ニュースブログ

説教「創造主の神に造られたもので行こう!」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 28章16-20節

主日礼拝説教 2023年6月4日 三位一体主日

聖書日課 創世記1章1-2章4a節、第二コリント13章11-13節、マタイ28章16-20節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週の主日は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、そのうちの一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され出したことを記念する日でした。父、御子、聖霊の三者がそろった後の主日ということで今日は三位一体を覚える主日です。

皆さんご存じのように、キリスト信仰では神は父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝されます。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表されています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の役割、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの役割、そして聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない者、神に相応しい者にしていくということです。

これら三つの人格、三つの役割は別々のようなものでも、全部が一緒になっているのがキリスト信仰の神です。一つでも欠けたら神という全体が成り立たないのです。この全体が神の大いなる愛を表しています。第一ヨハネ4章8節で「神は愛なり」と言われますが、三位一体の大いなる愛のことを言っています。

本日の説教は二部構成になります。第一部では、マタイ福音書の日課の箇所でイエス様が弟子たちに、世界の人々に「父と子と聖霊との御名によって洗礼を授けよ」と命じていることについて見てみます。三位一体の神と洗礼は不可分に結びついているということについて見てみます。第二部では旧約聖書の日課、創世記の天地創造の話を見てみます。進化論から見たら聖書の天地創造は馬鹿々々しい話になってしまうのですが、実は天地創造は現代において意外にも意味がある話であることをお話ししようと思います。

2.

本日の福音書の日課はイエス様の大宣教令と呼ばれる箇所です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるというのは、洗礼を受ける者が三位一体の神に結びつけられるということです。神は創造の業を行う父であり、人間を罪の支配下から贖う御子であり、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊である、この三位一体の神に結びつけられるのです。結びつけられた後は、神に創造された者として、罪の支配から贖われた者として、そして絶えずこの世から聖別される者としてこの世を生きていきます。そして、この世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎えられます。

三位一体の神と結びついて生きる時、私は「神に創造された者」という自覚を持つことは特に大事と考えます。と言うのは、その自覚は、キリスト信仰に入れるか入れないかどうかのカギになるからです。また信仰に入った後もしっかり信仰に踏み留めるかどうかのカギになるからです。どういうことかと言うと、自分が神に造られた者との自覚を持つと次に、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになります。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?

聖書は、関係はうまく行っていない、だから問題を解決しないといけない、という立場です。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまうようなことが起きてしまったからです。どうしてそんなことが起きたかというと、人間は神に造られたという立場を謙虚に受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられてしまって、言うとおりにしてしまった。そのために人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が備わってしまった。そのことが創世記3章に記されています。このいわゆる堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、そのままの状態ではこの世を去った後は復活の体も永遠の命もなく神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死とは罪の報酬です。人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れです。

しかし神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世を去った後は永遠に自分のもとに帰れるようにしてあげようと、罪の問題を人間のために解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったことでした。この神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったのでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、復活の体と永遠の命が待っている天の御国への道を私たち人間のために切り開いて下さったのでした。

そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになって、天の御国に向かう道に置かれて神との結びつきを持ってその道を進むようになります。

ところが、この世には人間がその道に入れるのを阻止する力、入っても道から踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊が大事な役割を果たします。聖霊は人間が洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。神に背を向けてしまうようなことがあっても、聖霊はすぐに私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきは揺るがずにあることを示してくれます。その時、私たちは再び神の御前にひれ伏すようになり、神の意思に沿うようにしなければと襟を正してまた天の御国に向かう道を進んでいきます。

このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖い出されることです。それと、造られ贖われた者が天の御国に向かう道を歩める力と支えを得られるようになることです。実に三位一体の神と結びつけられる洗礼は、復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れられるという約束を神からしてもらうことです。

3.

先ほど申し上げましたように、三位一体の神と結びついて生きる時、「神に創造された者」という自覚を持つことは大事です。その自覚がないと、造り主と自分の関係はどうなっているかという問いは起きません。その問いがなければ、神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことが何の意味があるのかわかりません。意味が分からなければ、聖霊が聖別の役割を果たそうとしても空振りに終わります。それ位、人間が神に造られたということを認めるか認めないかは信仰に入るか入らないかの決め手になるのです。

ところが、今日では神の創造ということを信じることがますます難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると考えられるからではないかと思います。生物は長い年月をかけて単純なものが複雑なものに進化していく。そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物は神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。

何年か前にイスラエルのハラリという歴史学者の書いた「ホモデウス」という本が話題になりました。その中で、彼は進化論の立場に立って、なぜキリスト教は進化論に否定的なのか?それは進化論が魂の存在を否定するからだ、と言っていました。これにはなるほどと思いました。生き物は、人格と意志を持つ創造主が造るのではなく、無数の化学反応の集積から構成されて変化していくと見たら、魂などという科学的に説明できないものは入り込む余地はなくなります。人格を持った神なんか持ち出さずにいろんなことが説明できるようになります。そうなれば、もう人間は、造り主がどう思っているかなんて考えないで、自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主人であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。天地創造を出発点にする聖書とその聖書を信じて生きる人たちにとって大変な時代になりました。

そこで、ここから先は本日の旧約聖書の日課、創世記の初めのところをもう一度振り返り、天地創造は本当は現代においても意味のある話であることを見てみたいと思います。この問題に関して近年では進化論に対抗するものとしてインテリジェント・デザインという考え方が注目されたようですが、私はおそらくその議論についていけるインテリジェンスを持っていないので、ひたすら聖書をじっくり見ていくことにします。じっくり見る聖書とは、旧約聖書はヘブライ語のBiblia Hebraica Stuttgartensiaで(一部はアラム語で書かれていますが)、新約聖書はギリシャ語のNovum Testamentum Graeceです。私にとって大切な聖書のテキストです。

創世記1章について、本説教では2つのことを見て、聖書の天地創造は今日でも意味があることを確認したいと思います。一つは、天地創造の時間の流れについて。もう一つは、造られたものとしての人間と動物の立場についてです。

まず、天地創造の時間の流れについて。天地創造によると、神は6日間で天地とその中にあるものを造り上げ、7日目に休まれたとあります。これなどは、多くの人は真に受けないでしょう。物理学などで地球は何十億年前に誕生したと言っています。それなのに、最初の24時間で光が出来、次の24時間で空、次の24時間で海と陸と植物、次の24時間で太陽、月、星、次の24時間で魚と鳥、次の24時間で陸の生き物と人間、合計144時間、分にして8,640分、秒にして518,400秒、これで地球誕生から最初の人類まで間に合うのか、誰も見向きもしないでしょう。

もちろん、神に不可能なことはないというのが聖書の立場なので、144時間で完結したという可能性も残しておきますが、ここは次のように考えることも出来ます。毎日の終わりに「夕べがあり、朝があった。第何の日である」という締めの言葉があります。ヘブライ語の原文の言い方は、「そして日の入りとなり、そして日の出となった。以上が第何の日である」という意味です。ここにあるのは、一日というのは日の出で始まり次の日の出までという考え方です。なので「日の入りとなって日の出となった」と言うのは、その日は暗くなったので仕事は終わりですという、その日の終わりを告げる合図の文句です。

つまり、天地創造の記述の観点は、造られたものを6つの段階的なグループにわけて、それぞれの段階の長さは私たちの時間の観念ではどれくらいなのかはわからないが、とにかくそれぞれの段階の終わりに「これで一日が終わりました」と言って、それぞれの段階が1日という扱いになって全部で6日になるように見せようとしていると考えることができます。それぞれの段階の長さは、私たちの時間の観念でひょっとしたら何億年もかかっているかもしれないが、それぞれに一日の終わりを意味する締めの言葉をつけることで1段階を一日と言っていると考えることができます。それでは、どうして6段階を6日にすることにこだわるのかと言うと、それは神が人間に1週間7日というリズムを与えて、7日目は安息日に定めるという意図があるからです。このように6日というのを6段階と考えれば、天地創造は時間的流れに関しては問題はなくなります。

4.

次に造られたものとしての人間と動物の立場について。先ほどのハラリは進化論に立つので霊の存在を否定します。そうすれば人間と動物は能力の差はあれ、同じ種類になるので決定的な差はなくなります。それなので進化論から見ると、キリスト教というのは人間を霊的な存在にはするが動物はそうせず、それで人間を優、動物を劣にしているというふうに見ます。ところが、聖書をよく読むと、動物も実は霊的な存在で、進化論が言うのとは逆の意味で人間と動物が同じ種類に入るということがあるのです。ひょっとしたら、これはあまり注目されてこなかったことかもしれません。少し注意しながら聖句を見てみましょう。

5日目に神は魚と鳥を祝福します。そのまま続けて読んでいくと、6日目に人間も祝福します。あれ、人間と同じ日に造られた動物は祝福されないのか?やはり動物は神の祝福に与れない、人間より劣ったものなのかと思わされます。しかし、それならば、なぜ魚と鳥は祝福を受けられるのか?魚と鳥は動物以上で人間並みということなのか?

これは、ヘブライ語の原文の厄介さがあります。複数形と単数形が入り乱れて、どれが何を指しているかよく考えないといけません。問題となるのは27節と28節です。28節を逐語訳すると、「神は彼らを祝福した。そして神は彼らに言われた。『お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして、お前は地を従わせよ』」となります。最後の「地を従わせよ」と命令されている相手は単数形なので「お前は」です。その前の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」の相手は全部複数形です。それで「お前たちは」です。それが突然「お前は」になるのです。これはどういうことか?可能な考え方として、神が祝福した「彼ら」は人間だけではなく、同じ日に造られた動物も含まれる。そして両者に対して「産めよ、増えよ、満ちよ」と言った。ところが、「地を従わせよ」のところで相手を人間に絞ったということです(後注)。鳥や魚が祝福を受けて「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのなら、動物も祝福を受けられて同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われてもおかしくなく、それは文法的にも可能です。つまり、動物も魚も鳥も人間と同じように神の祝福を受けられ、みな「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのです。

動物が霊的な存在ということを考える時、民数記22章でバラムを乗せたロバが行く手に天使を見て立ち止まり、天使が見えないバラムに対して人間の言葉で話し出した出来事を思い出すと良いでしょう。人間には見えなくても動物には天使が見えたということが聖書にはちゃんと記載されているのです。

そこで、26節と28節に人間に動物、魚、鳥を「支配させる」と言われていることを見てみます。それは、聖書が人間に優越的な地位を与えていると考えられるところです。ところが、この「支配する」というヘブライ語の動詞רדהですが、詩篇72篇8節でも使われています。そこを見ると、正義を守る理想的な王の支配について言われています。力や数に任せた身勝手な権力行使ではないのです。そのように動物や魚や鳥に対しても、神の創造ということを念頭において何か注意深さ賢明さが必要ということになります。

さらに29節を見ると神は人間に食べ物として植物から採れるものを与えると言い、鳥や動物にも植物を食べ物として与えると言います。神が与える食べ物は人間も鳥や動物もかわりません。ところが、現実は、人間は動物や鳥も食べるし、鳥や動物の中には他の鳥や動物そして人間を食べるものもいます。それなので、神が人間と動物と鳥の食べ物について言ったことは、天地創造当初の理想状態の時のもので、それが堕罪の後で変わってしまったというふうに考えられます。そこで興味深いのは、イザヤ書11章にエッサイの切り株から出てくる若枝がこの世の権力者とは全く異なる仕方で世界を治めるという預言があります。エッサイはダビデの父親なので、エッサイの末裔から出る若枝とはイエス様のことです。イエス様が世界を治めるというのは、これは今の世が終わった後の次の世に現れる天の御国のことです。そこでは猛獣たちも他者を傷つけることなく家畜と一緒に仲良く並んで草を食べています。これは、まさに堕罪が起きる前の天地創造の理想的な世界が戻って来ることを示しています。つまり、動物たちも天の御国にいられるのです。

それならばなぜ、聖書は動物のことをもっと出さないのか、もっと踏み込んで動物の救いについて言わないのかという疑問を持たれるかもしれません。それはやはり、人間が神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまったために救いが人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものかを示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるためにイエス様の十字架の死と死からの復活があったのであり、贖いと結びつきを自分のものに出来るために洗礼と聖餐を受けることが必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだと言っても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。じゃ、動物の救いは何かと言うと、それは聖書にはそれ以上のことはないのでわからない。聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造の業と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。

5.

以上、創世記の天地創造は、時間の流れについても受け入れるのに問題がないこと、人間と動物の立場についても神の創造に属するものとして同じ祝福に与っていることを見ました。もちろん、聖書は人間の問題に集中しているので動物のことは書いてある以外のことはわからず、神に任せるしかありません。いずれにしても天地創造は、救いを人間を超えて生態系にも及ぼしていることを予感できるだけで十分と思います。それなので、時代遅れなんかではないのです。しかも、天地創造はこの世をどう生きるかという倫理的な視点も与えます。もし、自分は神なんかに創造されていないと言ったら、その時はもう造り主がどう思っているなんか考える必要はなくなります。自分こそ自分の主人だから自分の好きなようにやればいい、神なんかにとやかく言われる筋はない、という生き方になります。逆に自分は神に創造されたと認めたら、神との関係は必ず心配の種になりますが、神が贈ってくれた贖い主がおられる。彼のおかげで神との関係は大丈夫、心配ないとわかれば、神の意思に沿うように生きるのは自然なこと、別にとやかく言われるからするということではなくなります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)

ここで厄介なことがいろいろありますが、解決策を考え出すことも可能だと思います。

一つの厄介なことは、「お前は地を従わせよ」と言った後すぐ、今度は「お前たちは海の魚、空の鳥(etc)を支配せよ」と言います。つまり、「支配する」人間が単数から複数に変わるのです。そうなると、その前で「お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言っていたのは、人間プラス動物ではなく、やはり人間だけなのではないかと思えてきます。しかし、26節と27節では人間は単数扱いになったり複数扱いになったり目まぐるしいのです。27節で「神は自分に似せて彼を(אתו単数)造った。男と女とに彼らを(複数אתם)造った。」とあります。28節の「支配する」が複数なのは、26節で複数形で言われている文をそのままそこにコピー&ペーストしたことで起こったのではないかと思います。

もう一つ厄介なことは、「支配する」動詞のרדהですが、詩篇8篇で神が人間に他の被造物を支配することを委ねたというところで、このרדהを期待したのですが、なんとמשלでした。実はこのמשלは創世記1章18節で「太陽が日中を支配し、月が夜を支配するために」のところでも使われています。秩序だった支配を意味すると考えれば、詩篇72篇8節の正義の支配と重なりますが、משלは現在分詞で「暴君」の意味もあるということで、頭が痛いところです。今回は解決策の模索はここで休止します。またいつの日か考えなければならない時が来ると思います。

 

宣教師の週報コラム - 使徒的伝統に立って福音書を繙こう その3

釈義学の研究者が競うようにして実際のイエスを再構成した結果、福音書に描かれるイエスと異なるイエスが無数に輩出します。 イエスの発言が福音書の趣旨と再構成された趣旨とで180度正反対というものもある位です(例として思いつくのは、80年代頃までイエスのたとえ研究の世界的権威であったJ.エレミアスのマルコ4章12節の解釈、現代世界の釈義学の重鎮の一人J.クロッペンボーグのマルコ12章1~12節の解釈。著名な研究者や権威ある教授が提唱したとなれば、市井の人は信じざるを得ません。学術的なイエスと聖書的なイエスのどっちを信じればよいのかと悩む人も多く出ました。人によっては伝統的なキリスト信仰を覆してやったと前衛的な気分に浸った人もいたかもしれません。

ここで注意すべきことは、研究者が打ち出す歴史的イエスは学術的な手法を用いて構成された像で、研究者が用いる手法や前提にする方法論が異なれば結論も変わるということです。研究者がどれを選び、それをどのように用いるかは研究者のイデオロギー的立場にも左右されます。異なる立場の研究者が異なる手法を用いれば、当然結果も異なってきます。時間が経てば、新しい見識に基づいて新しい手法や構成が生まれます。そのように学術的なイエス像は性質上、限りなく仮説に近い限定的・時限的なものなのです。そのようなものが学会で多くの賛同を得れば仮説の域を脱して理論に近づけますが、反論や異論が出るようになれば仮説に逆戻りです。そういうことを延々と繰り返すのが学術の世界です。信仰は異なる世界の話です。そういう仮説とも理論ともつかないものに信仰を基づかせてしまったら、信仰も限定的・時限的なものになってしまいます。死を越えて永遠に導いてくれるものでなくなります。それでは、信仰は何に基づかせたらよいのでしょうか?

キリスト信仰は「使徒の教え」に基づく信仰です。「使徒の教え」とは、イエス様の教えと行動、彼の十字架の死と死からの復活を目撃した使徒たちの証言が土台にあります。使徒には、目撃が復活後だったパウロも含まれます。これらの使徒たちが目撃したことに基づいて旧約聖書を理解し教えたことが「使徒の教え」です。この「使徒の教え」は新約聖書の使徒書簡集の中にあります。「使徒の教え」を凝縮して箇条書きのようにしたものが「使徒信条」です。キリスト信仰はこの「使徒の教え」を受け継ぐ信仰です。この使徒的伝統に立つ教会がキリスト教会です。教団や神学校によっては、例えば、復活などないと教えるところもあるそうですが、そうなるとそれはもう「使徒の教え」を受け継いでおらず、使徒的伝統にも立っていないことになります。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ

新約聖書には使徒書簡集の他にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書があります。それらは西暦70年の後に完成したというのが釈義学会の定説です。使徒書簡集の大半は70年の前に書かれました。ということは、福音書を書いた人たちは「使徒の教え」を受け入れてその視点に立って書いたことになります。実は福音書には4つの他にもトマス、ユダ、ペトロ等の福音書もありました。それらが聖書の中に入れられなかった理由は、「使徒の教え」に立っていないと判断されたからでした。そういうわけで、4つの福音書は「使徒の教え」というフィルターにかけられた書物と言っても過言ではないのです。それなので、福音書のイエス様を理解したければ「使徒の教え」なしでは理解できないことになります。「使徒の教え」に習熟しながら福音書を繙いていけば、時限的でない限定的でない、死の力に打ち勝つ真の聖書的なイエス様に一層出会えるのです。ところが逆に、「パウロはこんなことを言っているが、イエス様はそんなことは言わないだろう」というような使徒とイエス様を分離する議論は、学術的な議論と同レベルになり、信仰は時限的・限定的なものへと堕していきます。(了)

2023年5月28日(日)聖霊降臨祭 主日礼拝

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

説教・聖餐式 ヴィッレ・アウヴィネン牧師 SLEY海外伝道局長

礼拝の後、アウヴィネン牧師よりSLEYとJLECとの関係見直し、スオミ教会の今後の展開などについて説明を受けた。

 


SLEY海外伝道局長ヴィッレ・アウヴィネン牧師は5月28日のスオミ教会の礼拝にて説教を担当されます(通訳付き)。

SLEYは、日本とフィンランドが外交関係を結ぶ前の1900年から日本に宣教師を派遣してきた北欧のルター派ミッションのパイオニアです。是非この機会に礼拝に御参加下さい。

V.アウヴィネン先生の略歴

  • 1966年生まれ(トゥルク市出身)
  • 1988年オーボ・アカデミー大学神学部卒(神学修士)及びフィンランド・ルター派国教会牧師就任
  • 2003年神学博士(オーボ・アカデミー大学神学部)博士論文”Jesus’ Teaching on Prayer” (Åbo Akademis förlag)
  • ルター派国教会牧師、SLEY専属牧師、SLEY海外派遣宣教師(ザンビア)、フィンランド神学研究所事務局長、SLEY海外伝道局付けを経て、2017年から現職およびトゥルク市議会議員(キリスト教民主党)
  • キリスト教、聖書関係の著作多数。国教会保守派の論客としてテレビの時事討論番組にも多数出演

 

手芸クラブの報告(2023年5月24日)

5月の手芸クラブは24日に開催しました。前日は冷たい雨の日でしたが、この日は朝から太陽の光が輝いて爽やかの天候の中で開催することができました。

今回はマクラメのテクニックを使ってフラワー・バスケットやコースターを作りました。初めにモデルを見て自分の作りたいものを選びます。参加者の皆さんはフラワー・バスケットを選びました。早速モデルに合わせて糸の長さを測って結び始めます。今回はマクラメの基本の結び方の一つ、平結びだけを用います。4本の糸で結びをスタートさせますが、一つ一つの段に糸を増やしていくと三角の形になります。バスケットの幅が出来てから三角の形を丸い形にしてまた結び続けます。参加者の皆さんはおしゃべりをしながら楽しい雰囲気の中で作業を進めました。最後に作品の全部の糸を一つにまとめて結んで素敵なフラワー・バスケットが出来上がりました!参加者の皆さんはお家でどのように飾るでしょうか?

作業の後はコーヒータイムです。コーヒーとフィンランド風菓子パン「プッラ」も一緒に味わいながら楽しい歓談の一時を持ちました。そこでフィンランド人が春に感じる喜びや聖書が教える「喜び」についてお話を聞きました。終わりにフィンランドの子ども讃美歌「On ilo、 ilo olla yhdessä」を聞きました。「天の神さまはいつも私たちと共にいて下さる。だから私たちは大きな喜びを持てる」という意味の歌です。

次回の手芸クラブは6月28日に予定しています。日程が近づきましたらまたホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。

手芸クラブの話2023.5.24

スオミ教会の手芸クラブではマクラメの作品はもう何回か作りました。今日は初めてフラワー・バスケットを作りました。フラワー、花に関係して今回の話はフィンランドの春についてお話したくと思います。今年フィンランドの冬は長くて五月になってからやっと少しずつ暖かくなってきたそうです。春が訪れるのは年によって早かったり遅かったりしますが、毎年必ずやってきて、野原も森も花と緑で一杯になり、こういう自然の移り変わりの中に天の神さまの創造の業を見ることが出来ます。

ushi

私の実家は牛を飼っている農場でした。毎年春になり暖かい日が続くようになると、牛たちを牛舎から外に放牧します。雪と氷の長い冬の間に牛舎でずっと過ごさなければならなかった牛たちは明るい緑の牧場に出されると初めはとても興奮します。外の空気を吸って飛び跳ねたり走り回ったりします。嬉しそうな牛の様子を見ると、もうすぐ春から夏に変わる兆しにもなって、私の家族みんなもワクワクさせました。

フィンランドでは5月の終わりに学校の卒業式や終業式を行います。それから生徒たちが楽しみに待っていた夏休みが始まります。学校の式が終わると、子供たちは一斉に学校から出て嬉しそうに走り回ったり飛び跳ねたりすので、牛舎から出された牛と同じだと言われます。子供たちは「夏の牧場」に放牧されたと言う人もいます。それくらい学校の一年が終わって夏休みが始まるのは子供たちにとって大喜びの日なのです。皆さんも、学校時代に夏休みが始まった時は同じ気持ちではなかったのではないでしょうか。

子供だけでなく大人も喜んだり嬉しい気持ちになることは大切です。今、皆さんにとって喜びはどんなことでしょうか?私たちの普段の生活の中にあること、住まい、食事、家族、友達等は当たり前すぎて喜ぶものであることに気づかないかもしれません。生活の中でいろんなことがあって、それらに気を奪われていると、喜ぶものを忘れてしまうかもしれません。また、私たちが喜んでいることはずっとは続かないかもしれません。聖書は、時間が経っても消えない喜びについて教えます。旧約聖書の詩篇にはこのような言葉があります。

「主は命の道を教えてくださいます。私はみ顔を仰いで満ち足り、喜び祝い右の御手から永遠の喜びを頂きます。」詩篇16篇11節

神さまが私たちに教えて下さる「命の道」とは、私たちが天の神さまのことをわかるようになって神様を信頼して大丈夫と信じるようになって神さまのもとへと導いてくれる道です。その道は、神さまのひとり子イエス様が十字架の業を果たすことで私たちに開かれた道です。イエス様を私たちに送った神さまの愛を知って信じるようになると、いつも神様がそばにいて下さることがわかるようになります。

生活の中でいろんな苦労や困難があって神さまなんかそばにいないように思える時にも、神さまは私たちから離れず色んな方法で助け導いて下さる方であることを聖書は私たちに伝えます。私たちはそれに気がつくでしょうか。神さまは本当に毎日いつでもどこでも一緒にいてくださるのです。これが、神さまが世界の全ての人々に与えようとしている、いつも変わらない消えない喜です。私たちにもお与えになろうとしているのです。

このいつも変わらない消えない喜びは、パウロが「フィリピの信徒への手紙」の中で言っている「主にある喜び」です。主イエス様のことを思えば神さまの愛がわかる喜びです。この世で終わらない、永遠に続く喜びだとわかります。神様がお与えになるこの喜びを受け取れば、生活の苦労はなくならなくても、生活の悩みは軽くなり、わすれてしまった喜びも戻って来て神さまに感謝する気持ちが起きます。

宣教師の週報コラム 使徒的伝統に立って福音書を繙こう その2 

1953年のE.ケーゼマンの学会講演の主眼は、福音書を通して歴史的イエスを解明できるというものでした。 彼の提唱した方法は、まず福音書著者の叙述法を明らかにし、次にイエスの発言の記述から著者の手加えを削除する、そうすると著者が伝授した伝承が残る、それをもって実際のイエスに近づけるというもの。それに基づいて実際のイエスを解明する研究が増えていきます。ただ研究結果は大体において、イエスがいかにユダヤ教の伝統から外れた存在であるかを示す傾向が強かったと言われます。

歴史的イエス研究の大きな転換点となったのは1985年のE.P.サンダースの「Jesus and Judaism」(日本語訳見つからず)でした。彼の手法は、第ニ神殿期のユダヤ教社会の諸思潮を聖書外の文献からも明らかにして、そこにイエスの発言と行動を当てはめてみる、そうすると福音書に書かれている発言や行動の意味が今までと違ったふうに見えてくる、もう福音書著者や初代キリスト教徒が創作したなどと言わなくてもよくなるということです。ただし、彼の打ち出した歴史的イエス像は、罪人との食事は悔い改めを前提としなかったという主張などがあり賛否両論を引き起こしました。

これ以後、歴史的イエス研究は飛躍的に増加します。ユダヤ教社会の諸思潮の解明は、死海文書の解明や研究が進んだことも手伝って進みます。研究の拠点もドイツ語圏から英語圏に移ったと言われます。しかし、パンドラの箱を開けたような状態になりました。いろんな研究結果が無数に次から次へと出されたのです。アメリカのジーザス・セミナーのような、研究者が集まって、これは真正なイエスの発言、これは初代キリスト教徒の創作などと投票で決めるところも出ました。他方で、これは創作ではない、真正な発言と主張する研究結果であっても、イエスの発言の趣旨が福音書にある趣旨と180度正反対というものも多く出ました。その背景には、使徒や初代キリスト教徒は外の世界に対して挑戦的だったのでイエスの発言をそのように変容したという先入観がありました。そのため、研究者たちが打ち出した歴史上のイエスは、社会改革家、人権擁護者、フェミニスト、放浪哲学者、ヒッピーを思わせるものがいろいろ。あなたの好みに合うイエス様が見つかるかも(続く)。

説教「我ら、使徒言行録の続編を生くる者」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書 24章44-53節

主日礼拝説教 2023年5月21日 昇天主日

聖書日課 使徒言行録1章1-11節、エフェソ1章15-23節、ルカ24章44-53節

説教をYouTubeでみる

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は創造主の神の計り知れない力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。そして今日は昇天日の直近の主日なので、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、現代を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。今年は使徒言行録の昇天の記述とルカ福音書の記述の両方をよく見比べて、主の昇天が私たちに大いに関係があることをお話ししようと思います。その前に、まず昇天とはどんな現象かということについて、そしてイエス様が上げられた天とはどんなところかについて毎年お教えしていることを復習しておきます。その後でルカ福音書と使徒言行録の記述から、イエス様の昇天と私たちの関係を考えてみます。

2.昇天とはいかなる現象か?

新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書かれています(1章9節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。イエス様の昇天を同じようなにイメージしてしまったら、同じように現実にはないものと思われてしまうのではないかと心配します。

ところが、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけです。その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが」と言いますが、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に上がった後に雲が出てきてイエス様を覆い隠してしまった印象を与えてしまうと思います。

そうなると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあります。それを思い出さないといけません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。

これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。

ここで聖書を読む人が思い出さなければならないことがあります。それは、天に上げられた時のイエス様の体は既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが沢山ありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかない何かがありました。それから、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物の天使と同じではありません。イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

3.天の御国というところについて

イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されたと思います。どうでしょうか?ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみます。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通キリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?

毎年述べていることですが、世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。

なぜかと言うと、ロケット技術とか地球や宇宙に関する知識は信仰というものと全く別世界のことだからです。地球も宇宙も人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来ただけで、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。

ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに信仰者は、自分の命と人生はこの世だけではない、今のこの世は始めがあったように終わりもある、終わりの時には天と地が新しく再創造されてそこに神の国が唯一の国として現れる、自分の命と人生はそこで続いていくことになると考えます。この世では肉体の体をもって生きたように、この次に到来する世では復活の体をもって生きるようになる、そういうふうに人生を二つの世にまたがるものとして考えます。この人生観を持つ信仰者は、神がどうしてひとり子を私たち人間に贈って下さったかが分かります。それは、私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間が今のこの世の人生と次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。生きる舞台が今のこの世とこの次に到来する世の二つにまたがっているということは、本日の使徒書の日課エフェソの1章21節でも言われています。キリストが全ての上に立つのは「今のこの世だけでなく次に到来する世においても」と言っている通りです。

それでは、イエス様を贈ってどうやって人間が大いなる人生を持てるようになるのでしょうか?それは次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまい神との結びつきを失ってしまったからです。神の意思に背こうとする性向、罪は行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまい、人間は代々、罪を受け継いでしまったというのが聖書の立場です。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するために罪の問題を人間のために解決することにしたのです。

どのようにして解決して下さったのでしょうか?神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。その人は罪を償われたので神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ってその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生とこの次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を生きられるようになったのです。

4.我ら、使徒言行録の続編を生くる者

以上、昇天とはどんな現象か、そしてイエス様が上げられた天とはどういう所か、私たちがそこに迎え入れられるようになるためにイエス様が大役を果たされたことを見ました。それでは次に、イエス様の昇天が現代を生きる私たちとどんな関係があるかについて、ルカ福音書と使徒言行録の記述から見ていこうと思います。

ルカ福音書と使徒言行録のイエス様の昇天の出来事の記述は、同じ出来事を扱っているとはいえ、内容が少し違っていることに気づきます。使徒言行録の方がルカ福音書より詳しく書かれていますが、イエス様が弟子たちに話す内容が違っていたり、使徒言行録では昇天の時に雲や天使が出てくるのにルカ福音書にはありません。どういうことでしょうか?

ルカ福音書と使徒言行録は同じ著者によるものです。著者がルカという人物であるというのは初代の教会からの言い伝えですが、それに対する反論はなく定説になっています。パウロのコロサイの信徒への手紙4章14節、ティモテへの第二の手紙4章11節、フィレモンへの手紙24節にパウロと共に福音伝道に携わった同志として名前が出てきます。

ルカは福音書と使徒言行録をテオフィルスという位の高い人に献呈する書物であると双方の出だしで言っています。使徒言行録の出だしでは、テオフィルス様、先に私は、イエスが弟子たちに指図を与えて天に上げられる日まで彼が教えたり行ったりしたこと全てを第一巻として書き下ろしました、と言います。その第一巻とは言うまでもなくルカ福音書のことです。実際、ルカ福音書はイエス様が弟子たちに指図を与えて天に上げられたところで終わっています。イエス様が与えた指図というのは、天の神から力を受ける時までエルサレムに留まっていろということです。天の神からの力とは、聖霊が降ってきた時に受けられる力というふうに聖霊由来の力です。

 ところでルカは、使徒たちのようなイエス様の直接の目撃者ではなく、使徒たちの伝道を聞いて信仰者になって伝道に従事するようになった者です。ルカにとってイエス様は少し前の過去の人ですが、使徒たちは同時代の人です。そのことはルカ1章からわかります。そこで、自分はどのようにしてイエス・キリストの言行録を書いていくかということを述べます。目撃者の証言と信頼できる記録を集めて書くのだと。つまり、自分は直接の目撃者ではないが、信頼できる資料を集めて書き上げるのだと。使徒言行録ではそういうことは言っていません。それは、ルカが使徒たちから直接聞いたというだけでなく、自分自身使徒たちと行動を共にし使徒たちの生きざまの直接の目撃者であったからです。使徒言行録16章10節から、書き方が「私たちは~した」という言い方になり、目撃者としての立場を明らかにしています。

このような背景がわかると、どうしてルカ福音書と使徒言行録の昇天の記述が異なってきているかがわかります。ルカは、福音書の方はあくまでイエス・キリストの言行録に留めよう、イエス様がこの世に贈られてから、この世で教え行ったことの記録をまとめようと、イエス様の言行録に徹したのです。どこで終わりにするかについてイエス様の昇天で終わりにすることにしたのですが、どういうふうに昇天を記述したらいいか、続く使徒言行録の出だしとの兼ね合いで考えなければならなくなりました。もちろん、ルカ福音書の終わりに使徒言行録の出だしとそっくり同じことを書いて重複させることも可能だったでしょう。しかし、ルカはそうしませんでした。なぜか?私は、ルカが手元にある沢山の資料を福音書用と使徒言行録用に使い分けたと考えます。どういうふうに使い分けたのか?

ルカ福音書の方に、イエス様が十字架で死なれ死から復活されたことは旧約聖書の預言の実現であるというイエス様の言葉が入れられました。それでルカ福音書は彼が旧約聖書の預言の実現であることを明確にして完結させます。預言が実現したことで「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」(ルカ24章47節、新共同訳は「罪の赦しを得させる悔い改め」)、そういう神への立ち返りを人間が出来るようになった、そのことを人間に教え伝えなければならないというイエス様の言葉を載せて、使徒言行録への繋ぎとしました。

続く使徒言行録では、もうイエス様が旧約聖書の預言の実現ということは繰り返されず、新しい動きに入っていきます。それは、人間が将来到来する神の国ないし天の国に迎え入れてもらえる可能性をイエス様が開いた、今度はその可能性を人間が持てるようにする働きが始まったのです。イエス様は40日の間、弟子たちに神の国について教えたと言われます。この教えで、弟子たちは、神の国が当時考えられていたような、支配民族を打ち倒してかつてのダビデの王国を再興するというような地上の国ではないとわかったでしょう。ダニエル書に預言された死者の復活が起きた以上はこの世を超えた終末論的な国だとわかったでしょう。

ところが弟子たちは、この終末論的な神の国が遠い将来に現れるのではなく、今すぐにでも現れると考えたようです。それは彼らの「あなたがイスラエルの民に王国を再興するのは今のこの時ですか」という質問に見て取れます。イエス様は神の国について教えた時、自分はまず天に上げられて後で再臨する、その時に神の国が現れると教えなかったのでしょうか?それとも、教えたけれども、弟子たちは目の前にいる復活の主に心を奪われて、神の国の王が今まさに目の前におられる、王国はいよいよ打ち立てられると気がせく状態だったのでしょうか?いずれにしても、弟子たちの頭には主の昇天も再臨も全然入っていません。

しかしながら、この時点での神の国の樹立は神の御心ではありませんでした。そんなことしたら、せっかくひとり子を用いて全ての人間に整えた可能性、人間が神の国に迎え入れられる可能性をまだほとんど誰も受け取っていない段階で新しい天と地の創造や最後の審判を行うことになってしまいます。これからしなければならない本当のことは、神の国に迎え入れられる可能性を全世界の人間が持てるようにすることでした。そのためには最初の目撃者たちに聖霊が降って力を得てイエス様について人々に証言しなければならなかったのでした。

それでは、証言するのにどうして聖霊が降らなければならないのでしょうか?それは、ただ単にイエス様が十字架にかけられて復活したのを目撃しましたと言っても、それだけでは、すごいなあ、不思議だなあ、で終わってしまいます。十字架と復活の出来事は「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」を人間が出来るようになるために起きた出来事であるということを伝えないと何の意味もないのです。

人間に神の意思に反しようとする罪があることを気づかせるのは聖霊です。同時にイエス様の十字架と復活に罪の赦しがあることをわからせるのも聖霊です。それなので聖霊が自分の内に働くようにする人は罪の自覚を持てて赦しを願う心を持ちます。これが神への立ち返りです。この立ち返りが起これば聖霊はすぐ心の目に主の十字架を示してくれます。これが罪の赦しをもたらす神への立ち返りです。この立ち返りは聖霊が働かないと起きないし、伝えることも出来ません。イエス様は弟子たちに、洗礼者ヨハネは水で洗礼を授けたが、お前たちは「聖霊を伴う洗礼」を授けると言いました。「聖霊を伴う」というのは、洗礼を受ける者に「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」が実際に起こるようになるということです。そして、洗礼を受けた者が他の者に同じ立ち返りを伝えることができるようになるということです。それで、聖霊が自分の内に働くようにしているキリスト信仰者は神への立ち返りをしながら生き、他の者に立ち返りを伝えるのです。これは最初の使徒たちが行ったことそのままです。

使徒言行録はパウロがローマに到着したところで終わっていますが、使徒言行録のテーマは終わっていません。イエス様が開いて下さった可能性、人間が将来到来する神の国に迎え入れてもらえる可能性を人間が持てるようにする働きはまだ続いているからです。とにかく主の再臨の日まで続く働きですから、私たちは使徒言行録の続編を生きているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。

 

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

フィンランドのお菓子パン

5月の料理クラブは13日、雨が降ったり止んだりのぐずつく天気の土曜日に開催しました。今回はフィンランド人が一番好きな菓子パン「コルヴァプースティ」を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。はじめに生地を作ります。計量した材料を順番にボールに入れて、強力粉を少しづつ加えてよく捏ねると生地の形が見えてきます。今回はお母さんと一緒に参加した二人のお子さんも一生懸命に生地を捏ねました。次にマーガリンを入れてさらに捏ねると地が出来上がります。ここで一回目の発酵をさせます。その間に中身の準備。生地が大きく膨らんだので次の段階に入ります。生地を長方形に伸ばし、その上にマーガリンとシナモンシュガーを付けます。それからロールにして切ります。

フィンランドのお菓子パン

切ったものをコルヴァプースティの形にすると、わぁーという歓声があがりました。鉄板の上にコルヴァプースティの生地がどんどん並んでいきます。それから二回目の発酵をして、待っている間にみんなで「フィンランドの春の命」という風景と讃美歌のビデオを観て一休み。コルヴァプースティは大きく膨らんで、その上に卵を塗り、砂糖をかけてからオーブンに入れて焼きます。焼けいる間に礼拝堂から素敵なピアノの演奏が聞こえてきました。心が休まる一時でした。シナモンの香りが教会中に広がり早く味合うのが待ち遠しくなります。コルヴァプースティはきれいな焼き色がついてテーブルの上に並びました!

テーブルのセッティングをして皆さん席に着き、温かいコルヴァプースティをコーヒー紅茶と一緒に味わいました。美味しいイチゴを添えていただきました!ピアノのBGMと歓談のひと時のあとで、コルヴァプースティと聖書のお話を聞きました。こうして皆さんが楽しみにしていたコルヴァプースティの日は味も雰囲気もとても素敵なものになりました。

今回発酵で少し時間がかかってしまいましたが、美味しくきれいなコルヴァプースティが出来てよかったです。参加者の皆さん、お疲れさまでした。

次回の料理クラブは6月10日に予定しています。詳しくはホームページをご覧ください。

コルヴァプースティの話 2023年

フィンランドでは昔からコーヒータイムには菓子パンがつきものです。菓子パンのことをフィンランド語でプッラと言います。今日は皆さんと一緒に作ったコルヴァプースティはプッラの種類の一つです。コルヴァプースティはプッラの中で最も人気があるもので、プッラの王さまとも言われます。1700年位から貴族のコーヒータイムの嗜好品として出されていました。一般の家庭では第二次世界大戦後、砂糖やバターやシナモン等の材料が簡単に手に入るようになって作られるようになりました。私のお祖母さんの時代には、コルヴァプースティはまだ高価なものでクリスマスとかイースターとか夏至祭のようなお祝いの時しか作りませんでした。今は普段の日にも食べられます。お店や喫茶店でも売っているし家庭でも作られます。

korvapuusti昔コルヴァプースティはよく家庭で作られたましたが、時代が変わって人々は忙しくなったので、コルヴァプースティを作る家庭は少なくなりました。このためにフィンランドでは10月4日は「コルヴァプースティの日」に定められています。これは2006年から始まりました。この日を定めた目的は、コルヴァプースティをもっと家庭で作りましょうというキャンペーンで、家族や友達同士で集まって一緒に味わって楽しい一時を過ごしましょうという趣旨です。この日はお店や喫茶店でコルヴァプースティが沢山売られますが、もちろん多くの家庭でも作られます。フィンランド人にとって、焼きあがったばかりの温かいコルヴァプースティを冷たい牛乳と一緒に味わうのはとても大きな楽しみです。家庭でコルヴァプースティを作る習慣があると、それは子供たちが大きくなっても忘れられない大切なことになります。ほとんどのフィンランド人は、自分のお母さんが作ったコルヴァプースティが思い出の中にあります。フィンランド人に一番美味しいコルヴァプースティを作るのはだれ?と聞くと、きっと自分のお母さんと言うでしょう。

フィンランドのプッラフィンランド人は「コルヴァプースティ」を作ってそれを家族や友達と一緒に味わうことで普段の生活に良い変化をもたらそうとします。もちろんそれは「コルヴァプースティ」を食べることだけではなく、家族や友達と一緒に話したりいろいろ分かち合うことが大事だからです。私たちにとって人に会って分かち合うことは重要です。友達や同僚と会って一緒にコーヒーを飲んだり食事したりするのは大切です。その時、食べ物はちょうど良い話題にもなるのでフィンランドでは「食べ物が人々を団結させる」などと言われます。

聖書の中の福音書にはイエス様がよく人々と一緒に食事をしたことについて書いてあります。しかし、イエス様が食事を共にしたのは自分の友達とか弟子たちだけではありませんでした。徴税人や他の罪人とも一緒に食事をしたのです。当時、徴税人は税金を取る時にいつも決まった金額より多くお金を取って自分のものにしていました。イエス様はそのような人たちとも一緒に食事をしたのです。それは、イエス様がこの世に送られたのは良い人たちの為ではなく悪い人も含めてこの世の全ての人たちの為ということを行動で示したのです。私たち人間は自分のことを良い人間と思う人でも心の中では悪いことを考えてしまったり口に出してしまうことがあります。誰も天の神さまの前で完璧な人間、罪を持たない人はいません。イエス様は全ての人たちが神さまの目に相応しい者になれるように、この世に送られました。それでは、私たちはどのようにして神様の目に相応しい者になれるでしょうか?それは、イエス様が良い人も悪い人も全ての人を愛して人間が罪から救われる道を開いて下さったことです。これはイエス様の十字架の業の出来事です。天の神さまの計画を多くの人たちが受け入れるようになる為にイエス様は全ての人々と食事をしたのです。新約聖書のヨハネの黙示録にはこのような言葉があります。

「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を明ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、かれも私と共に食事をするだろう。」ヨハネ黙示録3章20

イエス様は私たちの心の戸口に立ってノックして私たちと一緒に食事をすることを望んでいます。私たちはその音を聞いて扉を開けるでしょうか。もし開けなくてもイエス様は諦めないで、何度もたたきます。イエス様に心の扉を開くと、私たちは神さまの子として受け入れられて愛されます。イエス様を救い主と信じて受け入れると、たとえこの世が終わってもその後に来る世に通じる道を歩ませてくださいます。

今日は皆さんと一緒に「コルヴァプースティ」を作ってコーヒーと一緒に頂いて楽しい一時を過ごしました。イエス様は私たちの心の戸口に立ってノックして私たちと共に食事をすることを望んでいることを忘れないように行きましょう。

 

宣教師の週報コラム

 使徒的伝統に立って福音書を繙こう その1

CC0

先主日(5月7日)の礼拝説教にて、4つの福音書を文学作品のように読むと信仰にとって問題がある、使徒的伝統に立って読むべきである、ということをお話ししました。どういうことか、コラムの場を借りて説明いたします。

この問題は、神学の中の「釈義学」分野の話です。釈義学とは、聖書中の書物がそれぞれ歴史的にどのように成立したか、また成立時の歴史状況を研究する分野で、旧約釈義学、新約釈義学に別れます。歴史学、批判的文献分析、考古学等とも結びつき「歴史的聖書学」とか単に「聖書学」とも呼ばれます。その研究成果は、聖書の解釈や聖書への向き合い方にさまざまな影響を与えてきました。

1800年代終わりのドイツ語圏の釈義学で、マルコ福音書が一番古い福音書であることが定説となり、同福音書を通して実際のイエスに近づけると考えられて、歴史上のイエスはこうだったという説が数多く現れました。それに対して、福音書を通しても実際のイエスは分からないという見解が強まり、代表的なものはW.ヴレーデ「Das Messiasgeheimnis in den Evangelien」(日本語翻訳見つからず)の、イエスが自分のメシア性を公けにしないように語る記述は福音書著者の創作という説です。この説は、1970年代のH.ライサネンの反論(2つのドイツ語論文)が出るまでは、特にマルコ福音書の解釈において世界中で大きな影響力を持ったと言われます。もう一つは、R.ブルトマンの「Die Geschichte der synoptischen Tradition」(「共観福音書伝承史」という翻訳あり)。福音書中のイエスの教えは、福音書が書かれた時代状況(例えばキリスト教とユダヤ教が反目し合っている状況)で機能するように書かれている。なので福音書の記述をみても実際のイエスはわからないというものです。

1953年にブルトマンの弟子の一人E.ケーゼマンが学会講演で師の教えに挑戦するまで聖書学会は歴史的イエス研究が途絶えた時代と言われています。そのような時代に神学教育を受けた人たちは、福音書をどう読みどう教えたでしょうか?これはイエス様が言われた教えであると堂々と言うのは難しかったのではないか?代わりにマルコの考えは、マタイの考えは、というふうに著者の考え方の分析紹介に重きが行ってしまったことはないでしょうか?イエス様が何か小説の登場人物のように扱われてしまわなかったでしょうか?(続く)

2023年5月14日(日) 復活節第6主日 主日礼拝

[私たちの父なる神とシュイエス・キリストから恵みと平安があなた方にあるように]

 ヨハネ14章15~21節                 スオミ教会2023.5,14(日)

「聖霊を与える約束」

今日の聖書はヨハネ福音書14章15~21節であります。まず、13章23節から見ますとここにイエス様は弟子たちに別れの予告をされています。

13:33「子たちよ、今しばらく私はあなた方と共にいる。あなた方は私を捜すだろう。私が行く所にあなた方は来ることができない。」そうすると36節ではシモン・ペトロはイエスに言った「主よ!どこへ行かれるのですか」。イエス様の答えは、こう言われた。14:2~3に「あなた方のために場所を用意しに行く。」行ってあなた方のために場所を用意したら戻って来て、あなた方を私のもとに迎える」。と約束しておられます。6節では、とても大事なことを語られています。イエスは言われた「私はであり真理でありである。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と宣言されています。イエス・キリストこそ、神の国の命そのもの、それは神の真理である。神の国へ行くにはイエス・キリストを通らなければ行けない。イエスこそ道そのものである。と言われました。

こうした展開から、今日のみ言葉である14章15~21までになります。イエス様が去って行かれた後、弟子たちは世界中に出て行ってイエス様が示された福音伝道の大きな業が出来るようになるために、必要な三つを挙げて説明しておられます。第一は13節から14節で「イエスの名によって願う」祈りの力であります。次に第二は15節から17節まで、でイエス様が去る事によって送られてくる「別の助け主」、つまり真理のみ霊が送られる、と言うこと。それから、第三は18節から21節にかけて、約束されている通りイエス様ご自身が「帰って来る」ので弟子たちを決して孤児にしない、という約束のことです。

さて、第一の13節~14節のところの要点は13節の言葉です。「私の名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光を受けるためである。」イエス様と短い期間、約3年を共に過ごした弟子たちがイエス様が去って行かれた後、全世界に出て行って伝道してゆかねばならない状況がこれから先やって来る、その時弱くて力のない彼らが、どうやって行けるか。そのことを全部見こしてイエス様は「何事でも私の名によって願うなら、私はそれをかなえてあげよう」と約束されているのですから弟子たちはどんなに心強く励まされた事でしょうか。ここでは詳しく申しません。さて、本日の聖書は第二番目14節からであります。「あなた方は私を愛しているならば、私の掟を守る、そういうあなた方に私は父にお願いしよう。そうすると父は別の弁護者を遣わして永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は真理の霊である。そういう約束をしてくださっているのです。ここで注意したいことはイエス様は「父にお願いしよう」と言っておられる。その言ってくださるのは何処で言っておられるのか。イエス様が捧げるお願いは地上にいる弟子たちの前🄬のイエス様が天の神様に向かって「助け主を送ってください」と願う、という意味ではありません。

そうではなくして、イエス様が復活して、この地上から昇天して父の右に座して、そして天に於いて神様である父を説得して、その天からみ霊を送るように取り計らってやろう・・・・・という意味であります。その事は16章7節以下を見ますと、はっきりと分かります。「私は本当の事をあなた方に言うが、私が去って行くことはあなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、あなた方の所に助け主は来ないだろう。もし、行けばそれをあなた方に遣わそう」。ここで、はっきり説明されているように、「父に願う」というのは、イエスご自身が父のそばまで行って天から助け主を送るようにしていただく。と約束してくださっているのです。ここは非常に神秘的なことが展開しています。天の世界で行われる、霊の中での業が語られている。ですから、地上での事柄ではない。天と地の次元がちがう中の事柄でありますから、もう、ちっぽけなこの世の我々の聞く展開ではないのです。霊のっ世界の秘義に私たちの心が開かれて行く!「父は別に助け主を送ってくださる」とこういわれます。新共同訳の聖書には、父は別の弁護者を遣わして・・・・」というふうに訳してあります。助け主と言った方が分かりやすいと思います。ここで「別に」というのは何に対して「別に」なのかふつうには「あなた方」とは「別」に「助け主」も送ってくれる、という意味に理解します。やがてイエスが弟子のもとを去って行かれます。そうすると、弟子たちは、これから孤軍奮闘して、この世と戦い悪魔と戦って行かなければなりません。”でも心配するな!君たちは一人ぽっちで戦うのじゃない、君たちとは「別に」助け主が送られてくるんだから・・・”というように理解するわけです。ところが、もう一つの考えがありまして、それは、イエスとは「別に」代わりの助け主が送られてくる。というように理解するわけです。間もなくイエスは弟子たちのもとから去って行かれます。助け主はいなくなってしまいます。”しかし、心配することはない、私とは「別に」助け主がっちゃんとついてくれる”というふうに理解する方が良い。そのように送られてくる「助け主」は17節で「心理のみ霊」つまり真理を伝えるみ霊であると言われます。イエス様は」既に6節のところで、実は私がその真理である、とおっしゃっていたのです。ですから、ここで約束されている別の助け主、すなわち真理を伝えるみ霊とは、真理そのものであられるイエス様を弟子に伝えるみ霊なのです。そういう意味からみてもイエス去ってゆくがイエスとは別にイエスを伝えるみ霊がちゃんと、あなた方の所へ来る、ということです。

 これには一つの事が必要であります。すなわち、今までの、生前のイエス様も「助け主」であった。ということです。

ヨハネの第一の手紙2章1節に、同じ言葉を使って昇天なさったイエスが助け主である。と言っています。「私の子たちよ、これらの事を書きおくるのは、あなた方が罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには私たちの助け主、すなわち義なるイエス・キリストがおられる」ここでは「天に昇られた栄光のキリストが、いま助け主であり給う・」とあります。ところで、ここで「助け主」と訳されている言葉は、どういう意味なのだろうか。非常に難しい言葉といわれます。

ギリシャ語で「パラクレートス」と呼ばれていますが、その本来の意味は「傍らに呼びよせる者」と昔のキリスト教の教父たちは、そのように理解していた、というのです。「パラ」というのは「傍らに」、「クレートス」とは「呼びよせる者」つまり、しょげ返って悲しんでいる人を、傍らに呼びよせて元気をつけてやる、という意味です。そういうことで慰め主というように説明しています。

今日のギリシャ語の言語学の研究では「呼びよせる」という意味ではなくて、受け身の形をとると「傍らに呼びよせられる者」と考えられてきたようです。よく分かるように言うと罪を犯した罪人が裁かれる裁判、法廷の場面で「お前はこういう罪を犯したじゃないか」と言われると、確かにもう浮かぶ瀬もありません。が、その時イエスが傍らに呼びよせられて、つまり今の言葉で「弁護士」となってくださる。被告のために力となって下さる。そういう者をパラクレートスと言うのです。ですから、新共同訳聖書には弁護者となっています。(ヨハネ第1・2章には弁護者キリストの事が詳しく記されています。)今日の新しい訳では「ヘルパー」とか「フレンド」というように呼ばれているようです。

イエス様の弟子たちは助け主としての友を困った時に呼んだのでしょう。しかし、今日2000年の時を超えて日本という国の中で私たちは目に見えませんが、いつでも「主よ」と助け主イエス様を呼び寄せる事ができる。最後に18節~21節までにイエスご自身が又帰って来ると約束されています。「私はあなた方を捨てて、孤児とはしない、あなた方のところに帰って来る」という約束です。

イエス様がここで「あなた方を孤児とはしない」と、まるでご自分が弟子たちの父であるかのように語っておられるのは珍しい事です。イエス様は既に13章33節でも、この晩餐に連なっている11人の弟子たちに「子たちよ」と呼びかけなさっていました、からここでは珍しくご自分がお父さんの立場から弟子たちを、その可愛い坊やたちに言っていらっしゃるのです。そういう意味から言って

”私がいなくなるために、あなた方が父親を失った孤児のような可哀そうな目に会うようにはさせない、と言っておられるわけです。では、イエス様が「帰って来る」と言って下さっているのは、いつ、どのようにして帰って来られるのでしょうか。20節を見ますと「その日には私は私の父におり、あなた方は私におり、又私があなた方におることが分かるであろう」と言われています。その日という表現は旧約聖書では、メシアが現れる終わりの時を表す用語でありますので文句なくイエス様が帰って来られるのは終末的な再臨のことだ、と沢山の教父たちが考えました。アウグスティヌスのように主にラテン語で勉強する教父たちは、こう唱えてきたわけです。しかし、そうじゃなくて21節の最後に「その人に、私自身を表すであろう」と言っておられるのですから終末の再臨の時なら、その人に表し、あの人に表さない、なんてのじゃなく全ての人の一瞬に見えるようになるのじゃないか。「その人に表す」とおっしゃるからには、終末の再臨の時とは考えられない。また、別の教父たち(クリストモスといった人々)に考えではイエスが復活された後、弟子たちにあちこちで顕現された、そのことを言われたのではないか、しかし、これも弟子たちに現れ、、又、いつ消えられるかわからない。イエスがここで約束しておられるのは、もう二度と再び孤児にはしない、帰って来てからもずうっと、あなた方とおり続ける、ということだから違うのではないか、とおもわれます。

結局では何かと言えば、これは16節~17節で約束されておりました、み霊という別の助け主が送られて来る、という形での「イエスが帰って来る」と言われる意味なのだ、ということです。15節から17節までに、み霊が送られて来ることを描く部分とは何かもそっくりそのまま同じ言い方で並行して記されています。

どちらの場合も、これが成就する必要条件があります。イエスを愛し、イエスの戒めを守ることです。15節と21節のどちらにも書いてあります。それから、み霊の場合もイエスの場合も「み霊が送られて来る」、「帰って来る」ということが16節と18に約束されています。17節と19節を見ますと、その時にどちらの場合もこの世は見ないが弟子たちには見るという区別があります。

その時には、もうずうっと共にいて下さる、という永遠の保証が17節にも21節のどちらにも約束されています。このように結局、同じ条件、同じ結果、同じ出来事を描いています。イエス様はみ霊が送られて来ることに於いて私たちの中に住まわれるのであります。

――――――――――――――――――――◇―――――――――――――――――――

ヨハネは此処に於いて、イエスの復活顕現はひと時の過度的なものであって、本当にイエスが帰って来られるのはペンテコステの日、教会に降った聖霊に於いて教会に主は来てくださるのだ。と約束しているのであります。19節の言葉を、そういう意味で見てみますと「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなた方は私を見る。私が生きるので、あなた方も生きることになる。」聖霊が働いてくださることによって、イエス・キリストは生きているのである。それが分かるのは21節にあります言葉「私の掟を受け入れ、それを守る人は私を愛する者である。私を愛する人は私の父に愛される。私もその人を愛してその人に私自身を表す。」とあります。このことは私が帰って来て、ずううっとあなた方と一緒にいる、ということなんだ。天の父に愛される者は天のみ国へと召されて後もずうっと永遠の命に生かされるのです。天のみ国では、もう肉体の欲するものは、そこには何もない、霊の世界は魂の世界です。そこで決定的なものは愛であります。私を愛する者は、私の父に愛されるのであります。この世の次元とは全く違う、すでに天のみ国の約束であります。私たちの霊がみ霊を愛する心でないと受け入れることができないでしょう。古代、教父アウグスティヌスも言っています。み霊に於いてイエス様が私たちと共におられ、私たちの内に住み、信仰者としての大いなるみ業を起こして下さるのであります。

                          アーメン・ハレルヤ

どうか、望みの神が信仰から来る、あらゆる喜びと平安とを、あなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせて下さるように。  アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回の手芸クラブは5月24日(水)10時~13時に開催します。

マクラメの壁掛けフラワー・バスケット

今回はマクラメのテクニックを使ってフラワー・バスケットを作ります。以前作ったコースターを希望される方はそちらも選べます。マクラメの糸は作るものに合わせます。

マクラメの壁掛けフラワー・バスケットやコースターは可愛らしいインテリアの要素になります。

手芸クラブでは他に自分の好きな編み物をしても大丈夫です。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

材料費は500円~800円です(作るものによって変わります)。

 

お子さん連れでもどうぞ!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1771088870iamg@1771088870arumi1771088870hsoy.1771088870iviap1771088870
03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106