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12月のスオミ教会・料理クラブは11日に開催されました。今回はクリスマスの季節フィンランドの家庭でもよく作られる”プッラのヨウル・クランシ(クリスマス・リース)”です。
初めにいつものようにお祈りをしてスタート。まず、プッラの生地を作ります。パン生地なので良く捏ねてから暖かい場所において一回目の発酵です。その間に中身の準備をします。レーズンとチェリーを細かく切って、砂糖にシナモン、クローブなどのスパイスを混ぜてスパイス・シュガーにします。プッラの生地が大きく膨らんだらクランシ(リース)を形作るタイミング。生地をロールにして切り型にのせます。それから二回目の発酵にさらします。
生地が発行している間、フィンランドのクリスマスの過ごし方についてのビデオを見て一休み。発酵したクランシをオーブンに入れて焼き始めると教会はクリスマスの香りで一杯になりました。
焼きあがった「ヨウル・クランシ」を切って分けます。北欧のクリスマスのホットドリンク「グリョッギ」と一緒に頂きました。ふっくらしたプッラと温かいドリンクを味わいながら、フィンランドのクリスマスとイエス様の誕生についてのお話を聞きました。
料理クラブが終わると教会の玄関前のイルミネーションが輝き出し、中も外もクリスマスの雰囲気に満たされました!
次回の料理クラブは新年のあと1月に開催します。日程等くわしくは教会のホームページの案内をご覧ください。次回は何を作るか、ぜひお楽しみに!
それでは皆さま、天の父なる神さまが祝福されたクリスマスをお迎え下さい!
今クリスマスがどんどん近づいています。店にはもう一か月以上前にクリスマスケーキや飾り物が並び始めました。クリスマスのイルミネーションもあちこちで見られます。この季節になるとフィンランドの多くの家庭ではクリスマスの準備をします。大事な準備の一つはクリスマスのお菓子を作ることです。クリスマスの季節になると普段あまりお菓子を作らない家庭でも、お菓子を焼いて家中はシナモン、グローブなどのスパイスの香りがします。これはクリスマスの香りとも呼ばれます。
フィンランドではクリスマスのお菓子の種類は多くてその中で、お菓子パンはクリスマスのテーブルの目を引く物です。お菓子パンも種類が多く今日作ったヨウル・クランシも普通です。パンの中身にはドライフルーツ、アーモンド、ナッツ、クリスマスのスパイスが入って美味しい高価なお菓子パンになります。ヨウル・クランシの形は普通は丸くて真ん中に穴があります。
フィンランドではクリスマスのお祝いの過ごし方には長い伝統があります。家族それぞれに親の世代から受けついだ過ごし方を守ります。家族のクリスマスの過ごし方を守ることでクリスマスの雰囲気を高めます。
わたしたちがフィンランドにいた時もクリスマスの過ごし方は毎年同じでした。ある年のクリスマスの前に一つ大変なことが起こりました。ちょうどクリスマスの二日前に博明の腰が痛み出してもう歩けなくなりました。初めに市の病院に行きましたが、そこでは治すことは出来ませんでした。私は娘と息子と一緒に博明の状態を病院に見に行ったら、ちょどその時博明は大学病院に連れていくために救急車に運ばれるところでした。子どもたちはそれを見て少しショックを受けて、娘は「今年クリスマスは私たちには来ない」と言って泣き始めました。息子もつられて泣き出してしまいました。博明は大学病院に運ばれましたが、その夜タクシーに乗って家に帰ってきました。完全に治ってはいませんでしたが、私たちは家で家族皆でクリスマスのお祝いをすることが出来ました。
この出来はとても印象に残りました。特に娘の言葉「今年クリスマスは私たちには来ない」が耳に残りました。その意味は、私たちは例年と同じように家族皆でクリスマスのお祝いが出来ない、だからクリスマスの雰囲気にならないので、クリスマスは来ないという意味でした。しかし、どうでしょうか。クリスマスは私たちの状況に関係してあるでしょうか。そうではありません。クリスマスのお祝いは聖書に書いてあるメッセージから生まれます。それは私たちの状況やクリスマスの準備で作った雰囲気と関係なく、毎年同じメッセージから生まれます。
今から2千年前の一番初めのクリスマスの出来事を聖書で読むと、クリスマスの深いメッセージが伝わってきます。聖書には最初のクリスマスの出来事、天の神様の一人子イエス様の誕生について書いてある有名な箇所があります。「ルカによる福音書」の2章1-20節です。11-12節をみると、一番初めのクリスマスの夜に野原で羊の番をしていた羊飼いに天使が現れたことが書いてあります。「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。その方こそ主メシアである。』」
この一番最初のクリスマスに、この世の救い主がお生まれになりました。それは神様のひとり子イエス様でした。イエス様がお生まれになった時、私たちのクリスマスのような素敵な雰囲気があったでしょうか?イエス様はどこで生まれましたか?ベツレヘムという町の馬小屋でお生まれになりました。ロバや馬や牛がいる馬小屋は汚くて臭くて寒い場所だったでしょう。その時旅をしていた母マリアとヨセフには泊まる場所は他にありませんでした。他の宿屋はもう一杯でした。このように救い主イエス様は素敵な雰囲気なんか何もない場所でお生まれになりました。しかし、救い主のイエス様が本当に私たち一人一人のためにお生まれになったということは、私たちにクリスマスの本当の喜びを与えてくれます。この喜びのメッセージは、雰囲気とか、クリスマスの準備やいる場所に関係なく、世界の全ての人々、喜んでいる人たちにも悲しんでいる人たちにも、クリスマスの準備をする人たちにもしない人たちにも皆に与えられました。クリスマスは必ず毎年クリスマスのメッセージを通してお祝いします。クリスマスのメッセージを聞いたら、あとはイエス様を自分の救い主として受け入れるだけです。
イエス様を自分の救い主として受け入れると、天使が羊飼いに言った「恐れるな」という言葉は私たちにもその通りになります。生活の中には心配や怖いことが沢山あると思います。今世界中で広がっているコロナ感染、自然災害などは怖いことです。自然災害は私たち人間の力では解決は出来ません。しかしクリスマスのメッセージ「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。その方こそ主メシアである。」これを心で受け取ると、天使の言葉「恐れるな」は私たちの毎日の生活の中で実現すると思います。
クリスマスにお生まれになった救い主は私たちと共に歩んでくださると、聖書に約束さています。だから何も怖がる必要もありません。
今年のクリスマスが皆さんにとって喜びを与えるお祝いになりますように。
新聞のコラムにアランというフランスの哲学者(本名エミール=オーギュスト・シャルティエ)の次の一文が掲載され目を引きました(朝日10月24日「折々のことば」)。
「礼拝の規則は、さまざまな動きに規律を与えて、あらゆる情念、あらゆる情動を鎮めるものだ。」
私たちルター派教会の礼拝は、ご存じの通り定められた礼拝式文に従って執行されます。教派によっては、形式に取らわられずに自由な形で行っているところもあります。恐らく若者はそういうやり方がしっくり行くのかもしれません。それででしょうか、ルター派に限らず伝統的な教派は若者があまり集まらず高齢化が進んでいるように思われます。
不思議なことにフィンランドでは、もちろん国教会の普通の主日礼拝はどこも閑散としていて高齢者が目立ちますが、SLEYの礼拝は国教会の式文に従うにもかかわらず、またそのメッセージも国民の多数派から呆れかえられる位に保守的なのにどこも満員御礼で若者や子供連れの若い家族で一杯になります(コロナ禍の今は少ないですが)。どうしてでしょうか?
SNS旺盛時代の今、あらゆる情念やあらゆる情動が野放し大放出になっています。そうした中、心のさまざまな動きに規律を与える礼拝は魂を鎮めて安らぎと落ち着きを与える意味があると思います。
SLEYの礼拝に、「喜びのミサRiemumessu」という音楽をふんだんに使った聖餐式礼拝があります。奏楽はゴスペル・ロックバンド、司式の言葉は全てポップ調のメロディーで歌いますが、式の内容は罪の告白、赦し、聖書日課、説教、信仰告白、教会の祈り、奉献、聖餐式、祝福と伝統的な式文そのままです。SLEYの夏の全国大会の土曜日夕方の野外礼拝で7,000~8,000人位に聖餐を授ける礼拝の時にいつも用いられます。翌日日曜日の聖餐式礼拝は通常の形で行いますが人数は変わりません。
12月6日はフィンランドの独立記念日。毎年恒例の大使館でのレセプションは昨年はコロナ禍で中止になったが今年は開催された。 (3日金曜日にあり行ってきました。一足早くクリスマス料理を味わってきました。)
フィンランドの12月6日は独特な雰囲気のある日であったことをよく覚えている。冬の薄暗い日中、家ではパイヴィが子供たちとせっせとピパルカックを作り、晩になると大統領官邸でのレセプションのテレビ中継を見たものだ。その日のテレビ番組は第二次大戦の出来事を特集する番組が圧倒的に多く、フィンランド人はいかに独立したかよりも、いかに独立を守ったかの方に関心があるのかと思ったものだった。
それは理由のないことではない。1919年の独立当時のフィンランドは国内は分裂状態で、独立後も、左右イデオロギーの対立、都市部と農村部の対立、フィンランド語系とスウェーデン語系の対立が激しく、今風に言えば「分断国家」であった。それは徐々に解消に向かうが、それを一気に解消したのが第二次大戦での(当時の)ソ連との戦争であった。外的な脅威に対して国民が一致団結したのである。
戦時中の標語に、祖国(isänmaa)自由(vapaus)信仰(usko)の3つが守られるべきものとして唱えられた。「祖国」とは日本風に言えば「兎追いしかの山」であり、「自由」とは自由と民主主義の政治体制であり、「信仰」とはルター派教会である。フィンランド人は国家的困難によく耐え乗り越え、M.ヤコブソンが言ったように、第二次大戦に参戦した欧州の国で英国とフィンランドのみが占領を免れ戦前の国家体制を維持できた国だったのである。
「戦前の国家体制の維持」と聞くと、大方の日本人は顔をしかめるかもしれない。なぜなら、日本のそれはかつて丸谷才一が言ったように、お上に盾をついたと言いがかりをつけられないかビクビクしなければならない体制だったからだ。しかし、フィンランドは戦時中も国会は社会主義政党から保守党まで揃う議会制民主主義が機能していた国だったのだ。(そんな国がなぜ最後はナチス・ドイツ側に立って戦うことになってしまったかについては、国際政治史の専門家に聞いて下さい。私も少しは説明できます。)
フィンランドの例は、「国を守る」という時、 情緒面だけでなくvapausの重要性も示していると言える。なぜなら、それはこの国は守るに値する国だと理知的に確信できる根拠になるからだ。 それと、uskoがvapausと両立することも重要であることは言うまでもない。日本では愛国心を育む道徳教育が義務教育で必修になったが、準備段階でこのような視点で考えられただろうか?
さて、今のフィンランド人に守るべきものは何かと聞いて、上記の3つは果たして出てくるだろうか?思うに、「信仰」が危ういかもしれない。というのは、1990年代まで国民の90%以上がルター派国教会に属していたが、以後国民の教会離れが急速に進み出し、現在は70%を割ってしまっているからだ。戦時中は大統領から国民に至るまで上記の3つが守られるよう懸命に神に祈ったものだ。ソ連との交渉に臨む代表団がヘルシンキ中央駅を出発する時、見送りに来た群衆が一斉にルターの讃美歌「神はわがやぐら」を歌って送り出した気概はもうないのだろうか?(2020年12月6日初掲載)
主日礼拝説教 2021年12月5日待降節第二主日 マラキ3章1-3節、フィリピ1章3-11節、ルカ3章1-6節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
先週の主日にキリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。本日は教会新年の二回目の主日です。クリスマスまでの4つの主日を含む期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は2千年以上前の昔に今のイスラエルの地で実際に起こった救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主をお贈り下さった天地創造の神に感謝と賛美を捧げ、人間の姿かたちを取って降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスを迎えお祝いします。
待降節は一見すると過去の出来事に結びついた行事に見えます。しかし、先週も申し上げましたように、私たちキリスト信仰者はそこに未来に結びつく意味があることを忘れてはなりません。というのは、イエス様は御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。実に私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。そのため待降節の期間は主の第一回目の降臨に心を向けつつも、第二回目の再臨にも思いを馳せる期間です。待降節やクリスマスを過ごして、ああ今年も終わった、また来年、と言って済ませてしまうのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心があるか確認して一年間それを維持してまた確認するという具合に再臨に向けて気を緩めず備えなければなりません。
とは言っても、主の再臨の日というのは、この世の終わりの日、今ある天と地に替わって新しい天と地が再創造される日、さらには最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつなのかは父なるみ神以外は誰も知らない、とイエス様は言われます。それゆえ、その日がいつ来ても大丈夫なように、不意をつかれないようにいつも「目を覚まして」いなければならないと教えられたのです。
先週の礼拝説教でこの、主の再臨に向けて目を覚ましているというのはどういうことか、お話ししました。それは、この世の終わりはいつなのか、最後の審判はいつなのか、などと心配して怯えて生きることではないと。それは、この世で生きる自分には創造主の神の意思に反する罪が宿っている、それを自覚して神から罪の赦しを繰り返し頂くこと、それが主の再臨に向けて目を覚ますことであると申しました。また、罪の自覚と赦しの頂きを繰り返していくと、人間関係において自分をヘリ下させたり、正しいことのために損をする役割を引き受けたりすることがいろいろ出てくるが、そうすることも目を覚ますことであると申しました。そういう生き方になればなるほど最後の審判は有罪判決を受ける場ではなくなって無罪判決を受けて神の国に迎え入れられる場になる、だからそういう生き方をする人はヘリ下ることや損をすることを別に何とも思いません。
このように最後の審判をクリアーできることが視野に入ってくるので、罪の自覚と赦しを繰り返し頂く人生、損を顧みないお人好し人生、そうした人生はイエス様の再臨を待ち望む心がある人生です。再臨を待ち望むから再臨に向けて目を覚ましているのです。主の再臨さん、どうぞいつでも来て下さい、そういう気持ちで今は手元にある課題や果たすべきことを果たしていくのです。そう言うと、この世が終わると言う時に課題なんかやってられるか、と言う人もいるでしょう。しかし、宗教改革のルターは次のように言っていました。この言葉はルター本人が言ったかどうか異論がありますが、ルターなら間違いなく言いそうだという言葉です。ある人が「ルター先生、明日世界が滅亡するとわかったら、今日何をしますか?」と聞きました。ルターの答えはこうでした。「そうであっても、私は今日リンゴの木を植えて育て始める。」
明日世界が滅亡するのに今日リンゴの木を植えて育て始めるなんてどうかしていると思われるでしょう。今日植えたリンゴが明日までに実を結べる筈はなく、普通に考えたら全くナンセンスです。ルターはどうしてそんなことを言ったのでしょうか?
それはキリスト信仰の終末論のためです。ただし、終末論と言っても、この世が終わって本当に何もなくなってしまう消滅論ではありません。この世が終わっても次に新しい天と地が創造されて、死から復活させられた者が新しい世の構成員になるという、本当は新創造論なのです。終末もありますが、その後も続きがあるのです。まさに再創造あっての終末論なのです。永遠の続きがあることを見据えた終末論です。それなので、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえこの世で果たせず未完で終わってしまっても、次に到来する世で創造主の神が完結したものを見せてくれるので、この世で途中で終わっても無意味とか無駄だったということは何もないのです。例えば、この世で悪と不正に対して戦うことが大事なのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫できるからです。また、この世で障がい者が出来るだけ普通の社会生活を送れるように支援することが大事なのは、新しい世で天使のようになったその人と出会えるからです。イエス様は復活した者はみな天使のようになるのだと言っていました。ルターの明日この世がおわるという時にリンゴの木を植えるの大事なのは、新しい世で実を豊かに実らせているその木に出会えるからです。今日リンゴの木を植えるというのは、今日悪と不正に対して戦うこと、今日障がい者を支援することと同じです。新しい世で実を豊かに実らせる木に出会えるというのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫すること、新しい世で天使のようなその人と出会うことと同じです。
以上から、イエス様の再臨を待ち望むキリスト信仰者は、この世に終わりがあることを意識しているにもかかわらず、この世で果たすべきことをちゃんと果たすことが出来ることが明らかになったと思います。意識しているにもかかわらず、と言うよりは、まさに意識しているから果たすことが出来ると言ってもいいでしょう。
前置きが長くなってしまいました。今日は福音書の日課を中心に説き明かしをしていきます。本日の箇所は洗礼者ヨハネが活動を開始する場面です。ヨハネはエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこに留まりました。その日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、罪の悔い改めの洗礼を受けなさいと宣べ伝え始めました。
ここでヨハネの洗礼は復活されたイエス様が命じた洗礼とは異なることについて述べておきます。イエス様の洗礼は、受けると神から罪の赦された者として見てもらえるようになるという洗礼です。ヨハネの洗礼はまだそこまで行かず、神さま、私には罪があります。赦して下さい、と告白することで神に背を向けていた生き方をやめてこれからは神の方を向いて生きますという印です。罪の赦しを実際に与えるのはイエス様の洗礼です。
大勢の人々がヨハネの洗礼を受けようと集まってきました。ルカは、旧約聖書イザヤ書40章に預言されていたことはこのことだったとわかって、それを引用して書き出しました。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
洗礼者ヨハネの活動は、イエス様の到来に備えて人々に罪の自覚を呼び覚まして罪の赦しを願い求める心を起こすことでした。そのような心を起こすことで人々がイエス様を受け入れるように準備することでした。
ところがイザヤ書の引用を見ると、心を準備するということは見えてきません。見えてくるのは、谷を埋めて山を低くし、曲がった道をまっすぐに、でこぼこの道は平らに、と言っていて、あたかもイエス様が歩きやすい道を整備しなさいと言っているようにみえます。人々の心の準備を整えるのではなく、イエス様が活動しやすい環境を整えよと言っているようにみえます。
ところが、このイザヤ書の個所は目を見開いて見るとやはり心の準備のことを言っていることがわかります。まず、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と言っていますが、これは、~せよ、と命令形です。その次に「谷は全て埋められ、山と丘はみな低くされる」と言っていますが、ここからは全部未来形で将来に起こることを言っています。つまり、道筋を真っ直ぐにせよ、そうすれば、谷は埋められ、山は低くされ、人は皆、神の救いを見ることになるだろう、と命令したことをすれば、そういうことが起こるだろうと言っているのです。
そこで命令した後に起こることを見ていくと、「山と丘は低くされる」と言います。「低くされる」のギリシャ語原文の動詞(ταπεινοω)は「ヘリ下させる」という意味があります。つまり、山や丘というのは高ぶった人や心を意味し、それをヘリ下させるということです。人の心を暗に言っていることがわかります。「谷は全て埋められる」というのは、人の心のことを言っているのか見えてきません。ところが、イザヤ書40章4節のヘブライ語原文を見ると、ここのところは「埋める」という動詞は使われておらず、「高くする」という動詞(נשא)です。ヘブライ語では「谷底を高くする」という言い方で、低くされた者を高く上げてあげること、谷底に落ちたような状態にある人を引き上げてあげること、ヘリ下った心の持ち主を高く上げることを意味します。まさに人の心について言っているのです。イエス様が、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされると言っている旧約聖書の背景がここにあります。
次に「曲がった道はまっすぐに」とありますが、ルカ福音書のギリシャ語原文、イザヤ書のヘブライ語原文を見ても「道」という言葉はありません。一般的に「曲がった」ことを言っています。それで道と解する必要はありません。「曲がった」というのはギリシャ語の単語をみてもヘブライ語の単語を見ても(σκολιος、עקב)、ずるい、悪賢い、陰険という意味があり、まさに心が曲がった状態を意味します。それが「まっすぐになる」というのは、単語の意味を調べると(מישור)、真っ直ぐな、公正な、正しい、義に満ちたという意味があるので、ここは正しい心、真っ直ぐな心のことを言っています。このように、主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ、と命令して、その後に、そうすれば高ぶった心は低くされ、低められた心は引き上げてもらえ、曲がった心は真っ直ぐになって、神の救いを見ることになるのだ、という流れです。一見、平らで歩きやすい道について言っているようですが、実は心のことを言っていて、心が神の救いを見るのに相応しくなかったが相応しいものに変わることを言っているのです。このように聖書は原文に遡ってみるといろんな発見があります。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」というのは、神や神が贈る救い主が遠方から私たちのところにやってくる、だから、私たちのところに来やすいように道が曲がりくねっていればそれを真っ直ぐにして、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。
私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物は何でしょうか?それを私たちはどうやったら取り除くことができるでしょうか?「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在でした。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言った言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。これが原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、神聖な神との結びつきが失われてしまいました。その結果、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです(6章23節)。人間は代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。
これに対して神はどうしたでしょうか?身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世から別れた後は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう考えて人間を救う計画を立てました。そして、それを実行に移すためにひとり子をこの世に贈られたのです。
神は人間の救いのためにイエス様を用いて次のことを行いました。人間は自分の力で罪を自分から除去することができません。出来ない以上、人間は罪にまみれ罪の力に服したままで、それでは神との結びつきを失ったままこの世を生きることになります。この世から別れた後はもう永遠に自分の造り主のもとに戻れなくなります。そこで神は、人間の罪を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を人間に代わって受けさせて死なせました。イエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開かれました。
このようにして遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に贈ることで、そしてその彼を通して私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復してこの世を生き抜いて、この世から別れた後も復活の日に目覚めさせて永遠の命を持って神の御許に永遠に迎え入れられるようにするためでした。
それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?
それは私たちが、このような神の近づきは人種、民族に関係なく全ての人間に向けて行われたもので、だから、この自分に対しても行われたのだとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様を自分の真の救い主と信じて洗礼を受けることで神の近づきを受け入れることができます。まさに洗礼の時、心の中にある主の道は真っ直ぐにされて聖霊が入ったのです。洗礼を受けることでイエス様が果たしてくれた罪の償いが自分にその通りになって、それで自分は罪を償ってもらった者になります。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見なしてもらえます。神から罪を赦された者として見なしてもらえるというのは、もう罪の側について生きるのではなく、神の側について生きるということです。
神の側について生きるということについて。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したということではありません。神の意思に反しようとする罪はまだ内に残っています。たとえ行為に出さないで済んでも、心の中に現れてきます。そのような自分を神聖な神は本当に罪を赦された者として見ていてくれるのか、不安になることが沢山出てきます。しかし、キリスト信仰者というのは、自分の内にある罪に気づいたとき、見て見ぬふりをしたりせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈り求めます。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。キリスト信仰者は実にこうしたことを何度も何度も繰り返しながら復活と永遠の命が待っている神の国に向かう道を進んでいくのです。
このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。また罪の自覚と赦しを繰り返していくと、高ぶった心は低くされ、谷底に落とされた状態からは引き上げられて、曲がった心は真っ直ぐにしてもらえます。このようにイエス様の十字架の死と死からの復活により頼んで生きてきた者は最後の審判の時、「お前は神の側について生きてきた」と裁き主から認められます。まさに神の救いを見ることになるのです。
最後に、本日のルカの記述から聖書の神は人間の歴史そのものと歴史のただ中で生きる人間に働きかける神であることについて述べておきます。ルカは洗礼者ヨハネが活動を開始した時を「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」であったと記しています。
ここから明らかなようにルカは、天地創造の神というのは人間の歴史にも働きかける神であるという旧約の信仰を受け継いでいます。旧約聖書を繙くと、誰々王の治世何年に神の言葉が誰々に降った、という言い方が沢山出てきます。神は天地創造を行った後は天の御国に引きこもって、あとは堕罪に陥った人間が勝手にしていればよいなどと御国で隠居生活を送っていたのではありませんでした。神は堕罪に陥った人間が再び自分のもとに戻れるようにしようと決意し、そのために時と場所と民族を選び、あとは人間の歴史の流れと共に歩み、絶えず自分の意思や御心を人間に発信し続けました。そしてその時が来た時、すると決めていたことを実行に移したのです。人間を罪と死に支配された状態から救い出すためにひとり子を犠牲に供することに踏み切ったのです。このような計り知れない知恵と力と愛を持つ神は、とこしえにほめたたえられますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
今日は、アドベントという「待降節」に入ります。アドベントはクリスマス 前の4週間を意味します。12月1日(水)からはこのページに『私のクリスマスの旅』というクリスマスカレ ンダーを公開します。大人も子どももみんな、 カレンダーの物語を読みながらクリスマスを楽しんで迎えましょう。
文・写真:パイヴィ・ポウッカ 翻訳:パイヴィ・ポウッカ & 杉本輝世
主日礼拝説教2021年11月28日 待降節第一主日 聖書日課 エレミヤ33章14節-16節、第一テサロニケ3章9-13節、ルカ21章25-36節
説教をYoutubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を豊かに祝福して見守り導き、皆様自身も神の愛と恵みの内に留まられますように。
今日もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。毎年お話ししていることですが、今日初めて聞く方もいらっしゃるのでお話ししますと、これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の教会讃美歌の一番目の歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。朗読される福音書の日課が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。
その個所が朗読される時、歓呼の直前で一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり出し、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌いだします。つまり、当時の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うということです。北欧諸国も近年は国民の教会離れが進み普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。画面は何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。今年は、一旦おさまっていたコロナがまた拡大してしまったので、今日の教会の人の入りはどうなるでしょうか?スオミ教会のホームページにエスポ―大聖堂の6年前のホサナ斉唱のビデオを紹介していますので、ご覧になれる方は雰囲気を味わってみて下さい。
さて、スオミ教会のホサナですが、昨年から日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。昨年はマルコ13章のイエス様のこの世の終わりの預言でした。今日のルカ21章も同じ内容です。説教者としてちょっと戸惑います。以前ですと、聖霊降臨後の終わりの頃はイエス様の終末の預言や最後の審判に関するものが中心で、待降節に入ってガラッと雰囲気が変わってイエス様の降誕に目が向くという流れになったものです。それが今は、待降節になってもまだ終末テーマで続けなければならないというのは気が重くなります。パイヴィも、ホサナの日だからフィンランドと同じ聖書日課にしたら?などと言って、私も迷いました。しかし、やはり「郷に入っては郷に従え」だろうと思い、定められた日課に従うことにしました。
でも、よく考えてみると、待降節に終末テーマがあるのはあながち場違いではありません。待降節というのはクリスマスのお祝いを準備する期間です。では、クリスマスは何をお祝いする日なのか?人によってはサンタクロースが来る日をお祝いすると思う人もいるのですが、サンタクロースはクリスマスのお祝いの付属品です。付属品なので、別に来なくてもクリスマスのお祝い自体に影響はありません。クリスマスとは、天の父なるみ神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれてきたという、信じられないことが2000年少し前に今のイスラエルの地で起こったことをお祝いする日です。その当時、メシアと呼ばれる救世主の到来を待ち望んでいた人たちがいました。マリアに抱かれた幼子のイエス様を見て喜びと感謝に満たされたシメオンやハンナはそうした人たちでした。それで待降節とは、そうしたメシアの到来を待ち望んだ人たちの思いを自分の思いにする期間です。私たちもメシア・救世主が必要だろうか、なぜ必要だろうかと考えてみる期間です。
ところが、この「待ち望む」思いはクリスマスが終わったら終わるものではありません。本当はイエス様を待ち望むことはまだ続くのです。待降節ではそのことも覚えなければなりません。どういうことかと言うと、イエス様は十字架の死から復活された後、天に上げられましたが、それ以前に自分は再び降臨する、つまり再臨すると言っていたのです。最初の降臨は家畜小屋で起こるというみすぼらしい姿でした。天使が羊飼いに知らせなかったら誰にも気づかれなかっただろうというものでした。次の再臨は、本日の福音書の個所やマタイとルカの個所でも言われるように、眩い程の神の栄光の輝きを伴って天使の軍勢を従えて全世界が目にするものです。その時、聖書の至る所で預言されているように、今ある天と地が崩れ落ち、神が新しい天と地を創造してそこに神の国が現れ、死者の復活が起こり、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないか最後の審判が行われる、そういう想像を絶する大変動が起きます。しかも、その審判を行うのが再臨の主イエス様だというのです。
そういうわけで今私たちが生きている時代と空間というのは、実にイエス様の最初の降臨と再臨の間の期間であり空間です。さあ、大変なことになりました。今私たちがいる時代と空間はイエス様の再臨を待つ時代と空間だという。しかも、再臨は最初の降臨みたいに遠い昔の遠い国の家畜小屋で赤ちゃんが生まれたというおとぎ話のような話ではない。そういう可愛らしい降臨だったら待ち望んでもいいという気持ちになりますが、再臨となると、待ち望む気持ちなどわかないというのが大方の気持ちではないでしょうか?イエス様は今度は赤ちゃんではなく、その時点で生きている人と既に死んでいる人全部を相手に神の国へ入れるかどうか判定する裁き主として来られるのです。
天地創造の神の手元には「命の書」なる書物があってそれが最後の審判の時に判定の根拠になることが旧約新約の両聖書を通して言われています。全知全能の神は私たちの髪の毛の数も数え上げているくらいの方です。命の書には、地上に存在した全ての人間一人一人について全てのことが記されていると言ってよいでしょう。詩篇139篇を繙けばわかるように、神は人間の造り主なので人間のことを徹底的に知り尽くしています。つまり、神は私たちのことを私たち自身よりも良く知っているのです。だから、私たちが自分のことをよりよく知ろうとするなら、遠回りに聞こえるかもしれませんが、私たちの造り主である神について教えてくれる聖書を繙くのが手っ取り早いのです。
このように考えていくと最後の審判は恐ろしいです。神聖な神の目から見て自分には至らないところが沢山あったことを神は全て把握している。神とイエス様の御前で私は潔白ですなんてとても言えないのではないか。しかしながら、最後の審判は視点を変えると違って見えてくることも知らなければなりません。例えば、社会の中でいわれのない誤解や中傷を受けたとします。今のようなSNSが悪用される時代では名誉回復の可能性はどんどん難しくなっているような印象を受けます。それだけ悪い思いと力がITを駆使して巧妙、狡猾になっているからです。加害者なのに被害者を装ったり、被害者を加害者に仕立てるような倒錯がまかり通っています。残念なことに誤解を正すことや中傷からの名誉回復はますます至難の業になっているように思えます。しかし、たとえどんなに至難の業でも、聖書の神を信じる者にはまさに全知全能の神、真実や真相を全て把握している神がついていてくれます。その神が誤解や中傷を受けた人たちの名誉回復をどんなに遅くとも最終的に最後の審判で果たして下さいます。黙示録21章で神は全ての目から涙を拭い取られると言われる通りです。このように最後の審判の裁きというのは、人を有罪に定めるだけでなく、神が「お前は潔白であると私は認める」と言って無罪にすることも出来るのです。ところが、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を持っています。そんな人間が神から潔白だと言われることがあり得るでしょうか?
それを「あり得る」にするために神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのでした。イエス様は人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて下さいました。そこで本当は人間が受けるべき神罰を代わりに受けられて死なれました。イエス様は人間の罪の償いを神に対して果たして下さったのです。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命への道を人間に切り開いて下さいました。
このあとは人間の方が、イエス様の十字架と復活は本当に私の罪を償って私を永遠の命に向かわせるためになされたのだとわかって、それでその大役を果たしたイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けるという段取りになります。そうすると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。罪を償ってもらったのだから、その人は神から罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたのだから、これからは神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。先ほども申しましたように、どんな誤解や中傷を受けても、それは真実ではないと全てを知っている神がそばについていて下さいます。神はまた真実の側に立つ人間や天使も助っ人に送って下さいます。このように神と結びついている限り天涯孤独にはなりません。
この世を去る時もキリスト信仰者は天涯孤独ではありません。その時も神との結びつきは途切れることなく保たれています。まず、復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠ることになります。そして、復活の日が来たら目覚めさせられて、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会が待っている場所です。このように信仰と洗礼によって築かれた神との結びつきは、実にこの世と次に到来する世の双方にまたがる結びつきです。
ここで、復活の体について一言申し上げておきます。ルカ21章28章でイエス様は言われます。天地の大変動と自分の再臨が起きる時、怖気づかず勇気をもって顔をあげよ、と。なぜなら、お前たちの解放の時が近づいたからだ、と。「解放」とは何からの解放でしょうか?苦難からの解放、罪からの解放、いろいろ考えられます。それらは間違いではないですが、もっと焦点を絞ることが出来ます。アポリュトローシスというギリシャ語の言葉ですが、同じ言葉がローマ8章23節で使われています。新共同訳では「体の贖われること」と訳されていますが、誤解を与える訳です。正しくは「肉の体からの解放」ということで、肉の体に替わって復活の体を着せられることを意味します。ルカ21章28節の解放も同じことを意味します。お前たちの解放の時が近づいたというのは、復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる日が近づいたということです。
そうすると、キリスト信仰者にとって神の国への迎え入れは確実と言っていることになります。最後の審判をクリアーできるというのです。本当に大丈夫なのでしょうか?罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したのではないことは経験から明らかです。確かに、神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持てて生きられるようにはなりました。そのように神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、現実には神の目に相応しくないことがどうしても自分に出てきてしまう。そういうジレンマがキリスト信仰者について回ります。神の意思に反する罪がまだ内に残っている以上は、たとえ行為に出さないで済んでも心の中に現れてきます。神との結びつきを持って生きるようになれば、神の意思に反することに敏感になるのでなおさらです。それなのにどうして最後の審判をクリアーできるのでしょうか?
それは、キリスト信仰者というのは罪を圧し潰す生き方をするからです。信仰者は自分の内にある罪に気づいたとき、それをどうでもいいと思ったり気づかないふりをしたりせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈り求めます。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き遂げ、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。こうしてキリスト信仰者はまた復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道を進んでいくことができます。
このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していく時、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。このように生きてきた者が裁き主の前でする申し開きは次のようになるでしょう。「主よ、あなたは私の罪を全部償って下さったので真に私の救い主です。それで私は罪の赦しのお恵みを頂いた者としてそれに相応しく生きようと心がけて生きてきました。ぶれたときもありましたが、その度にいつもこの心がけに戻りました。」これは誰も否定できない真実なので、裁き主は「間違いなくお前は罪を破綻させる側について生きた」と認めるでしょう。実に私たちがイエス様を自分の救い主にしている限りは、私たちの良心は神の前で何もやましいところがなく潔白でいられるのです。それで神の前で何も恐れる必要はないのです。
本日のルカ21章33節でイエス様は「天地は滅びるが私の言葉は滅びない」と言われます。「私の言葉」と聞くと、大抵の人はイエス様が語った言葉を考えるでしょう。そうすると聖書の中でイエス様が語っていない言葉はどうなってしまうのか?イエス様が語った言葉より弱くて滅びてしまうのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。「イエス様の言葉」というのは、イエス様が持つ言葉、イエス様に帰属する言葉という意味もあります。イエス様が管轄している言葉です。パウロやペトロの教えもイエス様の管轄下にあるので「イエス様の言葉」で天地が滅びても滅ばない言葉です。イエス様が人間の罪を償って人間を罪と死の支配から贖いだして永遠の命に至る道を歩めるようにして下さった、そのことを証しする聖書の言葉を持つ者は天地が滅びても滅びず新しい天地の下の神の国に迎え入れられます。聖書の言葉が滅ばないから、そうなるのです。
最後に、罪を圧し潰す生き方をすると、人間関係において自分を不利にするようなことがいろいろ出てくることについて述べておきます。どうしてかと言うと、罪を圧し潰す生き方をする人は、パウロがローマ12章で命じることが当然のことになるからです。悪を嫌悪せよ、善に留まれ、お互いに対して心から兄弟愛を示せ、互いに敬意を表し合え、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たちと共にいるように努めよ、自分で自分を知恵あるものとするな、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ、全ての人と平和な関係をもてるかどうかがキリスト信仰者次第という時は迷わずそうせよ、自分で復讐をしてはいけない、正義が損なわれた時は神の怒りに委ねよ、神が報復されるのだ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、そうすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。悪があなたに勝つことがあってはならない、善をもって悪に勝たなければならない。
このような生き方は普通の人から見たらお人好しすぎて損をする生き方です。キリスト信仰者自身、罪の自覚と赦しの繰り返しをしていけばこんなふうになるとわかってはいるが、時としてなんでここまでお人好しでなければいけないの?という気持ちになることがあります。しかし、主の再臨の日、信仰者はあの時迷いもあったけれどあれでよかったんだ、世の声は違うことを言っていたがそれに倣わなくて本当に良かった、とわかってうれし泣きしてしまうかもしれません。それなので主の再臨の日はキリスト信仰者にとってはやはり待ち遠しい日です。
イエス様は再臨の日がいつ来ても大丈夫なようにいつも目を覚ましていなさいと命じます。目を覚ますというのはどういうことでしょうか?主の再臨はいつかだろうか、この世の終わりはいつかだろうか、最後の審判はいつかだろうか、といつも気にかけることでしょうか?そんなことしていたらこの世で生活が出来なくなると言われてしまうでしょう。先ほど申しましたように、最後の審判をクリアーするというのは、この世で罪の自覚と赦しの繰り返し人生を送り、人間関係の中でお人好し路線を取るということです。最後の審判のクリアーが視野に入っているので、罪の自覚と赦しの繰り返しとお人好し路線を取ること自体が主の再臨に向けて目を覚ますことになっています。つまるところ、主の再臨を待ち望む生き方というのは、この世で倫理的に意味のある生き方をするということです。
今年は11月28日からクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントが始まります。 キリスト教会のカレンダーでは待降節第一主日は教会の新年の始まりです。 この日フィンランドの教会では教会讃美歌第1番「ダビデの子、ホサナ」を歌うことが伝統になっています。新年の幕開けにふさわしい元気溢れる讃美歌です。この日フィンランド全国でこの歌が響き渡ります。スオミ教会でも毎年歌っています。是非礼拝にいらして、時差7時間あるフィンランドに先駆けてご一緒に「ダビデの子、ホサナ」を歌いましょう!
「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)
東京も紅葉が深まる晩秋の11月24日、スオミ教会の手芸クラブが開催されました。
今回はマクラメのクリスマスツリーと編み物でした。クリスマスツリーは糸の長さを測ってから結び始めます。マクラメの二つの基本の結び方を用いました。二本の糸でスタートした後どんどん糸を増やしていくとツリーの枝は長くなっていきます。結びの途中で飾りのパールを入れて可愛らしいクリスマスツリーの出来上がりです。
編み物は以前始めたルームシューズの続きでした。好みの色で四角の形を16枚編み合わせると一足のルームシューズが出来ます。作り目を編んでから表網で編んでいきます。
参加者の皆さんにとってマクラメのテクニックは初めてだったのでクリスマスツリーは興味を引き付けました。編み物の方も四角の枚数はどんどん増えていきました。時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。そこで歓談の時を持ってから、マクラメや聖書の詩編の139篇についてお話がありました。
次回の手芸クラブは新年が開けた後の1月です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしております。
今日はマクラメのテクニックを使ってクリスマスツリーを作りました。マクラメのテクニックは簡単で糸を結ぶだけです。マクラメの結び方はいろいろありますが、基本の二三の結びだけ出来るようになると、いろんな模様がある商品、飾り物、バック、クッションなどが作れます。マクラメの結びが出来るようになると、もっといろんなものを作りたくなり、きっと夢中になると思います。
マクラメは古い手芸のテクニックで、1200年頃アラブ人たちが始めたそうです。1800年頃マクラメはイギリスで盛んになってヨーロッパ中に広がりました。マクラメはフィンランドでは1970年までよく作られましたが、その後しばらく忘れられたようです。2017年マクラメのテクニックがその年の手芸のテーマに選ばれて、注目され若者もマクラメの商品が好きになりました。
マクラメのテクニックで作った物は織物と似ています。そのせいか、私はマクラメのものが好きでいろいろ作っています。マクラメの結びを作っている時に一つの聖書の箇所をよく思い出します。それは旧約聖書の詩編の有名な箇所です。それを紹介したく思います。
「あなたは、私の内臓を造り母の胎内に私を組み立てて下さった。私はあなたに感謝をささげる。私は恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている。秘められたところで私は造られ深い地のそこで織りなされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。」 詩編139編13-15節
この詩編のみ言葉から、私たち一人一人は天の神様の御手の業で造られたということが分かります。私たちは母の胎内から生まれましたが、織りなされたのは天の神様です。神様は私たち一人一人を愛を込めて造られて、同じような人間は たった一人だけで 他はこの世界にはいません。世界中の全ての人々は神様にとって価値がある人間です。私たちは、私たち自身のことは自分だけが一番知っていると思いますが、本当はそうではありません。神様は私たち一人一人を造られたので、私たちのことを私たちよりもよくご存じで、私たちが見えない骨までも知っています。
天の神様はこのように私たちのことをご存じですので、私たちも、わたしたちの造り主である神様を知ることが重要です。赤ちゃんが生まれると、親と赤ちゃんの良い関係を造るのは大事です。同じように私たち人間と造り主の天の神様の関係も重要です。天の神様はどんな方か、どのように私たちを世話するのかを知ると、人間と神様の関係は強くなると思います。良い関係があると私たちは神様に信頼することも出来ます。しかし私たちは神様と人間の関係の重要性を分からない時もあります。その時私たちは神様から離れて生活するようになります。そのような時はどうでしょうか。神様も私たちのことを忘れてしまうでしょうか。そうではありません。私たちが神様から離れても神様は私たちの近くにおられ、私たちが神様のもとに戻るようにいつも待っています。私たちは神様から離れることに気づくと、神様を見つけて神様の元に戻れることがいつでも出来ます。イエス様は新約聖書の言葉でこのように教えられます。 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」マタイによる福音書7章7-8節です。
天の神様は私たち一人一人を愛を込めて造られました。それをいつも覚えて感謝しましょう。そのために神様との関係を忘れないで、神様を求めたり、探したり、門をたたいたりして行きましょう。
主日礼拝説教 2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日 市ヶ谷教会(いずみ教会共同体講壇交換日礼拝)
ダニエル7章9-10、13-14節、黙示録1章1b-8節、ヨハネ18章33-37節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
真理とは何か?これは、本日の福音書の日課にあるイエス様とピラトの対話の終わりでピラトが口にした言葉です。38節です。本日の日課はその前の37節までなので、説教題にするのはどうかと思われる方もいるかもしれません。11月初めに浅野先生から今日の説教題何にしますかと聞かれて、電話口で慌てて聖書日課を見て、ああイエス様とピラトの対話か、じゃ「真理とは何か?」でいいやと思い、それでお願いしますと言ってしまいました。先週説教を準備し始めて、38節が入っていないことに気づき後の祭りでした。それでもイエス様自身37節で真理という言葉を口にします。これはきっとピラトだけでなく、この御言葉を聴く全ての人にとっても関心事になるだろうと、それでこの説教題で問題ないと思った次第です。
真理とは何か?ごく一般的に言えば、それは時や場所を超えて普遍的に当てはまること普遍的に有効なこと、人間がどうあがいても変えられない、好むと好まざるにかかわらずその下で生きるしかない、そういう何か絶対的な法則というか有り様が真理です。光が1秒間に30万キロで進むというのは物理学上の真理です。三角形の内角の総和は180°というのは数学上の真理です。 イエス様とピラトの対話の中で出てくる真理とは、そういう自然科学上の真理とは異なります。でも真理である以上は時や場所を超えて普遍的に有効な有り様について言われています。何のことでしょうか?イエス様は自分は王であると、しかもその国はこの世に属さない国だと言っています。そういう国があることとその国の王であることが真理に関係します。この世に属さない国とは、いうまでもなくイエス様が地上で一番よく教えた「神の国」のことです。ユダヤ民族に属さないピラトに神の国と言っても何のことかわからないので、それでその言葉は使わず「この世に属さない国」と言ったのです。
神の国とイエス様がその王であることが真理に関係するのであれば、神の国とイエス様がその王であることがどういうことかわかると、イエス様の言われる真理もわかってきます。今日はこうしたことについてお話しします。今日の説教は二部構成になります。第一部では、イエス様とピラトの対話を歴史に忠実に見ていきます。何をするのかと言うと、二人の対話が記されているテキストを確実性の高い歴史的事実とかけ合わせて見るということです。第二部では、イエス様の言われる真理を聖書全体の観点から明らかにします。
皆さんは、二人の対話を読んで、おやっと思ったことはありませんか?イエス様とピラトは何語で話をしていたのだろうと疑問に思ったことはありませんか?ピラトはローマ帝国から派遣された総督です。ローマの高官ということはラテン語か?じゃ、イエス様はラテン語を話したのか?イエス様は神の子だから、語学も奇跡の業であっという間にできたのだ、と言う人にはこの説教は意味がありません。聖書の神は具体的な歴史を通して自分の意思や計画を人間に示される方です。それなので、神の意思や計画を知ろうとするならば、歴史を飛躍せずにそれを足場にして知ろうとしなければなりません。
福音書をよく見ると、イエス様はアラム語とギリシャ語のバイリンガルであることがわかります。アラム語というのは、文字はヘブライ語と同じですが文法や語彙はかなり違います。ユダヤ民族はもともとヘブライ語を話していましたが、バビロン捕囚で3世代くらい異国の地にいた時にその地のアラム語に同化してしまいます。エズラ-ネヘミア書をひも解くと祖国に帰還した民に指導者が律法を読んで聞かせそれを解説したとあります。ヘブライ語で読んでアラム語で解説したのです。イエス様の時代のシナゴーグの礼拝でも同じでした。専門家がヘブライ語で旧約聖書を朗読してそれをアラム語で解説したのです。ルカ4章でイエス様がナザレの会堂でイザヤ書の巻物を渡されて朗読し、会衆が彼の説き明かしを待ったことが記されています。その意味で彼はヘブライ語も出来たことになります。ただ、それは会話言葉ではありませんでした。
イエス様がアラム語で話した肉声が福音書の中にあります。マルコ7章で耳が聞こえず舌が回らない人を癒す奇跡を行った時の言葉エッファタ、正確にはאפתהイップターです。おまじないの言葉と思う人もいるのですが、単にアラム語で、お前の閉じている部分は開かれよ、と言っているだけです。マルコ5章の会堂長の娘を生き返らせる奇跡を行った時の言葉タリタ、クム、少女よ、起きなさい、ですが、正確にはטליתא קומיテュリーター、クーミーです。そして有名な、イエス様が十字架の上で叫んだ言葉、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ、わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのですか?正確にはאלהי אלהי למא שבקתניエラヒー、エラヒー、レマー、シャバクタニーと言います。ご存じのように新約聖書はギリシャ語で書かれています。つまり、もともとアラム語だったイエス様の言葉はことごとくギリシャ語に翻訳されます。ただし、目撃者に強烈な印象を与えた言葉はギリシャ語に訳されずに音声のまま記されたのです。それが日本語訳の聖書ではカタカナになっているのです。私たちはイエス様の肉声と共に当時の人たちの驚きにも触れられるのです。
イエス様がギリシャ語も出来たというのは、マルコ7章のシリア・フェニキア人の女性との会話から伺えます。ユダヤ人でない異邦人の女性です。ギリシャ語は当時地中海世界の東側では公用語でしたから、アラム語が出来ない異邦人と話す場合はギリシャ語しかないでしょう。総督ピラトも任地が地中海東海岸であれば公用語のギリシャ語は必須だったでしょう。ギリシャ語が出来たからユダヤに送られたのかもしれません。そういうわけで今日の日課の二人の対話はギリシャ語でなされたと考えるのが妥当です。先に申したように、新約聖書はギリシャ語で書かれ、イエス様の言葉もギリシャ語に翻訳されていきました。そうすると今日の福音書のイエス様とピラトの対話はギリシャ語で書かれていても、これは翻訳されたのではない二人の生の会話のそのままの記録ということになります。ここでもイエス様の肉声に触れることができるのです。
アラム語についてもう一言。本日の旧約の日課ダニエル7章もアラム語で書かれています。あれ、旧約聖書ってヘブライ語じゃないの、と思われるかもしれませんが、一部はアラム語で書かれています。ダニエル2章でバビロン王ネブカドネツァルが自分が見た夢の意味を賢者たちに説明させようとします。4節で「賢者たちは王にアラム語で答えた」とあり、そこまでヘブライ語だった文章はここでアラム語に転換します。ヘブライ語の知識しかない読者は文字は同じなのに全然理解できず面食らってしまいます。アラム語は7章の終わりまで続きます。本日の日課7章13節に出てくるあの有名な「人の子」もアラム語でבר אנשバル エナーシュと言います。これはもともとは単に人間を意味する言葉でした。それがダニエル書の預言で使われて以来、この世の終末の時に雲と共に現れて神から王権を与えられて神と共に裁きを行うという、終末の王という意味を持つようになります。イエス様がアラム語圏の世界で自分のことをバル エナ―シュであると呼び、将来自分は雲と共に再臨すると言った時、当時の人たちの驚きよう、特にユダヤ教社会の支配層の驚きはいかようだったか想像に難くありません。
ここでイエス様の言われる真理を見てみましょう。対話の終わりの方でイエス様は「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言います。「真理について証しする」という訳は少し頼りない訳です。「真理について証しする」と言うと、「真理がどういうものか公けにする」という意味になります。つまり、真理の内容を開示することです。イエス様の言いたいことはそれではありません。ギリシャ語の用法(dativus commodi)に忠実に訳すと「真理にとって利益となるように真理を公けにする」という意味です。つまり「真理がその通りであることを公けにする」ことです。イエス様の言いたいことは「私は真理がその通りであることを公けにするために生まれ、そのためにこの世に来た」です。真理の内容を開示するためでなく、真理がその通りであることを公けにするためです。イエス様が真理の内容は何も言わないで、真理がその通りであることを公けにするために来た、と言ったので、ピラトはじゃ真理とは何なのだ?と内容を聞き返したのです。それではイエス様の言われる真理とは何か?イエス様はどうやってそれがその通りだと公けにしたのでしょうか?これからそれを見ていきます。
対話の中でイエス様はとても革命的なことを言われます。「私の国はこの世に属していない」という言葉です。原文を正確に訳すと「私の国はこの世に起源を持たない、この世に由来しない」です。革命という言葉は、1990年代に冷戦が終わってからあまり耳にしなくなりましたが、ある国の体制、統治の仕方が急激に別の体制に取って代わる変わられることを言います。そこでの国は皆、この世に起源を持ちこの世に属する国です。ところがイエス様の言われる国はこの世に起源を持たない、この世に属さない神の国です。そんな国が関わってくると通常の革命と全く異なる次元の大変動が起こるのです。通常の革命を超えた超革命と言ってもいいでしょう。
どういうことかと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章で言われていることです。全ての被造物が激しく揺り動かされて取り除かれてしまう時が来る。その時、唯一揺り動かされないものとして神の国が現れるということです。まさに超革命の勝利者です。全ての被造物が揺り動かされて取り除かれるというのは、イザヤ書65章と66章で新しい天と地の創造について預言されています。その新しく創造される天と地の下に唯一の神の国が現れるのですが、その国に迎え入れられる者と迎え入れられない者の選別があることが先週の旧約の日課ダニエル書12章で言われていました。その選別は新約聖書では最後の審判としてイエス様や使徒たちがより明確に述べています。そう言うと、じゃ最後の審判というのは、その時点で生きている人たちが裁かれることでその前に死んでいれば関係ないのかと言われるかもしれません。しかし、先週のダニエル書12章では死者の復活の預言もありました。死者も審判にかけられるのです。そのことはキリスト教会の礼拝の信仰告白のところで私たちが唱える使徒信条やニケア信条の中で言われる通りです。再臨の主は生きている者と死んだ者とを裁かれるのです。
本日のダニエル7章で先ほど見た「人の子」が神から王権を与えられ、神と共に審判を行うことが言われています。王であり裁きの主でもあるこの方は言うまでもなく再臨の主イエス・キリストです。そこで審判にあたって巻物が開かれると言います。「巻物」ספר’ןシフリーンというのは、辞書を見るとbook本、書物です。当時は本は基本的に巻物ですから、そう言っても間違った訳ではありません。ただ、素直に「書物」と訳すると旧約聖書と新約聖書の繋がりがより良く見えてきます。新旧聖書を通して神の手元に書物があることが言われます。命の書とも言われます。それが最後の審判の時に開かれることが黙示録で言われます。ダニエル書7章10節の「巻物」も同じです。この書物に記されているのは名前だけではありません。この世に存在した全ての人間、国籍・文化・宗教を問わず全ての人間について全てのことが記されています。他人のことばかりでなく自分自身のことでも気がつかないこと見えないこと全てが記され、それが神の国へ迎え入れていい者かよくない者かの根拠になっているのです。私たちが間違っていないと思っていたことでも全てを見ていた神の目から見て間違っていたということもあるのです。相手は私たちの髪の毛の数すらわかっている私たち人間の造り主です。何も隠し立てはできません。
そうすると、自分は神の国に迎え入れられるのだろうかとすごく不安になります。そのような神の前に立たされた時、私は潔白ですと言えるだろうか?自信がなくなります。しかし、私たち人間を御国の御許に迎え入れてあげたいというのが、私たちの造り主である神の意思なのです。それだからひとり子のイエス様をこの世に贈ったのです。もし神が、神の意思に反する罪を持ってしまっている人間を片っ端から裁きたいだけだったら、ひとり子なんかわざわざ贈らなかったでしょう。逆に、もし罪を持っていてもそんなのどうでもいいよ、誰でも天国に入れてあげますよ、といういい加減な方だったら、そもそもひとり子を贈る理由なんかありません。神がイエス様を贈ったというのは、神が罪を罰せずにはおけない正義を体現する方であるということと、人間が神罰を受けないで御国に迎え入れられるようにしてあげようという愛をも体現する方であることを物語っているのです。神は愛と正義を両方兼ね備えた方なのです。 イエス様は自分のことをこの世に起源を持たない神の国の王であると言われました。それは彼が神と共に審判を行い、神の国に迎え入れらえる者に復活の体を着せて迎え入れてあげる方ということです。復活の体についてはパウロが第一コリントの15章で詳しく述べています。イエス様が復活の日に死者を復活させて懐かしい人と再会させてくれることは、ヨハネ11章のマルタとの対話の中で述べています。
新しい天地の下での神の国も、最後の審判も、復活も全て旧約聖書の中であちこちに断片的に知らされていました。しかし、旧約聖書自体を持たない異邦人のピラトには何のことか全くわからなかったでしょう。ところが旧約聖書を持っていた肝心のユダヤ民族もよくわかっていなかったのです。将来ダビデの家系から王が登場して神の力を受けて王国を建てるという預言が旧約聖書に見られますが、彼らにとってそれは、ローマ帝国の支配を打ち破ってかつての王国を復興させてくれるというような、この世に起源を持つこの世に属する国のことでした。それだから、ユダヤ教社会の指導層はイエス様のことでとても心配したのです。何が心配だったかというと、ローマ帝国に反乱の意図を疑われたら一巻の終わりだ、せっかく大きな神殿を持ててうまくやっているのに軍事介入など元も子もないと恐れたのです。それでイエス様を逮捕して総督のもとに引き出したのです。旧約聖書理解では民衆も指導者たちと同じ土俵に立っていました。彼らはイエス様に救国の英雄を期待しました。ところが彼が逮捕されて裁判にかけられると失望して背を向けてしまったのです。
このように当時の人たちは旧約聖書を持ってはいても、視点は自民族中心でとても全世界的・全人類的とは言えませんでした。彼らは、今あるこの世を超えて次に到来する世というところにまで目が届いていなかったのです。旧約聖書の預言はそこまで踏み込んでいたにもかかわらず。それに気がつかなかったのは、ユダヤ民族が辿った歴史を考えればやむを得なかったのかもしれません。
しかし、それだからこそ神はひとり子を贈って旧約聖書の正しい理解の仕方を教えさせたのでした。しかも、このひとり子は教え.ることだけに留まりませんでした。人間の歴史がこの神の計画の通りに進むようなことをしでかしたのです。もし、それをしなかったなら神の計画は実現しなかっただろうと言えるようなことをしでかしたのです。彼の十字架の死と死からの復活がそれです。
イエス様の十字架と復活の出来事の後、人々の目が見開かれて旧約聖書を事後的に正確に理解できるようになったことが福音書の中に記されています。エマオの道で二人の弟子と復活の主との出会いは一つの例です。イエス様が神の想像を絶する力で復活させられたことで、彼が神の贈られしひとり子であることがわかるようになりました。そのひとり子ともあろう方が十字架にかけられて苦しみながら死ななければならなかったのは、これは、人間の罪を全て自ら背負い人間に代わって神罰を受け、人間が受けないで済むようにする犠牲の業であることが明らかになりました。そのことも全て旧約聖書に預言されていたのです。神はひとり子を文字通り犠牲の生贄にして人間の罪の償いをさせたのです。神のひとり子の犠牲ですから、これ以上の犠牲はありません。まさに神聖な犠牲です。
こうしたことが起きた以上は、今度は人間の方が、このようなことが歴史上起こったと知らされて、それは今の世を生きる自分のためになされたんだとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様こそ真に自分の救い主だと信じて洗礼を受けます。そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人に覆いかぶさりその人は罪を償ってもらった人になります。罪を償ってもらったのだから、その人は神の目から見て罪を赦された者となります。罪を赦されたから神との強固な結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。神はさらにイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間に切り開かれました。神との結びつきを持ってこの世を生きる者はその道を歩みます。その結びつきは順境の時も逆境の時も全く変わらずにある結びつきです。それなので常に神の守りと導きの中で歩むことが出来ます。たとえこの世から去ることになっても、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に永遠に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちの再会が待っているところです。
イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることで、人間が神の国へ迎え入れられるようになるための道を用意して下さったのです。まさに十字架と復活の業が起こったことで、今の天と地に取って代わって新しい天と地が再創造されることや、そこに神の国が現れることや、最後の審判や死からの復活、神の国への迎え入れが起きるのです。これらのことがその通り起こるということが公けになったのです。イエス様を救い主と信じる者は、この真理の下に服してこの世を生き復活への道を進んでいます。しかし、世界にはこの真理に服さない人たちも沢山います。創造主の神の願いは、全ての人が今のこの世と次に到来する世の二つの世を生きる命を持てるようになることです。これ以上の救いはありません。だからイエス様の十字架と復活を宣べ伝え続けることは時代や国境を越えて普遍的に大事なのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日礼拝説教(スオミ教会)
聖書箇所:ヨハネによる福音書18章33〜37節
お久しぶりです。もう何年振りでしょうか。スオミ教会がこの地に移転した時には来させて頂きましたが、まだこの会堂ではお話ししたことがなかったと思います。
今日は、聖霊降臨後最終主日です。教会の暦としては、今年一年の最後の主日となる。ですので、聖書のテキストも、終末…、つまり世界の終わりに関わる箇所が取り上げられていました(毎年のことですが)。先週もそうでした。マルコ福音書にある「終末の徴」についてでした。そこでお話しした一部を、ここスオミ教会でもまずはじめにお話ししたいと思います。
言わずと知れたこのコロナ禍で、私たちは大変な生活を強いられました。もちろん、そうです。未曾有の出来事。多くの方々が職を失い、精神的にも追い詰められてしまいました。そのこと自体を決して軽視するつもりはありませんが、私の中ではどうしてもこういった問いが生まれてならなかったのです。このコロナ禍だけなのだろうか、と。ある方の一言が、そんな私の問いを後押ししてくれたようにも思います。「私は全然危機感を抱いていない。戦争はこんなものではなかった」、そう戦争を体験された方が告げられたからです。
繰り返しますが、決して軽視するつもりはありません。本当に大変な方々が多くおられるのも事実です。そういった方々に対するセーフティーネットをもっともっと拡充していく必要があるのではないか、それこそが政府・政治の役割ではないか、とも思う。私たちにも出来ることがあるのではないか、とも問われる。反省も無力さも感じる。そうです。本当にそうです。しかし、私自身は、どうしてももう一つのことに思いが向かうのです。私たちは「終末論」の信仰をどうも見失ってしまっていたのではないか。この「終末論」の信仰を伝えるのを怠ってしまっていたのではないかと、今更ながら反省させられてもいるのです。
「終末論」とは、世界の終わりのことです。この世界はやがて終わりを迎える。そこに向かって、戦争、天変地異、飢饉、迫害などの徴が現れる。そう聖書は語ります。確かにそれは、あまり触れたくないところです。しかし、「終末論」とは、それだけを伝えるのではありません。新しい世界の到来を告げるものです。その新しき世界とは、まさに愛なる神さまが御支配されておられる世界。救いの完成の時。死も苦しみも悩みも痛みもなく、全てから解き放たれて、祝福だけが満ち溢れている世界。そう、この世の労苦が報われる世界です。
現代社会の課題は、希望が見えなくなっているところです。非正規雇用は非正規雇用のまま、どうせ未来などない。こんな給料じゃ家庭なんか持てない。子どもなんて育てられない。どうせ先が見えているなら、何も変わらないなら生き続ける意味などあるのだろうか。そんな世界。気持ちが分からない訳じゃない。しかし、最初にお話した問いが私の中に浮かんでくるのです。このコロナ禍だけなのだろうか。人類の歴史とは、ずっとそうだったのではなかったか。むしろ、もっと過酷な世界を生きてきたのではなかったか。では、それらの人々は希望を持つことができなかったのだろうか。いいや、違う。たとえ、今は、この世では恵まれない人生だとしても、満たされない人生だとしても、不遇の人生だとしても、必ず救ってくださる方が、報いてくださる方がいてくださる。この私を、幸いな世界へと招き入れてくださる方がいてくださる。だから、耐えていける。我慢していける。今を生きていける。そういった希望があったのではないか、と思うのです。
もちろん、この社会はもっと改善されるべきです。弱者に優しい世界へと変革されるべきです。しかし、いくら社会が変わっても、どうしても恵まれない人は生まれてしまうのだと思う。だからこそ、その視点が、その信仰が今でも必要なのだと思えてならないのです。新しき世界を見つめる目が。今の労苦が必ず報われるという信仰が。
今朝の福音書で、イエスさまはこう語られました。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」。ここについては、さまざまな理解の仕方があるでしょうが、要は、この世界であっても、あるいは新しき世界であっても、イエスさまの国は、この世とは全く一線を画するということでしょう。イエスさまの国は、この世とは相容れないもの。なぜならば、それは神さまの国でもあるからです。神さまが御支配されている世界。この私たちの世界は「武力」に代表されるように、弱肉強食の世界です。いくら社会が変革し、制度が変わっても弱者の上に強者が君臨するといった図式は変わらないのです。そこに、現代社会の歪みも起こっている。しかし、イエスさまが目指される国は、決してそうではないのです。イエスさまが目指される国は、99匹をたとえ野に残しておいても、見失われた1匹を探し求められる世界です。一人一人が真に尊重され、愛される世界です。だから、必ず報われるのです。たとえ、どんな些細なことであったとしても。たったいっぱいの水を差し出したに過ぎないとしても。
そのイエスさまはこうも語られる。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。ヨハネ福音書では、この「真理」という言葉がよく出てきます。それほど重視している、ということでしょう。では、「真理」とは何でしょうか。カトリックの雨宮神父はこのように語っておられました。「聖書にとって『真理』とは、『いつでも、どこでも通用する妥当な知識や認識』(おそらく、これが日本人が抱く「真理」の意味ということだと思いますが)というよりは、『堅固で、信頼ができ、永続するもの』を指します」。「真理」とは堅固・確かで、信頼ができ、永続するもの、つまり、イエスさまそのものであり、福音ということです。
先ほど、ヨハネ福音書ではこの「真理」という言葉が多用されていると言いましたが、皆さんはこの言葉も思い浮かべられたのではないでしょうか。ヨハネ14章6節「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である』」。ここでイエスさまは、ご自身で「わたしこそが真理である」と言っておられる訳です。しかし、注意していただきたいのは、この言葉には続きがある、ということです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われていることです。先ほどの「道」「真理」「命」はよく耳にしたり目にしたりしますが、個人的にはこの句が外されていることに大変違和感を感じています。ともかく、イエスさまはご自身のことを、神さまへと通じる道であり、真理であり、命なのだ、と告げておられる、ということです。そうです。イエスさまを通してでなければ、私たちは本当の神さまのお姿には出会えないのです。神さまのお姿がボケてしまうか、間違えてしまうか、だけです。
今日の福音書の箇所は、イエスさまが十字架にかかられる前の裁判の席でのことでした。つまり、「真理」である方がこれから十字架の上で死なれるのです。そして、三日目に復活なされる。それが、私たちを唯一神さまの御許へと導いてくださる「真理」である方なのです。この方が示される「終末」だからこそ希望が持てる。この方が約束してくださった新しい世界だからこそ待ち焦がれることができる。この方がご自身の身をもって明らかにしてくださったからこそ、私たちは忍耐していける。必ず報いられることを信じて励んでいける。現実の中をも生きていける。そうではないでしょうか。
私たちは、もう一度、苦難の中に生きた人々が仰ぎ望んだ希望の世界を見つめ直したいと思うのです。そして、この世界の中だけでは希望を見出せなくなってしまっておられる方々に、少しでもこの希望を届けていければと願わされています。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
クリスマスの準備も済みました。