説教「悲しんでいる人は幸いである」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書5章1~12節

今日の福音書は、有名な「山上の垂訓」と言われる、イエス様が山の上で弟子たちに説教された話です。とてもシンプルな一言、一言ですが、その言われている言葉の意味は、深い真理が込められている含蓄のある言葉です。この山上での説教は誰のために書かれたか、ということが大切なことです。5章1~2節を見ますと「イエスは、この群集を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き教えられた」とあります。山上の説教は、マタイでは、5~7章にかけて語られています。ルカの方では、6章20~49節に書いてあります。イエス様が山の上で語られた、その山からは、ガリラヤの湖がなだらかな高原の先に見えます。静かな小高い丘の上といったところです。現在はもう2000年以上たって、まわりに大きな木々が森のように囲っていて、小鳥がさえずっています。イエス様が山の上で座られると弟子たちが、みもとに集まってきました。おそらく群集も多く、イエス様の話を聞きたいと集まっていることでしょう。イエス様としては、群集より弟子たちに対して語られたのでしょう。「あなた方は、地の塩である。」と13節に語られています。また「あなた方は世の光である」とも言われました。(14節)

 信仰のない人が「地の塩である」とか「世の光である」とか言われることはないはずです。ですから、この山上の説教は、信仰を持っている人のために語られた、ということです。それなら、私たちにも、信仰を持って弟子たちと同じように語られている、ということです。信仰を持っている、ということは、つまり、キリストの救いによって罪を赦されている、ということになります。それなら、この山上の説教が弟子たちに与えられた、ということは今日の私たちから言えば、キリストに罪を赦された者として、読む、ということになるのです。(山上の説教の内容に入る前に、こうしたことを充分ふまえて見ることが、イエス様の教えの根底にあるのです。)傲慢な人間は自分の力で、神のみ心にかなう人間になることができる、と考えています。自分に欠けたことがあることは知っていても、それは、いつかは何とかすることができる、と内心は思っているのです。自分にはできなくても、人間は、いつかは、できるものである、と思うのであります。そうした人間に対して「人間は神によって救われなければ、ほんとうの人間になれない」ということを、知らせる必要がある。しかし、それは、容易なことではないのであります。神のお求めになることが何であるかを完全に知らなければならないのです。それは、十戒のいましめ、そして、この山上の教え、という一番基本となる、真理をぶっつけて、悔い改めさせるほかないのです。このようにして、山上の説教を読む者は、人間の生活に美しい理想を描くどころではない。それによって、人間は全くどうしょうもない、罪ある者であって、神に救われるほか、ない、と悟るに至るのであります。

 これが、山上の説教全体の一番根底にある、ということを覚えていてください。山上の説教は、今日で言えば、教会にいる者に、告げられたものでありましょう。イエス様の、このころの言葉で言いますと、神の国のためであります。神の国は近づいた、悔い改めよ と叫ばれた。そこには、神の国を予想して、そこで、どういう生活をするか、ということであったにちがいありません。戒めのようなものが少なくないことも事実であります。しかしそれも、ただ人間が守るべきもの、ということではないのです。神の国の中にいる者の、生活の仕方である、ということです。と、すれば、それは神の恵みによって、生きている者の生活、ということになります。神様は、モーセに十戒をさずけられました。十戒は、ただの、いましめではありません。十戒のはじめには「わたしは、あなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とあります。十戒をとなえる前に、しっかりと、このことを示されています。つまり、「十戒」は、救いを与えられた者が、その救いを受けた物に、自分に従うことを求められたものであります。だから、こうしなさい、と言うよりは「このようになるはずではないか」ということなのであります。恵みを受けた者が、その恵みに答え、その恵みに生かされる道であります。山上の説教の、はじめの方に九つの教えがありますが、そこには、みんな「さいわいである」と言う言葉が付いているのです。文語訳では「幸いなるかな」と、はじまって、心の貧しい人は、なぜなら、点の国は、その人たちのものである。「幸いなるかな」、悲しむ人々は、その人たちは慰められる。このように「幸いなるかな」と、いきなり宣言されて、何を言うよりも先に、「さいわいである」。あなた方は、何んと幸いであることか、と叫ぶように語りかけて」いるのです。こういうことをしたら「さいわいになる」と、いうのではなく、今、すでに「さいわい」になっているのであります。

 なるほど、私たちに与えられている祝福、さいわい、が完全に成就するのは、神のみ前に出た時であるかもしれません。しかし、今までに、その祝福に、あずかっているので、さいわいなのである、というのであります。話は、そこから始まる。3節から始まって12節までの「さいわい」の中で4節だけを少し深く見てみますと、4節には、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは、慰められる」とあります。信仰者の生活には、深い悲しみがあると思います。人には言えない、悲しみもあるでしょう。ある人が言いました。「涙と共にパンを食べ、床の中で泣き明かしたことのない人は、ほんとうの恵みを知ることができない。」ここで、語られていることはただの人間の、悲しみではありません。救いを受け幸いである、と語られている人の悲しみであります。つまり、信仰生活をしている人の悲しみであります。「悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう」という、この御言葉は悲しんでいる人が慰められる時に用いられるもの、と考えられているのではないでしょうか。従って信仰を持っている人は、その悲しみが慰められることを喜んでいるはずなのでは、ないでしょうか。それなら、信仰者の悲しみというのは、どういうものでしょうか。

信仰を持って、生きると言うのは、正しい生活をすることであります。罪深い、この世にあって、信仰生活をすることは決して喜びだけではありません。信仰者、この世の罪と闘い、罪をうれえ、悲しむ生活にちがいはありません。それは、むしろ信仰生活の特徴であって、これを避けることはできません。なぜなら、信仰者は、自分が罪人であることを知っていますから、世をいたずらに、さばくことができないのです。自分も、この世の人々と同じ人間であることが、よくわかっているはずですから、この世の罪は自分の重荷として荷わなければならないはずだからであります。人ごとのように言うことができないのです、ここにも信仰者の悲しみがあるにちがいがありません。それは実はキリストに従う者の悲しみ、というべきでしょう。それなら、ここで言われる悲しみとはどういうものでしょうか。まず、ここでは心の貧しいに者に続いて語られているのです。3節の「心の貧しい者と悲しむ者」とは関係がある、ということでしょう。

 九つの「幸い」といわれる説教はキリストの救いによって「さいわい」にせられた者を考えているのであります。そこで信仰者は信仰をもっているがゆえに、何を悲しむのでありましょうか。宗教改革者のルターは95ヶ条の項目を城教会のとびらにうったえました。その第1条にルターは多くのことを言っていますが、その主な点は信仰者の生涯は絶え間のない悔い改め、回心の連続であるべきとである、と、うったえています。つまり、私たちの悲しみの中心は罪に対する悲しみであります。罪の赦しを得た時には、この罪がどんなに高くついたものであったか、すなわち、神の御子の十字架の死を必要としたことが分かり、その恐ろしさを改めて知る思いであります。悲しむという字は、悲しみ続けている者という字なのです。今も、いつも悲しみが続いている、という字です。それこそ、罪に対する悲しみの特徴であります。誰でも、悲しみではなく、喜びを求めているに、ちがいありません。悲しみの中で知ることのできる喜びというものがあります。それは、実は慰めであります。慰められることができれば、悲しみの中にも喜びがあるはずです。まことの喜びは 慰めであります。その慰めも、ただひとつであります、ここで言う「ただひとつ」というのは、この慰めが、あらゆる、ほかの慰めのもとになるもの、であるということです。この慰めが得られなかったら、ほかの慰めも喜びも空しいものになってしまう、そういう、もとにある一つの慰めです。しかも、それは罪を悲しんでいる者のみが、それを知ることができるのであります。なぜでしょう。それは罪を悲しむ者は、神との関係が断たれたことを悲しんでいる者であります。それなら、それを慰められるというのは、神との交わりが打ち立てられた者のことであります。ですから、ここにあらゆることのもとがあるのです。慰められる、というのは受身の言葉です、それなら慰める者がいたはずではないでしょうか。だれが慰めるのでしょう。それは、いうまでもなく神様であります。神様は、その名を出していませんが、神様こそ、悲しんでいる者を慰めてくださるのです 神はいつも見えませんが、主役なのであります。神はどうしてくださるのでしょう。神は彼らの重荷を取り去ってくださる、重荷と言っても罪の重荷です。では重荷がどう取り除かれるのでしょう。それは、神に対する罪の責任が除かれるとうことです。そして、それは神様の方からその責任を除いていただくしかないのです。つまり、神から赦していただくほか、ないはずであります。それは、どのようにしてできるのでしょうか。それは、慰めるという字が手がかりになります。「慰め」という字は自分のかたわらに呼ぶという字です。自分のために弁護してくれるようになるということです。神は、そういう意味で私たちの味方になってくださったのでああります。重荷が除かれる、というのは私たちが罪を犯して背いていたにもかかわらず、神様は私たちの味方になってくださった、とうことなのです。

最後にヨハネ福音書14章18節にあるみ言葉を読みます。イエス様は言われました。「わたしは、あなた方をすてて孤児とはしない。あなた方のところに帰ってくる」。神様は、私たちのただひとつの方、慰めになってくださるのであります。                                           ハレルヤ・アーメン

 

 


主日礼拝説教 全聖徒の日
2015年11月1日の聖書日課  マタイ5章1~12節

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