9月25日礼拝後に聖書研究会が開かれました。ローマ10章1~11節を、「心で信じて口で公けに言い表してどうやって救われるのか?」というテーマで吉村宣教師が解説しました。質疑応答の時の話し合いを考慮に入れて、宣教師がまとめたものを以下に紹介します。

テーマ「心で信じて口で公けに言い表してどうやって救われるのか?」

聖書箇所 ローマ10章1~11節

1.はじめに

ローマ10910節でパウロは「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公けに言い表して救われるのです。」と言います。これをどのように理解したらよいでしょうか?925日の聖書研究会の質疑応答の時、これは迫害を前にした時のキリスト信仰者の心構えと理解できるという意見がありました。私は、ここは、律法を行うことで神から義とされ救われるというユダヤ教の伝統から決別した信仰の有り様を表現していると教えました。迫害の心構えの役割を持つようになったことは否定しませんが、それは後のことで、パウロがこれを記述した時点では、ユダヤ教の伝統から決別したキリスト信仰の有り様であったということを以下に見ていきます。

2.104

新共同訳では「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」とあります。「目標」と言っているギリシャ語の言葉テロスの意味は「終わり」とか「終着点」です。それで、

「キリストは律法の終わり/終着点です。信じる者全てに義がもたらされるための」となります。「律法の終わり」とは、律法が廃棄されるとか消滅することではありません。ローマ3章から7章までを振り返ればわかるように、「律法の業を行うことで神から義とされる」という有り様が終わりということを意味します。このようにこの節は前に述べられたことが凝縮されています。これを踏まえないと後に続く箇所がわからなくなります。

3.1058

新共同訳では「(5)モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。(6)しかし、信仰による義については、こう述べられています。『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。(7)また、「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。(8)では、何と言われているだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

「キリストを引き降ろすことにほかなりません」と聞くと、キリストを引き降ろしてはいけないと言っているように聞こえます。キリストは天にいなければならないのだと。これはその通りかなと思わせますが、「キリストを死者の中から引き上げることになります。」はどうでしょうか?キリストを死者の中から引き上げてはいけないと言っているように聞こえ、キリストは死者の中にいなければならないような感じがします。これは完全におかしいです。この58節が正しく理解できないと、問題の910節も理解できません。

58節の理解には、パウロがここで土台にしている申命記301114節を見ないといけません。

申命記301114節(新共同訳)

11)わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。

12)それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない.

13)海のかなたにあるものでもないから、「誰かが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。

14御言葉(※)はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

 ヘブライ語のダーバール。意味は「言葉」の他に「もの事」、「事柄」、「出来事」です。ここでは神の戒め、律法を指すことは1113節を見れば明らか。

この申命記の個所で、律法は遠くにない、とても身近にある、口と心にある、だから行える、それ位身近にあるということを言っています。一つ注釈すると、ヘブライ語の原文は「行うことができる」ではなく、「行うことができるように口と心にある」が正確です。新共同訳は少し楽観的かなと思います。

この申命記の個所を土台にすると、ローマ1058節で、キリストを引き降ろすとか引き上げるとか言っているのは、キリストは引き降ろすには及ばない位に身近にある、引き上げるに及ばない位に身近にあるという意味であることが分かります。それでその個所をギリシャ語原文に忠実に訳すると以下のようになります。

5)モーセは律法に由来する義について次のように書いた。

 「律法の掟を行う人は掟によって生きることができる。」(レビ185節)

6)しかし、信仰に由来する義は次のように言う。

 「心の中で『誰が天に上がっていくことができのか?』などと聞いてはいけない。そんなことを言うと、キリストをそこから取って来るということになってしまう。(キリストはそんな遠くにはいないのだ!)

(7)また、『誰が深い所に下って行くことができるのか?』などと聞いてもいけない。そんなことを言うと、キリストを死者のところから取って来るということになってしまう。(キリストはそんな遠くにはいないのだ!)

8)そんなことではない!(申命記に)何と言われていたか?

 「御言葉(※)はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある。」

 すなわち、これが私たちが宣べ伝えている信仰の言葉(※)なのです。

「御言葉」も「言葉」も両方ともギリシャ語のレーマです。「言葉」なのに有名な「ロゴス」でないことに注意。レーマの意味は広く、「語られた事」から転じて「言葉」、「教え」、「預言」、「約束」、「話題」、「起こった事」、「物事」、「事柄」の意味を含みます。パウロは申命記3014節のダーバールにこのレーマを当てはめました。というより、旧約聖書のギリシャ語訳で既にレーマと訳されていたのです。

 「御言葉はあなたの近くにあり」の「御言葉」は何を指すか?67節から明らかなように「キリスト」です。パウロは69節で、「キリスト」と「イエス」を使い分けています。「イエス」と言うと、地上にいた時のイエス様の意味になります。「キリスト」と言うと、十字架と復活の業を遂げて今天の父なるみ神の右に座して将来再臨する方という意味が強くなります。

 この「御言葉」は、「言葉」、「教え」、「預言」、「約束」、「話題」、「起こった事」、「事柄」なので、キリストそのものを越えてキリストが十字架と復活の業によって成し遂げた贖いを含みます。それを象徴するものとしてのキリストです。そのキリストの贖いが申命記の律法に代わって、口と心にある位に身近になったのです。大きな入れ替えかもしれませんが、言葉上はダーバールがレーマという同義語に代わっただけになっています。

そこで、8節終わりの「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」について。この「言葉」は先ほどの「御言葉」と違います。「御言葉」はキリストとその贖いを指しました。ここの「言葉」、これもレーマですが、なんの「事柄」でしょうか?

新共同訳のように「信仰の言葉」とすると、前にある「御言葉(=キリストの贖い)はあなたの近くにあり云々」が「信仰の言葉」になります。そこで、これを「信仰の事柄」とすると、「御言葉(=キリストの贖い)はあなたの近くにあり云々」は「信仰の事柄」ということで、「信仰の内容」とか「信仰の有り様」ということになります。つまり、「キリストの贖いはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある」というのが信仰の内容、信仰の有り様になるのです。

「私たちが宣べ伝える信仰の言葉」はまた、「私たちが宣べ伝える事柄すなわち信仰」とも訳せます。そうすると、「『キリストの贖いはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある。』これが私たちが宣べ伝えている事柄すなわち信仰なのです。」この場合も、キリストの贖いが口、心の中にある位に身近にあるというのが信仰の有り様であることを言っています。

4.10章9~10節の理解

以上のように8節は、イエス・キリストの十字架と復活の業による贖いが洗礼を通してキリスト信仰者の内に注がれて口と心の中にある、それ位身近にあることが信仰であると言っています。あとは、キリストの贖いをそのまま口や心の中に留めて身近なものにしていれば救われるのです。口にあるからそれを公けに言い表すのは自然なこと、心の中にあるから心で信じているのは自然なことなのです。言い表すことと心で信じるということは口や心の中に留めていることなので救われていることなのです。これが9節の意味です。10節はユダヤ教の伝統から決別したことを念頭に置いて見たら次のように言い換えることが出来ます。「かつて律法を行うことで人は義とされ救われるとされていたが、キリストが贖いを成し遂げて洗礼が設定されてから以後は、人は心で信じ口で公けに言い表して義とされ救われるのである。」

5.終わりに

以上、ローマ10910節は、申命記に照らし合わせて見ていくと、ユダヤ教の伝統から決別したキリスト信仰の有り様を言い表していることが明らかになったと思います。この大転換は、パウロが手紙を書いた当時の人たちだけではなく、その後の時代の人たち、現代を生きる私たちにとってもキリスト信仰を理解する大事なポイントであり続けていると思います。

それから、この個所が迫害を前にした心構えになるということについて。パウロがローマの信徒たちに手紙を書いたのは西暦50年代です。皇帝ネロの治世の西暦64年にローマで大火災が起こり、キリスト教徒が犯人扱いされ大きな迫害が起こりました。伝説によれば、パウロの殉教はこの迫害の時とも言われています。キリストの贖いが口と心の中にあるのが信仰であるという教え、そして、その口にあるもの心にあるものを言い表しつつ信じることで、律法がなしえなかった義認と救いを得られるという教えは、迫害を前にしたパウロ本人をはじめ、この手紙から学んだローマの信徒にとって心構えになったのは間違いないでしょう。

現代を生きる私たちも、このユダヤ教の伝統からの大転換をわかった上で、口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死から復活させられたと信じると、本当にキリストの贖いが口と心の中にあるというふうになるでしょう。(了)

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