10月11日(日)聖霊降臨後第19主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

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主日礼拝説教 2020年10月11日 聖霊降臨後第19主日

イザヤ25章1-9節

フィリピ4章1-9節

マタイ22章1-14節

説教題 「神が差し出すものを受け取れば人生の方向が見えてくる

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は難しいでしょうか簡単でしょうか?字面を追って行けばこういうことです。王様が王子の結婚式の祝宴を催した。招待した人たちに用意出来ましたのでどうぞと言ったのに彼らは来ないばかりか使いの者に乱暴して殺してしまったりする。怒った王様は軍隊を送って彼らを町ごと焼き討ちにしてしまう。王様は家来に命じて町で見かけた者は誰でもいいから連れて来いと言い、それで祝宴の席は一杯になる、これでめでたしめでたしかと思いきや、来賓席の中に間違った服装の者がいて、その人は手足を縛られて外に放り出されてしまう。以上のようなことです。字面を追えば書いてあることはわかります。本日の旧約の日課イザヤ書25章では「主はこの山ですべての民の顔を覆い包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし」なんてのがあり(7節)、これは字面を追ってもなんのことかわかりません。それに比べたらイエス様の話は具体的でわかりやすいです。

それではイエス様はこのたとえで何を教えようとしているのか?偉い人から招待を受けたらちゃんと応じなさい、招待席に着く時はドレスコードをちゃんと守りなさい、さもないととんでもないことになるよ、ということでしょうか?イエス様がたとえを使って「神の国」について教える時、登場する王様とか主人は決まって天地創造の神を意味します。招待をすっぽかした人たちを焼き討ちにしたり、服装を間違えた人を縛って追い出すような神を誰が信じたいと思うでしょうか?

しかしながら、イエス様が教えようとしていることは、そういう字面から浮かび上がることでは全くありません。聖書の文章を理解する時は、もちろん字面の理解が大切なことは言うまでもありませんが、その文章がある流れ、文脈、コンテキストを踏まえて問題となっている文章を見ないと、さっきのような神はひどい方という理解に留まります。しかし、文章上のコンテキストだけではまだ足りません。コンテキストのさらなるコンテキスト、つまりマタイ福音書を書き上げた「マタイ」の観点と彼の観点の土台にある使徒たちの観点を踏まえないと文章の理解に到達できません。さらにイエス様自身の観点も考えなければなりません。なぜなら使徒たちの観点はイエス様の観点を土台にしているからです。そして、イエス様の観点を知るためには旧約聖書の観点を知らなければなりません。

このように、聖書を理解するというのは途方もないことです。説教者は本当に持てる力を最大限駆使して祈りながら説教を準備します。「父なるみ神よ、イエス様がおっしゃりたいことはこれで宜しかったでしょうか?間違っていたら、わざとやったことではないのでどうか赦して下さい。

説教者はそのように準備しているのですから、礼拝に出席する人は説教者の真摯さ誠実さをくみ取って、それなりの敬意を持って聴くべきだと思います。これは私にそうしろと言っているのではなく、一般的に説教者について言えることです。

それから「観点」と申しましたが、これも一筋縄ではいかないものです。ある人は、マタイの観点はこれだ、と言い、別の人は、これだ、と言う。いろんな見解や学説があります。教派によっても違ってきます。私の場合は、ルター派の保守的な立場に立って、いろんな「観点」を捉えていく立場ですので、その点はご了承ください。

2.このたとえを反対者の耳で聞かない

 それでは、イエス様はこのたとえで何を教えようとしているのでしょうか?いろいろな人物が登場します。結婚式を祝われる王子と、その祝宴を準備する王様がいる。招待客を呼びに行かされる家来たちがいる。もともと招待されていたのに出席を拒否した者たちがいて、招待されていなかったが新たに招かれて出席した人たちがいる。出席した人たちの中で相応しい服装をしていなかったため祝宴から追い出されてしまった人もいました。これらの人たちは一体何をたとえているのでしょうか?

 まず、このたとえがどういう流れの中で話されたかを見ます。イエス様は自分の教えや活動に反対する人たち、ユダヤ教社会の宗教エリートたちを前にして話しています。はじめに、父親と二人の息子のたとえを話します。先々週の説教の個所です。一人は父親にブドウ畑に行って仕事するように言われ、最初は行かないと行ったが思い直して行った息子。もう一人は行くと言ったけれども行かなかった息子の話。それをイエス様は自分で解き明かしして、最初の息子は、罪を悔い改めて神の方に方向転換して生きるようになった元罪びとたち、二番目の息子は悔い改めも方向転換もしない宗教エリートたちであると言います。将来「神の国」に迎え入れられるのはお前たちではなく元罪びとたちだと言って、宗教エリートたちを手厳しく批判します。

 その次に「ブドウ畑と雇われ農夫」のたとえを話します。先週の説教の個所です。ブドウ畑の所有者が収穫を届けさせようと僕を送ったが農夫たちは応じない。最後には所有者の息子が送られたが、農夫たちは殺害してブドウ畑を自分たちのものにしようとしたという話でした。それを聞いていた宗教エリートたちはそんな農夫たちは処罰されるべきでブドウ畑は相応しい農夫に委ねられるべきだと言い返します。その時イエス様は、それはお前たちのことでその言葉通り「神の国」はお前たちから取り上げられてユダヤ民族以外の民族に与えられると言います。これも宗教エリートたちに対する痛烈な批判でした。

 そして今日の「王子の結婚式の祝宴」のたとえが来ます。このたとえは解き明かしはつきません。しかし、宗教エリートたちはこれも自分たちに対する批判と理解しました。それで彼らはイエス様を当局に訴えるための策を話し合ったのです(15節)。最初と二番目のたとえをもとにすれば、「王子の結婚式の祝宴」の王は紛れもなく天地創造の神です。それで王子は神の子です。家来や相応しくない服装をした者が誰を指すかは不明ですが、招待を拒否して滅ぼされてしまう者たちは最初の二つのたとえからすれば、どうも自分たちに向けられているとエリートたちは感じないではいられなかったでしょう。

このように、このたとえを字面で読むと王の仕打ちが厳しすぎると感じられるのは、これが宗教エリートに向けられた批判という面があるからです。しかし、それは一つの面でこのたとえには他の面もあります。イエス様は広く一般的な真理を述べていて、反対者には厳しく聞こえるが、そうでない者には違って聞こえるのです。どう聞こえるでしょうか?それは、「万物の創造主である神が全ての人間に対してどうぞ受け取りなさいと差し出しているものがある。それを受け取ると人間はこの世を生きることに目指す方向が明らかになり、生き方や姿勢もそれに倣ったものになる」ということです。このたとえを読んで、そんなふうに全然聞こえないと言われるでしょう。しかし、実はそういうことなのです。そのことを以下に見ていきましょう。

3.「神の国」、終末論、新しい創造

最初にこの祝宴は何を指すのかを見てみます。それがわかれば、家来や相応しくない服装をした者が誰を指すかもわかります。

この祝宴はまさに「神の国」を意味します。「天の国」、「天国」とも呼ばれますが、ここでは「神の国」でいきます。「神の国」については先週の説教でもお教えしました。聖書にはよく知られるように、終末論と新創造の観点があります。今ある天と地はかつて創造主の神が造ったものだが、それはいつか終わりを告げて神は新しい天と地を創造し直すという観点です。今は目には見えない、手の届かないところにある「神の国」が新創造の時に唯一の国として現れ、最後の審判をクリアーした者たちが朽ちない復活の体を着せられてそこに迎え入れられるというのです。

「神の国」は黙示録19章にあるように「結婚式の祝宴」にたとえられます。花婿は再臨の主キリスト、花嫁は「神の国」に迎え入れられた人たちの集合体です。「神の国」が祝宴にたとえられるのは、そこに迎え入れられた人たちがこの世での労苦を全て、ああ、そんなこともあったな、としか思えなくなる位に労われるまさに至福の場だからです。さらに黙示録21章を見ると、「神の国」で神は迎え入れた人たちの涙を全て拭われると言います(4節)。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。つまり、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が神の決済で最終的に完全に決着するということです。最後の審判があるのはそのためです。

黙示録を知っている人ならイエス様のたとえで「結婚式の祝宴」なんて聞いたら、すぐ、あっ、神の国の到来と迎え入れられた人たちのことを言っているとわかったでしょう。しかしながら、イエス様がこのたとえを話したのは、まだ彼の十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。黙示録をはじめ新約聖書の書物が記されるのはまだ先のことです。当時の人たちにはまだ旧約聖書しかありません。このイエス様のたとえを聞いて、彼らは王子の結婚式の祝宴が「神の国」のことを言っているとわかったでしょうか?

 答えは、ひょっとしたらわかったかもしれないし、わからなかたったかもしれない、です。分かったかもしれないと言うのは、旧約聖書にも将来到来する「神の国」が何か祝宴に例えられるということがあるからです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書25章がそうです。6節で祝宴について言われます。8節を見ると、神が祝宴の席につく全ての人たちの涙を拭うことが言われています。キリスト信仰者が見たら、あっ、「神の国」について言っている、とわかります。8節ではまた、神は死を永久に滅ぼすと言っています。ヘブライ語の原文は「死を永久に飲み込む」とも訳せます。使徒パウロは第一コリント1554節で「死は勝利に飲み込まれる」と言っています。彼がイザヤを引用しているのは明らかです。実はこの第一コリント15章というのは、復活の日に着せられる体、この世で着ている肉の体とは異なる朽ちない「復活の体」について教えるところです。パウロがイザヤ25章を念頭に置いているとわかれば、257節の不可解な個所「すべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし」というのは肉の体に替えて復活の体を着せられることを意味していることがわかります。ここのヘブライ語の原文の趣旨も「全ての人間を覆っている表面部分を一掃する」という意味です。つまり、肉の体の一掃です。

 旧約聖書に言われているのならば、新約聖書を持たない当時の人たちでも「神の国」だと理解できたかと言うとやはりこころもとない面もありました。というのは、イザヤ書25章に限らず旧約聖書の預言は聞く人読む人の置かれた時代状況の都合にあわせて理解されてしまうからです。イザヤ書25章の場合、預言者イザヤが活動した紀元前700年代の状況の真っ只中で聞いたら、これはユダ王国がアッシリア帝国の攻撃を撃退して勝利の凱歌を上げることを預言していると受け取られたでしょう。それは実際ヒゼキア王の時にその通りになりました。しかし、ユダ王国はその100年少し後でバビロン帝国の攻撃を受けて滅びてしまいました。捕虜になった人たちからすれば、この預言は祖国帰還と国の復興を預言するものと受け取られたでしょう。それは実際に紀元前500年代の終わりにその通りになりました。

 しかしながら、ユダヤ民族の苦難の歴史は祖国帰還後も続きました。それで、この預言は本当はまだ実現していない、本当に実現する時は「死が永遠に滅ぼされる」が単なる修辞文句ではなく、本当に文字通り死が滅ぼされることが起こるのだと信じられるようになります。そう信じたのはユダヤ民族の多くではありませんでしたが、でもこれが神の意思と計画を正確に把握していたことになります。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場して、彼の十字架の死と死からの復活の出来事が起きたのです。復活した主を目撃した人たちは、彼を通して死が永遠に滅ぼされたとわかりました。それで旧約聖書が終末論と新創造の観点で輝きだし、彼らは新約聖書の書物を書き記していったのです。そういうわけで、旧約聖書と新約聖書を結び付けているのは終末論と新創造の観点であると言っても過言ではないでしょう。

4.神が人間に差し出して下さっているもの - 福音

イエス様のたとえに出てくる王子を神の子、つまりイエス様本人だとすると一つ疑問が起きます。それは、この神の子は何もしないのです。前の「ブドウ畑と雇われ農夫」のたとえでは所有者の息子が殺害されると言って、神の子イエス様が十字架にかけられることを暗示していました。祝宴のたとえでは何もしないでただ嬉しそうにニコニコ座っているだけなのでしょうか?

ところが、目をよく見開いて読むと神の子の働きはちゃんとたとえの中にあることがわかります。王は招待客への伝言として「食事の用意が整った。牛や肥えた家畜を屠って、すべて用意ができた」(4節)と言います。最初の招待が頓挫した後、王は家来に「婚宴は用意できているのだが」とこぼします。このように「用意できている」という言葉が繰り返されます。これは、神の人間救済計画が実現したということ、人間の救いは神の側で全て整えられて準備できたということを意味します。イエス様は十字架の上で息を引き取られる直前に「全てのことが成し遂げられた」(ヨハネ1930節)と言われました。成し遂げられた「全てのこと」とは、神の人間救済計画の全部を指します。

神がイエス様を用いて人間救済計画を全部実現されたということは本教会の説教でも毎回お教えしている通りです。人間は堕罪の時に神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで神との結びつきを失った状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。神は人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにと、またこの世を去った後も復活の日に復活の体を着せて永遠に神の国に迎え入れられるようにと、そのためにひとり子のイエス様をこの世に贈られます。そして、人間が本来受けなければならない罪の神罰を彼にゴルゴタの十字架の上で全部受けさせて人間の罪の償いをさせます。それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、この罪の償いがその通りに起こります。罪を償われた以上は神から罪を赦された者として扱われるので、神との結びつきを持って生きられるようになるのです。それはこの世においてだけでなく、次に来る世においてもそうなるのです。

そういうわけで、たとえに出てくる家来たちというのは、イエス様の十字架と復活のおかげで人間の救いが準備できたという知らせ、まさに「福音」を宣べ伝えた使徒たちや伝道者たちを意味します。福音ははじめ旧約聖書を持つユダヤ民族に伝えられました。ある者はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けますが、そうならない者も多く出てしまいました。ユダヤ民族の首都エルサレムは紀元70年にローマ帝国の大軍の攻撃にあい灰燼に帰してしまいます。たとえの中の町の焼き討ちはその預言だったのです。他方で、福音はユダヤ民族以外の異邦人にも宣べ伝えられていき、こうした異邦人出身のキリスト信仰者がキリスト教会の主流になっていきます。まさに、家来たちが王の命令に従って至るところで見つけ次第人を招いたように、伝道者たちは人種民族に関係なく宣べ伝えたのです。それが天地創造の神の意思だったからです。「わが子イエスの犠牲によってお前は罪を赦された者となり、私と結びついてこの世を生きる者となる。復活の日には私の国に迎え入れられる者になる。お前はこれを信じるか?イエスをお前の救い主として受け入れるか?」そう神は全ての人に言われ、この福音を受け取りなさいと全ての人に差し出されているのです。

善人も悪人も皆招待したと言うのは、人をみかけで選り好みせずに招待したということです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら最後、悪人は悪人でいられなくなります。善人も善人でいられなくなります。みんな神の尺度で変えられていきます。みんな変えられた者として祝宴の席につくのです。

4.心は十字架と「神の国」を向き、体はなすべきことを相応しくなす

それでは福音を神から受け取った者はどう変えられるのでしょうか?キリスト信仰者になったとはいっても、この世にいる限りはまだ朽ちる肉の体を纏っています。それで神の意思に反することがいろいろ出てきます。信仰者になれば神の意思というものに敏感になるのでなおさらです。洗礼を受けても自分は完璧な人間になっていないことを思い知らされることが沢山出てきて、洗礼なんか意味はなかったなどと思う人も出ます。しかし、それは大いなる勘違いです。キリスト信仰者が罪の意識を持つ度に信仰者の内に宿る聖霊は心の目をゴルゴタの十字架のイエス様に向けさせます。そこで神は「イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦されている。だからこれからは罪に足をすくわれないように気をつけなさい」と言われ、神と信仰者の結びつきは失われずにしっかりあると教えてくれるのです。罪以外のことでも心が打ち砕かれて神との結びつきがなくなったように感じられる時も同じです。洗礼を通して与えられた神との結びつきは、自分から脱ぎ捨てない限り消えることはありません。結びつきが失われていないということを確認できる地点に導くのが聖霊の仕事です。聖霊は洗礼を通して与えられるのです。

このようにキリスト信仰者はゴルゴタの十字架のもとに戻ることを絶えず繰り返しながら前へ進みます。目指しているのは復活の日の神の国への迎え入れです。そのように言うと、キリスト信仰者というのは心は過去の十字架と将来の神の国だけに向けられて、その間にあることには向かないのか?この世にはしなければならないことが沢山あるのに、それはどうでもいいのか?と言われるかもしれません。そういうことではありません。もちろんキリスト信仰者もこの世でしなければならないことをします。仕事があり、世話をする人たちがあり、戦う病気があり、仕事がなければ探すこと等々しなければならないことは沢山あります。キリスト信仰者は世捨て人ではありえません。ただ、しなければならないことをする際の仕方、姿勢が決まっているのです。どんな仕方、姿勢でしなければならないことをするのかと言うと、パウロが一つの例としてローマ12章で教えています。高ぶるな、自分を賢い者とうぬぼれるな、身分の低い人と交われ、悪を憎み、誰に対しても悪に悪を返せず、全ての人の前で善を行え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け、自分では復讐せず神の怒りに任せよ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ等々です。

これらのことは、キリスト信仰者ならこうしなければならない、出来ないと失格というような、神に認められるための条件ではありません。そうではなくて、もう既に神に認められた者なので十字架に絶えず戻りながら神の国に向かって進むことをすると、結果としてそういう生き方、姿勢になっていくということです。だからキリスト信仰者は、心は十字架に戻ること神の国を目指すことで一杯にして、体はこの世でしなければならないことをしていけばいいのです。そうすればパウロが教えるような仕方、姿勢でするようになっていくのです。自分でも気がつかないうちにそうなっていきます。

そういうわけで、祝宴の席で相応しくない服装を着ていた者というのは、かつて洗礼を受けていたのに、十字架に戻りながら神の国を目指すことをしなかった者ということになります。洗礼を通して頂いた神からの贈り物を捨ててしまったのです。洗礼を受けたら何が何でも大丈夫ということではないのです。しかし、十字架に戻りながら神の国を目指してさえいれば、何も心配はありません。祝宴の席で全ての涙は拭われて大いなる労いを受けます。それこそ、嬉しそうにニコニコ顔で座っているイエス様と一緒に座れて心は感謝と喜びに満たされるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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