洗礼式説教「イエス様は子供たちを祝福された」吉村博明 宣教師、マルコ10章13-16節

5月23日聖霊降臨祭(ペンテコステ)の日、礼拝の後に幼児洗礼と聖餐式が執行されました。式は主任牧師の浅野直樹先生が行い、吉村宣教師が説教を行いました。 以下は説教文のテキストです(実名は伏せてあります)。


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. これからIくんの洗礼式を執行するにあたって御言葉の説き明かしをいたします。Iくんはまだ生後5か月の赤ちゃんです。皆さんもご存じのように赤ちゃんや子供に洗礼を授けることはルター派教会では当たり前のことですが、教派によっては認めないところもあります。その理由として、洗礼は教義を理解して信仰告白をしてから授けるべきとの考え方があるからです。そうすると、教義を理解もしていない信仰告白もしていない子供やましてや赤ちゃんに洗礼を授けるのは意味のないことでしょうか?

この疑問に対して、実は今読みました福音書の個所でイエス様が答えを用意しています。イエス様が述べたことは、洗礼を受けるのに子供でも赤ちゃんでも問題はない、むしろ大人よりも赤ちゃんの方が相応しいということさえ示唆しているのです。このことがわかるために、この出来事中の次の3つの点に注目しましょう。まず、子供たちはイエス様のもとに連れて来られたということ。きっと親たちが連れて行ったのでしょう。イエス様が抱きかかえたということは本当に赤ちゃんもいたのでしょう。第二の注目点は、親たちが連れて行った目的はイエス様が子供たちに触れるためであったということです。イエス様は結果的に子供たちに手をかざして祝福を与えますが、親たちは祝福を考えておらず、ただイエス様が触れてくれればいいという考えで子供たちを連れて行ったのです。第三の注目点は、もうおわかりの通り、イエス様は触れるどころか祝福を与えたのでした。以上の三点に注意すると、洗礼は子供でも赤ちゃんでも授けるのは問題ないということが分かります。

2. 親たちが子供をイエス様のもとに連れて行ったのは触れてもらうためだったということですが、なぜ触れてもらうのがそんなに大事だったのでしょうか?福音書の他の個所にもあるように、イエス様や彼が纏っている衣に触れて病気が治ったという奇跡の出来事がありました。それで、イエス様に触れてもらったら病気の子供が癒されるとか何か御利益を期待したのでしょう。

どうして親たちは祝福ではなくて触れてもらうことをお願いしたのでしょうか?祝福は何か飾りみたいで、触れてもらうことで得られる御利益の方が意味があるということでしょうか?その逆です。祝福は飾りどころかとても大きな意味のあることでした。それで子供なんかに簡単にお願い出来るものではなかったのです。祝福は畏れ多いので、せめて触れて下されば十分ですということだったのです。

祝福がそんなに大きな意味のあることというのは、人によっては奇異な感じを受けるかもしれません。それは、恐らく日本語の「祝福」という漢字言葉のせいだと思います。日本語で例えば、結婚式でみんなで新郎新婦を祝福した、などと言います。つまり、祝福はお祝いの気持ちを表すことと同じなのです。ところが聖書の「祝福」は全く違います。それは、天地創造の神の良い意思が働くことを意味します。例えば、キリスト信仰者は食前の祈りでこれから頂く食べ物を祝福して下さいと神に祈ります。それは食べ物をお祝いすることではなく、食べ物を通して神の良い意思が働くことをお願いすることです。エサウは父ヤコブから受け継ぐことになっていた神の祝福を弟ヤコブに奪われ、復讐心に燃え上がりました。エサウが失ったのはお祝いではなく、後継ぎに与えられる神の良い意思でした。

このように聖書では祝福とは神が人間に与えるものです。お祝いの気持ちで理解したら人間が与えるものになってしまいま、神が与えるという重大性が見えなくなります。キリスト教会の礼拝の終わりで牧師ないしは教会が特別に認めた信徒が会衆に向かって祝福をします。これは人間が祝福を与えているのではなく、神の祝福を取り次いでいるのです。

このように祝福とはとても重大なことでした。それで親たちは万物の創造主の神の良い意思が子供に働けばいいと、実質は祝福を願いつつも、それは畏れ多いことなので触って下さるだけで結構ですと言って連れて行ったのです。ところが、イエス様は触れるだけでなく、文字通り祝福を与えたのです。

3. この時イエス様は、子供にも大人同様に祝福を与えてもよいのだということを行動をもって示しました。自分はもうすぐ十字架の受難と死からの復活を遂げることでこの世に大いなる祝福をもたらすが、それは子供にも大人にも等しく与えられるものであるということを暗示したのです。

イエス様が十字架の受難と死からの復活でもたらした祝福とは何だったでしょうか?それは、人間が内に持ってしまっている罪を人間に代わって神に対して償って下さり、それで人間が神から罰を受けないで済むようにして下さったということです。さらに、神の力で復活させられたことで死を超えた永遠の命に至る道を人間に開いて下さったということです。この罪の赦しと永遠の命の可能性がこの世の全ての人間に開かれたのです。宗教改革のルターが言うように、この世の全ての人間に対してこの真の救いが提供されているという意味でこの世は祝福されています。しかし、ルターが同時に指摘するように、全ての人間がこの神が提供するものを受け取ってはいないのです。せっかく神が準備できたのでどうぞ受け取って下さいと提供して下さっている、それでもう十分な祝福なのに、多くの人たちはそれに背を向けて受け取っていないのです。このようにルターは、救いが準備されたということとそれを受け取って自分のものにすることは別物であるとはっきり言います。

4. 天地創造の神がひとり子を用いて人間の救いを総仕上げしてくれて、それを今度は人間にどうぞと提供して下さっている。それを受け取るのが洗礼ということになります。大人の場合、洗礼とはそういう救いを受け取ることであるとわかって受けなければなりません。受け取る救いは何であるかをわかるために、例えば、万物の創造主の神は人間に対してどうあれと言っているかとか、その神から見て人間はどう見えているかとか、神と自分自身の関係はどうなっているかということを意識しなければわかりません。そうすると、意識などしていない小さな子供は救いを受け取れるのかという疑問に戻ります。

それに対してイエス様は受け取れることを態度と言葉で示したのです。子供たちは親に連れて来られました。大人のように自分の足で行ったではありません。赤ちゃんは運ばれて。ちょうど今、Iくんが聖卓の前に連れて来られたようにです。連れて来られた子供たちを弟子たちは追い返そうとしましたが、イエス様はそれを諫めて受け入れました。そして言いました。「子供のように神の国を受け取らない者はそこに入れない」と。子供が神の国を受け取る仕方は、イエス様が子供たちに祝福を与えたのと同じことです。つまり、ただただ自分を受け入れてくれる方のところに連れて行ってもらって、そこで与えられるものを素直に受け取るという仕方です。大人の場合は、これだけ理解した、これだけ良いことをした、だから受け取れる、あるいはまだ不足で受け取れない、ということが入り込み、救いの受け取りがなんだか取り引きのようになる危険があります。神はそれを望んでいません。大人も学ぶ時は、神がイエス様を用いて総仕上げした救いがどれほど大きなものか圧倒されて理解も能力も何もなしえないことがわかるくらいになれば、子供のように受け取ることができるでしょう。でも、普通はそこまでいくでしょうか?

仮にそこまで行かなくとも、洗礼を受けて救いを受け取ったら、あとは子供のように受け取ることを目指すことになるでしょう。つまり救いは自分の理解力や能力では何もなしえない、ただただイエス様が成し遂げたことが全てで、そこに現れた神の愛と恵みと憐みに自分を委ねるしかないというふうに自分を変えていく、あるいは神に変えられていくということでしょう。

子供の時に洗礼を受けて救いを既に受け取っている人の場合は、その人の親が、あなたはこういうものを神さまから頂いたのですよ、と気づかせてくれることが必要です。一緒にお祈りしたり、会話の中にイエス様や神さまのことを出したりして、生活の中に救いの香りが漂うようにします。そうすることで子供も自分には神さまからの頂きものがあるとわかるようになります。ある程度の年齢になったら、頂き物を言葉で言い表して整理して確認し、この確認したものをもってこれからの人生も生きますと誓うことが必要です。それが堅信礼です。多くの欧米語ではコンファメーションといい、まさに確認です。フィンランドでは中学2年がその年と定められています。もちろん、違う年でも構いません。そういうわけで、Iくんのご両親と教保におかれては、教会にはそういう確認のための学びの機会があることを覚えて頂き、その時までは生活の中にイエス様の福音が響くように、また香るようにお努め下さるよう、お願い申し上げます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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