説教:木村長政 名誉牧師

 コリントの信徒への手紙  第18章1~6節            2019331

                

 

 私の説教では、コリントの信徒へあてられたパウロの手紙を見てまいりました。今回は816節まで読んでいただきました。偶像に供えられた肉というタイトルになっています。

 前回まで7章は結婚に関する質問でした。

  さて、今回は、偶像に供えられた肉を食べてもいいか、ということであります。食べ物のことですが、それが肉であるとか、さかなや野菜をもっと食べた方がいいといった事ではありません。

  パウロがここでとり上げた問題は、偶像に供えられた肉によって、影響を受けている教会の中での問題であります。

  このことは、当時の人々にとって、決して小さい事ではありませんでした。パウロは、こまごました規則のようなことを語っておりません。その事についての、基本的な事を、明らかにしようとしているのです。

  コリントの教会の人々も「わたしたちは皆、知識を持っている」と思っておりました。1節で言っています。「我々は皆、知識を持っている」

  大切な事は信仰的な考え方であります。

  そうすると、この問題によって、かえって、信仰がはっきりさせられるようになるわけであります。

  そこから、どういうことが生まれるでしょうか。偶像に対する言われなき恐れから、解放されることです。その恐れを克服することです。

  手で造られ、人々が拝んでいるものの外に、自分の偶像になりやすいものがあるにちがいありません。偶像に打ち勝つということは、そのように広い意味があるのです。

  それらの事を考えるのにあたって、まず考えねばならぬことがありました。それは、偶像への供え物について知っているという「その知識はどういうものか」「その知識で大丈夫か」ということであります。そのために、はじめの3節は、知識とはどういうものかという、大変な話になりました。知っているといっても、その知識とはどういうものか、ということであります。

  まるで、哲学のような話のようなことであります。

  そのことについて、信仰の立場からはっきりさせておかねば、偶像と戦うことができないと思ったのでありましょう。信仰の上で、知るということの意味をはっきりさせなければ、自分たちが接する色々なことについて、それを自由に用いることは難しいであろうと思われます。

 

  コリントの教会の人々が「わたしたちは、みな、知識を持っている。」と言いますと、パウロはすぐに「知識は人を誇らせる」と言いました。これは美しい言葉であります。それと同時に、誰もが、虚をつかれたような思いをするのではないでしょうか。

 

  この地方には、知識がなければ、救いを得ることができない、と言っていた人が多くおりました。パウロが言うことは、そうした人々に対する答えであるとも言えるのであります。そのような人々は別として、神を知るのにやはり知識が必要である、と思っている人も少なくないのではないでしょうか。特に偉い知識人というのではなくても、やはり神について知りたいと思う人は、決して少なくはありません。

  信仰と比べてみると、知るということが、どういうことかが、よくわかるのではないでしょうか。大事なことですが、信仰は自分の考えを捨てて、神の仰せになることを受け入れることであります。そのようにして、神に信頼するわけであります。それに対して、知識というものは、いつでも、最後には、自分が中心になります。自分が知るのですから、自分の考えで受けいれるのですから、それは、自分が中心になっても仕方のないことです。そのために、パウロが言いますように、知識

は、人を誇らせるのであります。

  ここに書いてある知識というのは、普通の知識ではなく、神を知る知識であります。

  それなら、信仰と同じように謙遜であるか、と言えば、そうじゃない、やはり人を誇らせるものである、というのであります。

  神を知る知識であっても、それが信仰にとって代わるようであれば、それは結局はやはり、その人を誇らせることになるのではないでしょうか。

  人間の小さな器の中に、神を入れなければ承知ができないのでありますから、それはやはり、傲慢になるのであります。

  だから、神を知る知識というのは、その傲慢さを捨てたものでなければならないはずであります。そうでなければ、神を知ったつもりでも、ほんとうは、神を知ったのではなく、自分の偉さを知った、ということになるのかも知れません。そういう意味で、知識は人を誇らせるのかもしれません。

 

  それなら、人間を、信仰によって生きさせるものは何でありましょうか。それは信仰である、と言ってしまえば、それまでであります。しかし、その信仰による生活のことを、ここでは愛と言っているのではないでしょうか。

  知識が、自分中心になるのに対して、愛は自分を捨てさせ、神によって生きるものにしてくれるのであります。そこで、知識に対して、愛こそは人の徳を高めると言います。

  人の徳を高める、という字は、ただ建てる、ということであります。人とは書いてないのでありますが、人であることは分かりきっていることです。

  しかし、実際は、愛は建てると書いてあるだけであります。それで、ある訳では、愛は教会を建てる、となっています。

  8章の1節には、愛は造り上げる、となっています。人間を傲慢にする知識に対して、人間を信仰によって生きるものにするのは愛であります。神を知ろうとするのと、神を愛しようとするでは、大変にちがうのではないでしょうか。

  しかも、神を愛し、神を信頼することがなければ、それは、神を知ったことになりません。もし、知るというのなら、ただ知識のことではなくて、あの人を知っている、というような、その人をほんとうに知ることになるのではないかと思います。

  従って、愛はただ、個人を建てるのでなくて教会を建てる、という方が適切かも知れません。

  そういうことからすると、人は、もし、愛がなければ「自分が知っていると思うなら、その人は知らなければならないほどの事すらまだ、知っていない」のであります。

  例えば何も知らない者ほど、自分の知っているわずかばかりの事を、自慢するでありましょう。しかし、えらい学者なら、自分は何でも知っている等とは言わないでしょう。むしろ、自分は、まだ何も十分には知っていない、と思っているにちがいありません。

  今、ここで言っているのは、神のことであります。神による救いのことであります。従って、神について、何もかも知っているというのは、神の救いについて、どんなことでも知っているということになるのではないでしょうか。それは、救いは神にはなくて、自分にある、人間にある、ということになるのであります。

 自分が何か知っている、と思うのは、相手が人間である場合と、神である場合は、非常にちがう。神の場合は、神の最も大きな力である救いについて知っている、ということ。更に言えば、自分の方が神より上である、ということになるのです。

  多くの人が、神について語ったり、考えたりしてきました。それはみな、結局は、神に依り頼むことはしないで、自分は、神について知っている、神のすくいも分っている、だから、自分は神の救いはいらないのである、ということになるのではないでしょうか。

  ここでは、ただ、何でも知っているように思うことは、傲慢である、というようなお説教をしているのではなくて、救いについての人間の愚かなおごりを語っているのです。

  神についての知識を誇っている者には、そのことが分っていない、というのであります。従って「その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ、知っていない」と言われるのであります。

「知らなければならない」という、それは神のどこの事でしょうか。

  罪人としての我々が、神を神とするのに、他に道はありません。ただ、神に救われて、神を信じるだけであります。

  そう考えてみますと、私たちは、いかにも神を知りません。どれくらい知っていると思っていますかネ。知ったと思った時は、神から離れて、やはり自分の力を信じた時だけである。

  従って、最後の3節の言葉が、今までのことを逆転する言葉となって、するどく言います。

  「しかし、人が神を愛するなら、その人は、神に知られているのである」というのです。

 

 ここでは、知るという言葉が、愛するに変っています。「知る」と言っている限りは、人間として、神を知る事にはならない。人間が神を知るのは、神を愛するということ以外にはありません。なぜなら、愛するという時にこそ、自分を捨てて、神に一切をゆだねる生活が生れてくるからです。

  しかし、そこにも、同じような問題があることに、気がつかねばなりません。

  それは、愛する、ということも、又、知る、と同じように、自分中心なことが多いからであります。人間の愛は、決して、いつも、完全に、犠牲ではありません。所詮は、自分のしたいことしか考えないものであります。

 

 愛がまことの愛になるためには、自分が愛するより先に、愛せられねばならないのであります。今まで、知る、といっていたのに、ここに至って、愛するになりました。それが、又、神に知られる、というように、知るに変っているのであります。

  パウロは、神を知ることは、ほんとうは、神を愛することであり、神を愛することは、神に愛せられることであることをよく知っていました。

 

 ガラテヤ書4章4節には「今では、神を知っているのに、否、むしろ、神に知られているのに・・・」という有名な言葉があります。ガラテヤ地方の人々は、今までは神々の奴隷であったのです。しかし、今は、神を知るようになりました。しかし、それは、実は、神に知られていることである、というのであります。言いかえれば、神を愛するようになった、それは神に愛せられていることが分った、ということなのです。

  そのように、私たちが神を知るより先に、神が私たちを知って下さる、ということこそ、神の恵みであります。もしも、その恵みがなかったならば、私たちは、永遠に、神を知ることができなかったでありましょう。

 

  神は、御子イエス・キリストの十字架と復活とによって、御自分が「私たちを知っていてくださる」ことをお示しになりました。私たちは、このキリストの救いのゆえに、神の恵みにより、神に知られ、神に救われることを知り、はじめて、神を知り、愛することができるようになるのであります。思いわずらいのない生活をしたい、と私たちは願います。平安を得たいのであります。しかし、それは、神が自分を知っていて下さる、ということが分かるまでは、得ることができないのであります。神が先に知っていて下さった、それが私たちの救いなのであります。           アーメン

 

 

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