説教「復活の希望を携えて父なるみ神の守りと導きの中でこの世を生きていく」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書6章27-38節

主日礼拝説教 2022年2月20日顕現節第7主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日のイエス様の教えはとても難しいです。言っていることは簡単に理解できます。しかし、言っている内容は私たちには実行不可能なことばかりです。それで難しいのです。まず、汝らの敵を愛せよ、汝らを憎む者に良くしてあげよ、これは崇高な理想に聞こえます。実行は難しくとも理想としてなら受け入れられると多くの人は考えるでしょう。ところが、その後から大変になってきます。汝らを呪う者らを祝福せよとか、汝らを侮辱する者らのために祈れとか。お前なんか地獄に落ちてしまえと罵る奴になんでまた、神様あの人を祝福してあげて下さい、などと祈らなければならないのか?言葉や暴力で傷つける奴のためになんでまた祈ってあげなければならないのか?極めつきは29節です。汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返しをしないどころか、こっちの頬もどうぞ、と差し出せとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分のしたことの愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなるに越したことはないですが、果たしてそんなにうまくいくのだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちの頬も殴ってやろう、となってしまわないだろうか?イエス様は少し考えが甘いのではないか?

 これに続く教えも、そんな無茶なと言いたくなります。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者に与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。そんなことでは泥棒や強盗にさせたい放題ではないか?十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを守らない者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければいけないのかと聞かれて、そうです、なんて答えたら、もう誰も信仰者になりたいと思わないでしょう。実は、イエス様はこれらの難しい教えを通してキリスト信仰者がキリスト信仰者である所以について大事なことを教えているのです。自分には出来ないと言って遠ざけてしまうのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様が本当に教えようとしていることを考えてみなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。

2.神が与えた賜物にではなく与えて下さる神に固執せよ

 この他にもイエス様の実行困難な教えは聞く人読む人の心を揺さぶる試練を与えます。その一つの例として、金持ちの青年がイエス様に永遠の命を得て天の御国に入れるために何をすべきかと聞いた出来事があります(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)。本日の日課ではありませんが、その出来事でイエス様が教えていることがわかると今日のところで教えようとしていることがわかってきます。これは、聖書を理解する際には聖書の他の個所を基にして理解するというやり方です。聖書の解釈は聖書にさせると言ってもよいでしょう。

 さて、イエス様は青年に十戒を守れと言います。青年はそんなものは子供の時から守ってきた、まだ何が足りないのかと聞き返します。イエス様はその以前に山上の説教で十戒について教えた時、殺さなければOK、不倫をしなければOKではない、兄弟を言葉で傷つけたり心の中で傷つけを考えただけでも同罪、異性をふしだらな目で見ただけでも同罪と、神は心の有り様まで問うていると教えていました。金持ちの青年の時は、そういうふうには教えませんでしたが、それでも心の有り様を突いてくることを言います。「お前には足りないことが一つある。全財産を売り払って貧しい人に分け与えよ。そうすればお前は天に富を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」青年は悲嘆にくれて立ち去って行きました。

 このイエス様の教えは2つのことを明らかにしています。その2つのことが本日の箇所を理解する鍵になります。一つは、人間は救いを自分の力で獲得することはできないということ。もう一つは、人間は賜物を与えて下さる神よりも与えてもらった賜物に固執してしまうということです。

 まず、人間は救いを自分の力で獲得できないということについて。それならば救いはどうやって得られるのでしょうか?それに答える前に、そもそも「救い」とは何かわからないと話になりません。重い病気が治ったり、貧困から脱することができると、大抵の人は「救われた」と言います。もちろん、そういう切実な願いが叶うのは大事なことです。ただ、キリスト信仰で「救い」と言ったら、もっとスケールの大きな話です。要約して言うと救いとは、この世の人生を終えた後でいつか将来この世の天と地がなくなって新しい天と地が創造されて復活の日という日が来る、その時に復活させられて、本日の使徒書の日課(第一コリント15章)で言われるように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられること、これが救いです。

 そう言うと、救いとは遠い将来のことで今ある天と地がなくなって新しい天と地が出来た時のことか、それじゃ今のこの世の人生には救いはないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かう日々になります。復活させられて神の御国に迎え入れらえる日を目指して、今はこの世で父なるみ神の守りと導きの中で日々を進んでいきます。神が守って下さる導いて下さるというのは、苦難や困難があるとそんなものないと疑ってしまいます。しかし、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることです。それなので、神の守りと導きは時として人間の理解を超えた仕方で現れます。そのことについて本日の旧約の日課、創世記45章でヨセフが最高の信仰の証しをしています。それについては後で見てみましょう。

 キリスト信仰では救いとは、将来の復活の日に復活の体を着せられて永遠に神の御国に迎え入れらえる、それで今のこの世では神の守りと導きの中でそこに至る道を進むことができる、これが救いです。

 そこで、救いは人間の力では獲得できないことを肝に銘じておかないと金持ちの青年のようになってしまいます。それでは自分の力でできなければどうやって獲得できるのか?それは、人間が神の意思に反しようとする罪を持っているために神との結びつきを絶たれて復活に与れない状態になっている、その状態を神のひとり子であるイエス様が解消してくれたことによってです。イエス様はどうやってそれを解消したのか?それは、本当だったら人間が受けるはずの罪の神罰をゴルゴタの十字架で私たちの代わりに受けて下さったことによってです。そこで、今度は人間の方がイエス様の死は本当に自分のための犠牲の死だったと受け入れて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様の果たしてくれた罪の償いがそのままその人に入ります。それでその人は罪を償われた者になって、罪を償われたから神との結びつきを回復できて復活の日に向かって神の守りと導きの中で進んでいくことになります。そのようにイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを信仰と洗礼でもって受け取って自分のものにする。このようにキリスト信仰では救いは神主導です。人間はヘリ下って受け取る立場です。

 人間は救いを自分の力で獲得できないことに加えて、金持ちの青年の話が教えているもう一つの大事なことは、人間は賜物を与える神よりも与えられた賜物に固執してしまうということです。神は固執する相手を是正するために時として手荒いことをします。賜物に対する執着が強ければ強いほど、神の是正は痛いものになります。金持ちの青年の場合がそうでした。賜物を持っていてもそれに固執しないで神に固執することは可能でしょうか?宗教改革のルターはキリスト信仰者の賜物に対する心は次のようであるべきと教えています。

「私には神が与えて下さった良い賜物が沢山ある。しかし、それらは私が喜びをそこからだけ得られると考えてしまう位に愛しいものになってはならない。私はそれらを、神がお許しになる期間大事に用いよう、神の栄光が増し加わるように用いよう、自分の必要を満たす以上には用いず、隣人の役に立つように用いよう。もし神が賜物をお与えにならないと言うのなら、私はそのために起こる危険や不名誉を甘んじて受けよう。というのは、賜物を与えて下さった神を持たないというのは恐るべきことで、それに比べたら賜物を持たない方がましなのだから。」

 本日の福音書のイエス様の教え、奪う者から取り返すな等の教えについては、十戒を思い出せば神が盗みや強奪を放置せよなどと言うつもりはないことは明らかです。それでここは、人間が神を脇に押しやって賜物に執着しないようにということをショッキングな言い方で教えていると理解すべきでしょう。

3.この世で正義は不完全だが最善を尽くし復活の日に清算してもらおう

 敵を愛せよ、頬を差し出せも文面だけで考えず、聖書のキリスト信仰の観点で見なければなりません。イエス様は山上の説教で同じことを教えていました。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせると言っていました。これを聞いたり読んだりした人は、神の寛大さ、心の広さに驚くかもしれません。しかし、よく考えるとこれはどうだろうか、こんなに悪人に気前がいいというのは悪人をいい気にさせてしまわないか、神は罰を下さず見逃してくれているとつけあがってしまわないか?これでは正義がなさすぎるのではないか?

 しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることはエゼキエル書18章23節と33章11節を見れば明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを裏切ることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。

 敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に対して、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。目を覚まさなければなりません。神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、その人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るように導いて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。

 ここで一つ気になることが出てきます。それは、こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、危害を及ぼすこと自体に対しては何もしなくてもいいのかということです。そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けを使わなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけないというのが神の意思である以上は、傷つけることを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論が起きてきます。そんな程度では納得できないということも出てきます。逆に、それは行き過ぎではないかということも出てきます。また、肝心の救済機関がちゃんと機能していないという問題もあります。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の見解の基本には復讐はしないということがあります。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分だった補償は完全なものにされ永遠に続きます。逆に不十分だった罰も完全なものにされ永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。

 キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それは復活とそれに先立つ最後の審判で神が実現する完全な正義を信じているからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからということもあるかもしれません。しかし、危害が大きければそんな気持ちは起きないでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。

 復讐心で行わないということには、神の命令があるからということの他にもう一つ大事なことがあります。それは、キリスト信仰者自身が神から罪の赦しを受けたという立場にあるということです。神から罪の赦しを受けたということがどれほど大きなことかがわかると復讐心のエネルギーは削がれていきます。神が贈られたひとり子の十字架と復活の業のおかげで自分は神の意思に反する罪を持っているにも関わらず、神は自分を子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日道を踏み外さないように迷わないように守り導いて下さっている。そこはこの世の不完全な正義が完全にされて全ての涙が拭われるところだ。神の意思に反する罪を持ち汚れや至らないところが沢山ある自分だが、私はただただイエス様が成し遂げて下さった罪の償いを肌身離さず生きている。その自分を父なるみ神は子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日守り導いて下さっている。

 本日の福音書の日課の後半で、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」イエス様のこの教えはまさにキリスト信仰者に向けられています。これを述べた時点ではまだ十字架と復活の出来事は起きていないので聞いた人たちは何ことが意味が全然分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後は、この地上に神からの罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は神から復活に至ることができる大いなる赦しを頂いたのです。この信仰に留まり復活の希望を携えて神の守りと導きの中で進む者は、もう裁かれず罪びとに定められず赦されているのです。そのような人が、私は裁く、罪びとに定めてやる、赦さないと言ったら、神はがっかりでしょう。私がお前に与えたものをよく見なさい、私がお前にしたようにお前も周りの人たちにすべきではないか、と言われてしまうでしょう。イエス様の教えは私はできない、できない、絶対できないと言い張る人への警告です。もちろん、受けた危害の大きさが甚大ならば赦すなんて遠い世界のことに思えます。しかし、罪を赦すとは罪を許可するという意味ではありません。罪は罪としてこの世では不完全かもしれないが罰せられなければなりません。これはキリスト信仰者も否定しません。ただそれを復讐心と無関係に行えるようにする、心と目を復活に向けて復讐心から解放されて行えるようにするということです。そのために神がイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせて下さったのです。この世では正義は不完全なものだが、キリスト信仰に立って最善を尽くし、足りない部分は後で神に清算してもらうということです。

4.ヨセフの信仰の証し

 本説教で、キリスト信仰者とは復活の希望を携えて神の守りと導きの中でこの世を生きる者であるということを繰り返し申しましたが、この世では神の守りと導きがあると言っても、苦難や困難があると本当にあるのか疑わしくなります。しかし、それでもあるということを本日の旧約の日課でヨセフが証ししていますので、それを終わりに見ておきましょう。

 ヨセフの人生は、皆さんご存じのように波乱万丈でした。父ヤコブの寵愛を受けて兄たちの嫉妬を買い、エジプトに奴隷として売られてしまいます。エジプトの王ファラオの宮廷役人に仕えている時も神の意思に従い不正なことには手を染めなかったにもかかわらず、不倫の濡れ衣を着せられて牢獄に入れられてしまう。その後もいろいろありますが、ファラオの見た夢の意味を解き明かしたことがきっかけで王室に仕える身分となり、最後は王国の行政の長にまでのぼるつめるところまで行きます。その時オリエント世界を大飢饉が襲いました。エジプトはヨセフの食料備蓄対策が功を奏して難を免れます。カナンの地にいたヨセフの父や兄弟たちは食料に困りエジプトに支援を求めにやって来る。宮殿で兄たちは目の前にいる高官がヨセフだとわかりません。そこでヨセフは自分の正体を明かすという場面です。そこでヨセフは、自分をエジプトに送ったのは兄たちではない、肉親たちが助かるようにと前もって神が送ったのだと言います。自分をエジプトに送ったのは神だと何度も繰り返して言います。このヨセフの半生についてルターが次のように説き明かししていますので、それを引用して本説教の結びとします。

「神のこの世での統治の仕方がいかに人間の理解を超えるものであるか、そのことについてヨセフの事例も聖書の数多くの登場人物と同じように我々によく教えてくれる。実に神は、悪魔や死が目前にあると思われるようなところで実は直ぐそばにおられるのだ。ヨセフも、エジプトに売られた時はさすがに神に見捨てられたと思ったであろう。しかし、神は一時たりともヨセフから目を離さず絶えず彼の後をついて行ったのだ。ヨセフが異国に売り飛ばされて、そこで何年も何年も試練に次ぐ試練を受けなければならないようにしたのは確かに神自身であった。あたかも神などもう近くにはおられないと思わされる位にそうされたのだ。しかし、神が定めた時が来たとき、神はエジプトの国をその手に委ねるほどにヨセフを高い位につけたのだ。そこに至るまでヨセフは神を信じて忍耐強く待たなければならなかった。

 父なるみ神は我々にも同じようになさるはずだ。もし、我々もヨセフと同じように神を信じて立ち続けることを学んでいさえすれば。我々にも、ヨセフの時代にこの世を統治していた同じ神がおられるではないか。我々にも同じ全知全能の神と神の約束の言葉があるではないか。神は我々を見捨てることはしないという約束だ。しかし、次のことは覚えておいてほしい。神は、栄誉を与えようとする者を最初不名誉に陥れ、大いなる喜びで満たしたい者を最初悲しみと心の苦しみで満たすということだ。こうしたことを神は特に選ばれた者たちに対して行う。神が彼らを底深い所に沈めれば沈めるほど、彼らを無価値にすればするほど、それ以上に彼らを高い所に引き上げて栄光の座につけるのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

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