10月25日(日)聖霊降臨後第21主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2020年10月25日 聖霊降臨後第21主日

レビ記19章1-2、15-18節

第一テサロニケ2章1-8節

マタイ22章34-46節

説教題 「神の最も重要な掟と愛」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 エルサレムでのイエス様と彼に反対する人たちの間の論争が続きます。本日の福音書の箇所の直前に、サドカイ派と呼ばれる党派とイエス様の間で論争がありました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿祭司やユダヤ教社会の上流階層を構成員とする党派です。論争の的となったのは、死からの復活はあるかどうかということでした。サドカイ派は復活などないと主張する派で、これをイエス様は旧約聖書の御言葉に基づいて見事に論破します。その一部始終を見ていたファリサイ派と呼ばれる別のグループ、これはユダヤ教の伝統的な戒律を幅広くできるだけ多く守ろうとする信徒運動です。そのファリサイ派の人たちが集まって、サドカイ派は言い負かされてしまったぞ、自分たちはどうやってあの生意気なイエスを言い負かそうかと相談を始めます。

 そこで、彼らの一人で律法学者も務める者がファリサイ派を代表してイエス様のところにやってきて質問します。「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか?原語のギリシャ語を直訳すると、最も偉大な掟、最大級の掟はどれかと聞いています。つまり最も重要な掟ということです。サドカイ派は、復活という死生観の問題でイエス様に挑戦してあっけなく敗れ去りました。ファリサイ派はユダヤ教の根幹とも言える律法の問題で挑戦してきました。

 なぜこのような質問が出たかというと、律法学者というのは職業柄、ユダヤ教社会の社会生活の中で生じる様々な問題を律法に基づいて解決する役割を担っていました。それで、律法の各掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて教えることもしていました。神の掟である律法は、まず旧約聖書に収められているモーセ五書と言われる律法があります。それだけでもずいぶんな量ですが、他にもモーセ五書のように文書化されずに、口承で伝えられた掟も数多くありました。サドカイ派は文書化された掟しか重んじませんでしたが、ファリサイ派は両方とも大事と考えていました。そういうわけでファリサイ派の律法学者となると、膨大な神の掟を適用することになるので、どっちを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題によく直面したのです。

 「どの掟が最も重要ですか、最大級の掟ですか?」という質問は、そのような背景から出てきました。もし、これが重要だ、と答えたら、きっと、それじゃ他のは重要ではないのですか?掟は全て神が与えたものではないのですか?これが重要で、あれは重要でないという根拠はなんですか?あれだってこれこれの理由で重要ではないのですか?そういう具合に、相手は法律の専門家ですので、答えようによっては反論の山が押し寄せてくるのは火を見るより明らかです。

2.第一の掟

 イエス様の答えは以下のものでした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」

これは、申命記64ー5節で神がモーセを通してイスラエルの民に伝えた掟です。その部分を振り返ってみましょう。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

 神を愛するという時、このように全身全霊で愛するということはどういうことでしょうか?全身全霊で愛するなどと言うと熱烈な恋愛みたいですが、ここでは相手は万物の創造主の神です。天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えられ、御子イエス・キリストをこの世に送られた父なる神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

 その答えは、今みた申命記の掟の最初の部分にあります。「我らの神、主は唯一の主である。」これは命令形でないので掟にはみえません。しかし、神を全身全霊で愛せよ、というのは実は、神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにしなさい、ということなのです。言い換えると、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということです。この神以外に自分の運命を委ねたり、また委ねられているなどと考えてはならない、自分が人生の中で経験する喜びを感謝し、また苦難の時には助けを求めて祈り助けを待つ、そうする相手はこの神以外にあってはならないということです。もしそれでは物足りないと言って、神以外のものに祈りや願いを捧げてしまうと心移りしたことになり、神を全身全霊で愛さなくなってしまったことになります。

 祈りや感謝をささげ願い事や悲しみを打ち明ける相手はこの神しかいないという位に神一筋になることが神を唯一の神としてしっかり保たれるようにすること、それが神を全身全霊で愛することであるとわかりました。このような愛をどうしたら私たちは持てるのでしょうか?このような愛は何もないところから自然には生まれてきません。どこから生まれてくるかと言うと、この神が私たちに何をして下さったかを知ることで生まれてきます。それではこの神は私たちに何をして下さったかのでしょうか?

 神はまず、今私たちが存在している場所である天と地とその中にあるものを造られました。そして私たち人間をも造られ、私たちに命と人生を与えて下さいました。もともと人間は神の目から見てよいものとして造られたのですが、創世記3章にあるように、人間が神に対して不従順になって神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神の創造の世界は様変わりしてしまいました。光で満ちた世界は影が覆うようになり、光は垣間見ることが出来るものになってしまいました。様変わりした世界で人間は神との結びつきが失われて死ぬ存在になってしまいました。人間は代々死んできたように、代々神の意思に反する罪をも受け継ぐ存在となってしまったのです。

 神は人間が自分との結びつきを失ってしまったことを悲しみ、それを復興させるべくひとり子のイエス様をこの世に贈られました。神がイエス様にさせたことは次のことでした。本当だったら人間が受けなければならない罪の神罰を全てイエス様に受けさせて十字架の上で死なせました。まさにその時、神のひとり子が人間に代わって罪の償いを神に対してして下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることを世に示し、そこに至る扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことがまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪が償われたのだから神から罪を赦された者として扱われるようになります。神が罪を赦した者ですから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この結びつきは順境の時も逆境の時も変わることなく絶えず続きます。万が一この世から別れることになっても、復活の日までの眠りの後で目覚めさせられて、朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。

 このように万物の創造主であり人間の造り主である神は、ひとり子を犠牲の生け贄に供することで人間を罪と死の支配から救い出して下さった「贖い主でもあります。このように神が私たち人間にして下さったことがこの世で生きることと次の世で生きることとの双方にまたがる大きなことだとわかると、この方以外に頼れる方はいない、神が唯一の神であるという心になります。これが神を全身全霊で愛そうという心です。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていきます。

3.第二の掟

 以上、天と地と人間を造られた神を全身全霊で愛するとは、この神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることだと申しました。この神に対する愛の掟をイエス様は最も重要な掟であり、「第一の掟」であるとも言いました。これに続けて「第二の掟」もあると言って、「隣人を自分のように愛しなさい」がそれであると述べました。そして、「律法全体と預言者たちはこの二つの掟に基づいている」と言われました。この「基づいている」ということですが、もとのギリシャ語の動詞κρεμαννυμιは「つるす」とか「かける」という意味で、普通はドアの片側に留め具をつけて壁ないし柱にドアを取り付けることを意味します。そういうわけで律法と預言はドアのようなもの、二つの掟はドアが取り付けられる壁ないし柱、これに取り付けられていることでドアはドアの役目を果たします。取り付けられていないとドアはただの木の板にしかすぎません。律法や預言も二つの掟に結びつけられていないと意味をなさないということです。

 イエス様はこの二つの掟は神の掟中の掟である、山のようにある掟の集大成の頂点にこの二つがある、この二つの掟に結びつけられていないと他のものは意味をなさないと言うのです。それでも、二つの頂点にも序列があると言います。まず、神を全身全霊で愛すること、これが最も重要な第一の掟。それに続いて隣人を自分のように愛することが第二の掟としてある。これから明らかなようにキリスト信仰においては、隣人愛というものは神への全身全霊の愛としっかり結びついていなければならない、この神への全身全霊の愛に隣人愛は基づいていなければならないのです。

 普通、隣人愛という言葉を聞くと、苦難困難にある人を助ける支援活動を思い浮かべるでしょう。ところが、苦難困難にある人を支援するという形の隣人愛は、これはキリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていてもまたは無信仰者・無神論者にも出来るものです。このことは日本でも災害の時にボランティアの支援活動が積極的に行われることから明らかです。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛には他の隣人愛にはないものがあります。それは、キリスト信仰の隣人愛は神への全身全霊の愛に基づき、それに結びついているということです。神への全身全霊の愛とは先ほど申し上げましたように、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、これも申し上げたように、この神が自分にどれだけのことをして下さったかをわかるようになった時です。そういうわけで隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行いが神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかを吟味する必要があります。もし、別に神なんかいろいろあったっていいんだとか、聖書の神も数多くあるものの一つだと言った場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということにはなりませんが、しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別のものになります。

 それから、隣人愛は人道支援に尽きてしまわないということも大事です。イエス様は、重要な掟の二番目に隣人愛があると教えた時、それを本日の旧約の日課レビ記1918節から引用しました。そこでは、法律的な問題ではえこひいきをしてはいけない、正しい決定をしなければならないという正義の問題に加えて(15節)、人間関係の在り方についての神の命令が言われていました。相手を誹謗中傷してはいけない、生命に危険を及ぼすようなことをしてはいけない(16節)、心の中で罵ってはいけない、相手の罪は罪としてたださなければならない(17節)、たとえ害を被っても復讐をしてはならない、怒りや憎しみを燃やしてはいけない(18節)、そういったことを全部ひっくるめて「隣人を自分のように愛せよ」と神は命じます。つまり、隣人を自分のように愛せよと言う時の愛の内容がここで具体的に言われているのです。

 ここで一つ目に留まることがあります。それは、心の中で罵ってはいけないということは、イエス様が山上の説教でも教えているということです(マタイ522節)。このことからもわかるようにイエス様は自分の教えを旧約聖書に基づかせているのです。イエス様は、たとえ殺人を犯さなくても心の中で罵ったら同罪であると教えますが、神は本日の使徒書の日課第一テサロニケ24節でも言われるように、人間の心の中までを見通される方です。それなので、行為や言葉のように外に現れるものだけでなく心の中まで見られたら誰も神の前で大丈夫と言える人はいなくなってしまいます。このように旧約聖書に基づくイエス様はとても厳しいのです。要求度が高すぎて人間には無理です。しかし、イエス様は神が完全であるように私たちも完全であるようにと命じます(マタイ548節)。本日の旧約の日課でも神が神聖な方である以上は私たちも神聖なものでなければならないと命じるのと同じことです(レビ192節)。

 イエス様は私たち人間に無理難題を押し付けているのでしょうか?イエス様は神聖な神の意思とはこれくらい厳しいものだと教えましたが、同時に人間がそれをその通りに守り実現することは無理であることもわかっていました。神のように完全で神聖な者になれないと、神の前で大丈夫な者にはなれず、この世でも次の世でも神と結びつきを持って生きることはできない。しかし、それは人間には無理である。まさにそれだから、イエス様は十字架にかかったのでした。まさに、神のひとり子の犠牲に免じて人間を赦すという状況を生み出したのでした。このおかげで人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって神との結びつきを持てて生きることが出来るようになったのでした。

4.新約とは旧約の正しい理解である

 一般にイエス様という方は、厳しい戒律的なユダヤ教に比べたら慈愛に満ちた優しい方というイメージが持たれるのではと思います。しかし、そのような対比の仕方は間違っています。これまで見てきたことから明らかなようにイエス様は厳しいくらいに旧約聖書に基づいています。それがあるから十字架と復活の出来事があったと言ってもいいくらいです。ではなぜユダヤ教と違うように見えるのかと言うと、イエス様が違っていたのは実は旧約聖書ではなくて、当時の旧約聖書の理解や解釈と違っていたということです。そうした理解や解釈にしがみついていた人たちと違っていたということで、イエス様自身は神のひとり子で神の意思を体現した方だったのでその彼が旧約聖書を正しく理解していたのです。そういうわけで、キリスト教の観点で言えば、旧約聖書という神の御言葉の集大成はイエス様を通して正しく理解できるのです。その正しい理解が形になって現れたのが新約聖書と言ってもよいと思います。

本日の個所の終わりの部分で、メシアは誰の子かという質問がありました。これも同じです。当時の人々の理解では、メシアはダビデの子孫ということになります。その意味することは、ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放してこの地上に神の国を建設し、諸国民は神を畏れ敬ってこぞってエルサレムの神殿に参拝に集まって来るという理解です。つまり、メシアとは民族の解放者の王様という理解です。しかし、イエス様は詩篇110篇の聖句に基づいて、ダビデがメシアのことを自分の主であると言っていて、その方は神の右に座す者である以上、地上の特定民族の王様ではありえないと指摘します。このメシア理解は、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前の段階では誰にとっても理解不可能なものでした。しかし、十字架と復活が起きた後で、メシアとは人間を罪と死の支配から解放する救い主であるということがわかり、イエス様がその方であると明らかになったのでした。

5.おわりに

 本説教で、私たちは神からどれだけ愛されているかがわかって、神を愛することができ、それに基づいて隣人愛もわかるようになるとお教えしました。それを言い表した聖句ヨハネの第一の手紙49ー11節を最後のお読みして本説教の締めとしたく思います。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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