説教「将来現れる永遠の栄光の重みにこの世の艱難は軽くなる」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 25章14-30節

主日礼拝説教 2020年11月15日(聖霊降臨後第24主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の日課の個所も分かりそうで分かりにくいところです。主人が家来に財産の管理を任せて遠い国に旅に出ます。それぞれが持っている力量に応じて任せる額を決めます。ある家来には5タラントン任せました。1タラントンは当時の日雇い労働者の6,000日分の賃金です。今の金額でいくら位でしょうか?東京都の最低時給が1,000円ちょっとなので、一日8時間働いて8,000円ちょっと。その6,000日分は48,000,000円。これが1タラントン。5タラントンは2億4,000万円です。相当な金額です。二人目の家来には2タラントン、9,600万円任せ、三番目の家来には1タラントン、4,800万円任せました。主人はそれぞれの家来の力はこれくらいあると判断して、それに見合う金額を任せたのです。

その後どうなったか?一番目の家来は任せられた5タラントンを元手に働いて、さらに5タラントンの利益をもたらしました。一体何の働きをしてそんなに儲けられたのか?私たちとしてはそっちに関心がいくかもしれませんが、それについてイエス様は何も言っていません。ここは仕事の中身よりもとにかく働いたということがポイントなのでしょう。二番目の家来も任せられた2タラントンを元手に働いて、さらに2タラントンの利益をもたらしました。この二人に対して主人は、全く同じ労いの言葉をかけました。ギリシャ語原文を意識して訳しますと、「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にする。さあ、お前の主の喜びの中に入りなさい。」これは一体どんな意味でしょうか?それは後で見ていきます。

三番目の家来は土を掘って1タラントンを隠してしまいました。なぜそうしたかと言うと、彼は主人のことを種を撒いていないところから刈り取ろうとする、また耕していないところから収穫を要求するような無慈悲な人だからと言います。事業に失敗して元手を減らすようなことになったら大変だとそれで保管することにしたのか、それとも、働くこと自体したくなかったので埋めてしまったのか、どちらかです。激怒した主人がこの家来を怠け者と言って叱責したのをみると、働くこと自体いやだったようです。そうすると、主人のことを無慈悲というのは理由と言うより下手な言い訳になります。主人としては、人の気も知らずによくも言ってくれたな、という感じになるでしょう。

主人は、銀行に預ければ利子が得られて、それと一緒に返せるではないか、と言います。銀行とは現代的ですが、これは当時の両替商のことでお金の貸付けも行っていました。利子を求めるなどとは主人はやっぱり欲張りかなと思わせますが、ギリシャ語の原文を見ると、両替商も銀貨も複数形です。つまり、1タラントンという多額のお金を沢山の銀貨に分けて多くの両替商に預けることを意味します。それはそれで大変な作業になるでしょう。いずれにしてもその家来は暗闇の外に放り出されてしまいます。

以上の話の流れは誰にでもわかります。ところが、イエス様はこのたとえで一体何を教えようとしているのか?これはわかりにくいと思います。元手があればしっかり働いて利益を得なさい、お金は眠らせてはいけない、という資本主義の精神とかプロテスタンティズムの倫理を教えているのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。先週の説教でも申しましたが、イエス様の教えというのは、今のこの世の次に到来する新しい世とか、死者の復活とか、最後の審判とか、そういう今あるこの世を超えた視点を持って語られています。それを忘れてはいけません。イエス様は、この世の人生訓とか処世術とか、あるいは何か思想・哲学イデオロギーを教えるために創造主の神のもとから贈られてきたのではありません。人間が聖書をそういうものと解釈して自分に都合のよい思想を作るのは人間の勝手ですが、イエス様というのは本当は人間が将来到来する神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方がこの世で出来るようにするために贈られてきたのです。

それでは、人間が将来神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方とはどんな生き方か、それを本日のたとえはどう教えているのか?今日はそれを見ていきましょう。

 

2.まず、この3人の家来のたとえは先週の10人のおとめのたとえの続きとしてあることに注意します。同じ内容の教えを違った角度から教えているのです。10人のおとめのたとえでイエス様が教えようとしたことは、この世で目を覚まして生きるというのは神の国に迎え入れられるために用意することだということでした。神の国に迎え入れられために用意するとは、具体的には、まず、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様がゴルゴタの十字架で果たして下さった罪の償いを自分のものとすること。そして自分には神の意思に反する罪があることをわきまえ、イエス様が償って下さったという動かせない事実に自分の全てを毎日賭ける、そうやって罪を毎日圧し潰していくこと。そのようにして洗礼の時に植え付けられた霊的な新しい人を日々育て、肉的な古い人を日々死に引き渡していくこと。これらが神の国に迎え入れられるために用意をする生き方であるとお教えしました。

本日のたとえも神の国に迎え入れられるために用意する生き方を教えていることが見えてきます。主人が遠い国に旅に出て、かなりの期間の後に戻って来るというのは、イエス様の再臨を意味します。5タラントンと2タラントンの家来は主の喜びに迎え入れられますが、それはまさに神の国への迎え入れを意味します。そうすると、迎え入れが実現するためには、この世で何かをしなければならない、10人のおとめのたとえでは「用意をしなければならない」でした。その具体的な内容は、罪の自覚と十字架の赦しを繰り返すことで罪を圧し潰していく信仰の戦いを戦うことでした。3人の家来のたとえでは何をしなければならないと教えているのでしょうか?イエス様を通して何かを与えられる、そして、それをもとにして働いて成果を出すということ。それは一体何なのでしょうか?

まず家来に与えられたタラントンですが、これを「恵みの賜物」と考える向きは多いのではないかと思います。ローマ12章を見ると、預言する賜物があったり、奉仕をする賜物、教える賜物、人を励ます賜物、指導する賜物、施しをする賜物、貧しい者を助ける賜物などがリストアップされています。第一コリント12章にもいろいろ列挙されています。これらの賜物は神が独断でこの人にはこれと決めてお恵みのように与えるものです。人間が自分の力で獲得するのではありません。その目的も教会を成長させていくことです。賜物を授かった人間が自分を誇ったり偉そうにするためのものではありません。

もし家来に与えられたタラントンがそういう恵みの賜物であるとすると、得られた儲けとは何でしょうか?恵みの賜物の目的は教会の成長だから、儲けは教会が成長したことでしょうか?信者が増えて献金が増えたということでしょうか?再臨したイエス様は、それを見て満足して、教会をそのように大きくした者たちに褒美として神の国へ迎え入れたということでしょうか?

私は、そういうことではないと思います。まず、5タラントン儲けた家来と2タラントン儲けた家来が全く同じ労いを受けたことに注意しましょう。2億4,000万円も9,600万円もイエス様から見たら、神の国に迎え入れられる成果として違いは何もないのです。1億4,400万円の差なんて何も影響ありません。ここで仮に1タラントン任せられた家来も働いて同じように1タラントン儲けたとしましょう。主人は家来の力量に応じて額を決めたので、この者なら働いて1タラントンの儲けを得ることができるだろうと期待したのです。それで1タラントン儲けたならば、きっと他と同じ労いの言葉をかけられたことでしょう。「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にしょう。さあ、お前の主の喜びの中に入りなさい。」肝心なのは、任せられたものを元手にして働くことでした。しかし、家来は働きませんでした。

それじゃ、主人が両替商に預けて利子でもよかったと言ったのは何なのか?利子収入でいいと言うのは働かなくてもいいということではないのか?先ほども申しましたが、4,800万円分をいくつもの両替商に分散させて預けるはかなり面倒くさいことです。そんなことする位なら土中に埋めてしまった方が楽でしょう。実は1タラントンの家来のしたことの真の問題は、それを土に埋めて隠してしまったことでした。表に出さなかったということでした。あちこちの両替商に預ければ、主人から委ねられたものを少なくとも表に出すことになります。埋めて隠してしまったことがいけなかったのです。主人は1タラントンの家来の力量は小さいと見抜いていました。元手と同じ儲けが無理なら、利子でもいい、それでも神の国への迎え入れをしてあげよう、だから任せたものを少なくとも埋めて隠すようなことはしてくれるな、という思いでした。ところが家来はそうしてしまったのです。

 

3.ここで、主人が与えたタラントンと家来たちがした働き、しなかった働きについてもう一歩踏み込んで考えてみます。ローマ12章の使徒パウロの教えがカギになります。

パウロはそこで、罪の自覚と赦しを繰り返しながら罪を圧し潰して日々新しくされていくキリスト信仰者のこの世での生き方について教えます。罪を圧し潰す生き方についてはローマ8章で教えられていました。また、そのように生きる者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道を間違いなく進んでいることも同じ章で教えられていました。この世には神の意思に反することが沢山あります。それなので、キリスト信仰者はこの世がいろんなことを言ってきても耳を貸さず心を奪われず、あくまで神の意思に沿うように進まなければならない。そのことが12章の1節と2節で言われます。そのように進むこと自体がもう自分を神に喜ばれる神聖な生ける生贄にしていることなのです。

そこで3節から、そのような基本姿勢に立つキリスト信仰者が実際にこの世で周りの人たちとどのような関係を持って生きるかということについて教えられていきます。ここでは特に自分が他人より上だなどと思ってはならないということが強調されます。それをまず最初にキリスト信仰者の間で実践されることとして述べられます。ここで大事なことは、全てキリスト信仰者はキリストを一つの体とする体の部分部分であるということです。それぞれが神から何かお恵みの賜物が与えられています。それぞれが結びついて体全体を作り上げているので、どれが大事でどれが大事でないかということはない。すべてが全体にとってもお互いにとっても大事なのである。だから、誰も自分を誇ってはいけないのです。もし誇るのであれば、キリストを誇らなければならないのです。同じ教えが第一コリント12章でさらに詳しく述べられています。

9節からは、この、キリスト信仰者は他の人よりも上だなどと思ってはならないというスタンスに立って信仰者が人々一般とどう関わっていくかということが述べられます。愛は見せかけのものではいけない、悪を嫌悪せよ、善にしっかり留まれ(9節)。お互いに対して兄弟愛を心から示せ、互いに敬意を表し合え(10節)、熱意を持って怠惰にならず、霊的に燃えて主に仕えよ(11節)、希望の中で喜び、困難や試練の中でも持ちこたえ、祈りを絶やすな(12節)、キリスト信仰者が何か足りなくて困っている時、それを自分のこととして受け止めよ、立ち寄る者をしっかりもてなして世話をしろ(13節)、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない(14節)、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け(15節)、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たち者たちと共にいることに熱心になれ、自分で自分を知恵あるものとするな(16節)、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ(17節)、全ての人と平和に暮らすことがキリスト信仰者にかかっているという時は迷わずそうせよ(18節)、自分で復讐をしてはいけない、正義が破られた状況を神の怒りに委ねよ、旧約聖書(申命記32章35節)に書かれているように、復讐は神のすること神が報復するからである(19節)、また箴言25章に書かれているように、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、それをすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになるからだ(20節)。悪があなたに勝ってはならない、善をもって悪に勝たなければならない(21節)。以上の教えがローマ12章にあります。

ここで一つ大事なことを確認します。それは、これらのこと全ては実を言うと、神の国に迎え入れられるためにしなければならないことではなくて、罪の自覚と赦しを繰り返して罪を圧し潰していくと次第にこうなっていくというものです。これらは迎え入れを実現する条件ではなくて、結果としてそうなっていくというものです。神の国に迎え入れられるためにしなければならないこと自体は何かと言うと、罪の自覚と赦しの繰り返しで罪を圧し潰していく信仰の戦いをするということです。この戦いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた時に必然的に生じてきます。なぜなら、罪の償いを神のひとり子に果たしてもらったことは真にその通りですと告白して、洗礼を受けてその償いがその人に当てはまるようになったからです。それ以後は罪の償いがしっかりあるということが真理だという生き方になります。そこでは罪の自覚と赦しが不断に続きます。

先週の説教でも申しましたが、このような他人とのかかわり方は、いくら信仰の戦いから自然に出てくるとは言え、何だかお人好しで損をする生き方に思えてしまいます。特に今の時代は、インターネットやSNSの悪用も手伝って、他人を追い落とすため自分を有利にするために偽りでさえも真実と言ってはばからない風潮です。そんな中で信仰の戦いを戦ってお人好しになっていくのは馬鹿みたいに思われるかもしれません。しかし、先週も申しましたように、神の意思に沿うことをして損をするか、それとも得するために神の意思から外れるかという選択肢に立たされたら、キリスト信仰者はこの世での損は次に到来する世での得になると考える人たちです。

 

4.さてここで、タラントンとは何か、儲けとは何かについてはっきりさせましょう。主人はそれぞれの力量に応じて、たくさん力がある人にはこのようなお人好しをする可能性をたくさん与えたのです。5タラントンの家来はそれ位の可能性を与えられ、見事それに見合う分のお人好しをしました。人々に喜ばれ賞賛されたこともあっただろうが、人間の目から見て損をしたこともあったでしょう。2タラントンの家来も同じようにしましたが、可能性も実績も5タラントンの家来よりは少なめでした。しかし、そのことは神もわかっていて、それでその人にはそれで十分と言ったのです。宗教改革のルターも言っていますが、ある信仰者に多くの試練が与えられるのはその人がそれを背負える力があると神が認めているからそうなのであり、別の信仰者に試練が少ないのは神がその人は多くは背負えないと考えたからだと言っています。ただ、そうは言っても、背負う力があると認めてもらったことは光栄だが、いつまで背負っていなければならないのか心配にもなります。その時は第一コリント10章13節のパウロの教えを思い出します。そこでパウロは次のように教えています。
「神はあなたがた信仰者を見捨てない忠実な方です。あなたがたが自分の力以上の試練を受けることをお認めにはならず、あなたがたが背負うことが出来るようにと試練と一緒に出口も備えて下さる方です。」

5タラントンの家来は多くを背負う力があると神に認められ、それに見合うお人好しの可能性が与えられ、それに見合うお人好しを行って損をし辛いことにも遭遇しました。2タラントンの家来も自分の力に合う分の可能性が与えられ、それに見合う損や辛いことに遭遇しました。これらの損や辛いことは罪を圧し潰す信仰の戦いを戦うことで生じました。だから、神の栄光を増し加えるもので、それこそまさに儲けなのです。神はそれらを「小さな事」と言い、家来はそれに忠実だったと言います。家来は確かに信仰の戦いに忠実でしたが、彼らが遭遇した損や辛いことの全てをどうして「小さい」と言うのでしょうか?それは、将来神の国に迎え入れらえるという光栄を前にしたらこの世で遭遇したことの総体は小さいものとなってしまうからです。そのことについてパウロは第二コリント4章17節で次のように教えています(ギリシャ語原文を意識した訳します)。
「私たちの艱難の一時性と軽さは、神の国の栄光の永遠さと重さに取って替わられるのです。私たちのためにそれが何百倍にもなって取って替わられるのです。」

さらにローマ8章18節でも同じように教えています。
「現在の苦しみは、将来私たちに現われ私たちが与ることになる神の国の栄光を思えば、大したことではないと私は考えます。」

これで、このたとえの主人が言ったこと「お前は小さな事に忠実であった。私はお前をもっと多くの事の上に立つ者にする」は、本当にその通りなのだとわかるでしょう。
翻って1タラントンの家来は神から与えられた可能性を潰してしまいました。神の国に迎え入れられるための用意する生き方をせず、信仰の戦いを放棄してしまいました。両替商に預ければ、何がしかの可能性を用いて何がしかの用意になったかもしれないのに。それでも神はOKと言ってくれたかもしれないのに。神は、彼に与えた可能性は無駄だったとわかり、それを最大限生かせる家来にあげることにしました。まさに、持っている者に与えられ、しかも一層与えられ、持たない者からは持っているものも取り上げられるということになったのです。

 

5.最後に、このたとえについて一つ大事なポイントをお教えします。それはこれも先週の10人のおとめのたとえと同じように警告の教訓話ということです。1タラントンの家来は、愚かなおとめたちと同じように一度はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いを自分のものとしたが、いつしか用意する生き方から離れ、信仰の戦いもしなくなってしまった者です。これらのたとえは、こうした者を断罪するのが目的ではありません。そうならないように、今でも遅くないから心を入れ替えなさい、ということです。そして、先週にも申し上げましたが、まだイエス様が果たした罪の償いを自分のものにしていない人たちに対しても、早くそれを自分のものとして神の国に向かう道を歩み始めなさい、そこに迎え入れられる用意をする生き方をしなさい、ということです。そうすれば、お人好しで損をする人生だと思われたことがそうではなくなり、将来現れる永遠の栄光の重みにこの世の艱難は軽くなるということが真理になるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

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