説教「使徒の伝統に立たずしてキリスト信仰は立たず」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書16章13~20節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所はとても難しいです。一回読んでなんとなくわかった感じになっても、それで油断してはいけません。次のような疑問点やどう理解してよいかわからない点は、皆さまはお気づきになられたでしょうか?

まず、イエス様が弟子たちに、人々は「人の子」を誰だと考えているかと尋ねるところです。「人の子」とは、旧約聖書ダニエル書7章でダニエルがみた預言の幻の中に登場します。今のこの世が終わる時、神の国が到来し、それを統治する主体です。イエス様は、この「人の子」が誰かということについて、当時の人々の見解を弟子たちに質問するのです。弟子たちの答えは、「人の子」を洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、旧約の預言者エリヤだとかエレミアだとか言う人もいる、また他の預言者の名をあげる人もいる、というものでした。このように、「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、イエス様は今度は、では弟子たちはイエス様のことを誰だと考えるのか、と尋ねます。質問が、「人の子」についての人々の見解から、イエス様ご自身についての弟子たちの見解にかわるのです。これは、少し飛躍がすぎないでしょうか?「人の子」について、人々はああ思っている、こう思っていると答えた後だから、続く質問としては、では、弟子のお前たちは「人の子」をどう考えるか、という方が自然な流れではないでしょうか?イエス様の二つの質問 - 「人の子」についての人々の見解とイエス様についての弟子たちの見解 - 一体これらは、どうつながっているのでしょうか?

 もう一つ理解に苦しむ点は、イエス様が弟子たちに自分がメシアであることを人々に話してはならないと禁じたことです。メシアとは、ヘブライ語の「油を注がれて聖別された者משיח」という意味です。旧約聖書では神から特別な任務を与えられた者をさし、イスラエルの歴代の王が代表的な例です。そういうわけで、油注がれた者משיחは、イスラエル民族の現実の王様の印でした。これが、バビロン捕囚の後になると次第に、ダビデ王の子孫で将来イスラエル王国を再建する待望の王をさすようになります。さらに、紀元前3,2世紀頃からユダヤ教社会のなかで、この世の終わりとその後に来る新しい世ということに関心が高まりだしました。そうした時、メシアとは、終末の時に現れて、信仰を守って生き抜いた者たちを苦難から救い出して、死から復活した者とあわせて一緒に新しい世に迎え入れる救世主と考えられるようになります。(ペトロが「あなたはメシアです」と答えた時、それは、こうした終末の救世主を意味していたのか、それともイスラエル王国を再建するダビデ家系の王を意味していたのか、これは一つ興味深い質問となりますが、今は立ち入らないでおきます。)

どちらをとるにしても、なぜイエス様は、メシアであることを人々に話してはならないと命じられたのか?無数の奇跡の業を行ったことは既に多くの人たちに知れ渡っているし、その教えは神から授かったとしか言いようがないくらいの権威をもっていたことも誰の目にも明らかだった。それなのに、なぜズバリ、あの方こそメシアだ、と公に言ってはならないのか?

 三つの目の疑問として、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えた時、イエス様は、そのことをお前にわかるようにしたのは神である、と言って、ペトロを教会の基にするとか、彼に天の御国の鍵を渡すとか言われます。イエス様がメシアであることを神にわからせてもらって、なお且つ将来形成されるキリスト教会の中心人物にしてやる、というようなことを言っている。ペトロにそれほどまでの権威を与えるというのはどういうことなのか、という疑問です。

 四つ目の疑問は、天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ」、「地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことです。この地上でつなぐこと、解くこととは一体何を意味するのか?

他にも細かい点でいろいろな疑問がでてくると思いますが、本日の説教ではとりあえず以上述べた4つの大きな疑問点に絞って、それらの解明に努めていきたいと思います。これらを解明することで、本日の福音書の箇所が今日を生きる私たちに何を教えているのかを明らかにしていきたいと思います。

 

2.まず、最初の疑問点。イエス様が「人の子」についての人々の見解を尋ねたと思いきや、今度はイエス様自身についての弟子たちの見解を質問したのはどういうことか?これを解明する重要な鍵は、「人の子」とは何かということを明らかにすることです。ところが実は、「人の子」とは何かということは、当時のユダヤ民族にとっても、また現代の旧約聖書学界にとってもやっかいな問題で、それを一礼拝の説教で説明することはほとんど不可能です。大ざっぱで荒っぽい説明になることを承知で話を進めていきます。

初めにも触れましたように、「人の子」はダニエル書の7章に登場します。この世の終末の時、ある強大な国家が「日の老いたる者」に滅ぼされて、そこで「人の子のような者」が登場します。「日の老いたる者」とは、原語(アラム語のעתיק יומין)の意味からすれば「年齢を無限に重ねた者」、すなわち天地創造の神を指します。さて、「人の子」は、この神から王権と権威を授けられて、終末後に現れる神の国の統治者になります。これがダニエル書の預言です。

紀元前2世紀半ば頃からイエス様が登場するまでの時代に、パレスチナのユダヤ教社会の中で、「人の子」のことを新しい世に登場する王とか、ずばりメシア救世主とみなす思想が現れます。他方で、本日の箇所が示すように、イエス様の時代の人々は、「人の子」を洗礼者ヨハネとかエリヤとかエレミアとか迫害を受けた預言者たちと見なしていました。つまり、迫害を受けた預言者の誰かがこの世の終わりの時に再び現れて、新しい世の神の国の指導者として君臨するというイメージを抱いていたのです。

このように当時の人々が「人の子」のことを、迫害を受けた者と考えていたとすれば、イエス様も十字架の受難を受けたのだから、名だたる預言者リストにイエス様を付け加えてもいいではないか、と思われます。しかし、時はまだ、イエス様の十字架の出来事が起きる前のことです。誰もそんなことが起きるなどとは予想もしていなかったので、それは無理です。イエス様は、人々が「人の子」の正体に自分を含めていないことがわかりました。それで弟子たちに、それではお前たちは私のことを誰だと思うかと尋ねました。イエス様は、自分に降りかかる受難を知っていいました、つまり自分が「人の子」であると知っていて、それで弟子たちに自分を誰だと思うかと聞かれたのです。しかし、イエス様の受難をまだ見ていない弟子たちにとって、彼を「人の子」とみなすのは無理でした。以上からわかるように、イエス様の一見結びつかない二つの質問は実は、「人の子」を主題にしているという点で、結びついているのです。

ペトロは、イエス様のことを「人の子」と答えるかわりに、メシア救世主、生ける神の子である、と答えました。イエス様はまさしく「人の子」であると同時に、メシアであり神の子でもあるので、ペトロの答えは間違っていません。興味深いことに、本日の箇所に続く21節から23節にかけて、イエス様はまさに自分の受難について預言されるのです。つまり、迫害を受けるという意味で、自分は「人の子」でもあると明らかにされるのです。「人の子」とは誰かという最初の質問の答えをここで示すのです。

さらに、これに続いて24節から28節にかけて、イエス様は永遠の命に入れるための条件について教えます。その条件とは、イエス様を救い主と信じる信仰です。その信仰を守り通した者は、たとえ信仰のゆえに命を落とすことがあっても、復活の命を与えられて永遠に生きられるようになる(25節)。人間は死に及んで誰も命を取り戻すための代価は支払えないが、イエス様を救い主と信じる信仰で新しい永遠の命に入ることができる(26節)。これに続いて、「人の子」が天使と共に到来する、と言われていますが(27節)、今の世が新しい世にとってかわる時、すなわち復活の時、「人の子」であるイエス様が再臨して、信仰を守った者たちと復活した者たちを集めて、新しい国、天の御国の王として君臨するということであります。

 以上から、マタイ16章の13節から28節までをひとまとまりにして読むと、イエス様は、十字架と復活の出来事をまだ目にしていない弟子たちに、「人の子」とメシアの意味を明確にし、加えて自分がそれであることを教えたということが明らかになります。実際、13節から28節までの記述は、イエス様一行がフィリポ・カイサリア地方に行った時の出来事で、もともとひとまとまりになっているところです。それで、本日の箇所のように細切れにしないでひとまとまりにして読んだ方が、意味がわかってくるのであります。

 

3.本日の箇所の二番目の疑問点は、なぜイエス様は自分がメシアであることを公にしてはならないと命じたかということです。先ほど、イエス様の時代のユダヤ教社会ではメシアについて、二つの思潮、現世的で民族的な英雄として考える思潮と現世から永遠の命の世界へ橋渡しをする救世主と考える思潮、があると申しました。イエス様は確実に後者の救世主だったのですが、十字架と復活の出来事が起きる前は、弟子たちもイエス様をどこまで救世主として理解していたか、むしろ現世的民族的英雄観が強かったのではないかと思わせるところがあります。弟子たちにしてそうでしたから、イエス様を歓呼で迎えた群衆はなおさらそうだったでしょう。

そのようなメシア理解がされていた当時のユダヤ教社会において、まだ十字架と復活の出来事が起きる前に、この方はメシアだと広めたらどうなるでしょうか?現世的な民族的英雄として理解されれば、ローマ帝国の支配から脱したい愛国的ユダヤ人は熱狂するでしょう。しかし、当局は彼を危険な反乱者として断固たる措置をとらなければならなくなるでしょう。他方で、救世主ということを前面に打ち出せばどうなるか?ユダヤ教の指導者たちはそれを神への冒涜と受け取り、やはり抹殺しなければならないということになるでしょう。イエス様に対する疑念は既に高まっていました。もし彼に対する迫害がもっと早期に起きてしまったら、エルサレムを舞台にした十字架と復活の出来事は、実際に起きたように起きることができなくなってしまいます。ヨハネ福音書の中に、イエス様が群衆の前で公然と教えを宣べていて、彼を逮捕するまたとない機会だったにもかかわらず、誰も彼に手を下さなかったという不思議な場面があります。それをヨハネは「時がまだ来ていなかったからだ」と説明します(7章30節、8章20節)。そして、あの運命的な過越祭の直前、エルサレムに入城したイエス様は、「人の子が栄光を受けるときが来た」と自ら述べたのです(ヨハネ12章23節)。時が来るまでは、イエス様は無傷でいなければならなかったのです。

イエス様はまさに、人間を罪の支配下から贖い出すための犠牲の生け贄としてエルサレムに入られました。最後の審判をつかさどる天地創造の神に捧げられる無傷かつ完璧な生贄として入られたのです。そういうわけで、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、イエス様について正確なことを言うと、エルサレムで実現すべき贖いの業を妨げてしまう危険があったのです。イエス様がメシアであることを公にしてはならないと命じたことは、このような背景を考えればよいと思います。もちろん、十字架と復活の出来事の後は逆に、イエス様をメシアであると公けにしてよくなったのです。否、公けにしなければならなくなったのです。

 

4.三つの目の疑問に進みましょう。ペトロは、イエス様がメシアであることを神にわからせてもらいました。それで、なお且つ将来誕生するキリスト教会の中心人物にしてやる、とまで言われました。どうしてペトロにそれほどまでして権威を与えるのでしょうか?

 この問いの答えの鍵は、17節のイエス様の言葉にあります。イエス様がメシア、生ける神の子であるとペトロに現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ギリシャ語の原文を忠実にみると、「お前に明らかにしたのは血と肉ではない。私の天の父なのだ」です。「人間」ではなくて「血と肉」σαρξ και αιμαと言っています。この「血と肉」というのは人間を意味する熟語なので、日本語訳のように言っても間違いではないのですが、ただ、それだと、誰かがペトロに教えるかわりに神が教えてくれた、という意味にとられてしまいます。ここはそういう意味ではありません。神から霊的な影響力を及ぼされてそれに服さないと人間は単なる血と肉の塊にとどまり、それでは人間はイエス様の正体を理解できない、ということです。人間は神から注がれる霊的な影響力に服さない限り、イエス様の正体はわからない、ということであります。

ペトロがイエス様のことを、メシアです、生ける神の子です、と言った時、彼は神からの霊的な影響力に服していたことになります。ただし、この影響力に服することはまだ決定的ではなかったようです。皆さんもご存知のように、ペトロはイエス様が十字架に掛けられる前に主を見捨てて逃げてしまいました。しかし、十字架と復活の出来事の後、全てが一変しました。霊的な影響力に最終的に服することは聖霊降臨の時に実現しました。それ以後は、ペトロも他の使徒たちも、どんな迫害にも屈せずに、イエス様こそ神の子、救い主メシア、将来再臨する人の子であると公けに宣べ伝え始めたのです。そういうわけで、十字架と復活の出来事の前に、ペトロがイエス様のことをメシア、生ける神の子と言い表した時は、霊的な影響力に服することの走りだったと言うことができます。

十字架と復活の出来事の後、特に聖霊降臨の後、人間が神からの霊的な影響力に服するというのはどういうことかということを見ていきます。神は最初の人間アダムとエヴァの時の堕罪の出来事以来、人間と神との関係が壊れてしまったことを深く悲しみ、これを回復させようと考えた。つまり、人間がこの世の人生を神との結びつきの中で歩めるようにしよう、絶えず神から良い導きと守りを得られるようにしよう、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手を持って御許に引き上げて人間が永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、と決めた。それを実現するために、ひとり子イエス様をこの世に送った。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪と不従順をあたかもイエス様が全ての張本人であるかのようにして彼に全部背負わせて、罪からくる罰を全部イエス様に身代わりに受けさせて十字架の上で死なせた。しかしそこで全ては終わらず、今度は神はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命の扉を人間に開かれた。このように人間の救いは、神がイエス様を用いて全部実現してしまった。神はこの実現済みの救いをどうぞ受け取りなさいと言って人間に提供している。もし人間が、これらのことは自分自身のためになされたのだとわかって、それでイエス様は真に自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、この実現済みの救いを受け取ったことになるのです。これが、神の霊的な影響力に服するということであります。

イエス様がペトロを基にして教会を建てると言ったのは、どういうことか?それは、教会とはまさに、霊的な影響力に服して最早単なる血と肉の塊だけではなくなった者たちから形成されるもの、ということです。これは洗礼を受けた人たちを指しますが、まだ洗礼を受けていないが礼拝に参加する人たちも教会の形成に関係があります。そうした人たちは、本日の箇所のペトロのように、まだ洗礼は受けていないが神からの霊的な影響力が及ぼし始まっていて、イエス様がただ者ではないとわかり始めて、教会に足を運ぶようになった人たちです。このように、ペトロを基にして教会を建てると言うのは、ペトロという特定の個人を基にするということではなくて、ペトロに起こったような、神からの霊的な影響力に服するということが土台になると言っているのであります。

このことがわかると、イエス様の次の言葉「陰府の力もこれ(教会)に対抗できない」の意味もわかってきます。この言葉もギリシャ語原文に忠実にみると「陰府の門も教会を圧倒することはできない」という意味です。日本語の訳で「力」と言っているのは「門」πυλαι(複数形)です。どういうことかと言うと、ルターも教えていますが、人間は死ぬと復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠る。そういう安置所が陰府ということになります。人間は死んで陰府の門を一度くぐってしまうと門は固く閉ざされ、もうこちら側には戻っては来れません。その意味でこの門は何ものをも圧倒する力を持っている。ところが、イエス様を自分の救い主と信じる者は、復活の日に復活の命と体を得られて神のもとに引き上げられる。つまり、固く閉ざされた門をぶち破るようにして出てくるのです。教会とはそういう信仰者から構成されるので、それで陰府の門は教会を圧倒することはできない、ということになるのです。

 

5.最後に四つ目の疑問をみてみましょう。天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ」、「地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことです。この地上でつなぐこと、解くこととは一体何を意味するのでしょうか?まず「地上で解くこと」からみていくと、これはギリシャ語の原文では「地上で許可すること」(λυω背景にアラム語のשרא)になります。何を許可するのかというと、天の御国に入れてもらうことです。ペトロが地上で天の御国への入国を認めるとした者は天の方でもそれに倣うということです。「地上でつなぐ」とはギリシャ語の原文を忠実にみると、「地上で縛りつける、禁止する」という意味で(δεω背景にアラム語のאסר)、これは「地上で許可する」ことの反対ですので、天の御国への入国を許可しないということになります。つまり、ペトロが地上で天の御国への入国は認めないとした者は天の側でもそれに倣うということです。これで、ペトロに天の御国の鍵が渡されたことの意味がはっきりするのであります。

しかしながら、ここで注意しなければならないのは、ペトロにそのような大事な鍵が渡されたのは、これもペトロという特定の個人に渡されたということではなくて、神からの霊的な影響力に服する者として与えられたということです。本日の出来事のところで、ペトロは、最終的ではありませんでしたが、神からの霊的な影響力に服しました。最終的に服することになったのは、十字架と復活の後の聖霊降臨の時ですが、それは他の使徒たちも皆一緒だったことを忘れてはなりません。彼らも皆、一緒に神からの霊的な影響力に服することになったのです。従って、イエス様がペトロを教会の基にするとか、天の御国の鍵を彼に渡すと言ったからと言って、他の使徒たちには意味がないということにはなりません。マルコ3章14節に記されているように、12使徒というのはイエス様とたえず共にいるようにと召された者たちです。なぜ、たえず共にいるのかというと、イエス様の教えと業と出来事をつぶさに間近に見聞きする目撃者となり、それを後に公に証言するためでした。裏切ったユダの後に、マティアが使徒として補充されましたが、その選出の条件は、イエス様が洗礼を受けた時から天に上げられた日まで、いつも共にいて主の復活の証人になれる人ということでした(使徒言行録1章12~26節)。実に使徒たちは皆、イエス様に関して対等な証人なのであります。

そういうわけで、ペトロに権限が与えられたと言っても、イエス様の名をかりてなんでも好き勝手に決めることはできません。他に11人の対等な目撃者が目を光らせているので、自分の決めることはちゃんと主の教えと意志に従ったものでなければなりません。他の11人はチェック機能を持っていたでしょう。そうなるとペトロの権限というものは教会の独裁者などでは全くなく、責任ある代表者というのが正確な任務だったと言えます。そういうわけで、目撃者、証言者として特別な地位にある使徒たちは、また目撃者、証言者としてお互いに対等な地位にあったのです。

ところで、使徒たちの命を賭した証言を聞いて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける人が次々と出始めました。使徒たちの証言は、新しい信仰者によって受け継がれていきました。最初は口伝えが主で、次第に書き記されるようになりました。そうした目撃録・証言録の伝承の集大成として福音書が誕生しました。使徒たちはまた、キリスト信仰そのものについて、またキリスト信仰者の生き方についていろいろ教えました。それが使徒書簡になりました。旧約聖書はと言えば、それは使徒たちにとって、イエス様が神の子、メシア、「人の子」であることを理解したり確信できるために必要な書物でした。そういうわけで、福音書、使徒書簡、旧約聖書から構成される聖書という大書物は、文字通り使徒の伝統の結晶なのであります。そのような聖書を開いて自分で読む時、また誰か他の人が読んだり解き明かしをするのを聞く時、開いた聖書から神の霊的な影響力がその人に対して働き始めます。私たち信仰者は洗礼を通して神の霊的な影響力に服することになった者たちであります。しかし、この世にはこの影響力からも私たちを引き裂こうとする力に満ち満ちています。兄弟姉妹の皆さん、使徒の伝統の結晶である聖書を絶えず繙くことを怠らないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


聖霊降臨後第14主日の聖書日課 出エジプト6章2~8節、ローマ12章1~8節、マタイによる福音書16章13~20節 

説教「主よ、あわれんで下さい」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書15章21節~28節

今日の聖書は、表題にありますように「カナンの女の信仰」ということです。 ユダヤの女性が登場するのではなくて、カナンの女であります。

21節を見ますと「イエスはそこを立ち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、その地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ、とあります。

イエス様は、ユダヤ地方での福音宣教で、パリサイ人や律法学者といった人々との戦いに決裂して、弟子たちをつれてガリラヤよりずーっと北にあります、ツロとシドンの地方に退かれたのでした。 イエス様の生涯において、この旅が、どんな意図をもってなされたか、これは充分意味のあることであったでしょう。

これまでイエス様は、ガリラヤ湖の畔を中心に病気の人々を癒したり、多くの人々にはパンを施したり、といった救いの活動をなさってこられたのであります。しかし、イエス様にとっては、こうした救援活動をすることが、究極の目的ではありませんでした。 一方、北方にあるツロやシドンは、悪名高い、偶像崇拝の町でありました。どうしてイエス様は、わざわざこの悪名高い異邦人の町へ旅されたのでしょうか。

ツロの町については、旧約聖書イザヤ書23章1~7節に出てきます。又エゼキエル書26章から28章にかけて出てまいります。或いはヨエル書4章4~8節等にも記されています。 そこでは、ツロとシドンは滅ぼされるという予言です。 シドンについては、北イスラエルの王アハブの時代に、アハブ王がシドンの王女イゼベルを妃として迎えたために、この地のバアル崇拝となり、イスラエルは大きな禍いをもたらした、という事情が起こりました。これは、列王記上16章31節を見ますと分かります。 もっと昔にさかのぼって、士師時代にイスラエルの民は、シドンの神々に仕えた、という記述があります(士師記10章6節)。 そういう異邦人の地へ行かれたその訳は、結局のところわかりません。神からの御示しによる、としか言いようがないのかも知れません。 少なくとも、この地域に救いをもたらすためではなかった(マルコ7章24節)。

イエス様は群衆とはなれて、弟子たちと静かに、神の御旨の本質を深く、語りたかったのではないでしょうか。 間もなく、自分はこの世を去っていく。残った弟子たちに、福音宣教の重大な課題をしっかりと伝え、将来に備えての霊的訓練を、じっくりしておきたかったのではないでしょうか。 イエス様はここにおいて、弟子たちとの霊的交わりの重要さを、深く感じておられるのであります。

又、別の面から見ますと、イエス様の十字架と復活の後、昇天され、弟子たちはこの重大なキリストの福音を、西の方面へ、エジプトへと広められ、又、東の方面には、エラム、メソポタミヤといった世界へ、広められていったのであります。けれども主流としては、何と言っても、北の方面へと進められていったのです。 北の地、異邦人の地へと教会は広められて、アンテオケを中心に小アジアに教会は伝道され、時にパウロは主に、異邦人伝道につくのでありますが、このアンテオケを基地にして三回の伝道旅行をし、エルサレムへの往復も、彼らはツロとシドンの地方を通過したのでありました。こうしてみるとこの地方は、初代福音宣教の前進基地として、重要な役割を担ったことになります。

イエス様が、そういう時代の先の、歴史的事実を予想して、このツロとシドンの地方へ来られたのか、それはむずかしいところで、ただ、神様の御計画のうちになっていったのであります。 例えば、私たちのこのスオミ教会が、遠いフィンランドの教会の方々の、熱い伝道の思いをこめて、なぜ、東中野のこの地に宣教師の先生方を送って下さって、福音伝道がなさているのか、まことに不思議なことであります。 そのことが、やがて将来、何十年か何百年の後に、どのような重要な意味をもつ教会となっていくのか、私たちにはわかりません。神様の御経綸の中に成り行くことであります。人の目には隠されている。 しかし、確かにその布石はすでに打たれている、後の歴史的事実を見ます時、私たちは深い驚きを覚えるのであります。

イエス様御自身としては今、この異邦人の地ツロとシドンという地方へ、弟子たちをつれてこられ、大切なひとときをすごそうとされているわけであります。

ところがここに、思いもかけず一人のカナンの女が登場して参ります。そして、イエス様に助けを訴えるのであります。 「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、叫んでくるのです。 娘が悪霊に、ひどく苦しめられています。助けて下さい、と叫び続けます。恐らく重度の精神障害を負っていたのでしょう。 彼女の夫については、何も記されていないところからみると、この障害の子供のため、離別されたと思われます。 これからどう生きたらいいのか、将来の不安と、困窮のどん底で、彼女はイエス様の中に、神のみ力を見ていますので、その救いを求めて必死に叫びをあげているのです。 彼女は異邦人でありますが、イエス様に向かって「ダビデの子、主よ」とよびかけています。私たちは、彼女の叫びに驚かれます。

神学者シュラッターの解説を見ますと、イエスを呼び止めた異邦人の女は、イエスに「ダビデの子」という、王としての名前で呼んだ。 ユダヤ人からは、そうたびたび受け入れられなかった名であります。 彼女は、たた単に、イエスの偉大な業をなさることを聞いていったにちがいない。イエスこそ、自分の娘を助けることができるお方と、見たのである。 シュラッターの解説です。

待望の人が、今ここに現われたと、彼女は信じたことでしょう。 しかしイエス様は、彼女の叫びに一言もお答えにならなかった。弟子たちは、彼女の必死の叫びにうるさくて、ついにイエス様に願って言った。「彼女を追い払って下さい。叫びながらついて来ます」。 この時の弟子たちの態度の中には、異邦人に対する差別と、女を軽蔑するまなこで見ていることが、露骨に出ています。

弟子たちの求めに応じて、イエス様はこの女性に語られた。 「わたしはただ、イスラエルの家の、失われた羊にだけ遣わされたのだ」。 このことはマタイ10章6節で、12人の弟子を電動に派遣された時にも、言っておられたことでした。 「異邦人の道に行ってはならない。むしろイスラエルの家の、失われた羊のところへ行きなさい」。 イエス様の目は、しっかりと神の委託に目を向けておられるのです。それでも、なお、彼女はイエス様の前にひれ伏しまして「主よ、どうかお助け下さい」と言っています。 彼女は、イエス様の言葉でもそこを去らなかった。それどころか、遠くから叫ぶより、もっと大胆に近寄って来て、全身全霊を込めてイエス様の答えが、彼女のねがいを満たしてくれるように望んだのです。

こうしてこの場面は、以外な展開を見ることになります。 イエス様にとっては、彼女に強要されて、御自分の道を脇に追いやることは、できない。26節で、イエスは応えて言われた。「子供たちのパンを取って、小犬にやってはならない」。 イエス様の本来の使命は、まず、イスラエルの救いのため、全力を挙げねばならない。異邦人にまで救いはやれない、と。 それを、子供とパンをもって、たとえて言われた。

本来、子供たちに与えるパンを、小犬にはやれない、とカナンの女を小犬よばわりにされて、軽蔑のひびきすらする言葉です。 しかし、カナンの女はなおも、切実な願いを込めてイエス様に迫りました。彼女は、イエス様のそっけない返事に反発することなく、心を低くして、まずイエス様の言葉を受け止めています。 その上になお、願いを重ねていく必死の姿に、私たちは心うたれます。 そうして彼女な言っています。「主よ、そうです。しかし小犬でも、その主人の食卓から落ちるパンくずは、いただくのです」。

そうです。主人は子供にはパンを与えます。でも、主人の食卓から落ちるパンくずは、いただけるのでしょう、と、彼女は言っているのです。 私たちは、彼女のこの深い、叡智に裏付けられた熱い言葉に、胸打たれます。 もし子供が飢えて、小犬が満腹するというのなら、あってはならないことでしょう。しかし、子供も充分に与えられ、落ちたパンくずで小犬も食べられるなら、救われるのです。 彼女は、イエス様の御力がユダヤ人にも、異邦人にも、すべての者のために、豊かに溢れるように、と信じたのです。彼女は、このお方なら、イスラエルの民のために仕えると共に、異邦人を助け、イスラエルの約束を満たすと共に、異邦人の女の願いも聞きとどける、という、両方の事が同時におできになる、と信じたのであります。

イエスは彼女に言われた。「女よ、あなたの信仰は見上げたものだ。あなたの願うとおりになれ」。すると彼女の娘は、その時癒された。 イエス様は、彼女の信仰を、見上げたものだ」と言われます。 この異邦人の女は教養もなく、聖書もない、神学もなかったが、イスラエルの教師たちが分からない謎を、解くことができたのであります。

聖書には、<神は御自分の御国のために、イスラエルをお造りになったが、それと同時に、その栄光は地上に満ち溢れる>と、記されている。 この二つが、どのようにして一緒に見出されるようになるか、将来の大きな謎であります。 しかし、神様の御旨は必ず成っていくのであります。 アーメン

 

  聖霊降臨後第13主日  2014年9月7(日) 

説教「イエス様の励まし言葉と強い信仰」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書14章22-33節

 By Jojojoe (Own work) [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0) or GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)], via Wikimedia Commons私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.イエス様が水の上を歩いてきたという本日の福音書の箇所は、5千人以上の人たちをわずかな食糧で満腹させた奇跡のすぐ後に続く、奇跡の出来事です。本日の説教では、この出来事の際、イエス様が言われた二つの言葉に焦点をあてて、私たちのキリスト教信仰とはいかなるものか、またいかにあるべきものかということについて考えてみたいと思います。

 二つの言葉の最初のものは、水の上を歩いてやってきたイエス様を幽霊だと勘違いしてパニックに陥った弟子たちにイエス様が言われた言葉「安心しなさい」です。これは、ギリシャ語原文で、θαρσειτεという動詞ですが、「気を強く持ちなさい」とか「しっかりしなさい」とか「元気を出しなさい」という励ましの言葉、元気づけの言葉です。イエス様は、この同じ言葉を他の箇所でも使っています。ひとつはマタイ9章2節で、身体が麻痺して寝たきり状態の人を人々がイエス様のもとに運んできたとき、イエス様は寝たきりの人に(日本語では)「元気をだしなさい」と言いますが、これが同じ動詞θαρσειなのです。つまり「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」と言われたのです。もうひとつは、マタイ9章22節で、12年間出血状態が続く女性がこうすれば治ると信じて、イエス様の服に触れた時、イエス様は彼女に(日本語では)「元気になりなさい」と言いますが、これも同じ動詞θαρσει「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気をだしなさい」です。不治の病で苦しむ人や恐怖におびえる人に「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気をだしなさい」というのはどういうことか。励ましの言葉、元気づけの言葉としてちゃんと働いているのか。実は、これが驚くべき仕方で働いているのです。このことを後ほどみてみましょう。

二つ目の重要な言葉は、ペトロがいったんは水の上を歩けたのに、大風に気づくやいなや溺れ始め、イエス様が彼を引き上げた時に言った言葉「信仰の薄い者よ」です。これはギリシャ語で、ολιγοπιστοςといいますが、文字通り「信仰の弱い者」「信仰の薄い者」です。同じ言葉は、イエス様の山上の垂訓で野の花や空の鳥を指して「思い煩うな」と教えられるところで使われます。「何を着ようか、何を食べようか」ということに心が向いてしまう人たちに、「信仰の薄い者」と言って叱咤し、まず神の国と神の義を求めよと教えます(マタイ6章30節)。それでは、何が薄い信仰で、何が薄くない、強い信仰でしょうか。ペトロは結局は溺れてしまったが、それでもある距離は水の上を歩くことができた。しかし主に言わせれば「信仰の薄い者」であります。私たちだったら、ある距離はおろか最初の一歩でもう沈んでしまうでしょう。そうしたら信仰の薄さはどうしようもないほどになってしまいます。キリスト信仰者の目標は、水の上を歩き通せるくらいの強い信仰を目指すことでしょうか。それができないと、信仰が薄いのだと言って恥じていなければならないのでしょうか。実は、全くそんなことではないのです。それなら強い信仰とは本当は何か?どうしたら、それを持つことができるのか?

 そういうわけで、イエス様の「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」という励ましの言葉と、「信仰の薄い者」という言葉の意味について、今日はみていこうと思います。

 

2.まず、その前に少し脇道にそれますが、本日の箇所の出来事の情景を詳しく見てみます。情景をできるだけ正確に把握することは、イエス様の言葉の意味を的確に理解する上で重要です。

 5千人以上の人たちの空腹を満たした後、イエス様は弟子たちに、舟に乗って先にガリラヤ湖の対岸に行っていなさい、と命じます。弟子たちは出発し、イエス様は群衆を解散させた後、山に登って一人で祈りを捧げます。時刻はすっかりもう夜だったでしょう。そうしているうちに、いつしか強い風が湖地方に吹き始めます。弟子たちが乗った舟は、向かい風のもたらす波に進行を妨げられて悪戦苦闘している。新共同訳によると舟は陸から「何スタディオン」離れていたとありますが、ギリシャ語原文では「たくさんのスタディオン」です。2,3スタディオン程度ではない。1スタディオンは約192メートルということですので、仮に10スタディオンであったとすれば大体2キロ程離れているということになります。

その時、山を下りられたイエス様が、湖の上を歩いて舟に接近します。何者かが水の上を歩いて近づいてくるのを弟子たちが確認したのが、「夜が明けるころ」(25節)。これもギリシャ語原文では「第4夜警時」、つまり、ローマ帝国の軍隊の夜の時間の数え方で、日の入りから日の出までを4つの時間帯にわけた最後の時間帯です。日の出を仮に6時とすると第4夜警時は、午前3時から6時の間ということになります。案外、丑三つ時に近かったのかもしれません。

 弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえたとありますが、おびえたと言うよりは、ギリシャ語では「驚愕した」という意味の動詞εταραχθησανで、強いパニック状態に陥ったことを指しています。

 さて、水の上を歩いて来た者が幽霊でなくイエス様とわかって、ホッとした時、ペトロがイエス様に命じさせて水の上に乗り出します。「イエスの方に進んだ」(29節)とありますが、これもギリシャ語原文に即せば、イエス様のところにほぼ到達したと解することができます。実際、ペトロが溺れ始めた時にイエス様は手を差し出して引き上げたのだから、それくらい近くまで行ったことは明らかです。それでは、ペトロが水の上を歩いた距離がどれくらいだったか推測できるでしょうか?水の上に立っているイエス様と舟の間の距離はどれくらいだったかというと、少なくとも夜の暗さの中でも人間が近づいてくるのが確認でき、かつ声も聴き分けられる位の距離ということになります。風と波があったことを考えれば、そんなに長い距離ではなかったでしょう。それでも、仮に50メートル位としても、ペトロはその大半を歩いたことになります。しかも、大風と波はまだ止んでいなかったので、ペトロはその中を歩いたことになります。溺れかけたペトロをイエス様は支えるようにしてか、または抱きかかえるようにしてかして舟に乗り込むと、風は止みました(32節)。以上が、本日の箇所の出来事の情景把握です。

 

3.それでは、本日の箇所の重要な言葉をみてみましょう。まず、「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」

「元気を出しなさい」を意味する言葉θαρσειです。

 初めに申しましたように、この言葉は、元気づけ、励ましの言葉です。日本語では、元気づけ、励ましの言葉は、「がんばれ」が一般的です。東日本大震災後、「がんばれ」をはじめ数多くの励まし言葉が使われてきました。電車やバスやタクシーなど公共の交通機関にも「がんばろう、日本!」のステッカーが貼られていました。ところで、当時話題になったことの一つに、この「がんばれ」という言葉は、被災者の人たちにはかえって重荷となって逆効果になる危険があるということでした。それを聞いて私は、ありえることだと思いました。というのも、「がんばれ」は、スポーツや受験勉強のように、優勝するとか合格するとか目標や達成の手段がはっきりしているとき、有効な言葉だと思うからです。目標の達成のために練習時間や勉強時間を増やすとか、練習や勉強の内容を高度にしていくとか、自分に負荷を課して、時間と力を投入して取り組み、ひとつひとつ乗り越えていく、そのことが「がんばる」ことでしょう。ところが、被災された人々にとって「がんばる」は何を意味するでしょうか。もちろん家や職場や財産を失った人にとっては、それらを再興することが目標となりましょう。しかし、長い時間と多くの労力をかけて築き上げたものを再興するというのは並大抵のことではありません。中には何十年かかってもやり遂げるという決意をもって取り組む不屈の精神の人もいます。頭が下がる思いです。しかし、皆が皆そういう人ではありません。特に、肉親を失った人たちには、肉親を取り戻すことは目標にはなりえないので、がんばりようがなく、心に空いた穴というものは相当なものだったろうと思います。本当に、励まし、元気づけの言葉はかけてあげなければならないが、どんな言葉をかけてよいのか。元気になってもらいたい以上、空虚な言葉は出したくないし、ましてや重荷に感じるような掛け声は避けなければならないし、その意味で、大震災は、励まし、元気づけの言葉を日本全体で真剣に考えさせた機会だったと言えます。

 さて、イエス様がかけた励まし、元気づけの言葉をみてみましょう。初めに申しましたように、イエス様は、「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」という意味の言葉を三回使っており、二回は不治の病を患っている人に対して、三回目は本日の箇所で、パニック状態に陥った弟子たちに対して、使われました。ここで、イエス様の励まし、元気づけの言葉にはいつも元気づけの根拠が一緒に述べられていることに注目する必要があります。

 まず、マタイ9章の初めでイエス様が全身麻痺の寝たきり状態の人に励ましの言葉をかけた時をみてみます。イエス様はその人とその人を運んできた人たちの信仰、イエス様以外に助けられる方はいないという信仰を見ました。その後でこの励ましの言葉をかけるのですが、それと同時に「お前の罪は赦される」とも述べます(9章2節)。これを聞いた律法学者は、罪を赦せるのは神以外にないのに、この男は自分を神と同等扱いしている、神を冒涜する者だと非難する。これに対してイエス様は、自分が下す罪の赦しの宣言は口先だけの言葉ではない、実際その通りになる力をもった言葉である、そのことを示すために、寝たきりの人に「起き上がれ」と命じます。そして、その人はその通り動き出し普通の身体になります。まさに、イエス様の言葉は口先だけのものではなく、力を持ったものであることが示されたのです。

ここで注意しなければならないのは、イエス様が励まし、元気づけの言葉をかけた時、「病気が治るから元気を出しなさい」と言ったのではないということです。イエス様が言われたことは、「お前の罪は赦されるから元気を出しなさい」ということだったのです。その人の病気が治ったのは、罪の赦しの宣言の後に続くイエス様と律法学者のやりとりの成り行き上のことだったのです。

罪が赦されることが、どうして励まし、元気づけの根拠になるのでしょうか?私たち人間は、最初の人間アダムとエヴァ以来、私たちに命と人生を与えて下さった造り主の神に対する不従順と罪を代々受け継いできました。最初の人間の不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまいました。死ぬということが、人間が罪と不従順を受け継いでいるということのあらわれなのです。人間は、自分の力で死の支配下から脱することができないように、自分の力で罪と不従順を自分から消すことはできません。神はそのような人間を憐れんで、人間がこの世の人生を神との結びつきを持って生きられようにし、この世から死んだ後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に送ったのです。神がイエス様を用いて行ったことは、人間の罪と不従順から生じる罰を人間にではなく、全部身代わりにイエス様に負わせて十字架の上で死なせたのです。さらに、一度死んだイエス様を、今度は復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれたのです。

神がなされたこれらのことを、それはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、その人は神との結びつきを回復して、永遠の命に至る道に置かれて人生を歩むようになります。この世の人生の順境の時にも逆境の時にもたえず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手を差し出して御許に引き上げて下さるのです。まさに、本日の福音書の箇所で、イエス様が水中に沈みだしたペトロに手を差し出して引き上げたようにです。

これらのことは全て、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる人なら、どんな境遇におかれてもそうなるのです。たとえ不治の病に侵されても、です。イエス様が寝たきりの人に「お前の罪は赦される」と言ったのは、病気を治した後ではありません。まだ病気の状態の時に言われたのです。どんな境遇、状況におかれても、イエスを救い主と信じる信仰に生きるお前は永遠の命に至る道にしっかり置かれていると宣される。これが、励まし、元気づけの根拠になっているのです。

同じマタイ9章で、イエス様は12年間出血状態で苦しんでいる女性にも、同じ励まし、元気づけの言葉を同じ仕方でかけます。その時、イエス様は(日本語訳では)「あなたの信仰があなたを救った」(9章22節)と言いますが、ギリシャ語の原文では「あなたの信仰があなたをもう既に救っているのだ」という意味です。この言葉の後で女性は健康になります。つまり、イエス様を救い主と信じた日に遡って女性はもう救われていた、まだ出血状態が続いていた時にもう救われていた、ということなのであります。イエス様を信じて永遠の命に与る者になったことを思い出させることが、励まし、元気づけの根拠になっています。そこまで言われれば、今すぐ病が治るかどうかは、さしあたって焦眉の問題ではなくなり、癒されたとしても何か付け足しのようなものになります。天のみ神が永遠の命に与らせてやると約束した以上、それは揺るがないことだから、その時がいつ来るかは神にお任せしてとりあえず今を生きよう、というような心になっていきます。

イエス様の励まし、元気づけの言葉は本日の福音書の箇所でパニック状態の弟子たちに述べられますが、その時、イエス様は、「ここにいるのは私だ」と言われます。ここでは、イエス様がそばにおられること自体が励まし、元気づけの根拠になっています。私たち人間が神との結びつきをもって永遠の命に与れるために、神が計画されたことを、自分を犠牲にしてまで実現される主がそばにおられる、死の力を無力にして永遠の命に至る道を切り開いて下さった主がそばにおられる、これ以上の励まし、元気づけの根拠はあるでしょうか?

もちろん現代を生きる私たちには、弟子たちのように目に見える形ではイエス様はそばにおられません。しかし、見えない形でイエス様は信じる者のそばにおられます。彼の語った教えと成し遂げた業は聖書に収録されています。彼の到来と神の計画の実現についての預言も聖書に収められています。実に、聖書の御言葉を読み聞きすることを通して、私たちは弟子たちと同じくらいイエス様の近くにいることになるのです。聖書の重要性を侮ってはいけません。またイエス様は、聖餐式の時に私たちを覆うようにいらっしゃり、御自分の血と肉をパンとぶどう酒の形で私たちに与えて下さいます。私たちはそれを摂取するたびに、洗礼の時に始まった主と共に歩む人生の歩みがしっかりしたものになっていきます。さらにイエス様は、私たちの祈りをひとつ残らず、いつも聞きとげ、父なるみ神に執り成して下さいます。まさに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ28章20節)」と約束された通りです。

以上みてきたように、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は、いかなる境遇や状況にあっても、励ましや元気づけの根拠をしっかり持っているのです。日本の人たちも、同じ根拠が持てるよう祈って止みません。

 

4.最後に、もう一つの重要な言葉「信仰の薄い者」について。何が薄い信仰、弱い信仰で、何が強い信仰か、考えてみましょう。

 イエス様の「来なさい」という言葉を聞くや、ペトロは水の上に足を乗せました。情景把握のところで触れましたように、まだ湖は風と波で荒れている最中です。そして、ペトロはイエス様の手の届くところまで到達しました。ところが、「強い風に気づいて怖くなり」(30節)ます。ギリシャ語原文では「強い風を見て怖くなり」です。つまり、その時点までは、「来なさい」と言われたイエス様が前方に見えただけで、周囲を轟轟とどろかせている風や波はペトロの眼中になかったのです。その時ペトロは、足下の水は自分を支えきれないという自然法則の圏外に置かれたのです。ところが、最後になって、それまで見えなかった風と波が目に入った途端、自然法則の圏内に戻ってしまいました。水の上に立っているイエス様ではなくて、風とか波とか人間の五感や理性で把握できるものに目が行ってしまい、そうなると今度は、自分の能力や努力によって水の上に立たなければならなくなります。これは、人間の理性のなせる業です。しかし、自然法則の圏内に置かれていれば、どんなに踏ん張っても力を込めても、沈むものは沈んでしまいます。(もちろん、自然法則の圏内にいながら、別にイエス様を見なくても、人間の努力や能力で達成できることも沢山あります。ただ、それらが神の祝福を受けるものかどうかは別問題ですが。)

ところが、人間が永遠の命に至る道に置かれるというのは、水面歩行の時と同じくらいに人間の能力、努力、理性が成しえないことなのです。加えて、その道をちゃんと歩けているか心配になった時、大丈夫歩けていると安心させてくれることも、また、この世の人生が終わる時に本当に永遠の命に入れてもらえることも全て、人間の能力、努力、理性では成し遂げられないことなのです。まさに、ただひたすらイエス様の方を向いて行くことで、これらのことは成し遂げられるのです。周囲がどんなに荒れ狂った状況で、自分の力は無でしかないと観念するような時、イエス様の方を向いて行くことで、成し遂げられるのです。これが強い信仰です。逆に、どんなに能力や努力や理性が優れた人でも、イエス様を見ていなければ、これらのことは不可能なのであります。これが弱い信仰です。人間が永遠の命に至る道を歩けるかどうかという点からみて、ペテロの水面歩行の成功と失敗は、真に示唆に富んだ出来事です。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

聖霊降臨後第12主日の聖書日課 王上19章1-21節、ローマ11章13-24節、マタイによる福音書14章22-33節

説教:高木 賢宣教師(SLEY)から頂いた「本日の聖書の箇所の説明」を星野哲郎兄が代読いたしました。イザヤ書55章1〜5節、ローマの信徒への手紙9章1〜5節、マタイによる福音書14章13〜21節

8月24日(日曜日)の聖書(使徒書と福音書)の箇所についての説明

「イザヤ書55章1〜5節」、「ローマの信徒への手紙9章1〜5節」、「マタイによる福音書14章13〜21節」

(はじめに)

聖書の訳は原則として口語訳によっています。「ローマの信徒への手紙」および「マタイによる福音書」の説明は、フィンランドで入手可能なルター派の説明書を翻訳したものですが、わかりやすくするために翻訳者(私)の責任で文章に手を加えてあります。これは説教用の文章ではなく、聖日の聖書箇所の学びのための文章ですので、その点はご承知ください。それでは、御言葉によって祝福されたひと時をお過ごしくださいますように。

(高木賢、フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学修士)

 それでははじめに、本日の使徒書である「ローマの信徒への手紙9章1〜5節について説明します。

本日の使徒書の日課の箇所は、キリスト教会とユダヤ民族との関係を扱っている「ローマの信徒への手紙」9〜11章の冒頭部分に当たります。

9〜11章は、私たちに大問題を突きつけます。パウロはユダヤ人として、彼自身もその一員であるユダヤ民族の行く末について述べます。彼は、イスラエルの民が福音を拒絶する有様を実際に自分の目で体験し、深く心を痛めました。考えてみると、これは奇妙な状況でした。罪深い人間を救おうとする神様の歴史への関わりは、神様がこの世を造られた時以来、目に見える形で続いてきました。神様は、御言葉を通して、ユダヤの民に、御自分について知らせる啓示を与え、救いの約束を授けてくださいました。にもかかわらず、ユダヤの民は、その大多数が、キリスト教会の一員になろうとはせず、教会の外側に留まり続けました。これが「異邦人の使徒」パウロにとってどれほど辛いことであったか、すでにこの9章の始めの言葉から感じ取ることができます。パウロは次のように言っています。

「わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。

(ローマの信徒への手紙9章1〜3節)

パウロの親戚や友人たちは、彼の伝える福音に注意を向けようとはしませんでした。現在でも、多くのキリスト信仰者は、自分の親戚や友人に関して、 それと同じこと、すなわち、なぜ彼らは福音を受け入れないのか、を問わずにはいられません。神様が罪深い存在である人間を救ってくださる出来事は、歴史の中で、今この瞬間も起きているし、また、これからも起こり続けます。人間の歴史においてイスラエル民族がどのような役割や意味をもっているかについては、私たちが生きている現代においても、様々な相反する意見が述べられています。そして、「ローマの信徒への手紙の9〜11章で、パウロは、これらの疑問を、感嘆するほかない鮮やかなやり方で、じっくりと掘り下げていきます。この難問に対して真正面から取り組んだ彼は、最も深く暗い場所から、神様の最も偉大な善き御心を見いだします。

9章1〜5節において、パウロは、ユダヤ人をめぐる問題を提示します。福音伝道は、異邦人(つまり、ユダヤ人以外の民族)の間では成果を挙げましたが 、ユダヤ人の間では順調に広がって行きませんでした。パウロにとって、これは辛いことでした。モーセは、不平ばかり言っているイスラエルの民の代わりに自分が見捨てられるように、神様に願い出たことがあります。それは、神様から派遣された預言者として、反抗的な神の民から不平不満の集中砲火を浴びる辛い立場にあったモーセの心情が吐露された瞬間でした。それでは、旧約聖書の「民数記」に記されているその出来事を読みましょう。

「さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。

また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。

マナは、こえんどろの実のようで、色はブドラクの色のようであった。民は歩きまわって、これを集め、ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。夜、宿営の露がおりるとき、マナはそれと共に降った。

モーセは、民が家ごとに、おのおのその天幕の入口で泣くのを聞いた。そこで主は激しく怒られ、またモーセは不快に思った。そして、モーセは主に言った、「あなたはなぜ、しもべに悪い仕打ちをされるのですか。どうしてわたしはあなたの前に恵みを得ないで、このすべての民の重荷を負わされるのですか。わたしがこのすべての民を、はらんだのですか。わたしがこれを生んだのですか。そうではないのに、あなたはなぜわたしに『養い親が乳児を抱くように、彼らをふところに抱いて、あなたが彼らの先祖たちに誓われた地に行け』と言われるのですか。わたしはどこから肉を獲て、このすべての民に与えることができましょうか。彼らは泣いて、『肉を食べさせよ』とわたしに言っているのです。わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。もしわたしがあなたの前に恵みを得ますならば、わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください」。」

(民数記11章1〜15節)

パウロもモーセと同じようなことをここで願いますが、それは実現しませんでした。本来神様の御国に属する民であるはずのユダヤ人にとって、神の御子イエス•キリストが十字架で流された血によって、全世界のすべての人間、(つまり、そこにはユダヤ人も全員含まれます)、のすべての罪を身代わりに引き受けて、義なる神様の御前でその罰をすべて受けてくださった、という福音は、とうてい受け入れられないものでした。そして、この状況は、今日に至るまで変わっていません。ユダヤ人伝道は、現在も許可されている範囲内で行われてはいますが、それでも一年の間にごくわずかのユダヤ人がキリストを信じるようになるのがやっとという状態です。そして、これほどまでに徹底して福音を拒絶する態度は、他の民族では見られない現象です。

 それでは次に、本日の福音書の日課である「マタイによる福音書14章13〜21節について説明します。

14章13節で、「イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。」、とあります。イエス様が耳にした「このこと」とは、洗礼者ヨハネの斬首の出来事を指しています。それについて、今日の聖書日課のすぐ前の箇所を読みましょう。

「そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。」(14章1〜12節)

イエス様は、ガリラヤとペレア地方の領主だったヘロデ•アンティパスが洗礼者ヨハネを殺害したのを聞いて、その魔の手から逃れるために退いたのではありません。そうではなく、天のお父様との祈りの時をもつために、自分ひとりで寂しい所へ行かれたのです。祈りには静かで平和な場所が必要だからです。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩でイエス様のあとを追ってきました。この有様は、旧約聖書の「出エジプト」の出来事を思い起こさせます。イスラエルの民はモーセのあとを追って、エジプトを出立し、荒野へと旅立ちました。そして、神様は、預言者モーセを通して、イスラエルの民を養い教えてくださいました。このモーセは、旧約聖書の「申命記33章1節」で「神の人」と呼ばれています。それと対応するように、今日の箇所では、神の御子イエス様が自分に従って来た大勢の群衆を荒野で癒し、養ってくださいました。旧約聖書で、荒野を彷徨するイスラエルの民を、神様が天からの食べ物であるマナによって養ってくださったように、「マタイによる福音書」では、イエス様が大勢の群衆に食べ物を与える奇跡を行われました。20節の「みんなの者は食べて満腹した。」という表現もマナの奇跡を思い起こさせます。

もう一つの旧約聖書の箇所も、この出来事の意味を考える上で大切です。それは、「列王記下4章38〜44節」です。それを読みましょう。

「エリシャはギルガルに帰ったが、その地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前に座していたので、エリシャはそのしもべに言った、「大きなかまをすえて、預言者のともがらのために野菜の煮物をつくりなさい」。彼らのうちのひとりが畑に出ていって青物をつんだが、つる草のあるのを見て、その野うりを一包つんできて、煮物のかまの中に切り込んだ。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。やがてこれを盛って人々に食べさせようとしたが、彼らがその煮物を食べようとした時、叫んで、「ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」と言って、食べることができなかったので、エリシャは「それでは粉を持って来なさい」と言って、それをかまに投げ入れ、「盛って人々に食べさせなさい」と言った。かまの中には、なんの毒物もなくなった。

その時、バアル・シャリシャから人がきて、初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋とを神の人のもとに持ってきたので、エリシャは「人々に与えて食べさせなさい」と言ったが、その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。

 (「列王記下4章38〜44節」)

 これらの出来事で、「神の人」と呼ばれる預言者エリシャは、食中毒になった人々を癒し、また、大勢の人々に食べ物を与える奇跡を行いました。イエス様がなさった奇跡との類似は明らかです。

 本日の箇所、「マタイによる福音書14章20節では、「パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。」、とあります。この12という数字は、イエス様が選ばれた12人の使徒を思い起こさせます。この出来事では、使徒一人一人にそれぞれ一つのかごが与えられていたわけです。 モーセの指導の下に荒野を歩んだ旧約のイスラエルの12部族に対して、新しいイスラエルの民は、イエス様を信じて人生の荒野を渡って行く大勢の人々の群れを指しています。ですから、使徒たちは、この新しいイスラエルの12部族を指導して面倒を見る訓練を受けているとも言えましょう。

キリスト教会において、牧者は、使徒の職を受け継ぐ存在です。彼らは、聖礼典(つまり、御言葉とその解き明かしである説教、洗礼および聖餐)を通じて、この世という荒野を歩むキリスト信仰者を霊的に養い強める責任を負っています。

本日の箇所、「マタイによる福音書14章19節で、イエス様は、「群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。」、とあります。たしかにこれは、礼拝での聖餐式の御言葉を思い起こさせます。

ついてきた大勢の群衆を憐れんで、イエス様は弟子たちに、「あなたがたの手で食物をやりなさい」、と命じられました。しかし、弟子たちにはわずかの食べ物しかありませんでした。それでも、主はすべての人を満腹にさせてくださったのです。それと同様に、教会の牧者が教会に集う人々に差し出せるもの(たとえば、聖書の御言葉、パン一切れと葡萄酒一滴など)は、取るに足りないものに見えるかもしれません。しかし、主なる神様は全能であり、これらのものを通して大いなる罪の赦しの奇跡を行い、信仰を持ってそれに与る者を霊的に満たしてくださいます。ですから、このような主が教会に集う人々と共にいてくださることを感謝して覚えましょう。

それでは、「祈りの静かなひととき」をもつ大切さを学んで本日のお話を終えたいと思います。

「マタイによる福音書」14章22〜23節にはこう書いてありました。

「それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

山の上で、群衆から離れて、イエス様は天の御父様と共におられました。私たちにとっても、これは大切な模範となります。このような祈り方は、神様の子ども誰もがもっている特権です。この特権は、イエス様のゆえに私たちに与えられています。それを、私たちはちゃんと利用しているでしょうか。神様と二人きりになるために、他のすべてから自分を引き離しているでしょうか。

日々の終わりのない忙しさの中で、私たちはこの静かなひとときを必要としています。このひとときは、山頂で過ごす時に似ています。そこでは、何が小さくて何が大きいか、はっきり見ることができます。眼下には靄や幻影がたちこめています。モーセがネボ山の頂上から神様がイスラエルに与えると約束されたカナンの地を見渡したように(「申命記」32章49節)、「祈りの山」の頂からさらに上を眺めると、「天の御国」という約束の地が遥か彼方に見えます。祈りの山頂にて、私たちは自分自身をありのままに見つめることができます。そして、自分が罪の赦しの恵みを必要としている存在であることがわかります。また、自分や他の人たちの人生を通して神様の御心が実現していく様子が、普段よりもはっきり見えるようになります。祈りとは、神様と共に過ごすことであり、神様のうちで憩うことです。

「祈りの山」から日々の生活の中に下りていくと、この世的なもののむなしさに気がつきます。このように祈りを通して、私たちは神様の子どもとして生きていく上で必要な新たな力を得ます。

私たちは、神様との静かなひとときを探し求めることを通して、他のすべてを一旦脇へ置いて、神様の御前に一人たたずむ心の準備をします。そのような時に、祈る人が神様に優しく抱かれながらすやすや眠ってしまうこともあるかもしれません。それは、いたって自然なことなのです。

人は祈りを怠ると、多くのものを失うことになります。神様の子どもは、今日もこれからも、祈りの中に日々を過ごすことが大切です。ですから、主よ、どうか私たちが祈ることができるように助けてください。アーメン。

説教「天の国のたとえ」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書13章44節~52節

今日の御言葉には、「天の国のたとえ」の話が三つ記されています。 一つは、「宝が畑に隠されている」たとえです。宝を見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。そして、宝を手に入れることができた。

二つ目のたとえは、「良い真珠を求める商人」のたとえです。 この商人は、高価な真珠を一つ見つけると、行って、持ち物を売り払って、これを買う。

イエス様は13章のはじめに、「良い種と毒麦のたとえ」を語られて、これと対をなす形で、この二つの譬えを語られています。

この二つを包むようにして、三つ目の「47節からのたとえ」で、まとめられています。 もう一度、ゆっくり二つのたとえを見てみますと ある人が、畑に隠された宝を見つけると、持ち物をみな売り払って、その宝の畑を買う。又、高価な真珠を一つ見つけると、持ち物をみな売り払って、その貴重な真珠を買う。

この二つの譬えで言おうとされていることは、この両方とも、天国というものは、何ものにも替えがたい、宝のようなものである。と、言われているのです。これとよく似た言葉が、旧約聖書「箴言」3章15~19節にあるのです。 その箴言からの言葉を見ますと 「知恵は宝石よりも尊く、あなたの望む何物もこれと比べるに足りない。その右の手には長寿があり、左の手には富と誉がある。その道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である。 知恵は、これを捕える者には命の木である。それをしっかり捕らえる人は、幸いである。 主は、知恵をもって地の基をすえ、悟りをもって天を定められた。」とあります。

この箴言では、「知恵」というものが何物にもまさる宝とされている点で、マタイで語られる「二つのたとえ」と同じであります。

さて、44節のたとえの奥義を少し考えましょう。 イエス様は、しっかりと宣言されているのです。どんなものより計りがたいほどの、高い価値のあるものが、あなたのすぐそばにあるのだ。それは静かに隠されているが、あなたといっしょにある。 それを見出したら、突然、宝を見出した人と同じような幸せを経験するだろう。 他の者たちがそれを見出さなくても、又多くの人たちがその畑に行きながら、何の特別なものを認めなくても、宝はある。

神様が招いておられる価値は、少しも変わらない。 たとえ、多くの人々に軽視されたとしても、あくまでそれは宝であり続ける。 だから、今、イエス様によって、天の父からもたらされる宝を知って、理解して、自分のものにするように、と示されるのです。 同時に、イエス様は、私たちがこの宝を手に入れることができるに至る道を、示されています。 彼は、宝が隠されている畑を、どんな価を払ってでも手に入れるため、自分のすべてのものを売り払ってでも、とにかくその畑を買うことなのだ。 他の、すべてのことを後回しにする時のみ、神様から賜物を見出すのだと、イエス様は言われる。

それは、私たちにとって、ほかのすべての幸福より以上に、価値があるので、真っ先にそれを求める。そのためには、どんな犠牲も喜んでする、そのことをイエス様は要求なさっているのです。 もし、そこに神の国のことと並んで、更にこの世の楽しみや、栄えを求めたいという二心あるなら、かえってそれを失ってしまうであろう。 そのような人は、御国を見出すものを与えられない。なぜですか?と言っても、それは神様のうちに秘められた秘技であります。

神様は、自分を捨てる自己放棄することを通して、私たちを豊かにして下さる。同様に又、神様は、死ぬことを通して生き生きと、命を得させて下さる。 又神様は、すべてを犠牲にできるような、献身を要求されるのであります。 ですからイエス様は、自分の古い持ち物に愛着しないで、宝の畑を得るために、それを犠牲にすることの賢さを、考えるようにと、命じられるのです。 愛着していた古いものいっさいを、すてることはまことに辛いことです。 しかし、畑に隠されている宝は、それまで富に向けていた一切を越えて、豊かに豊かに満たしてくれるものであります。 主イエス・キリストに対する信仰と、神の御国への望みを、しっかりと見据えていかねばならない。

バークレーという神学者は、こう言っています。天国に入るためには、どんな犠牲を払ってもよい、ということである。天国に入る、というのは、神のみこころを受け入れて行こう、ということです。 人が宝を発見するように、ある時、突然自分に対する神のみこころは、これだ、 という確信が閃くことがある。 これを受け入れるためには、今まで大切に思っていた目的や、野心をすてて、イエスに従うということです。

さて、次に45~46節にあります「高価な真珠を探す商人」のたとえ話です。

よく、ことわざに「豚に真珠」といいます。豚にどんなに美しい真珠を見せても、その価値はわかりません。 真珠を扱ったことのない私など、豚と同じかもしれません。 その真珠が高価なものか、安っぽいものか区別がつきません。

イエス様の時代、真珠を特別に尊いものと、考えていました。更にだれでも、美しい真珠を持ちたいと願っていました。 それは、金としての価値があったばかりでなく、「美しさ」という価値が高かったからであります。

ここに、良い真珠を手に入れたいと願っていた真珠商人がいて、二度とお目にかかることのないような、素晴らしい真珠に出会ったら、その真珠を得るためなら、それがどんなに高価であってもひるむことなく、持ち物を全部売り払って、その高価な真珠を買うことでしょう。 そこには、どんな犠牲を払ってでも、手に入れたいのであります。

このように、イエス様の弟子になる人は、天の御国こそは、所有しなくてはならない高価な真珠であって、そのためには喜んで、すべてのものを捧げるべきものでありましょう。

次に、三つ目のたとえが、47~50節に記されています。 いろんな種類の魚を、網ですくい上げ、「良いものは器に、悪いものは外に投げ捨てる」という、世の終わりの神の審きが語られています。 ガリラヤの漁師たちも、よく見ている光景でありました。漁をするのに、二つの方法があったといいます。 一つは、網をパーっと広げて、おもりを先端につけた網が沈んで、それを引き上げると網に魚がとれるという。 もう一つは、このたとえで言われているようですが、地引網の方法で広げて、長い網を舟で引き上げていくと、その網には種々雑多なものや、大小様々な種類の魚が網にかかって、すべて引き上げられる。 引き上げる最中に、いろんな種類のものがあっても、無用なものを捨てるという選別はできない。その選別は岸辺で行われる、ということです。

ここで、イエス様は弟子たちに、これから使徒として働き、その業を行っていく上で、大切なことを示しておられるのです。 弟子たちはやがて、各地に神の御国の福音を担って出て行く。そして彼らは、すべての人をキリストに招く。すべての人に御国を示すことをゆるされている。 そうした中で、人々は真剣に悔い改めるだろうか。神の福音に、いつまでも留まり続けるだろうか。或いは、人々に対する自分たちの働きは、無駄に終わらないだろうか。 このような疑いで苦しむ必要はない、ということです。

漁師がその湖で捕えた魚を引き上げている最中に、すぐに選り分けることができないように、福音の仕事をしている間、そのことを決定するのは、彼らではない。神が決定されることです。 そこで、ふさわしくない者は、どんな策略をめぐらしても、神の国を手に入れることはない、ということです。 なぜなら収穫の仕事が終わったあと、神のさばきが効力を発し、選別が行われるからであります。

弟子たちは、これからのすべての働きにおいて、収穫にふさわしいものを、今すぐに計ることができない。 世界の行き着く、完成した時、はじめて教会を形づくっている者のうち、誰が天使によって、神の食卓の招きにあずかるかを、彼らは見ているでしょう。 弟子たちは未来になって、彼らの業の確証をみるでありましょう。 私たちの教会での働き、信仰の生きた姿も、この世の完成した時、天の御国へと招かれるでありましょう。

ハレルヤ・アーメン。

 

聖霊降臨後第10主日  2014年8月17(日) 

説教:本日の説教は高木 賢宣教師(SLEY)から頂いた本日の聖書の箇所の説明を村越 姉が朗読しました。ローマの信徒への手紙8章26〜30節、マタイによる福音書13章24〜35節

8月10日(日曜日)の聖書(使徒書と福音書)の箇所についての説明

 (はじめに)

聖書の訳は原則として口語訳によっています。「ローマの信徒への手紙」および「マタイによる福音書」の説明は、フィンランドで入手可能なルター派の説明書を翻訳したものですが、わかりやすくするために翻訳者(私)の責任で文章に手を加えてあります。これは説教用の文章ではなく、聖日の聖書箇所の学びのための文章ですので、その点はご承知ください。それでは、御言葉によって祝福されたひと時をお過ごしくださいますように。

(高木賢、フィンランドルーテル福音協会)

 
まず、ローマの信徒への手紙8章26〜30節について説明します。

この世でのキリスト信仰者の生活が、ただその場でじっと座って信じ、キリストの愛をありがたがるばかりではないことを、パウロはちゃんと知っています。神様への感謝の気持ちを失くさせるような出来事もたくさんあるからです。世間から受ける厳しさや冷たさは、喜んで信仰を告白する気持ちを削いでしまいます。意地悪だったり、口汚くののしったりする様々な人々に対して、自分がどんな風に苦々しく口を歪めるか、私たちは自覚しているはずです。しかし、そのような時にも神様に感謝しなさい。さらに、私たち自身の中にもたくさん欠点や弱さがあります。罪は上から重くのしかかり、疾しい良心を生み出します。しかも、私たちは、本来あるべき祈りの姿勢を持って、祈ることができないのです。

パウロによれば、このような困難を抱えているのは、何も私たちだけではありません。被造物世界全体が、神様の子どもたちが栄光に包まれて現れ、新しい天と地が造られる日を待ち望んでいるのです。それと同様に、私たちもまた、ため息をつきながら、この希望が実現するのを待ち続けています。この話を聴いている多くの人は、ここで私が、「天の御国に帰りたい」という郷愁について語るのを、理解してくれることと思います。この思いは、時として私たちの心を強く揺さぶります。「私たちはこの世に属する者ではない」ということを実感することがあります。主を信じながらすでにこの世を去った愛しい親戚、友人、知人たちと天国で再び会えることを待ち望む時に、天の御国への郷愁で心がいっぱいになります。私たちには忍耐が必要です。私たちはまだ(見えないものを信じる)信仰の中に生きており、天の御国を実際には見ることができないからです。イエス様が教会と御自分の民にくださった最高の贈り物が、今も私たちを守ってくれています。この贈り物とは、聖霊様のことです。聖霊様は慰め主であり、私たちが自分を孤児だと感じないように守ってくださっているのです。私たちがどうにも祈ることができない時、聖霊様は、声にならないため息と共に、私たちのために祈っていてくださいます。

(特にルター派の)多くのキリスト信仰者は、聖霊様についての話を避ける傾向があります。そのような時には、「御霊は、神様としてふさわしいやり方で、聖徒たちのためにとりなしの祈りをなさっています 」(8章27節)、という御言葉を思い出しましょう。平安をくださるこの素晴らしいお方が、聖霊様なのです。私たちが神様とその御霊の守りの中にある時、あらゆる出来事が共に作用して、結局は私たちの最善となっていくように、神様は取り計らってくださいます。何事も、私たちを神様の御手から引き離すことはできません。私たちが神様を選んだのではなく、神様が私たちを選んでくださったからです。

次に、マタイによる福音書13章24〜35節について説明します。

イエス様の最初のたとえは、「悪の問題」についての解答を与えています。

この世には多くの悪がはびこっており、神様がそれを阻止なさらないように見えるのはどういうわけか、と訝しく思う人がいるかもしれません。新約聖書の答えは次の通りです。私たち人間は、すでに罪の堕落が起きてしまった世界の中で生きています。この世には、神様に由来していない物事がたくさんあります。25節にあるように、人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去ったからです。この敵とはサタンのことです。そして、世の中には、サタンの手下になってしまっている人々がいます。28節によれば、毒麦に気がついた僕たちが家の主人のもとに来て、『では、毒麦を抜き集めましょうか』、と言ったとありますが、いかにも自然な反応だと思います。しかし、主人は、それを認めません。29〜30節にあるように、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」、と主人は言います。まだ「収穫の時」が来ていないからです。神様は、まだしばらくの間は、麦を選別するのを待っていてくださるのです。その間に、幾人かは神様の方に向き直り、悔い改めるかもしれないからです。また、人間には麦と毒麦を正確に選別する力がありません。このことは教会においても当てはまります。しかし、いつかは「収穫の時」が来て、天の御使いたちが麦と毒麦との選別を徹底的に行うことになります。ようやくその時になって、キリストの御国、すなわち、真の教会から、「キリストの側に実は属していなかったものすべて」が、きれいさっぱりと取り除かれることになります。

それでは、第二のたとえに移ります。

32節によれば、からし種は(畑に蒔かれる)どんな種よりも小さいものなのに、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になります。この空の鳥が枝に宿る木というイメージは、旧約聖書ではなじみのあるものです。これは、神様が世のすべての民のために用意してくださる避難場所を表しています。そして、世界中から、この御国めがけて、人々が流れ込んできます。

第三のたとえも、同じ内容のものです。

33節によれば、天の御国は、パン種のようなものであり、女の人がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんできます。当時はまだ酵母というものがなかったので、いつも一部のパン種を保存しておいて、次のパン作りの際に利用していました。ここのたとえでのパン作りは、ずいぶんと大がかりなものでした。その時にも、ごくわずかのパン種がすごい量のパン生地をふくらませることになりました。このイメージからわかるのは、いたって取るに足らないように見える事柄が、実は、予想もできないほどの莫大な力を秘めている場合がある、ということです。天の御国もそれと同じです。なぜなら、私たちは、 見かけ上は些細なものである御言葉を通して、御国に出会うことになるからです。しかも、誰であれ、簡単に御言葉を受け入れずに捨てることができてしまうのです。ところが、この御言葉にこそ、「最後の審判」の際に決定的な役割を果たす圧倒的な力が含まれているのです。

本日の福音書のすぐあと(44節)にも、同じテーマのたとえがでてきます。それによると、天の御国は畑に隠してある宝のようなものです。人はそれを見つけると隠しておき、喜びながら、行って持ち物すべてを売り払い、その畑を買う、ということです。この箇所をマルティン•ルターはこう説明します。

「キリストが私たちに挨拶してくださるだけでも、大きな栄光であり宝です。しかし、キリストが与えてくださる罪の赦しと、死や悪魔や地獄からの解放は、さらに貴い宝です。この宝を通して、キリストは私たちの心を照らし、私たちを新しく創造してくださいます。私たちは決してこの宝の中身を言葉によっては十分に表現できません。」(ルター)

キリストは、私たちの身代わりに、罪深い私たちが本来受けるはずの罰としての死を、ゴルゴタの十字架で成し遂げてくださいました。そのことを感謝して覚えつつ、本日の御言葉の学びの終わりとして、「教会の霊的な富

というメッセージを読みたいと思います。

(終わりのメッセージ)

私たちが、教会とその霊的な富について、本来なら大いに誇るべき理由があるのに、誇らしく思わないのは、一体どうしてでしょうか。私たちキリスト信仰者は、教会について、大胆に誇るかわりに、むしろ、ぶつぶつ不平を言うことが多くなってしまった、ということでしょうか。神様の子らとして私たちは、「教会の主」である方の持っておられる一切の物、教会とその霊的な富、を相続する立場にあります。にもかかわらず、そのことを忘れ、あたかも自分がたんなる「教会の居候」であるかのように振る舞っていることが多いのではないでしょうか。

「神様の子どもとして守られている喜び」や、「神様の御言葉を学べる喜び」を歌うのが、本来の私たちの生き方のはずです。こうした内容の歌は、フィンランドの教会ではペンテコステ(聖霊降臨主日)の賛美歌の中に多くあります。そこで歌われている喜びは、異教的な生活環境と迫害の只中にあった初期の教会のキリスト信仰者の生き方の中にも見いだされます。その時代に書かれた「使徒教父文書」に含まれる「ディオグネトスへの手紙」の一部を紹介します。

「主のうちには教会の富がある。主が開いてくださった恵みは、聖徒たちの中で、豊かに増し加わる。聖徒たちに理解力を与え、奥義を明らかにし、定められた時を示す。また、信仰者たちの存在を喜ぶ。この恵みは、主を求める人々、すなわち、主への誓願を破らずに教父たちが定めた境界線を超えない人々に対して賜物を与える。それから、律法を畏れ敬うことが歌の主題となる。(旧約の)預言書の素晴らしさが知られていくようになる。福音の信仰がしっかりと根をおろす。使徒たちが残した代々継承すべき教えが守られるようになる。そして、教会は恵みにおいて喜び踊る」。

私たち一人一人の抱いている心配事や悩みは、(お祈りとして)天のお父様の御前にちゃんと伝達されて行きます。教会とその集会(礼拝)には、代々継承されてきた教会の霊的な富があり、聖霊様のくださる喜びがあります。これは、教会のもつ特質です。ペンテコステ(聖霊降臨主日)が過ぎた後の時期にもこの喜びがなくならないように、お互いに目を覚ましていようではありませんか。(レイノ•ハッシネン)

説教「種をまく人」木村 長政 名誉牧師、マタイによる福音書13章1節~9節

マタイ福音書13章からは、イエス様が語られたたとえ話しが記されています。 今週は1~9節までで、「種を蒔いた種がどうなった」かの、たとえ話です。

なぜイエス様は、たとえを用いて話をなさるのでしょうか。その理由について、ちゃんと10節~16節で弟子たちに話されているんですね。 簡単に申しますと、「あなた方には、天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちに、許されていない」からである。

イエス様は、誰でも生活の身近なところで経験して、よく知っていることを用いて、そこに隠されている、天の御国の秘密の心理を語られているんです。

ところが人によっては、聞いても聞かず、理解できない者もいる。 そして、イザヤの予言の言葉を持って来て言われました。14節です。 「聞くには聞くが、理解できない。見るには見るが、決して認めない」。

大事なことは、民の心は鈍っているからだということ。 見ても聞いても、心で理解しない。悔い改めない。 そういう者を、神はいやされないのだ、ということ。 しかし、あなた方の目は見ている、あなた方の耳は聞いているから幸いだ。

弟子たちの目の前に語っておられる方が、どういう方であるかを、本当に、真にわかったら、あなた方の目は見ている。耳は聞いているのだ、なんと幸いなことであろうか。と福音書記者、マタイが記しているんです。 今、イエス様は、この世に遣わされた救い主として、立っておられる。そして神様が、ご自身を王として啓示されている。 そのことを明らかに示そうとして、されているわけです。

さて、いよいよ3節から、たとえの話をされています。 種を蒔く人が、種蒔きに出ます。そこに4種類の土地に種が蒔かれ、その結果種は育ってどうなったか、わかりやすい話です。 4~8節に記されているとおりです。 まず、第一の種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。種蒔く人が種をまいても、長いこと道にあった種つぶは、鳥が来て食べてしまった、というものです。鳥はえらいですね。何百種類の小鳥たちが、それぞれ自分の好きな種をちゃんと知っています。 道ばたに長いこと転がっていたら、みんな食べられてなくなります。 種は、はじめから失われた。 この世界に、福音の種が伝えられても、すべて失われてしまう状況です。

次に第二の種は、5節にありますように「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないため枯れてしまった」。

次の第三の種は、7節にありますように、「茂みにおおわれた土地に種が蒔かれても、芽や根が雑草でおおわれて、成長してもいばらに追われ、ふさがれてしまった」。

さて、第四の種ですが、畑に蒔かれた種は駄目にならず、それぞれに応じて豊かな実りをもたらした。 ここに、「種を蒔く人」は神の国の奥義を語る人です。しかも、天の父から使命を受けて、この世にこられ、天の奥義の言葉が語られていくのであります。

この蒔かれた種が、どのようになっていくのか、どのような場所に蒔かれ、その結果、その種がどのように育っていくのか。それが大きな問題であります。

まず、道端に種が落ちる、というのは、普通私たちの常識では、考えにくいことであります。 しかし、当時のユダヤでは、まず種を袋につめ、一箇所穴をあけ、無造作にそこいら一面ばらまいて歩きまわる、といった状態でしょう。 それから土をかぶせる、という方法で農耕が営まれた、ということです。 だから、種はばらまかれて、道端のようなゴロゴロした上に落ちたままであった。そこへ鳥が来て食べてしまうこともありえることでしょう。 これは、どんな意味があるのでしょうか。

19節にイエス様の解説です。 「だれでも、御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である」。 この世界で、御言葉に逆らう者のことを説明しています。

イエス様が教えられた言葉を、理解しないままでいる人、或いは、自分のことや、この世の人々の考えがいっぱいになっているため、御霊に向かって心の扉が開かれていない。 では、そこで何が起こるかというと、悪い者が来て、彼らから御言葉を奪うのである。 そうすると、御言葉に反対するために、サタンの国からやってきた力強い勢力に、もう防ぎようもなく身をまかせてしまう。 そして、欲望が呼び起こされて、イエス様の言葉に反発するようになる。

福音に対する疑いが押し寄せ、世俗的な考えをする仲間が、ピタッとくっついて取り巻いてしまう。 彼らから、イエス様の言葉は跡形もなく消えていく。 人間がそれをつかむことがないように、悪い者が盗むのである。

次に、石地に落ちた種も、茨の中に落ちた種も、誰もがよくわかることです。

神の御国の福音が、受け入れられるところであっても、その福音が役に立たないままでいることがある。 そこには、福音の力に疑いを持つことも起きる。そこに何か、不思議な謎が秘められているように思います。 それは教会の中でさえ、心の中に疑問や失望を経験して去っていく者がある、ということでしょう。

イエス様はこのようなことのために、弟子たちに用意をさせておられるのです。 神の国の福音は、ただ単に急いで受け入れられることを求めていない。 しっかりとした忍耐によって、守られることを求めているのです。 信仰がためされる、試練がおそってくる。外からの苦難や病気、思いがけない出来事、迫害もやってくるでしょう。 そこで彼らは、根を深くほっていないので倒れてしまう。

自分にとっての都合のいい、御利益を求めている信仰にすぎないこともあるのであります。 茨の中に落ちた種のイエス様解説には、御言葉を聞いて、この世の思いわずらいにいっぱいになってしまう。又、富のゆうわくというもので御言葉を窒息させてしまい、実らなくなることです。 人は、ここで、この世の時のことだけを考える。この世時に必要なものだけを求めるのです。茨の状態です。

この「たとえ」で言われるように、種にとって、鳥や、太陽や、いばらは、三つの敵でありました。 イエス様は御言葉の三つの反対者をえがかれた。 すなわち、人間の無理解につけこんで、御言葉からそらせてしまう悪魔、そして弱い心を窒息させてしまう人間の敵意、思いわずらいや欲望にひかれて、捕らわれる心である。 神の御支配は、悪魔との戦いにあります。 この世の、地上の欲望との戦いにあります。 この戦いにあっては、イエス様の御言葉以外、武器はないのです。

このような戦いにもかかわらず、御言葉は、神の恵み深い、御旨をなしていかれる。 それは、良い地に落ちた種です。御言葉を聞いて、理解する人のことです。 この人は実を結び、100倍、或いは60倍、30倍にもなるのです。

神は、イエス様の言葉を理解する聴衆を、用意されるのです。そして今、弟子たちにその確認をされたのです。

御言葉は聴衆の中に奇跡を生み出す。 ここにおいて、御言葉の、人々を明るくしていく力があまねく浸透し、多くの者をとらえるのです。そして、聴衆の中にはいっていくのです。ほかの人々にはそれは、依然として隠されたままであります。

確かに御言葉は、至る所で増えてゆき、それが正しい仕方で受け入れられる所では、とどまることはない。しかし必ずしも、どこでも、同じような爆発的な力で、人々を捕えるわけではないのです。 御言葉が、ある者の中につくった信仰によって、他の者の中に信仰が起こされる。ある人の中に植えつけられた愛によって、他の人の中に愛が目覚めさせられる。 しかし、その働きの範囲は、イエスの言葉を持ち、守る人々の中でも、いろいろ段階があるということです。 ちょうど一粒の種が、ある場合には30倍、ほかの場合は60倍又100倍と、 種の中に、又、種粒を生んでいくようなものである。

このようにイエス様は、弟子たちの中に、彼の働きが無駄に終わらないように。 又、弟子の業も無駄にならないという、喜びに満ちた確信を、呼び起こしたのです。 たとえ、多くの種粒が滅びても、それだからと言って、種蒔く人は無駄に働いたのではない。 幾百倍もの収穫が、すべてを豊かにもたらし、ついに、神の偉大な教会が生まれていくのであります。 アーメン。

聖霊降臨後第八主日  2014年8月3(日)                                 

信徒礼拝

 

本日の説教は高木 賢宣教師(SLEY)から頂いた本日の聖書の箇所の説明を青木千恵 姉が朗読しました。

7月27日(日曜日)の聖書(使徒書)の箇所についての説明

(はじめに)

聖書の訳は原則として口語訳によっています。「ローマの信徒への手紙」の説明は、フィンランドで入手可能なルター派の説明書を翻訳したものですが、わかりやすくするために翻訳者(私)の責任で文章に手を加えてあります。これは説教用の文章ではなく、聖日の聖書箇所の学びのための文章ですので、その点はご承知ください。それでは、御言葉によって祝福されたひと時をお過ごしください。(高木賢、フィンランドルーテル福音協会)

ローマの信徒への手紙7章15〜25節の説明

この箇所が、ローマの信徒への手紙7章の核心です。パウロはここで誰について話しているのか、たくさんの議論が戦わされてきました。それらは大きく二つに分けられます。パウロは、まだ神様の方に向き直る以前の段階の非キリスト信仰者のことを意味している、と考える人もいますし、キリスト信仰者のことを意味している、と考える人もいます。パウロは、キリスト信仰者が同時に罪深い者でも聖なる者でもある、と言いたいのでしょうか、それとも、キリスト信仰者は、罪のない状態で、よい生活を送ることができる、と言いたいのでしょうか。この問題は、決定的な重要性を帯びています。

教会の歴史で指導的な役割を果たした教会教父たちの多くは、この箇所を非キリスト信仰者について語っているものとして理解しました。それと同じ理解をもった教会には、たとえばローマ•カトリック教会がありましたし、また、信仰者の聖化(つまり、聖なる者となっていく過程のこと)を重視する多くのプロテスタント教会もそうでした。「神様に自分を委ねたはずの人間が相変わらず罪深い存在でありえようか」、と彼らは考えます。聖書学者の大多数もこの立場を支持しています。

アウグスティヌスなど数人の教会教父たちは、それとは異なる立場を取りました。これは、後にルターの神学の礎ともなりました。すなわち、パウロはこの箇所で、ほかでもない自分自身の罪深さを嘆くキリスト信仰者について語っている、という見方です。ルター派の神学はこの立場を取っています。一番大事な論点は、ここでの対象がキリスト信仰者か、それとも非キリスト信仰者か、ということです。それに比べると、ここでの対象がパウロ自身のことなのか、それともキリスト教徒一般のことなのか、ということは、さほど重要ではありません。

それでは、「パウロはここでキリスト教徒を意味している」という見解に基づいて、話を進めて行くことにします。この見解を支持する聖書的な根拠として、パウロがこの世での人生の歩みを終えた後でようやく訪れる罪と死からの解放を心から待ち望んでいる、という「コリントの信徒への第一の手紙」15章50〜58節をあげることができます。

15:50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 15:51ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 15:52というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 15:53なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 15:54この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。15:55「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

15:56死のとげは罪である。罪の力は律法である。15:57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 15:58だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。(口語訳)

ここでパウロは自らの罪深さを嘆くキリスト信仰者について語っている、という見方を支える聖書の箇所として、もう一つ、「ガラテアの信徒への手紙」5章17節をあげておきます。

5:17なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。(口語訳)

パウロは、このテーマを次のように展開していきます。律法自体には何の落ち度もありません。人間の側にこそ問題があるのです。「私は善を行うことができない」、とパウロ自身、告白しています。彼は神様の律法に従うことができず、彼の心の中には、彼に悪いことを行わせる罪が住みついています。人間は、自分の行いが悪くて間違っていることを知りつつも、自分の罪深さに束縛されています。人間は、善を行うことを望んでも、それを実行する力に欠けています。人間は、悪を行うことを望まないとしても、やはりそう行っています。なぜなら、心の中に住みついている悪の方が人間よりも強いからです。

このように、パウロは相反する二つのものの間にいます。一方で、彼は喜んで神様の律法の教えに賛同し、それが善いものだと、証します。他方で、彼の中には悪が住みついており、彼に悪いことを行わせます。パウロは、この二律背反の構図から逃れることができません。 いかにして罪が人間をがんじがらめにして、神の御国の外側に追いやるものか、人は自らの身体の感覚によっては察知することができません。

「私は惨めな人間です。誰がこの死の身体から私を救ってくれるのでしょうか」(24節)これはパウロの心からの嘆きの言葉です。その同じ心からは、神様への感謝も出てきます。キリストは人間の罪の罰をすべて代わりに引き受けてくださいました。そのおかげで、罪深い人間は「神様の側に属する者」とされたのです。

キリスト信仰者は、他のことと比べて、とりわけ自分の罪深さと弱さに関しては、それらを瞬く間に忘れてしまう傾向があります。この世にいる限り、彼らは、自分の罪深さを気にもかけず悲しみもしないで過ごしていることがしばしばあります。ところが、いったんキリストの意味がわかると、今まで乱雑だったすべての事柄が徐々に整理整頓されていくようになります。キリストを信じるようになったばかりの人は、自分自身の罪深さを過小評価しがちです。それはたとえば、コーヒー依存症だったり、異性を視線で追うことだったり、過去の趣味への執着だったりします。人間は、心が神様に向かって燃えている時には、 神様が捨てるように望んでおられる事柄を素直に捨てて、ひたすら主に向かって生きて行く心の準備をするものです。こうした態度には、信仰に入ったばかりの人が周囲に放つ初々しい愛の香りが漂っています。ですから、信仰に入ってからの経験がまだ少ない人に対しては、あまりに厳しく接してはいけません。もちろん、神様は、しばらくすると、もう少し深い世界を眺めるようにと、その人を教えてくださいます。ただし、このことが実現するためには、聖書に基づく「律法と福音」についての教えがその人に正しく宣べ伝えられている必要があります。

ある特定の罪は、ひどい罪であるとみなされます。たとえば、神様を無視して生きていた時に浮気をしたことがあるとか、飲酒の虜になったとか、何かを盗んだとか、などです。神様は、これらの罪から人間を解放して、御自分の民としてくださいました。しかし、ここで大切なことがあります。それは、上記の罪の行いをやめることだけならば、たんに皿の外側をきれいに磨くことにすぎない、ということです。もしも依然として皿の内側がそれを覗き込むと誰でも気分が悪くなるほど汚れているのであれば、一体何の助けになりましょうか。実のところ、私たちは、神様の御前ではまさしくそのような存在なのです。人間の心は腐敗の源です。その中から、いつも新たな腐敗が湧き出てきます。たとえ目立つ最悪の罪の行いが取り除かれたとしても、悪の源泉自体は依然として温存されたままです。具体例で説明しましょう。暴力行為をやめるかわりに意地悪な態度を取るようになったり、盗みをはたらくかわりにある程度の物欲と物事への執着が生まれたり、実際に浮気するかわりに心の中で密かに行ったり、悪い行いをするかわりに悪い言葉を吐いたり、悪い言葉のかわりに悪い考えが置き換わる、といった具合です。

「神様の側に属する者」とされたはずの人にとって、万事がうまく運ぶわけではないことに気がつくのは、かなり動揺をもたらすことかもしれません。神様が私たちに、私たちの本当の姿を少しでもお示しになるなら、私たちはそのあまりのひどさにすっかり希望を失ってしまうかもしれません。もう罪がないはずのところからも、依然として罪が見い出されることになるからです。隣り人や、友だちや、自分の家族との関係からも、罪が見つかります。また、行いや、言葉や、思いの中にも、依然として罪が残っています。私たちの信仰生活が様々な罪で満ちている、という事実を直視するのは、最悪に衝撃的なことかもしれません。信仰生活は、不信仰と不確実な事柄であふれかえっています。人は神様の御旨に対して根強い疑いを抱いていることなどがその一例です。私たちは自分の罪深さを嘆くこともしませんし、神様が憎まれる事柄を憎むこともしません。神様の愛についても、本来なら喜びに満たされるはずの事柄なのに、そうなりません。これらのことが罪でなくて一体何でしょうか。つまり、私たちは本当に、神様の栄光が欠けている罪深い存在なのです。もしも神様が私たちを裁き始めるなら、私たちは全員、主の御前から永遠の滅びの世界へと落下して行くほかありません。

今までの御言葉の学びを通じて、私たちはパウロと共に、神様に助けを願い、自分自身の惨めさを素直に告白する準備ができました。パウロは、自分が「キリストの側に属する者

であることを、信じて告白しています。このパウロに倣って私たちもまた、自分が「キリストの側に属する者」であることを告白できるのが望ましいです。神様は、私たちの抱えている惨めな罪深さをよくご存知です。たとえ私たち自身にはその惨めさのごく一部しか見えていないとしても、神様はその全体をすっかり見通しておられます。まさにそれゆえに、聖書はこう言っています、「父親がその子たちを憐れむように、主の憐れみは御自分を畏れる者たちの上にあります。主は私たちの造られた有様をご存知であり、私たちが塵にすぎないことを覚えておられるからです」(「詩篇」103篇13〜14節)。本来ならば、地獄に落ちるのが当然の罪深い者でありながら、それでも私たちは、キリストの血によって清められており、まったく落ち度のない、神様にとって言いようもないほど愛しい存在なのです。私たち自身のおかげではなく、ゴルゴタでのイエス•キリストの生け贄のゆえにそうなのです。これは確実なことです。なぜなら、その通りであると、主の使徒であるパウロの口を通して、神様御自身の御言葉が証しているからです。

本日の福音書、マタイによる福音書11章で、イエス様は罪の重荷に苦しんでいる私たちに対して優しくこう言われています。

11:28すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 11:29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

終わりに、ルターによるローマの信徒への手紙7章25節の説明を紹介して、本日の聖書の学びを閉じることにいたしましょう。

「このようにして、私自身は、心では神様の律法に仕えていますが、肉では罪の律法に仕えているのです」(「ローマの信徒への手紙」7章25節より)。

これはとても明確なメッセージです。同じ一人の人間が、「神の律法」と「罪の律法」とに同時に仕えている、というわけですね。要するに、人は同時に、義とされた存在でもあり、罪深い存在でもあるのです。上の御言葉でパウロは、「私の心は」神の律法に仕えています、とも、「私の肉は」罪の律法に仕えています、とも言ってはいないことに注意しましょう。「私は」、とパウロは言っています。つまり、同じ人格である一人の人間である「私」という全存在が、同時に二面的な事柄に仕えているのです。そういうわけで、彼は、一方では、自分が神の律法に仕えることができることを感謝しており、もう一方では、罪の赦しを願っています。なぜなら、彼は罪の律法にも仕えているからです。しかしこれは、「肉的な存在である人間が神の律法に仕えている」、という意味ではありません。私が先ほど言ったことを思い出してください。神聖なるキリスト信仰者たちは、同時に、罪深い存在でもあり、義とされた存在でもあります。彼らは義とされています。なぜなら、彼らはキリストを信じており、 彼らを覆うキリストの義を「彼らの義」でもあるとして父なる神様が認めてくださっているからです。しかし、一方では、彼らは依然として罪深い存在でもあります。なぜなら、彼らは律法を完全に守ることができないし、罪深い欲望をもたずには生きることもできないし、いわば医者にかかりっきりの病人に等しい存在だからです。実際、彼らは依然として病気なのですが、その一方では、治癒も始まっているので、健康になる希望をもつことができます。つまり、彼らは治りかけの患者のようなものなので、今後の健康は予断を許さない状態にあります。処置の仕方によっては、以前よりも症状が悪化する可能性もあるからです。

(マルティン•ルター 「ローマの信徒への手紙についての講義」より)

信徒礼拝

本日の説教は高木 賢宣教師(SLEY)から頂いた本日の聖書の箇所の説明を堀越教子 姉が朗読しました。

7月20日(日曜日)の聖書(使徒書と福音書)の箇所についての説明

 (はじめに)

聖書の訳は原則として口語訳によっています。「ローマの信徒への手紙」および「マタイによる福音書」の説明は、フィンランドで入手可能なルター派の説明書を翻訳したものですが、わかりやすくするために翻訳者(私)の責任で文章に手を加えてあります。これは説教用の文章ではなく、聖日の聖書箇所の学びのための文章ですので、その点はご承知ください。それでは、御言葉によって祝福されたひと時をお過ごしくださいますように。

(高木賢、フィンランドルーテル福音協会)

 本日の使徒書であるローマの信徒への手紙6章15〜23節の説明に入る前に、その前の箇所6章1〜14節を読みましょう。後ほど6章の内容をまとめて扱う際に必要になるからです。

 (聖書の箇所)

6:1では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。 6:2断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。 6:3それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 6:5もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。 6:6わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 6:7それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 6:8もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 6:9キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 6:10なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。 6:11このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 6:12だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 6:13また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。 6:14なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。(口語訳)

 それでは、本日の使徒書の箇所の説明に移ります。

 (15〜23節についての説明)

これは、真剣に罪と戦うようにと、ローマのキリスト教徒たちに対して、パウロが説得を試みている箇所です。キリスト信仰者は、律法の下にではなく、恵みの下にいます。ですから、私たちはもはや罪の中にどっぷり浸かって生活してはいけないのです。人間には、神様に仕える者であるか、それとも、罪の奴隷であるかの、どちらかの状態しかありません。信仰に入る以前には、ローマのキリスト教徒たちは罪に浸った生活を送りながら、それをちっとも悪いこととは思っていませんでした。また、神様のことも天の御国のことも気にかけずに日々を過ごしていました。その結果どうなったでしょうか。彼らは神様との関係がだめになり、永遠の滅びの道へと転落して行ったのです。ローマのキリスト信仰者たちは自分の恥ずべき過去の行状を思い出したくはないだろう、とパウロは書いています。私たちの人生の歩みの中にも、もしかしたら神様から遠く離れて罪深い生活に染まっていた時期があるかもしれません。キリスト信仰者はそのことを後から思い出したくはないものです。ここでパウロは、誰であれ私たちが、人生を逆戻りして以前と同じ罪深い状態に陥ることがあってはならない、と真剣に警告しています。キリスト信仰者は、「古い人」に活動の隙を与えて、自分自身の罪と戦うのをやめてしまうなら、再び罪の奴隷になり下がってしまいます。パウロは、キリスト信仰者が神様の子どもであり続け、神様の子どもとしてふさわしい生活を送ることを願っています。 罪のもたらす報酬は死でした。そして、それは今も同じです。それに対して、神様の恵みの賜物は、キリスト•イエスにおける永遠の命なのです。

 ここで、ローマの信徒への手紙6章全体のメッセージを見てみることにしましょう。

 考えてみると、「ローマの信徒への手紙」6章は、奇妙な文章です。そこでは、私たちが普通なら相反するものとみなしている二つの事柄が並行して語られているからです。

まず、神様が洗礼の恵みを通して私たちのすべての罪を赦してくださる、という神様の尽きない善き御心を、この章から読み取ることができます。この点に関しては、私たち自身の行いや善さがどれほどのものであるか、といったことは問われていません。神様御自身が働いてくださるのであり、私たちはその働きかけを受ける立場にあるからです。まさにこのようにして、神様は私たちひとりひとりにキリストのあがないの御業をプレゼントしてくださいます。すべては神様からの賜物なのです。

ところがその一方で、パウロはこの箇所で、キリスト信仰者の正しい生き方を皆に勧めています。昔のキリスト信仰者はこの聖書の箇所を念頭において、「あなたの心の中にあるのは平和ですか、それとも争いですか」、と尋ね合ったものです。誰かが、「私の心には平和があります」、と答えた場合には、それは間違った答えでした。なぜなら、キリスト信仰者の心の中は常に「戦争状態にあるからです。どういうことかというと、「新しい人」が「古い人」に対して戦っていますし、義が罪に対して戦っているからです。そして、キリストが悪魔に対して戦っておられます。この戦いは私たちを苦境に立たせます。何度も敗北を喫することになるかもしれません。それでも、私たちは、 この戦いにおいて神様御自身がしっかり私たちの面倒を見てくださっている、と信じてよいのです。なぜなら、すでに神様は私たちのために、「最後の決戦において勝利を収めておられるからです。この「最後の決戦とは、十字架の死と死者からの復活とによって、イエス様が罪と死と悪魔に完全に勝利なさったことを意味しています。このイエス様の御業のおかげにより、私たちを待ち受けているのは、もはや罪の報酬としての死ではなく、神様の恵みの賜物、すなわち、永遠の命になっているのです。そして、この永遠の命の世界において、「古い人」と「新しい人」との間の戦争は「新しい人」の勝利をもって終結し、永遠の平和が始まるのです。

 以上が本日の使徒書の説明です。次に福音書の説明に移ります。

 (マタイによる福音書10章34〜42節の説明)

 この世は、イエス様を信じる者たちに対して敵意を抱いています。しかし、まさしくそのようなこの世の中で、イエス様を信じていることを公に告白することが大切になります。私たちには次に述べる二つの選択肢しかありません。第一の選択肢は、どのような犠牲を払うことになろうとも、イエス様の側に属するあり方です。第二の選択肢は、この世でも、また、最後の審判の時にも、イエス様の側には属そうとしないあり方です。しかし実は、最後の審判の時に、罪が赦されて天の御国に行けるか行けないかを決定する唯一の基準は、イエス様が私たちを御自分の側に属するものとして認めてくださるかどうか、ということなのです。イエス様は平和をもたらすためにこの世に来られました。しかし、そのおかげでイエス様を信じる人々は万事において仲良くなり、意見も一致する、などと考えるべきではありません。それとは反対に、意見の相違と仲違いが否応なく生じてしまいます。「剣」という言葉で、イエス様はこの仲違いの状態を表現なさいました。福音が宣べ伝えられる時、家族の中でも仲違いや意見の相違が生じるようになるかもしれません。しかし、そのような場合には、誰か特定の人間に対する愛情がイエス様に対する愛に勝るようなことがあってはなりません。人生をこの世的な意味でできるだけ豊かなものにすることとか、あるいは、周りにいる友人や知人との関係を良好に保つこととかを、人生の目標に掲げる人もいるかもしれません。しかし、こうした目標を達成するために、イエス様を信じることについて何らかの妥協を強いられる場合には、人は真の命を失ってしまうことになります。つまり、「人生で成功する」はずのための方法が、実際は、「人生で完全に失敗する」方法になってしまう場合もある、ということです。

 本日の福音書であるマタイによる福音書10章の冒頭にこうあります。

 10:1そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。10:2十二使徒の名は、次のとおりである(以下略)。

 このようにして、十二使徒の名前が挙げられていきます。

つまり、この十二弟子は「使徒」と呼ばれる存在です。使徒とは、主の御旨を伝える正式な代行者として派遣された者のことです。使徒を受け入れることは、イエス様御自身を受け入れることでもあります。ということは、御子を遣わした父なる神様を受け入れることでもあります。このようにして、神様はこの世に来られますし、私たちの近くに来てくださるのです。この意味で、神様の福音を御言葉通りに宣べ伝える使徒たちを受け入れることは、救いと永遠の命を受け入れることでもあるわけです。このことは使徒だけではなく、「義人」にもあてはまります。「義人」とは、神様の御国に入ることを許された人であり、キリストが 十字架の死と死者からの復活を通して確保してくださった義のおかげで、私たち罪深い者はイエス様への信仰を通して神様に受け入れていただける、という真理から日々生きる力を得ている人であり、この神の義を他の人にも伝えたいと望んでいる人のことです。そして、このような義人たちが主の救いの御業について証することを信じて受け入れる人は、神様に義なる存在として認めていただけることになります。これらの義人は、人間的には、取るに足らないように見える者、つまり「小さい者」(42節)かもしれません。それでも、彼ら「小さい者」は主の御旨を御言葉の通りに伝えて止まないことでしょう。そして、暑い夏には、彼らがイエス様の弟子であるという理由から、一杯の冷たい水を彼らに提供する信仰の兄弟姉妹がちゃんと旅先で備えられることでしょう。彼ら御言葉を伝える者たちに行ったことは、実はイエス様に行ったことでもあるのです。なぜなら、イエス様は御言葉を伝える者の後ろに控えていらっしゃるからです。このことについて、イエス様は、人の子が「最後の審判」の時に裁きの座にお就きになる様子を伝えるたとえを通して、教えてくださっています。イエス様の御言葉を正しく伝える人々がどれほど「小さな者」であろうとも、私が彼らを助けるために行うことは、イエス様御自身に対して私がそれを行っていることとして認めていただけるのです。このことを教えているのは、次の聖書の箇所です 。

 (マタイによる福音書25章31〜40節)

25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。 25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 25:35あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 25:36裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 25:37そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 25:38いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 25:39また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 25:40すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。(口語訳)

 ローマの信徒への手紙6章は、洗礼の意味を教えてくれる大切な箇所です。

この章についての聖書のメッセージをもって、本日の聖書の学びを結びたいと思います。

 「洗礼とは、契約の内容を守ることです」

 洗礼は、神様から贈られた証書です。神様が私たちに与えてくださったこの証書よりも素晴らしい遺言状を残すことができる者は、他には誰もいません。聖なる洗礼を通してのみ、私たちは、救い主との個人的な親しい関係の中に入れていただけるのです。洗礼の意味を誤解する人が出てくるのは、無理もありません。洗礼を受けている人たちが皆、信仰を持って生きている訳ではないからです。

 それは確かにそうなのです。しかし、キリストに喜んでいただけるような生き方をするために、この神様からの賜物に感謝して、日々自己中心的な生き方を正していく人は誰であれ、キリスト信仰者なのです。神様からいただいたこの尊い「相続財産」を守る人は、誰であれ、神様の子どもなのです。そして、キリスト御自身がその人の「神様の子ども」という立場を擁護しておられます。

 堅信式は、洗礼を通していただいた神様からの贈り物をこれからもしっかり守って行くことを公に表明する場です。キリスト信仰者として生きて行くことに関わるあらゆる事柄も、この神様からの賜物をしっかり守って行くことにつながっています。それは、「主よ、どうか今日も私を用いてください」、という日々の態度表明でもあります。主は、洗礼を受けている人たちを、御自分と共に積極的に活動していくように、招いておられます。「誰であれ私の後について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、私に従いなさい」(「ルカによる福音書」9章23節)。

 洗礼式は、キリスト信仰者の人生において、たんなる過去の出来事ではありません。洗礼式では、洗礼を受ける者の上に十字架を切る習慣があります。これは、その人が全人生を通じて自分の十字架を積極的に担って行くことを意味しているとも言えます。洗礼の恵みの中で生きることは、 目減りしない莫大な相続財産を日々紙幣やコインに両替して行く過程になぞらえることができるかもしれません。

 洗礼がそれを受ける人のその後の人生全体を覆い尽くすほど大事な出来事であることを正しく理解できるように、私たちは霊的に成長して行かなければなりません。遺憾ながら、現代の教会では、洗礼式や堅信式をたんなる行事ととらえ、人のその後の人生に与える影響については至って無関心である場合が多いようです。しかしながら、初期の教会のキリスト信仰者たちは、個々の信仰者だけではなく、教会全体が、「水の上に建てられている」という事実を信仰の基点としていました(引用は使徒教父からのものです)。

 洗礼を通して私たちは、死者からの復活の恵みを自分の相続財産として受け継ぐ権利をいただいています。ですから、この世の高価な品々は、実はそれほど大切なものではなくなります。これほど素晴らしい相続財産をいただいておきながら、今までとは違う生き方をする勇気をもてないようなら、ずいぶん奇妙なことと言わざるを得ません。

 (レイノ•ハッシネン)

 

説教「鳩のように素直に」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書10章16節~33節

 

先週の聖書に続いて、今週はマタイ福音書10章16~33節です。 表題でわかりますように、「迫害を予告する」となっています。

先週の10章15節までは、イエス様が12人の弟子を選んで伝導に遣わすことを命じられました。 この時、イエス様は、異邦人の地に行ってはならない、と言われています。 ユダヤの民への福音を宣べ伝える事でした。 そして、病人をいやし、死者を生き返らせなさい。金、銀は何も持って行くな、という命令でした。

ところが、今日のところでは、16節に「わたしは、あなた方を遣わす」と言われて、「それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と予告されています。

5~15節までのところでは、異邦人の所へは行くな、でしたが、18節を見ますと、彼らは異邦人に証しをすることになる。

次に、病人をいやしたり、死者を生き返らせなさいどころではない。弟子たち自身が迫害にあい、生きるか死ぬか、という深刻な状況となる派遣です。 21節を見ますと、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」という、恐ろしい予言です。 そして最後のところでは、22節には「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。そして「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」とあります。 だから、今日の派遣の予告のところでは、これから弟子たちの上に起こって来るであろう、迫害に対して、どう戦っていったらいいか、という戦いの予告なのです。

まず、あなた方は、狼の群れの中に羊を送り込むようなものだと、断言されています。ここに、どんなことが言おうとされているか。 この言葉を聞いて誰でも思うことは、狼の群れに羊を送り込まれたらどうなりますか。狼は獣の中でも肉食の群れですから、羊は食いちぎられて、むざんな最後となってしまうでしょう。 ここを原文にそって言いかえますと、「見よ!私は狼の真っただ中に行く羊のように、あなた方を送り出す」とイエスは言っておられるのです。 17節以下は、激しい迫害が待っている、そういう迫害が想定されて言われている言葉です。 これは、イエス様が復活されて昇天された後、やがて弟子たちがユダヤだけでなく、異邦人の地にまで、福音伝道が開始された後に発生して来る、迫害の戦いに身を置く事になる。

さて、この戦いに耐え忍んでいく時、どうすべきかを予言として語られているのです。この状況は、たとえて言えば「狼の群れに羊を放り込むような状況だ」 と、マタイは表現して記しているわけです。このことをまず前提にして、この言葉の意味を少し深く見ていきたいと思います。 この場合、たとえで言われている「狼の群れ」というのは、17~18節で言われているように、「人々を警戒せよ。彼らは、あなた方を地方議会に引渡し、彼らの会堂で鞭打つであろう。又、あなた方は私のため、総督や王たちの前に連行される。」

これでわかるように、戦いの相手はサンヘドリンと言われた、イスラエルの最高議会の権力者たちです。70人の議員がいて、地方には同じように30数人の議員で成った議会があった。地方の住民は、直接的には彼らの権力の手の下に支配されていたわけです。そしてユダヤ教の祭司長たちです。 弟子たちがこの群れに対して、「あなた方が十字架につけたイエス・キリストこそ、よみがえって救い主となられたメシヤである。」と、福音宣教を叫んだところで、彼らが従順にその声に服して信仰にはいるでしょうか。 ユダヤの民は、イエス様の言葉に耐えきれず、むしろ、まるで狼が羊を食いつくすように、ありとあらゆる悪しざまな仕打ちを、用意するであろう。

その時弟子たちは、狼の間にいる羊のように生きなければならない。 ユダヤ教の戦いの手口は、「目には目を」「歯には歯を」の思想である。 そこで、弟子たちであるキリスト者は、彼らと同じであってはならない。 憎しみに対し憎しみ、悪口に対し悪口、暴力に対し暴力をもって返す、これと同じような仕方、武器をもって戦うな!と命じておられるのであります。 これが羊の意味です。無防備、無抵抗、敵を愛するのみ。

21世紀に生きる私たちの世界は、どうでしょうか。 エジプトやイラクでは、政府、反政府に宗教がからんで内戦が続いています。イスラエルとパレスチナも何十年と戦い続けています。武力をもって相手と戦い、武力をもって返してきます。憎しみをもって憎しみを返す悲劇が続いていきます。 日本の現状はどうでしょうか。平和憲法のもと、無防備で戦争は決してしません、と宣言して来ましたが、そうは言っても周りから、武力をもって戦いを挑んで来ています。もう堪忍袋の緒が切れてしまって、武力に対して武力の構えをして来ました。これから注目すべきは中国と韓国の動き、そして北朝鮮はどうなっていくでしょうか、微妙な政情になってきました。今年、いろんな事が起こってきますでしょう。

さて、イエス様は弟子たちを、無力な羊のように狼の群れにほうり出される。この危険な只中でどうなっていくのか、イエス様ご自身は充分承知の上で、気をつかって見守っておられます。そして、次のように言われます。「だから蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。 ここに出て来る、蛇のようにということと、鳩のようにということが、どうしてもむすびつかない、よくわからない。 どうして、蛇と鳩を出して言われるのか、わからない。 鳩は平和のシンボルとして見られます。蛇は人間が一番きらう生き物。特に女性はきらいでしょう。

蛇のように賢くありなさい。当時のユダヤ人たちは、キリスト者に対してほんの少しでも弱点を見つけるやいなや、自分たちに有利になるように、情け容赦なく襲いかかって来る、そういう敵対者の中にいることになる。 ですから、敵対者を鋭く観察し、一寸のすきも与えない。すばしこく対応して耐え忍ぶすべを持っていなさい、という警告でしょう。 蛇のように機敏に立ち回って危険を乗り越えて進みなさい、というイエス様の教訓の予言です。 次に「鳩のように素直になりなさい」と言われます。 「素直になる」という部分で用いられているギリシャ語は、「アケライオス」といい、「混ぜる」という動詞の否定形で、「混じり気のない」とか「純真な}というのが元の意味であるというのです。 そうすると、この反対は、多くの種々雑多のものが混じっている状況ということになります。 想像してみて下さい。この世の人間は、争いがたえない戦いがうずまいています。戦いの矢先に立たされる時、決断を迫られるわけですが、何を判断の基準にしたらいいか、様々な思いが入り混じって混乱し、迷わざるをえない。 「鳩のように素直であれ!」というのは、これらの反対ですから、心を単純にしてまっすぐに進め、キリスト者はひたすら主の言葉だけを基礎に置いて、主のみこころのままに信じて進み行け、ということです。 もちろん、そこに具体的な状況の中で、事をするどく認識し、分析し、賢くふるまうこと。そして最終的には、そこで、いかなる事態が起こって来ようとも、 しっかりと主の御心の一点に向かって、信ずる道を断固として進みなさい。 まことに単純にして明快です。そうすると、最後には主の御旨に従ったのですから、主が責任をとって解決して下さる。そうすると勇気が与えられるのです。

キリスト者が迫害され、苦しみ、戦いの中でいかに対処すべきか、ということを、イエス様は予言の言葉で教えておられる。 しばしば、大きな危険を招き、時には殉教の死をも覚悟しなければならない道であったのです。 この教えで大切なことのもう1つは、一寸のすばしさを持って正しいことを機敏に対応していく、蛇の姿と同時に子供の無邪気さで親しまれていく、無心の 愛をもつ鳩の姿とを同時に備えていなさい。というのがイエス様の教えです。 時に賢くふるまい、時に純真な心と愛を土台にすえた、この二つの対比を合わせ持って、困難を乗り越える事を示されているのです。 弟子たち、そして私たちすべてのキリスト者は、どんな時代の困難に遭遇しても、神を知っている。 この世の人や、物や金に頼らない、神にのみ御国への希望を持って耐え忍ぶのであります。

21節から22節を見ますと、そこには具体的な激しい困難の様が予言されています。たよりとする聖なる家庭の中で、両親と子供を結ぶきずなが断ち切られる。弟子たちは、すべての者を自分たちの敵にまわし、すべての人に憎まれる。それは、ただ、イエス様の御名のために、そうなる。 世界に向かって、イエス様をすべてのものの主として証しするからであります。 しかし、終わりまで耐え忍ぶ者は救われるであろう。 すばらしい救いの約束であります。 ハレルヤ、アーメン。

 

聖霊降臨後第五主日  2014年7月13(日)