説教「時代の波風猛る時も神の愛に踏み留まり豊かに実を結ぶのみ」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書15章1-8節

主日礼拝説教 2021年5月2日 復活後第五主日
使徒言行録8章26-40節、第一ヨハネ4章7-21節、ヨハネ15章1-8節

説教をユーチューブで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.時代の状況と無縁ではないキリスト信仰

本日の使徒言行録の日課の個所は、エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事です。この出来事は、人がイエス様を救い主と信じる信仰に至る時、万物の創造主の神はその人の生きた時代の中にあるいろんなことを用いて信仰に至らせるという、そんな神の大いなる導きを示しています。一般に信仰は個々人の内面のことと言われますが、神はこのように時代の状況を用いて人間に働きかけて信仰に至らせるというのが本当ではないかと思います。本日の説教ではこのことをエチオピアの高官の受洗を通して見ていこうと思います。

それから本日の福音書の日課の個所は、イエス様がキリスト信仰者に対してブドウの木の枝が木に繋がって実を結ぶように信仰者もイエス様に繋がって実を結べと教えるところです。これも、イエス様を救い主と信じる信仰に至った者は今度は神と共に時代の状況に働きかける側になるということを意味しています。このことについても見ていきます。

そういうわけで本日の説教は、キリスト信仰というのは信仰に至るまでも、また至った後も時代の状況とは無縁ではないということがテーゼになります。

2.神は時代の中にあるいろいろなものを用いて人を信仰に導く

エチオピアの高官の受洗について、まずこの出来事が記載されている使徒言行録という書物について述べておきます。この書物は、死から復活されたイエス様が天に上げられ、その後で聖霊降臨の出来事が起こって、聖霊の力で弟子たちがイエス様を救い主であると宣べ伝え始めるところから始まります。弟子たちの伝道がエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わり、大体30年間位の出来事が記録されています。まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物です。

本日の箇所にはガザとかエチオピアとか、私たちが耳にする地名や国名が出て来ます。ガザは、今でこそパレスチナとイスラエルの不幸な紛争のために中東情勢の熱い焦点の一つですが、本当は紀元前1500年位からある歴史的な町で、ローマ帝国の時代は平穏な町でした。エチオピアの方は、本日の箇所に出て来るのは現在のエチオピア国家と関係はなく、当時エジプト南部の地域はそう呼ばれていました。当時そこにはユダヤ人の居住地がありました。どうしてかと言うと、イエス様の時代から約300年位前のアレクサンダー大王の時代、ギリシャからパレスチナを経てエジプトに至るまでの地中海東部の地域はヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ系の文化が栄えていました。この地域ではギリシャ語が公用語になっていました。まさにその頃、ユダヤ人の居住地が広がり、各地に会堂・シナゴーグが建てられました。使徒言行録のパウロの伝道旅行をみますと、彼はたいてい訪問先で初めにシナゴーグを訪れます。そこで、エルサレムで起きた事件、イエス様の十字架と復活の出来事を知らせ、旧約聖書の預言が実現したことを伝えます。それを聞いたユダヤ人たちはいつも信じる者と信じない者に分裂しました。

 これらの地中海世界のユダヤ人は旧約聖書の言葉であるヘブライ語が出来ませんでした。それで彼らのために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。本日の箇所でエチオピアの高官が読んだイザヤ書53章7ー8節ですが、よく見ると、私たちが手にする旧約聖書のそれと少し違っています。これは、私たちの旧約聖書はヘブライ語から翻訳されたものなのに対し、エチオピアの高官が読んでいたのはギリシャ語の旧約聖書だったことによります。翻訳文がもとの文と違っているということがよくあるのです。エチオピアの高官は、ギリシャ語系のユダヤ人と接触があって、それでギリシャ語の旧約聖書を読んで天地創造の神を信じるようになり、エルサレムの神殿にお参りに行くようになったのでしょう。ただし宦官でしたので割礼は受けられません。天地創造の神を信じ、メシアの到来を待ち望む信仰を持つには至っても、正式にユダヤ教徒とは認められなかったのです。

地中海世界にユダヤ教が広がったのは、ユダヤ人が移住したことの他に、移住先の現地人たちが改宗したこともありました。ユダヤ教に改宗するというのは、現代の目で見ると少し奇異な感じを持たれる方がいらっしゃるかもしれません。それは歴史を通してユダヤ教やユダヤ人に対する迫害と偏見が長く持たれ、特にキリスト教側から否定的なイメージが作られたことが影響していると思います。ここではそういう後世に出来てしまった見方を脇に置いて、2000年前はどうだったかという、当時の視点で見てみますとかなりイメージが異なってきます。例えば、2000年前のギリシャ・ローマ世界の性のモラルは奔放というかルーズなところがありました(ひょっとしたら現代も似ているかもしれませんが)。そういうところでユダヤ教は、人間を男と女に造った創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。また、当時の地中海世界には間引きの風習がありました。つまり余分な赤子は父親の権限で処分するという嬰児殺しが当たり前のことのように行われていました。これに対してもユダヤ教は、人間は神に造られたもので母親の胎内の中にいる時から神に目をかけられているという生命観を示して間引きに反対したのです。

このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので男性と同じ立場で正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには旧約聖書の神を信じるが割礼を受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍が大勢いたのです。使徒言行録の中に何度も「神を畏れる者」という言葉が出て来ますが、まさに彼らのことです。そこにある日突然パウロなる男がやって来て、旧約聖書の預言はイエス・キリストの受難と復活によって実現した!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ割礼など受けなくとも神の民、神の子となれるのだ!と教え出したのです。さあ、割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるとなれば予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることはできません。ローマ帝国の官憲も巻き込んでパウロを迫害します。このようにして、キリスト教はユダヤ教の中から生まれて急速に広まりますが、同時に強い反対も引き起こしていったのです。

以上のような時代状況を使徒言行録は明らかにしています。ここでエチオピアの高官の受洗を見てみましょう。彼はイザヤ書53章7ー8節の、屠り場に引かれる羊や毛を刈られる小羊のように口を開かなかった主の僕とは誰のことか?と悩んでいました。実は、彼が読んだギリシャ語のイザヤ書の箇所はヘブライ語の原文よりやっかいです。ヘブライ語では「羊のようにおとなしい主の僕は捕まって裁きを受けて命を落としてしまい、彼の同時代の者は誰もそのことを気に留めない」という書き方です。ところがギリシャ語の方は「主の僕はへりくだったことによって彼の裁きが取り除かれる」などと言います。それに続いて「彼が死ななければならなかったことを誰が説明することができるだろうか?」などと問います。ヘブライ語とかなり違っています。

(ここで一つ注釈しますと、新共同訳では「卑しめられて、その裁きも行われなかった」と訳されていますが、ギリシャ語原文ではエチオピアの高官が読んだ部分は「彼がへりくだったことによって彼の裁きが取り除かれる」です。ギリシャ語のイザヤ書の個所もその通りになっています。参考までに各国語ではどう訳されているかを見ると、フィンランド語訳とスウェーデン語訳はこれと同じです。ルター版のドイツ語訳は「彼の裁判は廃止される」で、新共同訳の「裁きが行われなかった」に近いです。英語のNIVは「彼の正義が奪われる」で、裁判が行われなかったことを意味するのであれば日独に近いです。フィンランド語訳とスウェーデン語訳は裁き=有罪判決が取り除かれるということで、私はギリシャ語原文の意味はこれだと思います。)

もしエチオピアの高官がヘブライ語で読んだのなら、主の僕が具体的に誰かはわからなくても何か迫害を受けたことはわかります。ところがギリシャ語を読むと、へりくだったことによって裁きが取り除かれるとあり、何のことかわかりません。しかも、主の僕の死の意味を誰かが説明しなければならないとも言っていて、裁きが取り除かれるのに死んだことにもなっています。ますますわからなくなります。

実を言うと、このわかりにくいギリシャ語の文はイエス様の出来事を知っている人ならばわかる内容なのです。へりくだったことにより裁きを取り除かれるというのは、フィリピ2章のキリスト賛歌を思い出すとわかります。そこで言われていることは、イエス様は十字架の死に至るまでへりくだって神に従順だったこと、その後で神に高く上げられたということです(8~9節)。神に高く上げられたというのは、神の力で死から復活させられ、さらに天に上げられて神の右に座すに至ったということです。まさに、へりくだったことによって裁きを取り除かれたのです。

それから、イエス様の十字架の死の意味を誰かが説明しなければならないということについて、誰がそれをするのか?イエス様が天に上げられた後、イエス様の十字架の死と死からの復活について宣べ伝えるのは使徒たちの役目になりました。ギリシャ語版のイザヤ書を読んで悩めるエチオピアの高官のもとに使徒の一人であるフィリポが送られたのです。ヘブライ語で読んでいたらこのような展開にはならなかったでしょう。それでは、なぜ彼は旧約聖書をギリシャ語で読んだのか?それにしてもなぜ彼は旧約聖書を読むようになったのか?なぜエルサレムに巡礼に行くようになったのか?そうしたことは先ほど述べた時代状況を思い起こせばわかります。

フィリポはイザヤ書53章の主の僕についての預言から始めて、イエス様の福音を宣べ伝えました。教えた内容について記述がないので正確なことはわかりませんが、主旨はこういうことです。天地創造の神が贈られたひとり子のイエス様が十字架の上で人間の罪の神罰を受けて死なれ、人間に代わって罪の償いを神に対して果たされた。それで彼を救い主と信じて洗礼を受ければイエス様の果たしてくれた罪の償いが効力を持つ。それで罪を償ってもらった者とされる。罪を償ってもらったから神からは罪を赦された者と見なされ、罪を赦されたのであれば神との結びつきを回復したことになる。さらに神はイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さった。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はその道に置かれてそれを歩むことになる。神との結びつきがあるから、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得てその道を進み、万が一この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて、永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようになった。以上のような福音が伝えられました。時代を超えて私たちにも伝えられる福音です。

イエス様を救い主と信じたエチオピアの高官は洗礼を志願し、フィリポはそれを施します。これでエチオピアの高官は、割礼なくして天地創造の神と結びつきをもってこの世とこの世の次に到来する世の双方にまたがる命を持って生きることとなりました。エチオピアの高官の受洗は、神が時代の中にあるいろんなことを用いて導いたことの結果なのです。

3.キリスト信仰者が結ぶ実 - 神の愛に立つ愛

福音書の日課の方を見てみましょう。有名なイエス様のぶどうの木のたとえです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、ぶどうの木と枝のように繋がっているというたとえです。

budounoki

2節をみると、イエス様という木に繋がっている枝の信仰者は、実を結べば父なるみ神に手入れしてもらってさらに実を結ぶ、と言われます。3節では、弟子たちはイエス様の話した言葉によって既に清くなっている、と言われます。興味深いのは、「手入れをする」という動詞(カタイレイκαθαιρει)と「清い」(カタロイκαθαροι)という形容詞がギリシャ語では同類語で言葉の引っかけになっています。それで、弟子たちはイエス様の言葉によって手入れをしてもらって清い枝になっているという意味になります。手入れをしてもらって清い枝になるというのは、栄養を一層受け取る枝になっているということです。

ぶどうの枝が実を結べるのは木と繋がっているからです。枝が木と繋がっていなければ木から栄養を受けられないので結べません。当たり前のことです。それでは信仰者がイエス様という木から受ける栄養とは何でしょうか?それは言うまでもなく神の愛です。神の愛とは、本日の使徒書の日課、第一ヨハネ4章で言われているように、ひとり子を犠牲にしてまでも人間を罪と死の支配から解放して、復活と永遠の命に至る新しい命を生きられるようにしてあげようという愛です。人間が罪と死の支配から解放されるためには先ほど述べたように神のひとり子の犠牲による罪の償いと赦しが行わなければなりませんでした。このような神の愛と罪の赦しの恵みがキリスト信仰者が受ける栄養です。

神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養を受けて実を結び、さらに手入れをしてもらってもっと栄養を受けられるようになってもっと多くの実を結べるようになる。ところが、イエス様に繋がっていながら実を結ばない枝は、父なるみ神が農夫のように切り取ってしまう、と言います。イエス様に繋がっていながら実を結ばないとはどういうことでしょうか?

キリスト信仰者が実を結ばなくなるとは、霊的な栄養を受けなくなってしまったことを意味します。それはどういう状態でしょうか?それは、イエス様を救い主と信じることがなくってしまうことです。罪を人間と神の関係にかかわる問題と見ないで、人間と人間の間のことだけと考えてしまうことです。6節でイエス様は、取り除かれた枝は集められて燃やされてしまうと言っていますが、これは最後の審判を意味します。私はここでは、イエス様を拒否することや裁きの問題はこれ以上深入りしないことにします。というのは、本質的なことは、どうしたらイエス様が私たちの間で救い主として保たれるかということです。そのためには、神との結びつきを持って生きることが何ものにも代えがたい価値あることとわからなければなりません。それをわかるようにしないで地獄に落ちるのが恐かったら信じろ、というやり方は本末転倒です。本日の使徒書の日課、第一ヨハネ4章の中でも、恐れと罰は表裏一体である、恐れには神の愛がないと言われています(4章18節)。

それでは、キリスト信仰者が神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養を摂取して実を結ぶと言う時、その実とは一体何なのかということを考えてみましょう。第一ヨハネ4章を見ると、愛の実践ということがよく言われます。そこで言われる愛とは神の愛に立つ愛です。

9節 神の愛は、ひとり子イエス様をこの世に贈って彼を通して人間が新しい命を生きられるようにしたことで目に見える形で現れた、と言います。

10節 愛は、人間が神を愛したということにあるのではない。神が人間を愛してひとり子イエス様を人間の罪を償う生贄として贈って下さったことにあるのだ、と言います。

11節 そこでヨハネは「兄弟たち、神はこのように私たちを愛して下さったのだから、私たちもお互いに愛さなければなりません」と言います。19節でも言います。「私たちは愛そうではありませんか。なぜなら、神が最初に私たちを愛して下さったのですから。」

以上、愛についてのヨハネの立場ははっきりしています。人間が普通、愛と言っているものは実は愛ではない。愛とは、人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持てるようにしてこの世とこの次に到来する世の双方を生きられるようにした、しかもそのためにひとり子を犠牲にしても構わないと思うほどであった、この神の愛が本当の愛だと言うのです。人間はこの愛で愛されて愛することができると言うのです。この愛がなければ愛することができないと言うのです。イエス様に繋がって実を結ぶというのは、まさにこの神の愛に立って愛するということです。

そうすると、キリスト信仰者は愛する時、具体的に何をするのでしょうか?一つには、まだイエス様というブドウの木に繋がっていない人たちを繋がるように導いてあげることがあります。せっかくイエス様というブドウの木がこの世に植えられて立っているのに繋がっていない人たちが大勢います。イエス様に繋がるというのは、イエス様が果たされた罪の償いを自分のものにするということです。そこに導いてあげるのは伝道の働きです。この働きは、いろいろな宗教や死生観があるところでは難しいものです。キリスト信仰者の側としては愛だと思ってやったことが、相手側から余計なお世話だとか脅威に受け取られたりします。人がどの宗教を信じるか、あるいは信じないかということは、詰まるところ、どんな死生観を持つかという問題に収れんすると思います。これは極めて現代的な問題です。

神の愛に立って愛するというのは伝道の働きに尽きません。もっと広いこともあります。それは、隣人に対してどのように振る舞うかという問題です。神の愛に立って隣人を愛するということについて聖書には沢山の教えがあります。有名なのは使徒パウロが第一コリント13章で愛について教えているところでしょう。私自身はいつもパウロがローマ12章で教えていることが大事と考えています。まず9節で「愛には偽りがあってはならない」と言います。その意味するところは、もし何か自分の利益とか名声のためとか下心があれば、もう偽りの愛になってしまうのです。その続きをざっと列挙すると、悪を憎み、善から離れるな/兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思え/迫害する者を呪うな、祝福を祈れ/喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け/思いをひとつにし、高ぶらず身分の低い人々と交われ/自分を賢い者とうぬぼれるな/誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ/隣人と平和な関係を築けるかどうかが自分次第である時は迷うことなくそうせよ、少なくとも自分から平和な関係を壊すな/自分で復讐するな、最後の審判の時の神の怒りに任せよ、だから、その時までは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ/善をもって悪に勝て。

これらの中には不利益を承知のお人好しすぎることがありますが、そういうことが出来るのは、正義の問題を神が最後の審判で決着をつけて下さることに任せているからです。正義というのはやっかいなものです。誰かから害悪を被った時、こんな程度の補償や謝罪では収まらない、ということがよくあります。逆に、誰かに損害を与えてしまった時、確かに自分に落ち度はあったがまさかこんなに法外な補償を求めてくるとは、ということもよくあります。不完全な人間が判断を下して決めることは不完全にならざるを得ず、後々尾を引いてしまうのです。全知全能の神が最終的に決着をつけることでいいんだ、という姿勢でいると、この世ではエスカレートさせない、エスカレートと逆方向のことに心を向けられるのです。皆さんもご存じのように、今の世はSNSに書かれたことが原因で人の命が失われるような時代です。もし投稿する人が皆、このような心を持っていれば、SNSは素晴らしい文明の利器になるでしょう。

4.おわりに - 神の愛に立つ限り最後の審判では堂々としていられる

最後に、神の愛に立って隣人を愛するとは言っても、キリスト信仰者は十戒に示された神の意思に敏感になるので自己採点はどうしても厳しくなります。しかし、それで苦しくならないためにイエス様の十字架と復活の出来事が起きたことをいつも思い起こしましょう。私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神の愛を受け取りました。それは人間的でない完璧な神の愛です。それなので私たちは第一ヨハネ4章17節の聖句から大きな励ましを得ます。新共同訳ではこう言っています。「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちもイエス様のようであるからです。」

これを原文に忠実に解説的に訳すと以下のようになります。「パウロが随所で言うようにキリスト信仰者は洗礼を通してイエス様を衣のように頭から被せられています。その衣の神聖さの重みで私たちの内に残る罪を圧し潰していきます。これが、私たちがこの世でイエス様のようになっているということです。それで愛は私たちのもとで完璧なものとしてあるのです。そういうふうになっているのは、私たちが最後の審判の日に堂々としていられるようになれるためなのです(後注)。」新共同訳では「確信を持つことができます」ですが、何の確信かはっきりしません。ギリシャ語原文では「勇気を持てる、物怖じしない」という意味です。つまり、神の愛に立つ限り、最後の審判で何も恐れる必要はない、堂々としていられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)第一ヨハネ4章17節 ”Εν τουτω τετελειωται η αγαπη μεθημων, ινα παρρησιαν εχωμεν εν τη ημερα της κρισεως, οτι καθως εκεινος εστιν και ημεις εσμεν εν τω κοσμω τουτω” をこのように訳したのは、οτι以下をτουτωの内容と考えたからです。οτι以下を理由の文に考えると全体的に上手くいかないように思えます。


特別の祈り
「全知全能の父なるみ神よ。
 主イエス様は、私たちがぶどうの木につながる枝のように主につながっていれば豊かに実を結ぶ、と教えられました。どうか、私たちがイエス様にしっかりつながっていられるようにして、あなたから頂く愛と恵みを世の人々にも分け与えられる者にして下さい。
 あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン」
新規の投稿
  • 2024年4月21日(日)復活節第四主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師
    [私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と、平安とが、あなた方にあるように。アーメン]                           2024年4月21日(日)スオミ教会  「私は、まことの羊飼い。」 […もっと見る]
  • 牧師の週報コラム
    遠藤周作「沈黙」から帚木蓬生「守教」へ (先週の週報コラムで和辻哲郎の「鎖国」と渡辺京二の「バテレンの世紀」について書いたら、礼拝後のコーヒータイムの席で遠藤周作の「沈黙」が話題になりました。それで今回はその時の話の続きとして) […もっと見る]
  • 手芸クラブの報告
    4月の手芸クラブは24日に開催しました。朝から雨がしとしと降り少し涼しい日になりましたが、季節はまだ新緑がきれいな春です。 […もっと見る]
  • スオミ教会・家庭料理クラブの報告
    4月の料理クラブは桜もそろそろ終わり始めの13日、爽やかな春の陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのフィンランドのコーヒーブレッド、アウリンコ・プッラを作りました。 料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。 […もっと見る]
  • 歳時記
    杜若・カキツバタ 近くの谷戸池に今年も杜若が咲き出しました。まだ二輪だけですが間もなく満開になるでしょう。 […もっと見る]
  • 牧師の週報コラム
     和辻哲郎「鎖国」から渡辺京二「バテレンの世紀」へ 和辻哲郎の「鎖国」は驚くべき本である。中心テーマは室町時代末期から江戸時代初期にかけてのキリシタン盛衰記だが、序説がなんとローマ帝国の崩壊から始まる。 […もっと見る]