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リエスカの話、11月のフィンランド家庭料理クラブ、パイビ先生

ジャガイモのリエスカ
今日皆さんが作ったジャガイモのリエスカとキーセリはフィンランドの伝統的な食べ物で、私のお祖母さんもお祖母さんのお母さんも作っていました。

フィンランドの食文化は、東の地方と西の地方の二つの食文化に分かれています。それでリエスカは、東の地方では生地にイーストを使い、厚いパンを意味します。ところが西の地方では、生地にイーストを使わず、大麦粉やオートミールの粉を使って作るので、薄いパンを意味します。現在はリエスカは普通、薄いパンを意味します。

昔リエスカは、薪で暖めるオーブンで高い温度で焼くのが普通でした。私の母も、パンを作る時は、薪で暖めたオーブンで一番初めにリエスカを焼いて、オーブンの温度が下がってから他のパンを焼きました。母がパンを作る時はいつも、子供たちはリエスカが出来上がるのを楽しみにしていました。出来上がった熱いリエスカの上にバターを塗って美味しく食べたことをよく覚えています。

リエスカはパンの種類の一つです。パンはフィンランド人の食事の中で最も重要な食べ物で、ほとんど毎食に食べます。それで、一日に四個から六個くらいパンを食べることになります。フィンランド人が食べるパンは小麦粉で作るものだけではありません。パンの生地によく入れる粉類としては、ライ麦、全粒小麦があります。その他にいろいろな種やすりおろした野菜なども入れます。このためにパンにはエネルギーの他に、ミネラルやビタミン、繊維も沢山入っています。酸っぱくて黒いライ麦のパンは今でもよく食べられるパンですが、他にもパンの種類は沢山増えて、店でパンを買う時、選ぶのが難しくなりました。現在、若者はライ麦パンより白いパンの方が好きになりました。しかし、私の父くらいの年令の人たちはまだライ麦のパンの方をよく食べます。父くらいの年令の人たちは、食事のパンの重要性をよく知っています。私の父は、もし食事にパンがないと、もうそれはご飯にならない、と言うくらいパンは食事の重要な一部です。かつてパンという言葉は、食べ物一般を意味する言葉としても使われました。例えば、「家にはパンはもう殆どありません」と言うと、それは「家には食料品はほとんどありません」を意味しました。このようにパンは、フィンランド人にとって重要な食べ物です。日本人は、どの食べ物が同じように重要でしょうか?やはり、お米でしょうか?

聖書にもパンやパンに関係しているお話が沢山あります。今日は聖書の中でも特に有名な、「イエス様が五千人の人たちに食べ物を与える」という話について話したく思います。

ある時イエス様は湖の岸辺で群衆に神様について教えられていました。長い間教えたので、お疲れになり、弟子たちと一緒に静かなところに行ってそこで休もうと思いました。そこでイエス様は、弟子たちと一緒に舟に乗って、湖の向こう岸に行きました。イエス様はそこでしばらく休めると思いました。しかし、群衆はイエス様と弟子たちが舟に乗ったのを見て、陸の道を通って反対側の岸に行きました。イエス様は大勢の群衆が集まって来たのを見て、新しい場所でも神様について教え始めました。人々はイエス様の教えに夢中になって、時間が立つのも忘れてしまいました。

時間も遅くなってきて、みんなもだんだんお腹がすいてきました。弟子たちは心配してイエス様に言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、みんな自分で近くの村に行って何か食べ物を買うことができるでしょう。」しかし、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物をあげなさい」と言ったので、弟子たちはびっくりしてしまいました。なぜなら、弟子たちはお金はみんなのを合わせても二百デナリオンしか持っておらず、その金額は五千人の人たちにパンを買うにはとても少なすぎました。弟子たちはイエス様に、「二百デナリオンでパンを買って、みんなに食べさせるのですか」と聞きました。ところがイエス様は弟子たちに、群衆の中にいくつパンがあるか調べるように命じました。弟子たちは群衆の中を調べて、「パンは五個見つかりました。その上魚が二匹ありました」とイエス様に言いました。そこでイエス様は弟子たちに命じて、人々を芝生の上に座らせました。弟子たちはこんな少ないパンと魚で一体何ができるのだろうかと思いましたが、イエス様の言う通りにしました。

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イエス様は五つのパンと二匹の魚をとって高く掲げて、神様に感謝してお祈りしました。その後で弟子たちにパンと魚を渡して、群衆に分けるように命じました。すると不思議なことに、五千人の人たちはパンと魚をお腹いっぱいになる位に食べたのです。そして、残ったパンのかけらを集めると、十二の籠が一杯になりました。

この出来事は、イエス様は私たちに肉体のための食べ物と霊的な食べ物の両方を与えてくださることを語っています。はじめイエス様は群衆に神様について教えました。神様は本当に恵みと愛に満ちた方だから、信頼して安心して大丈夫と沢山教えました。人々はこの教えを聞いて、心から喜んでもっと聞きたいと思いました。聞いているうちに時間がたって、夕方になっているのに気が付かないくらいでした。お腹がすいていたのも忘れるくらいでした。みんなお腹がすいていたのに、誰もパニックにならないで、イエス様の言われるとおりに芝生に座って、これからどうなるか見ていました。群衆は誰も心配していません。みんなは、イエス様は神様のひとり子なので信頼して大丈夫と思っていました。本当に大丈夫だったのです。こうして人々は、イエス様から霊的な食べ物を得て、神様が本当に人間を愛して下さっているとわかって、神様とイエス様を深く信頼して、肉体的な食べ物も得られました。五つのパンが5千人の人に足りて、余ったものがさらに12の籠に一杯になったというのは、神様の私たちに対する愛がそれだけ溢れるくらいのものであることを意味しています。聖書を読むと、そのような大きな愛が私たちに注がれていることがわかります。

   

説教「ののしられる者は幸いである」木村長政 名誉牧師、マタイ5章11~12節

山上の説教の中の「あなた方は、幸いである」という形で語られる最後です。ここで一区切りにしたいと思っています。

11~12節を見ますと

11節「わたしのために、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口をあびせさせられる時、あなた方は幸いである」

12節「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなた方より前の預言者たちも同じように迫害されたのである。」

今日の聖書の11~12節を読んで皆さんもお気づきの事と思いますが、12節では「義のために迫害される人々は幸いである。」短く簡潔な言葉です。そして迫害されて来た人と言っても第三者のことのように言っている表現です。それに対して11節ではあなた方と言っています。直接にこの人々に対して語っていることで言っています。ここで語られているのが主の弟子たちであったことはすぐ想像できます。10節までは一般の人について語っていたが、ここからは弟子たちに対して言っているということでしょう。これまでにも言ってきましたが祝福の説教は信仰のある人に与えられているのです。その中には弟子たちも入っているはずだと思います。

 従って、ここでは一般の信者に対して語った後に特に弟子たちのことを思って語ったということでなくて、義のため、ということから、それの本当の意味であるキリストのため、ということを言っていますから、言い方が変わったのであります。11節のところで「わたしのために」と言っています、この私のため、はキリストのためです。次にすでに10節のところで義のためにと言っています、それは単に正しいということではなくて、信仰による正しさであります。それなら、ここではそれを更に一歩進めた話、ということになるのであります。あなた方、と言っていることから考えられることは面と向かって話していることであります。人ごとのように聞いたのでは主が言われたことが生きていないことは、わかり切ったことです。

 ここで聞いていた人たちは、まさに自分に対して言われたこととして聞いたにちがいありません。義のため、と言われるところにはキリストとの直接の関係において受け取るのでなければ正しくないと言うことです。実はキリストのためと言うことに至るのでなければ本当には儀のためということさえならないということなのです。ただ義のためと言うことだけでなくキリストとの関係が正しくされて始めてそれができる、ということを忘れてはなりません。私たちは義のために生きることを願って来たのであります。それが人間のための生活であると言うことも知っています。しかしキリストに救われるまではなぜ義のために生きるのか、ということも分からなかった。また実際、義のために生きる力もなかったのであります。そういうことに自信がなかったでしょう、特にそう考えていなかったとしても、それは何となくそれが分からなかったのであります。ところが、キリストはそれを悟らせてくださいました。そして、それから救ってくださったのであります。従って、どのこともキリストのため、ということになるのであります。信仰生活というものはキリストとの関係で生きることです。

 パウロは「キリストにあって」と言う言葉を口癖のようにたびたび用いました。自分の信仰生活はどんな意味でもキリストと結びついたものである、と確信しておりました。信仰生活というのはキリストに愛されキリストを愛する生活であります。一つの例として申しますと、クリスチャンの家庭でよく知られた壁掛けがあります。そこには、こういう言葉がかかれています。

キリストはこの家の主人

食卓ごとの見えざる客

どの会話をも黙って聞いておられる。

あるクリスチャンは食卓ごとに一つの席をもうけ、キリストがそこにおいでになることを信じようとしました。私のことを申しますと老人ホームの礼拝で中心席にはイエス様の席を用意します。信仰とは一つのものの考えではなく、キリストのよって生きることであります。イエス様を身近に感ずることでしょう。ですから「わたしのため」というのであります。

 迫害されるものはキリストのためなのであります。キリストのために迫害されることを11節ではいろいろな具体的な様子が記されています。「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口を浴びせられる」というのであります。このように多くのことが言われるのはイエス様の生涯の始めにすでに多くの悪口や迫害があったということ、或いはイエス様は予測しておられたことでしょう。その後古代の教会に対してなされた非難や迫害は非常なものでありましあt。教会の歴史には迫害はつきものでありました。信仰生活もまた戦いを忘れることの出来ない、この世との対決がありました。この世がそれほど神にそむいている、ということであります。しかし主イエス様は祝福の最後の説教に繰り返すように「信仰者は迫害を受ける」と言われそれが「さいわい」である、と言われます。そればかりではなく、そのことを喜びなさい、と言われるのであります。

 主は喜び喜べ!と言われます。12節です。喜ぶだろう、と言うのでなく「喜びなさい」と言う命令であります。主からの命令ですョ、しかもただ喜ぶのでなく、おどり上がって喜べ、と言うことであります。皆さんどうですか迫害の苦しみに会っているキリスト者に喜べと言うすすめであります。迫害に会って嬉しい人は誰もいません。それは自然なことであります。それならば、このように喜べというのは余程の理由があるはずであります。信仰は喜びの生活である、と言われますがそれは救われて信仰を得た者が自然に喜ぶことであります。しかし、また信仰生活の困難に耐えて主の励ましを受け喜ぶことなのであります。

ヨハネ黙示録19章5~7節には。また玉座から声がしてこう言った。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者もわたしたちの神を讃えよ。」わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び大いに喜び神の栄光をたたえよう」。さて、それならその喜びはどういう根拠があるのでしょう。信仰には迫害はつきものである、信仰を持つがゆえにいろいろな不都合や苦しみがある。それならば主の弟子たちや、その後の教会だけでなく、弟子たちよりも前にいた預言者たちも同じであった、ということであります。その預言者たちも同じように迫害を受けたのであります。預言者たちと主の弟子たちは同じ道を歩んでいる者であります。12節の終わりのところでちゃんと記されています。「あなた方より前の預言者たちも同じように迫害されたのである」しかも預言者たちは主の弟子たちが見ていることも見ることが出来なかったのであります。マタイ福音書10章41節には「預言者を預言者として受け入れる人は預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は正しい者と同じ報いを受ける。」ここにはっきりと主イエス様が言っておられるのです。同じように主のために苦しみを受けた者は主から報いを受けるのであります。

 私たちはただ主の恵みによって救われたのであります。もしも迫害に耐えることが出来たとしたらその恵みに答えることが出来たにすぎないのではないでしょうか。そのことによって十分に喜ぶことができるはずではなかったでしょうか。それなのにマタイ10章41節で言われたように迫害のゆえに喜ぶことが出来たことに対して報酬が与えられる、というのはおかしなことではないでしょうか。ことに主が報酬があるから喜べ、と言われることは納得できないことだ、と言わねばならないに違いありません。しかし此処に使われている報いというのは私たちの努力によって与えられる報酬ということではなくて、何の努力もしないのに価なしに与えられるものということでります。しかも主が与えてくださるその報いというのは、ひたすらにそれを与える人の自由であり、その寛大さによることなのであります。それはただその仕事に見合う、ということではなく、ひたすら神の権威によるものであります。

 それをよく説明しているのは、皆さんもご存知のマタイ20章1~16節に記されている「ぶどう園の労働者のたとえ話」であります。朝9時から働いた者と、夕方5時頃から来て働いた者が同じ1デナリの報酬を受けるのです。それに対して不平を言う者があらわれ、ぶどう園の主人はその者たちに言うのであります。「自分のものを自分のしたいようにするのは当たりまえではないか」このことが

神の報いの本当の意味であります。神は報いを与えるとしても、それは全くご自分で正しいと思われるようになさるのであります。それが「神の恵み」を表すものであります。それゆえに、それは報酬でありながら「神の恵み」を表すものであります。そして、やがてこの報いが天において与えられる、ということです。この地上ではなく天において、あのヨハネ黙示録19章で見ましたように天の玉座の前で示されているのであります。私たちは天のみ国において約束されている喜びに希望を持って信仰生活を共にしてまいりましょう。
アーメン・ハレルヤ!

説教「死を踏み越える祈り」神学博士 吉村博明 宣教師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.全聖徒主日とは?

 本日はキリスト教会のカレンダーでは聖霊降臨後第21主日と定められていますが、同時に日本のルター派教会のカレンダーでは「全聖徒主日」という名称も付されています。

キリスト教会では古くから11月1日を、キリスト信仰の故に命を落とした殉教者を聖徒とか聖人と称して覚える日としてきました。加えて翌11月2日を、キリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。殉教者を覚える日はラテン語でFestum omnium sanctorum、亡くなったキリスト信仰者を覚える日はCommemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれてきました。フィンランドのルター派教会では11月最初の主日の前日の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者両方を覚える日となっています。今年は昨日の11月5日でした。スウェーデンのルター派教会では、この同じ土曜日は「全聖徒の日」という同じ名称ですが、これは殉教者だけを覚える日です。翌日の日曜日、つまり今日ですが、これは「全ての魂の日」という名称で、亡くなった信仰者を覚える日とされています。フィンランドの方は、この日曜日には特別な名称はなく、通常の「聖霊降臨後第何々主日」です。このようにルター派と言っても、国によって扱い方が異なっています。他の国々はどうでしょうか?ひとつ付け加えると、スウェーデンとフィンランドでは「全聖徒の日」の土曜日は国の祝日になっています。この週末は両国では全国各地の教会の墓地の墓の前に一斉にロウソクの灯がともされます。白夜の季節の終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に出て来る、天地創造の神の御許に迎え入れられる「白い衣を身に着けた大群衆」を思い起こさせます。

日本のルター派教会のカレンダーでは、11月1日が「全聖徒の日」、それに近い主日が「全聖徒主日」と定められています。今日のことです。11月1日が中心なのを見ると、先ほどのラテン語の伝統からすれば殉教者中心のようにみえます。それでも多くの教会では私たちのもとを旅立った教会関係者の兄弟姉妹の遺影を飾ることが行われていますので、フィンランドと同じように殉教者と信仰者両方を覚える日として定着しているのではないかと思います。

 

2.亡くなった人を覚えるとは?

 本説教ではまず、亡くなった人を「覚える」とはどういうことかを見ていきます。いろいろ注意しなければならないことがあります。こうして遺影を飾っていると、さも亡くなった方が今見えない形で私たちと共にいて一緒に礼拝を守っているかのような感覚を持たれる方が出るかもしれません。しかし、ルターが教えているように、人は死ぬと、この世が終わりを告げて死者の復活と最後の審判が起こる日までは、神のみぞ知る場所にいて眠るのであります。この世を去る時にあった痛み苦しみから解放されて、全く安らかに心地よい眠りを眠るのであります。そして、終末と復活の日に目覚めさせられて、最後の審判で神の目に適うとされた者は、輝く復活の体を着せられて、天の御国の祝宴に迎え入れられるのであります。本日の使徒書の日課である第一コリント15章で言われている通りです。安らかに眠り続けているのではなく、復活の日が来ると、朽ちるものが朽ちないものを着せられ、死ぬものが死なないものを着せられて有様が一変するのであります(51~53節)。

 復活の日まで安らかに眠っているのですから、亡くなった方が私たちを見守るとか、導くとか、助言するとかいうことはありません。私たちを見守り、導き、助言をするのは、私たちを造り、私たちに命と人生を与えて下さった造り主の神以外にはいません。今見えない形で、礼拝を守るために集まった私たちと一緒にいるのは、他でもないこの神なのです。

 このように言うと、いろんな疑問が出てきます。まず、死んだ人はどこで眠っているのかという疑問が出るでしょう。これは、もう神のみぞ知る場所としかいいようがありません。聖書では死んだ者が安置される場所を陰府(シェオールשאול、ハーデスαδες)と言っています。他に見当たりません。言葉の意味やニュアンスからして、なんだか暗い不気味な世界に思えます。しかし、本人は安らかに眠っているだけなので暗かろうが明るかろうが問題はないでしょう。ルターは、この眠りの期間は、あらゆる労苦や痛みや苦しみから解放された心地よい時間であると同時に、眠っている本人からしたらほんの一瞬にしか感じられない時間であると言っています。この世の時間の概念では何百年経っていても、本人にしてみれば、あたかも全身麻酔の手術を受けた人のように、目を閉じて眠ったかなと思った瞬間に目の前で復活の壮大なドラマが始まっているというわけです。

 次の疑問は、復活の日ないしは最後の審判の日に神の御国つまり天国に行けるかいけないかが決せられると言うのなら、今は天国には誰もいないのか?これも難しい問題です。実は聖書には、将来の復活の日を待たずして神の御許に迎え入れられた者がいることが述べられています。神のひとり子イエス様はもともとおられた所に戻ったので含めませんが、単なる人間のエノク(創世記5章24節)やエリア(列王記下2章11節)がそうです。モーセも神に葬られて誰もその場所を知らないという謎めいた最後を遂げています(申命記34章6節)。イエス様がヘルモン山の頂上で白く輝いた時、モーセとエリアが現れますが、本当に神の御許から遣わされたとしか言いようがありません(マルコ9章2~8節その他)。ヘブライ12章23節を見ると、天のみ神の御許には既に聖徒、聖人の群れがあることが窺われます。こういう将来の復活の日を待たないで天国に行けるのは誰なのか?カトリック教会では教会がそれを決めることができるようですが、私たちとしては神に任せるしかないと思います。ルターは天の聖人の群れの存在は認めましたが、カトリック教会のように崇拝の対象にはしませんでした。崇拝の対象はあくまで父、御子、御霊の三位一体の神だからです。

 次の疑問は、聖人以外の人たちは復活の日までどこか神の知る場所で安らかに眠るとすると、その人たちのことを「天に召された」とか「召天した」と言っていいのか?キリスト信仰では復活というのは中心的な事柄の一つなので、それがある限りは、もう天国に行きましたというのは早急でしょう。でも、キリスト教会の最も重要な仕事は何かと言えば、それは人間を天国に送り出すことです。陰府に送り出すことではありません。それで、復活の日まで時差があるということを関係者みんながしっかりわきまえていれば、「天に召された」と言っても大丈夫でしょう。わきまえてなければ誤解を生まないためにも何か別の言い方を考えた方が良いと思います。

 次の疑問は、亡くなった人は眠ってしまい、神だけが祈り、悩みを打ち明け、喜びや感謝を報告する相手だと言ったら、亡くなった方とは何も関係がなくなってしまうのか?それでは自分だけではなく、亡くなった方の霊も寂しくなってしまうのではないか?思いやりに欠けるのではないか?

聖書では神は、人間が死者の霊にお伺いをたてたり、霊媒のもとに行くことを固く禁止しています(レビ記19章31節、申命記18章11~12節)。死者の霊と関係を持ったり、コミュニケーションを持つことは神の意思に反するのです。イスラエル初代の王サウルはこれを行ったために(サムエル上28章)、神に見捨てられてしまいました。天地創造の神からすれば、人間が助けを求めたり、祈ったり、どんな選択肢を選んでいいのかお伺いを立てる相手は、あらゆるものの造り主である神だけです。二ケア信条で唱えられるように、父、御子、御霊の三位一体の神以外のものは全て、見えるものも見えないものも全て被造物です。被造物である人間が拝むべきものは被造物ではなく、造り主の神でなければならないというのが神の意思です。人間は自分の造り主である神を拝み、神に祈り求め感謝を捧げなければならないということです。

亡くなった人を自分の運命を左右するもののように祈ったり拝んだりしてはいけない、眠っているのを起こしてコミュニケーションを持ってはいけない、と言うと、亡くなった人と無関係になれと言うのか?キリスト教は亡くなった方に思いやりがないのではないか?それは違うと思います。まず、亡くなった人の霊を拝まないからと言って、亡くなった人の思い出を抹消するということではありません。その方と共に過ごした日々とその方そのものを与えて下さったのは神ですから、そのことを神に感謝しなければなりません。神に感謝する位にその方やその方との思い出は大事なのです。加えて、キリスト信仰には復活信仰があります。それで、復活の日に再会できるという希望を持つことになります。再会させてくれるのは他ならぬ神なのだから、その神への信仰をしっかり守ってこの世を生きよう、ということになります。このように天地創造の神を介して、亡くなった方との思い出を宝物のように大切にし、復活の日にその方と再会できるという希望を持って生きる、ということです。亡くなった人を思いやらないとかないがしろにしている、ということはないと思います。生きている時と同じくらいに愛していると思います。

ところで、もし万が一、眠っているはずの方が目の前に現れるようなことが起きたらどうしたらよいか?その場合は天のみ神の方を向いて、その方が安らかに眠れるようにして下さい、眠れない原因があれば、あなたが解決して下さい、と神にお願いするだけです。天地創造の神をしらないと、亡くなった方とコミュニケーションを始めてしまう危険があります。それは、その方を眠らせないことにもなってしまい、双方にとってよくないと思います。

 もっと難しい疑問も出て来ます。亡くなった人がイエス様を救い主と信じないで亡くなってしまったら?その方と復活の日に再会したいと思っても、イエス様を信じなかったので再会できないのか?ここで一つ思い出してよいことは、イエス様と一緒に十字架にかけられた強盗が最後の一瞬にイエス様に信仰を告白して天国に入れたということです(ルカ23章40~43節)。私たちは、亡くなった方が生前イエス様をどう思っていたか、何も聞いていなくても、神が聞いたことがあるかもしれないからです。だから、周りの人にイエス様のことを伝えることは大事です。いずれにしても、この問題はもう全知全能の神に全てを委ねて、全てをご存知である神が下される決定は正しいものとして受け入れるしかないと思います。再会できなかったら、それも受け入れなければならないのか、と不満になる向きもあるかもしれません。しかし、今の段階ではどうなるかわからないのですから、ぐずぐず言っても始まらないと思います。「御心に適いましたら再会できるようにして下さい」と父なるみ神に毎日お祈りします。

他にも難しい疑問がいろいろあるのですが、今回はここまでにします。ただ他の疑問と言っても、基本は同じです。キリスト信仰では亡くなった方を覚えるというのは、天地創造の神を介して行うということ。神を介して覚えると、一方では亡くなった方との思い出を宝物のように大切にし、他方では復活の日の再会の希望を神に祈り願いながらこの世を生きることになるということ。亡くなった方とコミュニケーションは取らないということ。つらい寂しい日々になるかもしれませんが、父なるみ神と向き合って、神とコミュニケーションを取りながらこの世を生きていくということです。本日の聖書の日課は、神と向き合うことと、神とのコミュニケーションについて教えています。それを見ていきましょう。

 

3.死に対する勝利

 本日の福音書の日課にあるイエス様の言葉は、彼が十字架にかけられる前日に弟子たちに対して述べた長い教えの一部です。これから十字架の受難を受けるが、三日後に死から復活させられるということを間接的に話します。直接的に言っても出来事の意味は理解されないだろうから、イエス様はそういう話し方をしました。イエス様が死に引き渡されて皆が悲しむ時が来るが、それは母親が赤ちゃんを産む時の最初の不安や痛みと同じである。しかし、赤ちゃんが生まれたら全てが喜びに変わる。それと同じことが起こると言って、受難の後に必ず復活の喜びが来るということを述べます。しかも、その日からは弟子たちはもう、イエス様の名前を引き合いに出して神に直接お願いしてもいいことになる(ヨハネ16章26節)。これらを聞いた弟子たちは、何か大きなことが起こることだけはわかり、イエス様が父なるみ神から送られた方であるのは間違いない、それを信じます、というところまで来る。しかし、なぜイエス様が父なるみ神のもとからこの世に送られてきたか、その目的まではまだわかりませんでした。

このことがわかるようになるのは、十字架と復活の出来事が起きた後でした。弟子たちは、イエス様が人間の罪を全部十字架に背負って運び上げ、そこで罪の罰を受けて身代わりの死を遂げたことを理解しました。それだけではありません。本日の旧約の日課にあるヨナの祈りで言われるように、イエス様は死んでから3日後に陰府の中から引き上げられて、死から復活させられます。ここで死を超える永遠の命があることが示され、その扉が人間のために開かれました。人間は、これらのことは全て自分が罪の呪いから救い出されるために神がひとり子を用いて行ったのだと分かって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲に免じて罪の罰を受けなくてすむようになったのです。万が一罪を犯すことがあっても、その時はイエス様の十字架のもとに立ち返って、父なるみ神よ、イエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さい、と祈れば、神の方で、我が子イエスの犠牲に免じて赦す、もう罪を犯してはいけない、と言って赦して下さるのです。このように人間は、イエス様を介して天地創造の神に向き合うことができるようになったのです。

イエス様を救い主と信じる信仰にとどまり、罪の赦しの恵みにとどまる限り、人間を復活の命に入らせないようにしようとする罪の力は力を失っています。本日の使徒書の日課である第一コリント15章55節で、死はその勝利ととげを失ったことが言われています。死の勝利とは、人間を復活の命に入らせないことです。死のとげですが、とげというのは原語のギリシャ語(κεντρον)では剣先も意味します。死の剣先とは、死が勝利を収めるために必要な武器です。つまり、死は勝利を得させる剣先も失っているのですが、その剣先とは罪であると言われています(56節)。罪とは、死が人間に対して勝利して人間を復活の命に入らせないようにするための武器なのです。そして、その罪は律法の掟があるゆえに罪として明るみに出て力を発揮します。使徒パウロがローマ7章で述べるように、「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかった」のですが、「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こし」た、ということが起こります。これが、律法は罪の力と言われる所以です(56節)。

ところが、律法を通して明らかにされる罪は全部、イエス様の十字架と復活のゆえに神の赦しの対象となってしまいました。それで罪は、イエス様を救い主と信じる者に対してはもう人間を復活の命に入らせないようにする力を失っているのです。本当にイエス様の十字架と復活は、罪と死に対する大勝利を人間にもたらして下さったのです。イエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、私たちはイエス様のもたらした勝利に与ることができ、また父なるみ神に向き合うことができ、イエス様の名前を通して祈り願うことを全て神に聞いてもらえるのです。

 4.死を踏み越える祈り

 旧約聖書の日課はヨナの祈りです。海に放り投げられたヨナは、三日三晩、大魚の腹の中に閉じ込められます。そこでのヨナの祈りは、死を目前にした者が最後まで神を信頼して助けを求める祈りです。まさに極限的な状況の中での神とのコミュニケーションです。どんなコミュニケーションかみていきましょう。

祈りの冒頭をみると、「苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えて下さった」と過去形になっています。まだ助かる前の段階なのに、もう「答えて下さった」と言うのは少し変な気がします。大魚の腹から吐き出された後に言えば、すっきりするのに。これは、原文のヘブライ語の動詞が完了形をとっているからですが、文法書によりますと、こういう散文体の文章では完了形は現在の意味や習慣的な意味に訳してもよく、ここは「主は答えて下さる」とか「答えて下さる方」というふうに、神は普段からそういう方なのだ、と神に対する不断の信頼を表明していると理解してよいです。フィンランド語の聖書もここは現在の意味で訳しています。

この後も現在の意味で訳していいのか過去の意味で訳していいのか、やっかいなのですが、ここでは訳し方の基準として、この祈りがどんな構成で出来ているか、それをもとにして決めていこうと思います。どんな構成かというと、出だしで、神は答えて下さる方、声を聞いて下さる方です、と信頼を表明する。その後は、刻々と死が迫ってくる絶望的な状況が描かれて行きますが、途中それを遮るように神への信頼が何度も表明され、絶体絶命の描写と神への信頼の表明が交互に繰り返されて、最後に「救いは、主にこそある」と信頼の表明で結ばれる、そういう構成です。 

ここで一つ注釈しなければならないことがあります。それは、5節「わたしは思った あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと」とありますが、最後の文「生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと」というのは、絶望状態を表わしています。ところが、ヘブライ語の原文の権威ある読み方をみると、ここは全く逆の意味で「しかし、私は聖なる神殿を再び見ることになる」と未来の確信を表わしています。どうしてこんな正反対の訳が出て来るかと言うと、ヘブライ語のテキストの欄外に「このような読み方もできる」とあって、日本語訳はそちらを採用したからです。スウェーデン語の聖書もそうでした。私は欄外の文ではなく、本文のテキストに基づこうと思います。フィンランド語と英語の聖書も本文のテキストに基づいて未来の確信を表わす訳です。

そこで、この祈りを概観すると、次のようになります。

- (神への信頼の表明、3節)神は、私が苦難の中にある時、私の叫びに答え、私の声を聞いて下さる方である。

- (絶望的状況、4~5節前半)神は私を海に投げ込まれた。私は沈んでいく。私は神の御前から追放されたのだ。

- (希望の表明、5節後半)しかし、私は再び聖なる神殿を見ることになろう。

- (絶望的状況、6~7節前半)大水が喉に達しようとする。深淵に飲み込まれ、水草が頭に絡みついた。私は地の底まで沈んでしまった。

- (信頼の表明、7節後半)しかし、あなたは私を陰府から引き上げて下さる。- (絶体絶命の状況の中での信頼の表明、8節)息絶えようとする時、私は主の御名を唱えた(זכר主のことを考えた、思い出した)。私の祈りはあなたに届く。

- (信頼の表明、9~10節)偶像崇拝する者たちが神への忠誠を捨て去ろうとも、自分は神に誓ったことを果たし忠誠を貫くことに何の変更もない。この絶体絶命の状況にいてもそうである。なぜなら、救いは、主にこそあるからだ!

この後、神は大魚に命じてヨナを陸地に吐き出し、ヨナは助かります。私たちも、危機的な状況、絶体絶命の状況に陥ったら、このように祈りましょう。神に対して、自分がどんな苦しい状況に置かれているか報告すると同時に、神を信頼していることも表明します。ところで、ヨナの場合は奇跡的に助かりましたが、もし奇跡が起きず助からなかったら、祈りは無駄になるのでしょうか?そうではありません。実はこの祈りは、死からの復活の祈りでもあることに注意しましょう。7節で神は滅びの穴から引き上げて下さる、と言われますが、「滅びの穴」(שחת)は陰府と同義語です。ヨナは死ななかったので陰府には行きませんでしたが、イエス様は十字架の死の後、復活されるまで陰府に下りました。本当に死なれたのです。そして本当に死から復活されたのです。イエス様はこのことを「ヨナの印」と言っていました(マタイ16章4節)。

このように、ヨナの祈りは、生きて助かる場合もあれば、この世から死んでも復活して助かる場合もあります。だから、ヨナのように祈ること、つまり苦しい状況を神に報告しつつ信頼も表明する祈り、これをすれば、場合によってはヨナのように生還するかもしれないし、場合によっては死から復活して神の御許に引き上げてもらえるかもしれないが、どちらかが必ず起こるのです。

 最後に、ヨナのような祈りをする時、「救いは、主にこそある」と言ったら、「イエス様の御名を通して祈ります。アーメン」で結ぶべきと考えます。ヨナの時は、まだイエス様が来られる前の時代なので御名に依拠することはないですが、十字架と復活の出来事の後は、人間はイエス様を通して天地創造の神と向き合えるようになったのですから、御名を付け加えるべきでしょう。このような祈りは、祈る人が死を踏み越えて行ける祈りになるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン


主日礼拝説教 2016年11月6日(全聖徒主日)

 ヨナ2章1~10節、第一コリント15章50~58節、ヨハネ16章25~33節

説教「『信仰浄化』としての宗教改革」神学博士 吉村博明 宣教師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.宗教改革をどのように考えたらよいか?

 本日はキリスト教会のカレンダーでは聖霊降臨後第24主日と定められている日ですが、ルター派教会のなかでは宗教改革主日とも定められています。今から499年前の1517年、ドイツ東部の地方都市ヴィッテンベルグの大学の神学教授であったM.ルターが当時のカトリック教会のあり方に疑問を呈して公開討論を求めて95箇条の論点を公表、これがきっかけとなって、その後「宗教改革」と呼ばれる世界史的な出来事に発展していきました。論点を公表した日がその年の10月31日だったため、その日に近い主日が宗教改革主日に定められているわけです。よく言われるようにルターが95箇条の論点の紙を本当にヴィッテンベルグの教会の扉にくぎ打ちしたのかどうかは、歴史的事実として確定されていないようです。ルターの肖像画を描いたことで有名なルーカス・クラナハという画家がおりますが、今ちょうど上野の国立美術館で展覧会をやっております。彼のルターの肖像画はどれをみても自信満々というか、ふてぶてしい顔つきをしていて、この男ならくぎ打ちくらいやったのではないかと思わせます。今手元にフィンランドの聖書日課がありますが、その表紙はクラナハが描いたルターの肖像画です。こんな顔です。いずれにしても、少なくとも10月31日の日付で95箇条を大司教宛てに送付していますので、この日が宗教改革の発端というのは間違いないでしょう。来年は500年を迎えることになります。

ルターが問題として提起したことは、世界史の教科書にも出て来るのでよく知られていますが、当時のカトリック教会が実施していた、いわゆる免罪符、難しい言葉で言えば贖宥状の制度でした。お金を出してこれを購入すれば犯した罪に対する神の罰を免れるというものです。しかし、問題は免罪符という一つの制度の是非にとどまりませんでした。論争は、そのようなものを生み出した教会の聖書の理解とか罪や救いについての考え方、教会や教皇の権威についての考え方、さらにはそうしたもの全ての土台にある神学や哲学という根本的なところにまで広がりました。さらに、ルターを支持するか反対するかということが単なる神学的な意見の相違に留まらず、当時のドイツやヨーロッパの社会や政治状況とも絡み合って、ヨーロッパ全体を揺るがす宗教、思想、政治、社会に及ぶ大変動が起こったのであります。

その結果、ヨーロッパのキリスト教世界がカトリック教会の一枚岩ではなくなり分裂していきました。ヨーロッパのキリスト教世界は既に11世紀までに、西方教会と呼ばれるカトリック教会と、東方教会と呼ばれ後のギリシャ正教、ロシア正教になっていく教会が東西二つに分裂していました。それが今度は西のカトリック教会内部で分裂が起こったのです。ルターが95箇条の論点を掲げてから100年以内には、地域的に大ざっぱにみて北部ヨーロッパはルター派、中南部はカトリック、イングランドは英国国教会、オランダや中部ヨーロッパの一部はカルヴァンの宗教改革に由来する改革派教会に色分けされ、その他に再洗礼派と呼ばれる教会が各地に点在するという状況になりました。

ヨーロッパ全体を揺るがす宗教、思想、政治、社会に及ぶ大変動が起きたと言う時、それぞれの領域でどんな変動が起こったかを話すことは西洋史の専門家に任せなければなりません。ここでは一つだけ、宗教改革の後世に対する影響の中で洋の東西を問わず重要な意味を持つものについて述べてみたいと思います。ルターは、当時の神聖ローマ帝国の帝国議会に召喚され、居並ぶ権力者たちの前で自説を撤回するように求められました。その時ルターは、自分の良心は神の御言葉に結びつけられている、神の御言葉に照らして明らかに間違っているのならば話はわかるが、そうでない以上は撤回などできない、と言って拒否しました。その結果、ルターは国内での法律上の一切の権利や保護を失います。このように、人間には権力者が曲げようとしても曲げられないものがある、それがたとえ命を失う危険を伴ってもやはり曲げられない、そういう崇高なものがある、ということをルターは身をもって示しました。この事件がもととなって後に「良心の自由」と呼ばれる人権の一つの要が出てくるのです。

 このように「宗教改革」と呼ばれる出来事は、宗教以外の領域にも大変動をもたらしたのですが、宗教の領域に限ってみて、どんな改革だったかを考えてみます。「宗教改革」は英語、ドイツ語、スカンジナヴィアの言語ではみな同じ言い方をします。Reformationです。フィンランド語では一風変わっていてuskonpuhdistus「信仰浄化」という言い方がされます。Reformationという言葉をみてみますと、formation「形作ること、形成すること」に「し直す」の意味を持つreがつきます。「形作り直すこと、形成し直すこと」です。

それではキリスト教の何をどう形作り直す、形成し直すのかというと、以下のようなことです。カトリック教会はもともとは使徒的な信仰を守り受け継ぐ教会として出発しました。ところが時代の変遷と共に聖書に基づくとは言えない制度や慣行も生み出されて伝統化していき、免罪符はその最たるものでした。ルターが行おうとした改革運動は、そういう聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てて、ただ神の御言葉である聖書のみに権威を認めて、その下に教会を成り立たせようとするものでした。これがキリスト教とその教会を形作り直す、形成し直す、ということです。フィンランド語で宗教改革を「信仰浄化」というのは、まさに神の御言葉にのみ権威を認めて、聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てていくという面を前面に出していると言えます。

一般には「改革」という言葉は、過去の古いものをやめて新しいものにとって替えて時代の要請に応えられるようにするという理解がされると思います。日本語で行政「改革」とか教育制度「改革」という時、それを英語に直すとreformを使います。そういう政治的社会的な「改革」は、reformationを使わずにreformを使うのです。ところが宗教「改革」はreformではなく、reformationです。注意が必要です。日本語で同じ「改革」という言葉を使うからと言って、政治的社会的な改革と同じように考えてはいけません。ルターの行った宗教改革とは、ただ単に過去の古いものをやめて新しくして時代の要請に応えたというような改革ではなかったのです。前にもみましたように、ルターの場合は、まず聖書という過去に成立した根源的な権威に立ち返り、聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てていく、そのようにして聖書の権威に立ち返ろうとする時にそれを邪魔するものを打ち破っていく、その結果として時代の行き詰まり状況を打ち破って新しい地平線が開けた、これがルターの改革の本質ではないかと思います。このように宗教改革は「改革」とは言いつつも、根源的な権威に立ち返るという方向性があります。ルターは聖書を研究する際には新約聖書はギリシャ語、旧約聖書はヘブライ語の旧約聖書を用いましたが、根源的な権威に立ち返ろうとすれば原語にあたろうとするのは当然のことでしょう。そういうわけで、もしキリスト教会が人間の編み出したものに縛られ出した時には、使徒的な信仰を守りギリシャ語とヘブライ語の聖書に依拠する者は宗教改革を起こせる可能性を持っていると言うことができます。

 

2.ヨシア王の「信仰浄化」

 以上、少し長くなりましたが、宗教改革というものをどのように考えたらよいかということを述べました。本日の聖句の解き明しに入ろうと思います。本日の旧約聖書と福音書の日課をみますと、双方ともそれぞれの仕方で「信仰浄化」が面がみられ、ある意味で宗教改革的な出来事と言えます。

まず、旧約聖書の日課はユダ王国のヨシア王の時代の出来事です。イエス様の時代より約650年前、私たちの時代から約2650年前のことです。ちなみに宗教改革は、イエス様の時代から約1500年くらい後に起きました。ダビデ王、ソロモン王のイスラエル王国が南北に分裂して出来た北王国がアッシリア帝国に滅ばされて100年位たっていました。南のユダ王国は信仰ある王ヒゼキヤのもとでアッシリア帝国の攻撃を防ぎましたが、その次のマナセ王が天地創造の神を離れて異教の神々を崇拝し出し、国は宗教的にも政治的社会的にも神の意思に反することばかりとなってしまいました。このマナセ王の大罪のゆえに神はユダ王国も見捨てると決定しました(列王記下23章26節、24章3節)。どのように見捨てるかと言うと、アッシリア帝国の後に興ったバビロン帝国を罰を下す手段にして、これにユダ王国を滅ぼさせるというものでした。この罰はマナセ王の100年程あとに実現します。ユダ王国は滅ぼされ、その主だった人たちは捕虜としてバビロンに連行されました。これは歴史上、実際に起きた事件です。

さてマナセ王の大罪ですが、その次のアモン王も偶像崇拝をやめませんでした。ところが、その次に王位を継いだヨシアは祖父と父親の偶像崇拝に倣おうとせず、天地創造の神に立ち返ろうとしました。ある日、エルサレムの神殿の改修工事に携わる者たちの給与問題を解決するために書記官シャファンが神殿に派遣されました。神殿の大祭司ヒルキヤが神の律法の書物を発見したと言って、それをシャファンに渡します。律法の書物とは、モーセ五書の原型のようなものだったと考えられます。シャファンはそれを持ち帰って、ヨシア王に読み聞かせました。王は大変な衝撃を受けました。そこに書いてあったのは、天地創造の時から最初の人間の堕罪、そこからアブラハムをはじめとする家父長たちの出来事、さらにイスラエルの民のエジプト脱出からカナンの地への移住の出来事ですが、それはただ単に歴史の流れの記録ではなく、いたるところに神の意思と掟が詳しく記されていました。ヨシア王は、神に選ばれた筈のイスラエルの民がどれだけ神の意思に反してきたか思い知らされました。しかも書物には、神の意思や掟に反すれば何が起きるかについてもちゃんと記されていました。神の罰としてイスラエルの民が他国に滅ぼされて強制連行されてしまうということです(申命記28章)。

 ヨシア王は家臣を女預言者フルダのもとに送って、神の罰を避けるために何をなすべきか、ということについて神の意思を尋ねさせます。残念ながらユダ王国に降りかかる災難は変更されないことが明らかになってしまいました。ただヨシア王が神に立ち返る心を持ったことは受け入れられて、災難はヨシア王の時代には起こらないことになった。これが、ヨシア王が神からかけてもらった憐れみでした。

ヨシア王は、ユダ王国の運命はもう変えられないとは知りつつも、それはそれとして、やらねばならないことは結末がどうであれやらねばならないこととして、偶像廃棄の大改革を始めます。それは本日の日課の後の23章に記されています。そこを読んで驚かされるのは、ユダ王国全土にはいかに異教の神を祀ったり生け贄を捧げる場所が沢山あったかということです。そればかりではありません。エルサレムの神殿にも異教の神々の偶像が設置されていたのです。アシェラ像というのが何回も出て来ますが、これはカナンの地の神バールの妻の女神で農作物に豊作をもたらす神として信仰されていました。イスラエルの民がカナンの地に入った時は牛や羊を引き連れる牧畜の民でしたが、定住が進んで農耕を始めると、このカナンの豊穣の神が身近に感じられるようになったと思われます。列王記下23章にもあるように、アシェラ女神崇拝には神殿男娼もつきものだったというから、おぞましい限りです。そのようなものが国中に蔓延していたのです。ヨシア王はこれらを次々と破壊し、ユダ王国を天地創造の神に立ち返らせようとしました。しかしながら、このヨシア王の宗教改革は一代限りでした。ヨシア王の後を継いだ王たちは皆また偶像崇拝に戻ってしまいます。

このようにヨシア王は、根源的な律法に立ち返って国や社会を天地創造の神の意思に沿うものに戻そうとして、偶像という人間が編み出した被造物の崇拝対象を廃棄しようとしました。この意味でヨシア王は信仰の浄化に努めたということができます。しかし、それでも神が既に定めた国や民族の運命を変えることはできませんでした。神が王に憐れみをかけたのは、せいぜい王が自分の国の滅亡を目にしないで、それが起きるのは王がこの世を立ち去った後になるということでした。それでは、なぜ神はかける憐れみをもう少し大きくして民全体に対する罰を撤回するところまで行かなかったのでしょうか?神は、マナセ王の大罪がイスラエルの民の運命を決した、ということに固執するかのようです。ヨシア王のように律法に徹底して立ち返るということをしても、せいぜい災難の時期を後ろにずらすだけでした。一度燃え上がった神の怒りは、律法の掟を一生懸命守っても静められないのです。これは、人間は律法の掟を守ることによって神に「よし(義)」と認められないし、救いも受けられないということを示しています。人間が神に「よし(義)」と認められて救いを受けられるためには、神のひとり子イエス様がこの世に送られるのを待たなければなりませんでした。

ところで、イスラエルの民は罰が確定されてしまい、バビロン捕囚に陥りますが、まさにその捕囚の時に人間の救いの道筋が示されるということが起こりました。ダニエルの出来事と預言がそれです。バビロン捕囚が起きたからこそ、ダニエルが登場して、彼が異教の王たちの前で行った力強い信仰告白を私たちは聞くことができます。また「人の子」と呼ばれる救世主の到来や死からの復活が起きるという預言もダニエルを通して聞くことができます。神の罰としてのバビロン捕囚が起きなかったならば、ダニエルの信仰告白も預言も生まれなかったのです。

そういうわけで、神はダニエルを通して救世主の到来や死からの復活について人間に伝えさせるために、バビロン捕囚を実行したとさえ言えます。このように神の歴史運営というのは、一見して人間の救いにとって無意味に見える出来事を用いて意味あるものに変えるということもされるのです。本当に人智を超えた全知全能の神ならではの業です。ダニエルの他にも、神は自分が罰したイスラエルの民を見捨ててはいないことを示すために、今度はペルシア帝国にバビロン帝国を滅ぼさせて民がユダの地に帰還できるようにする憐れみを示します。これは出来事が起きる前にイザヤ書などの預言書にて預言され、実際に実現したのです。

 

3.イエス様の「信仰浄化」

 次に福音書の日課は、エルサレムに乗り込んだイエス様が神殿で商売をしていた者たちを荒々しく追い出すという出来事です。これは一見すると、イエス様は神殿から商売とか金銭のようなものを排除して、神の崇拝を清らかなものにしようとしているように見えます。しかし、実はそうではありません。神殿での崇拝を清めようとしているのではなく、神殿での神の崇拝自体を止めさせようとしているのです。それがわかるために、神殿で行われていた商売は、実は神殿での崇拝をスムーズにするためのものだったことに注意しましょう。商売人たちは、ただ単に金儲けのために売っていたのではないのです。エルサレムの神殿にお参りに来る人たちは、地中海世界各地のユダヤ人であったり、多神教的なギリシャ人、ローマ人だったりしました。彼らのお参りの便宜を図るために、両替をしたり、神殿に捧げる犠牲の生け贄の動物を売っていたのです。まさに神殿での崇拝の運営をスムーズにさせるものでした。

神殿から商売人を追い出したイエス様の意図は、神殿で動物の生け贄を捧げて罪を赦されるという崇拝の形式はもう歴史的使命を果たしたということを表明する行為だったのです。神から罪を赦されるためには神殿で生け贄を捧げることを毎年繰り返さなければなりませんでした。もうすぐ罪の赦しのために一回限りですむ犠牲の生け贄が供される。神と人間の間に何か決定的なことが起きる。その一回限りの犠牲の生け贄がイエス様だったのです。これから罪の赦しのために捧げられる生け贄は、毎年繰り返して捧げるような効力が一時的なものではない。一回限りの犠牲で十分というくらい永久保証が効いています。それくらい神によしと認められる神聖な犠牲が捧げられる。捧げられた後は、今やっている神殿での崇拝はもう用を足さなくなるというくらい神聖な犠牲が。

そもそも神殿で罪の赦しを得る崇拝が行われてきたのは、将来の本番に備える予行練習のようなもので、本番とはイエス様がゴルゴタの丘の十字架にかけられて自分を犠牲に捧げた時のことでした。本番が成し遂げられて、もう予行練習は必要なくなりました。それでイエス様は、今ある神殿を壊してみよ、自分は三日後にそれを立て直す、と言われたのです。壊してみよ、というのは、もう動物の生け贄のような身代わりになるものを捧げて自分の罪の赦しを得ようとするやり方は終わったのだ、神殿は歴史的使命を果たしたのだ、ということです。三日後に立て直す、というのは、十字架の上で死んだイエス様が今度は神の力で三日後に復活させられることを指します。ユダヤ人たちは、このメタファーを理解せず、文字通りに受け取って少し滑稽ですが、復活させられたイエス様が私たちを罪の支配状態から解放して下さる、その意味でイエス様がまことにもって神殿の機能を果たすのです。

神から罪の赦しを得られて、罪の支配状態から解放されるには、神のひとり子の神聖な犠牲で十分でした。そのひとり子を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、それで神から受ける罪の赦しは効力を持ち、その人は罪の支配状態から解放され、堕罪の時以来失われていた神との結びつきを回復させることができます。これらのことは、本当に神のひとり子の犠牲で十分なのです。あとのことは罪の赦しに関係のない余計なことです。神に認められようとして人間が自分で何かをしようとするのは余計なことです。何度でも申しますが、イエス様が全部して下さったので、人間が神との結びつきを持って生きられるためには、イエス様の犠牲を受け入れて、彼を救い主と信じれば、それで十分なのです。その他のことは余計なことですので、排除されるべきものです。ここに文字通り信仰浄化があります。

イエス様の十字架での死とは人間の罪をすべて償うために捧げられた犠牲なのだ、とわかり、それでイエス様は私が神の罰を受けないですむようにして下さったのだとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、本当にその人にとって罪の償いがその通りになります。それでその人は神の罰を免れるようになり、永遠の滅びに陥らないようになって永遠の命を持てるようになり、罪と死の支配状態から解放されます。イエス様が十字架の上で流した血を代償にして、私たち信仰者は罪と死の支配状態から買い戻されて自由の身にされました。もう何も恐れるものはありません。確かに、周囲には怖いものがあるかもしれませんが、神にこれだけ目をかけられ愛されていることがわかれば、その怖いものは一体何であろう。そうしたものはあなたにとって神でもなんでもありません。あなたの神は、ひとり子イエス様をあなたに贈られた方以外にはいません。それをいつも自分に言い聞かせるべきです。

ところで、洗礼を受けて罪と死の支配状態から解放されたと言っても、罪の思いを持ってしまうことはあるし、場合によっては罪が行為にまで現れてしまうこともあるかもしれません。しかし、その時はすぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けるべきです。あなたの罪はあのお方の肩の上に重々しく圧し掛かっている。あなたの肩には圧し掛かっていない。そのように神は罪を移動させて下さった。神に赦しを乞えば、神は、ひとり子の犠牲の死に免じて赦してあげよう、と言ってすぐ赦して下さり、もう罪を犯さないように、と優しく言って下さる。このようにイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、罪の力、永遠の命に入らせないようにする死の力は無力化しているのです。

 こうして神の愛がどのようなものかがわかって神への感謝の気持ちに満たされたあなたは、神がおっしゃられるように、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するが如く愛そう、という心になっていきます。それが、本日の使徒書の日課にある「愛の実践を伴う信仰」(ガラテア5章6節)ということです。ギリシャ語の原文では「愛を通じて作用する信仰」、少し言い過ぎになるかもしれませんが、「愛を通して生きたものになる信仰」です。イエス様を救い主と信じる信仰から愛が始まって、その愛が信仰を生きたものにします。このように信仰と愛はしっかり結びついています。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2016年10月30日の聖書日課
列王記下22章8-20節、ガラテア5章1-6節、ヨハネ2章13-22節

説教「正義は祈る側にあり」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書18章1-8節、創世記32章23~31節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日の説教は福音書の日課に基づいて行おうと思う者ですが、旧約の日課にも注意したいことがあるので、最初そちらを見ていきます。旧約の日課は、ヤコブのペヌエルでの格闘の出来事です。

 この出来事は私たちの理解を超えることがいろいろあります。一番のものは、ヤコブが格闘した相手が天地創造の神であったということです。神が人間と取っ組み合いをするような形をしているということです。神が人間の形をとったと言えば、私たちはイエス様のことを思い浮かべます。それで、ヤコブと格闘したのはイエス様が乙女マリアから生まれる以前に地上に現れたとみる人もいると聞いたことがあります。もちろん、父、御子、御霊の三位一体の神は天地創造の前から存在していたというのがキリスト信仰の立場ですので、御子イエス様もマリアから生まれる以前に存在していたことになります。しかし、やはり肉体を受けて人となってこの地上に来られたのはマリアの時ですので、ペヌエルの時はイエス様ではないでしょう。

Someone came and wrestled with him all night (1984 illustration by Jim Padgett, courtesy of Distant Shores Media/Sweet Publishing)

 それでは、神の御使い、天使か?天使も私たち人間と同様に被造物で、人間のような姿かたちをして現れることが聖書のなかによく出て来ます。出エジプト記3章で、モーセが燃える柴のところで神と出会う時、最初に御使いが登場します。それと重ねてみると、ペヌエルの時、神は天使にヤコブと格闘させて、自分は近くでご覧になっていたと考えることも可能です。しかし、神が「お前は神と人と闘って勝った」と言っているのを聞くと、天使に格闘させたというより、やはり直接相手になったのではないかと思われます。創世記1章で言われるように、神は御自分にかたどって人間を造られたことを考えれば、人間と取っ組み合いをする形をしていてもおかしくないことになります。しかしながら、イザヤ書6章で預言者イザヤがエルサレムの神殿で神を目撃した時、それは明らかに取っ組み合いをするには大きすぎる大きさです。神はこの地上に姿を現す時は、大きさを自由に変えられるということでしょうか?これ以上詮索すると、私たちの想像を超えた神を私たちの想像の中に押し込めてしまうことになるのでやめておきます。被造物の分際で神がどんな姿形をしているかわかったなどと言うと、今度は何か像を造って拝むことをはじめかねません。天地創造の神を、私たちの想像を超える方にとどめておきましょう。そのかわりに、本日の箇所が教えようとしている大事なことをみていきましょう。

この箇所の大事な教えは、神を信じ信頼する者は、神にとことんしがみつきなさい、ということです。たとえ神の方が「もう離せ」と言っても、ヤコブのように「離しません」と言ってしがみつかなければならないということです。神も実はそれを望んでおられ、信じる者がしがみつくかどうか試されるということです。神はしがみついて離さないヤコブに祝福を与え、この後ヤコブは自分が最も恐れていた兄エサウのもとに向かいます。この神にとことんしがみつくことの重要さは本日の福音書の日課にもつながっていきます。神に対して祈りを絶やしてはいけない、ということです。

もう一つ大事な教えは、ルターも述べていることですが、神は私たちの叫ぶような祈りを聞いても、すぐに楽にしてくれるとは限らない、場合によってはもっと厳しい状態に追い込むことがある、そのようにして私たちを試される、ということです。ヤコブは、兄の復讐を死ぬほど恐れていても立ってもいられないというくらいに追い詰められていました。その最中に、深夜に見知らぬ者といきなり格闘しなければならなくなってしまいました。神がこういうことをするのは、神を信じる者が自分の能力や理性に盲目的に頼るのをやめて、神が全てを取り仕切ることに委ねることが出来るようにするためです。人間の理性は、とかく問題の解決にあたって、いつ、どのようにして、誰の支援を通して、ということに心を集中させます。この時、神の働きは眼中になく、むしろ人間が考えたこと、いつ、どのようにして、誰の支援を通して、ということに神を従わせようとさえします。神はそういった人間的な予想や計画を超えた方であることを示そうとされます。それでそういったものを覆して、神以外に頼るものがない状況に人を追いやることさえします。ヤコブは格闘中に腿の関節がはずれてしまいますが、それでも神にしがみついて離れませんでした。その結果、神から祝福を受け、兄との運命的な再開に向かう準備が心身ともにできたのでした。

「神と人と闘って勝った」と言う時、「闘った」(サーラ―שרה)というのは、相手を滅ぼしたり叩きのめすような戦いではなく、競合関係にある戦いです。神に試されて、それを受けて立ち、最後はしがみついて祝福を受ける、これが「勝った」ということです。また、「人と闘った」と言うのは、「人」はヘブライ語で複数形なので兄エサウと伯父ラバンを指すと考えられます。ヤコブは神の言葉に従って、恩人の伯父のもとを夜逃げ同然で出発し復讐心に燃えている兄のいる故郷に戻ります。対立関係に陥った伯父とは後で和解します。兄エサウとは奇跡的な和解を果たします。これが「人と闘って勝った」ことです。

ヤコブの生涯の、この兄エサウのもとから逃亡して帰るまでの期間というのは、神の意思に従ったために余計な問題を抱えてしまうが、それでも神にしがみつくくらいに拠り頼み、最後は全ての問題が見事に解決するということがよく表れています。全知全能の父なるみ神が私たちにもこのようなしがみつく信頼と忍耐を与え、私たちを信仰において強めて育てて下さるように。

最後に、「神と人と闘って勝った」こととヤコブの名がイスラエルになったことの関係ですが、イスラエルというのは、「闘う」というヘブライ語の動詞(サーラ―שרה)のある形に神を意味する言葉(エールאל)が結びついて出来た言葉で、「神は闘う」という意味があります。ここからイスラエルという言葉が生まれます。ヤコブには12人の息子が生まれ、それが12支族のもとになります。

 2.

 それでは、本日の福音書の箇所の解き明しに入ります。イエス様の「やもめと裁判官」のたとえの教えです。初めに言われるように、この教えは弟子たちに語られますが、その目的は、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。もちろん、これは弟子たちだけに向けられたのではなく、イエス様を救い主と信じる全てのキリスト信仰者に向けられています。つまり私たちにも向けられています。

なぜ、イエス様は、気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを強調するのでしょうか?それは、弟子たちや私たちが、主に守られていると言ってもこの世の中でそう見えない厳しい現実に遭遇していくうちに、神に対して疑いを抱いてしまう。特に本日の箇所に即して言えば、不正や不正義がまかり通ってそれに対して何も成しえないことに次第に気を落として祈ることを止めてしまう、そういう危険があることをイエス様は知っていたからです。このことをイエス様が心配していることが、本日の箇所の最後の節で明らかになります。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様が天使の軍勢と共に地上に再臨される日、果たしてこの地上には、気を落とさず祈りを絶やさない信仰を持った人は残っているのだろうか、それともみんな既に祈りを絶やしてしまった後だろうか、というのです。それほどキリスト信仰者は、厳しい現実に絶えず遭遇しながら生きていかねばならない、ということです。ここでは、イエス様の教えをじっくり見て、祈りは無駄に終わらない、ということを体得していきましょう。

 まず、登場人物をみてみましょう。裁判官は、「不正な裁判官」(6節)と言われています。この日本語訳は正確とは言えません。ギリシャ語のアディキア(αδικια)という単語がもとにありますが、「不正な」と訳すと、何か不正を働いた、私腹を肥やすようなことをしたというようなイメージが起きます。この裁判官が本当はどんな人物だったかは、本日の箇所にしっかり言い表されています。イエス様が彼のことを「神をも畏れず、人を人とも思わない」人物であると描写します(2節)。裁判官自身も、自分のことを全く同じ言葉で言い表します(4節)。つまり、「不正な」と言うより、人を人とも思わないから無慈悲、無情な人物、神を畏れないから尊大な人物と言えます。その意味で「不正な」と言ってもいいのですが、正確には「無慈悲で尊大な」裁判官です。

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次に「やもめ」、つまり未亡人について。伝統的にユダヤ教社会の中では、未亡人は社会的弱者の一つと認識され、彼女たちを虐げてはならないことが神の掟として言われてきました(出エジプト22章21節、申命記27章19節、詩篇68篇6節、イザヤ1章17節、ゼカリア7章10節)。夫に先立たれた女性は、もし十分な遺産がなかったり、成年の息子がいなければ、生きていくのは困難だったでしょう。遺産があっても、不正の的となって簡単に失う危険があったことが聖書の中から伺えます(例えばマルコ12章40節を参照)。

さて、裁判官と同じ町に住む未亡人が、何かの不正にあって、この裁判官にひっきりなしに駆け寄り、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」としつこく嘆願します。ギリシャ語の原文に忠実に言うと、「相手を裁いて、わたしのために正義を実現して下さい(εκδικησον με)」です。裁判官は、最初は取り合わない態度でしたが、何度もしつこく駆け寄って来るので、しまいには「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えるに至ります。「さんざんな目に遭わせる」は、ギリシャ語では「目に青あざを食らわす」(υπωπιαζω)という意味の単語です。相手が裁判官で、そんなパンチを浴びせるなどという暴力沙汰になったら、大変な事態になります。しかしそれは、未亡人はもう他に何も失うものはないという位に切羽詰った状況にいたということです。「彼女のために裁判してやろう」というのも、これもギリシャ語に忠実に訳すると「彼女ために正義を実現してやろう」(εκδικησω αυτην)ということです。

ここでイエス様は弟子たちに注意を喚起して言います。この裁判官の言いぐさを聞きなさい。無慈悲で尊大な裁判官ですら、やもめの執拗な嘆願に応じるに至ったのだ。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」ここで言う「裁きを行う」というのは、先ほどと全く同じように「正義を実現する」(ποιεω την εκδικησιν)です。「速やかに裁いてくださる」も同じ「正義を実現する」です。実にこの箇所では、日本語訳では見えてきませんが、「正義の実現」を意味する言葉が4回使われ、正義の実現と祈りの関係が問題になっているのです。

ここでひとつ注意したい言葉があります。それは「選ばれた者」です。誰のことを指すのでしょうか?イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者、キリスト信仰者を指します。どうしてキリスト信仰者が神に選ばれた者になるのかというと、次のような次第です。人は信仰者になる時まず、自分は造られた存在だとわかり、造られた以上は造り主を持つ存在だとわかる。つまり、自分は化学物質の結合や反応の連鎖から偶然に発生して出来た合成物ではなく、明確な意思と考えを持った創造主がいて自分を造ったということがわかる。ところが、一歩進めて考えて見ると、造られた自分と造った方との関係が決して良い状態にあるとは言えないこともわかる。その原因が創世記の最初にある堕罪の出来事にあるとわかる。つまり、最初の人間が創造主に対して不従順になって罪に陥って以来、人間は神との結びつきを失ってしまったことがわかる。この世の人生の歩みで造り主との結びつきは失われたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに戻る術もない。まさにこの事態を打開するために、創造主である神はひとり子イエス様をこの世に送られた。それは、人間の罪の罰を人間にではなく全て彼に負わせて十字架の上で死なせて、この犠牲に免じて人間を赦すことにしたからである。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を人間に開かれた。このあと人間がすることと言えば、これらのこと全ては自分のために起こされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えて下さった救いを受け取ることが出来る。こうして人間は、神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩む者となり、順境の時も逆境の時も絶えず神の守りと良い導きを得ることができるようになり、万が一この世から死んだ後も、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになった。

このように、イエス様を唯一の救い主と信じることで神の整えられた救いを受け取った者、これが「選ばれた者」です。

イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者を「選ばれた者」と言うと、この信仰を持たない人たちは「選ばれない者」になってしまうのか、という疑問が起きます。今の時点で、信仰を持っていない人たちを「選ばれない人」と結論するのは早急です。なぜなら、今は信仰を持っていなくても、将来のある日、その人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることになれば、「ああ、この人も実は『選ばれた人』だったんだな。あの頃は想像もつかなかったなぁ」ということになるからです。このように、私たち人間の目からでは全ては事後的にわかるだけです。それゆえ、現時点の観点で、「あの人は『選ばれた人』ではない」と結論づけることはできません。大切なことは、事後的に「選ばれた人」が一人でも多くでるように、私たちが福音のために働くということです。神がイエス様を用いて実現された救いは、世界の全ての人々に提供されているのですから、それを受け取る人が一人でも増えるように働くということです。

逆に、一度「選ばれた人」になった者が自動的に「選ばれた人」のままでいられるという保証もありません。「昼も夜も叫ぶがごとく神に祈る」キリスト信仰者にとって、祈りを捧げたり、求めることを打ち明けたり、助けを叫び求める相手と言えば、それはイエス様をこの世に送られた神以外にはいません。もし、信仰者がそれをしなくなって、例えば、神以外に祈りを捧げたり助けを求めたりする相手を見つけてしまうとか、または神などに祈り求めなくても自分で全て解決できると言って自分を神と同一視するようになってしまったりしたら、「選ばれた人」はもはやそうではなくなってしまいます。そういうわけで、「選ばれた人」とか「選ばれなかった人」というのは、本当に現時点で言えることではなく、ずっと先まで見て行かなければならないのです。イエス様を救い主と信じる信仰を持って最後まで生き抜くか、あるいはどんなに遅くても死ぬ間際までにイエス様を自分の唯一の救い主として受け入れられるか、それが「選ばれた人」の決め手になります。

 3.

 それでは、キリスト信仰者がこの世の厳しい現実に遭遇して気を落として祈ることを絶やしてしまう危険について、そしてそれを乗り越える仕方について見ていきます。本日の箇所では、正義の問題が中心にあります。この世に不正や不正義がまかり通り、信仰者もそうしたものを被ってしまうことがある。事態の打開や問題の解決を神に祈っても、なかなか改善がみられない、望み通りの解決が得られない時、いろいろな疑念が頭に浮かんできます。神はなぜこのような状態をほっておかれるのか?私の信仰に何か落ち度があって、それで罰として何もしてくれないのか?それとも、神は万能と言われるが実はそうではなかったのか?こういう疑いを持てば、神は罰するだけの怖い方と恐れてしまうか、または愛想を尽かして見切りをつけてしまうか、ということが起きて、神に背を向けてしまうことになります。かつて神に背を向けて生きていた私たちが神との結びつきを持てるようにしようと、神はせっかくイエス様を送って下さった。それなのに私たちの方で、試練にあったからと言って、いただいた結びつきを信じられなくなって、再び神に背を向けてしまうというのは情けないことです。まさに、本日の福音書の箇所の未亡人のように、また昼も夜も叫ぶようにして祈る信仰者のように祈らなければならないのです。そのような者に対して神は速やかに正義を実現される、とイエス様は約束しているのです。

 祈りを絶やさないという本日の課題を学ぶ上で、詩篇のはじめの部分はとても参考になります。そこでは、正義の問題が多くでてきます。ダビデが、敵対者に包囲され、窮地に陥る。敵対者は神を畏れない輩なのに、全てがうまくいき繁栄している。しかし、神を信じる自分の状態は悲惨そのものである。これほど正義からかけ離れた状況はない。しかし、神は「正しい裁判者」(שופט צדיק、7篇12節、9篇5節)なので、必ずこの状況を逆転させて、正義が実現するようにして下さる、そういう確信がずっと貫かれています。(本日の福音書の箇所に登場する「不正な/無慈悲で尊大な裁判官」(ο κριτης της αδικιας)は、「正しい裁判者」(שופט צדיק)である神と対比されたものであることは明らかです。)特に詩篇の10篇、13篇、22篇をみると、正義の祈りのサイクルがみてとれます。まず初めに、正義が実現されない状況について、「神よ、なぜ傍観しているのですか」という苛立ちの嘆きが述べられます(10篇1~11節、13篇2~3節、22篇2~3節)。次に、「神よ、どうか事態を打開して下さい」という嘆願になります(10篇12~15節、13篇4~5節、22篇20~22節)。そして最後に、「神こそが事態を打開し、正義を実現される方である」という確たる信頼が告白されます(10篇16~18節、13篇6節、22篇25~27節)。私たちも、祈りがなかなか答えられない状況にいる時は、このように苛立ちが含まれる素直な嘆きの祈りがあってもよいのです。ただし、そこからどう嘆願に戻り、さらに信頼の告白に導いていけるか、そこが大きな課題になります。

そこで、三週間前のルカ17章の「ラザロと金持ち」のたとえについて説教をした時に教えたことを思い出してみましょう。もし正義の実現が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合であっても、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならない。それでもし解決に至れば神に感謝だが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神にとって無意味でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さる。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握している。そして、神の意思に忠実であろうとしたために失ってしまったものについては、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さる。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、またどんなに目標達成に遠くても、無意味だったというものは何ひとつない、ということです。

神は全てのことを一部始終細部にわたるまで正確に記録しています。だから、事の当事者であるキリスト信仰者は、神から絶えず目を注がれています。問題が起きて、最初の祈りがなされた瞬間からそうです。私たちの知りえない理由から、ある場合には早く解決を与えられるかと思えば、他方では時間がかかる場合がある。場合によっては来世に持ち越されることもある。しかし、いずれにしても、最初の祈りがなされた瞬間に問題の解決は神の保証付きになったのです。

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、いつ見える形で解決が与えられるかは神がよいように決めて下さると信頼して、私たちとしては、祈り始めた瞬間から問題は神の関心事になっているのだということを忘れないようにしましょう。だから、気落ちする理由はありません。私たちに背を向けない神に背を向けないためにも、祈りを絶やさないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2016年10月16日(聖霊降臨後第22主日)

説教「天地創造の神への感謝に生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、列王記下5章1-14節、ルカによる福音書17章11-19節

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

  本日の旧約聖書と福音書の日課に記された出来事は、前者がイスラエルの民の王国が南北に分裂した後の時代で、後者はイエス様がこの地上で活動された時のことで、両者は歴史的に800年くらいの開きがあります。この二つの出来事には共通点があります。まず、治る見込みのない重い皮膚病を患わった人が癒しの奇跡を受けたということが第一の共通点。それから、旧約の日課の中心人物ナアマンはアラム王国というイスラエル北王国の隣国の軍司令官、新約の日課に出てくるイエス様に癒しを受けて戻って来た人はサマリア人ということで、二人とも神の民に属さない異教徒です。(サマリア人がどれだけ異教徒と言えるかどうか議論が生じるかもしれませんが、少なくともユダヤ人からみたらそうなります。)そのような異教徒に属する者が天地創造の神から癒しの奇跡を受けたということが第二の共通点です。さらに、旧約の日課を本日の箇所よりも先まで読んでいきますと、癒しを受けたナアマンが天地創造の神に感謝の気持ちに満たされたことが言われています。イエス様から癒しを受けたサマリア人も同様でした。感謝の気持ちを強く表したということが第三の共通点。

 以上、不治の病を抱えた異教徒に属する者が天地創造の神から癒しの奇跡を受けて神に感謝の気持ちで満たされる、という共通点があることがわかりました。ところが、両者の間には大きな相違点もあります。本日は、この相違点に注意しつつ、私たちの信仰はいかにあるべきかについて考えてみたく思います。

 

2.

 旧約の日課は列王記下5章の前半部分です。預言者エリシャが異教徒の民族の国の軍司令官ナアマンを重い皮膚病から癒す奇跡を行ったことについて述べています。興味深いことに1節をみると、「主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられた」とあります。(ヘブライ語(תשועה)に忠実に訳すると「主がかつて彼を用いてアラムの窮地を救った」ですので、救国の英雄ということです。)この「主」とは、ヘブライ語でヤハヴェיהוהと記されているので、これは天地創造の神です。このように天地創造の神がイスラエルの民に属さない者を用いて、彼が所属する国を助けるということがあるのです。

 天地創造の神がイスラエルの民以外の者に影響力を及ぼして何かを起こさせるということは聖書の中に多くあります。有名な例として、神がエジプトの王ファラオの心をかたくなにして、イスラエルの民が国を出て行くのを拒み続けたことがあります。そうすればそうするほど、エジプトは神の罰を被ってしまい、神の力を目の当たりにしてしまう。耐え切れなくなったファラオは最後に出て行くことを認めました。また、バビロン帝国によるエルサレムの破壊は、イスラエルの民の長年の罪に対する神の罰を執行するものとして言われています。しかし、人間の目には強大な征服者に映るバビロン帝国も、実は神の道具にしかすぎなかったのです。神がイスラエルは十分罰を受けたと判断した時、歴史の大転換が起こります。神は今度は、ペルシャ帝国の王キュロスを道具に用いてバビロン帝国を滅ぼさせました。これでイスラエルの民はエルサレムに帰還を果たすことができました。

 そうなると、世界の歴史の出来事には天地創造の神の力が働いているということになります。聖書の中に記された例は今述べたものが代表的なものです。それでは、聖書に記された出来事の後の歴史はどうでしょうか?もちろん、神は天地創造の後も、今ある天と地の上側か外側かどう言っていいかわかりませんが、御自分のいらっしゃるところからこの天と地に影響力を及ぼしている。この天と地が終わりを告げる日まで、人間の歴史の歩みと共にいらっしゃる。しかしながら、聖書に記された出来事の後の歴史については、神がこう力を及ぼしたからこうなったとかは、聖書に記されていない以上は詳細はわからないのです。特に、ダニエル書や黙示録に書いてあることは、どこまでが書物が書かれた時代の人たちから見て未来のことなのか、それとも現代を生きる我々から見て未来のことなのか?書いてあることを、一つ一つ何かにあてはめようとするといろんな解釈がでて混乱が生じると思います。そういうわけで、はっきりしていることだけに注意を向けた方が良いと思います。それは、聖書の中に記された過去の出来事を見ると、神はイスラエルの民であるかないかにかかわらず影響力を及ぼして歴史を動かすこということ。また、聖書に記された出来事の後の歴史についても、当然神は影響力を及ぼしていると見るべきであるが、どのように及ぼしたか詳しい全容が明らかになるのは最後の審判の日を待つしかないということです。

 少し脇道にそれましたが、ナアマンの出来事でもう一つ興味深いことは、もっと先まで19節まで読むとでてきます。癒しの奇跡を受けたナアマンが一種の信仰告白をすることです。ナアマンは、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と言います。そしてお礼に預言者エリシャに大量の金銀等を贈ろうとしたが、エリシャは絶対に受け取らない。それでナアマンは、受け取りをお願いしても聞いてくれないのなら、かわりに2つのお願いを聞いて下さいと言う。一つは、イスラエルの土をらば二頭分持って行くこと。もう一つは、自分は金輪際、天地創造の神以外の神々に捧げ物をしないつもりではあるが、それでも主君に同行して異教の神の神殿にお参りに行かなければならない時、自分もやむを得ず主君と一緒にひれ伏すことを許して下さい、ということでした。これに対してエリシャは、「安心して行きなさい」と答えました。

 これは、一体どういうことでしょうか?十戒の第一の掟に従えば、天地創造の神以外にはひれ伏してはならないはずです。「安心して行きなさい」とは、エリシャはひれ伏しても良いと言っているのでしょうか?ヘブライ語の原文(לשלומ)も、「平安のうちに行きなさい」とか「心を騒がせずに行きなさい」いう表現です(創世記44章17節から「無事な状態で」の意味も)。英語やフィンランド語の聖書もそう訳しています。ただしスウェーデン語の聖書は「エリシャは別れを告げた」と訳していて、ひれ伏すことを必ずしも認めたわけではないニュアンスがあります。

 ここで一つ考えられるのは、十戒の掟を自覚して背負って生きるのは天地創造の神を信じる者たちということです。もし癒しの奇跡を受けた者がナアマンでなく、イスラエルの民に属する者であったならば、偶像崇拝する主君と一緒にひれ伏すことを認めて下さい、と言っても、認められないでしょう。ダニエルが異教の主君ネブカドネツァルに対してどう振る舞ったかを思い出して下さい。ナアマンの場合は、天地創造の神の影響力が及ぼされているにもかかわらず、それに気がつかないで異教の神を信じる者でした。それが、突然癒しの奇跡を受けたことをきっかけに天地創造の神がまことの神とわかり始めたのです。

 ところが、「わかり始めた」のはまだ始まりにすぎませんでした。ナアマンはお礼に贈り物をあげようとしましたが、エリシャに拒否されました。エリシャはなぜ受け取らなかったのでしょうか?もし受け取ったならば、どうなったかを考えてみると良いでしょう。エリシャが受け取らなかったために、ナアマンはさらに、これからは異教の神々にではなく天地創造の神にしか捧げ物はしません、と告白しました。もしエリシャが贈り物を受け取っていたならば、この告白は出なかったでしょう。つまり、「はい、イスラエルの地以外には神はいないと分かりました。お礼に贈り物を受け取って下さい」と言って、贈り物を受け取ってもらって、めでたしめでたしと国に帰ったら、また結局は同じこと、異教の神々への捧げ物を続けていたでしょう。エリシャの拒否が捧げ物をしないという告白を導いたと言えます。こうしてみると、エリシャを通して起きた奇跡の業で神は他にいないという告白を生み、それに続くエリシャの拒否で偶像に捧げ物をしないという告白を生んでいく。ナアマンが一歩一歩導かれていることがわかります。しかし、最後に主君の信仰と家臣としての立場が大きな壁として立ちはだかりました。その時点でエリシャはナアマンを送り返すのですが、エリシャが一歩一歩導いたことを考えれば、ナアマンが異教の神をひれ伏してよいと認めたのではなく、その後は神の御手に委ねるというふうに考えるべきでしょう。「平安のうちに、心騒がせずに行きなさい

というのは、行く手に困難が待ちうけていることを覚悟した時、全知全能の神を信頼して全てを神に委ねて前に進みなさい、ということを意味します。

さて、国に帰ったナアマンがこの後どうなったか、偶像に捧げ物をしない論理的帰結として主君の前でも偶像にひれ伏さなくなったか、またはひれ伏すことを続けることで偶像への捧げ物を再開してしまったか、これはもう聖書に記述されていないのでわかりません。神のみがご存知です。

 

3.

 ルカ福音書17章の出来事は、大きく分けて二つの部分からなります。最初は、10人の男が癒しの奇跡を受けたという出来事。その次は、10人のうちの一人でイスラエルの民に属さない者だけが感謝するためにイエス様のもとに戻ってきたことです。

はじめに10人の男の人たちの信仰について見てみます。この10人にはイエス様を救い主と信じる信仰が癒しを受ける前に既にありました。10人はすぐ奇跡の業をしてもらって癒されることを期待した筈ですが、イエス様は治すとも治さないとも言わず、ただエルサレムの神殿の祭司に体を見せに行きなさい、とだけ言う。10人はすぐ希望が叶えられないことに不平不満は言わず、言われるままにエルサレムに向かいました。これが癒しを受けた後で信じ出したナアマンと異なる点です。ルターは、10人の信仰を評価して、次のように言っています。

「らい病の男たちがイエス様を救い主と信じ始め、彼から良いものを受けられ始めたまさにその時、主は彼らの信仰を鍛えようとして試されたのである。それで、目に見える形ですぐに癒しを与えず、祭司のところに行って体を見せなさい、とだけ言われたのである。

主は我々に対しても、我々の信仰を強め試すために同じようにされる。主が我々を試す仕方であるが、いったい我々に何をされようとするのか、我々が理解できない仕方で行われる。主がなぜそのような仕方でされるかと言うと、それは信仰者が主は全く良い方であるという一点に全てを賭けるようになるためである。また、主は我々が祈り求めたこと、あるいはそれ以上に良いものを必ず与えて下さることを疑わないようになるためである。主の指示に従った10人のらい病者はまさに次のように考えて行動したのである。『主よ、わかりました。あなたがそうおっしゃるのなら、私たちは祭司たちのところに行きましょう。たとえあなたが今この場で、治すか治さないかはっきり言って下さらなくても、あなたが治す力のある方だと信じる私たちの信仰はかわりません。だから、私たちとしては、主に治す気持ちがなくても、それは主が私たちにかわりにもっと良いものを与えて下さることなのだから、それを喜んで待ち望もうではないか!だから一層、主により頼もうではないか!それゆえ私たちにとって、主が良い方であると信じるのをやめることなどは考えられないのだ!』

これこそがまさしく信仰の中で成長するということである!このような試練は、人生が続く限り続くものである。主は我々を一つのことで試された後、いつも新しいことで試され始める。そのようにして、我々の信仰と主に対する信頼を一層強めて下さる。我々自身が終わりまで信仰にしっかり留まる限り、ただただ強め続けて下さるのである。

 

4.

 このような信仰をもって、10人の男たちは出かけて行きました。すると、出発後ほどなくして、10人はみな病気が治ってしまいました。みんなは歓喜の極みだったでしょう。9人は、そのままエルサレムの祭司たちの所へ向かい続けました。レビ記の14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。ところが、1人だけ、この律法に規定された治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきました。先ほども触れたサマリア人でした。彼は、このような奇跡を行った方とその方をこの世に送った神を賛美し感謝します。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、イエス様は、律法に規定された祭司の診断よりも、イエス様のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかになります。さらにイエス様はサマリア人に「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。これは、わかりそうでわかりにくい言葉です。額面どおりに受け取れば、イエス様を救い主と信じたので病気が癒されたのだ、と理解されます。しかし、そうなると、キリスト信仰者でも病気が治らない人たちも現実にいるのだから、その場合、その人たちの信仰が足りないものなってしまいます。そういうふうに、祈願嘆願したことが実現するか否かということが、信仰が優れているとか劣っているとかの判断材料となってしまいます。イエス様は、そのようなことを教えているのでしょうか?いいえ、そうではありません。そうではないということがわかるために、イエス様が別の箇所で同じ言葉を述べているところをみてみましょう。

本日の福音書の箇所では、イエス様はこの言葉を人の病気が治った後に述べますが、マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節をみると、イエス様は同じ言葉を病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べます。マタイ9章では、12年間出血状態が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、元気を出しなさい(θαρσειは「元気になりなさい」という訳よりも「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう)。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。この言葉をかけられて女性は健康になります。マルコ10章52節とルカ18章42節は同じ出来事です。目の見えない人がイエス様に見えるようにしてほしいと一生懸命に嘆願する。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われる。その直後に男の人は目が見えるようになります。

病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と理解できます。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことなのでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」に注意すると、これはギリシャ語の現在完了の形です(σεσωκεν)。ギリシャ語の現在完了形は英語と少し違っていて、「ある過去の時点で始まった状態が今現在までずっとある」という意味が中心です。つまり、「あなたの信仰があなたを救った」というのは、「イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、今イエス様の真ん前に立っているこの時までずっと救われた状態にあった」という意味です。

これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時までずっと救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に、既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか?それは、イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは、確かに見た目では病気を背負っている状態にはあるけれども、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになった人たちだったのです。このことは、キリスト信仰にとってとても大事なポイントです。つまり、キリスト信仰では「救い」というのは、目に見える境遇が良好な状態であるということと同義ではありません。境遇が良好かそうではないかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになる、この世においても次の世においてもそのように生きられる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような真の救いに対する付け足しだったのです。

そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の「救い」が無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。このような確固とした救いは、イエス様が十字架の上で自らを犠牲の生け贄にして、人間を罪と死の支配から贖い出す業を成し遂げて、それで全ての人に提供されました。それは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで自分のものとして受け取ることができるのです。

 本日の福音書の箇所のらい病の人たちも同じです。彼らは、ルターが言うように、治してくれるのかくれないのか言ってくれなくとも、イエス様を強く信頼して言う通りにしました。イエス様は、彼らの信仰がわかりました。しかし、時はまだ十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。そのため、9人が祭司に治ったことの診断を仰ぐという旧約の様式に則って行動したのは無理もないことでした。これに対して、賛美と感謝を捧げるために一人イエス様のところに戻って来たサマリア人は、実は十字架と復活の時に確立された神との新しい契約の行動様式を先取りして示したのです。それは、自分を犠牲にして人間に救いを実現して下さったイエス様と、彼をこの世に送って下さった父なるみ神をただ賛美し感謝を捧げるということです。

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、私たちは、どんな境遇に置かれても、この、いただいた救いのゆえに、賛美と感謝を絶やさず捧げる方がいらっしゃることを忘れないようにしましょう。周囲の人たちは、どうしてこの人はこんな状態にあるのに賛美や感謝の心を持てて輝いていられるのか、不思議に思うかもしれません。しかし、そこに神の奇跡の業が現れ始めているのです。さらなる奇跡の業が現れるにしても現れないにしても、ひとり子イエス様の贖いの業のゆえに天地創造の神に賛美と感謝を捧げることは全ての出発点であることを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

10月のフィンランド家庭料理クラブの報告

昨日の蒸し暑さを忘れてしまうような、爽やかな土曜日の午後、
スオミ教会家庭料理クラブは
「リンゴケーキ」を作りました。

リンゴのケーキ、リンゴケーキ

最初にお祈りからスタートです。

計量、リンゴや道具類の準備、
そして、生地作りへと進みます。

今回は10名の参加があり、
牧師館は、賑やかな雰囲気のなか、6台のリンゴケーキが完成しました。

パイビ先生からは、フィンランドの夏、秋、冬のリンゴや、果物事情、そして、聖書に登場する果物のお話を、興味深く聞かせて頂きました。

先生のお話は、教会HPに掲載されますので、是非御覧ください。

参加の皆様、最後まで片付けにご協力頂き、ありがとうございました、またお目にかかれるのを楽しみにしています。

リンゴのケーキ、リンゴケーキ

 

フインランド料理教室:パイヴィ 吉村 宣教師

りんごの話

リンゴの木、リンゴこの季節フィンランドの多くの家庭ではリンゴを使ってケーキ、おかゆ、その他のデサート、ジャム、ジュースなどを作ります。それで、リンゴの香りが家の中から外に広がっていきます。今年の夏私たちはフィンランドに一時帰国しましたが、秋のリンゴの収穫はとても良いと分かりました。というのは、どの家でも庭のリンゴの木は枝が折れそうになるくらいにリンゴで一杯だったからです。私の実家のリンゴの木は植えてからまだ数年しかたっていませんが、夏の終わりにはもう沢山りんごが出来ていました。

リンゴはフィンランドで最も古い果物で、千年くらい前にスウェーデンから広がってきました。リンゴはフィンランドの南の地方で良く栽培されますが、北にあるラップランドでは寒すぎて栽培できません。フィンランドのリンゴの実は日本のように大きくて豪華な感じがしませんが、フィンランド人は自分の家の庭にリンゴの木を植えて、大事に育てます。リンゴの木は育てる人を1年に二回喜ばせます。1回目は、五月の終わりにリンゴの木が白い花で一杯になり、花の香りが遠くまで広がります。フィンランド人はこの季節が好きで、リンゴの花が咲くのを毎年楽しみにしています。2回目の喜びは、8月の終わりごろ、赤や緑の実が出来きる時です。

リンゴの出来具合は年によって変わります。今年のように収穫の良い年は、リンゴの木は枝が折れそうになるくらいに沢山の実がなります。しかし、春が寒い年にはリンゴの実は木に何個しかできません。このためにフィンランド人は収穫の良い年にジャムやジュースを作って保存します。

フィンランドではリンゴの木は3種類あって、夏リンゴ、秋リンゴ、冬リンゴと呼ばれます。夏リンゴの実は一番早く出来て、味は甘く、そのまま食べて美味しいリンゴです。秋リンゴの実は固めでジャムやジュースを作るのに用いられます。冬リンゴの実は酸っぱくて、木から採った後、何週間か地下においてから食べます。冬リンゴの実はよくクリスマスの時に食べられます。

リンゴは健康にとても良い果物です。フィンランドのことわざに、「毎日リンゴを1個食べれば、医者を遠ざけることができる」というものがあります。リンゴはビタミン、ミネラル、繊維など沢山入っているので、健康に良いのです。秋、仕事場のおやつにリンゴを持って行く人は多いです。仕事場で自分の庭で育てたリンゴを同僚の人たちに分けてあげるのは、楽しいことの一つです。

リンゴは甘ければ甘いほど美味しいですね。しかし、フィンランドには冬リンゴのように酸っぱいものもあります。口からすぐ吐き出したいくらい酸っぱいものもあります。私は、健康に良いリンゴの実には甘いものと酸っぱいものがあるというのは、聖書のみ言葉にもいろいろな「味」があるのと同じではないかと思います。あるみ言葉は甘くて、もっと読んだり聞きたいと思います。ところが、あるみ言葉は酸っぱくて、読みたくないし、聞きたくもありません。このような聖書のみ言葉はどんな言葉でしょうか?

例として、2つの聖書の箇所を選びました。一つ目は、聖書の中でとても有名な箇所、「ヨハネの福音書3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」フィンランドでは中学2年生の子供たちは教会の堅信礼の教育を受けるので、この箇所をよく覚えている人が多いです。神様は、このみ言葉を通して、私たちにどんなことを語っているでしょうか?

ここで独り子というのは神様の子、イエス様のことを指します。天の神様は、ご自分の独り子、イエス様をこの世に送られました。どうして神様はイエス様を送られたのでしょうか?それは、私たち人間が神様の言われたことをしっかり守ることが出来ないからです。神様が造られた最初の人間アダムとエバもそうでした。アダムとエバははじめエデンの園で暮らしていました。二人はエデンの園にある果物を自由に食べることが許されていましたが、一つの木からは食べてはいけないと神様に言われていました。しかしエバはその木の実を採ってアダムに渡し、アダムもそれを食べてしまいました。その実を食べたために、人間は死ぬことになってしまいました。また神様が言われたことを守れなかったために、アダムとエバはエデンの園から追放されてしまいました。

でもこれで全てが終わったのではありませんでした。神様はこのような人間を救って、再びご自分のもとに戻ることができるようにしようと考えました。そのためにイエス様をこの世に送られました。十字架の上でイエス様は、私たちの罪の罰をかわりに受けてくださいました。このように神様は、私たち一人一人を愛して下さるのです。さらに、神様は一度死んだイエス様を復活させられて、死を超えた永遠の命があることを示されました。イエス様を救い主と信じる者に、その命に至る道が開かれることになったのです。これが、先ほど読んだヨハネの福音書の箇所の意味です。これはとても素晴らしい箇所で、私も何回も読んだり暗記したみ言葉です。

二番目のみ言葉は、「ヘブライ人への手紙12章5節と6節です。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力は落としてはならない。なぜなら、主は愛するものを鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭うたれるからである。」この言葉を聞くと皆さんは、厳しい言葉だと思うかもしれません。この言葉にはどんな意味があるでしょうか?天の神様はいつも私たちに楽な道、困難がない道を与えられるとは限りません。人生の中でいろんな困難、病気、悩み、失業などに遭遇する時というのは、天の神様と私たちが結びついていることがはっきりする時でもあります。結びつきがあるとどうして言えるのでしょうか?イエス様を私たちのために送って下さった神様は本当に信頼してよい方です。また、神様のもとに行ける道は、イエス様を救い主と信じることで十分であるといことです。このように神さまは私たちのことを愛して下さるので、困難な時にも私たちに良い道を示して下さるのです。

聖書の全部のみ言葉の目的は同じです。私たちの心に信仰が生まれて、それを成長させて、リンゴの木と同じように良い実を結ぶことです。

私たちも、良い実を結べるようにみ言葉を聞いたり読んだりしましょう。

 

説教「義のために迫害される人々は幸いである」木村長政 名誉牧師

聖霊降臨後 第20主日

「義のために迫害された人々は、幸いである」

マタイ福音書5章10節

 

今日の礼拝で山上の説教(6月12日から始まって)連続講解説教,第8回となります。

マタイ5章10節[義のために迫害された人々は幸いである。天の国は、その人たちのものである]

これをもう少しイエス様が語られた気持ちで、もとの文のまま言いますと、なんという幸いな人たちよ!義のために迫害された人たち。ここに義のために迫害された人たち、と言われるこの「義」は聖書の中によく出てきますが何でしょうか。普通には正しいということです、正義のことです正しいことのために迫害されることは、よくあったことです。「義」という字は聖書の中では非常に大切な字であります。正しいという意味でもありますが、」それだけでなく恵み、とか真実ということと殆ど同じと言っても良いほど関係の深い字です。ある辞典では義というのを「救いに満ちている」と訳しています。そこで正しいことをしてゆくと、迫害を受けるようになる。ここで大切な」要点となることがあります。ここでの義が信仰の意味でそうなんだということ。正しいことをして迫害を受ける、ただそれだけではない。この義は信仰によって与えられた義であって、信仰によって救われた者が神から与えられた義を貫いて信仰を証ししている中で迫害がある、というこです。テモテ第2の手紙3章12節を見ますと、そこには「いったいキリスト・イエスにあって信仰深く生きようとする者は、みな迫害を受ける」とあります。主のために信仰深く生きる、そういう中での義です。その正しさは罪人が神の憐れみによって与えられた正しさである、と言わねばなりません。信仰によらなければ理解することは難しいことになるでしょう。キリスト教の信仰ははじめから、いろいろな理由から迫害されました。例えば他の宗教では像を拝むことをしました。キリスト教では偶像がないので無神論だろう、と言われたこともありました。それからまたキリスト教徒は聖餐の時、信者以外の人を入れないとうことで誤解を生んだこともあります。聖餐式のパンとぶどう酒をこれはキリストの体である、これはキリストの御血であると言って、肉を食べ血を飲むという思想に誤解されました。或いは信仰を持ったことで家庭内がうまくゆかなくなることも沢山あります。伝道を始めたころ私は信者の方の家庭訪問をしました。自分だけがクリスチャンの婦人が日曜の朝2時間、時間を作って教会に来るということが、どんなに辛い戦いであったかをしみじみとわかりました。日本の社会で家庭で自分だけクリスチャンを貫いてゆくことは、まさに信仰の戦いであり、そこに言われない迫害があります。こうした信仰生活を理解されないで苦しんだり非難されたりしてきました。どれだけの涙が流されているか神様がすべてご存知であります。大事なことは「義のため」とはどういうことか、であります。正しいといったもそれが神のよる正しさか、であります。いまは自分にそういうことが出来ないことを承知した上で神のあわれみに答えてこれらの生活をすることであります。義の生活が全く神によるものであるとすれば、神以外のものを神としないことがどんなに重要なことであるかが分かります。こうしたこととはっきりさせようとする、と迫害につらなってゆくのであります。

 

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これまでマタイ5:3~9節まで言われた「幸いな人々」と言われた人々は現在のことを言い表していると言われたいます。つまり心の貧しい人でも、悲しんでいる人でもそういう生活をしている人々と、いま考えてきた迫害されている人々と言う場合は言い方が違っているのです。迫害された人々という言い方は前からあったことが今まで続いていて、いまも結果が残っているという意味なのであります。紀元325年にニカヤ会議という世界で最初の教会総会議がありました。そこでつくられた信仰告白はその後教会が東と西とに分かれてもどこでも告白されている、たった一つの信仰l告白になりました。その会議に318人の監督たちが集まりましたがローマ帝国は313年にキリスト教を公認したのでした。それまで永い間迫害された教会の代表も集まったのであります。そこに出席した監督たちの中には迫害のために傷を負っている人たちが少なかったと言われています。それはまさに、ここで表されているように、もう迫害は止んだかもしれないが、その結果を身に帯びている人々であったわけで、まさに迫害されてきた人なのであります。イエス様が山上の説教をされたのはそれより300年も前の話でありますが迫害というものは、そういうもので前から今まで続いているがその結果がいつまで残ることは同じことでありましょう。もう一つのことは「迫害されてきた」というのは迫害を受けてそれを忍んできた人と言うことであります。そのこともここの言葉使いで表されているのです。それは受身の形ですがそれは、ただ迫害されたと言うのでなく迫害することを許した、従って忍耐した更に言えば喜んで迫害を受けたという意味になるのであります。迫害は神から与えられた義のためであります。従ってそれは、いやいや受けるものではありません。心から喜んで受けるものでありました。さてこうして迫害のことを語った「この人々には神の国が与えられる」というのであります。神の国というのは何でしょうか、それは神様の支配ということですね。神の国が与えられるというのは神の支配が確かなものとされるということなんです。それがどうして「さいわい」と言えるのでしょう。信仰を知らなければそれがなぜ祝福なのかと考えるのは当然でしょう。しかし信仰者から言えば神の支配に服することが最高の祝福であります。それは人間が損をすることではなくてそれによって初めてそれは人間は神様の支配のうちにいるんだ、神様の恵みのうちに自分があるという、そういう神の祝福を信じることができるのであります。それならば神の国と迫害とに、どういう関係があるというのでしょう。迫害に耐えるというのは神に服従している苦難の姿です。そしてそれは殉教ということになる。殉教こそ神の支配に服することであって、そおのことは神の喜びにあずかることであります。だれでもわざわざ殉教を求める人は「ないでありましょう。ただひたすら神様に従い、神様の栄光をあらわすことに喜びを感じる、それこそ信仰でありましょう。神様はどこまでも人間が神に従うことを求められるのであります。人は神様に従う中で苦しめられ、迫害に会い、それを耐え忍んで神のよろこばれる栄光をあらわそうとしてゆく。そのプロセスを神は最もご覧になっているのであります。ある人が言いました、人は迫害に会ってもただ無邪気に苦しむのでなく、それによってその人の品性が磨かれ向上して行く、そういう戦いの信仰生活をすべて神が承認されるのであると。すこし言い換えて申しますと、迫害に耐えることによって、その人々の生活が神の側に立ち神のものとしてこの世に立ち向かうからことができるようになる、ということであります。その時は気づかないで必死になっている、そしていつの間にか神の手のうちにあって、この世での貧しさ、弱さ、乏しさ又侮辱を受け、罵られてこの世に立ち向かっているのであります。神様がすべてをその人を丸ごと品性において認め受けとめてくださっているのであります。「決してあなたたちを見捨てたりはしない」と神の祝福の中にあるのであります。そして神がお与えになっている”恵みの深さ”というものを知るようになるのであります。最後に詩篇34編18~20節を見てみましう、次のように書いてあります、”主は心の砕けた者に近くいまし、魂の悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災いが多い、しかし主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。”    アーメン・ハレルヤ!

 

 

説教「天国と地獄と神の正義」神学博士吉村博明 宣教師、ルカによる福音書16章19-31節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくて架空の話を持ち出して教えています。この箇所でイエス様は実にいろいろなことを私たちに教えています。今日はそれらについてじっくり見ていきましょう。

ラサロまず、イエス様の話の中に登場する金持ちは富を持ちながら神にではなく富に従属してしまった人です。毎日贅沢に着飾って、優雅に遊び暮らしていたというから億万長者です。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書の場合は実際に起きた出来事に登場する現実の人ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。

ラザロΛαζαροςという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルאלעזךという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。門の前を通りかかった人々はきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったことでしょう。ラザロは、金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと思っていたが、それにすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。しかし、こんな近くに助けをずっと求めている人がいたのに、金持ちはそれを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。金や品物が人の心を麻痺させてしまった典型例と言えましょう。

さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、彼の遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事は序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは、「陰府」の世界に行き、そこで永遠の火に毎日焼かれなければならなくなった。ラザロの方は、天使たちによって天の御国に連れて行かれ、そこでアブラハムと共に「宴席についた」。まさに名前の意味「神は助ける」がやっと実現したのです。

 金持ちは、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、それは、神に従属せず富に従属して仕えたからで、それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方だからです。つまり、二重の罪というわけです。もし、金持ちが富にではなく神に従属して、富の主人となって、富を神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。

 以上が本日の福音書の箇所の要旨です。読めば誰でも、ああ、イエス様は神に仕えず財産に仕えてしまったら天国に行けない、財産を隣人愛に用いないといけない、と教えているんだな、とわかります。それはそれで間違いではありませんが、それではまだまだ不十分です。本日の箇所は、天国や地獄というものについて、また神の正義ということについてもいろいろなことを教えています。今日はそれらについて明らかにしていきたいと思います。

天国や地獄などと言うと、人によっては、人間がすべきことやしてはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて、時代遅れのやり方だと思う方もいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこにいくのかとか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかないのか、という問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。人によっては、どこにも行かない、死んだらそれで終わりで消えてなくなる、だからこの世では他人に迷惑をかけないで自分の好きなことをするのが一番いい生き方なのだ、と考える人もいるでしょう。また人によっては、死んだら魂だけ残って、どこか安逸な場所に行って他の魂たちと会することになるとか、または新しく別の人間ないし動物に生まれ変わるとか、いろいろあると思います。では、天地創造の神とそのひとり子イエス様は、このことについてどう教えているか?これは聖書全体を見渡さないといけない大きな問題ですが、今回は本日の福音書の箇所をもとにみていきたいと思います。

2.

  本日の箇所は、よく見ると、あれ少しおかしいなと思わせることがあります。金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと共に宴席に着く。そう書いてあります。しかし、よく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースαδηςという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海の世界ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナγεενναと言い、文字通り「地獄」です。

 黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした人たちが最初に死から復活させられます。つまり、復活の体を着せられて神の御許に迎え入れられます。その次に、これ以外の人たちが復活させられますが、この者たちは前世での行いに基づいて裁かれます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(4-6節)。これに続いて、新しい天と地が創造されて古い天と地に取って代わり(21章1節)、そこに神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。

こうしてみますと、神の国つまり天国とか地獄というものは、将来、復活や最後の審判が起きる日になって、迎え入れられたり、投げ込まれたりするところです。そういうわけで「陰府」とは、復活や最後の審判が起きる日まで死んだ者が安置される場所で、今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と述べました。復活の出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。

そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の地獄に投げ入れられるかは、これはまだ先のことで、今の天と地がまだ存在する段階では「陰府」で安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われるのですが、イエス様はどうして「陰府」と言ったのか?この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVではhell「地獄」 と訳されていますが、脚注で「ギリシャ語ではハディス」と記しています。つまり、ギリシャ語では地獄ではなく陰府を意味する言葉が使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、と断っているのです。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、Einheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltで、「地獄」と区別しています。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、しっかり地獄と区別されています。

 どうしてイエス様は、復活と最後の審判が起きる日に投げ込まれる地獄をそう呼ばずに「陰府」とよんだのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、今の天と地がなくなって復活と最後の審判が起きる将来のことです。ところが、金持ちはラザロを自分の家の兄弟のもとに送ってくれと頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまうと、復活と最後の審判が起こったことになってしまいます。つまり、今の天も地も自分の家もなくなって、兄弟たちも既に裁かれてしまったことになる。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。これが、イエス様が火の海を地獄ではなく陰府と言った理由と考えられます。このようなことは、自由な創作をすれば起きることで、イエス様は理解不足だったなどと考える必要はないでしょう。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで時間の正確な流れにはこだわらなかった、ということです。それでは、その大事なこととは何かと言うと、一つは神の正義について、もう一つは死からの復活を信じることと旧約聖書との関係についてです。後ほどこれらについて見ていきますが、ここではもう少し天国と地獄について注意すべきことを見ていきたいと思います。

22節と23節でラザロがアブラハムと共に「宴席」についていると言われていますが、実はギリシャ語の原文では宴席のことは何も言われていません。ラザロはアブラハムの「胸元」にいると言われています。まるで子供が親に抱きかかえられてすやすや眠っているような印象を受けます。英語訳NIV、ドイツ語訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳の聖書どれを見ても「宴席」はありません。アブラハムの「胸元」ないしは「脇に」とか「傍らに」と訳されています。なぜ、日本語では宴席が出てきてしまったのでしょうか?これは、黙示録19章にあるように、天国が盛大な祝宴にたとえられていることからきていると思われます。さらに、ラザロと金持ちの間にはお互いの往来を不可能にする大きな淵があるということが、天国を連想させたと思われます。それで、ラザロは天国の祝宴で祝杯をあげていると考えられたのかもしれません。このように、ラザロと金持ちはそれぞれ天国や地獄を連想させる場所にいるのですが、イエス様は実はそこまではっきり言い切ってはいません。金持ちに関しては地獄と言わず「陰府」と言い、ラザロに関しては宴席とまでは言わず、アブラハムの「胸元」と言っています。実に微妙です。時間の正確な流れにこだわらないと言いつつも、ある意味では正確さも期しているのです。(注)

ところで、死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、その場所が陰府ということにすると、聖書には例外もあるということに注意が必要です。復活や最後の審判の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人がいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもそのような者と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記34章5節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、復活や最後の審判の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうかということですが、これはもうそこにおられる父なるみ神しか知ることができません。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。

3年前、SLEYの元日本宣教師で文字通り生涯を日本での福音伝道に捧げたパップ・カタヤさんという方がこの世の人生の歩みを終えて永眠に入られました。国教会の牧師をされている兄弟の方が追悼文をSLEYの新聞に寄稿しまして、その最後の文がとても印象的だったのを覚えています。「安らかな眠りについているバップの前で今祝宴の準備がなされています」というものでした。これは、キリスト信仰の死生観をとても正確に言い表していると思いました。姉は天国に近いところにいるという希望を表明しつつも、まだ天国の祝宴の席にはついていないことをはっきりさせているからです。それは復活の日を待たなければならないのです。日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった方が今天国から見守ってくれているという言い方をするのをよく聞きます。天国というキリスト教的な言葉を使いますが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。亡くなった方が安らかに眠ると、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と心配になってしまうでしょう。キリスト信仰では、天と地と人間の造り主である父なるみ神が見守ってくれるので何も心配はいりません。創造主である神が死からの復活を起こす日がいつかやってくるのです。

 3.

 以上、天国と地獄について注意すべきことを述べました。これから、イエス様が金持ちとラザロの話で教えようとしている二つの大事なことを見ていきます。一つ目は、神の正義についてです。神は正義をどう実現されるか?イエス様の教えから明らかになることは、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には次の世で必ず解決されるということです。ルターなどは、この世で悪が罰せられずに我が物顔でのさばればのさばるほど、次の世で受ける報いもそれに比例して大きくなると言っています。本日の箇所の25節でイエス様はアブラハムの口を借りて次のように言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」まさに、「高くするものは低められる。低くするものは高められる」というイエス様の教え通りです。このように、復活の日、最後の審判の日には、歴史上全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われるのです。

黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在するということが言われていますが、これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。

この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと思われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うように、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。つまり、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神への感謝ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握しているのです。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあっても、神は後で何百倍にして返して下さるのです。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないのです。

 ところで、キリスト教に地獄のような裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「キリスト教って確か赦しの宗教じゃなかったの?」と思われるからです。その通り、キリスト信仰は罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとは、それまで神に背を向けて生きていたことを間違いと認めて、このような至らない私の罪をイエス様は十字架まで背負って行かれて、そこで私のかわりに神の罰を受けて死なれた、だからイエス様は私の救い主です、そのイエス様の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい、このように祈れば、神からいただける赦しです。このような立ち返りをすれば、どんな極悪非道の悪人でも、たとえ世間は赦さないと言っていても、神は赦し受け入れて下さるのです。本日のイエス様の教えの趣旨からははみ出しますが、金持ちについても、もしラザロが死んだ後で神のもとへ立ち返る生き方を始めていたならば、火の海に投げ込まれずにすんだのです。

4.

 二つ目の大事な事は、死からの復活の信仰と旧約聖書の関係についてです。イエス様はアブラハムの口を借りて、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言いました。モーセと預言者とは旧約聖書を指します。旧約聖書をしっかりわかっていないと、死から復活させられたイエス様を信じることはできないのでしょうか?私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入った時、一体どれだけ旧約聖書のことをわかっていたでしょうか?

旧約聖書を知らず、また天と地と人間を造られた神を知らいまま、死者から生き返った者を見たら、特に日本人だったら、自分の伝統的な宗教の枠内で出来事を把握しようとするか、または新しい宗教団体を結成してしまうでしょう。そのようにして、聖書の神からますます遠ざかってしまうでしょう。しかしながら、死から復活したのがイエス様である場合は、逆に人間を聖書の神に引き戻す力が働くのです。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した者たち、そして彼らの証言を聞いて信じた人たちは皆、私たちも含めて、本当にモーセと預言者に立ち戻ることになったのです。天地を創造し人間を造られた神に立ち戻ることになったのです。どうしてそのようなことが起きたのでしょうか?

それは、イエス様の十字架の死と死からの復活を出発点として、遡るようにして旧約聖書の意味が明らかになっていったことがあります。死からの復活が現実に起きたことを知った人たちは、みんなが預言者と騒いでいたあのナザレのイエスは真に神の子だったのだ、と。そう言えば、彼は自分でも自分のことを神の子と言っていたし、またメシアとか、ダニエル書で預言されている「人の子」とも言っていたが、全て預言通りだったのだ、と。なぜ神の子が死ななければならなかったのか?それは、イザヤ53章に預言されているように、人間が受けるべき罪の罰を全て引き受けられたのだ、と。イエス様が罰を全部引き受けて下さったので、私たちは罰を免れる状態にあるのだ、と。まさにこれで、アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった造り主の神と造られた私たち人間との関係が回復したのだ、と。私たちの身代わりとなって私たちを罪と死の奴隷状態から贖って下さったイエス様を自分の救い主と信じる信仰、この信仰によって私たちは神との結びつきを取り戻すことができ、この結びつきの中でこの世の人生を歩むことができることになったのだ、と。イエス様を死から復活させたことで、神は永遠の命の扉を私たちのために開かれた。だから、私たちは、万が一この世から死ぬことになっても、信仰によって神と結びついた者を、神は御手をもって御許に引き上げて下さるのだ、と。

このように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる人は、既に旧約聖書に貫いている神の人間救済計画を体得しているのです。天と地と人間を造り、私に命と人生を与えて下さった神は、私がこの世に誕生するはるか以前に、このようなことをずっと計画していて、ひとり子イエス様をこの世に送られることで計画を実現されたのだ、と。このようにして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、この神の意思に沿って生きようとすることが当然という心意気になり、神の意思をちゃんと知ろうとして、旧約も新約も同様に日々繙いて、そこから神の御言葉に聞こうとするのです。このようにして私たちに新しい人生を与えて下さった父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

主日礼拝説教 2013年9月29日(聖霊降臨後第十九主日)