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2022年12月11日(日)待降節第3主日 主日礼拝

「あなたこそ来るべき方、メシア」       2022年12月11日

マタイ福音書11章2~11節

今日の福音書は、バプテスマのヨハネとイエスの活動についての話です。どういう場面かと言いますと。マタイ11章2節でわかりますが。「ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。」とあります。ヨハネは、今獄中に入れられています。なぜ獄中に捕らえられているか、ということを先ず簡単にふれたいと思います。マタイ14章3節を見ますと、領主ヘロデは自分の兄弟フイリポの妻であるヘロディアを自分のものにしようと夫のフイリポを戦場に出して戦死させた。そしてヘロディアを自分の女にしたわけです。こうした人道から外れた事をローマ帝国の領主たる者が衆知の中で、やっている事が許されることではない、と厳しくヘロデ王を咎めたために投獄されたわけです。ところで、2節~3節のところを日本語訳のまま読んでみますと、バプテスマのヨハネが獄中から、まるでイエスを疑って弟子たちをイエスのもとに行かせて「来るべき方はあなたでしょうか、それともほかの方を待たなければなりませんか。」と質問しているかのように読み取れます。このことが昔からここは福音書の中でも最も難解な箇所の一つであると言われました。2節を見ますとマタイはこう書いています。「さて、ヨハネは獄中でキリストの御業について伝え聞いた。」とあります。これまで、バプテスマのヨハネという人は人々に「来るべき方」を紹介するという特別な任務を神様から授かっている預言者でありました。彼は神の啓示に従って「イエスこそ待望のメシアである」と人々にも弟子たちにも紹介してきました。ところが、その後ガリラヤの領主ヘロデの怒りにふれ投獄されてしまいました。

この事については「ユダヤ古代史」を書いたヨセフォスという人の記録にもあります。それによるとバプテスマのヨハネが入れられた牢獄はヨルダン川の東にあるぺーレアという所にありました。そこは深い谷で囲まれた死海の海面から1200mもそびえる山の頂にある天然の砦であった、と言われます。まだ30才の預言者ヨハネは囚われの身となって死海の彼方に広がる山々を見ていたにちがいありません。その彼の耳にイエス様と弟子たちの活動の様子が伝えられていたのです。

マルコ福音書6章19節によると、ヨハネを捕らえて殺そうとした張本人は領主ヘロデの不義の妻であるヘロディアでありましてヘロデ王の方は「ヨハネは正しく聖なる人である事を知って彼を恐れ彼に保護を加えていた。」とあります。ですから「獄中」とは言え彼にはかなりの自由な弟子との連絡が許されていたようです。そうした事からイエスの活動ぶりが逐一報告されていたものと思われます。報告を聞いてヨハネはどう思ったでしょうか。自分は山の中の獄に捕らわれているのに対して、自分が「この方こそメシアだ」と世に紹介したイエスが眼下に広がる湖の彼方で活動している噂を聞いて預言者の胸中はどのようなものだったでしょうか。聖書はそれをドラマチックに描き出してはおりません。ただ一言「来るべき方はあなたなのですか、それとも他に誰かを待つべきでしょうか。」という彼の言葉が記録されているだけです。ここのこの言葉についていろいろ想像がめぐらされてきました。第一には、ここをそのまま読んで獄中のヨハネも余りの辛さに短気を起こし救い主の救いを待っていたが、もう我慢できないと、あなたなどメシアでも何でもないと、弟子たちを遣わして確かめたかった。という説です。預言者も現実の苦しみの前には信仰を捨て始めたのか・・・・というのです。しかし、これは聖書が預言者ヨハネのこの世に於ける働きの意義を重要な使命と教えている、ところから見るとそうは思えない。また、信仰を捨て始めたなどとはとても考え難いことです。例えば使徒言行録13章24節~25節を見ますと、彼の働きをこう要約しています。24節にヨハネはイエスがおいでになる前にイスラエルの全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。そして、自分の事をヨハネはこう言いました。「私を何者だ、と思っているのか。私はあなた方が期待しているような者ではない。その方は私の後から来られるが、私はその方の足の履物をお脱がせる値打ちもない。」ここに引用されているヨハネの言葉は福音書では、彼の預言者としての開口一番のメッセージとして記されているものです。それ以後ヨハネが殺されるまでの年月はほんのわずかしかありませんでした。そうして見るとヨハネのメッセージは預言者として登場してから死ぬまで首尾一貫して同じであった。それは、私の後にくる方「イエスこそメシアである。」と力強く叫んでいます。それがヨハネでありました。ですから今獄中にあって「来るべき方はあなたなのですか、それとも誰かを待つべきでしょうか。」とイエスを疑って本当かどうか聞いて来いと弟子たちに言うはずがない。ヨハネがそんな不信を抱くような事はないのです。

次にもう一つの見解があります。これは殆ど古代キリスト教の学者たちの説です宗教改革者のカルヴァンもこの見方です。これによると”ヨハネの信仰 ”はびくともしなかったがヨハネの弟子たちはいつまで経ってもメシアに従って行こうとしない。捕らわれの身にあるヨハネを慕っている。それで弟子たちに従わせるため彼らをイエスのもとへ遣わしたのだ、という説です。この説に対して反論がありました。ヨハネの弟子たちがこんな形でイエスのもとへ行ってしまったという例はほかにない。つまり、この説で言っているようにヨハネの意図したように弟子たちがイエスについて行ったでしょうか。さて、第三の見解があります。これが近代と現代の殆どの学者たちが辿り着いた説と言われます。神の啓示によってヨハネは「イエスをメシアである。」と紹介したのに今頃になって、その啓示を疑うはずがない。そこでヨハネがイエスを理解していたメシア観は木の根元に斧を振り下ろす審き主のメシア、蓑を以て、麦と殻とを分け殻を火で焼き滅ぼす審きのメシアという信仰であった。そこで、彼はそのメシアがあの領主ヘロデ夫妻を審いてくれるにちがいない。今は捕囚の身であるけれども正義を貫いている自分を救ってくれるにちがいないと期待していた。ところが、実際のイエスは憐みの業と福音伝道ばかりに熱中していて一向に審きを行おうとはしない。それで、ヨハネはイエスがメシアであることの事実は疑いはしなかったが、メシアの性質を考え違いをしたために、痺れを切らした。と言うのです。

しかし、ルカ福音書7章21節によれば「その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々を癒し、大勢の盲人を見えるようにしておられた。」とあるように、ちょうどヨハネの弟子たちが来た時イエスはその憐みの業の真っ最中だったが、それを見られても恵みと憐みのメシアとしての姿を示された。そして、憐みのメシアである私に躓かない者は幸いである、とも言われている。そこに、忍耐を求めておられるのでありました。

これらの第三の解釈が大方の見方であります。ところで、第三の見方についてもいくらかの疑問がある、という点を注意してみたいところであります。一つには2節で言われている弟子たちの情報からヨハネが獄中で聞いた「キリストの御業」と言っていますが、ここでヨハネはイエス様のなさっている事を、救い主メシアらしからぬ御業と誤解したのでしょうか。いや、そうではないヨハネ自身はイエスのなさっている働きを「キリストの御業」と理解して聞いていたであろうと思われます。次に、ヨハネの聞いた報告はヨハネの信じていたメシア観から見て期待外れのつまらぬ報告だったのでしょうか。その答えは、マタイの記す前後文からわかります。20節でイエスは数々の力ある業がなされたのに悔い改める事をしなかった町々を呪っておられます。イエスの御業はそれらの町の人々が見てはっきりとメシアの到来を認めねばならぬはずの「力ある業」だったのです。この事はルカ福音書の方でも記しています。ヨハネが弟子たちをイエスのもとへ派遣する前の事です。そこには、死人を生き返らせた大奇跡を記しています。その奇跡の結果、人々は皆恐れを抱き「大預言者が私たちの間に現れた」と言っているのです。また「「神はその民を顧みてくださった」と言って神をほめたたえた。イエスについてのこの話はユダヤ全土及び付近の至るところにも広まった。、これ程の業をイエスがなさって皆知っているわけですからヨハネの弟子たちもこれらの事を全部牢獄の中にいるヨハネにも報告しているわけです。だから、ヨハネは獄中で「なんだ、まだグズグズしてメシアらしい力を表さないのか」という思いで聞いてはいないのです。むしろ、メシアの力ある業を聞き「神がその民を顧みてくださる。」そういうメシアの時代が来た、と人々も認めている。こうした嬉しい報告を聞いているのです。

次に、ヨハネは果たしてメシアを審き主とだけ期待していたのであろうか。マタイ福音書3章7節以下を見ますと、バプテスマのヨハネの始めた頃はヨルダン川で洗礼を授けていた時「悔い改めよ」と叫んで「私の後に来る方は火で焼き払われるぞ」と審きのメシアを叫んでいましたが、後では変わっています。マタイ福音書3章13~17節を見ますとわかりますがイエスがヨルダン川にやって来られてヨハネから洗礼を受けられた。そのお姿は罪人の如く悔い改めてバプテスマを受けようとされるメシアです。へりくだった恵みのメシアです。そこで天から御声があった。「これは私の愛する子、私の心に適う者である」と。ヨハネはこういうメシアであるイエス様を充分知っているのです。だから、獄中からヨハネは審き主としてのメシアの力を発揮して「早く閉じ込めている領主ヘロデを審いて滅ぼしてください」といった考えは持っていないのです。こうして、イエスの返事は4節にあるように「行って見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。」目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病に患っている人々は清くなっている。耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死者は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。これら全部の事実こそメシアに相応しい印なのだ、ということです。そうして、イエスは言われる。「ヨハネこそ、あなたはこの私を『ナザレから出たメシア』だと紹介し続けてきた。この点で私に躓かない者であり、幸いなものである」と言っているのです。ですから、イエスの返事はヨハネに対する全面的な祝福と賛同の気持ちに満ちているのです。ヨハネのもとから遣わされた弟子たちはイエスの言葉に満足して帰ることができたでしょう。ヨハネの理解とイエス様の返事とは共にいまイエス様がしておられる恵みの業と力あるメシアの働きとを観る点で一致したのです。

さて、最後に11章3節にあるヨハネの言葉は今の日本語訳で、そのまま読めばどうしても疑問文です。そのことがどうしてもひっかります。実は、聖書学者の研究によれば、ここのところのギリシャ語原文は疑問文にはなっていない。そして、「たずねさせた」という文も原文にはない。というのです、むしろこの文章は力強い肯定文或いは断定文として訳したい構造になっている。これをありのまま訳すと「あなたこそ、かの来たるべき方です。それとも、我々は他の人を待っているべきでしょうか。いやいや、あなただけだ」と訳すのが一番自然と言われます。今日の聖書の箇所は難解でわかり難い面もあったかと思いますが、要するに結論的に申しますと、バプテスマのヨハネが預言者としての大切な働きをし、彼の人生の終わりが近づいている中でイエス様の活動をメシアの力ある御業として聞き、喜んで使者を遣わしイエス様に対する祝辞と力強い応援の声を送った、ということであります。ここには、メシアを民に紹介したヨハネとメシアであるイエス様との間に取り交わされた「祝福」と「賛美」にあふれたものであったのです。「イエスこそ神の子、救い主メシアである」とメシアの伝道を一筋に書いてきたマタイにとって、最高にうたいあげているメッセージであります。獄中にあってもヨハネにとって生涯の終わりまでメシアを指してきた、この働きは預言者ヨハネの最も輝かしいクライマックスでありました。

人知では、とうてい測り知る事のできない、神の平安がキリスト・イエスにあって守るように。>  アーメン

12月7日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時 「白樺の十字架の下で」

聖句 ヨハネによる福音書1章4ー5節

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

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宣教師の週報コラム 祈りの試練の現在

フィンランドの信仰ある人たちの祈りは、他の人のために祈るということだけでなく、 もし自分に何かあれば祈りの課題を他の人に伝えるということを当たり前のようにします。牧師にだけでなく信徒同士でそうするのです。課題を伝えられた人は、信頼の表れとして感謝して受け取ります。伝える人も相手に負担にならないように細かな状況説明はせず簡潔に課題を伝えることが普通と思います。受け取る側も簡潔さの中に大きな真実があるとくみ取って全ては父なるみ神がご存じであることでよしとして立ち入らず、神のみ前にヘリ下って祈りにまい進します。

課題を伝える人が祈る前に詳細を知ってほしいという場合もあります。その時は「魂ケア」の出番となります(「魂ケア」については9月25日付け週報コラムをご覧ください)。

最近スオミ教会の中で、生活にいろいろ困難が生じて礼拝にも集えない状態になったにもかかわらず、祈りの課題をあえて託さないということが一度ならずありました。いろいろ考えさせられました。一つには、キリスト信仰者が「お祈りします」と言うのと日本語の挨拶言葉「~をお祈り申し上げます」の区別がまだ出来ていないことがあるのではと思いました。日本語の挨拶は言う人の願いの表明で、言う人と言われる人の間の事柄に留まります。キリスト信仰の祈りは、「父なるみ神には、私の方からもお伝えし解決をお願いしておきます」という、神へのへりくだった取り次ぎです。自分で解決するから構わないでという態度は、神へのへりくだりがまだ身についていないことの表れではないかと思います。

もう一つには、コロナ禍で礼拝をオンライン化したため、教会に来なくとも礼拝をフォロー視聴できるようになったことも影響していると思います。人と直接顔を会わせず声も聞かないでいると、自分がイエス様を頭とする体の中の部分(他より優れているところがあるかもしれないが実は劣っているところもある)であることの実感が薄れていくのではないかと危惧しています。

手芸クラブの報告(2022年11月30日) 

マクラメ

11月の手芸クラブは晩秋にしては暖かい風の吹く陽気の中での開催でした。

マクラメ今回の作品は先月と同じ、マクラメのクリスマスの飾り物です。初めに飾り物のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。今回初めて参加された方はクリスマス・リースに興味を持ってそれを選びました。他の方たちはクリスマス・るのではなく、馬小ツリーと星です。まず、全部の作品に必要な糸の長さを測り、それから結び始めます。今回はマクラメの三つの基本の結び方を用いました。

クリスマス・リースは、リングの上にマクラメを結んでいきます。すると、マクラメは自然にねじれていきリングをどんどんカバーします。結んでいくとだんだん速くなって、リングはあっという間に薄緑のマクラメに覆われました。その次はリースの飾りつけです。赤いリボンを付けて可愛らしいクリスマス・リースが出来上がりました。

クリスマス・ツリーは、初めは二本の糸でスタートしますが、糸をどんどん増やして行くとクリスマス・ツリーの形が見えてきました。途中で可愛いらしいパールで飾りつけをして素敵なツリーの出来上がりです。

width星は、初めは小さいリングに糸を沢山結びます。それから新しい結び方で結び始めます。糸が多くて最初は結ぶのが少し大変でしたが、慣れると星の形が少しずつ見えてきました。星も可愛いらしく出来上がりました。

参加者の皆さんはマクラメのクリスマス・飾り物にとても興味を持って作られたので時間が経つのを忘れるほどでした。あっという間にコーヒータイムになった感じでした。モニターから映し出されるフィンランドのクリスマス音楽を聴きながらコーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。少し歓談の時を持ってから聖書のお話がありました。

皆さんの今年のアドベントとクリスマスの期間が心に残る良い時となりますように!

 

手芸クラブ11月30日星の話

今日マクラメのテクニックを使って作ったものの中に星もありました。私は二つの違った作り方で星を作りましたが、ネットを調べて見ると、マクラメの星の作り方はまだいろいろあります。来年は新しいテクマクラメニックを使って可愛いらしい星を作ることが出来たらと思います。

星は夜空に輝く天体です。多くの人たちは夜の星空を見るのが好きです。フィンランドでは冬寒い夜空に輝く星はたくさん見えるので、星座を見つけるのが面白くなります。特によく知られている七つ星の星座、北斗七星を見つけるのは楽しいです。皆さんはそれを見たことがあるでしょうか。

星はクリスマスの飾り物にもなります。教会のカレンダーではこの間の日曜日からアドベント、日本語で待降節という季節に入りました。その前の日曜日に教会ではクリスマスの飾り付けをして玄関のドアに木製の星を飾りました。星の中にあるランプの明かりが本当の星の光のように輝いて教会の前を通る人たちにクリスマスが近づいていることを知らせる光になるように願っています。キリスト教会で言われる「クリスマスの星」にはとても大きな意味があります。「クリスマスの星」というのは、世界で一番初めのクリスマスの時にベツレヘムというところに現れた星を意味します。それはどんな星だったのでしょうか。

救世主の誕生ということが旧約聖書に預言されていました。それで多くの人々はそのことが起こることを待ち望んでいました。一番初めのクリスマスの少し前に遠い東の国の占星術の博士たちは不思議な輝きをする星を発見しました。彼らはこれを新しい王様の誕生の印だと考え、はるばる今のイスラエルの地まで旅をして、首都のエルサレムまでやってきました。そこで、その時に王様だったヘロデに言いました。「新しく王になるためにお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」ヘロデ王はとても驚いて、自分に地位が危なくなると心配しました。ヘロデ王は旧約聖書の専門家たちを集めて預言について聞きました。すると彼らは、救世主はユダヤ地方のベツレヘムに誕生するという預言があることを教えました。ヘロデ王は東方の学者たちを呼んで、その子供を見つけたら知らせるようにと言いました。自分も子どもを拝みに行きたいなどと言いましたが、本当はその子を殺すことを考えました。クリスマス学者たちは王の本当の考えを知らずに出発しました。すると、東方で見た星が再び彼らに現れ、彼らはその星を目指すようにして進んで行きました。それはあたかも星が彼らの先頭に立って進んでいるようでした。そうして彼らはベツレヘムの町に入りました。やがてこれ以上進まなくていいというところにつくと、そこには馬小屋がありました。学者たちがその中に入ると、赤ちゃんのイエス様が母マリアの膝の上で安らかに眠っていました。学者たちは目の前におられる幼子は一つの国を支配する者ではなく、旧約聖書に預言された世の救い主になる方だとわかりました。そのような方が王子様のようにお城で生まれるのではなく、クリスマス馬小屋で生まれたというのは信じられないことでしたが、旧約聖書の預言や不思議な星の導ぎがあったので、これは天地を造られた神の御心だとわかったのです。

彼らはヘロデ王のところに戻って知らせなければと思いましたが、夢の中でヘロデ王のところに行かないようにという神様からのお告げがありました。それで彼らは戻らないで別の道を通って自分の国に帰りました。

クリスマスに飾られる星は、私たちにこの出来事を思い出させてくれます。この出来事は2000年前のことですが、2000年後の私たちにも大きな意味がある出来事です。東方の学者たちのように、私たちも世界で一番初めのクリスマスにお生まれになったイエス様の元に導かれることが起こるのです。それはどのようにして起こるのでしょうか?それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時に起こります。聖書のみ言葉は私たちにベツレヘムの星と同じ役割を果たすのです。そのことについて聖書には沢山書いてあります。例えば詩篇の119篇105節には次のように書いてあります。「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」。聖書のみ言葉は私たちが歩んでいる道をいつも照らし続けます。それに従って行けば、世界で一番初めてのクリスマスの意味、つまりイエス様はこの世の全ての人の救い主として生まれになったということが分かります。この意味を心で受け取ると心の中は平安で満たされます。

今年のアドベントとクリスマスが皆さんにとって神様が祝福される時となりますように。

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説教「神への立ち返りに相応しい実を結べ」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書3章1~12節

2022年12月4日(日)待降節第2主日 主日礼拝
聖書日課 イザヤ11章1~10節、ローマ15章4~13節、マタイ3章1~12節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.洗礼者ヨハネのスローガン その1「悔い改めよ」

本日の福音書の日課の箇所は洗礼者ヨハネの活動開始についてです。これは旧約の日課イザヤ書11章と使徒書の日課ローマ15章と結びつけて見ると内容がとても深くなります。限られた時間で全部をお話しすることはできませんが、特に今日大事と思われることをお話ししようと思います。

洗礼者ヨハネはルカ福音書1章によれば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか記されています。ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年です。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位します。その年を数え入れて15年目なのかどうかは定かではありませんが、いずれにしても西暦28年か29年の出来事です。このように洗礼者ヨハネの登場もイエス様の登場も歴史的出来事です。おとぎ話ではありません。

洗礼者ヨハネのスローガンには二つのことがありました。一つは「悔い改めなさい」、もう一つは、悔い改めなければならない理由として「天の国が近づいたのだから」でした。まず「悔い改め」とはどういうことか見ていきます。「悔い改め」と聞くと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしませんと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、もとのギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)にはもっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改める、生き方を方向転換して神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになりました。それなので、この説教ではこれからは「悔い改め」という言い方はしないで、「神のもとに立ち返る」という言い方をしますのでご了承ください。

2.洗礼者ヨハネのスローガン その2「神の国が近づいたのだから」

次に悔い改めなければならない理由としてある「天の国が近づいたのだから」を見ていきます。「天の国が近づいた」ということは何のことでしょうか?「天の国」とは天国のことですが、普通、日本人が「天国」と聞いたら、人が死んだらふわふわと上がって上から私たちを見下ろしている居心地のいい場所というイメージがあるでしょう。それが、私たちのいるところに「近づいてきた」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

「天の国」とは、他の福音書では「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とはどんな国でしょうか?「ヘブライ人への手紙」12章に次のように言われています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという、この世の終わりが来る。その時、唯一揺り動かされないものとして現れるのが「神の国」です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地に替えて新しい天と地を再創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時、神の国が見える形で現れることが預言されています。

このようにキリスト信仰はこの世には終わりがあるという立場をとります。しかし、終わっても終わりっぱなしではなくて、その後に新しい世が到来する、それで今のは終わるということです。新しい世では神の国が唯一存在する国となり、そこに迎え入れられるか入れられないかを決する最後の審判というものがある。この壮大な天地大変動の時にイエス様が再臨して審判を執り行うのです。イエス様が行う審判のことが今日の洗礼者ヨハネの言葉、麦の殻は永久に消えない火に投げ込まれるという言い方で言われています。これとは逆に神の国に迎え入れられる者はパウロが第一コリント15章で言うように「復活の体」という創造主の神の栄光を映し出す体を与えられて迎え入れられます。黙示録21章4節を見ると、神の国では「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」と言われます。涙には痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それなので、この世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされます。さらに、神の国は黙示録19章で言われるように結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。この世での労苦が全て労われるところです。
この将来到来する神の国と審判を行う者については今日の旧約の日課イザヤ11章でも預言されています。どのように預言されているか見てみましょう。

まず1節の「エッサイの株」。「株」とは木の切り株のことです。木が切り倒されて無残にも切り株だけが残されている。そこから芽が出てくる。若枝が伸びてくる。これは何か?エッサイとはダビデの父親なのでダビデの家系が暗示されています。木が切り倒されたというのは、歴史的に見ると、ユダヤ民族の王国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡したことを指します。イザヤ書6章終わりにそのことを暗示する預言があります。神の意思に反する生き方をしてしまった民に対して神が罰として強大な帝国を送り込む。その攻撃を受けて国は荒廃し民は異国の地に連行されてしまう。それはさながら、大木が切り倒されたような様である。しかし、残された切り株が神聖な種になる、という預言です。預言通り国は滅びました。その後でバビロン連行から解放されて祖国に帰還できました。しかし、かつてのような栄華を誇った王国は復興できないでいました。そのような切り株から若枝が萌え出る、それがダビデ家系に属する者として生まれたイエス様だったのです。

そのイエス様が最後の審判で裁きを行う時、どのような資質を備えているかが2節から5節まで言われます。神の霊に満たされている。その霊は知恵の霊であり洞察力の霊、助言する霊、力の霊、知識の霊、神を畏れる霊である。知恵は神の知恵ですから人間の知恵を超えています。洞察力も助言も力も知識も皆、神のもので人間のものではありません。こうした資質を備えた方が判決を下す。その際、目で見えることや耳にすることに基づいて行わない。つまり、目に見えない部分も見極められる。声にならない声も聞き分けられるということです。

「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」というのは、旧い世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされるということです。「「この地の貧しい人」というのはヘブライ語の辞書を見ると、貧乏な人たちでなく「神の前にへりくだった人たち」のことです。「その口の鞭をもって地を打ち」というのは、辞書によれば「口」(פיו)は「口から発せられる決定」の意味があるので「決定の杖で地を打つ」です。最後の審判者は決定を告げる時、その杖で大地を打ちます。大地は震え恐れおののきます。「唇の勢い」というのは辞書を見ると、「口から吐かれる息(ברוח)」で、それが強風のように神に逆らう者たちを永遠の死に吹き飛ばすという意味になるでしょう。

最後の審判者は、まさに正義と真実を腰の帯のように身にまとっている。「真実」と訳されている言葉(האמונה)は、辞書では「信頼できること、頼れること」という意味です。最後の審判者はいでたちからして、文字通り正義を体現して信頼しきって大丈夫な方だということです。

6節から9節までは、野獣や猛獣が家畜や幼子と一緒にいて何も危険がないということが言われます。それくらい完璧な安心と安全がある夢のような国です。ヘブライ語原文を見ても、同じ言葉や似た表現が繰り返され、詩のような美しさを感じさせる個所です。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。神を知っているということが全地に行き渡っている。それはあたかも水が海を覆い満たしているのと同じであると。このように「神の国」では、神を知らないことが存在しないので、神の意志に反する罪も存在しません。ここで野獣や猛獣が草食動物のようになっていますが、新しい世の有り様がかつての天地創造の最初の状態に戻ったことを表しています。創世記1章30節を見ると、堕罪が起きる前、獣もみな草を食べていたことが言われています。

10節「その日」、つまり新しい世が到来する時です。それは、イエス様の再臨の時、最後の審判の時、復活の起きる時です。その時、エッサイの根は全ての民の旗印と立てられる。日本語訳では「国々がそれを求めて集う」と言ってますが、原語(גוימ「諸民族」)は「諸民族が旗印を目指して行く」です。黙示録でも言われるように、神の国に迎え入れられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きた者であれば、ユダヤ民族であろうがその他の民族であろうが関係ないということです。(この10節をパウロが本日の使徒書の日課ローマ15章12節で引用しています。双方をよく比べて見るといろいろ違いがあることに気づかされます。これは、パウロが引用しているのはギリシャ語版の旧約聖書だからです。ヘブライ語の方は諸民族の動きに焦点が置かれていますが、ギリシャ語の方はエッサイの芽つまりメシアのイエス様の動きに焦点が置かれています。)

最後の「そのとどまるところは栄光に輝く」。「とどまるところ」と訳されている言葉(מנחתו)は辞書によると「休息の場」です。神の国とは、この世で流さなければならなかった涙を全て拭われて完全な労いを受ける永遠の休息の場です。「栄光に輝く」と訳される言葉(כבוד)は訳が難しく、impressive appearanceという意味があり、まさに息をのむ、目を見張る、そういう光景が目の前に広がるということです。今まで見てきたことを踏まえたら、神の国、天国はまさにそういうところだと言うほかありません。

さて、そんな夢のような国が2000年前に洗礼者ヨハネが「近づいた」と言ったのです。これは一体どういうことなのでしょうか?神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?ヨハネの時代から今までを振り返ってもそんなことは起きなかったではないか?

実は、2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めたり、悪霊を憑りつかれた人々から追い出したり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。それで、2000年前のイエス様の活動というのは、将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせるという意味がありました。それなので、神の国が本格的に出現するのは、やはり今の天と地が終わって新しい天と地が再創造される日だったのです。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れるということではなく、神の国を人々に体験させられる方が来られる、その方が神の国と一体としてある、彼のすぐ後ろに控えている、それくらい一緒にあるということを意味したのです。

そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。神の国が近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主である神に背を向けていた生き方をいい加減やめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国と一体になった方が来られるからだ。その方のおかげで、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

3.洗礼と神の国への迎え入れの関係

ところで、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そうなると、預言書に言われているように(イザヤ書24章21-22節、26章20-21節)最後の審判も来てしまう。これは大変だ、ということになりました。ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには特に手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと言います。宗教エリートでさえダメなんだから、神の怒りと裁きから助かるためには、神の意思に反する罪を犯してしまったと正直に認めて赦してもらわなければ、と人々が考えたのは無理もありません。皆こぞってヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

人々は、どうしてヨハネから洗礼を受けると罪を赦してもらえると考えたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考えたと思われます。しかし、ヨハネの意図は全く別のところにありました。彼が言うように、罪の問題の解決のために自分よりも強力な方がもうすぐ来られると。つまり、神の国に迎え入れられるために神の怒りと裁きから助けられるのはその方である、自分はその方が成し遂げる解決を人間が受け取ることが出来るように、そのために人間を罪の自覚と告白に導く役割を果たすということだったのです。それがイエス様の到来に備えて道を整えるということだったのです。

それでは、イエス様はどのように罪の問題を解決して下さったのでしょうか?それは、彼が神から贈られた神聖なひとり子でありながら、否、神聖なひとり子であるがゆえに、これ以上のものはないという位の神聖な犠牲の生贄になって私たち人間の持っている神の意志に反する罪を私たちに代わって神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。イエス様は私たちに代わって罪の神罰を受けられたのです。神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦し神罰を受けないで済むようにするという手法を取ったのでした。そこで人間が、このことはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、してもらった罪の償いを自分のものにすることができます。それでその人は罪を赦された者と神から見なされるようになります。

しかしながら、洗礼を受けたとは言っても、人間はまだ肉を纏っているので神の意志に反する罪を内に持っています。それでは、洗礼の後はどうしたらいいのでしょうか?それは、罪の自覚を持ち、神に対してそれを告白して、神から罪の赦しを頂く、これを繰り返していくことです。自覚と告白のたびに神は洗礼の時に与えた聖霊を通してゴルゴタの十字架にかけられたイエス様を私たちに示して下さいます。そこに罪の赦しが確実にあることを教えて下さいます。この時人間は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちに満たされて罪の言いなりにならないようになる力を頂きます。これを繰り返していくのです。繰り返しをすることで神は、あなたが罪に反抗する生き方をしていると認めて下さいます。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと言いました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2-3節)、罪からの浄化を意味します。先ほど申したように人間は洗礼を受けても罪を内に持っています。しかし、洗礼を受けることで人間は罪の赦しの中で生きることになり、罪の自覚と告白と赦しの繰り返しの人生が始まります。罪から浄化されるプロセスに入るのです。やがて、このプロセスが終結する日が来ます。肉の体に代わる、神の栄光を映し出す体を着せられる復活の日がそれです。

4.神への立ち返りに相応しい実を結べ

終わりに、ヨハネが結びなさいと命じている「悔い改めに相応しい実」とは何かについて述べておきます。この説教では「悔い改め」とは「神への立ち返り」のことだとしたので、「神への立ち返りに相応しい実」です。これはいろいろな内容を含みますが、何にしても、この「実」を考える際に忘れてはならないことがあります。それは、「神への立ち返り」とは何かを覚えていることです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神の罪の赦しのお恵みの中で生きることがそれです。その中で生きるとは、罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることを繰り返して生きることです。これが神への立ち返りです。ここからどういう「実」が実るのかを考えるのです。

私は、ローマ12章から後に書いてあることにその具体的な内容があると思います。今日の日課はその15章ですので、今日はそれに限定して「実」の内容を見てみます。日課は4節からですが、この区切りは良くなく、1節から見るべきです。「実」を理解するカギは7節にあります。パウロの言葉を借りると、次のことが「実」であることがわかります。

キリストは、もともと神の民・ユダヤ民族に属さない異邦人であるあなたがたを受け入れた。それは、神の栄光がこの世で一層明らかにするためであった。だから、あなたがたもキリストに倣ってお互いを受け入れなさい。そうすることで神の栄光がこの世で一層明らかにされるのだ。このように、キリストに倣ってお互いを受け入れることで神の栄光をこの世に現わすことが「実」なのです。

そこでキリスト信仰者がお互いを受け入れるというのはどういうことかが1節からの箇所にあります。

力ある者は、ない者の弱さを辛抱してあげること、自分のことだけを考えないこと、隣人にとって何が良いかを考えて隣人を強めてあげられるようにすること、隣人が蔑みを受けたら代わりに受けてあげること。つまり、キリストがあなたにしてくれたことを思い起こして、相手にも同じようにしてあげること。このようにキリストのことを思い起こして、仲たがいなどせず、皆で思いを一つにすること。これが「実」です。

「思いを一つにしている」は、次のように出来ていれば、そうなっていることになります。お互い同じ復活の希望を持っているのだ、それでお互い同じ喜びと平安を持っているのだとわかって、それで一緒に、この罪の赦しのお恵みの神に感謝し、一緒に神を賛美すること。これが「実」です。そうすると、今まさに皆さんがしているように、心から礼拝に参加することが実を結ぶことになるとわかるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

11月30日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時 「白樺の十字架の下で」

聖句 マタイによる福音書 21章5節

「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」

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宣教師の週報コラム  待降節は教会の新年

今日は待降節第一主日です。教会の暦では今日、新しい一年がスタートします。フィンランドのルター派国教会の礼拝ではこの日、 全国の教会で一斉に「ダビデの子、ホサナ(日本の教団讃美歌307番)」を元気よく歌います。スオミ教会でも歌います。

「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)

今日からまた、降誕祭(クリスマス)、顕現日、受難節、聖金曜日、復活祭(イースター)、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。聖霊降臨祭の後は、聖霊降臨後第何主日という形で続き、待降節第一主日の前の最後の主日は、北欧のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれ、最後の審判がテーマになります。

このように教会のカレンダーは、イエス様の誕生から十字架と復活の出来事までをフォローでき、私たち自身の復活にも思いを馳せられるようになっています。

それなので教会の暦に従って礼拝出席を欠かさないようにすれば、主の再臨を心に留めつつ、この世での自分の歩みを造り主である神の御心に照らし合わせて反省したり、また神から罪の赦しの恵みと愛が豊かに注がれていることを絶えず確認できます。しかも、一人ではなく信仰の兄弟姉妹たちと共にです。それなので、日々の歩みを教会の暦に合わせて日曜礼拝を守りながら生きることは、キリスト信仰者としてのアイデンティティーを確立し、この世を生きる上で大きな力を与えてくれるます。

どうか、天の父なるみ神がこの新しい一年もスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。(2020年11月29日初稿掲載)

説教「キリスト信仰者よ、新しい光の世を先取りしてこの世を歩もう」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書24章36-44節

主日礼拝説教2022年11月27日 待降節第一主日
聖書日課 イザヤ2章1-5節、ローマ13章11-14節、マタイ24章36-44節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を豊かに祝福して見守り導き、皆様自身も神の愛と罪の赦しの恵みの中に留まられますように。

 今日もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。毎年お話ししていることですが、これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の讃美歌集の一番目の歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。その日の福音書の日課が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。

 その個所が朗読される時、歓呼の直前で一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり出し、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌いだします。つまり、イエス様の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うのです。北欧諸国も近年は国民の教会離れが進み普段の日曜礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。

 さて、スオミ教会のホサナですが、北欧の国と同じようにしたかったのですが、2年前に日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。昨年と一昨年はルカ21章とマルコ13章のイエス様のこの世の終わりの預言でした。そういう話は聖霊降臨後の終わりの頃に相応しいと思うのですが、待降節になってもまだ終末テーマを続けなければならないというのは少し気が重いです。しかし、それでも今日の聖書の箇所はイエス様の再臨にどう備えるかという内容なので、それはそれで主を迎えることに関係することと思い、日本の日課に従うことにしました。

2.イザヤ2章1~5節

 最初に旧約の日課イザヤ書2章を見ていきます。これは、この世の終わりの時に何が起こるかについての預言です。主なる神の神殿のある山が地上のあらゆる山の中で一番高くそびえて、他の山々は揺り動かされてしまうが、主の山だけは揺るがない。そこを目指して諸民族が大河のようにやってくる。彼らは次のように言う。「主の山に上り、ヤコブの神が住まわる神殿に行こう。神は私たちが神の意思に従って生きられるように私たちを教えられる。なぜなら神の掟はシオンから、神の御言葉はエルサレムから出てくるのだから。」そう諸民族は述べてやって来る。一つ余計なことですが、新共同訳では、諸民族が言う言葉は、私たちはその道を歩もう、までです。しかし、正しくは「なぜなら、主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」までです。接続詞「なぜなら」が抜け落ちているので付けてあげて、カギかっこを後ろに移動します。

 諸民族がそう言いながら天地創造の神のもとにやって来る時、神は裁きを行う。諸民族の間に正義を打ち立てるが、多くの者は裁かれるという書き方です。諸民族が持っていた武器は農具に変えられ、もうお互いに対する武力行使はなく戦について学ぶこともない、そういう時が来る、だからヤコブの家の者である我々は主の光の中を歩もうではないか。そういうことが述べられています。

 さて、この世の終わりに世界の諸民族がエルサレムに上って行くとか、主の掟と御言葉はシオンやエルサレムから出るとか言うのを聞くと、本当に諸民族が一斉にあの中東の地に向かって飛行機か何かに乗って行くのだろうかと疑わしくなります。ヤコブの家などと言うと、ユダヤ民族のことを言っているように聞こえます。しかし、そうではありません。黙示録を見ればわかる通り、今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される日に現れるエルサレムとは、今の世界地図にあるイスラエル国の都市ではなく、天上のエルサレムのことです。天地創造の神から義と認められた人たちが迎え入れられるところです。そこに向かう諸民族の大移動ももうこの世の移動手段によらない、何か霊的な移動です。ヤコブの家というのは狭く考えればユダヤ民族ですが、新約聖書の観点から見ると、イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた者の集合体です。血筋上のユダヤ民族ではなく、信仰によって神の民の一員とされた者たちです。

 また、ここでは裁きのことが言われているので最後の審判があります。最後の審判では旧い世で損なわれたり中途半端になってしまった正義が回復して完全なものになります。イザヤ2章はそのことについて、個人レベルの正義ではなく民族や国レベルの正義について言っています。かつて旧い世では、正義の実現のため、などと言って振りかざしていたあらゆる武器が新しい世で農具に変えられます。武器なんかでは正義は実現しない、農具の方が正義に相応しいということです。農具に変えるというのは、新しい天と地の世で農耕文明が始まるということではなく、武器を作るくらいの暇と力があるのなら最初から農具にしていれば旧い世はパラダイスになったのに、そうしなかったのは実に愚かなことだったと思い知らせるシンボル的な意味があります。

 そういうふうに考えると、人間はどうしてそうすることが出来ないのか?今の世界情勢を見るにつけ嘆かわしくなります。ひょっとしたら、今の戦争を機に人類は武力に凝りて軍縮を一生懸命にやるようになるだろうか?その時、武器に費やした巨額のお金を気候変動や貧困や疫病の対策に向けられるようになるだろうか?どうでしょうか?そんなのユートピアすぎて非現実的だ、と言ってしまったら、もう無理だとあきらめることになります。聖書が言うように、新しい天と地の再創造の後にそうなることを信じ期待して、今はもうなるようになれと落ちるところまで落ちるしかないのか?

 聖書が今の世に対してそういう投げやりな態度の書物でないことは5節の言葉から明らかです。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」「ヤコブの家」とは、神から義と認められた人たちを意味します。まさに「神の民」です。神に義と認められた人たちとは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者たちです。ひょっとしたら、全人類が心を入れ替えて一致団結して叡智を働かせて戦争や気候変動をストップさせることができるかもしれない。もちろんそうなることにこしたことはありません。しかし、たとえそうなっても、今の天と地がいつか終わって新しい天と地に再創造されて最後の審判を経て神の御国への迎え入れがあることに変更はありません。逆に、人間が頑張っても危機を解決できない場合でも天地の再創造と神の御国への迎え入れは起こります。危機の回避か突入か、どっちを経由しても再創造と迎え入れに至るわけです。それでどっちになるにしても、今は主の光の中を歩まないといけないのです。既にイエス様を救い主と信じている人はこの光の中に留まって歩むこと。光を失わないようにすること。まだその光の中に入っていない人はこれから入るようにするということです。それでは、主の光の中を歩むとは具体的にはどういうことでしょうか?それが、今日の使徒書と福音書の日課で明らかにされています。

3.ローマ13章11~14節

 この個所は天地の再創造と最後の審判の時に起こる復活に向けての心構えを教えています。それが、主の光の中を歩むとはどういうことかを明らかにします。まず、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と言います。「覚めるべき」と言うと、今寝ぼけた生き方から目を覚ませ!と言っているように聞こえます。しかしパウロが第一コリント15章で言っているように、復活とはこの世から死んだあと眠りにつき、そこから起こされることです。それなので、ここはこの世で寝ぼけた生き方をやめよという命令ではなく、もうすぐ眠りから目覚めさせる時、すなわち復活の日が来るという必然について言っているのです。

 次に、「今、救いが近づいた。あなたたちがイエス様を救い主と信じる信仰に入った時よりも近づいた」というのは当たり前のことです。時間が経過したのですから。キリスト信仰には今の天と地が新しい天と地に取って代わられる日が来るという終末論と新生論があり、その日がいつかは神しか知らないが、とにかくその日は来る、だから、私たちが一年一年過ごしていく度にその時に近づいていることになります。パウロが言う「救い」とはローマ8章23節で言っていた「体の解放」、つまり今纏っている肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられることです。このように、パウロはここで復活の日が近いことを言っているのです。パウロはその期待が強かったようです。しかし、実際はどうだったでしょうか?パウロがこの世を去って2000年近く経ちましたが、同じ天と地はまだ続いています。イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは今の世は続くと言っていました。当時の人たちにとって世界は地中海とその周りが全てでしたから世界は今より小さく見られていました。しかし、いまだ福音が宣べ伝えられていなかったり自分の言語で聖書を読めない民族は世界に多く残っているので、今の世の終わりは当分まだなのでしょう。

 「夜は更け、日は近づいた」というのも同じ考えです。今のこの世の有り様が夜の暗闇に例えられています。日と言うのは新しい世のことです。今の世の有り様が終わりに近づいている、復活を経た新しい世の到来が近いということです。そのように今はまだ夜で暗いが、夜が終わって夜明けが来るのと同じように復活と新しい世も来る。それで、もうすぐ光の中を歩むことになるのだから、今はもうすぐ終わる暗闇に従うことを止めて、暗闇の力に対抗できる光の武具を身につけよ、とパウロは喚起します。光の武具を身に着けるとはどういうことか、パウロはそれを説明します。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」「品位をもって」というのは、すぐ後に酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみというものが言われるので、それらの対極として品行方正の意味に訳にしたと思います。もちろん、酒宴、酩酊、淫乱や好色は日中よりは暗い夜に行うことが多いと思います。しかし、ここで日中と言うのはあくまで暗闇の今の世に対する光の新しい世のことを意味します。それなのでここのパウロの意図は、新しい世はまだ来ていないが、今は既にその中にいるがごとく、そういう者として歩もうということです。光の新しい世はまだであるが、キリスト信仰者はもう一足早くその光の世にいるがごとく、今はこのもうすぐ終わる暗闇の世を生きなさい、ということです。それが光の武具を身に着けるということになります。一足早く光の世にいるようにして光の武具を身に着けるとはどういうことか?二つの大事なことがあります。一つは隣人愛で愛すること、もう一つは罪に反対して生きることです。その二つについてみてみます。

 まず、隣人愛で愛することについてですが、実はそれについて今日の個所の直前で言われています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、その他どんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいと言う言葉に要約されます(13章9節)」等々。パウロは今の世がもうすぐ終わることを次の所で言う前に、隣人愛で愛せよと命じるのです。さて皆さん、今の世がもうすぐ終わるということをわかった上で本当に隣人愛で愛することができるでしょうか?どうせ世界が終わるのに無意味なことを言っていると思う人もいるかもしれません。もし自分の命があと少ししかないと前もって分かったら、取り乱したり無力感に陥ったり自暴自棄になるかもしれません。しかし、人生の最後を人のために尽くそうという心も生まれることもあります。黒澤明の古い映画「生きる」の主人公がその例です。余命僅かと告げられた主人公は最初は快楽に走りますが、最後は人のために尽くそうと必死になりました。死を目前にした者が自分の生き方が無意味にならない、意味のある生きた方になることを他人のために尽くすこと他人が喜ぶ顔を見ることで見出したと言ってもよいでしょう。

 パウロの隣人愛で愛せよという教えはどうでしょうか?「生きる」の主人公のように、この地上での残された時間を意味のある生き方をするのだ、そのために隣人愛で愛するのだということでしょうか?そういう面もあるかもしれませんが、キリスト信仰の場合は、映画の主人公と違って、地上の残された時間の先を見ています。光の新しい世では愛と正義が完全なものになっている。それらを損なったり汚すものはもう存在しない。自分はイエス様のおかげでそこに迎え入れられて完全な愛と正義に包まれて生きることになるのだから、今はあたかも既に迎え入れらた者のようにこの世で立ち振る舞おう、新しい光の世を先取りした者としてこの世を生きよう、パウロは言っていることはそういうことです。黒澤明の映画はこの世を超えたことはないので人間中心主義です。文字通りヒューマニズムです。キリスト信仰の場合はこの世を超えたことを視野に入れています。何主義と言ったらよいでしょうか?皆さん、何か言葉を考えて下さい。

 光の武具のもう一つ大事なことは、罪の自覚を持ち罪を告白し罪の赦しを受ける生き方をすることです。パウロは14節で「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言います。これは、洗礼の時にイエス様を白い汚れない衣のように頭から被さられて、神からはさも罪の汚れがない者のように見なされることを象徴して言っています。既に洗礼を受けてこの神聖な衣を身に纏った人はそれを手放さないようにしなさい、まだ纏っていない人は暗闇の世が終わるまでに早く纏いなさいということです。

 イエス様という汚れのない衣を被されたとは言っても、私たちの内には神の意志に反する罪がまだ残っています。それなので、洗礼の後はこの衣の神聖な重みで罪を圧し潰していく生き方が始まります。どういうことかと言うと、罪の自覚が起きるたびに神のみ前で罪を告白して(神のみ前です、人間の前ではありません)、聖霊からゴルゴタの十字架を心の目に映し出してもらって、罪の赦しが揺るがずにあることを確認して罪の赦しの中に留まることです。その時、父なるみ神は言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることは分かっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦された。これからは注意しなさい」と。この時キリスト信仰者は襟を正し、畏れ多い気持ちと感謝に満たされて日常生活に戻ります。このような罪の自覚と告白と赦しはこの世を去る時まで繰り返されますが、神はこれを罪に与さずに生きた証、罪に反抗して生きて証、罪を圧し潰す生き方をした証しと認めて下さいます。そして復活を果たした後はこの繰り返しはもうありません。罪がなくなっているからです。

4.マタイ24章36~44節

 ここでは、イエス様の再臨のことが述べられています。イエス様の再臨というのは天地の再創造と最後の審判と復活にくっついている出来事です。イエス様は、キリスト信仰者はその時に備えて目を覚ましていなければならない、準備が出来ていなければならないと言います。ノアの洪水のことが例として言われます。ノアは目を覚まして準備が出来ていた人の例です。目を覚まして準備をしていれば、箱舟に入って洪水から守られたように守られて神の御国に迎え入れられると言うのです。反対に目を覚ましておらず準備もしていないと悲劇的なことになると。

 畑にいる二人の男と臼を引く二人の女の話は分かりにくいと思います。これは、神の国に迎え入れられるというのは選別があるということ、みんながみんな天国に行けてハッピーになるわけではない、なぜなら最後の審判があるということを意味しています。二人のうち一人というのは、50%の確立と言っているのではなく、迎え入れられる者と入れられない者の二つに分かれるということです。もう一つ気を付けなければならないことがあります。畑にいる二人の男の人も臼を引く二人の女の人も両方とも同じ仕事をしています。外側から見たらみんな同じ仕事をしていて一体何の違いがあって何の落ち度、デメリットがあって、一人は迎え入れられて、一人は迎え入れられないのかわかりません。これは、神は、人間の目で外から見て気がつかないこと、見えないことを全てご存じであるということを意味しています。神は造り主で私たちの髪の毛の数まで把握しておられる方ですから、私たちの行いや言葉について人には知られないこと、心の中のことまでご存じです。

 そこまで言われると、自分は神のみ前ではもうだめかと思ってしまいます。しかし、さっき言ったことを思い出しましょう。罪の自覚と告白と罪の赦しの繰り返しに生き、神の罪の赦しのお恵みの中に留まり、被されたイエス様の衣を手放さないように歩んでいれば何も心配ないのです。それが目を覚ましていること準備していることになります。泥棒に入られないように起きているというのも、泥棒とは罪のことです。自覚と告白と赦しがあれば、罪に支配されることはありません。イエス様の衣をしっかり握りしめれば握りしめるほど、罪は圧し潰されて行きます。

 以上、キリスト信仰者は新しい光の世を先取りして、このもうすぐ終わる暗闇の世を進んでいけることについてお話ししました。先ほどの映画「生きる」の主人公についてもう一つ述べておくことがあります。それは、主人公が快楽から人のために尽くそうとする転機になったことについてです。彼の職場を辞めて別の仕事に就いた若い女性がとても活き活きして仕事をしているのを目撃して、自分もあのように輝きたいと思ったことが転機でした。キリスト信仰は輝きを与える信仰です。その輝きは、新しい光の世の輝きであり神の栄光の輝きです。復活の日に自分もその輝きを映し出す復活の体を与えられて神のもとに迎え入れられます。キリスト信仰者は私自身も含めてですが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって新しい光の世を先取りしていることにもっと気づくべきだと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

11月23日19時45分 スオミ教会・聖書研究会

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聖句 ローマの信徒への手紙10章11節~11章10節

聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。 」しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。

新共同訳

スオミ教会 手芸クラブ&チャーチ・カフェのご案内

11月の手芸クラブは30日(水)10時~13時開催です。

マクラメでクリスマスの飾り物を作ってみませんか。

今回はマクラメのテクニックを使ってクリスマス・リース、クリスマス・スターを作ります。クリスマスツリーのミニチュアも作れます!

手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできます。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

 

参加費は材料費の500円-1000円
(作るものによって変わります)です。

人数制限がありますのでご注意ください。

お子さん連れの参加も歓迎です。

皆様のご参加をお待ちしています。

 

お問い合わせ、お申し込みは

日本福音ルーテル・スオミ教会
新宿区鶴巻町511ー4-106
03-6233-7109

 

手芸クラブの開催中、教会の集会スペースにてチャーチ・カフェも開いています。

コーヒーやプッラ(フィンランド風菓子パン)を味わいながら、モニターでフィンランドの讃美歌や風景に触れて、心休まるひと時をお過ごしください。

手芸クラブに参加されない方でもご自由にお好きな時間帯にお立ち寄り下さい。

ご希望あれば礼拝スペースにて一人静かにお祈りすることもできます。(コーヒー・プッラ準備費として300円ご協力お願いします。)

日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
www.suomikyoukai.org