2021年6月6日(日)聖霊降臨後第二主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教2021年6月6日 聖霊降臨後第二主日
創世記3章815節
第二コリント4章13節5章1節
マルコ3章2035節

説教題 「償い 買い戻し 赦されない罪

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日の福音書の箇所にはとても重苦しいことがあります。28節でイエス様は、「全ての罪は赦されると言ったと思いきや、すぐ後の29節で、永遠に赦されない罪があると言うのです。聖霊を冒涜することがそれです。罪が「赦される」と言う時、新約聖書のギリシャ語で「~される」の受け身の形は普通、天の父なるみ神が隠れた主語になっています。それで、神は全ての罪を赦すが、聖霊を冒涜する罪は赦さない、ということになります。本日の説教では、神に赦されない罪、聖霊を冒涜する罪とはどんな罪なのかということについて見ていきます。その場合、罪が赦される/赦されないというのはどういうことかということも考えなければなりません。さらには、赦される/赦されないと言っている当の罪とはそもそも何なのかということも確認しなければなりません。そういうわけで本説教では最初に、こうしたキリスト信仰の基本的な事柄である罪について見ていきます。その後でイエス様が言われる赦されない罪、聖霊を冒涜する罪について見ていこうと思います。

2.根本的な罪 受け継がれる罪

聖書の観点では人間はみな罪びとです。そう言うと、自分は何も犯罪を犯していないのにどうしてそんなことを言うのかと嫌がられます。しかし、聖書の観点では罪というのは個々の悪い行為だけでなく、もっと根本的なものも含めて言います。根本的なものとは、万物の創造主の神の意思に背こうとする性向を人間誰しも持っているということです。これが根本的な罪で、これがあるから何かのきっかけで具体的な悪い行為、悪い言葉、悪い思いになって現れるのです。

人間にそういう根本的な罪、全ての罪の源としてある罪が備わるようになってしまったことは、本日の旧約の日課の前にある有名な堕罪の出来事の中に記されています。最初の人間アダムとエヴァは神から、エデンの園の真ん中にある木の実は食べたら死んでしまうから食べないようにと言われていました。そこへ悪魔がヘビの姿形を取って現れてエヴァをそそのかして言います。その実を食べても死なないよ、神がそんなことを言ったのは、人間が食べたら神のようになって善と悪がわかるようになると知っているからなのさ、神は人間が自分のようになれるのを嫌がっているのさ、だからそんなこと言ったんだよ、という具合にです。そう言われたエヴァは木を今一度見てみます。なんともうっとりさせられる麗しさで、実の方もこれを食べたらいろんなことがわかるようになりますよ、だから早く食べてねと言っているみたいで、抗しがたくなってしまいました。エヴァは、神がいけないと言った言葉など耳の奥から消えてしまい、ついに実を取って食べてしまいました。その実をアダムにも渡して、彼も食べてしまいました。

すると、二人の目は今までと異なる見方が出来るようになり、善と悪が分かるようになりました。しかし、神のようにはなれませんでした。なぜなら、神が善と悪をわかるというのは裁きを行う資格があるということで、人間は神のような裁き主にはそもそもなれないからです。裁き主になれないで善と悪をわかるとどうなるかと言うと、それは善だけでなく悪も行えるようになって神から裁かれる立場になってしまったということです。本当にあの実さえ食べなかったら、神と人間の関係は裁く側と裁かれる側の関係にはならなかったのに余計なことをしてくれたものだと思います。もちろん全てはヘビの巧みな誘導作戦のせいですが、食べたら神のようになれるぞという言葉で弱みにつけ込まれたのです。人間は別に神のようになろうとしなくてもよかったのです。最初のままで生きる上で何も問題はなかったのです。人間が神のようになろうとしたことがいけなかったのです。

ところで、アダムとエヴァがしたことは、ただ何か特殊な木の実を食べただけで、別に殺人とか盗みとかいうような罪を犯したわけではありませんでした。それなのに何でそんなに大騒ぎをするのかと思われてしまうかもしれません。でも、やはり重大なことが起こったのです。それはこの出来事をきっかけに人間が神の意思に背くということが起きたのです。その動機として、自分を神の下にとどめておくことに満足せず神と張り合おうとする大それた願望が芽生えたのです。そして善悪がわかるようになって悪も行えるようになり神の審判を受ける立場になってしまったのです。これらが根本的な罪となったのです。これがあるから、人間は何かのきっかけで個々の様々な罪を犯すようになったのです。

そう言うと今度は、それはアダムとエヴァ個人の問題で、それ以外の人は関係ないのではないかと言われるかもしれません。ところが神が警告した通り、その実を食べたために二人は死ぬ存在になりました。そして人間はみな代々死んできました。つまり、この世から死ぬということが人間はみなこの根本的な罪を持っているということの現れなのです。

ここで、この根本的な罪の呼び方ですが、日本語では「原罪と言います。大元にある罪という意味です。英語はオリジナル・シンと言い、同じ意味です。ところが、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語では「受け継がれる罪」、「相続される罪」という言い方をします(Erbsündearvsyndperisynti)。この罪に対して「行われる罪」というのが別にあります(スウェーデン語とフィンランド語でgärningssyndtekosynti、ドイツ語にもありますか?)。殺人や盗み、偽証や改ざん、不倫、悪口、妬みなどは「行われる罪」です。これらは「受け継がれる罪」ではありません。「受け継がれる罪」は根底的なところにある、神の意思に背こうとする性向です。それがあるから何かのきっかけで「行われる罪」が犯されます。私としては、「原罪というとアダムとエヴァ止まりの感じがしてしまうので、「受け継がれる罪」と呼ぶのがいいと思います。

3.罪の赦し、償い、買い戻し

こうして人間は「受け継がれる罪」を持つようになり、何かのきっかけがあれば「行われる罪」も犯すようになって神との結びつきが失われてしまいました。これに対して神は、身から出た錆だ、勝手にするがよい、などと自己責任論を展開することはしませんでした。そうではなくて、結びつきを失わせた原因である罪の問題をなんとか解決して、人間がこの世の人生で神との結びつきを持てて生きられるようにしてあげよう、そしてこの世を去った後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげようと決めたのです。それでは神はどのようにして罪の問題を人間のために解決して下さったのでしょうか?

juujikaそれは次のような次第でした。ご自分のひとり子をこの世に贈り、本当なら人間が罪のゆえに裁かれて受けることになる神罰を彼に代わりに受けさせる。そうすることで彼が人間に代わって神に対して罪の償いをする。これこそがゴルゴタの丘のイエス様の十字架の死でした。そこで今度は人間の方が、神がひとり子を用いて行ったことは本当のことでそれは自分のためにもなされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主なのだと信じて洗礼を受けると罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったわけだから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。

実は、この罪を償ってもらったということには、もう一つ大事なことが付随しています。それについてこれまでの説教でもお教えしたつもりだったのですが、言葉を言い換えて話してきたので、どうも伝わっていなかったようです。スオミ教会では礼拝の後いつもズームを使って会堂とオンラインの礼拝出席者の交わりの時を持っています。そこでその日の説教も話題になるのですが、ここ何回か皆さんのお話を聞いていて、この罪の償いに付随する大事なことが伝わっていなかったということがわかり反省した次第です。それで、今日はそのことをはっきりお教えしなければならないと思いました。

イエス様は私たちの身代わりの犠牲となって神に対して私たちの罪を償って下さいました。それを信じて洗礼を受けると、罪の償いを受け取れて罪を償われた者になれということは先ほど申し上げた通りです。そこで、罪を償われたということは罪を帳消しにしてもらったということで、これはそのまま罪の支配から解放されたことを意味します。それでは、罪の支配とはどういうことかと言うと、罪が人間を支配すると、人間はこの世の人生で神との結びつきなしで生きなければならなくなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができなくなります。このように神との結びつきがこの世でもその後も永遠に失われてしまうということなので、罪の支配とはまさに罪の呪いです。それで罪を償われたというのは、こうした罪の呪いから解放されたということなのです。どうやって解放されたかと言うと、イエス様がマルコ10章45節で自分のことを「身代金」と言っていたことに注目します。つまり、神がイエス様を元手にして罪の人質状態になっていた私たちをご自分のもとに買い戻してくれたということです。そういうわけで、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取るというのは、イエス様を元手にして神に買い取られる、買い戻されるということなのです。

神に「買い取られる、「買い戻されるという言い方は旧約聖書のヘブライ語の動詞でして(ガーアル、ファーダー)、イザヤ書35章、51章、52章によく出てきます。新約聖書を見ても、例えば、第一ペトロ1章18~19節で、キリスト信仰者というのは金銀なんかでなく清い神の小羊キリストの高価な血によって買い取られた者だと言っています(リュトゥロオー)。エフェソ1章7節も同じで、キリストの血によってキリスト信仰者には神への買い取り、買い戻しがあるのだと言っています(リュトゥロオーの名詞形のリュトゥローシス)。第一コリント6章20節では、ずばり神はキリスト信仰者を高価なもので買い取ったと言います。ここで使われている動詞はまさに売り買いの「買う」です(アゴラゾー)。高価なものとは、イエス様が十字架で流された血であることは明らかでしょう。

ところが、この神に「買い取られた、「買い戻されたというのは、日本語では「贖われた」と言います。とても分かりにくい言葉です。ヘブライ語の単語もギリシャ語の単語もみな「買い取る」「買い戻す」の意味があり、英語、スウェーデン語、フィンランド語もその言い方に倣っていて、それとは別に特殊な宗教用語をあてることはしていません。例えば、高速道路を造るために国は土地を収用したと言う時、フィンランド語はこの「収用する」(lunastaa)という同じ言葉が人間の罪からの解放を言い表します。とても具体的でわかりやすいです。土地を収用する際の代価は税金や国債に基づく国庫、人間の買取りは神のひとり子が流した血です。どうして日本語では「買い取る、「買い戻すではダメなのか?宗教的なことだから出来るだけわかりにくくした方が神秘的で権威が感じられるということでしょうか?しかし時々、「罪を贖われた」などと言う人もいて仰天してしまいます。罪は「償われるです。「贖われるのは人間です。罪を贖うなんて言ったら、罪を買い取ることになってしまい、神はそんなもの買い取りたくないと言うでしょう。

こういうふうに、日本語には漢字があるため、それが簡潔な言い方で多くの事柄を含めるという奥の深さがある反面、ズバリ何を意味しているか掴みどころがなくなって各自で意味を探さなければならなくなることがあると思います。自分の知識や経験に依拠して自分にピッタリな意味を探し当てることになると思います。そこで探し当てた意味がイエス様やパウロが言わんとしたことに合致すれば万々歳なのですが、どうやって合致しているとわかるでしょうか?まさにそのために神学校や神学部でギリシャ語やヘブライ語を勉強して、信徒たちの探し当てがイエス様やパウロの言わんとしたことから離れないように導いてあげるのです。もちろん神学教育を受けて完璧にイエス様の言わんとしたことがわかるということでもないので、私としては、信徒たちと対話しながら説教者自身も深めていかなければならないと思います。日本では牧師というのは神に近い存在とみなされるので、時としてその日の聖句と関連性が疑われることを言っても、信徒さんの方が「そういう解釈もあるんだ」などと受け取り、疑問を持つ自分が間違っているとしてしまうところがあります。このスオミ教会はそういうことがないので説教者にすればとても緊張感を抱かせる教会です。

ところで、「贖い」という言葉のほかに先ほど「原罪」という言葉についてもひと言申し上げました。他にも、日本語が醸し出すイメージが本来の意味を遠ざけてしまわないか注意すべきものとして「恵み」と「悔い改め」があると思います。それらについても今まで説教の中で言い換えてお話してきました。お気づきになられたでしょうか?これらはこれからも繰り返し出てきますので、ここではこれ以上触れないで先に進みます。

3.神に買い戻された者として

さて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら罪を償ってもらったことになって神から罪を赦された者と見てもらえる。その場合、「受け継がれた罪」はどうなるのか?消えてなくなるのか?それで「行われる罪」も行ったり、口に出したり、心で思い描いたりしないようになるのか?どうでしょうか?

聖書の観点では、洗礼を受けても「受け継がれた罪」は消えずに残ります。「行われる罪」も心で思い描くことはしょっちゅうあり、場合によっては口に出たり、最悪の場合には行いで出てしまう時もあります。それじゃ、何も変わっていないじゃないか!と呆れかえられるかもしれません。ところが、やっぱり変わっているのです。パウロがローマ8章1節で言うように、洗礼によってイエス様と結びつけられている者には神の有罪判決はないと言うのです。そう言うとキリスト信仰者でない人たちは、そんなのありか!信仰者だって罪があると言っているのに洗礼を受けたからもう大丈夫だなんて虫がよすぎるぞ!とクレームがかかるかもしれません。でも、そう言う人たちは、キリスト信仰者が洗礼を受けた時から通り抜けなければならない霊的な戦いのことを何もわかっていません。

パウロはローマ7章の終わりで、全てのキリスト信仰者にあてはまることとして次のように言います。キリスト信仰者は意識の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると。このようにキリスト信仰者は何が神の意思に沿うことかわかっているが、肉を持っている限りそれに背こうとする力も働いているというのが現実なのです。この二律背反した状態が解消されるのは、この世を去ってまずは肉の体を捨てて復活の日までひと眠りして、復活させられた時に復活の体という神の栄光を映し出す体を着せられた時です。その時、魂も体も全て罪がない者となって神の御許に迎え入れられて自分がさらに続いていくのです。

それでは復活の日まではどうすればいいのかというと、それはただこの世の人生の歩みとはその日を目指して進むことに尽きると観念することです。それはどういうふうに進んで行くのかと言うと、パウロがローマ8章13節で言うように、洗礼の時に注がれた聖霊の支援を受けながら肉の体の業を日々死なせていくという進み方です。物騒な言い方ですが、要は神の意思に沿わない行い、言葉、思いを踏みにじって生きることです。どうやって踏みにじるのか、それは罪や罪を操る悪魔が一番聞きたくないことを日々、自分に言い聞かせることです。私の罪はあのゴルゴタの十字架であの方の犠牲によって帳消しにされた。だから私はもう神のものである、と。確かに「受け継がれる罪」は残っているが、それでも神は自分を買い取って、復活を目指す者にして下さったのだ、と。自分には罪があっても、神によって打ち立てられた罪の赦しは否定のしようがありません。だから罪があることを認めると同時に、それが高価な犠牲によって赦されているという状況の中に踏みとどまるだけです。それが復活を目指して進むことです。その進むところ、私たちの内に駐留する聖霊がいつも惜しまず支援してくれるということは先週と先々週の説教でもお教えした通りです。

しかし、これでもまだ自分に罪が残っていることが気になる、復活があるとは言え死が立ちはだかって怖いと言う人がいらっしゃれば、そういう人にはルターがこう言ってやればいいと言っている言葉があるのでそれを紹介します。キリストはそんなあなたにこう言って下さっているんですよ!という言葉です。「私はお前を助けてやる。お前の弱さを私の強さに沈めてやる。お前の罪を私の義に撃ち落としてやる。お前の死を私の命に飲み込んでやる。」

4.赦されない罪はキリスト信仰者には関係ない

聖霊の支援を受けながらこの世の人生を霊的な戦いを戦いながら復活を目指して進んで行くということは、これからもいろんな聖句や日課を通して繰り返し出てきますので、本日はここまでにして、ここで本当は本日のメインイベントになるはずだった聖霊を冒涜する罪について見てみます。もう時間も時間なので駆け足になってしまうことをご了承下さい。本日は前置きが異様に長くなってしまいましたが、大事なことだったと思います。

聖霊を冒涜する罪が神から赦されない罪であるということを考える時、何が聖霊を冒涜することかをはっきりさせなければなりません。そこでまず、聖霊とはどういう方なのかを今一度確認しなければなりません。聖霊とは、まず第一に人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導く方です。ある人が、それまではイエス・キリストのことを、あの2000年前の現在のイスラエル国がある地域でとても斬新な宗教活動を行って最後は占領国のローマ帝国の官憲に捕まって十字架刑を受けてしまった者という、世界史の教科書的な理解だったのが、実はそれは表面的な理解だったとわかるようになる。イエス様の出来事は全て万物の創造主である神が人間を罪の呪いから解放するために行ったことで、それは旧約聖書に約束されていたことの実現だったのだ、と。そのようにわかって、イエス様を自分の救い主と信じるようになってくる、この時すでに聖霊が影響力を及ぼしていることになります。

そして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその人はすっぽり聖霊の影響下に置かれます。そうなると、今度はその人にとってイエス様が救い主であることがブレないで保たれるように助けることが聖霊の働きとなります。そういう聖霊の働きについてはパウロがローマ8章でよく教えています。本教会の説教でも度々取り上げました。これからも繰り返し出てくるでしょう。

このように聖霊とは、人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導き、救い主と信じる人が今度はその信仰に踏みとどまれるように助けてくれる方です。その聖霊を冒涜するというのは、その働きを否定するようなことを言うことになります。人間を信仰に導き信仰に踏みとどまれるようにする働きを否定するのは、イエス様の十字架を無意味にすることになり、人間を罪の呪いから解放しようとした父なるみ神の愛を踏みにじるものです。こんなのを赦したら赦しの自己否定になります。まさに罪の赦しがある限りはあってはならない赦しです。

ここで一つ興味深い質問は、イエス様が聖霊の力で悪霊を追い出しているのに、あいつは悪霊のドン・ベルゼブルの力を借りて追い出していると言った人たち、彼らはもう赦しを祈っても無駄で永遠に赦されない罪に定められてしまったのかということです。人によっては、すんなりそうだと言うかもしれないし、人によっては、まだイエス様の十字架と復活が起きる前のこと、聖霊が人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導く働きをする前のことなので、まだ事情が違うのでは言う人もいるかもしれません。私としては、後者に肩入れする見方かもしれませんが、マタイ12章とルカ12章を見ると、イエス様は自分に向けられる冒涜は赦されるが、聖霊に向けられる冒涜は赦されないと言います。このベルゼブルの件は、直接的にはイエス様を中傷しようとして言ったことと見なすことが出来ます。しかし、中傷した者たち自身は気づいていなかったかもしれないが、事は聖霊に及ぶものであった。それでイエス様は、お前たち口を慎めよ、さもないととんでもないことになるぞ、と警告を発したのではないかと考える者ですが、ただそれが、手遅れの警告だったのか、事前の警告だったのか、私には決めることは不可能で父なるみ神に任せるしかありません。

そこで私たちにとって一番肝心なことを申し上げます。赦されない罪があるなどと聞くと果たして自分は大丈夫かなどと思ってしまいます。しかし、心配無用です。私の罪はあのゴルゴタの十字架で神のひとり子の犠牲によって帳消しにされた。だから私はもう神のものなのだ、と自分に言い聞かせている限り、聖霊を冒涜することはありえないからです。だから、この点については何も心配せず安心して進んで行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、み子イエス様の十字架と復活の業を通して、私たちがあなたとの結びつきを持ててこの世とこの次に到来する世において生きられるようにして下さいました。どうか私たちがこのあなたの計り知れない愛を日々、十分受け取ることが出来るように、私たちの狭い信仰の器を日々広げて下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

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