説教「神の前の自分」木村長政 名誉牧師、マルコ福音書9章38~50節

 先日、テレビで有名な作家を招いてインタビューする番組をみていました。その対談の中で中国の古い言葉について話が出たのです。その言葉というのは、

「理解は偶然、誤解は当然」。日本という国に、1億2千万もの人が生活している中で考えてみたら、自分のことさえ、よくわからないのに自分の言葉を理解してもらえる、というのはものすごいこと、理解されたのは偶然で、誤解されるのが当然という話です。

自分の伝えたい、本当の心を真に理解し、わかってもらえた、心底、理解し合えるというのは、まさに偶然でしかない。いくら説明しても、わかってもらえない、相手が「はい、わかりました」と言っても全然わかっていない。何も変わらない。いかに人間というもの、理解されないまま、形では、わかったふりをして私たちは何と誤解され、誤解したまま、すごしていることでしょう。

本心から理解し合えるなんて、偶然でしかない。理解されないし、又自分も理解していない。人間というものは、何とあいまいで、ごまかされていることだろう。自分でも、うんざりしてしまう。

実に味わい深い、真実の言葉だなあと、この頃ずうっと心に残っています。

「理解は偶然、誤解は当然」

このことを、心にとめて、少しでも暖かい心で、根掘り葉掘り、コミ二ュケー

ションを深め、本心から理解し合えるようにしていきたい、大きな課題です。

人は変えられるのか、理解するのは難しい!

さて、今日のみ言葉について見ますと、まずマルコ8章31~37節にイエス様が弟子たちに、ご自分の十字架上で死ぬ、ことと3日の後、復活することを予告されます。そして9章30~32節で、もう一度話されました。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後、復活する。」弟子たちは、この言葉がわからなかったが、怖くて尋ねられなかった、とあります。イエス様が殺されるなんて、とても弟子たちには理解できなかったのです。

まして、三日の後に死んだ人が復活するということなど、とても信じられない、弟子たちには理解されなかった。8章31節からの第1回目に予告されたのが、詳しく話されています。31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、司祭長、律法学者たちから排斥され、殺され、三日の後に復活することになっている。と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことを、はっきりお話になった」この話を聞いた弟子たちには大変に驚いたことでしょう。また何のことか、よくわからなかったでしょう。するとペトロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って弟子たちを見ながらペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。」

ここでイエス様はペトロに、サタンに「引き下がれ」と言われて、神のことを思わない者はサタンの誘惑に負けている。弱い者だから神のことを思わないようにと、サタンが支配している。そうした上で、今日のみ言葉の9章42~47節

を見ると具体的に結果としてどうなるか、弱い者をつまずかせる者、罪へ誘惑する者は地獄に投げ込まれるのだ。命にあずかりたいなら罪の誘惑へ、つまづかせる手やあし、目さへ切り取ってしまえ、と言われる。大変きびしいお言葉です。

42節「わたしを信じる、これらの小さな人をつまづかせる者は、大きな石臼を首にかけられて海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまづかせるなら切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火のなかに落ちるよりは片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまづかせるなら切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりも、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまづかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは一つの目になっても神の国に入る方がよい。」

弱い、どうしようもない自分が、神の前に立たされている。そして罪を犯す手や足を切り捨ててでも神のみ国に入りなさい、神の命に生かさるようにしなさい。というのが今日のメッセージです。イエス様は罪の誘惑の恐ろしさというものを知ってほしいと思っておられるのです。罪の誘惑の深刻さを、わたしたちは、あいまいにしていたので、イエス様は十字架の苦しみを受け、私たちの罪をあがなって下さったのです。純心で罪の誘惑に落ちてしまいがちな弱い者たちをつまづかせる者には、イエス様は何の恵みも持ちあわせておられない、ということです。だから、つまづかせる者に対して最悪の警告をしておられるということです。この箇所には、罪につまづかせる片手と片足、片目をすててしまいなさいと、言ってありますが、それだけではない、もっと人をつまづかせ人の心を傷つけてのは、自分の舌、自分の口がしゃべっている言葉でしょう。

自分では気づかないところで、私たちは心を傷つけ苦しめてしまっていることでしょうか。神の前に立って、罪を犯してしまう、それらのものを切り捨ててでも究極的に一番大切なものは、命にあずかる方がましだ、と言っておられる。

また神のみ国に入る方がましだ、と言っておられる。この二つです。そして、あなた方は、この世にあっては塩味のきいた塩になりなさい。49~50節で言われています。塩は良いものである、自分自身の内に塩をもちなさい。この塩こそは、私たちの罪のいっさいを十字架の上であがなって下さった、イエス・キリストを「私の救い主」と信じることです。

最後に、みなさん世界の喜劇王と言われた「チャップリン」をご存知でしょう。沢山の映画に出演し劇場で人々を笑わせ、」皮肉って、皮肉って笑わせたいと命をかけてきたチャップリンが言った言葉「人生は地獄だ」と言ったのです。チャップリンから見たこの世の姿はまさに「地獄」だと言っているのでしょう。

私たちは、いつもイエス・キリストと共にこの世にあってイエス・キリストの命にあずかって生きとうございます。        アーメン・ハレルヤ!


主日礼拝説教 聖霊降臨後第19主日
2015年10月4日の聖書日課 マルコ福音書9章38~50節


 

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