説教「復活の日に神の栄光を映し出す者になれるという希望からこの世を生きる勇気を得る」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書9章28-36節

主日礼拝説教 2022年2月27日 変容主日

聖書日課 出エジプト記34章29-35節、第二コリント3章12節-4章2節、ルカ9章28-36節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日はキリスト教会のカレンダーでは1月に始まった顕現節が終わって、この後イースター・復活祭に向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事です。同じ出来事は本日のルカ9章の他にマルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。

 イエス様の山の上での変容の出来事は、これは、と言うか、これもですが、私たちの命は今のこの世とこの次にやって来る世の二つにまたがっていることを思い起こさせる出来事です。出来事の場所となった山は、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われ、マルコ8章27節によるとイエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それで、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えらえます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。

 さて、ヘルモン山の上で何が起こったか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者モーセとエリアが現れて、もうすぐイエス様に起こる受難について彼と話している。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなりイエス様だけが立っていた。そういう出来事でした。

 この出来事は以前の説教でも説き明かしをしましたが、今日は旧約と使徒書の日課が以前と違うので角度を変えて迫ることができます。ただ、結論はいつもと同じになりますが。旧約の日課は出エジプト記34章でモーセがシナイ山で神の栄光を受けて顔が輝き出しそれを覆いで隠したという出来事です。使徒書は第二コリントでパウロがキリスト信仰者は神の栄光を映し出す者であると教える個所です。それで今日は、神の栄光を映し出す者になるというのはどういうことか、なぜそれは大事なことかをお教えすることになります。

2.モーセとエリアの出現

 最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみます。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?幽霊でしょうか?人によっては、聖書には夢の中で神や天使がお告げをすることがあるのでここも同じだと考える人もいるでしょう。しかし、32節で弟子たちは「ひどく眠たかったが、じっとこらえて」いたと言っています。ギリシャ語原文でもディア‐グレゴレオーと言っていて、頑張って起きていたという感じが伝わる言い方です。

 モーセとエリアの出現が現実に起きたことなら、彼らは幽霊なのか?彼らの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかいうことについて聖書が教えていることを復習します。聖書の観点では、人間はこの世を去ると直ぐではなくて遠い将来みんな一括して神の国に迎え入れられるかどうかの判定を受けます。遠い将来というのは今のこの世が終わりを告げ、判定者のイエス様が再臨する時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地がなくなって新しい天と地に創造され直すということです。

 それなのでキリスト信仰の天国の考え方は他の宗教の天国とかそれに類する国の考え方と大きく異なっていると思います。他の宗教や日本人の一般的な考え方では、天国とかそれに類する国と言うのは、この世の人生を終えた後すぐ、ないしは30何年間とか一定期間の後で到達できるという考え方ではないかと思います。つまり、今のこの世がまだ存在している時のことです。ところがキリスト信仰では、それは今のこの世がなくなって新しい天と地が再創造される時のことです。そうすると、その日が来る前に死んでしまったらどうなるのか、どこかで待っているのかという疑問が起きると思います。キリスト信仰では「死者の復活」がその答えになります。宗教改革のルターも教えるように、判定の日よりも前に死んだ人はその日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということになります。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っていました(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。キリスト信仰では死は復活までの眠りで、その後に永遠の安寧か永遠の滅びかの振り分けがきます。

 他方で聖書には、将来の復活の日を待たずして一足早く神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターもそのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセはその例と考えることができます。というのは、エリアは列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。申命記34章に死んだと記されてはいますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方です(6節)。それでモーセの場合もこの世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られたからです。そうなるとこれはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しないといけません。神自身、死者の霊や霊媒と関りを持つことを禁じています。レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル記上21章6節、イザヤ書8章19節です。

3.不思議な雲

 次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが「仮小屋」を建てましょうと言っている最中に出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。

 あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬと言われます(18ー23節)。これが神聖な創造主の神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよく覚えておかなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。

4.イエス様の変容

 そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポンという言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容はイエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」です。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪の汚れのない神聖な神の子としての本質をあらわしたのです。

 フィリピ2章に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句が引用されています。それによると「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6ー7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証しされています。また、ヘブライ4章には次のように言われています。イエス様は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)。神のひとり子はこの世に送られて人間と同じ血と肉を持つ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山頂でのイエス様の変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つという彼の天の御国での有り様を現わす出来事だったのです。

5.受難の道を選ばれたイエス様

 そうするとイエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。日本語訳では「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」(34節)とありますが、ギリシャ語原文をよく見ると、イエス様とモーセとエリアの三人は雲の中に包まれていくではなく、自分たちで雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったと言っています。それなので、あの「雲」はお迎えの「雲」だったのです。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいいと言わんばかりに、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとしたのです。なぜでしょうか?

 それは、私たち人間も復活の日に神の栄光を映し出して輝く体を着せられて、神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするために受難の道を進んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。どうしてそういうふうにしなければならなかったのでしょうか?

 それは、人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持つようになってしまったからです。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神と結びつきがない状態で生きることとなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができません。人間が罪を除去できるためには神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロはローマ7章で明らかにしています。神の意志を表す十戒があるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために守るものではない、人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものだと言っています。イエス様自身、「汝殺すなかれ」はただ殺人を犯さなければ十分ではない、兄弟を心の中で罵っても同罪と教えました(マタイ5章21ー22節)。「姦淫するなかれ」という掟も行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27ー28節)。詩篇51篇でダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 そこで神は、できない人間にかわって人間を罪から洗い清めてあげることにしました。どのようにしてでしょうか?神はそれを罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可する意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間を焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、どうして人間の洗い清めになったのでしょうか?以下のようなことです。

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が受けるべき罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様はこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。このおかげで人間が神罰や罪の呪縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて私たち人間の罪を赦す、不問にするから自分との結びつきを持って新しく生き始めなさいとおっしゃるのです。それだけではありません。神は想像を絶する力でイエス様を復活させて死を超えた永遠の命に至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは人間の方が、これらのことは自分のためになされたとわかり、だからイエス様を救い主だと信じて洗礼を受けると、この神が作り上げた「罪の赦しの救い」の中で生き始めることになり、復活に至る道に置かれてそこを神の守りと導きのうちに歩むことになるのです。

6.復活と神の栄光を映し出す希望とこの世を生きる勇気

 イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という神からの贈り物を受け取ることができるようにするためでした。私たちはこの贈り物を受け取って携えて生きることで神の栄光を受けて輝くことができるようになるのです。全身が目に見えて輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、この将来のことがこの世の人生で希望と勇気の源になっていることをパウロが本日の使徒書の日課で教えています。最後にそのことを見ておきましょう。日課の個所はわかりにくいですが、3章7節辺りから見ていくとわかるようになります。

 神の栄光はイエス様だけでなく十戒にも現れます。というのは、十戒は神の意思なので神聖なものです。だから神の栄光を現します。しかし、先に申しましたように、人間は掟を守ることでは神の栄光を映し出す者にはなれません。先にも申しましたように、十戒は人間が罪深いものであることを明らかにするからです。それで神聖で神の栄光を現す掟は人間を罰に定めてしまい、十戒だけでは人間は神聖な神の前に立たされて立ち行かなくなってしまうのです。

 しかし、神の御心は人間が神の栄光を映し出す者になれるようにすることでした。それでイエス様に十字架と復活の業を行わせ、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が罪の赦しを持てるようにして神の前に立たされても大丈夫な者にして下さったのです。以前は十戒が現す栄光を目指せば人間は滅んでしまうだけでしたが、神は目指しても滅ばないで永遠の命に至ることができるように栄光を変えられたのです。

 そこでパウロはモーセの顔の覆いについて述べます。パウロにとってそれは律法の危険な栄光を覆い隠すシンボルでした。ところがこの世は、イエス様の十字架と復活の出来事が起こって神から罪の赦しが与えられる時代に入りました。なのに、旧約聖書を繙く人の中にはまだ覆いをつけたままでこの真の栄光を見ようとしない人たちがいるとパウロは嘆きます。

 しかし、18節でパウロは言います。キリスト信仰者は顔から覆いが取り除かれたので、この世で神の栄光を映し出すプロセスに入っていると。以前の掟の栄光から新しい罪の赦しの栄光に目を向けるので主と同じ姿へ変容させられていくと。新共同訳では「造りかえられていきます」ですが、ギリシャ語では、山の上のイエス様の変容と同じ動詞メタモルフォオーで言われています。私たちもイエス様と同じように変容するのです。この世ではその過程にあり、復活の日に完結するのです。

 12節に戻って、パウロが言う希望とは、まさに復活の日に目に見えて神の栄光を映し出すものになれるという希望です。パウロが希望という言葉を使えば、大体それは復活と神の栄光を映し出すことを指しています。キリスト信仰者にとってこの希望が勇気の源になると言っています。12節「確信に満ちあふれてふるまっており」というのは、この希望から大きな勇気が得られてそれを持って生きるという意味です。その勇気ある生き方の具体例が4章2節にあります。心から恥ずべき事を追い出す、人を欺く生き方はしない、神の御言葉を歪曲せず、神について真理を人々に語る、そして、私たちは神のみ前ではこれ以上の者でもこれ以下の者でもないということを他の人たちにどうぞ良心で判断してみて下さい、と言う。復活と神の栄光の希望があれば、人から何を言われようと、人間は神ではないので恐くはありません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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