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3月27日と31日 スオミ教会家庭料理クラブの報告

ピーチケーキ

ピーチケーキ

桜の花も満開となり、スオミ教会前の可愛い花たちも咲き誇る春の日、家庭料理クラブは、イースターや春を迎える喜びを込めて、イースターカラーの黄色い[ヨーグルト風味のピーチケーキ]を作りました。

最初にお祈りをしてスタートです。

計量して生地を作り、冷蔵庫で休ませてる間に、ヨーグルトクリーム作りや、ピーチをスライスしたりと作業は進みます。

休ませた生地にヨーグルトクリームを流し、滑りやすいピーチを、苦心して並べてオーブンへ。

黄色も鮮やかなケーキが焼き上がりました。

やさしく華やかな黄色いピーチケーキは、手作りならではの優しい味わいに仕上がりました。

試食タイムは、パイヴィ先生が用意して下さった、一晩おいて味の馴染んだケーキと、焼きたてケーキの豪華版です。

パイヴィ先生からは、イースターのお話と、春を心待ちにするエピソード等を、聞かせて頂きました。

参加の皆様、コロナのため、制約も多いなか、ご協力や最後までの後片付け、ありがとうございました。

 

桃とイースターのお話

フィンランドでは、ピーチケーキは春が近づくとよく作られるケーキの一つです。前の年の夏に採って冷凍庫に保存していたイチゴやブルーベリーなどのベリーは、春が近づくと残り少なくなります。それで、ベリーの代わりに缶詰めの果物を使ってお菓子やケーキを作ります。黄色の桃は春の明るい雰囲気を良く表すので、春を迎える時に作るお菓子にピッタリ合います。フィンランドでは黄色はイースターの色とも言われているので、このケーキは特にイースターに向けてよく作られます。

イースター・復活祭はもう今度の日曜日で、少しイースターについてお話したく思います。フィンランドでは一年の中でイースター・復活祭はクリスマスの次に大きなお祝いで、休みも聖金曜日から次の月曜日まで4日間あります。

この大きなお祝いのために家庭では様々な準備をします。家の掃除を普段より丁寧に行って、イースターの料理やお菓子を作ることです。子供たちも楽しみがあります。何かというと、フィンランドではイースターの季節が近づくとこの季節に店ではチョコレートのイースターエッグを販売するからです。子供たちはそれを買ってもらうのを楽しみにしています。

イースターの期間は年によって変わって、3月の中ごろから4月の終わりの間になります。この期間、フィンランドはまだ寒く、自然の中は緑もまだありません。そのために人々はイースターの前に白樺の枝を取ってきて家の暖かい場所に置いておきます。そうすると枝に芽が出てきます。白樺の他にネコヤナギもよく家の中に置かれます。それから、イースターの前に準備することとして芝生を育てることがあります。家の中で土を例えばお皿の上に入れて、それに種を蒔いて暖かい場所に置いておくと、もう2週間の内に芝生が育ちます。それもきれいなイースターの飾り物になりますが、新鮮な緑色の芝生はイースターの意味である「新しい命」をよく表します。チョコレートエッグやイースターの飾り物を準備することを通してイースターは喜びのお祝いだということが子供たちにも伝わっていくのです。

イースター・復活祭の季節は日本では暖かくてあちらこちらで花が咲き新緑も見かけます。日本では桜が大体イースター・復活祭の期間に咲きます。今年のイースターの時もまだきれいに咲いているでしょう。満開の桜を見るといつも先ほど言ったイースターの意味を思い出します。冬の間枯れて死んだような桜の木の枝から突然沢山の美しい花が咲くのを見ると、「死からの復活」と「新しい命」というキリスト教のメッセージがとても身近になって大きな喜びを覚えます。

それでは、イースター・復活祭はどうして喜びの日になったのでしょうか?聖書は、このことについて詳しく書いてあります。まずイースターの前にイエス様が受けられた苦しみについて書いてあります。イースターの前の週の木曜日イエス様は、イエス様に反対する者たちに捕らえられて、沢山の苦しみを受けなければなりませんでした。イースターそして、翌日の金曜日、イエス様は何も悪いことはしていなかったのに、十字架にかけられて死なれました。イエス様の体は十字架から下されて、布に巻かれて、岩に掘った墓に入れられました。でもこの日から3日目の日曜日の朝イエス様は復活されたのです。その朝、イエス様の教えをよく聞いて従っていた女性たちがイエス様のお墓に行きました。ところが、イエス様の体はもうお墓の中にはありませんでした。そこへ天使が現れて、イエス様は復活されたのだと女性たちに告げ知らせました。女性たちはこれを聞いて大喜びしました。イエス様が死から復活されたことは、あの女性たちだけではなく、私たちや全世界の人々にとっても大きな喜びになりました。何がそんなに喜ばしいのでしょうか?

イエス様は私たちや世界の全ての人々の罪を全部背負って十字架の上まで運んで、そこで私たちの代わりに神様の罰を受けて死なれました。私たちは、イエス様のおかげで神様から罪の赦しをいただけるようになりました。しかし、それだけではありませんでした。神様はイエス様を死から蘇らせました。そうして、死を超えた永遠の命への扉が開かれたのです。これが世界で一番最初のイースター復活祭の日に起こったことでした。死から復活されたイエス様は、今日も明日もこれからもいつも永遠に私たちと共にいてくださるのです。これよりも大きな喜ばしいことはあるでしょうか?

イースターの時に飾りつけをする卵も、イースターの意味をよく表しています。卵の殻は復活したイエス様が出て行かれた空っぽのお墓を象徴します。そして卵の黄身は、イエス様が復活されたことで私たちに与えられる永遠の命を象徴します。そして卵の中から出てくるひよこは、喜びそのものです。

3月28日(日)枝の主日 主日礼拝 司式・説教 マルッティ・ポウッカ牧師(フィンランド・ルター派国教会) 祈り・聖書朗読 パイヴィ・ポウッカ・本ビデオ礼拝は、ご自宅からでもスオミ教会の会堂からでも視聴参加できます。

聖書日課 イザヤ50章4〜9a節、フィリピ2章5〜11節、マルコ11章1〜11節
讃美歌 189(1)、77(1)、77(5)、200
ビデオ編集 パイヴィ・ポウッカ

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特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、私たち人間の救いのためにみ子イエス様をこの世に送られ、彼を十字架の死に渡されました。どうか、イエス様を救い主と信じる私たちが、彼のあなたへの従順さに倣い、彼がもたらした罪と死に対する勝利に留まることができるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

説教「十戒が血と肉になるとき」神学博士 吉村博明 宣教師、エレミア書31章31-34節、ヨハネによる福音書 12章20-33節

主日礼拝説教 2021年3月21日 四旬節第五主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

ここ数週間の礼拝説教で十戒について教えることが多かったと思います。特にキリスト信仰者にとって十戒とは何か、それにどう向き合うかということが大きな問題としてありました。本日の旧約の日課エレミア書31章の個所も、キリスト信仰者にとって十戒とは何かということを教えています。今日もこの問題について本日の聖書の日課をもとにして深めていきたいと思います。キリスト信仰者にとって十戒とは何か?それにどう向き合うか?

まず十戒について少し復習しておきましょう。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。大きく分けて二つの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名を引き合いに出して誤った誓いを立ててはいけない、また神の名を不正や偽りにかこつけて唱えてはならない、神聖な名を汚してはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。

第4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。第9と10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。

十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。ところがイエス様はもっと深いところ、すなわち十戒を与えた神の本当の意図について教えました。有名な山上の説教のところです。たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪であると(マタイ5章21-22節)。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。天地創造の神は人間に内面の潔白性までも求めているのです。全ての掟がそのようなものならば、十戒を完全に守ることができるのは誰もいなくなります。このことは使徒パウロも深刻に受け止めました。ローマ7章です。十戒の掟があることで自分にはそれに反するものがあると気づかされると言うのです。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は守れない自分を気づかせるという、人間の真実の姿を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。

さらにイエス様は、十戒の土台にあるものについても教えました。マルコ12章28ー31節です。神と人間の関係を律する最初の3つの掟について、その趣旨は神を全身全霊で愛することであると教えました。それで3つの掟はこの趣旨に従って理解し守らなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することであると教えました。それで7つの掟についてもその趣旨に従って理解し守らなければならなくなりました。このような土台があるために宗教改革のルターは第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入るのだと教えたのです。さらにイエス様は、神への愛の掟と隣人愛の掟の関係についても教えました。彼によれば、神への愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えたのです。

以上、人間は十戒を守り切れない。心の中まで問われたらとても難しい。しかも、守ることが神への愛、隣人への愛に基づいていなければならない。さらに隣人への愛は神への愛に基づいていなければならない。イエス様はそう教えられました。少しこんがらがってきましたが、どうやらそういう愛を持てないと十戒は守れない、守ったつもりが守ったことにはなっていない、そんな愛があるというのです。それはどんな愛なのでしょうか?どうしたらそんな愛を持てるのでしょうか?エレミア31章の神の言葉は実は、そのような愛を持てる日が来ることを言っています。まず、その御言葉を見てみましょう。

2.神は十戒を人間の体の外側でなく内側に授け、心に書き記す

エレミア31章の神の言葉は、神がイスラエルの民と新しい契約を結ぶ時が来ると言っているところです。新しい契約の前に古い契約がありました。それは、出エジプトの時に神と民の間に結ばれた契約でした。「契約」と言うと、賃貸契約、売買契約のような取引関係を思い起こさせますが、そうではありません。ヘブライ語の単語ブリートは「同盟」の意味があります。それで聖書で「契約」という言葉が出てきたら、神と人間の「同盟関係」とか「契り」というふうに考えます。神は、イスラエルの民を世界の諸民族の中から選んで自分の民とすると宣言しました(申命記7章6~7節)。つまり、万物の創造主である神から守りと導きと祝福を受けられる民になれるということです。相手は万物の創造主ですから、これほど名誉なことはありません。それにしても、なぜイスラエルの民がこんな破格な扱いを受けられたかと言うと、それは民が偉大で優秀だったからではありませんでした。ただ単に神の一方的な思い、つまり民を憐れんで愛したからでした(申命記7章8節)。

ただし、イスラエルの民が天地創造の神の守りや導きや祝福を受けられる「神の民」でいられるために、民の側にもしなければならないことがありました。それが十戒の掟でした。旧約聖書の初めのモーセ五書を繙くと、神が与えた掟は十戒の他にもそれから派生して無数の掟があります。特に将来建てられる神殿での礼拝に関する規定は沢山あります。これらの掟を称して律法と言います。十戒はその中心です。

さて、イスラエルの民は約束の地カナンに移住し、敵対する民族の攻撃をはねのけながら、その地に根付いていきます。紀元前11世紀半ばに王制に始め、サウル、ダビデ、ソロモンという王を輩出しました。しかしながら、その後は王国は南北に分裂し、民の心や生き方は神や律法から離れていきます。これははっきり契約違反でした。神は預言者を遣わして民が神のもとに立ち返るよう警告しますが効果はなく、民は神の祝福を失い、まず北王国が紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされ、残る南王国も紀元前587年にバビロン帝国によって滅ぼされてしまいます。

本日のエレミア31章の神の言葉は南王国が滅亡する直前に語られたものです。古い契約は民が律法を破り続けて神のもとに立ち返ろうとしなかったため民の方から破棄されてしまった。それで、国が亡びるのは当然のことでした。しかし、ここで注目すべきことは、神はかつて自分の一方的な思いでイスラエルの民を選んだ、その思いを捨てないのです。イスラエルの民を見限って別に掟を守れそうな民族を選ぶということはしない。そもそも、どの民族をとっても結果は同じでしょう。しかし、神は今度はイスラエルの民が律法を守れるような民族にしてあげよう、自分の力で守れないのなら、こっちで守れるような者に変容させてあげよう、と言うのです。それが新しい契約ということでした。この新しい契約は実は、イスラエルの民という一民族を超えた世界の全ての民族にとっても重要な意味を持つものになりました。神はそれをイスラエルの民を通して世界中の諸民族に及ぼそうとされたのです。

新しい契約とは何か?それは、「わたしの律法を胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」というものでした。新共同訳では「胸の中」ですが、ヘブライ語の単語ケレヴを辞書で見るとthe inward part of bodyなので胸だけでなく体の内面的な部分全体です。律法を人間の外側部分にではなく内側部分に授ける、心にそれを書き記すというのです。古い契約の時は律法は内側部分ではなく外側部分に授けられ、書き記されたのは石の板でした。人間はそれを読んだり聞いたりして守ろうとしたのですが、それが今度は律法が人間に内面化して、内側から守るようになるというのです。ここで「律法」という言葉についてひと言。これはヘブライ語のトーラーでモーセ五書の掟集全部を指すこともあります。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事が起きた後、そしてエルサレムの神殿が消滅した後は、十戒に絞って考えるのが妥当です。

さて、十戒が人間に内面化するというのは、それがあたかも血と肉と化すということです。十戒は人間に対する神の意思ですから、神の意思そのものが内面化して血と肉と化すると言うのです。本当にそんなことが起きれば、人間は無理して掟を守ろうと苦労することはなくなります。血と肉と化しているのだから、自然に守れるようになります。新しい契約ではそういうふうになると言うのです。その証拠に、隣人同士、兄弟同士が「主を知れ」と言って教え合うことはなくなると言います。もう神の意思が自然にわかるし、それに従って生きることも自然に出来るようになります。人間をそのようなものに変容させる契約とはどんな契約なのでしょうか?そのような契約を結ぶ日が来ると言っていますが、それはいつなのでしょうか?

エレミア31章33~34節をもう少し詳しく見てみます。神が十戒を人々の心に書き記し、それで人々は神の民となり神はその人たちの神となる。その時、人々はお互いに「主を知れ」と教え合う必要がなくなる。人々がそこまで神のことを知ることが出来るようになるのは、神が十戒を人の心に書き記したからです。以前は、石の板に書き記したものを読ませて守るように命じたけれども、結局は守れませんでした。それを今度こそは守れるようにと心に書き記すのです。十戒を自然に守れるように心に書き記すということは本当に起こったのでしょうか?それが起こることを示す神の言葉があります。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」人間が神の意思に反する罪を持ったり行ったりしても、神がそれを赦して不問にするすと言うのです。神の罪の赦しと十戒の内面化が関連しあっていることが見えてきます。両者を結びつきたのがイエス様でした。どのように結びつけたのか、それをイエス様の本日の福音書の言葉をもとに見ていきましょう。

3.十戒の血肉化はイエス様の十字架と復活から始まった

ギリシャ人が自分に会いたがっていると聞いたイエス様は、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言いました。さらに「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」と言いました。ここでイエス様は「死ぬ」ということを言います。32節では「私が地上から上げられる時」と言います。これは言うまでもなく、イエス様が十字架にかけられて地上から上げられることを意味します。神の栄光を現わす時が来たと言って、それは自分が十字架にかけられて死ぬ時に起きると言うのです。これはどういうことでしょうか?

イエス様がゴルゴタの十字架で死を遂げたというのは、人間の罪から来る神罰を私たちの代わりに受けられたということでした。つまり、人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。まさに人間が神罰を受けないで済むようにするための犠牲の生贄になったのです。イエス様は全人類の罪を十字架の上にまで運び上げて罰を受けたので罪はイエス様と抱き合わせの形で滅ぼされました。それで罪の人間を支配下に置こうとする力は無にされました。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられました。それによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。

そこで人間がこれらのことは本当に起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いと罪の支配からの贖いがその人にその通りになります。その人は神から罪を赦された者と見てもらえ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待っている神の御国に迎え入れられるようになります。31節でイエス様が「この世の支配者が追放される」と言いますが、「この世の支配者」とは目に見える具体的な権力者ではなく、目に見えない霊的な支配者、悪魔のことです。人間が神との結びつきを持てなくなるようにしようとする者です。その一番大事な道具である罪が役立たずになってしまいました。悪魔としては歯ぎしりするしかありません。

キリスト信仰者は洗礼を通してイエス様のおかげの罪の償いと罪からの贖いを自分のものにした者ではありますが、そうは言っても、罪すなわち神の意思に反することを行ったり言葉に出したり心で思ってしまう可能性は残ります。そうなってしまったら、どうなるのか?イエス様の犠牲を台無しにしてしまったのでまた罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?そうではないということをここ数週間毎回述べてきました。そのような時、その人はすぐ我に返って父なるみ神に「私の身代わりとなって死なれたイエス様は真に私の救い主です。彼の神聖な犠牲に免じて私を赦して下さい」と願い祈れば、神はイエス様の犠牲に免じて本当に赦して下さるのです。それくらいにイエス様の犠牲は完全なものです。その人はまた復活と永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻ることができ、それを進み続けることが出来ます。このようにキリスト信仰者は罪にはまることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いに戻ってそこに留まる限り、神は罪を赦しそれを不問にして下さいます。まさにエレミア31章34節で神が罪を赦す、思い返さないと言っている通りのことが起こるのです。

このようにイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを持つキリスト信仰者は、パウロがガラテア3章27節で言うように、イエス様を罪の汚れのない純白な衣のように着せられた者です。神聖な神は罪を忌み嫌い、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、信仰者がこの衣を手放さないでしっかり纏っているのを見て義とされるのです。キリストを着せられる前は、自分には罪があるから神に相応しくないということでした。ところが着せられた今は、イエス様のおかげで神に相応しい者に変えてもらいました。それで、罪は自分には相応しくないという自覚が生じて罪を足蹴にします。

キリスト信仰者がイエス様という衣を手放さないでしっかり纏うというのは罪の告白と罪の赦しにしっかり留まるということです。キリスト信仰者は十戒を持っており、しかもイエス様が教えた神の意図も知っています。それで、それらに照らせば自分には神の意思に反するものがあるとすぐ気づきます。その時は罪の告白をして罪の赦しを頂きます。それで、自分にはこんな罪があるのにイエス様のおかげで神に受け入れられていることに再び感謝します。その時、罪は自分に相応しくないという自覚が戻り、罪を足蹴にします。しかし、一時するとまた自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで罪の告白をし赦しを受ける。そして神に受け入れられていることがわかり罪を足蹴にする。罪の告白と罪の赦しを繰り返せば繰り返すほど、罪を圧し潰していくことになります。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これが、十戒が心に書き記されて血と肉になった者の生き方です!人によっては、罪を告白するんだったら十戒を守っていないことじゃないかと言うかもしれません。しかし、罪を足蹴にし圧し潰していくのは、十戒が血と肉になっているからです。十戒を内側から守っているのです。

そもそもキリスト信仰者が被せられているイエス様というのは十戒が完全に実現されている方でした。信仰者は罪の自覚、神への告白と赦し、これを繰り返すことで自分を着せられている衣に合わせていくのです。これがイエス様が25節で言う、「この世で自分の命を憎む」生き方です。自分の命を憎むなどと言うと自己否定に聞こえますが、そうではありません。この世で目や心を引き付けるものに自分を合わせていかないで、イエス様の衣に自分を合わせていくのです。否定するのはこの世と結びついた自分です。神と結びつきを持ちイエス様という衣を纏っている人はそれが自己になっています。自己否定などありません。罪の告白と罪の赦しを繰り返せば繰り返すほど、罪の償いと罪からの贖いを自分の内に最大化していくことになります。そのような生き方がイエス様が26節で言う、彼に仕える生き方なのです。

私たちの造り主である父なるみ神は、私たちの側で何か顧みてもらえるようなすごいことをしたわけではないのに、父の方から一方的にひとり子を私たちに贈られて罪の償いと罪からの贖いを果たして下さいました。このことのゆえに私たちは神のこの一方的な愛に心を動かされて神を愛するようになります。また神が私たちにしたように私たちも隣人に対して一方的に善いことをしよう、赦しを与えようという心を持てるようになるのです。この愛があるおかげで、十戒を愛以外の動機や目的に基づかせて守ろうとすることがなくなっていきます。愛に基づかせて守ろうします。その時、十戒は間違いなく心に書き記されて血と肉になっています。

4.一粒の麦、地に落ちて死ななば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし

最後に、本日の福音書の個所でギリシャ人がイエス様に会いたがったことがありました。このことについてひと言述べておきましょう。当時地中海世界の東側はギリシャ語が公用語になっていました。いろんな民族の人がギリシャ語を話していたので、彼らをひっくるめて「ギリシャ人」と呼んでいました。そうした諸民族の中からユダヤ教に改宗する人たちも大勢出ました。なにしろ、多神教が主流の世界で唯一の神を崇拝するというのは斬新なことでした。しかも、人間はこの唯一の神に造られ、胎内にいる時から見守られている、などと言うのです。当時の地中海世界というのは、生まれてくる子供を大人の都合で間引きすることが普通だったところでしたから、このような生命感は革命的なことでした。こうしたことのために人々は聖書の神にひきつけられたのです。イエス様に会いたいと言ってきたギリシャ人は過越祭を祝うためにエルサレムに来ていたので改宗者だったのでしょう。彼らは旧約聖書を知っているのでメシアの到来も信じていました。イエス様のことを聞いて、もしかしたらこの人かもしれないという予感がしたのでしょう。

さて、十字架と復活の出来事の後、あの方こそ旧約聖書に預言されていたメシアだったという知らせが使徒たちの伝道の働きを通して地中海世界に瞬く間のうちに広まりました。あの時、ギリシャ人が会いたいと言っているのを聞いたイエス様は、これから果たすことになる罪の償いと罪からの贖いの業がユダヤ民族の境界を越えて拡がっていくのは間違いないと確信したのでした。そして、それは彼の十字架と復活の出来事の後でその通りになりました。まさに一粒の麦が死んで多くの実を結ぶということが起こったのでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 


特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。
あなたは、イエス様の十字架の業によって、私たちを罪と死の支配から贖(あがな)い出して下さいました。
あなたから頂いたこの「罪の赦しの救い」、そして死を超えた「永遠の命の希望」を身近な人たちにも伝えることができるよう、私たちを強めて下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン

 

 

説教「心の目でゴルゴタの十字架を見つめる時、死を超えた永遠の命に向かって進むことができる」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書 3章14-21節

主日礼拝説教 2021年3月14日 四旬節第四主日

礼拝は機器の不具合により動画配信が行えませんでした。ご了承下さい。礼拝説教のテキストは本ホームページに掲載します。それをご覧下さい。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

東日本大震災から10年が経ちました。死者・行栄不明者合わせて2万2千人の大惨事でした。避難生活を送られている方も未だ4万人を超えるそうです。心に深い傷を負いながらも前に進んでいる人たちもいれば、なかなか進めない人たちもおられます。それなので、被災された方たちがみな前に進めるように必要な支援を受けられ力を得ることができるように、後ほどみんなで一緒に祈る時に父なるみ神に祈り願いしましょう。

東日本大震災はまた地震と津波の災害の他に原発や放射能汚染の問題もあります。この問題は、この日本でどのように生きていくかという問いを被災したかどうかにかかわらず全ての人に突き付けています。

そこで本日の礼拝の説教ですが、私たちは一時の間、この世界のことから身を引いて聖書にある神の御言葉に耳を傾けて父なるみ神は私たちに何を求めているのか、それに対して私たちはどう応えていくのかということを明らかにしていきたいと思います。明らかになったことを心に留めて、また明日から始まる平日の日常に戻って、私たちを取り巻く世界のいろんな問いかけに向き合いながら、自分自身の課題に取り組んでいきたいと思います。

そういうわけで本日の説教は、本日の福音書の箇所、ヨハネ福音書3章14-21節にあるイエス様の言葉を中心に解き明かしをしていきます。この個所は実は本日の旧約の日課、民数記21章4-9節と使徒書の日課、エフェソ2章1-10節とも密接に結びついています。これら3つの聖句を互いに突きあわせることで、ヨハネ福音書のイエス様の言葉の意味がよくわかってきます。どんなことがわかってくるかと言うと、イエス様がかけられたゴルゴタの十字架を心の目で見つめることが出来るかどうか、このことが死を超えた命、永遠の命に至るかどうかの決め手になるということです。以下それを見ていきましょう。

2.信じるとは、心の目で見つめること

本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3章1-21節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、神の愛とはどういうものか、また人間の救いとは何か、そして人間は洗礼を通して新しく生まれ変われるということについても教えを受けます。

本日の箇所でイエス様はニコデモに、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げたという出来事は、本日の旧約の日課、民数記21章の中にあります。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度も民を苦境から助け出したのですが、それにもかかわらず民は、一時するとそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に反抗したことを罪と認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に赦しを祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを見つめる者は、「炎の蛇」に咬まれても命を落とさないで済むようになりました。新共同訳では「炎の蛇」を「見上げる」とか「仰ぐ」と訳していますが、9節のヘブライ語の動詞ヒッビートゥהביתプラス前置詞エルאלは辞書によると英語のlook at、gaze atです。それで、「見上げる」、「仰ぐ」のような「見やる」ではなく、「見つめる」とか「注目する」です。じーっとよーく見ることです。

イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分を同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見つめると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたということにとどまらない深い意味が含まれています。

民数記21章の出来事に出て来る「炎の蛇」サーラーフשרףですが、興味深いことに各国の聖書では「猛毒の蛇」と訳されています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。しかし、ヘブライ語の辞書を見ると「炎の蛇」はありますが、「猛毒の蛇」はありません。欧米の翻訳者たちはきっと、古代人は蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんなふうに考えて「猛毒の蛇」という辞書にはない言葉で訳したんではないかと思われます。つまり、「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、出来るだけ合理的な訳をしようとしたのでしょう。どうも欧米人にはそういうところがあるように思われます。しかし、せっかく彼らが作った辞書に「炎の蛇」とあるのだから、ここでは少し踏みとどまって、「炎の蛇」で通すことにします。モーセが神から「炎の蛇」を造りなさいと言われて青銅の蛇を造ってそれを旗竿に掲げました。それを見つめた人たちは命が助かりますが、これは一体どういうことでしょうか?以下のように考えたらよいでしょう。

神から「炎の蛇」を造りなさいと言われたモーセがとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱なのでまさに「炎の蛇」です。しかし、だんだん冷めて固まります。それを神に言われたように旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。何の力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが悪魔にそそのかされて、造り主の神に対して不従順になって神の意思に反しようとする性向つまり罪を持つようになってしまいました。それが原因で人間は死ぬ存在となってしまいました。これが堕罪と言われる出来事です。

イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うということについて、これはまさに神の意思に反する罪を犯すと、その罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは冷たくなった蛇の像でした。これは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。つまり、神が与える罪の赦しは、罪の死に至らしめる力よりも強いということを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見つめた者は、そこで表わされていることがその通りになって死を免れたのです。

これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。神の意思に反しようとする罪が人間に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを修復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送りました。彼に全ての人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせました。つまり、イエス様は全ての人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったのです。加えて、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせの形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされて罪はその力を無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力であり、人間がこの世から去った後も造り主のもとに迎え入れられなくする力です。まさにその力が打ち砕かれ無力化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そればかりではありませんでした。一度滅ぼされたイエス様は三日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられました。それによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。他方、イエス様と共に断罪された罪は、もちろん復活など許されず滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。

このように神はひとり子のイエス様を用いて全ての人間の罪の償いを全部して下さり、また罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。そこで人間がこれらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いと罪からの贖いがその人に対してその通りになります。ここでまさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。イスラエルの民は悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見つめました。そして蛇の像が表していた毒消しがその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが私たちはイスラエルの民が青銅の蛇を見つめたように肉眼でゴルゴタの十字架を見ることは出来ません。それははるか2000年前に立てられたものです。それゆえ、私たちは心の目で見つめなければなりません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を償われ罪から贖われた者はイエス様の十字架を心の目で見つめたのです。

3.一度だけではなく、何度でも見つめること

イエス様の十字架を心の目で見つめることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた時に一回だけあったのではありません。心の目で見つめることは洗礼の後も何度も何度も繰り返されます。どうしてかと言うと、キリスト信仰者になったとは言っても、神の意思に反する性向つまり罪はまだ残っているからです。イエス様は有名な山上の説教で、たとえ人殺しをしていなくても兄弟を罵ったり憎んだりしたら同罪、たとえ不倫を犯していなくても女性を淫らな目で見たら同罪と言う具合に、神は罪のない潔白さを心の中まで問うていると教えたのです。確かにキリスト信仰者になったら注意深くなって神の意思に反することを行いや言葉に出さないようにしようとします。それでも心の中では反することを考えてしまいます。また、人間的な弱さがあったり本当に隙をつかれたとしか言いようがない不注意があって罪を言葉や行いで犯してしまうこともあります。そんな時はどうなるのか?せっかくイエス様が果たしてくれた罪の償いと罪からの贖いを台無しにしてしまったことになり、もう神罰を受けるしかないと観念するしかないのでしょうか?

いいえ、そうではない、ということを先週の説教でも先々週の説教でも申しました。自分に神の意思に反することがあった時は、すぐそれを神の御前で素直に認めて次のように赦しを願い祈ります。「どうかイエス様を救い主と信じますので、彼の犠牲に免じて私を赦して下さい。」そうすると神も次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあの十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられて今も微動だにしていない。イエスの犠牲に免じてお前を赦すのだから、お前もこれからは罪を犯さないようにしなさい。」

こうしてキリスト信仰者はまた永遠の命が待っている神の国に向かう道に戻れて再びその道を進み始めます。ここで明らかなように、御国に向かう道に戻れて再出発できたのは、心の目で十字架を見つめることをしたからでした。心の目で十字架を見つめることは、キリスト信仰者がイエス様を救い主であると確認する仕方です。キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と神への告白と罪の赦しの繰り返しですので、十字架を見つめることは何度でもします。そうやって何度でも再出発します。キリスト教は真に再出発の宗教と言ってもいいくらいです。そもそも神は、人間が死を超えた永遠の命が待つ神の国/天の御国に挫けずに到達できるようにとイエス様の十字架を打ち立てたのでした。私たち人間の救いのためにひとり子を犠牲に供しても良いとしたのでした。これが人間に対する神の愛ということです。そのことをヨハネ3章14~16節はよく言い表しているので、もう一度拝読します。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

4.信じない者は信じるに転ぶ可能性を秘めている

ヨハネ福音書3章の本日の箇所の後半(18-21節)で、イエス様は自分のことを信じない者についてどう考えたらよいか教えています。キリスト信仰者にとっても気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。

3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」などと言います。これは一見すると、イエス様を信じない人は既に地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたらあまりいい顔しないでしょう。しかし、ここで注意しなければならないことがあります。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになって以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。それでみんながみんなこの世を去った後は復活の日に永遠の命に与れず神の御国に迎え入れられなくなってしまう、永遠に自分の造り主と離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されます。信じなければ状況は何も変わらず、堕罪の時以来の滅びの道を進み続けるだけです。これが「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。逆に、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それは軌道修正がなされたことになります。その時、「裁かれている」というのは過去のことになり今は関係ないものになります。

3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と彼を用いて救いの道を用意して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。

3章20節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない人は悪行を覆い隠そうとする悪人、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように聞こえて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るところだと思います。しかし、それは早合点です。キリスト教が本当は独善的でも何でもないことがわかるために、まず、キリスト信仰者とそうでない者の違いを見てみます。そうでない者の場合は、造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が全て造り主の神にお見通しという考え方がありません。そもそも、そういうことを見通している造り主自体を持っていないのです。

キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果は、いつも沿っていないので、そのために罪の告白をしてイエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で罪の告白と赦しを行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善い業しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善い業を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身の真の姿を造り主である神に知らせるということです。善い業もしたかもしれないけれど実は罪もあった、それで罪も一緒に神に知らせるということです。私は神であるあなたを全身全霊で愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでしたと認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。

このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善い業が人目につくように明るみに出すためではありません。3章21節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善い業も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなります。そうなると、神の前で自分を誇ることができなくなります。

翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいためにイエス様をこの世に送られたのでした。神はイエス様を用いて救いを整えて、全ての人間にどうぞ受け取りなさいと言ってくれているのに、多くの人はまだ受け取っていません。また一度受け取ったにもかかわらず、十字架を見つめなくなってしまう人たちもいます。人間を救いたい神からみればとても残念なことです。それなので、キリスト信仰者は救いを受け取っていない人には受け取ることが出来るように、既に受け取った人は手放すことがないように働きかけたり支えてあげたりしなければなりません。受け取っていない人が受け取ることが出来るように、既に受け取った人が手放すことがないように働きかけたり支えたりするというのは、詰まるところ心の目でゴルゴタの十字架を見つめることができるように導くことです。見つめることができるようになれば、死を超えた永遠の命に向かって進めるようになります。隣人愛の中でこれほど大事なものはないのではないでしょうか?主にある兄弟姉妹の皆さん、このことをよく心に留めておきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、罪の汚れを持つ私たちを罰するかわりに、赦すことで私たちを癒(いや)して下さいました。どうか、あなたに癒された私たちが、あなたを全身全霊で愛し、また隣人を自分を愛するがごとく愛せるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

説教「罪よ、お前は私にふさわしくないのだ」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書 2章13-21節、出エジプト20章1-17節

主日礼拝説教 (2021年3月7日 四旬節第三主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名を引き合いに出して誤った誓いを立ててはいけない、また神の名を不正や偽りにかこつけて唱えて神聖なその名を汚してはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。

第4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。そして、第9と10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。

十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。ところがイエス様は十戒について、それを与えた神の本当の意図について教えました。有名な山上の説教のところです。たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21ー22節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27ー30節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。天地創造の神は人間に内面の潔白性までも要求しているのです。全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいないでしょう。このことは使徒パウロも深刻に受け止めました。ローマ7章です。十戒の掟があることで自分にはそれに反するものがあると気づかされると言うのです。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は守れない自分を気づかせるという、人間の真実の姿を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。

そうすると、神は一体私たち人間に何を求めているのか疑わしくなります。まさか私たちが守れない自分に気づいてがっかりするのを期待する意地悪な方なのか?それとも本当は私たちが守れるようになることを望んでいるのか?でもどうしたら守れるようになれるのでしょうか?

その点に関してイエス様は次のようにも教えています。マルコ12章28ー31節です。十戒のうち神と人間の関係を律する最初の3つの掟について、その趣旨は全身全霊で神を愛することに尽きると教えました。それで3つの掟はこの趣旨に沿って理解し守らなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することに尽きると教えました。それで7つの掟についてもその趣旨に沿って理解し守らなければならなくなりました。まさにこのことがあるので宗教改革のルターは第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入るのだと教えたのです。さらにイエス様は、神に対する愛の掟と隣人愛の掟がどうお互い結びついているかも教えました。彼によれば、神に対する愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えました。

それらからすると、守れない自分に気づいてがっかりして終わることが神の目的ではないことがわかります。それは守らなければならないのです。しかし、外面上は守れていても、内面ではイエス様が言うように守れていないことがあります。例えば、本心では気乗りしないのだが、神に義と見てもらうためとか、周りの人に義人に見てもらえるようになるためとか、そういう自分の利益で掟を守るということがあります。ここでイエス様が、神と人間の関係についての掟は神を愛することで守る、また人間同士の関係の掟は隣人を愛することで守る、そのように言われる時、まさにそういう自分の利益のために守るということを吹き飛ばしているのです。それでは、自分の利益を全く顧みないで掟を守ることが愛と言うのなら、私たちはそのような愛をどうしたら持てるでしょうか?本日の福音書の個所でイエス様が自分のことを神殿と言っていることに、その鍵があります。今日の説教ではそのことを見ていきましょう。

2. イエス様は究極の神殿

本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、モーセを指導者とするイスラエルの民が神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。この祝祭の主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には生贄用の羊や牛が売買されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたというのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物の購入や神殿への納めのために通貨を替える必要がありました。

 このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、礼拝者や巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が本当に神の意思に沿っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。罪のゆえに壊れてしまった神と人間の関係を修復できる方、また罪の赦しを与える方はまさに創造主の神しかいないのに、形式的に儀式をこなせば神は修復して赦してくれて当然というような傲慢な態度も生まれてきます。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11ー17節、エレミア書6章20節、7章21ー23節、アモス書4章4節、5章21ー27節など及びイザヤ29章13節も)。

イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。彼がどうしてそこまで憤ったかと言うと、本当ならばユダヤ民族をはじめ全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけを追求する場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。興味深いことに、この「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞エゲイローεγειρωが使われています。三日で建て直すことと三日で復活することが掛け合わされています。

神殿というのは本当なら、人間が神から罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、そうして神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまっている。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?

 復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って神の意思に反する性向を持つようになってしまいました。その性向を聖書では罪と呼びますが、それを持つようになってしまったために人間は、神聖な神の御許にいられなくなってしまい神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から死んでも復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげようと決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子のイエス様に受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になりました(第一コリント5章7節、ヘブライ9ー10章)。

 イエス様の犠牲は、それまでの牛や羊などの動物を用いた生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24ー28節)、本当に完璧な生け贄だったのです。

 イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄ということだけにとどまりません。イエス様は全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪されました。その時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。イエス様が人間の罪の償いを人間に代わってして下さったので、罪は人間を縛り付ける力を失いました。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を自分の支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。ここまでお膳立てされたのですから、あとは人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の償いが洗礼を受けた人にその通りになり、そうしてその人は罪の支配下から脱せて神との結びつきを持って生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、難しい言葉で贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代償が、神のひとり子が十字架で流した血でした。

そういうわけで、キリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを洗礼を通して自分のものにした人ということになります。ただ、そうは言っても、キリスト信仰者が罪、神の意思に反することを行ったり言葉に出したり心で思ってしまう可能性は残ります。そうなってしまったら、どうなるのでしょうか?イエス様の身代わりの犠牲を台無しにしてしまうことになるのか?それでその人はまた罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?そうではない、ということを先週も先々週もお教えしました。そのような時、その人はすぐ我に返って父なるみ神に「私の身代わりとなって死なれたイエス様は真に私の救い主です。彼の神聖な犠牲に免じて私を赦して下さい」と願い祈れば、神は本当にイエス様の犠牲に免じて赦して下さるのです。それくらいにイエス様の犠牲は完全なものなのです。その人はまた復活と永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻ることができ、歩み続けることが出来ます。

このようにキリスト信仰者が罪にはまることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いにしっかりとどまれば、神のもとに買い戻された状態はそのままです。神との結びつきは決して失われません。そういうわけで、イエス様はエルサレムの神殿が果たそうとして出来なかったことを果たして下さったのです。十字架の死を遂げて復活させられたイエス様というのは真に、人間の罪の赦しを実現して神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。

3. 罪よ、お前は私にふさわしくない

イエス様という神殿を持ちその中で生きるキリスト信仰者は、自分の内にはまだ神の意思に反しようとする性向、罪を持ってはいるが、イエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを持つ者です。それはパウロがガラテア3章27節で言うように、キリストという罪の汚れのない純白な衣を着せられるということです。神聖な神は罪を忌み嫌い、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、信仰者がこの衣を手放さないでしっかり纏っていることを見て義とされるのです。キリストを着せられる前は、自分には罪があるから神に相応しくないということでした。ところが着せられた今は、イエス様のおかげで神に相応しい者に変えてもらいました。それで、罪の方こそ自分には相応しくないのだ、という自覚が生じて罪を足蹴にします。

キリスト信仰者がイエス様という衣を手放さないでしっかり纏うというのはどういうことでしょうか?キリスト信仰者は十戒を持っており、しかもイエス様が教えた神の意図を知っているので、それに照らせば自分には神の意思に反するものがあるとすぐ気づきます。その時は、先ほども申しましたように、罪の告白をして罪の赦しを頂きます。それで、自分にはこんな罪があるのにイエス様のおかげで神に受け入れられていることに再び感謝します。その時また、罪は私には相応しくないのだ、という自覚が戻り、罪を足蹴にします。しかし、一時するとまた守れないで自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで罪の告白をし、赦しを受ける。そして神に受け入れられていることを確認し、罪を足蹴にする。こうしたことがこの世を去る時までずっと繰り返されます。パウロはローマ8章13節で、キリスト信仰者が聖霊の導きを受けながら罪の業を死なせていくのならば、復活と永遠の命に与れると言っている通りです。新共同訳では「体の仕業を絶つならば」と訳していて、「絶つならば」とはまるでエイ、ヤーと一回で断ち切ってしまう感じですが、ギリシャ語の動詞は「死なせる」で、その時制は毎日毎日死なせていくという日常的な営みです。ルターは、キリスト信仰者が完全になるのは、まさにこの世を去って罪を宿す肉が朽ち果てる時と言っていますが、同じことです。

そもそもキリスト信仰者が被せられているイエス様というのは十戒が完全に実現されている方です。罪の自覚、神への告白そしてイエス様の犠牲に免じた赦し、これを繰り返すことで自分を十戒が完全に実現された状態にあわせていくことになります。それで、自分が着せられている衣に自分を合わせていくのがキリスト信仰者の生き方です。それにそぐわない余計なものは削ぎ落されていきます。自分の利害をもとにして神に対する掟を守るとか隣人に対する掟を守るとかがなくなっていきます。そうなっていくのはまさに、父なるみ神が、私たちの側で神に対して何か顧みられるようなことをしたわけではないのに、神の方から一方的にひとり子を私たちに贈られて罪の償いと罪からの贖いを実現して下さったこと、これによるのです。これがあったので私たちは神のこの一方的な愛に心を動かされて神を愛するようになり、また神が私たちにしたように私たちも隣人に対して一方的に善いことをしようとする心を持てるようになるのです。ヨハネが第一の手紙4章で言っていることはまさにこのことです。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちのうちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(7~11節)

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 


特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたはみ子の生涯、十字架の死そして死からの復活によって、この世に天のみ国の希望をもたらされました。 どうか私たちがその希望に満たされて、あなたのみ言葉に聞き従い罪から離れて、この世であなたの愛を現す生き方ができるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

 

説教「一般常識からキリスト信仰の常識に駆けあがれ!」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書 8章31-38節

主日礼拝説教 (2021年2月23日 四旬節第二主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っている有名なイエス様の教えです。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(マルコ8章34ー37節)。」

これを読んだ人はたいてい、ああ、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているんだな、と理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値あるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。誰にでもわかる一般常識をイエス様は教えているのだと。そうするとこれは同じ個所で言っていること、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とどう結びつくでしょうか?「自分の命を救いたいと思う者はそれを失う」とは、人間、どうせいつか死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?

それと、「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救う」とはどういうことか?大方の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだなと理解するのではないでしょうか。そうすると、最初に言っていること、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というのは、殉教の道を進めと言っているように聞こえてきます。そうなると一方で、命は地球より重いのだ、などと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのOKというのは矛盾しているのではないかと思えてきます。どうでしょうか?

実はイエス様は矛盾したことは何も言っていません。では、どうしてそう聞こえるかと言うと、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」この部分を先ほど見た一般常識、「命は地球より重い」で理解してしまうからです。この部分を新約聖書が書かれたギリシャ語原文に遡って、かつルター派の視点で見ていくと、そこは一般常識とは違うことを言っていることが見えてきます。ここには一般常識ではなくてキリスト信仰の常識があるのであり、それで見ていくとイエス様が言っていることは矛盾なく筋の通ったものになります。そういうわけで本日の説教では皆さんを一般常識からキリスト信仰の常識に駆けのぼっていけるようにしていこうと思います。

2.福音書の転換点

まず、本日の福音書の日課ですが、ここは一括りになっている8章27~38節の中の中盤から終わりの部分です。8章27~38節という個所はマルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで8章27~38節の出来事があり、その後でその地方の「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させます。山から下った後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、8章27~38節はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい出す出発点です。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて自分の受難と復活について預言します。

そこで、8章27~33節を見ると、まずイエス様が人々は自分のことを何者と言っているかと質問をします。弟子たちの答えから、人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが明らかになります。それに対してペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることを明らかにします。そこでイエス様は自分の受難と死からの復活について預言します。それを聞いたペトロは敬愛するイエス様が殺されることなどあってはならないと思って否定します。それに対してイエス様はペトロのことをサタン、悪魔と言って叱責します。「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」大抵の人はイエス様の強い語調に驚くでしょう。しかし、神による人間救済を全世界の人々に及ぼすべくこれから十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのはまさしく神の計画を邪魔することになります。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないというのは悪魔に加担することと同じになってしまいます。それでイエス様は強く叱責したのです。ペトロが思わない「神のこと」とは、まさしく神の人間救済のことです。

3.神による人間救済

それでは神の人間救済の計画とは何か?毎回説教でお教えしていることですが、それがわかると本日の日課でイエス様が言われていることを一般常識を超えてキリスト信仰の常識で理解することが出来まるようになります。それなので少しおさらいをしておきましょう。

キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまったという大問題が立ちはだかります。どうして壊れてしまったかと言うと、創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、それを聖書では罪と言いますが、それを持つようになってしまったからでした。人間は神聖な神のもとにいられなくなって死ぬ存在となりました。使徒パウロがローマ6章23節で言うように、死ぬというのはまさに罪の報酬なのです。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできてしまったのです。

これに対して神は、人間がそうなってしまったのは自業自得だと冷たく突き放すことはしませんでした。人間が再び自分との結びつきを持ててその結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても復活の日に目覚めさせて復活の体と永遠の命を付与して造り主である自分のところに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この計画はどのように実現したでしょうか?罪が人間の内に入り込んで神との結びつきが失われてしまったのだから、それを人間から除去しなければならない。しかしそれは、イエス様がマルコ7章で当時の宗教指導者たちと論争した時に明らかにしたように人間の力では不可能です。人間が自分の力で罪を除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世で神と結びつきを持って生きることも神のもとに戻ることもできません。

この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送って、人間の罪を全て彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運び上げさせ、そこで罪の神罰を受けさせて死なせたのです。つまり、ひとり子イエス様に私たち人間の罪の償いを果たさせたのです。そこで私たち人間がこのことは歴史上、本当に起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを回復できて、この世を順境だろうが逆境だろうがいつも変わらない神との結びつきの中で歩むことができるようになりました。

イエス様が果たしたことは罪の償いだけではありませんでした。十字架の死から3日後、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちのために開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進んでいるのです。神との結びつきを持ちながら進んでいくのです。

 ところで、神から罪を赦されたと見なされるようになったとは言っても、私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。確かに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた以上は注意深くなって罪を行為や言葉で表に出してしまうことはなくなるかもしれませんが、心の中で持ってしまいます。イエス様は、神は心の中まで潔白さを問うと教えたのです。それにどんなに注意していても、人間的な弱さのためにまた隙をつかれてしまって罪が行為や言葉で出てしまうこともあります。そのような時はどうなるのでしょうか?イエス様が果たして下さった罪の償いを台無しにしたことになり神から赦しをキャンセルされてしまうのでしょうか?神から赦してもらえない者になって神との結びつきは失われてしまうでしょうか?

そうではない、というのがキリスト信仰であると先週申し上げました。パウロがガラテア3章27節で言うように(ローマ13章14節も)、洗礼を受けた者はイエス様を汚れのない純白な衣のように被せられます。神はその人を見る時、その人の内にある罪よりもその人が纏っている衣の方に目を向けます。それなので、自分に罪があるとわかったら、すぐそれを神の御前で認めて、イエス様を救い主と信じますから赦して下さいと祈ります。そうすると神も、「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあのゴルゴタの丘の十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられ微動だにしていない。わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦すから、これからは罪を犯さないようにしなさい」と応じて下さいます。そうしてキリスト信仰者は再出発のスタートを切ることができるのです。

この世でキリスト信仰者は、肉を持って生きるので神の意思に反する罪を内に抱えたままです。それで自然、罪の告白と赦しを繰り返すことになります。毎週日曜日の礼拝の初めで司式者と会衆が一緒に神のみ前で行っていることがそれです。もちろん、他にも信徒が牧会者や他の信徒と一緒にもっと具体的に個別に行うものもあります。罪の告白と赦しを繰り返すというのは、洗礼の時に被せられたイエス様の衣を手放さずにしっかり纏うことです。繰り返せば繰り返すほど、内に宿る罪はイエス様の衣の神聖さの重みで圧し潰されていきます。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者のこの世の人生というのは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスです。例えば、怒りや憎しみとか、舌を制御することができないとか、地位や立場で人を選別したり自分も選別されることを期待するとか、そういう愛のなさが染みついている古い人、これを神から頂く罪の赦しとイエス様の神聖な衣を重石にして圧し潰していくプロセスです。

そして、このプロセスが終わる日がきます。その時点で生きている者も既に死んでいた者も全ての者が創造主の前に立たされる日です。その時、各自に審判が下されます。これは最後の審判なので申し開きや弁明する機会はなく判決だけが言い渡されます(マタイ25章を見ると判決の理由は聞くことが出来るようです)。その時、「お前は罪を圧し潰す側に立って生きていた」と認められればよいのです。そう認められた者は、もう自分には圧し潰すものがなく、自分自身の体が神の栄光を映し出して輝いていることに気づきます。これが復活の体です。ルターが言うように、キリスト信仰者が本当に完全な信仰者になるのはこの世を去って肉の体を脱ぎ捨てた時なのです。

4.一般常識からキリスト信仰の常識へ

以上、神の人間救済の計画とそれがどのように実現したかについて述べてきました。本日の課題に戻りましょう。イエス様がつき従う者、つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?

 まず、キリスト信仰者が背負う十字架について。これは、イエス様が背負った十字架と同じでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって人間の罪を全部引き受けてその神罰を全て受けて人間の救いを実現したのです。私たち人間が同じような十字架を背負うことは出来ないし、そもそも救いの十字架は一度打ち立てられて完結したのです。

それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど、キリスト信仰者の人生は洗礼の時にイエス様を衣のように被せられて罪を圧し潰していくプロセス、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスだと申しました。

それで、「自分を捨てる」というのは、まさに肉に結びついた古い人を死なせ、神の霊に結びついた新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。つまり捨てるのは肉に結びつく古い自分です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。ただこれはプロセスですので、この世を去るまでは捨て続けます。「自分を捨てる」と言うと、何だか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえます。また逆に、自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえるかもしれません。一般常識の耳で聞くとそういうふうに聞こえるのです。しかし、そういうことではありません。罪の告白と赦しを繰り返すことで古い人が圧し潰されて衰えて代わりに新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てること、これがキリスト信仰の常識から見た「自分を捨てる」の意味です。

そういうわけで、私たちが十字架を背負うというのは、洗礼を受けた時に始まる、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いを戦うということになります。戦いの具体的な形は、それぞれ人が置かれた状況によって異なってきます。具体的な人間関係の中で死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるでしょう。自分より良い境遇にある人を妬むことで古い人が強まります。あるいは自分はキリスト信仰者であると公けにすることで仲間外れになったりすると、イエス様を救い主と信じることが揺らいで新しい人が育たなくなってしまうことも起こります。このように背負う十字架は形は違っても、新しい人を育て古い人を死なせるという点ではみな同じです。そういうわけで、「十字架を背負う」とか「自分を捨てる」というのは殉教そのものではありません。今見た通り、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあるからです。

このように、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入ることだとわかると、続く35節と36節で「命」(後注)を救うとか失うとか言っていることもわかってきます。以下、それを見ていきましょう。

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

これは前の節の繋がりで見ると、自分の命を救いたいと思う者とは、自分を捨てることもせず自分の十字架を背負うこともせず、従って罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入らなかった人のことです。それなので、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩んでおらず、この世での命が全てになってしまう人です。そのような人にとって新しい世での新しい命などありえないことですから、この世での命にしがみつくしかありません。しかし、この世での命は永遠に続きません。これが「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」の意味です。

次に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」先ほど、自分の十字架を背負い自分を捨てるというのは殉教そのものではないと申しました。罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあるからです。ところが、信仰を捨てるか命を捨てるかのどちらかにせよ、という権力者からお達しが来たらどうするかという問題は歴史上あちこちでありましたし今日でもあります。信仰を捨てずに命を落とした人もいれば、逆に信仰を捨てて命を保全した人もいました。たとえ罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いが殉教で中断させられてしまっても、命落す日まで戦いを続けたことは父なるみ神の「命の書」に記されます。最後の審判で、お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと必ず認められるでしょう。

そして36~37節です。イエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」ここの「命を失ったら」の「失う」ですが、前の35節の「命を失う」に二度出てくる「失う」とは原語のギリシャ語では動詞が異なります。35節はアポリュミαπολλυμιという動詞で、それは文字通り「失う」という意味があり、35節の訳はそれの通りです。36節はツェーミオオーζημιοωという動詞で、その正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため辞書によっては、イエス様のここの言葉を「命を失う」と訳してはいけないと注意するものもある位です。新共同訳ではそう訳してしまっていますが。ここは「命に傷がついている、ダメージを受けている」という意味です。そうなると、イエス様は「命は地球より重し」という一般常識を教えていないことになります。一体イエス様は何を教えたかったのでしょうか?

36~37節を少し解説的に訳すと「人はたとえ全世界を手に入れても、命が傷つきダメージを受けていたら、そんなものは何の役にも立たない。なぜなら、どんなにこの世で永らえようとしてもいつかは時が来るのだし、その時、手に入れた全世界をもって命を買い戻そうとしても無駄である」ということになります。ここでの問題は「命に傷がついている、ダメージを受けている」とはどういうことかということです。

それは、ここで言われている「代価」に注目します。人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。それによって人間は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩みだします。このようにイエス様は私たち人間を罪と死の支配下から神のもとに買い戻して下さったのです。神聖な神のひとり子が十字架で流された血を代価として私たち人間を神のもとに買い戻されたのです。買い戻されたというのは難しい言葉で「贖われた」とも言います。「代価」と訳されるギリシャ語の言葉アンタラグマανταλλαγμαは「身代金」の意味を持ちます。人間は罪と死に売り渡されたも同然だったが、神が痛い身代金を払って買い戻して下さった、人間を罪と死の支配から御自分のもとに贖い出して下さったのです。

それで、傷ついている、ダメージを受けている命というのは、贖われていない、買い戻されていない状態を意味します。そのような状態の人が死を間近にして慌てて自分が手に入れた全世界を代価にして死を免れようとしても、そんなものは神のひとり子の犠牲に比べたら何の力にもならないのです。そういうわけで、ここは、一般常識では命が大事と言っているように見えていたのが、実はイエス様の犠牲、彼が十字架で流した血が大事と暗に言っているのです。それがなぜそんなに大事かというと、それは言うまでもなく、私たち人間を罪と死の支配から解放して、復活の日に復活を遂げられて死を超えた永遠の命に与ることが出来るようにするからです。これがキリスト信仰の常識です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)

 

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全知全能の父なるみ神よ。

あなたはかつて、あなたの民を荒野(あれの)の中を通って約束の地へ導かれました。今、この世の荒野で救い主に従って歩む民を、栄光のみ国へ導いてください。この歩みの中で辛いことがあっても、あなたへの信頼を失わず、主にある喜びを常に喜ぶことができ、あなたに感謝することを忘れない心をお与えください。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

説教「キリスト信仰者の鉄壁の防御」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章9-15節

主日礼拝説教 (2021年2月21日 四旬節第一主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

今年も四旬節/受難節の季節になりました。今年の復活祭/イースターは4月4日に定められています。その日まで主日を除いて数えた40日間が四旬節です。この間の水曜日2月17日がその始まりの日でした。そういうわけで本日は四旬節最初の主日となります。四旬節の背景ですが、古いキリスト教会の伝統として西暦300年頃から復活祭の前に主日を除く40日間に断食することが行われるようになったことがあります。どうして40日間の断食かというと、イエス様が荒野で悪魔から誘惑の試練を受けた時40日間何も食べなかったということに由来します。そもそもイエス様の生涯は人間の救いのためにゴルゴタの十字架にかけられる犠牲の死に備えるものでした。それゆえ、キリスト教徒たちは40日間の断食を通して主の備えの生涯を身近なものにしようとしたのです。

四旬節は英語ではレントLentと呼ばれ、それは古代英語の春を意味する言葉に由来するそうです。フィンランドやスウェーデンではカトリックの時代の伝統を受け継いで「断食の時期」paastonaika、fastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国なので外面的な規則の順守が救いを左右するという考え「断食」と言っても名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師にもそのようなことを勧める人もいます。ただし皆さん、そういうことをして神に認められるとか、救いを確実にするとか、そんなことは全く関係ないとわかっています。好物を食べなくても食事はちゃんととるので断食には程遠いです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングのようなものです。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくても注意が向くのならしなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、いつもよりもイエス様のことに心が向くようになるということです。

本日の説教の聖書日課ですが福音書を中心に説き明かしをします。使徒書の第一ペトロの個所は死んで陰府に下ったイエス様が死者の霊に福音を宣べ伝えたという難しいところです。これについては3年前の四旬節第一主日の説教で「死者のための祈り」という題で説き明かししました。その時も申し上げましたが、この個所は少なくとも4章6節まで見ないと説教は不可能です。今回3年前の説教を読み返してみて考え方は基本的に変更はなく、もう少し洗礼の重要性を出した方が良かったかなと思ったくらいでした。それで今回は第一ペトロを取り上げず、福音書の日課の説き明かしに専念することにしました。(3年前の説教にご関心ある方は、ここをクリック! 

本日の福音書の箇所の中にイエス様の荒野の試練があります。この出来事はマタイ福音書とルカ福音書では詳細に記述されていますが、マルコ福音書ではたったの二節しかありません。荒野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がなく、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語られたものと考えられます。マタイ福音書とルカ福音書には詳細に語られたものが伝承されて記載されましたが、マルコ福音書には要約された形のものが記載されたと言えます。たった2節をもとに説教をするというのは簡単なことではありません。しかし、ルターだったら1節だけでも1時間位は説教できたでしょう。しかも彼の場合は、聖書外のことには言及せず聖書だけで話が出来ました。私も彼を見習って説き明かしをしていこうと思います。

2.野獣の危険と天使の守り

本日のマルコ福音書の記述は要約された形ですが、それでもマタイ福音書やルカ福音書にはないことが含まれていますので、それを見てみましょう。

「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」皆さん、この文章の意味わかりますか?この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日間サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒にいて、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合にいろんな出来事が同時に混在しています。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。マタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を撃退した後に起きるという順番です(マタイ4章11節)。

この順番を踏まえてマルコの記述をわかりやすくすると次のようになります。「イエスは荒野にいてまず40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後、野獣のただ中にいたが、天使たちに仕えられていた。」

新共同訳の「野獣と一緒におられた」というのは、イエス様が野獣と仲よく暮らしたみたいですが、そうではありません。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」とも訳すことができます。それで、荒野で野獣のただ中にいたという危険な状態にあったということです。(ちなみに、フィンランド語訳とスウェーデン語訳の聖書では「野獣のただ中に」です。英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。)

さてイエス様は、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害はなかったということです。荒野の野獣というのは目に見える具体的な危険です。天使というのは人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔の誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の守りというのは、ただ単に荒野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指しているとも言えます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。

マタイ福音書とルカ福音書の記述では、イエス様が悪魔からどんな試練を受け、それにどう打ち勝ったかということが詳しく記されていますが、その後の野獣の危険と天使の守りについては触れられていません。ここでイエス様の天使の守りということについてよく考えてみると、悪魔の誘惑の時にはそれはなく、それに打ち勝った後にありました。そして最後にイエス様が逮捕されて十字架にかけられる時はありませんでした。十字架の時に天使の守りがなかったということは後で見ます。このようにイエス様に天使の守りがあったりなかったりしたというのは、どういうことか見ていこうと思います。というのは、そのことが私たちキリスト信仰者にとって大きな意味を持っているからです。どんな意味かと言うと、キリスト信仰者には鉄壁の防御があるということです。

3.人間の救いにとって際どい瞬間だった

マタイとルカの記述によると、イエス様は40日間飲まず食わずの状態で悪魔から誘惑を受け続け(特にルカ4章2節)、最後に三つの誘惑を受けます。最初の二つは「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」

というのと、「お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に向かって身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神のみ子です。だから、パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?

それは、もしそうしていれば確かに神のみ子の力を見せつけることができたでしょうが、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従うことになってしまうからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ?お前が神の子ならわけないだろ、それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でもなんでもないんだ、と巧みに追い詰めていったのです。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはしないということを貫きました。たとえそれが空腹と恐怖の中に留まることを意味しようとも。

三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、先の二つに増して、私たち人間の救いにとって決定的な意味を持ちました。というのは、イエス様は荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりでした。その時、神の聖霊が降り、また神のみ子であるとの認証を神から受けていました(マルコ1章10ー11節)。それで、もし、その神の子が悪魔にひれ伏してしまったならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔の下になったのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなります。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともしない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。実に際どい瞬間でした。

4.聖書の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力に満ちている

それでは次にイエス様はどのようにして悪魔の誘惑に打ち勝ったかをマタイとルカの記述に即してみていくことにします。結論から言うと、誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのにイエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器に用います。

まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記8章3節の御言葉ではねつけます。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民はシナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神のみ言葉こそが生きるための本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。それなので、もし悪魔が空腹の満たしのような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを自分の言いなりにしようとしたら、私たちもこの申命記の言葉を突き出して悪魔に対して次のように言い返すことができます。「悪魔よ、私の命はパンがある時もない時も常に神の御言葉を拠りどころとして立つのだ。パンがあっても御言葉がなくなってしまったら、それはもう私の命ではない。このことをお前はこの御言葉から思い知るがよい。」

次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと誘惑した時、今度は巧妙にも聖書の御言葉を使います。それは詩篇91篇11ー12節です。「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。神の御言葉にそうあるのだからその通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。

それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑をはねつけます。それはこういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。実に荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満をぶつけました。彼らは神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに、新たな困難が生じる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神を疑い、「言うことを聞いてくれないなら、もうエジプトに帰ってやるから」と、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記6章というのは、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時、神が40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるところです。

それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?希望した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じること。たとえ祈って与えられたものが自分の意にそぐわないものでも、それを神の導きとして受け取る、それくらいに神を信頼するということです。この申命記6章16節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への深い信頼を示しています。

実を言うと、イエス様の神への深い信頼は、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように言われています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2ー3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要はなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。まさしくコピー・アンド・ペーストです。しかし、そんなやり方で真理と張り合えるなどと思うのは愚の骨頂です。それにしてもコピペというのは真実のかけらを大いなるウソの塗り固めに用いてしまうものです。悪魔的な業と言ってもいいかもしれません。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちがウソを見破ることができて真理にどまることができるように日々の聖書の繙きを怠らないようにしましょう。

さて、三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対して、イエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑をはねつけます。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神をまさに天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた造り主として仰ぎ、天においても地においても神より力ある者は存在しないと畏れ敬うことです。たとえ神の力が働いていないように見える時でも、目に見えて働いている時と同じくらいに神は全てに優る力を持つ方であると畏れることです。神より力ある者は存在しないというのは、神に敵対する者からすれば恐怖以外の何ものでもなく、そのような者は神から逃避しなければなりません。しかし、神と平和な関係にある者からみれば、神よりも力あるものはいないのだから、神以外に何も恐れるものはなく、神のもとにいて大きな安心を得ることが出来ます。

悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持拡大できても、神に敵対していれば、この世から死んだ後は最後の審判の日に、永遠に止まない滅びの中に投げ込まれます。そこには権力も富も持ち運ぶことはできません。しかし神と平和な関係にある者はこの世にいる時は順境の時も逆境の時もいつも大きな安心が伴っています。この世を去った後はそれこそ手ぶらで大きな安心の源である神のもとに永遠に迎え入れられます。それがわかれば、悪魔がやると言った権力や富はなんと頼りない儚いものであるかがわかります。そんなもののために神との平和な関係を捨ててみろなどとは、悪魔はなんと情けないことを聞くのでしょうか?

5.イエス様が天使の守りを遠ざける時

以上のように、イエス様は聖書にある神の御言葉を用いて悪魔の誘惑をはねつけました。これからもわかるように、神の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っています。私たちも聖書の御言葉をよく学び、その力に服するようにしましょう。

さて、悪魔はイエス様のもとから退散しましたが、イエス様は今度は野獣のただ中にいて、天使に仕えられて守られた状態に入りました。これは、ユダヤの荒野にいた時の状況だけでなく、その時から始まって十字架の受難の道に入るまでの全ての状況を含むと考えてよいでしょう。どうしてかと言うと、この「野獣の危険と天使の守り」というのはよく見ると、先ほど見た詩篇91篇で言われていることの実現だからです。つまり、神は天使を通して守ってくれるということの実現です。このことを少し詳しくみてみます。悪魔が愚かなコピペをした11ー12節の中で天使の守りについて言われていました。それに続く13節には野獣の危険から守られることが言われているのです。11節から13節まで全部見てみましょう。

「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道をどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んでいく。」

悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は、悪魔の魂胆を見抜いたので、天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。もしお前たちが来たら、私が助かった瞬間に私は悪魔に従ったことになってしまう。」そして、イエス様は、見事に一人で悪魔に打ち勝ちました。悪魔が退散した後で、野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちに来るのを許して仕えさせたのです。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。

ところが、十字架の受難が始まると、イエス様は守りが全くない状態に陥ってしまいました。イエス様が逮捕された時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章53ー54節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?

それは彼自身が言った通り、聖書の預言が実現するためでした。それは、創造主である神が計画した人間救済計画を実現することでした。罪がもたらす永遠の滅びから人間を救い出すことでした。この救いを実現するために、神のひとり子が私たちの身代わりとなって神罰を受けられて十字架の上で死なれました。まさに私たちのために罪の償いを神に対して果たして下さったのです。もしイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのです。ちょうど本日の福音書の出来事のように、本当は回避出来るけれども、悪魔の言いなりにならないために、あえて空腹と恐怖を選んだのと同じです。

6.キリスト信仰者の鉄壁の防御

以上から、イエス様は悪魔の誘惑の試練の時と十字架の受難の時に天使の守りを遠ざけたことが明らかになりました。このことが私たちキリスト信仰者にとってどんなに大きな意味を持つことかを見てみましょう。

荒野で悪魔の誘惑をはねつけた時、イエス様は天使の守りを求めず、聖書の御言葉をもってはねつけました。このように聖書の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っているのです。ただし、御言葉がコピペのような使われ方、つまみ食いのような使われ方をしないで、御言葉をそれがある文脈に沿って正しく理解した時に撃退力は発揮されます。それなので、聖書を日々繙いて主日は説教を聞き、他の日は自分で少しずつでも聖書に習熟するようにすることが肝要です。キリスト信仰者は聖書の御言葉という強力な守り手を持っているのです。

次に、イエス様は天使の守りを求めないで、十字架の受難の道に入られました。そのおかげで神に対する私たちの罪の償いが果たされて、神罰が私たち人間に下されないですむ道が開けました。これで、神と人間の間を引き裂いて敵対関係に追い込もうとする悪魔の目論見は破綻してしまったのです。人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。それと同時に悪魔の目論見の破綻もその人にその通りになります。

このようにキリスト信仰者は悪魔の攻撃を撃退する力に満ちた御言葉を持っています。また洗礼を通して罪の償いと悪魔の破綻が身に備わっているのです。主にあって兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。キリスト信仰者というのは洗礼を通して、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてそこを進む者です。そこで何者かがその歩みを妨げようとしても、私たちには御言葉と罪の赦しと悪魔の破綻があるのでそれらを撃退できるのです。しかも、キリスト信仰者には守りの天使も付いています。ヘブライ1章14節で言われるように、天使というのは、神の国への迎え入れに向かって進む者たちに仕える霊だからです。

しかし、次のように言う人もいるかも知れません。何者かが神の国への歩みを妨げようとしたら、それを撃退するものが自分に備わっていることはわかった。しかし、信仰者の内に神の意思に反しようとする罪がある。自分の内にあるものが歩みを妨げる時はどうすればよいのか?それへの答えはいつも説教でお教えしていますが、いつも神のもとに立ち返って罪の告白をして赦しを頂くことを繰り返すことです。それを繰り返せば繰り返すほど、内に留まる罪は日々圧し潰されていきます。次のルターの教えを聞けば、キリスト信仰者は外側も内側も鉄壁の防御で守られていることがわかるでしょう。

「罪、高慢、利己心、憎むことその他これらに類することが我々の内にぶら下がっている。しかし、そうしたものは我々を信仰の中で成長させるためにあるのだ。我々の信仰が日に日に前に進み、最後に完全なキリスト信仰者になれるためにあるのだ。その時我々はキリストの懐に飛び込んで御国の祝宴の席につくことができる。

海の荒波を思い浮かべるがよい。大きな波が次から次へと岩に打ちつける。それはさながら、力づくで岩を打ち砕こうとするかのようだ。しかし、打ち砕かれるのは波の方で、岩に当たった後は退いて消えてなくなってしまう。罪もこれと同じだ。罪が我々の頭上から襲い掛かり、我々を絶望へと追いやろうとする。しかし、退散しなければならないのは罪の方であって、それは最後には消散してしまうのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

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特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

どうか、私たちが聖書を繙(ひもと)く時、御言葉を通してあなたの私たちに対する御心をお示しください。聖書の中であなたが約束されていることを私たちが信じて、アブラハムのようにあなたから義と認められ、あなたと平和な関係のうちに生きられるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

説教「復活とは変容なのだ」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書9章2-10節

主日礼拝説教 (2021年2月14日 変容主日)


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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日は教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースター/復活祭へと向かう四旬節の前の節目の日です。毎年この日に定められた福音書の日課はイエス様が高い山の上で「姿が変わった」(9章2節)という出来事についての個所なので、「姿が変わった」、「変容した」ということで変容主日とも呼ばれます。イエス様の「変容」は、ギリシャ語の原文では正確には受動態ですので「変容させられた」です。誰によってさせられたかというと万物の造り主である神によってです。新約聖書のギリシャ語では受動態の形で「誰によって」がない時は大抵の場合は神を指します。神を名指しすることは畏れ多いのであえて言わないのです。そういうわけで、イエス様は父なるみ神の力で変容させられたのです。これと同じことはイエス様の死からの復活にも当てはまります。普通は「復活した」と言いますが、原文では受動態なので「復活させられた」、つまり神の想像を絶する力で復活させられたのです(後注)。しかも、復活した後の体はそれまでの肉の体と異なっていました。どんなふうに異なっていたかはイースターの時にお話しすることになるでしょう。

キリストの変容

イエス様の変容はどのようなものであったかと言うと、衣服が非常に白く輝いたことが言われています。マタイ福音書の同じ出来事を扱った個所を見ると(17章2節)、衣服だけでなくイエス様の顔が太陽のように輝き始めたとあります。ルカ福音書では(9章29節)、やはり衣服だけでなく顔のみかけが別物だったと記されています。マルコ福音書で言われているのは衣服だけですが、最初に「変容させられた」(2節)と言って、その後で衣服が白く輝きだした(3節)と言っているので衣服以外の部分も変わっているのは明らかです。ただ、衣服の白さの輝きがあまりにも尋常ではなかったので、マルコはそれを特筆したのでしょう。

この高い山の上での出来事はマルコ、ルカ、マタイの3つの福音書に取り上げられていて大筋は同じです。細部は異なっていますが、それは、福音書記者それぞれの視点があって、これを強調したい、これはしなくてもいい、ということがあるからです。そういうわけでこの出来事の本日の説き明かしは、マルコの視点に立ったものになります。

ここで言われる「高い山」について。毎年お話ししていますが、ヘルモン山という現在のシリアとレバノンの国境にある2,814メートルの山であるのは間違いないでしょう。どうして特定できるかと言うと、マルコ8章27節にイエス様と弟子たちの一行がフィリポ・カイサリア近郊まで来たとあります。そこから本日の個所まで地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートル北に聳えるヘルモン山の可能性が大です。

ここのギリシャ語原文を見るといろいろ面白いことに気づきます。例えば、新共同訳では「ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と訳していますが、「登る」という動詞は使われていません。正確には「イエス様は3人を運び上げた」です。イエス様が3人をおんぶしたみたいですが、実際は疲れた3人を励まし続けたか、なんで俺たちにこんなきついことをさせるのか不平不満があって叱咤し続けたのか、とにかく足取り重い弟子たちをなんとか頂上まで引き連れたのが「運び上げた」ということだったのでしょう。

ここでヘルモン山の登山がどれだけ大変なものか思い巡らしてみましょう。フィリポ・カイサリアは海抜300メートル位のところなので、頂上まで標高差は2,500メートル位あります。登山する人ならどれ位の時間とエネルギーを使うかすぐわかるでしょう。私の家族はしょっちゅうと言っていいほど高尾山に登ります。麓の高尾山口から標高599メートルの頂上まで標高差は400メートル位で、それを1時間のペースで登るとかなり汗だくになります。ヘルモン山はそれを6回繰り返さなければならないので本当に大変です。ちなみに私は高校時代によく山登りしたのですが、北アルプスの剣岳を早月尾根という尾根から登ったことがあります。標高差2,200メートルです。若かった当時は休憩含めて10時間かからなかったと思います。しかも連続する岩場のスリルと目を奪う壮大な眺めのおかげで文字通り登山の醍醐味を堪能でき、それで疲れたという記憶もありません。

ところが3人の弟子たちの場合は別に登山が趣味でもなく、しかも目的も告げられていないので、何でこんな疲れることをしなければならないのかという雰囲気になったことは容易に想像できます。イエス様はこれから山の上で起こることを後々のために見届けさせようとしたのでした。何を見届けさせようとしたのか?それは一言でいうと、復活とは変容であるということです。高い山でのイエス様の変容の出来事はこのことを私たちに教えているのです。今日はそのことをマルコの視点で明らかにしていきましょう。
2.山の上でイエス様が変容した時、マルコの注意を最も引いたのは、イエス様の着ている服が非常に真っ白に輝いたということでした。どうして服が白く輝いたことが「変容」の出来事の中で最も注意を引いたのでしょうか?それは続きの文を見ればわかります。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります(9章3節)。「さらし職人」というのは、衣服や布の汚れや余計な色を洗い落として純白にする職業の人です。今で言えば、漂白ということでしょう。当時はどのように漂泊したのか特に調べませんでしたが、いずれにしても古代世界においても衣服や布を純白にする専門家がいたということです。ここで重要なのは「この世のどんなさらし職人」もできないくらいに白く輝いたということです。イエス様が放った白い輝きはこの世的でない白さ、天上の白さだったということです。イエス様は乙女マリアから肉体を伴って人間として生まれたけれども、この時は神の力で神聖な神のひとり子としての神聖な姿形に変えられていたのです。神の御許にいるのに相応しい姿形です。

イエス様がこの世的でない天上の白さで輝いた時、それは私たち人間がどれだけそのような白さから遠ざかった存在であるかを如実に示した瞬間でもありました。私たち人間は神の御許にいるのに相応しくない存在であるということです。どうしてそうなのかと言うと、創世記の最初に記されているように最初の人間が神の意思に反しようとする性向、それを聖書では罪と呼びますが、それを持ってしまったために神聖な神の御許にいられなくなって神との結びつきを失ってしまったのです。もちろん、この世には悪い人だけでなく良い人も沢山います。しかし、創世記2章17節と「ローマの信徒への手紙」5章に記されているように、最初の人間が罪を持つようになったことが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。それで、人間は代々死んできたように、代々みんな罪を汚れのように受け継いできたのです。

人間が罪の汚れから洗い清められ、神の目に相応しいものとなって最終的に復活の日に復活を遂げて神聖な神の国に迎え入れられるようになるためには、神の神聖な意思に完全に沿うようになっていなければなりません。しかし、それは不可能なことです。どうしてかと言うと、神の神聖な意思を表しているものとして十戒の掟があります。しかし、それは、使徒パウロがローマ7章で明らかにしているように、人間が神の目に相応しいと認めてもらうために実行していくものではありません。そもそも完全に守り切ることなど人間には出来ません。そうではなくて、人間が神の神聖な意思からどれだけ遠ざかった存在であるかを思い知らせる鏡なのです。詩篇のなかでダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(51章4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように人間の罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

それでは神は人間を洗い清めて下さるのでしょうか?もちろん、洗い清めて下さいます。どのようにしてでしょうか?それは次のような次第で行われました。神はひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の神罰を全てイエス様に負わせてゴルゴタの十字架の上で受けさせて死なせました。イエス様が罪の償いを私たち人間に代わって神に対して果たして下さったのです。そこで人間はこのことが本当に起こったのだとわかってイエス様を自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったので神から罪を赦された者として見なされるようになります。パウロがガラテア3章27節とローマ13章14節で言うように、洗礼を受けた者はイエス様を衣のように頭から被せられるのです。父なるみ神は私たちを見る時、私たちの内に残っている神の意思に反しようとする罪よりも、私たちに纏われたイエス様という純白な衣の方に目を向けようとされるのです。

イエス様は十字架の上で私たちの罪を償う身代わりの死を遂げただけではありませんでした。3日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、そこに至る門を私たちに開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は永遠の命が待っている神の国に至る道に置かれて、イエス様の純白な衣を着せられて歩み出すこととなったのです。

 

3.イエス様という純白な衣を頭から被せられたと言っても、私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。イエス様の犠牲のおかげで罪を赦された者と見てもらえ、神の目に相応しい者にしてもらったとは言っても、それに相応しくないことが自分に沢山あることに気づかされます。人を傷つける行いや言葉は出さないようには出来ても、心の中で思ったりしてしまいます。神の意思についてイエス様は心の中まで問われると指摘しました。また、どんなに注意しても、人間的な弱さがあったり隙をつかれたりして罪が言葉や行いになって出てしまうこともあります。そのような時はイエス様の衣を汚したとして取り去られてしまうのでしょうか?もう神の目から見て一生失格者なのでしょうか?

そうではないのがキリスト信仰なのです。罪の思いを持ってしまった時、罪の言葉や行いを出してしまった時、その事実から目を背けずにそれを神の意思に反する罪と認めて次のように神に祈ります。「父なる神さま、せっかくイエス様が罪を償って下さったのにそれを台無しにするようなことをしてしまいました。イエス様を救い主と信じますので、どうか赦して下さい。」さあ、神はどう出るでしょうか?神は次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前の心の目をゴルゴタの丘の上に立つ十字架に向けよ。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられてそれは今も微動だにしない。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからはもう罪を犯さないようにしなさい。」そう言って私たちを新しく送り出して下さるのです。その時私たちは復活された主が墓を後にして出て行ったように私たちも新しい歩みを始めるのです。

キリスト信仰者の人生はこのような罪の告白と赦しの繰り返しです。それを断ち切らないで続けることがイエス様の純白の衣を纏い続けることになります。たとえ罪が内に残っていても、神の方を向いて罪の告白と赦しを繰り返すことでイエス様の衣を手放さなずにしっかり纏い続けていくと、罪は衣の神聖な重みで日々圧し潰されていきます。そして、いつの日か神の御前に立たされる時、自分の人生は罪が内に残っていた人生だったかもしれないが、イエス様の衣を最後まで手放さなかったことで罪を圧し潰す側に立って生きていたことが明らかになります。神はこれをよしと認めて下さるのです。これがキリスト信仰者に下される審判です。この世で罪を圧し潰す側に立って生きると、馬鹿にされたり爪はじきされたりすることが多くなります。でも、それは間違いではなかったと復活の日にはっきりします。その時、信仰者にはもう圧し潰す罪がなくなっています。外側だけでなく内側も純白になって変容を遂げているのです。

 

4.ここでイエス様が3人の弟子たちに山の上で見たことを自分が復活する時まで人に話してはいけないと命じたことについて考えてみます。これは実は本日のテーマである、復活と変容の関係に関わります。なぜイエス様はそのようなことを命じたのでしょうか?

先週の説教でも触れたことですが、イエス様が自分は何者であるかとか、自分が奇跡の業を行った時とか、そういうことを他の人に知らしてはいけないと命じたことが沢山あります。これについて、W.ヴレーデというドイツの歴史聖書学者が120年前に発表した学説が今でも影響力を持っているということをお話ししました。ヴレーデの説は、マルコは福音書を書いた時、イエス様は自分の正体を復活の日まで秘密にするように命じ、その日に全てが明らかになるような仕掛けで福音書を書き上げたというものでした。彼の学説には沢山の反論もあり、私も与しない立場ですが、それならばイエス様のかん口令はどのように説明できるのか、これを説明できなければなりません。先週は悪霊に対するかん口令を説明しました。今日は3人の弟子たちに対するかん口令です。今日のは特にイエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと言うので、ヴレーデの説明が一番響くところです。この個所をマルコの創作ではなく、イエス様が実際に話された言葉としてみたら、どのように説明できるでしょうか?

イエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと命じた時、弟子たちは復活とは一体何なのかわからなかったとあります(10節)。弟子たちがわからなければ他の人たちもわからなかったでしょう。復活というものがわからない段階で山の上の出来事を知らせるのは時期尚早、イエス様が復活を遂げて復活というものが起こるのだとわかった段階で知らせたら復活がわかるようになるということです。つまり、イエス様の復活の後ならこの出来事は復活の理解に資するが、復活の前では資さないということです。さあ、どういうことでしょうか?

この問いに答えられるためにモーセとエリアの出現について考えることが役立ちます。遥か昔の時代の預言者が突然現れたというのは、これは幽霊でしょうか?そうではありません。二人は神の御許から送られてきたのです。ここは少し複雑なところなので、よく注意して聞いて下さい。聖書の観点では人間がこの世を去った後に神の国に迎え入れられるというのは、今の世が終わって神が新しい天と地を創造される時になってからのことです。その時までは亡くなった人たちは神のみぞ知る場所にて安らかに眠っています。その眠りから目覚めさせられるのが復活です。

ところが聖書には、そういう将来の復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた人たちがいることが言われているのです。本日の旧約の日課に出てくるエリアがその一人です。モーセの場合は少し微妙で、申命記34章では「死んだ」と言われていますが、彼を葬ったのは神自身で、その葬られた場所は誰にもわからないという謎めいた最後の遂げ方です。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしないで、復活の日を待たずして神の御許に迎え入れられたと考えられます。その証拠に彼はエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきました。これは、もう幽霊などという代物ではありません。このように、聖書の観点ではこの世を去った人は原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るのが筋です。ただ、例外的に復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた者もいるということです。

さて3人の弟子たちは目の前に現れたエリアとモーセを見てどう思ったでしょうか?イエス様が復活された時、突然弟子たちの前に現れて弟子たちは幽霊だと思って大騒ぎになりました。イエス様は自分は幽霊ではないと言って、新しい復活の命を持つ自分を示して弟子たちを納得させました。しかし、イエス様の復活が起きる前のヘルモン山の上で弟子たちはまだ復活について何も知りません。彼らにとってエリアとモーセはやはり幽霊だったのではないかと思います。しかし、この二人は本当は既に神の御許に迎え入れられた者として現れたのです。その証拠に、ルカ9章31節を見ると、二人は「神の栄光に包まれて現れた」と言われています。幽霊にはそんな神の栄光などありません。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からではないので、私たちは一切関りを持たないように注意しなければなりません。それは万物の造り主である神の意思でもあります。なぜかと言うと、旧約聖書の多くの個所で神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているからです(レビ19章31節、申命記18章11節、サムエル上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。日本人には痛いところかもしれませんが、これが聖書の立場なのです。

さあ、3人の弟子たちの驚きと恐れはいかほどのものだったでしょうか?神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているのに、なんとイエス様はエリアとモーセと話をしているではないか!しかし、イエス様は天上の純白さで輝き、エリアとモーセも神の栄光に包まれている。これは幽霊ではない。じゃ、一体何なんだ!という具合にです。でもこれは、私たちも復活を遂げたらエリアとモーセのように神の栄光に包まれた者に変容させられて、天上の純白さに輝くイエス様とお話ができるという、自分たちの未来像が示されていたのです。これは本当に、死からの復活、死を超えた永遠の命があることがわからないと未来像として受け取ることは不可能です。だからイエス様の復活の後でなければわからないことであり、人々に正しく伝えられるためには主の復活を待たねばならなかったのです。

 

5.最後に山上に現れた雲についてひと言述べておきます。登山する人は高い山では天候があっと言う間に急変すること、例えば、ちょっと前まで晴れていたのが冷たい空気が流れ始めるといつの間にか周囲は霧で真っ白になることを知っています。登山用語でガスと言いますが、それは麓から見たら山にかかる雲ということになります。それなので、ヘルモン山上で急に雲が覆ったというのは普通の自然現象としてもあり得ます。普通の自然現象を超えるような雲については出エジプト記の中で述べられています。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を受け取った時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死んでしまうと言われました(18~23節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをわきまえていなければなりません。

そういうわけでシナイ山の雲は、生身の人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山上でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、雲は同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。そして、私たちが復活を遂げて肉の体にかわる、神の栄光を映し出す復活の体を着せられる時、私たちも変容させられたのであり、その時はもう防護壁はいりません。パウロが第一コリント13章12節で言うように、「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」からです。まさに復活とは変容のことなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)復活を意味する動詞はεγειρωとανιστημιがあり、受動態で使われるのは前者です。


特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたはあの高い山でイエス様が変容(へんよう)した時、彼に聞き従え、とお命じになりました。どうか私たちが、イエス様のおかげで天のみ国を受け継ぐことが出来るようになったことを常に覚えて感謝し、彼の教えられたことを喜んで行えるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

 

 

 

フィンランドのラスキアイネン

ラスキアイネン

2月16日はフィンランドのカレンダーではラスキアイネンです。この時期になると多くの家庭ではラスキアイスプッラというプッラお菓子パンを作ります。 フィンランドではプッラはいろんな形や味のものが作られます。いろいろ季節に合うものが作られます。冬から春にかわる今の季節はラスキアイスプッラがお店で一番売られています。このプッラは1月頃から四旬節の前までの期間に食べられます。四旬節というのはイースター・復活祭の前の40日間の期間です。フィンランドでは四旬節に入る「灰の水曜日」の前日の火曜日がラスキアイネンと呼ばれます。この日の習慣としてフィンランド人は雪の中をそりですべったり、美味しいラスキアイスプッラを味わったりします。大人も子供も寒い中そりで滑った後で暖かい部屋に入ってラスキアイスプッラを暖かい飲み物と一緒に楽しみます。それがラスキアイネンの雰囲気を作ります。私は子どもの時、兄弟たちとラスキアイネンの朝に誰が一番早くそりで滑るか競争したので、その日は学校に行く前に朝5時や6時に滑ったこともあります。

ラスキアイスプッラ

ラスキアイネンのあとに来る四旬節とはどんな期間でしょうか?四旬節は40日の期間です。それはイエス様が荒野で40日間何も食べないで悪魔から誘惑を受けて打ち勝ったことに由来します。それでこの40日間はイエス様が活動を始める前の準備の期間にもなりました。四旬節の時、私たちはイースター・復活祭の前にイエス様が苦しみを受けたことを覚えて心の中で思い巡らします。イエス様は天の神様のひとり子で罪を持たなかったのに苦しみを受けて十字架で死なれました。イエス様は私たち人間の罪を十字架の上にまで背負って下さったのです。それで四旬節はイエス様の十字架の意味を心の中で思い巡らすのにとても良い期間なのです。

イエス様は荒野で40日間食を断った後で悪魔から誘惑を受けて次のように言われました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。それに対してイエス様は「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えられました。四旬節の時、私たちは聖書を読んで神様が私たちにどんなことを語って下さるかを知ることは生きる力になります。そして神様のみ言葉は、私たちの心の中で神様に対する信頼を強めてくれます。

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「成長の支え 〜 自分と子どもへ」というFacebookグループにご参加いただければ幸いです。そこで、2月14日から、フィンランド風のイースターカレンダーを読むことが出来ます。文と写真を通して、イースターのメッセージを味わうことができます。

天気が良ければ、今度の日曜日に大勢のフィンランド人はそり滑りに出かけます。そして家に帰ってから、ラスキアイスプッラを食べます。それはいったい何のことでしょうか。イースターというお祝いの準備をする時間の始まりです。今年のイースターは4月4日に当たります。イースターは大きいお祝いなので、その準備をする時間も長いです。

「イースターに向かって」というイースターカレンダーを通して、このお祝いについて楽しく学ぶことができます。物語のヴィッレくん(Ville)とアンニちゃん(Anni)とともに、家族の小さい子どもも、イースターを喜んで待ち望める助けになるでしょう。

読者の皆さんが、イースターの深いメッセージを味わうことができるようにお祈りいたします。

文・写真:パイヴィ・ポウッカ宣教師

2021年度の主題と主題聖句

スオミ教会の2021年度の主題と主題聖句について以下の宣教師提案が2月7日の教会定例総会にて採択されました。

主題「試練と不運の真っ只中でも神に感謝することはある。それを忘れないでいこう。」

主題聖句 詩篇118篇1節「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(フィンランドのルター派国教会の1938年版聖書に倣った訳)

提案理由

コロナ禍のこの1年、多くの人たちが苦難や困難に陥りました。感染を免れても別の苦難や困難がありました。この状況はまだ続きそうです。このような時、キリスト信仰者はどのように苦難や困難に立ち向かっていけるのか?詩篇118篇1節の御言葉についてルターが説き明かしたことは、立ち向かう心構え、基本姿勢を教えています。それを以下に引用します。

我々はいかなる不運に直面しても、それは本当は神が我々に灯した光なのだと理解しなければならない。それは、神の恵みと善き業が実は数えきれないくらいの出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるための光なのである。まさにその時、不運などというあの取るに足らない害悪は、我々からすれば燃え盛る炎に落ちていく一滴の雫にしかすぎなくなる。あるいは、大海の中に落ちていくちっぽけな火花にしかすぎなくなる。そのようになっていくのは、まさにこの聖句が我々にとって身近で麗しいものになるためなのである。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」この御言葉で言い表される気持ちは次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと誠実で慈しみ深い神聖な神でおられることか。私に対してもこの世全てに対してもこんなに大きくて沢山の善いことをいつも行って下さるのだから。私の感謝は全てあなたに帰せられますように。」

これと同じ聖句は聖書の中、特に詩篇の中でしばしば用いられる。この聖句は我々に正しくて神の御心に最も適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きくて優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである。

この説き明かしでルターは私たちが見落としがちなことを強く教えています。苦難や困難に陥った時、私たちは神に助けを祈りますが、その時、神に感謝することがあるなどとは思いもよらないでしょう。逆に苦難や困難がない時は、感謝するどころかさして祈る必要もないという態度でしょう。しかし、いつも神に感謝できていると、不運は一滴の雫、ちっぽけな火花に変わってしまうのです。自分の人生は不運だらけだった、だから神に感謝することなどない、などという考えはキリスト信仰者には無縁です。なぜなら神がひとり子を私たちに贈られたことが全ての感謝の基礎にあって中心にあるからです。このひとり子が十字架の死を遂げて私たちの罪を神に対して償って下さったおかげで私たちは神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになりました。そのような御子を贈って下さった神は良い方です。さらに彼を死から復活させることで私たち自身が将来の新しい世の復活に到達できる道を切り開いて下さいました。それで神の慈しみは永遠にあるのです。

詩篇118篇1節は、新共同訳では2~4節の形にあわせて「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」と詩的に訳しています。ヘブライ語原文を直訳すると冒頭に掲げたような「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」となります。なぜ主に感謝するのか、それは、主が良い方だから、その慈しみが永遠にあるからだ、と理由を言っているのです。その方がルターの説き明かしとよく合うのではと考えて直訳を掲げた次第です。余談ですが、フィンランドのルター派国教会の1938年版聖書もこのように訳しています。