っているように見えていたのが、実はイエス様の犠牲、彼が十字架で流した血が大事と暗に言っているのです。それがなぜそんなに大事かというと、言うまでもなく、私たち人間を罪と死の支配から解放して、復活の日に復活を遂げられて死を超えた永遠の命に与ることが出来るようにするからです。これがキリスト信仰の道徳です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

牧師の週報コラム

なんで英語じゃないとダメなんですか?

スオミ教会が中野にあった時のこと。キリスト教会の礼拝に初めて参加したという青年がコーヒータイムの時に私に聞いた。 「先生、僕は聖書を原語で読みたいんです。教えて頂けますか?」 立派な志しだと感心し、「それじゃ、ギリシャ語から始めようか。それともヘブライ語?アラム語もあるけどヘブライ語を先にやった方がいいよ。」 すると青年は当惑した表情で「いえ…、英語でです。」 これには私も仰天。聖書は新約はギリシャ語が原語、旧約はヘブライ語(一部アラム語)ですと説明しなければならなかった。青年は二度と教会に姿を現さなかった。

キリスト教はアメリカの宗教…。そういえば、オペラの「蝶々夫人」。米海軍士官との結婚を機に蝶々さんはキリスト教に改宗して一族から勘当。一時帰国の筈の夫はなかなか戻らず。一人残った家政婦のスズキさんが主人の帰国を一生懸命に神仏に祈っていると、そんなものに祈っても意味はないと嘲笑する蝶々さん。「私にはアメリカの神がついている」と。そして悲劇的な結末…。

これも中野時代のこと。ある教団の牧師(アメリカ帰り)がスオミ教会の礼拝で説教をした時、「皆さん、イエス様は皆さんのことを愛して下さっているんですよ!アイ・ラブ・ユーっておっしゃっているんですよ!」と。私は思わずのけぞってしまった。イエス・キリストが「アイ・ラブ・ユー」だって?!彼は何度かスオミで説教したが、よく口から出てきたので、自分の教会の礼拝でも常套文句なのだろう。きっと信徒さんたちもうっとりして聴いているのだろう。そう言えば、日本では多くのキリスト教会の案内や出版物もカタカナ英語がよく目につくと思う。

そういうお前はどうなんだ、フィンランド帰りをちらつかせて、フィンランド語で何か言っているじゃないか、と言われるかもしれない。しかし、私の場合は、ジーザス・ラブズ・ユーとは違う。説教の準備の終わりの段階でいつも聖書の個所が日本語訳ではどう言われているかを確認する。原語はそう言っていないのでは?この日本語訳いいのかな?ということに時々出くわす。それで、フィンランド語ではスウェーデン語ではドイツ語では、そして英語ではどう言っているか、と自分の訳に応援を求めているだけである。私の経験では(正確に統計を取ったわけではないが)、日本語と英語の訳が一致して、その他3つが別の訳で一致するということがよくあると思う(ただし、英語訳はNIVについてのみ。ドイツ語訳も共同訳とルター訳があるのでさらなる違いもある)。

日本の政治家は日米同盟のことを共通の価値観で結ばれた世界最強の同盟と誇りにするが、聖書の訳や理解でも同じようなことがあるのだろうか。

牧師の週報コラム

平穏の時も動揺の時も聖書の御言葉を基として生きる

先日Facebookでフィンランドの知り合いの牧師が「ダニエル書3章16~17節を忘れるな」とだけ記していました。 捕囚の民の若者が、異国の王から金の像を拝め、さもないと炎の炉に投げ込むぞ、と脅された時の若者たちの答えです。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。私たちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救って下さいます。そうでなくとも、ご承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

多くのキリスト信仰者は、信仰者として態度を示さなければならなくなった時、自分がこう振る舞うのはキリスト信仰の立場に立っているからだ、とはっきりさせてそう振る舞うべきか、それとも、周りとギクシャクするのは気が進まない、そう振る舞わないのが賢いやり方ではないか、どっちにしようかという場面に立たされます。私の場合、そのような場面に立たされた時はいつもこの聖句が身近にやって来たので賢くならなかったのでした。「そうでなくとも」というのは、神が助けてくれない場合もあると認めています。しかし、そんことは自分が神を信じることと何の関係も影響もないと言っているのです。

私たちの家族に特別支援の子供が生まれた時、最初は本当に情けない位に動揺しました。足元の地盤が砂のように崩れ落ちていく感じでした。しかし、ヨブ記2章10節の御言葉が身近にやって来ました。敬虔な信仰者ヨブにありとあらゆる不幸が襲い掛かり、最後は一人残った妻からも、いつまで無垢を装っているのか、さっさと神を呪って死んだ方がましではないか、とさえ言われてしまいました。ヨブは次のように答えました。「お前まで愚かなことを言うのか。私たちは神から幸福を頂いたのだから、不幸も頂こうではないか。」 以前素通りしていた御言葉でしたが、ヨブ記の終わりにある神とヨブの対話を知る者には全てを打ち砕いて全てを再建する言葉として響いてきたのです。足元に新しい地盤、以前よりも固い地盤が築かれたと思いました。それで、その時「不幸」だと思っていたものが、ただの「大変なもの」に変わっていったのでした。

激しく動揺するような事態に陥った時、聖書のどの御言葉が自分を支えてくれるか。それは、平穏な時に日ごろから聖書を開いて、自分の日々の歩みや思いを御言葉に照らし合わせて吟味することを積み重ねていれば、動揺の時に相応しい御言葉が目の前に飛び込んでくると思います。その時になって慌ててページをめくっても恐らく手遅れではないかと思います。なので、少し怠けていた方はそうならないために聖書を開きましょう。

 

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の家庭料理クラブは3月9日(土)13時に開催します。

パイナップル・ココナツケーキ

 

料理クラブは定員に達しましたので、受付は終了しました。ご了承ください。

今年もイースターの季節がやってきました!3月の家庭料理クラブは「パイナップル・ココナツケーキ」を作ります。カルダモン風味のしっとりケーキの上にパイナップルをたっぷりのせてイエロー色豊かなイースター・カラーを演出します。フィンランドでは「ココナツのトッピングはケーキの風味を王冠のように高める」と言われるくらいです。本当にその通りであることを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1,500円です。パイナップル・ココナツケーキ

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、
まで。

電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

今年最初の家庭料理クラブは2月10日に開催しました。週の初めは東京でも大雪でしたが、週末に向けて暖かくなり雪も融け、春の近づきを感じさせました。

今回作るものは、今の季節のフィンランドで全国どこのお店や喫茶店でも並ぶラスキアイス・プッラです。今回も申し込まれた方が多く、すぐキャンセル待ちの状態になってしまいした。ラスキアイス・プッラは日本でも最近知名度が高まっているフィンランドの代表的なプッラの一つです。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、「コーヒー・ブレッド」用のプッラの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加え始めます。生地をよく捏ねてから柔らかいマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地が出来上がりました。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。ここで一休み。あちこちから楽しそうな話し合いの声が聞こえていきました。もう少しすると美味しいラスキアイス・プッラが出来ることが皆さん、楽しみのようです。生地はあっという間に大きく膨らみました。

それからラスキアイス・プッラの形作り。生地を細い棒の形に丸めて切り分け、切った生地を一個一個丸めていきます。初めは少し難しかったですが、何個か丸めたら皆さん、上手になってきれいなプッラが次々と鉄板に並べられていきます。それから二回目の発酵です。今回は小学生のお子さんがお母さんと一緒に参加して、大人と一緒に一生懸命プッラの生地を捏ねて上手に生地を丸めていました。

ラスキアイス・プッラの中身を準備しているうちにプッラはあっという間に大きく膨らみました。それをオーブンに入れて焼きます。少し経ってオーブンの中を覗いてみると、皆さん嬉しそうな声で「わぁー、また大きく膨らんでいる!」「形がきれいね!」きれいな焼き色になったプッラをオーブンから取り出してよく冷まします。その間にコーヒーやテーブルのセッティングをします。

冷めてきたプッラを半分に切り下半分にラズベリーのジャムをのばしてその上にホイップ・クリームをのせます。その上にプッラの上半分をのせてラスキアイス・プッラの出来上がりです!

出来たてのラスキアイス・プッラをコーヒー・紅茶と一緒に味わう時間になりました。「美味しい!」の声があちらこちらから聞こえてきます。

皆さんと一緒に美味しい満ち足りた雰囲気で歓談の時を過ごしました。同じ時にフィンランドの「ラスキアイネンの日」や受難節の期間に開催される「日常の喧噪から離れる」というイベントについて、それからイエス様が教えられた休息の必要性についてのお話も聞きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月9日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

フィンランドのラスキアイネンの話2024年2月

今日はフィンランド人が大好きなラスキアイス・プッラを作りました。フィンランドでは新年が終わってしばらくするとラスキアイス・プッラがどのお店や喫茶店でも販売されます。ラスキアイス・プッラの販売期間は大体2か月くらい、ラスキアイネンの日までだけです。ラスキアイネンの日が近づいてくると、もちろん多くの家庭でもラスキアイス・プッラを作ります。ラスキアイス・プッラの種類は中身によって二つあります。今日作ったのはジャムと生クリームが中身ですが、アーモンドペーストと生クリームの中身もあります。今年はどっちの方が美味しいかなぁといつも話題になります。

ラスキアイネンの日とはどんな日でしょうか?ラスキアイネンは「下る」という意味で、季節がイースターに向かって下って行く最初の日のことです。その日からイースターの準備期間になります。イースターの準備期間のことを「受難節」と言います。イエス様の十字架の受難の前の40日間の期間です。イースターの日はクリスマスと違って毎年変わります。それで今年のラスキアイネンの日は来週の火曜日となります。

フィンランド人はラスキアイネンの日をどのように過ごすでしょうか?フィンランドではラスキアイネンの頃から太陽が出る明るい時間が少しづつ長くなって晴れる日も多くなります。sori, CC0それで、雪の中をそりですべって「下る」ことをしたり、美味しいラスキアイス・プッラを味わうことが伝統的な過ごし方です。大人も子供も寒い外でそりで滑って、その後で暖かい部屋でラスキアイスプッラと暖かい飲み物を一緒に楽しみます。多くの町ではいろんなイベントもあり、子供たちを馬や馬のそりに乗せたり、スケートをしたり、スキーの競争もしたりします。もちろん、そこでもラスキアイスプッラと暖かい飲み物はつきものです。

ラスキアイネンの日が過ぎると受難節に入ります。この期間フィンランドの教会では「日常の喧騒から離れる」というイベントがあちこちで行われます。これは自然の中にある教会の宿泊施設で行い、だいたい金曜日の夜から日曜日の夕方まであります。参加者は自然の中で散歩したり、部屋で静かに時間を過ごしたり、一緒にお祈りしたり聖書を読んだり讃美歌を歌ったりします。もちろん一緒に食事をします。そこではスマートフォンやパソコンは使いません。参加者は日常の忙しい騒がしい生活から離れて、日常から距離を置いて自分を静かに見つめて、聖書をもとにいろいろ考えたりするので、体を休めるだけでなく魂にとっても良い休息の時になります。私は参加したことはありませんが、このような、何もあくせくする必要がない時間を持つことは心身ともに良いことだと思うので、いつか参加してみたいです。

Marcílio José Soares, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

聖書にも、イエス様が時々、人々から離れて静かな場所に行って祈る場面が沢山あります。マルコの福音書1章35節には次のように書いてあります。「朝早くまだ暗いうちに、イエス様は起きて、人里離れたところへ行き、そこで祈っておられた。」イエス様が静かな所に行かれたのは天の神さまにお祈りするためでした。そのために静かな場所が必要でした。その後で別の町や村に行って神さまのことを人々に教えに行かれたので、静かな場所でお祈りするのは心の準備にもなったのです。

イエス様はまた、静かな場所で休むことは自分だけでなく弟子たちにも必要と考えました。ある時弟子たちがイエス様の所に戻って来て、自分たちが町々で人々に教えたことを報告しました。多くの人たちが神さまについて興味を持って信じるようになったので、弟子たちはイエス様に詳しく報告したかったのです。しかし、イエス様は言われました。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と。イエス様と弟子たちの周りにはいつも大勢の人たち、神様について教えを聞きたい人たちや癒しを求める病気の人たちが集まってきました。務めは沢山あっても、イエス様は弟子たちと一緒に休んだのです。イエス様は弟子たちに肉体的な休みが必要であることをよく知っておられたのです。私たちも同じように休みが重要です。イエス様がその例を示しています。

私たち人間は肉体的な休みのほかに魂の休みも必要です。魂の休みはどんな休みでしょうか?イエス様はこのことについても教えられました「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイによる福音書11章28節です。イエス様はだれでも自分のもとに来るように招いておられます。私たちはイエス様の姿を見ることが出来ませんが、聖書の御言葉を読んだり、お祈りすることでイエス様のもとに行くことが出来ます。イエス様は彼のもとに行く人に休みを与えて下さると言われます。

もし私たちがイエス様のことを、神さまが救い主として贈って下さった方だと信じることが出来れば、心の中に平安を得ることができます。このようにイエス様に繋がっていれば、彼を贈って下さった神さまを信頼することができ、全てのことを自分で抱えないで神様の御手に委ねることが出来ます。そこから心の中に平安が生まれるのです。これが、イエス様が与えて下さる魂の休みです。

イエス様は世界の人々だれにでも「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われます。私たちにもいつもそう声をかけて下さいます。

魂の休みの場として、教会の日曜礼拝は一番重要な場所です。そこでも私たちは、日常の喧騒から離れて、聖書の御言葉を聞いたり、讃美歌を歌ったりお祈りしたりします。それも、天の神さまのみ前で心を静める時です。そこで神さまとの繋がりが強くなります。それで、礼拝は新しい週の心の準備の時にもなって、一週間を歩む力になります。礼拝も、「日常の喧噪から離れる」イベントなのです。

フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも続いているからです。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、それでも普段の食事にちょっと変化を与えることがあります。例えば、肉があまり入ってない料理を食べるとか、甘いお菓子を食べないということがあります。この受難節を通して私たちは自分の生活や時間の使い方を考えることにもなります。これは大事な準備の期間です。