お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
今フィンランドはリンゴやベリーの季節です。今回のメニューは、フィンランドの多くの家庭で作られるリンゴ・ケーキです。リンゴ・ケーキはいくつか種類があり、今回のものは生地にシロップやオートミールを混ぜてしっとり感を持たせます。リンゴも厚切りにし、黒砂糖、シナモン、カルダモンなどのスパイスで味付けしたものを生地の中に押しこんでいきます。そうすることで生地全体の風味が一層リッチに引き立つのです。バニラアイスを添えたりバニラソースをかけて味わえば、お口の中に贅沢感がひろがることうけあい!そんなリンゴ・ケーキをご一緒に作ってみませんか?
参加費は一人1,800円です。 どなたでもお気軽にご参加ください。 お子様連れでもどうぞ! お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1762250942iamg@1762250942arumi1762250942hsoy.1762250942iviap1762250942 まで。
この秋の最初の手芸クラブは9月24日に開催しました。暑い日がずっと続きましたが、やっと秋を感じさせる涼しい朝を迎えることができました。
今回の作品はクロスステッチの刺繡です。初めにモデルを見て自分の作りたいものとそれに合う糸を選びます。それから作りたい模様の形を色鉛筆で書いてから刺繡に入ります。クロスステッチには少し細かいことがあるので難しく感じられるところもありましたが、皆さん一生懸命頑張りました!
だんだん可愛い模様が見えるようになると、「可愛い!」「素敵!」「色合いがきれい!」などの声があちこちから聞こえてきました。今回は参加者の皆さんが刺繡に興味をもっていたので積極的で賑やかな雰囲気でした。楽しくおしゃべりしながら可愛い刺繡の模様がどんどん大きくなります。刺繡は完成まで時間がかかります。来月も続けたいと希望する声があがりました。それで来月は今回の続きをすることに決めました。
クロスステッチ刺繡は細かい作業を要求するので目が疲れます。それでは、コーヒータイムで一休みしましょう!今回はコーヒーブレッドPullaの他にも、下関に里帰りされた参加者の方がお持ちになられたお土産「ふぐのおかき」と別の参加者の方が育てられたフィンガーライムという珍しい果物などもテーブルを飾りました。それらを皆で一緒に味わいながら話し弾むコーヒータイムになりました。
その時にフィンランドの家の壁飾りによく刺繡されてある文章に関連して、聖書の「放蕩息子」の教えや天の神さまのもとには私たちの帰る家があるということについてお話を聞きました。
次回の手芸クラブは10月29日に開催予定です。開催日が近づきましたらホームページに案内案内を載せますので是非ご覧ください。
刺繡はフィンランドで何世紀にもわたって親しまれてきた手芸の一つです。小さなクロスステッチで作った花などの模様は服やインテリアに可愛らしい趣きを増やします。スオミ教会の手芸クラブではいつもクロスステッチのテクニックを使って刺繡をしましたが、刺繡のテクニックは本当は数えきれないくらい多いです。ある本には200のテクニックが載っています。私たちにはまだまだ習得するテクニックがたくさんあります。
フィンランドでは刺繡で作る壁飾りはスウェーデンから伝わり、昔からよく作られました。それらは、家のすぐ目に入る場所によく掛けられました。壁飾りとはどんなものでしょうか。普通それは、周りに刺繡で作られた可愛い飾りがあり、中央には色んな文、格言などが刺繡されています。文は普通は、心を慰めたり励まするものです。多くは聖書や讃美歌の一節です。例えば「神の恵みは朝ごとに新しくなる」「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」です。
壁飾りに刺繡された言葉は家や家庭の大切さをよく表しています。私の実家には母が自分の母(私のおばさん)からもらった壁飾りがあります。そこには「勤勉は幸せの母」と刺繡されていました。母はいつも家庭の為に一生懸命働いていたので、これは母にピッタリの言葉でした。
もう一つよく知られている言葉は「家は黄金のように貴い」です。外から家に帰ると、ホッとしたり安心したりするでしょう。家は安らぎのある場所なので、「家は黄金のように貴い」は家の壁飾りに相応しい言葉でしょう。皆さんは壁飾りにはどんな言葉を刺繡するでしょか。
今日の聖書のお話は「家」に関係するものです。聖書は家について多くのことを教えています。私たちにはこの世にある家の他にもう一つの家があることを教えます。それは天と地と人間を造られた天の神さまのもとにある家です。神さまはそこで私たちのために場所を準備下さって、私たち一人一人をも含めて世界の全ての人たちご自分のもとに招かれるのです。しかし神さまは神聖なお方です。私たちは神さまの御心に沿わないをしてしまいます。そんな私たちを神さまは迎え入れて下さるでしょうか。
ここでイエス様が話された「放蕩息子」という有名なたとえの教えを紹介したいと思います。ある家に息子が2人いました。それは雇い人が沢山いる裕福な家でした。弟の方はある日、外国に行きたくなって、父親に言いました。「お父さん、お父さんが死んだら僕のものになる財産を今すぐ分けてよ。外国に行ってしたいことがあるんだ。」父親が何を言っても息子は聞こうとしません。父親は自分勝手な息子を悲しく思いましたが、財産を兄弟に分けることにしました。弟はそれを全部お金に換えると遠い国に旅立ちました。
息子はそこで華やかな生活をしました。高価な服を着て美味しいものを食べ、お酒を飲んで毎日遊んでばかりいました。しかし、いつかお金はなくなってしまいました。ちょうどその時、その国にひどい飢饉が起こって、彼は食べ物に困り始めました。
それで息子は仕事を探し、豚の世話する仕事をもらえましたが、お腹は空んたままでした。きたなくて冷たい豚の餌を食べたいと思うほどでしたが、持ち主は認めませんでした。その時、息子は父親の家には温かい食べ物も暖かい部屋もあることを思い出し、もう帰ろうと思いました。でも、父親の財産を無駄に使ってしまった自分父親は受けて入れてくれないでしょう。それで、雇い人の一人にしてくれるようにお願いしようと決めました。父親の前で言う言葉を考えました。
そして、懐かしい家が見えてきました。すると、最初父親の方が遠くからやってくる息子に気がつきました。着ている服はボロボロで、体中汚く、顔も痩せていましたが、すぐ息子だと分かりました。父親は息子に向かって走って行きました。息子は父親のが走りくる姿に驚きました。その時、考えていたことを言おうとしましたが、父親は息子を抱きしめたのです。驚いた息子は、抱きしめられたまま考えていた言葉を言いました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はないんです。」しかし最後の言葉「雇い人の一人にして下さい」を言おうとすると、父親はそれを遮って家来たちに盛大なお祝いの準備をするように命じました。それからこう言ったのです。「息子は死んでいたのに、生き返ったのだ。見失われていたのに、見出されたのだ。祝うのは当然のことではないか!」
父親は罰ではなく息子を愛をもって受け入れたのです。このたとえに出てくる父親とは神さまのことで、息子とは私たちのことを表しています。私たちも神さまの元に立ち返るなら神さまはこの放蕩息子と同じように必ず大喜びで私たちを自分の家に迎え入れて下さるのです。神様のもとに帰る人は皆、神様の子どもなのです。
壁飾りの他にも刺繡したテーブルクロスやクッションは家の雰囲気を温かくし、私たちを喜ばせてくれます。それらを目にする時、神さまのもとにある「家」を思い出しましょう。神さまは私一人一人をそこに招いてくださるのです。
コスモスと甲斐駒ヶ岳
<1 たしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。 2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。 詩編121>
6月以来の山梨県北斗市白州です。初夏の時は白州は至る所に夏の花が咲いていましたが、此度の白州は路傍のコスモスが主役となり道行く人を楽しませてくれていました。山の団十郎、甲斐駒ヶ岳も昼下がりの秋の日を浴びて眠たそうでした。
盗人萩(nusubito hagi)
「憎まれっ子世に憚る」の譬えではありませんが、厄介な盗人萩が今年は異常に繁殖して裏の叢にも道の両脇にびっしりと咲いて通りかかる人々を困らせています。本来の萩はどういう訳か今年は不作で寂しい限りです、萩の鮮やかな紅色に対して盗人萩は桃色で花の時期は可愛い花ですが先端の種が曲者で枯れるとうっかり触れるとその種が纏わりついて叩いてもなかなか取れない厄介ものです。
最近フィンランド事情(その1)
今年夏のフィンランド一時帰国中に現地のニュースや社会的話題で目にとまったものをいくつか紹介します。
まずは、法改正で小中学校の生徒たちが授業中にスマホを使用できないように学校側が管理する権限を与えられ、そのことが新学期を前にして新聞で大きく取り上げられていた。対面コミュニケーション増進のため休み時間も預かるような運用をする学校も。今年は子供の水死事故が多く、水泳教育の必要性が広く議論された。そう言えば、フィンランドの学校の体育には水泳はなかったと思い出された。
8月半ば米ロ首脳がアラスカでウクライナ停戦問題について会談したのを受けて、ホワイトハウスで欧州主要国との話し合いが行われた。英独仏伊EU首脳と並んでストゥッブ大統領も招かれていた。冒頭トランプ大統領から「ヤングでパワフルな男」などと評され、ジョークで返す余裕さ。フィンランドが1944年にソ連軍の大攻勢を食い止めて休戦に持ち込んだ経験が買われているのだろう。
ただ、現在は経済はあまり好調でないようで来年は上向く見通しだが、失業率はEUではスペインに次ぐ悪水準の9%超。Fitch Ratingsの国債信用度の格下げもあって10億ユーロの歳出削減の重圧。財務省の予算案策定でいきなり移民難民の社会統合支援が槍玉にあげられ移民難民の受け入れ是非の議論に発展。他方でフィンランドも少子高齢化の波が押し寄せている現実も明らかに。出生率は1,25(日本は1,2)、移民受け入れが仮に今の水準で続いても2040年から総人口は減少に転じる予想。2030年までに小中学生は10万人減り、500校が統廃合になると。日本創生会議の「消滅可能性都市予測」を彷彿させる議論が今起きている。きっと官界学界あげて先を往く日本の動向を注視していることだろう。
ここで、教会で仕事する者として目を引いたニュース・話題は、若者の間でキリスト教回帰が見られること。フィンランドは1980年代まで国民の90%以上がルター派国教会に属する“キリスト教国“だったが、その後キリスト教離れが進み、人口550万人の国で毎年5~6万人が教会を脱退、現在は60%すれすれまで落ちた。ところが、最近の傾向として10代20代の若者の間で洗礼を受けたり(つまり親が無宗教なため洗礼を受けていなかった)、信仰を告白する者が増加していることが統計的にも明らかになってきていると。このことについては次号にて少し詳しく紹介します。乞うご期待。
葛の花(kuzu no hana)
〈わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。 申命記11章14節〉
秋の花を代表する葛の花がようやく咲き出しました。今年は猛暑が続いたせいか秋の花が遅いですね、萩はどうした事か不作に終わったようです。代わりに盗人萩が異様に増えています、夏の猛暑は自然界にも影響が大いにあったようです。葛は古くから日本人に愛されてきた植物です、花は乾燥させて煎じて飲むと二日酔いの薬になり、蔦はほぐして糸にして織ると葛布となって愛されてきました、また根は粉にして菓子などに使われてきました、風邪予防の葛根湯は我が家の常備薬として今でも薬箱に収まっています。序に秋の七草について覚えやすく、オスキナフクハと覚えておくとよいそうです。(オミナエシ・ススキ・キキョウ・ナデシコ・フジバカマ・クズ・ハギ)
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン 2025年9月21日(日)スオミ教会
聖書:ルカ福音書16章1~13節
説教題:「不正な管理人の譬え」
本日の福音書はルカによる福音書の16章1~13節まであります。ルカは15章でイエス様が三つの譬え話をされた事をかいています。失われた子羊を見つけ出すまで探す羊飼いの譬え話と無くした銀貨を探し出す女の譬え話、そして有名な放蕩息子の譬え話です。どれも分かり易い譬えであります。ところが、今日の16章では一転して「不正な管理人」の譬え話は理解するのに容易ではない話です。ある学者はイエス様が語られた譬え話の中で一番難解な譬え話ではないかと表現しています。
何故かと言いますと不正を働いた管理人を信仰の模範とするようにとイエス様が褒めておられるからであります。どうして褒めておられるのか理解に苦しむから難しい。イエス様が16章のこの譬え話を話されている相手は弟子たちです。弟子たちがこれからこの世に出て行って神様の働きをして行く使命を持って伝道して行く場合にこの世の激しく困難に満ちた中でどのような心構えが必要かを教訓として話されているのです。現代の私たちの教会がこの世にあってどのような心構えで伝道して行くのか、またキリストの証人として、どう生きていったら良いのかを、これらの課題への教訓でもある、と思います。さて、この譬え話の主人公は「不正な管理人」と言われています。別の言葉で簡単に言いますと、彼はなかなかずる賢い管理人であった。ある神学者の研究では彼は奴隷であったという。しかし、大変に賢い奴隷であった。主人は奴隷であった彼に全財産を管理する大切な責任を委ねたわけです。それだけ彼を信用したのでしょう。随分、思い切った事をしたと言って良いでしょう、彼はこの主人の信頼に一生懸命応えて働いたことでしょう。イエス様の時代、パレスチナでは大地主と言われる人が多くいたのです。この譬えで語られる主人もそういう大地主の一人でありました。主人としてやるべき仕事もすべて管理人の手に任せていたのでしょう。ところが、この管理人は長年やって行く中に、まぁ上手くご、まかしていたわけです。横領の罪を重ねて行ったということであります。しかし、それが長く続くわけがありません。他の誰かの色々な告げ口でこの事が主人の耳に入りました、上手くごまかしていたつもりでも横領していた事がばれてしまったわけです。そして、彼はついに解雇されるはめになったのです。さあ・・そこで困った!彼はこのばれた悪事に対して反省はしたでしょう、がすぐさま自分の身に起こったこの事に対して素晴らしい一つの考えを巡らして行くのです。彼が主人のもとから追い出されるまでの短い期間にどうにかしなければならない。彼は帳簿を偽造する、という事を考えついたわけです。そして負債を背負っている者一人々を呼びまして実際に負っている負債の額よりもはるかに少ない額に書き直すという事をさせたのです。パレスチナでは地代を地主に払う場合はお金で支払うのではなく、その借地から採れた穀物とか油とか、そうした借地から収穫される物の一部をもって地代として支払うということをしていたのです。本来なら主人はあれだけ信頼して任せていたのに不正をして横領していたのが知れたのですから、この裏切者に対してそれ相当の罰を加えるのが当然でしょう。ところが主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めたのです。此処がこの譬えを理解するのが難解なところです。主人は何故このような不正を褒めたのでしょうか。ここでの管理人のやった事には二つの彼にとって有利な面があったのです。一つ目は、負債をしていた者は油100バトスを借りていたわけですが、それを半分の50バトスで良いとなったわけです。そうするとこの管理人に対して大変有り難いと思うでしょう、助かったのです。二つ目は負債者をそういう風にうまい具合に書き換える事によっていわば管理人も横領の罪を犯すわけですがそれに応じて書き換えてもらった負債者もまた言わば共犯者になってしまう、共犯者として巻き込んでしまうわけであります。そして、最悪の事態には体の良い強請りができる。こういう二つのまことにずる賢い事を考えたのです。しかし。その結果はどうなったか、と言いますとこれがみんなばれてしまったのです。
ところで、この主人はいくらか悪戯好きの太っ腹の人だったようでありまして余り厳しく裁くという事よりも主人は管理人に対してその『賢さ』、また『抜け目のなさ』に彼を誉めたのです。この譬え話を語られたイエス様は弟子たちに何を教えておられるのでしょうか。8節の後半を見ますとイエス様は「この子らは自分の仲間に対して光の子らよりも賢く振る舞っている。」と言われています。この譬え話をもってイエス様はどんな意味を含めて譬え話の中に語り示して行おうとされているのか、と言う事であります。主人というのはこの譬え話で神様のことです、或いはイエス・キリストの救い主の事をであります。この世の子らは此処にあります正しく賢く振る舞ったあの管理人の姿でしょう。そして光の子らというのは神様を信じているキリスト者であり、また私たち一人一人信仰を持った信徒であります。不正な管理人が象徴的している現代のこの世はどうですか、科学はこの凄く発達しても戦争の飽くなき殺し合い、詐欺が横行し、インターネットの発達は考えられない程、世の中便利にはなっても政治に悪用されて国や経済までも狂ったり歪んだりしてしまっている。
私たちの生きているこの世の泥沼のような中で光の子であるキリスト信徒は清く正しく貧しくとも耐えて神の御国への希望をもって生きよ。その場合に神様は賢く振る舞い一生懸命に生きよ。正直に生きようとすれば、騙されたり損をしたり思い通りにならない、報われない現実があります。キリスト者としてこの世の現実に生きてやがて最後に人生の総決算を神の前で迫られる。現実の自分の思い、教会で教えられる神様の言われる通りに生きようとする時、帳尻が合わない、ここに心の葛藤が起こります。そういう私たちの姿はまさに信仰と言うものとこの世の現実の中でずる賢しく生きねばならない。そこで不正な管理人のように抜け目のないずる賢しさに精一杯生きようとする。光の子らもそれを模範としなさい。そこで私たちの主人である神様が褒めておられるその意味は何であろうか。誤解しないで注意深く聞く必要があります。ここで信仰者はこの世の曲がりくねった不正に満ちた中で少しでも良いことをして帳尻を合わせようととするならそれは道徳の問題になり修養して行く律法主義者になってしまうでしょう。イエス様はこの譬えの中ではそういう事を決して言っておられない。イエス様は9節で「不正の富を用いてでも友達を作りなさい。」と言っておられるのです。友達を作りなさい。そうしたら富が無くなった時、その友人があなた方を永遠の住まいに迎え入れてくれるでしょう。キリスト者である私たちが生きてゆく場面々で出会った人々、その行い、それは神様があなたに与えられている材料であるわけです。その材料を用いて友人を作ることによって、それは神様の愛の結晶として現れてくる。信仰の作品として実を結ぶことになるのです。あなたは気づいていないかも知れないが、神様の愛の結晶は実を結んで思いもよらない所で花を咲かせて発展していますよ。そうして、あなたの人生の総決算で天の父なる神様の前で「よくやったね」と言ってくださる。自分でも気づかなかった信仰の証しの全ての全てを神様はちゃんと知っておられて総決算をされます。神の御国の終末での救いを、私たちはその一点に限りない希望をもって、心の葛藤をしつつ精いっぱい生きれば良いのであります。 アーメン
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
ルカによる福音書14章1、7〜14節
「神の前で自分を低くするもの」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、「上席を選んで座る人を見て」
今日の箇所は、14章は1節を見てわかる通り、イエス様がパリサイ派のリーダーの家に招かれたとことから始まっています。7節以降が今日の箇所になりますが、イエス様は、その食事につく招かれた客達のある姿を見て例えを語るのです。7節からですが
「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」
その食事には、イエスだけでなく、多くの他の人々が招かれていました。その招かれた人々は「上席を選んで」座ったのでした。そこにはそのようにユダヤ人社会で、ある程度、地位が高い人々が招かれていたのでしょう。そのような食事の席でした。ユダヤ人社会は非常に厳格な階級社会ですから、そのような食事の席についての決まり事には厳しいものがありました。偉い人、階級の高い人が上席に座るのです。しかしここで招かれていた人々は、その上席を「自ら
「選んで」座っているとありますから、彼らは周りの人からだけでなく、自分自身でもそうだと認めていて、自分は当然、その上座に座るものだと思って座っていることを、このことは意味しています。そのような情景を見て、イエス様はある例えを話すのです。それは婚礼の披露宴に招かれた話です。
2、「婚礼の披露宴のたとえ」
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」8-10節
イエス様は婚礼の披露宴に招かれた場合を想定し述べます。その時にもしそのように最初から上席に座ってしまったら、後で、自分より身分の高い人が来た場合には、その席を動いて譲るように言われ、動かなければいけない。その時は、恥をかいてしまうというのです。これはこのパリサイ派の食事の席で上席を選んで、自分たちは当然そこに座ると思っている人に対して話しているので、そのような例えにあるような場面が起こった場合には、まさにその高いプライドが損なわれるのです。イエス様は、そのような上席を選んで座る人のプライドの高さと、そのプライドは壊れやすく脆く恥をかきやすいものであることも暗に示唆しているのです。ですから、最初から上席に座ってはいけないというのです。むしろ10節ですが、招かれた席では、末席に座りなさいと言います。そうすれば、今度は逆のことが起こるというわけです。招いたホストは、「もっと上席にどうぞと言うでしょう」と。そして面子をつぶすことはないのだと。
この例えには、イエス様独特の皮肉が込められています。ここにある「恥」とか「面目」とかという言葉は、まず、そのような上席を好んで座る人々の心を大部分、占めているものがプライドであることをイエス様は分かっていることを意味しています。それが上席を好んで、選んで座ることに現れているのですが、それは、絶えず恥や面目を気にし、プライドを大事にし生きて行動している彼らの姿であることをイエス様は例えているのです。
3、「単なる道徳の教え?」
けれども、イエス様がこの例えを話すのは、ただ「末席に座りなさい」「謙遜でありなさい」「プライドにこだわるな」等々、ただの教訓、ただのあるべき態度や行動、あるいは望ましい道徳や倫理を伝えたいのでしょうか?あるいはただ、彼らを皮肉って批判することがその言葉にある本当の目的なのでしょうか?そうではないでしょう。実はここには、それ以上のことが伝えられていることを、教えられるのです。この例えの最後に、イエス様は、実に意味深い言葉で結んでいます。
A, 「高い、低い」
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」11節
この言葉だけだと確かに人生の教訓めいたもののにも聞こえます。しかし果たしてそうなのでしょうか?ここには「低くされる。高められる」、「高い、低い」とあります。しかしそれは単に人間社会の上下関係のことを言っているのでしょうか?イエス様の神の国にあって、階級があるのかどうか、身分によって上座や末席などがあるかどうか、それはわかりません。そのようなことは一切、書かれてはいません。有名な記録として、弟子のヨハネとヤコブの兄弟は、お母さんに頼んで、神の国が来たら、自分たちをイエス様の右と左において欲しいとお願いした場面があります。しかし、その時も、イエス様は彼らに、それは父なる神がお決めになる、つまり全ては神の御手にあることだと、イエス様は答えただけでした。それは人の側では、全く心配する必要がないという意味でした。
では、このところでイエス様は何を伝えたいのでしょうか?イエス様はここでどのような神の国を示唆しているのでしょうか?まずイエス様は、この11節の言葉で、そのような世の人々や、特にパリサイ人や上席を好んで座る人々が気にすこととは、むしろ「逆」のところにこそ神の国はあることを伝えようとしていると思われます。それは、神の国にあっては、階級とか身分とかではない、上座かどうかでもない。そして、プライドや恥や面目、面子によって一喜一憂するようなものでも、もちろんない。そのようなことはあろうがなかろうが、神の国にあって重要なことではない、他に最も大事なことがある、として、イエス様は神の国の真理をこう言うのです。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
みなさん、どうでしょう。この「高くするとき、低くされ、低くするとき、高くされる。」ということです。確かに、巷でも、高ぶって自分で上座に座るとき、低くされることがあるわけです。しかしこれが神の国のことであるときどうでしょうか?しかも何より「イエス様が真っ直ぐとエルサレムに目を向けて進んでいる」時です。そのことを踏まえるならば、このイエス様の言葉は、実はただ「人と人との間の階級や位」「人と比べての高いか低いか」あるいは、ただの道徳や「あるべき論」以上のことをイエス様はここで示唆しているでしょう。
B, 「神の前」
どういうことでしょうか?まずイエス様はこの言葉で、神の国は、そのようなこと「人の前」以上に、「神の前」つまり「神と私たち一人一人との関係」を何より指し示しているのです。先ほども触れました。このところで「上座を選んで座る人」のその席は、自他共に認めて当然のように座る席だった、のかもしれません。そのようにいつも上座に座っていて、日常的に決まっていた席だったからこそ考えもせずにそこに座ったのでしょう。おそらく、それまで例にあるような、自分より地位の高い人がやってきたので席を譲ってあげてくださいというようなこともあまりなかったからこそ、そこを当然のように選んで座ったとも言えます。しかし、実は、そのように彼らの日常ではあまりあり得ないこと、つまり、自分では気づかないことを、イエス様があえて「もし〜」と言うのは、その彼らのプライド、高ぶりが、「人の前」以上に「神の前で」はどうであるのかということこそ、彼らはこの例えで問われているということなのです。
皆さん、イエス様はここであえて「婚礼」と言っています。「婚礼」はイエス様の場合、約束の救い主の到来と神の国の実現を示しています。ですから、この例えは実は、最高の上座は花婿であるご自身を示唆していると言えるでしょう。そう、これは単なる食事の例えではない、それを超えた、救いの到来の例えとして、まずイエス様は語っているのです。しかし彼らはこの救い主がこられた救いの時でありながら、そもそもイエスを救い主であるとは信ぜず常に監視の目で見ています。そしてイエスを招いておきながら、まさに神の御子が、救い主が、花婿が来られたのに、そもそもそうだと信じていないのですから、神も見えていなければ、人の間の、人の前の自分のことしか見えていないのです。だからいつものように上座に座りました。まさに真の上席に座るお方が来ているのにです。彼らは救い主としてのイエスが全く見えていないのです。もちろん、イエス様自身は自分が上座に座りたい、上座を譲れと言いたいのではありません。しかし、彼らの神の前も神の約束や言葉も忘れ、どこまでも「人の前」と自分しか気にしていない、人と比べての、自分の地位を誇る高ぶりやプライド、自分を高くしようというその在り方によって、目の前の救い主は愚か、神の前にある自分自身の現実さえ気づかないで、自らを盲目にしてしまっている現実が浮かび上がってきます。結果として、「人の前」では自分を高くしようとしていながら、まさに神の前で小さなものとなっているという哀れな事実が、明らかになってくるのです。しかし、それは、決してただパリサイ派だけを示しているのではありません。実はこれは「人の前」ばかりに囚われる時に、「神の前」の自分を見失う、誰でも陥る現実を、イエス様は私たちにも示しているのです。
しかし、繰り返しますが、すでにエルサレムへと真っ直ぐと目を向けて進み、語っているイエス様です。そのイエス様は、この言葉で、単なる「こうあるべき」という道徳や律法のメッセージだけを伝えようとしているのではないのです。
4、「誰でも高ぶる者は低くされる」
A, 「神の前の現実:罪人」
みなさん、実に、このようにイエス様のみことばから「人の前」と「神の前」を示される時、今日も変わらず、何より、聖書が伝え私たちに気づかせようとしている大事な事実にやはりイエスは立ち返らせ導いていると言えるでしょう。そのまず一つは、「神の前」では、パリサイ人も、世界の王や偉人や聖人も、私たち、そして私自身も、皆等しく、一人一人、どこまでも罪人であるという現実です。そして何より神の前に高ぶる罪人であるという事実です。神の前に「義人はいない一人もいない。」とある通りの現実です。私たちの神の前の現実は、救われても、それでも尚も、どこまでもその神の前を忘れてしまい、神の前に高ぶってしまうものではないでしょうか。そしてただ「人の前」ばかりを気にして、人と比べて、いつでも自分を王座に座らせたい、あるいは王座に置いて考えてしまう自己中心な存在であることを私自身気付かされます。その自己中心さが、私たちの罪深い歩みの糧となっています。だからと律法として「低くなれ」と言われても、自分自身の力で、本当に、完全に、誰よりも、低くなるなんてことも、私たちは誰もできない現実もあるでしょう。むしろ自分は神の前でも人の前でも、低くなれる、低くできている、自分へ謙虚で謙遜であると思っているなら、実はそこに既に高ぶりと愚かさがあるでしょう。神の前の高ぶりは、何より私自身にもあることであり、ここで示される上席を好む人々の姿は私自身であることを教えられるのです。
しかしそのように、今まさにそうであるように、聖書から、神の言葉を通して、自分の神の前の高ぶりを気付かされる、その時にこそ、私たちは初めて、神の前の罪の現実を気づかされ、神の前に膝まずかされるのではないでしょうか。そのような神の前の現実を示され、罪を刺し通され、神の前に立つことができない自分であることを知らされ、ただ「憐れんでください
と言うことしかできなくなるのではないでしょうか。そうなのです。その時、まさにこの言葉がそこ実現しているでしょう。「高ぶる時こそ、低くされる」。
B,「低くされる」
繰り返しますが、これは単なる道徳のメッセージではありません。単なる道徳であれば、説教壇から「自分を低くしなさい。高ぶってはダメですよ、自分で低くすれば、神に受けいられますよ。祝福されますよ」で説教は終わり、律法による派遣で終わりです。つまりそのような自分で果たさなければいけない律法の重荷を背負わされ遣わされて礼拝は終わりです。しかし真のキリスト教会の説教はそうではありません。確かにそこには私たちの高ぶり、罪を示す律法ははっきりとあります。しかし「低くされる」とあるように、それは「自ら低くなる」という意味ではありません。神が、私たちにまず最初に聖書の律法の言葉を持って、神が、教え、神が高ぶりの現実を示し、罪を示すという意味に他なりません。つまり、そのようにこの言葉は、「私たちが低くならなければいけない」と言う道徳や律法ではなく、「神が」まず律法の言葉で、いつでも高ぶる私たちを「低くする」ということを教えているのです。
C,「真に低くなられたお方」
しかし、イエス様のメッセージは決して律法で終わりではありません。律法が最後の言葉、派遣の言葉でもありません。まさにここでも「へりくだる者は高められる。」と続くでしょう。そのように、神によって低くされ、「神の前」の圧倒的な罪人の現実を私たちが示され知らされ、謙らされるからこそ、そこに、それで終わりではない、もう一つの素晴らしい神の前の事実に私たちは導かれるでしょう。それがイエス様の何よりの目的でありメッセージの核心です。それは、まさにその罪人のため、私たち一人一人のために、まさにそんな私たちを、この十字架によって、その罪から救い出すため、私たちの代わりに死んで、罪の赦しを与えるためにこそ、イエス様は来られた。私たちのために十字架にかかって死んでよみがえられた。その十字架のイエス様の義のゆえに私たちは今日もその罪を赦される。その福音の事実、現実です。
実に、その福音に、イエス様の真の目的とメッセージは常にはっきりしています。先ほど紹介した、マルコの福音書の10章では、子供のようになるのでなければと、低くされることを教えていますが、そこで、イエス様は、ご自身こそ仕える者となるために来たと言って、それは十字架によってであると示しているのです。そう、まさに「低くされる」、あるいは、最も小さい者となりなさい、と言う言葉は、単なる道徳のメッセージではない、さらには、私たちを低くするだけでもない、何よりその言葉の実現者が、イエス様ご自身であることこそイエス様が伝えているということが示されています。つまり「低くなる」「仕える」は、「私たちが」ではない、何より、イエス様が、私たちのためのこの十字架において全て成就しているということが何よりも気付かされるのです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ10章45節
5、「低くされ、高くされる」
イエス様こそがまさにこの十字架において、私たちのためにどこまでも低くなられて死にまで従われました。けれども神は、その死にまで従われ、究極まで低くなれたイエス様を、復活させ、そこに神の栄光があらわされました。そこにこそ神の国、真の勝利と救いがあることをイエス様は証しているのです。実にその十字架と復活の福音の力こそ、イエス様が私たちに与えてくださった最高の天の宝ではありませんか。そして、その福音こそが、高ぶっていた私たちが低くされたときに「へりくだる者は高められる。」と言うそのことを信じる私たちに実現する力なのだと気付かされるでしょう。十字架の横に一緒に処刑された重罪人が、自分は罪深いと認めさせられ、神の前にへりくだらされ、ただ憐れんでほしいと願った時、そこに罪の赦しがイエス様から与えられて、天国の約束があったでしょう。低くされたもの、謙らされたものを神はいつでも高めてくださいました。それは私たちにおいても同じ約束なのです。私たちは皆神の前にあります。しかし神の前に高ぶってしまう罪深い存在です。そのことを日々教えられ、刺し通され、苦しむものです。それは痛みの伴なうことなのですが、しかし、それは神が私たち一人一人を低くするために働いているのです。それはクリスチャンであれば、誰でも経験することであり、日々経験することです。聖霊が与えられている私たちはますますそのことに敏感になります。ですから悔い改めは日々当然あるのです。ないわけがない。しかし、それは聖霊とみ言葉が私たちに日々生きて働いている証拠なのです。なぜなら、そのように低くされ、謙るようにされるからこそ、イエス様によって罪赦され救われる。罪を刺し通されるからこそ、十字架が私たちの罪の赦しであり、それは闇ではなく輝きでありいのちであるとわかる。そのように、その十字架のゆえに、日々罪赦されるからこそ、日々、イエス様が与えると言われた平安が私たちを支配するのです。そのように、私たちを、最終的には、何より高めるためにこそ、イエス様は私たちを日々、まず最初に低くされるのです。キリスト者の生活は、日々、その連続であり、そのことを通して、イエス様は私たちの信仰を日々、新しく、強めることによって、高くしてくださるです。
そのイエス様はその約束の通り、今日も悔い改めイエス様の前にある私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ、罪の赦しを受け、安心して今週も遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
スオミ教会礼拝説教
ルカによる福音書13章10〜17節
「アブラハムの子と呼んでくださる主」
1、「会堂にいた彼女」
今日の箇所の直前では、イエス様は、いちじくの木の例えから「実を結ぶ」ということを教えました。それに続く、今日の癒しの出来事もまた、神の御子イエスが信仰者に結んでくださる一つの実を表すものとしてルカは記録しています。
まず10節、イエス様はユダヤ人の会堂にいます。イエス様は毎週、安息日にはこの会堂に来て、巻き物である旧約のモーセの書や預言書を開いて、神のみ言葉を解き明かしていました。この安息日にも同じように教えておられたのでした。しかしその礼拝の席には、11節です。
「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 」11節
とあります。彼女は腰を伸ばすことができない病気にありました。しかしそれは18年間病の霊につかれていたとあります。病の霊というのは、私たちにとっては理解し難いことが書かれてあるのですが、しかし、その病気は聖書が言う通り霊によるものだったのでした。しかもその病気にかかっていた時間はあまりにも長いものでした。18年もの間、その霊による苦しみ、痛みが彼女を襲っていたのでした。
しかしそんな彼女は、この安息日に会堂の礼拝の席にいたのでした。そしてイエスが語る神の国のみことばを聞いていたのでした。つまり、彼女は、神にみことばを求めていました。つまり一人の信仰者であったのでした。ここでは、イエス様はそのことをきちんとわかっていることも書かれています。16節ですが、
2、「この女はアブラハムの娘なのです」16節
「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」
と言っています。「アブラハムの娘」つまり「アブラハムの子孫」であることを意味するとき、新約聖書のイエス様の場合、それはただ、血のつながりの子孫のことを意味しているのではありません。イエス様がアブラハムの娘、子孫というときは、パウロの書簡からもわかる通り、アブラハムから連なる「信仰による義」を受け継ぐ者を指しています。創世記15章6節ではアブラハムについて「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。つまり、アブラハムの時からすでに、神の前の義は主と主の言葉を信じ信頼しより頼む信仰にあったのであり、主は、アブラハムにある何らかの行いや性質にではなく、その賜物としての信仰こそを見て、神の前に義と認めてくださったのでした。それは昔も今も変わりません。パウロがローマ4章3節、ガラテヤ3章6節でこの創世記の記録を指して言っている通りです。ガラテヤの方ではパウロははっきりとこう言っています。ガラテヤ3章7節
「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」
と。このように、この病の霊に苦しむ彼女は、紛れもなく信仰の人であり、神の言葉を求めてこのところに座っていることを、イエス様はしっかりと見て知って受け止めておられることがわかるのです。「この女はアブラハムの娘である」と。
3、「病の霊、サタンが縛っている彼女」
しかし彼女の肉体は病気でした。しかも病の霊に憑かれていました。16節ではそれは「サタンに縛られていた」とも書いています。
ここで皆さんは、不思議に思わないでしょうか。それは、この人は信仰者なのに、サタンやそんな霊に憑かれているのかと。当時のユダヤ教の考えでは、「そのような病気の人、あるいはサタンに縛られているのは、何か罪を犯したから、律法に背いているからそうなんだ、それは神の怒りと裁きの結果なんだ」、そのように決めつけられ、偏見と差別が起こるのが普通でした。それは現代でもよく聞くことでもあります。キリスト教会の中でもある教会などは、「そのような霊や病気は、信仰が足りないからだ。だからサタンに負けているんだ。だから自分で、自分の意思で、力を振り絞って、全てを捧げて、信仰をもっと強くしなさい。自分で信仰を奮い立たせて勝利しなさい。そうでなければクリスチャンではありません」と教会や牧師から教えられたりすること、そのような教えを聞くこと、そしてそのような教えに苦しんでいるクリスチャンの相談を聞くことは実は少なくありません。そのように昔も今も、いつの時代でも、災いや苦しみ、試練、うまく行かなこと、成功しないこと、失敗などなどは、神に祝福されていない証拠として、「何かが足りないから、信仰が不完全だから、信仰が足りないから、こうなんだ。祝福されていないのだと。災いがあるのだ。」そういう間違った考えは、教会やクリスチャンへの大きな誘惑であり続けているのです。
しかし、この彼女、この状態は、そうなのでしょうか?みなさん、イエス様はこの彼女をそう見ていません。その病を彼女の何かが足りないからだとは見ません。むしろそのような試練と悲しみにある彼女の、そのような中でも必死に神とその言葉にすがり求めるその信仰のみをイエス様は見て、この非常に幸いな称賛の言葉を言うでしょう。
「この女はアブラハムの娘なのです。」と。
4、「神の御子による天の御国の最高の賛辞」
みなさん、この言葉は、神の御子による天の御国から人類への最高の賛辞であり賞賛の言葉なのです。もちろん私たち人間の目から見るなら、彼女も不完全で足りないところのある信仰でもあり生き方でもあるでしょう。しかし彼女は、周りの様々な冷たい目線や差別にも関わらず、安息日にこの会堂に、神の言葉にすがり求めて、神の言葉を受けるために、礼拝にやってきました。まさにそれだけ、そのままの信仰のみを、イエス様は見て、何も足りないとは決して言いません。むしろ逆に、最高の賞賛を持って、イエス様は、彼女の信仰を言うでしょう。「この女はアブラハムの娘なのです」と。そして、彼女がどうだから、何をしたらから、何が足りないから、こうなった、とは決して言わず、その原因は、ただ「サタンに縛られていたのです。」と、サタンの一方的な働きの中でそうなり、むしろ彼女はその病い苦しみと戦ってきたことを、イエス様はただ哀れんでくださっているのがわかります。みなさん、この方こそ、私たちの救い主であるイエス様なのです。そして、このことから、イエス様が私たちをいつもどう見てくださっているのかが教えられるのです。そう、そのように、私たちのキリスト者として信じる日々、信仰の歩みというのは決して、私たちが何かをしなければいけないということで駆り立て縛るような律法の歩みではない。信仰は、どこまでも、イエス様の憐れみ、イエスからの賜物、イエス様の恵みであり、どこまでも福音によるのだと、わかるのです。
5、「祝福のはかりは律法ではない」
つまり「災いがあり、病気があり、うまくいかないのは、それは自分の罪のせい、信仰が足りないせい、行いが足りないせいなのだ、だから祝福されないのだ」では決してないということです。そのような「祝福や救いを秤る見方」は、まさに福音書に見られる通り、ユダヤ人の律法による生き方、考え方その物です。しかし、現実はどうでしょう?キリスト者の信仰の歩みでも、当然、日々、サタンとの戦い、罪との戦いがあります。イエス様も、使徒達弟子達に、あなた方は患難があります、あるいは、あなた方を狼の群れの中に送り出すようなものだ、と言いました。その中で、私たちは自分自身の力では、負けるとき、勝てないとき、どうすることもできない時が必ずあります。まさに彼女のようにです。しかもそれらの試練や重荷がすぐに解決がされず、18年、いやそれ以上、その苦しみをかかえなければいけない時もあるでしょう。災いや試練の連続、うまくいかないことばかり、失敗ばかり、それらはクリスチャン誰でも経験する現実です。そして、それが神の国や信仰に関することであれば、なおさらです。私たちが自分の力で、信じたり、敬虔になるとか、自分の力や意思で誘惑に勝利をしたり、神の国のことを何か勝ち取ったり達成することなどは実は全く不可能で無力なのです。信仰生活はそのようなものです。弱さと無力さがある。当然なのです。私たちは皆、堕落してから、肉にあってはなおも罪の世を生きているし、自分自身がなおも罪人であるのですから当然なのです。それは私たちは救われて義と認められても尚も、ルターが言うように私たちは「義人・聖徒にして同時になおも罪人」なのです。聖書にある通り、私たちには古い人と新しい人の両方があるのですから。
しかし、それは信仰がないからそうなっているのではありません。信仰が足りないからそのようなことが起こっているのでもありません。信仰の道はそのようなことが当然ある日々であり連続なのです。ですから、「問題がないから、罪がないから、いい信仰、いい教会、いいクリスチャン」ということでもないのです。むしろ自分は、あるいはあの人は、問題もなく失敗もせず完全だからいい信仰、いいクリスチャンだ、いい教会だということが良い教会、敬虔な教会の基準だと言うなら、ヨハネの手紙第一の1章8〜10節に照らして言うと、私たちは神を偽っており、私たちにはみことばがないことになります。信仰とはそのようなものではありません。むしろその逆で、そのような足りなさ、不完全さ、罪深さ、その他、多くの苦しみや戦いがある中、サタンの誘惑や攻撃がある中で、日々、戦って生きる歩みであり、それでも日々、無力さ、罪深さを感じるのが誰もが通る信仰の現実であるのです。
6、「福音の実」
しかし、そのような現実の中で、それでも主を信じて、神の言葉こそを求めて、赦してくださる主の罪の赦しと憐れみを求めて、どこまでも主なる神とその言葉にすがる歩みの幸いこそ、まさに今日のところに証されているでしょう。神の御子イエス様が、このような名もなき、しかもサタンに苦しめられている彼女、それでも礼拝に来て、神の言葉にすがる彼女の、その不完全さ、罪深さ、しかしそこに同時にある信仰を見て、「この女はアブラハムの娘なのです」と言ってくださる。そのように救い主イエス様が、認めてくださり、受け入れてくださる。そして、彼女自身が何かをしたではなく、イエス様が憐れんでくださり、イエス様がまさにその言葉と力で働いて、人の想いをはるかに超えた癒しと救いを与えてくださり、その口に賛美と証しを与えてくださっているでしょう。それが私たちに与えられている信仰であり、神の生きた働きであり、新しいいのち、真の信仰生活であり、それは律法ではなくどこまでも恵み、福音であるのです。そして、そのように全くの恵みによって、イエス様の方からまず彼女に、その信仰を賞賛するという一つの実を与え、さらには、癒しという実を与え、イエス様が彼女にそのように実を実らせることによって、イエスが彼女になさった「彼女のそのまま」が、今も、時代を超えて、福音書を通して証しされ、多くの人の福音の実のために、彼女のそのままが用いられていることがわかるのではないでしょうか。
皆さん、その証しは派手でも劇的でもありません。しかし、まさにこれがイエス様が、福音が、私たちに実を結ぶということです。実を結ぶとは、律法的に私たちの力と行いで華やかな結果を、私達が神のために一生懸命、実現すると言うことが実を結ぶということではありません。彼女は本当に不完全さと苦しみの中、神とその言葉にすがっている、ただそれだけです。しかしその信仰が「そのまま」用いられて実は結んでいくのです。これが聖書が私たちに伝える。福音による実に他なりません。
7、「律法を基準とする会堂管理者」
けれども、これと対照的な反応が、この後、描かれています。なんと会堂を管理する、会堂長はイエスに憤ります。しかもイエスに直接言わないで、群衆を巻き込んで扇動して、群衆みんながそう言っているとでも言わせたいかのように言うのです。14節
「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」」
この会堂長も、福音書に見られるパリサイ人、律法の専門家たちの反応と同じです。律法、あるいは、律法に従う人の行いしか見えていません。彼らにとってはそれが基準です。いかに従っているか、どれだけ忠実に行っているか。その自ら、あるいは他人の行いが、全ての秤の標準であり、拠り所になっているでしょう。イエス様と見ているところが全く逆であり正反対なのがわかります。自分たちが、あるいは人が、どれだけ行うかに祝福と救いと義はかかっているのです。自分たちは行っている。行っていない人はダメなんだ。そのような論理で一貫しています。
8、「イエスの目は福音の目」
しかし、イエス様の目と思いは全く彼らと逆なのです。それは、全ては天の神からくる。天から恵みが与えられるためにこそ、ご自身はそれを与えるものとして世に来られた。父子聖霊なる神の私たちへの思いは、その天の恵みを与えること、そして、人々はそのイエスご自身からそのまま受けること、そして受けることによって主の働きは全て始まり実を結ぶ、それがすべてである。そのような一貫した福音の目線であり思いなのです。ですから、イエス様は言います。15-16節
「しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」」
安息日の本当の意味について述べるイエス様の言葉を思い出します。マルコの福音書では
「そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」」マルコ2:27〜28
と。ヨハネの福音書でも、イエス様は
「イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 」ヨハネ5:17
と言いました。会堂長も、パリサイ人たちも、「律法に自ら生きること、何をするか、してきたか、何をしていないか、してはいけないことをしているか、していないか。」が義や祝福の基準です。しかしイエス様は、その逆で、神が何をしてくださるのか。まさにどこまでも福音が基準なのです。神が与えてくださる。み言葉のうちに神は働いてくださる。その時が神の国であり、安息日の恵みであり、みことばの恵み、福音のすべてであると、イエス様はどこまでも一貫しているのです。
9、「福音にこそ招かれ、福音にこそ生きるために」
私たちは、今日もこのみことばから、イエス様によってどちらに招かれているかは、すでに明らかです。もちろん、日々律法によって罪示されて悔い改めつつここに集められていることでしょう。しかしクリスチャン生活は律法で終わりではないのです。律法が最後の言葉ではありません。そのように罪を示され悔い改める私たちは、どこまでもその罪を赦され、福音を受けるために招かれているのです。罪に打ち拉がれ、刺し通され、悔い改める私たちに対しても、イエス様は今日も、「アブラハムの子よ、子孫よ」と、言ってくださり、罪を赦し、そのように私たちを見て喜んくださっているのです。それは私たちが何かをしたからではない。苦しみと試練の中、サタンとの戦いの中で弱さを覚える現実の中で、彼女のようにそれでも神のみにすがってここに集まってきたその、そのままの信仰こそを主イエス様は何よりも喜んで、賛美して、「アブラハムの子よ、子孫よ。よく来たね。今日もあなたに与えよう。救いを。罪の赦しを。新しいいのちを。平安を。」と、そう言ってくださっているのです。
事実、会堂長の目線や律法の言葉と、イエス様の福音と、どちらが本当に平安と光と喜びを与えるのか、どちらが本当の福音の実を結んでいくのか。皆さんにはもうお分かりだと思います。律法は人の前や理性では合理的で即効性があり理解しやすい手段にはなるかもしれませんが、律法は、人を、ただ恐れさせ強制で従わせ行わせることしかできません。何よりそこにはイエスが与えると言われた特別な平安はありません。しかし、まさに今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と福音を宣言してくださっているイエス様から、福音こそを受け、福音によってこそ新しくされ、福音によって安心し遣わされていくときにこそ、どんな困難があってもそこに平安が私たちにあるでしょう。私たちは福音によってこそ、平安と喜びをもって、真に神を愛し、隣人を愛していくことができるのです。それは律法は決して与えることはできないものです。福音が与えるのです。その福音による歩みこそ、私たちに与えられたキリストによる新しい生き方なのです。
今日もイエス様は宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。そのイエス様の恵みを受けて、イエス様が日々、「アブラハムの子よ、アブラハムの娘よ」と認めてくださっていることを賛美して、そしてそこにイエス様の福音が確かに働いてくださることを信じて、ぜひ今週も歩んでいこうではありませんか。