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降誕祭前夜礼拝、説教「人類の希望のクリスマス」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1-20 節

私たちの父なる神と主イエス・キリトから恵みと平安が 、あなたがたにあるように。  アーメン

1.クリスマスと言えば、 一般には何か希望が叶う素敵な日といイメージ持 たれていると思ます。例えば、子供が欲しかっものをプレゼントにもらったりすると、クリスマは希望が叶う素敵な日いうイメージ定着します。 また、私が子供の頃、テレビ・ドラマか映画だったか忘れ ましが離れ離れになった親子がお互いを一生懸命探し続けて、やと 再会 を果たすのがクリスマの日だったと いうよな 感動ものを見た記憶があります。 クリスマに結びつけた、似たような筋書きの映画やドラマは沢山出ているのではないかと 思います。皆さんも何かそのようなものを見たことがおありではしょか?

どうして、クリスマは希望が叶う素敵な日という意味を持っるのでょうか? それは、世界史上最初のクリスマが今から 2000 年プラス 20 年位 前 に起きた第一回目のクリスマが、 まさに 希望が叶 った日だことに由来しています。それで、クリスマは希望が叶う日という意味を持つよになった のです。それでは、その時叶った希望とは一体何だったのでしょうか?それについては、先ほど読んでいただいた福音書の箇所に ある天使言葉が明らかにしています。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大き喜びを告げる。今日ダビ デの町で、あなたがたのめに救い主がお生まれになった。こ方そメシアである」(ルカ 2章 10 -11 節)。

「この方こそ主メシアである」と言うのは、つい先ほどダビデ王ゆかりの町 ベツレヘムで赤ちゃんが生まれた、それがあの待望のメシアである。待望のメシアがやっとこの世に来た、みんな希望叶がやっと叶った。という意味であります。

ここで、いろいろな疑問が起ってきます。「待望のメシア」という時、メシアとは何か?というこがまずありす。それから、このメシアとやらは、あ なたがたのため の救い主と言われますが、「あなたがた」とは誰を指のか?さらに、 このメシアが「救い主」として機能すると言うからには、その者は誰を何の危険から救い出すのか? そうい疑問です。 実を言えば 、「メシア」の意味も、「あなたが」 が指している 者も、「救い」の 意味 内容についても、当時の人たちに は統一見解がありませんでした。それらについて、大きく分けて三つの異 なる見解がありました。それぞれの見解に応じて、希望の内容も三つの異なるものが ありました。これから、そについて見ていきたく思いますが、結論 を 先に申し上げると 、三つの希望うち二つはユダヤ民族が中心 の希望で、これは予想外れ、期待外れに終わりました。三つ目は全人類に関る希望で、こちらの希望が最終的に成就したのでした。

 

2. 三つの希望のうち、最初のものはメシアというものを、ユダヤ民族を他 国支 配から解放 してくれる、ユダヤ民族にとっての解放者 と考える希望です。メシア、ヘブライ語 のマーシァハ משיח は、もともとは 「油を頭に注がれた者」いう意味があり ました。「油を注ぐ」というのは 、神が与え る任務を遂行する者 が世俗から区別されて神聖な目的に仕える就任式の意味 を持ちました 。実際に は、ダビデ王朝の王様が即位する時に油を注れた のでメシア「油を注がれた者」は同王朝の王を意味することが伝統になりました。ところが、紀元前 500 年代初めにダビデ王朝の王国はバビロン帝国に滅ぼされて、 国民は集団捕虜としてバビロンに連行されてしまいました 。世界史の教科書で「バビロン捕囚」 と呼ばれる事件です。紀元 前 500 年代後半に なると 今度は 、ペルシャ帝国がバ ビロン帝国を滅ぼして 古代オリエント世界の覇者にな ります。 この時 、ユダヤ 民族は故国への 帰還が認められて 、エルサレムの町や神殿を復興させました。 しかし、それからも ずっとペルシャ帝 国、それに続くアレクサンダー大王の国に支配され続けました。紀元前 100 年代に 一時、ほぼ 独立を回復しますが、 ほどなくして ローマ帝国の支配下に置かれてしまい、イエス様が誕生する日 を 迎えたのであります。先ほど読んでいただいた福音書の箇所で、ローマ皇帝アウグストゥスが全領土の住民に課税ため登録を命じというのは、まさにユダヤ民族が当時置かれていた状況だっのであります。 このようにバビロン 捕囚 以後、 ダビデ王朝の国は復活しなかったですが、

ユダヤ民族の間では、 将来 ダビデ家系の王 様が現れて、神の助けを得て国民を他国支配から解放し、強大な国家 を建設する、そして諸国に号令をかけ、世界中の民がひれ伏すように してやってきてエルサレムの神殿に捧げ物を 持ってくる、 というよな希望が 生まれした。どうてそんな 希望が生まれたかと言 うと、旧約聖書の中にそよな将来を意味すると思われ預言があるからです(例としてイザヤ 2章)。先ほど読んでいただイザヤ書 9章の預言も、そうしたダビデ王国復興の預言と理解されたのです。

そう しますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と言った天使の言葉 ですが、これは、ユダヤ民族を他国支配から解放するビデ家系のヒーロの到来という希望の成就成 になります。 この場合、メシア「油注がれた者」 とは王様そのもを指し、「救い主」とはユダヤ民族を他民族支配から救うという民族解放を意味し、「あなたたち」とはユダヤ民族を指します。

 しかながら、ユダヤ民族の間で抱れていた希望は、ダビデ王国復興より も、もっとスケールの大きな希望ありました。 これが二つ目の希望です次にそれを見てみましょう。

旧約聖書という書物 は、古代オリエント世界の民族興亡 や国家間関係の記録 という側面もありますが、もっと 歴史の 時間と空間を超えた普遍的な側面 を持 っていること も忘れてはなりません。それは、今 私たちの周りにある 天と地の 誕生 から 始まって、それら が終わりを告げる終末までを視野に含めいるからです。例えば、 イザヤ書の 終わり方の 60 章や 65 章をみると 、かつて天と地 と人間を造られた創造主 の神が今 ある 天と 地にかわる新しい天と地を造ることが預言されています。らにダニエル書 みると、 今の世が終わりを告げる時に 死んだ者 たち の復活が起こり、天地創造の神 に相応しい者は永遠命を得て神のもとに迎えられ、そうでない者は全く異る運命をたどることが預言されています。

 こうした終末的な預言 を念頭に置いて、 ダビデ家系の救い主メシア を考える とどうなる でしょう か? メシアとは終末の時に神のもとから地上送られて、 神に相応しい者たちを集めて、 彼らを 新し く出現す る神の国に迎え入れて君臨 するという 、そういう超越的な 王として理解されるように なります 。つまり、 メシアとは、もはや現世的な王様ではなく文字通り超越的な存在です。 先週 まで二回の主日で読れた福音書は 、洗礼者ヨハネについて伝える内容でした。 ヨハネが「悔い改めよ、神の国は近づた」と公けに宣べ伝えた時、当時の人々 は、ついに 終末の日が 来た、天からメシアが送られる、自分 は神聖な 神の意思  に反して生きいた 、罪を犯してきた ことを素直に認めて赦しをいただこうと、 こぞってヨハネのもとに集まって洗礼を受けたのでした。しかしながら 、ヨハネの洗礼は、まだ 「罪の赦しの救い」を与える洗礼ではありませんした。 「罪の赦しの救い」は、イエス様の十字架の死と死からの復活によってはじめて可能となったのです。

さて、 終末的な預言と結びついた メシア とは誰を何から救う のでしょうか? 天 地が入れ替わるという森羅万象の大変動中で 、神に相応しい者を集めるというのは、 それは、ユダヤ民族の視点を超えたスケールではあります。しかし、やはり神に相応しい者とうのは、ユダヤ民族、正確に言えばユダヤ民族の中でもさらに神の意思に従って生きる者たちなので、こ希望 もユダヤ民 族の観点に立つ希望です。

 

3. 天使の言葉「今日ダビデ町で、あな たがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」は、実ユダヤ民族の利害をはるかに超えた、もっと深い広い壮大なスケールの希望を意味してま。この希望を理解 できるためには 、なぜ神のひとり子 が、わざわざこの世に降って来なけれ ばならかったの、 本来なら天の神の御国で全てに優越した場所いてふん ぞり返っていればもいいものを何を好き好んで、わざわざこ世に降ってこなければならかったのか、 しかも、神 そのものの存在の形を捨てて 限られた存在 にしか過ぎない人間の形をとってこ世に生まれ来なければならなかったのか、 こうしたことが希望を理解する 鍵になります。 もし、メシアも救い主も現世的 な民族解放運動指導者だったら、別に普通の男女結びつきか生まれてくる人間でもよかったでしょう。また、 もしメシアが 、終末の時に神に相応しい者 を守り集める 超越的な救い主であれば、なにもわざわざ赤ちゃんから始必 要はな いのであって、 そのま 神聖な 恐るべき姿かたちを とって 天使の軍勢を 従えて 天から 下ってくればよかたのです。

 なぜ神そのものの存在であった 神の ひとり子が人間の形をもって、こ世に 来なければらか ったのでしょうか ?神 は人間を何から救おうとしたの で しょうか?

 神がひとり子を人間の形をもってこの世に送ったのは、まさ救うためでした。一体人間を何から救うといのでしょうか?それは、人間が自分の造り主である神との関係を失ってしまった状態から救うことでした。創世記に記されてい ますが 、神に造られた当初の人間は神との結びつきを持った存在で した。それが、 神の意思に背こうとする罪と不従順が人間入り込んだために。人間は神との結びつきを失い、死ぬ存在なって しまいました。使徒パウロが 「ローマの信徒への手紙」 6章 23 節で 述べているように、罪の報酬は死なのであります。 人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。これに 対して神は、人間が再び自分との結つきを持って生きられるようにしよう、たとえこの世から死んでもその時は永遠に造り主である自分のもとに戻ることができるようにしてあげようと考えました。 結びつきが回復できるた めには、 人間から罪を除去しなければなりませきん。人間には それは不 可能でした。それで、神はひとり子を この世に送り、彼を人間の全ての罪を背 負わせて、あたかも彼が全の張本人であるようにして、全ての罪の罰を負わせて死なせたのです。これがゴルガタの丘の十字架の出来事です。神は、このひとり子の身代わりの犠牲の死に免じて、人間の罪を赦す と いう手法をったのです 。

 それでは、人間 の方ではどうしたら 罪を赦されて神との結びつきを 回復できるでしょうか?それは、人間がこれらの 神がなさった全てのことは まさに自分 のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この信仰をみた神はその人の罪を赦して下さるのです。 洗礼を受け たと言っ ても人間はまだ 肉を纏う存在ですから、まだ内には罪を内在させてい ます 。しかし、神はイエス様を救い主と信じる信仰を持つ者には、 彼の犠牲に免じて赦しを与えて下さるのです。しかも、 神は イエス様を十字架の死に引き 渡した時、 罪と死 をも一緒に 滅ぼして両者から 絶対的な力を 消し去 りました。 それで、 イエス様を救い 主と信じる者には罪と死は最終的な力持ってないのであります。

 加えて、 神は一度死んだイエス様を 今度は 復活させて、永遠の命への扉を人 間に開かれました。イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれて歩きはじめます。こうして神との結びつを回復した信仰者は、順境の時も逆境の時もたえず神から守りと良い導きを得れるようになり、万が一こ世から死ぬことになっても、その時はイエス様が御手を引き上げて下さり、永遠に造り主である神のもとに戻ることができ るようになったのでありま す。この ように 、罪と死は信仰者に対して最終的な力を持ってい ないのであります。

こで、イエス様の 身代わりの犠牲の質を考えてみましょう 。神その ものの存在である方が犠牲になったのですから、これ以上神聖ものはないと言えくらい神聖な犠牲の生け贄です。人間を罪と死の支配下から贖う生け贄として、これ以上完璧なものはいと言えるくら完璧な犠牲の生け贄です。 このこと を逆に言えば、神は自分のひとり子を惜しまない 位に私たちを大切に思っているということです。イエス様がの世に送られた以上の贈り物を人間は 持ちえないのであります。この神の贈物を 既に 受け取っている方は、その大切 さを忘れないようにして、いつも神に感謝しましょう。まだ受け取っていない人は、 一日も早く受け取るようにして下さい。今からで遅は ありません。

 

4. 以上から、 本日の 福音書の箇所の天使 の言葉 「今日ダビデの町で、あなたが たのめに救い主がお生まれになった。この方こそメシアである」の意味が明らかになりました。メシアとは、全ての人間を罪と死の支配下から救い出して神との結びつき を持って生きられるようにしてくれて、 死を超えた永遠の命 を持てる日まで 共に歩んで下さる全人類の救世主であります。「なたがた」と いうのは、もうこの聖書の御言葉を目にし耳にする全て人を指 します 。この ように クリスマというのは 、過去の時代の特定の民族の希望成就なのではでなく、全人類に関わる希望の成就です。旧約聖書をもっと広く深く読んいくと、自らを犠牲にして人間の罪を贖う神の僕にも出わします(イザヤ書 53 章) ルターが、旧約聖書は 救い主 イエス様を見いだす書物である と言っているのは、誠にその通りであります。

最後に 、神そのものの存在が人間の形を持って生まれてきたことが、人間にとってだけでなく、神にとっても有益だったということにも触れておきましょう。イエス様は、本来ならば天の神の御国で優越的な場所でふんぞり返っていても良い方でした。それが、犠牲の贖を実現するめにこ世に降ったのですが、人間の心と体を持つこで喜びや痛み悲しも味わうこととなりました。神が人間の喜びや痛みや悲みを人間が味わうのと全く同じように味わうこと になったのです!だから、神は私ちの悩みや苦しも全てわかって下さる方です。天地を創造 された全知能の方ですから、私ち 以上にのことを痛みも含めてわかっおられるです。そような神は、 全てに優る 信頼を寄せるに相応しい方 であることが、「ヘブライ人への手紙」 4章 15 -16 節に記されていますので、そ箇所を引用し本説教締めと致します。 「この大祭司(イエス様を指す)は、わたしちの弱さに同情で きない方ではなく、罪を犯されかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵みにあずって、時宜にかなった助けをいだくために、大胆に恵みの座に近づ こうではありませんか。」

人知 ではと うてい測り知ることのできない神平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエに あって守るように         アーメン

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2014年12月24日の聖書日課   ルカ2章1-20 節、イザヤ 9章1- 6節


説教「キリストは死の陰に座する者を平安に導く光」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章67節-79節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 本日の福音書の箇所は、エルサレムの神殿の祭司であり洗礼者ヨハネの父親となるザカリアの預言です。この預言は、ラテン語でベネディクトゥスBenedictusと呼ばれていますが、それは預言の初めの部分「イスラエルの神である主は称えられよ」の「称えられよ」の部分です。ちなみに、ルカ福音書1章47-55節に聖母マリアの賛歌がありますが、これもラテン語でマグニフィカトmagnificatと呼ばれており、それは賛歌の初めの部分「私の魂は主を大いに賛美する」の「大いに賛美する」の部分です。それから、同じルカ2章にシメオンの賛美があります。これもラテン語でヌンク・ディミッティスNunc dimittisと呼ばれており、賛美の出だし部分「主よ、あなたは今、あなたのお言葉通り、あなたの僕を安らかに去らせて下さいます」の「今、去らせて下さいます」の部分です。これらマリアのMagnificat、ザカリアのBenedictus、シメオンのNunc dimittisの三つは、キリスト教会の司式の中で古くから使われてきた祈りの歌です。特に西方教会において、Benedictusは朝の祈り(laudes)の中で、Mディミッティスagnificatは夕べの祈り(vesper)の中、Nunc dimittisは一日の終わりの祈り(kompletorio)の中で用いられてきました。従って、本日は朝の祈りの言葉が説教のテーマということになります。
本日のザカリアの預言には、私たちの信仰にとって大切な事柄がいろいろ含まれています。本説教ではそれらから三つだけを取り上げてみていきたいと思います。

1.信仰とは、自分の外的な出来事や事情がいかに変わろうとも、神が自分に与えて下さる恵み・憐れみは相も変わらず同じである、という神への信頼を自分の内に持っていることである。

この最初の大切な教えは、ザカリアの信仰からみることができます。ザカリアの妻エリサベトは、もう出産が望めない高年齢にもかかわらず子供を宿しました。聖書には、高齢の婦人が出産する例として、他にアブラハムの妻サラがあります。この二つの事例には、信仰ということに関して共通することがあります。まず、双方とも、願っている子供が生まれなくても、神に失望したり背を向けたりはしなかったということです。それから、念願が叶ったら叶ったで、今度はその念願成就の結晶である子供を神のご用のために捧げたということです。

アブラハムの場合は、まさに息子イサクの命を捧げる寸前まで行きました。もちろん、神はイサクの命を望んでいたのではなく、アブラハムがどこまで自分の言葉に従うかを見極めようと試したのであります。創世記22章1節で「神はアブラハムを試そうと決めた」と言っているのは重要です。神は「試し」、アブラハムは「試された」のです。もし、アブラハムが血も涙もない機械人間で、子供を生け贄に捧げなさいと言われて、何も感ぜず何も考えずにハイと言ってすぐ実行してしまったら、それは「試された」ことには全くなりません。「試された」以上は、凄まじい葛藤の中に投げ込まれたのです。しかし、神は、イサクが誕生する前にアブラハムに対して、「お前の子孫は夜空の星のように多くなる」という約束をしており、それに背くことはせず、全く忠実だったわけです。このような御自分の約束に忠実な神の御名は永遠に誉めたたえられますように。

洗礼者ヨハネについてみますと、彼がいつ家を出て荒れ野の生活に入ったかはわかりません。ルカ1章80節で、「成長し、聖霊にあって強められた。そしてイスラエルの民の前に出現する日まで荒れ野にいた(ギリシャ語原文による)」と言っているので、ある程度成長してからでしょう。いずれにしても、洗礼者ヨハネの両親は天使ガブリエルから息子が神に用いられる者となる旨を告げられて(ルカ1章13-17節)知っていました。それで、彼が祭司の家系を捨てて荒れ野に出て行くのをそのままにしたのであります。

それから、これは高齢出産ではないのですが、サムエル記上で、エルカナの妻ハンナは、不妊で苦しんでいた時、神に祈り、もし男子を授けてくれればそれを神の用に役立つよう捧げると誓いました。そして、サムエルが誕生すると、ハンナはその通りにして、祭司エリに男の子を引き渡しました。

もう子供を得ることは無理だろうとわかっても、神は願いを聞いてくれないひどい方だ、と文句を言ったり、失望するわけでもない。アブラハムはイサクが産まれる前も、生まれた後も同じように神に忠実でした。ザカリアとエリサベトの二人は子供はなくとも、「神の前に正しく、主の全ての掟と定めに従って非の打ちどころなく生きて」(ルカ1章6節)いました。つまり、願いが叶わなくても、神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従って生きるということには何ら変更はないのです。もし不可能な願いが叶えられれば、それは奇跡ですが、その時は神への賛美と感謝に身も心も満たされましょう。しかし、それでも神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従って生きるということは、アブラハムにしても、ザカリアにしても、奇跡が起きようが起きまいが同じなのであります。

このような「奇跡が起きようが起きまいが同じ」ということがないと、どうなるでしょうか?その場合、神を信じ信頼し、神の意思に従うということは、願いが成就するかしないかということに左右されてしまいます。願いが叶わなければ、そんな神は神として認めてやるもんか、と別の何かを探し求めることになります。反対に、願いが叶えられれば叶えられたで今度は、それが神からいただいたものであるとか、神に属するものであるとか、神のご用に役立てられるものとか、そういう発想は起こらないでしょう。

願いが叶うにしろ叶わないにしろ、そういう外的な条件がどうであるかにかかわりなく、いつも全く同じように神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従おうとする生き方は、どのようにしてできるでしょうか?それは、まず、神の方で、人間の外的条件により価値が増えたり減ったりしないもの、いついかなる場合でも高い価値のままにとどまる何かを用意してもらい、それを人間が持てる時にそのような生き方ができます。キリスト信仰では、そうした不変不滅の高い価値のものは、イエス様の十字架の死と死からの復活がそれです。

イエス様の十字架の死と死からの復活を不変不滅の価値として持っている人は、不妊であろうが病気であろうが金がなかろうが、たとえ外的な条件が悪くても、神が自分に与えてくれる恵み・憐れみそのものは、外的条件が良い時と全く同じであると知っています。それで神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従うことに何の変更も起きないのであります。そこで、もし、そのような信仰を持つ不妊の人が子供を産んだり、不治の病の人が健康になったり、金のない人が金を得たりしたら、どうなるか?その時は、これは神からいただいたものだ、神から預かったものだ、だからもともとは神に属するものだ、という考えなので、神のご用に役立てようという考えになります。自分の用のために役立てようとか、自分の欲のために消費しようとか、そういうことには執着しないのです。そういうわけで、もともと子供のいる人、健康の人、お金のある人も、こうしたことが自分にはどうあてはまるのだろうかと考えてみることは大事でしょう。

2.神は、全ての時代の全ての国民・民族を射程において、人間救済計画をたてて実施したが、計画と実施自体は特定の時代の特定の民族を通して行った。

次にザカリアの預言の本体をみてみましょう。この預言は、来るべき救世主メシアについて預言しているものではありますが、内容も言葉づかいもとてもユダヤ民族の利害と観点を反映しています。69節で「神は私たちのために救いの角をその僕であるダビデの家から起こされた」と言いますが、その「救い」とは、71節で「私たちの敵からの救い、私たちを憎む全ての者の手からの救い」であると言っています。つまり、ユダヤ民族に敵対する諸民族の脅威から自由になることが「救い」を意味しているのです。そうして、敵対民族の手から救われたあかつきには、74-75節にあるように、「私たちの全ての日々において、神の御前にて、神聖さと義にあって、おそれを抱くことなく、神に仕える」ことができるようになるのであります。このようにメシアの役割は、イスラエルを完全な民族自決国家として再興させて、あらゆる敵対民族を撃退してそれらの汚れを遠ざけて、神聖さのうちに完全な礼拝を実現させるというふうに考えられています。そのようなメシアの登場は、太古からの預言者の預言(70節)や神のアブラハムへの約束(73節)の中に言われていたというのであります。さて、67節で、ザカリアは「聖霊に満たされて」預言したと言っていますが、それでは聖霊を送った神は、来るべきメシアを全世界に及ぶものでなく、特定の民族にかかわるものと考えていたのでしょうか?

実は、神はメシア救世主を全世界的なものと考えていました。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥ったために罪が人間の命に入り込むという堕罪が起きてしまいました。しかし、その直後、創世記3章15節に神の人間救済計画が早くも預言されています。神はそこで、蛇の姿をとる悪魔に対し、「将来、人間から生まれてくる一人の者がお前の頭を叩き割る。だだし、お前も彼の踵を打ち砕くことになるが」と宣言されます。つまり、自分を犠牲にして悪魔を打ち滅ぼす者が現れるというのであります。それが、イエス・キリストでした。創世記12章3節で、神は後にアブラハムという名前にかわるアブラムに対して、彼が受ける祝福は世界の全ての民族にとって祝福になる、と約束します。このように神の考える救いとは、全世界の人間に及ぶものなのです。それでは、なぜザカリアの預言では、救いがユダヤ民族中心のもののように言われるのでしょうか?

それは、神が全世界の人間の救いを考えて、御自分の意思を人間に伝える時、意思を伝えられた人間の方は特定の具体的な歴史状況の中で生きていたという事情があります。それで、全世界的な観点と一民族的な観点のギャップが生まれる原因になったのです。神は、悪魔の頭を叩き割る救世主がユダヤ民族の中から生まれてくると定められました。そうなると、救世主が登場するまでは神の目はユダヤ民族を中心に向けられ、ユダヤ民族の歴史とともに歩むことになります。そこで、御自分の意思を告げる時はいつも、将来実現する全世界の人間の救いが根底にはあるとは言え、その意思はいつもユダヤ民族のその時その時の具体的歴史状況に関係するものにもなります。例として、イザヤ書53章に、人間の罪を背負って自ら苦しみを受けることで人間を罪から贖う神の僕についての預言があります。キリスト信仰の観点では、これはイエス様を指す預言だとわかります。しかし、この預言は、バビロン捕囚が終わる頃の歴史的状況にいたユダヤ人にとっては、捕囚に陥った自分たちが民族の犯した罪の罰を受けた、それで民族は赦しを得て再出発できるという、そういう理解になります。その場合、捕囚のユダヤ民族が神の僕になってしまいます。

神が特定の民族の特定の歴史と関係を持ちながら、人間救済計画を立案し実施したという事実は、特に旧約聖書を読むときに注意する必要があります。そこには、全世界の人間の救いを実現しようとする神の意思が働いているにもかかわらず、神から啓示を受けた人たちやそれを書き留めた人たちは皆、特定の歴史状況の中で生きていた人たちでした。そうした状況に基づく利害や観点が表面に出てくるのは当然です。現代において、旧約聖書を読む人の中には、神の人間救済計画などという超歴史的なものは一切見ないで、純粋にその場限りの歴史を語る歴史書物として読む人が大勢います。そういう人は、旧約聖書の個々の書物の歴史状況やそれに基づく利害や観点や思想を知ろうとして、旧約聖書を繙くのです。しかしながら、もし、キリスト信仰者が旧約聖書を信仰の書物として読もうとするのならば、歴史的な利害や観点を常に超える神の人間救済計画というものを念頭に置いて読まなければなりません。ルターも、キリストを見出さない旧約聖書の読み方は意味がないと言っています。それに、天と地と人間を造った旧約の神と救い主イエス・キリストを送られた神は同じ神であるというのがキリスト信仰なのですから。

3.キリストは、死の陰に座する全世界の全ての人々を照らして、平安に導く光である。

ザカリアの預言には、メシア救世主とその役割の理解についてユダヤ民族の利害・観点が強くでていると申し上げました。しかしながら、預言の終わりの方になると、ユダヤ民族中心のメシアなのか、全世界の人間の救いを担当するメシアなのか、はっきりしなくなる部分がでてきます。まさに、個々の歴史状況の利害と観点に覆い隠されてしまってはっきり見えなかった全人類的な救済計画が頭をもたげてくる部分です。

まず、76節に入って預言は、ザカリアの息子洗礼者ヨハネについて述べます。ヨハネがメシアに先立ってその道を整えるという、イザヤ書40章3章の預言の実現であることが言われます。そして、77節で、ヨハネはユダヤ民族に「救いの知識を与える」と言われていますが、その救いは先に述べたような敵対民族からの解放ではありません。ここでは、救いは、「罪の赦しに結びつくもの」と言われています。さらに78節に入ると、その罪の赦しに結びつく救いは、「神の憐れみ深い心によるもの」と言われて、その神の憐れみ深い心があることで、「いと高きところから朝日のような光が地上の私たちのところにやってくる」。79節に入ると、その光がやってくる目的が明らかにされます。それは、「暗闇と死の陰に座する者たちに顕現するためであり、彼らの足取りを平和の道に向けるようにするためである」。

天から到来する光が、死の陰に座する者たちの目の前に輝き現れて、彼らの足取りを平和の道に向けるようにする。これは、まさにユダヤ民族を超えた全世界の全ての人にかかわる救いを意味します。先にも述べましたように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことが原因で、人間の内に罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死する存在になってしまいました。「ローマの信徒への手紙」6章23節で使徒パウロが、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです。人間は、代々死んできたころから明らかなように、不従順と罪を代々受け継いできたのです。「死の陰に座する」というのは、まさに、人間が不従順と罪の支配の下におかれて死に定められている状態を指します。しかし、神は、人間の全ての罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての張本人であるかのように仕立てて、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせました。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を神は採ったのです。それだけで終わりませんでした。今度は神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間のために開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、罪が人間に対して持っていた支配力を無力にし、死を超える命の可能性を人間のために開かれたのです。これが、天地創造の神の人間救済です。

これから明らかなように、「足取りが平和の道に向けられる」という「平和」とは、敵対民族との戦争状態がユダヤ民族の勝利で終わって平和がもたらされるということではありません。ここでいう「平和」とは神との平和であります。神聖な存在である神は罪や不従順の汚れを憎み、焼き尽くしたいと思う方です。そのため、堕罪以来、人間と神の間には戦争状態が存在していました。ところが神は、先ほど申し上げたように戦争状態の原因であった人間の罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、私たちの身代わりとして罰を受けさせて死なせたのです。「ガラテアの信徒への手紙」3章13節で使徒パウロが言うように、神のひとり子が私たち人間にかわって呪われた者にされて神の罰を受けたのです。まさに、私たちがその罰を受けないですむように。そこで私たち人間がイエス様こそ自分の真の救い主であると信じて洗礼を受けるならば、その人は、イエス様の身代わりの犠牲の死に免じて神から罪の赦しを得られます。人間は神から罪の赦しを受けると、神との戦争状態から脱して(エフェソ2章16-17節)、神との結びつきを回復します。こうして人間は、神との平和を永遠に享受することになるのです。「永遠に」というのは、神から「罪の赦しの救い」を受けた時点から、この世の人生の歩みにおいてずっと、さらに死を超えて永遠の命を持って生きるようになるまでの間ずっと、ということです。

だから、この世の人生の歩みにおいて、なにか外的に不利な条件を被ることが起きても、それは、私たちが神から与えられている罪の赦しの恵みと憐れみが減ったということではありません。人によっては、不治の病にかかったり、経済的な困難に陥ったりすると、神に見捨てられたとか、神の怒りに触れたとかいうような捉え方をする人もありますが、キリスト信仰においては、そんなことはありえません。洗礼を受けた以上、不従順と罪の呪いから解放されて永遠の命に至る道を歩んでいるということは、病気になろうが貧乏になろうが、そのままだからです。神との平和を享受しているということはそのままです。このことを人生の土台にして、あとはその人生に入り込んだ不利な条件にどう対処していくかです。不利な条件が大きすぎたり重大なものだったりして、人生がひっくり返るくらいのものに感じられる時があるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の贖いの業と死からの復活という人生の土台は微動だにしません。そうした土台の上に立つ人生もひっくり返ることはありません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように  アーメン

 

 

主日礼拝説教 2014年12月21日 待降節第四主日の聖書日課 ルカ1章67節-79節、ゼファニア3章14節-17節、フィリピ4章2-7節

12月13日の料理クラブのご報告

教会玄関、クリスマスリース、クリスマスツリー

12/13のスオミ教会家庭料理クラブは、「ピパルカック」と「ヨウルトルッティ」を作 りました。

教会玄関の、クリスマスリースとツリーに迎えられて、会場の牧師館に進みます。

最初にパイヴィ先生のお祈りからスタートしました。
今回もグループに分かれての作業です、
ピパルカックの計量をして、生地作りをして、ヨウルトルッテゥ
冷蔵庫で休ませてる間に、
ヨウルトルッティ作り、パイシートをカットしてプルーンジャムで飾り、オーブンの中 に、
生地が膨らみ、焼き色が付き、プルーンジャムがグツグツしてきたら焼き上がり完了です。

次の作業は、休ませていたピパルカック生地の型抜きをして、ピパルカックオーブンへ、 ピパルカックが焼ける時の香りは、きっと教会だけでなく、ご近所にも届いていたと思 います。

ぶどうジュースで作ったグロッギと一緒に、料理クラブのピックヨウルを楽しみました 。

パイヴィ先生から、クリスマスのお話や、ピパルカックの生い立ちなどを聞かせて頂き ました。

皆さま、良いクリスマスをお迎え下さい。

 クリスマスのお菓子、フィンランド

 

説教:高井保雄 牧師(羽村教会) 本日は羽村教会との講壇交換により高井保雄 牧師をお迎えいたしました。

羽村教会との講壇交換のために吉村先生は羽村教会にて司式・説教の奉仕をなさいました。

羽村教会での吉村博明宣教師の説教。

主日礼拝説教 

2014年12月14日(待降節第三主日)羽村教会

ヨハネ1章19-28節、イザヤ61章1-4節、第一テサロニケ5章16-24節

 説教題 「主が来られる道を整えよ」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 今年は11月30日が待降節の第一主日となって、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。そういうわけで、本日は教会新年の三回目の主日です。待降節とは、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間であります。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

待降節や降誕祭は、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させる期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、のお祝いですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつであるかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、この世の終わりにあたる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。それはまた、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていません。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を強め、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命と人生は自分の造り主である神から与えられたものであるという自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは、取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらはまさに神由来であるがゆえに、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、やはりそうする。また、解決が必要な問題は、解決に向けて努力していく。こうした世話や改善や解決をしていく際の判断の基準として、キリスト信仰者は、まず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、ということを考えます。それと同時に、この神への全身全霊の愛に基づいて、自分は隣人を自分を愛するが如く愛しながらやっているかどうか、ということを絶えず考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界の中にしっかり留まり、それとしっかり向き合い取り組みながら、なおかつ、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な存在ではありません。

さて、主を待ち望む信仰者が心得ておくべきことがいろいろあります。本日の福音書の箇所は、そのことについてひとつ大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

 

2. 本日のヨハネ福音書の箇所は、先週のマルコ福音書1章同様、洗礼者ヨハネが来るべきメシア救世主のために道を整える役割を果たしたと伝えるところです。ヨハネは、人々に「悔い改めよ」と説いて、来るべきメシア救世主を受け入れる準備としての洗礼を施し始めました。ユダヤ教社会の宗教指導者たちは、これが旧約聖書マラキ書3章に預言されている神の裁きの日の前に神から送られる預言者エリアではないかと心配しました。ご存知のように、エリアは列王記下2章に記録されているように、生きたまま天に上げられた人物だったので、ユダヤ教社会では、このマラキ書の預言に依り、神は来るべき日にエリアを地上に送ると信じられていたのです。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではなく、ましてはメシア救世主などでもない、自分は、イザヤ書40章に預言されている「主の道を整えよ」と叫ぶ荒野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日、この世の終わりの日はまだ先のことで、その前に、本日の旧約の箇所イザヤ書61章にも預言されている神の僕がまず来なければならない、自分はその方のために道を整えるものだ、と自分の使命について証をします。そのために、人々に罪の告白をさせて、身も心も神への立ち返りを目指すようにする助けとして洗礼を授けたのです。ただ、これはまだイエス様が実現する「罪の赦しの救い」そのものを与える洗礼ではありませんでした。ヨハネの洗礼は、人々を「罪の赦しの救い」に導くための出発点だったのです。

「主の道をまっすぐにせよ」とは、ギリシャ語の単語エウテュナテευθυνατεは「平らにせよ」とも訳せますが、いずれにしても道を整えなさいということです。つまり、主が遠方から私たちのところにやってくるので、私たちのところに来やすいように曲がりくねっている道を真っ直ぐにし、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。ここで注意しなければならないのは、神も神が送られるメシア救い主も、もし本気で私たちのところに来ようと思えば、障害物などものともせずに到達できます。もし到達できないとすれば、それは神と救い主に障害物を超えられない弱さがあるからではありません。私たちが自分で障害物をおいているか、または取り除かないままにして、ここから先は来ないで下さいと決めてかかるので、神の方でそのままほっておかれるのです。

 私たちの内にある神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを、私たちはどうやったら取り除くことができるでしょうか?そもそも、神と救い主が私たちに近づくというのは、どういうことなのでしょうか?私たちは、その近づきがとても良いものであるとわからなければ、何が障害になっているのかとか、それをいかに取り除くことができるかということには興味を持とうとはしないでしょう。そういうわけで、最初に、神と救い主が私たちに近づくということはどういうことなのか、どうしてそれが素晴らしいことなのか、ということについて考えてみます。

「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在だったのです。それが、最初の人間アダムとエヴァが、悪魔の言うことに耳を傾けたことがきっかけで、神の言った言葉を疑い、神が取ってはならないと命じた実を食べてしまいました。この神への不従順が原因で人間の内に、神の意思に背こうとする罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死する存在になってしまいました。「ローマの信徒への手紙」6章23節で使徒パウロが、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。こうして、人間は、神との最初にあった結びつきを失ってしまいました。

 これに対して、神はどう思ったでしょうか?身から出た錆だ、勝手にするがいい、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分のところに戻ることができるようにしてあげよう、と考えて人間救済の計画をたてました。そして、それを実現するために、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。神の人間救済計画は、旧約聖書を通して、その都度その都度その都度預言されていきます。実に旧約聖書は、来るべき救世主について証する書物群なのです。

 神が人間の救いのためにイエス様を用いて行ったことは次のことです。人間は自分の力で罪と不従順を心身から除去することができない。それが出来ない以上、人間は罪の呪いの力の下に留まるしかない。そこで神は、人間の全ての罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての張本人であるかのようにして、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせる。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を取ったのです。それだけで終わりませんでした。今度は神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間のために開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、罪が人間に対して持っていた力を無力にし、死を超える命の可能性を人間のために開いたのです。これが、天地創造の神の人間救済です。

 このように、遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に送ることで、さらにその彼を通して、私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復できて、再び永遠の命を持つことができるためでした。このことは、ヨハネ福音書3章16節にイエス様の言葉として凝縮されています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

3. それでは、神がこのように私たちに近づかれた時、私たちの方で神の近づきを妨げるものは何でしょうか?それは、どうやって取り除くことが出来るのでしょうか?この質問に答える前に、まず逆に、どうやったら神の近づきを受け入れることができるのかを見てみましょう。

私たちは、十字架に架けられたイエス様が全ての人間の全ての罪と不従順を背負われたと聞きました。その時、まさに自分の罪と不従順が他の人たちの分と一緒に十字架上のイエス様の肩に重くのしかかっていることに気づくことができるでしょうか?それが決め手になります。ああ、あそこに血まみれになって苦しみあえいでいるイエス様の肩に、頭に、私の罪と不従順がはりつけられている、と直視することができるでしょうか?それができた瞬間、それまで歴史の教科書か何かの本で言われていたこと、2000年前の彼の地である歴史上の人物が処刑されたという遠い国の遠い昔の事件が、突然、現代のこの日本の地に生きる自分のためになされたのだということが明らかになります。それは、異国の宗教の話などではなく、まさに天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えた全人類の創造主である神の計らいだったのだということが明らかになります。あのおぼろげだった歴史上の人物が、明瞭に私たちの目の前に私たちの救い主として立ち現われてくるのです。

 イエス様が私たちの救い主として立ち現われた時、それはもう彼を自分の救い主と信じることです。人間は、イエス様を自分の唯一の救い主と信じた時、神から相応しい者、義なる者と認められます。神は、お前は私がお前に送ったイエスを救い主と信じた、だから彼の身代わりの犠牲に免じて、お前の罪を赦そう、と言ってくれるのです。私たち人間はまだ肉を纏っている以上は、罪と不従順を内に宿しています。しかし、神は、それが理由で神との結びつきを認めない、とは言われません。イエス様を救い主と信じる以上は罪を赦す、と言われるのです。罪が赦されるというのは、罪の効力が無効にされたということ、罪の支配力がその人に対して無力になったということです。人間は、罪の赦しを得ることで神との結びつきを回復できるのです。

しかしながら、罪の支配力が無になったとは言っても、支配力を無にされた罪は怒り狂って、あたかもまだ勢力を保っているように見せかけて、隙を見つけては信仰者を惑わし、再び人間を罪の支配下に置いて、神との結びつきを失わせようとします。これが悪魔の仕事なのです。人間は、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰で、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取ることができのですが、それが一過性のもので終わってしまったら、それは救いではありません。この救いを持続的に持てるために、洗礼が必要なのです。なぜなら、洗礼によって、人間に神の霊、聖霊が注ぎ込まれるからです。聖霊は、私たちがこの世の人生の歩みの中で、ややもするとイエス様が唯一の救い主であることを忘れたり、自分が救われた者であることを忘れてしまう時に、いつも私たちをイエス様のもとに連れ戻す働きをします。私たちに残存する罪や悪魔だけでなく、私たちが人生の中で遭遇する様々な苦難や困難も、私たちには救い主がいることを忘れさせようとします。そのような困難の真っ只中にあっても、イエス様が私たちの救い主であることになんら変更はない、私たちが救われていることは洗礼の時からそのままである、としっかり答えられるのは、これは聖霊が働いている証拠です。使徒パウロも同じ聖霊の働きを受けて次のように述べたのです。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8章38~39節)

 

4. それでは、このような素晴らしい救いを与えて下さる神とイエス様の近づきを、人間が受け入れない理由は何なのでしょうか?ひとつには、宗教的な理由があります。世界のいろいろな宗教はそれぞれ、救いの意味や内容について自分たち独自の定義を持ち、救われ方もそうした定義に基づいているので、聖書の神とイエス様の近づきは当然相容れないものになります。宗教によっては、現世の問題解決に役立つことを強調して人を惹きつけるものもあります。そうした人たちから見たら、先のパウロの言葉のように、苦難・困難の真っただ中にあっても、イエス様を救い主と信じる限り、神の愛は苦難・困難がない時と同じくらいに注がれている、という確信は、きっとナンセンスでしょう。しかし、私たちキリスト信仰者にとって、それは真理なのであります。

神とイエス様の近づきを受け入れないのは、宗教的でない理由もあります。その一つとして次のような考え方があります。「なぜ、ことさら罪とか不従順とかを強調するのか、そんなのは神の裁きから救われる必要性を持ち出す便法だ。誰も完全な人間など存在せず、ひとりひとりが弱さと強さ、良い点と欠点を持っているのだから、人間をそういうものとして認めて受け入れるのが本当の愛だ というものです。実は、神も、人間のことを弱さや欠点を持っている者として認めて受け入れているのです。それだからこそ、罪と不従順を全部イエス様に負わせたのです。人間には背負いきれないと知っていたからです。人間に、「罪と不従順を即刻除去せよ、さもないとお前は永遠の火に焼かれる とはおっしゃりませんでした。「私は、お前の罪と不従順をお前から取り除いて、私の独り子に張り付けて彼にその罰を下したのだ。それを忘れるな とおっしゃっているのです。私たちが優等生だから褒美としてイエス様を送られたのではなく、どうしようもない存在だから送られたのです。

そういうわけで、キリスト信仰で人間をそれとして認めると言う時、それは、創造者を抜きにした被造物同士の認め合いではありません。自分を造ってくれた神が、神の意にそぐわなくなってしまった自分を御子イエス様の犠牲のゆえに受け入れてくれたということが出発点になっています。そうした神の私たちに対する深い愛への驚きと感謝の念がその後の私たちの人生の屋台骨を形作ります。神の御心と意思に沿う生き方をしよう、少なくとも沿う考え方をしよう、と志します。しかし、それはいつも限界にぶつかり、挫折もします。それゆえ、主日礼拝で罪の告白を相も変らず唱え続けなければなりません。告白に続く罪の赦しは、「洗礼でお前に与えられたものは何も失われていないから安心して行きなさい と確証を与えるものです。主の道を整えるとは、このように、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けた後も続きます。ルターは、人間が完全なキリスト教徒になるのは、死ぬ時に朽ち果てる肉体を脱ぎ去って、復活の日に朽ちない体をまとう時になってからだと教えます。その日までは、神の意思に反することが自分自身にも自分の周囲にも沢山現れて、私たちを気落ちさせて神の愛から切り離そうとします。そうしたことを相手に苦しい戦いを強いられることが何度も何度も繰り返されます。しかし、神の意思に反することを体現しているものは、恐るべきものではありません。本当に恐れるべきものは、人間を造り、一人一人の髪の毛の数まで数えておられ、肉体だけでなく魂も滅ぼすことが出来る神であります。その神が大きな愛を示して私たちにイエス様を送って下さいました。イエス様は、十字架の死と死からの復活を成し遂げられることで、罪と死と悪魔が私たちを服従させようとする力を無にして下さいました。そのイエス様が、マタイ福音書28章20節で、信じる者たちと毎日、世の終わりまで共にいる、と約束されました。なにをか恐れじです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「バプテスマのヨハネの出現」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書1章1~8節

12月に入りました、いよいよクリスマスが近づいてまいりました。イエス様のご誕生を祝う前に、必ずと言って良い程バプテスマのヨハネが現れた、ことが語られます。 今日の聖書はマルコによる、福音書1章1~8節です。これまで何回となく、この箇所を見て来ましたが、たいていは、先ず1節については読むだけでマルコ福音書全体の表題がつけられたような気持ちで通り過ぎます。

そして、今日の箇所の本題は、2節から4節に行きます。そこには、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現われて、罪の赦しを得させるため、『悔い改め』の洗礼」を延べ伝えた」。 そのヨハネは旧約聖書の時代から、すでに、預言者イザヤによって、預言された人物であった。と2節から3節で記しているわけです。聖書学者、ウイリアム・バークレーによりますとマルコはイエスの物語を遠くさかのぼって始めている、と言っています。イエスの地上への誕生で始まっていない。バプテスマのヨハネの荒れ野出現で始まってもいない。それは預言者たちの夢をもって始められた。と言っているのです。

つまり、ずうっと昔に神の心の中で始まった、と言うのです。神の秩序の中にある計画があった。歴史は、最初に最後を見ておられる神によって導かれていくものである。聖書の福音書の最初の出だしの一行がどんなに大切な意味をもって、始められているかとても重要な点です。それでマルコ福音書のは、「神の子、イエス・キリストの福音の初め」。と記されています。マタイ福音書の1章1節には「アダムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」ではじまっています。イエス・キリストの誕生の出来事については18節から記されています。マルコ福音書はクリスマスの出来事について何もふれていないのです。

マルコによる福音書、とありますから、これはイエス様についての伝記ではない「マルコが伝えた福音」ということです。福音書は確かに伝記のような形で書いてありますが、 ただ歴史的興味から読むべきではなく、教会の信仰によって、貫かれた福音書を読むべきでしょう。著者のマルコは、ペテロの通訳であったらしいのです。ですから、ペテロから聞いた話も多くあるのでしょう。そして初代教会で伝えられていることをまとめて、編集したでしょう。大体紀元65年頃書かれた、と言われます。四つの福音書の中で一番古い福音書であります。

マルコは主イエス様がなさった事、語られた教えを福音書の中で語りながら、だひたすら福音を語るつもりで書いているのです。こうして冒頭の言葉は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」であります。これは神の子について書いたものである、ということです。 この福音書を読んで主イエス様のなさったこと、教えられた言葉を知って信じることで「福音」を得ることができる。福音は神のによって救われるということ。そうするこのお方はただの人ではない、ことがわかります。それは神がこの地上に来られた、ということであります。神の子が地上に来られた、ということは、はあまりにも異常なことであり、不思議な神秘に満ちたことです。

マルコはイエス様のご生涯のことを書いたのでしょうが彼は、はじめから「神が来た」と言っているのです。そのことが福音である、というのです。神は何のために、この世に来たのでしょうか、それは神が造られた世界を神が取り戻すためであります。神が造られた世界は人間の罪のゆえに神から離れてしまいました。だから、もう一度、神のものにしようというのです。そのためには、どんなことが必要でしょうか。問題は人間の罪をどう解決しようとするかです。罪を解決するには、その罪に対して罰したら解決するでしょうか。 罪を厳しく加えていっても罪がなくならない。罪の解決は罪を赦すほかないのです。

神の子が来て、この世で働かれたのもそのためでありました。神の子が働く、というのは 具体的にはどいうことでしょうか。それが、イエス・キリストの生き方そのものであります。マルコが「神の子イエス・キリスト」と言ったのは、神がこの世にあって働く、ということはイエス・キリストにおいて見ることができるというこなのです。イエス・キリストを見るというのは、イエス・キリストというお方をキリスト、救い主として信じることであります。マルコは主イエスというお方のことを、人間の伝記のように語りまがら、ここに神が救い主として働いておられる、ことを示そう、としたのです。

人間イエスの事を書いているように見えながら、実は救い主キリストのことを信仰をもって書いているのであります。「神の子、イエス・キリストの福音が始まった」そして、いよいよ、マルコ福音書には次に洗礼者ヨハネが荒れ野に現れた、ことを記しています。その冒頭に、預言者イザヤの預言をもってきました。「見よ、わたしは、あなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする、『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」と宣言しています。こうして預言者の預言のとおり、神より遣わされたヨハネのいでたちと生活がどんなものであったか、6節以下、8節までに記しています。ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締めていなご、と野密を食べていた。

どうして、このような生活をしていたのでしょうか。ユダヤ人の普通の生活では想像できない、野蛮的な姿です。今回私は、ここで新たな発見をしました。今まではここを読むだけで、とにかくヨハネはよほどの変わり者で荒れ野に現れたのだから、らくだの毛衣に腰に皮の帯であったのだろうと想像するくらいでした。ところが旧約聖書、列王記下1章8節に「預言者エリヤはらくだの毛衣を着て皮の帯を腰にしめていた。」とあります。そうすると。ヨハネは預言者エリヤと同じ格好で登場したということです。もう一つ注目したいのは、「荒れ野に現れた」ということです。イザヤ書40章3節の言葉が引用されているのです。第二イザヤと言われる人がイスラエルの歴史の中で最も悲劇的な時代であった、バビロンの捕囚の時に記している預言です。

ここでは、荒れ野というのはバビロンの地のことです。バビロンに捕らわれの身であるイスラエルの民は故郷イスラエルのことを思い、望郷の念にかられた、いつか帰国を切望しながら、故国への遥かな道のりを思い、そこに横たわる荒野を見るのです。その荒れ野で声が聞こえた。それと同じように洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野に立てこもって叫んだのです。荒れ野には人が住んでいません。又住もうとも思わない、そういうところです。とにかく水がないのです。ですから草木も花も何もない、岩と石ころの荒れはてた地です。しかし、出エジプトをしたイスラエルの民を40年間荒れ野の旅をするのです。 そこには徹底した神の導きと助けによって歩むことができた旅でありました。預言者エリヤは自分の弱さを知り、嘆き途方にくれた時、荒れ野に導かれて、神の声を新しく聞きなおしました。荒れ野とは神と共にあるところです。神のみ声を聞くところです。そうして神の導きがあります。

バプテスマのヨハネは、そのような荒れ野に立ち、そしてやがて「悔い改めよ」と叫び、 ヨルダン川で洗礼を授けます。ユダヤ全土からぞくぞくとこのヨハネのもとに来たのです。 身分の差別なく、ユダヤ人も異邦人も貧しい人々も誰もが来たのです。洗礼を誰もが受ける、ことができる。罪の赦しは、皆が受けなければならないのです。罪の赦しがなければ、誰も生きられないからです。誰もが罪の許しを得るために、悔い改めなければならないからです。悔い改めなしに生き得る義人はいないのです。人は自分で悔い改めができる程 、するどい、良心というものを求められるわけではありません。悔い改める、ということは向きを変える。生き方の方向を変えられることです。自分中心の、わがまま、から自分の思っていることが一番と思い込んでいる自分をすてることです。神様の導きを受け入れる、神様に向きを変えられて、祈っていく生活です。神の、みもとに帰るのです。

そこにヨハネの、バプテスマの意味がありました。そうして、ヨハネは言われました「わたしよりも優れた方が後から来られる」と。優れた方とは、「より力がある方」という意味です。この方は「聖霊によって、バプテスマを授ける方」です。ヨハネは言いました「わたしは、この方の靴のひもを解く値打ちもない。」靴のひもを解く務めを与えられた、奴隷にも値しないのです。というのです。主イエスという方が、いかに高い存在の方か。神なのですから比べようがありません。そのイエス様が、ここに来て下さる、聖霊による業を始めて下さるのです。

私たちは、教会の礼拝で、まもなくクリスマスを迎えます。救い主、イエス様が降誕された喜びを迎えるため、み言葉によって、清められその心を備えていきましょう。アーメン

説教「ホサナ - 人知をはるかに超える神の計画」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書11章1-11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日は待降節第一主日です。教会の暦では今日が新年です。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日等の大きな節目をひとつひとつ迎えていく一年が幕を開けました。スオミ教会と教会に繋がる皆様が父なるみ神の恵みと憐れみのうちにとどまり、皆様一人一人の日々の歩みの上に神からの豊かな祝福と良い導きがありますように。

(c) 2006-09-25 by MMBOX PRODUCTION

 本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。ここで少しノスタルジーになってしますが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会での待降節第一主日の礼拝はどのようなものか少しお話しして、それから本題に入っていこうと思います。

 両国の待降節第一主日の礼拝の流れは毎年同じで、福音書の日課は、本日と同じマルコ11章1~11節、またはマタイ21章1~11節ないしはルカ19章28~40節です。福音書の朗読が群衆の歓呼のところまでくると、そこでいったん止まってパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に讃美歌第一番「ホーシアンナ、ダビデの子よ」を歌います。そのようにして、聖句の群衆の歓呼の部分をみんなで歌うことで置き換えます。普段は人気の少ない教会もこの日はなぜか人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。礼拝のみんなが歌う場面は、テレビのニュースにも毎年必ずと言っていいほどでるくらいです。ただ、フィンランドもスウェーデンも、国民の教会離れ、聖書離れは近年強まる傾向にあり、こうした国民的なキリスト教の伝統は果たしていつまで続くでしょうか?

 ところで、先ほど言及しましたフィンランドとスウェーデンの讃美歌第一番ですが、日本語訳の聖書にあるホサナという言葉ではなくて、ホーシアンナ/ホシアンナという言葉を使います。両国のルター派の聖書の本日の箇所も、ホサナではなく、ホーシアンナ/ホシアンナになっています。何が違うのでしょうか?このホサナとかホーシアンナ/ホシアンナというのは、もともとは詩編118篇25節の中にある言葉から来たものです。それは、「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と神に助けを求める歌です。原語のヘブライ語に忠実に訳すと「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」となりますが、この「どうか救って下さい」というのが、ヘブライ語でホーシィーアーンナーהושיעה נא と言います。本日の箇所の群衆の歓呼の内容は、まさにこの詩編118篇25~26節からの引用に基づいています。そのため、日本語訳聖書のようなホサナと言わずに、ホーシアンナ/ホシアンナと言った方が、引用元の詩編の聖句に忠実ということになります。では、どうして日本語の聖書ではホーシアンナ/ホシアンナと言わずに、ホサナと言うのでしょうか?

ホサナというのは、実はヘブライ語のホーシィーアーンナーהושיעה נא をアラム語に訳したホーシャーナーהישע־נא のことです。イエス様の時代、現在のパレスチナの地域では、ヘブライ語は旧約聖書を初めとするユダヤ教社会の書物の言葉としては使われていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語という言葉でした。ユダヤ教の会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読にはアラム語の訳がつけられていました。さて、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後、それらの出来事の目撃者となった弟子たちが生き証人になって、イエス様は真に天地創造の神のひとり子であり、人間の救い主であると宣べ伝え始めました。最初は口伝えの伝承と断片的に書きとめられた記録が宣べ伝えの媒体で、その言葉はアラム語でした。やがて宣べ伝えがローマ帝国の東側に広がりだすと、そこはギリシャ語が公用語の世界でしたので、アラム語の伝承と記録はどんどんギリシャ語に訳されていき、それで新約聖書は最終的にギリシャ語で出来上がったのでした。

しかしながら、伝承と記録全てがギリシャ語に直されたわけではありません。本日の箇所の群衆の歓呼は、ギリシャ語の文ではホーサンナωσανναになっていて、これはアラム語のホーシャーナーの言葉を訳さずに、そのまま音声をギリシャ文字で言い表したものです。ホーシアンナ/ホシアンナを使っているフィンランド語とスウェーデン語の聖書は、群衆が声に出したアラム語の言葉ホーシャーナーを引用元の詩篇のヘブライ語の言葉ホーシィーアーンナーに戻したことになります(ドイツ語の訳[ルター1912年版]も同様)。してみると、ホサナを使っている日本語訳の聖書は、意外にも当時の群衆の肉声がそのまま伝わるようになっていると言えます。(英語訳の聖書[NIV]やドイツ語のEinheits‐übersetsungはホサンナとなっていて、これはギリシャ語の発音にならうものです。)

 以上述べましたたことは、私たちの信仰の成長という観点から見たら、瑣末なことではあります。しかし、知っていれば、いればで、聖書を読む時、当時その場面にいあわせた人々の生の声に接することができます。聖書に書いてある出来事が何か空想から生まれたおとぎ話という淡い夢を打ち破り、本当にあったのだという臨場感を与えます。新約聖書にはこのホサナの他にも、イエス様自身が述べた言葉や文がアラム語の音声のまま記されて、日本語訳ではカタカナで表記されている箇所がいくつかあります。さらにマグダラのマリアの叫び声やイエス様に目を開けてもらった盲目の人の嘆願、また使徒パウロが初期のキリスト教徒たちから聞いた唱え文句の中にもアラム語の音声のままになっているものがあります。それらのうち一つは日本語の単語に訳されてしまっていますが、あとはアラム語の音声がカタカナで表記されています。聖書をよく読まれている方は、あのことだなと、すぐ思いつくでしょう。それらについては、いつか機会があれば一つ一つ見ていきたいと思いますが、ここで大切なことは、最初の目撃者たちの伝承をギリシャ語に直した人たちは印象深い言葉をギリシャ語に置き換えず、もともとの言葉のままにしたということであります。私たちは、聖書を読む時、こうしたアラム語の音声に触れることで、イエス様をはじめ当時それらを口にした人々の肉声に触れることができるのです。

イエス、ロバ、エルサレム入城2.さて、前置きが長くなりました。本題に入りましょう。このホサナないしホーシアンナ/ホシアンナは、もともとは、天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味でした。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時に歓呼の言葉として使われるようになっていました。従って、本日の福音書の箇所で群衆は、子ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのであります。しかし、これは奇妙な光景であります。普通王たる者がお城のある自分の首都に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。この光景、出来事は一体何なのでしょうか?

 加えて、イエス様は弟子たちに子ロバを連れてくるように命じますが、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのであります。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのであります。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 このイエス様の神聖な行為は、旧約聖書の預言書の一つであるゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9章9~10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ロバの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」

  ここで、「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」となります。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です(私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそのような義なる者とされます)。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて、世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者であります。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことを実現する者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのであります。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった者」であるにもかかわらず、最終的には全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらずという預言はイザヤ書の11章1~10節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、全てが神の守りの下に置かれている世界はもうこの世のものではありません。この世が終わった後に到来する新しい世です。その新しい世を導く「エッサイの根」とは何者かというと、エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者であります。つまり、イエス様を指します。やがては今の世にかわって、このような神の神聖で善い意志に服する新しい世が到来する。その時に主導的な役割を果たすのがイエス・キリストということであります。今の世が新しい世にとってかわるという預言書に預言された大事業は、イエス様が担うことになりました。子ロバにのってエルサレムに入城するというのは、まさにその預言書にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという大事業は、イエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?

3.この大事業は、当時の人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の仕方で展開しました。というのは、彼らにとって、ダビデ王の末裔が来て新しい国を打ち立てるというのは、ローマ帝国の支配を打ち破ってユダヤ民族の王国を再興することを意味していたからです。人によっては、通常の地上の王国を考えていた者もいました。また、別の人たちは、今のこの世が終わりを告げて天と地が新しくされて死者の復活が起きる時(イザヤ66章22節、ゼカリヤ14章7節、ヨエル3章4節、ダニエル12章1~3節)、出現する超越的な世界を考えていた者もありました。この世的な王国であれ、超越的な世界であれ、いずれにしても当時の人々は、ユダヤ民族の王国が再興されるという形の新しいダビデの王国を考えていました。イザヤ書2章やゼカリヤ書14章に、諸国の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見れば、再興したユダヤ民族の王国が勝利者として全世界に号令をかけるという理解が生まれます。しかし、それはまだ預言の一面的すぎる理解でありました。イエス様の大事業には、預言の全ての面が含まれていたのであります。それを、以下にみてまいりましょう。

 エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しい論争を繰り広げます。宗教指導層がもうこの男を生かしてはおけないと激しく憎悪を燃やした理由は三つありました。一つには、神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦したということがあります。実は、このイエス様の行動は、ゼカリヤ書14章21節「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」という預言と、イザヤ書56章7節「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という預言の成就を意味していたのです。二つ目の理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことです。これには、ユダヤ教社会の指導層も、占領者ローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているところに帝国の軍事介入を招いてしまう危険がある、なんと余計なことをしてくれるのかと慌てふためいたのでした。三つ目の理由は、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる終末の日に到来する「人の子」であると公言していたことでした。「人の子」とは、終末の日に到来するメシア救世主を意味します。つまり、イエス様は自分を神に並ぶ者としていたのです。さらには、もっと直接的に自分を神の子と見なしていました。

こうしたことが原因となって、イエス様は逮捕され、死刑の判決を受けました。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書の預言の一部分にしか着目しなかったことによる理解不足でした。まさにイエス様が十字架にかけられた後で、旧約の預言の全体が理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

 イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命への扉が開かれたことが明らかになりました。その扉は、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥って罪を犯して以来、人間は死する存在となって、ずっと閉ざされていました。それが、イエス様の復活によって再び開かれたのです。人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、死を超えた永遠の命を持つことが出来るようになったのです。こうして、人間を死に打ち勝てない存在に貶めていた原因である神への不従順と罪が、人間に対する支配力を失ったことが明らかになりました。どこでどうやって、罪と不従順は支配力を失ったのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の不従順と罪を全て請け負って人間のかわりに全ての罰を受けたことによります。人間は、イエス様のこの身代わりの犠牲に免じて、神から罪を赦されるのです。人間は、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができるのです。こうして、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)の意味が明らかになりました。人間は罪と不従順の支配下にある奴隷の身だったのが、イエス様が自分の命を身代金として支払って解放して下さったのです。こうして、旧約聖書の預言の意味も次々に明らかになりました。イザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことだったとわかったのです。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3~6節)

「彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをなしたのは
この人であった。」(11~12節) 

 実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、全ての人間に救いをもたらすものとなったのです。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この「罪の赦しの救い」の成就が目的だったのです。今のこの世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことになりました。神がイエス様を用いて「罪の赦しの救い」を実現した後は、今度は出来るだけ多くの人がこの救いを持てるように、イエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えていかなければならなくなりました。その宣べ伝えはいろいろな反対者、時には迫害者をも生み出していきました。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進んできました。これからも同じように進んでいくでしょう。しかし、それでも最終的には、「ヘブライ人への手紙」12章26~29節に預言されているように、この世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が起こり、今見えるものは全て揺り動かされて取り除かれて、唯一揺り動かさない神の国だけが見える形で現れて、新しい世が始まります。

イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は、この神の国の構成員になる者がもはやユダヤ民族という特定の民族ではなく、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取った人たちであるということを明らかにしました。さらに、諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言も、もはや地理上のエルサレムを意味せず、黙示録21章で天上のエルサレムと呼ばれる神の国そのものを意味することが明らかになりました。このように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きたことで、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族の王国復興の願いをはるかに超えた、全人類の救いにかかわるものだったことが明らかになります。これこそが、天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた神の意図だったのです。このことを明らかにしたのが、イエス様でした。最初は、人々に教えることを通して、そして最後は、自分の命をうち捨てて神の計画を実現することで、神の意図を明らかにしたのです。

4.以上から、神の意図と計画を実現する大事業の第一弾として、イエス様が子ロバにまたがってエルサレムに入城したことの意味が明らかになりました。この大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約理解をはるかに超える形で展開していきました。まさに、イエス様の十字架と復活の出来事は、旧約聖書を全体的に理解できるきっかけになったのです。

十字架と復活の後に続く時代、つまり私たちが今生きている時代は、いずれはイエス様が再臨する時に終わりを告げ、新しい世にとってかわられます。先ほども申しましたように、この間の時代は、人間が「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができるように、イエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えていく時代であります。この救いは全ての人間のために実現されたものである以上、できるだけ多くの人がその所有者になってほしいというのが神の意志です。それゆえ、いち早く「罪の赦しの救い」を受け取った私たちキリスト信仰者は、今度は、まだ受け取っていない隣人の心を、人間の造り主であり、かつ人間を罪の支配から贖い出して下さった神に向けさせるように心がけなければなりません。隣人に神とイエス様について教え伝える機会があれば、相応しい言葉を語ることが出来るように、神に祈りましょう。もし、適当な機会がなかなか得られなければ、機会を与えてくれるように祈りましょう。そして、その機会が来る日まで、またその後も、神がその方に働きかけられるよう、お祈りしていきましょう。それから、既に「罪の赦しの救い」を受け取ったキリスト信仰者同士でも、救いを手放してしまわないよう、それをしっかり持ち続けられるよう、お互いが支え合い助け合っていかなければなりません。ここでも、お祈りすることが重要な意味を持ちます。このように、神の御心に適った隣人愛を実践する際には、お祈りは大切です。このことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年11月30日の聖書日課 マルコ11章1-11節、イザヤ63章15節-64章7節、第一コリント1章3-9節 


説教「最後の審判で神は何を裁くのか」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章31-46節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日は、聖霊降臨後最終主日です。教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では、「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それは最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。

本日の福音書の箇所は、キリスト信仰者が社会的弱者や病気その他の苦しみにある人たちを助ける行動へと駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終わりの日に到来する人の子であると31節で言っているので、再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで、多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮した者、特に子供たちに主の面影を見て、支援や救援に乗り出して行くのであります。

しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるか、それとも永遠の火に投げ込まれるかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かということが中心になってしまう。つまり、人間の救いは善い業をしたことに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の考えと相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本は、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場を強く出します。私がフィンランドに住んでいた時、隣の市の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの日」の頃でした。地元の新聞に三人の候補者をいろいろテストする特集記事があり、本日の箇所であるマタイ25章31~46節と信仰義認の関係をどう考えるかという質問が向けられました。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でありたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。

問題は、ルター派だけに限られません。善い業を行えば救われると言えば、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。J・イェレミアスという第二次大戦後ドイツの世界的に著名な新約学者などは、歴史上のイエスのこの箇所での意図は、まさにそこにあったと言っているほどです。そんなことを言ったら、仏教徒だって、イスラム教徒だって、果てはヒューマニズム人間中心主義を追及する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っているので、みんなこぞって神の国に入れることになります。しかし、それは、ヨハネ14章6節におけるイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?

この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言うならば、本日の箇所は、善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も、信仰による救いを教えていることがわかります。これから、そのことをみてまいりましょう。ひょっとしたら、本説教は途中まで聞くと、この箇所を拠りどころとしてさまざまな支援活動に携わるキリスト教徒を憤慨させてしまうかもしれません。しかし、最後まで聞けば、本説教は、支援活動に水を差すものでは全くなく、活動に新しい土台を据えるものであることがわかると思います。

 

2. 最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、全ての諸国民を御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで、普通見落とされていることですが、実は、この最後の審判の場には、人々のグループは二つではなく、三つあります。40節で再臨の主は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言いますが、これがその三つ目のグループであります。つまり、主の兄弟グループも同じ場にいるのです。日本語で「この最も小さい者」の「この」と言っているのは、ギリシャ語原文では実は複数形なので「これらの」という意味です。全文を原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」となります。つまり、主は、羊と山羊の二グループに対し、「ほら、みなさい」と、兄弟グループを指し示しているのであります。

それでは、この主の兄弟グループは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は、物理的身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような抽象的な意味です。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような存在です。社会の基準からみて価値なしとみなされる存在です。従って、主の兄弟たちは子供には限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいと思います。

では、この主の兄弟グループは、もっと具体的に誰であるか特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えがすぐに得られます。10章で、イエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、宣教に派遣します。その際、使徒たちに宣教旅行の規則を与え、迫害に遭遇しても神は決して見捨てはしないと励まします。そして、使徒たちを受け入れる者は使徒たちを派遣した当のイエス様を受け入れることになる(10章40節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(41~42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」の「小さい」ミクロスμικροςは、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことについて述べているので、この「小さい者」は、子供は指しません。使徒たちです。使徒とは誰のことかと言うと、イエス様が自分の教えることをしっかり聞きとめるようにと、また自分がなさる業をしっかり見届けるようにと、選んだ直近の弟子たちであります。そして、イエス様の教えと業だけでなく、彼の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を命を賭してでも宣べ伝えるようにと選んだ弟子たちであります。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。マタイ10章では、使徒を受け入れて、渇きに苦しむ使徒に水一杯を与える者は、報いを受けられると言っていますが、本日の箇所でも同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をしてやり、病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言うのであります。

 

3.以上から、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを社会的弱者・困窮者一般と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは、どうなってしまうでしょうか?キリスト者とは人を助けてこそキリスト者たりうると考えている人は、支援の対象が福音を宣べ伝える使徒に限られていると聞いたら、なんと視野の狭い解釈だと怒ってしまうでしょう。しかし、これは解釈ではなく、書かれてあることに忠実な理解なのであります。それでは、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう弱者・困窮者一般の支援は考える必要はないということになるでしょうか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ10章25-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者一般の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということにあります。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申し上げましたが、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは別にキリスト教徒でなくても、仏教徒でも、イスラム教徒でも、人間中心主義的な無神論者でも、無宗教の人も、みなわかるし、実践しています。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。本説教は、そのことも明らかにしていくことになります。

 さて、使徒というのは、先ほども申しましたように、イエス様が、自分の教えをしっかり聞きとめるようにと、また自分の業をしっかり見届けるようにと、選んだ者たちです。実際に彼らは、イエス様の教えと業そして十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、この神の人間救済計画実現の福音を宣べ伝え始めました。こうして福音が宣べ伝えられていく時、人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では、使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろな仕方で支援してあげる人たちが出る。他方では、福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出る。ここで思い起こさなければならないことは、支援をした人たちは、支援することで、逆に使徒と同じ仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。その意味で、支援した人たちというのは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだから助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音を信じたから、彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのであります。つまり、支援した人たちは、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った者たちであります。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった者たちであります。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、信仰を持つに至ったか至らなかったか、ということが、神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのであります。そういうわけで、本日の箇所は、善行義認なんかではなく、文字通り信仰義認を教えているのです。

 

4.以上から、イエス様の取るに足らない兄弟たちとは使徒を指し、彼らに対する支援は彼らが携えてきた福音を受け入れることから生まれてきたことが明らかになりました。ここで大きな疑問がいくつか出て来ます。神の国に迎え入れられるか否かの基準は、使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、使徒たちを支援するのが当然というくらいにまで福音を受け入れることと言うならば、使徒の後の時代の人たちはどうなるのか?12使徒の中でヨハネが一番長生きしたとして、どんなに長くとも西暦100年位とすると、それ以後の人たち、使徒と接触することもなく、支援しようにもできない人たちは、最後の審判ではどうなるのか?イエス様は、西暦100年以後の人たちは最後の審判は関係ないと思っていたのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。イエス様の教えの主眼は、使徒を受け入れて支援するか否かではなくて、使徒が携えてきた福音を受け入れて、その結果として使徒を支援するかどうかということなのです。中心的なことは、福音を受け入れたかどうかということです。福音を受け入れたかどうかということは、使徒の時代の後もずっと今の時代の私たちにもあてはまることですので、私たちも皆、最後の審判の該当者です。もちろん、本日の箇所には、使徒たちをいろいろな仕方で支援することが記されていますが、これは、もし仮に使徒たちが今生きていたら、私たちも同じように支援してあげる準備が出来ていなければならない、と理解すべきです。逆に言えば、それくらい彼らが携えてきた福音を受け入れなければならないということです。

 ここで、使徒たちが携えてきた福音とは何かということについて触れておきます。福音とは、一言で言えば、人間が失っていた大切なものを人間の造り主である神が取り戻して下さったという、素晴らしい知らせであります。人間が失っていた大切なものとは、自分の造り主である神との結びつきです。このもともとあった結びつきは、人間が神への不従順に陥り罪を犯したために失われてしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。神との結びつきを失った人間は死ぬ存在となり、人間は代々死んできたように代々罪と不従順を受け継いできました。

これに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしよう、この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげようと決めて、それを実行するために、ひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは以下のことです。人間に浸みついている不従順と罪が神との結びつきを妨げているので、まずイエス様に人間の罪を全部背負わせて、あたかも彼が全ての張本人であるかのようにして全ての罪の罰を受けさせて死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしました。これがゴルガタの丘の十字架で起きた出来事です。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命の扉の門を人間に開かれました。

人間は、こうしたことが自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を自分のものとして所有でき、その瞬間から罪の赦しが効力を発揮するのです。こうして人間は神との結びつきを回復でき、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、それからはずっと、順境の時にも逆境の時にも、絶えず神から良い導きと助けを得られて生きられるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御許に引き寄せて下さり、人間は永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのです。以上が、使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音であります。

人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」がまさに自分のためになされたのだとわかった時、神に対する深い感謝から、神の意思に従って生きるのが当然という心を持つようになります。また、神から受けた恩寵の大きさから自分の利害のちっぽけさがわかるようになって、自分の持っているものに執着せず、それを他の人々のために役立てようという心を持つようになります。キリスト信仰にあっては、善い業とは救われるために行うものではなく、救われた結果として生じてくる実のようなものだと言われる所以です。

ここで、神の意思に従って生きるという時の「神の意思」について。2週間前の説教でもお話ししましたが、神の意思とは、要約すると、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することの二つに尽きます。神への全身全霊の愛とは、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、この神が自分にどれだけのことをして下さったかがわかるようになった時です。隣人愛ですが、キリスト信仰にあっては、それは全身全霊を持ってする神への愛を土台にしています。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行いが神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかを吟味する必要があります。神は、全ての人間が「罪の赦しの救い」を受け取るようにと望んでいるので、キリスト信仰者は隣人愛を実践する際には、このことを念頭に置かなければなりません。

 

5.使徒たちが携えてきた福音を受け入れてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることが、最後の審判の日に神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの基準になる。このように言うと、次のような疑問が沸き起こります。それは、福音を受け入れるもなにも、福音を伝えられないで死んでしまった人たちはどうなるのか?態度決定する機会も与えられずに、お前は福音を受け入れなかったと言われて火に投げ込まれてしまうのはあんまりではないか、というものです。この疑問は、特に多くの日本のキリスト信仰者にとって微妙なものではないかと思われます。というのは、復活の日、キリスト信仰者の自分は信仰者でなかった肉親に再会できないのだろうかという不安が生じるからです。

近年ではキリスト教会の中でも、いろんな宗教があるというのはいろんな登山道を登って同じ頂上に到達するようなものだという考え方をする人が増えてきたように思われます。そんなご時世ですから、先ほどのイエス様の言葉、彼こそが天地創造の神のもとに到達する唯一の道、命、真理であるという言葉をそのまま信じると、お前は時代遅れの世間知らずだなどと言われてしまうでしょう。しかし、そう言われるのを承知の上で話を続けていきます。

福音を伝えられずに死んだ人に対する神の処遇はどうなるのか?これについて、黙示録20章の預言を手掛かりにしてみます。そこでは、死者の復活と最後の審判が起きる時、最初に復活させられて神の御許に引き上げられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たちと述べられています(4節)。それ以外の人たちの復活はその後に起こりますが、その時、それらの人たちがこの世でどんな生き方をしてきたかが全て記された書物(複数形)が開かれて、それに基づいて判決が下されると述べられています(13~15節)。それ以外の者たちとは、文字通り、信仰のゆえに命を落とした者たち以外の全部の人たちです。つまり、まず、信仰を持っていたが、特に命と引き換えにそれを守るような極限状況には置かれないで済んだ人たちがいます。そして信仰を持たなかった人たちもいます。信仰を持たなかったというのは、洗礼を受けたがそれが何の意味を持たなかった人たちがありましょう。また、福音を伝えられたが受け入れなかった人たちがありましょう。そして、福音自体が伝えられなかった人たちがおりましょう。これらの人たちは全てひっくるめて神の記録に基づいて判断されるのです。

ただ、ひょっとしたら、洗礼を受けたあの人は、私たちの目から見て信仰者に相応しくない生き方をしていたが、実はイエス様を唯一の救い主として信じる信仰を追い求めて苦しんでいたのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実の詳細は神の記録に残されており、私たちはその内容を知ることはできない。だから、その人の処遇は神に任せるしかない。また、ひょっとしたら、洗礼を受けなかったあの人は、ルカ23章に出てくる強盗が息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白して神の国に迎え入れられたように、死の直前に改心があったのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実を知っている神に任せるしかない。そういうわけで、福音が伝えられなかった人たちについてはなおさら、神に任せるしかないのであります。

キリスト信仰を持たずに死んだ人と復活の日に再会できるかどうかという問題について、このように全てを神に任せるというのは、大抵の場合、心に平安をもたらします。しかし、時としてそれでは物足りないというような不安も出てくるのではないかと思います。そのような時は、アブラハムが神に対して罪の町ソドムのために祈ったことを思い出すとよいでしょう(創世記18章)。神はソドムの町をその大きな罪のゆえに滅ぼすと宣言します。それに対してアブラハムは、もし町の中に50人神の意思に従う正しい人がいたら、彼らを罪びとと一緒に滅ぼしてしまうのですか、と聞く。それに対して神は、その50人のゆえに滅ぼさないと答える。それに対してアブラハムは、それでは正しい人が40人いたら、30人いたら、20人いたらと必死に値切っていき、最後は10人いたら町を滅ぼさないというところまで譲歩を引き出します。結果は、正しい人は10人いなかったので、町は焼き尽くされてしまいましたが、それでも、神はアブラハムの必死の祈りを聞いて恩赦の枠を広げたのです。

ここで注意しなければならないことがあります。それは、神がその祈りを聞いてあげたアブラハムという人物は、中途半端な信仰の持ち主ではなかったということです。使徒パウロが大きく指摘したように、アブラハムは信仰によって義とされた信仰義認の第一人者です(ローマ4章9節)。そのような人の祈りが神の恩赦の枠を広げる影響力があったのです。もしあなたが、キリスト信仰を持たずに亡くなった方との復活の日における再会を望み、その望みを神に打ち明けるのならば、あなたは、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰をしっかり持つ者として打ち明けなければなりません。中途半端な信仰の持ち主ではいけません。中途半端でない信仰とは、神を全身全霊で愛するのが当然であり、それに基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するのが当然であるという心を持っていること、そして、洗礼と聖餐式が与える罪の赦しの恵みの中にしっかりとどまっていることです。そのよう者として神に望みを打ち明けるならば、使徒パウロの次の言葉は真にその通りになる筈です。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4章6~7節)

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように    アーメン


聖霊降臨後最終主日
2014年11月23日の聖書日課  マタイ25章31-46節、エゼキエル34章11-16、23-24節、第一テサロニケ5章1-11節


説教「主の再臨に備えて生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章1-13節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.  結婚式の祝宴というものは、イエス様の時代にも大がかりでした。ヨハネ福音書の2章に有名なカナの婚礼の話があります。イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行ったところです。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとありますが、ひとつにつき80~120リットル入りです。それが6つありました。すでに出されていたぶどう酒が底をついてしまった時に、イエス様は追加用にこの水瓶の水全部480~720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしました。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。

 本日の福音書の箇所でも、結婚式の祝宴の盛大さが窺われます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に結婚を正式に申し込みに行きます。先方の両親と話し合ってOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで、先ほど申しましたような祝宴が盛大に催されるのであります。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従う役割を担います。こうしたおとめたちの付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。

 本日の福音書の箇所でイエス様は、天の国つまり神の国とはどんなところかを教えるために、婚礼の行列に付き従う役目を負った10人のおとめたちに起きた出来事について話します。まず、大勢の人たちが参加する婚礼の大祝宴ですが、これは、イエス様を救い主と信じる信仰をしっかり持ってこの世から死んだ者たちがこの世の終わりの日に復活させられて、神の国に一堂に集められることを意味します。「ヘブライ人への手紙」12章27~28節や「ペトロの第二の手紙」3章10~13節をみると、この世の終わりの日に全ての被造物は揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが残ると預言されています。黙示録19章7~9節では、そのような神の国に集められるというのは、小羊の婚礼に招かれることであると述べられています。同じ黙示録の21章4節では、神の国の祝宴の席についた者は皆、神から涙を全て拭ってもらい、死や悲しみや苦難や痛みから解放された人たちであると述べられています。苦難や試練の多いこの世の人生の段階で信仰をしっかり持って生き抜いた者にとって、こうした神の国の祝宴の席につける以上のねぎらい、報いはないでしょう。先々週の主日の福音書の箇所だったマタイ22章の初めに、王が王子のために婚宴を催すというたとえがありました。そこで王は神、王子はみ子イエス・キリストを意味しました。本日のたとえでも、花婿はこの世の終わりの日に再臨するイエス様を指しています。

 以上から、10人のおとめのうち、ともし火に買い置きの油を用意した5人の賢いおとめは、この世の終わりの日、復活の日に神の国の入ることができた者たち、油を用意しなかった愚かな5人のおとめは神の国に入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、このたとえを通して、私たちも賢いおとめのように、いつ主の再臨が起こっても大丈夫なように備えていなさい、と教えているのだとわかります。

 このように「10人のおとめ」のたとえがわかったと思うや否や、大きな疑問にぶつかります。それは、たとえの結びの部分の13節でイエス様が、目を覚ましていなさい、なぜなら主がいつ再臨するかは誰にもわからないからだ、と言っているところです。つまり、眠ってはならない、目を覚ましていなければならない、というのが教えの主眼になっています。ところが、賢いおとめたちは、愚かなおとめたちと一緒に眠ってしまったではないか?教えの主眼からすると、賢いおとめたちも失敗例です。しかし、眠ってしまったとは言え、賢いおとめたちは、買い置きの油のおかげで神の国に入れました。それでは、この「目を覚ましていなさい」という命令はどんな意味があるのでしょうか?

2. 賢いおとめたちも、愚かなおとめたちと共に眠ってしまいましたが、彼女たちは、買い置きの油があったおかげで、花婿の突然の到来にも慌てずに、ともし火を持って祝宴に入ることができました。眠ったことは、なんらダメージにはならなかったのであります。この賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」と言われています。こうして見ると、「目を覚ましていなさい」というのは、具体的に寝ないで起きていることを意味するのではなく、なにか用意ができている状態にあるという象徴的な意味を持っているのだと分かります。

そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」と言っているなかで「眠り込んでしまった」というのも、本当に具体的に寝てしまうという意味ではなく、何かを象徴的に意味していると考えられます。どんな意味かと言うと、「眠り込んでしまった」という言葉は、ギリシャ語の原文では、カテウドー(καθευδω <εκαθευδον)という動詞で、これは「眠る」という意味もありますが、「死ぬ」という意味もあります(第一テサロニケ5章10節)。

さらに見ていくと、7節で「おとめたちは皆起きて」と言う時の「起きて」という言葉は、ギリシャ語の原文では、エゲイロー(εγειρω<ηγερθησαν)という動詞で、これも「起きる」という意味の他に、「死から復活する/復活させられる/蘇る/蘇らされる」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。マタイによる福音書25章

こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して、死者の復活が起こる、この世の終わりの日の出来事について教えていることがわかります。その日、ある者たちは結婚の祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられない。ここで注意しなければならないのは、神の国の祝宴から排除されてしまった5人の愚かなおとめとは、イエス様を信じない者ではなったということです。彼らも、賢い5人のおとめ同様に、もともとは同じ祝宴に招かれていたのであり、婚礼の行列にともし火をもって付き従う同じ任務を受けていました。つまり、10人みんな神の国への招待を受けていたのです。そういうわけで、10人ともイエス様を救い主と信じるキリスト信仰者を指します。ところが、神の国に入れたのは、賢い5人だけで愚かな5人はだめでした。マタイ22章14節のイエス様の言葉を借りれば、招待を受けたのに選ばれた者にはならなかったのです。同じ出発点に立ちながら、どうして異なる結末を迎えることになってしまったのでしょうか?それがわかれば、油を前もって買い置きして、ともし火の火を絶やさずに燃え続けさせることの意味もわかります。そのことが、「目を覚ます」の象徴的な意味である「用意ができている」の意味を明らかにするのです。

これから、こうしたことを解明していこうと思いますが、その前に、ルターが、この世から死ぬことは眠ることと同じであると教えていますので、まずそれを見ていきたいと思います。本日の箇所の謎、「用意が出来ている」とか、ともし火とか、油の買い置きとかの解明にとっても、大事な教えです。この教え(教会ポスティラIII、マタイ9章24節にあるイエス様の言葉「娘は死んではいない。寝ているだけだ」についてのルターの解き明し)は、去る8月31日のスオミ教会、武蔵野教会、市ヶ谷教会の三教会合同の聖書研究会でも紹介したので、その時参加された方はご存知なのですが、今一度ご紹介いたしましょう。

「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

 ここで明らかなことは、人間は死んだら、即天国に上げられない/昇らない、ということです。天国に行くか地獄に行くかは、将来起こる復活の日、最後の審判の日に決せられるのであり、その日が来るまでは、死んだ人たちは皆、神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけということです。このことは、死者の復活を信仰の要とするキリスト信仰からすれば、当たり前のことなのですが、なぜか日本ではキリスト信仰者でない人ならともかく、信仰者の間でも、人は死んだら即天国に行って、今そこから私たちを見下ろしているというふうに考える向きが多くあるように思えます。いずれにしても、ルターの教えから言えることは、死んだ者は安らかに眠るだけなので、移動もせず、飲み食いの必要もなく、私たちが語りかけたり、願い事をかけても別に聞いているわけでもなく、また私たちを見守ることもしない、ただ安らかに眠っているだけ、ということになります。亡くなった人が私たちを見守っていない、などと言うと、大方の日本人はギョッとして心細くなってしまうでしょう。しかし、キリスト信仰にあっては、復活の日までは亡くなった方たちは、神のみぞ知る場所にいて、ただ安らかに眠っているだけなので、私たちを見守ってくれる方、また私たちが語りかけたり願い事をかけたりする正しい相手は、これは天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた神をおいてはいないのです。だから、心細くなる必要は全くないのです。

このルターの教えの中で、もう一つ大事なことがあります。それは、死んだ人のこの安らかな眠りは、死んだ人の観点からすれば一瞬のことにしかすぎないということです。仮にこの世の終わりが西暦2500年に来るとします(預言しているのではありません!)。その場合、西暦1500年に死んだ人は、今この世にいる者の観点からすれば1000年眠ることになります。しかし、死んだ者本人にとっては一瞬の眠りにしかすぎず、ルターの言い方に従えば、死ぬ瞬間、瞬きをした瞬間に、もう目の前では復活の壮大なドラマが始まっているのであります。そんな馬鹿な、と思われるかもしれませんが、私など、全身麻酔の手術の経験があると、そういう時間の飛び越えはあまり不思議には感じられないのであります。先ほど、死んだ人が即天国に行くという考えは、復活の信仰から見て間違っていると申しましたが、時空の飛び越えをする死んだ本人の観点からすれば、間違いではないのであります。しかし、この世に残された私たちの観点からすると正しくないのであります。キリスト信仰者は、亡くなった方が今どこで何をしているかということについて、言い方を正確にする必要があるでしょう。

3.それでは、「10人のおとめ」のたとえの謎を解明していきましょう。「目を覚ます」の象徴的な意味である「用意ができている」ということにまつわる事柄です。たとえの中で、「用意ができている」とは、油の買い置きをして、ともし火の火が消えてしまわないように、燃え続けるようにしたということでした。買い置きをした5人のおとめは祝宴に入れたが、しなかった5人は入れなかったというのは、死者からの復活が起きる日、ある信仰者は神の国に迎え入れられたが、別の信仰者は入れられなかったということです。まず、どうしてそのような違いがでてしまったのか、ということから始めていきましょう。

キリスト信仰の基本事項ですが、人は洗礼を受けると、イエス様の持つ神の義を純白な衣のように頭から着させられます(ガラテア3章27節)。もちろん、私たちはまだ肉をもって生きているので、私たちの内にはまだ神への不従順と罪が宿っています。しかし、そのために本来は私たちが受けるべき裁きをイエス様がゴルガタの丘の十字架で全部受け負って下さった、それゆえ私たちがイエス様を救い主であると信じる信仰を持つ限り、神は私たちに被せられているイエス様の純白な義の方に目を留めて下さる。このように私たちは、神によって神の義を与えられた者として、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることとなった。文字通りこの世の命を超える新しい命に結び付けられてこの世を生きることになったのであります。

 しかしながら、洗礼はハッピーエンドではありませんでした。それは完了では全くなく、むしろ私たちの内に新しい命が始まったということ、永遠の命に至る道を歩み始めたということ、洗礼とはそういう始まりの時なのであります。あわせて洗礼は、内的な戦い、信仰の戦いの始まりの時でもあります。私たちは、聖書の御言葉を通して神の意志を知ろうとすればするほど、それから遠い存在であること、不従順と罪に満ちた存在であることに気づかされます。神を全身全霊で愛することが神の意志なのに、自分はそうしていないではないか?また、隣人を自分を愛するが如く愛せよというのが神の意志なのに、そうしていないではないか?ルターも、このことはよく承知で、彼に言わせれば、キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者たちということになるのであります。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、神の守りを信用せずに心配事に身を委ねること、その他もろもろの欠点に出くわすのであります。

 洗礼を受けて、神がイエス様を用いて実現した救いを所有する者となった筈のに、どうしてこんな情けない存在なのかというと、それは、私たちがまだこの世を生きている間は肉をまとっているからであります。肉をまとっているという点では、キリスト信仰者もそうでない者も全く同じであります。肉をまとっている以上、神への不従順や罪、さまざまな欲望やねたみや憎しみ等々を信仰者でない者と同じように持っています。

それじゃ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と言われそうですが、キリスト信仰者とそうでない者の間には大きな違いがあります。それは、信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けたことです。神の霊はまず、わたしたちの肉から生じる神への不従順、罪をつきとめ、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に教えてくれます。そんなに汚れた存在であることを暴露されてしまい、神から引き裂かれてしまったショックを受けていると、聖霊はすかさず「それでは、目をあちらにだけ向けなさい」と命じます。あちらにあるものとは、十字架にかかったイエス様です。そこに目を向け、さらに目を凝らしてみると、彼の両肩、頭の上にはなんと私の不従順と罪が覆いかぶさっているではないか。私の不従順と罪は私から取り去られて、彼の上に覆い被せられた。そして、私は、なぜ彼があそこで死んだのかがわかる。このようにして、彼は私が受けるべき罰を私に代わって受けられたのだ、と。この時、イエス様は私の救い主となり、これらのことをひとり子を犠牲にしてまでも私のために行われた神に感謝し賛美しようという心が生まれる。そして、私が感謝して止まない神の御心を、私はもっと知ろうとし、それに従って生きよう、いう心が生まれる。それは、神を全身全霊をもって愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということである。自分もそうしよう。これだけの愛を受けたのだから、ということになる。

しかしながら、また現実の世界に一歩踏み入れて、いろんな人や出来事に遭遇し、いろんな問題や悩みに直面すると、また不従順や罪が頭をもたげてくる。妬んだり、嫉妬したり、陰で悪口言ったり、それを喜んで聞いたり、神が与えて下さったり結び付けて下さったものから別のものへ目移りしてしまったり等々、無数です。しかし、それでも神のもとに戻れる可能性はしっかりあります。ゴルゴタの丘の十字架に架けられた主に心の目を据えつつ、礼拝の時に行う罪の告白で、また牧師や信頼できる信徒と個別に行う罪の告白で、私たちは神から赦しを得ることが出来ます。神から得られる赦しは、また、聖餐式の時に、主の血と肉を受けるという具体的な形を取ります。

 このようにキリスト信仰者とは、現実世界をしっかり生きながら内面の戦いを戦う者たちです。絶えず十字架の主のもとに立ち返ってそれに依拠しながら生きていくことで、肉に繋がる古い人間を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていくのであります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、瞬き程の一瞬のうちに復活の命と体を持つ存在に変えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時に「完全なキリスト教徒」になるのであります

さて、5人の賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、こうした新しい人を日々育て、古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いのプロセスが不断に続くことを意味します。信仰の戦いが終息せずに不断に続くようにするものは何かと言うと、それは聖書にある神の御言葉に踏みとどまること、聖礼典の恵みにしっかり結びついていることであります。御言葉への踏みとどまり、聖礼典との結びつき、これが買い置きの油ということになります。これがある限り、信仰の戦いのプロセスは不断に続き、ともし火の火が消えることはありません。「目を覚ましていなさい」の象徴的な意味は、まさに信仰の戦いをしっかり戦いなさいということなのであります。そうすることが、主の再臨に備えて生きるということであります。時として、神を全身全霊で愛することをせず、隣人を自分を愛するが如く愛さず、神の意志に背を向けてしまう時があるでしょう。罪と不従順を内に宿しているので、それは避けられません。しかし大事なことは、そのたびに恵みと憐れみの神に赦しを乞い、主イエス様の十字架のもとに立ち返ることです。恵みと憐れみの神は、そんな私たちを自分の子として迎えて下さり、私たちは御言葉にふみとどまり、聖礼典につながることを確認して、再び永遠の命への道を歩み出します。そうして、主の再臨の日まで霊的に目を覚ましていられるのです。

翻って、5人の愚かなおとめの場合はどうかと言うと、買い置きの油を用意しなかったというのは、これはもう洗礼を受けたらもう終わり、信仰の戦いに入っていかないのであります。そうなると、洗礼の時に植えつけられた新しい人はもう育ちません。肉に結びついた古い人間がまた力を盛り返して支配を取り戻してしまいます。時間がたてばともし火の火も消えてしまいます。

 ここで、5人の愚かなおとめたちは、火が消えるのはよくないことだとわかって、必死に油を買いに行ったではないか、それでも時間通りでなかったという理由だけで神の国から排除されるのは、情けがなさすぎるのではないか、という反論が生まれるかもしれません。しかしながら、その反論に対しては、神の日程表は絶対である、一度決まったら変更が効かない、としか答えられません。神は、信仰の戦いを戦う時を人に与えたのに、人の方でその時をそのために使わなかったのですから。それに、信仰の戦いに入らず、新しい人をいたずらに委縮させ、古い人に以前同様支配を許してしまうのは、洗礼の恵みを踏みにじるものです。

 神の日程表は絶対的なものであると言うと、信仰の戦いを戦っている人にとって重苦しいかもしれません。なぜなら、この世に別れを告げる時、それから復活の日において、自分はどれだけ神の意志を満たせる者になっているのだろうか、新しい人はどれだけ成長したのだろうか、古い人はどれだけ衰退したのだろうか、また、これらの点について、終わりの日に他の信徒たちと比べられたら、自分の達成度は小さいのではないだろうか、そういう疑問が生じるかもしれません。しかし、これは心配する必要のないものです。もし、あなたが信仰の戦いを正直かつ真摯に戦っていて、神が与えて下さった時をちゃんとその目的のために使っていれば、終わりの日にあなたが仮に40%の達成度をもってこの世の人生の歩みを終えたとしても、神は即座に残りの60%を満たして下さいます。そうしてあなたは、先ほどのルターの言葉を借りれば、完全なキリスト教徒に変えられるのです。神が足りない分を満たしてくれるから、自分は何もしなくてもいい、と考える向きが現れるかもしれませんが、それは完全に間違いです。神が足りない分を満たしてくれるのは、信仰の戦いを正直かつ真摯に戦っていて、神が与えて下さった時をちゃんとその目的のために使って生きている人たちだけだからです。

最後に、信仰の戦いは内的な戦いとは言っても、それは人間関係が渦巻く現実世界を生きることから生じる戦いでもあるので、たいていは外的な戦いと連動しています。それゆえ、時として自己の能力の限界を試されるような試練も来ます。そうした時、この戦いは孤独な戦いで誰にもわかってもらえないと意気消沈する必要はありません。周りには信仰と志を同じくする兄弟姉妹たちがいます。それから、常に私たちの側に立って戦ってくれる無敵の同士がいます。復活によって死を滅ぼされた主イエス様です。主は、世の終わりまで毎日毎日私たちと共にいる、と約束されました(マタイ28章20節)。主が約束されたことを、私たちが疑うことは許されません。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年11月16日(聖霊降臨後第23主日)武蔵野教会
11月16日の聖書日課   マタイによる福音書25章1-13節、第一テサロニケ3章7-13節、 ホセア11章1-9節


説教「完成へと導く主」浅野直樹 牧師(市ヶ谷教会) 講壇交換日

2014/11/16  聖霊降臨後第23主日 

ホセア11章1-9  Iテサロニケ3章7-13  マタイ25章1-13

説教題「完成へと導く主」

きょうの礼拝は聖霊降臨後第23主日、そして次週が教会の暦の一年最後の日曜日で聖霊降臨後最終主日です。教会の暦の終わりに来ています。そういうわけで聖書日課の主題も終末です。きょうのテキストはまさしく終末という大きなテーマを扱ったイエスのたとえなのです。

終末というと極めて宗教的なテーマで、およそサイエンスとは無関係と思われます。この世の終わりがいつ来るか、あるいは人が死んだらそのあとどうなるか、そういったことがらは宗教が語ることであって、科学者たちが首を突っ込む領域ではありませんでした。 1995年3月20日に、オウム真理教という宗教団体が地下鉄サリン事件が起こしました。あのときしきりに「ハルマゲドン」という言葉を耳にしたことを思い出します。これは黙示録の中に出てくる善と悪の最終戦争を表す聖書の言葉で、きょうの主題である終末を象徴しています。オウム真理教はサリン事件を起こして、いわばハルマゲドンを自作自演しようとしたのです。そしてその中心人物たちが理科系のエリートたちでした。科学を専門とするエリートたちがハルマゲドンを起こしたのです。科学者が終末に首を突っ込んだのです。

同志社女子大学の1997年の卒業礼拝で、聖書学者の大貫隆がこのことに触れて説教しこう述べています、「科学という合理主義のリーダーが、終末預言という非合理なものにくっついてしまった」。それがあの出来事だったと語ったのです。なぜ合理的なものと非合理なものがくっついてしまったかというと、終末という出来事がいつ、どのように起こるかということに科学者たちが興味をもったからなのだと大貫氏はいいます。いつ、どのようにを問うというのは、科学者たちが物事を考えるときの大前提となる手法です。その方法を使って彼らは終末というものをとらえようとしたのです。すこし難しい言い方をすると、終末という出来事を歴史の中に対象化しようとしたのです。自然界の諸々の現象と同じく、研究すれば見えてくる、いつごろそれがどんなふうに起こるのかが解明されていく。そういう関心が科学者たちを駆り立てたのではないでしょうか。そうした見方は一般の私たちにももちろん関心大ありですが、このアプローチで聖書に描かれている終末を正しくとらえることはできません。それがいつどのように起こるのか。そういう問いから自由になれ、と大貫先生は女子大生に呼びかけたのです。そういう問いにこだわって起きたのがサリン事件でした。 キリスト教が終末を語ると、終わりを完成とみなすことができるのです。たとえば人間のいのちが、人生の終末という出来事において完成するということです。ハイデッガーという哲学者は、「人間は生まれた直後から死へと定められた命を生きている」といったそうです。では聖書が人間を一生をどのように語るかというと、人間は日々完成に向かって生きているということになります。死という出来事をわたしたちのいのちと切り離して考えてはいけないのです。死はいのちとつながっているのです。いのちの到達点に死があるのです。生きるというプロセスのゴールに終末という人生の完成があるのです。不完全な私たち。罪と人間的な弱さのゆえに欠陥だらけの私たち。そんな私たちのいのちを、最後に完成へと導いてくださるのがイエス・キリストです。 「だから、目を覚ましていなさい。」というみことばは、そのような生き方を表しています。神様が最後に与えてくださる完成を目指して生きるということです。自分の力で勝ち取るのではなく、神様がイエス・キリストのあがないによってお与えくださる完成に向かって、一日一日を生きること。それが目を覚ました生き方なのです。

きょうのたとえ話はユダヤの結婚式の一場面が題材になっています。私たちには馴染みがないのですが、イエス時代のユダヤの結婚式は花婿が花嫁を出迎えにいくことで始まります。彼女の家まで出向き、挨拶をして花嫁さんを引き取り、そこから今度は二人の新居まで一緒に道を練り歩きます。新居には彼らを祝福してくれる乙女たちが待機していて出迎えてくれます。それが夜であるならば当然灯りが必要なので、乙女たちは手にろうそくをもち二人の到着を待ち続けます。やがて二人が到着すると乙女たちがエスコートしてふたりを盛大な祝宴会場へと招きます。もちろん乙女たちも同行します。そういう流れを頭に入れて読むと、ここはわかりやすいかもしれません。 ここで問題となっているのは、五人の愚かな乙女たちは油の予備をもっていなかったという点です。その日そのときの備えができていなかったということです。災害に備えて食べ物を備蓄したり、あるいは日用品をまとめておいたりしている家庭も多いと思いますが、同様の警告を主イエスは弟子たちにもしています。それを端的に言い表したひとことが、「目を覚ましていなさい」です。 「わたしは救われて天国への切符を手に入れた。だからもう自由だ。すべてのことが許されている。思い通りの生活ができる」。信仰を得た人がこのような生き方と人生観をもっているとしたら、その人は予備の油をもってこなかった乙女のようです。終末を目指して生きるという生き方にはなりません。目を覚まして生きることにはならないのです。 あるいはここを読んで、ちょっと心配になってきたクリスチャンもいるかもしれません。わたしは一応なんとか信仰を得て今日まで生きてきた。けれども自分はいい加減で信仰的にも眠ってばかりだから、ひょっとしたら私はどちらかというと、この愚かな五人のひとりなのではないだろうか。そういう心配がよぎった人もいるかもしれません。いやもしかすると、私を含めてここに集まっているみんながそういう思いかもしれません。 では逆に、わたしはいつも信仰的に眼覚めているから賢い乙女のひとりだと、自信をもっていえるとすると、その人はどういう人なのでしょうか。私はルカ18章に出てくるファリサイ派と徴税人の祈りの比較を思い出すのです。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈ります。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

「信仰的にいつも目覚めているから大丈夫」と、自信を持って言えるとすると、私にはその人がファリサイ派の人とかぶってみえてきます。罪の中に生きる人間が、信仰的にいつも目覚めていることはできません。どうしても徴税人と声をそろえて「神様、罪人と憐れんでください」と祈らざるを得ないのです。そういうわたしたちだからこそ、イエス様は「だから目を覚ましていなさい」と呼びかけ、それだけでなくわたしたちを義としてくださるのです。いつも目を覚ましていることができないわたしたちですが、イエス様が「してくださる」のです。イエスさまにしていただいているのです。自分の力ではできませんが、イエスさまがわたしたちのために、確かに救いを成し遂げてくださったのです。 先ほど「完成に向かって生きること」が私たちの人生だということを言いました。もっと正確にいうなら、主イエス様が、わたしたちの人生を完成してくださるのです。完成させてくださる主とともに生きて、主のご用に励みます。そして用いられたことを喜ぶのです。そうした体験を積み重ねが目を覚まして生きることです。もちろんいつもそれがうまくいくわけではありません。御心にそわなかったら、「主よ、憐れんでください」と悔い改めながら生きること、それが目を覚まして生きることです。それが私たちにできる油の備えです。行い、祈り、悔い改め、この体験ひとつひとつを生涯かけて積み上げていくとき、わたしたちの人生は完成へと導かれるのです。

 

11月15日 家庭料理クラブの報告

ジャガイモのクッコ秋晴れの中、家庭料理クラブは、オーストラりアからのお客様も参加して
「ジャガイモのクッコ」作りました。

最初にお祈りをして、料理クラブは始まりました。

シンプルな材料ですが、計量から、生地作り、ジャガイモのクッコジャガイモの皮むきと作業が進みます、
沢山の参加者が、牧師館のテーブルを囲み、
日本語やフィンランドに留学されていた方のフィンランド語、
そしてオーストラリア人のご夫妻の英語に、
多くの参加者が英語でお話しする、
とてもにぎやかな会になりました。

ジャガイモの皮を包丁でむく作業に、驚かれたり、
クッコを焼く時間、パイヴィジャガイモのクッコ先生からクッコにまつわるお話を聞かせていただいたり、
オーストラリアの食べ物のお話など、話題もにぎやかでした。

焼き上がったクッコは、アツアツを切り分け、美味しく食べました。

 

ジャガイモのクッコ参加の皆さま、クッコ作りから、きれいに後片付けまでお疲れさまでした、そして、有難うございました。

次回12月13日(土)の家庭料理クラブは
「ピパルカック」と「ヨウルトルッテゥ」を予定しています。