説教「歓呼の中で最終目的地にて出迎えを受ける喜び」神学博士 吉村博明 宣教師、イザヤ書35章4-10節 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 皆さんは、大勢の人から歓呼で迎えられたり歓声を受けた経験がありますか?スポーツの選手だったら、競技の最中とか、また試合や競争に勝った時は観客の歓声を浴びるでしょう。音楽を本格的にする人だったら、演奏や歌が終わった時、聴衆から拍手を受けるでしょう。そうなると、大勢の人の歓声を受けると言うのは、スポーツ選手や音楽家のように特別な才能ある人に限られて、普通の人はあまり機会がないかもしれません。それでも、小学校や中学校の運動会で走った時は応援の声を浴びたり、ゴールインした時は、たとえ一番でなくても誰かしら拍手してくれたり、「よく頑張った!」と言ってくれたのではないでしょうか?また学芸会の劇とか合唱コンクールにクラス全員で出て、観客から拍手を受けた時などは、たとえ自分は脇役くらいだったとしても、大勢の人たちから大きなこと成し遂げたと見てもらったような感じがしたのではないでしょうか?こうしたことは、大人になってしまったら、どんな感じだったかもう覚えていない人がほとんどかもしれません。しかし、大抵は誰でも歓声や拍手を受けた経験はあるものです。

本日の旧約聖書の箇所であるイザヤ書35章は、人は誰でも歓呼や歓声をもって出迎えられる可能性があることについて述べています。しかしながら、その歓呼や歓声の場所は、スポーツ競技場でもコンサート会場でもありません。それではどこでしょうか?イザヤ書35章は、神の国、別名天の御国、またの名を天国と言いますが、人がそこに迎えられる時の出迎えの様子について述べています。しかも、その歓呼や歓声たるや、大勢の天使たちが出迎えをしてあげるものです。10節に「とこしえの喜び」とあるように、永遠に続く喜びに満ち溢れた歓呼・歓声です。スポーツ競技場やコンサート会場の観客の一過性の歓声とは全く質が違う、天国に響き渡り、永遠に続く喜びに満ちた歓呼・歓声です。特別の才能があろうがなかろうが、またどんなに目立たない人生を送ってきた人でも、そのような盛大な出迎えを受けられる可能性がある、ということをイザヤ書の箇所は教えています。どうしてそのようなことが可能なのか、以下みてまいりましょう。

2.

イザヤ書35章を一読すると、渇いた荒れ地に水が溢れ出て草花が咲き乱れたりすることとか、またエルサレムに通じる道が現れて、そこを喜びに溢れて進んでいくことなどが書かれています。そうすると、この箇所は、イザヤ書40章から55章にかけて述べられている、ユダヤ民族のバビロン捕囚からの解放とエルサレム帰還を先取りする内容のように見えます。バビロン捕囚からの解放とエルサレム帰還というのは、紀元前500年代後半に起きた歴史的な出来事です。当時のイスラエルの民にとって、解放と帰還はそれこそ喜びに満ちた帰還でした。バビロンからエルサレムまでの荒野の道はそれこそ、水が溢れ出たり花が咲き乱れるような気分で歩むことができたでしょう。囚われの身だった人々が解放されたというのは、さぞかし歩けなかった人が鹿のように躍り上がったり、口の利けなかった人が喜び歌う、そういうイメージを彷彿させたでしょう。

 しかしながら、キリスト信仰者がこの箇所を読む時は、これを歴史的な出来事のイメージ豊かな描写という理解で終わってはいけません。5節と6節で「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」と言われていますが、これは、単なるイメージ描写ではありません。なぜなら、本日の福音書の箇所から明らかなように、こうしたことは、バビロン捕囚からの解放と帰還の500年後にイエス様が実際に全て行ったのです。本日の福音書の箇所では、耳と口が不自由な人が癒された奇跡が記されていますが、イエス様は盲目の人の目も見えるようにしたり、手足の萎えた人が自由に動けるようにする奇跡も行っています。そうしたことは単なるイメージだけでなく、実際に起きることがイエス様の事例で明らかなのです。

加えて、9節と10節をみると、「解き放たれた人々」とか「主に贖われた人々」が道を進むことが述べられています。「解き放たれた者」(9節)とは一見、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民を意味すると考えることができます。しかし、原語のヘブライ語ではそれこそ「贖われた者」( גאולימ< גאל )という意味の単語です。「贖われた」とは、囚われの身だった者が誰かが請け負ってくれたので自由の身にしてもらった、という意味です。10節の「主に贖われた人々」はもっと意味がはっきりしています。原語のヘブライ語( פדויי< פדה)では「主が身代金を払ってくれたので自由の身にしてもらった」という意味です。

「贖われる」とか「身代金を払ってもらって自由になる」という考え方は、キリスト信仰にとって要となるものです。なぜならキリスト信仰者は、人間は罪の汚れのために神聖な神との結びつきを失ってしまったが、イエス様がゴルゴタの十字架で人間の罪を請け負って神の罰をかわりに受けてくれたおかげで、神から罪の赦しを受けられるようになり、それで神との結びつきを回復できるようになったのだ、と信じます。まさにそれゆえにイエス様は真の救い主であり、彼が十字架の上で流した血こそが私を罪の奴隷状態から解放するための身代金になった、そのように自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに神は私を大切な存在に扱ってくれたのだ、とわかります。それでキリスト信仰者は、神に感謝してひれ伏し、神の意思に沿うように生きようと志向するのです。さらに、そこまで自分を愛してくれる神なら自分の思いや悩みを真摯に受けとめて聞いてくれるだろうと信頼して、神に祈りを捧げ、思いと願いを全て打ち明けるのです。

道、真理、命

そういうわけで、イザヤ書35章9節10節にある「解き放たれた人々」、「主に贖われた人々」というのは、イエス・キリストの十字架の贖いの業が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じるようになった人たちを意味します。まさに、キリスト信仰者です。今から2500年以上前の歴史的出来事の人々にとどまりません。さらに、10節の最後をみると、「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」と言われています。同様なことが黙示録21章でも言われています。それは、最後の審判と死者の復活が起きる時に出現する新しい天と地についての預言です。その時、復活させられて神のもとに迎え入れられる者たちについて次のように言われています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3-4節)」。

ギリシャ語の新約聖書のテキストの欄外に編者の注のようなものがありますが、この黙示録の箇所はイザヤ書35章10節をもとにしていることが記されています。つまり、黙示録を書いたヨハネにとって、イザヤ書の35章は過去の歴史的出来事ではなく、新しい天と地が現れる将来の出来事を意味したのです。10節にはまた、「喜び歌いつつシオンに帰り着く」と言われています。シオンというのは、エルサレムを指す言葉ですが、ヨハネの黙示録では新しい天と地が出現する時に天から降ってくる天の御国のことをエルサレムと言っています。地上の町のことではありません。

ここで、旧約聖書の読み方について注意しなければならないことを述べておきます。旧約聖書は、もちろんイエス様以前のイスラエルの民の歴史やユダヤ民族の信仰について知る書物として読むこともできます。それはそれで意味があります。しかし、キリスト信仰者はそれにとどまってはいけません。旧約聖書には来るべき人間の救いとその救い主についての約束が随所に記されています。ルターが、旧約聖書を読む時はキリストを見いだすように読みなさい、と教えている通りです。従って、このイザヤ書35章の内容は以下のようなものと言うことができます。イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神から罪の赦しを得て罪の奴隷状態から解放された者たちが、この世の人生の歩みを経て天の御国という最終目的地に到達して、そこで歓呼と歓声をもって出迎えられるということです。以下、このことを踏まえて、35章を少し詳しく見ていきます。少し聖書研究会のようになってしまい恐縮ですが、皆様、お手元の聖書をお開き頂き、それを見ながら話をお聞き下さい。

3.

1-2節 私たちの用いる新共同訳では「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ」という具合に、「喜び躍れ」は命令文です。英語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書をみると、「喜び躍ることになる」と未来の意味で訳され、命令の意味ではありません(ドイツ語の旧約聖書は手元にないので割愛します)。私としては、ヘブライ語の文法上、命令が正解と思われ、日本語訳に軍配があがるのですが、その後がよくない。最初を命令の意味に訳すと、文法上その後は目的とか結果の意味に訳さないといけないのです。つまり、こうです。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠が喜び花を咲かせるために(または、「そうすれば砂漠は喜び花を咲かせるであろう」)。

 「レバノンの栄光」とか「カルメルとシャロンの輝き」というのは、これらの場所が荒れ野と全く対称的な自然豊かな土地だったのでしょう。ただここは、荒廃した自然が緑豊かに回復するという意味ではなく、今ある天と地にかわる新しい天と地の出現を暗示しています。それがわかるのが、2節の終わり「人々は主の栄光と我らの神の輝きをみる」という節です。人間は誰も神の栄光や輝きをみることはできません。罪に汚れた人間が神聖な神の前に立つと、焼き尽かされてしまいます。人間と神との落差はそれほど絶望的なものです。しかし、イエス様を救い主と信じる者に神は次のように言います。「そうか、お前は私が送ったイエスを救い主と信じ、私が彼を用いて実現した罪の赦しの救いを受け入れるのだな。ならば、お前の罪はお前のその信仰のゆえに赦される。」このように言われた者は、最後の審判や死者の復活が起きる日に神の栄光や輝きをみることができ、見ても大丈夫なのです。

3-4節 「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。」ヘブライ語の原文では「敵」とか「悪」という単語はありません。原文に忠実に訳すと、「報復が来る。神の報償が」です。この世で不正義、悪、不条理の犠牲になった者は何百倍にも償いを受けて完全な補償を受ける。逆にそのような犠牲をもたらした者は、この世の人生の段階で神の前にへりくだって赦しを乞わない限り、何百倍もの報いを受け永遠の苦しみを受けることになる。そういう人間の生前の行いが最終的に完璧に全て清算される時が来るということです。もちろんこの世の段階で、不正義、悪、不条理の問題はある程度は解決できて、被害者に償いや補償を行うこともできましょう。しかしながら、解決できないものも多く、解決できた場合も完全に正義を実現したのか疑わしい時も多々あります。だから、最後の審判の日に全ては神の意思に沿って完全かつ最終的に清算されるのです。

先ほど引用した黙示録21章4節に、神は涙をことごとく拭い取って下さる、とありましたが、それはまさに神の完全かつ最終的な清算を象徴しています。加えて、黙示録19章では天の御国は結婚式の盛大な祝宴にたとえられています。これは、この世での労苦に対する最上の労いを意味します。キリスト信仰者は、将来こういう時が待っていると知っているので、この世で悪に手を染めず、悪から試練を受けても「雄々しくあれ、恐れるな」という言葉が絶えず耳に響いているのです。およそ神の意思に沿うことなら、何事も無意味だったとか、無駄だったとかいうことは何もないとわかっているのです。

5-7節 見えない人が見えるようになり、聞こえない人が聞こえるようになり、歩けなかった人が躍り上がり、口の利けなかった人が喜び祝う。これは、死者の復活が起きる時、神の御国に迎えられる者が復活の体という特別な体を与えられることを意味します。復活の体について使徒パウロは、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです(第一コリント15章42-43節)」と教えます。イエス様は復活させられた者がどんなものかについて、ずばり「天使のようになる」と言っています(マルコ12章24節)。

 「口の利けなかった人が喜び歌う」の次ですが、ヘブライ語の原文では「なぜなら」という言葉があります。つまり、いろんな障害を抱えている人が輝かしい者に復活する。なぜなら、荒れ野に水が湧きいでて、荒れ地に川がながれるからだ、と言うのであります。この自然描写は、最後の審判と死者の復活が起こる時に出現する新しい天と地について述べています。

8節-9節 「そこに大路が敷かれる」の「そこに」というのは、ヘブライ語の言葉としては「そこに至る」と訳しても大丈夫な言葉です。新しい天と地のある場所、つまり神の御国に至る大路が敷かれたということです。イエス様を救い主と信じ、神から罪を赦してもらった人は、その道の上に置かれてあとは御国を目指して歩み続けます。「汚れた者」がその道を通れないと言われますが、これは罪の汚れを持つ者です。ただし、キリスト信仰者も肉を纏って生きている以上、罪の汚れを持っています。どこが違うかというと、信仰者の場合は信仰のゆえに罪を赦してもらっているが、信仰者でない場合はまだこの神からの赦しを得ておらず罪の汚れが汚れとして残っているのです。

8節で「主御自身がその民に先だって歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない」と言われます。最初の部分を原文に忠実に訳すと、「その道は、その道を通る者のものである」。なんだか当たり前すぎてよくわかりません。しかし、次の行「愚か者がそこに迷い入ることはない」をよくみれば意味がわかります。「愚か者」とは、神の知恵からかけ離れた者のことです。神の意思を知らず、神の導きに自分を委ねたくない人です。翻って、「その道を通る者」とは神の意思を知っていて、神の導きに自分を委ねる、神の知恵に与った人です。「道」は、そのような者の道なのです。

 この天の御国に至る道は、獅子も獣も入り込めない道と言われます。つまり、しっかり守られ安全な道なのだという。しかし、御国に至る道を歩む者が危険や災難に一切遭遇しないとは言い切ることはできません。だったら、安全ではないでないか?と言われてしまうでしょう。使徒パウロが次のように教えていることを思い出しましょう。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのです(ローマ8章38-39節)」。危険や災難に遭遇しても、それらには信仰者から神の愛を引き離す力は持っていないのであります。それで安全なのです。

10節「主に贖われた人々は帰って来る」。「主に贖われた人々」とは、イエス様が十字架で犠牲の死を遂げたことで私の罪は赦され、イエス様のおかげで罪の奴隷状態から贖われた、と信じる者です。「帰って来る」というのは、神から罪の赦しを受けて神との結びつきを回復させた者が、最初の人間アダムとエヴァが堕罪前にいた楽園にまた帰って行く、という意味です。このようにイエス様の十字架の贖いの業というのは、最初の人間が失ったものを取り戻す意味があります。

「シオン」とは、先ほど申しましたようにエルサレムの別名で、エルサレムも地上にあった現実のエルサレムの町の意味の他に、天の御国も意味します。

「とこしえの喜びを先頭に立てて」。ヘブライ語の原文では、「とこしえの喜びは彼らの頭上にある」です。「喜びと楽しみが彼らを迎え」。「迎え」と言っているのは、原文では「取って替わる」という意味がある動詞です。「喜びと楽しみが取って替わる」というのははっきりしませんが、すぐ後で「嘆きと悲しみは逃げ去る」と言っているので、「贖われた人々にとって喜びと楽しみが全てに取って替わり、嘆きと悲しみはもう入り込む余地がなくなって退散せざるを得ない」という意味でしょう。

4.

以上、イザヤ書35章というのは、キリスト信仰者が歩むことになる道、永遠の命に至る道がどんな道でどこに至るかをよく教えている箇所であることが明らかになりました。その途上で信仰者は決して危険に遭遇しないとは言えないけれども、どんな危険や困難も、信仰者を神の愛から引き裂く力を全く持っていないのです。そしてこの世が終わりを告げて死者の復活が起こる時、信仰者は朽ちない復活の体を与えられ、天の御国にて神の天使たちの盛大な出迎えを受けます。到着する方も出迎える方も、ただただ喜びに満たされています。それこそ、天使たちが「おめでとうございます!よく頑張りましたね!」と叫ぶのが聞こえそうなくらいです。

本日の福音書の箇所で述べられているイエス様の奇跡の業について一言。イエス様は、イザヤ書35章や他の章にも預言されているいろんな癒しの奇跡を行いました。イザヤ書35章をよく見ると、難病が癒されるのはそれこそ終末の時、新しい天と地が出現する時の出来事として記されています。それがまだその時でない段階で、どうして奇跡の業を行ったのでしょうか?

それは、神の国がイエス様とともにあったからです。イエス様は活動開始の頃、「悔い改めよ。神の国は近づいた!」と宣べ伝えました。「近づいた」というのは、ギリシャ語の原文ではエンギケン(ηγγικεν)という言葉で、これは「近づいた」と言うよりは、ずばり「もう来た」とか「もうここにある」という意味です。神の国は、先ほども見ましたように、復活の体を与えられて朽ちない存在に変えられた者が集い、なんらの嘆きも悩みも苦しみもなく死もなく、病気も飢えもない世界です。そんな神の国がイエス様にくっつくようにして一緒にいたのです。だからイエス様が触れたりまたイエス様に触れれば、神の国の影響力が働いて病気が治ってしまう。イエス様が一声かければ嵐は静まり、わずかな食糧で数千人もの人たちを養ったりしました。つまり、当時の人たちは、まだ最後の審判や復活の日が来る前に神の国を垣間見たないし味わったのです。

しかしながら、いくらイエス様に癒してもらったり、空腹を満たしてもらったりして神の国の力や影響力を体験したとは言っても、これらの人々はまだ神の国の外部に留まっています。神の国の内部にはいれるようになるためには、これはイエス様のゴルゴタの十字架の贖いの業と死からの復活がなされるのを待たなければなりませんでした。それらが成就した後で、人はこれらの出来事が自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神の国に至る道に置かれてその道を歩み始めるのです。まさに、イエス様がイザヤ書35章で言われる大路、聖なる道を敷いたのです!キリスト信仰者は、この道がどこに向かって、最終目的地はどんな場所か、そしてそこでは歓呼と歓喜を持って出迎えを受けるということを知っています。

雄々しくあれ、恐れるな。חזקו  אל-תיראו
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
ששון  ושמחה  ישיגו  ונסו  יגון  ואנחה

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメ

 


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十六主日
2015年9月13日の聖書日課  イザヤ35章4-10節、ヤコブ1章19-27節、マルコ7章31-37節


新規の投稿
  • 2024年4月21日(日)復活節第四主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師
    [私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と、平安とが、あなた方にあるように。アーメン]                           2024年4月21日(日)スオミ教会  「私は、まことの羊飼い。」 […もっと見る]
  • 牧師の週報コラム
    遠藤周作「沈黙」から帚木蓬生「守教」へ (先週の週報コラムで和辻哲郎の「鎖国」と渡辺京二の「バテレンの世紀」について書いたら、礼拝後のコーヒータイムの席で遠藤周作の「沈黙」が話題になりました。それで今回はその時の話の続きとして) […もっと見る]
  • 手芸クラブの報告
    4月の手芸クラブは24日に開催しました。朝から雨がしとしと降り少し涼しい日になりましたが、季節はまだ新緑がきれいな春です。 […もっと見る]
  • スオミ教会・家庭料理クラブの報告
    4月の料理クラブは桜もそろそろ終わり始めの13日、爽やかな春の陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのフィンランドのコーヒーブレッド、アウリンコ・プッラを作りました。 料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。 […もっと見る]
  • 歳時記
    杜若・カキツバタ 近くの谷戸池に今年も杜若が咲き出しました。まだ二輪だけですが間もなく満開になるでしょう。 […もっと見る]
  • 牧師の週報コラム
     和辻哲郎「鎖国」から渡辺京二「バテレンの世紀」へ 和辻哲郎の「鎖国」は驚くべき本である。中心テーマは室町時代末期から江戸時代初期にかけてのキリシタン盛衰記だが、序説がなんとローマ帝国の崩壊から始まる。 […もっと見る]