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主日礼拝説教 2020年11月15日(聖霊降臨後第24主日)
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.本日の福音書の日課の個所も分かりそうで分かりにくいところです。主人が家来に財産の管理を任せて遠い国に旅に出ます。それぞれが持っている力量に応じて任せる額を決めます。ある家来には5タラントン任せました。1タラントンは当時の日雇い労働者の6,000日分の賃金です。今の金額でいくら位でしょうか?東京都の最低時給が1,000円ちょっとなので、一日8時間働いて8,000円ちょっと。その6,000日分は48,000,000円。これが1タラントン。5タラントンは2億4,000万円です。相当な金額です。二人目の家来には2タラントン、9,600万円任せ、三番目の家来には1タラントン、4,800万円任せました。主人はそれぞれの家来の力はこれくらいあると判断して、それに見合う金額を任せたのです。
その後どうなったか?一番目の家来は任せられた5タラントンを元手に働いて、さらに5タラントンの利益をもたらしました。一体何の働きをしてそんなに儲けられたのか?私たちとしてはそっちに関心がいくかもしれませんが、それについてイエス様は何も言っていません。ここは仕事の中身よりもとにかく働いたということがポイントなのでしょう。二番目の家来も任せられた2タラントンを元手に働いて、さらに2タラントンの利益をもたらしました。この二人に対して主人は、全く同じ労いの言葉をかけました。ギリシャ語原文を意識して訳しますと、「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にする。さあ、お前の主の喜びの中に入りなさい。」これは一体どんな意味でしょうか?それは後で見ていきます。
三番目の家来は土を掘って1タラントンを隠してしまいました。なぜそうしたかと言うと、彼は主人のことを種を撒いていないところから刈り取ろうとする、また耕していないところから収穫を要求するような無慈悲な人だからと言います。事業に失敗して元手を減らすようなことになったら大変だとそれで保管することにしたのか、それとも、働くこと自体したくなかったので埋めてしまったのか、どちらかです。激怒した主人がこの家来を怠け者と言って叱責したのをみると、働くこと自体いやだったようです。そうすると、主人のことを無慈悲というのは理由と言うより下手な言い訳になります。主人としては、人の気も知らずによくも言ってくれたな、という感じになるでしょう。
主人は、銀行に預ければ利子が得られて、それと一緒に返せるではないか、と言います。銀行とは現代的ですが、これは当時の両替商のことでお金の貸付けも行っていました。利子を求めるなどとは主人はやっぱり欲張りかなと思わせますが、ギリシャ語の原文を見ると、両替商も銀貨も複数形です。つまり、1タラントンという多額のお金を沢山の銀貨に分けて多くの両替商に預けることを意味します。それはそれで大変な作業になるでしょう。いずれにしてもその家来は暗闇の外に放り出されてしまいます。
以上の話の流れは誰にでもわかります。ところが、イエス様はこのたとえで一体何を教えようとしているのか?これはわかりにくいと思います。元手があればしっかり働いて利益を得なさい、お金は眠らせてはいけない、という資本主義の精神とかプロテスタンティズムの倫理を教えているのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。先週の説教でも申しましたが、イエス様の教えというのは、今のこの世の次に到来する新しい世とか、死者の復活とか、最後の審判とか、そういう今あるこの世を超えた視点を持って語られています。それを忘れてはいけません。イエス様は、この世の人生訓とか処世術とか、あるいは何か思想・哲学イデオロギーを教えるために創造主の神のもとから贈られてきたのではありません。人間が聖書をそういうものと解釈して自分に都合のよい思想を作るのは人間の勝手ですが、イエス様というのは本当は人間が将来到来する神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方がこの世で出来るようにするために贈られてきたのです。
それでは、人間が将来神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方とはどんな生き方か、それを本日のたとえはどう教えているのか?今日はそれを見ていきましょう。
2.まず、この3人の家来のたとえは先週の10人のおとめのたとえの続きとしてあることに注意します。同じ内容の教えを違った角度から教えているのです。10人のおとめのたとえでイエス様が教えようとしたことは、この世で目を覚まして生きるというのは神の国に迎え入れられるために用意することだということでした。神の国に迎え入れられために用意するとは、具体的には、まず、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様がゴルゴタの十字架で果たして下さった罪の償いを自分のものとすること。そして自分には神の意思に反する罪があることをわきまえ、イエス様が償って下さったという動かせない事実に自分の全てを毎日賭ける、そうやって罪を毎日圧し潰していくこと。そのようにして洗礼の時に植え付けられた霊的な新しい人を日々育て、肉的な古い人を日々死に引き渡していくこと。これらが神の国に迎え入れられるために用意をする生き方であるとお教えしました。
本日のたとえも神の国に迎え入れられるために用意する生き方を教えていることが見えてきます。主人が遠い国に旅に出て、かなりの期間の後に戻って来るというのは、イエス様の再臨を意味します。5タラントンと2タラントンの家来は主の喜びに迎え入れられますが、それはまさに神の国への迎え入れを意味します。そうすると、迎え入れが実現するためには、この世で何かをしなければならない、10人のおとめのたとえでは「用意をしなければならない」でした。その具体的な内容は、罪の自覚と十字架の赦しを繰り返すことで罪を圧し潰していく信仰の戦いを戦うことでした。3人の家来のたとえでは何をしなければならないと教えているのでしょうか?イエス様を通して何かを与えられる、そして、それをもとにして働いて成果を出すということ。それは一体何なのでしょうか?
まず家来に与えられたタラントンですが、これを「恵みの賜物」と考える向きは多いのではないかと思います。ローマ12章を見ると、預言する賜物があったり、奉仕をする賜物、教える賜物、人を励ます賜物、指導する賜物、施しをする賜物、貧しい者を助ける賜物などがリストアップされています。第一コリント12章にもいろいろ列挙されています。これらの賜物は神が独断でこの人にはこれと決めてお恵みのように与えるものです。人間が自分の力で獲得するのではありません。その目的も教会を成長させていくことです。賜物を授かった人間が自分を誇ったり偉そうにするためのものではありません。
もし家来に与えられたタラントンがそういう恵みの賜物であるとすると、得られた儲けとは何でしょうか?恵みの賜物の目的は教会の成長だから、儲けは教会が成長したことでしょうか?信者が増えて献金が増えたということでしょうか?再臨したイエス様は、それを見て満足して、教会をそのように大きくした者たちに褒美として神の国へ迎え入れたということでしょうか?
私は、そういうことではないと思います。まず、5タラントン儲けた家来と2タラントン儲けた家来が全く同じ労いを受けたことに注意しましょう。2億4,000万円も9,600万円もイエス様から見たら、神の国に迎え入れられる成果として違いは何もないのです。1億4,400万円の差なんて何も影響ありません。ここで仮に1タラントン任せられた家来も働いて同じように1タラントン儲けたとしましょう。主人は家来の力量に応じて額を決めたので、この者なら働いて1タラントンの儲けを得ることができるだろうと期待したのです。それで1タラントン儲けたならば、きっと他と同じ労いの言葉をかけられたことでしょう。「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にしょう。さあ、お前の主の喜びの中に入りなさい。」肝心なのは、任せられたものを元手にして働くことでした。しかし、家来は働きませんでした。
それじゃ、主人が両替商に預けて利子でもよかったと言ったのは何なのか?利子収入でいいと言うのは働かなくてもいいということではないのか?先ほども申しましたが、4,800万円分をいくつもの両替商に分散させて預けるはかなり面倒くさいことです。そんなことする位なら土中に埋めてしまった方が楽でしょう。実は1タラントンの家来のしたことの真の問題は、それを土に埋めて隠してしまったことでした。表に出さなかったということでした。あちこちの両替商に預ければ、主人から委ねられたものを少なくとも表に出すことになります。埋めて隠してしまったことがいけなかったのです。主人は1タラントンの家来の力量は小さいと見抜いていました。元手と同じ儲けが無理なら、利子でもいい、それでも神の国への迎え入れをしてあげよう、だから任せたものを少なくとも埋めて隠すようなことはしてくれるな、という思いでした。ところが家来はそうしてしまったのです。
3.ここで、主人が与えたタラントンと家来たちがした働き、しなかった働きについてもう一歩踏み込んで考えてみます。ローマ12章の使徒パウロの教えがカギになります。
パウロはそこで、罪の自覚と赦しを繰り返しながら罪を圧し潰して日々新しくされていくキリスト信仰者のこの世での生き方について教えます。罪を圧し潰す生き方についてはローマ8章で教えられていました。また、そのように生きる者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道を間違いなく進んでいることも同じ章で教えられていました。この世には神の意思に反することが沢山あります。それなので、キリスト信仰者はこの世がいろんなことを言ってきても耳を貸さず心を奪われず、あくまで神の意思に沿うように進まなければならない。そのことが12章の1節と2節で言われます。そのように進むこと自体がもう自分を神に喜ばれる神聖な生ける生贄にしていることなのです。
そこで3節から、そのような基本姿勢に立つキリスト信仰者が実際にこの世で周りの人たちとどのような関係を持って生きるかということについて教えられていきます。ここでは特に自分が他人より上だなどと思ってはならないということが強調されます。それをまず最初にキリスト信仰者の間で実践されることとして述べられます。ここで大事なことは、全てキリスト信仰者はキリストを一つの体とする体の部分部分であるということです。それぞれが神から何かお恵みの賜物が与えられています。それぞれが結びついて体全体を作り上げているので、どれが大事でどれが大事でないかということはない。すべてが全体にとってもお互いにとっても大事なのである。だから、誰も自分を誇ってはいけないのです。もし誇るのであれば、キリストを誇らなければならないのです。同じ教えが第一コリント12章でさらに詳しく述べられています。
9節からは、この、キリスト信仰者は他の人よりも上だなどと思ってはならないというスタンスに立って信仰者が人々一般とどう関わっていくかということが述べられます。愛は見せかけのものではいけない、悪を嫌悪せよ、善にしっかり留まれ(9節)。お互いに対して兄弟愛を心から示せ、互いに敬意を表し合え(10節)、熱意を持って怠惰にならず、霊的に燃えて主に仕えよ(11節)、希望の中で喜び、困難や試練の中でも持ちこたえ、祈りを絶やすな(12節)、キリスト信仰者が何か足りなくて困っている時、それを自分のこととして受け止めよ、立ち寄る者をしっかりもてなして世話をしろ(13節)、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない(14節)、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け(15節)、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たち者たちと共にいることに熱心になれ、自分で自分を知恵あるものとするな(16節)、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ(17節)、全ての人と平和に暮らすことがキリスト信仰者にかかっているという時は迷わずそうせよ(18節)、自分で復讐をしてはいけない、正義が破られた状況を神の怒りに委ねよ、旧約聖書(申命記32章35節)に書かれているように、復讐は神のすること神が報復するからである(19節)、また箴言25章に書かれているように、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、それをすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになるからだ(20節)。悪があなたに勝ってはならない、善をもって悪に勝たなければならない(21節)。以上の教えがローマ12章にあります。
ここで一つ大事なことを確認します。それは、これらのこと全ては実を言うと、神の国に迎え入れられるためにしなければならないことではなくて、罪の自覚と赦しを繰り返して罪を圧し潰していくと次第にこうなっていくというものです。これらは迎え入れを実現する条件ではなくて、結果としてそうなっていくというものです。神の国に迎え入れられるためにしなければならないこと自体は何かと言うと、罪の自覚と赦しの繰り返しで罪を圧し潰していく信仰の戦いをするということです。この戦いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた時に必然的に生じてきます。なぜなら、罪の償いを神のひとり子に果たしてもらったことは真にその通りですと告白して、洗礼を受けてその償いがその人に当てはまるようになったからです。それ以後は罪の償いがしっかりあるということが真理だという生き方になります。そこでは罪の自覚と赦しが不断に続きます。
先週の説教でも申しましたが、このような他人とのかかわり方は、いくら信仰の戦いから自然に出てくるとは言え、何だかお人好しで損をする生き方に思えてしまいます。特に今の時代は、インターネットやSNSの悪用も手伝って、他人を追い落とすため自分を有利にするために偽りでさえも真実と言ってはばからない風潮です。そんな中で信仰の戦いを戦ってお人好しになっていくのは馬鹿みたいに思われるかもしれません。しかし、先週も申しましたように、神の意思に沿うことをして損をするか、それとも得するために神の意思から外れるかという選択肢に立たされたら、キリスト信仰者はこの世での損は次に到来する世での得になると考える人たちです。
4.さてここで、タラントンとは何か、儲けとは何かについてはっきりさせましょう。主人はそれぞれの力量に応じて、たくさん力がある人にはこのようなお人好しをする可能性をたくさん与えたのです。5タラントンの家来はそれ位の可能性を与えられ、見事それに見合う分のお人好しをしました。人々に喜ばれ賞賛されたこともあっただろうが、人間の目から見て損をしたこともあったでしょう。2タラントンの家来も同じようにしましたが、可能性も実績も5タラントンの家来よりは少なめでした。しかし、そのことは神もわかっていて、それでその人にはそれで十分と言ったのです。宗教改革のルターも言っていますが、ある信仰者に多くの試練が与えられるのはその人がそれを背負える力があると神が認めているからそうなのであり、別の信仰者に試練が少ないのは神がその人は多くは背負えないと考えたからだと言っています。ただ、そうは言っても、背負う力があると認めてもらったことは光栄だが、いつまで背負っていなければならないのか心配にもなります。その時は第一コリント10章13節のパウロの教えを思い出します。そこでパウロは次のように教えています。 「神はあなたがた信仰者を見捨てない忠実な方です。あなたがたが自分の力以上の試練を受けることをお認めにはならず、あなたがたが背負うことが出来るようにと試練と一緒に出口も備えて下さる方です。」
5タラントンの家来は多くを背負う力があると神に認められ、それに見合うお人好しの可能性が与えられ、それに見合うお人好しを行って損をし辛いことにも遭遇しました。2タラントンの家来も自分の力に合う分の可能性が与えられ、それに見合う損や辛いことに遭遇しました。これらの損や辛いことは罪を圧し潰す信仰の戦いを戦うことで生じました。だから、神の栄光を増し加えるもので、それこそまさに儲けなのです。神はそれらを「小さな事」と言い、家来はそれに忠実だったと言います。家来は確かに信仰の戦いに忠実でしたが、彼らが遭遇した損や辛いことの全てをどうして「小さい」と言うのでしょうか?それは、将来神の国に迎え入れらえるという光栄を前にしたらこの世で遭遇したことの総体は小さいものとなってしまうからです。そのことについてパウロは第二コリント4章17節で次のように教えています(ギリシャ語原文を意識した訳します)。 「私たちの艱難の一時性と軽さは、神の国の栄光の永遠さと重さに取って替わられるのです。私たちのためにそれが何百倍にもなって取って替わられるのです。」
さらにローマ8章18節でも同じように教えています。 「現在の苦しみは、将来私たちに現われ私たちが与ることになる神の国の栄光を思えば、大したことではないと私は考えます。」
これで、このたとえの主人が言ったこと「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にする」は、本当にその通りなのだとわかるでしょう。 翻って1タラントンの家来は神から与えられた可能性を潰してしまいました。神の国に迎え入れられるための用意する生き方をせず、信仰の戦いを放棄してしまいました。両替商に預ければ、何がしかの可能性を用いて何がしかの用意になったかもしれないのに。それでも神はOKと言ってくれたかもしれないのに。神は、彼に与えた可能性は無駄だったとわかり、それを最大限生かせる家来にあげることにしました。まさに、持っている者に与えられ、しかも一層与えられ、持たない者からは持っているものも取り上げられるということになったのです。
5.最後に、このたとえについて一つ大事なポイントをお教えします。それはこれも先週の10人のおとめのたとえと同じように警告の教訓話ということです。1タラントンの家来は、愚かなおとめたちと同じように一度はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いを自分のものとしたが、いつしか用意する生き方から離れ、信仰の戦いもしなくなってしまった者です。これらのたとえは、こうした者を断罪するのが目的ではありません。そうならないように、今でも遅くないから心を入れ替えなさい、ということです。そして、先週にも申し上げましたが、まだイエス様が果たした罪の償いを自分のものにしていない人たちに対しても、早くそれを自分のものとして神の国に向かう道を歩み始めなさい、そこに迎え入れられる用意をする生き方をしなさい、ということです。そうすれば、お人好しで損をする人生だと思われたことがそうではなくなり、将来現れる永遠の栄光の重みにこの世の艱難は軽くなるということが真理になるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
再開されて2回目の家庭料理クラブは、とてもフィンランドらしい食事パンを作りました。
お祈りをしてスタートです。
最初は生地の元になるオートミールを作ります。 沢山のシード類を加えて煮上がりを待つ間は、パンの仕上がりを想像して、ワクワクしました。
適温になったオートミールに、材料を加え捏ねあげ、発酵した生地を棒状に伸ばしてカットして丸め、再度発酵を待っての焼き上がりに、笑顔がこぼれ、 滋味あふれるパンを噛みしめて、美味しさを味わいました。
パイヴィ先生からは、フィンランドのパンと聖書のお話を聞かせて頂きました。
12月の家庭料理クラブは、 クリスマスのメニューを考えています。
パンはフィンランド人の食卓の中で最も大事な食べ物です。特に昔の人はパンの重要性をよく知っていました。もしパンがないと、もうそれはご飯にならない、と言うくらいパンは食事の重要な部分でした。かつてパンは店で買うものではなくて、いつも家庭で作られました。パンの生地に入れる材料はどこでも大たい同じでしたが、パンの味はそれぞれの家庭の味になりました。昔のパンの作り方について写真を通して見てみましょう。
1. パンを作り始めるのはパンのもとを生地を作る木の入れものに入れて、体温くらいの暖かいお湯で起こして柔らかくします。ライ麦を少しづつ入れて、柔らかいおかゆみたいなものを作ります。 2. その後で布巾を上にかぶせて夜中発酵させます。 3. 次の日の朝ライ麦を加えて生地をよく捏ねて、最後に生地の上に十字架の印をして、生地を祝福します。これは良いパンが出来るようにという意味です。また生地を発酵させます。 4. 発酵させた生地をテーブルの上にのせて良く捏ねて、細長く丸めてから分けます。そしてパンの形にします。フィンランドはパンの作り方によって東と西の二つの地方に分けられます。東の地方では厚いパンを作るのが習慣でしたが、西の地方では薄いパンが作られました。 5. パンの形を作ってまた発行させます。オーブンに入れる前に空気をとるためにパンをフォークで刺します。 6. パンを薪で暖めたオーブンで焼きます。オーブンは250℃から280℃くらいの温度にします。200℃から250℃位に下がったらパンを焼きます。薪オーブンの大きさはパンの枚数で言い表します。例えば「六枚入りのオーブン」などと言います。 7. パンの焼き具合はパンの底を指で叩いたら分かります。少しポンポンとなるようになったらパンは焼けています。
昔私の母もこのように家のパンを作りました。母は毎回何十個のパンも作ったのでパン作りは一日の仕事になりました。パン作りついて、私たちが住んでいた村には面白い習慣がありました。それは出来たての温かいパンを近所に分けてあげることでした。それで私たち兄弟は焼きあがったパンを近所の家に持って行って、近所の人たちを喜ばせました。もちろんパンを作る人にとっても喜びでした。昔はこのように自分のものを他の人に分けることは普通でした。ある意味で当たり前のことでした。
実はこれは聖書の教えに基づいていました。ルカによる福音書6章38節でイエス様は「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」と言われます。そのことについて少し考えてみます。私たちは自分のものを分け与えたりプレゼントをする時はどんな考えがあるでしょうか?今クリスマスが近づいているから、多くの人はプレゼントを考え始めているでしょう。もし友達や親せきから高価なプレゼントをもらったら、どんな気持ちになるでしょうか?申し訳ない気持ちになって何か高いお返しをしなければと考えるかもしれません。また逆に、私たちが友達や親せきに高いプレゼントをあげたら、相手から何かプレゼントを期待するかもしれません。イエス様の教えはこうした考えとは全然違います。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」この意味は、私たちが自分のものを他の人に分け与えると、天と地と人間の造り主の神様がそれを祝福して下さるということです。私たちが持っているものは本当は全部神様が与えて下さったものです。私たちが他の人に何かを分け与えるというのは、神様のものを他の人に渡して喜ばせるということです。その時、他の人がお礼やお返しをすることは考えません。お礼やお返しがなくても他の人が喜んでいるのをみて神様に感謝します。これが神様から祝福が与えられたということです。
私たちはどんな気持ちでプレゼントをするでしょうか?聖書は、「喜んで与える人を神様は愛して下さる」と教えています。私たちは何かをあげる時、喜んで与えることが大事です。でも、そんな与える喜びはどこから来るでしょうか?クリスマスプレゼントが良い例です。私たちは、クリスマスの本当の意味が分かると、プレゼントをあげる喜びが出てきます。クリスマスの本当の意味は、天と地と人間の造り主である神様が私たち人間の救いのためにひとり子のイエス様を私たちに送って下さったということです。イエス様は私たち人間の悪いこと罪を全部十字架の上まで背負って運び、そこで神様の罰を受けて死なれました。そして3日後に神様の力で死から復活されました。イエス様の十字架と復活のおかけで、私たちの罪が全部許されて、神様の前に出ても大丈夫な者にしてもらいました。そして、この世でも、またこの次の世でも、いつも永遠に神様が私たちと共にいて下さるようになりました。このようにイエス様は私たちへの神様の最大のクリスマスプレゼントなのです。こんな高価なプレゼントを頂いたから私たちは喜んで他の人に与える者になれるのです。
神様がイエス様を送って下さったことに比べたら、焼きたてのパンをあげるのは小さなことですが、パンを焼いた人も頂く人も両方喜ぶことになります。ですから、皆さん、これからプレゼントをする時は、神様が私たちにとても大きいプレゼントを与えて下さったかを覚えて行きましょう。
主日礼拝説教 2020年11月8日(聖霊降臨後第23主日)
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結婚式の祝宴というものは、イエス様の時代にも大がかりでした。ヨハネ福音書の2章に有名なカナの婚礼の話があります。イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行った話です。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶があり、今の単位で言えば80-120リットル入る大きさのものでした。そんな大きさの水瓶が全部で6つありました。既に出されたぶどう酒が底をついてしまった時、イエス様は追加用に水瓶の水全部480-720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしました。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。
本日の福音書の箇所でも結婚式の祝宴の盛大さが窺われます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に行って結婚を正式に申し込みます。先方の両親からOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで祝宴が盛大に催されました。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従います。こうした付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。
本日の福音書の箇所でイエス様は、婚礼の行列に付き従うことになった10人のおとめたちに何が起きたかを話します。10人のうち賢い5人は、花婿が花嫁の家を出発するまでの待ち時間にともし火が消えないように油を準備します。愚かな5人はそうしませんでした。案の定、花婿はなかなか出て来ず、10人とも疲れて眠ってしまう。すると突然、花婿が出てきて、結婚は成立した、これから祝宴に向かって出発するぞ、と号令がかかる。はたと目が覚めたおとめたちは支度をするが、愚かなおとめたちはともし火が消えそうなのに気づいて慌てて油を買いに行く。その間に行列は出発してしまい、さっさと祝宴会場に行ってしまう。油を買って遅れて来たおとめたちは閉ざされた門の前で、中に入れて下さいと懇願するが門前払いを食ってしまう。そういう話です。
これを読むと、花婿は5人に対してなぜそんなに厳しく振る舞うのか、と大抵の人は思うでしょう。閉じた門の反対側から「お前たちなど知らない」などとは、ちょっと冷たすぎはしないか?結婚式の行列にともし火を持って付き従うというのは、そんなに花婿の名誉にかかわるものなのか?それをちゃんと果たせないというのはそれほどの大失態ということなのか?こうした疑問は、当時の民衆の生活史を綿密に調べないとわかりません。
ここで注意しなければならないことがあります。それは、この話はたとえということです。架空の話で実際に起こったことではありません。お前たちも注意しないとこの5人みたいになってしまうぞと警告する教訓話です。当時の人が身近に感じる事柄を題材にしてひゃっとさせて考えさせる手法です。ところが現代の私たちには婚礼の行列のおとめのともし火なんてあまり身近に感じられません。エキゾチックな感じはしますが。門前払いでひやっとさせる事と言ったら、私などはかつて日本の大学で必修科目の試験で遅刻して門前払いを食ったことがあります。他の単位を満たしてもそれに合格していないと卒業は出来ないので、さすがに次の年は気を引き締めました。それが最終学年の試験でなくてよかったと何度も思いました。
しかしながら、この10人のおとめの場合は門前払いを食って人生の進路の予定が狂うという次元の話ではありません。実はこれは人間の生死にかかわる話で、門前払いを食ったら永久に取り返しのつかないことになるという、かなりシビアなことを教えているのです。それでひゃっとさせることが出来たら警告は重く受け取られることになるでしょう。現代の私たちは同じようなひゃっとはないかもしれません。しかし、たとえ昔と今の感覚の違いはあっても警告は昔と同じくらいに重く受け取られるようにする、これが説教者に課せられた使命です。ここでもう一つ忘れてはならないことがあります。それは、このたとえは警告の教えだけに留まらないということです。賢いおとめたちのように立ち振る舞えば祝宴に入れるということにも注目しなければいけません。彼女たちの立ち振る舞いが何を意味するのかがわかると、このたとえは希望の教えにもなります。以下そうしたことを明らかにすることを目指して御言葉の説き明かしを進めてまいります。
まず、この10人のおとめのたとえは何についてのたとえだったでしょうか?それは冒頭に言われています。「天の国」についてのたとえです。「天の国」または「天国」は聖書では「神の国」とも言い換えられますが、それがどんな国かをわからせるために、このたとえが話されているのです。それでは、このたとえから神の国はどんな国であるとわかるでしょうか?
キリスト信仰で言う「神の国」について、まず一般的なことを大ざっぱに述べておきます。これまでの説教でも何度もお教えしましたが、「神の国」は天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。「天の国」、「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間の五感や理性で認識・把握できるような、この現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、ご自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見ると神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に贈り、彼をゴルゴタの十字架の死に引き渡して、三日後に死から復活させたことです。
神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神との結びつきが失われて神のもとから追放されてしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。
神の国は、今はまだ私たちが存在する天と地の中にはありません。しかし、それが目に見える形で現れる日が来ます。復活の日がそれです。それはイエス様が再臨される日でもあり、最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、創造主の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる時です。「ヘブライ人への手紙」12章や「ペトロの第二の手紙」3章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨したイエス様が、その時点で生きている者たちとその日死から目覚めさせられた者たちの中から神の目に相応しい者を神の国に迎え入れます。本日の使徒書の日課「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章にある通りです。
その時の「神の国」は、黙示録19章に記されているように、大きな結婚式の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節も)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。
「神の国」を結婚式の祝宴として述べている黙示録19章によれば、花婿はイエス様であり、花嫁はイエス様を救い主と信じた者たちの集合体です。マタイ22章でもイエス様は「神の国」について結婚式の祝宴を題材にしてたとえを述べていますが、そこでの花婿はイエス様自身を指しています。
そうすると、本日のたとえにある結婚式の祝宴は将来現れる「神の国」を意味することが明らかになります。そうすると、ともし火に油を用意した賢い5人は神の国の入ることができた者たち、用意しなかった愚かな5人は入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、愚かな5人のようになってはならない、神の国に入れなくなってしまわないように注意しなさいと警告していることがわかってきます。ここで一つ難しいことが出て来ます。それは、イエス様がたとえの結びで「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と述べるところです。あれ、神の国に入れるために目を覚ましていなさい、居眠りしてしまったら入れなくなってしまうぞ、と言うのなら、賢いおとめたちだって眠りこけてしまったではないか、ということになるからです。賢いおとめたちは、予備の油を準備したおかげで神の国に入れたのであって、頑張って目を覚ましていたからではありません。この「目を覚ましていなさい」という命令には、文字通りの事柄ではなく、何か深い意味が込められています。それはどんな意味でしょうか?
賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」とも言われています。そうすると、「目を覚ましていなさい」というのは、文字通りに寝ないで起きていることではなくて、何か用意ができている状態にあることを意味する、それを「目を覚ます」と象徴的に言い換えていると分かります。そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」の「眠り込んでしまった」というのも、文字通りに寝てしまうことではなく、何かを象徴的して言い換えているとわかります。何を言い換えているのでしょうか?「眠り込んでしまった」という言葉はギリシャ語ではカテウドーκαθευδωという動詞ですが、これは「眠る」の他に「死ぬ」という意味もあります。本日の使徒書の日課第一テサロニケ4章13節ではその意味で使われています。さらに7節で「おとめたちは皆起きて」と言うところの「起きて」という言葉は、ギリシャ語ではエゲイローεγειρωという動詞で、これも「起きる」の他に「死から復活する、蘇る」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。
こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して死者の復活が起こる日のことについて教えていることがわかります。その日、死から目覚めさせられた者のうちある者は祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられないということが起こる。イエス様は、神の国に迎え入れられるためにはこの世の人生で用意をしなければならない、と教えるのです。賢いおとめたちが油を用意してともし火が消えないようにしたような用意をしなければならない。それでは、その用意とは何をすることなのかを考えなければなりません。
これからそれを見ていきますが、その前に一つ申し添えておきたく思います。イエス様の教えというのは、このように、今の世の次に来る新しい世とか、死者の復活とか、そういう今のこの世を超えた視点を持って語られているということをよく覚えておく必要があります。その視点を抜きに本日の箇所を理解しようとしたら、人間何事も準備が大切だ、先を見越して行動することが大切だ、というような誰にでもわかる人生訓をイエス様が述べていることになってしまいます。そんなことを教えるためにイエス様は創造主の神のもとから贈られてきたのではありません。人間が将来の神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方ができるようにするために贈られてきたのです。
それでは、「用意する」生き方とはどんな生き方かをみていきましょう。神の国の祝宴から排除されてしまった5人は賢い5人と同様に祝宴に招かれていたことを思い返しましょう。みんな婚礼の行列にともし火を持って付き従う任務を受けていました。つまり10人とも神の国への招待を受けていたのです。その意味で愚かな5人も賢い5人ももともとはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者たちを意味します。ところが、神の国に入れたのは賢い方でした。先月の福音書の日課にあったマタイ22章14節のイエス様の言葉を借りれば、招待を受けたのに選ばれた者にはならなかったのです。同じ出発点に立ちながら、どうして異なる結末を迎えることになってしまったのか、それがわかれば予備の油を用意すること、ともし火を絶やさずに燃え続けさせることの意味もわかります。あわせて「目を覚ます」の霊的な意味も明らかになります。
本教会の説教で何度もお教えしましたが、人はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様がゴルゴタの十字架で成し遂げられた人間の罪の償いを自分のものにすることが出来ます。イエス様に罪の償いを神に対して代わりにしてもらったことになり、それで神からは罪を赦されたものとして見なされるようになります。それはイエス様の罪の汚れのない純白さをあたかも衣のように頭から被されることです(ガラテア3章27節)。私たちの内にはまだ神の意思に反する罪があるのに、神は私たちが纏うことになった純白の衣の方に目を留められ、私たちもそう見られているのに相応しい生き方をしようとします。
ところが、神の意思に沿う生き方をしようとすると、自分にはそれに反しようとする罪があることに気づかされることになります。神を全身全霊で愛することが神の意思なのに、そうしていない自分に気づかされます。神に全ての願い事や悩み苦しみを打ち明けて祈らなければならないのに、そうしていない。神に感謝しなければならないのにそうしていない自分です。加えて、神への愛に基づいて隣人を自分を愛する如く愛さなければならないのに、そうしていない。自分は人殺しもしない、不倫もしない、盗みもしない、偽証もしない、妬みもしない、だから何も問題ないと思っているが、実は心の中で思ったり言葉で言ってしまっていて隣人愛を持っていないことを証してしまっている。その時、神は私に纏わせた純白の衣は朽ち果て色あせてしまったと見なして、私のことを罪を赦された者と見て下さらないのだろうか?
いいえ、そういうことではありません。純白の衣は純白のままです。では何が問題なのか?それは、内在する罪が衣を捨てさせようと力を行使してその攻撃を受けているということです。その攻撃を撃退するには、純白の衣を手放さないようにしっかり纏ってその重みで罪を圧し潰していくことです。どうやってそんなことができるのか?それは、罪の自覚が生まれた時、神の御前で素直にそれを認めて赦しを祈ります。父なるみ神よ、ゴルゴタの十字架で私の罪の償いをされたイエス様は私の救い主です、どうか私の罪を赦して下さい、と。そうすると神は、お前が我が子イエスを救い主と信じる信仰に生きていることはわかっている、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦すから、もう罪を犯さないようにしなさい、と言って下さいます。これをすることで、神と人間の間を引き離そうとする罪は入り込む余地がないと思い知らされ歯ぎしりします。
実にキリスト信仰者は罪の自覚と罪の赦しを繰り返すことで罪を圧し潰していくのです。この中で聖餐式を受けると罪の圧し潰しに一層拍車をかけることになります。罪の圧し潰しは私たちがこの朽ちる肉の体から離れる時までずっと続きます。ルターは、キリスト信仰者のこの世の歩みとは、洗礼の時に植え付けられた霊的な新しい人を日々育て、以前からある肉的な古い人を日々死に引き渡すプロセスであると言っています。それで、キリスト信仰者はこの世を離れる時に完全なキリスト信仰者になると言うのです。
賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、まさに霊的な新しい人を日々育て、肉的な古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いが不断に続くことを意味します。信仰の戦いを続けることが将来の復活の日の神の国への迎え入れを用意することになります。それをすることがこの世で目を覚まして生きる生き方になります。その生き方はともし火が消えない生き方です。だから、信仰の戦いを続けることは予備の油を持つことと同じです。
翻って、愚かなおとめたちが予備の油を用意しなかったというのは、もう洗礼を受けたらそれで終わり、信仰の戦いに入っていかないか、最初は行ったけれどもいつしか離脱してしまったことです。そうなると、洗礼の時に植えつけられた霊に結びつく新しい人はもう育ちません。肉に結びつく古い人間がまた盛り返してしまいます。ともし火の火も消えます。これが目を覚まさない生き方であり、神の国への迎え入れの用意をしないことです。とは言っても、このたとえを話したイエス様の主眼は信仰の戦いをやめてしまった人たちを断罪することではありません。警告が主眼です。信仰の戦いをやめてしまった人たちに対して、こうならないために早く戦いに戻りなさいと促しているのです。信仰の戦いを生きることが大事と言うのであれば、このたとえは、まだイエス様を救い主と信じておらず洗礼も受けていない人たちに対しても、賢いおとめにならって、それに入りなさいと促すメッセージになります。
信仰の戦いなどという言葉を聞くと、なんだか宗教間の争いを想起させてあまりいい気がしない方がいらっしゃるかもしれません。しかし、この説教で聞いてきたことを思い返せば、それはあくまでキリスト信仰者の内面の戦い、神の意思に反する罪を自覚と赦しを繰り返すことで圧し潰していくことであって、外面的な争いと全然関係ないとわかるでしょう。使徒パウロがローマ12章で教えていますが、内面的な信仰の戦いを真摯に戦えば戦うほど、全ての人と平和に暮らす、自分を相手より上だと思わない、悪に対して悪で報いない、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々のことは当然なものになっていくのです。このような平和路線は、今の時代の、他人を追い落とすために自分を有利にするために偽りを真実と言ってはばからない風潮にあっては、不利で損なことでしょう。しかし、先にも申したように、キリスト信仰者はこの世を超えた視点を持ちます。それなので、神の意思に沿うことをして損をするか、それとも得するために神の意思から外れるかという選択肢に立たされたら、キリスト信仰者はこの世での損は次の世での得になると考えます。それがキリスト信仰というものです。
主日礼拝説教 2020年11月1日 全聖徒の日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
今年の日本のルター派教会の「全聖徒の日」の聖書日課は変則的に旧約聖書がなくて、その代わりに黙示録からでした。その7章で著者のヨハネが天使から見せられたこの世の将来の出来事についての一場面です。万物の造り主である神と救い主イエス・キリストの御前に世界中から数えきれないくらいの大勢の人たち、しかも純白に輝く衣を纏った人たちが集まっている場面です。福音書の日課の方はマタイ5章の有名なイエス様の「山上の説教」の初めの部分で、「幸いな人」とは誰かについて教えるところです。今から約2,000年前の地中海東海岸のガリラヤ地方でイエス様が群衆を前にして教えた事柄です。黙示録の方は、イエス様の時代から60年くらい経った後に弟子のヨハネが神からの啓示を受けて今の世が新しい世に取って替わる時の出来事について見せられた事柄です。二つは一見何の繋がりもないようですが、実は内容的には繋がっています。というのは、イエス様が「幸い」と言っている人たちはヨハネが見せられた大勢の純白の衣を纏った人たちのことだからです。今年の全聖徒の日の説教ではそのことについてお話ししようと思います。
まず、黙示録7章を見てみましょう。玉座には万物の造り主である父なるみ神がいます。その傍に御子イエス・キリストがいて小羊と呼ばれます。玉座を前にして純白の輝く衣を纏った世界中から集められた大勢の者たちが神と小羊を賛美している場面です。彼らは大声で叫びます。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊のものである。」これは少し注釈を要します。原文はギリシャ語ですが、文のヘブライ語の背景を考慮に入れると、「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊のもとにある」です(後注1)。救いは他のところにはないということです。純白の衣を纏った者たちはその神と小羊の御前に来たのです。救いがあるところにです。この場面はまさに、今ある天と地が終わりを告げて最後の審判と死からの復活が起こって、神が新しい天と地を創造して、そこに神の国が現れて神に義とされた者たちが迎え入れられた場面です。
そう言うと一つ疑問が起きます。ここはまだ7章ではないか?最後の審判と復活は20章、新しい天と地の創造と神の国への迎え入れられは21章ではないか?黙示録というのは、こういうふうに最終的に起こることをプロセスの途中で垣間見せることがあります。19章にも同じことがあります。復活して神の国に迎え入れられた者たちがキリストと結ばれる婚宴の祝宴の場面を見せられます。この祝宴も新しい天と地のもとでの神の国のことです。このように黙示録の時系列は私たちの理解を超えるものです。あまり自分の頭で理解しようとしないことが肝要です。人間の理解力でどうにかなるような代物ではありません。一つはっきりしていることは、理解を超える時系列を通して私たちに大事なことを伝えているということです。それは、最終目的地に至るプロセスの中でどんな苦難や困難の真っ只中にあっても、お前は今垣間見せてもらった、やがて起こることになる場面の当事者なのだ、今そこに向かう道を間違いなく進んでいるのだ、だから心配するな、そう励まし力づけているということです。これで十分でしょう。
玉座の場面を見せられたヨハネは、一人の長老から、これらの純白の衣を纏う者たちに起こることを聞かされます。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽もあらゆる灼熱も彼らを襲うことはない。」これはイザヤ書49章10節にある預言です。太陽や灼熱は身体的な苦痛だけでなく、マルコ4章のイエス様の教えから明らかなように迫害も意味します。「小羊が牧者となり、命の水の泉へ導く」とは詩篇23篇の言葉です(後注2)。「神が彼らの涙をことごとく拭われる」というのは、これもイザヤ書25章8節の中にある預言です。8節全部はこうでした。「主なる神は、死を永久に滅ぼされる。全ての顔から涙を拭い、ご自分の民が受けた恥や屈辱を地上から一掃される。」
長老はヨハネに、純白の衣の者たちにこれらの預言が起こると言っているのです。彼らが父なるみ神と御子キリストの御前に立つ時には預言は全てその通りになっているのだと。飢えも渇きも迫害も苦痛もなく、命の水の源がそこにあり、涙も苦痛のだけでなく無念の涙も全て拭われていると。まさに、最後の審判と死からの復活を経て神の国への迎え入れが起こったのです。
これら神とキリストの御前に集う純白の衣の者たちは一体誰なのか?それは、イエス様の山上の説教の「幸いな者」の教えからわかります。
イエス様は山上の説教の出だしの部分で「幸いな人」について教えていますが、ここで「幸せ」ではなくて「幸い」と言っていることに注意します。もとにあるギリシャ語の単語マカリオスμακαριοςの訳として「幸せ」ではなく「幸い」が選ばれました。普通の「幸せ」と異なる「幸せ」が意味されています。以前にもお教えしましたが、「幸い」とは神の目から見てこれが人間にとって幸せだという、神の視点での幸せです。人間がこれが幸せだと言うのとどう違うのか?重なる部分もあるのですが、人間の視点では幸せとは言えない状態であっても、「幸い」な状態にあるということもあるのです。それで違うのです。それでは「幸い」とはどんな幸せなのでしょうか?
まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。以前にもお教えしましたが、この「心の貧しい」というのはギリシャ語の原文では「霊的に貧しい」です。英語の聖書(NIV)をはじめ、いくつかの国々の聖書も「霊的に貧しい」と訳しています。「霊的に貧しい」というのはどういうことか?ここから先はルター派の観点で述べていきます。「霊的に貧しい」とは、万物の造り主である神を前にして至らないところがあるということです。さらに大事なことは、その至らなさを自覚しているということです。十戒があるおかげで神が人間に何を求めているかがわかります。それに照らし合わせると、自分は神に対して至らないということがわかります。これが霊的に貧しい状態です。イエス様は「山上の説教」の別のところで、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと教えています。神聖な神は人間の外面的な行為や言葉のみならず心の奥底まで潔白かどうか見ておられるのです。そうすると、自分は永遠に神の前に失格者だ。このように神聖な神の意思を思う時、全然なっていない自分に気づき意気消沈します。これが霊的に貧しいことです。しかし、そのような者が「幸いな者」と言うのです。
なぜ、そのような者が幸いなのか?その理由が言われていています。「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」新共同訳では出ていませんが、ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。この後の「幸い」な人のところでも全部「なぜなら」と言っています。「天の国」、つまり「神の国」のことですが(マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わず「天」に置き換える傾向があります)、それが、神の前に立たされても大丈夫な者、霊的に貧しくなんかない者が幸いで神の国を持てるとは言わないのです。逆に、自分は神聖な神の前に立たされたら罪の汚れのゆえに永遠に焼き尽くされてしまうと心配する。そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てるとイエス様は言われるのです。これは一体どういうことなんだろうと考えさせられます。イエス様は同じ調子で話を続けていきます。
霊的に貧しい人に続いて「悲しむ者」が幸いと言われます(4節)。何が悲しみの原因かははっきり言っていません。一つには、神の前に立たされて大丈夫でない霊的な貧しさが悲しみの原因と考えられます。加えて、そういう神との関係でなく、人間との関係や社会の中でいろんな困難に直面して悲しんでいることも考えられます。両方考えて良いと思います。ここでも「悲しむ者」がなぜ幸いなのか、理由が述べられています。「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言われてなければ、たいていは神が主体として暗示されています。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになる、だから幸いなのだと言うのです。
次に「柔和な人々」が幸いと言われます(5節)。「柔和」とは、日本語の辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語プラウスπραυςも大体そういうことだと思いますが、もう少し聖書の観点で言えば、マリアの品性がそうだと言えます。マリアは神を信頼し、神が計画していることは自分の身に起こってもいいです、という物分かりのいい態度でした。たとえ世間から白い目で見られることになっても、神が取り仕切って下さるから大丈夫という単純さでした。そうした神の計画を運命として静かに受け入れる態度でした。そういう神への信頼に裏打ちされた物分かりのよさ、単純で静かに受け入れる態度、これらが柔和の中に入って来ると思います。
そんな柔和な人たちが幸いだという理由は、「地を受け継ぐことになるからだ」と言います。少しわかりにくいですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、イスラエルの民が神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味します。キリスト信仰の観点では、「約束の地」とは将来復活の日に現れる「神の国」になりますので、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」を得る、そこに迎え入れられることを意味します。神を信頼する柔和な人たちが神の国に迎えられるということです。
次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神に相応しい状態、神の前に立たされても大丈夫、問題ないという状態です。先ほど見た、霊的に貧しい者は神の前に立たされたら大丈夫でないと自覚しています。それなので義に飢え渇くことになります。そのような者が幸いだと言う理由は、「彼らは満たされることになるからだ」と言います。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということです。義がない状態を自覚して希求する者は必ず義を神から頂ける。だから、義に飢え渇く者は者は幸いである、と。逆に言えば、義の欠如の自覚がなく、義に飢えも渇きもない人は満たしてもらえないので幸いではありません。
7節では「憐れみ深い人」が幸いで、それは彼らが神から憐れみを受けることになるからだと言います。神から憐れみを受けるとは、神の意思に照らしてみると至らないことだらけの自分なのに神が受け入れて下さるということです。神の意思に反する罪を持つのに赦してもらえるということです。そのような罪の赦しを受けていることをよく覚えて、周りの人たちにも赦しの心で接すれば、神はご自分が与える罪の赦しを揺るがないものにして下さるのです。
8節では「心の清い人」が幸いで、それは彼らが神をその目で見ることになるからだと言われます。「心の清い」とは罪の汚れがないことです。そんな人は神の前に立たされても大丈夫なはずですから、神を見るのは当然です。本日の使徒書の日課である第一ヨハネの3章で言われているように、神を目で見れるようになるのは復活を遂げて神の国に迎え入れられた時です(後注3)。
9節では「平和を実現する人」が幸いで、それは神の子と呼ばれるようになるからだと言われます。「平和を実現する」と言うと、何か紛争地域に出向いて支援活動をするような崇高な活動のイメージが沸きます。しかし、平和の実現はもっと身近なところにもあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合は、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、神の子と呼ばれる者はそうするのが当然というのです。
10節と11節を見ると、義やイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに人からあることないこと言われたりひどい場合は迫害されてしまうが、それも幸いなことと言われ、それは神の国に迎え入れられることになるからだと言います。どうやら、全ての「幸い」のケースは神の国への迎え入れと関係しているようです。神に慰められることも、神の国を受け継ぐことも、義が満ち足りた状態になるのも、憐れみを受けるのも、神を目で見ることも、神の子と呼ばれることも全て、神の国に迎え入れられるからそうなるのだ、ということが見えてきます。それでは、神の国に迎え入れらるとはどういうことでしょうか?
イエス様の教えは当時はじめて聞いた人たちには理解不能だったのではと思われます。というのは、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は、詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神に顧みてもらえる人を意味していたからでした。また、詩篇の第32篇にあるように、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫に見なされる人を意味しました。
人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。
それに対してイエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。人間の造り主である神は人間の心の清さも求めておられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は本当の罪の赦しはそこにはない。父なる神が預言者たちの口を通して言っていたように、毎年繰り返される生け贄捧げは形だけの儀式で心の中の罪を野放しにしている。それなので私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう、本当の罪の赦しを与えよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが幸いなことなのだ。なぜなら、それがお前たちが神の国に向かって進んでいることの証しだからだ。
それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、人間が律法を心に留められるようにして「幸いな者」にしたのでしょうか?
それは、イエス様が父なるみ神の大いなる救いの意思に従って自らをゴルゴタの十字架の死に引き渡すことで全ての人間の罪の神罰を人間に代わって受けられたことで果たされました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子が人間の罪を神に対して償って下さったのです。
この償いの犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の赦しがその人に効力を発揮します。その人は朽ちない復活の体が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。イエス様を救い主と信じる信仰に入り洗礼を受けた者は、使徒パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様を衣のように頭から被せられるのです。黙示録7章で小羊の血で衣を純白にしたというのはこのことでした。イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されたというのは、まさにイエス様が十字架で流した血によって罪の汚れから清められたということなのです。
このようにキリスト信仰者は神の義と神聖さを衣のように着せられて、神の国に至る道に置かれてその道を神との結びつきを持って進む者です。これが「幸いな者」なのです。
ところで、この「幸いな者」は、この世ではまだ朽ちる肉の体を纏っています。それで、神の意思に反する罪をまだ内に宿しています。それなので信仰者は自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。たとえ外面的には罪を行為や言葉にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることによく気づきます。霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、私の罪を代わりに償って下さったイエスは私の救い主です。どうか私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、神の小羊の血が私たちの衣の白さを保ってくれます。キリスト信仰者はいつも、このように慰められて義の飢えと渇きを満たされます。それなので、神に対する信頼が一層強まり柔和になっていきます。
そうこうしているうちに歩んできた道も終わり、復活の日に眠りから目覚めさせられて神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚しています。あの古い世界で神の意思に反することが自分にあった、人を見下すこと罵ること傷つけること不倫や偽証や改ざん等々、たとえ行為で出すことはなくとも心の中で思ってしまったことがあった。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりだった。あるいは、弱さのために行為や言葉に出してしまったことがあった。しかし、それは神の意思に反することとわかって悔いて神に赦しを祈り願った。その時イエス様の十字架のもとでひれ伏して祈った。本当にイエス様を救い主と信じる信仰が全てでした、そう神に申し開きをします。イエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、洗礼の時に着せられた純白の衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力や汚そうとする力が襲いかかっても、お前はそれをしっかり掴んで離さず、いつも罪の赦しの恵みの中に踏みとどまった。その証拠に私は今、お前が変わらぬ純白の衣を着て立っているのを目にしている。」 そのように言われたら、私たちはどうなるでしょうか?私だったら、きっと感極まって崩れ落ちて泣いてしまうのではないか。そして立ち上がって周りにいる者たちと一緒にこう叫ぶのではないか。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊のもとにある、他にはない!」
η σωτηρια τω θεω ημων τω καθημενω επι τω θρονω και τω αρνιω!
幸いなるかな、神の小羊の血で衣を白くされた者は!
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン
(後注1)黙示録7章10節の群衆の叫びのギリシャ語原文のヘブライ語の背景というのは、前置詞לのことです。ギリシャ語の文はその直訳と考えられます。לは、「~のもの」と所有・所持の意味もありますが、「~のもとにある」の意味もあります。例として詩篇3篇9節「救いは主のもとにあります(新共同訳)」。
(後注2)その詩篇は預言には聞こえませんが、ヘブライ語の動詞の用法を見ると行為が完了していないことを表わしています。つまり、羊飼いは常に導く方である、間違いなく導いて下さる、という意味で預言にも捉えられます。
(後注3)新共同訳では「御子が現れる」と訳していますが、どうでしょうか?第一ヨハネ3章2節のギリシャ語原文を直訳すると以下のようになります。
「愛する者たち、私たちは今神の子なのです。しかし、(復活の日に)私たちがどのような様態になっているのかはまだ明らかではありません。私たちは知っています、(その日に)それが明らかになれば、私たちは彼と同じようになっているということを。なぜなら、私たちは(その日)彼をあるがままの姿で見ることができるからです。」
新共同訳はこうでした。
「愛する者たち、私たちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、その時御子をありのままに見るからです。」
参考までにフィンランド語訳はこうです(日本語に直訳します)。
「愛する友よ、私たちは既に今神の子ですが、私たちがどのようなものになるかはまだ明らかになっていません。私たちは知っています、それが明らかになる時、私たちは彼のようになるということを。なぜなら、私たちは彼をあるがままの姿で見ることになるからです。」
新共同訳では「現れる」のは「御子」ですが、ギリシャ語原文やフィンランド語訳では「明らかになる」のは「私たちがどのようなものになるか」です。それから、新共同訳では誰に似た者になるかという時、それは御子ですが、フィンランド語訳では「彼」は「神」を指していることは明らかです。私は、ギリシャ語原文もそうだと思います。
春先からお休みしていた家庭料理クラブが再開されました。
今回は、日本でもファンの多いプッラを作りました。
コロナ渦の中なので、参加人数の制限や、消毒にマスク、手袋を着用しての開催になりました。
最初にお祈りをしてスタートです。
計量して、手ぶくろをしての作業なので、参加の皆さん悪戦苦闘されましたが、とても良い生地が出来上がり、可愛いシナモンロールは大きな鉄板に沢山並びました。
オーブンでの焼き上がりを待つ間、久しぶりに、スオミ教会はカルダモンやシナモンとパンの焼き上がる甘い香りに包まれていました。
食前のお祈りをしていただいた、出来たての温かいプッラの味は格別でした。
パイヴィ先生からは、プッラと聖書のお話を聞かせて頂きました。
家庭料理クラブが開催出来た喜び、沢山のプッラが出来上がり、美味しく試食出来た喜び、今日の小さな喜びを集めたら、とっても幸せな一日を過ごせたことに気づき、感謝しています。
今日は久しぶりの料理クラブで皆さんと一緒にプッラ作りが出来たことをとても嬉しく思います。とても美味しいプッラが焼き上がりました。
プッラはフィンランドでは伝統的なおやつの一つです。フィンランド人はおやつの時プッラをコーヒーと一緒に食べます。プッラ作りは他のお菓子作りと違って発酵が2回あるので出来上がりまで時間がかかりますが、プッラ作りで持てる楽しみがあります。それは、プッラの生地は同じですが、そこから色んな味や形のプッラが作れることです。現在プッラの種類はとても多くて、どんどん新しい種類が出てきますが、昔のプッラは大体決まっていて、細長い編んだものでこれを薄く切ってコーヒーと一緒に食べました。このような昔のプッラは今日作ったものみたいに多くの材料を使わず、ただ生地に砂糖とバターを少なく入れただけでした。それでも昔はこのようなプッラは高価なものでした。ほとんどの家庭で作られていましたが、それはプッラがもてなしのために出されるものだったからです。もし近所の人が家に寄ったら、もてなしにはいつもプッラとコーヒーが出されました。お祝いの時はプッラよりもっと高価なもの、たとえばケーキやいろいろなクッキーが出されるようになりました。しかし、クッキーやケーキの種類が沢山でてきても、プッラの重要性は変わりません。お祝いの時のコーヒーの出し物にプッラがないと価値がないように言われるくらいです。それくらいプッラはもてなしの重要なお菓子なのです。
日本ではこフィンランドのプッラみたいなもてなしのお菓子は何でしょうか?
私たちは近所の人や友達が家に来たらどんなもてなしをするでしょうか?何かお祝いをしてお客さんが大勢来たら、色んな準備で忙しくなると思います。
もてなしは聖書の中にもよく出てきます。一つ有名なマルタとマリアのお話を紹介したいと思います。
ある日イエス様は弟子たちと一緒にマルタとマリアという姉妹の家を訪問しました。マルタとマリアはイエス様の親しい友達でした。イエス様と弟子たちは家の中に入ると、お姉さんのマルタは美味しい食事を出したかったので、すぐもてなしの準備を始めました。マルタにとってイエス様は大事なお客様だったので、良いもてなしをしたかったのです。でも妹のマリアはどうしたでしょうか?マルタが驚いたことに、マリアは食事の準備を手伝わないで、イエス様の足元に座って、弟子たちと一緒にイエス様の教えを聞いていたのです。一人で忙しく食事の準備をしていたマルタは、マリアが手伝わないでイエス様の足元に座っていたことにイライラしてしまいます。それでマルタはイエス様のところに行って、マリアも一緒に食事の準備をするよう言って下さい、とお願いしたのです。この場面を考えると、マルタの気持ちがよく分かります。一生懸命みんなのために料理を準備していたのに、マリアが手伝わないでただイエス様の足元に座っていたのです。これではイライラしてしまうのは当然でしょう。もし私がマルタの立場でしたら、同じように考えたと思います。
イエス様はマルタにどのようにお答えになったでしょうか?「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それはとりあげてはならない。」このように優しくお答えになりました。イエス様の答えはきっとマルタを驚かせたでしょう。イエス様の答えは何を意味しているでしょうか?イエス様はマルタがやっている料理の準備をやめなさいとは言いませんでした。そう言わないで、「しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」とおっしゃいました。料理とか、もてなしとか、生活のための必要なものは私たちにとって重要ですが、私たちの人生にとって一番大切なことはそれらではありません。私たちの人生にとって最も大切なことは、天と地と人間を造られた神様について知ることです。神様の子であるイエス様が神様のことを正しく教えることができます。イエス様の教えから私たちは、神様の限りしれない愛を知ることができます。「マリアは良い方を選んだ」というのは、私たちにとって良い例になるでしょう。天と地と人間を造られた神様のことを知ることと、イエス様を信じて私たちも神様の子供とされること、これらは、人生にとって一番大切なことだと思います。聖書を読み、お祈りすることを通して神様は私たちの心に平安を与えてくださいます。
プッラを焼いて、良い香りがして、焼きたてのもので相手をもてなしすることは喜びがあふれることです。それはプッラを焼いた人にも食べる人にも喜びを与えるからです。しかしイエス様は聖書の御言葉を通して私たちに毎日喜びを与えます。このことを覚えていきましょう。
主日礼拝説教 2020年10月25日 聖霊降臨後第21主日
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
エルサレムでのイエス様と彼に反対する人たちの間の論争が続きます。本日の福音書の箇所の直前に、サドカイ派と呼ばれる党派とイエス様の間で論争がありました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿祭司やユダヤ教社会の上流階層を構成員とする党派です。論争の的となったのは、死からの復活はあるかどうかということでした。サドカイ派は復活などないと主張する派で、これをイエス様は旧約聖書の御言葉に基づいて見事に論破します。その一部始終を見ていたファリサイ派と呼ばれる別のグループ、これはユダヤ教の伝統的な戒律を幅広くできるだけ多く守ろうとする信徒運動です。そのファリサイ派の人たちが集まって、サドカイ派は言い負かされてしまったぞ、自分たちはどうやってあの生意気なイエスを言い負かそうかと相談を始めます。
そこで、彼らの一人で律法学者も務める者がファリサイ派を代表してイエス様のところにやってきて質問します。「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか?」原語のギリシャ語を直訳すると、最も偉大な掟、最大級の掟はどれかと聞いています。つまり最も重要な掟ということです。サドカイ派は、復活という死生観の問題でイエス様に挑戦してあっけなく敗れ去りました。ファリサイ派はユダヤ教の根幹とも言える律法の問題で挑戦してきました。
なぜこのような質問が出たかというと、律法学者というのは職業柄、ユダヤ教社会の社会生活の中で生じる様々な問題を律法に基づいて解決する役割を担っていました。それで、律法の各掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて教えることもしていました。神の掟である律法は、まず旧約聖書に収められているモーセ五書と言われる律法があります。それだけでもずいぶんな量ですが、他にもモーセ五書のように文書化されずに、口承で伝えられた掟も数多くありました。サドカイ派は文書化された掟しか重んじませんでしたが、ファリサイ派は両方とも大事と考えていました。そういうわけでファリサイ派の律法学者となると、膨大な神の掟を適用することになるので、どっちを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題によく直面したのです。
「どの掟が最も重要ですか、最大級の掟ですか?」という質問は、そのような背景から出てきました。もし、これが重要だ、と答えたら、きっと、それじゃ他のは重要ではないのですか?掟は全て神が与えたものではないのですか?これが重要で、あれは重要でないという根拠はなんですか?あれだってこれこれの理由で重要ではないのですか?そういう具合に、相手は法律の専門家ですので、答えようによっては反論の山が押し寄せてくるのは火を見るより明らかです。
イエス様の答えは以下のものでした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
これは、申命記6章4ー5節で神がモーセを通してイスラエルの民に伝えた掟です。その部分を振り返ってみましょう。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
神を愛するという時、このように全身全霊で愛するということはどういうことでしょうか?全身全霊で愛するなどと言うと熱烈な恋愛みたいですが、ここでは相手は万物の創造主の神です。天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えられ、御子イエス・キリストをこの世に送られた父なる神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?
その答えは、今みた申命記の掟の最初の部分にあります。「我らの神、主は唯一の主である。」これは命令形でないので掟にはみえません。しかし、神を全身全霊で愛せよ、というのは実は、神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにしなさい、ということなのです。言い換えると、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということです。この神以外に自分の運命を委ねたり、また委ねられているなどと考えてはならない、自分が人生の中で経験する喜びを感謝し、また苦難の時には助けを求めて祈り助けを待つ、そうする相手はこの神以外にあってはならないということです。もしそれでは物足りないと言って、神以外のものに祈りや願いを捧げてしまうと心移りしたことになり、神を全身全霊で愛さなくなってしまったことになります。
祈りや感謝をささげ願い事や悲しみを打ち明ける相手はこの神しかいないという位に神一筋になることが神を唯一の神としてしっかり保たれるようにすること、それが神を全身全霊で愛することであるとわかりました。このような愛をどうしたら私たちは持てるのでしょうか?このような愛は何もないところから自然には生まれてきません。どこから生まれてくるかと言うと、この神が私たちに何をして下さったかを知ることで生まれてきます。それではこの神は私たちに何をして下さったかのでしょうか?
神はまず、今私たちが存在している場所である天と地とその中にあるものを造られました。そして私たち人間をも造られ、私たちに命と人生を与えて下さいました。もともと人間は神の目から見てよいものとして造られたのですが、創世記3章にあるように、人間が神に対して不従順になって神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神の創造の世界は様変わりしてしまいました。光で満ちた世界は影が覆うようになり、光は垣間見ることが出来るものになってしまいました。様変わりした世界で人間は神との結びつきが失われて死ぬ存在になってしまいました。人間は代々死んできたように、代々神の意思に反する罪をも受け継ぐ存在となってしまったのです。
神は人間が自分との結びつきを失ってしまったことを悲しみ、それを復興させるべくひとり子のイエス様をこの世に贈られました。神がイエス様にさせたことは次のことでした。本当だったら人間が受けなければならない罪の神罰を全てイエス様に受けさせて十字架の上で死なせました。まさにその時、神のひとり子が人間に代わって罪の償いを神に対してして下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることを世に示し、そこに至る扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことがまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪が償われたのだから神から罪を赦された者として扱われるようになります。神が罪を赦した者ですから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この結びつきは順境の時も逆境の時も変わることなく絶えず続きます。万が一この世から別れることになっても、復活の日までの眠りの後で目覚めさせられて、朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。
このように万物の創造主であり人間の造り主である神は、ひとり子を犠牲の生け贄に供することで人間を罪と死の支配から救い出して下さった「贖い主」でもあります。このように神が私たち人間にして下さったことがこの世で生きることと次の世で生きることとの双方にまたがる大きなことだとわかると、この方以外に頼れる方はいない、神が唯一の神であるという心になります。これが神を全身全霊で愛そうという心です。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていきます。
以上、天と地と人間を造られた神を全身全霊で愛するとは、この神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることだと申しました。この神に対する愛の掟をイエス様は最も重要な掟であり、「第一の掟」であるとも言いました。これに続けて「第二の掟」もあると言って、「隣人を自分のように愛しなさい」がそれであると述べました。そして、「律法全体と預言者たちはこの二つの掟に基づいている」と言われました。この「基づいている」ということですが、もとのギリシャ語の動詞κρεμαννυμιは「つるす」とか「かける」という意味で、普通はドアの片側に留め具をつけて壁ないし柱にドアを取り付けることを意味します。そういうわけで律法と預言はドアのようなもの、二つの掟はドアが取り付けられる壁ないし柱、これに取り付けられていることでドアはドアの役目を果たします。取り付けられていないとドアはただの木の板にしかすぎません。律法や預言も二つの掟に結びつけられていないと意味をなさないということです。
イエス様はこの二つの掟は神の掟中の掟である、山のようにある掟の集大成の頂点にこの二つがある、この二つの掟に結びつけられていないと他のものは意味をなさないと言うのです。それでも、二つの頂点にも序列があると言います。まず、神を全身全霊で愛すること、これが最も重要な第一の掟。それに続いて隣人を自分のように愛することが第二の掟としてある。これから明らかなようにキリスト信仰においては、隣人愛というものは神への全身全霊の愛としっかり結びついていなければならない、この神への全身全霊の愛に隣人愛は基づいていなければならないのです。
普通、隣人愛という言葉を聞くと、苦難困難にある人を助ける支援活動を思い浮かべるでしょう。ところが、苦難困難にある人を支援するという形の隣人愛は、これはキリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていてもまたは無信仰者・無神論者にも出来るものです。このことは日本でも災害の時にボランティアの支援活動が積極的に行われることから明らかです。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛には他の隣人愛にはないものがあります。それは、キリスト信仰の隣人愛は神への全身全霊の愛に基づき、それに結びついているということです。神への全身全霊の愛とは先ほど申し上げましたように、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、これも申し上げたように、この神が自分にどれだけのことをして下さったかをわかるようになった時です。そういうわけで隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行いが神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかを吟味する必要があります。もし、別に神なんかいろいろあったっていいんだとか、聖書の神も数多くあるものの一つだと言った場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということにはなりませんが、しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別のものになります。
それから、隣人愛は人道支援に尽きてしまわないということも大事です。イエス様は、重要な掟の二番目に隣人愛があると教えた時、それを本日の旧約の日課レビ記19章18節から引用しました。そこでは、法律的な問題ではえこひいきをしてはいけない、正しい決定をしなければならないという正義の問題に加えて(15節)、人間関係の在り方についての神の命令が言われていました。相手を誹謗中傷してはいけない、生命に危険を及ぼすようなことをしてはいけない(16節)、心の中で罵ってはいけない、相手の罪は罪としてたださなければならない(17節)、たとえ害を被っても復讐をしてはならない、怒りや憎しみを燃やしてはいけない(18節)、そういったことを全部ひっくるめて「隣人を自分のように愛せよ」と神は命じます。つまり、隣人を自分のように愛せよと言う時の愛の内容がここで具体的に言われているのです。
ここで一つ目に留まることがあります。それは、心の中で罵ってはいけないということは、イエス様が山上の説教でも教えているということです(マタイ5章22節)。このことからもわかるようにイエス様は自分の教えを旧約聖書に基づかせているのです。イエス様は、たとえ殺人を犯さなくても心の中で罵ったら同罪であると教えますが、神は本日の使徒書の日課第一テサロニケ2章4節でも言われるように、人間の心の中までを見通される方です。それなので、行為や言葉のように外に現れるものだけでなく心の中まで見られたら誰も神の前で大丈夫と言える人はいなくなってしまいます。このように旧約聖書に基づくイエス様はとても厳しいのです。要求度が高すぎて人間には無理です。しかし、イエス様は神が完全であるように私たちも完全であるようにと命じます(マタイ5章48節)。本日の旧約の日課でも神が神聖な方である以上は私たちも神聖なものでなければならないと命じるのと同じことです(レビ19章2節)。
イエス様は私たち人間に無理難題を押し付けているのでしょうか?イエス様は神聖な神の意思とはこれくらい厳しいものだと教えましたが、同時に人間がそれをその通りに守り実現することは無理であることもわかっていました。神のように完全で神聖な者になれないと、神の前で大丈夫な者にはなれず、この世でも次の世でも神と結びつきを持って生きることはできない。しかし、それは人間には無理である。まさにそれだから、イエス様は十字架にかかったのでした。まさに、神のひとり子の犠牲に免じて人間を赦すという状況を生み出したのでした。このおかげで人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって神との結びつきを持てて生きることが出来るようになったのでした。
一般にイエス様という方は、厳しい戒律的なユダヤ教に比べたら慈愛に満ちた優しい方というイメージが持たれるのではと思います。しかし、そのような対比の仕方は間違っています。これまで見てきたことから明らかなようにイエス様は厳しいくらいに旧約聖書に基づいています。それがあるから十字架と復活の出来事があったと言ってもいいくらいです。ではなぜユダヤ教と違うように見えるのかと言うと、イエス様が違っていたのは実は旧約聖書ではなくて、当時の旧約聖書の理解や解釈と違っていたということです。そうした理解や解釈にしがみついていた人たちと違っていたということで、イエス様自身は神のひとり子で神の意思を体現した方だったのでその彼が旧約聖書を正しく理解していたのです。そういうわけで、キリスト教の観点で言えば、旧約聖書という神の御言葉の集大成はイエス様を通して正しく理解できるのです。その正しい理解が形になって現れたのが新約聖書と言ってもよいと思います。
本日の個所の終わりの部分で、メシアは誰の子かという質問がありました。これも同じです。当時の人々の理解では、メシアはダビデの子孫ということになります。その意味することは、ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放してこの地上に神の国を建設し、諸国民は神を畏れ敬ってこぞってエルサレムの神殿に参拝に集まって来るという理解です。つまり、メシアとは民族の解放者の王様という理解です。しかし、イエス様は詩篇110篇の聖句に基づいて、ダビデがメシアのことを自分の主であると言っていて、その方は神の右に座す者である以上、地上の特定民族の王様ではありえないと指摘します。このメシア理解は、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前の段階では誰にとっても理解不可能なものでした。しかし、十字架と復活が起きた後で、メシアとは人間を罪と死の支配から解放する救い主であるということがわかり、イエス様がその方であると明らかになったのでした。
本説教で、私たちは神からどれだけ愛されているかがわかって、神を愛することができ、それに基づいて隣人愛もわかるようになるとお教えしました。それを言い表した聖句ヨハネの第一の手紙4章9ー11節を最後のお読みして本説教の締めとしたく思います。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
主日礼拝説教 2020年10月18日 聖霊降臨後第20主日
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。 説教を見る
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。このイエス様の言葉は何かとても大きなことを言っていると感じさせます。一方でこの世の権力の頂点に立つ者、他方で万物の創造者である神。両者が並べられて、それらに対して私たちはどう向き合うのかということが言われているからです。それでは、それらに対してどう向き合えばよいのでしょうか?今日の説教は、そのことを明らかにしていこうと思います。
まず、この言葉が出る原因となった質問を見てみます。イエス様に反対する者たちが聞きました。「皇帝に税金を納めることはいいことか、よくないことか」私たちの新共同訳では「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか、適っていないか」ですが、ギリシャ語の原文を見ると「律法に適って」はありません。そういう訳をしたのは、ひょっとしたらその言葉が入っている写本があるのかと思ってチェックしたのですが、どうも見当たりませんでした。それで「律法に適って」は翻訳者が勝手に付け加えたものと言えます。それを付け加えた気持ちはわからないではないですが、私はここは原文通りに付け加えない方が本来の意味のためによかったと思います。つまり、「皇帝に税金を納めることはいいことか、よくないことか」ということで、「律法に鑑みて」ということを超えた広い意味です。このことについては後でまたお話しします。
イエス様と反対者のこのやり取りがどういった流れで出て来たか見てみましょう。流れをみるとやり取りがよりよく理解できます。イエス様が大勢の支持者に囲まれてユダヤ民族の首都エルサレムに乗り込んできました。まずユダヤ教の総本山であるエルサレムの神殿に入って、そこで礼拝用の生贄にする動物を販売する商人たちを荒々しく追い出して、神殿の礼拝制度に挑戦する態度を表明します。イエス様はエルサレムの神殿が時限的なものでやがて新しい神崇拝に取って替わるという考えも表明します。これには宗教エリートたちは仰天してしまいます。彼らはイエス様を取り巻き議論の応酬が始まります。そこでイエス様は3つのたとえを話されました。その一つ一つを先週までの説教で説き明かしました。ここでは振り返りませんので、ホームページで以前の説教をご覧いただければと思います。
3つのたとえの教えで明らかになったのは、将来現れる「神の国」に宗教エリートたちは迎え入れられないということ、そのかわりに今罪びとと目されている人たちやユダヤ民族以外の民族がイエス様を救い主と信じて迎え入れられるということでした。先週の説教でもお話ししましたが、「神の国」について当時の人たちが思い描いていたものとイエス様が教えたものは必ずしも一致していませんでした。当時の人たちにとって「神の国」とは、将来ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放し、神が直接支配する国を打ち立てる、そして諸国民は神を崇拝するためにエルサレムに集まって来る、そういう自民族中心史観の「神の国」でした。ところがイエス様の教えた「神の国」は、まず神の子が全ての人間を民族に関係なく罪と死の支配から解放する、そして、今の世が終わって新しい天と地が創造される時に神の子は再臨して、罪と死の支配から解放された者たちを「神の国」に迎え入れる、そういう神の人間救済計画のゴールでした。イエス様の教えた「神の国」の方が聖書の正しい理解だったわけですが、それがはっきりするのは彼の十字架と復活の出来事の後になってからです。
当時の宗教エリートたちが、たとえ「神の国」を正確に理解できていなかったとしても、それはユダヤ民族に約束されたものと考えていましたから、お前たちは排除されるというのは受け入れられません。3つのたとえを聞いた後、早くこの男を始末しなければと決めます。そこで、今度は言葉尻を捉えて当局に訴えてやろうと、ヘロデ派の人たちと一緒にイエス様の前にやって来ました。そこで聞いたのがこの皇帝への納税の質問だったのです。
ヘロデ派というのは、ヘロデ王朝を支持する人たちです。少し歴史的背景を述べておくと、ユダヤ民族の居住地域は紀元前63年までにローマ帝国の支配下に入ります。ローマ帝国はこの地域を直接支配せず地域の実力者を通して間接支配します。ユダヤ民族の実力者にユダヤ民族出身でないヘロデがのし上がります。彼はローマ帝国に上手く取り入って王の地位を認められ、エルサレムの神殿を大増築してユダヤ民族の支持も獲得します。このヘロデ王はベツレヘムで生まれたばかりのイエス様の命を狙うことになる王です。ヘロデ王の没後、この主権を持たない王国は二人の息子に分割され、一人はガリラヤ地方の領主、もう一人はユダ地方の領主という具合に王から格下げになりました。ヘロデ派というのは、要するに、ローマ帝国のお情けのもとで権力を保持できればいいという人たちだったと言えます。ユダ地方の領主が死んだ後は同地方は帝国から派遣された総督が直接支配するようになります。要所要所に異国の軍隊が駐屯して目を光らせています。帝国には税金も納めなければなりません。「神の国」はユダヤ民族の完全な解放をもって実現すると考えた人たちにとって許しがたい状況でした。
まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場しました。ダビデの子、ユダヤ民族の王がやって来た!と群衆の歓呼に迎え入れられてエルサレムに乗り込んできました。さぁ、大変なことになりました。ユダヤ教社会の指導層には盾をつく、群衆は民族の解放者として担ぎ上げている、あの男をこのままにしたら自分たちの権威が危うくなるだけでなく、ローマ帝国の軍事介入をも招きかねない、なんとかしなければと、そこで出てきたのが、皇帝に税金を納めてもいいのかどうかという質問だったのです。狙いは一目瞭然です。もし、納めてもよいと答えたら、群衆は、なんだこの男もヘロデ並みか、民族の真の解放者だと期待したのに皇帝に頭が上がらない臆病者だと失望を買って支持者は離反していくだろう。もし、納めてはならないと言ったら、その時は待ってましたとばかり、反逆者として当局に差し出してしまえばいい。まことに巧妙な質問でした。反対者も群衆も固唾を飲んでイエス様の答えを待つ緊迫した様子が目に浮かびます。
ここで先ほど、反対者の質問はギリシャ語原文では「律法に鑑みて」という言葉はないと申しました。以上の背景説明からわかるように、質問は極めて政治的な内容のものです。もちろん、律法に鑑みていいことかどうかという問題も含んではいますが、それを超えた意味を持っていることにも注意しなければなりません。それで、原文のように律法と無関係にいいか悪いかと聞いたというのが正解です。
さて、イエス様の答えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」でした。反対者も群衆もとても驚いた様子が目に浮かびます。税金を納めてもいいことになるのだが、しかし、皇帝に頭が上がらない臆病者には聞こえません。万物の創造主である神が出てきたからです。こちらの方が人間より格が上です。神を出されたことで皇帝も皇帝に納める税もちっぽけなものになってしまう、何か大いなるものの下に置かれたような感じがします。イエス様のこの答えは質問者を黙らせ群衆を驚嘆させましたが、彼らは「感じた」以上のことがわかったでしょうか?私は、イエス様の十字架と復活の出来事の前では「感じた」より先には進めなかったのではと思います。私たちは十字架と復活の出来事の後の時代にいますから、イエス様の答えの内容を詳しく知ることが出来ます。以下にそれを見ていきましょう。
イエス様の答えに万物の創造主の神が出てきました。「神のものは神に返しなさい」というのはどういう意味でしょうか?「皇帝のものは皇帝に返す」というのは税金のことだから、「神のものは神に返す」は教会に献金を捧げることかなと考える人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。まず、「神のもの」と言う言葉について見ると、ギリシャ語の用法では神の持ち物、所有物という意味だけでなく、「神に属するもの」、「神に由来するもの」という具合にもっと広い意味になります。そこでこのやり取りの流れを思い出します。先の3つのたとえは皆、将来現れる「神の国」について述べていました。その延長上に今日のやり取りが来ます。このやり取りでは一方に皇帝というこの世の国の代表者、他方で神という「神の国」の代表者が対比されます。そういうわけで「神のもの」というのは「神の国」に関係するものであると気づかなければなりません。
「神のものは神に返す」と言う時の「返す」ですが、これもギリシャ語の動詞αποδιδωμιは「返す」だけでなく、「引き渡す」「譲り渡す」(例としてマタイ27章58節)とか「しなければならないことをする」(例としてマタイ5章33節、第一コリント7章3節)という意味もあります。「返す」だけにとらわれると、お金の支払いに注意が行ってしまいますが、実は「引き渡す」、「譲り渡す」という意味も入ってるんだと意識して広く考えなければなりません。
以上を踏まえると「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というのは、次のような意味になります。この地上の国のことは地上の国に服している。税金もそのようなものとして払ってよい。しかし、「神の国」にかかわることは地上の国には服さない、「神の国」にかかわることは地上の国に引き渡さない、譲り渡さない、地上の国の思い通りにさせてはならない。イエス様の答えは、そういう地上の国の権威を超えるものがあることを予感させたのです。それでは、「神の国」にかかわることで地上の国に譲り渡さない、思い通りにさせてはならないこととはどんなことでしょうか?それは、イエス様の十字架と復活の出来事を踏まえればわかります。地上の国に譲り渡さないこととは、将来「神の国」に迎え入れられることであり、今この世で「神の国」に向かう道を歩んでいるということです。これらを地上の国に譲り渡さないということです。もし地上の国がその道を進ませないようにしようとしたら、それに屈しないということです。
「神の国」にかかわることとは、「神の国」に向かう道を歩むことである。このことは、イエス様の十字架と復活の出来事を踏まえてみるとわかってきます。これについてもう少し詳しく述べます。
キリスト信仰者というのは、神のひとり子イエス様がゴルゴタの十字架で私の罪を全て私に代わって神に対して償って下さったのだ、だから彼は私の救い主なのだと信じてそう告白する者です。信仰者はまた洗礼を受けたことでこの罪の償いが効力を発揮して神から罪を赦された者と見なされる者です。神から罪を赦されたということは、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになったということです。神との結びつきの中で生きる時、人はこれからは神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。
しかしながら、神の意思に沿うように生きようとする志向が生まれても、それに反しようとする性向もまだ残っています。それでキリスト信仰者は二つのものの間に挟まれて生きることになります。まさにローマ6~7章で見てきた通りのことが起こります。しかし、信仰者が罪の自覚を持たされる度に、洗礼の時に注がれた聖霊がすぐ来て信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせます。そこで神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦されている。だからこれからは罪に足をすくわれないように気をつけなさい」と言って下さり、神と信仰者の結びつきは失われずにしっかりあると教えて下さいます。罪以外のことでも心が打ち砕かれて神との結びつきなどなくなってしまったと感じられる時も出てきますが、その時も同じです。洗礼を通して与えられた神との結びつきは自分から脱ぎ捨てない限り消え去ることはありません。
このようにキリスト信仰者はゴルゴタの十字架に戻ることを絶えず繰り返しながら前へ進みます。目指しているのは復活の日に「神の国」への迎え入れられることです。そもそもイエス様の復活というのは、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、その命に至る道を人間に開いたということです。キリスト信仰者はその道に置かれてそれを歩むようになった者です。先週の説教でもお教えしましたように、キリスト信仰者は十字架に立ち返りながら将来の「神の国」を目指し、その間はこの世でしなければならないことをします。仕事があればそれをし、なければ探し、世話をする人がいれば世話をし、戦う病気があれば戦う、それらを十字架に立ち返りながら「神の国」を目指してするのです。その時、しなければならないことの仕方、姿勢も定まってきます。パウロが言うように、高ぶらない、自惚れない、悪を憎み、悪に悪に返さず、全ての人の前で善を行い、喜ぶ人と喜び泣く人と共に泣き、自分では復讐せず最後の審判の時の神の怒りに任せ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、そういう仕方、姿勢になっていきます。
キリスト信仰者が十字架に立ち返りながら「神の国」を目指して進む生き方をする時、日曜日の礼拝はそうした生き方にとって心臓と同じ働きをします。礼拝で神の御言葉に聴き、神を賛美し祈りを捧げ、聖餐に与ると霊的な清い血液が全身に送り出されて、平日の日常の中で各自が置かれた場で十字架への立ち返りと「神の国」を目指す力になります。あたかも疲れて汚れた血が再びきれいにされて心臓から全身に送り出されるように、信仰者も礼拝を通して清められて新しい週に旅立っていくのです。
そういうわけで、キリスト信仰者にとって礼拝を中心とした信仰の生き方ができれば皇帝がいても構わないということになります。しかし、民主主義が当たり前の今の時代にローマ皇帝のような専制君主がいても構わないなんて言うのははやりません。イエス様は専制君主を容認したことになるのか?実はそういうことではありません。そのことがわかるために、少し逆説的ですがパウロのローマ13章の教えを見てみます。
ローマ13章はパウロがこの世の権威や権力に従うべしと教えるところです。権力は社会秩序のために処罰を行う、だから権威を敬い、税金をしっかり納めるようになどと勧めています。権力者が聞いたらキリスト教徒はものわかりがいいと微笑むでしょう。しかもパウロは従う理由として、全ての権威は神によって立てられたなどと言います。これをローマの皇帝だけでなく後世のあらゆる支配者が読んだらみんな大喜びでしょう。なんだパウロも専制君主容認か、というふうに見えます。
ところが、この「神によって立てられた」というのは裏があります。支配者が神によって立てられたということは、支配者の上に神があることになり、神が望めば支配者はいつでもその座から滑り落ちることになります。このことは、本日の旧約の日課イザヤ書45章でもはっきり言い表されています。キュロスというのは、ペルシャの国王でバビロン帝国を滅ぼして古代オリエントの覇者になった人です。ユダヤ民族ではありませんが、聖書の神が彼をその地位につかせるというのです。なぜ神はそんなことをするのかと言うと、バビロン帝国を滅ぼすことでイスラエルの民を解放して祖国に帰還させるという昔からの預言を実現するためでした。これは実際その通りになり、バビロンを滅ぼした後キュロスは勅令を出してイスラエルの民の祖国帰還とエルサレムの神殿の再建を許可します。イザヤ書45章7節で神は「平和をもたらし、災いを創造する者」と言われます。ヘブライ語の原文を直訳するとそうですが、神は権力者の上に立つという趣旨で見たらここは「神は繁栄をもたらし滅亡ももたらす方」と訳した方がいいと思います。
このように天地創造の神は、異民族の王を用いてイスラエルの民のために預言を実現させたのです。ただし、日課の個所にもはっきり記されているように、キュロス自身は自分を動かしている神を知らずに、これらのことを行いました。本人はあたかも自分の力で全てのことを成し遂げているつもりだったのでしょうが、実はそうではなかったのです。宗教改革のルターも、国や民族の興亡は全て神の手に握られていて、国が興隆して栄えるのは神が風船に息を吹き込んでふくらますようなものであり、神が手を離したら最後、空気は抜けていくだけで誰もそれをくい止めることはできないと言っています。それ位、権力者というのは最後のところでは神に手綱を握られているというのが聖書の観点で、パウロもイエス様もそれをお見通しなわけです。そうであればあらゆる権力者の上に立つ神がやはり本当の権力者となり従うべき方となります。
この世の権力に従うことと神の意思に従うことがぶつからなければ問題ないのですが、歴史はそうならない事例に満ちてしまいました。まず、ペトロとヨハネがユダヤ教社会の指導部の前に連れていかれ、イエスの名を広めたら罰を受けることになると脅されました。それに対して二人は「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか考えよ」と答えます(使徒言行録4章19節)。これがこの世の権力に従う時の基準になりました。やがて権力者が、信仰を捨てるか命を捨てるかの選択を迫って迫害が起こるようになります。この日本でも起こりました。
信仰の自由が基本的人権として保障される現代では、そのような選択を迫られることはないというのが大前提です。しかしながら、最近の民主主義国で起こっていること、特にインターネットやSNSを通してどんな意見や考えが多数派を形成するか危なっかしい時代では、信仰を守るということでも目を覚ましていなければならないと思います。その場合、信仰を守ると言う時に何を守ることが信仰を守ることになるのか今一度考えてみることは大事です。礼拝を妨害を受けずに守れること、これが大事なことは言うまでもありませんが、もっと深いところにも心を留める必要があります。何かと言うと、死生観です。
この説教でお教えしてきたことから明らかなように、信仰というのは死生観を持って生きることと言うことが出来ます。キリスト信仰の死生観とは、復活の日に眠りから目覚めさせられて、肉の体と異なる朽ちない復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる、そういうことがあるのでこの世の歩みはそれを目指す歩みになるということです。その歩みをする際、神の意思に沿おうとして絶えず主の十字架に立ち返りながら復活の日を目指すという歩み方になります。これらがキリスト信仰の死生観を形作っています。キリスト信仰者がこのような死生観を持って生きるのは、聖書を繙いて学んでそうなのだと確信したからです。信仰の自由の侵害とはつまるところ、その死生観をやめてこっちのものを持て、ということです。権力者はその生き方死に方が気にくわないのだ、だからやめろ、言うことを聞け、と言って、確信が揺らぐようなことをするのが迫害です。
キリスト信仰の死生観を捨てさせようとしたり、確信もしていない別の死生観を持たせようとする動きがないか注意することはいつの時代でも信仰の自由を守る基本であると言えるでしょう。
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本日の福音書の個所は難しいでしょうか簡単でしょうか?字面を追って行けばこういうことです。王様が王子の結婚式の祝宴を催した。招待した人たちに用意出来ましたのでどうぞと言ったのに彼らは来ないばかりか使いの者に乱暴して殺してしまったりする。怒った王様は軍隊を送って彼らを町ごと焼き討ちにしてしまう。王様は家来に命じて町で見かけた者は誰でもいいから連れて来いと言い、それで祝宴の席は一杯になる、これでめでたしめでたしかと思いきや、来賓席の中に間違った服装の者がいて、その人は手足を縛られて外に放り出されてしまう。以上のようなことです。字面を追えば書いてあることはわかります。本日の旧約の日課イザヤ書25章では「主はこの山ですべての民の顔を覆い包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし」なんてのがあり(7節)、これは字面を追ってもなんのことかわかりません。それに比べたらイエス様の話は具体的でわかりやすいです。
それではイエス様はこのたとえで何を教えようとしているのか?偉い人から招待を受けたらちゃんと応じなさい、招待席に着く時はドレスコードをちゃんと守りなさい、さもないととんでもないことになるよ、ということでしょうか?イエス様がたとえを使って「神の国」について教える時、登場する王様とか主人は決まって天地創造の神を意味します。招待をすっぽかした人たちを焼き討ちにしたり、服装を間違えた人を縛って追い出すような神を誰が信じたいと思うでしょうか?
しかしながら、イエス様が教えようとしていることは、そういう字面から浮かび上がることでは全くありません。聖書の文章を理解する時は、もちろん字面の理解が大切なことは言うまでもありませんが、その文章がある流れ、文脈、コンテキストを踏まえて問題となっている文章を見ないと、さっきのような神はひどい方という理解に留まります。しかし、文章上のコンテキストだけではまだ足りません。コンテキストのさらなるコンテキスト、つまりマタイ福音書を書き上げた「マタイ」の観点と彼の観点の土台にある使徒たちの観点を踏まえないと文章の理解に到達できません。さらにイエス様自身の観点も考えなければなりません。なぜなら使徒たちの観点はイエス様の観点を土台にしているからです。そして、イエス様の観点を知るためには旧約聖書の観点を知らなければなりません。
このように、聖書を理解するというのは途方もないことです。説教者は本当に持てる力を最大限駆使して祈りながら説教を準備します。「父なるみ神よ、イエス様がおっしゃりたいことはこれで宜しかったでしょうか?間違っていたら、わざとやったことではないのでどうか赦して下さい。
説教者はそのように準備しているのですから、礼拝に出席する人は説教者の真摯さ誠実さをくみ取って、それなりの敬意を持って聴くべきだと思います。これは私にそうしろと言っているのではなく、一般的に説教者について言えることです。
それから「観点」と申しましたが、これも一筋縄ではいかないものです。ある人は、マタイの観点はこれだ、と言い、別の人は、これだ、と言う。いろんな見解や学説があります。教派によっても違ってきます。私の場合は、ルター派の保守的な立場に立って、いろんな「観点」を捉えていく立場ですので、その点はご了承ください。
それでは、イエス様はこのたとえで何を教えようとしているのでしょうか?いろいろな人物が登場します。結婚式を祝われる王子と、その祝宴を準備する王様がいる。招待客を呼びに行かされる家来たちがいる。もともと招待されていたのに出席を拒否した者たちがいて、招待されていなかったが新たに招かれて出席した人たちがいる。出席した人たちの中で相応しい服装をしていなかったため祝宴から追い出されてしまった人もいました。これらの人たちは一体何をたとえているのでしょうか?
まず、このたとえがどういう流れの中で話されたかを見ます。イエス様は自分の教えや活動に反対する人たち、ユダヤ教社会の宗教エリートたちを前にして話しています。はじめに、父親と二人の息子のたとえを話します。先々週の説教の個所です。一人は父親にブドウ畑に行って仕事するように言われ、最初は行かないと行ったが思い直して行った息子。もう一人は行くと言ったけれども行かなかった息子の話。それをイエス様は自分で解き明かしして、最初の息子は、罪を悔い改めて神の方に方向転換して生きるようになった元罪びとたち、二番目の息子は悔い改めも方向転換もしない宗教エリートたちであると言います。将来「神の国」に迎え入れられるのはお前たちではなく元罪びとたちだと言って、宗教エリートたちを手厳しく批判します。
その次に「ブドウ畑と雇われ農夫」のたとえを話します。先週の説教の個所です。ブドウ畑の所有者が収穫を届けさせようと僕を送ったが農夫たちは応じない。最後には所有者の息子が送られたが、農夫たちは殺害してブドウ畑を自分たちのものにしようとしたという話でした。それを聞いていた宗教エリートたちはそんな農夫たちは処罰されるべきでブドウ畑は相応しい農夫に委ねられるべきだと言い返します。その時イエス様は、それはお前たちのことでその言葉通り「神の国」はお前たちから取り上げられてユダヤ民族以外の民族に与えられると言います。これも宗教エリートたちに対する痛烈な批判でした。
そして今日の「王子の結婚式の祝宴」のたとえが来ます。このたとえは解き明かしはつきません。しかし、宗教エリートたちはこれも自分たちに対する批判と理解しました。それで彼らはイエス様を当局に訴えるための策を話し合ったのです(15節)。最初と二番目のたとえをもとにすれば、「王子の結婚式の祝宴」の王は紛れもなく天地創造の神です。それで王子は神の子です。家来や相応しくない服装をした者が誰を指すかは不明ですが、招待を拒否して滅ぼされてしまう者たちは最初の二つのたとえからすれば、どうも自分たちに向けられているとエリートたちは感じないではいられなかったでしょう。
このように、このたとえを字面で読むと王の仕打ちが厳しすぎると感じられるのは、これが宗教エリートに向けられた批判という面があるからです。しかし、それは一つの面でこのたとえには他の面もあります。イエス様は広く一般的な真理を述べていて、反対者には厳しく聞こえるが、そうでない者には違って聞こえるのです。どう聞こえるでしょうか?それは、「万物の創造主である神が全ての人間に対してどうぞ受け取りなさいと差し出しているものがある。それを受け取ると人間はこの世を生きることに目指す方向が明らかになり、生き方や姿勢もそれに倣ったものになる」ということです。このたとえを読んで、そんなふうに全然聞こえないと言われるでしょう。しかし、実はそういうことなのです。そのことを以下に見ていきましょう。
最初にこの祝宴は何を指すのかを見てみます。それがわかれば、家来や相応しくない服装をした者が誰を指すかもわかります。
この祝宴はまさに「神の国」を意味します。「天の国」、「天国」とも呼ばれますが、ここでは「神の国」でいきます。「神の国」については先週の説教でもお教えしました。聖書にはよく知られるように、終末論と新創造の観点があります。今ある天と地はかつて創造主の神が造ったものだが、それはいつか終わりを告げて神は新しい天と地を創造し直すという観点です。今は目には見えない、手の届かないところにある「神の国」が新創造の時に唯一の国として現れ、最後の審判をクリアーした者たちが朽ちない復活の体を着せられてそこに迎え入れられるというのです。
「神の国」は黙示録19章にあるように「結婚式の祝宴」にたとえられます。花婿は再臨の主キリスト、花嫁は「神の国」に迎え入れられた人たちの集合体です。「神の国」が祝宴にたとえられるのは、そこに迎え入れられた人たちがこの世での労苦を全て、ああ、そんなこともあったな、としか思えなくなる位に労われるまさに至福の場だからです。さらに黙示録21章を見ると、「神の国」で神は迎え入れた人たちの涙を全て拭われると言います(4節)。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。つまり、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が神の決済で最終的に完全に決着するということです。最後の審判があるのはそのためです。
黙示録を知っている人ならイエス様のたとえで「結婚式の祝宴」なんて聞いたら、すぐ、あっ、神の国の到来と迎え入れられた人たちのことを言っているとわかったでしょう。しかしながら、イエス様がこのたとえを話したのは、まだ彼の十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。黙示録をはじめ新約聖書の書物が記されるのはまだ先のことです。当時の人たちにはまだ旧約聖書しかありません。このイエス様のたとえを聞いて、彼らは王子の結婚式の祝宴が「神の国」のことを言っているとわかったでしょうか?
答えは、ひょっとしたらわかったかもしれないし、わからなかたったかもしれない、です。分かったかもしれないと言うのは、旧約聖書にも将来到来する「神の国」が何か祝宴に例えられるということがあるからです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書25章がそうです。6節で祝宴について言われます。8節を見ると、神が祝宴の席につく全ての人たちの涙を拭うことが言われています。キリスト信仰者が見たら、あっ、「神の国」について言っている、とわかります。8節ではまた、神は死を永久に滅ぼすと言っています。ヘブライ語の原文は「死を永久に飲み込む」とも訳せます。使徒パウロは第一コリント15章54節で「死は勝利に飲み込まれる」と言っています。彼がイザヤを引用しているのは明らかです。実はこの第一コリント15章というのは、復活の日に着せられる体、この世で着ている肉の体とは異なる朽ちない「復活の体」について教えるところです。パウロがイザヤ25章を念頭に置いているとわかれば、25章7節の不可解な個所「すべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし」というのは肉の体に替えて復活の体を着せられることを意味していることがわかります。ここのヘブライ語の原文の趣旨も「全ての人間を覆っている表面部分を一掃する」という意味です。つまり、肉の体の一掃です。
旧約聖書に言われているのならば、新約聖書を持たない当時の人たちでも「神の国」だと理解できたかと言うとやはりこころもとない面もありました。というのは、イザヤ書25章に限らず旧約聖書の預言は聞く人読む人の置かれた時代状況の都合にあわせて理解されてしまうからです。イザヤ書25章の場合、預言者イザヤが活動した紀元前700年代の状況の真っ只中で聞いたら、これはユダ王国がアッシリア帝国の攻撃を撃退して勝利の凱歌を上げることを預言していると受け取られたでしょう。それは実際ヒゼキア王の時にその通りになりました。しかし、ユダ王国はその100年少し後でバビロン帝国の攻撃を受けて滅びてしまいました。捕虜になった人たちからすれば、この預言は祖国帰還と国の復興を預言するものと受け取られたでしょう。それは実際に紀元前500年代の終わりにその通りになりました。
しかしながら、ユダヤ民族の苦難の歴史は祖国帰還後も続きました。それで、この預言は本当はまだ実現していない、本当に実現する時は「死が永遠に滅ぼされる」が単なる修辞文句ではなく、本当に文字通り死が滅ぼされることが起こるのだと信じられるようになります。そう信じたのはユダヤ民族の多くではありませんでしたが、でもこれが神の意思と計画を正確に把握していたことになります。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場して、彼の十字架の死と死からの復活の出来事が起きたのです。復活した主を目撃した人たちは、彼を通して死が永遠に滅ぼされたとわかりました。それで旧約聖書が終末論と新創造の観点で輝きだし、彼らは新約聖書の書物を書き記していったのです。そういうわけで、旧約聖書と新約聖書を結び付けているのは終末論と新創造の観点であると言っても過言ではないでしょう。
イエス様のたとえに出てくる王子を神の子、つまりイエス様本人だとすると一つ疑問が起きます。それは、この神の子は何もしないのです。前の「ブドウ畑と雇われ農夫」のたとえでは所有者の息子が殺害されると言って、神の子イエス様が十字架にかけられることを暗示していました。祝宴のたとえでは何もしないでただ嬉しそうにニコニコ座っているだけなのでしょうか?
ところが、目をよく見開いて読むと神の子の働きはちゃんとたとえの中にあることがわかります。王は招待客への伝言として「食事の用意が整った。牛や肥えた家畜を屠って、すべて用意ができた」(4節)と言います。最初の招待が頓挫した後、王は家来に「婚宴は用意できているのだが」とこぼします。このように「用意できている」という言葉が繰り返されます。これは、神の人間救済計画が実現したということ、人間の救いは神の側で全て整えられて準備できたということを意味します。イエス様は十字架の上で息を引き取られる直前に「全てのことが成し遂げられた」(ヨハネ19章30節)と言われました。成し遂げられた「全てのこと」とは、神の人間救済計画の全部を指します。
神がイエス様を用いて人間救済計画を全部実現されたということは本教会の説教でも毎回お教えしている通りです。人間は堕罪の時に神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで神との結びつきを失った状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。神は人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにと、またこの世を去った後も復活の日に復活の体を着せて永遠に神の国に迎え入れられるようにと、そのためにひとり子のイエス様をこの世に贈られます。そして、人間が本来受けなければならない罪の神罰を彼にゴルゴタの十字架の上で全部受けさせて人間の罪の償いをさせます。それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、この罪の償いがその通りに起こります。罪を償われた以上は神から罪を赦された者として扱われるので、神との結びつきを持って生きられるようになるのです。それはこの世においてだけでなく、次に来る世においてもそうなるのです。
そういうわけで、たとえに出てくる家来たちというのは、イエス様の十字架と復活のおかげで人間の救いが準備できたという知らせ、まさに「福音」を宣べ伝えた使徒たちや伝道者たちを意味します。福音ははじめ旧約聖書を持つユダヤ民族に伝えられました。ある者はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けますが、そうならない者も多く出てしまいました。ユダヤ民族の首都エルサレムは紀元70年にローマ帝国の大軍の攻撃にあい灰燼に帰してしまいます。たとえの中の町の焼き討ちはその預言だったのです。他方で、福音はユダヤ民族以外の異邦人にも宣べ伝えられていき、こうした異邦人出身のキリスト信仰者がキリスト教会の主流になっていきます。まさに、家来たちが王の命令に従って至るところで見つけ次第人を招いたように、伝道者たちは人種民族に関係なく宣べ伝えたのです。それが天地創造の神の意思だったからです。「わが子イエスの犠牲によってお前は罪を赦された者となり、私と結びついてこの世を生きる者となる。復活の日には私の国に迎え入れられる者になる。お前はこれを信じるか?イエスをお前の救い主として受け入れるか?」そう神は全ての人に言われ、この福音を受け取りなさいと全ての人に差し出されているのです。
善人も悪人も皆招待したと言うのは、人をみかけで選り好みせずに招待したということです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら最後、悪人は悪人でいられなくなります。善人も善人でいられなくなります。みんな神の尺度で変えられていきます。みんな変えられた者として祝宴の席につくのです。
それでは福音を神から受け取った者はどう変えられるのでしょうか?キリスト信仰者になったとはいっても、この世にいる限りはまだ朽ちる肉の体を纏っています。それで神の意思に反することがいろいろ出てきます。信仰者になれば神の意思というものに敏感になるのでなおさらです。洗礼を受けても自分は完璧な人間になっていないことを思い知らされることが沢山出てきて、洗礼なんか意味はなかったなどと思う人も出ます。しかし、それは大いなる勘違いです。キリスト信仰者が罪の意識を持つ度に信仰者の内に宿る聖霊は心の目をゴルゴタの十字架のイエス様に向けさせます。そこで神は「イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦されている。だからこれからは罪に足をすくわれないように気をつけなさい」と言われ、神と信仰者の結びつきは失われずにしっかりあると教えてくれるのです。罪以外のことでも心が打ち砕かれて神との結びつきがなくなったように感じられる時も同じです。洗礼を通して与えられた神との結びつきは、自分から脱ぎ捨てない限り消えることはありません。結びつきが失われていないということを確認できる地点に導くのが聖霊の仕事です。聖霊は洗礼を通して与えられるのです。
このようにキリスト信仰者はゴルゴタの十字架のもとに戻ることを絶えず繰り返しながら前へ進みます。目指しているのは復活の日の神の国への迎え入れです。そのように言うと、キリスト信仰者というのは心は過去の十字架と将来の神の国だけに向けられて、その間にあることには向かないのか?この世にはしなければならないことが沢山あるのに、それはどうでもいいのか?と言われるかもしれません。そういうことではありません。もちろんキリスト信仰者もこの世でしなければならないことをします。仕事があり、世話をする人たちがあり、戦う病気があり、仕事がなければ探すこと等々しなければならないことは沢山あります。キリスト信仰者は世捨て人ではありえません。ただ、しなければならないことをする際の仕方、姿勢が決まっているのです。どんな仕方、姿勢でしなければならないことをするのかと言うと、パウロが一つの例としてローマ12章で教えています。高ぶるな、自分を賢い者とうぬぼれるな、身分の低い人と交われ、悪を憎み、誰に対しても悪に悪を返せず、全ての人の前で善を行え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け、自分では復讐せず神の怒りに任せよ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ等々です。
これらのことは、キリスト信仰者ならこうしなければならない、出来ないと失格というような、神に認められるための条件ではありません。そうではなくて、もう既に神に認められた者なので十字架に絶えず戻りながら神の国に向かって進むことをすると、結果としてそういう生き方、姿勢になっていくということです。だからキリスト信仰者は、心は十字架に戻ること神の国を目指すことで一杯にして、体はこの世でしなければならないことをしていけばいいのです。そうすればパウロが教えるような仕方、姿勢でするようになっていくのです。自分でも気がつかないうちにそうなっていきます。
そういうわけで、祝宴の席で相応しくない服装を着ていた者というのは、かつて洗礼を受けていたのに、十字架に戻りながら神の国を目指すことをしなかった者ということになります。洗礼を通して頂いた神からの贈り物を捨ててしまったのです。洗礼を受けたら何が何でも大丈夫ということではないのです。しかし、十字架に戻りながら神の国を目指してさえいれば、何も心配はありません。祝宴の席で全ての涙は拭われて大いなる労いを受けます。それこそ、嬉しそうにニコニコ顔で座っているイエス様と一緒に座れて心は感謝と喜びに満たされるでしょう。
説教をYouTubeで見る。
聖霊降臨後第18主日 聖書日課 イザヤ5章1~7節、フィリピ3章4b~14節、マタイ21章33~46節 讃美歌 181、241、271、393
本日の福音書の箇所のタイトルは「ブドウ園と農夫のたとえ」です。正確には農夫は自営農ではなく雇われ人ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」です。聖書を読んだことある人だったら、このたとえは容易に理解できるのではないかと思います。ブドウ園の所有者は天地創造の神を指し、所有者が送った僕たちは神が遣わした預言者たちを指す。これに乱暴を加え殺すことまでしてしまう雇われ農夫たちはユダヤ教社会の指導者たち、そして所有者が最後に送る息子はイエス様、という具合に登場人物が誰を指すかは一目瞭然です。
これがわかれば、たとえの内容もわかります。天地創造の神は世界の数ある民族の中からイスラエルの民を自分の民として選ばれた。彼らは神からモーセの律法を授けられて、それを誇りに思い一生懸命に守ろうとした。ところが民の生き方は次第に神の意思から離れていって、エルサレムの神殿を中心とする崇拝も外面的な儀式の繰り返しに堕してしまった。社会の秩序も乱れ悪と不正がはびこってしまった。
そこで神は民が自分のもとに立ち返ることが出来るようにと預言者を立て続けに送った。しかし、誰も耳を貨さず迫害して殺してしまった。最後の最後には愛するひとり子のイエス様をこの世に送ったが、それさえも彼らは十字架にかけて殺してしまった。このように私たちは、イエス様のたとえをなんなく理解できます。でも、それは私たちが、イエス様が十字架にかけられたことを知っているからです。ところが、このたとえを十字架の出来事の前に聞かされたら、どうでしょうか?このたとえは当時のユダヤ教社会の指導者たちに向けて話されました。彼らはこれをどう理解したでしょうか?
指導者たちがこのたとえを理解できる手掛かりがひとつありました。それは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章1~7節の聖句です。天地創造の神とその「愛する者」があたかも一心同体の者のようにぶどう畑を持っていた、というたとえの教えです。そこで、一生懸命働いて良いぶどうが実るのを待ったが、出来たのは酸っぱくて、ぶどう酒に向かないぶどうが出来てしまった。そういうことを歌にして歌った後で神は、この恩知らずのぶどう畑はイスラエルの民の情けない現状である、と解き明しを始めます。ここでブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すことが明らかになります。その神と一心同体になってぶどう畑を所有して世話を焼く「愛する者」とは一体誰か?キリスト信仰の観点からすればやはり御子イエス様を指すのは間違いないでしょう。
さて神は、イスラエルの民というぶどう畑が良い実を実らせるように出来るだけのことをしてあげた。民を奴隷の地エジプトから解放して約束の地カナンに定住させた。その途上で律法を授け、敵対する民族の攻撃から守ってあげた。それなのに民は、神の意思に沿わない生き方に走ってしまった。この神の御言葉を記した預言者イザヤはイエス様の時代から700年以上も前の人です。イスラエルの民が良い実を実らせないぶどう畑にたとえられるというのは、当時の状況をよく言い表していました。当時ユダヤ民族には南北二つの王国があり、北王国はちょうどその頃アッシュリアという大帝国に滅ぼされてしまいました。南王国は100年近く持ちこたえますが、これも最後はバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。まさにイザヤ書5章5~6節で言われるような神に見捨てられたぶどう畑のようになってしまったのです。
それから700年以上経った後で、イエス様がブドウ畑と雇われ農夫のたとえを話しました。話す相手はユダヤ教社会の指導的地位にある人たちでした。みんな旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ畑の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、彼らはすかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すということもわかったでしょう。ところが、イエス様のたとえにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ます。雇われ農夫がそうですち、所有者が送った僕や息子もそうでした。指導者たちは「この預言者の再来と騒がれているイエスは、イザヤ書の聖句を引き合いに出して何を言おうとしているのだ?」と首を傾げつつ耳を傾けたでしょう。
実はイエス様のたとえにはイザヤ書の引用ということの他に、当時の社会と経済の現実が折り重なっているという面もあったのです。どういうことかと言うと、ブドウ畑の所有者は雇われ農夫に全てを任せて旅に出ました。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語原文の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先かと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ畑を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が自国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことは筋が通ります。普通だったら、そんなことをしたらすぐ逮捕されて自分たちのものなんかになりません。しめしめ、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国だ、邪魔者はいない、ブドウ畑は俺たちのものさ、ということです。
そうなると、このたとえはブドウ畑の外国人所有者に対する現地労働者の反逆行為について述べているように聞こえてきます。しかし、イザヤ書の聖句が土台にある。そうすると、所有者に対する反逆は神に対する反逆になる。所有者が送った僕が殺されるというのは、バビロン捕囚の前の時代に神が送った預言者たちが迫害されたことに思い当たります。迫害したのは国の指導者たちだったのです。そうなると神に対する反逆者は指導者たちとはっきり言っていることになります。
しかし、所有者の息子とは誰のことなのか?所有者が神を意味するなら息子は神の子ということになる。指導者たちが神の子をも殺してしまうなどと言っている。それはなんのことなのか?そう言えば、このイエスは自分を神の子と自称しているそうではないか。まさか…..。
まさにその時です、イエス様が指導者たちに質問しました。。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするか?」たとえの本当に意味がまだわかっていない指導者たちは当たり前のことのように答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸すだろう。」指導者たちはまさかこの答えで自分たちの運命を自分で言い表したとは思いもよらなかったでしょう。 指導者たちの答えの後、イエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22-23節の聖句です。これも、私たちから見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経てキリスト教会の基になったのです。その石を捨てた、「家を建てる者」とは、イエス様を十字架刑に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にこの聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた者たちというのは、価値のあるものを理解できない人間であるとわかります。それは、先ほどの雇われ農夫同様に良からぬ者を代表しているとわかります。
この男はイザヤ書と詩篇の聖句をもとにして何を言いたいのか?雇われ農夫、家を建てる者とは誰を指すのか?指導者たちはイエス様の口から出て来る次の言葉を固唾を飲んで待ちました。
そこでイエス様は全てを解き明かします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていはユダヤ民族以外の民族を指す言葉です。日本語で「異邦人」と訳されます。ここにきてイエス様の教えの全容がはっきりしました。ブドウ畑を神の国と言うのなら、その所有者はやっぱり神です!神が送ったのに迫害され殺された僕たちとはやはり旧約聖書に登場する預言者たちでした!つまり、邪悪な雇われ農夫とはユダヤ教社会の指導者たちだったのでした!その指導者たちが神の子を殺してしまうなどと言う。我々が神の子を殺すというのか?この男が神の子だと言うのか?神に対する冒涜だ!しかも、我々ユダヤ民族が受け継ぐことになっている神の国が取り去られて、異邦人が受け継ぐようになるなどと言う!冗談も休み休みにしろ!怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした。
以上見てきたように、イエス様はこのたとえで、イザヤ書のブドウ畑のたとえはユダヤ民族の過去の歴史の話に留まらないということを教えています。神の意思はイザヤの時代も今も変わらない、それなので神に逆らって生きれば、社会の衰退と混乱、国土の荒廃をもたらすだけでなく、神の国を受け継ぐ資格も失ってしまうということを教えています。イエス様の時代の700年以上前に預言されてとっくに実現済みと思われていたことは、実はまだ続いているということを教えているのです。
そうすると、イエス様のたとえの中で言われたこと、神のひとり子が指導者たちによって殺されて、ユダヤ民族が神の国を受け継ぐ資格を失い代わりに異邦人が受け継ぐようになるということ、これはゴルゴタの十字架の出来事が起きることでその通りになりました。またイエス様の復活後にキリスト教会が誕生してそこに異邦人がなだれ込んでくることでもその通りになりました。このようにイエス様の言われたことは見事に実現してしまったので、このたとえ自体をもう過去のものとして片付けてしまっていいのでしょうか?
そうではないのです。このイエス様のたとえは、全てのことが実現した後でも、人間にどう生きるべきかを教えています。イエス様の時代から2000年経った今でもそうです。この一見、現代の私たちの地点から見れば過去のことを言っているにしか見えないたとえですが、今を生きる私たちにどういう生き方を教えているでしょうか?それがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられる、と言っていることに注目します。新共同訳では「それにふさわしい実を結ぶ民族」となっていますが、「それ」は「神の国」を指します。「神の国にふさわしい実を結ぶ」というのは、ギリシャ語原文を忠実に訳すと「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい」はなくて「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」というのは、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の「異邦人」です。ユダヤ民族以外の、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられる、と言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とはなんなのか?何をすることが「神の国の実を結ぶ」ことなのか?そもそも、その「神の国」とは何なのか?ユダヤ民族は取り上げられると言われて激怒したが、異邦人の我々は与えられて嬉しいものなのか?
「神の国」については、説教で何度もお教えしてきました。ここでもまた繰り返します。これからお聞きになればわかるように、聖書の「神の国」について知るということは、キリスト教の死生観を知ることにもなります。
神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を使って認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、愛するひとり子を御許からこの世に贈り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。
神の国はまた、神聖な神の神聖な意思が貫かれているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間というのは、もともとはそのような神聖な神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神の意思に反する罪を持つようになったために神のもとにいることができなくなり、神との結びつきが失われてしまいました。それで人間は死ぬ存在になってしまったのです。この辺の事情は創世記3章に詳しく記されています。
神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えました。神との結びつきが回復すれば人間はこの世の人生をその結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。この世から別れることになっても、復活の日まで安らかな眠りにつき、その日が来たら目覚めさせられ、復活の体と命を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。これらのことが可能になるためには、神との結びつきを失わせた罪を人間から除去しなければなりません。人間は罪のない清い存在にならなければならないのです。しかし、神の意思を完全に実現できない人間にそれは不可能です。しかし、神は人間を救いたいのです。
このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に贈りました。そして、人間の罪を全部イエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げさせ、そこで罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。神は文字通りイエス様に人間の罪の償いをさせたのでした。話はそこで終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されました。そこで私たち人間が、これらのことは全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって、感謝と畏れ多い気持ちに満たされて、これからは罪を犯さないようにしよう。罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。
ところが、キリスト信仰者と言えども、信仰者でない人と同様にまだ肉を纏って生きていますから、もちろん罪をまだ内に持っています。しかし、信仰者の場合は、神の意思に反する何かが心のどこかで頭をもたげるとすぐ罪だと気づき、「イエス様を救い主と信じますから赦して下さい」と神に祈ります。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてこう言います。「わかった、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す、だからもう罪を犯さないように」。そのようにして信仰者が新しいスタートを切れるようにして下さいます。罪を赦すというのは、罪を許可するということではありません。イエスがお前の代わりに償ったので不問にする、だから心配しないで前を向いて行きなさい、ということです。本日の使徒書の日課フィリピ3章でも使徒パウロはこう言っていました。「過去のことは忘れて、前にあるものに身を乗り出すようにして自分はゴール目指してひたすら走るのだ」と。ゴールとは、ずばり神の国への迎え入れという賞が授与されるところです(13~14節)。
キリスト信仰者は罪の汚れを残しているけれども、イエス様のおかげで全く清い者と見なしてもらえるようになりました。それで、それに相応しく生きなければと襟を正すのです。以前は創造主の神に背を向けていた、しかし今は方向転換して神の方を向いて神が備えて下さった結びつきを持って前へ前へと進んでいる。それがキリスト信仰者です。行先は死を超えた永遠の命が待つ神の国です。この道を進んでいれば神の国に予約席があります。パウロが同じフィリピの3章で言っている通りです。「私は死からの復活にはまだ達していないし、完璧な者にもなっていない。しかし、自分自身がイエス・キリストのものにされたがゆえに復活に与ることが出来るというのであれば、ただひたすら走るのみである。」(12節)
ところで、神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはまた最後の審判が行われる日です。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる日です。その時、再臨されるイエス様が、その時点で生きている信仰者たちと、その日眠りから目覚めさせられて復活する者たちを一緒にして、神の国に迎え入れられます。
その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを言い当てています。
以上「神の国」がどういう国かについてお話ししました。今度は「神の国」が与えられることになる「異邦人」、すなわち「神の国の実を結ぶ異邦人」とは誰なのかを考えてみましょう。「異邦人」は、先ほども申し上げましたように、ユダヤ民族以外のその他の民族です。日本人も中国人も欧米人もアフリカ人も皆、ユダヤ民族から見たら「異邦人」です。それが「神の国の実を結ぶ」というのは、どういうことか?その実を結ぶ者に「神の国」が与えられると言われています。それだったら、そもそも誰に「神の国」が与えられるかを思い出せばいいのです。それは、前にも述べましたように、イエス様を救い主と信じる者です。こうして神の国を与えられる者が二つ出てきました。一つはイエス様を救い主と信じる者。もう一つは神の国の実を結ぶもの。そういうわけでイエス様を救い主を信じる者と神の国の実を結ぶ者はイコールで結ばれます。イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶことなのです(後注)。
そこで、イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶなどと言われても、実際本当に何か実を結んでいるのか実感がわかない人が多いかもしれません。そもそもキリスト信仰者というのは、神の意思に沿うように清く正しく生きようとし、それに反するものに与しないようにしようとします。反するものが自分の前にやってきたら、その時はゴルゴタの十字架から来る力、つまり罪と死を打ち破って神との結びつきを与える力、これで本当に打ち破る力を持つと言えるのは、キリスト信仰者には罪の赦しと永遠の命が洗礼を通して植えつけられているからです。そしてイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、それらが植えつけられているのは動かせない事実だとわかっています。そのようにしてキリスト信仰者は毎日毎日、罪の赦しと永遠の命に相応しい者へと変えられていきます。これが神の国の実を結ぶことです。
(後注)ここで注意しなければならないのは、単純にユダヤ民族が失格で異邦人が合格ということではないことです。ユダヤ民族でもイエス様を救い主と信じた人たちがいます。ペトロもパウロもマリアも皆ユダヤ民族出身のキリスト信仰者です。ユダヤ民族は、イエス様の十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じる者と信じない者と真二つに分かれました。異邦人も同じでした。パウロのような伝道者が異邦人にもイエス・キリストの福音を宣べ伝えた結果、欧米人、日本人、中国人、アフリカ人にもイエス様を救い主と信じる人が生まれるに至りました。要は、ここで言われる「異邦人」とは、何民族に属するか関係なくイエス様を救い主と信じる者全てを指すということです。神はイスラエルの民を神の国を受け継ぐものに任じていたが、これを機に民を見限ってそれ以外の民族に神の国を受け継がせることにした。この、ユダヤ民族にかわって新たに神の国を受け継ぐことになったのがキリスト信仰者ということになります。イエス様がここで話していることはユダヤ民族の過去の歴史と近い将来に起こることについての預言でした。
聖霊降臨後第17主日
本日の旧約聖書の日課エゼキエル書の個所と福音書の日課マタイ福音書の個所は全く異なる出来事が記されていますが、双方をよく見ると共通するものが見えてきます。何かと言うと、過去の呪縛から解き放たれて新しい生き方に入るということです。
エゼキエル書の個所は、紀元前500年代の時の話です。かつてダビデ・ソロモン王の時代に栄えたユダヤ民族の王国はその後、神の意思に背く生き方に走り、多くの預言者の警告にもかかわらず、指導者から国民に至るまで罪に染まり、国は分裂、社会秩序も乱れ、外国の侵入にも晒され続けます。そして、最後は神の罰としてバビロン帝国の攻撃を受けて完全に滅びてしまいます。民の主だった者たちは異国の地に連行されて行きました。世界史の授業にも出てくる「バビロン捕囚」の出来事です。
ユダヤ民族の首都エルサレムが陥落する直前の時でした。人々はこんなことわざを口々に唱えていました。「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」熟していない酸っぱいぶどうを食べて歯が浮くような違和感を覚えるのは食べた本人ではなく子孫だと言うのです。これは、先祖が犯した罪の罰を子孫が受けるという意味です。滅亡する自分たちは、まさに先祖が犯した罪のせいで神から罰を受けていると言うのです。民の間には、それは当然のことで仕方がないというあきらめがありました。それをこのことわざが代弁していました。先祖のせいで神罰を受けなければならないのなら、今さら何をしても駄目、いくら自分たちが神の意思に沿うように生きようとしても無駄ということになってしまいます。自分たちの運命は先祖のおかげで決まってしまったからです。これに対して神は預言者エゼキエルの口を通して民のこの運命決定論の考えを改めます。今こそ悪から離れて神に立ち返れ、そうすれば死ぬことはない必ず生きる、と。そして、このことわざも口にすることがなくなる、と。以上がエゼキエル書の個所の概要です。
マタイ福音書の個所の方は、バビロン捕囚から600年位たったあとの、ユダヤ民族がローマ帝国に支配されていた時代の出来事です。イエス様が民族の解放者と目されて群衆の歓呼の中を首都エルサレムに入城しました。そこの神殿に行き、敷地内で商売をしていた人たちを荒々しく追い出しました。商売というのは神殿で生贄に捧げる動物などを売っていた人たちですが、イエス様の行動は神殿の秩序と権威に対する挑戦と受け取られました。さらにイエス様は首都の中で人々の前で神と神の国について教え、病気の人たちを癒す奇跡の業を行いました。人々は彼のことをますます王国を復興する王メシアと信じるようになりました。
これに対して民族の指導者たちは反感を抱き、イエス様のもとに来て聞きます。「お前は何の権威でこのようなことをしているのか?」イエス様はそれには直接答えず、洗礼者ヨハネの洗礼は神由来のものか人間由来のものか、それに答えたら教えようと尋ね返します。指導者たちははっきり答えなかったので、イエス様も答えるのを拒否しました。これを読むとなんだか素っ気ない感じがします。私など、洗礼者ヨハネのことなんか出さないで、すぐ自分の権威は天の父なるみ神に由来すると言えばよかったのになどと思ったりします。
その後に二人の息子のたとえの教えが続きます。父親にブドウ畑に行って働きなさいと言われて、一番目の息子は最初行かないと言ったが思い直して行った、二番目のは最初行くと言ったが本当は行かなかったという話でした。イエス様は、一番目の息子は洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人や娼婦たちのことで、彼らは指導者たちに先駆けて神の国に迎え入れられるなどと言います。洗礼者ヨハネのことがまた出てきました。きっと先のイエス様と指導者たちのやり取りが続いているということなのですが、どう続いているのか繋がりがよく見えてきません。実は、このマタイ福音書の個所も過去の呪縛から解き放たれて新しい生き方に入ることを言っていることがわかると、その繋がりが見えてきます。そういうわけで、本日の説教はエゼキエル書の個所とマタイ福音書の個所を中心に見ていこうと思います。
エゼキエル書の個所で問題となっていたのは、イスラエルの民が滅亡の悲劇に遭遇しているのは先祖たちの罪が原因で今自分たちはその神罰を受けているという見方でした。そのことを皆が口にすることわざが言い表していました。先祖たちがどんな罪を犯していたか、本日の日課から外されている5~21節に記されています。それを見てみますと、偶像を崇拝したりその供え物を食べること、他人から奪い取ったり負債を抱える者に情けを示さないこと、不倫を行うこと、食べ物や衣服に困った人を助けないこと、貸す時に高い利子を付けて貸すなど自分の利益しか考えないこと、不正に手を染めること、真実に基づかないで裁きを行うこと、その他の掟や神の意思に従わないこと等々です。なんだか現代の私たちの社会のことを言っているみたいです。神は、こうした自分の意思に反することをやめて神に立ち返る生き方をしなさい、そうすれば死なないで生きるのだ、と言われます。
この、死なないで生きるというのは少し意味を考える必要があります。一見すると、神の意思に沿うように生きれば外国に攻められて死ぬことはなく平和に長生きできるというふうに考えられます。しかしながら、聖書では「生きる」「死ぬ」というのは実は、この世を生きる、この世から死ぬというような、この世を中心にした「生きる」「死ぬ」よりももっと深い意味があります。この世の人生を終えた後で、永遠に生きる、あるいは、永遠の滅びの苦しみを受けるという、そういう永遠を中心にした「生きる」「死ぬ」の意味で言っています。天地創造の神は、ご自分が選んだイスラエルの民の歴史の中で、神の意思に沿えば国は栄えて民は生きられるが、逆らえば滅んで死んでしまうという出来事を起こします。そのようにして神は、特定の民族の具体的な歴史を表面的なモデルにして、自分には永遠の「生きる」や「死ぬ」を決める力があることを全ての人間にわかりやすく示しているのです。
先にも申しましたように、イスラエルの民の問題点は、自分たちの不幸な境遇は先祖の犯した罪が原因だと思っていたことにありました。そうであれば、自分たちが何をしても運命は変えられません。先祖がそれを決定づけてしまったのですから。今さら神の意思に沿うように生きようとしても無駄です。しかし、神はそのような見方から民を解き放とうとします。そこで神は言います。裁きは罪を犯した者だけに関わるのであると。だから、お前たちがこれから神の意思に沿うように生きることは無駄なことではなく、お前たちは死なずに生きることになるのだ、と。この「死なない」「生きる」は、滅亡寸前の祖国でうまく敵の手を逃れて生きながらえるという意味ではありません。たとえ、敵の手にかかって命を落とすことになっても、すでに神のもとに立ち返って神の意思に沿う生き方を始めていたのであれば、永遠の滅びの苦しみには落ちないで永遠の命に迎え入れられるということです。神のもとに立ち返って神の意思に沿う生き方を始めることが無意味、無駄ということはなくなるのです。
さて、罪の責任は先祖とか他人のものはもう自分は負わなくてすむことになりました。そこには大きな解放感があります。もう、自分と神の関係を考える際に、先祖と神の関係がどうだったかは全く関係なくなりました。すると、ちょっと、待てよ、そうなると自分と神の関係は全て自分の問題になるということになるではないか?つまり、今度はこの自分の罪、自分が神の意思に背いて生きてきたことが問われて、まさにそのことが自分の永遠を中心として生きるか死ぬかを決定づけることになる。これは大変なことになった。永遠の命に迎え入れられるかどうかを決定づけるのは他の何ものでもない自分自身なのです。聖書を繙くと、今あるこの世が終わりを告げるという終末論の観点と、その時には新しい天と地が創造されると言う新しい創造の観点があります。終末と新しい創造の転換点には死者の復活と最後の審判というものがあります。全ての人、死んだ人と生きている人の全てが神の前に立たされる時です。その時、この私は神のもとに立ち返る生き方を始めてその意思に沿うように生きようとしたのだが、果たしてそれはうまくいったのであろうか?神はそれをどう評価して下さるのだろうか?また、立ち返る前の生き方は何も言われないのだろうか?なんだか考えただけで今から心配になってきます。ここで、マタイ福音書の個所を見るよいタイミングとなります。
エルサレムの神殿の祭司や長老といったユダヤ教社会の指導者たちがイエス様に権威について問いただしました。もちろんイエス様としては、自分の権威は神から来ていると答えることが出来ましたが、そうすると指導者は、この男は神を引き合いに出して自分たちの権威に挑戦していると騒ぎ出すに決まっています。それでイエス様は別の仕方で自分の権威が神から来ていることをわからせようとします。
二人の息子のたとえに出てくる父親は神を意味します。一番目の息子は、最初神の意思に背く生き方をしていたが、方向転換して神のもとに立ち返る生き方をした者です。これと同じなのが洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人と娼婦たちであると言うのです。二番目の息子は神の意思に沿う生き方をしますと言って実際はしていない者で、指導者たちがそれだというのです。それで、徴税人や娼婦たちの方が将来、死者の復活に与ってさっさと神の御許に迎え入れられるが、指導者たちは置いてきぼりを食うというのです。
ここで徴税人というのは、ユダヤ民族の一員でありながら占領国のローマ帝国の手下になって同胞から税を取り立てていた人たちです。中には規定以上に取り立てて私腹を肥やした人もいて、民族の裏切り者、罪びとの最たる者と見なされていました。ところが、洗礼者ヨハネが現れて神の裁きの時が近いこと、悔い改めをしなければならないことを宣べ伝えると、このような徴税人たちが彼の言うことを信じて悔い改めの洗礼を受けに行ったのです。先ほど申しましたように、聖書には終末論と新しい創造の観点があり、死者の復活と最後の審判があります。旧約聖書の預言書にはその時を意味する「主の日」と呼ばれる時について何度も言われています。紀元前100年代頃からユダヤ教社会には、そうした聖書の預言がもうすぐ起きるということを記した書物が沢山現れます。当時はそういう雰囲気があったのです。まさにそのような時に洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したのでした。
娼婦についても言われていました。モーセ十戒には「汝姦淫するなかれ」という掟があります。それで、多くの男と関係を持つ彼女たちも罪人と見なされたのは当然でした。そうすると、あれ、関係を持った男たちはどうなんだろうと疑問が起きます。彼らは洗礼者ヨハネのもとに行かなかったのだろうか?記述がないからわかりません。記述がないというのは、こそこそ行ったから目立たなかったのか、それとも行かないで、あれは女が悪いのであって自分はそういうのがいるから利用してやっただけという態度でいたのか。そんな言い逃れて神罰を免れると思ったら、救いようがないとしか言いようがありません。
話がすこし逸れましたが、このようにして大勢の人たちがヨルダン川のヨハネのもとに行き洗礼を受けました。人々の中に、徴税人や娼婦たちのような、一目見て、あっ罪びとだ、とすぐ識別できる人たちもいたのでした。ヨハネが授けた洗礼は「悔い改めの洗礼」と言い、これは後のキリスト教会で授けられる洗礼とは違います。「悔い改めの洗礼」とは、それまでの生き方を神の意思に反するものであると認め、これからは神の方を向いていきますという方向転換の印のようなものです。キリスト教会の洗礼は印に留まらず人間が方向転換の中で生きていくことを確実にして、もうその外では生きられないようにする力を持つものです。印だったものがそのような力あるものに変わったのは、後で述べるように、イエス様の十字架と復活の業があったからでした。
さて、人々はもうすぐ世の終わりが来て神の裁きが行われると信じました。それはその通りなのですが、ただ一つ大事なことが抜けていました。それは、その前にメシア救世主が来るということでした。メシアが人間の神への方向転換を確実なものにして、しかもそれを旧約聖書の預言通りに特定の民族を超えた全ての人間に及ぼすということ。それをしてから死者の復活と最後の審判を迎えさせるということでした。ヨハネ自身も自分はそのようなメシアが来られる道を整えているのだと言っていました。その意味でヨハネの洗礼は、悔い改めの印と、来るメシア救世主をお迎えする準備が出来ているという印でもありました。いずれにしても、世の終わりと神の裁きはまだ先のことだったのです。当時の人々は少し気が早かったのかもしれません。
ヨハネから悔い改めの洗礼を受けた人たち、特に徴税人や娼婦たちはその後どうしたかと言うと、イエス様に付き従うようになります。彼らは、方向転換したという印をつけてはもらったけれども、裁きの日が来たら、自分がしてきたこと自分の過去を神の前でどう弁明したらいいかわかりません。方向転換して、それからは神の意思に沿うようにしてきましたと言うことができたとしても、転換する前のことを問われたら何も言えません。それに方向転換した後も、果たしてどこまで神の意思に沿うように出来たのか、行為で罪を犯さなかったかもしれないが、言葉で人を傷つけてしまったことはないか?心の中でそのようなことを描いてしまったことはないか?たくさんあったのではないか?そう考えただけで、ヨハネの洗礼の時に得られた安心感、満足感は吹き飛んでしまいます。
そこに、私には罪を赦す権限があるのだ、と言われる方が現れたのです。罪を赦すとはどういうことなのか?過去の罪はもう有罪にする根拠にしない、不問にするということなのか?そういうことが出来るのは神しかいないのではないか?あの方がそう言ったら、神自身がそう言うということなのか?いや、ひょっとしたら印の洗礼では不安な人たちを口先だけで引き寄せようとしているのではないか?いや、口先なんかではない。あの方は、全身麻痺の病人に対してまず、あなたの罪は赦される、言って、その後すかさず、立って歩きなさい、と言われて、その通りになった。罪を赦すという言葉は口先ではないことを示されたのだ。真にあの方は罪を赦す力を持っておられるのだ!そのようにして彼らはイエス様に付き従うようになっていったのです。もちろん、付き従った多くの人たちには罪の赦しよりも民族の解放ということが先に立って、罪の赦しが少し脇に追いやられていた者も多かったのは事実です。しかし、罪からの解放が切実な人たちも大勢いたのです。
イエス様が持っていた罪の赦しの権限は、彼の十字架の死と死からの復活ではっきりと具体化して全ての人間に向けられるものとなりました。イエス様は、十字架の死に自分を委ねることで全ての人間の全ての罪を背負い、その神罰を全て人間に代わって受けられました。人間の罪を神に対して償って下さったのです。さらに死から三日後に父なるみ神の想像を絶する力で復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示しました。そこで人間がこのようなことを成し遂げられたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人に効力を持ち始めます。罪が償われたのだから神から見て罪を赦された者と見なされます。神は過去の罪をどう言われるだろうかなどと、もう心配する必要はなくなったのです。神は、我が子イエスの犠牲に免じて赦すことにしたのだ、もうとやかく言わない、だからお前はこれからは罪を犯さないように生きていきなさい、と言われます。もう方向転換した中でしか生きていけなくなります。
イエス様が指導者たちに自分の権威は神に由来するとすぐ言わなかったのは、まだ十字架と復活の出来事が起きる前の段階では無理もないことでした。というのは、言ったとしても、口先だけとしか受け取られなかったでしょう。そこでイエス様はヨハネの悔い改めの洗礼を受けた罪びとたち、正確には元罪びとたちのことに目を向けさせたのです。彼らは今まさにイエス様の周りにいて指導者たちも目にしています。今、方向転換の印を身につけていて、もうすぐそれは印を超えて実体を持つようになる時が来るのです。その時になれば、イエス様の権威が神由来であったことを誰もが認めなければならなくなるのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神を向いて生きる方向転換を遂げてその中で生きていくことになりました。そこでは、自分に弱さがあったり、また魔がさしたとしか言いようがないような不意を突かれることもあって、神の意思に反することが出てくることがあるでしょう。しかし、あの時ゴルゴタの十字架で打ち立てられた神のひとり子の罪の償いと赦しは永遠に打ち立てられたままです。そこはキリスト信仰者がいつも立ち返ることができる確かなところです。そこでのみ罪の赦しが今も変わらずあることを知ることが出来ます。
そして、いつの日か神のみ前に立つことになった時には、父なるみ神よ、私はあなたが私に成し遂げて下さった罪の赦しが本物であると信じて、それにしがみつくようにして生きてきました。そのことががあなたの意思に沿うように生きようとした私の全てです、そう言えばいいのです。その時、声を震わせて言うことになるでしょうか、それとも平安に満たされて落ち着いた声でしょうか。いずれにしても、神は私たちの弁明が偽りのない真実のものであると受け入れて下さいます。そう信じて信頼していくのがキリスト信仰です。