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5月17日(日)復活後第六主日の聖句と教え
聖書の使徒言行録17章22~31節を見る
説教題 「文明の衝突 - あなたはどうする?」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今お読みしました使徒言行録17章の出来事は、使徒パウロが古代ギリシャのアテネにてイエス・キリストの福音を居並ぶ哲学者たちの前で弁明したという出来事です。これはとても世界史的な重要な出来事だと思います。というのは、この時、二つの異なる文明が衝突して火花を散らしたからです。二つの文明というのは、一つはギリシャ・ヘレニズム文明です。これは、人間の理性の力を信じて万物を理性で推し量ったり説明しようとする哲学的な文明です。それに対するはヘブライズム文明です。これは天地創造の神という万物を司る方が自分のことや自分の意思や計画を人間に啓示するという信仰の文明です。簡単に言うと、ギリシャ・ヘレニズム文明は人間の内部に備わる理性に重きを置く文明、ヘブライズム文明は人間の外部から来る神の啓示に重きを置く文明ということになります。この本質的に異なる二つの文明が正面からぶつかったわけなのですが、興味深いことに、この水と油みたいにお互い相いれないものがいつしか西洋文明の二大底流となって、それを複雑に形作っていくことになります。
ところで、「文明の衝突」などと言うと、1990年代にアメリカのハンティントンという政治学者が出した論文を思い起こす人もいるかもしれません。私も読んだ時は、せっかく冷戦が終わって世界が平和になれると思っていたのに冷や水を浴びせかけられたような思いを持ったことを記憶しています。また欧米諸国が自分たちのヘゲモニーを維持できるためには次はイスラムに注意しろと言っているような印象さえ受けました。しかしながら、それから30年近く経った今、世界は自由や民主主義をものともしない勢力や風潮が欧米の外だけでなくその足元でも強まってしまって、事態はむしろ「文明の衝突」というよりは新しいイデオロギーの衝突ではないかと思われるのですが、どうでしょうか?今次のコロナウイルス問題の解決も含めて、自由と民主主義と市民の健康で文化的な生活を守ることが出来るような国、利己的でなく下心のない国際協調ができるような国に指導的な役割を果たしてもらいたいなどと希望する者です。
話がかなりわき道にそれたので戻ります。ユダヤ人のパウロがギリシャの哲学者たちを前に演説したことが二つの文明の衝突と言うのは、政治的、経済的、軍事的なヘゲモニー争奪戦とは全然違います。知的レベルの衝突です。2000年前の出来事ですが、話の内容は現代の、しかもこの日本を生きる私たちにとっても「生き方」について考えさせるものを含んでいると思われます。それなので、本日はこの出来事の個所の説き明かしをしていこうと思います。
まず、出来事の背景を述べておきます。パウロは二回目の地中海伝道旅行でギリシャのアテネに到達しました。そこに着くまでは行く先々で、イエス様をメシア救世主と受け入れないユダヤ人の妨害や迫害に遭い、アテネへは避難するように着いたのでした。そこはそれまでの町々と違ってユダヤ人の妨害がありませんでした。そのかわりにパウロを困惑させたのは、町中いたるところで金や銀や石でできた神々の像すなわち偶像が溢れかえっていたことでした。いくら異なる宗教の人たちのこととは言え、パウロは偶像崇拝を禁じる旧約聖書の伝統に立つ人ですから、17章16節で言われるように心穏やかでなかったことは言うまでもありません。
パウロはまず、これまでのように現地のユダヤ人の会堂でイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。その内容は記されていませんが、イエス様は神が約束されたメシア救い主である、そのことは彼の十字架の死と死からの復活で明らかになった、そういう内容だったのは間違いないでしょう。パウロは伝道旅行をする時は大抵、まずユダヤ人の会堂に行ってナザレのイエスが約束のメシア救世主であると伝えました。ところが、イエス様を受け入れないユダヤ人たちが追いかけるようにやってきては妨害、迫害する。会堂の人たちの多くは背を向けてしまいますが、会堂の外の人たち、つまり異邦人に宣べ伝えると、そちらの方が受けがいいということが起きてくる。パウロの伝道旅行は大体そういう構図でした。
アテネではユダヤ人からの妨害、迫害はなかったかわりにとても大きなことが待っていました。それがまさに、パウロが旧約聖書の伝統と何の関わりもない人たちとその精神世界とに文字通り火花を散らすようにぶつかり合ったという文明の衝突です。本日の個所の少し前に記されていますが、町にはエピキュロス派、ストア派という哲学の学派を信奉する人たちが大勢いました。二つとも古代ギリシャ世界を代表する哲学の学派です。これらの著作を読まないで大学の講義録程度のおおざっぱ知識で申し上げてしまいますが、エピキュロス派というのは簡単に言うと、人間にとって最高の善は幸福である、それはこの世で獲得されなければならない、なぜなら人間は死ねば魂は分解して原子になってしまうから。そういう唯物的な考え方をしていました。言葉は悪いですが、死んでしまえば元も子もない、だからこの世の中ではとことん幸福を追求しよう、ということでしょう。ストア派というのは、森羅万象を支配するものを「神」
とするが、それは人格がなくて心のない法則のようなものである。人間はその法則に従って生きることで道徳的になれる。ただし森羅万象には周期があって大きな火で焼かれては繰り返される。魂は死んだ後も残るが、それは人格のない神のところに行って時期が来たら森羅万象と一緒に焼かれてしまう。なんだか想像を絶する話ですが、これだけ大いなるものに支配されていると観念できれば、本能や欲望を抑えてひんやりと平静に生きていけるかもしれません。
さて、パウロはユダヤ人の会堂だけでなく、町の広場でもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そこで前述したような哲学者たちと議論することになったのです。その結果、アレオパゴスというところに連れて行かれ、そこで宣べ伝えていることを弁明することになりました。アレオパゴスとは、もともとは裁判所の機能を果たす市民の代表者の集会場でした。その頃は、いろいろな教えを調査する機能も果たしていました。
パウロはアレオパゴスの真ん中に立って、居並ぶ議員、哲学者の前で話し始めます。二つの異なる文明が火花を散らす瞬間です。ところで先ほど、ギリシャ文明は理性を重んじる哲学的な文明で、パウロが持ち込んできたのは神の啓示を重んじる信仰の文明と申し上げました。そう言うと、あれ、ギリシャ文明には沢山の神々がいたではないか、ゼウスを頂点に、美と愛の女神アフロディテだの、豊穣の神ディオニュソスだの、海の神ポセイドンだの、死者を陰府に導くヘルメス等々、沢山いたではないか?多神教のギリシャ文明も実は信仰の文明ではないか?それがどうやって理性を重んじる哲学的な文明と一緒なのか?詳しいことは専門家に聞かなければなりませんが、大体次のようなことだと思います。これらの神々は人間の思いや願い恐れが結晶して出来たシンボルのようなものです。その意味で人間内部から生み出されたものです。それが人間の外部にあるように置かれて神として崇拝されるのです。そういうわけで、パウロがアテネで遭遇した人間知性の最先端を行く哲学と多神教の神々という二つの異なるものは、実は双方とも人間内部から生み出されたものということになり、同じ範疇に入れても良いものでしょう。
そこで、私たちの聖書の神ですが、これは人間の思いや願いや感情の結晶、シンボルではありません。神は、完全に人間の外部にあって人間を含む万物を造った方で、人間の理性などで把握できる方ではない、というのが聖書の立場です。
さて、パウロは人間の理性に重きを置く人たちに神の啓示を伝え始めます。まず、アテネの皆さん、あなた方が信仰あつい方であることをわたしは認めます、と言って敬意を表します。お前たちは偶像崇拝ばかりしてどうしようもないやつらだ!というような高飛車な態度ではありません。彼は、ある祭壇に「知られざる神に」という文句が書かれていたことに触れて、それを取っ掛かりにして、自分はその神を知っているのでお教えしましょう、と言って話を始めます。「知られざる神」というのは、ギリシャ人の神々崇拝では前述したような名前と役割の神々がいろいろいるのですが、ひょっとしたらまだ見つかっていない神が他にもいるのではないか(正確に言えば、まだ作りだしていない神がいるのではないか、ということですが)、そういう不確かさがあるために、崇拝し忘れた神がないようにと念のためにそう書いたのです。そういう測り知れない神がいるという認識がギリシャ人にあったことが、パウロにとってちょうどよい取っ掛かりとなりました。
その測り知れない神とは、世界とその中の万物、私たち人間も含めた万物を造られた方である、まさに万物の創造主であり天地の主であるから、人間の手で造った建物なんかに住まないし、また何か足りないものがあるから人間にいろいろ供え物してもらったり世話してもらう必要もない。逆に神こそが人間に必要なもの、命、息吹その他全てのものを与えて下さるのである。そのようにして、神は人間に大事にされるお人形さんみたいではなくなって、私たち人間の方が神に大事にされる、というふうに視点を逆転させていきます。
次にパウロは、神が一人の人間から始めて諸民族を作りだした目的について述べます。神はそれぞれの民族に歴史と居住地域を定めたと言います。ここのところは新共同訳では神は「季節を決め」たとありますが、少し怪しい訳です。ギリシャ語原文は少し複雑ですが、要は神はそれぞれの民族が「どのような歴史をたどるか前もって定めた」という意味です。英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も大体そのような訳です。ルター訳はずばり諸民族の存続期間が定められると言っています。
神は何のために諸民族に歴史と場所を与えたのかと言うと、それは、彼らに神を探させるためであった、とパウロは言います。果たしてそれはうまく行ったのか?ギリシャの人たちは神を探しているようで、実は偶像ばっかり作ってしまって全然見つけられていないではないか。新共同訳では、「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」となっていますが、探し求めても実際は見いだすことはできていないのです。ギリシャ語原文も新共同訳のような楽観的な意味はないと思います。「もし、手探りをして見つけられるんだったら、やってみよう、という思いで神を探させたが、現実はそう甘くはなかった」というような残念でしたという意味だと思います(後注)。
ところが、神は私たちから遠く離れた方ではない、本当は近くにおられてちゃんと見つけることが出来る方である、見つけられれば、もう偶像など作る必要もなくなるのだ。神が私たちから遠く離れていないというのは、あなたたちの先人の詩人(紀元前300年代の詩人アラトス)も書いているではないか?そのように言うことでパウロは、ギリシャの同胞にも同じことを考えた人がいました、と指摘して、人々の目を天地創造の神に向けさせようとします。問題の詩で言われていることは、「我々は神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」ということです。これがギリシャ人も神が近くにいると考えている根拠として言われます。ところが、パウロが神は近くにあると言う意味とギリシャの詩人がそう言うのでは意味内容は全く異なっています。ギリシャの詩人が言っていることは、神は人間界にも自然界にもどこにでも浸透しているように存在するという汎神論の考えを表わしています。
パウロが神は近くにおられるというのは、神は人間一人一人に対して、断ち切れてしまっていた結びつきを回復してあげようと働きかけて下さっている、そういうふうに、人間界、自然界という大きなことはひとまず脇において、一人一人の小さな人間に神が自分から働きかけている、そういう意味で神は近くにおられると言っているのです。神と人間の断ち切れてしまった結びつきを回復させるための神の働きかけとは何か?それは、神のひとり子イエス様がこの結びつきを壊す原因となった人間の罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間にかわって神の罰を受けられたということ、これが神の働きかけです。神のひとり子が身代わりになって罰を受けたので、人間はそれに免じて罪を赦してもらえ、罪の赦しの中で生きられる可能性が開かれました。そこで、こうしたことをされたイエス様は真に救い主であると信じて洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの中で生きられるようになり、罪の赦しを受けたので神との結びつきが回復して、その結びつきの中でこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあれば、順境の時も逆境の時も神から絶えず守りと良い導きが得られ、万が一この世を去って眠りにつくことになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて、造り主の神の御許に永遠に迎え入れられるようになります。このように、神はひとり子イエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを全ての人間に向けてどうぞ受け取って下さいと提供している。それで近くにおられるのです。そしてそれを受け取った人は、近くにいるどころが、まさに「その中に生き、動き、存在する」ようになるのです。ギリシャの詩人の詩の中で歌われる神の近さは、このような神からの人間に対する働きかけとそれを受け取ることから生じる近さではありません。近い、近い、と言っても何を根拠に言っているのかわかりません。
このようにパウロと詩人の考えは根本的に違っているのですが、パウロは見かけ上の共通点を切り口にして教え続けます。神の「子孫」ということに関しても、金や銀や石を使って人間の頭で考えて作った像を神にしてしまったら、じゃ人間はこんなものの子孫なのか、こんなものに起源を持つのか、つじつまが合わないではないか!君たちは自分で何を言って何をしているのか自分でもわかっていないのだ、なんと無知なことか!
ここでパウロはたたみかけます。「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが」。つまり、大目に見ることは終わってしまったのである。それを知らせる出来事が起きたのである。何かと言うと、死者の復活という、天地創造の神の力が働かなければ起きないようなことが起きたのである。神は全ての人が「悔い改めるように、と命じておられます」とありますが、この「悔い改める」というのはギリシャ語のメタノエオーです。これの正確な意味は「これまで神に背を向けていた生き方を改めて方向転換して神に立ち返る生き方をする」ということです。なぜ、神に立ち返る生き方をしなければならないか、と言うと、ここから先は旧約聖書の預言の世界に入っていきます。今あるこの世は初めがあったように終わりもある。今ある天と地はかつて神に創造されたものであるが、今の世が終わりを告げる時に神は新しい天と地に創造し直される。その時に死者の復活が起こり、新しい天と地の国に誰が迎え入れられて誰が入れられないかの審判が行われる。まさにそのために方向転換をして神に立ち返る生き方をしなければならない。もちろん、パウロはそこまでは立ち入っていませんが、神がこの世を裁く日を決めたということは旧約聖書の数々の預言に基づいています。預言されたことが本当に起こるということが、一人の者の死からの復活が起きたことで確証が与えられた。そして、その者は最後の審判の日に裁きを司る方である、と。
ここまで耳を傾けてきたアレオパゴスの議員たち、哲学者たちは、どう受け取ったでしょうか?彼らは、旧約聖書の伝統のない人たちです。天と地と人間その他全てを創造した神は、全ての民族の歴史と居住場所を定め、全人類の歴史の流れと常に共にある神である。全人類の歴史とその舞台であるこの世はいつかは終わりを告げ、新しい天と地に取って替わられる。これらのことは考えも想像もつかないことでしょう。これらは全て天地創造の神からの啓示として与えられたものでした。人間の理性で推し測って組み立てた宇宙像とはあまりにも異なっていました。もちろんパウロもその相違を知っていたでしょう。それで、旧約聖書の伝統のない彼らにいきなり、ナザレのイエスはメシア救世主だったと言って始めなかったのでしょう。誰がメシアかと言う問題はむしろ旧約聖書を持つユダヤ人向けのメッセージだったでしょう。それにしても、死者の復活ということがギリシャの哲学者たちにとって一番の躓きの石になったようです。先にも述べたように、エピキュロス派にすれば人間は死ねば魂は原子に分解してしまうのだし、ストア派にしても魂はいつかは燃やされてしまう。加えて、神が人間を罪の支配から救い出そうという意思を持ってひとり子をこの世に送ってそれを実行するというのは、人格を持たない法則のような神からあまりにもかけ離れています。
つまりは、理性の知性を磨きあげた人たちからみて、パウロの教えはあまりにもかけ離れすぎていてまともに受け入れられないものでした。ある人たちが嘲笑ったのも無理はありません。別の者は、いずれまた聞かせてもらうことにしよう、と言いますが、哲学者というのは疑問や関心があれば日が暮れるまでとことん議論し合う人たちです。そうしないでこう言ったのは、もうこれで十分、お引き取り下さい、ということを丁寧に述べたのではないかとも受け取れます。人々は席を立ちました。パウロも恐らく、今日のところはこれ以上何を言っても無駄と思ったかもしれません。
ところが、そうではなかったのです。何人かの人がパウロの後について行きました。ついて行った人たちの中で信仰に入った者が出たのです。信仰に入るというのは、イエス様を救い主と信じることですから、アレオパゴスを出て行った後で、パウロからさらに教えを聞いて、イエス様のことを聞いたのです。彼らがアレオパゴスでのパウロの話を聞いて、どのようにして、もっと聞いてみようと思うようになったのか、それについては何も記されていません。ただ、背景全体から考えると、次のようなことではないかと思います。よくお聞き下さい。
これまでずっと何かおかしいと思いつつも、何がどうおかしいのか、はっきりさせようにも、伝統の重みとか、知識人の言葉の重みとかに遮られて明確にできないでいた。例えば、自分たちが神に起源を持つと言いながら偶像を造って崇拝することの矛盾。そして、死んだら全て消滅してしまうとか、冷徹な法則の一部分のようにしか生きられないのなら、この世で生きる意味と目的は本当にあるのか?それが、パウロの教えから「知られざる神」が天と地と人間を創造した神であり、人間に向かって私を見出しなさいと働きかける神であるということ、そして、この世を去っても消滅しない命があり、その命を生きられる世が来ること、それが本当に起こることの確証として一人の者が死から復活させられたということを聞かせれる。では、その者とは誰なのか?ここまで来たら、あとはイエス様がメシア救い主であるという福音を聞くことだけです。この福音を聞いた時、天地創造の神は約束されたことを守り、それを必ず実現される方であるとわかったでしょう。不確かさと変転極まりないこの世にあって、信頼して絶対に大丈夫な方がおられるというのは、何と励まされ勇気づけられることでしょうか!
兄弟姉妹の皆さん、私たちも聖書の御言葉を通して同じ信頼を持つことができ、同じ励ましと勇気が与えられます。そのことを忘れないようにしましょう!
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)動詞ψηλαφησειανとευροιενのアオリスト・オパティヴの意味をよく考えなければなりません。ドイツ語も突き放した感じの訳だと思います。英語、スウェーデン語、フィンランド語は「多分、見つけることができるかもしれない」と見つけられる可能性に踏み込んでいます。
2020年5月14日 聖句 詩篇91篇4〜6節 題「主の守りの翼の中で」 フィンランドの讃美歌552 歌とピアノ ミルヤム・ハルユSLEY宣教師
2020年5月10日 復活後第四主日「聖句と教え」
使徒言行録7章55-60節、第一ペトロ2章2-10節、ヨハネ14章1-14節
説教題 「神よ、我を統(す)べたまえ、我、おのが務めを果たすべし」」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1.
本日の福音書の箇所は、イエス様が十字架刑にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じられます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが大きな不安を抱き始めたために、イエス様が述べた言葉です。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?
弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど無数の奇跡の業を行って、誰が見ても天地創造の神が彼と共にいることがわかりました。また、創造主の神の意思について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する本当のユダヤの王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現の日が近づいたと期待に胸を膨らませました。ところが、イエス様は突然、自分はお前たちのところを去っていく、自分が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それではダビデの王国はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえ、イエス様は支配者層やエリートたちの反感を買っているのに、彼がいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれるように取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは現代を生きる私たちにも大事なものです。以下にそれについてみていきましょう。
2.
イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、死から復活して復活の体を持つイエス様がいるのに相応しい場所、すなわち天のみ神のもとに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。それは、聖書の観点では今のこの世が終わって新たに創造される天と地のもとで新しい世が始まる時のことです。この時、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて父なるみ神の御許に迎え入れられます。
これら全てのことの初めにイエス様の死からの復活があるのですが、復活があるということはイエス様が死んだということが前提にあります。これらの出来事が一体何なのかは、神のひとり子であるイエス様がどうして死ななければならなかったのかがわかるとわかります。
まず、イエス様が十字架に掛けられて死なれたことで人間と神の間を引き裂こうとする力が消えました。人間と神の間を引き裂くものを「罪」と言います。その罪の力が十字架の出来事で消えたのです。どうしてかと言うと、罪のために本当だったら人間が神から受ける神罰を彼が代わりに引き受けて下さったのです。それで今度は人間の方が、イエス様は本当に身代わりになって死なれたのだとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す」と言って、その人の罪を赦します。そのようにして創世記の堕罪以来失われていた神と人間の結びつきが回復します。もちろん人間はキリスト信仰者になっても、まだ肉をまとって生き続けますから、罪は内に残っています。力を失ったくせに隙を狙っては弱いところを突いてきます。そのような時、キリスト信仰者は次のように自分に言い聞かせます。今の自分は神のひとり子の犠牲の上に成り立っている、神はひとり子を犠牲に供するくらいにこの自分を大事なものと見て下さった、だからそれに相応しい生き方をしよう、神の犠牲を汚すようなことはしないのだ、と。そのように神に立ち返る人に対して神はイエス様の犠牲に免じて罪の赦しをお恵みのようにいつも与えて下さいます。その人は神との結びつきを持てて生きていけるのです。
十字架の出来事に加えて、神はイエス様を死から復活させられました。これによって、死を超える永遠の命に至る道が人間に開かれました。こうしてイエス様を救い主と信じて日々罪の赦しの恵みの中に留まる者は復活の日の永遠の命に至る道に置かれて、その道を神に守られて進んでいきます。この恵みに留まる限り、罪も死も悪魔もその人を邪魔することはできません。このように、ひとり子イエス様を用いて私たちを罪と死の支配から解放して下さり、永遠の命に至る道に置いて歩ませて下さる父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。
イエス様はまた戻って来ると言われた後で、「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」と言われます(4節)。それに対してトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわかりません。もっともなことです。これに対してイエス様は次の有名な言葉を述べます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。これで、イエス様がこれから行こうとしている場所は、天の父なるみ神がおられるところ、すなわち天と地と人間を造られ人間一人一人に命と人生を与えられた創造主の神がおられるところであることが明らかになりました。そして、イエス様自身がその父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道なのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞がついています(η οδος, η αληθεια, η ζωη 英語やドイツ語の訳も同様で、the way, the truth, the life、der Weg, die Wahrheit, das Lebenと言っています)。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。いくつかある道の中の一つということでなくなり、この道を通らないと創造主のもとに行けないという唯一の道になります。
こういうことを言うと、宗教の業界では煙たがれるでしょう。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だなど、と。ところで最近よく聞かれる考え方にこういうのがあります。天国でも極楽浄土でもなんでもいいが、この世から死んだあと何か至福の状態があるとすれば、そこに至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、という考え方です。キリスト教の中にもそのように考える人がいます。しかしながら、神の言葉とされる聖書に神のひとり子の言葉としてある以上は、煙たがれようがなんだろうが御言葉を水で薄めるようなことはしないで、そのままの濃度で保つべきではないかと考えます。それに、同じ到達点と言っているものは本当に同じなのかどうか考えてみなければならないと思います。諸宗教が目指す至福は果たしてみんな同じものでしょうか?キリスト教の至福について今回は立ち入りませんが、次の4点は覚えておくべきでしょう。第一に、今の世が終わって新しい世が来るという終末論があること、第二に、「復活の体」という新しい世に対応する有り様があること、第三に、最後の審判というのがあり、この世での正義の問題にしっかり目が向けられていること、第四は、イエス様を救い主と信じる信仰に生きると、この世の段階で至福との繋がりが出来ているということ、以上です。
イエス様は道以外にも、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのは次のような意味です。人間と造り主との結びつきが失われた原因は罪である。罪は人間が神の意思に反するように持っていこうとする。そこで神はひとり子の犠牲によってその力を無にした。こうした人間の罪ある状態と神の人間に対する愛と憐み、この二つが否定できない真理になっています。この神の憐れみと愛を実行に移したイエス様は真理そのものなのです。
命の決定版ということについて。イエス様が「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは今のこの世の人生のことだけでなく、今の世が終わった後に始まる次の世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じる者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さいます。それで、イエス様は命の決定版なのです。
3.
7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい、御子と父は一緒の存在であるということが、7節から11節まで強調されます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は思いました。つまり、イエス様と父なるみ神は一緒の存在であるということがまだ信じられないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。十字架と復活の出来事の後、弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から送られた神のひとり子であったとわかります。さらに、イエス様は父の人間に対する愛と憐みを実行に移すために自分を犠牲にするのを厭わなかったこともわかりました。それくらい御子は父に従順だった、彼が教え行ったことは全て父が教え行ったことであった、彼が自分から好き勝手に教えたり行ったのではなかったのだ、ということもわかったのです。
12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのか?
弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげる可能性を開いた。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにした。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。
さらに、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がりました。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。その意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになると言えるのです。この弟子たちの活動はイエス様が天に上げられた後で本格化します。イエス様は自分が天の父のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束していました(ヨハネ14ー16章)。聖霊は福音が宣べ伝えられる場所ならどこででも働かれ、人間が罪に囚われた状態にあることと、そこから解放する神の愛と憐れみについて人々が気づけるように導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、その働きに支えられて弟子たちが伝道して群れがどんどん大きくなっていったのです。
イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければならない、利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまうとわかります。神との結びつきを持てて永遠の命に至る道を進む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは「この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように」ということに行きつくのではないかと思います。同時に、まだ結びつきを持てておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない隣人のために「始まりますように」という願い祈りも切実なものになると思います。イエス様がその通りにしてあげようと約束された以上は、たとえ何年何十年かかってもそれを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の重要な任務です。
4.
以上、本日の福音書の箇所を駆け足で見てきました。最初に述べた問題に戻りましょう。イエス様が天のみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになる。それでも心を騒がせないで済むのだということをイエス様は教えられました。何を根拠にそうなれるのでしょうか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰によって自分は父なるみ神との結びつきを持てた、そして永遠の命に至る道に置かれて今その道を進んでいるのだ、という救いの確信があります。それに加えて、自分がこの道を歩めるために、また他の人も歩めるようになるために願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束された、これもキリスト信仰者にとって励ましと慰めになります。心を騒がせる必要はなくなります。
先ほど申しましたように、ヨハネ14章7~11節では父と御子が一緒の存在であることが強調されていました。宗教改革のルターは、そのことがわかると私たちの心は平安になり、全てのことは神の御心のままに起こってよいという心意気になるということを教えています。次のような教えです。
「主イエスは、自分を知れば自分をこの世に遣わした父も知ることができると言われた。どうしてそのようなことが可能なのだろうか?それは、こういうことである。君は、御自身の命を投げ打ってまで君に仕えたイエス様が神そのものであると知った時、イエス様は実は父が与えた務めを果たしたにすぎないということがわかる。その時、君の魂は、務めを果たした御子を経由してその務めを与えた父へと高められる。こうして君の心は父なるみ神への信頼で溢れ、神が本当に君の愛すべき父になる。 父なるみ神をこのように知ることができたら、君は全てのことは神の御心のままに起こってよいと、神の決定権を受け入れられるようになる。なぜなら父なるみ神は君にとって全てになっているからだ。この時、君の心は神の住む場所になって全てのことを静かに受け入れられる、へりくだった心に変わる。まさに、主イエスが自分を愛する者のところに父と一緒に行き、父と一緒にそこに住むと言われたことが実現するのである。 我々は神の栄光、力そして知恵を知りうる域に達しなければならない。そこに達した時、我々は神が我々に関する全てのことを決定するのを受け入れられるようになるし、また、全てのことは神の業であるということもわかる。そうなれば、我々はもう何も恐れるものはなくなる。寒さ、空腹、地獄、死、悪魔、貧乏その他これらに類するものを恐れなくなる。なぜなら、我々の内に住む神は、悪魔、死そして地獄の力の総和よりも勝っているとわかっているからである。このようにして我々の内に、この世の全てのことに立ち向かう勇気が育っていく。我々には神がついておられるので、その栄光と力と知恵に与ることが出来る。それなので、あとは何をも恐れずに自分たちに課せられた務めをしっかり果たしていくだけなのである。」
「主イエスは、自分を知れば自分をこの世に遣わした父も知ることができると言われた。どうしてそのようなことが可能なのだろうか?それは、こういうことである。君は、御自身の命を投げ打ってまで君に仕えたイエス様が神そのものであると知った時、イエス様は実は父が与えた務めを果たしたにすぎないということがわかる。その時、君の魂は、務めを果たした御子を経由してその務めを与えた父へと高められる。こうして君の心は父なるみ神への信頼で溢れ、神が本当に君の愛すべき父になる。
父なるみ神をこのように知ることができたら、君は全てのことは神の御心のままに起こってよいと、神の決定権を受け入れられるようになる。なぜなら父なるみ神は君にとって全てになっているからだ。この時、君の心は神の住む場所になって全てのことを静かに受け入れられる、へりくだった心に変わる。まさに、主イエスが自分を愛する者のところに父と一緒に行き、父と一緒にそこに住むと言われたことが実現するのである。
我々は神の栄光、力そして知恵を知りうる域に達しなければならない。そこに達した時、我々は神が我々に関する全てのことを決定するのを受け入れられるようになるし、また、全てのことは神の業であるということもわかる。そうなれば、我々はもう何も恐れるものはなくなる。寒さ、空腹、地獄、死、悪魔、貧乏その他これらに類するものを恐れなくなる。なぜなら、我々の内に住む神は、悪魔、死そして地獄の力の総和よりも勝っているとわかっているからである。このようにして我々の内に、この世の全てのことに立ち向かう勇気が育っていく。我々には神がついておられるので、その栄光と力と知恵に与ることが出来る。それなので、あとは何をも恐れずに自分たちに課せられた務めをしっかり果たしていくだけなのである。」
以上がルターの教えでした。キリスト信仰者にはそれぞれ神から与えられた務めがあります。仕事がある人はそれが務めであり、ない人はそれを探し求めることが務めであり、家族や他に世話をしたり助けたりする人があれば、世話をしたり助けるのが務めであり、病気の人は健康になることが務めです。人によっては複数の務めを同時に担う人もいます。いずれにしても務めは置かれた立場や状況や時によって変わります。しかし、違いや変化はあっても務めの果たし方にはいつも共通点があります。それは、神の意思に従って正しく果たすということです。「神の意思に従って正しく」務めを果たすというのは、大きく言えば、神を全身全霊で愛しながら果たし、隣人を自分を愛するが如く愛しながら果たすということです。細かいことは十戒を見るとわかります。務めを果たす時は、例えば人を傷つけたりしないで果たす、嘘をついたり偽証したり改ざんしたりしないで果たす、不倫などしないで果たすということです。キリスト信仰でこういう神の意思に従うということにこだわるのは、神がこわいからそうするのではありません。そうではなくて、神が大きな代償を払ってまでこの自分を大事に受け入れて下さったので、そうするのが当然というにすぎないのです。
神よ、我を統べたまえ。
パイヴィ・ヨシムラ宣教師と一緒にフィンランドのオートミールパンとストロベリーシェイクを作りましょう!出来上がった後、フランネルの劇「良い羊飼いと100匹の羊」」という聖書のお話を観ます。
オートミール 200ml 小麦粉(薄力粉) 200ml ベーキングパウダー 小さじ2 塩 小さじ1/2 すりおろした人参(大きめ ) 1/2 本 シロップ 大さじ1 油 大さじ3 牛乳 120 ml
1. オートミール、小麦粉、ベーキングパウダー、塩をボールに入れて混ぜる。 2. 人参の皮をむいてすりおろす。 3. すりおろした人参、油、シロップと牛乳を1.に入れて混ぜる。生地は柔らかくて大丈夫です。 4. 鉄板の上にパイシートをしく。 5. 生地を二つに分けて、パイシートの上にのせる。 6. 生地の上に少し小麦粉をふりかけて、手で丸く伸ばす。 7. 丸くした生地の表面にナイフで四等分の十字の印をつけて、フォークで少しさす。 8. 200℃のオーブンで15分くらい焼く。きれいな焼き色が出来るまで焼く。
牛乳 250ml バニラアイス 200ml バナナ 1本 イチゴ 200g
1. イチゴを洗って葉っぱをとる。 2. イチゴをボールに入れて、ミキサーで混ぜる。 3. バナナと牛乳をボールに入れて、ミキサーで混ぜる。 4. バニラアイスを3.に入れて混ぜる。シェイクをコップにそそぐ。
「聖句と祈りのひと時」 題 「安かれ、わが心よ」 聖句 ヨハネによる福音書14章27節 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師 ピアノと歌 ミルヤム・ハルユ 宣教師、 教会賛美歌337番
復活節第三主日「聖句と教え」 説教 歌 フルート演奏 マルッティ・ポウッカ 牧師 聖書朗読 パイヴィ・ポウッカ 宣教師
4月30日(木)18時30分「聖句と祈りのひと時」 パイヴィ・ヨシムラSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師 聖句 詩篇118篇24節 「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」 題「今日の日は主が与えて下さる日」
主日礼拝説教 2020年4月26日 復活後第二主日
本日の福音書の個所は、イエス様が復活された日の出来事の一つです。その日の朝、イエス様の墓に行った女性たちが墓の前に置かれた大きな石がどかされて中が空っぽなのを目撃しました。さらに天使が現れてイエス様が復活されたことを告げ知らせました。女性たちの報告を聞いたペテロたちが墓を見に行くと本当に空っぽでした。その後で復活されたイエス様が弟子たちの前に姿を現し始めます。本日の個所の出来事は同じ日の夕刻に起きたものです。
二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かっていました。そこに突然イエス様が合流しました。弟子たちはどういうわけかそれがイエス様と気づかず、一緒に歩き出します。道中イエス様に旧約聖書について教えられて、その晩滞在した家でイエス様だと気づいた時に姿が消えてしまったという話です。これは日本人の多くには怪談話に聞こえるのではないでしょうか?以前の説教でもお話ししましたが、この話はキリスト信仰者には全く怪談話に聞こえません。なぜかと言うと、信仰者はこの出来事を復活という視点を持って聞くからです。復活とは死に対する勝利です。怪談話には、復活の視点もなく死に対する勝利もありません。それは死に負けて死と死者とに支配されている世界の話です。キリスト信仰者というのは、死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越ししてしまったので、本日の個所をはじめ他の復活に関わる出来事を聞いても全然不気味に感じません。逆に大きな希望を抱かせる出来事に聞こえます。キリスト信仰者でない人でも、もしそのように聞こえてきたら、それは死に打ち勝った世界に引っ越しする見込みが出てきたということです。
それでは人間はどうしたら死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越しできるのでしょうか?これも以前お教えしたことですが、少しおさらいしておきます。
復活とは死に対する勝利です。死に対する勝利とはどういうことか?聖書は次のように教えます。たとえこの世から去ることになっても、将来、復活の日というのがあり、その時に復活の体を着せられて永遠の命を持てて、造り主の神のもとに永遠に迎え入れられる。そして、同じように復活させられた人たちと再会するということです。人間がこのように復活の日に復活できるために神はイエス様をこの世に贈って一つの使命を果たさせました。それは、イエス様が十字架にかけられて死を遂げたことで、私たち人間が持っている罪の神罰を全部代わりに受けてくれたということです。イエス様が私たちに代わって罪の償いを全部神に対して果たして下さったのです。そこで人間がこれは本当に自分のために起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いがその人の内になだれ込んできます。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえます。それでその人は神との結びつきを持ってこの世を生きるようになります。その人は復活の日の永遠の命と再会が待っている神の国に向かう道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んでいきます。
人間が罪の償いと赦しを受けると、罪は以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても出来なくなりました。神のひとり子が果たしてくれた償いはそれくらい完璧なものだからです。罪は破綻してしまいました。それでも罪はまだ力があるかのように見せかけて、キリスト信仰者の隙や弱いところを突いてきます。不意を突かれてしまう信仰者もいます。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせ、罪の赦しは微動だにせずちゃんとあると気づかせて下さいます。その時、私たちは、これからはもう神のひとり子の犠牲を汚さないように生きよう、罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このようにキリスト信仰者の人生は絶えず十字架の下に戻ることを繰り返しながら、洗礼の時に新しく生きることになった新しい命を大事にしていこうとする人生です。そして最後は、復活の日に神の栄光を受けて光り輝きます。
イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者に対して罪はこのように破綻しています。罪が破綻している人に対しては死も力を失っています。なにしろ、その人は死を超えた永遠の命に向かう道を神に守られて進んでいるのですから。人間が罪の償いと赦しの中に留っている限り、死はその人に何もなしえません。もう死に支配される世界にいません。死に打ち勝った世界に引っ越したのです!使徒パウロは第一コリント15章20節で「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています。実にキリスト信仰者にとってこの世を去る死とは、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りに変わってしまったのです!イエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡を行いました。それは復活ではなく蘇生だったのですが、彼が将来死者を復活させる力があることを前もって具体的に示す奇跡でした。その時彼が死んだ人のことを「眠っている」と言って生き返らせたのは象徴的です。
次に、復活して天に上げられたイエス様が今どのように臨在されるのかということについて。マタイ28章20節でイエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのに、天に上げられてしまったらどうなるの?と心配になります。でも心配には及びません。「共にいる」というのは、体を伴った臨在ではなく、体を伴わない霊的な臨在です。イエス様からすれば霊的な臨在は現実にあるものですが、私たちからすればそれが現実にあるものか確かではありません。しかし、「お前がどう感じようが、それは確かな現実なのだ思い知れ」というものがあります。洗礼と聖餐です。これらを受けたら霊的な臨在はお前たちの目には確かでなくても神の目から見て確かなものになるのだ、というものです。洗礼や聖餐というのはそれ位すごいことなのです。だから神聖な儀式なのです。洗礼と聖餐に加えて、聖書の御言葉を読み聞くこともイエス様の霊的な臨在を現実のものにします。ただし、臨在を現実にする読み方聞き方があります。そうでない読み方聞き方もあります。そのことを本日の福音書の個所は教えています。それについて見ていきます。
イエス様の臨在を現実のものにする聖書の読み方聞き方とは一体どんな読み方聞き方なのか?このことも以前お教えしましたが、振り返ってみます。どうして二人の弟子はイエス様のことをすぐ気がつかなかったのか、それがどのようにして気づくようになったのか、このプロセスを見ていくとわかってきます。
二人の弟子の前にイエス様が現れた時、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ24章16節)とあります。「遮られて」というのはギリシャ語原文では受け身の形です。新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「~によって」という動作の主体がない場合は多くは神が隠れた主体になります。「神によって」が省略されているということです。そうすると神が二人の目を遮ったことになります。これは全く不可解なことです。なぜ神は、ただでさえ復活の体を纏うイエス様は気づきにくいのにわざわざ目を遮ってもっと確認しにくくする必要があるのか?マグダラのマリアの場合、最初気づかなくても、イエス様の「マリア」という呼び掛けで気がつきました。エマオの道では、話声をずっと聞いているのにそれでも気づかない。神はなんでそんな意地悪をするのか?
神が何らかの目的をもって人間の心を鈍らせて目を曇らせるというのは実は、旧約聖書、新約聖書を貫いてある難しいテーマの一つです。これを取り上げてお話しすると一回や二回の説教では足りないのでここでは立ち入りません。このエマオの道の出来事に焦点をあてて見ていくことにします。
神はなぜ二人の弟子の目を遮ったのでしょうか?ここで逆に考えてみましょう。もし、神が二人の目を遮らないで、二人はすぐにか、またはマリアのように声をかけられてイエス様とわかったとします。そうしたら、その後で起こったことは起こらなくなります。その後で起こったこととは何でしょうか?それは、弟子たちが旧約聖書を正確に理解していないことが暴露されて、それをイエス様に正されたということです。もしすぐイエス様とわかって再会を喜び合ってめでたしめでたしになってしまったら、弟子たちの旧約理解は訂正されずそのままだったでしょう。
それでは、弟子たちの旧約理解の何が問題だったのでしょうか?彼らは、イエス様のことを「預言者」だったと言い、「あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていた」と言います。つまり彼らにとって、イエス様というのは、奇跡の業と神の権威を感じさせる教えをした偉大な預言者で、イスラエルを占領者ローマ帝国から解放してくれる民族の英雄だったのです。それが十字架につけられて処刑されてしまったので民族の悲願は水泡に帰してしまったのでした。
十字架と復活の出来事が起きる前は、このようなイエス理解は一般的でした。弟子たちの間でもそうでした。ところが、旧約聖書にあるメシア預言はそういう一民族の独立・解放についてではなかったのです。天地創造の神の計画は人類全体にかかわるものだったのです。メシアとは民族の英雄ではなく文字通り全ての人間の救世主だったのです。預言がそのように理解されなかったのは、それはユダヤ民族の辿った歴史からすればやむを得ないことでした。イエス様が処刑されてしまい、弟子たちはこれで万事休すと思ってしまいました。ところが、その後で彼らにとって想定外のことが起こりました。処刑されて葬られたあの方の遺体が墓になかったのです。これは一体なんなのか?エマオの道で二人の弟子たちはこのことを話し合っていたのでした。
合流したイエス様は旧約聖書をもとにメシアの正しい意味を教えていきます。一民族の他民族支配からの解放物語ではない、人類を罪と死から解放する者である、と。それまでの旧約聖書の理解が塗り替えられていきます。同じ文章なのに違う意味が輝きだします。エルサレムからエマオまで約11㎞、話しながら歩いたら3時間位でしょうか、その間どんな教えが述べられたのかは本日の個所に記されていないのでわかりません。それでも、あのイザヤ書53章の、人間の罪を神に対して償うために自らを死の苦しみに委ねる「主の僕」の預言は間違いなくあったでしょう。ここで少し話がそれますが、フィンランドで7年ほど前に「旧約聖書におけるキリスト」という本が出されました(後注1)。20人近い神学者による共著で500ページ位あります。このように旧約聖書にイエス様を見出すというのは一ヵ所や二か所の聖句では済まないことなのです。かと思えばその本が出る2年前にはラートというフィンランドの世界的に著名な旧約釈義学の教授が「詩篇におけるキリスト」という本を出しています(後注2)。詩篇だけに限定しているのに400ページあります。宗教改革のルターは旧約聖書を読む時はキリストを見出すように読むべしと教えていますが、さすがルター派の国の神学者たちです(正確に言えば、これらの著者たちはルター派の中でも保守的な人たちです)。
話をもとに戻します。イエス様の説き明かしを聞いているうちに、弟子たちの絶望と失望が消えていきました。旧約聖書の新しい意味と空の墓と「復活された」という天使の言葉が結びつきました。二人の弟子が後で述懐しているように、イエス様の教えを聞いていた二人の心は燃えていました。この「心が燃える」ということについては後で見ていきます。
面白いことに、この段階でも彼らはまだイエス様と気づきません。神はまだ彼らの目を遮っているのです。どうしてなのでしょうか?イエス様がパンを裂いて渡した時に「二人の目が開け、」イエスだと分かりました(24章31節)。日本語訳で「目が開け」と言っているのはギリシャ語原文では「開かれた」と受け身の形です。つまり「神によって」開かれたのです。神はどうしてパンを裂く時になってやっと彼らの目を開いて気づくようにしてあげたのでしょうか?しかも気づいた瞬間イエス様の姿はありませんでした。意地悪をしているのでしょうか?いいえ、そうではありません。これは、聖書の御言葉を正しく聞くことと聖餐式を受けることがあれば体の臨在がなくても霊的な臨在があるということを言っているのです。体の臨在がなくても物足りないということにはならないのです。見て下さい、イエス様の姿が消えた時、弟子たちにはがっかりした様子は全くありませんでした。御言葉と聖餐でイエス様の臨在が現実のものなったのです。
最後に、二人の弟子が道中、イエス様の旧約聖書の説き明かしを聞いていた時、心が燃えていたというのはどういうことか見てみます。「心が燃える」と聞くと、何か、気分が高揚している状態、元気一杯でやる気に満ちた状態、または感動、感激している状態などが頭に浮かぶでしょう。本説教では、私たちが感じたり経験したことを出発点にして弟子たちの「心の燃え」に迫っていくことはしません。そうではなく、御言葉だけを手掛かりにして弟子たちの心の状態に迫ってみようと思います。私たちが感じたこと経験したことを聖書に注入して聖書が分かったと言うのではなく、聖書の方から私たちに語ってもらうことに徹します。
「燃える」と言うのはギリシャ語のカイオーκαιωという動詞です。意味は新約聖書の中では「明かりを灯す」という意味(マタイ5章15節、ルカ12章35節、ヨハネ5章35節)と「燃やす」という意味(ヨハネ15章6節、第一コリント13章3節)で使われています。これが「心」と結びつけて言われるのは本日の個所以外には今のところ確認できませんでした。日本語の「心が燃える」に比べたらあまり普通の言い方ではなさそうです。それなので、「明かりを灯す」と「燃やす」の意味を念頭において考えてみることにします(後注3)。その場合、「心が燃える」というのは、心を枯れ枝みたいに燃やしてしまうことではなく、心に明かりが灯った状態を言うのでしょう。それでも「燃える」意味も付随していると考えると、光と一緒に熱さ温かさがあるということでしょう。そうすると「心が燃える」というのは、それまで光が見えない、暗闇の中だったのが光が見える状態になったことと、冷え切って寒々とした状態だったのが熱さ温かさを感じるようになった両方の変化が含まれます。これが弟子たちの心に起きた変化だったということになります。
彼らはユダヤ民族の他の人たちのようにイエス様が民族をローマ帝国の支配から解放して神の国をこの地上に実現する王と信じて付き従っていました。ところが全ては見事に失敗しました。あれだけ熱狂と期待を持って付き従い、自分たちの人生をかけて付き従ったのに裏切られてしまいました。そればかりか、これからはローマ帝国当局やそれに取り入る支配層の目を逃れていかなければなりません。目の前は真っ暗になってしまいました。全ては無意味だった無駄だったとあざ笑う冷酷な宣告が重くのしかかっています。
それが、突然現れた男が旧約聖書の預言について、あれは民族の解放について言っているのではない、全ての人間の根本的な解放、罪と死からの解放について言っているのだ、神の送る僕が苦しんで死ぬことが言われていたのは、それが行われたのだ、しかも僕の死で全てが終わらないことも言われていたではないか、僕が死の中で朽ち果てることはないと言われていたではないか、だから墓は空だったのだ、まだわからないのか?
このようにして、弟子たちがイエス様と共にいた日々に見聞きしたこと全てが動かぬ証拠となって旧約聖書の理解が次々と塗り替えられていったのです。同じ文章なのに違う意味が輝きだします。失敗だったと思っていたものは失敗でも何でもなかった、期待外れと思っていたのもそもそも的外れな期待を抱いていただけなので期待外れなどない、無意味、無駄ということも、的外れなことに意味を求めていただけで、今となっては無意味、無駄ということは何もないということが分かってきました。全てが覆されて、暗闇しか見えなかったのが光を目の前にしています。「全ては無意味だった無駄だった」という冷酷な宣告は氷が融けるように消えました。これが弟子たちの「心が燃えた」ことです。目の前に光があり、冷酷な宣告から解放されたのです。
主にある兄弟姉妹の皆さん、私たちも同じように「心を燃え」させることができます。暗闇の中にいず光を見、「全ては無意味だった無駄だった」という冷酷な宣告を焼き尽くすことができるのです。なぜならキリスト信仰者は、およそ神の意思に沿うようにしようとして行ったものは、たとえ結果が思うようなものにならなくても、神の目から見たら無駄でも無意味でもなんでもないということを知っているからです。どうして知っているかと言うと、それが聖書の観点だからです。聖書の中で神は、復活の日に御許に迎え入れられた者たちの目から涙を全て拭われると約束しています。黙示録7章17節と21章4節です。旧約の預言書イザヤ書24章8節とエレミア書31章16節でも言われています。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全部含まれています。
弟子たちは、イエス様が救世主とわかって光を見、無意味・無駄だったことは何もないとわかりました。心が燃えました。そのイエス様を救い主と信じる私たちは、彼のおかげで神との結びつきを持てて今、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって進んでいます。この世で神の意思に沿おうと正しく立ち振る舞おうとしたら涙をこぼすことになるのは承知の上です。しかし、この道を行く以上は、それを全て拭ってもらえる日が来ることも知っています。だから、私たちは暗闇の中にいず光を見ています。無意味、無駄なことは何もないとわかっています。心が燃えているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
(後注1)”Kristus Vanhassa Testamentissa”, eds., Vesa Ollilainen & Matti Väisänen.
(後注2)”Kristus Psalmeissa”, Antti Laato.
(後注3)テクスト・クリティシズム(日本語では「本文研究」と言うのですか?)の問題になりますが、この「燃える」は異なる写本では、心に「覆いが被せられていた」κεκαλυμμενηというのもあります。つまり、道中イエス様が旧約聖書の説き明かしをしていた時にまだ心に覆いが被せられていたので彼と気づくことが出来なかった、という意味です。これは筋が通る、合理的な読み方です。しかしながら、テクスト・クリティシズムの基準の一つに照らし合わせれば、合理的な読み方というのは難解だったから後でそのように直したということになるので、問題の写本はルカのオリジナルを反映していない、「心が燃えている」と言っている写本が信頼できると判断されます。そうなると、「心が燃える」というのは古代のギリシャ語圏の人たちにとってもわかりにくい表現だったということになります。
これを理解しようとすると、例えば古代のギリシャ文学を片っ端から調べてκαιωが「心」と結びつけて使われる例を見つけて、そこから理解しようとすることが考えられます。ただ、この場合、ルカのテキストの背景にあるアラム語の会話があることを無視してしまいます。
会話のアラム語はどうだったかはもう知りようがありません。近いヘブライ語から接近してみようとすると(アラム語とヘブライ語が「近い」と言うのは乱暴な言い方ですが)、בערが考えられます。「燃やす」、「火をつける」が中心的な意味です。中には「怒りが燃える」もあります。辞書の中には「心」と結びつけた使い方はありませんでした。
聖句 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」聖書の第一ペトロ5章7節 メッセージ 「心配事の置き捨て場」 聖書の1、2節位の短い聖句をもとにした10分位のメッセージと祈りのひと時です。是非ご試聴下さい。
主日礼拝説教 2020年4月19日 復活節第一主日
聖書のヨハネによる福音書20章19〜31節
本日の福音書の個所は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張っていたのが、目の前に現れて信じるようになったという出来事です。その時イエス様は言いました。私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである。
私たちは誰でも目で見たら、その時はもう、信じるもなにもその通りだと言うでしょう。ところが、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を「信じます」とは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。
イエス様の弟子たちは主の復活の目撃者です。信じるも何もそうとしか言いようがなく、後に迫害が始まった時にも見たものを見なかったことにする改ざんは出来ませんでした。ところで、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。そのため、その後は目撃者の証言を信じるか信じないかということになります。彼らの証言を聞いて信じるのは、どうしてできたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも後に目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?
もしタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行くことが出来たら、ビデオ撮影をして、それをSNSで拡散することが出来ます。世界中の人が目撃できます。あっ、イエスは生き返っているぞ!壁をすり抜けたぞ、すごい、すごい、という具合に瞬く間に5,000万回、5億回と再生されて、いいね!や驚き顔の絵文字で溢れかえるでしょう。世界中の人がイエス様の復活はあったと言うでしょう。しかしながら、それは「信じる」ことではありません。使徒パウロはローマ10章9節で「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と述べます。「心で信じる」というのは、復活は頭では理解できないことだが心でその通りだと受け取ることです。SNSだと頭で理解する必要もないし心で受け取る必要もありません。瞬間的な反応だけです。そして、イエス様の復活の動画を見てすごいと感じても、もう次に投稿される凄いものを待ち始めています。イエス様の復活はギガバイトの堆積物の中に埋もれていくだけです。
パウロの言葉は、イエス様の復活というものは頭で一生懸命理解しようとしても受け取り不可なのだが、心は受け取り可と言っている、ということを意味します。心で受け取ることが出来るから目撃しなくても信じることができるのです。それでは、イエス様の復活を心で受け取るとはどういうことなのか?本日の使徒言行録の個所がそれを教えてくれます。そして、使徒書の日課第一ペトロの個所が、イエス様の復活を心で受け取った者はどのような心になるかについて教えてくれています。以下、それらについて見ていきましょう。
本日の使徒言行録の個所は、ペトロが群衆を前にして大々的な説教をしたところです。この説教はイエス様が天に上げられた10日後に天から聖霊が弟子たちに下ったという聖霊降臨が起きた時になされました。ペトロの大説教を聞いて3,000人近くの人が洗礼を受けました。聖霊降臨日がキリスト教会の誕生日とされる所以です。
聖霊降臨日というのは、あまり気づかれていないかもしれませんが、実はまさに復活したイエス様を目撃しなくても目撃者の証言を聞いて信じることができたことを示す出来事です。3,000人の人たちは、ペトロも言っているように、イエス様のことを何らかの形で知っていました。しかし、ペトロが彼らに対して自分たちは主の復活を証言できるのだと言うのをみると(32節)、聞き手の群衆は目撃していなかったのでしょう。(第一コリント15章でパウロは弟子たちの他にも500人以上の目撃者がいるといっていますが(6節)、そういう人たちは使徒言行録1章15節、22~22節からうかがえるように既に聖霊降臨の前に弟子たちに合流していたと考えられます。)
さて、3,000人の復活したイエス様を見ていない人たちが信じました。ペトロの説教の何が影響したのでしょうか?それを見ていきましょう。
ペトロの大説教の内容は全体的に見て、イエス様の出来事は旧約聖書の預言の実現だった、死からの復活もそうである、という旧約聖書とイエス様の関係を明らかにするものです。そして、イエス様の出来事を通して預言が実現したことが私たち人間に大きな意味があることを明らかにします。この、旧約聖書とイエス様の関係、その関係が私たちに意味があること、この二つのことがあって、見なくても信じる、頭では受け取ることが出来なくても心で受け取ることが起きたと考えられます。
まず、旧約聖書とイエス様の関係。イエス様の十字架の死と死からの復活によって旧約聖書の謎めいた個所が次々と明らかになりました。スオミ教会での説教でも何度も取り上げましたが、イザヤ書53章の「神の僕」とはイエス様のことを指すとわかるようになりました。天地創造の神の意思に反しようとする人間の罪を自ら背負って神に対して人間に代わって神罰を受けて死ぬ「神の僕
です。人間は彼が身代わりとなって果たしてくれた罪の償いを自分のものとすることで神と平和な関係を持てるようになる。イエス様の十字架の死とはまさにそのための犠牲であったことがわかるようになりました。この他にも旧約聖書にはイエス様の誕生から始まって地上での活動の一つ一つに当てはまる文言が無数にあることが明らかになりました。それらについてお話しすると何時間あっても足りませんので割愛しますが、死から3日後に復活することに関係するものとして「ヨナのしるし」に触れておきます。イエス様は預言者ヨナが3日間大魚の腹の中に閉じ込められて一巻の終わりになる寸前に脱出できたことは自分のことを言っていると言っていました(マタイ12章39~40節)。死からの復活でその通りになりました。(また、ホセア6章2節では神は打ち砕いても3日後に立たせてくれるということが言われていますが、これもイエス様の復活を指していたとわかるようになりました。)
ペトロの説教の本日の個所を見ると、詩篇16篇がイエス様の死からの復活を預言しているとして引用しています。特に10節を次のように引用しています。「あなたは、わたしの魂を陰府にすてておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」(使徒言行録2章27節、後注1)。イエス様は一度死なれたが陰府に捨て去られなかった、朽ち果てるままにされなかった、そのことが彼の復活で文字通り起こったというのです。なぜ神はイエス様を復活させたかというと、彼が死の囚われ者になるのはそもそも不可能なのだ、とペトロは言います(24節)。これはイエス様が神のひとり子であることを意味します。神のひとり子だから死の囚われ者になるのは不可能なのです。だから神が復活させたのは当然のことだったのです。
ここで23節に驚くべきことが言われていることに注目します。それは、「神が前もって定めた計画と神が全てを見通していることの下で」イエス様が引き渡されたと言っていることです。新共同訳には「あなたがたに」引き渡されたと言いますが、ギリシャ語原文には誰にとはありません。私はこれは、イエス様がイザヤ書53章や詩篇で預言された受難に引き渡されたことと考えます(後注2)。
さて、「神が前もって定めた計画と神が全てを見通していることの下で」受難に引き渡されたイエス様、これを「君たちは律法を知らない、つまり旧約聖書を持たない異邦人つまりローマ帝国の官憲の手を借りて十字架につけて殺してしまったのだ」とペトロは言います。神のひとり子は旧約の預言通りに受難に入る準備ができている。あとはそれが具体的にどう実現するかです。それをユダヤ教社会の指導層がいかさまな裁判をして、死刑の権限を持つローマ帝国当局に刑の執行を委ねたことで実現しました。
当の指導層の人たちは、やった、これで我々の権威を脅かしたあの男を始末したぞ、あのままほおっておいたら群衆がユダヤ民族の王に担ぎ上げてローマ帝国の軍事介入を招いてしまうところだった、やれやれ、と思ったことでしょう。指導者たちとしては、自分たちは自分たちの意思に基づいて行動し、それを見事に成し遂げたという気分だったでしょう。ところがそうではなかったのです。全てのことは「神が前もって決めていた計画と神が全てを見通していることの下で」行われたのです。指導者たちはそんな神の計画とお見通しという枠の中で結局はゲームのコマのように動いていたなどとは思いもよりません。神の意思の前で人間の自由などちっぽけなものにすぎないことを思い知らされる出来事です。しかも、死刑にしたはずのイエス様が死から復活してしまったら、全てがご破算になってしまったことになります。人間の意思や自由ではびくともしない神の厳然とした聳え立つような意思と自由を思い知らされます。
ペトロは集まった群衆に対して「君たちが十字架に架けて殺してしまったのだ」と言いました。実際にそれを行ったのは宗教指導層でした。ただ、群衆の中にはひょっとしたら、イエス様の裁判の時に指導者たちに扇動されて、死刑にしろと叫んでしまった人がいたかもしれません。または、十字架にかけられたイエス様を通りすがりか人だかりの中で見て一緒に罵った人がいたかもしれません。その意味で指導者たちの殺すことに加担したと言えます。ただ、この他にも、もっと遠巻きにいて事情がわからないず特に叫んだり罵ったりしなかった人もいたかもしれません。また、イエス様が何を教え何を行ったか噂を聞いていただけの人もいたかもしれません。この最後のグループは現代にいる私たちに共通するものがあります。私たちも、世界史の授業などでナザレのイエスが何を教え何を行ったかを聞いたり読んだりするからです。
ペトロがそれらの人を全部ひっくるめて「君たちが十字架にかけて殺してしまったのだ」などと宗教指導層と同罪だというのは少し乱暴すぎではないかと思われるかもしれません。しかし、イエス様を死刑に追い込んだ指導者たちと私たちには共通するものがあります。それは、自分たちの持つ意思や自由が絶対と思い込んでいることです。イエス様の十字架と復活の出来事は全て「神が前もって定めた計画と神が全てを見通していることのもとで」起きました。人間はそのような大きな流れの中にいることに気づかず、自由だと思ってやったことは実は神の大いなる自由の制約の中でのことだったのです。特にイエス様が死から復活させられたことは神の自由が有無を言わせない絶対なもので人間の自由ははかないものであることを示しました。神の自由は死を超えているのに、人間のはそうではないからです。このことに気づかない人は宗教指導層と同じです。「君たちが十字架にかけて殺したのだ」とペトロが言ったのは、群衆も神の自由の絶対さがわからなければ同罪だということだったのです。
ペトロの説教を聞いた群衆は神が旧約聖書でその意思を示し、それをイエス様を通してことごとく自由に妨げなく成し遂げたことがわかりました。神の大いなる意思と自由を思い知りました。人間の意思と自由のちっぽけさも。そのような絶対的な意志と自由を持つ方の前で人間は何もなしえないと茫然となるでしょう。しかも、人間は自分の自由を過信すると神のひとり子さえも殺そうとするくらい、絶対的な自由を持つ神に立ち向かおうとする。
恐れおののいた群衆はペトロに尋ねました。本日の個所のあとになりますが、37節です。「私たちはどうすればよいのですか?」ペトロの答えはこうでした。「神に立ち返りなさい。」普通は「悔い改めなさい」と訳されるギリシャ語のメタノエオーという動詞ですが、その意味は何か自責の念に駆られて後悔と反省にあけくれることではありません。「神に背を向けていた生き方をやめて神の方を向いて生きなさい」という心の方向転換を意味します。その方向転換の具体的な仕方としてペトロは勧めました。「イエス・キリストの名に拠って洗礼を受けなさい、それは罪の赦しをもたらします」と。確かに洗礼を受けるとイエス様が果たしてくれた罪の償いが内に入り込み、神から罪を赦された者とされます。罪を赦されたから神との結びつきを持って生き始めます。それまでになかった新しい命の誕生です。
神がイエス様を死から復活させたことで人間は神の意思や自由が絶対的なものであることを思い知らされます。また自分が神聖な神に反しようとする罪深い者であることも思い知らされます。そして一瞬ぼう然と立ちすくみます。ところが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた瞬間、絶対的な意志と自由を持つ神が一緒になります。自分の前に厳然と立ちはだかっていません。自分の脇にいて支えて下さるのです。この時イエス様の復活はもう何か思い知らさせてぼう然とさせるものではなくなります。どんなものになっているでしょうか?本日の使徒書の日課第一ペトロ1章は、イエス様の復活が「生ける希望」を与えてくれることを教えます。
第一ペトロ1章3節でペトロは、キリスト信仰者というのは神がイエス様を復活させることで新たに生まれることになって「生ける希望」を持つようになった者と言います。新共同訳では「生き生きとした希望」となっていて希望が元気溌剌な感じですがそうではなく、「生ける希望」とは死なない希望、朽ちない絶えることのない希望です。復活の日に復活させられるという希望です。この希望はイエス様の復活を心で受け取ったら一緒に内に入って来ます。復活の日に復活させられるという希望が朽ちない希望であるということは4節でも言われます。「天には信仰者たちの受け継ぐものがちゃんと取っておかれている。それは朽ちず汚れがなく永久のものである。」この天に取っておかれている受け継ぐものとは、まさに復活の体と永遠の命です。5節をみると、キリスト信仰者がイエス様を救い主と信じる信仰にとどまることで神にしっかり守られて、イエス様の再臨の日に現れる救いに与ると言います。「再臨の日に現れる救い」
とは、その日に復活の体と永遠の命を目に見える形で受けるということです。6節では、このような「生ける希望」があり救いが待っているのだから、この世でいろんな試練にあって悲しむことがあっても、喜びもしっかりあるのだと言います。ペトロは試練について肯定的な見方をしています。試練を経ることでかえって信仰が金よりも純度を高められていき、イエス様の再臨の日に栄誉と栄光を受けるものになる、そういう精錬するような効用があるのだと言います。ここで注意しなければならないのは、試練の時に信仰が萎えないで純度を高められるようになるのは「生ける希望」をちゃんと持てているかどうかによります。「生ける希望」を持てているかどうかは、イエス様の復活を心で受け取っているかどうかによります。イエス様の復活を心で受け取っているかどうかは、神の前では自分はちっぽけな存在にすぎないことを思い知っているかどうかによります。
そして8節と9節でペトロは言います。あなたたちはイエス様を見なかったのに愛し、今見ていないのに信じていて、言葉で言い表せない大きな喜びで満たされている、と。どうしてそんなふうにしていられるのか?それは、あなたたちが「信仰の目標」に到達する者だからだと言います。イエス様を救い主と信じる信仰によって神との結びつきを持って生きられるようになりました。イエス様を救い主と信じる信仰の目標は「魂の救い」であると言います。「魂の救い」とは、復活の日に復活の体を着せられて永遠の命を持って父なるみ神のもとに迎え入れられることです。そうなることが「信仰の目標」です。ペトロがキリスト信仰者を「信仰の目標」に到達する者と呼んでいるのは、信仰者が復活の体と永遠の命を今もう見えない形で手にしているからです。それで主の再臨の日、復活の日に見える形で手にすることになるという確かな希望があるのです。だから言葉で言い表せない大きな喜びで満たされているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(後注1)聖書をよく読まれる方は、ペトロが引用した詩篇16篇10節と旧約聖書のそれとは違っていることに気づくでしょう。このことをどう考えたらよいかということは、ヘブライ語の旧約聖書とそのギリシャ語訳とギリシャ語の新約聖書の三つの関係を考えることをしなければなりません。詩篇16篇10節とペトロの引用については、4月5日の枝の主日の「聖句と教え」の原稿の後注に私の解決策を記しておきましたので関心のある方はご覧下さい。原稿はスオミ教会のホームページのニューズブログの4月5日のところにあります。
(後注2)
τουτον τη ωρισμενη βουλη και προγνωσει του θεου εκδοτον
-「神が定めた計画と神が全てを見通しであること」 のために/によって引き渡された?
-「神が定めた計画と神が全てを見通しであること」 に引き渡された?
どっちでしょう?