2022年3月27日(日)四旬節第4主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年3月27日 四旬節第四主日

ヨシュア5章9-12節

第二コリント5章16-218節

ルカ15章1-3、11b-32節

説教題 「天の父よ、あなたに息子と呼ばれる資格を与えて下さったことを感謝します」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課にある放蕩息子の話はキリスト教会の内と外とを問わず聖書を読む人なら恐らく誰もが知っている有名な話です。知られすぎている話ゆえに、これを読む時に注意しなければならないことがあります。それは、この話はイエス様のたとえの教えであるということです。架空の話で実際に起きた出来事ではありません。何か大切なことを教えようとしてイエス様が自分で創作して人々に聞かせた話です。後で見ていきますが、大切なことがよく表れるようにとても精巧に出来ています。だから、読む人はイエス様が伝えようとしている大切なことをわからないといけません。

 それでは、彼が教えようとした大切なこととは何か?3つあります。一つは、神は自分のもとに立ち返る者を、たとえどんな悪事を働いたとしても立ち返るのであれば、過去のことを不問にして大喜びで両手を広げて迎えて下さるということ。二つ目は、神に迎え入れられた者は、自分より遅れて迎え入れられる者を見たら、神と一緒に喜ぶのが当然であるということ。遅れて迎え入れられる者を見て、その人の過去をとやかく言うようでは、まだまだ神に迎え入れられた恵みをわかっていないということです。そして三つめは、多分あまり注目されていないことかもしれませんが、一番大事なことです。それは、神に迎え入れられた者は、神に立ち返ろうとした最初の気持ちが、実際に迎え入れられた瞬間、もうどんなことがあっても神から離れまいという心になる、つまり最初の立ち返りの気持ちが純化して強められるということです。以下、これらの3つの大切なことを見ていきましょう。

2.神は立ち返る者は誰でも大喜びで両手をひろげて迎え入れてくれる

あるところに多くの使用人を雇えるくらいの金持ちがいて、彼には息子が二人あった。そのうちの次男が、こともあろうにまだ健在の父親に向かって遺産相続の前払いをしろと言わんばかりに財産分割を要求する。いくら将来自分の取り分になるとは言え、父親が死んだも同然と言わんばかりの要求です。十戒で言えば、第4掟「父母を敬え」と第10掟「隣人のものを貪るべからず」を破るのは明らかです。しかし、なぜか父親は言う通りにしてしまう。父親のこの気前の良さは一体なんなんだ、という疑問が起きるかも知れません。しかし、先ほども言いましたように、これはたとえ話で、何か大切なことを教えるための作り話です。父親の気前の良さも大切なことを教えるための仕掛けです。この父親が父親として適格かどうかとかというような議論は不要です。

 さて、息子は得た金を持って遠い国に旅立つ。そこで贅沢三昧、欲望全開の生活を送る。この話を聞いていた人たちは、ギリシャの繁栄した港町やローマの都を思い浮かべたことでしょう。イエス様の話は、たとえであることを忘れさせるくらいに現実味を帯びて聞こえたことでしょう。後で息子の兄が、弟は娼婦どもと一緒に親の財産を食いつぶした(30節)と言うくらいなので、十戒の第6掟「姦淫するなかれ」を破っていたことも明らかです。

 さて、息子は金を使い果たします。さらに運悪いことにその国を飢饉が襲います。困った息子はその地でなんとか豚の群れの世話の仕事にありつける。しかし飢饉はひどく、豚のえさまでが喉から手が出るくらいにほしくなる始末。まさにその時、息子は「我に返って」言う。故国の父さんの家には召使いが沢山いて彼らにはパンが有り余るほどあったなあ、それに比べて自分はなんと惨めなことか。このままでは飢え死にだ。故国に帰って、父さんに謝って召使の一人にしてもらおう。そう言って帰国の途につくことにしました。

 やがて、懐かしい家が向こうに見えてくる。その時、父親の方が先に息子に気がつく。息子は飢えと過酷な労働でやつれてみすぼらしい恰好です。すぐ後で父親は召使いに命じて息子に上等な服を着せて靴も履かせるので、息子はぼろを着て裸足だったことが窺えます。父親はそんな息子を見て、なんとかわいそうなことかと心から憐れに思って自ら走り寄って抱きしめます。これは息子にとって全く想定外のことでした。きっと白い目で見られ相手にもされないと思っていたのに、こんなに愛情深く受け入れてくれるとは。父親は召使いたちに肥えた子牛を屠ってすぐ祝宴の支度をしなさいと命令します。祝宴が始まりました。父親は息子の帰郷を本心で喜び、彼がしでかしたことを不問にしました。イエス様は、天の父なるみ神も同じだと教えるのです。つまり神は自分のもとに立ち返る者を、たとえその者がどんな悪事を働いたとしても立ち返るのであれば、過去のことを不問にして大喜びで両手を広げて迎えて下さるのです。

3.神に迎え入れられた者は後から迎え入れられた者を神と共に喜ぶ

そこで長男が畑仕事から帰ってきます。どうも家の中が大変なお祭り騒ぎになっている。なんだあれは、と召使いに聞くと、行方不明だった弟さんが無事帰ってきたのでお祝いをしています、と言う。長男はもう怒りが全身にこみあげて家に入れない。それに気づいた父親が出てきて、中に入って一緒にお祝いしようと促す。しかし長男は、自分は何年も父親に仕えてその言いつけを守ってきたのに子山羊一匹すらくれなかった、それなのに神と父親の双方に背いた弟には肥えた子牛を屠ることまでする。不公平極まりないではないか。

 ここでイエス様は、神のもとからいなくなってしまった者が神のもとに立ち返って神に見つけられるようになると、神は祝宴を催したいくらい大きな喜びを感じるのだ、ということをこの話を聞く人たちにわからせようとしたのです。そのために父親の喜びようを詳しく話したのでした。

 それでは、どうしてイエス様は神のもとに立ち返った者を神が大喜びすることを教えるのか?これは、ルカ15章全部をしっかり読むとわかります。放蕩息子の話のすぐ前にイエス様の別のたとえの教えが2つあります。合計3つのたとえは連続しているのです。

 イエス様がたとえを話すきっかけになったのは、彼が当時ユダヤ教社会で罪びとと目される人たちと一緒に食事をしたことがスキャンダルになったからでした。食事を共にするということは家族同様の親密な関係を持つことを意味しました。それで、今世間の注目の的となっているこのナザレのイエスは何と不埒な輩か、とファリサイ派や律法学者という宗教エリートたちは目くじらを立てたのです。これに対してイエス様は自分の行っていることは正しいと言うために三つのたとえを話します。最初のたとえは、群れからはぐれた1匹の羊を見つけるために99匹を置き去りにしてまで探しに出かける羊飼いの話です。二つ目は、10枚の銀貨のうち1枚を紛失して家中をくまなく探しまわる女性の話です。二つとも締めくくりの言葉は同じです。こういうなくなったものを見つけた時の喜びは、まさに罪びとが神のもとに立ち返った時に天国で抱かれる喜びと同じである、と言います。つまり、イエス様と食事を共にする罪びとたちは、イエス様の教えを聞き、彼の行った奇跡の業をみて、この方こそ約束された救い主だと信じ、神のもとに立ち返るようになった人たちなのです。

 それならば、なぜ宗教エリートたちは文句をつけるのか?神のもとに立ち返ったのならば問題ないではないか?そういう疑問が起きます。宗教エリートたちは、イエス様と一緒に食事をする元罪びとたちが本当に神のもとに立ち返ったかどうか信じられないのです。彼らからすれば、罪の赦しを間違いなく神から得られるためには、宗教上の規定に基づいていろいろな償いの儀式をしなければならない。それなのに、ナザレのイエスを救い主と信じるだけで赦しが得られるとは何事か、そんなのは赦しでもなんでもない、と思ったのです。放蕩息子の話の終わりに出てくる兄は父親の言うことをよく聞く良い子でしたが、弟を受け入れることが出来ません。イエス様は宗教エリートたちに対して、これが君たちのレベルなのさ、とわかりやすく教えているのです。

 イエス様からすれば、彼と一緒に食事をした元罪びとたちは本当に神のもとに立ち返る生き方を始めた人たちなのです。最初のたとえに出てくる1匹の羊のように、また二番目のたとえの1枚の銀貨のように、一度なくなってしまったがまた見つかったのです。それで神は、いなくなってしまった1匹の羊を見つけた羊飼いが大喜びするように、またなくなってしまった1枚の銀貨を見つけた婦人のように、そしていなくなってしまった息子を見た父親のように、神は自分のもとに立ち返る者を心から喜んで迎え入れるのだと教えるのです。それなので、神に迎え入れられた者は自分より遅れて迎え入れられる者を見たら、神と一緒に喜ぶのが当然である、遅れて迎え入れられる者を見て、その人の過去をとやかく言うようでは、まだまだ神に迎え入れられた恵みをわかっていないということをイエス様は宗教エリートたちに教えるのです。

 ここで、最初の二つのたとえに関して注意しなければならないことがあります。それは、迷った羊、なくなった銀貨は動物であり物であるということです。それなので、悔い改め、つまり神のもとに立ち返ることを教える題材としては適当ではありません。銀貨や羊が悔い改めをすることはないでしょう。そこで放蕩息子の話がでてくるのです。そこでも最初の二つのたとえと同じように、なくなったものが見つかった時の天上の喜びはとても大きいということが言われます。しかし、それに加えて、神のもとに立ち返るとはどういうことか、それに関連して人間の内面の変化についても教えているのです。

4.神に迎え入れられた瞬間、神に立ち返る心は一層強められる

そこで、このたとえの3つのポイントの中で一番大事なポイントに入ります。それは、神に迎え入れられた者は、神に立ち返ろうとした最初の時の気持ちが、実際に迎え入れられた瞬間、もうどんなことがあっても神から離れまいという心になって、立ち返りの気持ちが純化して強められるということです。息子の場合はいつそのような気持ちの強められが起こったでしょうか?

 まず17節を見ます。「我に返って言った」とあります。息子が飢えて惨めな状態にあった時のことです。これはまだ最初の立ち返りの気持ちです。強められる前のものです。18節を見ると、その時の息子の気持ちが詳しく記されています。父さんのところでは、あんなに大勢の雇い人に有り余るほどのパンがあるのに僕は飢え死にしそうだ。ここを発って父のところに帰って言おう。「父さん、僕は天に対しても、また父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。

 果たしてこの立ち返りの気持ちは純粋なものでしょうか?空腹に耐えきれずパンを腹一杯食べたいので家に帰ることに決めた、ただし父親はもう自分を受け入れてくれないだろうから、それならば息子として扱われなくていいので、せめて雇い人にしてもらおう。なにしろ、あそこは雇い人にもパンが沢山与えられるのだから。まあ、そういう論法でしょう。

 結局、パン欲しさのための立ち返りと言われても仕方がなく、息子の反省はこの時点ではまだそれほど深くはなかったと言えます。もちろん、雇い人としてでも受け入れてもらえるためには自分の非を認めて謝らなければなりません。その意味で息子の謝罪は必ずしも形式だけのものでも嘘でもない。しかしそれでも、パン欲しさのための謝罪ということも否定できない。親を死んだ者同然に扱って遺産を前払いさせて、それを自分の欲望を満たすために使った者が、金がなくなったので親のところに戻って食いつなごうとする。ちょっと虫が良すぎるのではないか。どうも謝罪は食いつなぐための手段のように見えます。

 ところが、どうでしょう。息子は父親から心からの出迎えを受けて何を言ったでしょうか?父さん、僕は天に対しても、父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません(21節)。お気づきになったでしょうか?ここには「雇い人の一人にしてください」はありません。「雇い人の一人にして下さい」というのは、パンを食べれるようになるために言わなければならない言葉でした。それが言えるためには、先に謝罪の言葉「自分は神に対しても父親に対しても罪を犯した、自分はもう息子と呼ばれる資格はない」を言う必要がありました。そのために謝罪の言葉は「雇い人の一人にしてもらってパンを腹一杯食べる」という目的のための手段に聞こえてきます。ところが、息子が実際述べた言葉の中には「雇い人の一人にして下さい」はありません。よく見て下さい。本来の目的が消えてなくなったのです。これに伴って謝罪は手段ではなくなりました。謝罪が目的になったのです。イエス様はそのようにセリフを考えて作ったのです。本当に天才的としか言いようがありません。

 どうして息子にそのような変化が起こったのでしょうか?息子が帰国を決めてから故国に到着してこの言葉を発するまでの間に何があったかをみてみましょう。遠くに息子を見た父親は「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。これは、息子にとって想定外のことでした。なぜなら父親は絶対自分を受け入れてくれないだろう、もう息子として扱ってもらえないのは火を見るより明らかだ、だから、食べ物を得られるためになんとかして雇い人の一人にしてもらえるよう頑張らなくては。息子はそのようなつもりでいたのでした。それゆえ、父親の示した愛情は本当に想定外でした。こんなに自分のことを思ってくれていた、帰って来るのをずっと待ってくれていた、忘れないでいてくれていた。それなのに自分は父さんを単なる財産提供者くらいにしか見なさず、まだ生きている間に遺産分割の先払いをさせて、しかもそれを自分の欲望を満足させるために使い果たしてしまった。そんな、父さんに受け入れてもらうに値しない者なのに、父さんは両手をひろげて迎えてくれた…。

 「あなたの息子と呼ばれる資格はありません」という言葉は、最初は「息子と呼ばれる資格がないので、雇い人に雇って下さい」という流れで言う言葉でした。それが「雇い人にして下さい」が削除された今、「息子と呼ばれる資格はありません」だけになって、それは本当に自分を恥じる言葉になりました。それに対して父親は最上の服、履物、指輪を息子につけてあげて大きな祝宴を開きました。このように父親は「息子と呼ばれる資格はない」という息子の言葉を行為で否定したのです。息子は息子と呼ばれる資格があることを認めてもらったことがわかりました。これからの息子の生き方は、この純粋な謝罪と息子として認めてもらったことに基づかなければなりません。「息子と呼ばれる資格はない」ではなく、「息子と呼ばれる資格を持つ者」に相応しい生き方をする以外に道はなくなったのです。このように父親の愛によって息子は今までと全く違う新しい人間に作り変えられたのでした。

5.天の父よ、あなたに息子と呼ばれる資格を与えて下さったことを感謝します

僕は父さんの息子と呼ばれる資格はないんです、と思っていたのに、父親からお前は紛れもなく私の息子だ、と態度と行いをもって示されました。これで息子はもう、息子の資格に相応しい生き方をする以外に道はなくなりました。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これと同じことが私たちと天の父なるみ神の間にも起きているのです。そのことに気づきましょう。何が起きたのか、次に見ていきましょう。

 私たち人間は、神の意思に反しようとする性向すなわち罪のために自分の造り主である神との結びつきを失ってしまいました。罪を持っているために神との結びつきを回復できず、他人に対しても自分自身に対しても良からぬことを考えたり行ったりして悲劇を繰り返す私たちでした。神は私たちをこの惨めな状態から助け出そうとして、それでひとり子のイエス様をこの世に贈られました。そして、罪のゆえに本当なら人間に課せられる全ての神罰を全部イエス様に負わせてゴルゴタの丘の十字架の上で死なせました。このように神は、ひとり子の犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、永遠の命に至る道を私たち人間のために切り開かれました。

 人間は、これらのこと全ては自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神はイエス様の犠牲に免じて私たちの罪を赦して下さり、私たちを自分の子として扱ってくれるのです。本日の使徒書の日課、第二コリント5章でパウロが言うように、イエス様の犠牲のおかげで神と私たちが和解できたのです。このようにして神の子とされた私たちは、神との結びつきを回復してこの世を生きるようになり、順境の時だろうが逆境の時だろうがいつも神から変わらぬ導きと助けを得られます。この世から別れた後も復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の御国に迎え入れらます。このように神は、神の子と呼ばれる資格を私たちに与えようとしてイエス様をこの世に贈って十字架と復活の業を成し遂げさせたのです。イエス様を救い主と信じる者はもう「自分は息子と呼ばれる資格はない」などと言ってはいられないのです。

 それでは、神の子と呼ばれる資格を持つ者として相応しく生きるとはどんな生き方になるでしょうか?それはもう、神がイエス様を用いて実現して下さった罪の赦しの中に留まってひたすら復活に至る道を進んでいくことです。罪の赦しの中に留まるとは次のようにすることです。イエス様を救い主と信じる信仰を持ち洗礼を受けても罪は残ります。それが私たちの弱さや隙をついて神の意思に反するようなことを考えさせたり言葉に出させたり、時として行いに出させたりします。その時は必ず、それは神の意思に反することなのだと自分で認め、神にイエス様の犠牲に免じて赦しを祈り願います。その時、神はこう言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。赦しはゴルゴタの十字架で打ち立てられて今も揺るがずにある。これからは罪を犯さないようにしなさい。」このように神の意思に反することを反することと認め、揺るがずにある罪の赦しに自分を委ねていくとき自分の内にある罪を圧し潰していくことになります。自分が生きているのは神のひとり子の犠牲があるからとわかり、軽々しいことは出来なくなります。これが罪の赦しの中に留まることです。罪の赦しの中に留まり続けていくと、復活に至る道をひたすら進むことになります。これが神の子と呼ばれる資格を持つ者として相応しい生き方です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

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