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マタイ福音書の16章に、イエス様が弟子たちにこれからエルサレムで起こる自分の受難について予告した時、それを否定したペトロを叱責する場面があります。 その時イエス様がペトロに言った言葉、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(16章23節)。ペトロをサタン呼ばわりして、失せろ!と言うのはとても厳しいお言葉です。
先日フィンランドのトゥルク市にあるSLEYのルター教会の礼拝説教を聞いていると、T.ニスラ牧師が、今回説教を準備した時、ひとつ新しい発見をしたと言って以下のことを教えました。
「引き下がれ」(フィンランド語訳では「どけ」)はギリシャ語原文では、ヒュパゲ(行け/立ち去れ)オピソームー(私の後ろに)である。「引き下がれ」と訳したら、オピソームーの意味が消えてしまう。オピソームーは大事な句である。イエス様がペトロとアンドレに「私について来なさい」と言った時に使われた(正確には「私の後ろについて来なさい」マタイ4章19節)。「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言った時にも使われた(正確には「私の後ろについて来なさい」マタイ16章24節)。それなので、マタイ16章23節は本当は、「私の前に立ちはだかるのをやめて私の後ろにつけ」という意味になる、ということでした。
イエス様は神と人間の失われていた結びつきを回復するために十字架の死の受難を受けて復活を遂げるという使命を帯びていました。それを否定しようとするのは結びつきを邪魔する悪魔と同じ立場になってしまいます。ペトロよ、即刻その立場から離れて、私の後ろにつけ、お前は私の前に立ちはだかるのをやめて私の後に従ってついてくればよいのだ、ということなのです。そして、十字架と復活の出来事の後、イエス様の後ろについていくというのは、彼が打ち立ててくれた罪の赦しのお恵みから外れないようにその中に留まって生きるということになります。そうすることで私たちは復活の初穂であるイエス様に続いて復活を遂げるのです。
言い訳がましくなってしまいますが、私の辞書(ギリシャ語・スウェーデン語)がオピソームーを、基本は「私の後ろに」だが、マタイ16章23節は「私のもとから」と訳していいなどと言うので見落としてしまったのでした。本当は、「私の前に立ちはだかるのをやめて私の後ろにつけ」なのに、「私のもとから立ち去ってしまえ」になってしまったのでした。イエス様の本意は過ちをした人を遠ざけてしまうことではなく、ご自分の後につき従わせて罪の赦しのお恵みに与らせることなのでした。
どうして辞書がそんな理解を示してしまったか少し考えてみました。旧約聖書のヘブライ語ではよく「行け」という命令形の「レーク」が次に来る文の導入的な役割を果たします。例えばサムエル上16章、次主日の日課なので見てみると1節「レーク(行け)エシュラ―ハカー(私はお前を送る)」。「私はお前を送る」が主で、「行け」はそれに注意を喚起する飾り言葉のようなものです。イエス様のペトロ叱責も同じように考えてもいいのではないだろうか?もちろん、イエス様とペトロはアラム語で会話していますが、動詞「行く」はヘブライ語もアラム語も同じ「ハーラク」です(命令形は違いますが)。同じようにイエス様の「ヒュパゲ」(行け)も、次に来る「オピソームー」(私の後ろに)の導入的なものとみなして、強調点は「私の後ろに」に置かれるという具合に。
そのように考えると辞書を書いた人たちは「ヒュパゲ」にこだわりすぎて、「立ち去れ、私の後ろに」とつじつまがあわなくなって、「私の後ろに」ではなく「私から」に訳したほうがいいなんていったのではないかと思われた次第です。
3月の料理クラブは11日、春らしい暖かい陽気の日に開催されました。今回はフィンランドの惣菜パン「サルヴィ」Sarviを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。はじめに生地を作ります。計量した材料を順番にボールに入れて、強力粉を少しづつ加えてよく捏ねると生地の形が見えてきます。次にマーガリンを入れてさらに捏ねて生地が出来上がります。ここで一回目の発酵をさせます。その間にサルヴィの中身を準備します。ハムとパプリカを細かく切ってチーズはすりおろしたものを使います。生地が大きく膨らんだのでサルヴィを作り始めます。丸い形に伸ばして、いくつもの三角形の形に切ります。それぞれの上に中身のものをのせます。それからクルクル巻いて角の形に作ります。みんなで楽しく作りました。あっという間に鉄板にはきれいなサルヴィが沢山並びました。それから二回目の発酵をして、オーブンに入れて焼きます。サルヴィはまた大きく膨らんで美味しそうな焼き色がつきました。
早速テーブルのセッティングをして席に着き、出来あがったサルヴィをサラダと一緒に頂きました。もちろん、コーヒー紅茶も一緒です。歓談のひと時に、今フィンランドからスオミ教会にボランティアとして来ている大学生の紹介、それから食べるサルヴィと聖書に出てくるサルヴィ(角)についてのお話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝です。4月は都合により料理クラブはお休みとなります。次回の料理クラブの日程等が決まりましたら、ホームページでご案内しますので、どうぞフォローしてください。
今日は皆さんと一緒にサルヴィを作りました。サルヴィはフィンランドの惣菜パンの一つです。日本にはコロッケパン、カレーパン等の惣菜パンがありますが、フィンランドではサルヴィの他にもひき肉や魚の肉が入った揚げパン、色んな種類のパイがあります。フィンランドのパンの歴史の中でサルヴィはそんなに昔から作られたパンではありませんが、私は中学生の時、学校の家庭科の調理で簡単なサルヴィを作ったことがあります。
フィンランドではサルヴィはおやつやスナックとして、またパーティの軽食としても出されます。あまり店で売っていなくて、ほとんど家庭で作られます。サルヴィのレシピはいろいろあります。生地は、今日作った材料のものが一番多いです。他には、牛乳のかわりに水を切ったヨーグルトを入れるレシピもあります。今日はイーストを入れて発酵させましたが、生地にベーキングパウダーを入れて早く作れるレシピもあります。サルヴィの生地はソフトでマイルドな味わいなので、中身には風味の強い食材、例えばチーズ、パプリカ、ハム、ハーブチーズ、スパイスキノコ、サンドライト・トマト等が選ばれます。入れる中身によって「チーズ・サルヴィ」、「キノコ・サルヴィ」などと呼ばれます。一番よく作られるのはチーズ・サルヴィです。
サルヴィはフィンランド語で動物の角を意味します。角のような形をしているのでそのように呼ばれます。食べ物と動物の角との関係は、サルヴィだけではありません。フィンランドでは昔、ソーセージを作る時に牛の角を使ってソーセージを作りました。私の実家の引き出しに角が入っているのを見て驚いたことがあります。母はソーセージを作る道具だと教えてくれたものでした。
角は動物にとって大事な部分です。というのは、敵や脅威が近づいていたらそれで守るからです。角は動物の体の最も強い部分だから身を守ることができるのです。私たち人間に角はありませんが、角みたいに私たちを守る者があります。そのことについて聖書には書いてあります。旧約聖書の中に角という言葉が出てきたら、それは「力」や「権力」を意味しました。
新約聖書の中では「ルカによる福音書」1章の「ザカリアの預言」のところで角が出てきます。ザカリアとは、聖書の中に出てくる洗礼者ヨハネという人のお父さんです。ザカリアと奥さんのエリザベトは子どもに恵まれず、もう年をとっていました。ある日、天使がザカリアに現れて「エリザベトは男の子を産む」と告げ知らせました。ザカリアはこんな年寄りにそんなことは起こらないと疑いました。すると彼は口を聞くことができなくなりました。しかし、その後でエリザベトは本当に妊娠して男の子を産みました。名前を決める時に近所の人たちはお父さんにならってザカリアがいいと言いましたが、エリサベトは、いいえ、ヨハネです、と言いはりました。人々が驚いてザカリアに聞くと、彼は板に「この子の名前はヨハネ」と書きました。すると突然ザカリアは話せるようになって、次の預言を語ったのです。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて開放し、我らの為に救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」ルカ1章68~69節。
ザカリアは「我らの為の救いの角」と言いました。「救いの角」とは何を意味するのでしょうか?角が動物を守る部分であるのと同じように、「救いの角」は世界中の人々を悪いものから守る方を意味しました。つまり、クリスマスの時にお生まれになったイエス様のことです。イエス様は神の子なので角のように強く、私たち人間を守る為にこの世にお生まれになりました。それではイエス様は私たちをどのように守るでしょうか?
私たち人間は心の中にある罪や周りにある悪いことから自分を完全に守ることができません。イエス様は私たちの心の中にある罪を全部かわりに背負ってくださって、十字架の上で私たちの罪の罰を私たちにかわって受けて死なれました。しかしそれで全てが終わったのではありませんでした。十字架の上で死なれたイエス様は三日後に復活されて、死を超えた永遠の命に入れる道を開いてくださいました。このようにイエス様は私たちが罪の罰を神さまから受けないですむよう守って下さったのです。さらに、悪いものが奪い取ることが出来ない永遠の命を私たちに与えて下さり、私たちが神さまの子どもになれるようにして下さったのです。神さまは子どもを守られます。イエス様は本当に「救いの角」なのです。イエス様が救い主であると信じて受け入れると、この「救いの角」は私たちをあらゆる悪いものから守って下さるのです。
今日はサルヴィ「角」の惣菜パンを作りました。パンと一緒に聖書のみ言葉の「救いの角」の意味も覚えて行きましょう。
「永遠の命に至る水」 スオミ教会2023年3月12日(日)
ヨハネ福音書4章5~42節
今日の聖書は、イエス様とサマリヤの女がヤコブの井戸で出会われた、有名な話です。 まず、4章からまとめて見てゆきますと、バプテスマのヨハネが領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられた。そのためバプテスマの弟子たちによりイエスの弟子たちがの方が増えてゆく。すると、どうなるかユダヤ教のファリサイ派の連中がイエスの方に競争相手としてトラブルを起こしかねない。そう思われたイエス様は危険を感じられて洗礼を授けることを一切やめてガリラヤ地方へ行く決心をされたのでした。ガリラヤ地方へ行くにはサマリヤ地方を通って行かねばならなかった。サマリヤに「スカル」という町がありました。イエス様はそこへおいでになりました。そこには、ヤコブの井戸があった。そこへ「サマリヤの女」がわざわざ「井戸の水くみに来た」というのであります。ここに「わざわざ」とあります。これは、ちょいと近所の井戸に「水くみに来た」といったものではない。近くにはいくつもの泉もあるのに、」2キロも3キロも歩いて来るという、特に聖なる井戸の聖なる水を求めて来た出来事であります。現在ここにはギリシャ正教の聖ヨセフ教会が建てられています。教会の建物の中から階段でずうっと地下に降りて行きますと直径3m程の井戸があります。実際イエス様が座られた井戸です。私も前にこのヤコブの井戸へ行き自分で水くみ用の竿にバケツを下げてくみあげました。とても冷たいおいしい水でした。4月のはじめの頃でしたが気温30度以上のとても暑い日中でした。6節を見ますと「イエスは旅に疲れられ、そのまま井戸のそばに座っておられた。「正午頃であった」とあります。暑さの中イエス様は旅の疲れで、口も渇いておられましたから、ここの水をくみに来た女に「水を飲ませて下さい」と乞われたのです。9節では、サマリヤの女は言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに飲ませてくれ、とおっしゃるのですか」と女は驚きました。どうして、女は驚いたのでしょうか。まず、一つには見たところユダヤ人のラビのように見える男である、あなたが「女のわたしに」声を掛けるということ自体に驚きました。ふつうなら家族以外の見知らぬ男の人から女に向かって声を掛けられること自体あり得ないことでした。ユダヤ教の学者が女性に話すことは最も恥ずべき事と信じていたからです。しかし、もっと驚くことは「あなたはユダヤ人でありながら、サマリヤの私に水を乞う」ということが又驚きでした。ユダヤ人とサマリヤ人との間には紀元前722年にサマリヤがアッシリアという大国に滅ぼされる、ということがあって、又ユダヤもバビロン大国に滅ぼされる、という悲惨な歴史が始まって以来、ユダヤとサマリヤの両方の間に神殿をめぐって激しい憎しみの間柄にありました。ですから、サマリヤの女は、ユダヤ人である、あなたが「水を飲ませてくれ」と乞うのですか・・・、これは内心たいへんな驚きです。イエス様はそうした全ての事情を知った上で、この女と関わってゆかれるのであります。福音書記者は「ユダヤ人はサマリヤ人とは交際しないからである」と記しています。ここに「交際する」と訳される言葉には「一つの品物を共に用いる」という意味が含まれましたから。さらにサマリヤの女は言います「主よ、あなたは汲む物をお持ちにならない」ではないか。それなのに不浄の身である女に、つまり汚れている身である女の使う釣瓶やバケツやコップといった品物を共に使うということは禁じられているのではないのですか、と言うのです。これが女の最も驚いたことでした。ここから、イエス様はサマリヤの女との間に絶妙な会話がなされて行くのでした。恐らく実際にはもっといろいろな話し合いが交わされたことでしょう。福音書記者は独特の手法でまとめているわけです。3章の始めにニコデモという偉い人が夜こっそりイエスのもとを訪れる話があります。3:2「ラビ、私どもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています、神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを誰も行うことは出来ないからです。どうして、そのようなしるしが出来るのでしょう」と問うているのにイエスは謎めいた、神秘な短い言葉で語られる。「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」そうすると、相手の方はその言葉の深さを理解できない、それで頓珍漢な返事をする。年取った者がもう一度母の胎内に入って生まれることでしょうか。それに対してイエスは答えられる。「水と霊とによって、生まれなければ神の国に入ることはできない。」ますます分からない。風は思いのままに吹くと答えられる。イエスは深い意味で教えてゆかれる。こういう形でイエスの深い神秘な啓示が開かれてゆく、とい手法であります。イエス様とサマリヤの女との対話も全く同じであります。はじめに「水を飲ませて欲しい」というイエス様の呼びかけにサマリヤの女の方は驚きます。私たちの信仰生活の生涯の中でも考えられない驚きや奇跡をイエス様は何度も起こしておられるのではないでしょうか。驚きの中で更にイエス様はサマリヤの女に言われた。「なに!私が誰であるか、神の賜物が何であるかを知ったらお前さんの方から頼み込んでくるはずだ」と変なことを言われる。そこで女は「なにさ!自分の方から水をくれ、と言っておいて変なことを言う、あなたはどこからどうして水を手に入れるのですか」と疑問が出てくる。そこから会話は絶妙に発展してゆきます。10節では更に大切な言葉が進みます。それは「水を飲ませて下さい、と言ったのが誰であるか知っていたならばあなたの方からその人に頼むようになり、その人は生きた水を与えたことだろう。」ヤコブの井戸の水は確かに渇いた口を潤してくれる。が又渇くあろう。しかし、その人の与える水はそうではない。「生きた水であって、尽きる事がないのだ。」この生きた水は14節の終わりで示される、それは「永遠の命に至る水」のことである。私たちは、もうこれが一つの霊的なものの象徴であることを悟ることができるでしょう。では「生ける水」とか「イエスの与える水」とか「永遠の命に至る水」とは何のシンボルなのか、ということです。旧約聖書を読んできたユダヤ人やサマリヤ人には少なくとも二つのことは、すぐ分かることでした。第1は「水」と言うとき、神様からの啓示或いは神様の言葉のことです。水は神様が授けて下さる知恵の象徴であります。今日の会話のところで言いますと、サマリヤの女はイエスのことを「預言者である、とお見受けします」と言っています。そう言って次に礼拝の場所の違いが問題になりイエスは教えられます。神は霊である、だから霊と真理を持って礼拝をしなければばらない。25~26節では女はこう言います。「私はキリストと呼ばれるメシアが来られる時、私たちに一切の事を知らせて下さいます。」するとイエスは言われた。「それは、あなたと今、話している、この私である」。この瞬間サマリヤの女はどんなに驚いたことでしょう。29~30節で、その様子がわかります。女は「メシアが来られた」と叫んで人々に伝えたのです。ですから「イエスが与える水」と言うのは何よりも「一切を知らせる神からの言葉、そのものである」という事ができる。もう一つは旧約聖書からの象徴で「神の霊」を「水」ということで表していることです。ヨハネ3章5節でイエスはニコデモに向かって言われた。「水と霊とから生まれなければ神の国に入ることはできない」。同じようにヨハネ7章37節では、もっとはっきり分かるようにイエスは祭り終わりの大事な日に立って言われた。「誰でも、渇く者は私のところに来て飲むがよい。私を信じる者は聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。これは信じる人が受けようとしている御霊を指して言われたのである。」イエス様とサマリヤの女との出会いの最後にはこの女は救いとなる」「生ける水」を得ることになりました。そして、まことのメシアに出会って希望に満ちた喜びに変えられました。
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毎日毎日、人目を忍んで日照りの長い道のりを、ひっそり水をくみに来るその罪ある女は、もうこれからは心の中の真の渇きをすべて満たしてくれる尽きることのない「生ける水」を得ることが出来たのであります。私たちは、イエス様が与えて下さっている「生ける水」をどう受け取って生かされて行きましょうか。私たちは、この世で物質によって生きている、空気も水も食べ物も、これにたよって一生懸命です。この世では物質によって生かされています。しかし、この世にいつまでもいるわけにゆかない。魂だけの霊の世界です。物質は何もない、頼りにはならない世界です。霊の世界で「永遠に生きる」ものを聖書は示してくれているのです。霊の世界での「生ける水」は神様から特別にあらわされた御言葉であります。神様からの御霊が注がれることであります。神様が神の救いの御旨を人間に知らせて下さり、それを人間が受けて新しく変えられる、それがすべて、この「生ける水」、それは神の言葉、愛の世界であります。イエスというお方は私たち人間の魂が救いを喘ぎ求めている渇きを満たして下さるのです。イエスは又私たちに神の救いと神の知恵とを与えて救いの喜びを味わせて下さいます。その象徴は、まことの「生ける水」「永遠の命に至る水、神の愛、神の言葉であります。ヨハネは3章34~36節でこのことを記しています。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が『霊』を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手に全てを委ねられた。御子を信じる者は永遠の命を得ている。」私たちは毎週の日曜礼拝に於いて教会の中心であるイエス・キリストから神の言葉を聞きます。神の言葉の霊の力によって、神の救いに至る永遠の命を与えられています。ペテロは第1の手紙で1章22~23節に次のように書いています。「あなた方は真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから清い心で深く愛し合いなさい。あなた方は朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち神の変わる事のない、生きた言葉によって新しく生まれたのです。」サマリヤの女は、まことのメシア、キリストに出会って全く新しくされ、永遠の命の魂に生かされる人生へと変えられました。私たちも神の言葉が私たちを霊的に新しくされ永遠の命の魂へと生かしてくれるのであります。
アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
かつてキリスト教会では復活祭/イースターの前の40日は断食するという伝統がありました。 イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方は、間にある6回の主日は断食日に数えないので、断食期間の開始はその分繰り上がり、復活祭の前7週目の水曜日となりました。今年は先週2月22日の水曜日でした。
この断食の期間は教会のカレンダーでは「四旬節」とか「受難節」と呼ばれます。英語では「レント」です。面白いことにフィンランドやスウェーデンでは今でも文字通り「断食の期間」という言葉を用います。もちろん、両国ともルター派教会が主流の国なので、何か修行や業を積んで神に目をかけてもらって救いを頂くというような考え方は全くありません。ルター派の基本は、人間の救いとはイエス様を救い主と信じる信仰にのみ基づくというものだからです。カトリック時代の呼び方がそのまま今も続いているだけということです。それでも、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。それで信仰ある人の中には、この期間は嗜好物を遠ざけたり好きなテレビ番組をみないようにする人もいます(若者の中にはSNSを止めるという人も)。もちろん、これらはルター派の基本を確認した上でのことです。
フィンランドやスウェーデンでは、「断食の期間」に入る1カ月位前から、ラスキアイスプッラ/セムラと呼ばれる菓子パンが全国どこででも、パン屋さんでもスーパーでも喫茶店でも並びます。当教会の料理クラブでも作ったことがあるそうですが、これは「断食の期間」の前に少し贅沢に美味しいものを頂いて、あとは厳粛に過ごそうという趣旨のものだそうです。それで、「断食の期間」が始まると、店頭からパタッと姿を消します(ただし、私たちがいた十何年前のこと。教会離れ聖書離れが進む今はどうでしょうか?)
見かけはハンバーガーに生クリームを挟んだみたいな何の変哲もない菓子パンですが、カルダモン風味の焼きパンと潰しアーモンドの砂糖漬けを添えた生クリームのコンビネーションは絶妙で、食する人はきっと天国の味を賞味した気分に浸るでしょう(だなんて、まるでテレビの飲食店の紹介番組みたい)。断食が終わった復活祭には、パシャやマンミというデザートが待っています。これらについてはまた機会を改めてということで。
2023年3月5日(日)四旬節第二主日 主日礼拝 聖書日課 創世記12章1~4a節、ローマ4章1~5、13~17節、ヨハネ3章1-17節
説教をYouTubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在である、しかし、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられる、これが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はイエス様を贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救う、人間が神に国に迎え入れられるようにするということ。今日はこれらのことについて少し詳しくみていきます。
まずニコデモという人について。彼が属していたファリサイ派というのは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべきと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。
そこにイエス様が歴史の舞台に登場しました。彼が数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同5章28節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせたのです。
全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このやり方で神の前で清くいられるだろうか、神に義とされて天の御国に迎え入れられるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような自省するタイプのファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。(余談ですが、この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50
52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、ローマ帝国総督のピラトのもとに行き許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39ー42節))。
さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。イエス様はニコデモにイエス様はいきなり言われます。
「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)
「新たに生まれる」ということについて注意します。それは、「生まれ変わる」ということと全く違います。例えば、自分は前世では誰々だったが、今の自分はその生まれ変わりであるなどと言う人がいます。こういう考えを輪廻転生と言います。そこまで大胆でなくとも、今度生まれたら金持ちになりたいとか、有名人になりたいなどと言う人は沢山いると思います。あるいは、赤ちゃんが生まれた時、亡くなったおじいちゃんかおばあちゃんに似ているので、この子はおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うのもよく聞かれると思います。
聖書の信仰には輪廻転生はありません。私この吉村博明はこの世から死んだ後は何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみんな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明は目覚めさせられてイエス様のおかげで(※)朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を与えられて吉村博明が続いていくことになります。それでは、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」とはどういうことでしょうか?(※ この「イエス様のおかげで」を礼拝の説教では「運が良ければ」と言ってしまいました。「イエス様のおかげで」ということは本説教の後で強調されることなので、ここでは冗談ぽく言っておこうという軽い気持ちでした。礼拝後のコーヒータイムで教会員から、とても気になったとご指摘を受けました。良くなかったと反省しました。お詫びして訂正いたします。)
イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありません。どんな誕生かは、次のイエス様の言葉を聞いてみましょう。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。
イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。
人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきますが、それはまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが新しく生まれることです。
それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)
なにかとても深いことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。気流の流れによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?
さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架の死も死からの復活も起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれるということもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。加えて、風のたとえを難しくしているもう一つの理由は、ギリシャ語では「風」と「霊」は同じ言葉プネウマということです。イエス様とニコデモは間違いなくアラム語で会話しています。それが後にギリシャ語に翻訳されて新約聖書になりますが、アラム語でも「風」と「霊」は同じ言葉ルーァハです。それで、「風は思いのままに吹く」と言うのは、「霊は思いのままに吹く」と言い換えることができます。「霊」とは神の霊、聖霊のことです。「聖霊」の場合は「吹く」と言わずに「往く」と言った方がよいでしょう。ギリシャ語の意思を表す動詞テロ―が使われているので、風の場合は「思いのままに吹く」でいいですが、聖霊の場合は「自分の意思に従って往く」という意味になります。洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者もそうであると言うのです。そうならば、聖霊もキリスト信仰者もどこから来てどこへ往くのか誰にもわからないというのはどういうことなのか?それについては後で見ることにして、今はイエス様とニコデモの対話に戻ります。
理解できず困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。
イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から新しく生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうすることで神の国に迎え入れらえるようになること、こうしたことが、どのようにして起こるのかについて明らかにします。
「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」
ここでイエス様は、「水と霊による新たな生まれ」を起こすのは他ならぬ自分であると教えます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。
「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」
モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で作った蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、どのように起こるのでしょうか?
イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられたのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持てるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。
それでその後は人間が、これらのことは本当に起こった事でありイエス様は本当に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになり、神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を持てて万物の主である神のもとに永遠に迎え入れられます。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。
このように洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は復活の日に永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられるということがわかりました。それが、イエス様の風のたとえとどう結びつくでしょうか?先にも申しましたが、アラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。ここでイエス様は両方をひっかけて教えているのです。このたとえで教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録2章2節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(8章29節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。
これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまる。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちも見えるし声も聞こえるから実在するのはわかる。しかし、聖霊と同じように、あくまで自分の意思に従って往くので肉的な人にはわからない。このことはパウロが第1コリント2章14~15節で言っていることと一致します。
「肉的な人は聖霊が示すものを受け入れない。なぜなら、肉的な人にとってそれは馬鹿げたことだからだ。それは、霊的な状態をもって吟味されるものである。だから、肉的な人には理解できない。霊的な人がそれを吟味する。しかし、霊的な人は肉的な人から吟味されない。」
それでは、洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は、肉だけの人と何が違うのでしょうか?以下それを見ていきます。そこで聖霊の働くについてもわかってきます。
キリスト信仰者は新たに生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めように、「他人のものを自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんかどうでもいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。
まさにこの時が聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって神罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲となったおかげと、あなたにあの方を真の救い主と信じる信仰があるおかげで、神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先に赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。
「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。
神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ3章14~16節)。」
この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。しかしながら、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。実はこうすることが、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きていることの証しなのです。
このような聖霊が働く内なる霊的な戦いは、本当に内なる戦いなので、外部の人、肉的な人には信仰者の内で何が起きているのかはわかりません。肉的な人にはそのような内なる戦いは無意味なものです。なぜなら、肉的な人にとって、例えば人を傷つけるようなことを言ったり行ったりしなければ十分である、心の中まで神の意思に照らし合わせたら身が持たないと言うでしょう。しかし、霊的な戦いに身を投じた人は、イエス様が救い主になっているので心の中まで神の意思に照らし合わせても大丈夫なのです。ここのところが肉的な人にとって理解できないところになると思います。
たとえ肉的な人がわからなくても、キリスト信仰者は内なる霊的な戦いは全て自分をゴールに導く戦いであるとわかっています。ゴールは復活の日に神の御国に迎え入れられるところです。かの日、天地創造の神のみ前に立たされる日、神は、キリスト信仰者が旧い世で罪を内に持っていたにもかかわらず、罪の赦しのお恵みに留まって罪に与せず罪に反抗する生き方を貫いたと認めて下さいます。その時、霊的な戦いは終結します。なぜなら、肉の体に代わって神の栄光を現す復活の体を着せられるからです。キリスト信仰者が受ける栄冠です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
本日の礼拝のストリーミングはウェブカメラの不調により途中で中断してしまいました。申し訳ありません。田口先生の説教文を掲載しますのでご覧下さい
マタイによる福音書4章1−11節。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
このところはイエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けられる箇所です。これは、3章終わりのイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、そして天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声があった後、そして、12節以下、イエスが伝道を開始される前の出来事になります。この誘惑は、悪魔や天使が登場し、「聖霊に導かれて」とあったり、さらには、人から見れば、悪魔の誘惑があまりにも壮大で超自然的に見えたり聞こえたりするので、これは神であるイエス様だけの特別な出来事、特別な試練であり、私たち人間とは何も関係のない出来事であるかのように見えたり思えたりするかもしれません。あるいは、クリスチャンの中でも、このように書かれている「悪魔」や「天使」などは、人間の理性に反するからそんなのはいないんだと言う人たちもいますから、そのような人にはこの場面は単なる空想話や譬え話なんだと主張する人もいるでしょう。ゆえに、このところはただの人間が見習うべき律法であり、道徳律を教えているんだと結論づけられるかもしれません。しかし、このところは、空想話や道徳律でもなければ、律法だけに終わるものでもありません。人間に全く関係のないイエス様と悪魔だけの出来事でもありません。このところは、正しく人間とその罪の深さと大きさを何よりも表していると同時に、未信者というよりは、とりわけ、まさに洗礼を受けて伝道へと出ていくクリスチャン、教会を指しているメッセージでもあり、そのクリスチャンや教会が直面する誘惑はいかに巧妙で恐ろしいかを警告しています。しかし何より、まさに受難節に入るこの聖日にふさわしいところでもあり、イエス様の生涯は、この荒野だけではない、生涯、そして受難と十字架を頂点としての試練の歩みであり、この荒野の試練は、その公の歩みを始めるその最初の一歩であるということ、そして、何より、イエス様はそんな私たちのためにこそ、この誘惑を受けられるのであり、やはり、ここでも今日も、イエス様の十字架の福音が私たちに示されていることを教えられるのです。1節から見ていきましょう。
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(1節)
「悪魔から誘惑を受けるため」とありますが、同時に「「霊」に導かれて」とあります。これは聖霊のことであり、聖霊によって荒野に導かれてこの試練は始まります。ですから、これは試練が悪魔によるものか、それとも神によるものであるのか、どちらなのかと言うなら、悪魔ではなく神によって意図され導かれたものであり、ヨブ記の神との問答を思い出すのですが、悪魔がイエスを誘惑するのを、神はそれをそのままさせた、いや、その場にむしろ導いたのですから、神様の明確な目的があるのです。ここで、ある人は、「神は試みに会わせるのか?それは主の祈りに矛盾するのではないか」と思うかもしれません。しかし、悪魔の試みは、私たちに信仰を捨てさせ滅びに導くものであり殺すための試みですが、神の試みは、あくまでも試みるためそれだけの目的ではなく、ヘブル書12章に「訓練するため」「平安の義の実に与らせるため」「聖さに与らせるため」ともあるように、どこまでも相手を生かすためであり信仰に進ませ強める、救いのためのものです。この荒野の誘惑も、聖霊に導かれているとあることからも、それは、神様の私たちのための壮大な救いの計画のための一つの大事な出来事であり、つまり世のため、私たちのためのものであると言うことが見えてくるのです。
そして「荒野」の誘惑や、2節の
「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」(2節)
とあること。これは、まさに旧約聖書で、イスラエルが荒野に40年間導かれ、大きな試練に立たされたことや、空腹であったことなどを思い起こされるのです。よく言われるように、イエス様が空腹を覚えられとあるように、私たちと同じ肉体を持ったイエス様であることがわかるのですが、まさに聖書のヘブル書4章で「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(4:15)」とある通りに、イエス様は空腹だけでなく、まさしく人となられ、私たちと同じように、つまり、イスラエルが荒野の40年で経験したのと同じように試練に遭われるし、むしろその試練の内容を吟味するなら、それはこの荒野の40日間や空腹だけでもない、「あらゆる点で」とあるように、そう、まさしく、その究極は十字架の受難と死で頂点に達するその苦難の全生涯で、イエス様はその言葉の通りに、私たちと同じくなられる、そこまでも低くなられ、全てを負われ、そして生きられることを、この洗礼を受けられて直後、まさにそのことを私たちに具現される出来事がこのところなのだと示されるのです。
そして、三つの誘惑です。このところは思い巡らすほど、実に深く心刺されるものを感じさせられるところです。まず3節
「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」」(3節)
A.「悪魔の誘惑は巧妙に」
皆さんは、試練や誘惑はどのようにくると思いますか?多くの人は、明かな目に見える迫害の形でわかりやすいように来ると考えるかもしれません。もちろん、そこにも誘惑や試練は当然あります。あるいは、十戒の中の明らかに「〜しては行けない」と言う言葉に反するよう迫ってくるはっきりと認識できる罪への誘惑も確かにあります。それも誘惑であり、試練であり、私たちは、祈りとみ言葉と聖霊の助けによって悔い改めと克服に導かれなければならないことはとても大切なことです。しかし、悪魔の神への信仰を捨てさせよう、救いを疑わせ捨てさせよう、滅ぼそうとする誘惑は、目に見えるような形でわかりやすくくるものだけでは実はありません。むしろ真の悪魔の誘惑は、その信仰と福音のために重要な教会とみ言葉こそを責めてきます。しかもあからさまに攻撃するようにではなく、非常に巧妙であり、「偽預言者は羊の形をしてやってくる」と聖書にあるように、むしろ聖い姿さえ装ってやってくる、恐ろしいものであると言うことがまさにここで教えられているでしょう。まずこの3節です。
B.「みことばを用いて」
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
皆さん。悪魔は「神の子なら」と語りかけています。この意味がわかるでしょうか?この直前の3章17節で天からの声はこう言っています。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。そう、悪魔は、その天からの神の声、イエスは神の愛する子であるという、そのみ言葉を明らかに知っているのです。「神の子なら」と。つまり、悪魔はその3章17節の天の声、神のみ言葉さえも誘惑に用いているという事実です。天の声がそう言っているのならと。これは第二の誘惑でも同じです。6節以下ご覧ください。こうあります。
「6節〜「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」
ここでも「神の子なら」とありますが、それだけではありません。今度はもっとはっきりと、悪魔は聖書を用いるでしょう。旧約の詩篇の言葉(91篇11−12節)を用いて誘惑するのです。聖書にこう書いてあるではないかと。悪魔は、私たちに聖書を否定させようと試みる存在です。しかし、彼らは明かに聖書の言葉を否定し侮辱し嘲るようにして誘惑し試みてきません。もちろんいつの時代も外側から、そのようにして明確に聖書を否定して誘惑してくる誘惑や試練はあり、今の時代も溢れているでしょう。しかし悪魔の誘惑は、むしろクリスチャンの間で、教会の中で、実に巧妙に働き、しかもわかりにくく現れるのです。むしろ聖書の言葉さえ敬虔そうに用いてきます。「聖書はこう言っているでしょう?」と。そのように聖さを装ってさえ悪魔は教会を荒らすことは実は少なくないし、それは外側からの迫害と同じくらい、いやそれ以上に多いと言うことを神学や教会の歴史は物語っていますし、この教会ではなくとも、世界中、日本中の教会内で今もあることです。
C. 「「もし〜なら」によってみ言葉を条件化する誘惑」
そして、それだけではありません。注目したいのは、悪魔は「どのようにして」み言葉を悪用するのかということです。それは「もし〜なら」という言い方が隠されていることです。「神の子なら」「天の声がそう言うなら」「みことばにそう書いてあるなら」と。この「もし〜なら」は実に私たちが誘惑されやすい言葉でありますが、その「もし」という意味には「本当にそうなのか」「本当にその通りなら」、つまり、裏返せば「そうではないのでないか」という「疑い」が実は必ず含まれている質問だということに気付かされるはずです。いわば、「もし」には、質問する側、求める側の条件付けが必ずなされているということであり、神やその言葉を条件付けることが起こります。つまり、神ではなく、こちらが人間が、主導権の質問や願いになるということです。
皆さんこれは実は、先ほど第一の聖書朗読でも読みました。創世記3章の悪魔の誘惑と同じなのです。悪魔はエバに言うでしょう「神は本当にそう言ったのか」「もし食べても死なない」「もしそれを食べるなら〜神はご存知である」と。ここでも同じです。もし天の声が言うように、あなたが神の子なら、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ。神殿の頂から飛び降りたらどうだ。そうすれば、空腹は満たされる。そうすれば、みことばの通り、天使たちがあなたを助けるだろう」。悪魔はイエスはそれができないと思って言っているのでもないし、天使がみことばの通りには助けに来ないとも思っていません。できることはわかっているのです。実際に、イエス様は石をパンに変えることもできますし、神がみことばにある通りに、イエスを助けることもできるのです。しかし、このみことばを用いてまでの「もし〜なら」には深刻な落とし穴があるでしょう。「もし〜なら」と投げかけているその問いかけは、それがどれだけ敬虔な祈りや願いであったとしても、その通りになることを願う悪魔中心、人間の思いや願望が中心、土台にあって、その通りになることで、結局は、人間の思いや願望に神を従わせようとする思いが隠されているのです。悪魔の言う通りにイエスがするのなら、イエスは自分自身の栄光を自分で自分のために得ることにはなりますが、悪魔の「もし」への同意することになります。そしてその結果は、人に、救いとは神の恵みのわざではなく、「自分自身の栄光を自分で自分のために果たすことだ」と言うその偽りの模範をまさに示すことになります。そして人間の救いの道はまさにそのようなものになり、恵みも信仰義認も何もなくなり、ただ自分で果たす律法になっていたことでしょう。悪魔の問いかけの狙いはそこにあります。実に巧妙です。しかしそれはずっと変わらない手法なのです。堕落の時も、悪魔の「神は本当にそう言ったのか、〜もしその身を食べるなら生きるようになる」という言葉の通りになっていくところには、アダムとエバの、神の言葉や御心よりも「神にようになれる」「賢くなれる」「見るに慕わしい」という彼らの思いや願望が優先し、それにみ言葉を勝手に解釈し当てはめ、従わせようとして堕落するでしょう。その過程と結果は、どこまでも罪人で救いようのない私たちの現実ではありませんか。堕落の時の「もし」の手法に悪魔は成功し、初めからいつまでも変わらない。狙いも常に変わりません。この狙いによって教会はどうなるでしょう。「もし〜なら」とみことばを用いて、結局は、神中心のみことばではなく、罪人である人中心でみ言葉を理解しようとする、解釈しようとする、人の思いや願望にみ言葉を当てはめよう、従わせようとすることが起こっていないでしょうか?それは正しく悪魔の思いのまま、狙い通りの誘惑に、人が陥ることです。そのようにして、教会で、福音は律法にすり替えられ、律法があたかも福音であるかのように語られるようになったり、理性や道徳やヒューマニズムが語られるようになりますが、しかし大事なことです。そこには救いも平安もありません。そうなってしまうと正しく、悪魔の勝利に他なりません。実はそれが教会にとっても、クリスチャンにとっても、つまり、宣教や伝道にとっても何よりも恐ろしいことであり、悪魔はいつでも巧妙に教会に入り込み、混乱させようとしているのです。
D. 「人中心の解釈で歪められるみことば」
皆さん、聖書の言葉、確かに私たちにとって大事です。誰も否定しません。しかしただ
「聖書の言葉、聖書の言葉」と掲げていれば、それだけで安心でもなければ、正しいキリストの救いの教えかどうかは実は判断できません。なぜなら、異端でも「聖書の言葉」を掲げ「聖書は何より大事だ」と声高に言うからです。自分達は聖書の言葉を第一にしているのだと。リベラルでも熱狂主義者でも律法主義者でも「聖書は大事」「聖書は第一」と聖書の言葉を掲げます。「聖書は第一、大事」と、聖書を掲げているだけなら、世界中のキリスト教のどんな団体も、異端でさえも、誰も意義を挟まないことでしょう。しかし、「みことば」を掲げても、「神が私たちに真に何を伝えたいのか、神が何を伝えているのか」ではなくて、まさに「もし〜なら」の人間中心の土台で聖書を人間の思いに従わせ、人間の都合に合わせ、文化や流行りに合わせ、世界の潮流に合わせるようにして聖書を解釈して、それが、間違った解釈なのに、文化や潮流がそうだから正しい神の教えなんだと、教会で説教されたり教えられたりするようなことはいつの時代も常にあるし、この現代は人間中心主義のもとでなおのこと顕著になってきています。それは多くの人々には心地よい教えなのかもしれません。人間の「もし〜なら」に聖書を当てはめ都合よく解釈しているのですから。しかし、それが本当に神が、イエス様が私たちに伝えていることではなく、単に人間が聞きたいことを聞いているだけであるなら、まさにそれは、イエスが悪魔の声に従って石をパンに変えてしまったこと、神殿の頂上から飛び降りたこととと、同じです。究極的にはイエスも十字架もなきものにしているのです。人の前では上手くいっているように思えても、神の前では、悪魔への敗北であり、そこで「みことば」と幾ら掲げても、真のキリストはいない、真のみことばもない教会のような建物や集まりであり、そこに真の宣教も伝道もないと言えるでしょう。
A. 「〜と書いてある」
イエス様はどう答えるでしょうか。4節
「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
そして7節
「イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
そして、世のすべての繁栄が見えるところで、もし私にひれ伏せばこの繁栄を全て与えようという最後の誘惑に対しても、10節
「すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
イエス様はこれら三つの誘惑への答えとともに、まさに真の教会とは何かを私たちに示しています。それは、もちろんみことばです。しかしそこには人間の側の「もし〜なら」などの条件付けは何もない、「こう書いてある」「神はこう言われる。聖書にはこうある。」それだけです。人の側が「もしこうであれば」「もしこうでなければ」「こうであったなら」と、みことばを人間の思いや願いや文化で捻じ曲げてでも聞きやすいように、わかりやすいように、受け入れやすいように教える、伝える、説教する、では決してない。神が私たちに何を伝えているか、何を伝えたいのか、そのまま、神はこう言っている、神はこう言われた、聖書はこう書いてある。教会の宣教、説教、教えは、これに尽きる、そしてイエス様や使徒たちがしたように「こう書いてある」ことの正確な解き明かしに尽きるのだとイエス様は私たちに教えているのです。そのようにみ言葉の正しい福音を受けて救われ聖霊に導かれているものは、「もし〜なら」の人間中心で条件付け神を従わせるみ言葉利用ではなく、「神はこう言われる」の福音にこそ聞くのであり、その言葉にこそ、日々、罪を示され、悔い改めを与えられると共に、そこに、十字架の救いの光をはっきりと見せられ真の平安を経験するのです。
B. 「全ては私たちのために」
そしてここでもう一つ大事な点があります。イエス様の試練の道は、この後も続き、イエス様はあのゲッセマネの祈りでも、もちろんイエス様も「この杯を取り除けてください」と、その思いをあからさまに祈っています。願うことは決して悪いことではありません。しかし、イエス様は、その自分の人としての肉体の苦しみの願いに神の計画や御心までも従わせようとせずに、最後にこう祈りを結んでいます。しかし「父の御心のなる通りに」と。そして、イエス様は、まさに十字架に至るまで、私たちの経験する以上の大いなる苦しみと死を受けられました。しかし何よりそれは私たちが受けるべきものの身代わりとして、私たちの罪のためであり、その罪とその結果から救うためであったでしょう。この荒野の悪魔の三つの誘惑から始まる、イエス様の試練の道、苦難の道、それは私達への律法でもなければ模範や道徳律でもない。どこまでも私たちのために神はイエス様を導いています。その道を、イエス様は悪魔の「もし〜なら」の願望を刺激する誘惑の通りに、自分自身の栄光を自分のための自分で果たすようなことはせず、むしろ、イエス様は、どこまでも、神を神とし、神のみ言葉そのまま、神のなさることにそのまま黙って従い、仕える者の姿となり、十字架にまで従われます。イザヤ書にはそれが私たちのための神の御心であったとあるでしょう。苦難や重荷を私たちに負わせるのではない、それらを私たちのために担い背負ってくださる救い主が私たちに示されているのです。
皆さん。ここでも福音によって私たちは遣わされています。私たちは、自らの力では、決して誘惑に打ち勝つのことできないものです。最初の人は、その誘惑に負けました。イスラエルも誘惑や試練に負けました。弟子たちも負けました。私たち人間は誰も生まれながらの力でも理性でも、この誘惑と試練に打ち勝つことはできません。罪人だからです。しかしこの箇所は、あなた方罪人が自らの力で誘惑に勝ちなさいという道徳や律法の教えでは決してありません。イエス様が言いたいのはそんな私たちに重荷を負わせることではありません。絶えることのない荒野の世の、悪魔の目に見える誘惑と巧妙な目に見えない両方の誘惑に対して、私たちはあまりにも弱いのですが、しかし、何よりイエス様が私たちのために、この十字架と復活で、打ち勝ってくださった。みことばで、そして十字架で。そしてその事実とそれが恵みとして私たちに与えられるこそがこの聖書に「こう書いてある」と今日もいつまでも変わらず、何よりも私たちに示されている救いの約束の核心ではありませんか?そして、事実、イエス様こそが同じようにこれからもこのみことばを持って誘惑を退けてくださるお方であり、十字架のイエス様こそが、今日も変わらず私たちに宣言してくださいるでしょう。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。
私たちは今日も罪を悔い改め、「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と豊かに罪を赦してくださるこの十字架のイエス様の福音を受け、安心してここから出ていきましょう。そのような私たちをイエス様は新しい週も主の勝利の器として豊かに用いてくださるのです。
今月の手芸クラブは22日水曜日に開催しました。朝はまだ冬の寒さでしたが昼間は太陽が輝いて暖かくなり春が近づいていることを感じさせました。
今回の作品はマクラメのコースターです。初めにコースターのモデルを見て自分の作りたいものを選んで、作品に必要な糸の長さを測ります。それから各自マクラメを結ぶ場所を準備して結び始めます。今回はマクラメの二つの基本の結び方を用いました。初めは巻き結びで一段を結びます。次は平結びで、コースターのメインの結びです。参加者の皆さんは楽しくおしゃべりをしながら結んでいきました。次第にレースのような模様がきれいに見えてきました。皆さん、結ぶ手が速く、あっという間にコースターの長さになりました。最後に巻き結びを一段結んでコースターの結びは出来上がりです。コースターのフリンジはお家ですることにしました。
皆さん、マクラメの結びに夢中になって時間が経つのを忘れるほどでした。あっという間にコーヒータイムになった感じでした。コーヒーの準備をして皆ホッとして座ります。手芸クラブの前の日はフィンランドのカレンダーではラスキアイネン「Laskiainen」という日でした。それで、その日にちなんだラスキアイスプッラというフィンランドのお菓子パンをコーヒー・紅茶と一緒に味わいました。中に生クリームがたくさん挟まっているお菓子パンです。皆さん美味しそうに頂きました。少し歓談の時を持ってから、モニターでフィンランドの景色と音楽のビデオを鑑賞しました。終わりにフィンランドのラスキアイネンについてと聖書のお話がありました。
次回の手芸クラブは3月29日に予定しています。日が近づきましたらホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。
昨日はフィンランドのカレンダーではラスキアイネンという日でした。イースター・復活祭の前の準備期間を四旬節と言います。40日くらいあります。四旬節が始まる水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれ、今日がその日です。ラスキアイネンはその前の日です。ラスキアイネンとは「下ること」を意味し、四旬節に下っていくという意味です。それが昨日で、今日から四旬節が始まりました。
四旬節に入る前、フィンランド人はラスキアイネンの日を特別な過ごし方で過ごします。ラスキアイネンが近づくと多くの家庭ではラスキアイス・プッラというお菓子パンを作ります。クリームがたくさんプッラの間に挟まったカロリーの高いお菓子パンで、家庭で作られるだけでなく、冬から春にかわる今の季節にお店で一番売られるお菓子パンです。昔フィンランドの教会ではラスキアイネンから断食の期間に入ったので食事は簡単なカロリーが少ないものでした。そのためラスキアイネンの日に人々は油や肉が沢山入っているカロリーが多い料理を食べたのです。カロリーが高いラスキアイス・プッラもその一つでした。
ラスキアイネンの日の習慣としてフィンランド人は雪の中をそりですべったり、美味しいラスキアイスプッラを味わったりします。大人も子供も寒い中をそりで滑った後で暖かい部屋に入ってラスキアイスプッラを暖かい飲み物と一緒に楽しみます。それがラスキアイネンの雰囲気を作ります。私は子どもの時、兄弟たちとラスキアイネンの朝に誰が一番早くそりで滑るかいつも競争しました。その日は学校に行く前に朝5時や6時頃にそりで滑ったこともあります。
そんなふうに子供の頃は兄弟たちとの競争心が強かったので、ラスキアイネンに朝早く起きるのは問題なく楽しいことでした。しかし今、早起きはどうでしょうか?日本の冬はフィンランドのように家庭の暖房が整っていないので夜が寒く、朝の早起きは少し辛いです。寒さだけでなく、周りでいろいろなことが起こると朝起きが大変に感じられます。しかし、新しい朝を迎えられるというのは本当は神さまに感謝すべきことなのです。特に年を取ると新しい朝を迎えられるのは当たり前のことではなく神さまからの贈り物であるますます考えられるようになりました。フィンランドに百歳近くの元宣教師の方がおられました。その人は新しい朝を迎えるといつも、「天の神さまはまた新しい朝を与えて下さった」と不思議そうに言いました。
旧約聖書の哀歌には朝について次のように書いてあります。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」哀歌3章2-3節です。この御言葉は、私たちは新しい一日を迎える時、いつも新たな力や新たな希望を持ってスタートできるという意味です。私たちはその日の為に計画がありますが、実際どんな日になるかは分かりません。計画したことが実現しないこともあります。しかし、そのような日にも天の神さまは私たちと共にいて導いて下さるので、その日は神さまからの贈り物になるのです。それで、哀歌のみ言葉に書いてあるように、「主の慈しみは消して絶えない。それは朝ごとに新たになる」のです。
毎朝新しい一日は天の神さまの恵みによって頂くものです。恵みとはどんなことでしょうか?私たち人間は正しいことだけでなく悪いこともしてしまいます。それは罪です。神さまは毎朝、私たちの心を罪が赦されて感謝に満ちた心にして下さいます。私たちは聖書の神さま以外に、罪の赦しの恵みを毎朝与えて下さる方を持つことができるでしょうか?
フィンランドの国教会の讃美歌集にはこの哀歌の箇所についての讃美歌もあります。フィンランドでよく歌われる讃美歌の一つです。その中の一節を訳します。
Joka aamu on armo uus, 毎朝、罪の赦しの恵みは新しくされる
miksi huolta siis kantaa! それなのに、なぜ、あなたは心配事を背負うのか?
Varjot väistyy ja vajavuus、 闇も弱さも退く
Jeesus voimansa antaa. イエス様が力を与えて下さる
Kiitos Herran, hän auttaa tiellä, 感謝は主に帰せられる、主は人生の歩みを助けて下さる
meidän kanssamme nyt ja aina on, 主は今も、そしていつも私たちと共におられる
täällä suo Isän suosion, 主はこの地上で父なる神の御心を私たちに向けて下さる。
rauhan luonansa siellä. 天の御国で神のみもとにいさせて平安を与えて下さる。
ユーチューブで賛美歌を聞く
キリスト信仰者の「信仰歴」とは、普通は洗礼を受けた後の人生を考えると思います。幼児洗礼の方なら、堅信礼が大事な節目になるでしょう。 また教会や教派の変更、さらには信仰の試練や危機を乗り越えたことも信仰歴の中に加えられるでしょう。
そういう信仰歴に含まれないことですが、洗礼に至る前に「主の導き」に実際に導かれるようになる期間があることを忘れてはいけません。父なるみ神は全ての人をイエス様を救い主と信じるように導いているので「主の導き」はいつどこででもあります。ただ、多くの人は気づかなかったり知らなかったり、知らされても疑ったり受け入れなかったりしています。そのために福音の伝道が行われるのです。そして、受け入れた人たちが信仰を携えてこの世を生きられるようになるために教会の礼拝があるのです。
先日礼拝前のこと、東京で雪が降ったことに関して木村先生に、私、九州出身で子供の頃、東京に引越して来たら寒い所だと思いました、と言ったところ、「九州のどこ?」、「博多です」、「博多のどこ?」、「最初は香椎、次は貝塚、小学校は箱崎」、「あの辺はよく知ってるよ、僕は聖ペトロ教会の牧師だったから」、「私は香椎のカトリックの幼稚園に行っていました」、「ああ、あそこね、九州にいたのはお父さんの仕事の関係?」、「大丸でした」、「昔、大丸の向かいのビルに九州のルーテルアワーの本部があったんだよ」。
なんだか話しているうちに私は、自分は幼い時からキリスト教に方向付けられていて、それもルター派がその頃から私を招いていたような感覚に襲われました。それはまた、今自分がルター派のキリスト教徒であるのは、人生の細かい紆余曲折はともかく、大局的に見たら一貫していたと感じさせ嬉しく思いました。
キリスト信仰者は洗礼前の自分を振り返る時、例えばミッション系の学校だったとか幼稚園だったとか、そういう洗礼がなかったら経歴上大きな意味を感じないものを、とても大きな意味があると見なします。そういう出来事を紡いで本当の自分の経歴にします。皆さんも振り返ってみれば、小さくても今思えば主の導きだったと思える出来事がいろいろあったことに気づくのではないでしょうか?そんな経歴を作ってみませんか?
2023年2月19日(日) 主の変容主日 主日礼拝
聖書日課 出エジプト記24章12-18節、第二ペトロ1章16-19節、マタイ17章1-9節
本日の福音書の日課は、イエス様が高い山の上で姿が変わるという変容の出来事についてです。弟子のペトロとヤコブとヨハネがそれを目撃しました。この出来事は、私たちルター派は聖餐式をどう考えているかを理解する手助けになると思います。今日はそのことについてお話しします。
聖餐式はキリスト教会の神聖な儀式ですが、それがいかなる儀式かについて教派によっていろいろ考え方の違いがあります。ルター派の考え方は、アウグスブルク信仰告白の第10条に端的に述べられています。「聖餐式ではキリストの体と血は本当にそこにあるのであり、キリストの体と血は受け取って摂取する者に分け与えられるのである。」
「キリストの体と血」と言うように「体」と「血」を別々に言っていますが、「体」と「血」というのは合わせて人そのものを意味します。それで、聖餐式ではキリストそのものがそこにおられ、聖餐に与る者はパンとぶどう酒を口にすることでキリストを摂取するということになります。ここで理解できないことがいろいろでてくると思います。これからそれらを一つ一つ見ていきますが、まず初めに忘れてはならない一番大事なことは、ルター派にとって聖餐式とは、イエス・キリストが本当にそこにいるという儀式であるということです。確かに目には見えないが、実は本当にそこにいるというのです。ラテン語の原文で「本当に、実際に」と強調しているのはそのためです。
見えないのにいるだなんて、まるで幽霊みたいで気持ち悪いと思う人も出るかもしれませんが、でも、幽霊とかそういう問題ではないのです。それは聖餐式のパンとぶどう酒は何かがわかるとわかります。ルター派では、正当に職務に定められた牧師が聖餐式を執り行います。その時、儀式の設定のための聖句をパンとぶどう酒に語りかけると、パンとぶどう酒はただのパンとぶどう酒ではなくなって聖餐式用のパンとぶどう酒に変わる、つまりイエス・キリストがその場に本当にいることを可能にするパンとぶどう酒に変わるというのです。
それは、パンとぶどう酒を介してイエス・キリストがその場にいるということです。パンとぶどう酒を介してその場にいるということをルター派は次にように説明します。キリストがパンとぶどう酒の中におられる、パンとぶどう酒と共におられる、パンとぶどう酒という外見の下におらえる、そういう、中に、共に、下に、という三つで、キリストとパンとぶどう酒の結びつきを考えます。
なぜルター派は聖餐式をこのように考えるのかと言うと、それが、イエス・キリストの本質にピッタリあうからです。イエス・キリストの本質とは、神であり同時に人間でもある方であるということです。外見は紛れもなく人間であるが、外見の下に神のイエス・キリストもあるということです。このように、神という超越するものが人間という超越していないものと組み合わさっているというのがイエス・キリストの本質です。聖餐式でイエス様が本当にいるというのも、パンとぶどう酒という超越していないものにイエス・キリストという超越したものが組み合わさっているから本当にいるのです。
他の教派の聖餐式の考え方と比べると違いがはっきりします。カトリック教会は、パンとぶどう酒は本当にイエス様の血と肉に変質すると強調します。イエス様が、これは私の肉である、私の血である、と自らおっしゃったからです。もちろんパンはパンの味で、ぶどう酒もぶどう酒の味のままですが、聖餐式で摂取するのは本当はパンではなくイエス様の肉であり、ぶどう酒ではなくイエス様の血なのです。恐ろしい位に神聖な感じがします。しかし、そうなると、パンとぶどう酒はなくなってしまうことになり、全てのものが超越的なものになります。ルター派のポイントは、超越的なものが超越的でないものと組み合わさっているというものです。
これと対照的に宗教改革のもう一つの雄であるカルヴァン派は、聖餐式はイエス様が裏切られ十字架にかけられる出来事を記念する儀式であることを強調します。イエス様が記念のためにこれを行いなさいとおっしゃったからです。しかし、そうすると、超越的でないパンとぶどう酒はあるが、超越的なものとそれはどう結びつくのだろうかとルター派は考えてしまいます。
もちろんカトリックもカルヴァン派のどちらも聖書の中のイエス様の言葉に基づいて聖餐式を考えます。イエス様はこれは私の肉である、血であると言っているし、また、記念のために行いなさいとも言っています。じゃ、ルター派はそれらの言葉をどう考えるのか?この問題について、ルター派は彼らのような明快な答えは出せないと思います。それでも、ルター派はやはり、イエス・キリストは神であり同時に人間であるお方であるということにこだわって聖餐式を考えます。それなので、イエス・キリストはパンとぶどう酒を介して本当にそこにいるという立場を取らざるを得ないのです。このように聖餐式の考え方の違いがキリスト教会を分裂させているというのは残念ながら本当のことです。私は、ルター派の立場で話を進めていきます。
2.
さて、聖餐式でイエス・キリストが本当にそこにいるとなると、一つ大きな疑問が起きます。それは、イエス・キリストは復活して天に上げられて今は最後の審判と天地の再創造の日まで天の父なるみ神の右に座している、と毎週礼拝の使徒信条で唱えているではないか、それとどうかみ合うのか?という疑問です。天のみ神のところにいるはずなのに聖餐式の時に降って来るのか?しかも、聖餐式が同じ日に多くの教会であったら、イエス・キリストはそのどこにでもいるということなのか?それでは分身の術を使っているみたいではないか。天にいるはずなのに聖餐式の時になると降って来て、しかも同時多発的に降って来て、聖餐式が終わるとまた一斉に天に戻るということなのか?
もちろん、そういうことではありません。イエス・キリストはもちろん聖餐式の時も天の父なるみ神の右に座したままです。それならば、聖餐式の時に本当にいるというのはどういうことなのか?この種の疑問は信仰歴が長い方はさほど問題に考えていないと思います。人間の理解力では理解できないが、そういうものなのだ、と受け入れているからです。ルター派はそういう諦めのよさがあると思います。およそ神に関することは人間の理性や理解力では把握できないことだらけである、もし把握できてしまったら、それは神が人間並みになってしまうことだ、だから、こうとしか言いようがないことはそうしかない、イエス・キリストは天の父なるみ神の右に座していると同時にこの地上での聖餐式にも本当におられる、そこには時間と空間を超えた途轍もないことがある、そう観念してしまうのです。そうすることで、自分を神よりもはるかに劣った者に、神を自分よりもはるかに高い方に留めておくのです。私もそのように観念するようになっていったのですが、聖書のみ言葉そのものがそう観念するように導いたと思います。今日の高い山の上での出来事も、よく見ると、天にいるイエス・キリストが聖餐式の時にもいるということは可能であると納得させてくれるところです。これからそれを見ていきましょう。
3.
高い山の上で何が起こったでしょうか?イエス様が変容して光り輝き出しました。そこにモーセとエリアが現れて弟子たちの見ている前でイエス様と話し始めました。ペトロが三人のために幕屋を建てますと言った時、輝く雲が三人を覆って、雲の中から神の声が轟きました。「これは我が愛しむ子なり、わが悦ぶものなり、汝ら之に聴け」と。弟子たちは恐れおののいて地に伏してしまいました。するとイエス様が彼らの所に来て、手でさするか軽く叩くかして安心させるように言いました。「起きて立ちなさい。恐れなくてもよい。」弟子たちが恐る恐る目を開けてみるとイエス様の他にはもう誰もいませんでした。イエス様も変容する前のイエス様に戻っていました。以上が、山の上での出来事でした。山から下る時、イエス様は弟子たちに、この出来事は自分が死から復活した後で公けに話すようにと命じました。
初めに、イエス様が白く輝いたことについて。イエス様の顔が太陽のように輝き出して、着ているものも白く光り出しました。黙示録1章16節を見ると、ヨハネが天の父なるみ神のもとにいるイエス様を目撃します。その顔は太陽のようであったと言います。私たちは太陽を目で見ることはできません。ほんの瞬きする間くらいしか見れません。その色は白に近いですが、輝きが強烈すぎて見極めることのできない白です。イエス様の顔も着ているものも白く輝いたというのは、このヨハネが目撃した、天のみ神のもとにいるイエス様と同じです。つまり、山の上でイエス様は神としての本性を現わしたのです。人間の外見が外されて、外見の下に隠されていた本性が現れたのです。
そこにモーセとエリアが現れました。二人の出現はこの出来事を理解する上でとても大事です。かたや紀元前1300年代、かたや紀元前800年代の遥か昔にこの世を去った人たちです。これは幽霊でしょうか?でも、幽霊だったら、ペトロたちはきっと恐怖に慄いたでしょう。彼らはイエス様が死から復活して目の前に現れた時、幽霊だと思ってパニックに陥りました(ルカ24章36~43章)。しかし、山の上ではそうなりませんでした。どうしてでしょうか?
当時、ユダヤ民族の間ではエリアがいつか再臨するということが信じられていました(マタイ17章10ー11節、マルコ9章11ー12節)。この世の終わりが近づくと、天からエリアが再臨して神の裁きを準備するというのです。つまり、エリアは天のみ神のもとにいて待機しているのです。でも、これは変です。聖書には死者の復活ということが言われているのではなかったか?この世が終わる時に最後の審判があって、死んだ者と生きた者が一緒に裁かれる、そこで神の目によしとされた者は復活の体を与えられて神の国に迎え入れられる。そうすると、最後の審判の日の前にこの世を去った者たちは神のみぞ知る場所にいて眠りについていることになります。眠りから目覚めさせられるのが復活ということになります。これが聖書の立場です。それなので誰が天国に行けるのか行けないのかという問題は、この世の終わりまで待たなければわからないのです。それなのに、モーセとエリアが天から来たというのは、この世の終わりを待たずに天国に入れたということになります。
エリアに関して言えば、その点は問題ないと思います。というのは、列王記下2章にあるように、エリアは生きたまま神のもとに引き上げられたからでした。それでエリアは既に天のみ神のもとにいて、世の終わりの時に再臨すると信じられたのです。このように聖書は、将来の終末や復活の日を待たずして既に天に迎え入れられた者があるということを認めているのです。ところが、モーセの場合は少しやっかいです。申命記34章を見ると、彼はモアブの地で死んだとありますが、神自身が彼を葬ったので誰も彼の埋葬地を知らないと謎めいたことを言っています。それで、モーセは一度死んだが復活の日を待たずして神のみ許に引き上げられたと考えることが可能です。実際、イエス様の時代のユダヤ教社会にはモーセは既に天に上げられたと伝える書物「モーセの昇天」があったのです。ただし、その書物は一部分しか現存しておらず、肝心のモーセの昇天のところは欠けていて、残っているのはモーセがヨシュアに預言を述べる部分だけです。
そうなると高い山の上での出来事は、復活の日を待たずにして天に迎え入れられたモーセとエリアが神の本性を現わしたイエス様と一堂に会しているということになります。そして輝く神の雲が現われ、その中から神の声が轟きました。天の御国がすぐそばにあったことになります。高い山の上で、天の御国の扉が開いたのです。ところで、神がおられる神の国は天の国と呼ばれるので、いつも空の上にあるようなイメージがわきます、しかし、それは高度何万メートルの高い所とか宇宙空間にあるのではありません。天と言っているのは、私たちの手に届かない所にあるということを象徴的に言っているのです。神の国は、目で見えて触ることができるこの世の反対側にある世界だとイメージしたほうがいいと思います。こちらの世界の裏側に天地創造の神がおられる世界がある、と言うか、あちらが表でこちらが裏と言うのが正解でしょう。とにかく、そんな次元が全く異なる世界があるのです。その世界が高い山の上で間近にあった、あたかもその世界の扉が高い山の上で開いたのです。
イエス・キリストが聖餐式に本当におられるというのも、山の上の出来事と同じように考えてよいと思います。正当に職務に定められた牧師がパンとぶどう酒に御言葉を語りかけて聖餐式が始まる段になると、そこで天の御国の扉が開いてイエス・キリストがそこにおられるのです。全ての聖餐式が行われるところで扉が開き、全てが一つの御国におられる一人のイエス・キリストに通じるように接するのです。同時多発的に降って来るなんてことはないのです。御言葉を語りかけられて聖餐式用に変えられたパンとぶどう酒、それらが御国の扉を開いてイエス・キリストに接近できるという途轍もない状況を生み出しているのです。真に聖餐式の場はこの地上の世界と天の御国が接するところです。
4.
実に、この途轍もない状況を生み出しているパンとぶどう酒を私たちは頂くのです。アウグスブルク信仰告白の第10条では、「キリストの体と血は、これを受け取って摂取する者に分け与えられる」と言われます。私たちが本当にいるイエス・キリストを摂取するというのはどういうことでしょうか?イエス様を食べてしまったら、いなくなってしまうではないかと心配する人もいるかもしれません。それになんだか人食い人種みたいです。
そういうことではありません。イエス・キリストを摂取するというのは、イエス様が自分の命と引き換えにしてまで私たち人間に果たしてくれたものを摂取するということです。彼が命を犠牲にしてまで私たちに果たしてくれたものとは、人間の罪の償いであり、人間を罪の呪いから贖うことです。イエス様はこれをゴルゴタの十字架の上で果たされました。
私たち人間は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって、これを自分のものにできます。罪を償われ、罪から贖われたので、神から罪を赦されたものと見なされて神との結びつきを持ってこの世を生きることができるようになります。
しかしながら、キリスト信仰者と言えども、まだ肉をまとっており、それは神の意思に反しようとする性向、罪を宿しています。そのためにキリスト信仰者は罪の自覚とそこから来る罪の赦しの祈り、それに続く罪の赦しを頂くことを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消えないから罪に負けているように感じます。しかし、この繰り返しは、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きている証しです。この繰り返しは実は、罪を手段にして神との人間の結びつきを失わせようとする悪魔にとって痛手になるものです。繰り返しをやめるようにとあの手この手を使って人間をそそのかしたりやる気を失わせようとします。
これに対して聖餐式のパンとぶどう酒は、キリスト信仰者が洗礼の時に自分のものにした罪の償いと罪からの贖いを手放さないようにする力を与えます。罪の自覚と赦しの祈りと赦しを頂くことの繰り返しを続ける力を与えます。聖餐は真にキリスト信仰者の霊的な栄養なのです。私たちが聖餐を受ければ受けるほど悪魔は苦しくなって叫び声をあげます。詩篇23篇の5節で「主は私の敵の前で私のために食卓を整えて下さる」と言っているのはまさに聖餐式のことです。新共同訳では「私を苦しめる者を前にしても」ですが、それでは聖餐式のことを言っているのか見えにくくなります。せっかくヘブライ語の言葉ははっきり「私の敵」と言っているのだから、そう訳すべきでした。
最後に聖書の原語からもう一つ、聖餐式の神秘に近づける発見があるのでお教えします。新共同訳ではイエス様と三人の弟子が「高い山に登られた」と言っています(1節)。ギリシャ語原文では、イエス様は三人を「運び上げた」と言っています。単に「登った」というのは無責任な訳だと思います。「運び上げた」のです。「運び上げた」とはどういうことでしょうか?舞台になっている「高い山」は間違いなく、現在のレバノンとシリアの国境にあるヘルモン山という標高2814メートルの山です。麓のフィリポ・カイサリアの町から出発したら標高差2000メートル以上を登らなければなりません。目的も告げられず登山につき合わされた三人の弟子たちはなんでまたこんなことを、とブツブツ言いながら登ったのか、それでイエス様はおんぶとまではいかなくとも、叱咤激励しながら登ったので「運び上げた」という言い方をしたのか?真相はわかりません。ただ、一つはっきりしていることは、イエス様は三人をこの地上の世界が天の御国と接する場所に連れて行った、そのことを「三人を運び上げた」という言い方は意味しているのです。
同じことは聖餐式でも起こります。聖餐式を行いなさいと命じたイエス様は、聖餐式に与る私たちキリスト信仰者をこの地上の世界と天の御国が接する場所に運び上げて下さるのです。聖餐式に与る度に、何度も何度も運び上げて下さり、最後は本当に天の御国に到達できるようにして下さるのです。そこには、神の神聖さに焼き尽くされないように守ってくれる雲はもうありません。肉の体に代わる復活の体を着せられた私たちにはもうそのような防御壁はなくても大丈夫だからです。パウロが、旧い世でおぼろに映ったものを見ていたことはなくなり、顔と顔を合わせてみることになると言っている通りになるのです(第一コリント14章12節)。
「神との和解」 2023・2・12(日)
マタイ福音書5章21~34節
今日の御言葉は、有名な「山上の垂訓」と呼ばれる、マタイ福音書5章です。 1節の始めを見ますと、「イエスは、この群衆を見て山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで口を開き教えられた。」とあります。「山に登られた」とありますが,ガリラヤ湖を望む高原の小高い丘であります。ここを読む毎、私はイスラエルの旅でこの場所に立った時の事を思い出します。周りを木々に囲まれた森のような下で、世界中から訪れるクリスチャンが皆な手を取り合って輪になって祈り合っています。教会が建てられ眼下にガリラヤ湖が広がって素晴らしい所です。この場所でイエス様は弟子たちに大切な教えをなさったのです。さて、今日の聖書は5章21節からです。実は17節から20節までのところでは「十戒」についての大変きびしい教えです。律法の中心は十戒です。そして、今日の聖書の21節から48節までは、その十戒の中の五つだけを取り上げて語っておられます。その一番初めに「殺すな」という戒めについて教えられています。21節から見ますと「あなた方も聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」人を殺す、と言うことはどんな意味でも決して許されるものではありません。ところが現実の世界を見てください。戦争という名のもとに多くの人々が殺され家を壊され、人の生活が破壊されています。しかも、何年も続いている。次にイエス様は何と言われたかというと、22節「しかし、わたしは言っておく、兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院に引渡され『愚か者』と言う者は火の地獄に投げ込まれる。ここで、イエス様は誰でも怒った者は裁きに合う。と言われました。怒った者は殺したも同然だ、とは言われてない。しかし、両方とも裁かれるのだ、と言っておられます。ここには人を憎んだら、とは言われません。怒ったら、と言うのです。怒ることは憎むことよりもっと悪いことは言うまでもありません。もし、そうであるなら私たちはどうでしょうか。たびたび怒ってしまいます。頭に来た!とか、腹がたつ!と感情的になってしまいます。そうすると、イエス様の言葉からすると、私たちもたびたび殺人に等しい罪を犯している。怒ったから、と言って殺人にまで発展する事はありませんが、イエス様は同じように裁きを受けるのだ、と言われます。大変きびしい言葉であります。人を殺した者が裁きにあうことは分かります。当然です。しかし、怒った人が裁きにあう等と言うことは私たちには、とても考えられない。この当時、ユダヤ人の間では怒った者は裁判にかけられた、というのです。しかもその怒りと言うものは、いつまでも忘れない怒りであります。そこのところが大切な事です。怒ると、どうして殺した、事と同じになるのか、理屈ではない。どちらも神の裁きにある、ということです。普通の常識では考えられない、ことでありますが、ただ信仰を持っている者だけが信じる事のできることです。信仰者にとってはどちらも神の前に行われることでことでありまして、怒られた人も又神によってつくられた兄弟であり一人一人尊い人格を持った人でありますから、従って、怒ったら神に対して責任を取らねばならない事だからです。イエス様が神の目を持って人間に対して鋭く神の世界、信仰の世界から言われるのです。神に対しての責任からして、神の裁きを受けるのだ、ということ。神の裁きということが信仰生活の中で何か古い事のように思われて、私たちの実感として、どれ位あるのか問われているわけです。私たちは神のことを第一にする、と言いますが神様の生きた働きがはっきりと実感として、受けとめられた生活であるか、どうか問われています。「裁き」というのは、神が私たちの中で、私たちのすること、なすことに正しく判断なさる、自分に都合のいいような、曖昧な事はなさらない方である、という事です。神が「私の中に生きておられる」ことを信じる、ことであります。神の裁きがある、と言っても、いつもびくびくして、生きるということではありません。神が生きておられる、 このこ事を信じて生きることです。この事をイエス様は、この教えの中ではっきりさせたい、と思われているのです。
次にイエス様は言われます。「兄弟に向かって、愚か者、と言う者は議会に引き渡されるであろう。」そうすると、怒るというのは「兄弟に対して愚か者」と言うことと同じになります。しかも、「愚か者」と言ったら議会に引き渡されるのですから、怒った者が裁きに会う、というのは、やはりユダヤ人たちの裁判にかけられる、ということであります。ユダヤで議会というのは国会のようなものです。この当時ではユダヤ人たちの生活の中心になっていた所です。祭司が議長になって、全部で71人で構成されていました。いずれにしろ、怒ったり、愚か者と言う者は何れかの社会的制裁を受ける、という時代であったのです。イエス様は、そういうユダヤの現実社会の事実を取り上げて、御自分の考えと神の子の権威を示そうとしておられます。その後、又、又凄く厳しい言葉を言われます。「ばか者、と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」と。これは大変な事であります。なぜ、イエス様はこれ程まで、厳しく言われるのでしょうか。どんな意味がそこにあるのでしょうか。この事は5章21節から5章の終わりまで十戒の内の五つの戒めを引き合いに出して同じ形式で言っておられます。みんな通じる事です。その形式は「あなた方も聞いているとおり、と『十戒の戒め』をあげて、しかし私は言っておく、と宣言して厳しいイエス様の常識では考えられない厳しい言葉をもって踏み込んで宣言しておられます。例えば、「敵を愛しなさい」と言われる。43~44節を見ても同じ形式です。あなた方も聞いているとおり「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイが、この福音の中で証し示そうとしたのは、そうした「厳しい言葉を宣言される、お方が来られた」という事であります。このお方は律法に対してさえ「わたしは言う」と言って全く同じ権威を持っている事をお示しになったお方でありました。4章17節で、イエス様はガリラヤ伝道を始められる時、「天の国は近づいた」と言われた。天の国、つまり「神の国が来た」ということは文字通り大変なことであります。それは、「神の支配が来た」ということだからです。今まで、この世界は誰が支配していましたか。ヘロデ王ですか、ローマ皇帝ですか。或いはこの世を支配しているのは政治家ですか。いや、やっぱり金が支配しているのだ、と言うかもしれません。律法学者の律法かもしれません。ところが、いまや、神が支配されることになった。と言うのであります。神の御子が神の国をもたらす時が来た。このお方は神の支配を口にし、神の支配をもたらし、実行し、ついには十字架の死と復活をもって、証明する、そういうお方が言われているのです。「わたしは言う」と、ここに権威があるのです。それは、ただ口先で「神の国は来た」と言われるのではありません。このお方の全生涯を通して、実行されて行く背景があるのです。その背景は神の御子イエスの歴史であって、天の御父が、彼と共に従順を通して復活まで共に行かれたものです。「わたしは言う」と言われる言葉の力はここにあるのです。それは、神の御子であられるイエス・キリストの歩まれた道、でわかる、ということです。それを、もとにして「わたしは言う」と言われるのであります。5章から7章までの「山上の教え」の全ての言葉がこれにかかっているわけです。私たちの「兄弟に対して愚か者」と言うなら地獄の火の裁きを受けねばならない。これを言われたら絶望してしまうでしょう。そういう絶望してしまう弱い立場の者の事をみな知った上で、それに対する救いをも、もたらして下さる、十字架の死をもって、その罪を身代わりに受け、復活して、永遠の生命を与えて下さる、その用意をされて告げておられるのであります。イエス様は神の裁きの厳しい宣言を誰に語っておられるか、と言いますと、山上の説教を聞いている人々、特に弟子たちに語られている。もっと言いますと、この言葉は神によって生きる信仰をもった人々、つまり後の教会生活をする信仰者、すべての人々に向かって言われる言葉であります。
だから、マタイは兄弟という言葉を度々使っています。それは、教会の中の兄弟でもあります。信仰者の間で「ばか者」と呼ばわりするような者は地獄の火の裁きである、ということです。教会ではお互いに愛し合う兄弟姉妹です。従ってキリストにあって罪があることを知らされ、キリストによってそれが赦された、ことを知って互いに愛し合うのであります。それならば、「殺さない」ということは勿論のこと、「怒らない」ことも兄弟に対して「愚か者」と言ったりしない生活ができるのは教会の中であります。ところが、現実には信仰者は教会の枠を超えた、この世の只中に生きている、そこに生けるキリストも共に働いて下さる。パウロは、ローマ人の手紙の中で4章8~15節に次のように書いています。「私たちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死にます。だから、生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のもの、なのです。キリストは死んだ者と、生きている者の主となるために死んで、復活されたのです。それだのに、あなたは、なぜ兄弟を裁くのですか。なぜ、ばかにするのですか。キリストは兄弟のためにも死なれたのです。」イエス様は腹の立ついやな奴のためにも十字架に死なれたのです。私たちは、どうしても赦せない恨みでイエス様を苦しめてしまったのです。そこで、次にマタイ5章23~24節を見ますと、イエス様は仲直りをせよ、と言っておられる。前の方で怒る者は裁きにあう、と言って後の方では恨みを受けるなら供え物をする前に和解しなさい。と言っています。「殺すな」という戒めから話がこのように進んできた。よく考えてみると裁き、と和解とは決して関係がないもの、ではない。むしろ裁きは当然、和解を求めるはずでありましょう。裁きは裁きだけで終わるはずがありません。何故ならそれでは何の救いもない、結果は破滅に向かうだけだからです。戒めは「殺すな」ということであっても、滅びに終わるはずはないのです。「殺すな」と言って、ただ殺さなければ良いと言うものではない。その戒めが深刻に扱われれば扱うだけ救いに近づくことになるはずであります。重要な事は、それが礼拝と結びついている、ということであります。「殺すな」という戒めを考えた、そこから「怒るな」ということになって、それを礼拝の前に持って行けばどうなるでしょう。イエス様は、わたしは言っておく、と言って「愚か者」という者は火の地獄に投げ込まれる。23節で、突然、だから「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを、そこで思い出したら・・・・」と書いてあります。「そこで思い出したら」とあります。祭壇の前では私たちに隠されていた多くの事が突如として頭に浮かんでくる、と言うのです。礼拝の話が語られて行くのです。礼拝では今まで考えていなかった事が急に思い出される。つまり、神の前に、あらゆる意味で自分の罪の深さを、改めて思わされる、というのです。それで、礼拝に於いて一番初めに罪の告白をいたします。実際に礼拝に於いて、思い出す事は、恨みや、憎しみ、自分のした事、罪として告白すべき、いろいろな事であります。そういうことを、ここで思い出す、ことは何のためか、と言いますと、自分が犯した罪によって神の裁きに会わねばならない、という問題があるからです。もし、そうであるなら、それは怒った時と同じです。怒ったら裁きに合うのだ。そしてついには神の裁きに合うという事になるはずであります。そこで、礼拝に於いて裁きを受けねばならない立場にある、自分が神から赦していただくことであります。つまり、神との和解と言っても良いでしょう。なるほど、私たちは罪を赦されているにちがいない。罪を赦された、と言うのはいつでも赦しの言葉を聞いている、ということです。絶えず、礼拝の度に赦しの声を聞き、それを信じていることであります。洗礼を受けて信仰に入っている、と言うことは、いつでも悔い改めて、神からの恵みを新たに信じる用意が与えられている、ということです。ある人が言いました。「神の赦しを真剣に求める者は兄弟に向かって、行った正しくない事をも考える。このような思い出しこそ、神礼拝が私たちにもたらす祝福である」と。どこまでも、まことの赦しは、神からのみ出るのであります。神との和解が人との和解へと変えて行くところに祝福があるのです。 アーメン
人知では、とうてい測り知る事の出来ない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン