説教「福音は命の永久保証書」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書8章27-38節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先日、家電屋に冷蔵庫を買いに行きました。保証期間は1年と言われ、ちょっと短いなと思ったのですが、冷蔵庫の価格の5%を追加で払えば5年に出来ると言われ、しかもポイントでカバーできるというのでお願いしました。冷蔵庫の値段より1円も多く払わないで保証期間を延ばせたので、何かとても得をした気分になりました。これで5年間は故障してもタダでなおしてもらえる。それ以後は、壊れたらきっと修理代は高くついて新しいのに買い換えなさいということになるのだろうな。でも、5年先のことなんか今はまだ悩む必要はないなどと自分に言い聞かせたりしました。

 その翌日に今日の説教の準備を始めたのですが、本日の福音書の次の箇所で立ち止まりました。聖書を読まれる方なら誰でも知っているイエス様の有名な教えです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(マルコ8章34-37節)。」

 これを読む人はたいてい、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているのだと理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値のあるものなのだ、と。そうすると、最初に言っていること、つまりイエス様に付き従いたい者は自分を捨てて自分の十字架を背負いなさい、というのはなんのことだろうか?自分を捨てるというのはどういうことなのか?イエス様が背負いなさいと言っている十字架とは何なのか?人生の苦難や困難から逃げてはいけない、しっかり取り組みなさい、ということなのか?苦難や困難のない安逸安泰な人生を望んではいけないのか?

それから、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というのは、一体どういうことか?人間、どうせいつか必ず死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのだろうか?それに加えて、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うというのはどういうことなのか?大抵の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだな、と理解するのではないでしょうか?

そういう理解も間違いではないのですが、まだ少し浅いと思います。今見てきた福音書の箇所はマルコ8章34節から38節までですが、本日与えられた箇所は、27節から33節までが最初にあり、最後に39節がきます。これらを全部ひっくるめてしっかり読むと、今見た34節から38節の内容ももっとよくわかります。結論から言いますと、先ほどの冷蔵庫の保証期間に結びつけて考えると、イエス様と福音を携えて生きる者は命の保証期間が永久にあるようなもので、携えないで生きる者は保証がなく全部自己負担で生きようとするのと同じではないかということです。壊れた冷蔵庫の場合は、保証がなくても自費で修理か買い替えかのいずれかを選ぶことができますが、命の場合は、失われたらどんなに大金を積んでも取り戻すことはできません。自己負担の限界です。しかし、イエス様と福音を持つ者は、この世での命が失われても、復活の日に神から復活の体を与えられて新しい命を生きることになるので、命の保証期間は永久にあります。こうしたことがわかるために、以下、本日の福音書の箇所をみていきましょう。

2.

 まず、本日の福音書の箇所であるマルコ8章27-38節ですが、これは、マルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで、本日の箇所の出来事があり、その後でヘルモン山と推定される「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させる。それから後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、本日の箇所はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい始める出発点であります。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて、自分の受難と復活について預言します。

 本日の箇所の前半部分を見ていきましょう。マルコ8章27節から33節までです。まず、人々はイエス様のことを何者と考えているか、という質問をイエス様がします。弟子たちの答えから、人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが明らかになりました。それに対して、弟子のペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることが明らかになりました。その後でイエス様は、自分の受難と死からの復活について預言しました。それを聞いてショックを受けたペトロがそれを否定すると、イエス様は厳しく叱責したのです。ここで疑問として起きることは、まず、この「メシア」とは何かということです。普通、救い主とか救世主を意味すると言われます。しかし、それならイエス様はなぜメシアである御自分のことを誰にも話してはならないと弟子たちに命じたのでしょうか?それから、ペトロがイエス様の受難と復活の預言を否定した時、イエス様は激しく叱責してペトロのことをサタン、悪魔とまで言う。ペトロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてなのか?こういう疑問が起きてきます。以下にそれらを明らかにしていこうと思います。

 まず初めに、「メシア」について。これはヘブライ語の言葉マーシーァハ(משיח)で「油を注がれた聖別された者」の意味です。具体的には、ユダヤ民族の初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上10章1節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は神の約束もあって(サムエル記下7章13、16節)、ダビデの家系に属する王を意味するようになります。(それ以外の使い方としては、イザヤ45章1節、レビ記4章3節、ダニエル9章26節、詩篇105篇15節等ご参照。)ユダヤ民族の王国が滅びると今度は、将来ダビデの家系に属しユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨する王が現れるという期待が高まります。さらにイエス様の時代に近づくと、メシアとは、この世の終わりに現れてユダヤ民族の解放を主な任務としつつも全世界に神の救いを及ぼす、そういう一民族の解放に留まらず、文字通り「世の救い主」、「救世主」という理解も出て来るようになります。

このヘブライ語のメシアは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(クリストスχριστος)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語に訳して、イエスという名に付けたということであります。

 さて、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちに「御自分のことを誰にも話さないように戒めた」とありますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前でも無数の奇跡の業も成し遂げて、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人を沢山運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。

実は、イエス様が「誰にも話さないように」と戒めたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。触れ回ってはいけないのは自分がメシアであるということ、これを言いふらしてはならないということだったのです。どういうことかと言うと、先ほども申しましたように、メシアという言葉には、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解してしまったら、どうなるか?イエス様は、本当は神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られた。それなのに一民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人類救済計画の矮小化です。それだけではありません。占領者のローマ帝国は王国復興を企てる反乱者には神経をとがらせていました。もしガリラヤ地方で反乱鎮圧のため軍隊出動という事態になっていれば、エルサレムで受難と復活の任務を遂行するというイエス様の予定に支障をきたすことになったでしょう。

 ペトロのメシア理解にもおそらく一民族の解放者のイメージが強くあったと思われます。それで、イエス様が宗教指導層に迫害されて無残にも殺されるという預言を聞いた時、王国復興の夢を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならないと否定してしまったのだと思います。

 それにしても、預言を否定したペテロに「サタン、悪魔」と言って叱責するのは、いくらなんでも強すぎはしないか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画を邪魔することになる。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないということは、悪魔に加担することと同然になってしまいます。これが、イエス様の強い叱責の理由です。ここで、この神の計画というものを少しおさらいする必要があります。

キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを一番の大前提にしています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまった、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために人間は死ぬ存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、造り主である神との関係が壊れているということの現れなのです。

このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしてあげようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間からその罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことでした。三週間前の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でした。そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまったか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき罪の呪いをひとり子に背負わせて、罪からくる罰を彼に叩きつけて十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦す、というものです。そこで人間は誰でも、このひとり子を犠牲に用いて行った神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうするとことで人間は、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。人間は洗礼を受けることで、不従順と罪を持ったままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうしてイエス様を救い主と信じる者は神の目に義(よし)とされて神との結びつきが回復して、それからは順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと良い導きを受けて生きられるようになり、万が一この世から死んだ時も、その時は御許に引き上げられて、永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。

 さて、イエス様の弟子たちは、イエス様にユダヤ民族解放の夢を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から降る天使の軍勢の力を得てローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち倒して、永遠に続くダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する - そういう壮大なシナリオを思い描いていました。ところが、「迫害されて殺されて三日目に復活する」などと聞かされて、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てのことが起きた後で、それこそが本当に全人類の歴史にとって大きな転換点になったとわかったのであります。

3.

以上マルコ8章27節から33節までをみてきました。神の人間救済計画の全容が明らかになったと思います。この計画の実現のために神はイエス様をこの世に送ったのですが、人々は自分たちの民族的悲願のため、神の計画のスケールの大きさが理解できませんでした。全てのことがわかるのには、十字架と復活の出来事を待たねばならなかったのです。神の人間救済計画についてわかったところで、マルコ8章34節から38節を見るとその内容もよくわかってきます。

 それでは、イエス様が、つき従う者つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?それらについてみてみましょう。

 まず、私たちの背負う十字架ですが、これは、イエス様が背負ったものと同じものでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって全人類の罪と不従順を全部請け負って、罪から来る神の罰を全て引き受けて、人間の救いを実現した以上、私たちはそれと同じことをする必要はないし、そもそも神のひとり子でもない私たちにできるわけがありません。

 それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことなのでしょうか?ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に、神の霊に結びつく新しい人を植えつけられた者だと教えます。それでキリスト信仰者の人生は、この神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくことになるのだと教えます。古い人を死なせるというのはどぎつい言葉ですが、これはそんなに物騒なことではありません。ルターが言わんとするところは、まず、自分の肉に古い人がいることを認めて、それが神の意志に反して生きるようにと自分をたえずそそのかすことを忌み嫌うこと。忌み嫌っているのに神の意思に反するようにと引っ張る力が働くのも現実にある。しかし、それにもかかわらず神はイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに私を罰するかわりに赦して下さる、その赦しを神から受け取ること。これが古い人を死なせ、新しい人を育てることなのです。神の赦しという重石をのせられて、古い人は日々押し潰されていくのであります。

そういうわけで、「自分を捨てる」というのは、肉に結びついた古い人を死なせていこう、神の霊に結びついた新しい人を育てていこう、そういう生き方を始めることです。それはまさに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。「自分を捨てる」と言うと、なにか自分で自分を律するようにして無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえますが、そうではありません。また、自分自身を放棄することでもありません。そうではなくて、神が与える赦しの恩恵に包まれて、もっともっと包まれようと赦しに次ぐ赦しを受けて自分が新しくされていく、そのことに身も心も委ねてしまうことです。古い人が衰えれば衰えるほど、新しい人が育っていくということです。

そういうわけで、私たちがそれぞれ背負う十字架も、洗礼を受けた時に始まる新しい人と古い人との間の内的な戦いということになります。戦いの現れ方は、それぞれ人が置かれた状況によって違います。例えば職場や家庭などの具体的な人間関係の中で、死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるかもしれません。自分より良い境遇の人を妬むことで古い人が強まるかもしれません。あるいはキリスト信仰の故に、誤解を受けたり仲間外れになったりすると、イエス様を唯一の救い主と信じることが揺らいでしまって、新しい人の育ちが後退するかもしれません。このように背負う十字架は、それぞれ見た目は違っても、新しい人と古い人の間の戦いを戦うという点では内容はみな同じです。

 さてここで、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう(注)。36節でイエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言います。ここの「命を失ったら」の動詞「失う」(ζημιοω)と、前の35節で二度「命を失う」と言っている動詞「失う」(απολλυμι)ですが、原語のギリシャ語ではそれぞれ違う言葉を使っています。36節の動詞の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意する辞書もあるくらいです。そうなると35節と36節はどう理解したらよいでしょうか?

先ほど、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて古い人と新しい人との内的な戦いを始めることであると申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を救うとか失うとか言っているのは、実は、この内的な戦いを戦いながら神のもとに戻る道を歩んでいるかいないかを意味することが明らかになってきます。以下、35節から先を整理してみます。

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは、解説的に言い換えるとこうなります。「イエスを救い主と信じず古い人の言いなりのままにいて新しい人を植えて育てようとしない者は、永遠の命を望んでも、それを得られない。なぜなら、自分の造り主である神のもとに戻る道を歩んでいないからだ。しかし、イエスを救い主と信じて内的な戦いを始めた者は、たとえその信仰が原因で命を失うことがあっても馬鹿を見たことにはならない。その者は永遠の命を得る。なぜなら神のもとに戻る道を歩んでいるからだ。」

36節と37節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これも次のように言い換えることができます。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりになって生きていて神のもとに戻る道を歩んでいない者は、命に傷がついているのである。そのような者が全世界を手に入れても何の得があろうか?全世界を支配して莫大な財産を有していても、そうしたものでは永遠の命を買い取ることはできないのだ。」

詩篇49篇8-9節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。保証書がなくて壊れた冷蔵庫だったら自費で直したり買い換えたりできます。しかし命の場合は、失ってしまったら、全世界の資産の合計を差し出しても、元に戻らないし、新しい永遠の命にも変えることができません。ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さった方がおられるのです!イエス・キリストという神のひとり子が私たちの犠牲の生け贄となって十字架の上で血みどろになって流した血が全世界の総資産にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を罪の支配力から解放し、本来の造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たち一人一人は、神の目から見てそれくらい高価なものなのです。

さらに神は一度死んだイエス様を復活させることで、今度は永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそこを歩むようになったのです。福音というのは、神がイエス様を用いて実現した人間の救いを伝える良い知らせを意味しますが、それは真に人間にとって命の永久保証書です。冷蔵庫の保証書はポイントを使って5年に延ばすことができましたが、こちらの方は、神のひとり子が高価な代価を払ってくれて、無限に延ばすことができました。どれだけ得をしたか考えただけで、兄弟姉妹の皆さん、気が遠くなりませんか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


(注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十七主日
2015年9月20日の聖書日課  イザヤ50章4-11節、ヤコブ2章1-18節、マルコ8章27-38節


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