2022年3月13日(日)四旬節第2主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年3月13日(四旬節第2主日)

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創世記15章1-12、17-18節

フィリピ3章17節-4章1節

ルカ13章31-35節

説教題 「信仰義認に生きる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様の再臨の日、あなたはどうするか?

本日の福音書の日課の個所は、あなたの命が狙われているから逃げなさいと促されたことに対してのイエス様の答えでした。命を狙うヘロデというのは、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。イエス様と弟子たちの一行は北のフィリポ・カイサリア地方からエルサレムに向かって南下する旅を続けているところでした。それで、この促しはガリラヤ地方を通過している時に言われたものでしょう。イエス様に促した人たちがファリサイ派というのは興味深いです。なぜなら宗教エリートのファリサイ派はイエス様と敵対していたからです。しかし、ファリサイ派というのは根は天地創造の神の目に適う者になりたい人たちで、それで律法を余すところなく厳格に守ることを是としていました。それなので中にはイエス様の教えを聞いて、この方は何も間違ったことを言っていない、本当に神から遣わされた者なのではと考えるようになった人もいました。その代表例はヨハネ福音書に登場するニコデモです。そう言えば、後にキリスト信仰を地中海世界に広めることになったパウロも元々は筋金入りのファリサイ派でした。

促しを聞いたイエス様の答えは先ほど朗読した通りです。わかりそうでわかりにくいと思います。二つのことがありました。まず、あの狐のような狡賢いヘロデにこう伝えよ、と言って、ヘロデに対する申し立てがあります。私は今日も明日も人々から悪霊を追い出し病気を癒して三日目に全てを終える、と言います。三日目に全てを終えると言うのは、言うまでもなくエルサレムで十字架の死を遂げた後三日目に神の力で復活させられることを意味しています。もちろん、聞いた人たちはこの時は何のことかわかりません。

33節で「だが、私は今日も明日もその次の日も自分の道を進まなければならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ」と言います。先ほど申しましたように、イエス様一行はエルサレムに向かって南下中です。それなのでガリラヤ地方を通過します。だからこの言葉は、自分はガリラヤ地方から出ていくが、それはヘロデが恐くて逃げるのではない、エルサレムで死を遂げなければならないという神の計画を実現するためにガリラヤ地方を離れるのだという意味でしょう。

イエス様の答えでもう一つ大事なことは、今向かっているエルサレムを嘆く言葉です。エルサレムは天地創造の神を崇拝し礼拝を盛大に執り行う神殿がある町です。当時は地中海世界きっての大都市でした。その神のおひざ元のような町が歴史を振り返ってみると、神の遣わした預言者たちを受け入れず殺してしまうという、神の御心を顧みない町になってしまったことが何度もありました。イエス様は今も変わらないことを嘆きます。神はエルサレムの人々を親鳥がひな鳥を翼の下に集めるように呼び集めようとしたのだが、ひな鳥は来ることを拒否してしまった。かつてもそうだったし今もそうだ、と。イエス様は神のひとり子なので、この神の呼びかけを自分がしている言い方をしています。

神の呼びかけに応じないとどうなるのか?かつては神罰として敵の大軍に攻められてバビロン捕囚が起きてしまいました。イエス様の時はどうなるのでしょうか?35節を見ると、「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と言われます。「家」と訳されているギリシャ語のオイコスは神殿の意味もあります。フィンランド語訳の聖書は神殿と訳しています。ドイツ語は「神の家」と訳され、それは神殿を意味します。英語は日本語と同じ「家」でした。私は神殿の方がいいと思います。それで35節を原文を直訳すると、「あなたたちの神殿はあなたたちに渡される」です。「あなたたちに渡される」とは分かりにくいですが、要は、神は神殿から手を引く、後はお前たちで勝手にやれ、私はもうかかわらない、と神崇拝の大事な拠点なのに神の後ろ盾を失ってしまうということです。世界史上の出来事としてエルサレムの町は西暦70年に神殿ともどもローマ帝国の大軍に破壊されてしまうので、イエス様の預言は当たってしまったことになります。

35節のイエス様の言葉で一番わかりにくいのは、「お前たちは『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることがない」と言っているところです。これは何か?もう少し後でイエス様は旧約聖書の預言通りに子ロバに乗ってエルサレムに入城します。その時、群衆はユダヤ民族の解放者が来たと思って歓呼の声で出迎えます。その時、この言葉「主の名によって来られる方に祝福があるように」を叫びました。それなのでイエス様はエルサレムに入城するまでは誰も自分を見ないと言っているのでしょうか?この言葉はエルサレムの住民に言っているように見えますが、実際は神の呼びかけに応じない人たち全てのことを言っています。エルサレムへの道中、イエス様は賛同者だけでなく多くの反対者にも遭遇します。中にはエルサレムから来て観察して宗教指導者に報告する者もいます。それなので、みんなイエス様をずっと見ているわけです。なのに「決して見ることがない」とはどういうことでしょうか?

イエス様を決して見ないというのは、彼がこの地上にいる時のことではなくて、復活したイエス様が天に上げられて今は天の父なるみ神の右の座している期間のことです。それで、私たちが「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言うようになって彼を見る時とは、イエス様が再臨する日のことです。イエス様の再臨の日とは、今の天と地が終わりを告げて天と地が新しく再創造される時、死者の復活が起こって最後の審判が行われる日です。その時、神に相応しいと見なされた者は新しい天地のもとに現れる神の国に迎え入れられます。相応しいと見なされない者は迎え入れられないので、私たちとしては自分はどちらになるだろうかと今から心配の種になる日です。

それなのでイエス様が再び来られる日に「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言う時には、二つの異なる言い方が生じます。一つは、親鳥の翼のもとに身を寄せるひな鳥のように神の呼びかけに応じた者が言う場合です。これは神に相応しいとされた者です。この人たちは眠りから目覚めさせられた時、この言葉を、ああ、主よやっと来て下さったのですね、長い間お待ちしていました、と安堵の心で言うことになります。もう一つの言い方は、神の呼びかけに応ぜず神の意思など気にかけない生き方をした者がこの時になって事の重大さに気づいて言う場合です。その時その人たちは、生きている人と死んだ人双方をこれから裁こうとされる再臨の主を目の前にして、その権力には逆らえないと観念してこの言葉を言うことになります。

それなので、今日の日課のイエス様の言葉は、イエス様の再臨の時、私たちはどっちの意味でこの言葉を言うことになるのかを突きつけているのです。この世の人生で神の呼びかけに応じて親鳥の翼の下で守られるひな鳥のように生きてきて再臨の日に大いなる安堵の気持ちで言うことになるのか。それとも、神の呼びかけに応ぜず神の守りなどいらないと言って生きてきて、再臨の日になって主の威光をもう否定できないと観念して恐れおののいて言うのか。

2.信仰義認に生きる

イエス様の再臨の日に私たちがこの言葉を大いなる安堵の気持ちで言えるようになるためには、この世の人生で神の呼びかけに応じてひな鳥のように守られて生きることが大事です。神の呼びかけに応じて守られて生きるということについて、今日の旧約聖書の日課に出てくるアブラハムの信仰が大いに参考になります。それを見てみましょう。この時点ではまだアブラハムはまだアブラムという名前です。17章で神からアブラハムという名前にしなさいと言われます。アブラハムはヘブライ語の父、多い、民族の三つの意味が組み合わさった単語です。それで、多くの諸民族の父という意味を持ちます。

今日の日課の中に、キリスト信仰にとって決定的に大事なことがあります。それは6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」なぜこの箇所がキリスト信仰にとって大事かと言うと、ここに信仰義認の考えがはっきり出ているからです。信仰義認とは、高校の世界史の教科書にルターの宗教改革のところで出てくる言葉ですが、簡単に言うと読んで字のごとく、人は信仰によって神から義と認められるということです。この意味の裏側に、人は善い業を行うことで神から義とは認められないという意味があります。それで信仰義認とは、人は善い業を行うことでは神に義と認められるのではなくイエス様を救い主と信じる信仰によって義と認められるということです。

そこで、イエス様を救い主と信じる信仰とは何かがわからなければなりません。それは、イエス様が本当に私たちの内にある罪、神の意思に反しようとする性向を全部引き取って神の罰を私たちの代わりに受けて下さった、まさに私たちが受けないですむように身代わりになって受けて下さった、それでイエス様を救い主と信じることです。このイエス様の身代わりの罰受けはエルサレム郊外のゴルゴタの丘の十字架で起きました。加えてイエス様は、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。その道の行く先に復活があります。

イエス様がそのような凄いことを私たちにされた、だから彼は救い主なのだと信じて洗礼を受けると神から義と認められるというのキリスト信仰です。その時善い業というのは神に認められるためにするものではなくなります。先に神から義と認められてしまった、しかも神が自分のひとり子を犠牲にすることで認められてしまった、これは一体何なんだと驚きます。イエス様の十字架を思えば思うほど、そのおかげで何の取り柄もなかった自分が神から義と認められてなんと畏れ多いことか、神から義と認められたので今自分は神の守りと導きの中を復活の日を目指して歩ませてもらっている、そのことを思い知れば思い知るほど、神の意思に反することには手を染めないようにしよう、関わらないようにしようというふうになります。時として神の意思に反することを心に思ったり、ひょっとしたらも弱さや隙をつかれて言葉に出したり行為に出してしまう時もあるかもしれない。しかし、神からの罪の赦しはゴルゴタの丘の十字架で打ち立てられて揺るがなくあることはわかるので、また新しくやり直せます。このようなサイクルの中に入ると、善い業は自分でしようしようと意識してするものではなくなって、植物が育って実を結ぶように出てくるものになります。

イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しの中に留まって生きるとどういう風になるかについては、一つの例としてパウロがローマ12章で述べていることを見ればわかります。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思い、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈り、迫害する者のために祝福を祈り、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、自分を賢い者とうぬぼれず、だれに対しても悪に悪を返さず、他の人と平和な関係が築けるかが自分次第という時は迷わずそうする、復讐はしない、全ては最後の審判の神の判断に委ねる、だから敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々です。

ここで「神から義と認められる」ということを少しはっきりさせてみましょう。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」この文を少し詳しく見てみます。「アブラムは主を信じた」と言うのは前にある出来事の流れでみなければなりません。何があったかと言うと、アブラムはもう90歳近くになって子供はもう無理、相続のための家系は潰えると諦めていました。その彼に神は諦める必要はない、お前には後継ぎが生まれる、と言ったのです。アブラムに星一杯の夜空を見せて、お前の子孫はこれ位になるとさえ言います。その時にアブラムは信じたのです。それで彼が主を信じたというのは、神が言われたこと約束されたことは人間の目から見ても常識で考えてもありえないことであっても、神が言われたのであればそうなると信じたことです。自分の目で見たこと感情で感じたこと理性で考えたことよりも、目や感情や理性はそんなのあり得ないと言っていることでも神がそうだと言われたらそうなのだと信じたことです。目や感情や理性に黙ってもらい、神の声の方を聞いて神の言葉を先に立て、他のことはその後にしたということです。

アブラムがそのように信じたことを「神が彼の義と認めた」と言います。それはどういうことでしょうか?ヘブライ語の原文を少し解説的に言い換えると、アブラハムがそのように目や感情や理性に黙ってもらい神の言うことを信じた、そのことを神は彼にとっての義と認めてあげた、です。もう少しわかりやすく言うと、アブラムがそのように信じたので神は彼を義と認めた、です。目や感情や理性を脇に置いて神の言うことをその通りだと言う、それくらい神に信頼を置くと神に義と認められるのです。

そこで、神に義と認められるとはどういうことかをわかるようにしましょう。そもそも「義」とは何なのか?ヘブライ語でツェダーカーצדקה、ギリシャ語でディカイオシュネーδικαιοσύνηです。それらが日本語で「義」と訳されるのですが、漢字の「義」という言葉をみて意味が分かるでしょうか?もちろん意味を辞書みたいに説明することは出来ます。しかしそのように説明されても、わかったようでわからないというのが大方の反応なのではないかと思います。そこで、「義」の意味を説明するのではなく、神に義と認められるとどうなるかを見て「義」をわかるようにしていこうと思います。

神に義と認められるとどうなるか?神はいつも共におられ、どんなことがあっても共におられ、この世の人生でもこの世の後に来る世においても共におられるというふうになります。罪を持っているにもかかわらず私たちは神聖な神と結びつきを持てて、この世と次に来る世の双方をその結びつきの中で生きるようになります。神に義と認められるとこのようになります。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がまさにそうです。イエス様のおかげで神との結びつきを回復できて、この世の人生では神の守りと導きを絶えず受けながら復活に至る道を進み、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる、これが神に義と認められた者の全人生です。

アブラムの出来事はイエス様がこの世に贈られる何千年前のことでした。しかし、アブラムの信仰はキリスト信仰と同じです。目や感情や理性よりも神に信頼を置き神の御言葉を先に立てる信仰です。イエス様が十字架にかかったことや死から復活されたことを目で見ていません。神の意思に反する罪を持っていることも時として感じることはあるが時として感じません。この世の人生の後に、この世はいつか終わりが来て新しい天と地が再創造されるなど考えられません。ましてやそこに自分が復活して迎え入れられるなどと考えられません。しかし、目や感情や理性が信じられないと言っていることを私たちキリスト信仰者は信じています。だから、私たちとアブラムは同じ立場にあります。宗教改革のルターも、アブラハムのことをキリスト到来以前のキリスト教徒と言った位です。

目や感情や理性が信じられないと言っているのに信じることが出来るというのは、イエス様を救い主と信じることの他にもいろいろあります。イエス様を信じることから始まって沢山のことが出てきます。例えば苦難や困難に遭遇した時、私たちは神の守りや導きが失われたと感じがちです。しかし、それは私たちの目や感情や理性がそう見て感じて言っているだけで、神の守りと導きはなくなっていません。イエス様を救い主と信じる信仰に生き、神の罪の赦しの中に留まる限り、神との結びつきは非常時にあっても平時と全く変わらず、復活の道を踏み外すことなく進んでいます。それなのでキリスト信仰者は、希望のない状態にあっても希望があると言えるのです。まさに詩篇23篇4節の心意気でいるからです。

たとえ我、死の影の谷を往く時も禍害を怖れじ、

汝、我と共に在せばなり、

汝の鞭、汝の杖、我を慰む。

גם כי אלך בגיא צלמות לא אירא רע

כי אתה עמדי

שבטך ומשענתך המה ינחמני

そして、主の再臨の日と復活の日を目指して進む私たちは、苦難と困難の中にあってもパウロと一緒に堂々として次のように言います。

されど我らの国籍は天に在り、

我らは主イエス・キリストの救い主として

その処より来たり給うを待つ。

ημων γαρ το πολιτευμα εν ουρανοις υπαρχει

εξ ου και σωτηρα απεκδεχομεθα κυριον Ιησουν Χριστον,

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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