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待降節第2主日(紫) 2018年12月9日(日)
ルカ福音書 3章1~6節
今日は、クリスマスを迎える待降節の礼拝です。
聖書はルカ福音書3章1~3節です。
まず、2節の後半を見ますと「神の言葉が荒野でザカリヤの子、ヨハネに降った。」とあります。
この祭司ザカリヤと、その子ヨハネの誕生については、ルカは、1章5節から-25節までと、そして57節からー80節にえんえんと、長く、ていねいに、福音書のはじめから、しっかりとしるしているのです。これだけ長く、ていねいに書いていることは、それだけの深い意味を込めているから書いていることでしょう。しかし福音書の主役は、あくまで、救い主である、神の御子の誕生と、その御業の活動にあります。
神の御子が、この世に人の姿をもって生まれ、この世の十字架の死をもって終えられるまで壮大な神の御業を助け、その歩みを整えるために、この祭司ザカリヤの息子、ヨハネはこの世に誕生した。神様は彼を用いていかれたのであります。
このため、荒野にいたヨハネに神の言葉が臨んだのです。
マタイ福音書には3章4節で次のように書いています。
「ヨハネはらくだの毛皮を着、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ物としていた。
荒野というところがすべて象徴しています。荒野には草も木も生えていない、ごつごつとした石と岩ばかりの不毛の地です。
きれいな花も咲かない、枝にたわわに実る実もない、第一、大地をうるおす水が全くない所です。
現代に生きる私たちは、食べ物もある、住まいや衣服も手に入れられる、物質の面では、満たされているかも知れません。しかし、心の面ではどうでしょうか。
人と人との関係が必ずしもうまくゆかない。疑いと憎しみ、失望と不安な世の中、まさに荒野のような人間どうしの、どうしようもない状況の只中に、神の言葉は臨んだのであります。
ルカが3章1節で長々と、しかし、しっかりと歴史の事実をしるしています。ユダヤの民、イスラエル全土の神の民は、時のローマ皇帝の厳しい支配の下で、荒野のような、どうしようもない苦難の中にある只中の時代に、神の言葉は臨んだのであります。
「祭司の子、ヨハネよ、立て!救い主 神の子は人の世に来られた。主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘は、みな低くされる。曲がった道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」と。預言者イザヤが叫んだように、ヨハネは、救い主に先立って、
神様からの大役をおおせつかって、立て!主からの役目を受けて、その御業をなしていけ、と、言われている。
3節です。「そこで、ヨハネは、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」
そうして、7節です。そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。」
8節。「悔い改めにふさわしい実を結べ。」
この後きびしい言葉が続いています。
ヨルダン川で洗礼を授けた、バプテスマのヨハネが、神からの使命を受けて叫んだのは、「悔い改め。」でありました。
マルコによる福音書は、クリスマスの出来事には一切ふれていません。
いきなり、「神の子、イエス・キリストの福音の初め。」とあって、この福音書の目的をしるします。
そして、預言者イザヤの言葉をもってきて、洗礼者ヨハネが荒野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
更に1章14節ー15節を見ます。イエスはガリラヤで神の福音を宣べ伝えて言いました。
「時は満ち、神の道は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と叫んだのです。
このヨハネも、イエスも、「悔い改めよ」と叫んでいる。
悔い改める、と言うことは、どういうことでしょうか。
この当時、ヨハネのもとに洗礼を授けてもらおうとしてやってきた群衆に対して、「自分たちの父はアブラハムだ」等という考えをすてよ。
つまり、律法を守ること、「アブラハムこそが信仰の父」と思っている、そのようなことで お前たちの罪は赦されると思ってもみるな、と言うことです。
罪の中にある人間が、どんなに努力しても自分の罪を自分で消すことはできないのです。
自分以外の外から新しく変えられなければ、どうすることもできない。
「悔い改め」とは、恵みに頼りたのむことです。
いっさいのものを主に献げて、主にゆだねてしまうことであります。
悔い改めは、自分中心ではなくて、神様を、いつも中心にしていく生涯です。神様が真ん中に立たれるならば、私たちは新しく変えられるのです。
預言者エゼキエルはイスラエルの民に向かって、主の言葉を伝えました。
旧約聖書 エゼキエル書 36章26節です。
「わたしは、新しい心を、あなた方に与える。新しい霊をあなたの内に授ける。あなた方の肉から、石の心を除いて、肉の心を与えます。」
ここには、主なる神様が、人間の石のような、かたくなな心を取り除いて、新しい霊の、肉の心を
授けて下さる。」というのであります。
実に悔い改めなければならないのは、石の心、冷たい心、がん固な重い心を除いてしまうことです。
さて、そこで、わたし達がクリスマスを迎えるにあたって、パプテスマのヨハネが荒野で叫んだ
「悔い改めよ」という言葉を、どう受けとめて、外からの神の恵みによって、新しい霊を与えて下さる
ように祈っていかねばならないということです。
この夏から私はずーっと、詩篇の言葉にゆり動かされています。その詩篇は103篇です。22節までありますが、とてもすばらしい1-5節を見てみたいのです。
詩篇103篇1~5節「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなる すべてのものよ、その聖なる御名を ほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを、心にとめよ。主は あなたの すべての不義をゆるし、あなたの すべての病をいやし、あなたのいのちを 墓から あがない いだし、いつくしみと、あわれみとを あなたに こうむらせ、あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもって、あなたを飽き足らせられる。こうして あなたは若返って、わしのように、新たになる。」
この詩篇103篇の全面に、作者の信仰があふれています。「悔い改める」ということが どういうことかを その真髄をうたい上げているように思います。
この詩篇の作者は、自分で、自分の魂に向かって、呼びかけているんです。
わがたましいよ、主をほめよ。と、自分の一切を、神に向けている、信仰という出来事です。どこまでも、どこまでも、わたしと神様とに徹していく時、神様からのいつくしみと あわれみが 満ちあふれる、と 歌っているんです。
人間は、神様をほめたたえるように、そういう場所に、初めから置かれたものなのです。
神様が 世界をつくり、その中に、人間をおかれました。神様は、創造のみわざが全部完了した時、それをご覧になって、満足なさいました。すべては良かった。
ですから 人間は、そのはじめに、まことに幸せに造られた。本当に喜びの存在として造られましたから、ごく自然に 造り主である主を、喜びたたえたい気持ちで 幸福にみちあふれていました。
中世の教父と言われる アウグスチヌスは 「告白」という 有名な書の中で 次のように書いています。
「人間は、あなたの造り給うたものの中で 取るに足らぬものであるが、あなたを讃えようとする。実は、あなたがうながし給うので、はじめて、人間はあなたを讃えて喜ぶのである。」
人間は造られたものの中で、まことに小さいものでありますが しかし、すべての造られたものを動員し、すべての被造物を代表して、神をほめたたえるべく 置かれているものであります。と 言っているんです。そこに、人間の 一切の被造物に勝る位置があるわけです。
しかし、人間は、その賛美を失ってしまった。いや! 賛美は持っている、けれども、その方向を全く取りちがえてしまった。
本来、神をほめたたえるべく造られたものである。そのゆえに、その造り主のすばらしい御業を
ほめたたえるべきであるのに、神をほめたたえないで、自らをほめたたえる方向に、まちがえてしまいました。これが人間の罪の方向なんです。
神によって置かれた位置からずれた姿です。
神の御名をほめたたえるはずであるのに、自分の名があがめられることを求め、競い合って、己の名の誉れを求め合うのであります。
即ち、人間は、神に与えられたあるべき場からはずれ、己が名を賛美する方向に、方向ちがいをしてしまったのであります。
そうして、エデンの園は楽園ではなくなり、人間の前から消え去ってしまったのであります。
喜びと賛美は消え失せ、人間は互いに自分の名誉を求め、ぶつかり合っています。
それなのに この詩篇の作者は「わがたましいよ、主をほめよ。」と、いう。どうして、そう言い得るのでしょうか。
ここに、何か、大きな出来事がなければならない。
罪ある人間自身ではどうにもできない。
この作者自身に、どのような出来事があって、この深い信仰を持つことができたのか、1節から22節までをじっくり読むと、作者の姿が随所に出ています。
13節には、父がその子を憐れむように、主は、主を恐れる人を、憐れんでくださる。
17節には、主の慈しみは世々とこしえに、主を畏れる人の上にある。と、あります。
私たちは、この詩篇を「私の歌」として読もうとする時、そこに、どうしても、イエス・キリストの十字架を立てて、それを通して読まざるを得ないのであります。
その時、たしかに、この歌を、私の歌として、賛美の歌として、読んでゆくことができるでしょう。
そこには、クリスマスの出来事が必要でありました。
神が人の姿をもって、人間の世に生まれて下さった。
神の子としての姿をもって、イエス・キリストは人間の罪を負って十字架に死んで、神の愛を与えて下さったのであります。
こうして私たちは、罪ゆるされた神の愛を受けて、主をほめたたえたいのであります。この作者のように「わがたましいよ、主をほめたたえよ。」と、よろこびの賛美を上げてクリスマスを迎えましょう。
アーメン ハレルヤ
穏やかな初冬の土曜日の午後、スオミ教会家庭料理クラブは「おばあちゃんのスパイスケーキ」を作りました。
最初にお祈りをしてスタートです。
数種類のスパイスを加えて作る、シンプルで軽い出来上がりのケーキは、参加の皆様のアイディアで、表情の違う素敵なケーキに仕上がりました。
ヨウルトルットゥとスパイスの香るグロッギと一緒に、ピックヨウルを楽しみました。
おしゃべりも一段落したころ、パイヴィ先生からフィンランドのクリスマスの楽しいお話や、
参加の皆様の質問に、たくさん答えて頂いたり、
忘れがちなクリスマスの本当の意味を、聖書の一節と共に教えて頂きました。
Hyvaa Joulua !皆様、よいクリスマスをお迎えください。
今日皆さんと一緒に作った「Mummon maustekakku」の日本語の訳は「お祖母さんのクリスマス・スパイスケーキ」です。このケーキはフィンランドの多くの家庭で作られるクリスマスケーキの一つです。このケーキを作ると、シナモン、クローブ、オレンジの皮、カールダモンの香りが家中に拡がって、クリスマスが近づいていることを香りで感じます。フィンランドではクリスマスケーキは飾りつけるケーキではなくて、パウンドケーキやデーツケーキ、それに今日作ったスパイスケーキみたいなものが多いです。このようなケーキは何日間か冷蔵庫や冷凍庫に入れておくと味がもっと良くなるので、クリスマスの前に早めにアドベントの期間に作っても良いものです。フィンランドではクリスマスのためにいろいろお菓子や料理を早くから作るので、アドベントは忙しい期間になります。
ところでアドベントとはどんな意味でしょうか?キリスト教会では、クリスマスの前の4週間をアドベントと呼びます。アドベントはラテン語から来た言葉で、「主イエス様が来られるのを待つ」と言う意味があり、クリスマスを迎える準備をする期間です。このラテン語に基づいて世界中の言葉で殆ど同じ言い方をします。例えばフィンランド語でAdventtiと言います。この言葉は日本語の訳もあります。それは「待降節」と言います。この前の日曜日にアドベントの期間に入りました。それはアドベントの第一の日曜日でした。明日はアドベントの第二の日曜日です。
クリスマスの季節は楽しいことが多い、独特の雰囲気があるとても素敵な季節です。しかし、残念なことに最近少しいらいらを感じることが一つあります。それは、毎年クリスマスの準備がどんどん早く始まることです。昔、クリスマスを迎える準備はアドベントに入ってから始めましたが、今は11月から町にクリスマスの飾りが見られます。早いところでは10月にクリスマスセールの広告が出たり、クリスマスケーキの注文を始めたりします。フィンランドではクリスマスの前に職場でクリスマスのお菓子やクリスマス料理を出す習慣がありますが、最近はこれも早くなって11月に入ってから行うところも出てきました。それでクリスマスの時には、人によってはクリスマス料理やお菓子を何回も飽きるくらい食べてしまうことになります。このような状態に慣れてしまっては、本当のクリスマスの時には特別な雰囲気もなくなって、クリスマスの本当の意味は失われてしまいます。
このようなことにならないために、クリスマスの季節に入ったら、今から2千年前の一番最初のクリスマスの出来事を聖書で読んだり、その出来事を心の中で思い巡らすことは大事だと思います。聖書に最初のクリスマスの出来事、イエス様の誕生について書いてある有名な箇所があります。「ルカによる福音書」の2章1-20節です。19節にはイエス様の母マリアについて次のように書かれています。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」母マリアはイエス様の誕生の前に天使から聞いた預言の言葉や実際に起きたことをすべて心に収めて、ずっと心の中で思い巡らしました。これらのことは、きっと一生忘れないことだったでしょう。
クリスマスを前にした私たちはどうでしょうか?私たちはクリスマスの準備や楽しみで忙しくて、クリスマスの本当の意味を心の中で思い巡らす時間を持つでしょうか?最初のクリスマスの時にお生まれになったイエス様とは何者で、なぜこの世に送られたのかを心の中で考えてみることは大切ではないでしょうか?イエス様を送られた神様は人間の罪を赦して下さる神で、私たち人間にそのような愛を示してくださいました。私たち人間が罪の力から救われるためにイエス様をご自分のもとから送られ、イエス様はマリアから人としてお生まれになりました。これがクリスマスの本当の喜びです。このことを今年の待降節の期間に毎日思い巡らしましょう。そうすれば、クリスマスの日に心は本当に喜びで満たされます。皆さんにとって、今年のアドベントとクリスマスが神様の与えて下さる喜びであふれる時になりますように。
先週ポウッカ先生たちと山梨県の清泉寮に行ってきました。以前吉村先生から伺ったとおり施設の創設者ポーラッシュ博士の銅像が富士山を向いていて背面に詩篇121の冒頭が刻まれていたのを確認しました、とても感動しました。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と教会に繋がる皆様を見守り、皆様も神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように、そして皆様お一人お一人の日々の歩みと生活の上に神が豊かに祝福を与えて下さるように。
本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに「入城」する場面です。毎年お話ししていることですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書が読まれる際、群衆の歓呼のところまでくると朗読はいったん止まります。そこでパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆一同一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、教会の会衆が当時の群衆になり代わって歓呼の言葉を歌で歌うということです。同じ歌を私たちも先ほど歌いました。この歌は、実にフィンランドやスウェーデンでは教会讃美歌集の一番目の歌です。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい年を元気よく始める雰囲気に満たされます。時差があるので、あと7時間位したら(スウェーデンは8時間あと)かの地でもこの歌が響き渡るでしょう。右にある写真をクリックすると、フィンランドのエスポー教会の礼拝で歌われた「ダビデの子、ホサナ」を聴くことができます(ユーチューブ)。
ところで、先ほど皆さんと一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、今日は北欧の教会のように聖書朗読の途中で歌いませんでした。朗読の後でした。どうしてかと言うと、今年の日本のルター派教会の待降節第1主日に定められた福音書はこのルカ19章でして、そこではマルコ、マタイ、ヨハネとは異なり、群衆の歓呼の中に「ホサナ」の言葉がありません。それで、この歌で聖句の朗読にかえるのはちょっとよくないと思い、今回は聖句を一通り読んでいただいた後で歌うことにした次第です。それでは、マルコ、マタイ、ヨハネ福音書の群衆の歓呼に「ホサナ」があるのに、どうしてルカ福音書にはないのでしょうか?ルカは書き忘れたのでしょうか?
これも毎年お話ししていることですが、手短に振り返ります。まず、「ホサナ」というのはアラム語の言葉で(הישע-נא、ギリシャ語ωσαννα)、もともとはヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ(הושיעה נא)」から来ています。意味は「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」です。ヘブライ語は旧約聖書の言葉ですが、アラム語というのはイエス様の時代の現在のパレスチナの地域で話されていた言葉です。ヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ」がアラム語に訳されて「ホサナ」になりました。そういうわけで、この言葉はもともとは天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味でした。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。
どうしてルカ福音書にはこの、王を迎える歓呼の言葉が抜け落ちたのでしょうか?これは4つの福音書がどのようにして出来たかというとても大きな問題に関わるので、ここでは立ち入らないで、「ホサナ」がルカにないことをどう考えたらよいかについて簡単に述べておきます。この福音書と使徒言行録の記者とされるルカは、イエス様のことをユダヤ民族という一民族の枠を超えた全人類の救い主であるという観点を他の福音書より強く出す傾向があります。それなので、イエス様を「王」と呼ぶ時も、全世界の「王」という意識が強くあったと思います。「ホサナ」というのは、今申しましたようにユダヤ民族が自分たちの王の凱旋の時に使う歓呼の言葉でした。それでルカにしてみれば、群衆の歓呼を記述する際、イエス様は神から祝福を受けて神の名において到来する王であるということが読者に伝われば、それで十分。あえてイスラエルの民族性を出さなくても良しとしたと考えられます。もちろんマルコとマタイとヨハネも、イエス様を一民族の王に留める意図はなかったでしょうが、彼らは直接耳で聞いたこと、あるいは手にした史料にできるだけ忠実たろうとして「ホサナ」を削除しなかったのでしょう。
さて、エルサレムに入城したイエス様は群衆に王として迎えられました。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の首都に凱旋する時は、大勢の家来や兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちだったでしょう。ところが、この王は群衆に取り囲まれてはいるが、子ロバに乗ってやってくるのです。読む人によっては、これは何かのパロディーではないかと思わせるかもしれません。この光景、出来事は一体何なのでしょうか?
実はこれはパロディーでもなんでもないのです。毎年お話ししていることですが、大事なことなので簡単に振り返ってみましょう。
イエス様は弟子たちに、まだ誰もまたがっていない子ロバを連れてくるように命じました。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的のため用いられるという意味です。もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのです。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?
このイエス様の行為は、旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味します。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言がありました。
「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」とありますが、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者(צדיק)、神から力を得て勝利する者(נושע)、へりくだった、みすぼらしい者(עני)
です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です。「神から力を得て勝利する者」というのは、今引用した個所にあるように、神から力を得て世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。「へりくだった、みすぼらしい者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍の元帥のように威風堂々と凱旋するのではなく、子ロバに乗ってとことこやってくるというのです。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。
「神の神聖な意志を体現した義なる者」が全世界を神の意志に従わせる、そのような世界をもたらすという預言は、旧約聖書の有名なイザヤ書11章1-10節にも記されています。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」
このように危害とか害悪というものが存在せず、全てにおいて神の守りと正義が行き渡っている世界はもうこの世のものではありません。聖書の観点では、これは今の世が終わった後に到来する新しい世です。イザヤ書や黙示録に預言されている、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造される時に到来する世です。その新しい世に相応しく完全な正義を実現する「エッサイの若枝」。それは何者なのか?エッサイはダビデの父親の名前ですので、ダビデ王の家系に属する者を指します。つまり、イエス様のことです。やがて、今の天と地にかわって神の意志が隅々まで行き渡る新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に完璧な安全と完全な正義を実現するのがイエス様ということです。
そうすると、一つ疑問が起きます。確かにイエス様はこの世に送られてエッサイ・ダビデ家系の末裔に加えられた。また神の霊を受けて、神の意志や神の国つまり将来到来する新しい世について人々に教えた。そして、子ロバに乗ってエルサレムに入城した。確かにこれらの預言は成就したとわかりますが、しかしながら、イエス様がこの世におられた時に軍事力が無力化する世界、危害も害悪もない世界、神の意志が隅々まで行き渡る新しい世はまだ来なかったのではないか?従って、預言は完結しなかったのではないか?
実は、これらの預言はイエス様が再臨つまり次に来られる時に実現するもので、外れたということではないのです。イエス様が最初に来られた時、預言の一部は実現したが、それは預言全体の実現が開始されたということで、イエス様の再臨をもって全てが完結するというものなのです。イエス様は最初に来られた時、無数の奇跡の業を行いましたが、これも害悪や危害がない世界、新しい天と地の世界がどういうものであるかを人間に垣間見せる意味がありました。
しかしながら、イエス様を歓呼で迎えた弟子たちや群衆は、神の大事業が全世界・全人類に及ぶものとは見通せていませんでした。彼らは、子ロバに乗って凱旋するイエス様をみてゼガリア書の預言の成就とはわかっても、彼らにとってイエス様とはあくまでもユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくれる自分らの民族の王でしかありませんでした。そういうふうに、旧約聖書が真に意図していたことと当時実際に理解されたことのギャップはとても大きなものでした。しかし、それはいたしかたのないことでした。一方でバビロン捕囚からユダヤ民族が辿った苦難の歴史があり、他方で旧約聖書にメシアと呼ばれる神に聖別された王についての預言があり、そうなるとメシアに民族解放の期待を結びつけてしまうのは容易なことでした。メシアというのは本当は、所属する民族に関係なく人間を罪と死の支配から解放してくれる、まさに全ての人間にとっての王であるという正しい理解は、イエス様の十字架と復活の出来事を待たなければなりませんでした。
イエス様は全ての人間を罪と死の支配から解放してくれる王であるという時、それはどのようにして起こったでしょうか?イエス様は神の子でありながら、否、神の子であるがゆえに、これ以上のものはないというくらい神聖な生け贄になって十字架の上で自分の命を捧げて、人間の罪を神に対して償って下さいました。人間の罪の償いにこれ以上の犠牲は存在しないのです。人間は自分の身代わりになって死なれたイエス様を救い主とわかって洗礼を受けると、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦して下さいます。神が罪を赦すというのはどういうことかと言うと、わが子イエスを救い主と信じる信仰のゆえにお前をイエスの犠牲に免じて罪に定めないことにする、罪はさもなかったことのようにして不問にする、だからお前はこれからは赦された者として相応しく生きなさい、ということです。神からこのように罪の赦しを受けることで人間は、それまで断ち切れていた神との結びつきを回復し、その結びつきの中でこの世を生きることになります。イエス様の十字架の業のおかげで、罪が人間に対して持っていた力、神との結びつきを引き裂く力は本当に無力になったのです。
それだけではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を人間に開かれました。こうして神から罪の赦しを得て神との結びつきを回復した者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになります。その間神から絶えず守りと良い導きを得られ、万が一この世から死んでもその時は自分の造り主である神の御許に永遠に帰ることができるようになりました。このようにイエス様は、罪と死が人間に揮っていた力を打ち砕きました。イエス様は真に罪と死の上に立つ方です。何ものにも支配されない方です。
このように、イエス様は一民族の王なんかではなく、全ての人間の王、全世界の王、文字通り救世主なのです。そのことがはっきりするのは、十字架と復活の出来事の後でした。先ほどのゼカリア書9章やイザヤ書11章の理解の仕方からも伺えますが、旧約聖書を読む時、十字架と復活を通して読むか、通さないで読むかによって大きく意味が変わってきます。通さないで読むと、預言は一民族の王を言っていることになります。イエス様も当時そのように理解されてしまったのです。
同じことが本日の旧約聖書の日課エレミア書33章についてもよく当てはまります。15節に「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」とあります。「彼は公平と正義をもってこの国を治める」と言うと、ユダヤ民族の国を正しく統治する王様です。神がダビデのために生え出でさせる正義の若枝というのは、かつて滅亡したダビデ王朝の王国を再興させる、若枝のような勢いのある王様です。これはどう見ても、ユダヤ民族の王国が理想的な王様の下で再興されるという預言です。しかし、そのようなダビデ王朝の王国はバビロン捕囚の後は実現しませんでした。そうすると預言は実現しなかったことになります。
ところが、15節の預言はヘブライ語の原文を見ると、このようなユダヤ民族の理想的な王の到来を意味する内容にはとどまらないのです。この節は辞書に出ている単語の意味を見ても、もっと大きな内容を含んでいます。新共同訳で「この国を」と訳されている言葉(בארץ)は「地上に、全地に」という意味も持っています。ユダヤ民族の国に限定されません。「公平」(משפט)と訳されている言葉も、辞書の筆頭の意味は「調停して確立された正義」です。人間の罪のゆえに神と人間の間に戦争状態があったのが、イエス様の犠牲の上に両者に平和がもたらされたことを思い出しましょう。「正義」(צדקה)と訳されている言葉ですが、これはまさに「義」、神に義とされること、神の前に出されても大丈夫と見てもらえることです。イエス様の十字架の業のおかげで罪ある人間がそのような義を持てるようになったことを思い出しましょう。以上を踏まえると15節の訳はこうなります。「彼は、この地上で神と人間の不和状態を調停し、義を実現する。」これはもう一民族の王ではありません。まさに全ての人間の王、全世界の王、救世主です。
それでは、どうしてこの聖句はそのように訳されなかったのでしょうか?それは、訳す人が歴史に沿った訳を選んだからです。歴史に沿った訳とは、エレミアの時代というのは国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡する時代で、当時ダビデの家系から将来全世界の人間を罪と死から解放するメシアが出るなどとは誰も考えていないだろう、当時の人たちとしては国を再興してくれる王を待望しただろう、そういうふうに当時の人たちの観点に立って訳したのです。これは実に難しい選択です。歴史に沿った訳をしないと、預言が宣べられた歴史状況がわからなくなってしまいます。歴史状況を踏まえないで理解しようとすると、どんな身勝手な解釈も可能になります。それでも、十字架と復活の出来事がある以上は、天地創造の神の意図は全ての人間の罪と死からの救いであるということは動かせません。神は全ての人間に及ぶご自分の意図をご自分が選んだユダヤ民族の歴史を通して知らせていたのです。そういうわけで旧約聖書を繙く時は、歴史に沿う読み方をしても、十字架と復活に象徴される神の愛があることを心に留めて読むことが大切です。
終わりに、イエス様が若枝にたとえられることがいかに私たちに生きる希望を与えるかについてお話したいと思います。若枝の預言は先に見たようにイザヤ11章と本日の旧約聖書の日課エレミア33章にありました。同じ預言はエレミア23章にもあります。
イザヤ11章で若枝とか芽が出てくるのは、エッサイの切り株とか根とか呼ばれるものです。これはどういうことかと言うと、イザヤ書6章に、ユダヤ民族が王から国民までこぞって神の意志に反する生き方をしたことに対する罰が宣べられます。外国に攻められて国は廃墟となり、その様は大木が切り倒されて切り株しか残らないような無残な状態になると預言されます。歴史上それは最終的にバビロン捕囚の時に起きてしまいました。ところが、イザヤ6章の一番終わりを見ると、残された切り株は「神聖な種」になると言われています。イザヤ11章やエレミア書に言われる若枝とは、この廃墟の切り株から生え出てくるのです。歴史の只中に生きていた人たちは、将来の国の復興を預言していると受け取ったでしょう。ところが本当は、神は全ての人間を罪と死の力から救い出して、その上で完璧な安全と正義のもとに招き入れてくれるメシアをこの無残な廃墟の中から起こして下さったのでした。希望の潰えたところに真の希望を打ち据えたのです。
焼け落ちた森の中、切り倒された大木もその切り株も全て水気も生気も失ったままうち捨てられている。そこの一つの切り株の上に小さな茎が小さな緑色の葉をつけて足を据えるようにして立っている。水気と生気があり、これから大きく成長することが誰の目にも明らかである。彼が大いなる者になりますように、そうすれば私たちも蘇るのだから。果たして彼はそのような者になった。ただ、それは人々が思い描いていたのとは違う仕方ではあったが。彼は、私たち人間に神との結びつきを取り戻すために自らを十字架の死に引き渡し、そして神の力で死から復活させられたのだ。彼を救い主と信じる信仰に生きる者は、この切り株の上に萌え出た若枝を心に持つのである。
それだけではない。心にこの若枝を持つ者は、今度はこの若枝と同じように育ち始めるのだ。かつて神の意志に反する生き方をして罰を受けたイスラエルの民のようにもう切り倒されることはない。なぜなら我々は、このひとり子の業のおかげで罪と死の力から解放されて神の目に義とされているからだ。しかしながら、神から罰は受けなくとも、今度はその代わりにこの世から反発を受ける。例えば、なぜ先祖伝来の霊に拠り頼まないで、よそ者に拠り頼むのか、と。しかし、自分の造り主はよそ者ではないのだ。また、なぜ神の目に正しく生きようなどとするのか?なぜ長いものに巻かれないのか?なぜ空気を読まないのか?なぜ忖度しないのか?そうすれば、その日必要な分以上のパンをたっぷり保証されるのに。正しく生きるためにその日の分以上はいらないなどとは、欲なしのお人好しもここまでくると救いようがない、と。しかし、本当に救いようがないのはどちらだろうか?
神に守られているので決して倒れることのない木とは言えども、大きくなればなるほど、確実に雨風により多くより激しく晒されます。しかし、大きくなればなるほど、完璧な安全、完全な正義に届く日は確実に近くなります。エッサイの切り株と根の上に萌え出たものは必ずその日を迎えられる。そう天地創造の神は約束されているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
説教2018.11.25. 「わたしの言葉は決して滅びない」 マルコ13:24−31 初めに古い目覚まし時計について話させていただきたいと思います。 私たちのフィンランドの家は81歳(築81年)ですが、その家の机の上においてある目覚まし時計はそれよりもっと古いのです。その大きな時計の後ろに面白いことが書いてあります。「これは一番よい目覚まし時計です。」そして、故障(こしょう)した時のために、電話番号も書いてあります。その電話番号は「75」だけです。そのころ、電話はきっと貴重品(きちょうひん)だったでしょう。今、もしこの時計が止まって、電話番号 「75」をまわしても、返事はないと思います。この約束は、もう信頼できません。
また、その目覚まし時計はたいてい朝七時に大きいな音で 「ピルル」と鳴りました。まるで人の声のようでした。私は子どもっぽいかもしれませんでしたが、その大きな声が怖くなって、いつもその音がする少し前に起きました。六時五十分ごろでした。
時計屋さんの約束は限りなく信頼できませんが、聖書は信頼できるみ言葉ですので、それを読みましょう。今日の聖書の箇所には、三つの大切な教えがあると思います。1.イエスが来てくださる 24「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
26そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
私たちはキリストの再臨を待っています。 世の終わりにキリストは栄光の中に出現し、全ての死人を復活させるのです。その時、義人の体はキリストの栄光の体のように変えられるのです。 「その日は、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(マルコ13:32)。 )。「死者の復活もこれと同じです蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(第一コリント15:42−44)。イエスはまた来てくださいます。イエスを信じるものにとって、これは信頼できるよい約束ですが、イエスを信じないものにとって恐ろしいことです。イエスのほかに救い主がないからです。
2.人間は将来のことを少ししか考えられませんが 28「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
天気予報はできますが、皆さんのご存知のようにそれにも時々間違いがあるでしょう。そして、世界の経済の問題はまだまだ難しいでしょう。人間の知恵には限界(げんかい)があります。 けれども、周りの状況がどうであっても、現在も未来も、私はキリスト者として、まだ恵みの時、または宣教の時をすごしています。
3.目を覚ましていなさい 30.はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31.天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
イエスの約束というのは、信頼に足る(たる)ものです。イエスはまだ来てくださいます。それは何日の何時ですが、とにかく あれ。。。キリスト者には希望があります。> 時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。> 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(第一ペテロ1:3)。> 「被造物だけでなく、『霊』の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ8:23−24)。> 「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。> > 最初に話した時計屋さんはもうその目覚まし時計を直せませんが、イエスはいつまでも、私たちのための救い主です。そのことを毎日毎日覚えましょう。イエスの言葉は決して滅びないからです。> 祈りましょう。> > あなたの御子主イエスはまた来てくださいます。私たちはそれを神の御約束として信じて待ち望んでいます。>よいニュースは、イエスが復活されたということです。これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。ペテロのように私たち一人一人に任務(にんむ)を教えてください。あなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、子どもと隣人をあなたに与えられた力によって大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
クリスマス行事の先駆けとしてマーケット(バザー)とコンサート:ポウッカ先生ご夫妻・P.ペンテイネン宣教師(ピアノ)・T.シールトラさん(独唱)が行われました。今年も大勢の方がお見えになり会場は大いに盛り上がりました。
開会に先立ち吉村先生の祈りが捧げられました。
「良い手本」
マルコ12;41−44
今年の二月、私達はイスラエルに行ってきました。とてもいい旅行でした.一週間の間にイスラエルをあちらこちらへ回って、イエスが住んでいた町と歩いていた道を見ました。これから聖書の話ももっと理解出来ました。
ある所でとっても古いだまが見つかったということを聞きました.イエスの時代のだまだったので、今日の聖書の有名な話に関係があるだまでしたか。それはよく分かりませんが、
こまかい可能性があると思います。聖書に書いてある話は、本当に、本当に歴史的なはなしだったからです。
今日の聖書の話を読むと三つのことについて話したいと思います。
初めに神様は造り主でいらっしゃいます。
また、神は霊です。
神は全能の聖なる主であって、天の栄光の中に住み、また同時に私たちに近くその愛の中に宿られています。
神はその御言によって、見える世界と見えない世界の、ありとあらゆる存在物を造られた御方です。天使はその見えない世界のものです。
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)。
「わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業」(イザヤ64:8(7))。
「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1:16)。私たちが神を父と呼ぶのは、神が万物を造り、万物を保たれるからですが、特に神がイエス・キリストにおいて、私たちをその子とされるからです。
「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にある全ての家族がその名を与えられています」(エフェソ3:14-15)。
神様は、この世の造り主です。また、私たちが神を父と呼びます。私達が持っているものは体も財産なども、全部神様に頂いた賜物です.感謝します。
次に良い手本のおしえ
今日の聖書の箇所を読みましょう。
41.イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
その時も金持ちがやっぱりいました。
42. ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
皆は金持ちではありませんでした。
43。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
44。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
イエス様は、貧しいやもめは良い手本ということを教えて下さいました。貧しいやもめは、感謝の気持ちを造り主に対して表しましたが、神様に信頼する気持ちがあったと思います.神様に頂いた者を、少し返しました。私達にとっても、良い教えです。
。
どうして感謝の気持ちをあらわすのか。
イエスの御業は感謝の一番の元です。
イエスの御業
イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。
イエスの生涯の一日については、マルコ1:21-34を読んで下さい。
またイエスがナインの寡婦の息子を甦らせた事については、ルカ7:2-17を読んで下さい。
「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちところに来ているのだ」(ルカ11:20)。イエスは良い業ばかりして下さいました。特に、イエスは私達のために苦しました。
贖罪(贖い)と宥めの教えです。
父からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。
「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(ヨハネ17:4)。
イエスの御業によって、私達は喜びを持って、永遠の命の希望も持っています。それに従って、 奉仕への贖いが生まれます。
.奉仕への贖い
神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。
まとめて、貧しいやもめの手本に従って、奉仕への贖いを持って、神様に信頼して奉仕しましょう。 アーメン
フィンランド賛美歌:447 キリスト 世の光
子供祝福式
クリスマスカラーのピラカンサスも色づいてきた土曜日の午後、スオミ教会家庭料理クラブでは、クリスマスのパンjoululimppuとサーモンスープを作りました。最初にお祈りをしてスタートです。
Joululimppuはドリンクタイプのヨーグルトやスパイスにシロップ等を使って仕込むフィンランドらしい一品。たっぷりのライ麦粉も使うので、重たい生地を頑張って捏ねました。
発酵させてる間に、今度はサーモンスープ作りです。沢山のじゃが芋に人参、玉ねぎが手際よく準備され、大きなお鍋いっぱいにサーモンスープは完成しました。
賑やかに試食会は進み、パイブィ先生からは、フィンランドのパン事情や、聖書のお話を聞かせて頂きました。
参加の皆様、お疲れ様でした!
今日皆さんが作った「joululimppu」はフィンランドの伝統的なクリスマスのパンで、私のお祖母さんもお母さんも作っていました。フィンランドのクリスマスの食卓にはいろんな種類の料理を作りますが、それでも、もし「joululimppu」がなかったらあまりクリスマスの料理の感じがしなくなります。特に昔は「joululimppu」はとても重要でした。クリスマスお祝いのためにフィンランド人はクリスマスの前にお菓子や料理を沢山作ります。一番初めにクッキーやケーキを作って、最後にクリスマスの少し前に「joululimppu」を作ります。出来たての「joululimppu」は一番美味しいからです。今はまだ11月の初めで、クリスマスの季節、アドベントが始まるまで3週間くらいあります。今日「joululimppu]を作ったのは少し早かったのですが、クリスマスが近づいたら、ぜひまたお家で作って下さい。
今日はフィンランドのパンについて少しお話ししたく思います。パンはフィンランド人の食卓の中で最も重要な食べ物です。特に昔の人たちはパンの重要性をよく知っていました。もしパンがないと、もうそれはご飯にならない、と言うくらいパンは食事の重要な一部でした。それならば、昔の家庭の食事にいつもパンがあったかと言うと、そうではなく、年によって麦の収穫は良い時もあれば悪い時もあって、悪い時は麦は不足しました。麦の収穫は人間の努力と関係なく、天候に左右され、それは天の神様のみ心でした。それでフィンランド人は食事にパンがあることを天の神様に感謝したのです。パンは神様からいただくものと子供たちは教えられて、まず神様に感謝していただきました。このため、「子どもたちはパンを手に持って走ってはいけない」とか「パンを口に入れたまま話してはいけない」と教えられました。
かつてパンと言う言葉は、食べ物一般を意味する言葉としても使われました。例えば、「家にはパンはもう殆どありません」と言うと、それは「家には食料品は殆どありません」という意味でした。このようにパンはフィンランド人にとって重要な食べ物でした。日本人には、どの食べ物が同じように重要でしょうか?やはり、お米でしょうか?
現代のフィンランド人の毎日の食事の中でパンはまだ重要な食品の一つです。パンの重要性は毎年秋に行われる「パンの週」という全国的な行事によっても示されます。今年の「パンの週」は9月10日から16日までありました。この週全国のパン工場はお店に新しい種類のパンを出して、多くの人たちが買うように宣伝します。フィンランド人が食べるパンは小麦粉で作るものだけではありません。パンの生地によく入れる粉類としては、ライ麦、全粒粉があります。その他にいろいろな種やすりおろした野菜なども入れます。このためパンにはエネルギーの他にミネラルやビタミン、繊維も沢山入っています。酸っぱくて黒いライ麦のパンもあります。それは今でもよく食べられるパンです。他にもパンの種類は沢山増えたので、お店で買う時、選ぶのは難しくなりました。ところで、去年フィンランド人はパンを一人当たり41,5キロ食べました。
食事のパンは私たち人間にとって大事なものですが、新約聖書の「ルカによる福音書」にはイエス様がパンについて言われた有名な言葉があります。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」です。イエス様はこの言葉をどんな意味で言われたでしょうか?
パンや他の食べ物は私たちが生きるために重要なものです。これらは毎日食べていると、得られるのが当たりまえになってしまいます。でも、本当はこれは神様が良いみ心を示して私たちに与えて下さるものなので、私たちは食べ物を神様に感謝しなければなりません。さらにイエス様は、パンよりもっと大事なものがあると言われます。それは、食べ物を与えて下さる神様の口から語られる一つ一つの言葉です。 神様の口から出る言葉とはどんな言葉でしょうか?聖書を読むと神様の言葉に触れることが出来ます。聖書を読むと、神様はどんな方なのか、神様の人間に対する愛がどれだけ大きいかを知ることが出来ます。神様の人間に対する愛は、たとえこの世が終わっても終わらないくらい強い大きな愛であると聖書は教えています。その強い大きな愛についてイエス様は次のように教えました。「神は、その独り子のイエスをお与えになったほどに、この世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3章16節にある有名な言葉です。パンが私たちの体に栄養を与えるならば、神様の言葉は私たちの魂に栄養を与えてくれます。だから、人はパンだけで生きるのではなくて、神の口から出る言葉で生きるのです。
来月に私たちはクリスマスをお祝いします。クリスマスの本当の意味は聖書の御言葉から知ることが出来ます。それがわかると、クリスマスの食事もプレゼントも本当は神様に感謝して頂くものになるでしょう。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所の直前にですが、サドカイ派とよばれるユダヤ教の一派とイエス様の間の論争がありました。そこでは、死者の復活ということは起こるのかどうかが議論になりました。復活などないと主張するサドカイ派を、イエス様は旧約聖書にある神の御言葉に基づいて打ち負かしました。決め手になった御言葉は出エジプト記3章6節でした。神がモーセに自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗ったところです。モーセから見たらアブラハムもイサクもヤコブも何百年も前に死んでいます。これがどうして復活が起こることの根拠になるのでしょうか?
イエス様は神のことを「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言います。それは神というのは生きている者に属するもの、生きている者が持てるものであり、死んだ者は持てないという意味です(「死んだ者」、「生きている者」の属格形νεκρων、ζωντωνを所有、所属の意味に解すればよいわけです)。アブラハムは死んだはずなのに、神は自分のことをアブラハムの神、つまりアブラハムに属する神、アブラハムが持てる神であると言われた。これは、まさに死からの復活が起こるので、アブラハムは復活の後、永遠の命を持って生きることになり、それで神は生きるアブラハムの神となるわけです。そういうわけで出エジプト記3章6節は復活を前提にしている御言葉で、イエス様はサドカイ派に、お前たちは一体どこに目をつけて聖書を読んでいるのだ、とあきれているのです。
この復活はあるのかどうかという論争は他にも論点があって、それもイエス様はサドカイ派をギャフンとさせますが、詳しくはマルコ12章18ー27節をご覧ください。
さて、この論争の一部始終をみていたある律法学者が、このイエス様こそ神の御言葉を正確に理解する方だと確信して聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは、「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。
なぜこんな質問が出てくるのかというと、律法学者というのはユダヤ教社会の生活の中で起きてくる様々な問題を律法すなわち神の掟に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりませんでした。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟としては、まず私たちが手にする旧約聖書の中にあるモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒がありますが、それ以外にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな犠牲の生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。それだけでもずいぶんな量なのに、この他にもモーセ五書みたいに文書化されないで、口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれです。ファリサイ派という別のグループはこちらの遵守も文書化された掟同様に重要であると主張していました。
これだけ膨大な量の掟があると、何か解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、そういう問題は頻繁に起きたと思われます。それだけではありません。膨大な掟に埋もれていくうちに、次第に何が本当に神の意思なのかわからなくなっていき、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きたのです。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養の義務を免れるというような言い伝えの掟がありました。イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判しました(マルコ7章8ー13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実なものだったわけです。それは、現代を生きる私たちにとっても同じだと思います。
イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様は「第一」に続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。二番目に重要だから、少し重要度が低いかというと、そうではなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟であるということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてくる、ということです。
この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。十戒は皆様もご存知のように、初めの3つは、天地創造の神の他に神をもったり崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、でした。この3つの掟は神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の所有するものを妬んだり欲したり損なったりしてはならない、また隣人の妻など隣人の家族を構成する者を妬んだり欲したり損なってはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間の関係を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。
このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということになる。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになるというのです。
さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿を参拝して規定通りに生け贄や貢物を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神を全身全霊で愛することがなければ、また隣人を自分を愛するが如く愛さなければ、そんなものは神からみて何の意味もなさない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者が真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」
これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、実は全然そうではないのです。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」と言っています。「神の国に入れた」とは言っていません。「神の国に入れる」というのは、どういうことでしょうか?それは、人間がこの世から去っても、復活の日に目覚めさせられて輝かしい復活の体を着せられて自分の造り主の神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。その結果、今のこの世の人生と次に来る新しい世の人生の二つを合わせた大きな総合的な人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への全身全霊の愛、二番目に重要なのは隣人愛である。それらをより具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらをちゃんと土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。
それでは、どのようにすればイエス様が教える神への全身全霊の愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それらの実践は果たして可能でしょうか?
イエス様が教えた2つの重要な掟が実践可能かどうか、まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきましょう。全身全霊で愛する、などと言うと、男と女の熱烈恋愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。相手は、全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、かつひとり子イエス様をこの世に送られた父なるみ神です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?
その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても唯一の主として保たれるように心と精神と思いと力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということ。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外に自分の命が委ねられているなどと微塵にも考えないこと。自分が人生の中で受ける喜びを感謝し、苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないこと。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったりした時には、すぐこの神に赦しを乞うこと。以上のようにする時、神が唯一の主として保たれます。
実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然には備わっていません。私たちに備わっているのは、神への不従順と罪です。それでは、どのようにしたらそのような愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで生まれてきます。それを知れば知るほど、神への愛は強まってきます。それでは、神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。ところが悲しむべきことに、人間が自ら引き起こした神への不従順と罪のために神と人間の結びつきは失われてしまいました。しかし、神はこれをなんとかして回復させようと決意されました。まさにそのためにひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして本来なら私たちが受けるべき罪の罰を全部イエス様にかわりに受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。もし人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神からの罪の赦しがその人に対してその通り本当のものになるのです。神から罪の赦しを受けた者として、その人は神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩むことができ、万が一この世から死んでもその時は神の御許に御手をもって引き上げられ、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるのです。
このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかった時、神を愛する心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。
次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?
隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべるでしょう。しかし、人道支援という隣人愛は、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、また無信仰者・無神論者でもできるということは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたが、神への全身全霊の愛に基づいているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。もし、別に神なんか他にもいろいろあったっていいんだ、とか、聖書の神はたくさんある神々のうちの一つだ、という考えで行ったとしても、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。
イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っているように、自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないようになっています。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくてもいい、一般的な当たり前の倫理になります。そこでイエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。
イエス様は隣人愛を述べた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは、隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えています(マタイ5章43ー48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別つかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、そういう包括的な「隣人」の中の誰かが危害を加えたり、迫害をすることも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者が愛するとはどういうことなのでしょうか?
イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と述べました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったりしたら、彼らは一気に滅び去ってしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が悔い改めて、神のもとに立ち返ることを望んでいて、それが起きるのを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に向かう道を歩む群れに加わる日を待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、なにか無原則な気前の良さを言っているのでは全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。
ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の支配下から救い出すために十字架にかけられる道を選ばれたのは、全ての人間に向けられてなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて、「罪の赦しの救い」を受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられますが、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害者を滅ぼして下さい」とお祈りするのは、神の御心に適うものではありません。もし迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが遠回りかもしれませんが効果的かつ神の御心に適う祈りでしょう。
このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかを知れば知るほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心が生まれてきます。神がしてくれたことの大きさを知れば知るほど、敵や反対者というものは、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。敵や反対者は、神が受け取りなさいと言って差し出してくれている「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになっていきます。
こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかってきます。つまり、神は御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに私のことを愛して下さった。私はそれくらい神の愛を受けている。私はこの受けた愛にしっかり留まり、これから離れてしまったり失ってしまったりしないようにしよう。これが「自分を愛する」ことになります。つまり、神の愛が注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように祈ったり働きかけたりすることになります。隣人がキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中にしっかり留まれるようにすることです。
最後に、イエス様が教えた二つの重要な掟がちゃんと実践できない場合はどうしたらよいかについて一言述べておきましょう。信仰者といえども、やっぱり自分は神を全身全霊で愛していない、隣人を自分を愛するが如く愛していないことに気づかされることは日常茶飯事です。特にイエス様は、十戒の掟は外面的に守れてもダメ、心の有り様まで神の意思が実現していなければならないと教えました。そのため使徒パウロは、十戒というものはつまるところ、守れて自分は大丈夫と思うためにあるのではなく、守れない自分を映し出す鏡のようなものだと教えました。そうなると私たちは永久に神の掟を実現することはできず、知識で知っている状態に留まり、せいぜい神の国から遠くないというだけになります。
ここで次のことを思い起こさなければなりません。それは、イエス様は十字架と復活の業をもって私たちの出来ない部分を全部埋め合わせて下さったということです。それはかなり大きな部分です。この私たちの出来ない部分を埋め合わせるために、イエス様は十字架と復活の業を行ったのです。私たちはイエス様を救い主と信じて、神が提供する「罪の赦しの救い」を受け取った。それで神は、私たちがあたかも掟を完全に守れている者であるかのように扱って下さるのです。本当は掟を守り切れていないにもかかわらず、イエス様のおかげで、神の国に迎え入れても大丈夫な者とみて下さるのです。これは、真に信じられないことです!このように扱ってもらっているのに、どうして神の御心に背いていいなどと思うことができるでしょうか?このように扱ってもらっている以上は、掟に示された神の意思に沿って生きるのが当然という心になるのではないでしょうか?それでもまた守れない自分に気づかされたら、すぐ神にそのことを正直に話して赦しを願います。すると神はすぐ、あなたの心の目の前にゴルゴタの十字架を示され、あのイエスのおかげでお前は大丈夫になったのだから心配しなくてもよい、と言って赦して下さり、また永遠の命に向かう同じ道を歩み続けられるようにして下さいます。そのような神への賛美と感謝を忘れずに日々を歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
第24回 コリント信徒への手紙 7章1~7節 2018年11月4日(日)
今回から7章に入ります。読んでお分かりのように、これまでのパウロの内容や語調とは、がら
りと変わっています。表題には「結婚について」とあります。
聖書の中に、このような生活の指導のようなことまで、パウロは、なぜ書いているのでしょう。
聖書は、生活指導のための本ではありません。
聖書は、救いの本である、ということです。
ですから、重点は、救いを完うするために、というところに書かれているものです。そのことを目
ざすとなれば、人間の生活の仕方にもふれないわけにはいかないでしょう。
大事なことは、あくまでも、「救いと信仰生活」が基本になっている、ということを知っていなければならないでしょう。
パウロは、たぐいまれな伝道者でありますから、彼独特の考えで書きつらぬいています。
さて、7章1節を見ますと、「そちらから書いてよこした事について言えば」とあります。
どうも、この手紙を書く前に、パウロの手元に質問状のようなものが、きていたようであります。
それがどんなものであったか、くわしくは分かりませんが、どうやら内容については、パウロの
この返事から分かります。しかも、その内容は、6章までにふれてきた、コリント教会内の不品行の問題であったことがわかります。
パウロはこの問題について悩みました。
ということは、これは決して、小さな問題では、なかったからでしょう。
そこで、パウロは、まず始めに、その答えを表しています。男子は、婦人にふれないがよい、と言って、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい、と言っているのです。
パウロが言いたいことは、これで明らかなように、結婚生活とはどういうものか、という事を語っているのではありません。不品行な生活をしないためには、どうしたらいいか、ということであります。
なぜなら、創世記にありますように、神は、男が一人いることはよくない、と言って、女をつくろう、そうして女をつくった。こうして、男と女との生活は神がお創りになった。そこには子供もできるでありましょう。男と女とが共同生活をするために与えられた喜び、又、悲しみがあるはずであります。
パウロはここでは、不品行な生活をしないためにどうしたらいいか、ということを言っているのです。
不品行ということで様々な争い、にくしみ、悪行があったことでしょう。
しかし、パウロがいつも考えていることは、人間の、神に対する責任、ということでありました。
この生活が、神を喜ばせることであるのか、神の栄光を傷つけることになるのか、ということでありました。
パウロ自身は、7節に見られるように独身であったらしいから、何のためらいもなく、男は女にふれないがよい、と言ったのでしょう。しかし、彼自身も、それが答えになっていないことを知っていましたので、それに続いて夫婦生活のことについて書くわけであります。
しかし、ここに書いてある夫婦の生活は、普通に言われる事とは大分ちがうのであります。
パウロは、不品行の問題から出発しました。従って、夫と妻とが互いにその分を果たすことについて、語らざるを得ませんでした。不品行の問題はそれだけではないかも知れませんが、このことが基本であることは誰にでも明らかなことであります。
パウロはまず、それを言うのであります。
夫婦であるということは、各々がその分を果たすことである、といったような分かり切った事を言わねばならなかったのでありましょう。
しかし、それと同時にパウロは、それが必ずしも分かり切ったことではないと考えたのでしょう。そこに、こういう問題が起こると思ったのでありましょう。
それはパウロに言わせれば、ただの常識の話ではありませんでした。
問題は、男と女とが、自分の体をどう扱うかということにある、と言うのです。
ここまで来ると、話は常識ではすまない。
自分の体と言うが、それはほんとうに自分の体なのか、ということになります。第一に、夫婦の約束をしたものにとって、自分の体というものは何か、まことに自分ひとりのからだである、と言うことができるのか、ということになります。自分の体は自分のものであって、自分のものではないことの約束ではなかったか、とパウロは言うのです。
それが明らかなら不品行は起こり得ない、とパウロは言いたかったのではないかと思います。
不品行の問題には、当然、神がはいってくるはずであります。神がはいってきて、初めて不品行と言えるのではないでしょうか。神をぬきにした生活には、不品行ということさえないのかも知れません。
パウロは、男と女とが、自分のからだを自由にすることはできないはずである、と言っています。
それなら誰が自由にするのでしょう。相手でありましょうか。そうかも知れません。しかし、本当は神であるはずであるにちがいありません。従って、パウロはここに夫婦生活の一つの取り決めをいたしました。
5節にそのことを書いています。「互いに相手を拒んではいけません。ただ納得し合ったうえで、専ら祈りに時をすごすためにしばらく別れまた一緒になるというなら、話は別です。」
新約聖書は約二千年昔に書かれたものです。だから、昔の考えがはいってくることは止むをえません。例えばここで「祈りのためならしばらく別れても、」とあります。当時のユダヤ教の習慣ではなかったかと思われます。しかし、ここで大切なことは、祈りの生活を重んじなさい、ということであります。夫婦生活は、自由に行われて差支えないことでありましょう。しかし、夫婦生活の中で、祈りの生活が大切である、ということです。
もっと正しく言うなら、夫婦生活の中に限らず人間生活の中において、祈りを重んじなさいということでありましょう。
5節後半で、パウロはきびしいことを露骨に告げています。「あなた方が、自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。」
パウロは人間の弱さを知っておりました。男と女の関係、夫婦の生活においても、ねじれたり、わがままだったり、色々な欲に流されたりします。パウロはそれらの中で家庭が祈りを重んじていくように、どんなに願ったことでありましょう。
7節で、今日のみことばをまとめているように思います。
わたしとしては、皆がわたしのように独りでいて欲しい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのです、という。パウロは独身であったらしい。ペテロは妻があったらしい。同じ使徒として神様から伝道の使命を受けていても、パウロとペテロは神から異なった賜物を与えられたのであります。
パウロは、皆がわたしのようになって欲しいと言うのが本音であったでしょうが、しかし、誰でもがパウロのような賜物を与えられてはいない。あくまで、その人、その人に、神御自身が、その人にとって最も良い賜物を与えて下さるのですから、感謝してそれをしっかりと受けとめ、活かして、神様のよろこばれる栄光を発揮していくべきでしょう。
これが今日のメッセージであります。アーメン・ハレルヤ