説教「俺は二つの国の国民なのさ」神学博士 吉村博明 宣教師、フィリピ3章17節ー4章1節、ルカによる福音書18章31ー43節

主日礼拝説教 2019年3月17日 四旬節第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 本日の使徒書の日課の中にあるフィリピ3章20節の聖句は、キリスト教徒のお墓の墓碑銘としてよく見かけるものです。新共同訳では「しかし、わたしたちの本国は天にあります」ですが、文語訳では「されど、我らの国籍は天に在り」です。これを見たことのある人は、ああ、この世を去ったら天国に行くことを言っているんだな、と思うでしょう。しかし、ここは少し注意が必要です。日本ではお寺や神社に行く人でも、誰かが亡くなると「あの人は今天国から私たちを見守ってくれている」などという言い方をよくします。キリスト教も天国、天国と言っているから、人間死んだらみんな同じところに行くというようなイメージがわいてくるかもしれません。ところが、キリスト教の場合は「復活」ということがあるため、少し事情が複雑です。復活と言うのは、かつて天地を創造した神が将来いつか今ある天地を新しく創造し直す時が来て、その時、死者を復活させるというものです。その時、今ある天と地がなくなって新しい天と地に取って代わられるという大変動が起き、そこで唯一なくならないものとして神の国が現れる。イエス・キリストが再臨して、誰が神の国に迎え入れられて誰が入れられないかの審判を下す。そういう最初の天地創造にも劣らない壮大な時です。

それなので、聖書の観点に立てば、人間は死んだらすぐ天国に行くというのはよほどの事情がない限りありえず、大方は「復活の日」までは天地創造の神のみぞ知る場所にて静かに眠っているということになります。それで、このキリスト信仰に特有な「復活」というものを踏まえてみると、「私たちの本国は天にあります」とか「我らの国籍は天に在り」というのは、「あなた先に天国で待っていて下さいね、私も後で行きますから」という意味ではなくなります。そうではなくて、「眠りから目覚めさせられるその日またお会いしましょう。それまでは安らかにお眠り下さい」という、そういう「復活の日の再会の希望」を言い表すものになります。

少し脇道に外れますが、「本国が天にある」と言うのと「国籍が天にある」と言うのは何か違いがあるでしょうか?「本国」と言えば帰属先です。「国籍」と言えば帰属先に伴う資格です。「本国」に属しているからそれに伴う「国籍」があるのだし、また「国籍」があるということは「本国」があるということなので、同じコインの表裏のようなものでしょう。他の国の聖書の訳も分かれています。スウェーデン語訳の聖書では「故国」hemlandと言って帰属先路線です。ドイツ語はルター訳ではBürgerrechteなんて言っていて辞書では「公民権」ですが、ルターの時代ならどこかの自治都市の「市民権」でしょうか。いずれにしても資格路線です。ただ、ドイツ語もEinheitsübersetsung訳を見るとHeimat「故郷」でしょうか、帰属先路線です。英語の訳はcitizenshipで、普通「国籍」、「市民権」と訳されて簡単そうな英単語ですが、「市民の身分」などという意味もあり、本当は日本人には厄介な単語です。しかし、いずれにしても資格路線です。フィンランド語訳を見ると「天の国民/市民」taivaan kansalaisiaとなどと言っていて、これは資格路線と言えるでしょう。

そこで、原文のギリシャ語はどうかと言うと、ポリテウマπολιτευμαという何か共同体を意味する言葉です。帰属先路線です。定冠詞τοがついているので、「帰属先の決定版」ということになります。まさに「本国」です。キリスト信仰者の本国は創造主の神がおられる天にあるというのです。そして、それは先ほども申しましたように、今は私たちの目の届かないところにあるが、復活の日に目の前に現れる国です。「天にある」と言う動詞の「ある」υπαρχειも現在形で、これは普遍的な真理を表しています。つまり、キリスト信仰者はその本国を将来の復活の日だけではなく、今この世を生きている段階でも、いつどこにいても持っているということです。これは一体どういうことでしょうか?

普通は日本とかフィンランドとか、国籍を有している国が「本国」ということになります(二重国籍の人は両方が本国と言うでしょうか?どっちかがより本国に感じられると言うでしょうか?)。そういう地上の本国を持って生きることに加えて天の本国を持ってこの世を生きるというのはどういう生き方でしょうか?フィンランドの有名なゴスペル・シンガーソングライターにP.シモヨキという人がいますが、彼の曲の中に「俺は二つの国の国民なのさ」Kahden maan kansalainenという歌があります。「二つの国」というのは、まさしく地上の本国と天の本国ということです。その歌の歌詞をみたら、今の問いの答えになるのではと思いました。それで、それを紹介して本日の説教を終わりにすることも可能なのですが、本日の福音書の個所がまた、解き明かしをするとシモヨキの歌が一層味わいのあるものになると思われたので、やっぱり解き明かしをします。歌は礼拝後のコーヒータイムでユーチューブで皆さんにお聞かせしますのでお楽しみに。

 

2.旧約聖書のシンボル的な預言の具体化とその意味

 本日の福音書の箇所ですが、二つの異なる出来事が記されています。最初は、イエス様が自分にこれから起きる受難と復活は旧約聖書の預言の実現であると言ったのですが、それを弟子たちが全く理解できなかったという出来事。その次は、イエス様が盲人の目を見えるようにしたという奇跡の出来事です。最初にイエス様が自分の受難と復活を預言の実現と言ったことを見てみます。天の本国を持ってこの世を生きるというのはどういう生き方かという問いを忘れないようにしましょう。

 ルカ18章31節でイエス様は、今行こうとしているエルサレムにて、預言書に記されたこと全てが「人の子」に実現すると言います(後注)。実現することとして何があるかと言うと、まず「人の子」が異教徒、つまり神の民でない人たち、非ユダヤ人に引き渡されて侮辱され辱めを受けて唾を吐きかけられて、むち打ちの刑の後に殺される、しかし三日目に死から復活する。弟子たちは、これらのことが何を意味するのか全く理解できませんでした。

翻って私たちは、イエス様が言われたこれらのことを理解できます。ああ、イエス様は御自分がエルサレムで受けることになる受難、十字架の死、そして死からの復活を前もって予告しているのだな、と。しかし、私たちが理解できるのは、これらの出来事が起きたことを知っているからでして、起きた出来事をもって予告されたことを事後的に確認できるからです。しかし、弟子はまだ十字架と復活が起きていない段階にいますから、確認する術がありません。

それならば、弟子たちには旧約聖書に記された預言者たちの預言があるではないか?イエス様は預言が実現すると言われるのだから、旧約聖書の内容を知っていれば、ああ、いよいよ預言が実現するんですね、というふうに理解できるのではないか、弟子たちは少し勉強不足ではないか、そう思われるかもしれません。しかし、事はそう単純ではありませんでした。旧約聖書に記されているとは言っても、どこに「人の子」が異教徒の手に引き渡されるなどと書いてあったか?どこに「人の子」が侮辱され鞭うちの刑を受けて殺されると書いてあったか?どこに「人の子」が三日目に復活すると書いてあったのか?旧約聖書にこれらのことがはっきり記されている箇所は見つからないのです。預言がこのような仕方で実現するなどと言われても、旧約聖書のどこにあるのか見当たらない。弟子たちが途方に暮れるのも無理はありません。

しかし、これらの出来事は実は全て旧約聖書の中に、あまり具体的には見えなくとも、しっかり記されていたのです。イエス様は、そういうシンボル的な言い方で預言されていることが、特定の時代のなかで具体的な形をとって実現することを言っているのです。イエス様自身は、シンボル的な言い方の預言がどう具体的に実現するか前もってわかっていたので何も問題ありません。しかし、弟子たちの方はまだ具体的な形をとって実現することを見聞きも体験もしていません。それでイエス様が予告されたこととシンボル的な預言とがどう結びつくのか、まだわかりません。

それでは、預言されていることと実現したこととの関係をみてみましょう。まず、「人の子」について。これは、ダニエル書7章13節に登場する謎めいた者です。今あるこの世が終わりを告げて新しい世にとって代わる時、ある強大な国家が神の力で滅ぼされて神の国が現れる。その時、神から王権を受けて、この神の国に君臨するのがこの「人の子」です。こうして「人の子」というのは、イエス様の時代には、この世の終わりに到来する神の国の統治者という理解がされていました。加えて「人の子」は、神から王権を受ける前の段階で、迫害を受けるという理解も持たれていました。(そのことは、マタイ16章13ー14節のイエス様と弟子たちのやり取りの背景にダニエル書7章25節があることを考えるとわかります。ここではこれ以上深入りしません。)

さらに「人の子」とは別に、イザヤ書53章に「神の僕」という者が登場します。人間が罪のゆえに神から受けるべき罰を身代わりとなって受けて苦しんで死ぬことが預言されています。イエス様が預言者の預言が全て実現すると言った時、それは、ダニエル7章の「人の子」が受ける迫害やイザヤ53章で言われる「神の僕」の犠牲の苦しみというものが、具体的な歴史の中で異教徒への引き渡し、侮辱、鞭うち刑、刑死という具体的な形をとって実現するのだ、そう明らかにしたのです。ただ、出来事が起きる前の弟子たちにとっては、そんなこと言われても、あれっ、聖書のどこに書かいてあったっけ?となってしまったのです。

次に、三日後に死から復活するということについて見てみましょう。これも旧約聖書のどこにはっきり記されているか、見つけるのが難しいことです。それでも、死からの復活が起きるということ自体は、イザヤ書26章19節、エゼキエル書37章1ー10節、ダニエル書12章2ー3節に預言されています。そこで、復活が死の三日後に起きるという、三日目の復活という出来事については、ホセア6章2節(「三日目に立ち上がらせてくださる。」)とヨナ2章が鍵になります。ただ、ヨナ書の場合は、預言者ヨナが大魚に飲み込まれて三日三晩その中に閉じ込められ、三日目に神の力で奇跡的に脱出できたという、過去の出来事についてです。それで、未来を言い表す預言には見えません。しかし、この個所は実はユダヤ人にとって、神の力で三日後に死の世界から復活するというシンボル的な出来事になるのです。マタイ12章でイエス様自身、ヨナの出来事を過去の出来事としてではなく、自分の復活についてのシンボル的な預言として捉えています(38ー41節、16章4節)。そして、それがイエス様の復活が起きたことによって、もはや単なるシンボルではなくなって実際の出来事になったのです。

しかしながら、預言はどれもシンボル的に記されていて、いろんな書物に散らばっています。そのため、それらはこういう具体的な仕方で繋がりを持ってこう実現するんだ、つまり、「人の子」が異教徒に引き渡されて、刑罰を受けて殺されて、三日目に復活するという形で実現するんだ、いくらそう言われても、実際に起きてみないと、なんのことか理解は不可能でした。それが、十字架と復活の出来事を一通り目撃し体験すると全てが見事に繋がって、シンボルはもはやシンボルでなくなって生身の現実、文字通り預言の実現になったのです。弟子たちは、文字通り事後的に全てのことを理解できたのです。

ところで、弟子たちが事後的に理解できたというのは、旧約聖書の預言の一つ一つが実際に起きた出来事の各部分にしっかり結びついていることを確認できただけにとどまりませんでした。弟子たちは、この結びつきが何を意味するのかもわかったのです。実はそちらの方が大事なことでした。このことは、天の本国を持ってこの世を生きるとはどういう生き方かを知る上でも大事です。それでは、この起きた出来事と預言の結びつきは何を意味したのでしょうか?

それは、天地創造の神の人間救済計画が実現したことを意味しました。どうして人間は神に救われなければならなかったのか?それは、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことがもとで、人間が神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったからでした。造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持てて造り主である自分のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに基づいてひとり子イエス様をこの世に送り、彼を用いて計画を実行に移しました。神は、イエス様を用いてどのように人間救済計画を実行したのでしょうか?

それは、人間が自分の持っている罪のゆえに受けなければならない神罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、彼の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を私たち人間のために開かれました。人間は、これらのこと全ては自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との結びつきが回復し、この世の人生の段階で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時にも逆境の時にもいつも神の見守りと導きを受けて歩みます。これが天の本国を持ってこの世を生きるということです。逆境があっても天の本国を持っていることは微動だにしません。このように天の本国を持って生きた人は、この世を去ってひと眠りした後の復活の日に天の本国に迎え入れられます。イザヤ書35章風に言えば、天使たちの歓呼の声をもって迎え入れられます!(そして、そこは懐かしい人との復活の再会が待っているところです!)

そういうわけで、この私がこの世を去ると私の日本国籍は持ち主を失って消滅しますが、天の本国の国籍は持ち主を失わないのでそのままずっと残ることになるというわけです。

3.信仰があなたを救われた状態にしている

  以上、旧約聖書にシンボル的に預言されたことが全て、イエス様を通して具体的に実現したということ、そして預言の実現は天の父なるみ神が主導した人間救済計画の実行であったことを見ました。

本日の福音書の個所のもう一つの出来事は、イエス様が盲人の目が見えるようにしたという奇跡の出来事です。この個所を読む人は大抵、おやっと思わされることがあります。それは、イエス様が「お前の信仰がお前を救った」と言った時、それを男の人の目が見えるようになった時に言ったのではなく、見えるようになる前に言ったことです。これは少し変な感じがします。治ってからそう言った方が意味が通じるのではないかと思われるからです。実はイエス様は、同じ言葉をマタイ9章22節でも言っています。12年間出血状態が続いて治らない女性に対して、まず「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その後で女性は治ります。どうして、病気が治った後に言わないで、治る前に言ったのでしょうか?

一つの考え方として、お前の信仰がお前に健康をもたらすことになるんだぞ、と本当は未来形の言い方をするところを、イエス様の方では癒しは必ず起きるとわかっているので、それが実現する前に実現したと先回りして言った、と考えることが出来ます。ちょっと複雑ですが、理屈は通っています。ところが、ルカ17章19節をみると、イエス様が10人のらい病の人たちを完治して1人だけが感謝のために戻ってきたとき、イエス様は同じ言葉「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、先回りしていません。健康回復の後に言いました。さらに、ルカ7章50節でイエス様に罪を赦された女性が彼に深い感謝の気持ちを表した時にも、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、何か病気が治ったということはありません。以上の4つのケースがありますが、2つは癒しの奇跡に関係して健康回復の前に言われたケース、1つは癒しの奇跡に関係しているが健康回復の後に言われたケース、最後の1つは癒しの奇跡と無関係に言われたケースということになります。結論から言いますと、どのケースをみても、ある共通したことがあって、それでこの言葉を健康回復の前に言っても全然おかしくない、ということがあります。どういうことか見ていきましょう。

「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、原語のギリシャ語では「救う」という動詞は過去を言い表す形ではなく現在完了形で表されています。これは本日の福音書の箇所だけでなく、今申し上げた4つのケース全てそうです。ギリシャ語で現在完了の形だとどんな意味になるかと言うと、以前にも申し上げましたが、過去の時点で起きたことが現在まで続いている、効力を持っている、存続しているという意味です。従って「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、正確には「ある過去の時点から現在まであなたの信仰があなたを救われた状態にしていたのだ」という意味です。過去の時点とは、明らかにイエス様を救い主と信じ始めた時点です。つまり、イエス様を救い主と信じた日から、イエス様がこの言葉を述べる時までの間ずっとこの盲目の男の人は救われていた、という意味になります。つまり、癒しを受ける以前に既に救われていたということになります。

さて、ここで疑問が生じます。まだ癒しを受ける前に救われていたというのはどういうことなのか?まだ盲目だったのに、どうして救われていたなどと言えるのか?

その答えはこうです。救われるということが、病気が治るとか、そういう人間にとって身近な問題の解決を意味していないということです。それでは、救われるとはどういうことか?それは、先ほども申しましたように、堕罪のために断ち切れてしまっていた人間と神との結びつきが回復して、神との結びつきをもってこの世の人生を歩むようになること。そして、この世を去った後は神のもとに永遠に戻れるようになること。これが救われるということです。これが出来るためにはどうすればよいかというと、これも先ほど申しました。神が2000年も前の昔に彼の地でなさったことは、実は今の時代を生きる自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることです。そうすることで人間は、神がひとり子を用いて整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができ、それを自分のものとすることができるのです。盲目の人は、盲目の状態にありながら、イエス様を救い主と信じる信仰によって、既に神との結びつきをもって生きる者となっていた。つまり、既に救われていたのです。癒しを受けていなくても、救われていたのです。その後で癒しが起きますが、それは付け足しのようなものでした。

これと同じことがマタイ9章の12年間出血状態が続いた女の人にも起こります。イエス様は、この女性にも同じ言葉を述べます。「あなたの信仰があなたを救った」。つまり、「私を救い主と信じた日から、今の時までずっと、あなたは救われていたのだ。神との結びつきを回復して生きる者となっていたのだ。」その後で、女性は健康になります。癒しは付け足しのようなものでした。

以上から、癒される前の状態、つまり病気の状態にいても人間はイエス様を救い主と信じる信仰によって救われている、つまり天地創造の神との結びつきを回復した者になって、この世の人生を歩むこととなり、この世を去った後は永遠に神のもとに戻れるということが明らかになりました。このことがとても大事なのは、もし病気から癒されることそのものを救われることと言ってしまったら、不治の病の人はいくらイエス様を救い主と信じても救われないということになってしまいます。健康な人が健康だという理由で、神との結びつきが回復しているとか、病気の人は病気だという理由で神との結びつきがない、というのは全くのナンセンスです。そうではありません。不治の病の人も、一生治らない障害を背負っている人も、イエス様を救い主と信じ受け入れたからには、健康な人と同じくらいに救われているのです。同じくらいに罪を赦されて神との結びつきが回復して、同じくらいに神との結びつきをもってこの世の人生を歩み、この世を去る時は、同じくらいに神のもとに永遠に戻れるのです。

逆に健康だからといって、また癒しがあったからといって、それが神との結びつきの回復の証明にはなりません。ルカ17章で10人のらい病の人が癒しを受けた時、一人だけがイエス様のところに戻ってきて神に賛美を捧げました。イエス様は、この人に「あなたの信仰があなたを救った」と言いました。つまり、お前が私を救い主と信じた日から現時点までお前は救われた状態にいたのだ、ということです。その期間は病気の時と健康回復の時の双方を含みますが、イエス様を救い主と信じた時点から以後は病気の時も健康回復の時も含めてずっと救われた状態にいたのです。他の9人の健康を回復した人たちには、この言葉は述べられませんでした。健康な人でも、神から救いを受けて十字架の主のもとに戻る者が救われるということなのです。

ルカ7章のイエス様から罪を赦された女性の場合は、病気からの癒しの奇跡は関係ないので健康な人だったでしょう。女性はイエス様に心からの感謝を捧げ、イエス様は彼女に同じ言葉を述べます。つまり、女性はイエス様を救い主と信じた日から現時点まで、救われた状態にあり、そのために全身全霊が感謝で一杯になり、神の意志に沿うような生き方をしようという心になりました。

神の意志に沿うような生き方をしようとしても、至らないところはいろいろ出てきます。さすがに行為で神の意志に反することはしないで済んでも、心で思ったり、それが口に出てしまったりします。もちろん、そのためにイエス様の十字架が立てられたので、それが私たちの心の中で立てられている限り、神との結びつきは失われていません。このように、この世での生き方はいつも不完全さを免れません。しかし、パウロが本日のフィリピ3章20ー21節で述べているように、この世の人生の段階で天に本国を持つようになった者は、イエス様が再臨される日にこの不完全な有り様を栄光に満ちた神の有り様に倣う者へと変えられます。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、天に本国を持つ者のこの世での生き方は、不完全であることを悲しみもするが、復活の日に完全な者にしてあげるという神自らの約束に安心して、そこに向かって歩み続けるいうことになります。まさに「されど、我らの国籍は天に在り」です!

それでは、最後にシモヨキの「俺は二つの国の国民なのさ」の歌詞を紹介したく思います。訳は神学的な意味を明らかにしなければならないので少し解説的になることをご了承ください。

 

Kahden maan kansalainen

天高くある御国の壮大さに比べりゃ

足元の国のちっぽけさと言ったらない

この二つの国は俺の人生にいつも連れ添ってきた

 

俺の周りにあるのは、ちっぽけな国の方

この世にいる限り、それは俺の友だちさ

でも、それは、俺がこの世から永遠の世に向かって足を踏み出すまでのことさ

 

俺の足はこの世では土にまみれているが

俺の目は天の御国を見据えている

自分の旅がどこに向かっているかくらいはわかってるさ

俺は二つの国の国民なのさ

 

この世で俺は、風に薫りがあることを知った

海辺で打ち寄せる波に耳を傾けた

雪が降る日にはそれが白く舞うのを見ていた

 

この世で俺は、時が早く過ぎ去ることに気づいた

すると影が忍び寄り次第に覆うようになった

でも、俺は恐れない。待ち焦がれているものは夢で終わらないとわかっているから。

 

俺の足はこの世では土にまみれているが

俺の目は天の御国を見据えている

自分の旅がどこに向かっているかくらいはわかってるさ

俺は二つの国の国民なのさ

 

地上の国で俺は仕事に精を出す 時には笑い、時には泣きもしながら

荒れ地を切り拓いて土を耕し

福音が生み出す平和の種を撒く 不和や争いがあるところに、戦乱の時にも撒くのさ

 

一度土に鍬を入れて始めれば

植え育てたものが収穫される日は必ず来る

その日俺は自分に言うだろう。「ああ、やっと自分の家に帰り着いたんだ。」

 

俺の足はこの世では土にまみれているが

俺の目は天の御国を見据えている

自分の旅がどこに向かっているかくらいはわかってるさ

俺は二つの国の国民なのさ

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

後注(ギリシャ語が分かる人にです)

 ルカ18章31節の「人の子」τωυιωτουανθρωπου(単数与格)は、「実現する」τελεσθησεταιにかかると考えればdativus commodi/incommodi、「記された」γεγραμμεναにかかると考えればdativus limitationisということになると思います。

 

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