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説教「自分の意志は弱くても聖書と聖礼典を用いれば神の力が働く」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書8章26-39節

主日礼拝説教 2022年6月19日(聖霊降臨後第二主日)
聖書日課 イザヤ65章1~9節、ガラテア3章23~29節、ルカ8章26~39節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、居場所は墓場であった。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというようなスリラー映画の光景を思い浮かべるかもしれませんが、岩にくり抜かれた墓穴です。家に住まずに墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露を忍んでいたということです。イエス様が来て、その男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名をレギオンと言いますが、それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味します。つまり沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。イエス様がそれらを男の人から追い出すと、今度は豚の群れに入っていき、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、群れ全部は崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。

 この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つですが、だからと言って、イエス様はすごいですね、で終わる話ではありません。じゃ、何で終わる話かと言うと、今日の説教題です。人間の意思が弱くても、聖書と聖礼典(洗礼と聖餐)を正しく用いれば、神の大きな力が働くということです。ちょっとピンとこないかもしれませんが、これからの説き明かしでわかります。

2.イエス様と使徒たちに並ぶものとしての聖書と聖礼典

 出来事の説き明かしに入る前に、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取るという話は聖書にもよく出てくるし、聖書の外の世界にも沢山あります。異常行動をやめさせるために悪霊の追い出しということがあるのですが、それは現代社会には相応しくないものと考えられます。現代では、異常な行動の解決には医学的、特に精神科的ないし心理学的な解決がはかられるからです。原因を悪霊に求めて解決を図ろうとするのは前近代的と考えられます。しかしながら、医学的に解決しようとしても思うように解決できない時は、原因を霊的なものと考えてそこから解決を求めようとする人たちがいるのも事実です。

 イエス様が悪霊追い出しをやったのは、まだ医学が発達していない古代だからそうしたのであり、それは時代遅れなのだということか、それとも、救世主が行ったことに時代遅れなどないということか、どっちでしょうか?

 ここで一つ注意すべきことは、悪霊追い出しを行ったのはイエス様とイエス様が権限を与えた弟子たちです。イエス様が天に上げられ、弟子たちもこの世を去った後、誰がその権限を持つのでしょうか?人によっては、自分はイエス様から権限を与えられたと言って、悪霊追い出しをする人がいるかもしれません。しかし、イエス様から権限を与えられたことがどうやってわかるでしょうか?最初の弟子たちの場合は、わかるも何も目の前にいるイエス様から直接与えられました。イエス様から直接与えられなくなったら、どうやってわかるのか?きっと結果でわかるということになるのでしょう。つまり、悪霊よ、出て行け、と言ったらその通りになってとりつかれた人は普通になった、だから自分はイエス様から権限を与えられているのだ、と。しかし、それで本当に大丈夫でしょうか?

 私はこの問題では慎重な立場を取る者なので次のように考えます。確かにイエス様と弟子たちは悪霊の追い出しをしましたが、彼らが活動した時代はまだ新約聖書が存在しない時代でした。新約聖書の代わりに何があったかと言うと、生身のイエス様がいて、イエス様が天に上げられた後は生身の弟子たちがいました。弟子たちは目撃者としてイエス様の教えや行いや出来事を証言しました。それが口伝えで伝えられて、やがて書き留められていきました。またパウロを含む弟子たちは証言だけでなくキリスト信仰について教えることもしし、各地の教会に教えの手紙を書きました。こうして、まだ新約聖書は出来ていませんが、弟子たちの証言と信仰の教えがあり、洗礼と聖餐の聖礼典もありました。

 弟子たちがこの世を去った後に証言や教えの手紙がまとめられて新約聖書ができました。最初の弟子たちは、ひょっとしたらイエス様の代理人として自分たちの弟子に奇跡の業を行う権限を与えたかもしれません。しかし、その詳細はわかりません。いずれにしても、イエス様と直接の弟子たちがこの世からいなくなった後は、彼らに代わるものとして新約聖書と聖礼典が残りました。それで私は、異常な行動も含めた人間のいろんな問題の解決にあたっては、イエス様と最初の弟子たちに並ぶものとして聖書と聖礼典があるのだから、それらを用いることが大事だと考えます。聖書と聖礼典を用いることの重要性についてはまた後でお話しします。

3.出来事の歴史的信ぴょう性について

 それでは出来事の説き明かしに入りましょう。まず書かれてあることをもとに状況を詳しく把握しましょう。そうすると、この出来事が作り話でなく本当の出来事であることがわかってきます。

 これと同じ出来事は、マタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、起きた場所はルカとマルコではゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域です。聖書の後ろにある地図を見ると、ガダラはガリラヤ湖の南東、ゲラサはもっと南東の内陸部でとてもガリラヤ湖沿岸とは言えません。豚の群れが飛び込むような崖はガリラヤ湖の南側の距離的にはガダラの町に近い所にあります。ゲラサと書いたマルコとルカは間違えたのでしょうか?

 この問題は、福音書がいつ頃出来上がったかということを考えると解決します。4つの福音書は、どれも出来上がったのは早くて西暦70年というのが聖書学会の定説になっています。つまり、イエス様の活動時期から一世代二世代後のことです。イエス様が活動した時代は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していました。マタイ福音書が出来上がった頃はガダラに属していました。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「あの時あの崖はゲラサに属していたが」という意味です。マタイがガダラと言うのは「あの崖は今はガダラに属しているが」という意味です。いずれにしても同じ崖を意味しているのです。

 新共同訳では「ゲラサ人」、「ガダラ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民、ガダラという町の住民です。ゲラサ人、ガダラ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけて二つの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していたと考えられます。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族にとって汚れた動物である豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?それは本日の説教のテーマに関わる大事な問題です。これは後ほどわかります。

 さて三つの福音書の地名の相違の問題は解決しましたが、もう一つ大きな違いがあります。それはマルコとルカでは悪霊にとりつかれた男の人は一人なのに、マタイでは二人います。これはどういうことでしょうか?どっちかが間違っているのでしょうか?これは、先ほども申しましたように、福音書が書かれた時期がイエス様の昇天から一世代二世代後だったことが影響しています。マルコとルカは直接の目撃者ではないので、福音書を書く時はいろんな情報源から情報を得て書きました。そのことはルカ福音書1章ではっきり言われています。マタイ福音書は、言い伝えによると、12弟子の一人のマタイの記録が土台にありますが、それ以外にも他の情報源の情報も加えられています。もしゲラサの出来事がマタイ自身が目撃したことであれば、男の人は本当に二人だったことになります。もし別の情報源に由来するものであれば、その情報源が二人と言っていたことになります。マルコとルカの情報源は一人と言っていたことになります。どっちが正しいのでしょうか?

 一人か二人かの確定は難しいですが、それでも確実に言えることがあります。それは、出来事が言い伝えられていく過程で情報が分かれてしまい、男の人の数が情報経路Aでは一人、情報経路Bでは二人になってしまったということです。それでも大事なことは、大元には本当に起きた出来事があって、それが広範な地域に伝えられていく過程で違いが生じた、しかし、共通点があることが出来事の信ぴょう性を示しているということです。共通点とは、イエス様がガリラヤ湖の対岸に行って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って豚は崖に向かって突進して湖に落ちておぼれ死んでしまったということです。これらはマルコ、マタイ、ルカに共通してあります。これは、本当に起こったことが出発点にあって、それが言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりして異なってくるという、福音書の中でよく見られることです。イエス様の復活の出来事の記述はいい例です。

4.悪霊にとりつかれた男の人の背景

 今日は出来事の記述はルカのバージョンなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。ここで、この男の人はユダヤ人か異邦人かという問題を見てみます。豚の放牧の他にも、町の人たちの多数派が異邦人と考えられることがあります。それは、この奇跡を見て町の人たちはイエス様に退去するように言ったことです。ガリラヤ地方かユダヤ地方だったら、これだけの奇跡を見せられたら、預言者の到来だとか、果てはメシアの到来とか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言われたでしょう。ところが、町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているからだと恐れたのです。旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待を持っていないことを示しています。

 そこで問題の男の人も異邦人かというと、そうではないのです。異邦人が多数派を占める地域の中で少数派として暮らすユダヤ人と考えられます。どうしてかと言うと、イエス様はマタイ10章6節から明らかなように活動の焦点をイスラエルの民に置いていたからでした。それで、旧約聖書を受け継ぐ民を相手に天地創造の神とその意思について正確に教え、特に宗教エリートの誤りを正し、来るべき復活の日に到来する神の国について教えたのです。この神の国への迎え入れをユダヤ民族だけでなく全ての民族に及ぼすためにイエス様は十字架の死と死からの復活を遂げられました。しかし、これはまだ後のことです。エルサレムに入られる前のイエス様の活動はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。イエス様がローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたことは例外的なこととして描かれています。悪霊にとりつかれた男の人はそういう異邦人がどうのこうのという問題はなく、ストレートにイエス様の活動の対象になっているのでユダヤ人と言えます。

 悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えてくれるようお願いします。しかし、イエス様は自分の家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の者たちに、旧約聖書に預言されたことが実現し始めていることを伝えよという命令でした。やがて十字架と復活の出来事が伝わることになれば、やっぱりあのお方だった、旧約の預言は本当だった、と確信することが出来たでしょう。ところで男の人は家の者どころか、イエス様を拒否したゲラサ/ガダラの人々にも伝えたのです。これは、後々の福音伝道の良い下準備になりました。

5.聖書と聖礼典を用いると神の力が働く

 ここから聖書と聖礼典の用い方の話に入ります。男の人が癒されるプロセスを見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったと思われるかもしれませんが、それはあり得ません。なぜなら悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力ある方とわかっていて恐れているので、自分から進んで彼のもとに行こうとはしないからです。それなのに男の人が行ったというのはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方から、舟から岸に上がったイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明らかです。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどのようにしてイエス様の前に行くことができたのでしょうか?

 それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されても、イエス様に会うという意志があれば、悪霊はそれを妨げられない位の力がイエス様から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、誰かが、あれは今やガリラヤ全土で旧約聖書の預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と言ったのを聞いたかもしれません。または、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊の動揺を男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していくほど悪霊の動揺は大きくなり、悪霊は男の人が行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということかもしれません。いずれにしても明白なことは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊が嫌がることをする意志さえ持てれば、あとは邪魔されることはなく、あれよあれよとそのまま行けるということです。それ位、神の力が働くということです。

 さあ、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は地獄ではなくて放牧中の豚に入ることをお許し下さいとお願いする。どうして悪霊は豚に行きたいかと言うと、こういうことです。悪霊が人間にとりついても人間が助かろうとする意志を持てば、たとえそれがどんなに小さな意志でも、それがイエス様と結びついたら最後、悪霊はもう何もなしえない位の大きな意志になることが明らかになりました。悪霊としても、もう人間にとりついても無駄だ、イエス様が現れた以上は同じことの繰り返しになると観念したのでしょう。それで、豚ならばイエス様に結びつけるような意志は持たないだろう、とりついたらそのまま自己破壊にまっしぐらだろう、やりやすい相手だと思ったのでしょう。イエス様は悪霊に豚にとりつくことを許可しましたが、何が起こるかお見通しだったでしょう。案の定、豚は本当に自己破壊に突き進んでしまいました。悪霊はその道連れとなってしまいました。

 この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のように自己破壊の状態にあっても、そこから助かろうとする意志がどんなに小さくても一応あって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔されることなく行けるようになる位に神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば自分の外にある神の力が代わりに働いてくれて主のもとに行けます。私たちの場合は、たとえ悪霊追い出しの奇跡をするイエス様や弟子たちが目の前にいなくとも、聖書を繙けばイエス様が十字架と復活の業を成し遂げられたことが証言されています。そこに記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架で果たした私たち人間の罪の償いが私たちに効力を発して私たちは神から罪を赦された者と見なされ、天地創造の神と結びつきを持って生き始めます。しかも、私たちはイエス様の復活が切り開いた永遠の命に至る道に置かれて、それを神との結びつきを持って歩み始めます。それなので悪霊の方が、信仰と洗礼を持つ者に対してパニック状態になるのです。ちょうどイエス様の前で悪霊がパニック状態になっているのと同じです。

 悪霊がパニック状態に陥った後は何が起こるのか?場合によっては、ゲラサの男の人のように即、問題の解決が得られることもあります。即でない場合でも、神が良かれと考える仕方と時間で、良かれと考える人を送って解決を与えます。それは必ずしも、自分が望む仕方、時間、助け人でないこともあります。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神は必ず解決を与えて下さいます。

 最後に、洗礼を受けて罪の償いが効力を持ったと言っても、私たちが肉の体を持って生きる以上はまだ罪は内側に残っています。それで罪の自覚と赦しの願いと赦しの宣言は繰り返されます。実はこの繰り返しこそが、内なる罪をイエス様と共に圧し潰していくことになるのですが、それでも時として、自分は本当に罪から解放されているのだろうか疑ったり心配になったりします。しかし、だからと言って、受けた洗礼には意味がなかったとか、もう一度受ける必要があるなどという考えは無用です。それは洗礼の意味を見失う危険な考えです。本日の使徒書の日課ガラテア3章27節でパウロが言うように洗礼を受けてキリストに結ばれた者はキリストを衣のように着せられたのです。一度着せられたら自分で手放さない限り、神が着続けさせて下さいます。聖餐式はまさに洗礼で着せられた衣がちゃんと着せられたままであることを確認する儀式です。神に対しても自分に対しても確認します。また、詩篇23篇5節で言われるように、敵に対しても確認します。敵は聖餐を受ける者に対して手出しできず歯ぎしりするしかないのです。

 兄弟姉妹の皆さん、イエス様や弟子たちが私たちの目の前で悪霊の追い出しをしてくれなくても、私たちには聖書と聖礼典があります。それらを用いれば同じ力を受けていることがわかるはずです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

6月15日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」吉村博明 宣教師、ローマの信徒への手紙5章 1ー5節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 6月15日19時45分~

聖句 ローマの信徒への手紙5章 1ー5節
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブの報告

ドリームケーキ

6月のスオミ教会・家庭料理クラブは11日、どんよりした梅雨空の下での開催でした。今回は「ドリーム・ロールケーキ」Unelmakääretorttu を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。

「ドリーム・ロールケーキ」はケーキと中身が大事なので、まず参加者の方々をケーキを作るグルーブと中身を作るグルーブに分けます。

ケーキ・グルーブは、材料を計って卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てることから始めました。白い泡になってから粉類を中に加えると生地になります。それを鉄板に広げてオーブンに入れて焼き始めます。あっという間ケーキの焼き香りが広がり、ケーキは焼き上がりました。

中身・グループも、材料を計ったりバターなどをハンドミキサーで泡立てます。ふわふわの中身ができました。

ドリーム・ロールケーキ

それからケーキ作りに入ります。まず、冷ましたケーキの上に中身をのせて広げます。その上にホイップした生クリームをのせて広げます。その次は、いよいよケーキをロールします。ケーキが割れないように少しづつ注意しながらロールします。ロールし終わると、やった!の嬉しい声が上がりました。

最後はロールケーキの上にホイップした生クリームで飾り付けをして、その上にフルーツ、みかんとスライスしたキウィをのせてきれいな夢のような「ドリーム・ロールケーキ」が出来上がりました! ドリーム・ロールケーキ

今回の料理クラブは台所からハンドミキサーの音が多く聞こえてやかましかったでしたが、礼拝堂からはお子さんの遊ぶ声が聞こえてきて和やかな雰囲気になりました。

テーブルのセッティングをして皆さん席に着き、出来たての「ドリーム・ロールケーキ」をコーヒーと紅茶と味わって歓談の時を持ちました。この時、「ドリーム」夢や、聖書に出てくる将来の望みについてお話を聞きました。

スオミ教会のフィンランド家庭料理クラブはこれからしばらくお休みになります。秋また10月から再開の予定です。詳しい日時は、コロナ感染の状況を見ながら決めます。教会のホームページにお知らせしますので是非ご覧ください。暑い夏の季節はもうすぐです。皆さん、健康に注意してお過ごし下さい。

 

料理クラブのお話「ドリーム・ロールケーキ」2022年6月11日

ドリーム・ロールケーキ

今日皆さんと一緒に作った「ドリーム・ロールケーキ」はフィンランドのコーヒー・テーブルの人気者の一つです。このロールケーキはフィンランドで伝統的なもので多くの家庭で作られます。私の母も大好きでよく作りました。このロールケーキは材料はそれほど多くなくて作り方も難しくありません。それでも、普段のコーヒータイムだけでなく、お祝いのテーブルでも豪華なものとして出されます。今日つくったものは小麦粉を入れていませんので、グルテンフリーでアレルギーの人たちにも合います。

この「ドリーム・ロールケーキ」の味のポイントは中身です。伝統的な中身のクリームはバターで作られましたが、現在は少し軽くしてバターの他にヨーグルト、クリームチーズ、クリームなどを入れるようになりました。中身を変えることで普段の日のお菓子になったり、お祝いの時の出しものになったりします。ロールケーキの名前ですが、「ドリーム・ロールケーキ」はケーキと中身の組み合わせの美味しさから始まったかもしれません。また、ドリームはフィンランド語でウネルマと言いますが、ウネルマはフィンランドの女性の名前でもありますので、ウネルマという女性がこのロールケーキを作り初めた可能性もあります。名前の始まりについてははっきり分かりませんが、とにかく面白くて可愛い名前だと思います。このロールケーキを食べると、「ドリーム」、いろいろな夢を描けるかもしれません。

「ドリーム」夢は私たちが将来望んでいることや希望することです。夢は生活にインスピレーションを与えて生活の意味を深めます。逆にもし夢がなかったら生活はつまらなくなるかもしれません。若者は夢が沢山あって夢見ることは上手です。しかし、夢見るのは若者だけでしょうか?いいえ、夢見るのは本当は年令とは関係ないと思います。年配の方々にも夢があります。皆さん夢がありますか。どんなことについて夢見るでしょうか。

普通は夢と言ったら、進学する学校とか、どんな仕事に就きたいとか、どこに旅行したいとか、家庭を持ちたいとか将来に関することです。フィンランドの女性誌の記事によくある話ですが、私たち人間にとって自分の心によく聞いて持っている夢を実現することは大事なことだとよく言われます。しかし、私たちが持っている夢はいつも実現出来るとはかぎりません。実現するためにとても努力しても夢が叶わなくてがっかりすることもあります。

聖書にはそういう将来の夢について直接は書いてありませんが、将来の望みについてはたくさん書いてあります。旧約聖書の箴言には次の言葉があります。
「人の心には多くの計らいがある。主のみ旨のみが実現する」箴言19章21節です。
私たちがいろいろな夢を持つのは大事なことですが、それらが実現するかしないのかは私たちが決めることではありません。それは天と地と人間を造られた神様が私たちをどのように導いてくださるかによることです。もし私たちの持っている夢が神様の目から見て私たちに相応しくないとお考えになったら、夢は実現出来ないかもしれません。その場合は神様は何か違うことを考えて与えてくださいます。もし私たちの夢が実現したら、それは私たちの努力だけで実現したのではなく、神様の良い導きがあったからだと理解して感謝するのは大事です。

聖書には、神様はどのように一人の人間や一つの民全体を導いて下さるかについてたくさん書いてあります。一つの例は、イスラエルの民です。イスラエルの民は外国に攻められて捕虜になって遠い国に連れて行かれました。彼らの夢はまたいつか自分の故郷に帰りたいというものでした。神様は、イスラエルの民は必ず帰ることになると約束の言葉をたくさん述べられました。神様はイスラエルの民をどのように故郷に導いてくださるかということが、旧約聖書のイザヤ章とエレミヤ書にたくさん書いてあります。また、神様がかつてイスラエルの民をどのように導いてくださったかということも忘れないようにとたくさん書いてあります。
「我が主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方はもはや隠れておられることはなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から『これが行くべき道だ、ここを歩け右に行け、左に行け』と」
これは、イザヤ書30章20-21節のみ言葉です。イスラエルの民はいろんな試練を受けなければなりませんでしたが、神様の導きで最後は故郷に戻ることができました。

このイザヤのみ言葉は私たちにも向けられています。神様は私たちが持っている夢をよくご存じです。それがその通りに実現するかしないかは私たちには分かりません。私たちの生活の中にもイスラエルの民みたいにいろいろ災いや苦しみがあるかもしれません。しかし、それは神様が私たちを見捨てたということではありません。そのような時があっても天の神様は隠れておられることはなく、その時も導いてくださいます。だから私たちも夢を持つ時は、私たちを導かれる神様の声を聖書から聞いて従っていきましょう。

説教「神が三位一体であることと私たち」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書16章12-15節

主日礼拝説教 2022年6月12日(三位一体主日)
箴言8章1~4、22~31節、ローマ5章1~5節、ヨハネ16章12-15節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

聖霊降臨後の最初の主日である本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天地創造の神を三位一体の神として崇拝します。先週は聖霊降臨祭で聖霊を覚える主日でした。それで父、御子、聖霊が出揃ったということで今日の礼拝は三位一体を覚えるのにちょうど良い日です。

三位一体とは一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているということです。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神です。今日は、本日与えられた聖書の日課に基づいて三位一体に迫ってみましょう。

ところで宗教学では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という世界三大一神教には類似性があるとよく言われます。ユダヤ教は旧約聖書を用いるし、イスラム教は新約聖書と旧約聖書を全く独自の仕方で用います。しかしながら、三つの一神教が同じ種に属するという話は神学的に無理があります。なぜなら、キリスト教では神は三位一体で、ユダヤ教とイスラム教はそうではないからです。共通の聖典を持っているとは言え、三位一体があるために、キリスト教は他と分け隔てられるのです。それなので、共通の聖典などない他の宗教とキリスト教の間なら、類似性を論じる可能性はもっとなくなります。

キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどに分かれていますが、分かれていても共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体とします。共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。分かれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があります。また、分かれた教会が一致を目指す時の土台にもなります。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。

2.三位一体は旧約からある

ところで、神が三位一体というのは、キリスト教が誕生した後で作られた考えだという見方があります。その見方は正しくありません。三つの人格を持ちながらも一人の神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。

その例として本日の旧約の日課、箴言の8章は重要です。その22ー31節を見ると、神の「知恵」は人格を持つ方であることがわかります。まず「知恵」は自分のことを「わたし」と言って語ります。さらに、「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言います。30節を見ると、「わたしは巧みな者」と言っていますが、ヘブライ語のאמוןという言葉は「職人」を意味します。「知恵」が父と一緒に創造の作業を行っていたことを示唆する言葉です。それで、箴言のこの個所を読んだ方は、あれっ、イエス様のことを言っているみたいだ、と思うでしょう。コロサイ1章15節を見ると、御子は全ての被造物に先立ってあった、そして天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも造られた、と言っています。また、ヨハネ福音書1章ではイエス様のことを神の言葉、ギリシャ語でロゴスと言っており、それは天地創造の前から存在して、やはり天地創造に関与していたことが言われています。そうなると、神の「知恵」は後に「イエス」の名を付けられる神のひとり子と同一ではないかと思われます。

もちろん、神の「知恵」と神のひとり子を一緒にするのはどうかと思われる人もいるかもしれません。その理由として、二ケア信条では神のひとり子は「造られたのではない」と言っているのに、「知恵」の方はは「造られた」(22節)と言っているからです。これはヘブライ語をよく見ないといけません。「知恵」が造られたと言う時の「造られた」はקנהという言葉です。ところが、神が天地創造を行って被造物を造った時の言葉はבראと違います。日本語では両方葉を「造られた」と訳してしまって一緒くたになってしまいました。ヘブライ語ではそうならないように区別して違う言葉を用いているのです。それで、「知恵」は被造物のように造られたものではないのです。

これと同じことが「生まれる」という言葉についても言えます。二ケア信条では、神のひとり子は造られたのではなく「生まれた」と言っています。神の知恵も箴言8章24節と25節で「生み出された」と言います。この箴言の「生み出される」はヘブライ語でקדהです。ところが普通、母親が子供を産む時にはילדという言葉を使います。このように違う言葉を使うことで「知恵」が「生み出される」ことは被造物の生殖作用と異なる生じ方であることを意味しているのです。

このように天地創造の前から存在していた「知恵」とひとり子は重なってきます。イエス様自身、自分はソロモン王の知恵より優れた知恵であると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると意味したのです。

箴言の「知恵」がひとり子にもっと同一性を持つことがあります。30節と31節です。新共同訳では「楽を奏し」などと訳していて、まるで神の知恵が音楽の才能を持つかのように言われていますが、この訳は良くありません。良い訳は次の通りです。

「私は造り主のもとで職人であった。― つまり、創造に関与した。― 私はそこで世々限りなく喜びを体現する者、造り主のみ前で笑いや楽しみを振りまき、造られた大地を楽しみとした。私は地上の人々に親切にするだろう。」これなら、神の知恵は神のひとり子にぐっと近づくでしょう。

ここで、どうして新共同訳で神の知恵が楽器を演奏するなどと言っていることについてひと言述べておきます。問題となっているヘブライ語の言葉שחקは、「幸せである」とか「楽しませる」と言う意味を持ちます。それがもっと特定化されて「ダンスをする、楽器を演奏する」という意味も持ちます。新共同訳はそっちを取ったので神の知恵はなんだかダンス・バンドのようになってしまいました。他にも注釈すべきことがありますが、ここでは深入りしません。

いずれにしても、神の知恵は造り主の許で職人であった、そこで代々限りなく喜びを体現する者で、造り主のみ前で笑いや楽しみを振りまき、造られた大地を楽しみとしていた。そして、いつの日か、地上の人々に親切にする日が来ると言うのです。こうなると神の知恵は神のひとり子のイエス様に限りなく近づきます。

旧約聖書のヘブライ語原文の中には、単語の意味と文法からみて神のひとり子・イエス様のことを言っていると思われるものが沢山あります。しかし、翻訳や解釈をする人は必ずしもそう訳するとは限りません。その理由は、イエス・キリストは旧約聖書の書物が生まれる何百年前以上の人なので、旧約聖書を記した人たちはまだ知っているはずがない。彼らが書いたものは彼らの歴史的文脈の中で理解すべきで、後世の事柄を解釈や翻訳にむやみに持ち込まないという態度なのです。私は、もちろん単語の意味や文法的に無理なら当然しませんが、可能であればなるべくするようにします。宗教改革のルターも、イエス・キリストは旧約聖書に見出すことができるし、そうすべきだと言っています。

旧約聖書にイエス・キリストを見出さないようにする聖書の解釈・翻訳の例としてスウェーデンのルター派教会が2000年に公式採用した聖書があげられます。そのイザヤ7章のインマヌエル預言を見ると、「処女がみごもって男児を産む」はなくなり、「若い女性がみごもって男児を産む」になりました。処女受胎が消えたのです。また、三位一体の関係で言えば、創世記の最初で「神の霊が水の表を動いていた」がなくなって「神の風が水の表を吹いていた」になりました。聖霊が天地創造の前に存在していたことが消えたのです。このような聖書を読んで育ったら、どんなキリスト信仰が生まれるでしょうか?

話がわき道にそれましたが、神の知恵が神のひとり子・イエス様と同一であるとすると、今度は次のような疑問が起こります。ヨハネは福音書の冒頭でイエス様のことを「言(ことば)」ロゴスと呼んでいるぞ、「知恵」ではないぞ、なぜ「はじめに知恵ありき」ではなくて「はじめに言ありき」なのか?

もっともな質問です。そこで、もし私がヨハネだったら次のように考えたでしょう。イエス様は本当に神のひとり子で天地創造の前から存在し、父なるみ神と一緒に天地創造に携わった方だ、まさに箴言の「知恵」と同じ方だ。この方をギリシャ語文明の人たちにどう言ったらよいのだろう?ヘブライ語で知恵はホクマーだ。ギリシャ語では普通ソフィアと訳されている。イエス様をソフィアと呼んでギリシャ語圏の人たちは我々と同じようにイエス様のことを理解してくれるだろうか?ソフィアは女性名詞だし、仮にイエス様をそう呼んでみたら、なんだか哲学者みたいにならないだろうか?旧約聖書に出てくる「知恵」は人間の知恵や理性を超える神の知恵だ。困ったなぁ。そうだ!ギリシャ語には人間の知恵や理性を超えたもっと偉大なものを意味する言葉があった。ロゴスだ!しかも、ロゴスには「言葉」という意味もあるぞ。神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を造り上げていった。それで、イエス様を神の「言葉」ロゴスと呼べば、神の創造の業に関わったこともはっきりするぞ。よし、決めた。イエス様をロゴスと呼ぶことにしよう!

このように、神のひとり子をロゴスと呼ぶことは、神の壮大で深遠な「知恵」と神の力ある「言葉」の両方を意味するのにぴったりだったのです。

ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」であるひとり子だけではありませんでした。創世記1章2節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています(スウェーデン語の聖書では神の風になってしまいましたが)。創世記1章26節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。

3.「どのようにして三位一体なのか」ではなく「なぜ三位一体なのか」

そうは言っても、三位一体はわかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?頭で理解しようとすると、三つの人格がどのようにして一人になるのかということに頭を使ってしまい、これは行き詰ります。それならば、なぜ神は三つの人格を備えた一人の神でなければならないのか?これを考えると、聖書はこの「なぜ」の問いには答えを出していることがわかります。神が三位一体であるというのは、私たちに愛と恵みを注ぐために神はそうでなければならない、三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらいに神は三位一体でなければならないのです。以下、そのことを見てまいりましょう。

まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪の時にできてしまいました。神に造られた最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになって死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロがローマ5章で明らかにしているように、死ぬということは人間は誰でも罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのです。人間は神との結びつきを失って、結びつきのないままこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去って神のみもとに戻ることが出来なくなってしまいました。

しかし神は、私たちが神との結びつきを回復してこの世の人生を歩めるようにすべく、そして、この世を去った後は復活の日に復活を遂げて永遠に自分のもとに迎え入れてあげようと、神は溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされました。その救いの手がイエス様でした。本日の福音書の箇所の中でイエス様は弟子たちにこう言いました。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「理解できない」と。ギリシャ語の言葉βασταζωは「背負いきれない」、「耐えられない」という意味です。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を神から切り離している罪と死から救い出すために、イエス様がこれから十字架刑にかけられて死ぬということです。このことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。

しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それを受け入れることができるようになりました。まず、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死ななければならなかったのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲だったということがわかりました。さらに、イエス様の復活によって私たち人間に永遠の命に至る道が切り開かれた、そこで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその道に置かれれ、神との結びつきを持てて神に見守られ導かれてその道を歩めるようになりました。弟子たちは、以上のことを真理として受け入れることができるようになったのです。それができるようになったのは聖霊が働いたためです。それらのことは人間の理解力、理性では理解できないことです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。

ところが、聖霊の働きは真理を理解させることだけに留まりません。13節のイエス様の言葉は理解した後のことも言っています。新共同訳の訳は少し狭すぎます。その文は次のように訳すべきです。「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「聖霊はあななたちを真理全体の中に留まれるように導いてくれる」とか「聖霊はあななたちを真理全体へ導いてくれる」です。聖霊は真理をわからせてくれるだけでなく、私たちが真理にしっかり留まって生きられるように助けてくれるのです。これは、すごいことですが、どうやってそんなことが出来るでしょうか?

私たちは洗礼を受けてイエス様を救い主と信じていても、私たちにはいつも罪の自覚があります。神の意思に反しようとするものが自分の内にあることにいつも気づかされます。それで、神と自分との関係は大丈夫なのだろうかと心配になったり悲しくなったりします。しかし、聖霊はすかさず私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、あそこに打ち立てられた罪の赦しは今も打ち立てられたままであることを示して下さいます。私たちは安心して、この永遠の命に向かう道を進むことができます。

また私たちは、罪と直接関係がないことでも、困難や試練に遭遇し不運に見舞われます。その時、神との関係を疑ってしまいます。神はこんなことが起きないようにしてくれなかった、神は私を見捨てたのだなどと思ってしまいます。そのような時にも聖霊は聖書の御言葉をてこにして私たちの心の目と耳を開いて本当のことを示してくれます。本当のこととは、神との関係、結びつきは試練や困難な時にも平時同様、何等変更はないということです。それがわかると、試練や困難は私たちを打ちのめすものでなくなります。それらは私たちが神と一緒に通過するプロセスに変わります。一人で通過するのではなく、神と一緒にです。その時、詩篇23篇のみ言葉「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を恐れじ。汝、我とともにいませばなり」、これが真理になります。

このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に至る道を歩めるように守り導いて下さり、復活の日に私たちを御自分のもとに迎え入れて下さいます。これは全て神の愛から出てくることです。この神の愛は三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。

まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪を持つようになってしまったために、ひとり子を贈って私たち人間を罪と死の支配から引っこ抜いて下さり、みもとに迎え入れられる地点へと続く道に置いて下さいました。こうして、私たちは神との結びつきを持ってこの道を進むこととなりました。人生の中で道を踏み外しそうになると聖霊から指導を受けられるようになりました。

ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて、神の意思に沿うようにと心を常に神に向けたまま生きられるようにして、この世だけでなく次に到来する世にまたがって生きられるようにすることです。三位一体のすごさは、私たちにあるべき姿を示すだけでなく、そうなれるようにする力そのものであることです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

6月8日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章12節ー14節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 6月8日19時45分~

聖句 ヨハネによる福音書14章12節ー14節
「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

ピアノと歌 ミルヤム・ハルユ宣教師
ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスク宣教師

 

説教「聖霊を受けた者がなすべきこと」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章8-17、25-27節

主日礼拝説教 2022年6月5日 聖霊降臨祭
使徒言行録2章1-21節、ローマ8章14-17節、ヨハネ14章8-17、25-27節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の想像を絶する力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の今日、イエス様が約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちはこの信仰を携えて復活の日を目指してこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 本日の説教は三つのテーマについてお話しようと思います。使徒言行録が伝える聖霊降臨の出来事をよくみると、私たちはイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生れます。最初にそれを見ていきます。二番目のテーマは聖霊とは何者かについて、イエス様が本日の福音書の日課の中で「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいます。それはどういう意味か明らかにします。毎年教えていることのおさらいですが、これがわかると私たちは神に対して感謝の気持ちに満たされます。三番目は、そのような聖霊を受けた者のなすべきことが同じ福音書の日課で言われているので、それを見ていきます。聖霊は自分の考えに基づいて信仰者一人ひとりに様々な賜物を与えます。それで、なすべきことは人それぞれ違ってくるかもしれませんが、みんなに共通してなすべきことが日課で言われています。それは、イエス様を愛して彼の掟を守ること、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。

2.聖霊降臨とイエス様の再臨を待つ者であるとの自覚

 まず、聖霊降臨の出来事からイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生まれることについて。聖霊降臨が起きた時、駆け付けた群衆は、イエス様の弟子たちが神の偉大な業についてなんと自分たちの言葉で語っているのを聞いてびっくり仰天します。当時のエルサレムは、地中海地域と現在の中近東の地域から大勢のユダヤ人が集まる国際的な都市でした。弟子たちはそれぞれの民族の言葉で話をし出したのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。

 弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったでしょうか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。もう一つ神の偉大な業として考えられるのはバビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、人知を超える神の歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還を果たしたという出来事です。さらに、神が私たち人間を含め万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も神の偉大な業に付け加えてよいでしょう。

 ところが弟子たちが語った「神の偉大な業」には、以上のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃して、その証言者となったイエス様のことでした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の想像を絶する力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これも、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうしてユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。

 そこでペトロは群衆に向かってこの不思議な現象を説明します。ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(2章14ー21節)では、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の成就であると説き明かします。後半部分では、イエス様の出来事そのものについて説き明かします(22ー40節)。本日の日課は前半までです。実は後半部分が群衆の神への立ち返りをもたらす決定打になっています。しかし、今日はそこには立ち入らずに前半部分だけを見ます。

ペトロは、この不思議な現象はヨエル書3章1ー5節で預言されている神の霊の降臨であるとわかりました。このように、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったのです。ところでペテロは、ヨエル書を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言います。「終わりの時に」はギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヨエル書のヘブライ語原文では「終わりの日々」とは言っておらず、「その後で」と言っています。これはペトロが改ざんしたのではなく、旧約聖書のギリシャ語訳が「終わりの日々に」と訳したことに倣ったのです。翻訳した人たちは原文の意味を終末論の観点で確定したのです。ペトロはそれに倣ったのでした。

それでは「終わりの日々」とはどんな日々か?イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になりました。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が終わって新しく創造され直す天地大変動の時です。その時そこに唯一の国として神の国が現れて、誰がそこに迎え入れられるか最後の審判が行われます。そのため、イエス様の再臨を待つ日々は終わりに向かう日々で「終わりの日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちましたが3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。

19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われています。これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。初めは、神の掟を破り続けたイスラエルの民が罰として外国の軍隊に攻められるという神の怒りの日と考えられていました。バビロン捕囚の後の時代には、この世が終わり天地の大変動が起きて神の罰が下される日という具合に終末論的に理解されるようになりました。イエス様の十字架と復活の出来事の後は、さらに彼の再臨が「主の日」に加わりました。

21節を見ると、そういう天地の大変動の時に無事に神の国に迎え入れられるのはイエス様の名により頼む者たちであると言われています。ペトロの説明の後半は、群衆に主の再臨に備えてそういう者になりなさいと導く内容です。

こうして聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。この宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。共に主の名により頼み、共に主の再臨を待つ群れが誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

3.弁護者、真理の霊

 次に、聖霊とは何者か?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて話します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。お前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、再臨の日までお前たちがこの世で孤児になることはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊とは、何が真理でそれが私たちにどう関係するのか?これらのことは以前もお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。

 聖霊は私たちを何に対して弁護してくれるのか?私たちを告発する者に対してです。何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟に照らされて、外側も内側も神の意思に沿えない者であることが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。悪魔のそもそもの目的は人間と神の間を引き裂くことです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けてしまったりすれば、それはもう悪魔にとって万々歳なことになります。

 人を落胆させたり神に背を向けさせてしまうものは、罪の他にもあります。私たちがこの世で遭遇する不幸や苦難です。神が私にこんな仕打ちをされるということは、私に何か至らないことがあるということなのか?自分に原因があると思って絶望してしまったり、あるいは、私の何が悪くてこんな仕打ちを!と神に原因を見て失望してしまったりします。これも悪魔の目指すところです。

私たちがどんな状況にあっても神の愛を疑わず信じ神のもとから離れず留まることが出来るように助けてくれるのが聖霊です。聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架で死なれたことで自分の罪を償って下さったとわかっています。それで、イエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いているのです。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。聖霊はすかさず私たちの方を向いて次のように促してくれます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています。」キリスト信仰者には洗礼を通してこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さいます。その時、私たちは本当にこれからは神の意思に沿うように生きていかねばという心を強くするでしょう。

 不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と天地創造の神との結びつきは失われていないとわかります。神との結びつきがあるからには神の守りと導きもあるとわかります。あの方は十字架の上で犠牲になられたが、神の想像を絶する力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足下に踏み潰しておられる。そのような方と私は洗礼によって結び付けられている。そういうふうにわかると不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていた不幸や苦難が、今度は逆に、存在して見捨てることをしない神と一緒にくぐり抜けるためのプロセスに変わります。真に詩篇23篇4節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。波風たける時も一緒に歩んで下さる神に心が向くようになります。

次に聖霊が「真理の霊」とはどういうことか?キリスト信仰の観点では人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ないということです。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2000年前に現在イスラエル国がある地域のナザレ出身のイエスは旧約聖書と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史上の人物理解に留まります。

 ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活した、これで彼が神のひとり子であることが旧約聖書の預言から通して明らかになります。では、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪の償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの次に到来する新しい世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を与えられて神の国に迎え入れて下さる。それが実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊は私たちがこの真理をわかり、それを持ってこの世を生きられるように働くのです。

人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、聖霊が働くからです。この聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間を聖霊の働きの中に閉じるのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、聖霊の働きにすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないぞ、とか、救い主は沢山いるぞ、イエスはそのうちの一人にすぎない、とか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは耳に届かなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持っているので、霊的に安全地帯にいることになります。

4.聖霊を受けた者がなすべきこと

 さて、洗礼を通して聖霊を常駐させることになったキリスト信仰者に共通してある、なすべきことを見ていきましょう。まず、イエス様を愛して彼の掟を守ることです。ヨハネ14章15節でイエス様は言われます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をまもる。」私たちがイエス様の掟を守ることは、彼を愛することの当然の帰結として出てくるということです。ここで言われていることは、掟を守れ、掟を与えた者を愛せ、ということではありません。イエス様を愛するならば掟を守るのが当たり前になるということです。宗教改革のルターはまさにこの箇所について、「いかにしたらそのようなイエス様を愛する愛が持てるようになるか?」と問い、次のように答えます。それは、「人間の心は惨めなので、何か外部から来る素晴らしいものを味わうことがないと、人間は愛することができない。」それでは、外部からくる素晴らしいものとは何でしょうか?

 それがわかるためには、キリスト信仰者はどうしてイエス様を自分の救い主として信じるようになったかを振り返ればよいでしょう。

 イエス様が私たちの救い主となったのは、言うまでもなく、彼のおかげで私たちが天地創造の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになったからです。神との結びつきをもってこの世の人生を歩めるようになると、順境の時にも逆境の時にも何ら変わらぬ神の導きと守りを得られるようになり、この世から別れても復活の日に復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられるようになりました。これが外部からくる素晴らしいものです。これがあるからイエス様を愛することができ、神を全身全霊で愛することができ、隣人を自分を愛するがごとく愛することができるのです。

 次のなすべきことは、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言います。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を癒した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?

弟子たちがイエス様の業を行うと言うのは、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に向かう道を歩める可能性を開いて下さいました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものにすることができるようにしました。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにするという点では同じ業を行っているのです。

さらに弟子たちの場合は、活動範囲がイエス様よりも急速に広がりました。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、弟子たちの場合は遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。その意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うようになったと言えるのです。弟子たちの活動はイエス様が天に上げられた後で本格化します。イエス様は自分が天の父のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束していました(ヨハネ14ー16章)。聖霊は福音が宣べ伝えられる場所ならどこででも働き、福音を聞く人を神のもとに導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られて弟子たちが福音を伝道して群れがどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、私の名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。神との結びつきを持てて永遠の命に至る道を進む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは「この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように」ということに行きつきます。同時に、まだ結びつきを持てておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない人たちについては、「その歩みが始まりますよう」にという願いになります。イエス様がその通りにしてあげると約束されたのですから、たとえ何年何十年かかってもそれを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者のなすべきことです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

6月1日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」吉村博明 宣教師、フィリピの信徒への手紙1章27節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 6月1日19時45分~

聖句 フィリピの信徒への手紙1章27節
「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」

ピアノと歌 ミルヤム・ハルユ宣教師
ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスク宣教師

 

手芸クラブの報告2022年5月25日

5月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨の近づきを感じさせる雨多い週でしたが、ちょうどその日は太陽が輝くすがすがしい日になりました。

今回は先月に続いてコースターを編みました。前回同様に初めにコースターのいろいろなモデルを見て自分の作りたい編み型を選びます。少しチャレンジを増やして先月と違ったモデルを選ばれた方もいらっしゃれば、その日初めて来られて少し簡単なモデルを選ばれた方もいらっしゃいました。各自、モデルに従って編み続けていきます。皆さん異なるモデルだったので、それを見るのも楽しかったです。おしゃべりをしながら楽しく編み続けていくと時間が経つのも忘れてしまいます。

大体の方は出来上がったので、コーヒータイムの時を持ちました。今回も手芸クラブと同じ時間帯に「チャーチ・カフェ」を開きました。壁掛けのモニターに映し出されるフィンランドの景色を眺め、讃美歌に耳を傾けながら、ムーミンマグカップのコーヒーとフィンランド風菓子パン”プッラ”が味わえるひと時です。コーヒータイムの時に旧約聖書の詩篇121篇の天の神様の守りについてお話を聞きました。

次回の手芸クラブは6月22日に予定しています。

 

手芸クラブのお話2022年5月25日

今回の手芸クラブでは先月に続いてコースターを編みました。かぎ針で編むコースターは簡単に早く作れて、可愛いものが出来上がりますので、テーブルの飾り物にもなります。レストランや喫茶店などのコースターはカートンかプラスチックの安いものが多いです。それにはよく会社の広告がのって客さんが持って帰っても大丈夫なものです。それである人たちはコースターを趣味として集めます。コースターはカートン、プラスチック、木、コルク、布などいろんな材料で作られます。コースターはただの飾り物ではありません。コップの下に置くことにはちゃんとした意味があります。テーブルに冷たいか暑い飲み物のコップをそのまま置くと、しばらくするとコップの染みがテーブルに残ります。コースターはテーブルに染みが残らないようにしてテーブルを守るのです。

同じように私たちの身近にあって、普段はあまり気がつきませんが私たちを守る物がいろいろあります。傘はその一つでしょう。もうすぐ雨の日が多い梅雨の季節に入ります。私たちは塗れないように傘を持って出かけます。傘は大事な守りものです。傘がなかったら体は塗れてしまって簡単に風邪をひいてしまします。

私たちの身近にあって私たちを守る物はいろいろありますが、物だけではありません。子供を守る一番身近な存在は親です。しかし、私たち人間には知恵と力に限りがあります。親も人間です。私たちは全てのことは出来ません。

ところが聖書は、私たちを守ってくださる、私たち人間よりもっと知恵や力がある方について教えます。それは天と地と人間を造られた神さまです。旧約聖書の詩篇には神様の守りについてたくさん書いてあります。「主があなたを助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。主はあなたを守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」詩篇121篇の3節と5節です。

私たちは生活の中で問題がなく全てがうまく行く時、私たちは神さまのことなど簡単に忘れてしまいます。私たちは「神様はいなくてもうまく生活出来る」という態度です。しかしこれは私たちが命と人生のことを深く知らないからそう考えてしまうのです。全てがうまく行っているようでも、それは一時的なことでいつかは試練が起こります。その時のためにいつも心がしっかりしていることが必要です。どうしたらしっかりした心を持てるでしょうか?それは今言った詩篇のみ言葉、天の神さまは私たちが試練にあっても私たちから離れることはなく、眠ることなく働かれ私たちを守ってくださる方だと、神さまを信頼することです。「主はあなたを覆う陰」と言うので、神さまが私たちと一緒にいることは見ることが出来ないし感じることも出来ません。しかし、聖書に書いてあるから本当のことなのです。聖書には神さまがひとり子のイエス様を私たちに送って、イエス様は私たちのために十字架にかかり死から復活したことも書いてあります。これは本当に起こったことなので、私たちは神さまを信頼することができるのです。

皆さんも、このように神さまの守りを信頼することが出来るでしょうか?

説教「イエス様の昇天とキリスト信仰者の大いなる人生観」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書24章44-53節

主日礼拝説教 2021年5月29日 昇天主日
聖書日課 使徒言行録1章1-11節、エフェソ1章15-23節、ルカ24章44-53節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

 イエス様は天地創造の神の想像を絶する力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で弟子たちの目の前で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。今日は昇天日の直近の主日で「昇天後主日」とも呼ばれます。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天のみ神のもとから送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日がそれを記念する日です。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

 イエス様の昇天はとても奇想天外な出来事です。日本語で「天国に行った」と言うと、普通は「死んでしまった」と理解します。しかし、イエス様は生きたまま天に上げられたのです。もちろん、一度十字架の上で死なれました。しかし、神の想像を絶する力で復活させられたので通常の肉の体ではない復活の体を持っていました。それで、死んだのではなく生きた状態で上げられたのです。全く不可解な出来事です。

 イエス様の昇天は天国についていろいろ考えさる出来事です。天に上げられたイエス様は今、天の父なるみ神の右に座していて、かの日にはそこから来て生きている人と死んだ人とを裁かれます、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週唱えられます。私たちもこの説教の後で唱えます。果たしてそんな天の国が存在するのか?近年ではキリスト教会の牧師の中にも、天国などないと言う人もいます。ジョン・レノンの歌みたいです。また、ある神学校では先生が学生に復活などないと教えるところもあると聞いたことがあります。そのような人たちは聖書に書いてある天国とか神の国、復活をどう考えているのでしょうか?おそらく、そういうものは人間の心の中、頭の中に存在するもので、人間の外側に形を持って存在するものではないと考えているのではないかと思います。彼らからすれば、天国や神の国や復活が存在すると言う人は時代遅れで暗黒の中世の思考レベルと言われてしまうかもしれません。しかし、聖書はそういうものはまさに人間の外側に実質的に存在し、いつの日か必ず目の前に現れるとはっきり言っています。本説教でもそれに則って話をします。まず、天国が実質的に存在することを言葉で言い表してみます。天国が実質的に存在すると納得できると今度は天地創造の神が私たち人間にわかってきます。以下、そうしたことを見ていきます。

2.天国、神の国は実質的に存在し死者の復活は実質的に起こる

 天国が人間の心や頭の存在ではなく実質的に存在するということについて。まず、私たちの上空にそのような国が本当にあるのか?地球を大気圏が取り巻いていることは誰でも知っています。大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くとオゾン層がある成層圏、その上に中間圏等々いろんな圏があって、それから先は大気圏外、つまり宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、これまで天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天国とか神の国は恐らく見つからないのではと思います。

 どうしてかと言うと、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは「信仰」というものと全く別世界のことだからです。成層圏とか大気圏というものは人間の目や耳や手足を使って確認できたり、長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し把握し終えていません。果たして確認・把握し終えることができるでしょうか?

 信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には人間の目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の国もこの確認や計測ができる世界ではない、もう一つの世界のものです。現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点では天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたことになります。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。その場合、天地と人間を造った創造主は存在しなくなります。そうなれば自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の計測可能な化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もありません。死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった人が心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心理作用という言い方になっていくでしょう。

 ところがキリスト信仰者は、自分自身も他の人間もその他のものもみな現実世界とそこにあるものは全て現実世界の外側におられる創造主に造られたと考えます。それなので、人間の命と人生はこの現実の世界の中だけにとどまらないと考えます。聖書には終末論と新創造論と死者の復活があります。それで、今のこの世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時に神の国が唯一の国として現れて、そこに迎え入れられると命と人生が永遠に続くと考えます。このように、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがっているというとてつもない人生観を持っています。

 日本では普通、この世の人生が終わると、その次は天国にしろ極楽浄土にしろ、別のところに移動すると考えられます。死んですぐそこに到達すると考える人もいれば、33年くらいかかると言う人もいます。どっちにしても、あの世とこの世は同時に存在しています。それなので、この世から去った人があの世からこっちを見ているというイメージがもたれます。

 ところがキリスト信仰では事情が全く異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰には終末論と新創造論と死者の復活があります。今の世が終わって新しい天地が再創造される、今はこの世の反対側にある神の国がその時に唯一の国として現れる。黙示録21章では「下って来る」と言われます。そのため、今の世と次に到来する世は同時並行ではありません。次の世が到来したら今の世はなくなっているのです。それじゃ、到来する前にこの世から死んでしまったらその時までどこで何をしているのかと聞かれます。キリスト信仰の死者の復活から答えが見つかります。前もって亡くなった人たちは復活の日の目覚めの時まで神のみぞ知るところで静かに眠っているのです。ただ、聖書をよく見ると、復活の日を待たずして天のみ神のもとに上げられた人たちもいます。しかし、それは例外的で基本は復活の日まで眠ることです。イエス様もパウロも死んだ人のことを「眠っている」と言っていました。

3.キリスト信仰者の大いなる人生観と神の意図

 このようにキリスト信仰では人生を、この世の人生と次に到来する世での人生を二つ合わせたものとして考えます。実にキリスト信仰者の人生観は二つの世にまたがる大いなる人生観です。この人生観を持てると、天地創造の神がどうてひとり子を私たちに贈って下さったのかがわかってきます。それは私たちの人生から次の到来の部が抜け落ちてしまわないようにするためだったのです。つまり、人間がこの世の人生と次に到来する世での人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

 それでは、ひとり子を贈ることで人間がどうやってそのような大いなる人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てなくなってしまっている。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまい、人間はそれを代々受け継ぐようになってしまったからです。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまいました。そこで神は、失われてしまった神と人間の結びつきを復興させるために人間の罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。

 どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間が持つ罪を全部イエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせたのです。つまり罪の償いを人間に代わって果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で死から復活させました。これで死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ります。罪を償ってもらったので神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ天の神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ててその道を進んでいきます。この世を去った後は復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。

 このようにして人間はイエス様の十字架と復活の業のおかげと、それをそのまま受け取る洗礼と信仰のおかげで、この世の人生と天の御国の人生を合わせた大いなる人生を生きられるようになったのです。

4.キリスト信仰者に対する神の責任

 このように、天国、神の国、復活というのは実質的にあると捉えることができると、なぜ天地創造の神はひとり子を私たち人間に贈られたかがわかるのです。それは、私たちがこの世の人生と天の御国の人生を合わせた大いなる人生を生きられるようにするためだったのです。しかも、神は私たちを大いなる人生の道に置いて下さっただけではありません。その道をしっかり歩めて最後には復活を遂げて天の御国に迎え入れられるように世話を焼いて下さることもするのです。そのことも見ておきたく思います。神は私たちをスタートラインに立たせて、はい、あとはがんばってね、だったのではありません。私たちがゴールに到達できるのがさも自分の責任であるかのように私たちをいろいろ支援して下さるのです。そのことが本日の使徒書の日課エフェソ1章からも明らかになります。それを少し見ていきましょう。

 19節から21節を見ると、一度死んだ人間を復活させるということと、その者を天のみ神の御許に引き上げるということ、このことがまずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーを要するということが言われています。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違う言葉で言います(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。私たちの新共同訳聖書では「力」という言葉は2回しか出て来ません。もう一つはどこに消えてしまったのでしょうか?エネルギーという言葉も2回あり(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)もあります。このようにパウロはこの神の想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようと頑張っているのです。日本語訳はそれが見えにくくなって残念です。とにかく死者に復活の体を纏わせて復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方だということが言われています。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというのです。

 ところがそれだけにとどまりません。ここからが大事なポイントです。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです(19節)。つまり、キリスト信仰者も将来、かつてのイエス様と同じように神の莫大な力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それを自分にも及ぼして下さる、それがわかれば、復活を目指す旅路は安心して進むことができます。

 22節と23節を見ると、パウロは教会のことを「キリストの体」と言います。ここで言われる「教会」とは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に向かう道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。それが「キリストの体」です。

 そこで、その体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる、目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると、キリストの体の部分部分である私たち信仰者もキリストの一部分としてこの世の権力や霊的な力を足蹴にしている者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている私たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまいます。イエス様が人間を罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまず神の意思に沿うことも力不足で出来ず、死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝るイエス様に繋がっている信仰者なのにどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世の中にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世とは、人間がこの世の人生で終わるようにしてやろうという力が働いているところです。大いなる人生なんて無理だよ、と。それで、人間が父なるみ神に目と心を向けないようにしてやろうとか、そのようにして人間が神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いています。これらは既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらは将来イエス様が再臨される日に全て消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の莫大な力が今度は私たち信仰者にも働くのです。その結果、イエス・キリストの体は全部が天の御国の中に置かれることになります。聖書のあちこちに預言されているように、その時は新しい天と地が創造されるので、この世自体がなくなってしまうからです。

 そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実の中で生きていくことになります。一方では全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられるという現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ16章33節で次のように言われたのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 もちろん、いくら守られているとは言っても、攻めたてられたらそんな気はしません。しかし、私たちが部分として繋がっているこの体は神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているのです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。そこで私たちとしては、聖餐式で霊的な栄養を受けながら、また説教を通して神の御言葉の力を及ぼされながら、神がイエス様を用いて打ち立てて下さった罪の赦しを自分にとって確かなものにしていきましょう。

5.罪の赦しと神の意思に沿う生き方

 最後に、神の意思に沿うように生きる力はどこから得られるかについてひと言述べておきます。私たちは罪を自覚し、それを神のみ前で告白して赦しの宣言を受ける、これを繰り返すことで罪の赦しを自分にとって確かなものにしていきます。しかしながら、そのようにしても神の意思に沿えない自分に気づくと、罪の赦しでは足りない、神の意思に沿えるようになれる何か特別の力が必要だと思う人が出てきます。もちろんお祈りすれば、神はその力を与えて下さいます。しかし、それは罪の赦しと切り離されたものではありません。罪の赦し抜きで神の意思を成し遂げようとすると、イエス様抜きでそうすることになり律法主義になっていきます。ファリサイ派と変わりありません。神は私がこの世の人生で終わらないで大いなる人生を持てるようにと、ひとり子を犠牲にすることをされた、それくらい私のことを大事に思って下さった、イエス様自身も、あなたのためなら私はそれでいいと言って十字架に向かわれた。こうなうともう、神の意思に沿わない生き方など考えられなくなります。ここにキリスト信仰者の力があります。その力は罪の赦しを確かなものにすればするほど備わるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

 

5月25日19時45分水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」、ミルヤム・ハルユ宣教師、コヘレトの言葉 3章 1~8節、11節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 5月25日19時45分~

聖句 コヘレトの言葉 3章 1~8節

「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。」

コヘレトの言葉 3章 11節

「神はすべてを時宜にかなうように造り、
また、永遠を思う心を人に与えられる。」

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ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスク宣教師