牧師の週報コラム

使徒的伝統に立つキリスト信仰とそうでない信仰
先週の週報コラムの終わりで「使徒的伝統に立つキリスト信仰」ということを述べました
。今回は、それはどんな信仰かということについてです。
4つの福音書が出来上がるのはイエス様が天に上げられてから一世代か二世代経った後の
こと。主の昇天から福音書が出来てくるまでの30~50(プラスアルファ?)年の間にキリ
スト教徒たちがアクセスできた教えは、イエス様にまつわる使徒由来の伝承と使徒たちが
書いた手紙が中心。なので、その後に出来上がった福音書はみな使徒の観点の影響下にあ
ると言ってよい。みな使徒の観点の範囲内に収まるものなのだ。トマスやユダの名を冠し
た福音書が存在するが、使徒の観点からはみ出ているので聖書には加えられなかった。聖
書を通してイエス・キリストを知ろうとすれば使徒的な観点にならざるを得ないのは当然
である。
これに対して、実際のイエスは使徒の観点とは別物という考え方もある。19世紀のドイツ
の釈義学界でこの考え方が強まった。第二次大戦後は英語圏にも広がっていく。例えば、
初期のキリスト教徒は外者との区別を強調するため教えが厳しくなった、イエスの言行の
記述で厳しいものはそうした後のキリスト教徒の考えで着色されたか創作されたものであ
る、実際のイエスは厳しくなかった、というような言説だ。このようにして多くの学者が
使徒的な観点から自由に様々なイエス像を発表してきた(自由主義!)。聖書に収められ
なかった"福音書"も一次資料として用いられようになり、初期のキリスト教はこんなに多
様性があったと。キリスト信仰が使徒的伝統から”解放”されればされるほど、処女懐胎
も復活その他の奇跡も、古代人のファンタジーか言葉の綾の如く扱われるように。聖書的
でなければない程、アカデミックな研究になると言わんばかりだ。こうしたアカデミズム
は、聖書が伝えない(または隠している)真理を暴き出したような達成感をもたらし、人
によっては信仰が深まったという錯覚に陥ることもある。
私は、学者がその時その時の斬新な学術的手法を用いて作り上げたイエス像が信仰の対象
になるとは思わない。というのは、この世を去らねばならない時が来たら、財産であれ業
績であれ名声であれ知的集大成であれ人間が生前築いたものは何も次の段階に携行できな
い、丸裸なのだ。人間が限りある頭脳で築き上げ、いつかは別の結論に置き換えられるか
もしれないイエス像が何の役に立とう?
そこで使徒的な伝統に立つキリスト信仰の出番となる。天地創造の神が処女を介してひと
り子を私に贈って下さった、そのひとり子が十字架上の死を遂げることで私を罪と死の支
配から贖って下さった、死を遂げた彼が神の力で復活して永遠の命に至る道を私に開いて
下さった、その主の死と復活に私は洗礼を受けることで結びつけられた、そして聖餐に与
かることでこの結びつきを私は実感できる。こられがあれば、次の段階に身を投じる時、
受け取って下さる方が確実におられとわかるので何も恐れることはない。もちろんその時
は意識はないかもしれないし、認知症でわけがわからなくなっているかもしれない。しか
し、意識がなくなるまで聖餐を受け続けて結びつきの実感を保ちたいし、認知症になって
も結びつきの実感が余韻として残るくらいに聖餐を受け続けたいと思うのだ。

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歳時記 今の一号遺跡

〈 10私は自分の願いを何でも満たそうとした。どんな楽しみも心の赴くままに求めた。一生懸命に働き,心には喜びが生まれた。この喜びこそ私が一生懸命に働いて得た報酬だ。 11  私は,自分の手で行った全てのこと,苦労して成し遂げたことを振り返ってみた。すると,全てはむなしく,風を追うようなもので,この地上に本当に価値 のあるものは何もなかった。伝道の書2:10、11〉

遺跡のあるこの地域の明治時代と現代の地形図を並べてみました。明治時代までは恐らく馬牧が盛んであった当時と地形的には大きく違わっていないと思います。しかし、大規模な団地の造成がはじまると耕作地であった谷戸は調整池となり墓のあった丘は団地の一角に組み込まれてしましました。散歩の折に池を見下ろすベンチに腰かけて往時の姿を空想しています・・・馬が遊ぶ丘の草原と農民たちが畑仕事をしている谷戸と・・・そんな景色を思い描いています。この景色中で変わらぬランドマークは標高131 の風の丘公園だけになりました。

注目!フィンランドのコーラスグループが10月11日のスオミ教会の礼拝で歌います!

 フィンランドのユヴァスキュラ市のコーラスグループ “ソイセリ(Soiseli)” が10月12日ふじみ野市(埼玉県)で開催されるコンサート・イベントのために来日、その前日の11日にスオミ教会の礼拝でも歌います。中世の教会音楽からシベリウス作曲の讃美歌まで幅広いジャンルのメロディーは賛美の雰囲気を一層高めるでしょう。礼拝後のコーヒータイムの時にも歌って下さいます。この機会にも是非スオミ教会にお越し下さい! ソイセリ合唱団とは?  フィンランドのユヴァスキュラ市に拠点を置き、現在約20名の団員を擁するアカペラの合唱団です。指導と指揮を務めるのは2003年からフィンランドに在住している石山千佳子さん。
小編成であることの利点を生かした声楽アンサンブルとして活動を始め、2021年に初舞台を踏みました。その後、人数も増え、2025年に小規模な混声合唱団へと発展、「歌う喜び」と「仲間意識」を大切にし、歳を重ねても美しい響きと正確な音程を保てる合唱団を目指しています。
レパートリーはフィンランドの民謡が中心ですが、季節に合わせた選曲や新しい曲にも積極的にチャレンジしています。 高齢者施設や様々な団体のイベントで演奏しています。

 10月12日にふじみ野市にて開催される「音楽と文化でつながるフィンランド交流イベント」の詳しい案内はこちらのリンクからご覧ください。秋の一日、フィンランドの音楽と文化に触れる一時を是非お楽しみ頂ければと思います。

https://fujimino-bunkakyokai.com/event/Finland_traditionalculture

牧師の週報コラム 

日本でキリスト教の第四の波は起こるか?

この夏フィンランドのSLEYの研修大会で「SLEYの日本伝道125年-何を達成し何が達成されていないか」というワークショップを担当した。 私自身も含め出席者たちの驚きは、SLEYが1961年に日本福音ルーテル教会と合同して以後、受洗者数は一貫して減少してきたことだった。何のための合同だったかと疑問が生じても無理はない。SLEYは1930年代に自分たちが設立した教会や幼稚園から成る「福音ルーテル教会」という教団を結成した(ただし法人格は財団法人)。戦中戦後の紆余曲折を経て米国のルーテル教会を背景とする日本福音ルーテル教会に合同する決定をして教団を解散、設立教会と幼稚園はみな合同先に移譲した。日本福音ルーテル教会の年間受洗者数は1960年は500人超。戦時中の事実上ゼロ状態から僅か15年で急上昇したわけだが、それ以後は減少に転じ40年かけて2000年の150人まで下降。以後、漸減の状態で現在に至っている。

日本で最初にキリスト教が広く受け入れられたのは室町末期から江戸初期にかけての頃。群雄割拠の下剋上の時代に、真の救い、永遠に滅ばないもの、心の平安を説くキリスト教が多くの日本人の心を捉えたことは想像に難くない。しかし、天下統一が成るや為政者の権威と支配に盾突くものと映り、徹底的に弾圧されてしまった。

次は明治維新後。欧米との圧倒的な力の差を見せつけられた日本人は国のあらゆるレベルで欧米に倣った改革を断行。キリスト教は精神的なレベルの改革だったか。日本は途上国レベルから一気に五大国の一つに駆け上がるが、1930年代からの国粋主義、軍国主義の猛威の前に教会は窮地に立たされてしまった。

そして敗戦後のキリスト教ブーム。戦後すぐに洗礼を受けた方の何人かと話をしたことがある。皆さん共通して口にした言葉は、あの頃は価値観の空白があった、それをキリスト教が満たしてくれたということだ。当時はどこの教会の礼拝も満員御礼で教会学校も子供たちで溢れかえっていたという。それが60年代70年代に入っサーっと潮が引くように去ってしまったと。では、60年代以後の日本人の価値観は他のもので満たされるようになったということなのだろうか?それは何か?経済的な豊かさ?

しかし、今はどうだ、かつての世界第2位の経済大国は今では第4位、もうすぐインドに抜かれて5位に落ちる見込み。マスコミは何かにつけて「G7最下位」と言うが、それだとまだ世界8位か9位にいるような錯覚を起こさせる。しかし、一人当たりのGDPを見てもわかるように、かつてベスト5内に入っていたこの国は今では40位近くに転落、韓国にも及ばなくなって久しい。平均賃金は言うに及ばずだ。円の価値の下落から明らかなように今の日本は政府主導の下、後進国を目指して突っ走っているとしか思えない。国民の間に広がる経済的な余裕のなさ、武力に訴えるのが常態化した国際社会の中での立ち位置をどうするか、巨大地震を含め大規模化する自然災害にどう備えるのか、このような状況に置かれた日本人が怯むことなく立ち進んでいける支柱は何か?時の為政者が定める官製愛国心にそんな力があるのか?私は、キリスト信仰、有り体に言えば使徒的伝統に立つそれにこそ可能性があると信じている。

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

 

秋の最初のフィンランド家庭料理クラブは10月10日(土)13時から開催します。

今年の夏フィンランドではラズベリーがたくさん実りました。それにあやかって今回の料理クラブではラズベリー・ケーキを作ります!生地の上にラズベリーをふんだんに並べ、ヨーグルトのクリーミーなフィリングをトッピングにすると、甘酸っぱいラズベリーの味とチーズ・ケーキのようななめらかさを合わせもつケーキができあがります!そんな味わいのあるラズベリー・ケーキを一緒に作ってみませんか?

参加費は一人2000円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、
paivi. yoshimura@gmail.com まで。

2026年9月27日(日)午前10時半 聖霊降臨後第18主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年9月27日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書21章23~32節

説教題:「神の権威をもって、戦う救い主」

 

テレビのニュースを観ていて、戦争のニュースがない日はない。毎日、世界中の彼方此方で戦争で若い兵隊が命を失っている。爆撃で建物が一瞬に壊され病院や学校、大切な施設まで容赦なく破壊されている。悲惨極まりない悲劇が繰り広げられています。戦争は権力を持った国が権力の弱い国を容赦なく奪い取ろうと武力で戦ってゆく。人間や国の権力の争いが悲劇を生んでゆきます。

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今日の聖書は権力の問題で、主イエス様に対してユダヤ教の指導者たちとの問答です。表面上の言葉のやり取りの勝ち負け程度のものではありません。イエス様からしてみれば神の使命を受けた命がけの十字架の死に関係する大変な激しい戦いであるのです。今日の聖書を見ますとマタイ21章23節以下に権威についての問答とあります。23節「イエスが神殿の境内に入って教えておられると祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこような事をしているのか。誰がその権威を与えたのか」。ユダヤ教の最高の指導者たちがイエス様に、何故このように言って来たのでしょうか。「何の権威で、このような事をするのか。」と、実は激しい戦いを挑んで来ているのです。イエス様に対してこのような事をする権威を持ち出して来て言いがかりをつけて言っているのです。そこで彼らが言う「このような事をする。」と言っているのは何かと言いますと、12節以下でマタイはちゃんと神殿で起こった事を記しているのです。イエス様が公の活動が始められて生涯の最後の週となります。21章の始めにいよいよイエス様はロバに乗ってエルサレムに入城をされると多くの群衆がホサナ、ホサナと歓声を上げて迎えます。12節から見ますと「それからイエスは神殿の境内に入りそこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を蹴倒され。そして、こう言われた。こう書いてある『私の家は祈りの家と呼ばれるべきである。』・・・普段は穏やかなイエス様と全く変わってエルサレム神殿で商売をしている者を皆蹴とばして怒り狂って叫んでおられり。神殿は祈りを献げる神の神聖な家なのだ!と、宮清めをなさった。この様子を見た、言わば神殿の管理をしているユダヤ教の指導者たち、つまり祭司長や律法学者たちはもう、内心怒りに満ち激しい憎しみを抱いていたでしょう。こうしたイエス様の激しい行動の出来事があって、今日の聖書の箇所です。その翌日、イエス様が神殿の境内で集まってきた人々に教えをなさっているところへ祭司長や長老たちが近寄って来た。そこで、昨日の神殿内でなさった商売人たちを追い出された暴挙について「ナザレから出てきた預言者とみんなが言っているお前はいったい何の権威でこのような事をするのか」と、言わば挑戦して来ているのです。彼等は神の権威は自分たちが持っているのだ、だからこの神殿の管理の全責任もあるのだ。それなのに、ナザレの田舎から出てきた、一介の教師にすぎない若僧が群衆の人気を得ている。そんな男にどんな権威があるというのだ。彼らはユダヤ教の指導者でありエレサムの最高の議員であるサンヘドリンという権力者たちです。ですから、イエス様を見下して質問しているのです。イエス様は彼らの質問に答えられました。「では、私も一つ尋ねる、それに答えるなら私も何の権威でこのような事をするのかあなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は何処からのものだったか。天からのものか。それとも人からのものか。」イエス様の返答は彼らの質問内容には答えないで、かえって反対に質問をされ彼らの口を封じられました。ユダヤ教の最高指導者と雖もバプテスマの人々にヨハネの叫んだ「悔い改めて神を信ぜよ!」という真の信仰への叫びに対して彼らは悔い改めも出来ない、信仰が問い詰められると何も答える事が出来なかったのです。神聖であるはずの神の家を商売の場にしてしまっている、目前の利益の欲に取りつかれて表面だけは信仰ぶって神の権威を乱用しているサンヘドリンの議会の最高権力を持っている祭司長たち長老たちをイエス様は神の家で打ち負かされました。

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そうして、28節から見ますと、即座にイエス様は譬えの話をされます。二人の息子の譬えです。この譬えはあの「放蕩息子」の譬えと似ていると言われています。「ある人に二人の息子があった」と語りだされたところは両方とも全く同じ語り出しです。それだけでなく二人の息子が何れも同じ種類の人々を指しているという点に至るまで全く同じです。つまり、目の付け所はどちらも同じですが「放蕩息子」の譬えよりこの方がイエス様の十字架の死が目前に迫っているだけに、また子の譬えが語られた相手の方がユダヤ教の大物であるだけにイエス様の語られたところ、その迫力は凄いものがあります。しかも、この譬えはとても短く「放蕩息子」の方よりもっと直截的です。「そのものずばり」といった感じさえします。父親が長男の方へ行き「ブドウ園で働いてくれ」という言葉に逆らわず「お父さん行きます」と答えた。しかし、長男はその言葉通りにはしませんでした。これは何よりもユダヤ教の指導者を始めとしパリサイ派の人たちなど所謂、比較的熱心だと言われる人々の姿を表しているでしょう。彼らは口先では宗教的な事を言い形の上ではいかにも信仰者らしく振舞います。彼らの信仰の考えは上部だけの教養程とでも言える形だけの儀式を人々の前でやるのです。熱心に宗教の事を口にするかも知れませんが彼ら自身の罪深い本質は変わっていない、気づこうとも悔い改めもないのです。それは、あたかも口先では「お父さん。ゆきます。」と答えながら、その言葉通りにはしなかった長男の姿ではありませんか。ところで、もう一方の次男の方も同じように「ブドウ園で働いてくれ。」と言う父親に対して「嫌です」と言いながらも思い直して父の言葉に従います。この次男の姿は「徴税人や遊女たち」のことです。彼らは神の民の一員として生まれながらも神の御心に従わず、神の国の御用に役立つというより異邦人の支配者ローマ皇帝の手先になって税を取り立てたりして民を苦しめていた連中です。また、不倫を金のため楽しんでいるような女性たちです。しかし、バプテスマのヨハネが登場してヨハネの悔い改めの説教を聞いて悔い改めます。ヨハネの教えてくれた救い主イエスにやがて従ってゆくようになる人々です。これは譬えの後で主ご自身が解説しておられる事によってよくわかります。ところが、長男に相当するユダヤ教の指導者をはじめとするパリサイ派の人たちはあの後から思い直して主に従った人々を見ても心から悔い改め、思い直さなかったのです。そればかりか、かえって彼らを見て心を頑なにして自分たちの誇り、自分たちの驕り高ぶった権力を振りかざしてゆく事になりました。イエス様はこの最も単純な譬えを語られてサンヘドリンの指導者たちの頑な心に対して「本当に、私はあなた方に言う。徴税人や遊女たちはあなた方よりも先に神の国に入る。」と言われました。だからといって彼らに対して「あなた方は後からでも入る。」とは保証されませんでした。しかし、そうかと言って「絶対に入れない」と言って突っぱねてもしておられません。主イエス様は最後の最後まで神様の前に心から悔い改めをすようにと真剣に救いの機会を与えて待っておられるのであります。この譬えから私たちは罪の根源にどうしても自己を守ろうとする、さらに自己中心に理性が正しく働いてくれると思い込んでいますが、大切な事は口先や表面上は色々うまく繕っても神の前に真実に悔い改めて実行してゆくことであります。自己中心的な自我を砕かれる事を快しとしない自分がいることに気づくことです。「お父さん、嫌です」と言っても神様の前に思い直して従ってゆく姿をこそ主イエス様は最後には喜んで下さるのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

歳時記 続・一号遺跡

〈 10私は自分の願いを何でも満たそうとした。どんな楽しみも心の赴くままに求めた。一生懸命に働き,心には喜びが生まれた。この喜びこそ私が一生懸命に働いて得た報酬だ。 11  私は,自分の手で行った全てのこと,苦労して成し遂げたことを振り返ってみた。すると,全てはむなしく,風を追うようなもので,この地上に本当に価値 のあるものは何もなかった。伝道の書2:10、11〉

続、一号遺跡

承前。この一号遺跡は散歩の途中にあり此処を通らなければ家には帰れない関所のような所でした。十年ほど前にこの遺跡を知りました。当初からこの遺跡の竪穴遺構は馬を飼うための施設、馬小屋の跡ではないかと思っていました。何故ならば、竪穴の四周の壁はまさに馬牧の柵に匹敵するからです。古代から馬牧は山や丘、川などの地形を利用してきました。その足りない部分を柵や土塁などで補っていました。竪穴が馬を飼う施設と知り今度は当時の馬の大きさについても調べてみました。当時の馬は現代のサラブレッド(背高165㎝)とは異なる蒙古馬系の小型の馬(背高130㎝)でした。遺跡の観察の回数も増えてきましたので次にこの遺跡の復元図の作成を試みたくなりました。幸い図書館に遺跡の調査報告書があるのを知り取り寄せて調べてみました。考古学的には良く出来た報告書でしたが遺構についてはあまり参考にはなりませんでした。それでも、遺構の計測の資料があったので参考にしました。幾度も通っているうちに次第に全体のイメージがまとまって来ました。しかし、三点ほどどうしても解けない謎がありました。第一は竪穴と馬の出し入れ。第二は南北の二種類の柱(丸太柱、太鼓落としの角柱)。第三は東西の妻側の真ん中の芯ずれした独立柱の意味などでした。しかし、図面を引いているうちに次第に謎が解けてきました。第一の馬の出し入れはスロープを設ける、でした。第二、第三は少し専門的になって説明し難いのですが、第二の謎は太い丸太の柱は梁を受ける柱、太鼓落としの角柱は軒桁を受ける柱、と柱を二通りに使い分けていたようです。第三の謎は一番難しかったのですが馬の出し入れにはどうしても柱の中心線をずらさなければ馬の出し入れが出来なかった、それで馬の大きさが必要でした。この柱はそのための苦肉の策のようでした、当時の大工は技術的にも未熟で、それに相応しい道具も持ち合わせていませんでした。それ故に彼らなりに考えた解決法でした。図面を引きながら何時しか当時の大工と同じような気持ちになり同じように考えていました、そして考えた末の図を此処に掲げました。

終わりに。調査報告書によるとこの館は中世の町田市全域に渡る激しかった戦乱の業火にも会わず、何故かそのままの形で捨て置かれたようです。その証拠に貴重な財産である天目茶碗や明銭の束が出土していました。また、調査報告書には館の北東の隅に断定は出来ないが火葬跡があったとの記述があります。当時の火葬は高貴な人や豪族、僧侶などに行われていたようです。・・此処から先は私の極めて勝手な想像です。火葬されたのが、館の当主でしたら、その死は予想もしない突然の死だったかも知れません。当主の死後、館は慌ただしさの中に残された財産の始末もなされずに館を閉鎖して残った人々も一斉に去って行ったのかもしれません。谷戸の向かいの尾根にはこの館の当主のものとみられる人の墓が掘り出されました。館の当主は自分の死後もこの館の顛末を見ていたに違いなかったと思っています。了

ところで最近の散歩でまた新たな疑問を見つけました、ひとつの謎を解き明かすと又次の疑問が生じてきます。全ての疑問を解き明かす事は到底無理ですが何処までやれるか自分の寿命との競争ですね。

太鼓落としの柱:丸太の二面を削って角柱にした。  芯ずれ柱:柱間の中心線から外れた独立柱。外観図について:厩舎の屋根は安価で手に入れ易い杉或いは桧の樹皮を葺いています。館は茅葺を想定しました。周囲の建物は倉庫、厠、作業人らの小屋等です。

  

歳時記

 

一号遺跡

〈 また彼らはおのおのその割当にしたがって馬および早馬に食わせる大麦とわらを、その馬のいる所に持ってきた。 列王記上4:28〉

”赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ” 宇遅部黒女 万葉集には多摩の名が出て来る歌は二首しか載っていません。この歌は多摩での馬牧(うままき)を現わしている貴重な歌です、この歌には当時の多摩丘陵での馬牧の様子がよく表されています。古来から多摩では馬牧が盛んでした。丘陵での馬牧は丘に囲まれた谷戸が最適でしたが谷戸は耕作地が少ない多摩では食料生産の場として使われていました。黒女さんのように馬は山野(丘陵)ではがし(放牧)されていたようです。また多摩には大きな集落が少なく小さな集落が点在していました。従って馬の飼育も個人単位で行われていたようです。黒女さんも一頭しか飼っていなかったのでその赤毛の馬を捕まえそこなって防人となって出征する夫を多摩の横山道を歩いて行かせてしまった、と嘆いています。今回の一号遺跡の概要は歴史的には平安末期から室町期にかけての遺跡とされています。遺跡は谷戸を見下ろす南面した丘の中腹を開削して東西約50m南北約10~20m、面積約800㎡の平坦地を造成し尚且つその中央に12m×6m、深さ約1.3~1.5mの大型の竪穴を設けてあります。またその東西には複数の建物群の遺構もあります。資料によると。12世紀に小山田別当有重と言う人がこの地に広大な馬牧を営み配下にも谷戸の開墾を進めた。とありますので確かではありませんが有重の配下の人が起こした馬牧の場であったのかも知れません。私は散歩の折に何度も此処に佇み往時の姿を思い起こしていました。(次回へ続く)

馬牧(うままき): 飛鳥時代の頃に兵部省によって管理された牧場で、主に軍馬や貴族への貢馬、駅伝馬などの供給源とされました。馬牧の立地は、山や丘陵に囲まれた窪地が利用され、袋状の谷戸に馬を追い込み、出入口を馬柵棒(ませぼう)をかって馬の逸出を防いだり、外部からの危害を防ぐ繋飼場(けいしば)にもしたと言う。この小山田の地はその適地だったと言えます。