お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)
マタイ1章18〜25節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、はじめに
アドベントの第4週を迎えました。この主の日の朝、主イエス様が私たちに与えてくださっているみ言葉は、使徒であるマタイを通して「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」とはじめているように、主イエス・キリストご自身の誕生についての証しです。ルカの福音書が、母マリヤに起こった出来事を証言しているのに並行して、マタイは、父方ヨセフに起こった出来事を証言しています。いずれの箇所も、このイエス様の誕生が、人の思いや知恵によるものでなければ、人の計画や努力によるものでもなく、どこまでもそれは、神が遥か昔から約束された人類の救いの約束を、まさしくその通りに、神が、人のために、恵みとして実現してくださったのだという素晴らしいメッセージが、今日、私たちに伝えられています。
2、神の計画:罪人を用いて
A, 罪人マリヤを通して
今日の箇所は「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と始まり、その後、ヨセフが婚約者マリヤが結婚前に妊娠したことを知り、マリヤを密かに去らせようとしたところに、天の使いが夢で現れ「その子は聖霊によるものである」と告げられていきます。その通り、イエス様は聖霊によって世に来られる真の神様であることがルカ、そしてマタイ、双方からもはっきりとわかるのですが、それは聖霊によって「一人の罪人」であるマリヤに妊って、人間の肉体を持った赤子として生まれるという方法を神様は取られました。そのように救い主イエス様は、私たちの神であり、真に神である方ですが、神の姿で、あるいは、目に見えない聖霊の幽霊のような姿であるとか、あるいは、人間が思い浮かべるような神の力に溢れたような姿、形で来たのではないということです。一人の罪人の胎に宿り、もちろん聖書にある通り、罪はない方ですが(ヘブル4章15節)、私たちと同じ弱さを持った人間の肉体をとり、赤ちゃんでお生まれになられたのです。これは人の思いや理性では信じられない思い付かない計り知れないことですが、聖書は私たちにはっきりとその事実を指し示しているのです。
B, 約束の系図
ですからマタイは、この福音書を、1章1節から「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と言う言葉で始めていないでしょう。人間の側から見て導入として入りやすい書き方をすれば、1章1節を「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」という書き始めた方がわかりやすかったかもしれません。しかし主はマタイを通じて、その言葉では始めないでしょう。むしろ今日の箇所の直前を見ていただくとわかるように、人間の側から見れば、単調で何の意味があるのかと思うかもしれない系図から主は語り出しているのです。そのことは何を伝えていますか?そう、まさしくそれは、イエス様、真の神であるお方が、人の家系の流れにおいて、つまり、人の間に生まれるのだという証です。ある人は言うかもしれません。これはヨセフの家系ではないか。イエスはマリヤに聖霊で宿ったとあるのだから、ヨセフの血筋ではないではないかと。しかし、イエス様はきちんとルカを通じて、マリヤの系譜も記してくれています。ルカの3章23節〜38節で、ぜひ確認していただきたいのですが、そのルカ3章23節に、ヨセフはエリの子と書かれています。マタイを見てわかる通り、ヨセフの父はヤコブという人物です。ではエリとは誰かというと、これはマリヤの父です。ですから義理の息子という意味でエリの子です。そのマリヤの父エリから遡って系図が書かれていて、しかも、ルカの場合は、最初の人アダムにまで遡って書かれているのです。ヨハネは福音書で証ししているでしょう。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネ1章14節
イエス・キリストの誕生。イエス・キリストは天地万物の創造者である真の神です。しかし同時に、その真の神である方が、罪深い人間の体を通して、肉体をとり、人となり、人と人との間に宿られた、来られた、お生まれになられたのです。これは実に不思議です。人の思いでは計り知れない、理解できない。信じられないことです。しかし神はこの聖書を通し、マタイ、ルカ、ヨハネを用いて、これが救い主イエス様の誕生なのだと、まず私たちにはっきりと伝えているのです。
C, それは罪人の系図でもある
さらにこの系図を見れば、実に、大いなる不思議と恵みがあります。その系図は、「神の系図」ではありません。「聖人の系図」でもありません。そう、それはまさしく「罪人の系図」であるということがわかるでしょう。確かに偉大な信仰者とも呼ばれるアブラハムやダビデの名前があり、マリヤもヨセフもアブラハム、ダビデの家系であることはわかります。しかし、旧約聖書は、ダビデが巨人ゴリアテを倒した武勇伝やいかにも敬虔な綺麗事だけを記録しているのではなく、ダビデが一度ならず何度も罪を犯したことも正直に記録しています。マタイの記した系図を見ると、1章6節「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。つまりまさしく、読む人であれば誰でもわかる、あのダビデの罪と悔い改めの出来事さえも隠さず記しています。アブラハムも100%完全で、罪も穢れもない、信仰も完璧な人間としては決して描かれていません。何度も弱さに葛藤し、失敗し、それでも彼が信仰の父であるのは、彼が完全であったからではなく、神の約束とわざが完全であり、神がその約束のゆえに、アブラハムを絶えず教え、戒め、日々悔い改めに導きながらの、信仰に歩んだ生涯であったからではありませんか。その孫のヤコブしかりです。それだけではない、この系図にあるダビデの子孫のソロモンに始まる王達の歴史を見るなら、まさに罪人の歴史であり系図ではありませんか。神はその罪人の系図を知らなかったのでしょうか?そうではありません。わかっていてあえてその系図を私たちに示しています。聖書が「人の間に」と言われるとき、それは、「神の間」でもない。「神のような完全な人々の間でも、聖人君子の間」でもない、「罪人の間」にこそイエス様は宿られる。お生まれになるのです。そして、その罪人を用いて救い主の誕生という素晴らしことをなされるということを私たちに示しておられるのです。Luthran Study Bibleのこの聖書箇所の奨励がとても感謝なので紹介します。
「イエス・キリストの系図で、マタイは、罪人や恥ずべきことを隠そうとしていません。実際にマタイはそれらを目立たせています。イエスが生まれる家計には、売春婦、姦淫の罪を犯すもの、暴力的な人、そしてその他、説明できる他の罪を犯した人々をも含んでいます。このことは私たちを驚かせるかもしれませんが、事実は、キリストの系図を構成しているのは、罪人に他ならなかったということです。イエスの先祖は、私たちが救い主を必要とするのと同じくらい、救い主を必要としていたのです。もし神が、主の恵みにおいて、そのような欠点のある罪深い人々を用いることができるなら、今、救い主の罪のない生贄を証し、その主を信じている罪人を、主はどれだけ沢山、用いることができるでしょうか!主イエス・キリストよ、あなたが救うためにこられた人の間に、一人の罪人である私を加えてくださったことを感謝します。」(p1578、 Lutheran Study Bible(ESV), Concordia Publishing House, 2009)
イエス・キリストの誕生。それは、救い主は、止むを得ずにではない、知らなかったからでもない、あるいは、人間の側の計画や思いでもない。まさにその罪人の間、罪人を用いて、その罪人のために、つまり私たちのために、救いと罪の赦しを実現することこそを神の意図、ご計画とされた、その通りに神が100%なさった、その成就なのです。
3、神がなさった約束の成就
A, 人の側には恐れと戸惑い
事実、この後、そのことこそ現れています。まず、罪人である人間の側には何があるでしょうか?何かそんな素晴らしいことをなせるものがあるでしょうか?いや、そこには、戸惑いと恐れしかありません。
「18:イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していおたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
「母マリヤとヨセフは婚約していたが」とあります。ユダヤ教の習慣では、婚約というのは、すでに法的に結び付けられている関係で、結婚の第一の段階でした。しかしそこには「二人が一緒になる前に」とあります。それは、マリヤは一緒に住んではおらず、性的な関係も持っていなかったことを証言しています。しかし、その状況で、妊娠しました。もちろんそれは書かれている通り聖霊によるものでした。しかしルカの1章には、マリヤに起こった出来事についても書かれていますが、マリヤはみつかいの「聖霊によって男の子を産む」という知らせを受けた時に、即座に信じて、もう驚き踊って感謝して、という状況ではありませんでした。その知らせに、恐れ、戸惑ったことが書かれています。そう、この出来事は人間の側、ヨセフにとってもマリヤにとっても、恐れであり戸惑いでした。ヨセフもこの知らせに戸惑っています。19節
「19:夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
ヨセフは神の律法に従って生きることを望んでいた人でした。ですから、まだ夫婦としての関係を持っていない状況で、マリヤが子を宿したと聞いて、ヨセフはマリヤがヨセフに不誠実を犯したのだと始めは思ったのでした。そこで、彼は彼女との婚約関係を解消しようとするのです。しかしそこに「ひそかに」とあるでしょう。英語の聖書(ESV)ですと”quietly”ともあり、黙って、そっと、静かに去らせようともわかります。なぜなら、律法(申命記22章23−24節)は、婚約した女性が、姦淫の罪を犯したなら、石打ちにされなければならないも教えていたからであり、それほどまでに社会においては恥ずべき重大なことであったからでした。ヨセフはマリヤのためにも、静かに人知れず、婚約を解消し、マリヤを静かにさらせることで解決しようとしたのでした。
B, 人の決心がなるのではない、神の約束を神がなさる
しかし、人間の心配や恐れと人間のそのような知恵を絞った解決が、神の計画を覆したり、邪魔したり、ならないようにしたりすることは決してできないのです。まさに19節では「決心した」ともある固い決意にあるヨセフ、そのままでは、ヨセフとマリヤは夫婦にならず、イエスはナザレの大工の家の子としても育たなかったかもしれない、そんなヨセフの決心に、主は介入されます。
「 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
御使いがヨセフの夢の中で現れて言います。「夢」とありますが、旧約聖書では、一般的な啓示の方法であり、有名なのは、創世記のヤコブ(イスラエル)の子ヨセフの夢を通じての啓示があるでしょう。ここで神は御使いを通してヨセフに語りかけます。「恐れず」つまり「恐れてはいけない」と。ルカの福音書でも、御使いは、マリヤに「恐れなくても良い」と語りかけています。御使いというのは、神ではありませんが、神のメッセンジャーであり、神の言葉を伝える、被造物です。もちろん、旧約聖書を見ると、御使いが裁きのために遣わされる場面はありますが、神が御使いを通して私たちに働く基本的な様がここにはあります。それは、メッセンジャーは、みことばを携え、恐れを取り除くというその役割です。世の中は罪の世ですから、人には恐れや不安が満ちています。しかし、神と神の言葉、何よりそのイエス・キリストの約束は、その罪の世に不安と恐れで生き、罪に刺し通され悔いる私たちに、さらに重荷を負わせ恐れさせ心配させるのではなく、「恐れなくて良い」とどこまでも平安を与えてくださるお方であり、その言葉であることが、ここにも教えられます。
C, 御使いは律法で導かない
そんな恐れるヨセフ、密かに婚約を解消しようとするするヨセフに、神は御使いを通して告げます。「その子は聖霊によるのだ」と。さらには具体的なことも約束しています。それは男の子だと。名前はイエスとつけなさい。皆さん、この箇所も物凄く幸いな事実を教えられます。この「恐れず」という言葉。あるいは「恐れるな」と言う言葉。聖書には多いですが、それは「命令」のようですから一歩間違うと律法になります。つまり私たちが自分の力で頑張って、恐れないようにしなければいけない。頑張って恐れないようにしようとか、人間の意志の力でその神に応えなければいけないかのように、人は考えやすいです。それは例えば「いつも喜んでいなさい」(第一テサロニケ5章16節)とかも命令だからと、律法と理解する人がいます。自分の力や意志の力で神のために、いつでも喜んでいなければいけないのだと。つまり律法なんだと。それは救いや信仰は、神の恵みだけでなく、数パーセントの人間の意志の力の協力が必要なんだと教えるような教会の人々はそう考えたり教えたりします。しかしそうではありません。なぜ恐れるな、または、恐れなくて良いと神様は私たちに言われるのでしょうか?それは、神様の、神様がこれから実現するという計画と約束がそこにあるがゆえでしょう。ここでもそのことがわかります。恐れなくていいのは、それが人ではなく聖霊によるものであり、人ではなく「神が」聖霊によって、男の子をマリヤに産ませるのであり、名前も人が決めるのではなく、「神が」イエスと決めているからであり、そして何と幸いではありませんか。その子がなす救いの計画がはっきりと告げられています。「この子は自分の民を罪から救うからである。」と。そう「恐るな」、あるいは、「恐れなくていい」のは、神が確かにその通りに実現する神ご自身の約束があるからこそ「恐れなくていい」なのです。恐れからの解放、平安、喜び、何であっても、神がそのように励ますのは、人間の側が自分の力や意志の力でそうしなければいけないという律法ではなく、イエス様の約束が100%真実であり、その通りに実現するから、心配しなくていい。恐れなくていい。喜んでいなさい。なのであり、平安はそのようにしてイエス様が、その約束によってもたらす平安だということなのです。ですから恐れるなも、喜んでいなさいも、そして信じるという信仰も、決して「人がなさなければならない」「律法」ではない。紛れもなくそれは「神がなす」「福音」だということなのです。
D, 御使いは確信を得させるためにどうするか?
そしてこのところ、マタイは、まさしくイエス様に用いられている誠実な真の宣教師です。ここで、この福音書を読む人達に確信を得させるために、彼は、現代間違って流行りがちな、自分の理性や知識や人間の巧みな説得力で確信させるとか、文化的な手段や適用とか魅力的なアトラクションとか例話など、そんなものは用いいません。マタイははっきりと私たちに証しします。
「22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
と。まさしく今日の第一の聖書朗読の箇所、イザヤ書10章14節の預言です。マタイは、その聖書を引用して、その主が預言者を通して言われたことが実現するためであったと、聖書がこう言っている。聖書がこう約束してきた。指し示してきた。そのことが実現するのだと主の約束は真実であるということこそを指し示し、マタイはイエスの復活の後にもちろんこの福音書を書いていますから、それは、その約束の通りに実現したのだというメッセージも同時にあると言えるでしょう。マタイははっきりとしています。系図もそうですが、それは神が約束した通り、聖書の通り、みことばの通りにその通りになったのだ。聖書がそう言っているからその通りそれは事実、真実なのだ、というメッセージなのです。
残念なことに、聖書をそのまま信じることは理性に照らせば馬鹿馬鹿しいことであるという教えが流行って、イエス様の処女懐胎などを神話と言ったり、色々、人間的な理屈で説明をつけて、聖霊によって身籠るなどないんだ、処女が聖霊によって妊娠するなんてないんだ、それは、弟子達の作り話なんだという教えや説教があるかもしれません。しかしそのような教えは、神もなければ、神の言葉の力や真実さもありません。信仰もありません。信仰があったとしても、それは人間の理性や知識を根拠とした、神の前ではなんの力のないものであり、その辺の新興宗教となんら変わりありません。それは、福音と恵みに生かされる真の平安の信仰ではなく、キリストは結局は優れた模範者や偉人で、それにならって生きていくのが福音なんだという、結局、律法による信仰、道徳しか教えられず、それは何より平安はないのです。
4 結び:神はご自分の民、私たちを罪から救うために
イエス様がマタイを通して私たちに語りかけるメッセージは、真実な福音がその通りあなた方一人一人のために実現したのだ、そして今日も約束は実現する、だから安心して行きなさいと遣わすメッセージです。私たちは、どこまでも罪人です。生まれながらに神を信じない神に背を向けて生まれ、育ち、大人になるだけではない、自らでも聖書の言葉もイエス・キリストも見出すことも、信じることもできない。そして、神の創造の時の御心を一つも行えず、自らでは、神の戒めの第一の戒め、心をつくし、思いを尽くし、精神を尽くして神を愛することができない、そればかりではなく、隣人さえを愛することできない存在です。隣人を愛していると思っているようで実は、自分自身しか愛することができないことに気付かされる存在。それは私自身が、聖書の律法に照らされるときに、刺し通される自分自身の惨めな姿であり、救いようない罪人は私自身です。
しかし、皆さん。神の計画は、そんな罪人を滅ぼすことでも見捨てることでもありませんでした。事実、創世記3章、イエス様は、すでにアダムの堕落の時から女の子孫が悪魔を滅ぼすとも約束しておられましたが、その約束の通り、堕落した罪深い女の子孫の罪人の系図の先に、ヨセフとマリヤがいます。その二人の罪人の間に、約束の通りに、女の子孫を、神は与えてくださいました。預言者の約束の通り以上に、その神の最初の約束の通りに、その神の言葉は、実現しました。その通りに、罪人の間に生まれ、その救い主は、罪人の間に育ち、罪はありませんでしたが、罪人と一緒に食事を、友となり、そして、その罪とその結果である、苦しみ、悲しみ、絶望、そして何より死を背負って、つまり、それは私たちが負わなければならない全てのものをその身に負って、私たちのために十字架にかけられ死なれるでしょう。その十字架のために、つまり私たち一人一人のためにこの御子は生まれるのです。「この子は自分の民を罪から救うからである。」とある通りに。その身代わりの十字架のゆえに、私たちの罪が赦されるため、そして罪赦され、義と認められ、私たちの義ではなくイエス様の義を受けて、そして、復活の新しいいのちによって、今日も私たちが新しくされ平安のうちにここから出ていくことができるためです。
私はクリスチャンホームで生まれ育ちましたが、先日、年老いたクリスチャンの母から電話があり、母は色々な不安や恐れに生きる中で、それは人間ですから当然あるのですが、あるクリスチャンから、「信仰者なんだから、もっと一生懸命、心配しないで、熱心に信じないと天国に行けないよ」と言われので、自分は天国に行けないのかと不安になっていると話してくれました。私はそれを聞いて切なくなりました。皆さん。そういう考えや励ましは間違いであり福音を律法に混同し歪めています。皆さんは心配しないでください。皆さんは確実に天国に行けます。なぜなら、私たちの何かではなく、神の約束、神のみ言葉によって信仰が与えられ、人の名前ではなくキリストの名で洗礼を授けられ、その私らちを新しく生まれさせたイエス・キリストの福音によって、今日も明日もいつまでも、日々悔い改める私たちに、イエス様が、その十字架と復活のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるからです。救いの確信は、私たちが律法を一所懸命、自分の力や理性で実現するから確信があるのではありませんし、それでは一生確信はありません。救いの確信は、イエス様の揺るぎない、朽ちることのない、真実のみことば、約束、福音のゆえです。今日もイエス様は悔い改めを持って主の前にいる一人一人に、この十字架のゆえに言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ救いの確信を持って、安心して、今日もここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
Youtubeで見る
12月6日はフィンランドの独立記念日。毎年その日のニュースに必ず出てくるのは、 「あなたにとって独立は何を意味しますか?」と聞く街頭インタビュー。老若男女問わず必ず返って来る答えは「自由」である。この「自由」は、外国の支配からの自由だけではない。国内で自由と民主主義の体制が守られることも意味する。フィンランド人は第二次大戦で両方の自由を守ったという自負が強くあるのだ。(そう言うと、あれっ、フィンランドは枢軸国ではなかったの?と疑問に思う人が出てくるかもしれない。フィンランドは実は戦時中も国会は社会主義政党から保守党まで揃う議会制民主主義が機能していた国だったのだ。そんな国がなぜ後半はナチス・ドイツ側に立って戦うことになってしまったかについては、国際政治史の専門家に聞いて下さい。私も少しは説明できます。)
この自由を守ることは国民の義務で、場合によっては武力を用いてでも守らなければならないということを示すのが徴兵制である。パイヴィの兄弟姉妹たちの男の子たちも高校を卒業すると皆、大学入学前までに当たり前のように兵役を済ませていた。二重国籍の息子にも”召集令状”が来たが、障害があるため医師の診断書で免除となった。女性は志願制だが年々増加しているという。予備役の再訓練の参加率も高まっていて、2014年のロシアのクリミア半島併合以来の傾向だと聞いた。
ところで、キリスト信仰者が銃を取ることは許されるのだろうか?国教会の堅信礼教育で十戒を教える時に問題になるところだ。第5戒「汝殺すなかれ」。教師を務めた時、私はいつもその項目の担当を外してもらった。フィンランドの中学2年の子供たちに外国人の私が、銃を取って宜しいとか、逆に兵役は罪を犯すことになるとかとても言える立場ではない。
最初の堅信礼合宿の時、この問題で牧師と夜遅くまで話した。彼は次のように自分の立場を説明した。ローマ13章などにあるようにキリスト信仰者はこの世の権力に従うことを基本とする。ただし、使徒言行録4章19節などにあるように、神の言うことと権力の言うことが対立したら聞き従うのは神である。第2次大戦はフィンランド国民にとって、まず権力が銃を取るよう命じたので従ったという面がある。それと、敵国のソ連という国は、もし占領されてしまったら信仰の人生が不可能になってしまう相手であったという面がある。彼は授業でも、自分はこのように考えていると、押し付けるのではなく自分の考え方を紹介する仕方で子供たちに語っていた。僕はこう考える、あとは君たち自身で考えてみてくれ、という具合に。そうは言っても、牧師の説明はフィンランドのキリスト信仰者の間では広く共有されていると思う。
しかしながら、フィンランド国民の90%以上が国教会に属していた時代はもう過去になってしまった。私が牧師の話を聞いた頃はまだ80%台だった。昨年は66%まで落ちた。生まれてくる子供の洗礼率も今では半分位だそうだ。この傾向が続けば2040年には国教会の所属率は50%を切るということだ。兵役の是非を考える際にかつてのように信仰と関連づけて考えることは、もう一般的ではないのかもしれない。それでは彼らは今、何に関連づけて何に拠って考えるのだろうか?かつては神のみ言葉が価値でそれを自由と民主主義が保証していたのが、今は自由と民主主義自体が価値になったということか?
「あなたこそ来るべき方、メシア」 2022年12月11日
マタイ福音書11章2~11節
今日の福音書は、バプテスマのヨハネとイエスの活動についての話です。どういう場面かと言いますと。マタイ11章2節でわかりますが。「ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。」とあります。ヨハネは、今獄中に入れられています。なぜ獄中に捕らえられているか、ということを先ず簡単にふれたいと思います。マタイ14章3節を見ますと、領主ヘロデは自分の兄弟フイリポの妻であるヘロディアを自分のものにしようと夫のフイリポを戦場に出して戦死させた。そしてヘロディアを自分の女にしたわけです。こうした人道から外れた事をローマ帝国の領主たる者が衆知の中で、やっている事が許されることではない、と厳しくヘロデ王を咎めたために投獄されたわけです。ところで、2節~3節のところを日本語訳のまま読んでみますと、バプテスマのヨハネが獄中から、まるでイエスを疑って弟子たちをイエスのもとに行かせて「来るべき方はあなたでしょうか、それともほかの方を待たなければなりませんか。」と質問しているかのように読み取れます。このことが昔からここは福音書の中でも最も難解な箇所の一つであると言われました。2節を見ますとマタイはこう書いています。「さて、ヨハネは獄中でキリストの御業について伝え聞いた。」とあります。これまで、バプテスマのヨハネという人は人々に「来るべき方」を紹介するという特別な任務を神様から授かっている預言者でありました。彼は神の啓示に従って「イエスこそ待望のメシアである」と人々にも弟子たちにも紹介してきました。ところが、その後ガリラヤの領主ヘロデの怒りにふれ投獄されてしまいました。
この事については「ユダヤ古代史」を書いたヨセフォスという人の記録にもあります。それによるとバプテスマのヨハネが入れられた牢獄はヨルダン川の東にあるぺーレアという所にありました。そこは深い谷で囲まれた死海の海面から1200mもそびえる山の頂にある天然の砦であった、と言われます。まだ30才の預言者ヨハネは囚われの身となって死海の彼方に広がる山々を見ていたにちがいありません。その彼の耳にイエス様と弟子たちの活動の様子が伝えられていたのです。
マルコ福音書6章19節によると、ヨハネを捕らえて殺そうとした張本人は領主ヘロデの不義の妻であるヘロディアでありましてヘロデ王の方は「ヨハネは正しく聖なる人である事を知って彼を恐れ彼に保護を加えていた。」とあります。ですから「獄中」とは言え彼にはかなりの自由な弟子との連絡が許されていたようです。そうした事からイエスの活動ぶりが逐一報告されていたものと思われます。報告を聞いてヨハネはどう思ったでしょうか。自分は山の中の獄に捕らわれているのに対して、自分が「この方こそメシアだ」と世に紹介したイエスが眼下に広がる湖の彼方で活動している噂を聞いて預言者の胸中はどのようなものだったでしょうか。聖書はそれをドラマチックに描き出してはおりません。ただ一言「来るべき方はあなたなのですか、それとも他に誰かを待つべきでしょうか。」という彼の言葉が記録されているだけです。ここのこの言葉についていろいろ想像がめぐらされてきました。第一には、ここをそのまま読んで獄中のヨハネも余りの辛さに短気を起こし救い主の救いを待っていたが、もう我慢できないと、あなたなどメシアでも何でもないと、弟子たちを遣わして確かめたかった。という説です。預言者も現実の苦しみの前には信仰を捨て始めたのか・・・・というのです。しかし、これは聖書が預言者ヨハネのこの世に於ける働きの意義を重要な使命と教えている、ところから見るとそうは思えない。また、信仰を捨て始めたなどとはとても考え難いことです。例えば使徒言行録13章24節~25節を見ますと、彼の働きをこう要約しています。24節にヨハネはイエスがおいでになる前にイスラエルの全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。そして、自分の事をヨハネはこう言いました。「私を何者だ、と思っているのか。私はあなた方が期待しているような者ではない。その方は私の後から来られるが、私はその方の足の履物をお脱がせる値打ちもない。」ここに引用されているヨハネの言葉は福音書では、彼の預言者としての開口一番のメッセージとして記されているものです。それ以後ヨハネが殺されるまでの年月はほんのわずかしかありませんでした。そうして見るとヨハネのメッセージは預言者として登場してから死ぬまで首尾一貫して同じであった。それは、私の後にくる方「イエスこそメシアである。」と力強く叫んでいます。それがヨハネでありました。ですから今獄中にあって「来るべき方はあなたなのですか、それとも誰かを待つべきでしょうか。」とイエスを疑って本当かどうか聞いて来いと弟子たちに言うはずがない。ヨハネがそんな不信を抱くような事はないのです。
次にもう一つの見解があります。これは殆ど古代キリスト教の学者たちの説です宗教改革者のカルヴァンもこの見方です。これによると”ヨハネの信仰 ”はびくともしなかったがヨハネの弟子たちはいつまで経ってもメシアに従って行こうとしない。捕らわれの身にあるヨハネを慕っている。それで弟子たちに従わせるため彼らをイエスのもとへ遣わしたのだ、という説です。この説に対して反論がありました。ヨハネの弟子たちがこんな形でイエスのもとへ行ってしまったという例はほかにない。つまり、この説で言っているようにヨハネの意図したように弟子たちがイエスについて行ったでしょうか。さて、第三の見解があります。これが近代と現代の殆どの学者たちが辿り着いた説と言われます。神の啓示によってヨハネは「イエスをメシアである。」と紹介したのに今頃になって、その啓示を疑うはずがない。そこでヨハネがイエスを理解していたメシア観は木の根元に斧を振り下ろす審き主のメシア、蓑を以て、麦と殻とを分け殻を火で焼き滅ぼす審きのメシアという信仰であった。そこで、彼はそのメシアがあの領主ヘロデ夫妻を審いてくれるにちがいない。今は捕囚の身であるけれども正義を貫いている自分を救ってくれるにちがいないと期待していた。ところが、実際のイエスは憐みの業と福音伝道ばかりに熱中していて一向に審きを行おうとはしない。それで、ヨハネはイエスがメシアであることの事実は疑いはしなかったが、メシアの性質を考え違いをしたために、痺れを切らした。と言うのです。
しかし、ルカ福音書7章21節によれば「その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々を癒し、大勢の盲人を見えるようにしておられた。」とあるように、ちょうどヨハネの弟子たちが来た時イエスはその憐みの業の真っ最中だったが、それを見られても恵みと憐みのメシアとしての姿を示された。そして、憐みのメシアである私に躓かない者は幸いである、とも言われている。そこに、忍耐を求めておられるのでありました。
これらの第三の解釈が大方の見方であります。ところで、第三の見方についてもいくらかの疑問がある、という点を注意してみたいところであります。一つには2節で言われている弟子たちの情報からヨハネが獄中で聞いた「キリストの御業」と言っていますが、ここでヨハネはイエス様のなさっている事を、救い主メシアらしからぬ御業と誤解したのでしょうか。いや、そうではないヨハネ自身はイエスのなさっている働きを「キリストの御業」と理解して聞いていたであろうと思われます。次に、ヨハネの聞いた報告はヨハネの信じていたメシア観から見て期待外れのつまらぬ報告だったのでしょうか。その答えは、マタイの記す前後文からわかります。20節でイエスは数々の力ある業がなされたのに悔い改める事をしなかった町々を呪っておられます。イエスの御業はそれらの町の人々が見てはっきりとメシアの到来を認めねばならぬはずの「力ある業」だったのです。この事はルカ福音書の方でも記しています。ヨハネが弟子たちをイエスのもとへ派遣する前の事です。そこには、死人を生き返らせた大奇跡を記しています。その奇跡の結果、人々は皆恐れを抱き「大預言者が私たちの間に現れた」と言っているのです。また「「神はその民を顧みてくださった」と言って神をほめたたえた。イエスについてのこの話はユダヤ全土及び付近の至るところにも広まった。、これ程の業をイエスがなさって皆知っているわけですからヨハネの弟子たちもこれらの事を全部牢獄の中にいるヨハネにも報告しているわけです。だから、ヨハネは獄中で「なんだ、まだグズグズしてメシアらしい力を表さないのか」という思いで聞いてはいないのです。むしろ、メシアの力ある業を聞き「神がその民を顧みてくださる。」そういうメシアの時代が来た、と人々も認めている。こうした嬉しい報告を聞いているのです。
次に、ヨハネは果たしてメシアを審き主とだけ期待していたのであろうか。マタイ福音書3章7節以下を見ますと、バプテスマのヨハネの始めた頃はヨルダン川で洗礼を授けていた時「悔い改めよ」と叫んで「私の後に来る方は火で焼き払われるぞ」と審きのメシアを叫んでいましたが、後では変わっています。マタイ福音書3章13~17節を見ますとわかりますがイエスがヨルダン川にやって来られてヨハネから洗礼を受けられた。そのお姿は罪人の如く悔い改めてバプテスマを受けようとされるメシアです。へりくだった恵みのメシアです。そこで天から御声があった。「これは私の愛する子、私の心に適う者である」と。ヨハネはこういうメシアであるイエス様を充分知っているのです。だから、獄中からヨハネは審き主としてのメシアの力を発揮して「早く閉じ込めている領主ヘロデを審いて滅ぼしてください」といった考えは持っていないのです。こうして、イエスの返事は4節にあるように「行って見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。」目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病に患っている人々は清くなっている。耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死者は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。これら全部の事実こそメシアに相応しい印なのだ、ということです。そうして、イエスは言われる。「ヨハネこそ、あなたはこの私を『ナザレから出たメシア』だと紹介し続けてきた。この点で私に躓かない者であり、幸いなものである」と言っているのです。ですから、イエスの返事はヨハネに対する全面的な祝福と賛同の気持ちに満ちているのです。ヨハネのもとから遣わされた弟子たちはイエスの言葉に満足して帰ることができたでしょう。ヨハネの理解とイエス様の返事とは共にいまイエス様がしておられる恵みの業と力あるメシアの働きとを観る点で一致したのです。
さて、最後に11章3節にあるヨハネの言葉は今の日本語訳で、そのまま読めばどうしても疑問文です。そのことがどうしてもひっかります。実は、聖書学者の研究によれば、ここのところのギリシャ語原文は疑問文にはなっていない。そして、「たずねさせた」という文も原文にはない。というのです、むしろこの文章は力強い肯定文或いは断定文として訳したい構造になっている。これをありのまま訳すと「あなたこそ、かの来たるべき方です。それとも、我々は他の人を待っているべきでしょうか。いやいや、あなただけだ」と訳すのが一番自然と言われます。今日の聖書の箇所は難解でわかり難い面もあったかと思いますが、要するに結論的に申しますと、バプテスマのヨハネが預言者としての大切な働きをし、彼の人生の終わりが近づいている中でイエス様の活動をメシアの力ある御業として聞き、喜んで使者を遣わしイエス様に対する祝辞と力強い応援の声を送った、ということであります。ここには、メシアを民に紹介したヨハネとメシアであるイエス様との間に取り交わされた「祝福」と「賛美」にあふれたものであったのです。「イエスこそ神の子、救い主メシアである」とメシアの伝道を一筋に書いてきたマタイにとって、最高にうたいあげているメッセージであります。獄中にあってもヨハネにとって生涯の終わりまでメシアを指してきた、この働きは預言者ヨハネの最も輝かしいクライマックスでありました。
人知では、とうてい測り知る事のできない、神の平安がキリスト・イエスにあって守るように。> アーメン
聖句 ヨハネによる福音書1章4ー5節
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
フィンランドの信仰ある人たちの祈りは、他の人のために祈るということだけでなく、 もし自分に何かあれば祈りの課題を他の人に伝えるということを当たり前のようにします。牧師にだけでなく信徒同士でそうするのです。課題を伝えられた人は、信頼の表れとして感謝して受け取ります。伝える人も相手に負担にならないように細かな状況説明はせず簡潔に課題を伝えることが普通と思います。受け取る側も簡潔さの中に大きな真実があるとくみ取って全ては父なるみ神がご存じであることでよしとして立ち入らず、神のみ前にヘリ下って祈りにまい進します。
課題を伝える人が祈る前に詳細を知ってほしいという場合もあります。その時は「魂ケア」の出番となります(「魂ケア」については9月25日付け週報コラムをご覧ください)。
最近スオミ教会の中で、生活にいろいろ困難が生じて礼拝にも集えない状態になったにもかかわらず、祈りの課題をあえて託さないということが一度ならずありました。いろいろ考えさせられました。一つには、キリスト信仰者が「お祈りします」と言うのと日本語の挨拶言葉「~をお祈り申し上げます」の区別がまだ出来ていないことがあるのではと思いました。日本語の挨拶は言う人の願いの表明で、言う人と言われる人の間の事柄に留まります。キリスト信仰の祈りは、「父なるみ神には、私の方からもお伝えし解決をお願いしておきます」という、神へのへりくだった取り次ぎです。自分で解決するから構わないでという態度は、神へのへりくだりがまだ身についていないことの表れではないかと思います。
もう一つには、コロナ禍で礼拝をオンライン化したため、教会に来なくとも礼拝をフォロー視聴できるようになったことも影響していると思います。人と直接顔を会わせず声も聞かないでいると、自分がイエス様を頭とする体の中の部分(他より優れているところがあるかもしれないが実は劣っているところもある)であることの実感が薄れていくのではないかと危惧しています。
11月の手芸クラブは晩秋にしては暖かい風の吹く陽気の中での開催でした。
今回の作品は先月と同じ、マクラメのクリスマスの飾り物です。初めに飾り物のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。今回初めて参加された方はクリスマス・リースに興味を持ってそれを選びました。他の方たちはクリスマス・るのではなく、馬小ツリーと星です。まず、全部の作品に必要な糸の長さを測り、それから結び始めます。今回はマクラメの三つの基本の結び方を用いました。
クリスマス・リースは、リングの上にマクラメを結んでいきます。すると、マクラメは自然にねじれていきリングをどんどんカバーします。結んでいくとだんだん速くなって、リングはあっという間に薄緑のマクラメに覆われました。その次はリースの飾りつけです。赤いリボンを付けて可愛らしいクリスマス・リースが出来上がりました。
クリスマス・ツリーは、初めは二本の糸でスタートしますが、糸をどんどん増やして行くとクリスマス・ツリーの形が見えてきました。途中で可愛いらしいパールで飾りつけをして素敵なツリーの出来上がりです。
星は、初めは小さいリングに糸を沢山結びます。それから新しい結び方で結び始めます。糸が多くて最初は結ぶのが少し大変でしたが、慣れると星の形が少しずつ見えてきました。星も可愛いらしく出来上がりました。
参加者の皆さんはマクラメのクリスマス・飾り物にとても興味を持って作られたので時間が経つのを忘れるほどでした。あっという間にコーヒータイムになった感じでした。モニターから映し出されるフィンランドのクリスマス音楽を聴きながらコーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。少し歓談の時を持ってから聖書のお話がありました。
皆さんの今年のアドベントとクリスマスの期間が心に残る良い時となりますように!
今日マクラメのテクニックを使って作ったものの中に星もありました。私は二つの違った作り方で星を作りましたが、ネットを調べて見ると、マクラメの星の作り方はまだいろいろあります。来年は新しいテクニックを使って可愛いらしい星を作ることが出来たらと思います。
星は夜空に輝く天体です。多くの人たちは夜の星空を見るのが好きです。フィンランドでは冬寒い夜空に輝く星はたくさん見えるので、星座を見つけるのが面白くなります。特によく知られている七つ星の星座、北斗七星を見つけるのは楽しいです。皆さんはそれを見たことがあるでしょうか。
星はクリスマスの飾り物にもなります。教会のカレンダーではこの間の日曜日からアドベント、日本語で待降節という季節に入りました。その前の日曜日に教会ではクリスマスの飾り付けをして玄関のドアに木製の星を飾りました。星の中にあるランプの明かりが本当の星の光のように輝いて教会の前を通る人たちにクリスマスが近づいていることを知らせる光になるように願っています。キリスト教会で言われる「クリスマスの星」にはとても大きな意味があります。「クリスマスの星」というのは、世界で一番初めのクリスマスの時にベツレヘムというところに現れた星を意味します。それはどんな星だったのでしょうか。
救世主の誕生ということが旧約聖書に預言されていました。それで多くの人々はそのことが起こることを待ち望んでいました。一番初めのクリスマスの少し前に遠い東の国の占星術の博士たちは不思議な輝きをする星を発見しました。彼らはこれを新しい王様の誕生の印だと考え、はるばる今のイスラエルの地まで旅をして、首都のエルサレムまでやってきました。そこで、その時に王様だったヘロデに言いました。「新しく王になるためにお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」ヘロデ王はとても驚いて、自分に地位が危なくなると心配しました。ヘロデ王は旧約聖書の専門家たちを集めて預言について聞きました。すると彼らは、救世主はユダヤ地方のベツレヘムに誕生するという預言があることを教えました。ヘロデ王は東方の学者たちを呼んで、その子供を見つけたら知らせるようにと言いました。自分も子どもを拝みに行きたいなどと言いましたが、本当はその子を殺すことを考えました。学者たちは王の本当の考えを知らずに出発しました。すると、東方で見た星が再び彼らに現れ、彼らはその星を目指すようにして進んで行きました。それはあたかも星が彼らの先頭に立って進んでいるようでした。そうして彼らはベツレヘムの町に入りました。やがてこれ以上進まなくていいというところにつくと、そこには馬小屋がありました。学者たちがその中に入ると、赤ちゃんのイエス様が母マリアの膝の上で安らかに眠っていました。学者たちは目の前におられる幼子は一つの国を支配する者ではなく、旧約聖書に預言された世の救い主になる方だとわかりました。そのような方が王子様のようにお城で生まれるのではなく、馬小屋で生まれたというのは信じられないことでしたが、旧約聖書の預言や不思議な星の導ぎがあったので、これは天地を造られた神の御心だとわかったのです。
彼らはヘロデ王のところに戻って知らせなければと思いましたが、夢の中でヘロデ王のところに行かないようにという神様からのお告げがありました。それで彼らは戻らないで別の道を通って自分の国に帰りました。
クリスマスに飾られる星は、私たちにこの出来事を思い出させてくれます。この出来事は2000年前のことですが、2000年後の私たちにも大きな意味がある出来事です。東方の学者たちのように、私たちも世界で一番初めのクリスマスにお生まれになったイエス様の元に導かれることが起こるのです。それはどのようにして起こるのでしょうか?それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時に起こります。聖書のみ言葉は私たちにベツレヘムの星と同じ役割を果たすのです。そのことについて聖書には沢山書いてあります。例えば詩篇の119篇105節には次のように書いてあります。「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」。聖書のみ言葉は私たちが歩んでいる道をいつも照らし続けます。それに従って行けば、世界で一番初めてのクリスマスの意味、つまりイエス様はこの世の全ての人の救い主として生まれになったということが分かります。この意味を心で受け取ると心の中は平安で満たされます。
今年のアドベントとクリスマスが皆さんにとって神様が祝福される時となりますように。
2022年12月4日(日)待降節第2主日 主日礼拝 聖書日課 イザヤ11章1~10節、ローマ15章4~13節、マタイ3章1~12節
説教をYouTubeで見る。
本日の福音書の日課の箇所は洗礼者ヨハネの活動開始についてです。これは旧約の日課イザヤ書11章と使徒書の日課ローマ15章と結びつけて見ると内容がとても深くなります。限られた時間で全部をお話しすることはできませんが、特に今日大事と思われることをお話ししようと思います。
洗礼者ヨハネはルカ福音書1章によれば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか記されています。ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年です。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位します。その年を数え入れて15年目なのかどうかは定かではありませんが、いずれにしても西暦28年か29年の出来事です。このように洗礼者ヨハネの登場もイエス様の登場も歴史的出来事です。おとぎ話ではありません。
洗礼者ヨハネのスローガンには二つのことがありました。一つは「悔い改めなさい」、もう一つは、悔い改めなければならない理由として「天の国が近づいたのだから」でした。まず「悔い改め」とはどういうことか見ていきます。「悔い改め」と聞くと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしませんと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、もとのギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)にはもっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改める、生き方を方向転換して神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになりました。それなので、この説教ではこれからは「悔い改め」という言い方はしないで、「神のもとに立ち返る」という言い方をしますのでご了承ください。
次に悔い改めなければならない理由としてある「天の国が近づいたのだから」を見ていきます。「天の国が近づいた」ということは何のことでしょうか?「天の国」とは天国のことですが、普通、日本人が「天国」と聞いたら、人が死んだらふわふわと上がって上から私たちを見下ろしている居心地のいい場所というイメージがあるでしょう。それが、私たちのいるところに「近づいてきた」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?
「天の国」とは、他の福音書では「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とはどんな国でしょうか?「ヘブライ人への手紙」12章に次のように言われています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという、この世の終わりが来る。その時、唯一揺り動かされないものとして現れるのが「神の国」です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地に替えて新しい天と地を再創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時、神の国が見える形で現れることが預言されています。
このようにキリスト信仰はこの世には終わりがあるという立場をとります。しかし、終わっても終わりっぱなしではなくて、その後に新しい世が到来する、それで今のは終わるということです。新しい世では神の国が唯一存在する国となり、そこに迎え入れられるか入れられないかを決する最後の審判というものがある。この壮大な天地大変動の時にイエス様が再臨して審判を執り行うのです。イエス様が行う審判のことが今日の洗礼者ヨハネの言葉、麦の殻は永久に消えない火に投げ込まれるという言い方で言われています。これとは逆に神の国に迎え入れられる者はパウロが第一コリント15章で言うように「復活の体」という創造主の神の栄光を映し出す体を与えられて迎え入れられます。黙示録21章4節を見ると、神の国では「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」と言われます。涙には痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それなので、この世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされます。さらに、神の国は黙示録19章で言われるように結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。この世での労苦が全て労われるところです。 この将来到来する神の国と審判を行う者については今日の旧約の日課イザヤ11章でも預言されています。どのように預言されているか見てみましょう。
まず1節の「エッサイの株」。「株」とは木の切り株のことです。木が切り倒されて無残にも切り株だけが残されている。そこから芽が出てくる。若枝が伸びてくる。これは何か?エッサイとはダビデの父親なのでダビデの家系が暗示されています。木が切り倒されたというのは、歴史的に見ると、ユダヤ民族の王国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡したことを指します。イザヤ書6章終わりにそのことを暗示する預言があります。神の意思に反する生き方をしてしまった民に対して神が罰として強大な帝国を送り込む。その攻撃を受けて国は荒廃し民は異国の地に連行されてしまう。それはさながら、大木が切り倒されたような様である。しかし、残された切り株が神聖な種になる、という預言です。預言通り国は滅びました。その後でバビロン連行から解放されて祖国に帰還できました。しかし、かつてのような栄華を誇った王国は復興できないでいました。そのような切り株から若枝が萌え出る、それがダビデ家系に属する者として生まれたイエス様だったのです。
そのイエス様が最後の審判で裁きを行う時、どのような資質を備えているかが2節から5節まで言われます。神の霊に満たされている。その霊は知恵の霊であり洞察力の霊、助言する霊、力の霊、知識の霊、神を畏れる霊である。知恵は神の知恵ですから人間の知恵を超えています。洞察力も助言も力も知識も皆、神のもので人間のものではありません。こうした資質を備えた方が判決を下す。その際、目で見えることや耳にすることに基づいて行わない。つまり、目に見えない部分も見極められる。声にならない声も聞き分けられるということです。
「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」というのは、旧い世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされるということです。「「この地の貧しい人」というのはヘブライ語の辞書を見ると、貧乏な人たちでなく「神の前にへりくだった人たち」のことです。「その口の鞭をもって地を打ち」というのは、辞書によれば「口」(פיו)は「口から発せられる決定」の意味があるので「決定の杖で地を打つ」です。最後の審判者は決定を告げる時、その杖で大地を打ちます。大地は震え恐れおののきます。「唇の勢い」というのは辞書を見ると、「口から吐かれる息(ברוח)」で、それが強風のように神に逆らう者たちを永遠の死に吹き飛ばすという意味になるでしょう。
最後の審判者は、まさに正義と真実を腰の帯のように身にまとっている。「真実」と訳されている言葉(האמונה)は、辞書では「信頼できること、頼れること」という意味です。最後の審判者はいでたちからして、文字通り正義を体現して信頼しきって大丈夫な方だということです。
6節から9節までは、野獣や猛獣が家畜や幼子と一緒にいて何も危険がないということが言われます。それくらい完璧な安心と安全がある夢のような国です。ヘブライ語原文を見ても、同じ言葉や似た表現が繰り返され、詩のような美しさを感じさせる個所です。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。神を知っているということが全地に行き渡っている。それはあたかも水が海を覆い満たしているのと同じであると。このように「神の国」では、神を知らないことが存在しないので、神の意志に反する罪も存在しません。ここで野獣や猛獣が草食動物のようになっていますが、新しい世の有り様がかつての天地創造の最初の状態に戻ったことを表しています。創世記1章30節を見ると、堕罪が起きる前、獣もみな草を食べていたことが言われています。
10節「その日」、つまり新しい世が到来する時です。それは、イエス様の再臨の時、最後の審判の時、復活の起きる時です。その時、エッサイの根は全ての民の旗印と立てられる。日本語訳では「国々がそれを求めて集う」と言ってますが、原語(גוימ「諸民族」)は「諸民族が旗印を目指して行く」です。黙示録でも言われるように、神の国に迎え入れられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きた者であれば、ユダヤ民族であろうがその他の民族であろうが関係ないということです。(この10節をパウロが本日の使徒書の日課ローマ15章12節で引用しています。双方をよく比べて見るといろいろ違いがあることに気づかされます。これは、パウロが引用しているのはギリシャ語版の旧約聖書だからです。ヘブライ語の方は諸民族の動きに焦点が置かれていますが、ギリシャ語の方はエッサイの芽つまりメシアのイエス様の動きに焦点が置かれています。)
最後の「そのとどまるところは栄光に輝く」。「とどまるところ」と訳されている言葉(מנחתו)は辞書によると「休息の場」です。神の国とは、この世で流さなければならなかった涙を全て拭われて完全な労いを受ける永遠の休息の場です。「栄光に輝く」と訳される言葉(כבוד)は訳が難しく、impressive appearanceという意味があり、まさに息をのむ、目を見張る、そういう光景が目の前に広がるということです。今まで見てきたことを踏まえたら、神の国、天国はまさにそういうところだと言うほかありません。
さて、そんな夢のような国が2000年前に洗礼者ヨハネが「近づいた」と言ったのです。これは一体どういうことなのでしょうか?神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?ヨハネの時代から今までを振り返ってもそんなことは起きなかったではないか?
実は、2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めたり、悪霊を憑りつかれた人々から追い出したり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。それで、2000年前のイエス様の活動というのは、将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせるという意味がありました。それなので、神の国が本格的に出現するのは、やはり今の天と地が終わって新しい天と地が再創造される日だったのです。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れるということではなく、神の国を人々に体験させられる方が来られる、その方が神の国と一体としてある、彼のすぐ後ろに控えている、それくらい一緒にあるということを意味したのです。
そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。神の国が近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主である神に背を向けていた生き方をいい加減やめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国と一体になった方が来られるからだ。その方のおかげで、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。
ところで、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そうなると、預言書に言われているように(イザヤ書24章21-22節、26章20-21節)最後の審判も来てしまう。これは大変だ、ということになりました。ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには特に手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと言います。宗教エリートでさえダメなんだから、神の怒りと裁きから助かるためには、神の意思に反する罪を犯してしまったと正直に認めて赦してもらわなければ、と人々が考えたのは無理もありません。皆こぞってヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。
人々は、どうしてヨハネから洗礼を受けると罪を赦してもらえると考えたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考えたと思われます。しかし、ヨハネの意図は全く別のところにありました。彼が言うように、罪の問題の解決のために自分よりも強力な方がもうすぐ来られると。つまり、神の国に迎え入れられるために神の怒りと裁きから助けられるのはその方である、自分はその方が成し遂げる解決を人間が受け取ることが出来るように、そのために人間を罪の自覚と告白に導く役割を果たすということだったのです。それがイエス様の到来に備えて道を整えるということだったのです。
それでは、イエス様はどのように罪の問題を解決して下さったのでしょうか?それは、彼が神から贈られた神聖なひとり子でありながら、否、神聖なひとり子であるがゆえに、これ以上のものはないという位の神聖な犠牲の生贄になって私たち人間の持っている神の意志に反する罪を私たちに代わって神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。イエス様は私たちに代わって罪の神罰を受けられたのです。神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦し神罰を受けないで済むようにするという手法を取ったのでした。そこで人間が、このことはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、してもらった罪の償いを自分のものにすることができます。それでその人は罪を赦された者と神から見なされるようになります。
しかしながら、洗礼を受けたとは言っても、人間はまだ肉を纏っているので神の意志に反する罪を内に持っています。それでは、洗礼の後はどうしたらいいのでしょうか?それは、罪の自覚を持ち、神に対してそれを告白して、神から罪の赦しを頂く、これを繰り返していくことです。自覚と告白のたびに神は洗礼の時に与えた聖霊を通してゴルゴタの十字架にかけられたイエス様を私たちに示して下さいます。そこに罪の赦しが確実にあることを教えて下さいます。この時人間は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちに満たされて罪の言いなりにならないようになる力を頂きます。これを繰り返していくのです。繰り返しをすることで神は、あなたが罪に反抗する生き方をしていると認めて下さいます。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと言いました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2-3節)、罪からの浄化を意味します。先ほど申したように人間は洗礼を受けても罪を内に持っています。しかし、洗礼を受けることで人間は罪の赦しの中で生きることになり、罪の自覚と告白と赦しの繰り返しの人生が始まります。罪から浄化されるプロセスに入るのです。やがて、このプロセスが終結する日が来ます。肉の体に代わる、神の栄光を映し出す体を着せられる復活の日がそれです。
終わりに、ヨハネが結びなさいと命じている「悔い改めに相応しい実」とは何かについて述べておきます。この説教では「悔い改め」とは「神への立ち返り」のことだとしたので、「神への立ち返りに相応しい実」です。これはいろいろな内容を含みますが、何にしても、この「実」を考える際に忘れてはならないことがあります。それは、「神への立ち返り」とは何かを覚えていることです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神の罪の赦しのお恵みの中で生きることがそれです。その中で生きるとは、罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることを繰り返して生きることです。これが神への立ち返りです。ここからどういう「実」が実るのかを考えるのです。
私は、ローマ12章から後に書いてあることにその具体的な内容があると思います。今日の日課はその15章ですので、今日はそれに限定して「実」の内容を見てみます。日課は4節からですが、この区切りは良くなく、1節から見るべきです。「実」を理解するカギは7節にあります。パウロの言葉を借りると、次のことが「実」であることがわかります。
キリストは、もともと神の民・ユダヤ民族に属さない異邦人であるあなたがたを受け入れた。それは、神の栄光がこの世で一層明らかにするためであった。だから、あなたがたもキリストに倣ってお互いを受け入れなさい。そうすることで神の栄光がこの世で一層明らかにされるのだ。このように、キリストに倣ってお互いを受け入れることで神の栄光をこの世に現わすことが「実」なのです。
そこでキリスト信仰者がお互いを受け入れるというのはどういうことかが1節からの箇所にあります。
力ある者は、ない者の弱さを辛抱してあげること、自分のことだけを考えないこと、隣人にとって何が良いかを考えて隣人を強めてあげられるようにすること、隣人が蔑みを受けたら代わりに受けてあげること。つまり、キリストがあなたにしてくれたことを思い起こして、相手にも同じようにしてあげること。このようにキリストのことを思い起こして、仲たがいなどせず、皆で思いを一つにすること。これが「実」です。
「思いを一つにしている」は、次のように出来ていれば、そうなっていることになります。お互い同じ復活の希望を持っているのだ、それでお互い同じ喜びと平安を持っているのだとわかって、それで一緒に、この罪の赦しのお恵みの神に感謝し、一緒に神を賛美すること。これが「実」です。そうすると、今まさに皆さんがしているように、心から礼拝に参加することが実を結ぶことになるとわかるでしょう。
聖句 マタイによる福音書 21章5節
「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」
今日は待降節第一主日です。教会の暦では今日、新しい一年がスタートします。フィンランドのルター派国教会の礼拝ではこの日、 全国の教会で一斉に「ダビデの子、ホサナ(日本の教団讃美歌307番)」を元気よく歌います。スオミ教会でも歌います。
「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)
今日からまた、降誕祭(クリスマス)、顕現日、受難節、聖金曜日、復活祭(イースター)、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。聖霊降臨祭の後は、聖霊降臨後第何主日という形で続き、待降節第一主日の前の最後の主日は、北欧のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれ、最後の審判がテーマになります。
このように教会のカレンダーは、イエス様の誕生から十字架と復活の出来事までをフォローでき、私たち自身の復活にも思いを馳せられるようになっています。
それなので教会の暦に従って礼拝出席を欠かさないようにすれば、主の再臨を心に留めつつ、この世での自分の歩みを造り主である神の御心に照らし合わせて反省したり、また神から罪の赦しの恵みと愛が豊かに注がれていることを絶えず確認できます。しかも、一人ではなく信仰の兄弟姉妹たちと共にです。それなので、日々の歩みを教会の暦に合わせて日曜礼拝を守りながら生きることは、キリスト信仰者としてのアイデンティティーを確立し、この世を生きる上で大きな力を与えてくれるます。
どうか、天の父なるみ神がこの新しい一年もスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。(2020年11月29日初稿掲載)