説教「心の目でゴルゴタの十字架を見つめる時、死を超えた永遠の命に向かって進むことができる」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書 3章14-21節

主日礼拝説教 2021年3月14日 四旬節第四主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

東日本大震災から10年が経ちました。死者・行栄不明者合わせて2万2千人の大惨事でした。避難生活を送られている方も未だ4万人を超えるそうです。心に深い傷を負いながらも前に進んでいる人たちもいれば、なかなか進めない人たちもおられます。それなので、被災された方たちがみな前に進めるように必要な支援を受けられ力を得ることができるように、後ほどみんなで一緒に祈る時に父なるみ神に祈り願いしましょう。

東日本大震災はまた地震と津波の災害の他に原発や放射能汚染の問題もあります。この問題は、この日本でどのように生きていくかという問いを被災したかどうかにかかわらず全ての人に突き付けています。

そこで本日の礼拝の説教ですが、私たちは一時の間、この世界のことから身を引いて聖書にある神の御言葉に耳を傾けて父なるみ神は私たちに何を求めているのか、それに対して私たちはどう応えていくのかということを明らかにしていきたいと思います。明らかになったことを心に留めて、また明日から始まる平日の日常に戻って、私たちを取り巻く世界のいろんな問いかけに向き合いながら、自分自身の課題に取り組んでいきたいと思います。

そういうわけで本日の説教は、本日の福音書の箇所、ヨハネ福音書3章14-21節にあるイエス様の言葉を中心に解き明かしをしていきます。この個所は実は本日の旧約の日課、民数記21章4-9節と使徒書の日課、エフェソ2章1-10節とも密接に結びついています。これら3つの聖句を互いに突きあわせることで、ヨハネ福音書のイエス様の言葉の意味がよくわかってきます。どんなことがわかってくるかと言うと、イエス様がかけられたゴルゴタの十字架を心の目で見つめることが出来るかどうか、このことが死を超えた命、永遠の命に至るかどうかの決め手になるということです。以下それを見ていきましょう。

2.信じるとは、心の目で見つめること

本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3章1-21節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、神の愛とはどういうものか、また人間の救いとは何か、そして人間は洗礼を通して新しく生まれ変われるということについても教えを受けます。

本日の箇所でイエス様はニコデモに、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げたという出来事は、本日の旧約の日課、民数記21章の中にあります。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度も民を苦境から助け出したのですが、それにもかかわらず民は、一時するとそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に反抗したことを罪と認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に赦しを祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを見つめる者は、「炎の蛇」に咬まれても命を落とさないで済むようになりました。新共同訳では「炎の蛇」を「見上げる」とか「仰ぐ」と訳していますが、9節のヘブライ語の動詞ヒッビートゥהביתプラス前置詞エルאלは辞書によると英語のlook at、gaze atです。それで、「見上げる」、「仰ぐ」のような「見やる」ではなく、「見つめる」とか「注目する」です。じーっとよーく見ることです。

イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分を同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見つめると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたということにとどまらない深い意味が含まれています。

民数記21章の出来事に出て来る「炎の蛇」サーラーフשרףですが、興味深いことに各国の聖書では「猛毒の蛇」と訳されています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。しかし、ヘブライ語の辞書を見ると「炎の蛇」はありますが、「猛毒の蛇」はありません。欧米の翻訳者たちはきっと、古代人は蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんなふうに考えて「猛毒の蛇」という辞書にはない言葉で訳したんではないかと思われます。つまり、「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、出来るだけ合理的な訳をしようとしたのでしょう。どうも欧米人にはそういうところがあるように思われます。しかし、せっかく彼らが作った辞書に「炎の蛇」とあるのだから、ここでは少し踏みとどまって、「炎の蛇」で通すことにします。モーセが神から「炎の蛇」を造りなさいと言われて青銅の蛇を造ってそれを旗竿に掲げました。それを見つめた人たちは命が助かりますが、これは一体どういうことでしょうか?以下のように考えたらよいでしょう。

神から「炎の蛇」を造りなさいと言われたモーセがとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱なのでまさに「炎の蛇」です。しかし、だんだん冷めて固まります。それを神に言われたように旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。何の力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが悪魔にそそのかされて、造り主の神に対して不従順になって神の意思に反しようとする性向つまり罪を持つようになってしまいました。それが原因で人間は死ぬ存在となってしまいました。これが堕罪と言われる出来事です。

イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うということについて、これはまさに神の意思に反する罪を犯すと、その罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは冷たくなった蛇の像でした。これは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。つまり、神が与える罪の赦しは、罪の死に至らしめる力よりも強いということを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見つめた者は、そこで表わされていることがその通りになって死を免れたのです。

これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。神の意思に反しようとする罪が人間に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを修復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送りました。彼に全ての人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせました。つまり、イエス様は全ての人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったのです。加えて、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせの形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされて罪はその力を無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力であり、人間がこの世から去った後も造り主のもとに迎え入れられなくする力です。まさにその力が打ち砕かれ無力化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そればかりではありませんでした。一度滅ぼされたイエス様は三日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられました。それによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。他方、イエス様と共に断罪された罪は、もちろん復活など許されず滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。

このように神はひとり子のイエス様を用いて全ての人間の罪の償いを全部して下さり、また罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。そこで人間がこれらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いと罪からの贖いがその人に対してその通りになります。ここでまさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。イスラエルの民は悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見つめました。そして蛇の像が表していた毒消しがその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが私たちはイスラエルの民が青銅の蛇を見つめたように肉眼でゴルゴタの十字架を見ることは出来ません。それははるか2000年前に立てられたものです。それゆえ、私たちは心の目で見つめなければなりません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を償われ罪から贖われた者はイエス様の十字架を心の目で見つめたのです。

3.一度だけではなく、何度でも見つめること

イエス様の十字架を心の目で見つめることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた時に一回だけあったのではありません。心の目で見つめることは洗礼の後も何度も何度も繰り返されます。どうしてかと言うと、キリスト信仰者になったとは言っても、神の意思に反する性向つまり罪はまだ残っているからです。イエス様は有名な山上の説教で、たとえ人殺しをしていなくても兄弟を罵ったり憎んだりしたら同罪、たとえ不倫を犯していなくても女性を淫らな目で見たら同罪と言う具合に、神は罪のない潔白さを心の中まで問うていると教えたのです。確かにキリスト信仰者になったら注意深くなって神の意思に反することを行いや言葉に出さないようにしようとします。それでも心の中では反することを考えてしまいます。また、人間的な弱さがあったり本当に隙をつかれたとしか言いようがない不注意があって罪を言葉や行いで犯してしまうこともあります。そんな時はどうなるのか?せっかくイエス様が果たしてくれた罪の償いと罪からの贖いを台無しにしてしまったことになり、もう神罰を受けるしかないと観念するしかないのでしょうか?

いいえ、そうではない、ということを先週の説教でも先々週の説教でも申しました。自分に神の意思に反することがあった時は、すぐそれを神の御前で素直に認めて次のように赦しを願い祈ります。「どうかイエス様を救い主と信じますので、彼の犠牲に免じて私を赦して下さい。」そうすると神も次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあの十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられて今も微動だにしていない。イエスの犠牲に免じてお前を赦すのだから、お前もこれからは罪を犯さないようにしなさい。」

こうしてキリスト信仰者はまた永遠の命が待っている神の国に向かう道に戻れて再びその道を進み始めます。ここで明らかなように、御国に向かう道に戻れて再出発できたのは、心の目で十字架を見つめることをしたからでした。心の目で十字架を見つめることは、キリスト信仰者がイエス様を救い主であると確認する仕方です。キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と神への告白と罪の赦しの繰り返しですので、十字架を見つめることは何度でもします。そうやって何度でも再出発します。キリスト教は真に再出発の宗教と言ってもいいくらいです。そもそも神は、人間が死を超えた永遠の命が待つ神の国/天の御国に挫けずに到達できるようにとイエス様の十字架を打ち立てたのでした。私たち人間の救いのためにひとり子を犠牲に供しても良いとしたのでした。これが人間に対する神の愛ということです。そのことをヨハネ3章14~16節はよく言い表しているので、もう一度拝読します。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

4.信じない者は信じるに転ぶ可能性を秘めている

ヨハネ福音書3章の本日の箇所の後半(18-21節)で、イエス様は自分のことを信じない者についてどう考えたらよいか教えています。キリスト信仰者にとっても気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。

3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」などと言います。これは一見すると、イエス様を信じない人は既に地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたらあまりいい顔しないでしょう。しかし、ここで注意しなければならないことがあります。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになって以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。それでみんながみんなこの世を去った後は復活の日に永遠の命に与れず神の御国に迎え入れられなくなってしまう、永遠に自分の造り主と離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されます。信じなければ状況は何も変わらず、堕罪の時以来の滅びの道を進み続けるだけです。これが「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。逆に、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それは軌道修正がなされたことになります。その時、「裁かれている」というのは過去のことになり今は関係ないものになります。

3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と彼を用いて救いの道を用意して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。

3章20節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない人は悪行を覆い隠そうとする悪人、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように聞こえて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るところだと思います。しかし、それは早合点です。キリスト教が本当は独善的でも何でもないことがわかるために、まず、キリスト信仰者とそうでない者の違いを見てみます。そうでない者の場合は、造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が全て造り主の神にお見通しという考え方がありません。そもそも、そういうことを見通している造り主自体を持っていないのです。

キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果は、いつも沿っていないので、そのために罪の告白をしてイエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で罪の告白と赦しを行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善い業しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善い業を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身の真の姿を造り主である神に知らせるということです。善い業もしたかもしれないけれど実は罪もあった、それで罪も一緒に神に知らせるということです。私は神であるあなたを全身全霊で愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでしたと認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。

このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善い業が人目につくように明るみに出すためではありません。3章21節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善い業も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなります。そうなると、神の前で自分を誇ることができなくなります。

翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいためにイエス様をこの世に送られたのでした。神はイエス様を用いて救いを整えて、全ての人間にどうぞ受け取りなさいと言ってくれているのに、多くの人はまだ受け取っていません。また一度受け取ったにもかかわらず、十字架を見つめなくなってしまう人たちもいます。人間を救いたい神からみればとても残念なことです。それなので、キリスト信仰者は救いを受け取っていない人には受け取ることが出来るように、既に受け取った人は手放すことがないように働きかけたり支えてあげたりしなければなりません。受け取っていない人が受け取ることが出来るように、既に受け取った人が手放すことがないように働きかけたり支えたりするというのは、詰まるところ心の目でゴルゴタの十字架を見つめることができるように導くことです。見つめることができるようになれば、死を超えた永遠の命に向かって進めるようになります。隣人愛の中でこれほど大事なものはないのではないでしょうか?主にある兄弟姉妹の皆さん、このことをよく心に留めておきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、罪の汚れを持つ私たちを罰するかわりに、赦すことで私たちを癒(いや)して下さいました。どうか、あなたに癒された私たちが、あなたを全身全霊で愛し、また隣人を自分を愛するがごとく愛せるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

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