2021年6月20日(日)聖霊降臨後第四主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

聖書日課 ヨブ記38章1~11節、第二コリント6章1~13節、マルコ4章35~41節

説教題「我らの不幸と悩みの時に神は共に歩み給う
- 日本に住むキリスト信仰者が考えておくべきこと」

讃美歌 301(1)、178(5)、342(4)、376(4)
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の旧約の日課はヨブ記からです。皆さんご存知のように、ヨブ記にはとても重い、深いテーマがあります。それは、神の意思に沿う生き方、非の打ちどころがない正しい生き方をしても、もし不幸や苦難に見舞われたら、そんな生き方に意味はないのではないか?という問いです。ヨブは神からも正しい良い人間だとお墨付きだったのに悲惨な運命に陥ります。財産や肉親や健康さえも失い、最後に残った妻からも、この期に及んでまだ神を信じるなんて馬鹿げている、神を呪って死んでしまいなさい、と言われてしまいます。しかし、それでもヨブは神に対して反抗的になりませんでした。その後で3人の友人がヨブを見舞いに来ます。ヨブの変わり果てた姿を見てみな嘆き悲しみます。そこから4人の長い対話が始まります。

Job and his friends, Ilya Repin, Public domain via Wikimedia Commons

このようなとても大きなテーマの書物をあらすじだけ述べるというのは、大事なことを沢山落とす危険があります。しかし、それを承知で話を進めます。ヨブと3人の友人の関心事は大体同じです。友人たちは、善いこと正しいことをしたら神から良い報いがある、悪いことをしたら悪い報いがある、神は絶対に正しくその判断に間違いがない方だからヨブがこんな酷い目に遭うのはやはり何か落ち度があったからではないか、というふうになります。それに対してヨブは、そんなこと言われても自分には身に覚えがない、神よ、なぜなのですか?と問うしかない。このような疑問が起きるということは、ヨブも友人たちと同じ考え方に立っていることを示しています。善人には良い報いがあり悪人には悪い報いがあるというのが神の絶対的正しさだという考え方です。だから、一体私が何をしたというのですか?という疑問が起きるのです。

ヨブと友人たちの対話は延々と37章まで続きます。それが本日の38章で急展開を遂げます。ずっと対話を聞いておられた神が突風の中からヨブの疑問に答えます。それは人間の理解力を超える答えでした。まず神はヨブのことを、無知蒙昧な言葉をもって「神の経綸」を曇らせる者と言います。「経綸」とは分かりそうで分かりにくい言葉です。ヘブライ語のエーツァーという言葉ですが、辞書を引くと「計画」とか「スキーム」とあります。つまり、神が考案したり計画したり構想したものと言ってよいでしょう。それを曇らせる無知蒙昧な言葉とは何か?それは、ヨブをはじめ3人の友人たちの考え方です。神の意思に沿う生き方は、それで繁栄や安逸を得られれば意味がある、しかし、そのように生きても不幸や苦難に見舞われたら意味がないという考えです。そのような考えは恐らく全ての人間にあるでしょう。そのような考えを持ったら神の考案・計画・構想を曇らせるというのです。ここまで来れば神の狙いは明らかです。神はそのような考え方を打ち壊して人間を新しい地点に導こうとしているのです。どんな地点か?それは、神の意思に沿う生き方に意味があるかどうかの判断材料として、繁栄や安逸をもたらすかどうか、不幸や困難を回避できるかどうかは全く無用であるという地点です。

それではヨブはどのようにしてそのような地点に導かれたでしょうか?神は畳みかけるようにヨブに質問します。私が大地の基を据えた時、お前はどこにいたのか?お前に見極める力があるというのなら、述べてみよ。もちろん天地創造の時にヨブはまだ存在していません。その時、存在していたのは父、御子、み霊の三位一体の神だけです。創造主の神が森羅万象を造り上げていきます。5節で、大地の基を据えた神は測量もしたと言います。つまり、地球を直径12,742キロメートルの星に造り上げ、直径1,392,700キロメートルの太陽から1億4,960万キロメートルの距離になるようにしたということです。全ての星も神の創造によるものですが、ここでは地球を中心に語っていきます(31~32節で天体のことも触れています)。8節からは海について、海と陸の境界、海から水蒸気が蒸発して出来る雲についても言われています。つまり、水は標準大気圧の時100℃で沸騰し、0℃で凍るという法則が関係してきます。自然の中にはそういう法則が無数にあります。光は1秒間に約30万キロの速さで進むとか、地球上のものは地球の引力で引っ張られ、さらに地球の回転によって生じる力もかかっているというふうに造られている。本日の日課に続く12節からあとを見ても、自然の中にある法則性は神の考案・計画・構想ぬきにはありえないということを思い知らせる内容です。

森羅万象は神の創造の業によるものであり、それだから神の意思が作用していて、それは自然の法則の中に見出すことが出来る、これは聖書的な見方です。人間は自然の法則を変えることは出来ません。創造主でないからそれは無理です。自然の法則に逆らって生きることはできません。自分は精神力があるからなどと言ってマイナス30℃の中に防寒着なしで出かけたら間違いなく凍死します。無神論の人でもわかることです。聖書の観点に立つ人ならば、自然の法則に創造主の意思が映し出されていると考えます。

そう言うと、ひとつ大きな問題が出てきます。それは、大地震とか自然災害も神の意思なのか、ということです。東日本大震災の時、評論家か作家か忘れましたが、ある著名な方が、こんな残酷なことを起こす神など自分はもう信じない、というようなことをおっしゃっていました。自然法則に神の意思が映し出されていると言うなら、地震も自然法則に従って起きる以上は創造主の神が引き起こしたということになります。

しかし、ここで考えを少し掘り下げてみます。地球の表面には厚さ何十キロのプレートと呼ばれる岩盤層があります。その下のマントルという層が動いているのでプレートも移動します。私たち日本人になじみ深いことですが、二つのプレートがぶつかり合うところで、一つプレートが別のプレートの下に沈み込むような移動をすると、引きずり込まれた上部の方が反発して地震が起きます。日本列島の太平洋側はそういう二つのプレートがせめぎあうところなので一定期間が経つと必ず大型の地震が起きます。聖書の観点に立てば、創造主の神が日本列島とその周辺をそういうふうに造られたということになります。その意味では神が地震を引き起こすように造ったと言うことが出来、神を災害の責任者にする人が出てきます。

しかしながら、私たちがそういう、必ず大地震に襲われるところと知っていてここに住んでいることも忘れてはなりません。大地震はどうしてもいやだというのであれば、どこか別の国に移住するしかない位に必ず襲われるところに何を好き好んでか住んでいるのです。神は、ユーラシア大陸の東端と太平洋の西端の間にあるこの列島をせめぎ合うプレートの上に置かれたのです。神にプレートや断層をを動かさないでくれなどと要求したり祈る人がいないということは、神のこの創造を動かしがたいものとして受け入れていることになります。仮にそう祈っても、自然の法則を変えるようなことはよほどのことがない限り起こらないでしょう。もし、地震を起こすエネルギーが十分過ぎるほど貯まって自然の法則からすればいつ起きてもおかしくないという段階に入ったのになかなか起きなければ、それは神が法則に手を加えて起こさないようにしていることになります。しかし、それは奇跡と同じことなのでそういうことは普通起きないということを前提にして考えたり行動しなければなりません。

それなので、この神の創造を受け入れてここに住んでいる以上は、それに備えて暮らすしかありません。被害を最小限にするために何をしなければならないかを考えてそれをする。どんな発電所を建設するのが被害を甚大にしないですむかを考えてそれをする。そして、大地震が起きた場合はどのように行動するかを考えてそれをする。生じた被害損害に対してどう復旧復興するかを考えてそれをする。さらに、被災して悲しみにくれる人たちをどう支えるかを考えてそれをする。こうしたことは当たり前のことなので誰でもわかることです。しかし、現実には目先の利益にとらわれてこうした備えを怠ったり後回しにすることも起こります。そうすると後で目先の利益を吹き飛ばすような高いツケを払わなければならなくなります。

話が少し逸れましたが、神は創造の業をヨブに突き付けることで彼の考え方を変えようとします。果たしてこの神の論法はヨブの疑問に答えているでしょうか?神の意思に沿うような生き方をしても不幸や災難に見舞われたらその生き方には意味はないのではないかという疑問です。その答えになっているでしょうか?

昔、私が勉強したフィンランドの大学の神学部で聖書の知恵文学を扱う授業がありました。そこでヨブ記も取り上げられました。もう20年以上も前の話で講義録も手元にないので記憶は定かではないのですが、神が創造の業を出すことがヨブの疑問の答えになっているかどうか研究者の間で論争があるとのことでした。答えになっていると言う論者の中に、記憶が間違っていたらすみません、ラズという名前だったかドイツの旧約神学者がいて、彼の論点は以下のようなものだったと思います。ヨブにすれば、正しく生きてもこういう結果になるのであれば、神というのは支離滅裂で世界はカオスになってしまう。しかし、神は創造の業を見せつけることで、全ては神の計画、考案、構想に基づいて造られ、それで動いて生きているものは皆それに従ってそうしている。だからカオスでも支離滅裂でもないということを示す。それに対してヨブは、おっしゃる通りです、あなたのことを何もわからず勝手なことを言ってすみませんでした、とひれ伏す。つまり彼にすれば答えになったのです。

当時これを聞いた私は、神の創造はとてもスケールの大きなことで人間はなんとちっぽけな存在だろう、神の壮大な創造を思えば不幸や苦難に陥ってもそれはちっぽけなことでしかすぎないと気づかせて、不幸や苦難に埋没してしまわない視点が得られるということか。それはそれで意味のあることだと思いました。ところがちょうどその講座の後で、特別支援の子供を授かることになっていろいろ考えさせられました。神の壮大な創造を思えば不幸や苦難はちっぽけなことにすぎなくなる、それは確かにそうなのでありがたい視点ではある。しかし、それだけでは神は夜空の満点の星と同じではないか?創造の業をもって人間を感動させたり驚嘆させて、人間とそれについて回ることをちっぽけなものに思い知らせてくれるが、それだけでは神はあまりにも遠すぎます。ところが聖書は、神がそういう壮大な創造を行う、人間からかけ離れた方であると同時に身近な方でもあることも伝えているのではなかったのか?

2.本日の福音書の日課は神が身近におられる方であることを明らかにする個所のひとつです。出来事は、イエス様と弟子たちが乗った舟が嵐にあって沈みそうになったところをイエス様が嵐を静める奇跡を行い、皆無事に目的地に着いたという話です。舟が沈みそうになってパニックに陥っていた弟子たちにイエス様は言います。「なぜ恐れたのか?お前たちには信仰がないのか?」イエス様が言われる「信仰」とは、イエス様が一緒にいれば、たとえ彼が居眠りしていても何も恐れる必要はないとわかることです。弟子たちはわからなかったので恐れました。どうしたら、そんなことがわかるでしょうか?

この出来事には旧約聖書の土台があります。そこから見ていく必要があります。土台とは詩篇107篇です。その出だしはこうです。
「主を賛美せよ、主は善い方、私たちを永遠まで忠実に守って下さる、と。そう賛美しなさい、贖われた者たちよ、敵の手から救い出された者たちよ、主は贖われた者たちを東西南北から集められる。」

「贖う」というのは難しい言葉なので、「神が買い戻す、買い取る」にしましょうと先々週の説教で申し上げました。神が東西南北から、神に買い戻された者たちを集めるというのは、最後の審判の日、復活の日に起きることです。その日は今ある天と地に替わって新しく天と地が創造され、そこに唯一「神の国」が現われ、神に買い戻された者たちはそこに迎え入れられます。その日、迎え入れられる者たちは前にあった世(私たちから見たら今ある世)で神にどう助けられ守られ導かれたか振り返ってみなさいということで、三つの例があります。一つは、人生という旅路で目的地に到達できなくなりそうになり飢えて死にそうになったが、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救って下さった」(6節)。二つ目の例は、神に背を向けていた時があって、それが苦難や不幸を招いてしまったが、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らの苦しみに救いを与えられた」(13節、19節)。

最後の例は、船で大海に乗り出した者たちが嵐に遭い波と風のために沈没しかけたが、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから導き出された」(28節)。このことがイエス様と弟子たちの舟の出来事で起こったのです。もちろん、大海とガリラヤ湖とでは舞台設定が違いますが、イエス様は奇跡を起こすことで詩篇の言葉は単なる書き記された文字に留まらず、本当に起こることであることを示したのです。しかしもっと大事なことは、詩篇のこの御言葉はガリラヤ湖の出来事で終了したのではないということです。先ほども申しましたように、詩篇の中で言われる人たちは神に買い戻された人たちです。その人たちが、この世の人生を船で航海するように進んで行く。そうすると必ず嵐に見舞われる。しかし、主に助けを求める者たちを主は必ず助け導いて下さる。「望みの港」というのは嵐を乗り越えたことを意味します。人生の中で多くの嵐を乗り越えてその度に港に到着してまた出発することが繰り返されます。しかし、詩篇のこの御言葉の奥義はこうです。人生そのものを終えて、復活の日に神の国に迎え入れられるという最終的な港が真の「望みの港」であるということです。

イエス様は嵐を静める奇跡を行うことで詩篇の御言葉が文字に留まらず本当に起こることを示しました。しかしそれはそれは詩篇の言葉がガリラヤ湖の出来事で完結したことを意味しませんでした。詩篇のこの御言葉は「神に買い戻された者たち」がこの世の人生を神に守られて永遠の命の待つ神の国に到着することで完結することをイエス様は奇跡の業で示したのです。なぜなら、イエス様の奇跡の業の背景にある、この詩篇の御言葉はまさに「神に買い戻された者たち」について言っているからです。

それでは「神に買い戻された者」とは誰のことでしょうか?それは、イエス様がゴルゴタの十字架で死なれたのは神のひとり子が人間の罪を人間に代わって償うための犠牲であったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者のことです。信じて洗礼を受けるとどうして神に買い戻された者、買い取られた者になるのかと言うと、そうすることでイエス様の果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになって、その人は罪を償われた者になったから基本的には神から罪を赦された者として扱われるようになります。それでその人は神と結びつきを持てるようになったので、罪の持つ、人間と神との結びつきを失わせようとする力から解放されたのです。その人は罪の人質状態からイエス様の流された血を代価として神に買い戻されたのです。本当に高い値をつけてもらいました。それで神の子とされたのです。

ガリラヤ湖の出来事は、まだ十字架の出来事が起きる前でした。本当の意味で「神に買い戻された者」になる前のことでした。それなので、「望みの港」に着けるかどうかということは、神に買い戻されたかどうかはっきりしない段階ではどうなるかわかりません。しかし、十字架と復活の出来事の後は事情が一変します。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければもう「神に買い戻された者」なのです。嵐が来ても、「望みの港」に着ける者なのです。

今自分の人生を海を進む航海にたとえてみて、ガリラヤ湖の時みたいにイエス様が近くにいないから嵐が来たら心配だ、目の前で奇跡を起こしてくれる方がいた方が安心なのにと思われる方がいらっしゃるかもしれません。そういう方は自分が何を恵まれているかを今一度思い起こす必要があります。人間はイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もない状態だと、罪の償いもなく神への買い戻しもないのでこの世の人生を神との結びつきなしで生きなければなりません。そのままこの世を去ることになったら結びつきを得るチャンスはこの先どうなるでしょうか?神は、私たちの内に神の意思に背こうとする罪があるにもかかわらず、ひとり子を犠牲にしてまで私たちと結びつきを回復しようとされたのです。先ほど、プレートにひずみとエネルギーがたまって自然の法則に従えば大地震が起きるはずなのに起きなければ、それは神が法則を曲げて押しとどめていることになると申しました。しかし、それは実際には起こらないことで、もし起きたら奇跡になると申しました。罪の償いや神のもとへの買い戻しというのは、そのような奇跡が起きたことです。自分は罪を持っているにもかかわらず、神のひとり子の犠牲のおかげで神との結びつきが持ててこの世とこの次に到来する世の両方を生きられるようになるというのは、これこそ神が自然の法則を曲げるようなことをしたことで文字通り奇跡です。「神に買い戻された者」というのはまさに奇跡の人です。
そのように奇跡的に神に買い戻された人にも不幸や苦難が起こるということを聖書は当たり前のように言っています。その一つに詩篇23篇4節があります。以前の説教でもお教えしましたが、今一度見てみます。

「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、災いを恐れじ、汝 我とともにませばなり、汝の鞭、汝の杖、我を慰む。」
イエス様を救い主と信じて、彼を羊飼いとして従って行く者も「死の陰の谷」を進む時があるとはっきり言っています。しかし、イエス様が一緒に進んで下さるとも言っています。聖書の御言葉を繙く時、また聖餐のパンとぶどう酒を頂く時、イエス様は私たちには見えないながらも共におられるます。杖と鞭が慰めるというのはどういうことか驚かれるかもしれません。羊が暗い道を行く時、道を外したら羊飼いが杖か鞭でそっちじゃないと正します。叩かれたら痛いですが、羊飼いが傍にいてちゃんと導いてくれることがわかってホッとする瞬間です。

この御言葉から明らかなように「神に買い戻された者」にとって不幸や苦難とは神の意思に沿う生き方を無意味にするものではありません。そうではなくて神と一緒に通り抜けるためのプロセスになるのです。それなので、神に買い戻された者にとっては、不幸や苦難が起きたら神の意思に沿う生き方は意味がなくなるのではないか、という疑問は無用な疑問なのです。

最後に、ヨブが神の創造の業を見せつけられてヘリ下った時、こういう神に買い戻された者の見方はあったのかどうかということについて一言述べておこうと思います。

まだイエス様の十字架と復活が起きる前のことなので、それは難しいのではないかと思われる反面、こういうことがあります。それは、ヨブ記19章25節でヨブが次のように言っていることです。

「私は、私を買い戻される方が生きておられると知っている。」
新共同訳では「買い戻される」は「贖う」ですが、ヘブライ語の動詞ガーアルは「買い戻す」、「買い取る」という意味です。ヨブは三位一体の御子の存在を信じたのでしょうか?少なくとも、神の働きには罪びとを買い戻す働きがあることを信じていたのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 


特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたが贈られ、十字架の死と死からの復活によって私たちを罪と死の支配から解放して下さったひとり子イエス様を救い主と信じます。そのような私たちをどうか、あなたの子として受け入れ、私たちが試練や苦難に立ち向かう時、それらを乗り越えられるよう、いつも私たちと一緒にいて下さい。

  あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

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