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ニュースブログ | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

説教「パウロの大回心(かいしん)と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録9章1節ー20節

 

主日礼拝説教 2019年5月5日 復活後第二主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに - パウロの大回心

 本日の福音書の個所は、復活したイエス様が突然弟子たちの前に現れ、亡霊が出たと恐れおののく弟子たちに対してイエス様がそうではないと手足を見せ、弟子たちから食べ物を取って食べたと言う出来事です。これは復活の体ということですが、それをどう考えたらよいかということについては前回と前々回の説教でお教えしましたので、本日はこの福音書の個所についてではなく、使徒言行録のサウロの回心の出来事について解き明かしをしようと思います。サウロは後にパウロと呼ばれるようになります。使徒パウロのことです。

キリスト教にとって使徒パウロが重要な人物であることは誰もが認めるところです。もちろん、十字架の死と死からの復活を遂げたのはイエス様です。パウロが重要だと言うのは、イエス様の十字架と復活は一体何だったのかということ、そしてそれが人間すべてにとってどんなに大事なことなのかということをはっきりわかって、それを福音として教え広めたことにあります。それで、もしパウロがいなかったら、またいても、本日の聖書の箇所にあるような出来事が起きなかったら、イエス様の十字架と復活の意味も解明されず、福音の内容もはっきりしなかったでしょう。そうしたら本当のキリスト教もキリスト教会も生まれなかったとさえ言えるのです。もちろんルターの宗教改革も起きなかったでしょう。その意味で本日の聖書の個所の出来事、パウロがイエス様に出会い「回心」したという出来事は、イエス様の十字架と復活と並んでその後の人類の歴史を方向づける重要な出来事であったと言っても過言ではありません。今、日本は天皇と元号が変わって古い時代が終わった、新しい時代が始まったとみんな言っています。イエス様の十字架と復活とパウロの回心は振り返ってみると本当に古い時代から新しい時代への転換点だとわかります。2000年経った今もその新しい時代が続いているというのは感慨深いことだと思います。

ところでパウロの「回心」ですが、この言葉は本日の聖句の見出しにも書かれています。この漢字は「えしん」とも読めるとのことで、その場合は仏教用語になり、辞書によれば「心を改めて仏道に入ること、とか、小乗の心を改めて大乗を信じること」だそうです。「かいしん」の場合は「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験」とありました。パウロの回心ですが、注意すべきことは、それはただ単に、かつてキリスト教を迫害して悪いことをしてしまったなぁ、これからは心を改めて真人間になってキリスト教を擁護して伝道に努めよう、というような悪人が「改心」して善人になったというレベルの話ではありません。それじゃ、どういうレベルの話かと申しますと、先ほど述べたように、イエス様の十字架と復活と並んでその後の人類の歴史を方向づけたというレベルの話です。「個人的な信仰体験」と言うにはスケールが大きすぎます。「回心」よりも「大回心」と呼びたいと思います。

そういうわけで本日の説教では、パウロの「回心」が「大回心」と呼ぶに値する大きな出来事であったことを見ていこうと思います。人類の歴史を方向づけたと言うからには、今を生きる私たちにどんなかかわりがあるのかということも見ていこうと思います。

 

2.パウロと他の使徒たち

 先ほど、もしパウロがいなかったら、またはいても本日の個所のような出来事がなかったら、イエス様の十字架と復活の意味は解明されず、福音の内容もはっきりしなかっただろうと申し上げました。それじゃ、ペトロを初めとする十字架と復活の出来事を直に目撃した弟子たちは何もわかっていなかったのか?それは、ちょっと言い過ぎではないか?と言われてしまうかもしれません。そこで、イエス様の十字架と復活というのは何だったでしょうか?それは、人間を罪と死に支配された状態から救い出して創造主の神との結びつきを回復させよう、そして永遠の命に至る道を歩めるようにしてあげようと、それで神がひとり子をこの世に送って成し遂げさせた業でした。そしてこれは旧約聖書に預言されたことの実現でした。神がこのように整えてくれた「罪の赦しの救い」はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることが出来るようになりました。これらのことは、実はぺトロたちもしっかりわかっていました。聖霊降臨の時にペトロが群衆の前で行った大説教(使徒言行録2章)を見ればわかります。また、使徒言行録に記録されているペトロたちの教えの言葉からも、またペトロの手紙からも明らかです。

確かにパウロもペトロも同じ福音を宣べ伝えるのですが、ただパウロの場合はペトロと違って、私たちのような非ユダヤ人、つまり異邦人にとって大きな意味を持ちました。ユダヤ人以外の民族のことを言い表す時、ヘブライ語でゴーィגוי、ギリシャ語でエトゥノスεθνοςという言葉がよく使われますが、日本語で「異邦人」と訳されます。ペトロを初めとする初期のキリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はまずユダヤ人であるべきということにこだわりました。これは理解できます。というのも、イエス様も使徒たちも聖母マリアも皆、ユダヤ人でした。イエス様もユダヤ人の乙女マリアから人間の肉体を受けてこの世に生まれた、それは旧約聖書の律法や預言を受け継ぐ民族の一員として生まれたということです。ユダヤ人の男の人は皆、律法の戒律に従って割礼を受けています。そのため、イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアと信じるならば、その人は旧約を受け継ぐ者でなければならない。異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。そう考えられても不思議はありません。ところが天地創造の神は、そうではないということをペトロにかなり具体的に教えていたのです。その結果、ローマ帝国軍の将校コルネリウスに洗礼を授けたのでした(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人のこだわりを持ち続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。

 パウロの立場は、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないということです。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられ、そのようにして「罪の赦しの救い」を等しく受けられて天地創造の神と結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も神のもとに永遠に戻ることが出来るようになりました。イエス様もペトロもマリアもユダヤ人だったからと言って、わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要はなくなりました。実にありがたいことです。

 

3.キリスト教の迫害者から擁護者・伝道者への大変貌

 それでは、自分自身ユダヤ人であるパウロはどうしてそんなことを言い出したのでしょうか?彼は、旧約聖書や律法や預言を放棄してしまったのでしょうか?実はそうではないのです。それどころが、ある意味でパウロの場合、十戒の掟が一層厳格になったとさえ言えるのです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?次にそれをみてみましょう。

パウロは、もともとはファリサイ派に属する律法に厳格なユダヤ教徒の一人でした。ファリサイ派というのは、イエス様の時代のユダヤ教社会内部にあった信徒運動で、旧約聖書に記述された律法だけではなく、口述で伝承された掟も同じくらい大事だと主張したグループでした。特に清めに関する掟は大事で、神が与えると約束した神聖な土地に住んでいる以上は、異邦人や罪びととへたに接触して汚れをうつされてはいけない。律法を全てしっかり守ることで神の目に相応しいものとなれるという考えでした。ファリサイ派とイエス様の考え方には類似点もあるのですが、決定的に違う点も多く、ファリサイ派はいつもイエス様に論争を吹っかけては撃退されていました。有名な論争の一つに、何が人間を不浄なものにして神聖な神から遠ざけられてしまったかというものがあります(マルコ7章)。イエス様は、人間を汚れたものにするのは外部から入ってくる汚れではなく、人間内部に宿っている様々な性向である、だからどんな清めの儀式や戒律を守っても人間は清くなれないと教えました。本当に神から罪を赦してもらうことから始めないと人間は清くなれないのです。まさに、そのためにイエス様は人間が受けるべき神罰を代わりに受けて罪の償いをする犠牲の生贄となって十字架にかけられたのでした。

ファリサイ派のパウロはキリスト信仰者の迫害者として広く知られていました。あの、宗教指導者たちが異邦人の総督に引き渡して十字架にかけて殺してしまったナザレのイエスは実は、旧約聖書に約束されたメシア救世主だった、などというのは、指導者たちにとってとうてい受け入れられるものではありません。それでペトロたちに対して、イエスの名を言い広めたら命はないぞ、と何度も脅しをかけます。しかし、ペトロ側としてはイエス様の復活を目撃してしまった以上は引き下がることなど出来ません。対立はどんどんエスカレートして、ついに勇敢なステファノが殉教したのをきっかけにキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起こりました。

その時パウロも熱心に迫害に加担しました。厳格なファリサイ派です。罪ある人間が神の目に相応しいとされるには律法を守り抜くことであると信じていました。それ自体は純粋な信仰でした。しかし、そのような信仰を持つ者からすれば、イエス・キリストを救い主と信じて神から罪の赦しを受けられて神の目に相応しい者とされるというのは律法をないがしろにする邪道にしかすぎません。パウロはエルサレムの神殿の大祭司から委任状をとって、ダマスコ周辺のキリスト信仰者をエルサレムに連行する権限を得ることまでしました。そして手下を従えて出発したところ、その途上で文字通り想定外の出来事が起きました。天に上げられてこの地上にはいないはずの復活の主がそれこそワープしてきたかのように間近に来たのです。これはアナニアが「幻の中」(10節)でイエス様の声を聞いたのとは性質が異なります。アナニアは個人的に声を聞きましたが、パウロの場合は個人的ではなく、従者も皆、異常な現象を目撃し声を聞いたのです。つまり大勢の人が共有する出来事だったのです。

Distant Shores Media/Sweet Publishing, CC BY-SA 3.0

パウロはこの出来事をきっかけに、キリスト信仰の迫害者から擁護者、伝道者へと大変貌を遂げました。その経緯は以下の通りです。パウロは強い光に覆い包まれました。まさしく神の栄光、神聖な者が現れたという光です。パウロは目が見えなくなりました。アナニアが手を置きに来るまで3日間見えないまま、飲食もとらず祈っていました。「手を置く」というのは、神のために聖別するとか神に委ねるという意味を持つ儀式的な行為です。「目が見えなくなる」ということについて、先週の説教でもお教えしましたが、聖書の神は何かの目的を持って人の目を一時期見えなくすることをします。エマオの道で復活したイエス様に出会った二人の弟子は神から目を遮られてイエス様と気づきませんでした。しかし、気づかなかったおかげで、彼らの旧約聖書の理解が正確でなかったことが明らかになり、それを正すためにイエス様は教え始めたのです。弟子たちは、メシアとは民族解放の英雄ではなくて人間を罪と死の支配状態から救い出す救世主ということが分かりだしました。最後にイエス様が聖餐のパンを渡した時に目が開かれてイエス様と分かりました。分かった瞬間に姿を消しました。これは絶妙なタイミングでした。というのは、聖書の正確な理解と聖餐があれば、イエス様はたとえ見えなくても臨在していると教えているからです。

パウロの目を見えなくしたことにはどんな目的があったでしょうか?それまではキリスト信仰者たちの出まかせにすぎないと思っていた復活のイエス様が自分を名乗って現れたのです。本当に信仰者たちが告白しているように神のひとり子であることが明らかになりました。そこから先です。イエス様が神のひとり子なら、彼の十字架と復活は何だったのか?イエス様は自分がやっている迫害を間違っているとしてやめさせた。律法を守って神の目に相応しい者にされることを大事にしたからこそ彼らを弾圧しなければならなかった。しかし、神は彼らを弾圧から守られる。じゃ、神の目に相応しくされるのは律法を守ることによってではないのか?何に拠るのか?その時イエス様の十字架と復活がこの空白を埋めたのです!

アナニアが来たのはこのタイミングだったでしょう。彼はイエス様の命によってパウロのもとに遣わされたと言いますが、それは、これからパウロに行うことはイエス様の名によって行うのだ、自分の考えで行うのではないということを明らかにします。これこそ神の力が働く仕方です。アナニアは手を置いて言います。自分が遣わされたのはお前の目が見えるようになり、聖霊に満たされるためである、と言うとパウロの目が見えるようになりました。これで、イエス様が人間を罪と死の支配状態から解放して神の目に相応しい者に変えて下さる救い主という信仰が目に焼き付いたようになりました。そしてすかさず洗礼を受けます。洗礼を受けるというのは聖霊を注がれるということです。

イエス様を救い主と信じるだけでは不十分なのか?なぜ洗礼も必要なのか?という質問を時々受けます。イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪者の一人がイエス様を救い主と告白して天に御国に迎え入れられた時、洗礼を受けていなかったではないか?と。こう考えたらどうでしょう?犯罪人の場合は息を引き取る寸前の告白で、それをしたらもう信仰から離れて生きる可能性もない位の最後の瞬間だった。しかし、イエス様を救い主と信じてまだ先が長い場合は聖霊に支えてもらわないとすぐ信仰から離れてしまう危険は高い。聖書を創造主の神の視点で読んだり聞いたりできるのも、聖餐を受ける時に主の臨在が最も身近になることも、全て聖霊の働きによるものです。人間の理性や感情だけではそこまで到達できません。人によっては聖霊を受けたにもかかわらず理性や感情を前面に立たせてしまった人もいます。でも、一度受けているので、何かのきっかけで信仰に戻れる可能性はいつでもあります。

さて、イエス様はパウロが今後すべきことについてアナニアに知らせました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(15節、16節)。これで、パウロの運命は決まりました。迫害者は使徒にかえられたのです。後にパウロは「ガラテアの信徒への手紙」の中で、神は既に自分を母の胎内にあるときから福音伝道者に選んでいて、自分が召し出されたのは神の恵みによると告白しています(1章15節)。神はパウロにまず律法を厳格に守るファリサイ派の経歴を歩ませました。神の前に相応しい者になる律法主義の道を徹底的に歩ませて、イエス様が現れることで壁にぶつけさせて、そこから福音伝道者に召し出したのです。兄弟姉妹の皆さん、神はこのように私たちに真理をわからせるために、最初それと反対の世界を歩ませるという導き方もされるのです!

 

4.律法の新しい役割

 復活の主イエス様が現れたことがきっかけとなってパウロは、イエス様の十字架の死と死からの復活の意味がわかりました。それは、人間を罪と死の支配状態から解放するためになされたのであり、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで人間は神から罪の赦しを受けて神の目に相応しい者とされる、そして永遠の命に至る道を守りと導きのうちに歩むことが出来る、とわかりました。そうなりますと律法を守ることで神に相応しいと見なされるということはなくなってしまいます。律法は不要になってしまったのでしょうか?

律法は不要にはなりませんでした。律法は新しい役割を持つようになりました。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けても、自分の中にはまだ罪が残っていることは否定できない事実です。ということは、イエス様を救い主と信じる信仰のせいで律法が存在価値を失ってしまったということはなく、かえってそれは自分が罪深い者であることを思い知らせる鏡のようになったのです。律法は依然として効力を保っているのです。ただ、ゴルゴタの丘に立てられた十字架が否定できない歴史的事実である以上、いくら律法が罪の自覚を生んでも神の赦しは断固としてあるのです。もし罪に隙をつかれてしまって神の前の相応しさを失ってしまっても、神に赦しを祈りすぐ十字架のもとに立ち返れば、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しには変更がないと示してもらえます。神の前の相応しさも大丈夫と言っていただけます。面白いことに、このサイクルの中にいると、律法は私たちに罪があることを気づかせて私たちを十字架のもとに追いやってくれる役割を持っています。また、このようにイエス様そして父なる神との結びつきが一層強くなっていけばいくほど、十戒に示された神の意志に沿うように生きようという心が育っていきます。その時、律法の掟は神の目に相応しい者になれるために守るものではなくなります。そうではなくなって、相応しい者にしてもらったので守るのが当然というものなります。

そういうわけで、パウロからみれば、割礼を施してまずユダヤ人になって洗礼を授けるという手順は、それこそ律法を守って神の目に相応しくなろうとすることと同じになってしまうのでした。もちろん、パウロ自身やペトロなどのように生まれた時から割礼を受けていて初めからユダヤ人であれば、そのままにするしかありません。新しくキリスト信仰者になる者に対しては、割礼は意味がないばかりか、施してしまうと、神の目に相応しくなることがイエス様を救い主と信じる信仰によらなくなってしまいます。 

ところで、もともとユダヤ人で割礼を受けた状態でキリスト信仰者になる者は「ユダヤ・キリスト教徒」、異邦人から信仰者になる者は「異邦人キリスト教徒」と呼ばれます(後注)。私たち日本人のキリスト信仰者も、欧米人やアフリカ人のキリスト信仰者も皆「異邦人キリスト教徒」です。パウロの異邦人を中心とする熱心な伝道の結果、キリスト信仰はすぐ当時のローマ帝国の東半分に広がって行きました。キリスト信仰は、地中海世界の人々の倫理観、死生観、性モラルに新しい風を吹き込みました。特に、以前からユダヤ教に接して多神教を離れて天地創造の唯一神を信じるようになった女性が多くいましたが、彼女たちはこうしたパウロの教えを支持してキリスト信仰者になりました。いつしか異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒の比率は逆転し、西暦70年のローマ帝国軍によるエルサレム破壊の後は、ユダヤ人キリスト教はほとんど歴史の舞台から姿を消しました。

 

5.おわりに - 臨在し私たちに寄り添う主

 以上、パウロが復活の主が現れたことをきっかけに、人間を神の目に相応しくするものは律法の厳守ではなく、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることであるとわかったことを見ました。特にパウロの場合、キリスト信仰者になるのに割礼を受けてユダヤ人になる必要はない、異邦人は異邦人のままイエス様を救い主として信じて洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を頂けるという立場でした。私たち異邦人にとって本当に「福音」です。

最後に、イエス様がパウロに述べた言葉の中で、私たちに励みになるものがあります。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を神の視点で読んだり聞く時、聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在すると申しましたが、その臨在される方はただおられるというだけでなく、私たちの境遇や状況に重大な関心を寄せながらおられるのです。そのことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信が持てます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

後注 スウェーデン語やフィンランド語では、ユダヤ・キリスト教徒(judisk kristen/juutalaiskristitty)、異邦人キリスト教徒(hedna kristen/pakanakristitty)との呼び名がありますが、英語では、ユダヤ・キリスト教(Jewish Christianity)と「ヘレニズム・キリスト教」(Hellenistic Christianity)という区別のようで、地理的・歴史的に限定された言い方です。

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

交わり

連休中の交わりタイム、そろそろ行楽地のお土産がテーブルを飾るころになりました。来週はどんな土産話が聞けますか楽しみです。(話に夢中になり写真撮影を忘れてしまいました・多謝)

歳時記

どうしても林檎の花が見たいと言う家内のたっての願いが叶ったのか林檎の木に花がつきました。残念ながら今回は花が開ききる前に帰京しなければなりませんが彼女はこれで十分に満足してくれたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吉村先生の聖書研究会

きょうは前回に引き続きローマ信徒への手紙6章15~23節までです。義、恵み、奴隷などの聖書に出てくる言葉について解説していただきました。

フィンランドのミッション団体SLEYの海外伝道局長V.アウヴィネン先生が来日されます

アウヴィネン先生SLEYと協力関係にある日本福音ルーテル教会との定例協議の他、5月19日のスオミ教会の礼拝にて説教を担当されます(通訳付き)。

SLEYは、日本とフィンランドが外交関係を結ぶ前の1900年から日本に宣教師を派遣してきた北欧のルター派ミッションのパイオニアです。是非この機会に礼拝に御参加下さい。

V.アウヴィネン先生の略歴

  • 1966年生まれ(トゥルク市出身)
  • 1988年オーボ・アカデミー大学神学部卒(神学修士)及びフィンランド・ルター派国教会牧師就任
  • 2003年神学博士(オーボ・アカデミー大学神学部)博士論文”Jesus’ Teaching on Prayer” (Åbo Akademis förlag)
  • ルター派国教会牧師、SLEY専属牧師、SLEY海外派遣宣教師(ザンビア)、フィンランド神学研究所事務局長、SLEY海外伝道局付けを経て、2017年から現職およびトゥルク市議会議員(キリスト教民主党)
  • キリスト教、聖書関係の著作多数。国教会保守派の論客としてテレビの時事討論番組にも多数出演

 

説教「死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越ししよう!」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書24章13ー35節

主日礼拝説教 2019年4月28日 復活後第一主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の個所は、イエス様が復活された後の出来事の一つです。過越祭後の新しい週の最初の朝、それは私たちのカレンダーの日曜日ですが、イエス様の墓に行った女性たちが墓の前に置かれた大きな石がどかされて中が空っぽなのを目撃しました。さらに天使が現れてイエス様が復活されたことを告げ知らせました。女性たちの報告を聞いたペテロたちが墓を見に行くと本当に空っぽでした。その後で復活されたイエス様が弟子たちの前に姿を現し始めます。本日の個所の出来事は、同じ日曜日の夕刻に起きたものです。

 Lawrence OP

写真 Lawrence OP

二人の弟子がエルサレムから約11キロ程離れたエマオという村に向かっている途中で突然イエス様が合流しました。弟子たちはどういうわけかそれがイエス様と気づかず、一緒に歩き出します。道中イエス様に旧約聖書について講義され、その晩泊った家でイエス様だと気づいた時に姿が消えてしまいました。これは多くの人には怪談話に聞こえるのではないでしょうか?ところが、キリスト信仰者には、これは全く怪談話に聞こえないのです。なぜでしょう?それは、信仰者はこの出来事を復活という観点をもって聞くからです。復活とは死に対する勝利です。怪談話には、復活という観点もなく死に対する勝利もありません。むしろ死に負けて支配されている世界の話です。キリスト信仰者というのは、死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越しした者なので、本日の個所や他の復活に関わる出来事を聞いても全然不気味に感じません。逆に大きな希望を湧き起こしてくれる出来事に聞こえます。キリスト信仰者でない人でも、もしそのように聞こえてきたら、それは死に打ち勝った世界に引っ越しする見込みが出てきたということです。

そういうわけで本日の説教では、既に引越しした人には今の自分の立ち位置を確認することを、まだ引っ越ししていない人にはどうした出来るかということを福音書の個所をもとにして教えていこうと思います。

 

2.復活、死に対する勝利、倫理・道徳、死生観

 復活とは死に対する勝利であると申しました。死に対する勝利とはどういうことか?不死身の人間になることか?いいえ、そういうことではありません。キリスト信仰で復活とか死に対する勝利と言ったら、意外に思われるかもしれませんが、何が正しいことか何が善いことかという倫理や道徳の問題に関わってきます。不死身の人間というのはそういうものと無関係に考えられるものです。

死に対する勝利とは、先週お教えしたので手短に繰り返しますと、まず、イエス様が十字架にかけられて死を遂げたことで、私たちの罪の神罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになります。つまり、罪の償いを私たちに代わって全部神に対して果たして下さいました。それからは罪は、以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても、神のひとり子が果たしてくれた完璧な償いがあるので思うようにできなくなってしまいました。罪は破綻してしまったのです。加えて、神が偉大な力でイエス様を死から復活させ、死を超える永遠の命があることを示されました。その扉が私たち人間に開かれたのです。そこで人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神がこのように整えて下さった罪の償いと赦しをしっかり受け取れます。そして、永遠の命に至る道に置かれて後はその道を歩むことになります。

その人は罪の償いと赦しを受けているので、罪はもうその人を神の前に有罪者にすることは出来ない。それでも罪は、まだ力があるかのように見せかけて信仰者の隙や弱いところをついてくる。不意を突かれてしまう信仰者もいる。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせて下さり、私たちは神の赦しは本当にあるとわかって、これからはもう罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このようにキリスト信仰者の人生は絶えず十字架の下に戻ることを繰り返しながら、洗礼の時に新しくされた自分の新しさに磨きをかけていくような人生です。そして最後は、復活の日に神の栄光で光り輝きます。

このように、罪が人間に対して持っていた絶大な力が破綻した結果、死も人間に対する力を失いました。使徒パウロは第一コリント15章20節で「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています。実にキリスト信仰者にとって死とは、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りに変わってしまいました。パウロは第一コリント15章の後半で復活の体について述べていますが、それによると、私たちが復活する時、地上の時に着ていたこの朽ちる肉の体にかわって朽ちない栄光の体を着ることになる。そうなるとキリスト信仰者にとって死というのは本当に、復活の日までひと眠りして着替えをするということになります。かつて死は罪と共同して人間を神から切り離して永遠の滅びに陥れようとしていましたが、それも破綻してしまったのです。

 復活の体について、先週の説教でも申し上げましたが、イエス様の例から明らかなように不思議なことがいろいろあります。その一つは、弟子たちの前に現れても、すぐにはイエス様と気づかなかったということです。本日の個所もそうですし、先週のマグダラのマリアの時もそうでした。どうしてそんなことになったのかと言うと、先週申し上げましたように、復活とは蘇生とは異なるものだからです。復活が起きると今纏っている肉の体ではなく、特別な復活の体を纏うことになります。それで肉の体を持つ者が肉眼で気がつきそうでつかない何かが起きる。蘇生というのは死んだ人が少しして生き返るということなので、それは遺体が腐敗する前に起きなければなりません。復活というのは、肉体が消滅腐敗した後で、将来の復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。

 復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。イエス様自身、復活したものは天使のようになると言っていましたが、まさにその通りでした。

ところで、復活の体を着せられる復活というのは、将来神が今の天と地を終わらせて新しい天と地を創造する時に起きるというのが聖書の立場です。イエス様の場合はその日を待たずしての復活でしたが、それは人々に復活が本当にあることを目撃させるためでした。そうすると、そのような復活の日が将来来るまではこの世から死んだ人は眠りにつくことになります。聖書にあるようにイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡、つまり蘇生を行いました。それは、彼が将来死者を復活させる力があることを前もって知らせる奇跡でした。その時彼は死んだ人のことを「眠っている」と言って生き返らせたのは象徴的です。

そういうわけで、キリスト信仰者にとって死とは復活の日までのひと眠りということと肉の体にかわって復活の体に着せ替えられることを意味します。このようにこの世の人生の次に来る段階のことが心配なくなったので、あとは、そこに向かって行こう、道を踏み外さないように注意しよう、この世にいる間はイエス様を贈って下さった神の意志に沿う生き方をしようということになります。神の意志に沿う生き方とは、簡単に言えば、神を全身全霊で愛するということと隣人を自分を愛するがごとく愛するということ、これを各自自分の持ち場立場で行うことです。

持ち場立場によって愛の現れ方が異なってくるかもしれませんが、それらを超えて共通なこともあると思います。例えば、愛と正義の板挟みになるということがあると思います。愛に目をつぶって正義を行おうとすると裁きになってしまう。正義に目をつぶって愛を行おうとすると甘やかしになってしまう。神は立場上、完全な愛と完全な正義を両方持ってそういう板挟みを超えておられる方であす。少し具体的に申しますと、神のひとり子のイエス様は十戒の掟を行為の上でも心の中でも完全に実現している方でした。正しさの権化と言ってもよいでしょう。普通だと、そういう正しさの塊を見ると、お高く留まって生意気な奴だと毛嫌いされるでしょう。ところがイエス様はお高く留まりませんでした。正しさを持てない奴は情けないとか相手にしないという態度ではありませんでした。そうではなくて、私たちが神聖な神の前に出されても大丈夫でいられるように正しさを私たちに譲り渡すことをしたのです。そのために強盗や反逆者が受ける刑罰を自ら受けるに任せたのです。ここに神の愛があります。

このように神は完全な正義と完全な愛の双方を持つ方であるからには、私たちもそれから外れるような生き方は許されません。そうなると、板挟みになることを覚悟しなければなりません。それでも復活の日に神の国に迎え入れられると、そこは完全な愛と完全な正義が両方一緒にあるところです。その日神の国に迎え入れられる者はその2つの「完全」に取り込まれます。黙示録21章4節に神が全ての涙をことごとく拭い取って下さると言われていますが、板挟みの辛さや不完全さの無念さから流した涙も拭い取ってもらえるのです。

 このように、この世の人生の次の段階のことが一応押さえられると、それに付随してこの世の人生の方針もはっきりしてきます。死の観点と生の観点が一緒になっていて、まさにキリスト信仰の死生観と言ってよいでしょう。もちろん死生観はキリスト教の専売特許ではなく、他の宗教もみなそれぞれに持っているでしょう。キリスト教の死生観は何かと問われたら、今申し上げたようなことで宜しいのではないかと思います。死に打ち勝つ世界に引っ越しすると、それに応じて死生観も変わるのです。

 

3.イエス様の体の臨在と霊的な臨在

  次に本日の福音書の個所を見てみましょう。それは、復活したイエス様の臨在とはどのようなものであるかを教えてくれます。聖書をよく見ると、イエス様はかつてのように常時、弟子たちと一緒にいません。本日のように二人の弟子の前に現れて消えたり、家の中に集まっている弟子たちの前に突然現れたり、ガリラヤ地方に先に行って弟子たちを待っていたり、さらにガリラヤ湖で魚取りをしている弟子たちの近くに現れたりです。使徒言行録1章3節でイエス様は「40日にわたって彼らに現れ」と言われているのは、40日間ずっと一緒だったというのではなく、40日の間現れたり姿を消したりの繰り返しだったと言えます。ガリラヤ湖の出来事を見ると、弟子たちの側でも復活したイエス様というのは現れてはいなくなるものと受け入れていたようです。そして、復活から40日目に最終的に弟子たちの目の前で天に上げられました。

 マタイ28章20節でイエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのに、天に上げられてしまったらどうなるの?と言いたくなります。実は「共にいる」というのは、体を伴った臨在ではなく、体を伴わない霊的な臨在です。イエス様にとって霊的な臨在は現実にあるものですが、私たちにはそれが現実にあるものか確かではありません。それが現実である、これを受けたら臨在はもう現実なのだ思い知れ、というのが洗礼と聖餐です。洗礼と聖餐に加えて、聖書の御言葉を読み聞くこともイエス様の霊的な臨在を現実にするものです。ただし、臨在を現実にする読み方聞き方があります。そうでない読み方聞き方もあります。そのことを本日の福音書の個所は教えています。それについて見ていきましょう。

 イエス様の臨在を現実のものにする聖書の読み方聞き方とは一体どんな読み方聞き方なのか?その答えは、まず、どうして二人の弟子はイエス様のことをすぐ気がつかなかったのか、そしてどのようにして気づくようになったのか、このプロセスを見ていくとわかります。

二人の弟子の前にイエス様が現れた時、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ24章16節)とあります。「遮られて」というのはギリシャ語原文では受け身の形です。新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「~によって」という動作の主体がない場合は多くは神が隠れた主体になります。「神によって」が省略されているということです。そうすると神が二人の目を遮ったことになります。これは全く不可解なことです。なぜ神は、ただでさえ復活の体を纏うイエス様は気づきにくいのにわざわざ目を遮ってもっと確認を難しくする必要があったのでしょうか?マグダラのマリアの場合、最初気づかなくても、イエス様の「マリア」の呼びかけで気がつきました。エマオの道では、話声をずっと聞いているのにそれでも気づかない。神はなんでそんな意地悪をするのか?

実は、神が何かの目的をもって人間の心を鈍らせて目を曇らせることをするというのは旧約聖書、新約聖書を通してある難しいテーマの一つです。これを取り上げてお話しすると一回や二回の説教では足りないのでここでは立ち入りません。このエマオの道の出来事に焦点をおいて見ていくことにします。

 神はなぜ二人の弟子の目を遮ったのでしょうか?ここで逆に考えてみます。もし、神が二人の目を遮らず、二人はすぐにか、またはマリアのように声を聞いてイエス様とわかったとします。そうしたら、その後で起きたことは起こらなくなります。その後で起きたこととは何でしょうか?それは、弟子たちが旧約聖書を正確に理解していないことが暴露されて、それをイエス様が正したということです。もしすぐイエス様とわかって再会を喜び合ってめでたしめでたしになってしまったら、弟子たちの旧約理解は訂正されずそのままだったでしょう。

 それでは、弟子たちの旧約理解の何が問題だったのでしょうか?それを明らかにするためにイエス様は上手に会話を導いていきます。イエス様「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」二人は暗い顔をして立ち止まる。弟子の一人のクレオパの言葉からあきれた様子がうかがえます。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけは御存じなかったのですか。」イエス様「どんなことでしたか?

イエス様は全てを知っているのでこれは白々しい質問ですが、話を進めて弟子たちの無理解を正すためにわざと聞きました。そこで弟子たちは答えて、彼らの理解の誤りを暴露します。彼らは、イエス様のことを「預言者」だったと言い、「あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていた」と言います。つまり彼らにとって、イエス様というのは、奇跡の業と神の権威を感じさせる教えをした偉大な預言者であり、それに加えてイスラエルを占領者ローマ帝国から解放してくれる民族の英雄だった。それが十字架につけられて処刑されてしまったので民族の悲願は万事休すになってしまった。

十字架と復活の出来事の前は、このようなイエス理解は一般的でした。弟子たちの間でもそうでした。ところが、旧約聖書にあるメシア預言はそういう一民族の他民族支配からの解放についてではなかったのです。神の計画は人類全体にかかわるものでした。メシアとは民族の英雄ではなく文字通り救世主だったのです。預言がそう理解されなかったのは、それはユダヤ民族の辿った歴史からすればやむを得ないことでした。イエス様が処刑されてしまって、弟子たちはこれで万事休すと思ってしまいました。ところが、その後で彼らにとって想定外のことが起きました。処刑されて葬られたあの方の遺体が墓になかったのです。これは一体なんなのか?エマオの道で二人の弟子たちはこのことを話し合っていたのでした。

イエス様は旧約聖書をもとにメシアの正しい意味を教えていきます。一民族の他民族支配からの解放ではない、人類の罪と死からの解放者である、と。それまでの旧約聖書の理解が塗り替えられていきます。同じ文章なのに違う意味が輝きだします。イエス様の処刑と埋葬で全てが終わったという絶望と失望が終わりました。新しい意味と空の墓と「復活された」という天使の言葉が結びつきました。二人の弟子が後で述懐しているように、イエス様の教えを聞いていた二人は心に燃え上がるものを感じたのです。

面白いことに、この段階でも彼らはまだイエス様と気づきません。つまり神はまだ彼らの目を遮っているのです。どうしてなのでしょうか?イエス様がパンを裂いて渡した時に「二人の目が開け、」イエスだと分かりました(24章31節)。日本語訳で「目が開け」と言っているのはギリシャ語原文では「開かれた」と受け身の形です。つまり「神によって」開かれたのです。神はどうしてパンを裂く時になってやっと彼らの目を開いて気づくようにしてあげたのでしょうか?しかも気づいた瞬間イエス様の姿はありませんでした。意地悪をしているのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。これは、聖書の御言葉を正しく聞くことと聖餐式を受けることがあれば、それはイエス様の体の臨在と引き換えになるくらいのものであるということを言っているのです。体の臨在がなくても、御言葉を正しく聞くことと聖餐式があれば霊的な臨在があるということを言っているのです。体の臨在がなくても物足りないということにはならないのです。見て下さい、イエス様の姿が消えた時、弟子たちにはがっかりした様子は全くありませんでした。御言葉と聖餐でイエス様の臨在が現実のものなったのです。

 

4.おわりに

 以上、死に支配された世界から死に打ち勝った世界への引っ越しは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神が整えた罪の赦しを受け取ると引越し完了になるということを申し上げました。新居の生活には新しい挑戦や課題があることもわかりました。新しい死生観とそれに伴う倫理・道徳です。それゆえ新居での生活は楽ではないかもしれません。引っ越しする前の家の方がよかった、なんで引越しなんかしてしまったのだろう、などと思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、新居の生活は決して一人ぽっちではありません。聖書の御言葉と聖餐を通して救い主イエス様が共にいて下さいます。イエス様が共にいるので、天地創造の神もご一緒です。引越し前に比べて何が不足というのでしょうか?

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

歳時記

桜の季節が終わろうとしています。山桜が散る頃このウアミゾサクラ(上溝桜)の出番になります、スルガダイニオイ(駿河台匂)の香りとよく似ています。残念ながら写真は先週のものでもう散ったかもしれません、よく行く内裏公園にはこの桜が多いと見えて香りで気がつきます。

 

 

説教「罪よ、くたばれ!死よ、さらば!ようこそ、復活の主よ!」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章1-18節、第一コリント15章21節ー28節

主日礼拝説教 2019年4月21日 復活祭

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の偉大な力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。ところで、クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。日本語では降誕祭と言います。実は復活祭・イースターは、キリスト教会ではクリスマスに劣らず大事なお祝いです。ディズニーランドでもハッピーイースターをやっているそうです。イエス様の復活の何が人をハッピーにさせるのでしょうか?一度死んだ者が復活したというのは、ちょうど暗くて寒い冬が明るい暖かい春にかわる嬉しさに重なるのでハッピーになるのかもしれません。しかし、ここはキリスト教会ですので、イエス様の復活がハッピーなことだということを聖書に照らし合わせて見ていきたく思います。

 まず、次のように言ったらどうでしょう?イエス様は沢山の苦しみを受けて十字架につけられて死なれたが復活したということで、復活祭とはイエス様の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と。これに付随して、イエス様が死んだため悲しみにくれていた弟子たちが復活したイエス様に出会って喜び勇気づけられたということで、弟子たちの不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と。こういうふうに言うと、復活祭というのは何だかテレビ・ドラマでも観るように、昔の人たちの運命の変転をハラハラしながら追って最後にめでたしめでたしの気分を味わえるお祝いになります。しかし、そういう理解ではまだ聖書をちゃんと読んだことにはなりません。というのは、イエス様が死から復活させられたことは実は、当時の人たちの時代の壁を突き破って、今を生きている私たちの運命や生き方にも関係してくるからです。そのことがわかるために、イエス様の復活とはそもそも何なのかを考える必要があります。

そこで、イエス様の復活とは何なのかをわかるためには、イエス様はなぜ死ななければならなかったのかがわからないといけません。歴史的事件としてみると、ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが当時のユダヤ教社会の宗教エリートに楯突いて反感を買い、ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということになります。しかし、それは見かけ上の出来事です。聖書が聖書である所以は、それが天地創造の神の人間に対する思いや計画を知る唯一の手がかりであるということです。聖書をそのような書物と見なせば、見かけ上の出来事の奥にある真実が見えてきます。その真実とは何か?それは、旧約聖書に記された神の計画がイエス様の十字架と復活という形で実現したということです。

 

2.罪よ、くたばれ!死よ、さらば!

 それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何か?創世記に記されているように、人間は創造主の神に造られた後、神に対して不従順になって罪を犯したために罪が内に入り込んでしまって神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまいました。罪とは、人間が神の意志に反することをするように仕向けたり、また神の意志に沿うことを難しくするようにして、人間を造り主の神から遠ざけようとする悪いものです。そこで神は、人間がこの罪の恐るべき力から解放されて神との結びつきを回復できるようにしよう、そして、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしよう、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしよう、そういう計画を立てたのです。それでは、この神の人間を救うという壮大な計画とイエス様の十字架と復活はどう関係するのでしょうか?

まず、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれて、罪の償いを神に対して全部果たして下さいました。それからは罪は、以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超える永遠の命があることが示され、その扉が私たち人間に開かれました。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて整えた罪の償いと赦しをしっかり受け取れて、永遠の命に至る道に置かれて後はその道を歩むことになります。

その人は罪の償いと赦しを受けているので、罪はもうその人を神の前に有罪者にすることは出来ません。それでも罪は、まだ力があるかのように見せかけて信仰者の隙や弱いところをついてきます。不意を突かれてしまう信仰者もいるかもしれません。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせて下さり、私たちは神の赦しは本当にあるとわかって、これからは罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このように私たちは十字架の下に戻ることをすればするほど、罪に対して強烈なパンチを加えることになります。まさに、罪よ、くたばれ!です。

もし罪が思いや考えの中に留まらず、言葉や行いで出てしまい、誰かを傷つけてしまった場合は、その人に対して謝罪や償いをしなければならないことは言うまでもありません。ここで忘れてはいけないことは、神は隣人愛をせよと言われるので、それを破ったことにもなるということです。それなので、神に対しても赦しを乞わなければなりません。その時も神は、イエス様の十字架の犠牲に免じて赦して下さいます。ところが、隣人が赦してくれない場合もあります。「神は赦せても私は赦せない」などという人もいます。キリスト信仰者はどんなに憤っても絶対にそう言ってはいけません。自分を神よりも高い地位に置いてしまうからです。でも、そう言われる立場になってしまったらどうしてよいかわかりません。しかし、神との関係で見ると、神に赦しを乞えば神はひとり子の犠牲の業に免じて赦して下さいます。人間との関係では行き詰まりかもしれないが、神との関係では大丈夫ですから、それを信じて絶望せずに打開の糸口を見つけていきましょう。神に祈りながらやれば、必ず見つかります。

イエス様を救い主に持って神から罪の赦しと償いを受けた人は、神との結びつきを持って生きる人です。神との結びつきがあると、罪はその人をもう神の前で有罪者に仕立てることは出来ません。イエス様がその人を罪の力から贖い出して下さったからです。

このように、罪が人間に対して持っていた絶大な力は破綻しました。その結果、死も人間に対する力を失いました。本日の使徒書の日課の中で使徒パウロは、死からの復活はイエス様が最初で、その次は彼に結びつく人たちが彼の再臨する日に復活すると言っています(第一コリント15章23節)。また本日の日課の前では「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています(20節)。信仰者にとって死は、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りになったのです。ルターによれば、この「眠り」はこの世の痛みや苦しみから解放された心地よい眠りであると同時に、眠っている本人にすれば目を閉じてから復活の日までの眠りは、ほんの一瞬にしか感じられないという眠りです。眠っているだけなので、飢えも渇きもないし、またこの世で生きている人を見守ったり影響力を及ぼすこともありません。実はずっと起きて目を覚ましていて、この世の人を見守ったり影響力を及ぼすのは天地創造の神だけです。死んだ人の霊や魂などではありません。これが聖書の観点です。

パウロはまた、本日の日課の後のところで復活の体について述べています。私たちが復活する時、地上の時に着ていた朽ちる肉の体にかわって朽ちない栄光の体を着ることになる、と。そうなるとキリスト信仰者にとって死というのは実に、復活の日までひと眠りして着替えをするということになります。罪と共同して人間を神から切り離して永遠の滅びに陥れようとしていた死でしたが、それも破綻してしまったのです。まさに、死よ、さらば!です。

本日の旧約の日課はモーセが、神の偉大な力でイスラエルの民がエジプトの軍勢から守られたことを賛美するところでした。エジプトの軍勢は海水に巻き込まれて全滅してしまいました。これは一見すると罪や死ということと無関係に見えます。ところが、旧約聖書に記された昔の出来事というのは、将来起こることのミニチュアというか象徴的な先駆けになっているということが多くあります。エジプトの軍勢に起きた出来事が罪と死の破綻の象徴的な先駆けというのは、旧約聖書のミカ書7章19節を見ればわかります。「主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる(後注)」。つまり、神の民イスラエルを襲おうとしたエジプトの軍勢が壊滅したように、イエス様に結びつく者を襲おうとする罪と死も同じ運命にあるというわけです。

このように罪と死の力から人間を救い出そうとする神の計画がイエス様の十字架と復活を通して実現しました。罪の赦しの救いを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。そういうわけで、復活祭とはイエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活が可能になったことを喜び祝う日です。さらに、自分自身が復活させられるという希望に加えて復活の日に懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様自身のためでもなく、弟子たちを喜ばせるためでもなく、イエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。

3.ようこそ、復活の主よ!

  さて、本日の福音書の箇所を見てみましょう。復活の主イエス様とマグダラのマリアの再会が記されていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが復活の体を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する復活の体とはどんな体なのか?それについては、パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われます(マルコ12章25節)。

 復活というのは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば、遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起きません。復活というのは、肉体が消滅しても、復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。イエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかった。なのに、なぜ40日間も地上にとどまったのか?その期間があったおかげで、弟子たちをはじめ大勢の人に自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。

復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。

 さて、天の御国の神聖な神のもとにいられる復活の体を持つイエス様と、それにすがりつく、地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」というのは、相手が崇拝の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったと考えられます。イエス様に気づく前、マリアはずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上にその遺体までなくなってしまって、その喪失感と言ったらありません。では、イエス様に気づいてすがりついた時のマリアはどうだったでしょうか?泣き続けたでしょうか?次のように考えたらどうでしょう?最愛の人が何か事故に巻き込まれたとします。もう死んでしまったとあきらめていたか、またはまだあきらめきらないというような時、その人が無事に戻ってきて目の前に現れるとする。その場合、たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめたりするでしょう。イエス様にしがみつくマリアもおそらく同じだったでしょう。

イエス様が「すがりつくな」と言ったということですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。なんだか聖書の訳の中に日米同盟と欧州連合の対決があるみたいですが(もっとも、ドイツ語ルター訳でないEinheitsübersetzung訳をみると、「私にすがりつくな」Halte mich nicht festでした)、イエス様はマリアに対して、「触れるな」と言っているのか「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

私は、イエス様が復活した体、まさに天の御国の神のもとにいることができる体を持っているということを考えると、ここは原文通りに「私に触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様は、この言葉の後にすぐ理由を述べているからです。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ者となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。

 このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じていることです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(後注)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止なのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。

神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ、抱きしめられている、とても奇妙な光景です。そこには、かつて旧約の時代にモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。これを感動的と言わずして何を感動的と言えるでしょうか。イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。イエス様の次の言葉から、そのことがよく窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。

ここでイエス様は、弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。

4.おわりに

 兄弟姉妹の皆さん、今日は復活祭です。イエス様の復活のおかげで私たちにも復活の道が開かれました。イエス様が復活の初穂ならば、私たちはそれに続いて実を実らせる穂です。イエス様は有名な種まき人のたとえの中で、良い土地に蒔かれた種はしっかり成長して、30倍、60倍、100倍の実を実らせると教えました。

十字架の贖いの業のゆえにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様に結びつく者、

神の意思に照らせばまだ自分に罪が宿ることを思い知らされつつも、

その度に心の目を十字架の主に向けて、罪の赦しが揺るがないことを繰り返し覚え、

神に対する感謝の念を新たにし、本当に神の意思に沿うように生きようと志向する。

 

この時、私たちは良い土地に蒔かれた種であり、「罪の赦しの救い」から絶えず栄養を受けて成長していて、やがて30倍、60倍、100倍と実を結び、初穂のイエス様に続いて、復活の日に復活するのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

 後注(ヘブライ語とギリシャ語がわかる人にです)

  エジプトの軍勢に起きた出来事がミカ書719節の預言の象徴的な先駆けと言うことに対して、言語的な繋がりが弱いと指摘されるかもしれません。出エジプト記15章で「投げ込む」という動詞はרמה 1節)とירה4節)を使っているのに対して、ミカ719節ではשלךを使っているからです。出エジプトでは投げ込む場所を「海に」ביםと言っていますが、ミカでは「海の深みに」במצלות יםです。他方で「深みに」במצולתは、出エジプト155節で海に投げ込まれた軍勢が石のように落ちていく場所を言い表す時に使われています。ミカの預言には出エジプト記の出来事が響いていると考える者です。 

ルカ2039節の「触りなさい」とヨハネ2027節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατεβαλε)であることに注意。

ヨハネ2017節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。

  

聖餐式:木村長政 名誉牧師

復活祭祝会

 持ち寄りスタイルで今年も復活祭を祝いました、ポウッカ先生も音楽のご奉仕とパイヴィ先生からのメッセージを披露してくださいました。吉村先生からはフインランドの兄弟姉妹から届いた祝いのメセージを読んでいただきました。テーブルの上のご馳走も何時しか銘々のお腹に納まり、祝いの席は和やかに続きました。

 

 

 

 

 

 

 

歳時記

何時もの散歩道で足元の枯葉の間から宝石のような小さな花を見つけましたフデリンドウです。昔飯豊山で見かけたイイデリンドウを思い出しました、まことに小さな花です。したがってこの花をよく見たければ跪かなければなりません。それに価する高貴な花のようでした。

  • 来週の礼拝:2019年5月26日 復活後第5主日 2019年5月20日
     聖書   使徒言行録 14章 8節─18節(新 241頁)       黙示録   21章22─27節 (新 479頁)       ヨハネ   14章23─29節 (新 197頁)  讃美歌  156、364(1,3,5,6,8)、369、423  担当   司式    吉村 博昭 宣教...
  • 説教「神の栄光を現わすクリスト」V.アウヴィネン牧師、ヨハネによる福音書13章31~35節 2019年5月20日
    下の開始ボタン(黒三角)を押すと説教を聞くことができます。 ヨハネによる福音書13章31~35節 「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。 「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光...
  • 手芸クラブのご案内、5月29日(水)10時 2019年5月20日
    フィンランド風の刺繍を作ってみませんか。 次回の手芸クラブは刺繡をします。 今度はいろいろなテクニックを使って室内飾りを作ります。 おしゃべりしながらワイワイ楽しく作りましょう! 材料費: 500円 手芸クラブは、お子さん連れの参加も歓迎です。 誰でもお気軽にご参加ください。 &n...
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      本日はフインランドから来日されたSLEYの海外伝道部長アウヴィネン牧師をお迎えしての礼拝でした説教はこのリンクよりご覧下さい。...
  • 交わり 2019年5月20日
    今回は礼拝堂は他に使うため2階の牧師館で行いました。V・アウヴィネン牧師も交えて和やかな歓談のひとどきを持ちました。...
  • 歳時記 2019年5月20日
    下の歩道の脇のピラカンサスに今年は例年になく沢山の花がつきました。暖かくなったので窓を開け放して見ています、花が全部実になったら今年の秋は鳥たちが大勢群がってくるでしょう、それもまた楽しいですね。...
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
  • 5月 23日 11:00 am
    English Bible Study
    詳しく見る
  • 5月 26日 10:30 am
    主日礼拝
    司式・説教吉村博明宣教師(ヨハネ14章23~29),礼拝後交わり。
  • 5月 29日 10:00 am
    手芸クラブ
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