2024年3月29日(金)19時 聖金曜日 礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネの福音書19章16−30節

「イエスは何を「成し遂げられた」?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 聖金曜日の今日の箇所は、18章から記録されているイエス様の受難の記録の一部になりますが、「ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した」で始まり、「イエスは、自ら十字架を背負い」と続き、そして最後は、「成し遂げられた」(30節)、これは新改訳聖書では「完了した」と訳されていますが、その言葉とともに「息を引き取られた」あるいは「霊を引き渡された」と「死」で結ばれる、とても意味深い箇所であります。もちろんこの死は復活へと繋がるのですが、このところは何より私たちキリスト教信仰の核心が伝えられいると言えるでしょう。聖金曜日のこの日、神はこのみ言葉を通して、私たちにその信仰を問いかけているのです。「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」、そし十字架の死で「何が成し遂げられ、何が完了したのか」をです。今日はそのことを18章19章の流れを踏まえながら、共にみ言葉から教えられていきましょう。

2、「十字架の前に義人はいない」

「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」それは、私たち人間の最も深刻な、そして最悪の現実である罪のために他なりません。この今日のところのみならず、18章からは、まさに人間の圧倒的な罪深い姿、現実がまざまざと記されていきます。まず18章3節では、園で祈っていたイエスと弟子たちのところに、裏切ったユダが「一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。」とあります。イスカリオテ・ユダはわずかなお金のためにイエスを裏切りユダヤ人指導者たちに引き渡します。彼はイエスと一緒に過ごしてきたのですから、イエスが暴力的革命家でも混乱で社会を転覆しようというお方ではないし、その弟子たちも決して武装蜂起しようなどとも考えていないことはよく分かっていたことでしょう。しかし、彼は前もって宗教指導者たちと計画を立てたのでしょう、そんなイエス一人を捕まえるために、数人の兵士ではありません。わざわざ一隊の兵士たちと、そして武器を持ってやってきているのです。ルカ22章52節にはそれを見たイエスの「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。」という言葉もあるのです。

 この行動は、イエスがそれほどまでして逮捕することが必要な犯罪人であることをまさに周りに印象付けています。事実、この後イエスは、極悪人のかけられるローマ最悪の処刑である「十字架」を負わされるよう扇動されていくのです。次に書かれているのは、ユダの裏切りに乗った祭司長やパリサイ派たちや役人などです。彼らは、社会の宗教エリートであり指導者でもありました。幼い時から律法と預言をよく学び、他の誰よりも自分たちはその律法の内容や教えを知っているだけでなく実践もしていると自負している人々でした。しかし皮肉なことに、そんな彼らが、その律法と預言が指し示してきて、その約束の通りこられた救いの御子とその正しい聖書の教えを受け入れられないのです。それどころか自分たちの伝統とプライドを守ることに躍起になりイエスに対して妬みを抱き続けてきました。そして何度もイエスを陥れようとしながら、その敵意と妬みが最高潮に達して、このようにユダと共謀しこのイエスの逮捕へと行動しているのです。その彼らの行動には、信心深さや聖書的な根拠などはもはや見られません。民に神のみ言葉を指し示して、信仰による行いに導き駆り立てるどころか、民をその敵意と妬みに巻き込み、そして偽りと策略によって煽動します。そして、18章39節以下では、罪のないイエスよりも明らかな犯罪を犯した強盗のバラバを釈放してほしいとまで叫ばせ、今日の箇所の直前の19章15節では彼らは「私たちには、皇帝の他に王はありません」とさえ叫ばせるのです。実に節操のない言動ですが、これが、妬みと憎しみによる自己中心な感情と欲求の実であり、罪の実であり、偽りの実の現実なのです。彼ら宗教指導者たちは、自他共に認める聖書をよく知り行いも立派な人々でした。表向きには社会に尊敬もされる敬虔な人々と見られていたでしょう。しかし、そのような「人の目」に評価され、いかにでも振る舞うことのできる人間の行いの敬虔さというのがこのように、十字架の前、神の言葉の前、神の前にあっては、いかに脆く、愚かなものであるのかが教えられます。

 では次にピラトはどうでしょうか?ピラトは、18章38節や19章4節で、イエスには「私は、あの人には罪を認めません。」とイエスには十字架刑に値する様な罪はないことを何度か認めているのです。さらには、19章12節にあるように、イエスを釈放しようとさえ努めます。しかし、彼はローマ社会で実績を残してきて皇帝に託された責任あるローマの総督、高官ではありましたが、王でもなければ神でもありません。彼も一人の罪人にすぎません。彼も何が正しいことかわかっていて、その内なるところではそこには良心も理性も働いたことでしょう。しかし、ユダヤ人の勢いや強い言葉と暴動を恐れ、そしてやはりそこには自分のプライドとメンツという自己中心な感情や欲求が勝り、正しい罪のない、十字架刑に値しない人を十字架刑に引き渡す法的な実行者責任者になるのでした。周りにいるローマ兵も、上司上官に言われるがまま、無実の男を平気で鞭打つだけでなく、残酷なほどにイエスの肉体を苦しめ、辱め、馬鹿にします。そして無実のイエスの肉を十字架に釘打つ刑の執行者となるのですした。

 そして、忘れてはいけません。十字架の出来事の、その周辺の人々として、目を閉ざしてはいけないのは、イエスの弟子たちです。彼らはイエスと一緒にいたから、信仰が与えられていたから、イエスの味方、弟子だからと、罪から自由な、立派な、完全な、聖人君子であったでしょうか?とんでもありません。弟子の一人ユダは、最初に見たように、わずかな金のためにイエスを裏切り売り渡しました。ペテロはイエスの御心ではない、剣で歯向かい、大祭司の僕の耳を切り落としてしまいます。そしてヨハネによる福音書にはありませんが、マルコの福音書14章50節には、「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

とあるのです。彼らは、この前に、イエスから弟子の誰かが裏切ることをことを予め伝えられたときに「まさか私ではないないでしょう」と皆がいい。ペテロは「他の誰が裏切っても自分は決して裏切らない」と言い、そんなペテロにイエス様が「あなたは三度私を知らないという」と告げられた時には、マルコ14章31節にこうあるのです。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

 ペテロだけではない、他の弟子たちも皆、自分は決して裏切り者にはならない。決して知らないなどとは言わない。ペテロは「他の誰が裏切っても自分は裏切らない」「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22章33節)とまで言うのですが、ユダ以外の他の弟子みなも同じ思いと自信があったことでしょう。彼らの意思では、決して嘘ではない意思の表明であったと思われます。しかし、そのような立派な人間の意思や決心も神の前にあって、神の計画の実現の前にあって、十字架の前にあって、いかに無力で脆く、決してその通りに実現しないし、実現できないことが福音書は伝えているでしょう?何よりペテロはその証人ではありませんか?彼は一人、イエス様の審問が行われている大祭司カヤパの庭に入って、イエスを見に行きます。しかし、18章15節以下、ペテロは前に豪語した、自分の立派な決意を実践したのではなく、イエスの言っていた通り、三度、イエスを「知らない」と言ったのでした。誰よりも強い意志と立派な敬虔に忠実従おうとする言葉を表してきたペテロですが、彼の意思、決意、自信は何一つなりませんでした。ただただイエスの言葉だけがその通りになったのでした。

 みなさん、今日のところからまず教えられることは、神の前、十字架を前に、ここに罪のない正しい人は誰一人いません。もちろん、「人の前」、ローマ社会、ユダヤ社会では、それなりの地位があり、功績と名声があり、立派な行いと敬虔な振る舞いで、人々からも尊敬される人々は沢山いたでしょう。しかし、この「十字架の前」、イエスが背負われる十字架、そして完了したという、その神の計画の前、み言葉の前にあって、今見てきた通り、正しい人はいませんね。罪のない人は一人もいませんね。もちろん女性達は、墓に至るまでついてはいきました。人の目には、そんな弟子達よりは立派に見えます。しかし、その女性達は聖女であり罪はなかったとは聖書には書かれてはいません。彼女達もやはり罪人でした。神の前に、義人はいないのです。まず何よりも、聖書は、その現実を私たちに突きつけています。

3、「例外はいない:「自分に限ってはそんなことはしない」と言い切れるか?」

 もちろん、人間の理性や善を信じたい、自分はそんなに悪い人間ではないという人々の中には、自分は良い人間だから、意志も強いし罪も犯さないから、自分に限っては、彼らの様にはしないと言いたい人もいるかもしれません。しかし、もし自分が、これまでの自分の地位と行いに誇りとアイデンティティーを置いてそれを支えにそれを守って生きてきたユダヤ人宗教指導者としてその場にいたならどうでしょう?あるいは、日頃その様なユダヤ人たちに指導され、敬意を払うこと、従うこと、倣うことが当たり前の日常で、そのような社会的大多数の価値観の生活する一人であったならどうでしょう?大多数派の価値観や声に動かされず、自分は決して煽動されない、それでも否と言える自信がありますか?あるいは、ピラトのように実績と名声に支えられやっとつかんだ総督の座にありながら、その治める地のユダヤ人が暴動を起こさないようにしなければならない、実績に傷をつけてはならない、そんな立場で群衆が「イエスを十字架につけろ」と叫び続ける中でも、周りの声が望まない正しい判断をあなたは絶対することできますか?あるいは、上官の命令には絶対のローマ兵の立場であったならどうでしょうか?それでも、総督の決定、上官の命令に逆らってでも自分は鞭打たない、釘を打たないとあなたは断言できますか?そして、ペテロのような決心を持った強い敬虔な言葉を発しながら、自分もイエスと一緒に仲間として十字架にかけられるかもしれない恐怖の中、「あなたは仲間でしょう」と問われた時に、自分はそれでも弟子達のように逃げない、ペテロのように「知らない」と否定しないと言い切れ断言できる人がいるでしょうか?仮に断言できたとしても、実際にその場で、なんの躊躇いもなく、葛藤もなくそれを実行することができる人がいるでしょうか?私はその自信がありません。いや、たとえ、その様な、立場に置き換えるということがフェアではないとしても、しかし聖書は、まさに堕落の初めから、はっきりとその人間の罪の事実を、つまり、人は神のみ心、み言葉を、疑い、反対し、背くものであり、そして間違った道をいくものとなったことをはっきりと私たちに伝えているでしょう。神はノアの洪水の後に「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」(8章21節)と言っています。そして神の怒りを受けてなおも背いていく神の民の性質について、神は、イザヤを通して、こう言っています。イザヤ書57章17節(新改訳)

「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおもそむいて、自分の思う道を行った。

 そう、聖書が変わることなく何千年もそのようにはっきりと伝えてきた人間の事実、現実が、十字架の前にまざまざと実現しており、はっきりとしているのです。「義人はいない。一人もいない」そのことです。イエスが引き渡される時、イエスが自分で十字架を負う時、そこにはただただ人の罪が取り囲んでいます。人の罪が、救い主として、王としてこられた約束の救い主、御子キリストを拒むのです。そのように私たちの罪こそが、どこまでもキリストを拒み、必要ないとし、そして「十字架につけろ」と叫び、殺すのです。ここで見てきた罪深い一人一人は、、私たち一人一人であり、私たちの姿であり、私たちも御子キリストを拒み十字架につけた一人であり、そこに例外はないのです。もちろん、私自身もその一人であることをまずここから教えられるのです。

4、「福音の核心:何のために?何を成し遂げた?」 

 しかし、「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」、そして「何が成し遂げられ、何が完了したのか」その究極の答えもここにあるでしょう。イエス様は、マタイの福音書26章53節以下で、ペテロが剣を持って祭司の僕の耳を切り落とした時に「53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ26章53節)と言っています。しかしその後、こう言っています。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」と言っています。つまり、その取り囲む人間の圧倒的な罪を「天の軍勢を送って」断罪し火で焼き滅ぼすことができるけれども、しかしそれが神の御心、聖書の約束ではなく、その様にするのではなく、まさに「必ずこうなると書かれている聖書の言葉が実現する」ために、つまり、そう、これまでまっすぐと目をむけ弟子達にも伝えてきた十字架にかかって死ぬことのために。つまりその取り囲む彼ら、そして私たちの罪を全てその身に負って、私たちの代わりにその罪を報いを、裁きを、死を受けて、私たちを滅びから、永遠の死から、罪の報いから救うため、罪から贖うことをイエス様はどこまでも見ているし従っているのです。ヨハネ18章でも11節、イエス様はこのように言っています。

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と。この逮捕の前に、イエス様は園で祈っていたでしょう。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(26章39節)と。その祈りに対する父が与えてくださった答え、その杯は今、まさに表されたからこそ今こそそれを飲むべきではないかとイエス様はペテロに伝えていることがわかります。さらにヨハネ18章36節でも「36 「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

 とピラトに答えています。まさに神の与える杯、神の御心、それは、地上の国とは違う神の国をイエスは見ていて、この罪に溢れた裁判も断罪も、神の御心、杯として、黙って受けているでしょう。なぜですか?それはご自身がその人類の全ての罪を黙って背負って、十字架にかけられて死ぬためではありませんか。罪人が受けなければならないその十字架という刑罰と死、それは罪人である私たちが受けなければならない十字架であり、刑罰であり死のはずでした。しかしまさに、イエス様はこのように、人間の神への罪、敵意を一身に黙って受けて、十字架に従われることによって、人類の代わりに、つまりそこにいた全ての人々、そして私たち一人一人の代わりに、その罪の報いである、私たちが受けなければならなかった刑罰と死を受けられているのです。しかし、そのイエス様のこの十字架のゆえにこそ、神の御心は実現したことを聖書は伝えていますね?ヨハネはここで、「聖書の言葉が実現するため」(24節)「聖書の言葉が実現した」(28節)「聖書の言葉が実現するため」(36節)と繰り返しています。つまりこの福音書を記したヨハネもまさに、この十字架、この救いには、人の思いは一切ない、これは、神の御心が実現することなのだと繰り返していますが、その御心とは何ですか?それは遥か昔から神が一貫して約束されてことでした。創世記3章の約束もそうですが、イザヤを通しても変わることなく神はその身代わりの死による贖いの御心を伝えています。イザヤ53章

「5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。〜10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」

 と。みなさん、私たちを罪から贖う十字架の死はその変わることのない神の救いの御心の実現なのです。「完了した」「成し遂げられた」。何がですか?その神の御心がです。剣によってでも、革命や暴力によってでもない、天の軍勢の裁きによってでもない、神の御子が、神ご自身が私たちと同じ肉体を取り人となられ、私たちの代わりに、私たちが受けなければならない罪と滅びという大きな深刻な、そしてどうすることもできない問題、十字架の死を全て代わりに背負われて、死んでくださった。その十字架のゆえに神は変わることなく私たちに罪の赦しを宣言してくださるのです。私たちは神の前に圧倒的な罪の現実に絶望するしかありませんでした。しかし、その罪を認め悔い改めて十字架の前に立ち、その神の御子キリストの贖いは私のためであると信じるものは誰でも、その罪の赦しがそのままその人のものになるとイエス様は約束しています。誰でも悔い改める者に、イエス様は「あなたの罪はこの十字架ゆえにもう赦されています。だから心配しなくて良い。安心して行きなさい」と言ってくださるのです。その罪の赦しのため、その平安のため、安心のため、安心していくことができるその救いのために、「引き渡され」「自ら十字架を背負い」そして「完了した」「成し遂げられた」なのです。

5、「成し遂げられた:福音はまだ未完成で残りは人が完成させなければならない」ではない」

 そして大事なのは「完了した」「成し遂げられた」のですから、救い、罪の赦しは100%イエス様が果たしたということです。つまり、福音は未完成であり後はクリスチャンの努力で福音を完成させなければならないという教会もある様ですが、そんなことは決してない。福音や救いは、残りの半分は後は私たちが果たしてくださいというものでも決してないということなのです。「完了した」「成し遂げられた」とイエス様が私たちのために宣言してくださっていることは幸いです。福音というのはイエス様が完了し、完成してくださったものを、そのまま受け取るだけのものなのです。そのルター派の教えに対し、「福音の後にやっぱり律法の力や人間の数%の努力や意思の力も必要だ」と教える教会では「物足りない、だからルター派は弱いんだ」と言いますが、決してそんなことはありません。人間には決して実現できないことを成し遂げ「完了した」と宣言してくださったイエス様のその福音が何にもまして、人の思いを超えて遥かに力があることは明らかではありませんか?むしろ人の力ではどんなに立派な良い行いをしても敬虔そうに装えても限界があったでしょう?しかし、イエス様の福音こそ、逃げた弟子たちを命をかけた宣教師に変えました。迫害者でありパリサイ派であったパウロを、180度変えてイエスの福音に生き伝えるものにしたでしょう。それは人間の力や律法ではない、福音によって遣わされた平安な宣教の証しなのです。「未完成」ではなく「完了した」罪の赦しをはっきりと宣言され、その完全な罪の赦しを受けるからこそ、私たちは罪の赦しの確信をもち、救いの確信を持ち、安心していくことができるのです。

6、「結び」

 結びます。私たちが神の前にどこまでも罪人であることを知ることはとても大事な聖書のメッセージです。そんな暗い、人が聞きたくないことはやめて、罪とか悔い改めなど語るのはやめて、もっと明るいポジティブな愛とか成功とか繁栄とか語りましょう。もっと人が集まり人が支持するような万人受けするような教えで教会を沢山の人で満たしましょう。聖書の古い暗い、聞きたくない教えは蓋をしてもいいから、皆が受け入れやすい様に聖書を解釈して、今の社会風な教えと教会を変えましょう。そのように人間に都合のいいように方向転換する教会は少なくありません。事実、それが正義であるかのように讃えられ、罪と悔い改め、十字架の罪の赦しを説教することが時代遅れとか悪であるかのようにさえされます。事実、人の前では、その様な方向転換の教会が見た目は栄え、数的に大きくなるようなことはあるのです。しかし、人中心で神の言葉を再解釈することが堕落の初めであり、変わることなく自己中心、人間中心こそ、神を排除しようとする十字架を取り囲む人々に溢れていた罪の現実ではありませんか?それは現代においても、結局は、理性と感情とマンパワーによる教会へとなって行きますが、平安は無くなってしまします。それは世の与える平安は伝えられますが、イエスが与える平安は絶対に伝えられません。聖書はいつまでも変わらぬ真理と救いと真の平安を伝えています。私たちはどこまでも罪人である。しかしその罪のためにこそ、イエス様は十字架にかかって死なれた。それが御心であった。それが救いの「完了した」であったのだと。私たちが罪人であることがはっきりとわかり認め悔い改めに導かれるからこそ、聖書が伝える真の救い、十字架と復活にある、罪の赦しと新しい命の素晴らしさ、真の神の愛がわかります。それが私たちを平安にし、救いの確信を与えるのです。罪を知らされる、悔い改めに導かれるからこそ、そこに、真の天からのいのちの光、神の前に安心して歩むことができる平安な道が開かれているのがわかるのです。今日もイエス様は宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。ぜひそのまま福音を受け取り、安心してここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

牧師の週報コラム

フィンランドの幸福度とルター派キリスト教の関連性?

国連が毎年発表している「世界幸福度ランキング」で今年もフィンランドが1位になった。7年連続だそうだ。何を基準に幸福度を決めるのかというと、1人当たりのGDP、社会福祉、健康寿命、自由、寛容度、腐敗に対する認識の6項目についての評価だそうで、これらを基にした幸福度はフィンランドだけでなく北欧諸国が軒並み高い(デンマーク2位、アイスランド3位、スウェーデン4位、ノルウェー7位、日本は51位)。

北欧諸国と言えば、宗教は伝統的にルター派のキリスト教が主流である。それでか、北欧諸国の幸福さとか先進性とルター派には何か関連性があるのか、ルター派には国民を幸せに先進的にする要因があるのか、というような質問を時たま受けることがある。

それに対する私の答えは、物事はそんなに単純なものではないということである。まず各国のルター派教会の所属率だが、この30年位の間に急激に低下した。1980年代まではどこの国も国民の90%以上がルター派の国教会ないし中央教会に所属していた。ところが、昨年の統計ではスウェーデンは52%、フィンランドは62%まで低下。国内分布でも、ヘルシンキ首都圏では50%を切っている。ここまで落ちたら、法制度上特別な地位を持つ「国教会」の存在理由はあるのだろうか?(スウェーデンのは2000年に国教会をやめて一宗教団体になった。)

それから、フィンランドの話だが、国教会に属する人たちに、どのように信じていますかと聞くと、大半は教会が教えるようには(つまりルター派の信条集に基づいて)信じない、自分の信じたいように信じるという答えが返って来る。SLEYをはじめとする国教会のミッション団体の教会から一歩外に出れば、周りの普通の教会はそういう風潮に呑み込まれてしまって、ルター派の信条集どころか真に聖書に基づいて教えるところは少なくなってしまったと思う。国教会に属しているからと言って、聖書的、ルター派的とは限らないのだ。

他にもいろいろあるが、私の結論は、30年位前だったら国民の幸せ度や先進性の要因をルター派に探し求めても良かったかもしれないが、国民の教会離れ聖書離れがここまで進んだら、別の視点で考える必要があるだろうというものだ。

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歳時記

「この青い空の下で」

この歌はへイッキネン牧師時代に牧師夫人のセイヤさんが交わりの席で皆で歌ったフインランド(sley)の教会の歌です、八谷姉の伴奏ですぐに覚えました。讃美歌ではありませんがとても歌いやすく皆にも親しまれました。へイッキネン牧師にお願いしてこの歌をスオミ教会の愛唱歌、テーマソングにしたいとお願いしたら快諾され以来スオミ教会で長く歌い継がれてきました。フインランド語の歌詞を見ると何処にも青い空という単語が出て来ません。この歌を翻訳したのはペッカ・フフティネン牧師の夫人シルッカ・リーサさんでした。音楽の造詣に深く日本語にも堪能な夫人ならではの名訳だったと思います。

     193 Saman korkean taivaan alle

  • Saman korkean taivaan alle / on syntynyt kerran hän, / joka lahjoitti maailmalle / uuden toivon ja elämän. / Saman korkean taivaan alle, / luokse maailman kärsivän.

  • 2. Saman korkean taivaan alle / kerran kohosi ristinpuu. / Siinä turva on hukkuvalle, / vaikka kaatuisi kaikki muu. / Saman korkean taivaan alle / nousi toivon ja elämän puu.

  • 3. Saman korkean taivaan alla / tänään kylvämme siemenen. / Valta ei ole kuolemalla, / Jeesus Kristus on voittanut sen. / Saman korkean taivaan alla / yhä ääni soi rakkauden.

    作詞:Anna-Mari Kaskinen 1990

    作曲:Jukka Leppilampi 1991

1.この青い空の下に お生まれになった彼 希望あたらしい いのち 与えて下さった

 この青い空の下に 苦しい人のため

2.この青い空の下に 十字架たてたよ 嵐が吹く 寒い夜も 支えの十字架で

 この青い空の下に 希望の木たてたよ

3.この青い空の下に 今日も種をまいて 死にはもはや力はない イエスは死に打ち勝ち

 この青い空の下に 聞こえる愛の声

 明日に向ってひらく 希望の花ひらく

訳:Sirkka-Liisa Huhtinen

この歌詞をdeeplでざっくり訳しますと。

1.同じ高い天の下で、/彼はかつて生まれ、/世界に新しい希望と命を与えた。/ 同じ高い天の下で、/苦しむ世に。
2 同じ高い天の下に/かつて十字架の木があった。/ 溺れる者のための避難所がある。/ 同じ高い天の下に/希望と命の木がよみがえった。
3.同じ高い天の下で/今日、私たちは種を蒔く。/ 死には何の力もない、/イエス・キリストはそれに打ち勝った。/ 同じ高い天の下で、/それでも愛の声は鳴り響く。

この歌の出典は次の通りです。

シオンの笛-福音的歌曲集(Siionin kannel -sley)

「私たちの人生で最も大切なことを歌ったコミュニティ・ソング集です。福音主義運動のこれらの歌は、何よりも救い主の限りない愛と福音の喜びに共鳴している。一緒に歌っても、一人で歌っても楽しめる。

牧師の週報コラム

 ロシアのフィンランド系少数民族のルター派教会について

SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)はロシアにも宣教師を派遣しているが、同国での協力教会はフィンランド系少数民族のルター派教会である。正式名称を「イングリア福音ルーテル教会」と言う(以下イングリア教会)。

 ロシアのサンクトペテルブルグを中心に半径50100キロ範囲の地域は伝統的にフィンランド系民族が住む地域でイングリアと呼ばれる(フィンランド語でインケリ)。同地域は中世の時代からカトリックとロシア正教が覇を競い合う地域だったが、1500年代の宗教改革の時代にスウェーデンがルター派の国になり、1600年代にはバルト海をほぼ内海とする大国に。その時に多くのフィンランド人がイングリアに移住して同地域はルター派の地域となった。イングリア教会の正式な設立年は1611年である。

 ところが、1700年代初期の大北方戦争でロシアがスウェーデンに勝利すると、イングリアはバルト三国の大半と共にロシア領に。さらにピョートル大帝がイングリアのど真ん中に大都市サンクトペテルブルグの建設を開始。イングリア・フィンランド人は同地域で少数派に転落。他方で、1800年代初期にフィンランドがスウェーデンからロシアに半独立国のような形で併合された結果、フィンランドのルター派教会とイングリア教会の協力関係が深まることに。加えて、ナポレオン戦争後のロシアは欧州キリスト教の擁護者の自負が強かったこともあって、イングリア教会は帝国の保護も受けられ発展を遂げていく。多くの立派な教会堂が建てられたのもこの時期である。

 ところが、1917年のロシア革命後は共産党政権の下で徹底的に弾圧を受け、1930年代から60年代までは公けに活動ができなくなり、江戸時代日本の潜伏キリスト教徒さながら、地下で集会を守っていた。70年代に入って弾圧が収まり出し、ペレストロイカの時代になってフィンランドをはじめとする諸国の支援を受けられるようになり、接収されていた教会堂を次々と取り戻して通常の教会活動を再開、1991年には法的な地位を回復した。ところが、現政権の時代になってからロシア語化の圧力が高まり、若い世代のフィンランド語習得も減少を続け、礼拝もロシア語で行われる所が増えてきてしまった。現在のイングリア人にとってアイデンティティーの中核はルター派の信仰なのである。

 イングリア教会の神学校が修士課程を設置したことで博士レベルの講師が必要ということになり、昨年春SLEYから私に打診があった。今の国際情勢のもとでは現地で教えることなど出来ないが、オンラインで良いということなので引き受けた次第である。 

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スオミ教会・家庭料理クラブの報告

3月の料理クラブは9日に開催しました。冷たい北風が吹く日でしたが、太陽は明るく輝き春間近を感じさせる日でもありました。今回はイースター・復活祭に向けてパイナップル・ココナツケーキを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。初めにケーキの材料を測ります。小麦粉は測りではなく計量カップで測ると新しい方々はビックリ。ボールのマーガリンと砂糖をハンドミキサーでよく泡立てて他の材料を順番に加えると、生地はあっという間に出来上がります。生地をパイ皿に伸ばしてからオーブンで焼きます。その間にケーキの上にのせるものを準備します。水切りをしたパイナップルを細かく切ったり、トッピングのココナツを鍋で温めます。その時、オーブンからカルダモンの香りが広がってきて、中を見るとケーキもきれな色になってきました。焼き上がったケーキを取り出し、その上にパイナップルをたっぷりのせて、さらにトッピングのココナツをのせます。ケーキを再びオーブンに入れてきれいな焼き色が出るまで待ちます。すると今度はココナツの香ばしい香りが教会中に広がりました。「どんな味になるかなぁ」と皆さん、興味津々。出来上がったケーキはどれもきれいな焼き色がついて美味しそうでした。

今回は段階がいろいろあって作業の交替もあったので、少し忙しい雰囲気になりました。今回はまた幼稚園と小学生のお子さんがお母さんと一緒に参加して、大人たちと一緒に一生懸命にケーキ作りをしました。

出来たてのパイナップル・ココナツケーキを早速コーヒー・紅茶と一緒に味わいます。「美味しい!」の声があちらこちらから聞こえてきました。「カルダモンとパイナップルとココナツの組み合わせがこんなに美味しくなるとは!」と驚きの声もあがりました。こうして皆さんと一緒に美味しさ一杯の雰囲気で歓談の時を過ごしました。この時にフィンランドのイースタ・復活祭や神さまから頂く新しい命についてのお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さま感謝です。次回の料理クラブは4月13日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブの話2024年3月

イースター復活祭が近づく季節になりました。フィンランドではイースターは一年の中でクリスマスの次に大きなお祝いです。イースターは日曜日になりますが、前の金曜日から翌日の月曜日まで4日間フィンランドは休みになります。この大きなお祝いのために家庭では様々な準備をします。家の掃除を普段より丁寧に行い、イースターのお祝いの料理やいろんなお菓子を作ります。

私の母はイースターのお祝いも大事にして、いろんな種類のケーキやクッキーを作りました。それでいつも早めに準備を始めました。母が毎年必ず作った伝統的なデザートの一つにMämmiというものがあります。それは、ライ麦とライ麦のモルトで作った甘い黒い色のデザートです。作り方はライ麦とモルトをお湯に混ぜて、それを何時間も暖かい場所に置きます。そうすると甘味と黒い色が出ます。それに少しシロップと塩を入れてからオーブンの型に入れて低い温度で何時間も焼きます。母はいつもMämmiを大きい鍋で作りました。作る時に鍋を冷やさなければならないこともありました。冷やすために母は鍋を雪の中に置きました。私たち兄弟姉妹はいつもMämmiを少し早めに味見したかったので、この時を楽しみに待っていました。母が気づかないうちに子供たちは雪の中の鍋の中身を味見して指のあとが鍋の表面に残りました。味見した鍋のものは美味しかったですが、イースターのお祝いの日に出来たてのMämmiに生クリームか牛乳をかけて食べると、Mämmiの本当の美味しさがもっとよく分かりました。Mämmiは今もイースターのデザートの一つですが、作る家庭はあまりありません。お店で買うものになりました。

CC BY-SA 3.0 via Wikimedia CommonsMämmiの色は黒ですが、それはイースターの色ではありません。フィンランドではイースターの色は黄色とうす緑色と言われています。今日皆さんと一緒に作ったパイナップル・ココナツケーキはきれいな黄色なので、イースターにピッタリの色です。このケーキは私が一番初めに先生を務めた専門学校でもイースターのお祝いの時に良く作られました。ケーキの生地に入れるカルダモンとケーキの上にのせるパイナップルとトッピングのココナツは美味しい組み合わせです。フィンランドではパイナップルの他にピーチやアプリコットもイースターのケーキやお菓子の飾り物です。イースターの黄色にピッタリ合うからです。

黄色とうす緑色はどうしてイースターの色でしょうか?それは、イースターは神様から新しい命を頂くお祝いなので、黄色は卵の中から出るひよこの色、うす緑色は木の新しい葉っぱの色になり、それで新しい命を象徴する色になるのです。

ところで、最近フィンランドの女性の雑誌には、人はどのように新しく変わるかという記事がいろいろあります。人はどのように変わるでしょうか?私たちは外見を変えることで新しくなりたいと思うことがあります。髪の型を違うものにしたり、素敵な新しい服を着たりすることで、外見を変えることが出来ます。それで自分自身が新しく変わったと感じるでしょう。しかし、しばらく時間が経つと、また新しく変わることを望むでしょう。私たちはもっと深い意味で人生を新しく変えることを望むこともあります。

聖書の中には多くの人たちの人生が新しく変わったことについて書いてあります。一つの有名な話を紹介したく思います。それは、ザアカイという人の話です。ザアカイの人生はどのように新しく変わったでしょうか?

イエス様がエリコという町に来られた時の話です。大勢の群衆がイエス様を出迎えました。町には徴税人で大金持ちのザアカイという人が住んでいました。ザアカイは人々から決まり以上の税金を取ってお金儲けをしていたので人々から嫌われていました。ザアカイはイエス様を一目見たいと思いましたが、背が低かったので群衆に遮られて見ることが出来ません。そこで、道端にある大きなイチジクの木に登りました。木の上からだったらイエスがよく見えるでしょう。2006-09-08 by MMBOX PRODUCTION, www.christiancliparts.netザアカイは木の上からイエス様が道を歩いて来られるのを見ていました。するとイエス様は、ザアカイがいる木の方に近づいて来て、木の下で立ち止まって、見上げて大きな声で言いました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まろう。」これを聞いた群衆は驚いて言いました。「なんでイエス様は、あのような罪深い男の家に行くのだろう?」

ザアカイはどうしたでしょうか?彼は急いで木の上から降りてきて、イエス様を自分の家に連れて行きました。イエス様はザアカイが人々に嫌われていたことをご存知でした。イエス様はザアカイの家で神様について教えました。それを聞いたザアカイは、「主よ、私がしたことは間違いでした。これからは心を入れ替えます。今までだましとってきたお金を四倍にしてみんなに返します。」と言いました。それを聞いたイエス様は、「今日、神様はこの家の人たちを救って下さいました。」と言われました。ザアカイはイエス様を受け入れて、彼が世の救い主であることを信じるようになったので、人生が新しく変わったのでした。

このようにイエス様はザアカイがいるところに立ち止まって、自分のもとに来るように呼ばれました。イエス様は私たちがいるところも良くご存じで私たちのことも名前で呼ばれます。私たちもイエス様を受け入れると、ザアカイと同じように新しいものに変わってイエス様と共に人生を歩むようになります。イエス様の姿は見えませんが、イエス様は「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と聖書で言われています。

私たちはイースターの時期に自然も新しく変わることを見ることが出来ます。これから咲く桜の花もその一つです。それまで枯れたような桜の木がピンク色の花で一杯になると、いつもイースター・復活祭の新しい命のことを思い出させます。皆さんも今年は桜を見てイースターの喜ばしいメッセージを覚えて下さい。

2024年3月17日(日)四旬節第五主日 主日礼拝  説教 木村長政 名誉牧師 

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン                               2024年3月17日(日)

説教題:「人の子が栄光を受ける時が来た」

聖書:ヨハネによる福音書12章20~33節

今日の聖書はヨハネ福音書12章20~33節です。20節を見ますと「さて、祭りの時、礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に何人かのギリシャ人がいた。」彼らはイエス様にお目にかかりたい、まずフイリポに頼んだ、と言うのです。何故フイリポに頼んだのか、フイリポという名は実はギリシャ風の名でありましたから、何となく仲間意識が働いてフイリポを呼んだのでしょう。このギリシャ人たちはどんな人たちだったのか。どうも彼らはギリシャからわざわざエルサレムまでやって来た、という事ではなさそうです。ギリシャからだとすれば、そうとう遠い道のりです。この当時パレスチナで彼方此方にギリシャ風の町があったようで、そこにギリシャ人も住んでいた。彼らは祭りのため、各地から礼拝するためにエレサレムに上っていたであろうと思われます。いわば巡礼して来たのかもしれません。ギリシャ人ではありますが、割礼まで受けた純粋なユダヤ教徒ではなく、しかし神を敬う心があって巡礼して来たのいでしょう。このような割礼を受けない異邦人の巡礼者たちはエレサレム神殿の一番外側の“異邦人の庭”と言われる所で礼拝するようになっていました。その異邦人の庭では両替をする者の台とか生贄をする鳩を売ったりする市場となっていました。マルコ福音書11章15節を見ますと、イエス様はこの庭で商売をしている台をひっくり返し、所謂宮清めをなさった、その時こう言われたのです。「私の家は全ての国の民の祈りの家と呼ばれるべきである。」と書いてあるではないか。ヨハネ福音書ではイエス様のエレサレム入城の直後の宮清めの事は書いていませんが、その代わり“異邦人の庭”で全ての異邦人のための宗教を主張されました。そのイエス様にギリシャ人たちが、是非お目にかかりたい、詳しく教えを聞きたい、という形で書かれているわけです。ですから、ここでは「ギリシャ人」のような異邦人が主イエス・キリストを信じて求めて行くという、象徴的な場面が描かれているのであります。ギリシャ人たちの願いをイエス様がどのように満たされたか、本当に彼らにお会いになったのか、と言うことまではヨハネは書いていません。むしろ、これを一つの象徴的な序文のように紹介して、「人の子が栄光を受ける時が来た」とイエス様が語りだされた事を記すのであります。そこでイエス様は「豊かに実を結ぶようになる時が来た」あるいは23節の表現では「全ての人を私のところへ引き寄せる」時が来た、と言うわけです。

こういうわけで、エレサレム神殿に礼拝に来たギリシャ人たちがイエス様に聞きたいということから始まって「全ての人」イエスのもとに来るようになるにはどういう道筋があるのだろう、また、どういう方法があるのだろうか、という問題が展開されて行きます。まず23節でイエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」。と宣言されました。では、どういう方法で栄光をお受けになるのか、と言うと24節で明らかにされるように、「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」という形で「豊かに実を結ぶ」のだ。そこに栄光がある。この「一粒の麦が死ぬ」という意味をもう少し詳しく27節から33節までに言われています。次に「豊かに実を結ぶ」と言うのだけれども「豊かな実」ちはどういう「実」なのか、というと、それが25節から26節に教えられています。つまり、自分の命を憎む者、イエス様に仕える者なのだ、と言っておられるのです。更に「光を信じなさい」という招きが続いていくわけです。さて、23節にイエス様が言われました「人の子が栄光をうける時が来た」。これまでにイエス様は何度も「私の時はまだ来ていない」と繰り返し言われてきました。<例えば>2章の始めにカナの婚宴の席で葡萄酒がなくなってきた、それでマリやがイエス様に「もう葡萄酒がなくなりました」となんとかして、といわんばかりに言われた時「私の時はまだ来ていない」とおっしゃいました。それでは、いつその時が来るのか。・・・・

異邦人ギリシャ人たちに向って全ての人々のために、今、その栄光の時は来た。と宣言されています。これまで閉じられていた、その時は今開かれて「人の子が栄光を受ける時」が来たのです。ユダヤの人々が「人の子」と言われるのを聞いた時、「本当に待望の王が現れた。雲に乗って永遠の御国と、主権を確立される、栄光に満ちる王があらわれた」と、すぐ考えたのです。それは旧約聖書で予言されたダニエル書7章13節にあります。当時の人々が「人の子が栄光を受ける時が来た」と聞けば、ではどこから、と言って天を見上げるほど、すぐさま栄光を期待したわけです。ですから、ここでイエス様が宣言されている、「栄光が現れる」と言われたのは、ユダヤの人々が期待しているような栄光ではない。それは「一粒の麦が地に落ちて死んだ時、豊かに実を結ぶ」その実こそ人の子の栄光が現れたことなのだ、この事を聞いた人々は非常にショックを受けたでしょう。思いもかけない教えであったのです。人の子が死ぬのか!その、死によって栄光を受ける時が,今、来た、その今を更にイエス様は27節以下で告白しておられます。「今、私は心が騒いでいる、何と言おうか、父よ、私をこの時から救ってください」と言おうか。ここでの27節から29節までに記されている記事はある意味では、有名なイエス様のゲッセマネの園での祈りの場面を、もう一つの別の物語として描かれている、と言ってもよいほどであります。ヨハネ福音書では「ゲッセマネの園での祈り」を書いていません、ここにもう一つの違った形でヨハネは書いているのです。マルコ福音書によりますと、14:34にゲッセマネで激しい祈りをされています。「私は悲しみのあまり、死ぬほどである」とペテロたちに打ち明けなさったのです。そして更に「アバ、父よあなたには出来ない事はありません、どうか盃を取りのけてください」と祈られたのであります。そのように、ヨハネの書いている、ここでは「父よ、この時から私をお救いください」と祈っておられます。ゲッセマネでイエス様は血の汗滴るような葛藤の末に、ついに「しかし、私の思いではなく御心のままになさって下さい」と結論をご自分に下されたのです。それがヨハネの書いています、ここでは「しかし、私はこのために、この時に至ったのです、父よ御名が崇められますように」と言って結論へと導かれています。それから、またルカ福音書によれば22章43節で「すると、天使が天から現れて、イエスを近づけた。イエスは苦しみ悶え、いよいよ切に祈られた」。とあります。ヨハネ福音書のほうでは28節に「すると、天から声が聞こえた。」29節で、人々はそれを「御使いが彼に話しかけたのだ」と言っております。こうして見ると、いろいろな点から実にゲッセマネの園でイエス様の祈りの姿と、殆ど同じである、と見られます。ここで私たちに三つの事が教えられています

第一は、人の子が十字架の死を遂げる事は避けることの出来ない、神様の御定めである、という事です。

第二は、イエス様が神様の定めに十字架の死を遂げるのは、嫌々ではなく、むしろイエス様の自然的な率先した歩みであり給うた、という事であります。「私は、このために、この時に至ったのだ」とイエスご自身が確認しておられます。

第三は、大切な事は、この十字架の死を私が歩む事によって栄光が来るのだ、というイエスの確信――これを通して「御名が崇められますように」というイエスの祈り――これが独りよがりでなくて確かに天からの御声があった、それは「私は、すでにあなたの働きを通して栄光を表したが、更にあなたの十字架の死において栄光を表すであろう」この事で約束なさった事であります。これはイエス独りの思い込みではなく、確かな神様の御声の裏付けのある事であります。人々はこの天からの声を聞きましたけれども、しかし「雷」だろう、とか「御使い」だろうとか言っておりますとおり内容は理解出来なかったわけであります。それは、ちょうどパウロがダマスコへの途上、復活のイエスの幻に打たれ「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と言う御声を聞き分けた時、傍らにいた者たちは声は聞いたけれど言葉は理解出来なかったのと同じであります。<使徒言行録9:7>つまり、普通の人間の声ではない、天来の御声である、ということがよくわかります。イエス様の祈りに即座に天からの答えが返ってきたのであります。“一粒の麦が地に落ちて死んだ時、豊かに実を結ぶのだ”と言われたイエス様が正しいことであった、と人々にこれでよくわかった筈であります。その意味でイエス様は30節で「この声があったのは私のためではなく、あなた方のためである」と言われたのです。一方では、このイエスの言葉を信じない人々、また頑なな人々、これほどの天からの声があっても、主イエス・キリストの御教えを信じないで疑っている,或いは殺そうとしている「この世」は裁かれるのであります。もし、イエス様の言うとおり、信じるならば「私がこの地上から上げられる時には、全ての人々を私のところに引き寄せるであろう」と32節で言われています。一粒の麦が死ぬ事によって豊かな実が結び全世界の人々が主イエス・キリストのもとに来る。主イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたか、をお示しになったのであります。私たちも主に従って自分流の一粒の実となって行ければ、イエス様はどんなにお喜びになさるでありましょうか。あなた方は光の子となるために光のあるうちに光を信じなさい。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

スオミ教会 フィンランド語クラスのご案内

フィンランド

日時 3月21日 (木) 19時~20時10分

フィンランド語クラスは【初級】だけとなります。

初級はフィンランド語が
はじめての方向けですが、
フィンランド語が少し出来る方もどうぞ!

授業は19時~20時、その後10分くらい聖書日課を読んだり讃美歌を歌ったりします。
フィンランド

参加費 1000円

申し込み順で受け付けます。

お問い合わせ、お申し込み
moc.l1746329517iamg@1746329517arumi1746329517hsoy.1746329517iviap1746329517

03-6233-7109
スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4
www.suomikyoukai.org

 

フィンランド

スオミ教会の2024年度の活動方針

3月3日、教会の2023年度の年次総会が開かれました(教会員、オブザーバー、委任状提出含めて20名の参加)。宣教師がまとめた総会資料に基づいて昨年度の活動の総括と収支報告の承認を行い、新年度の活動や予算を話し合って採択しました。

以下、総会資料中の「牧師報告」の巻頭言「激動の時代にあって流されない生き方」と、採択された教会の新年度の主題と聖句、活動方針について紹介します。

 牧師報告

【総会巻頭聖句】

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。心を新しくされた者として自分を変えていき、何が神の御心であるか、何が善いことで、御心に適うことか、また完全なことであるかを吟味するようになりなさい。」ローマ12章2節(ギリシャ語原文からの訳※)

(※ 総会の時に、なぜ日本語訳の聖書を用いず、ギリシャ語原文から直接訳したものを掲げたか説明しました。日本語訳では「心を新たにして」というふうに、人間が心を新たにしなければならなくなっていますが、ここは本当は、キリスト信仰者は神によって既に心が新たにされたという意味です。それなので「新しくされた心をもって」とか、「心を新しくされた者として」と訳したほうが良いと思います。「心」はギリシャ語でヌースνους、「意識」、「自覚」とも訳すことが出来ます。「理性」と訳す人もいますが、それはルター派的ではありません。キリスト信仰者は既にヌースが新しくされているということは、ローマ7章のパウロの教えからはっきりわかります。)

【激動の時代にあって流されない生き方】

世界を見回すと、ウクライナ戦争はまだ続く上に、10月にはイスラエルとパレスチナのガザ地区が戦争に突入してしまいました。内戦状態や市民への弾圧が続く国々が数多くあります。悲しむべきことはこれらを解決できない状態が続いていることです。自由と民主主義の国々が国の内外から挑戦状をたたきつけられているような状況に陥っています。温暖化の阻止も待ったなしです。

日本国内を見ても、人口や経済の縮小が続き、国の将来に悲観的な見方が広がっていると思います。国の政治も、統一教会問題や裏金問題のため、政治に対する不信と諦めが漂っていると思います。

そして私たちが繋がるキリスト教会も世界を見渡すと、いろいろな教派があるのは昔からですが、伝統的な教会が見解の相違のために分裂状態に陥っています。フィンランドでも国民の教会離れが進み、1980年代までは国民の90%以上がルター派の国教会に属していましたが、現在は60%程度、ヘルシンキ首都圏では50%まで落ちています。国民の教会離れ聖書離れは、キリスト教が伝統的な宗教であった国々で進んでいます。

ただ、そのような時代にあっても、フィンランドでは、教会を支えよう、聖書の御言葉を大事にする信仰者としてこの世を生きよう、という人たちは大勢残っています。彼らが国内と海外の伝道を支えています。私たちのスオミ教会もそのような兄弟姉妹の支援を受けていることを忘れないようにしましょう。

この世がどのような方向に流れていくにしても、私たちは、上記の聖句が教えるように、イエス様の十字架と復活の業と洗礼のおかげで心を新しくされた者として、何が神の御心か、何が善いことで、御心に適うことか、完全なことであるか、吟味しながら日々を生きる(吟味のためには聖書を開く必要があります)、そうすることで、流れを変えることは出来ないかもしれないが、ただ単に流されるだけで自分を見失ってしまうことはないと信じます。

♰♰ 2024年度の主題聖句、主題、主題の趣旨、伝道方針、年間行事予定

【2023年度の主題聖句と主題】

主題聖句 詩篇23篇4

「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ。汝、共にませばなり。」(文語訳)

「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。」(新共同訳)

主題 「いかなる状況にあっても御言葉と聖礼典がある限り主が共にいて下さることは揺るがない。」

【主題の趣旨】

吉村が牧師になったことで、聖礼典も執行できるようになりました。これでやっと、御言葉と聖礼典という「恵みの手段」(ルター派の言い方)を用いて、信徒一人一人の信仰の成長の手助けができます。

「信仰の成長」とは何か、少し具体的に述べます。昨年12月17日の週報コラムで「信仰の証し」についてお教えしました。「信仰の証し」とは、①自分はどのようにして十字架と復活の業を成し遂げたイエス様と出会ったか、②一時そのイエス様から遠ざかってしまったが、また身近になった、③現在、平穏な時/大変な時にあるが、それでも十字架と復活の主が身近におられることは揺るがない、この3つのいずれかについて話し分かち合うことです。その際、聖書の何々の個所がそういう出会い/再会/随伴を確信させてくれたということがあれば申し分なし。日々聖書を開いて、自分の日々の歩みや思いを御言葉に照らし合わせて見直すことをしていれば、主が身近におられることが当たり前になり、「証し」をして下さいとお願いされても慌てないですみます。これが「信仰の成長」であると考えます。礼拝の説教と聖餐はまさに主が身近におられることを揺るがないものにするものです。また、牧師・宣教師と話をしたり祈ることでも、聖書のあの個所が決め手になった!というようなものが見つかります。

主が身近な存在になるかどうかは結局は信徒一人ひとりにかかっていますが、牧師・宣教師はそのお手伝いをするというスタンスでいます。

【2024年度の伝道方針および年間行事予定等】

礼拝は会堂とオンラインのハイブリッド方式を続けますが、礼拝と聖餐と聖徒の交わりを実現する本来の場所は会堂です。様々な事情で会堂に来れない方が教会に繋がれるための手段としてオンラインはやむを得ないと思います。

諸集会はコロナ前と同じ水準で行っていきます。諸集会に教会員やキリスト信仰者の参加があると、ノンクリスチャンに対する伝道力が一気に高まることをお覚え下さい。今年もチャーチカフェを開催します。新宿区の保健所から菓子製造販売の許可証を得たので堂々と開催できます。

教会歴に沿った年間行事予定は、大きなものは3月24日受難週、同29日聖金曜日、同31日復活祭、5月19日聖霊降臨祭、12月1日待降節、同22日クリスマス礼拝、同月24日イブ礼拝となります。伝統のバザーもクリスマス期間に出来るでしょうか?

今年の宣教師の一時帰国は長めのものになります。6月中旬から9月初旬まで位になると思います。期間については正確にわかり次第お伝えします。

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手芸クラブの報告

2月の手芸クラブは28日に開催しました。前日は冷たい北風が吹きましたが、この日は朝から太陽が輝いて穏やかな天候の日となりました。

前回に続いて今回もバンド織のキーホルダーを作りました。フィンランド語でNauhaと言います。前回参加された方たちは新しい模様のキーホルダーを作りました。毛糸は既に準備したものを用い、各自それぞれの場所で織始めました。初めて参加された方にはいろいろ細かい準備をして、それから織始めました。

新しい模様のバンド織の毛糸は細かったので、今回はどんな模様になるか皆さん楽しみにしながら織進めていきます。すると、可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。

今回の毛糸は黒色が多かったので少し織りづらかったようでしたが、皆さん一生懸命頑張ったので今回も素敵なバンド織のキーホルダーが出来上がりました。

初めての方もテクニックを早く覚えてNauha はどんどん長くなって、かわいい春らしい色のNauhaが出来上がりました。Nauhaに星やハートなどの形の輪を入れて結ぶと可愛いキーホルダーの完成です!

肩をリラックスしてコーヒータイムに入りました。フィンランドのチョコレート・マフィンを味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、毛糸のNauhaや天の神さまが私たちに与えて下さる人生のNauha についてお話がありました。

3月の手芸クラブはお休みになります。次回は4月24日に開催予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

手芸クラブの話2024年2月

今日もきれいなバンド織のキーホルダーが出来ました。皆さんは覚えが早いので、あっという間に出来上がりました。今日はバンド織について少しお話をしたいと思います。

バンド織は地中海の地域で古くから作られた手芸の一つです。イタリアでは1200年代に作られたものが発見されています。バンド織作りは中世期に北欧にも広がってフィンランドのトルゥクでは1400年代に作られたものが発見されています。

バンド織はフィンランド語でPirtanauhaと言います。Pirtanauhaは1800年代から1900年代にかけてとても人気がありました。バンド織で作ったものは貴族の間では使われませんでしたが、農民の人たちはそれを使ったので女性たちがよくバンド織をしました。母親たちは織り方を娘たちに教えたので、このスキルは世代から世代へ伝わっていったのでした。

バンド織はどのようなものに使われていたでしょうか。一番多かったのはベルトでしたが、靴のひも、バッグの持ち手、服の飾りなどに使われました。バンド織は何本も繋げていくと生地にもなりました。

フィンランドでは1900年代から1970年代まではバンド織を作る人はあまり多くいませんでしたが、1970年代からまた人気を集めるようになりました。現在は作る人はそれほど多くはいませんが、フィンランドの伝統的な手芸の一つですので、手芸センターなどでバンド織のコースが時々開催されます。

Nauhaは色んな長さや色んな色のものに作ることが出来ます。フィンランド語のNauhaは、「ひも」という意味です。Nauhaという言葉はいろいろな文脈で使われます。人生を象徴する時、Nauhaということもあります。人生が一本の長いひもにたとえらえるのです。フィンランドの子どもの讃美歌には次のような歌があります。「人生の日々は美しいNauha、一つ一つの思い出は真珠の粒、日々の連なりは真珠をひもに通した飾りのように高価なもの。そのどれもNauhaから外すことはできない。」

この歌は人生の日々の連なりをNauhaに、そこにある一つ一つの思い出を真珠にたとえています。沢山の真珠があるNauhaは素晴らしく見えます。Nauhaの中にある真珠の一つ一つは思い出の一つ一つですが、よく見ると明るい色や暗い色があります。それでもNauhaの全体は素敵なものになります。私たちの人生のNauhaは振り返って見ると、いろんな色の時期があったと分かります。一つ一つの色には意味があります。明るい色は幸せや喜びの時期を表しますが、暗い色は悲しい時、困難な時期です。私たちの人生には両方の時期があると思います。私たちはもちろん幸せを求めますが、ずっと続くとは限りません。自分で選ばないのに悲しい時がきます。

聖書には、人生の中にいろんなことががあっても心配したり恐れる必要はないと教えるところが沢山あります。その中でも旧約聖書の詩篇23篇は有名な箇所です。

この詩篇は、「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」という文で始まります。「羊飼い」とは天と地と人間を造られた神様のこと、「羊」は私たち人間を意味します。羊は弱くて、野生動物に簡単に捕まって食べられてしまいます。そのため羊飼いは羊を守って導いていきます。羊飼いが羊を守り導くように、神様が私たちを守って導いて下さると詩篇の言葉は伝えています。もし人間を造られた神様が私たちの羊飼いならば、神様は信頼して大丈夫な方です。神様の導きのうちに生活する時に大きな安心があります。神様はどのように私たちを導いてくださるのでしょうか?

この詩篇には「主はみ名にふさわしく、正しい道に導かれる」と書いてあります。神様は私たち一人一人のことをよくご存じで、いつも歩むべき道を示して下さいます。神様は私たちを愛しているので、良い場所に導いて下さいます。良い場所とは、「きれいな青草の原」、「憩いの水のほとり」と詩篇の中で言われます。ただ、そこに至る道はいつも明るい安全な道とは限りません。詩篇では、「死の陰の谷」を通ることもあると言われます。私たちの人生の中には喜ばしいことだけでなく悲しいこともあります。もちろん、私たちは喜ばしいことを望んでいます。それで、悲しいことが起こると受け入れるのは簡単ではありません。しかし神様は実は悲しい時でも、喜ばしい時と同じくらいに共にいて下さると詩篇で言われているのです。この詩篇の箇所は、このように神様の人間に対する愛が示されているので、いつも安心と感謝の気持ちで一杯になります。

私たちの人生のNauhaにはいろんな色があります。しかし、神さまがいつも一緒にいて下さると信頼できればこれからも真珠をつけていくことができます。このことを忘れずに歩んで行きましょう。

 

牧師の週報コラム

なんで英語じゃないとダメなんですか?

スオミ教会が中野にあった時のこと。キリスト教会の礼拝に初めて参加したという青年がコーヒータイムの時に私に聞いた。 「先生、僕は聖書を原語で読みたいんです。教えて頂けますか?」 立派な志しだと感心し、「それじゃ、ギリシャ語から始めようか。それともヘブライ語?アラム語もあるけどヘブライ語を先にやった方がいいよ。」 すると青年は当惑した表情で「いえ…、英語でです。」 これには私も仰天。聖書は新約はギリシャ語が原語、旧約はヘブライ語(一部アラム語)ですと説明しなければならなかった。青年は二度と教会に姿を現さなかった。

キリスト教はアメリカの宗教…。そういえば、オペラの「蝶々夫人」。米海軍士官との結婚を機に蝶々さんはキリスト教に改宗して一族から勘当。一時帰国の筈の夫はなかなか戻らず。一人残った家政婦のスズキさんが主人の帰国を一生懸命に神仏に祈っていると、そんなものに祈っても意味はないと嘲笑する蝶々さん。「私にはアメリカの神がついている」と。そして悲劇的な結末…。

これも中野時代のこと。ある教団の牧師(アメリカ帰り)がスオミ教会の礼拝で説教をした時、「皆さん、イエス様は皆さんのことを愛して下さっているんですよ!アイ・ラブ・ユーっておっしゃっているんですよ!」と。私は思わずのけぞってしまった。イエス・キリストが「アイ・ラブ・ユー」だって?!彼は何度かスオミで説教したが、よく口から出てきたので、自分の教会の礼拝でも常套文句なのだろう。きっと信徒さんたちもうっとりして聴いているのだろう。そう言えば、日本では多くのキリスト教会の案内や出版物もカタカナ英語がよく目につくと思う。

そういうお前はどうなんだ、フィンランド帰りをちらつかせて、フィンランド語で何か言っているじゃないか、と言われるかもしれない。しかし、私の場合は、ジーザス・ラブズ・ユーとは違う。説教の準備の終わりの段階でいつも聖書の個所が日本語訳ではどう言われているかを確認する。原語はそう言っていないのでは?この日本語訳いいのかな?ということに時々出くわす。それで、フィンランド語ではスウェーデン語ではドイツ語では、そして英語ではどう言っているか、と自分の訳に応援を求めているだけである。私の経験では(正確に統計を取ったわけではないが)、日本語と英語の訳が一致して、その他3つが別の訳で一致するということがよくあると思う(ただし、英語訳はNIVについてのみ。ドイツ語訳も共同訳とルター訳があるのでさらなる違いもある)。

日本の政治家は日米同盟のことを共通の価値観で結ばれた世界最強の同盟と誇りにするが、聖書の訳や理解でも同じようなことがあるのだろうか。