説教「神のもとに立ち返り、神にキャッチしてもらおう」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書13章1-9節

主日礼拝説教 2022年3月20日 四旬節第3主日

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様と因果応報

本日の福音書の日課のはじめの部分は、ローマ帝国の総督ピラトが残虐行為を働いたという知らせをイエス様が聞いてどんな反応を示したかということです。ピラトの残虐行為とは、ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事に動物の生け贄を捧げに来た人たちがいて、それを殺害させて、その血を生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な事件です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対する大変な冒涜です。

これを聞いたイエス様はある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池がありますが、その近辺にあった塔と考えられます。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐあの出来事かとわかるような、記憶に新しい出来事であったことが伺えます。

さて、報告した人たちは、この事件を通してイエス様に聞きたいことがありました。イエス様の言葉から彼らの関心事がみてとれます。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のガリラヤ人よりも罪深かったからと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇するのか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しないのか?」です。つまり、報告者たちは「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪を犯したことの罰として起きるという因果応報の観点で説明がつくのでしょうか?」と聞きたかったのです。

これに対してイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない。」ギリシャ語のウーキουχιは通常の否定辞ウーουよりも強い否定です。イエス様は何を強く否定したのか?それは、災難に遭遇したガリラヤ人が遭遇しなかった他のガリラヤ人より罪深かったということではない、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。両者ともに同じくらい罪びとなので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性は同じ位あり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになります。そういう事件に遭わないのは罪がないからということではないのです。そうなると話はもう因果応報とは無関係になります。そういうわけで、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものでした。

イエス様はこの「決してそうではない」を、塔の倒壊事故を話す時にも使います。5節です。ここでもイエス様は、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、と言うのです。両者とも同じくらい罪びとである、だから、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけである。それなので、そういう事故に遭わないのは罪がないからということではないのだ、と。ここでも話は因果応報と無関係になります。そういうわけで、ここも3節同様、因果応報の観点を否定するものです。

ところが、どうしたことでしょう、イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、などと言われます。そうなると、もし悔い改めず罪にとどまるならば、お前たちも同じような目に遭う、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って因果応報を否定しおきながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?

2.イエス様にとって「滅び」とは何か?

実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しないなどと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ「お前たちには世で苦難がある」と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。

イエス様は一体何を考えているのでしょうか?イエス様が因果応報の観点で言っているように聞こえてしまう大きな原因があります。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言う時、「滅びる」という動詞アポッリュミαπολλυμι があります。これを苦難困難に遭って命を落とすことと理解してしまうと因果応報に聞こえてしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。どんな意味でしょうか?

その意味がわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも「滅びる」は先ほどと同じアポッリュミです。この「滅びる」は、イエス様の言葉から明らかなように「永遠の命を得る」ことと反対のことです。そこで、まず「永遠の命を得る」とはどんなことか見てみます。それは、私たちがこの世を去る時、自分自身の全てを天の父なるみ神に委ねて、神の方でしっかり自分をキャッチしてくれる、そして復活の日に目覚めさせてもらって神の栄光に輝く朽ちない体を着せてもらって神の御国に迎え入れられる、これが「永遠の命」を得ることです。それで見ると、「滅び」はこれとは逆にこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、復活の日に御国に迎え入れられないことを意味します。

このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって「滅び」は、このようなこの世で遭遇する苦難災難でした。イエス様にとって「滅び」は、この世の次に到来する新しい世で御国に迎え入れられないことでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、この世を去った後、永遠の命を得られなくなってしまう。それがどんなに悲惨なことかは、この世にいてはわからないかもしれない。しかし、この世で残虐行為や不慮の事故に遭うことが悲惨なこととわかるのなら、将来の世で永遠の命に与れないことが悲惨ということもわからなければならないのだ。」

このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の次に到来する新しい世に関わる滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないことが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得れば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は弟子たちに「お前たちにはこの世で苦難がある」とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むこと、そして、歩みの途上で苦難災難に遭遇して、場合によっては命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは本当に可能なのでしょうか?

3.神のもとへの立ち返り

それが可能だとわかる鍵は、イエス様の答えの「悔い改める」にあります。これはギリシャ語のメタノエオ―μετανοεωという動詞ですが、もともとの意味は「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されます。ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが思慮不足や身勝手さやのために他人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔してその人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」は相手の人に向けられています。ところが、キリスト信仰では、他人に謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は創造主の神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に反したからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまったことを悔い改めて神に向きなおるという意味で「神のもとに立ち返る」と訳すことが可能です。

そこで「神のもとへの立ち返り」ですが、果たして人間は神から「よし、お前はしっかり立ち返った」と認めてもらえるような「立ち返り」ができるでしょうか?その「立ち返り」はどんなものか?そのことを少し考えてみます。

皆さんもご存知のように、十字架と復活の出来事の前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。そんなこと言ったら、十戒を外面上だけでなく心の中まで完璧に守れる人間は誰もいません。神の意思を完全に実現できる人間は存在しないのです。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、ということでした。イエス様は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、と教えます。つまり、人間の有り様そのものが神の神聖さに反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が神のもとへの立ち返りをしようとして手がかりになったのは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面上は守っても宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはならないとイエス様は教えたのです。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、神聖な神にキャッチしてもらえません。神が手を取ってくれて一緒に新しい世が誕生する大変動を乗り越えることが出来ません。復活の日にちゃんと目覚めさせてもらって神の国に迎え入れてもらえません。それではどうすればよいのか?人間のこの大問題に対して神自らが解決策を取って下さいました。それは、自分のひとり子をこの世に贈って、本当は人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという解決策でした。その後は人間の方が、この神のひとり子が果たした罪の償いはまさにこの自分のためになされたのだと受け止めて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける。そうすると、イエス様が果たして下さった罪の償いはその人に効力を持ち始めます。その後ですが、日々、自分の内に残る罪を罪として認め、イエス様の犠牲に免じて赦して下さい、と神に祈り求めていきます。そうすれば神は、お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった、彼の犠牲に免じてお前の罪を赦す、だからこれからは罪を犯さないように、と言って下さるのです。

このようにして人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで真の「神への立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面上守って安心したり、宗教的儀式を積んで満足することではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取り、その中に留まって生きることです。私たちの内に宿る罪が頭をもたげる都度に心の目を十字架の主に向け、そこから罪の赦しの再確認をして頂き、再び永遠の命への道を歩み出すことです。この時私たちは、罪に反対し、それを圧し潰す生き方をしています。神のみ前に立たされる日、神は私たちの生き方がそのようなものであったことを認めて下さいます。

4.神にキャッチしてもらおう

このようにイエス様が言われる「滅び」は、今の世に関係するものではなく、この次に到来する新しい世に関係しているのです。それなので、人間がこの世で遭遇する苦難災難は「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもないのです。たとえ苦難災難のために命を落とすことになっても、その時神はちゃんとキャッチしてくれるのです。それくらい神は信仰者を守ろうとされるのです。でも、そうは言っても、やはり苦難災難の只中にいる時は、さすがにキリスト信仰者と言えども、神に守ってもらっているという気がしなくなるのではないかと思います。苦難災難に遭遇した時、信仰者はどう立ち振る舞ったらよいのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒書の第一コリント10章の個所がとても参考になります。

そこで使徒パウロは、イスラエルの民がシナイ半島で民族大移動をしていた時に起きたいろんな出来事はキリスト信仰者にとって反面教師になると教えます。長い大移動の中でいろんな危険や不自由や不足がありました。そのような時、神はいつも民を世話して守ってくれました。しかしながら、少しでも心配や不満が出ると民はすぐ神に対して文句を言い出し、神が遠ざかったように感じられた時は自分たちで像を造ってそれを拝みだして宴会騒ぎを始め神の怒りを招き罰として多くの者が荒れ野で命を落としました。

パウロはこれらの出来事は遠い過去の出来事として完結しているのではない、今を生きるキリスト信仰者に対して警告となるために記されているのだ、と言います。キリスト信仰者がこうした過去の出来事から発信される警告を重く受け止めねばならない特別な事情がありました。それは、信仰者が「世の終わり」に生きているということです(10章11節)。世の終わりとは物騒な言葉ですが、聖書では当たり前の観点です。世の終わりとは、天地創造の神が今ある天と地にとってかわって新しい天地を再創造し、再臨されるイエス様が死者を復活させて神の国に迎え入れる時のことです。その時がいつ来るかは神にしかわかりません。パウロが活動した時代は、それがもうすぐ来るという切迫感がありました。それはパウロの手紙の随所に見られます。特に第一テサロニケで強く表れ、第一コリントでも若い女性や未亡人に結婚や再婚を勧めないほどです。しかし、パウロの時代から2000年近く立ちました。まだこの世の終わりは来ていません。パウロは早とちりだったのでしょうか?イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは世の終わりは来ないと言っていました(マタイ24章14節等)。パウロはその言葉を知らなかったのでしょうか?パウロが活動していた頃はまだ福音書が完成していませんでした。それで、イエス様の言葉でまだ彼に伝えられていないものがあったとしても不思議ではありません。それと、パウロの頃はまだイエス様の復活の出来事から間もない頃でした。それで、イエス様に続いて死者の復活が起きるのはもうすぐと考えられたかもしれません。いずれにしても、復活したイエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた日から今度再臨される日までの期間はどんなに長引いても、聖書の観点では私たちは「終わりの時代」を生きていることになります。

パウロは、世の終わりが近いからこそ、キリスト信仰者は出エジプト記のイスラエルの民に何が起こったかを教訓にしなさいと言います。困難な状況にあっても神は決して見捨てずに世話してくれたのに、ちょっと試練があると、すぐそれを忘れて文句を言ったり偶像にすがりついてしまうようではいけないのだ、と。そこで大事なポイントを教えます。10章13節です。君たちはこれまで試練を受けてきたと言っても、普通人間が受ける試練を超えるような度外れた試練はなかった。神は君たちを見捨てない忠実な方だから、君たちの持てる力を超えるような試練に遭わせたりはしない。試練に遭わせるようなことをしても、出口もセットで用意してくれているので、試練は耐えられるものになっている。それでは、ここで言う試練とはどんな試練でしょうか?

13節でパウロは「神は、あなたたちが自分の力を超えて試練を受けることを認めない」とか「出口を用意して下さる」と言っていますが、「認めない」も「用意して下さる」も未来形で言っています。パウロは将来の試練について言っているのです。それとは対照的に、これまで受けてきた試練は普通人間が受ける試練であったと現在完了形で言っています。ということは、将来の試練は普通人間が受ける試練を超えた、度外れな試練になります。それはどんな試練でしょうか?それは先ほども申し上げた、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地が再創造される大変動の時の試練を意味します。なるほど、これなら普通人間が受ける試練を超えています。しかし、イエス様を救い主と信じる者は大丈夫、試練は自分の力を超えるものにはならないし、試練と共に出口が用意されると言います。出口とは神にキャッチしてもらえるということです。

私たちは恐らくそのような大変動を迎えないで、それが来る前にこの世から別れるのではないかと思います。その場合は復活の日まで眠りにつきます。しかし、その場合でも神にキャッチしてもらえることは同じです。天地の大変動のような度外れた試練の時に神にキャッチしてもらえるならば、度外れでない試練の時はなおさら神に守られているのではないでしょうか?

5.神はあなたの立ち返りを待っている

最後に本日の福音書の日課のもう一つのエピソードに関連してひと言申し上げて結びにしようと思います。イチジクの木についてのイエス様のたとえの教えでした。実を実らせないイチジクの木を役立たずと言って所有者が切り倒そうとする。それを園丁がかばって、肥料をやって世話するからもう一年待ちましょうと言う。まるで神の罰を受けないようにと私たちをかばって下さったイエス様のようです。ただ、ここの教えの主眼は、人間が罪の赦しの救いを受け取るのを神は永遠には待ってくれないということです。それなので、どうか、出来るだけ多くの人が一日も早く、神がイエス様を用いてして下さったことに気づいて神のもとに立ち返りますように。神が人々の一日も早い立ち返りを待っていることは、本日の旧約の日課イザヤ書55章でもはっきり言い表されています。

主を探し求めよ、主が見つかる時に

主を呼び求めよ、主が近くにおられる時に

神に逆らう者よ、その道を捨てよ

不正を働く者よ、その考えを捨てよ

主に立ち返れ、そうすれば主は憐れんで下さる

我らの神に立ち返れ、なぜなら神は何度でも何度でも赦して下さるからだ

דרשו יהוה בהמצאו

קראהו בהיותו קרוב

יעזב רשע דרכו

ואיש און מחשבתיו

וישב אל יהוה וירחמהו

ואל אלהינו כי ירבה לסלוח

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

新規の投稿