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歳時記

早稲田の新会堂の近況です。近況と言っても先週の水曜日でしたので現在はガラスなども入り更に進んでいると思います。エアコンも決まり月末の竣工に向けて休み明けから一気に進むはずです。

 

 

 

 

説教:木村長政 名誉牧師

 

コリント信徒への手紙  第1  9章8~12章 

                                              2019年8月4日(日)

 

 私の説教では、コリント信徒への手紙を学んでまいりました。

 今日は9章8~12節までです。

 今回のテーマは、「働いたら、報酬を受けるのは、当然ではないか」ということです。

 パウロは、この事を、モーセの律法のことを引き合いに出してまで言っています。

 8~9節を見ますと、「わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。」 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。この事は私たち人間のためにも言われていることではないか、と言って、耕す者が望みをもって耕し、脱穀する者が、分け前にあずかる事を期待して働くのは、当然です。ましてや、このことは、神様のために働いている、伝道する者についても、言われているのではないでしょうか。

 パウロが、この報酬のことについて、これまで、どうしても言っておかねばならない、と思ったからでしょう。

 実は、コリントの教会内で、パウロへ批判の言葉をいろいろ言う者がいて、「パウロは、報酬のために伝道していたのではないか」というふうな、悪口として言われていたらしいのです。

 パウロはこれに大変憤慨して言っていくのです。「人が働いたら報酬を受けても当然である。」

 けれども、パウロは言う。「報酬のために伝道している人はいないのだ。」

 パウロ自身は報酬を受けてはおりませんでした。しかし、報酬を受けている伝道者のために弁明しているわけであります。

 パウロの本心は、「福音を宣べ伝える、ということは、どういうことか」ということを教えようとするのです。そうしながら、福音の性質を示したいのであります。

 大部分の伝道者は教会から、報酬を受けているかも知れません。

 しかし、報酬のために、伝道している人はいないのです。

 福音というのは、神の恵みによって、救われる事であります。それならば、伝道者の生活の仕方が、それを誤解させることもありましょうし、正しく知らせることも、できるでありましょう。

 パウロは、そのためにこれを書いているのであります。

 人は、どんな事についても、報酬を求めるものではないでしょうか。

 パウロはすでに9章7節で、パウロ流の例を次々と上げています。

 自分で費用を出して軍隊に加わる者があるでしょうか。軍隊に加わるとは命を投げ出していくことでしょう。

 ぶどう畑に行く者は、その実を食べることではないでしょうか。

 羊を飼えば、羊の 乳を飲むことでしょう。

 そして更に、モーセの律法のことを引き合いに出しました。

 モーセの時代だけの事でなく、このことは、自分たち伝道する者についても、言われていることではないでしょうか。

 自分たちが、霊のものを与えたならば、肉のものを返礼として返すのが、あたり前のことではないでしょうか。

 実はその事こそ、もっと大切なことであるはずです。

 しかし、それならば、そういう報酬を求めて、働いているのでしょうか。

 断じて違う、とパウロは叫びたいのです。伝道者もほかの商売と同じことをしようとしているのでしょうか。

 断じてちがうのだ。

 信仰のある者は、当然、自分の力で得たものすら、神の恵みとして受けとるのではないでしょうか。

それどころか、報酬を受けるこの体、この心も、神から与えられたものであるはずであります。

 それならば、ここに、人間の権利のように書かれている事は、実は、神のご配慮を語っているのです。

 穀物をこなして働いている牛は、権利の事など、考えていないはずです。

 それは、神が、その事をお望みになるのであります。

 それなら、神のお望みにあるのと、人間とを、同じように扱う事は、できないはずであります。

 つまり、もう、神の霊の世界の事柄です。

 人間には、そのような権利が与えられているように見えます。人が働いた分、報酬を受けてもいい権利がある。

 そのように言えるでしょうが、実は、それも神から与えられているにすぎません。

 ですから、人間は、そういう要求めいたものを持ちながら、無償の働きを尊いものとするのではないでしょうか。何も要求せずに、人のため、働く事こそ望ましいと、考えるのではないでしょうか。実にりっぱなことです。

 しかし、現実には、例えば教会の牧師は、無償の働きで、何も食べずには、生きていけません。

 パウロは1人身で伝道しました。それに、自分で食う分は、自分で他に働いて生活して、その上、伝道していきました。

 教会の牧師の中には、独身者ばかりではありません。

 教会のほとんどの牧師は、牧師夫人と2~3人位の子供、といった、家族を養っていかねばならない。食べるだけの牧師の給料では、子供の教育、教養、文化的な生活は、ほとんどできません。 

 現実の教会の牧師給の一覧表を見たら、とてもなげかわしい、きびしいものです。

 パウロは申します。

 人が働いた分の報酬は当然受けるものである。

 伝道者は、報酬を得ようと、福音の伝道のために働いているのではない。

 ただただ、主に召されて、すべてを神様の恵みのうちに、ゆだねきって、生かされていくのであります。主が共にいて下さる希望があるのです。

              <アーメン・ハレルヤ>

 

 

歳時記

この教会に来始めたころからこの窓際の席が気に入り以来たびたびここに座っていました。ある日いつものように空を見ていたら空の色が紺碧に見えていました、こんな色の空は3000m級の山でしか見られないと思っていましたので内心驚きでした。しかしその後二度と見ることはありません。来月からは新教会に移動ですこの窓からの景色も二度と見ることがないでしょう、残念!

説教:田中良浩 牧師

 

 聖霊降臨後第7主日(スオミ教会 2)         2019728

創世記18114、コロサイ12129、ルカ103842

説教「神に聴き続ける」

                              田中 良浩

序 父なる神とみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!

 

1 私たちが毎週、用いている聖書日課は、ご存じのように3年周期のABCと呼ばれる

 聖書日課をもっている。ご存じのようにAでは主としてマタイによる福音書を用い、

 Bでは主としてマルコによる福音書、そしてCではルカによる福音書が用いられる。

 ヨハネ福音書はAB、そしてCに分散して用いられている。

 これらの聖書日課によれば、いずれも前半の暦、大体一年の半分は「キリストの出来事」(待降節、降誕節、顕現節、四旬節、そして復活節)である。ここで私たちはこの日課を 通して、主イエス・キリストによる救いと恵みの出来事を学ぶのである。

 続いてその後の暦、一年の後半は、聖霊降臨の出来事、つまり教会の誕生以降、「教会とは何か、そこでの教会生活、信仰生活とは何か

を学ぶのである。言い換えれば、

神の救いと恵みの中で、私たちは「如何に生きるか?」を学ぶのである。

 

 ちなみに今日の詩編15編は冒頭で語っている。

 「どのような人が、神の幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか?」と。

 つまり、ここに語られている「神の幕屋」とは何か?

 ◎それは神の家つまり、神の教会、キリストの教会であり、私たちの教会である。

 ◎使徒パウロによれば、私たちは「神の宮」であるから、私たち自身そのものを意味している。そこで私たちが「日々、如何に信仰に生きるか?

ということである。

 

 

2 私たちの家庭では、十数年来、全ルーテル教会共同で発行している「聖書日課」を用い 

 て毎朝、夫婦で礼拝をしている。私たち夫婦の場合には、家内が当日の聖書を読み、私が

 聖書日課の黙想を読んで、お祈りをしている。またその聖書日課には、その編集委員会が

 選んだ教会名が記されていて、祈りの対象として選ばれている。

 ◎このことはこの聖書日課を通して、主のみ言葉に聴き、祈ることができるからである。

 ◎同時に、記されている教会の宣教のために祈る機会が与えられている。―それがたと  

  え、知らない教会であっても―その教会のために祈ることは大切である。

  ちなみに、先々週、7月16日(火)は、 

  聖 書 = コヘレト12章 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を止めよ。」              

  教 会 = このスオミ教会であった!

                    1

3 今日は、使徒パウロの教えに耳を傾けたい。

コロサイ1章21節~22節には、このように記されている。

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。

しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と。

 そしてパウロは続いて言います、「(あなたがたは)揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」と力強く教えます。

 

  使徒パウロは、コロサイにある小さな群れに、獄中から手紙を書き送った。

  1. コロサイ地方はAD60年頃の大地震により、大きな被害を受けた。周辺の諸都市の

   復興は早かったが、コロサイは発展、繁栄からは取り残された小さな都市であった。

   その地域にあるコロサイ教会は、決して大きな群れではなかったであろう。

地震からおよそ20年後、その小さな群れを励ますために書き送られた手紙であろう。それゆえ、1章冒頭、まず「信仰、愛、希望」という言葉が記される。

 

  1. こうした混乱と閉塞感のただよう状況下で初代教会特有の異端の教えであるグノーシス(哲学者プラトンの影響を受けた霊肉二元論等の教え)や宗教的なタブーや迷信、また哲学的な教えに取り囲まれていた。こういう社会的な状況、宗教的な潮流の中にいる群れに、使徒パウロは信仰的に元気を回復し、励ますように「信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れてはならない」と強く語るのである。

 

  1. さらに積極的に「神の秘められた計画」―異邦人伝道―についての言及もある。

   この言葉には大きな意図と、使徒パウロの計り知れない希望が込められている。

 

   現代社会に生きている私たちの教会の現状は、2000年後であっても、同じである!いやむしろさらに悪化していると言えるであろう。

また、このスオミ教会も決して大きな群れではない。むしろ大きな世界都市東京の小さな群れである。この群れが、新たな宣教、伝道と牧会のために、早稲田へと旅立とうとしている。そのために、しっかりと、み言葉に立つ必要があるのである。

   <ルーテル教会は伝統的に、そして現在も“みことばに立つ教会”だからである。>

 

 

4 さて、今日の福音書は有名な、「マルタとマリア

の物語である。

 ◎福音書記者ルカの記す、主イエスの伝道の時間的、地理的な経過を見ると、その足跡は現代に生きている私たちからすれば、遠くて想像を絶する。

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ガリラヤの湖に近い町々で、神の国を宣べ伝え、弟子たちとフィリポ・カイザリアへ

行き、そこで弟子のペトロが「あなたこそ生ける神の子、キリストです」との信仰告白をした。(ちなみにガリラヤからフィリポ・カイザリアの距離は50キロ~60キロ以上)。

再びガリラヤに戻り、主はご自身、受難と復活の予告をされたのである。

そこからサマリアを経て、エルサレム近くまで来られたのである。そして弟子たちをさらに72人を町々、村々に派遣し、弟子たちと共に伝道を日々を過ごした。

  (ガリラヤの湖周辺からエルサレムまで直線距離は170キロ、歩く行程では200キロ)

主イエスと弟子たちは、心身ともに疲労は頂点に達していたに違いない。

 

 ◎主イエスが入られたのは、エルサレム近郊のべたニアという村であった。

  そこにはマルタ、マリア、そしてラザロのイエスを愛する兄弟たちが住んでいた。

 

  ◎姉のマルタは、宣教のために疲れも極度に達していた主イエスと弟子たちのために

   できる限りの食ベ物をもって、一行に奉仕しようとした。それがマルタの出来る

   最善の奉仕であった。そのおもてなしのマルタの姿に私たちからも異論はない。

  

   一方妹のマリアは、主イエスの足元に座って語られる言葉に聴きいっていた。

   私の推察するところ、マリアの心は大きな喜びに満たされていたであろう!

 

  ◎しかしこういう主イエスをお迎えした姉妹の全く相反する姿に、マルタは我慢が出来なかった。

   直接主イエスに進言した。

   「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と。

 

  ◎しかし、「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と。

   ここで奉仕の本質を学ぶことは、重要である。自らしている奉仕を、他者がたとえ

   無視していても、関わらなくとも異議を申し立てないことである。またその意図に反して他者を巻き込まないことである。そうすることで行っている素晴らしい奉仕は本質と目的を失ってしまうであろう。

   「忙しい、孤独の奉仕、助けを必要とする奉仕」を訴えたマルタに、主イエスは

「あなたは思い悩み、心を取り乱している」と語られたのである。

    <まさに「忙しいとは、心を亡くすこと」>である。

 

                   3

   ◎そして主イエスは言われた、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

    

主イエスは、この主の言葉を聴くマリアの姿こそ、何物にも代えることのできな  

い主イエス・キリストに従う者の姿であると明言されたのである。

    ここで私たちは如何なる状況にあっても、このマリアのように、神の言葉を日々聴き続けることの大切さを学ぶのである。

 

    皆様は、この「マルタとマリアの物語」をどのようにお思いになるであろうか?

    主イエスのお言葉、「必要なことはただ一つだけである!」について:-

 

 

    私は聖書から一つ、二つの関連する聖句を思い起こす。

  1. 荒れ野で40日、40夜の断食の後、最初に語られた言葉である。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ、一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)=これはすでに申命記8:3で語られている。

 

      ※私はこのみ言葉から

       神さまが与えてくださった救済史(それはこの世における私自身の救いの歴史と生活である)において、中心であり、本質であるものは、旧約聖書から新約聖書を貫いて、それは神の言葉である。

 

  1. 使徒パウロの言葉

   「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち

   救われる者には神の力です」(Ⅰコリント118)。

 

       ※これは使徒パウロの信仰告白であった。また同時に私たちの信仰告白として覚えたい!

 

    ◎人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思い   

     を、イエス・キリストにあって守ってくださるように。アーメン。

説教:田中良浩 牧師

 

聖霊降臨後第6主日(スオミ教会 1)        2019年7月21

申命記30114、コロサイ1114、ルカ102537

説教「心は神に、手は人に

 

                             田中 良浩

 

序 父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!

 

1 教会の礼拝では伝統的に詩編を用いている。

 礼拝における賛美のためであり、またその主日の主題を理解するためである。

 ちなみに今日の詩編25編の4節で、イスラエルの王ダビデは「主よ、あなたの道を私に示し、あなたに従う道を教えてください」とある。

 

ちなみに多くの人々が、自動車、飛行機、船等を利用して日本や世界を旅行しているがそれは道路標識、電波標識、あるいは航路標識が設置されていて自動車、飛行機、船がそれに従って、安全に運転、運航されているからある。

 

50年近くも前のことであるがアメリカ留学の帰途、ドイツでの研修の機会が与えられて、ロンドン空港からでドイツのハノーヴァー空港に向かった。

しかし離陸前ハノーヴァー空港の上空が雷雨に覆われているので、もし着陸できなければロンドン空港に引き返すかもしれないと予告のアナウンスを聞いていた。確かにハノーヴァーの上空に来た時飛行機はしばらく旋回を始めた。空港周辺を10数分もぐるぐる回っていたであろうか、突然コックピットから機長の「光が見えた!」(We saw the light!)という喜びの声が聞こえた。飛行機が着陸するための進入路の航空標識が、おぼろげではあっても確かに基調には見えたのであろう。その時、機内からも歓声が上がったのを今でも忘れることはできない。

 

ダビデのように「主よ、<今日>あなたの道を私に示し、<今日>あなたに従う道を教えてください」と祈り求める姿勢を保つのが信仰生活である。

これは私たちが信仰生活を生きる指標、指針を求める祈りである。

また、日々をキリスト者としていきるための祈りでもある。

日々確認する必要がある。また皆様の中には聖書から、既に信仰生活のための特別な指標、指針となる言葉をお持ちの方もあるでしょう!

出来れば、機会を得てお互いに分かち合うことが出来れば、幸いである。

 

                1

2 さて今日の旧約聖書(申命記30章)は、神の民に十戒が与えられた後に

 語られた指導者モーセの勧めの言葉である。繰り返し語られた言葉は:-

 「あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、

. あなたは祝福をえることができる、という勧めの言葉である。

 

 そしてさらに、今日の申命記30章14節には、簡潔に語られている。

 「神の言葉は、遥か遠い天にあるのではない、また誰も行くことのできない

 海のかなたにあるのではない」!

 「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それ

を行うことができる。

と。

 こうして神の民は、神の言葉(律法)に聞き従い、それを行いなさい!との

 聖なる言葉を聖会(礼拝)の度毎に聞いていたのである。

 

 

3 さて今日の福音書は有名な「善いサマリア人」の物語である。

 確認のために聖書からもう一度、読んでみよう。

 「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先

生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」

と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思

いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のよう

に愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい。答えだ。それを

実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれです

か」と言った。

 

 ここで考えられる第一のことは:

 律法の専門家は、当然のことながら神の教えをよく知っていたことである。

熟知していた。申命記6章5節には、全く同じ言葉が語られている。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神であ

る主を愛しなさい」。そしてこれは聖なる集い、礼拝の度に「ハッシャマー・

イスラエル!」(イスラエルよ、聞け)と呼びかけられて、神の民、会衆全体

が先ず聞いたのがこの言葉であった。

 

                2

  さらにこの律法の専門家は、「また、隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19章18節)という戒めを付け加えている。完璧である。

   

  さらに第二のことは:

  この律法の専門家の答えに主イエスは「あなたの答えは正しい」と言われ

た。しかし問題は残った。この信仰は知識に留まっていたようである。

イエスは続けて「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と

言われたのである。“信仰は生活のなかでこそ生きるものである”。

  神の言葉を聴き、社会に生きていく信仰者としての倫理的な意識や感覚に

  決定的なずれがあったのであろう。

 

 さらに考えられることはファリサイ派の人々の信仰の実態は、イスラエル

の強い選民意識であり、他の国民、異邦人を蔑む、差別意識である。

「隣人とは誰ですか?」との問いには、実はこの異邦人への差別意識が内包

されていたのである。本当に恐るべきことに、そして留意しなければならな

いことは宗教が差別意識、排他意識を醸成するということである。

  このことは主イエスにとっては、全く容赦ならないことであった。

 

  そして第三のことは:

  主のお教えになった物語によると、強盗に襲われた旅人のそばを通り過ぎ

た人は、祭司、レビ人そしてサマリア人である。

  伝統的に祭司は律法の専門家であり、祭儀を行う責任者であり、レビ人も

律法を聖会において朗読し、また律法を教える役目をもっていた。また預言

者の務めにも関りがあった、と言われる。つまりこれら祭司もレビ人も旧約

聖書では、神の民を代表する宗教的な指導者であった。

 

  こうした宗教的な代表者である祭司やレビ人は、半殺しにされた旅人を見

てもいずれも「道の向こう側」を通って行ってしまった。つまり彼らは

強盗に襲われ、半死半生になった旅人にとっては傍観者でしかなかった。

傷ついた旅人にとって「助けを期待していた人」は予想に反して冷淡な傍観

者、臆病で無関心な祭司、レビ人に過ぎなかった。

 

  ところがここにサマリア人が登場する。先週の礼拝に続き「サマリア

  話題の中心となる。サマリア人とは、聖書によれば

 

                3

  ◎伝統的なユダヤ人はエルサレムではなく、ゲリジム山に神殿でバアル(神

   ならぬ偶像)礼拝をするサマリア人を「愚か者」と呼び、敵対視してい

たのである。歴史的には王下172431参照。

 

  ◎このような歴史的な経過からか、主イエスさえも12弟子たちを派遣す

る時に、「サマリアの町に入ってはならない」とさえお命じになっている。

(マタイ10章5節 参照)

 

  ◎さらにこのようは経緯からか、主イエス・キリストがエルサレムに向か

って旅を続けていた時、サマリアの村を通った時に村人はイエスを歓迎しなかった。それを見て、ヤコブとヨハネは怒って「天からの火で彼らを焼き滅ぼしましょうか」と、進言したほどである。もちろん主イエス・キリストは、彼らを戒められたのである(ルカ95155)。

 

   <しかし一方聖書には、サマリア人の信仰の積極的肯定の物語がある>

  1. かつて、ガリラヤとサマリアの間の村で、主イエスは十人のライ病(ハンセン病)を患っていた人々を癒し、清められたが、そのうち、 

    癒されたことを知って、立ち返ってきて、主イエスの足元にひれ伏したのは一人のサマリア人だけであった(ルカ171119)。

 

  1. 皆様もよくご存じのサマリアの女の信仰である(ヨハネ4章参照)

この女は夫が5人もいるという、倫理的には崩れた生活をしていたが主イエスとの出会いによって、真の礼拝へと招かれたのである。

 

 

4 そしてこのような背景の中で、今日の「サマリア人

が登場する。

実にこの一人のサマリア人が傷ついた旅人を助けたのである!

主なる神は言われる「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と。

<神の聖なる律法、神の言葉を実現したのは、実にサマリア人であった!>

  

  ここで私たちは何を理解すべきであろうか?

  第一は この善きサマリア人とはだれか?ということである。

  Mルターによればそれは、主イエス・キリストご自身である。

               4

ルターは言う、「主イエスこそ、すべての人々のための憐れみ深い神のサマ

リア人である」と!この事実を確認することである!

 

  第二は 主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」とお命じに

なったのである!これは単に、律法の専門家に対してだけではなく、現代に

生きている私たちへの聖なる命令でもある。

 

それは十字架にかかり、復活された主イエス・キリストの愛(アガペー)に

よって生かされている、私たちキリスト者の隣人への奉仕の生活である。

  ルターは言う、「善き業は主イエスに対しては不要である。けれど      も隣人に対しては、不可欠に必要である。神の愛に触れば触れる程、私た

  ちは隣人に対してますます忙しくなる!」と。

 

 

5 私は現在も、週2日、ホスピスのチャプレンとして奉仕している。

 最初は日野原重明先生が設立された、ピースハウス病院で7年間、その後

 そこが閉鎖されてから、現在は救世軍のブース記念病院で働いている。

 現在のブース記念病院での奉仕も4年目になる。

この病院を運営する救世軍のモットーは「心は神に、手は人に」(Heart to God,

Hand to Man! )である。これも信仰の指標となる言葉の一つである。

そういう訳で、今日の説教題を「心は神に、手は人に」とさせていただいた。

 

 けれどもこの間に、同時に私は自ら「病み、傷ついた旅人」であったこと

に気付かされた。私は8年間毎年のように腎臓、膀胱の手術を受け、しばし

ば抗癌剤を受けてきた。その後の検査の結果は、いつもV(最悪)であった。

私は心身ともにかなり疲労し、動揺していた。このような状況にも拘わらず、

 主イエスは「善きサマリア人」として、しばしば私に現れてくださったので

ある。同時に主なる神さまのお導きによって主治医、看護師、チャプレンも

 大きな助けになった。教会につながる同信の友、そして家族も同様である!

感謝の他はない!

 このような恵まれた経験の中で、今でもチャプレンとして奉仕できることは

本当に幸いであり、感謝である。アーメン。

 

説教「神の愛と人間の悔い改め」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨナ4章1-11節、ガラテア5章2-26節、ルカ9章51ー62節

主日礼拝説教 2019年7月14日(聖霊降臨後第5主日)

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神の愛について

 聖書の神は愛に満ちた方、恵み深い方と言われます。本日の説教では、その神の愛について本日の旧約と使徒書の日課に基づいて明らかにしようと思います。

愛は神だけでなく、人間にもあります。それでは、神と人間の愛は同じなのか、違いがあるのか、あれば何が違うのか?これはとても大きな問いです。本日の説教だけで全部を答えることはできませんが、答えの取っ掛かりは得られるのではないかと思います。

まず、使徒書の日課のガラテア5章を見てみましょう。そもそも、ガラテア書という書物でパウロは何の問題を論じていたでしょうか?人間の救いの根幹にかかわることです。罪のある人間は何によって神の目に義とされて神の前に立たされても大丈夫でいられるのか?この世の人生を終えて復活の日までのひと眠りの後、復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎え入れられるのは何によるのか?そのような問いの答えに関係することです。ユダヤ教の伝統ですと、「律法の掟を守ることが大事」という答えが真っ先に出てくるでしょう。神の目に義とされて神の前に立たされても大丈夫になれるためには、律法の遵守につきるということです。

律法の中に割礼の規定がありました。割礼は神の民の一員の印でした。最初のキリスト信仰者は皆ユダヤ人でしたから、割礼を受けるのは当然でした。しかし、パウロは、神の目に義とされるのは律法の掟を守ることによってではない、神のひとり子イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされると説きました。そういうわけで、割礼は義とされることに関しては意味がなくなってしまいました。既に割礼を受けた人はそのままでいるしかありませんが、まだ受けていない人たち、つまりユダヤ民族以外の異邦人の場合は、イエス様を救い主と信じる信仰と、洗礼で罪の赦しと聖霊が一緒に注がれること、これらがあれば十分ということになりました。こうしたことがガラテア書の論点です。

それでは、イエス様を救い主と信じて罪の赦しを受け取るだけで、人間は本当に神の前に立たされても義と見なされて大丈夫になれるのか?それが本当になれるのです。というのは、神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で請け負って、それをゴルゴタの十字架の上にまで運んで、そこで神から神罰を受けて死なれたからです。そのようにして、罪の償いを人間に代わって全部神に支払って下さったのです。だから、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いを聖霊と一緒に注いでもらえば、罪の赦しがその人に効力を発揮します。あとは、神から頂いた罪の赦しの恵みを手放さないようにしっかり携えて生きていけばよいわけです。そういうわけで、十戒の掟も、ちゃんと守らないと神から義と見なされない、だから頑張って守らなければならない、というものではなくなりました。そうではなくて、イエス様のおかげで先に義な人にされてしまった、だからあとはそれに相応しい生き方をしよう、神の意思に沿うように生きよう、そういう十戒の守り方は軽やかな自由なものになります。しかし、罪の赦しを自分の力で勝ち取るために守ろうとすると、重々しく引きずる感じになります。

 以上のことは、毎週礼拝の説教で繰り返し教えていることなので、皆さん、もう聞き飽きたという気持ちでしょう。そこで、そういう気持ちでガラテア5章6節を見ると、おやっと思わせることがあります。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて結ばれていれば割礼の有無は問題ではない、これはわかります。ただ、「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」というのはどういうことか?信仰は、愛の実践が伴わなったら意味がない、ということなのか?そうなると、イエス様を救い主と信じていても、愛の実践がなかったら意味がないということになる。神の前に立たされた時、義とされず大丈夫でいられなくなる。ということは、本質的なことは、イエス様を救い主と信じることではなく、愛の実践ということなのか?

愛の実践とは何でしょうか?真っ先に頭に浮かぶのは隣人愛です。困っている人を助けることです。でも、それなら、別にイエス様を信じていなくても出来るではありませんか?別の宗教を持っている人でも無神論の人でも人助けが大事なことはわかります。キリスト教では、イエス様を救い主と信じる信仰と人助けがセットになっていないと、信仰者として失格と言われてしまうのか?それなら、別にイエスなんか信じないで人助けに集中した方が話は簡単ですっきりするじゃないかなどと思われてしまうかもしれません。

ここで、イエス様を救い主と信じる信仰と隣人愛の関係について見てみます。キリスト信仰の隣人愛には他の隣人愛と違うことがあります。それがわかるために問題のガラテア5章6節をよく見てみます。ギリシャ語原文をそのまま訳すと次のような意味です。少し解説的に訳します。洗礼を通してイエス・キリストに結びついているならば、割礼を受けている受けていないということには意味はない。意味があるのは、「愛を通して作用している信仰/作動している信仰」である。愛を通して作用する/作動する信仰とはどんな信仰か?逆に言えば、愛がなくては作用しない/作動しない信仰です。愛があるから作用している/作動している信仰です。もしこれが愛を実践することで信仰が作用する/作動するという意味なら、結局、愛の実践が本質的なことということになってしまいます。

「愛の実践」と言いますと、人間が行うものになります。ところが、ギリシャ語原文では「愛の実践」とは言っていません。「愛を通して」作用する/作動すると言っています。ここで言う「愛」は人間が実践するものも含めたもっと広い大きな意味での愛です。どういうことかと言うと、キリスト信仰では、愛はまず神が人間に示すもので、示された人間がそれをわかって、味わって素晴らしいものとわかって、それを神に感謝し、神がしなさいと言うからそうする、そういうものです。神が示される愛の素晴らしさが分かればわかるほど、損得細かいことは気にならなくなる、こだわらなくなるというようになって愛を行えるということです。そのような愛が行えるのは、まず神の愛が人間の愛に先だってあるからです。このことは第一ヨハネ4章9ー11節でも言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

神の愛が先立ってあって我々人間がそれを受けて愛する、そういう循環があります。ガラテアの「愛を通して作用する信仰」というのはまさにそのことです。それなのに「愛の実践を伴う信仰」と言ってしまったら、神からの先立つ愛がなくなって、人間の能力・実力としての愛だけになってしまいます(後注1)。

キリスト信仰者の隣人愛とその他の人たちの隣人愛は、確かに同じようなことをするので、わざわざキリスト信仰者にならなくても人助けは出来ると思われるかもしれません。しかし、今見てきたように隣人愛の出発点が異なります。キリスト信仰の場合、まず、神がひとり子を犠牲にするくらいにこの私を愛された。だから私は神の御心に沿うように生きていこう、そういう心から出てくるものです。それで、キリスト信仰の場合、何が神の御心に沿うかということが行う愛の内容を決定します。それなので、場合によっては、キリスト信仰者でない方たちと異なる方向に向かう可能性もあるということを覚えておくことは大事と思います。どう異なるかというと、次に述べるように、人々を神に向かって「悔い改める」ことに導くことが射程に入ってくるということです。人を悔い改めさせる隣人愛なんて、そんなのあるか、と思われるかもしれませんが、キリスト信仰の隣人愛はそういうものなのです。

2.悔い改めについて

 次に旧約の日課ヨナ書を見てみましょう。本日の日課の個所の出来事は先ほど読んでいただいた通りですが、少し出来事の背景をお話ししますと、預言者ヨナは神からアッシリア帝国の首都ニネベに行けと命じられます。そこで何をするかと言うと、町は悪と不法に満ちているから神が滅ぼすつもりでいると告げることでした。ヨナは一回目は言うとおりにせず、大魚に飲み込まれたりしますが、二回目は行って、ニネベの住民に神の言葉を告げました。アッシリア帝国というのは、紀元前8世紀にユダヤ民族の北王国を滅ぼし、残る南王国も首都エルサレムを包囲し陥落寸前にまで追い込んだ民族の大敵です。そのような国の首都に乗り込んで神の裁きの言葉を告げたのです。するとどうでしょう、国王から住民に至るまで皆が罪を悔い神に赦しを乞い始めます。それを見た神は町を滅ぼすことを思いとどまりました。ただ、収まらないのはヨナの方でした。町を滅ぼさなかった神に大いに不満で怒りに燃えたのです。

そこで神は、ヨナに神の御心がどういうものかをわからせるために、とうごまの木の出来事を起こしました。砂漠の炎天下にとうごまの木を一夜にして茂らせます。ヨナは葉陰の下でホッとしました。ところが神は一夜にして木を枯らせてしまいます。ヨナはまた神を恨みました。そこで神は言われます。お前は、自分で植えて育てたわけではないとうごまの木がなくなったことをとても残念がっている。罪を悔い改めたニネベの町を滅ぼしてしまったら、私だって同じ残念な気持ちを抱いてしまうのだ(後注2)。

これを読みますと、神というのは、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることをしても裁かないで赦して下さる、そういう慈愛に満ちた方という理解が生まれると思います。それに対してヨナの方は、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることをするのは裁かれて当然という、憐れみのない人間の典型に見えます。しかし、ここで忘れてならないことは、ニネベの住民は罪を悔い改めたということです。それで神は裁きを思いとどまったのです。ヨナの問題は悔い改めてもそれを受け入れなかったことですが、それでも、神の意思に反することは裁きに値するということ自体は間違っていませんでした。神も悔い改めがあったから赦しました。もしニネベの住民がヨナの告げ知らせを聞いても悔い改めなかったら、この話は全然違う結末を迎えたでしょう。

 ここで神が赦すということ、裁きや滅びを思いとどまるということにおいて、悔い改めが決定的な意味を持つことを確認したいと思います。悔い改めとは何か?それは、神の意思に反すること聖書にいけないと言っていることに自分は加担してしまったと認めて、神に赦しを願うことです。神から赦してもらうために、人によっては神のご機嫌を宥めなければと儀式を行ったり、掟を守ったりします。ところが、キリスト信仰の場合は、神のひとり子のイエス様が既に償いをしてくれたので、イエス様の償いが本当になされたと信じます、だからイエス様を救い主と信じます、と告白すれば、神はイエス様の犠牲に免じて赦して下さり、これからは罪を犯さないようにしなさい、と言って不問にして下さるのです。

 ここでひとつ厄介なことがあります。それは、人間の心の中には神の意思に反すること聖書でいけないと言われていることが常態としてあるということです。行為や言葉になって表に出なくても、心の中では加担しているということです。イエス様もこのことを指摘されていました。人間は十戒の掟を外面的に守れても、例えば人を殺さなくても、心の中で憎んだり罵ったりしたら同罪である、神の掟は内面の状態まで問うものである、と。そういうことなら人間誰もそのままの状態では神の前に出されてとても大丈夫ではいられません。義なる者と認めてもらえません。だから、イエス様が必要なのです。神の意思に反すること聖書の中でいけないと言われていることを行為や言葉に出さなくても、心の中で持ってしまっている。それで私もあなたも全ての人みんな、神の意思に反し、聖書の中でいけないと言われていることに加担している。だから、私もあたなも全ての人もみんなが本当は神の御前では罪びとなのだ。しかし、イエス様を救い主と信じたからには、神は彼の犠牲に免じて義なる者と見て下さり、御前に出されても大丈夫と扱って下さっている。そのようにして、イエス様を救い主と信じる者は「罪人にして同時に義人」ということ不思議なことが起こってくるのです。

そこで、もし神の意思に反すること聖書の中でいけないと言われていることが心の中に留めておくことに失敗して、行為や言葉に出てしまったら、どうなるか?その時も神は赦してくれるだろうか?答えは、心の中の時と同じようにすれば赦して下さいます。つまり、神さま、私が行ってしまったこと、口に出してしまったことは、あなたの意思に反するものでした、聖書の中でいけないと言われていることでした。イエス様は私の救い主ですので、彼の犠牲に免じて私を赦して下さい。私から義を取り去らないでください。これからはこの行為、言葉を出さないようにする知恵と力と勇気を与えて下さい。そのように祈れば、神は赦し、罪を犯さないために必要なものを与えて下さいます。

罪が行為や言葉に出てしまうことで、相手を傷つけたりすることがあれば、国や社会の法律や規則に従って謝罪や補償をしなければならないということが出てくるでしょう。罰則が度を過ぎた厳しいものがあるかもしれません。そういうのを修正するのは政治の役割ということになります。また、世間が厳しい目を向けたり、「神は赦しても私は赦さない」などと言う人もいるかもしれません。そのような時は罰を受ける人はとても孤独になります。しかし、キリスト信仰では孤独になりません。なぜなら、世間は赦さなくても、赦してくれる神がそばにおられるからです。イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神との関係は何の変更もないので、そこが慰めと励ましの最後の砦になります。それは難攻不落の砦なので、そこにとどまれば孤独に陥らずに世間の厳しい荒波の中でもなすべきことをできるはずです。

 神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることが表に出ない時、心の中に留まっている時は世間からとやかく言われませんが、神は知っておられるます。それは、後ろめたく落ち着かないことかもしれません。でも、大事なことは、私たちはイエス様のおかげで、罪びとであるが同時に義人にもなっているという事実です。全てを知っておられる神がそのようにしてくれるのですから、心配せず、安心していけばいいのです。

 ここで罪を持つ者が神から祝福を受けられるかということも考えてみたく思います。先ほども申したように、自分は神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることに心の中で加担してしまっていると認め、神さま、イエス様を救い主と信じますから、私を赦して、あなたの御前に出されても大丈夫でいられるようにして下さい、と願えば、この時、罪びとは同時に義人ですので、神から祝福を受けられます。神は人間がそのままの状態では神の意思に沿えないで罪に留まってしまう、そのままの状態では義人にはなれないと知っています。だから、イエス様を介して、罪びとにして同時に義人にして祝福を受けられるようにしたのです。罪が行為と言葉で現れてしまった場合でも、同じように悔い改めをすれば、神から祝福を受ける立場は大丈夫です。そういうわけで、神から祝福を受ける時には、罪びとにして同時に義人ということが確認される必要があります。

 ところが、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることに心が加担していても、それは別に神の意思に反していないとか、反していると言うのは間違っているとか、聖書に書いてあることは大昔の人間の未発達な考えに基づくから現代にはそぐわないと言ってしまったら、罪びとであることを否定することになります。罪人であり同時に義人という神的なバランスが失われます。それは、神から祝福を受けるのに相応しい状態ではありません。この場合は、心の中で罪に加担して、それを罪と認めて神に赦しを願うという場合と大きく異なります。確かに、罪と認める人も認めない人も皆、心の中で加担していることは同じです。しかし、認める人は神に赦しを願い、イエス様のおかげで赦しを得られます。罪が行為と言葉で現れてしまっても、同じようにすれば赦しを得られます。その時、もう行為と言葉で現れないように注意しようとします。ところが、罪と認めない人にとっては罪ではありませんから、行為と言葉で現れても何も問題はなく、問題なのは神の意思とか聖書で言われていることの方が問題になります。

 以上、ニネベの出来事から、神の赦しには悔い改めが決定的な意味を持つことを述べました。そう言うと、あれっ、イエス様は本日の福音書の個所で自分を受け入れなかったサマリアの村を悔い改めなく赦しているではないか、と思われるでしょう。弟子たちは、イエス様に天から炎を送って滅ぼしてしまいましょうと提案しました。あたかもソドムとゴモラのようにです。ニネベの郊外で様子を窺ったヨナもその時を待ったでしょう。ところがイエス様は、サマリアの町がニネベのように悔い改めをしたわけでもないのに滅ぼさなかったのです。なんだ、やっぱりイエス様は悔い改めをしなくても赦しを与えて下さる慈愛があるんだ、旧約の神は厳しいが、さすが新約のイエス様は人間が出来ている、そういうことでしょうか?

先ほども申しましたように、イエス様は、十戒の掟が実現しているかどうかについて心の有り様まで問うた方です。本当は厳しい方です。それじゃ、どうしてサマリアの村に罰を下さなかったのか?イエス様が優しい心の持ち主で憐みに満ちた方だから、という答えではまだ核心を捉えられていません。では何かと言うと、イエス様は、サマリアの村に悔い改める時間を与えたのです。

 どういうことかと言うと、イエス様は、父なるみ神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して永遠の命を持って生きられるようにしたい、そのようにして神の国の一員に迎え入れたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるように十字架にかかってまでお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書5章45節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる無責任極まりない気前の良さを持ついうことなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか悔い改めて神の国の一員になれるよう、猶予期間を与えているということなのです。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、悔い改めの可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いつまでもいい気になって悔い改めをしないで済ませていいはずがない、と気づかなければいけないのです。もし、この世の人生の段階で悔い改めがなければ、それはもう手遅れで、あとは最後の審判の日に神から、お前はこうだったと監査済みの収支報告を言い渡されるだけです。もし、悔い改めて、イエス様を救い主と信じる信仰に入っていたならば、何も問題ありませんでしたという報告を受けられたのに。

それでは、このサマリアの村はどうだったでしょうか?猶予期間を与えられて悔い改めたでしょうか?それが悔い改めたのです。使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムでキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムを脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域がサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。イエス様を救い主と信じることは悔い改めがあって起こるものだからです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことをしなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が神の国の一員として迎えられるということが全てに優先される、ということがありました。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されました。この時のイエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、神の国の一員に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。

 

3.勧めと励まし

 以上、神の愛についてガラテア書とヨナ書の日課をもとに述べてまいりました。神の愛が私たちの内に満ち満ちてそこから溢れ出ていく位になるためには、私たち人間の側での悔い改めが大事であることを見ました。悔い改めという言葉は、何か人を反省することに追い詰めて苦しい思いをさせるイメージが持たれるかもしれませんが、イエス様を介すると、全然勝手が違い、倒れて伏してしまった人を起こして立たせて最初よりももっと高く上げてくれるものになります。

 兄弟姉妹の皆さん、もし打ちのめされた状態になったら、起き上がる力は全部自分で調達しなければならないなどと思わないで、イエス様を救い主と信じて、父なるみ神に起こしてもらいましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

 

 

(後注1)参考までに、πιστιςδι’ αγαπηςενεργουμενηの各国語訳を見てみると、英語NIVは”faith expressing itself through love”、ドイツ語(ルター)は”der Glauben, der durch die Liebe tätig ist”、(Einheitsübersetzung)”den Glauben (zu haben), der in den Liebe wirksam ist”、スウェーデン語は”tron, som får sitt uttryck i kärlek”、フィンランド語は”(Ainoana tärkeänä on) rakkautena vaikuttava usko”です。英語とスウェーデン語は似ていて、「愛で表現される信仰

ということで新共同訳の「愛の実践」路線になると思います。フィンランド語訳は様格(rakkautena)使うので意味的には英語とスウェーデン語と同じでしょう。ドイツ語訳はギリシャ語原文をそのまま映しだしています。

 

(後注2 ヘブライ語が分かる人にです)

ヨナ4章11節は、新共同訳では「右も左もわきまえぬ人間」と言って、「わきまえない」が現在の状態になっています。そうすると、わきまえないニネベの住民はわきまえないまま赦されて今に至ってしまいます。しかし、ヘブライ語原文ではלא-ידעとなっていてperfectumです。それで「わきまえない」のが過去の状態であると捉えると、今はそうでないことになり、そうすると、悔い改めがあって赦されたことがはっきりします。このperfektumを過去の意味で捉えていいとする根拠は、すぐ前のところで神がとうごまの木について「お前が労苦せず育てもしなかったלא-עמלת בו ולא גדלתו

を同じperfektumで言っていることによります。ここの意味は明らかに過去です。ヨナととうごまの木の関係と、神とニネベの住民の関係はパラレルになっています。それで、住民の状態も過去の意味と考えられるのです。大体次のような意味になります。「お前は、自分ではなんにもしなかったとうごまの木がなくなってしまったことを残念に思っている。ましてや、以前はわきまえなかったが今は悔い改めたニネベの住民を滅ぼしてしまったら、それは私にとって残念なことにならないだろうか?」 

それから、ヨナ書の最後の神の言葉は否定の修辞疑問文で訳されるのが各国共通のようですが、疑問辞הがつかなくてもそう訳せることについては、北欧で一番権威あるH.S.Nybergのヘブライ語参考書で確認できました(§95b)。実は、私は以前ここは素直に普通の否定文で訳しても問題ないのではないか、例えば「お前はとうごまの木に関して平静を失っているが、私はニネベに関して平静を失わない。ニネベが罰を受けないで済んだことは私にとって何でもないことだ。だって悔い改めたのだから。お前には受け入れがたいことかもしれないが、私は平気だ。」そんなノリを考えたこともあるのですが、権威が「疑問辞なくても疑問文になる」と言ったら、私には権威を無視できる位の所見も勇気もないのでそれに倣います。

 

交わり

 

この建物で吉村先生の最後の礼拝とあっていつもより出席者も多かったです、パイヴィ先生が着任後6年間の記録をスライドで見せてくださいました。懐かしい人たちも写っていて楽しいひと時でした。今日は新会堂の工事契約の調印も済み先生たちが9月に戻られたときは早稲田の新会堂での礼拝が始まります。

説教:木村長政 名誉牧師

 コリント信徒への手紙 9章1~7節             2019年7月7日(日)

              「復活のキリストを信じる」                               

 

 今回も、パウロが伝道しました、コリント教会へ宛てた手紙を読んでいきます。  

 教会への手紙が聖書となっているのですよ。すごいと思いませんか。聖書は神の言葉です。聖霊によって書かれたものです。これは信仰に関する手紙です。聖霊の導きによって読まなければならない。

 パウロは、コリントの教会の中でゴタゴタしている問題に、具体的にふれています。

 手紙ですから、ある一箇所のところだけをとり上げても余り意味のないことでしょう。。手紙の前後との関係も考慮に入れて読むべきでしょう。

 7章では「結婚」に関しての質問に答える形で書いてきました。

 次の8章になりますと、「偶像に供えられた肉を食べた方がいいか、食べない方がいいか」という課題でした。パウロは、そんな事は、どうでもいい。私たちもそう思うかもしれません。パウロは、当時の異教の世界にある教会にあって、「偶像礼拝に敏感で心の弱い人もあるので、その兄弟のために、キリストは、死んで下さったのであるから、その兄弟をつまづかせないために、私は、今後、肉は口にしないことにしよう」とまで書いています。8章の終わりのところです。

 さて、今日の、9章を見ますと、ここには全く別の事が、突然出てきて、びっくり致します。

 1節から読んで見ますと、「私は自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを

見たではないか、・・・」と言います。

 これまでの手紙の文脈から見て、並はずれたことを突然出してきました。

 パウロはここで、「わたしは自由な者ではないか」と、言っています。

 なぜ、こんなことを書き始めたのだろうか。

 元、東京神学大学の学長を長くされていた北森嘉蔵先生という方がおられます。

 ルター研究でも日本で有名な先生です。

 北村先生なら、このコリント人への手紙9章を、どんなふうに読まれたのだろうかと、調べてみました。ちょっとだけ紹介します。なかなかユニークな見方です。

 「『自由・自在』という言葉があるが、パウロの筆は、まことに、自由自在に動く。前章で述べられていたところと、この章で述べられている所との間には、果たして、同一人物の筆だろうかと疑わせる程の性相の相違が見られる。しかし、このような所にこそ、生きた人格の姿が見られるのである。

 『風は思いのままに吹く。あなたは、その音を聞くが、それが、どこから来て、どこへ行くのかは知らない。霊から生れる者もみなそれと同じである。』(ヨハネ3章8節にある)

 パウロの自由さも、この御霊による自由さである」

 以上が北村先生流の解説です。 

 それなら、いったい「その自由」というのは、どういうことでしょう。

 19節のところを見ますと、「わたしは、誰れに対しても、自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだ多くの人を得るためです。」というふうに書いています。

 そうすると、その間に書いてあることは、この二つの言葉をよーく理解する必要があります。3節以下を見ますと、18節までず~っと、この間には、パウロが強力に、自分の権利を主張していることがみられます。

 パウロは、始めから、「わたしは自由な者である」といった程には言わないで、とてもきびしい叫びのような言葉で、「わたしは自由な者ではないか」と言っています。これは、ただの話ではない。強い確信をもって言っているのです。

 そこで、なぜ自由のことについて、突然書いているかということですが、その前に偶像への供物を食べていいかという事にふれました。パウロはこんなことは全く自由であって、食べるもよし、食べなくてもよし、自由である。と言ったのです。

 ところが、そうは言っても、伝道者としての報酬は、受け取っているのではないか。というような意地の悪い批判が出たらしいのであります。

 それに対して、パウロは、自分の立場をはっきり示そうとするのであります。

 信仰者の生活は、信仰という大きな信念のもとに生きよう、としますから、悪口を言われやすいのです。たとえば一言で言うなら、口で言うことと、実際とでは、違うではないか。えらそうな事を言ってるが、お前は結局、偽善者ではないのか。今、パウロはそれを言われているわけであります。

 牧師の立場でも同じように、正しいこと、いいことばかり言っても、現実はどうなんだ、と言われると。

もう全く、お手上げです。聖人でも善人でもありません。1つだけ大事なことを知ってほしいことがあります。

 教会の礼拝において、牧師の話す「説教」は聖書の言葉です。神の言葉であります。牧師、人間の考えや教えではありません。語られる言葉が、聖霊によって、神の真理の言葉、として語られていく、神からのメッセージです。信仰の自由を与えられた者は、その自由がどういうものであるか、よーく知っておらねばならない。

 世間で言う自由とは、ちがう。

 神からの、「完全な自由」を与えられているからこそ、不自由な生活も耐え、自ら喜んで、不自由な生活を受けるのであります。

 宗教を喰い物にする人はいくらでもいるでしょう。そういう批判があるだろう事も容易に想像できます。それを信仰によって与えられた自由といっしょに考えられたのではたまらない、と、パウロは考えたでありましょう。

 その自由が、どんなものか、よく教えなければならない、と、思ったにちがいありません。

 それで、パウロの言う、完全な自由とはどんなものか。そして、自由な信仰者の生活の基になるものはなにか。

 パウロは自由の事について、第1、「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。」と言うのであります。

 これは、多くの人にとって、全く意外なことではないでしょうか。自分は、自由な人間である。自分は、主イエスを見たではないか、と言うのです。

 この二つの事が、どうして、つながるのでしょうか。

 パウロが主イエスを見た、というのは、どういうことでしょう。肉によっては、パウロはキリストを知らないといわれます。はっきりしていることは、「最後に、いわば、月足らずに生まれたような私にも、現われたのである」と、コリント第1、15章8節で書いています。

 これは、パウロが、復活の主に、お目にかかった事を言っているのです。

 パウロが復活の主にお目にかかったことは、まちがいのない事でしょう。

 それなら、復活の主を知っている、という事はどういうことでしょう。

 ただ、主の復活を見た、という事実だけのことを言っているのでしょうか。そうではありません。

 主の復活を見ると言う事は、そういうこととは全くちがった、大事なことなのです。

 それは、復活という1つの事実を知っているという事ではなくて、復活された、主イエス・キリストを信じるようになった、ということであります。

 ある意味で、私たちも又、復活の主を信じる、復活の主にお目にかかった、という事になるのです。

 それは、キリストが十字架について、甦られたことを信じる、ということであります。

 それなら、主イエス・キリストが十字架に死に、生きかえられたことを信じるとは、どういうことでしょう。

 それは、言うまでもなく、自分の罪を知って、その罪が十字架のキリストにあがなわれ、罪は赦されたことを、信じるようになることであります。

 信仰を持っている人も、信仰を求める人も、みな何回聴いてもいい。そして、罪赦されている神秘の神の業に、そのたび毎に導かれて、新にされていけばいいのであります。

 聖なる霊の世界の導きであります。深い神の恵みであります。

 自分に罪があるということは、自分が、罪を持っている、ということではなくて、実は、罪が自分を持っているのです。

 罪の奴隷になっていることなのです。(ヨハネ8章34節)

 罪に支配されているのです。罪の自由になされている。罪から離れられないようになっている、と

言うことです。例えて言えば、まやくに支配されてはなれられないのと同じです。

 それは言いかえれば、自由がない、という事でしょう。

 自分は、自分の欲している善はしないで、自分の欲していない悪を行っている、とローマ人の手紙7章19節で書いています。自分は自由ではない。罪の支配に縛られてしまっているのです。

 それに対して、今、パウロの言う、キリストの復活を見た、主イエスを見た、というのは、ただ見たのではなく、それから救われたのです。罪から解放されて、自由を得たのであります。罪の奴隷であった者が、キリストの奴隷になることであります。全くの自由にされた者です。

 これこそが完全な自由、本当の自由ということでしょう。

 主が言われたように、仕えられるためではなく、仕える者になる時、人は、まことに自由になれるからであります。

 パウロは、今、そのことを言っているのであります。

 自分は主を見た、主に救われた者ではないか、主によって、真の自由を得た人間ではないか、と言うのです。

 もう1つ、パウロは「自分は使徒ではないか」と言います。この手紙の冒頭に自己紹介しています。

 「神の御心によって、召されて、キリスト・イエスの使徒となったパウロ」であると。キリスト・イエスの使いです。

 主イエスを見た自分は、主イエスの使徒になっているのであります。

 今、主イエスを見た者は、主の奴隷になっている。主の奴隷は、主に仕える者であります。それは主に仕えると同時に、人々に仕えるのです。

 「私は使徒ではないか。」と叫び、そして2節では「少なくともあなた方にとっては使徒なのです。」

 パウロはコリントの教会の伝道のために、はじめから一生懸命に人々に仕えた。

 従って、あなた方が主にある事は、わたしの使徒職の印なのである。と言います。

 使徒は教師の役目をすることでもありました。

 教えたり、導いたりして、何とかして、信仰をもって、キリストによって生きる者にしたい、と願っています。

 しかし、使徒の任務は、どこまでも仕えることにあります。。

 パウロは指導者のようにふるま

う事はしませんでした。どこまでも仕えようといたしました。

 パウロは最後にこう言いたいのです。使徒でありながら、その権利を使おうとは思わない。しかし、それを持って、最も効果的に語るために、自分の立場がいかに大きなものであるか。自分を批判する者たちに対して、自分は罪ゆるされた完全な自由なる者だ。自分は使徒である、その証拠にコリントの教会の信徒が現にいっぱいいる。そして最後に復活のキリストが現われて下さった。と、えんえんと語ってきたのであります。

                                              アーメン・ハレルヤ!

説教「罪の負い目も、疑う人目も、吹き飛ばせ!」神学博士 吉村博明 宣教師

主日礼拝説教 2019年6月30日聖霊降臨後第三主日

 

 サムエル下11章26節-12章13節、ガラテア2章11-21節、ルカ7章36ー50節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の旧約聖書の日課サムエル記下11章から12章の個所は、ダビデ王が犯した罪について語られています。この個所は私たちに罪というものがどんなに重大なものであるかを教えています。大抵は、罪という言葉を聞いたら、犯罪のように他人を傷つけたり損害を与えたりすることを思い浮かべるのではないでしょうか?そういうことが起きたら、処罰や謝罪や補償ということが出て、それが罪の償いということになります。この理解でいくと罪は人と人との間の問題ということになります。キリスト信仰では、罪は神と人との間の問題になります。人間を造られた神と神に造られた人間の間の問題です。もし誰かを傷つけたり損害を与えてしまったら、それは十戒の「殺すなかれ」、「盗むなかれ」、「姦淫するな」、「偽証するな」、「隣人を妬んだり、そのものを狙おうとするな」等々、神が定めた掟に反することになります。人間に対して害を及ぼしたということに加えて、神の意思に背いたということになります。人間に対する害については法律に基づく処罰や償いがあるでしょう。神に対する害については、どんな処罰や償いがあるでしょうか?罰として神が災いや不幸を起こすということが頭に浮かぶかもしれません。

もちろん、聖書の神は、人間が神の意思に背けば、もちろん罰することを厭わない方ではありますが、もっと大事なことは罰と同時に人間が神の意思に従って生きられるようにしようとする方でもあります。お前はこの罪を犯した、だからこの不幸を与えてやる、地獄に落としてやる、思い知れ、と言って完結してしまうのではありません。そうではなくて、お前がもう罪を犯さないようにしてあげよう、犯した罪のためにお前が前に進めなくなってしまうことがないようにしてあげよう、というのが聖書の神です。そのことは、本日の旧約の日課のダビデ王の出来事からも福音書の日課の罪を犯した女性の出来事からもわかります。私たちが前に進めなくなるようにする重荷として、旧約の日課は罪の負い目、福音書の日課は人の非難する目について言っています。私たちの父なるみ神はそれらの重荷から私たちをどう解き放って下さるのかを見ていきましょう。

 

2.罪の負い目を吹き飛ばせ!

 まず、ダビデ王の罪の出来事をみていきましょう。何が起きたか出来事の全容を知るためには本日の個所の前の11章のはじめから見なければなりません。サウル王に続いてユダヤ民族の王となったダビデは、国の安全を脅かす周辺諸国との戦争は連戦連勝という破竹の勢いでした。それは、本日の個所の12章7

8節の中で言われるように天地創造の神の大いなる祝福があったからでした。神自身が言われるように、ダビデが国王の地位につけたのも、サウル王のものや王国の領域も受け継げたのもみんな神のおかげである、何か不足があれば神はかき集めるようにして与えるつもりだ、と言うくらいダビデを祝福したのです。

ところがある日、一人の軍人ウリヤの妻ベト・シェバに一目惚れして、夫が前線にいる間に関係を持ってしまいます。今の日本でよく耳にする不倫です。そしてベト・シェバは妊娠してしまいます。神から必要なもの欲しいものを欲しいだけもらえるような立場にいながら、それでもまだ足りないと言わんばかりに、ダビデは神の意思、「姦淫するな」に背いてしまったのです。宗教改革のルターも言っていますが、人間というのは神から与えられる物を享受していくうちに、心が贈ってくれた方から離れて贈られたもの自体に密着してしまう、そういう恩知らずになってしまう。まさにそのことがダビデにも起きてしまったのでしょう。神から与えられることに慣れてしまって、いつしか贈り主である神のことは忘れて贈られた物はあたかも自分の能力や偉大さのおかげで自分の懐に当然の如く流れ込むようになったのだ、そういう心境だったでしょう。そうなると、欲しいものは何でも手に入れて当然という気持ちになります。ダビデに限らず、名声を博した人、高い地位に昇りつめた人の多くはそうなる危険が高いです。贈り主なんてもう眼中にありませんから、贈り主の意思なんて関係ありません。遠慮なしにどんな手段を使っても手に入れればいいだけです。

ダビデはまさにそのようにして人妻を手に入れました。ウリヤをわざと戦闘の激しい前線に送り込んで戦死させて、ベト・シェバを自分の妻にしました。前線から知らせを告げに来た使者とのやり取りを見ても、ウリヤの戦死に何か不自然なことがあると気づかれないようにする話しぶりです。しらじらしいと言ったらありません。

ところが、神は自分の意思が踏みにじられたことをそのまま見過ごすことはしませんでした。踏みにじったのは、自分が民の指導者に選んで祝福を与え続けた男です。神は早速、ダビデの目を覚まさせるために預言者ナタンを送りました。ナタンは王に一つのたとえを聞かせます。ある町に羊・牛の大きな群れを所有する金持ちの男と、雌羊一匹しか持たずそれを大事に育てた貧しい男の二人がいた。金持ちは客に食事を振る舞わなければならなくなった時、自分の所有する群れを惜しく思って、貧しい男から雌羊を取り上げて、それを食事に提供してしまいました。この話を聞いたダビデは自分のことを言われているとも気づかず激怒し、その金持ちは神の意思に背くもので死に値するとさえ言います。これは奇妙なことです。自分は人妻を強奪するようなことを仕出かしても、他人の卑怯なやり方に関しては神の意思に背くなどと言って憤慨するくらいの倫理観は持ち合わせていたのです。これが救いになりました。「王よ、その金持ちはほかでもない、あなたです」と言われ、ダビデは目の前に鏡を突き付けられたのも同然でした。そこには自分がそう叫んだ、「死に値する」男が映っていました。自分の激怒は神の思いなのだということがわかりました。

ダビデは自分がしたことは自分の造り主である神を失望させ怒らせることであると真剣に分かりました。「私は神に対して罪を犯しました」と告白します。神はダビデが罪を悔いていることを受け入れ、これから彼に何をするかをナタンを通して告げます。「神自らがあなたの罪を不問にされる。あなたは死ぬことはない。」(新共同訳では「罪を取り除く」ですが、ヘブライ語の単語עברは「見過ごす」、「なかったことにする」の意味があります。辞書(W.L.HolladayのConciseですが)もここのところは「見過ごす」、「なかったことにする」の意味と言っています。)神はダビデが罪を悔いていることを偽りがない、真実と認めて彼の罪を不問にすることにしました。神がダビデの罪を不問にしたことがどこでわかるかと言うと、本当ならダビデの犯した罪は神に対する罪として命を落とさなければならない性質のものであったが、それは免れるというのです。つまり、神はダビデの罪を赦すことにしたのです。

これで一件落着のように見えますが、実はそうではありませんでした。本日の日課の個所は13節で終わって、ダビデは罪を赦されて死を免れてめでたしめでたしですが、実は次の14節でダビデの罪の赦しは限定的だったことを思い知らせることが起こります。ナタンの口を通して語られる神の言葉は14節まで続きますので、そこまで見ていきます。せっかくのハッピーエンドを興ざめにしてしまい恐縮なのですが、より深い真実に到達できるために敢えてそうする者です。

ナタンは、ダビデが死を免れることに加えて、ベト・シェバが産んだ赤子は死ぬと告げます。実際、赤子は誕生七日目に死んでしまいます。ダビデは神が考えを変えることを期待して祈り断食をしますが、無駄に終わりました。これは一体どういうことでしょうか?罪を犯した本人は死を免れるのに、まるで子供が親の罪の犠牲になったようです。確かに神にとって罪というのは償いのためには本人に犠牲になってもらわなければならないほどのものです。それにしても子供を犠牲にするというのは、神は少し無慈悲で残酷にすぎませんか?赤子の死の事実はダビデに罪の赦しは限定的だったと思い知らせたでしょう。確かに生きることは許されたが、自分の罪の償いのために誰かが犠牲にならなければならないことは動かなかったのです。そして、それを赤子が引き受けなければならなかったのです。赤子の死はダビデに罪の負い目を痕跡のように残したでしょう。神がこのように罪を罰せずにはおられない方であるならば、私たちが神の意思に背いた後で何か不幸が起きたら、それは私たちの心に罪の負い目を残すでしょう。また、特に背いたことに思い当たりがなくても何か不幸が起きたら、これは何の罰だろうか?自分の何の罪が原因でこのようなことが起きてしまったのか?と悩み、影のような罪悪感を抱え込むことになります。

兄弟姉妹の皆さん、ここで忘れてはならない大事なことがあります。それは、まさにこの無慈悲で残酷に見える神がひとり子のイエス様を私たちに贈って、私たちが罪悪感や負い目から解放されるようにして下さったということです。確かに神は罪に対して完全な償いを求める非常に厳しい方です。しかし、その神がイエス様を私たちに贈って、彼に全ての人間の罪を背負わせて十字架の上まで運ばせて、そこで罪の罰を受けさせたのです。これは、私たちが罪の罰を受けないで済むようにするためでした。無慈悲で残酷に見える神は実はひとり子を犠牲にしてもいいと思うくらいに私たち人間のことを大切に思って下さるのです。これが私たち人間に対する神の愛です。無慈悲で残酷に見えるのは罪に対して罰を下そうとするからですが、私たちを愛して罰を免れさせたいから、ひとり子を犠牲にしたのでした。そうすることで、私たちが罪に染まらない、かつ罪を引きずらない者に生まれ変わる道を開いて下さったのでした。

イエス様の十字架と復活の出来事が起きた後は、罪を不問にして赦すことは限定的ではなく、全面的なものになりました。イエス様の償いの業はそれくらい徹底したものだったからです。そこで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、たとえ不幸に遭遇しても、イエス様の償いに基づく罪の赦しの中にいる限り、不幸は罪の罰ではないというスタンスになります。そうなると、自分の責任を詮索して前に進めないということがなくなります。これは神の業が現わされる起点なのだというスタンスになり、苦難困難の中に乗り出していき、そこに神の業を一つ一つ見出していきます。ここにはもう罪悪感も負い目もありません。また、キリスト信仰者が罪を犯してしまい、それが不幸の発生に結びついてしまった場合でも変りはありません。イエス様の償いに基づく罪の赦しの中にいる限り、不幸は神の罰ではなくなって、神の業が現わされる起点になります。

以上から無慈悲で残酷に見える神が、実はひとり子を犠牲にしてもいいと思う位に私たちのことを愛しているということわかったのではないかとが思います。この愛を注がれた者が今度は感謝に満たされて人目を気にせずに前に進もうとすることが、本日の福音書の日課の出来事によく示されています。次にそれを見てまいりましょう。

 

3.疑う人目を吹き飛ばせ!

 イエス様が、ユダヤ教ファリサイ派のシモンという人の家に食事に招かれました。ファリサイ派と言えば、福音書の中ではイエス様に敵対するグループとして描かれています。これは一体どういうことでしょうか?イエス様と激しく対立するファリサイ派でしたが、同派の中にはイエス様に一目おく人たちもいました。例えば、ヨハネ福音書に出てくるニコデモというユダヤ教社会の最高法院議員などは、ある夜人目を避けてイエス様に教えを受けに行きます。本日の箇所のファリサイ派シモンもおそらく、イエス様を家に招いていろいろ質問してみよう、ファリサイ派には口うるさいことばかり言っているが、今や奇跡と権威ある教えで一世を風靡しているイエスを呼んで、本当に尊敬と畏敬に値する者かみてみようと考えたと思われます。

出来事の流れを一つ一つ注意して見ていきましょう。45節で、イエス様が、女性は彼が家の中に入った時点から足に接吻をし続けていた、と言っていますが、女性はイエス様が来るのを家の前で待っていて、彼が来るやしがみつくようにして一緒に入ったのでしょう。舗装道路がない昔は、足はすぐ汚くなる部分です。接吻というのは、日本ではなじみがないので多少違和感があるかもしれませんが、敬意や愛情を示す行為として捉えて下さい。体の汚い部分に接吻するというのは、自分をとてつもなく低い者とし相手をとてつもなく高い者として敬意を表しています。とめどなくあふれ出る涙でどの程度足がきれいになるかは疑問ですが、これはむしろ象徴的な行為としてみたほうがいいのかもしれません。水気を含んだ汚れを髪の毛で拭えば、髪の毛はたちまち汚れるでしょう。女性は、そんなことは意に介さず、イエス様のために今出来ることを精一杯するだけです。そして、仕上げに高価な香油を塗りました。女性がしていることを一部始終見たシモンは内心呟きます。39節の仮定法過去で書かれたギリシャ語文の趣旨は以下のようになります。もしこの男が本当に預言者ならば、今何やらちょっかいをだしている女が罪を犯した者だとわかって、汚れた者はあっちに行けとでも言って、追い出すだろうに。ところが、女にさせるままにしているというのは、わかっていない証拠だ、だから預言者でもなんでもなかったんだ、期待外れだ、という具合です。

シモンの心の呟きを見て取ったイエス様は、この女性の行為が何を意味するのかを教えようと、一つのたとえを話します。多額の借金を抱えた人と少額の借金を抱えた人が返済に困ってしまった時、貸主から借金を帳消しにしてもらった。さて、どちらの負債者がより多く貸主を愛することになるだろうか。言葉を換えて言うと、どちらが、沢山の恩恵を受けたという念をもち、より多く感謝の念に満ちて、貸主のために尽くしてもいいと強く思うのはどちらだろうか、ということです。シモンは、大きな借金を帳消しにされた人の方が、小さい借金を見逃してもらった人よりも、より多く貸主を愛することになる、と答えます。

そこで、イエス様は、同じことがこの目の前の女性にも起こったのだ、と明らかにします。この女性は、「過去に罪を犯していた女性(ην αμαρτωλος)」と言われていますが、具体的にどんな罪を犯したのかは述べられていません。これについてよく言われるのは、夫婦関係を壊す不倫を犯したのではと十戒の第六の掟に関わる罪が考えられています。その可能性が高いと思われつつも、具体的に述べられていないので断定できません。しかし、いずれにしても、神の意思に反することを公然と行っていたか、また隠れてやっていたのが公けに明るみに出てしまった、ということです。

イエス様は、この女性の献身的な行為は、たとえの中に出てきた、沢山の負債を帳消しにされて貸主に一層敬愛の念を抱く人と同じである、と教えます。つまり、イエス様に沢山の罪を赦されたので、イエス様に一層敬愛の念を抱き、それが献身的な行為に現れた、というのです。

ここで、注意しなければならない大事なことがあります。それは、女性が献身的な行為をしたので、それが受け入れられて赦された、ということではないということです。そうではなくて、女性は初めに赦さて、それで感謝と敬愛の念に満ちて献身的な行為に及んだ、ということです。47節でイエス様は、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」と言っていますが、この「赦された」という動詞のギリシャ語は現在完了形(αφεωνται)で、ギリシャ語の現在完了形の意味に従えば、「この人は、ある過去の時点で罪を赦されて、現在に至るまでずっと罪を赦された状態にある」という意味です。過去のある時点で罪を赦されたというのは、以前にイエス様が女性に罪の赦しの宣言を行っていた、ということです。「罪を赦す」というのはどういうことか?先にも述べましたが、繰り返しますと、人が神聖な神の意思に反する行いをしたり、言葉を発したり、考えを持ったりして、神の怒りを買ってしまう。その時、その人が神の怒りを買うことをしてしまったと認めて悔いる。これを神が受け入れると、神はその罪を不問にする。事実としては残るが、あたかもなかったかのように忘れることにする、だから、あなたはもうしない新しい生き方をすぐ始めなさい、私はそれを支援するから。そう神に言われること、これが罪の赦しです。

ところが、赦す神とは逆に、女性の悔い改めを認めず、彼女の犯した罪をいつまでもねちねち問い続けて、新しい生き方に踏み出すのを妨げようとするのが、周囲の人たちの赦しのない情けのない態度です。37節で、「この町に一人の罪深い女がいた」というのは、ギリシャ語の原文では過去形(ην αμαρτωλος)なので、「この女は、以前この町で罪を犯していた者であった」という意味です。それなのに、ファリサイ派のシモンは心の中で、この預言者と騒がれているイエスは気が付かないのか、「この女は罪深い女なのに」(39節)、と呟きます。これは、ギリシャ語の原文では現在形(αμαρτωλος εστιν)なので、「この女は現在も罪びとでいるのに」という意味です。このように周囲の人たちは、女性が悔い改め、罪の赦しを得て、新しい生き方を始めようとしていることを認めず、赦されてなどいない、まだ同じ罪びとだ、と後ろ指をさして、顔と背を背け続けます。

しかしながら、イエス様は、女性の悔い改めを受け入れ、罪の赦しを宣言して、もう同じ罪を犯さないで生きようという新しい生き方を応援する方に回ります。イエス様は女性に言います。「あなたの罪は赦された」(48節)。これもギリシャ語では現在完了形なので、「あの時赦されたあなたの罪は今も赦され続けていて何ら変更はない」という意味で、周囲がなんと言おうが、神のみ子イエス様と父なるみ神の目から見れば、事実は確定しているから何も心配するな、ということです。さらに、会食の席に同席していた人たちが、イエス様が神しかできない罪の赦しを公然と行うことに驚き始めた時に、イエス様はさらに太鼓判となる言葉を女性に述べます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)。ここの「救った」というのも、現在完了形なので、正確には次のような意味になります。「あなたはわたしこそ罪の赦しを与えることができる者であると信じて赦しを得た。そうして、神との関係が回復して救われた者となった。それ以来、あなたは現在に至るまでずっと救われた状態にいる。」

以上、かつて罪を犯していた女性がイエス様を救い主と信じる信仰に入って、罪の赦しを得て、神との関係が回復して、救われた者となったことをみました。女性は、周囲の赦しのない、辛い荒波の中ではあるが、父なるみ神と御子の支援と応援を受けて新しい人生を始めることができるようになりました。そのために心も体も魂も恩恵と感謝の念に満ち溢れて、それが献身的な行為に現れました。

 

4. おわりに

 兄弟姉妹の皆さん、ダビデの罪の赦しは限定的になってしまい罪の負い目を残してしまいました。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しは全体的で完全なものになり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は罪の負い目を持たないで済むようになりました。

イエス様に罪の赦しを宣言された女性は、感謝と献身の気持ちに満たされ、疑う周囲の目を意に介しない勇気を持つようになりました。十字架と復活の出来事が起きる前でもこのような勇気を得たのです。その後でイエス様を救い主と信じ洗礼を受けた私たちに同じ勇気が与えられないことがありうるでしょうか?

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

 

交わり

 

交わりの席で吉村先生から移転先の教会についての発表がありました。最終的な教会が決まるまでの暫定的な会堂ですがここで教会の力を蓄えてその次のステップを目指したいと思います。