説教「見よ、神は新しいことを行う」神学博士 吉村博明 宣教師、イザヤ書43章16ー28節

主日礼拝説教 2019年4月7日 四旬節第五主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.
本日の旧約の日課イザヤ書の個所の中で神は、「見よ、新しいことをわたしは行う」と言っていました。新しいこととはどんなことでしょうか?ちょうど日本では新しい元号が公表されて、世間は新しいことへの期待が高まった感があります。しかし、聖書のことですので、聖書外のことに結びつけて理解しようとするのではなく、あくまで聖書内で理解しようと思います。そうなるとイザヤ書43章16節から28節をよく読まなければならないのですが、少しわかりにくい個所と思います。イザヤ書全体のことを念頭に置く必要があります。面白いことに、本日の福音書の日課と使徒書の日課を何度も読んでいくうちに、イザヤ書43章で神が行うと言われる「新しいこと」を理解するのに役立つことに気がつきました。福音書の日課は、イエス様がブドウ園のたとえを使って教えを述べる個所でした。使徒書の日課は、パウロがイエス様を救い主と信じることで、それまで勝ち取ったと思っていたことは皆損失になったと言っているところです。そういうわけで本日の説教では、福音書と使徒書の日課と結びつけて神が行う「新しいこと」を明らかにしていきたいと思います。

まず、イザヤ書43章の個所を見てみましょう。分かりにくい個所かもしれませんが、解きほぐすようにしていけば分かってきます。最初の16節と17節で神は海の中に道を与えたとか、戦車や強大な軍隊が倒された状態にあることが言われていますが、これが出エジプト記の出来事を指していることは申し上げる必要はないでしょう。モーセ率いるイスラエルの民のために神は海を開いて通り道を与え、後を追ってきたエジプトの軍勢は海水が戻ったので海底に沈んでしまったという出来事です。そして18節で神は「初めのことを思い出すな、昔のことを思い巡らすな」と言われますが、「初めのこと」、「昔のこと」は何を指すのかはっきりしません。そこで25節を見ると、神は「民の背きの罪をぬぐい、彼らの罪を思い出さないことにする」と言っています。神が過去の罪を思い出さないことにする、忘れてやる、と言っている以上、私たちもそれに倣って、違うことに思いを巡らさなければならない。それが、神が行う「新しいこと」なのです。

それでは、私たちが思い巡らさなければならない神の「新しいこと」とは何か?この個所をまず、書かれている内容に関係する歴史の文脈に置いて考えてみます。そうすると、「新しいこと」とはイスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還させてもらえることを指します。歴史の文脈に置いて見た場合、それが「新しいこと」になります。その背景にあるものが21節から24節に記されています。イスラエルの民は神の意志に背くことばかりし、その結果、罰として国滅ぼされて異国の地バビロンに連行されてしまいました。これは、紀元前6世紀初めに起きた歴史上の出来事です。神としては、民が悔い改めればいつでも罪をぬぐい不問にしてあげる用意があったのに、民の態度と言ったらまるで、自分たちには落ち度はない、神は根拠もないのに民に罰を与えて苦しめている、そんな神を相手に裁判しても構わない、そういう傲慢さがありました(26節、後注)。それは自滅を招いてしまう態度でした(27ー28節)。

しかしながら神は、民の捕囚が70年近くに及ぼうとする段階で、民の罪の償いは果たされたと見なします(イザヤ書40章2節)。それで、祖国帰還を認めるのです。それは、ペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼして、ペルシャの王がイスラエルの民の帰還を認める勅令を出すことで実現します。これも歴史上の出来事です。かつて出エジプトの頃、神が力を発揮してエジプトの軍勢を滅ぼしてイスラエルの民が安全に移動出来るようにしたことや、荒れ野の中で進むべき道を示したり、水や食べ物を与えたこと、それと同じことがバビロンからの祖国帰還にも起きたのです。19節と20節を見ればわかるように、神は祖国帰還するイスラエルの民のために荒れ野に道を敷く、砂漠に大河を流れさせて民に水を飲ませると言われます。これが、民の罪の償いが果たされたことを示す祖国帰還でした。それで、もう過去の罪は思い出さなくてもよい、私も思い出さないから、そう神は言われたのでした。罪の償いを果たした者として帰還する祖国で新しくやり直しなさいと言って下さったのでした。

ところがどうでしょう、祖国帰還した民は神の意志に沿う生き方をしていないことが次第に明らかになりました。イザヤ書の終わりの方やマラキ書にそのことが伺えます。他方で、祖国帰還後に再建した神殿には世界の諸国民が天地創造の神を崇拝しにやって来るという預言があって、神の力で帰還できたのだから、その預言も帰還後に実現するという期待がありました。ところが現実には、ユダヤ民族はほんの一時を除いてずっと大国の支配下に置かれ続けていました。祖国帰還はまだ預言の本当の実現ではなかったのか?ならば、それはさらなる将来に実現するものなのか?かつて民を奴隷の国エジプトから解放し、さらには捕囚の地バビロンからも解放した神であれば、それらに並ぶような偉大な解放を実現して下さるのではないだろうか?そんな期待が持たれていた時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。果たして神は、イエス様を通してどんな「新しいこと」を行おうとしたのでしょうか?本日の福音書の個所のイエス様の教えがそれを明らかにしています。以下そのことを見てまいりましょう。

 
2.
イエス様のブドウ園のたとえの内容は以下のものでした。ブドウ園の所有者が雇われ農夫に園を任せ、収穫の実を持ってこさせるべく僕をつかわすが、これを農夫たちは袋叩きにして手ぶらで帰してしまいます。三人の僕が同じ目にあった後で、所有者は自分の息子なら敬意を払ってちゃんとブドウの実を持たせるだろうと期待して送ります。ところが、農夫たちはこともあろうに、息子を殺害して園を自分たちのものしようと企み、本当にそうしてしまいます。そんなことしたら自分たちのものになるどころか、所有者に報復されてしまうのは目に見えているのに。イエス様はどうしてそんな頭の悪い農夫たちを登場させたのでしょうか?

この問いに答える前に、ブドウ園のたとえに続いてイエス様が語る「隅の親石」の話を見てみます。隅の親石とは、石造りの家を建てる時の大事な基となる石、つまり礎石のことです。イエス様の話は実は、詩篇118篇22節からの引用です。石造りの家を建てる者がこの石は使い物にならないと言って捨てた石が後で本当の礎石になるという預言です。イエス様はこの聖句に対する補足説明として次のように言います。この石につまずく者は深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する、と(ルカ20章18節)。実はこれも、イザヤ書8章14節からの引用です。このようにイエス様はブドウ園のたとえに続けて二つの旧約聖書の個所を結び付けて引用しました。

 ところで、イエス様のブドウ園のたとえは、これを初めて聞いた当時の人々にとってわかりそうでわかりにくい話だったと言えます。まず、当時のユダヤ教社会の人たちだったら、ブドウ園と聞くとイザヤ書5章にある「ブドウ園の歌」を思い出します。神が一生懸命に守り育てたブドウ園からはろくな実がならなかった、イスラエルの民の現状もそれと同じだとして、神に背を向けて不正にまみれて生きる民が批判される、そういう内容の歌です。このように、ブドウ園はイスラエルの民を指します。しかしながら、イエス様のたとえでは、ブドウ園自体はこのような悪い存在ではなく、悪いのは雇われ農夫です。イエス様のたとえを聞いた人たちは、イザヤ書をもとに、ブドウ園はイスラエルの民、所有者は神だとは連想はできても、雇われ農夫や所有者が派遣した家来や息子についてはイザヤ書にない要素なので、少し考えてみなければなりません。所有者の息子が殺されてしまうというのも、神のひとり子が殺されるということになりますが、まだイエス様が十字架に架けられる以前の段階では何のことか見当もつかなかったでしょう。

 そこで、イエス様のたとえでブドウ園の所有者が雇われ農夫に園を委ねると旅に出ることに注目します。日本語で「長い旅に出た」と言っているのは、ギリシャ語原文では「外国に旅立った」(απεδημησεν)というのが正確な意味です。どうして外国かというと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通でした。「外国に出かけた」というのは、故国に戻ったということでしょう。

このような背景を考えると、14節で雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことがわかってきます。普通だったら、そんなことをすれば自分たちのものになるどころか、すぐ処罰されてしまうでしょう。ところが、息子は始末したぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということになるのです。このようにブドウ園のたとえは、当時の人たちにとって、その社会状況から起こり得そうな身近な話に聞こえます。しかし、登場人物全ては誰を指して、一体なんの出来事について教えようとしているのかはわかりません。イザヤ書のことがあるから、何かイスラエルの民に関する教えだろうとはうすうす感じていながらも、現実の身近な世界で起こりうる出来事として理解できるだけです。つまり、遠い国にいるブドウ園の所有者が、邪悪な雇われ農夫に息子まで殺害されて、ブドウ園を乗っ取られてしまう。そして所有者は報復として農夫たちを滅ぼして、ブドウ園を別の者たちに委任するという具合にです。大方の人にとっては、これは当然の報いだと受け取られたでしょう。

ところが、群衆の中にはイエス様のたとえのポイントを理解し始めた人たちがいました。祭司長や律法学者がそれでした。ユダヤ教社会の指導層です。イザヤ書の「ブドウ園の歌」からブドウ園はイスラエルの民、所有者は神と理解できると、雇われ農夫というのは、神から委託されてブドウ園つまりイスラエルの民を世話する役割を与えられた人というイメージが湧きます。つまり、民の指導層です。祭司長や律法学者たちは、雇われ農夫が自分たちをさすのだ思い至ります。彼らは、イエス様が奇跡の業と権威ある教えで多くの人々を引き付けていることをいまいましく思っていました。何とかしないと自分たちの権威が揺らぐと危惧していました。それにも増して、もし群衆があの男をユダヤ民族の王にでも祭り上げたら、占領者のローマ帝国が鎮圧部隊を派遣して国中は大混乱に陥ってしまう、早く手を打たなければならないと危機感を抱いていました。しかし、彼を殺害することは神のひとり子を殺害することになって罰として神に滅ぼされてしまうなどとたとえを用いて語っている。自分を神同等に扱い、民の指導層を侮辱している。「そんなことがあってはならない!」と叫んだのは外ならぬ彼らだったのです。

この指導層のブーイングに対してイエス様は、詩篇118篇22節の「隅の親石」の預言を述べるのです。この預言がブドウ園のたとえと結びつけて言われるとどうなるでしょうか?家を建てる者に捨てられた石というのは農夫たちに殺された所有者の息子、すなわち捨てられた石は指導層に殺される神のひとり子を指すとわかります。その殺されたひとり子が「隅の親石」になると言うのです。これに対する補足説明としてイエス様は、その「隅の親石」が何をするのかということを述べます。これが指導層の堪忍袋が切れるだめ押しとなります。「その石に躓く者は、深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する」(18節)。この言葉は先ほども申しましたように、イザヤ書8章14ー15節の預言の引用でした。旧約聖書を詳しく知っている指導層であれば、ブドウ園のたとえは、指導層に対する痛烈な批判であり、全く不都合な預言であることがわかります。しかも、詩篇の「隅の親石」の預言とイザヤ書の「躓きの石」の預言も自分たちのことを言っていると言われてしまったのです。つまり、指導層は神のひとり子を殺害して神罰として滅ぼさる。さらに、殺害されたひとり子は隅の親石になって、指導層はその石に木端微塵にされてしまうのだ、と。激怒した指導層はイエス様を捕えようとしましたが、周囲はイエス様に付き従う群衆が取り巻いていて果たせませんでした。

 

3.
果たしてイエス様が預言したこと、つまり指導層が神のひとり子を殺害し、その後で滅ぼされてしまうこと、そしてイエス様が「隅の親石」になって指導層を木っ端みじんにするということ、これらの預言は見事に実現します。まず、イエス様は過越し祭の期間に指導層に捕らえられて死刑判決を受けて十字架にかけられました。たとえの中でブドウ園の外に追いやられて殺害されると言われていましたが、十字架が立てられた場所はエルサレムの町の外のゴルゴタという名の処刑場でした。そして、指導層が滅ぼされる出来事も起きます。イエス様の十字架の出来事から約40年程経った西暦70年、エルサレムの町と神殿はローマ帝国の大軍の攻撃にあい灰燼に帰してしまいました。

さらに、もう一つの預言、捨てられた石のように十字架にかけられたイエス様が今度は隅の親石になって宗教指導層を木っ端みじんにするという出来事も起きました。イエス様の死からの復活がそれです。十字架の死を遂げたイエス様は天の父なるみ神の力で三日後に復活させられました。出来事の目撃者となった弟子たちを皮切りとして、イエス様は本当に天地創造の神のひとり子だった、旧約聖書に預言されていたメシア・救世主であったということが理解され出します。イエス様の復活が起きたことで、死を超える永遠の命というものが本当にあってその扉が人間に対して開かれたことがわかりました。その扉は、かつて人間が天地創造の後で神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって以来閉じられていたのです。それが、イエス様が人間の罪を人間に代わって背負い十字架の上で神罰を人間に代わって受けられたことで開かれました。イエス様が人間の罪の償いを果たして下さったことになり、それで人間が神から罪の赦しを頂けるようになったのです。

このようにイエス様のおかげで神から罪の赦しが頂けるとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しが頂けます。神から罪の赦しを頂くということは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるということであり、同時に復活されたイエス様と同じ永遠の命に与れるということです。万が一この世を去る時が来ても、復活の日までのひと眠りの後で神の御許に永遠に迎え入れてもらえることになります。

そうなると、罪の赦しを頂いて永遠の命に与れるために必要なことというのは、神がイエス様を用いて罪の償いを果たして下さったことをその通り起こったと信じてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることに尽きます。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、罪の赦しも永遠の命も手掛かりはと言えば、律法の掟を守ったり宗教的な儀式を積み重ねることだけでした。それが、先ほども申しましたように、西暦70年にエルサレムの神殿が破壊されてしまうと神から罪の赦しを頂くための儀式を行う場所がなくなってしまいました。その場所は、毎年動物の生贄を犠牲に捧げたり穀物の初穂を捧げたりして罪の償いの更新を繰り返すところでした。ところが、神がご自分のひとり子を犠牲にすることで罪の償いを一回限りで済むように、文字通り未来永劫に果たしてしまいました。あとは神がイエス様を用いて整えて下さったものを受け取るだけで大丈夫になったのです。

神殿の儀式に関する掟以外の掟についても革命的なことが起きました。十戒の掟のことです。イエス様は、それらは見かけ上外面的に守れても十分ではない、心の有り様までも問うていると教えました。そうなると人間は誰も神が義と認めるくらいに十戒を守れる人はいません。ところが、イエス様を救い主と信じて洗礼の時に被せられる、見えない神聖な純白な衣を纏うようになると、それで人間は神の前に義とされるようになったのです。それから後は、神から贈り物として頂いた義はひとり子の尊い犠牲の上に成り立っているとわきまえるので軽々しいことはできなくなります。だからと言って、重苦しくなることもありません。なぜなら、神が贈り物として与えて下さる義は、人間を罪に追いやろうとする力や罪の赦しなんかないと思わせる力など陽炎のように消え去るにしかすぎないと映し出してくれます。ここから何とも言いようのない大きな解放感と安堵感が沸き起こります。心は神への感謝で満たされ、これからは神の意志に沿うように生きていこうと志向する有り様になります。

律法の掟を守って神から義とされることを目指していたが行き詰ってしまった、ところが、イエス様がもたらしてくれた義を受け取ることで解放感を得た、このことはパウロの教えによく出てきます。本日のフィリピ3章の個所も同じ教えです。パウロはまず、自分が律法の掟を遵守することで神から義とされることを目指す筋金入りのファリサイ派であったこと、それゆえにイエス様を救い主と信じる者たちを迫害した過去を持つと明かします。ところが、イエス様が神のひとり子の身分でありながら人間の罪の償いを全部果たしてしまったことを知って以来、自分の力で獲得しようとした義は屑同然になってしまった。償いを果たして下さったイエス様を救い主と信じる信仰を神が見て下さり、また洗礼によってイエス様の死と復活に結びついたことも見て下さり、それで神は自分のことを義と見て下さる。その義が本物の義である、そうパウロは証ししているのです。

 

4.
以上から、イザヤ書の中で神が行おうとする「新しいこと」が明らかになりました。それは、ユダヤ民族という特定の民族を他民族支配という特定の歴史状況での従属状態から解放することではありませんでした。それは、民族に関わらず人間全体を罪と死の支配という普遍的な従属状態から解放するということでした。バビロン捕囚からの解放の時は民が罪の償いをしたと見なされました。つまり、祖国帰還は民が行った償いと結びついていたのです。しかし、それは律法の掟の外面的な遵守と生贄を使う贖罪に戻る運命にありました。「ヘブライ人への手紙」で言われるように、律法の掟の外面的な遵守や生贄を使う贖罪というものは、将来来るべき本物の遵守と贖罪のミニチュアのようなもので、本物が来たら消え去るものだったのです。そして本物が来たのです。十戒を完全に実現している状態の神のひとり子が人間の罪の償いを完全に果たして下さったのです。これが神が行うと言った「新しいこと」だったのです。

かつて民がバビロン捕囚から解放された時、神の御心は、もう過去の罪は思い出さなくてもよい、私も思い出さないから。あなたたちは罪の償いを果たした者としてこれから帰還する祖国で新しくやり直しなさいというものでした。今、本当の解放、普遍的な解放を得た私たちに対しても神は同じように言われます。あなたはもう過去の罪を思い出さなくてもよい、私も思い出さないから。あなたは、尊い犠牲を払ってもらって罪の償いを果たしてもらった者として生きていきなさい。そうすれば、罪と死はあなたが永遠の命に至る道を歩むのを邪魔できないのである。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

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