お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
秋菊
秋は菊が美しいですね、中でも野菊(野紺菊)が大好きです。その野紺菊が丘の上の小さな公園に咲いていました。公園の境の金網の向こうは樹木の生い茂る林です、手入れがされていなくて荒れ放題になっていました。野紺菊はこういう林の縁を好むと言います、なるほど金網に沿っていっぱい咲いていました。振り返ると多摩の丘陵が連綿と続いています。・・・采菊東籬下 悠然見南山・・・中国の古い詩を思い出しました。公園はかつて牧草地の原っぱでした。原っぱの下には牛小屋があり幾頭かの乳牛がいました。隣の公園には鎌倉武士の館跡があります。いざ、鎌倉と言えば当然足は馬ですね。多摩丘陵は馬の放牧にも適していたと思います。馬から牛への移り変わりの歴史を想います。残念ながら今は牛もいなくなり真新しい住宅が建ちならんでいます。
<10 林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである。11 わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである。 詩編50>
マクラメでクリスマスの飾り物を作ってみませんか。
今回はマクラメのテクニックを使ってクリスマス・リースとクリスマス・スターを作ります。リースの方は3つのマクラメの結び方で作ります。リースに付ける飾りとして、毛糸で可愛いヨウルトントゥを作ったり、マクラメで鐘を作ったりして付けることができます。どんな飾り付けにするかはご自由にお決め下さい。
手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできます。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費は材料費の500円-1000円です。作るものによって変わります。
今回は、スオミ教会の前の宣教師ポウッカ先生ご夫妻も参加されます!
お子さん連れの参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込みは、 *protected email*
福音ルーテル・スオミ教会 新宿区鶴巻町511ー4-106 03-6233-7109
フィンランドからのゲスト、マルッティ・ポウッカ先生とパイヴィ・ポウッカ先生によるフィンランドのクリスマス音楽とメッセージ。
無神論者とキリスト教徒が一致するところ
以下の文章は、トム・ホランド Tom Hollandという英国の無神論者の歴史家がキリスト教について論評したものを、ステフェン・ジェフコ―ト Stephen Jeffcoatという米国の牧師が引用したものです(同牧師の2021年6月18日付のFacebook投稿から)。因みに、欧米で「無神論者」と言ったら、たいていはキリスト教を標的にする人たちのことです。
『あなたがキリスト教に賛同しようがしまいが、無神論者の歴史家ホランドが次のような興味深い論評をしているのです。彼は古代世界を研究して、あることに気づいたと記しています。それは、古代人はただ単に残酷なだけで、彼らの価値観は自分にとって全く異質なものだということでした。スパルタ人にとって”不完全な”子供の始末は日常のことだったし、奴隷の身体は権力を持つ者たちの肉体的な快楽のアウトレットのように扱われていた、嬰児殺しは広く行われていた慣行で、貧しい者、弱い者には何の権利もなかったと。
我々はどのようにしてそのような世界から脱することができたのか?キリスト教があったからだ、とホランドは書いています。キリスト教は男たちに自身をコントロールすることを要求し、あらゆる形態の強制性交を禁止して、性と結婚に革命を起こしたのだと。キリスト教が人間の性的営みを一夫一婦制の中に封じ込めたのだと。そして、ホランドも指摘しているように、皮肉なことは、今日キリスト教が嘲笑を浴びる原因になっているのが、他でもないこれらのスタンダードであるということ。しかし、いずれにしても、キリスト教が女性の価値を高めたことは否定できない事実である。簡単に言えば、キリスト教は世界をすっかり変えてしまったのだと。(了)』
同じような結論は、フィンランドの聖書学者エルッキ・コスケンニエミ Erkki Koskenniemiの研究書「古典時代ギリシャ・ローマ世界の嬰児遺棄の慣習に対するユダヤ・キリスト教の戦い」にも見られます。コスケンニエミはキリスト教徒。無神論者とキリスト教徒が同じ結論に達する位、キリスト教は古代世界の性モラルを根底から変えたのでした。
スオミ教会のシンボル - 白樺の十字架
マタイによる福音書25章14〜30節
「少しのものに忠実な良いしもべとは」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日のよく知られている「タラントの譬え話」ですが、皆さんはここをどのように理解してきたでしょうか?この喩え話は、クリスチャンが自分の才能をフルに働かせ、自らの行いや努力や自分の力によって、神や教会のために、目に見えたり数字で評価できる成功を果たさなければならない、あるいは数を倍にするような結果や成果を出したり達成しなければならない、そのように自分の才能で教会に数的に倍以上に大きくなるような貢献をしなければならない、等々、そのような成果主義や成功主義の目標のために律法的に私たちを駆り立て遣わすように教えているイメージを持つ人もいるかもしれません。皆さんもこの譬えはそのように教えているように思うでしょうか。しかし、そういう教えではないというのが今日の説教です。もちろん、このところの勧めは、神から与えられている恵みを正しく、特に隣人に仕え、隣人を愛するために用いるようにと教えているのは間違いありません。しかし、それは私たちが自分の力をフルに働かせて果たさなければならない「律法」なのか?それともそうではなく「福音によって」遣わそうとしているのか?これは全く正反対のことですし、それを区別することはとても大事です。そしてそのことは、その「タラント」とは何か?「賜物」とは何か?「小さなことに忠実」とはどういうことなのか?そして、この時のイエス様は何を見ていてこのように教えられ、そして何を私たちに期待し何を喜ばれるのか?を、この箇所やそして聖書全体の福音の教えに照らし合わせて見ていくときに、この箇所はただの律法ではない、イエス様の福音のメッセージがあることを教えられるのです。まず14−15節から見ていきましょう。
2、「恵みの出来事:タラントを各々の能力に応じて」
「14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。
A、「律法として預けるのではなく」
まずこの譬え話において、「天の国」の主人はイエス様自身のことであり、「しもべたち」というのは、全てのクリスチャンを指しているのですが、まずここで誤解をしてはいけないのがここを見て分かる通り、ここで言われるタラントは、決して働いたことや実績に対する報酬や対価ではないことが分かるでしょう。主人はただ「自分の財産を預け」とあるからです。つまり主人の所有する財産を、ただしもべという、その理由だけでそのまま一方的に預けてくださったということです。そして「預かって」いるのですから、それは決してしもべのものになったのではなく、どこまでも「主人のもの」を預けられ預かっているということがわかります。
さらには「それぞれの力に応じて」とあります。新改訳聖書ですと「各々能力に応じて」です。つまり、もちろんそれぞれに与えられている才能も神の賜物なのですが、ここでのタラントは、俗に言われたり思われているような、何か他よりも特別な目にみえる秀でた能力や才能のことでもそれを「与える」「預ける」のでもなく、そもそもはっきりと「能力に応じて」与えるとあるのですから、タラントが「何か特殊な才能や能力」であり、それを「与える」という理解では文脈的に正しくないことがわかります。主人はそれぞれの能力を見て理解し、それに応じてそれぞれに主人の財産の「必要な分を」預けていることがわかるのです。それは主人であるイエス様は私たちのそれぞれの能力を知っているということを意味しているでしょう。つまりイエス様がここで与えるタラントは、私たちの能力も何も知らないで、律法的かつ一方的に、「倍に増やせ」「果たせ」「しなさい」と重荷を課せるような命令をしているのでは決してないということでしょう。それぞれの能力を知り、その能力に応じて、つまり重荷とならないように、それぞれを配慮して、そのような主人の計画と思いに従って、世で隣人に仕えていくために必要なものを必要な分だけ主人は預けてくださっているといるのだと見えてきます。ですからそのタラントというのも何か一方的な義務や重荷では決してなく、当然、「律法」であるはずもなく、むしろ主人の私たち一人一人への大きな憐れみと恵みを伴っているタラントだと分かるのです。
B,「タラント:あまりにも多くのもの」
しかもここでいうタラントにも意味深いものがあります。まずタラントというのは、それは当時のお金の単位ですが小さくない単位です。ここでは5タラント、2タラント、1タラントと数字が小さいのでその大きさがいかほどか分かりませんが、1タラントは7300デナリ(Lutheran Study Bible:ESV)と言われています(新改訳聖書の注釈:6600デナリ)。しかしその1デナリは一日の給料の賃金に等しいと言われているのですから、1タラントだけでも、1日の給料の7300倍の額になるということです。1タラントがいかに大金であるのかということです。イエス様は、21節や23節で「わずかなものに忠実であった」と書いていますが、決して「わずかなもの」ではありません。ですから、5タラントにせよ1タラントにせよ、人間はその欲望の目で額の大きい小さいとか、差があるとかだけを注目して「差別だ」「ずるい」云々と、その点だけに目が行き論じやすいのですが、それは重要なことはない、むしろここでは、主人であるイエス様はそれが5タラントであろうと1タラントであろうと、「それぞれの能力に応じて」それぞれに必要な分、イエス様から見て十分なタラントを、それぞれに必ず、しかも思いもしないほど豊かに与えてくださっているということがわかるのです。
C,「それは何か?」
では、そのタラント、賜物とは具体的には何でしょう。それは私たちに今ある、ある今今持っている全てです。もちろん目に見えるものも神は豊かに与えてくれています。今あるものは全て神からのものです。それは才能や能力だけではない、この体も、命も、空気も水も自然も、食べるものも着るものも、お金も、家族も仕事も、そして教会も兄弟姉妹も、何もかも神からの賜物であり恵み、贈り物、あるいは預かり物です。加えて信仰など、霊的な賜物も沢山あります。私たちは兎角、今自分にあるもの、持てるものはすべて自分のものだ、あるいは自分が稼いで自分の努力で得たものだ、と思ってしまったり、あるいは逆に、自分にとって大事だと思わないものは賜物や恵みとは関係ないと思ったりもしますが、しかし、神が与えてくださるのでなければ実は何も持つことができません。全ては恵みとして神から来ているから私たちのところにあり、私たちは今を生きているでしょう。ですから、タラントを用いるということは、行いで倍増の結果を達成するために自分の特別な能力でその技を現すとか、そういうことではなく、クリスチャンであれば誰でも与えられている必要な恵み、すべての「恵み」を、世に仕えていくために正しく用いるということが、この譬えの忠実な僕と呼ばれる最初の二人の例が伝えていることに他なりません。現代は非常に物が溢れていて、物質的にも技術的にも豊かにあります。罪深いこの世の人間の思いでは、それらは神からのものではない人間の能力の発展であり持てるものも自分が得た自分の財産だという人がほとんどでしょう。あるいは神からの賜物であるはずの隣人や兄弟姉妹などについては、現代の個人主義の影響で、それらを神からのタラント、賜物、預かり物だと思わず、実質は関係のない他人だと思うかもしれません。そのように人間は多くを受けながら自己中心に、利己的に判断し用いたり用いなかったりする現実があります。しかし、それは決して、神の御心ではないと言えるでしょう。あまりにも多くの恵み、タラントを与っている私たちであるのに、それを本当に神の恵みとして見ているかどうか、あるいは、用いているかどうかがむしろ、このところが私たちに問いかけていることなのです。
3、「この譬えが何よりも指し示すこと」
ですから、むしろ今日のこの箇所は、18節と、24節以下の1タラントを地を掘って隠してしまった僕との比較で見ていく時に、イエス様の言いたい大事なことが見えてくるのです。24節以下で3番目のタラントを地に埋めた僕はこう言っています。
「24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
A,「地を掘ってタラントを隠したしもべ:恵みへの疑いと恐れ」
皆さん、このところから何がわかるでしょうか?前の二人との違いは何ですか?増やさなかったことですか?確かにこの後の主人の銀行云々のくだりを聞くと少しでも益を出すことを強調しているかのように思えるかもしれません。しかし最初に言いました。この例えは、私たちが損失出すかどうか、利益を出すかどうか、増やすか増やさないかを問題にするそんな安っぽい律法的なメッセージでは決してない。あるいは人間の目では測りやすく評価や判断しやすい成功や成果主義的評価がイエス様が私たちに求められていることでも決してなく、むしろそれ以上のことがあることが教えられます。
ここで大事なこととして教えられることは、この隠した僕の、その主人がそれぞれの能力まで配慮して溢れるばかり沢山、預けて下さっているタラントを恵みや喜びと見れない、ゆえにその主人に信頼し、喜んでそのことに応えられない心に他なりません。この人の言葉には、預けてくれた、あるいは与えてくれた主人のその恵みと愛の御心が全くわかっていません。この人にあるのは、どこまでも主人への「疑いの目」です。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」と自分中心な非常に断定的な決めつけです。しかも「25 私はこわくなり」ともあり、だから「地に隠した」とあります。彼にとっては神は信頼と愛を持って豊かに必要なものを必要に応じて与えてくださるお方ではもはやありません。理不尽に刈り取り、理不尽な結果を与え、奪う方、しかも恐ろしいお方であると彼は決めつけているでしょう。素晴らしいものを溢れるばかりに与っても、その与ったものさえも彼にとっては素晴らしいものではない。恐ろしい方の恐ろしい所有物でしかないことがわかります。彼のそのような主人や主人の預けたものへの理解や彼の疑いや恐怖は、聖書の中のある箇所を私たちは思い出すのではないでしょうか。そう、まさしく、あの創世記3章の堕落の場面です。神の言葉を疑って、神の恵みに対して捻くれ背を向けた態度をとり、自らの勝手な理解で神と神の言葉を勝手に推しはかり決めつけて疑った、あの堕落の時の人間の罪の態度そのものではありませんか?そして、まさに恐ろしくなって隠れたアダムとエバのように、この僕も多くの恵みを与えて下さっている神を恐ろしいと思い疑い、恵みのタンントまでも恐ろしいと思い隠す、そのことにも重なっているでしょう。
B,「十字架を見、十字架を指し示し語るイエス」
このイエス様の例えで教えられることは何でしょうか?「小さなことに忠実な良いしもべ」とは何を伝えたいのでしょう。逆に「悪いなまけ者のしもべ」「役に立たぬしもべ
と何を意味しているでしょうか?繰り返しますが、これは行いによって神の前に義を立て、私たちが自分の力で神に倍の結果、成果、実りを出さなければならないという律法のメッセージでは決してありません。もちろん、実を結ぶ結ばないはイエス様にとって大きな問題ではあります。しかし、ここで問題になるのは人の行いや貢献で、倍の結果を出しているかどうかではなく、聖書が約束し伝える真の聖霊が結ぶ御霊の実に結びついているその人の信仰そのものこそをイエス様は見ているということです。
イエス様がこの譬え話を話した時、それはどんな時でありイエス様は何を見ていたでしょうか?イエス様はこの時もうすでにご自身がかけられ死ぬ十字架と復活をまっすぐと見て語っています。そのイエス様が負われる十字架は、私たち人間自らでは決して神の前に正しくあれないしなれない、どこまでも罪人であるその私たちのその罪のための十字架ではありませんか?私たちの全ての罪とその報いである死を、私たちの代わりに負って死ぬために、そして、それによって私たちに罪の赦しを宣言し新しく生かすための一方的恵みの十字架であり復活であり、イエス様はそこをまっすぐと見てこの時も進んでいるではありませんか?そう、それはどこまでも神の恵みによる救いを私たちに証ししています。イエス様は神の前にあって罪を悔いどうすることもできません憐れんでくださいというしかない私たちにこそ、この十字架と復活のご自身を示してくださり、その十字架で私たちの罪の赦しと新しいいのちのために、このご自身の体と血を与えてくださいます。この十字架の死があるからこそ、私たちは「この十字架のイエス様こそ私の罪の贖い、私の罪のための救い主です」と信じ、そのまま受けとるだけで、イエス様はいつでも何度もその罪の赦しに与らせ、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と救いの恵みと平安のうちに日々新しく生かし遣わしてくださるのではありませんか?その十字架と復活の救いの恵みを日々そのまま受けて聖霊によって生かされることが新しい命にある「信仰の歩み」であり、それこそ福音に生き生かされることだと聖書は教えているでしょう。それが私たちが与っている救いであり神の国の生き方ではないのでしょうか?
C,「その十字架と復活の福音を受けてこそ全ては始まり福音に進ませる」
その通りです。そしてそこにこのタラントを忠実に用いるということが始まるのです。ですから、与えられている目に見えるものと目に見えないもの全ての溢れるばかりの賜物を隣人に仕えるために用いることも、良い行いも、隣人を愛することも、それはその「恵みを信じる信仰に始まり信仰に進ませること」であり、しかもその信仰も福音によって与えられ強められる賜物なのですから、私たちの信仰の歩みの全ては「福音に始まり福音に進ませる」ものでしょう。それは真に生かし新しくし日々進ませる力であるイエス・キリストの十字架の福音を受けてこそ、私たちの信仰による良い行いが導かれ、ヨハネ4章にあるようにキリストが与える水に泉が湧き出るように、私たちにもその恵みが溢れ出て、そのようにしてこそみ言葉の約束に従って聖霊の豊かな働きで賜物は正しく用いられていく、実は結ばれていくということに他なりません。ですから、タラントを受け取り、喜んで出ていく人の原動力もそしてそれを実現するのも、実は私たちではない、神ご自身であり、このタラントへの忠実さは、福音の力による、神がして下さり与えてくださったことを感謝し喜ぶ信仰にこそはじまるということが見えてくるのです。事実、パウロはクリスチャンの良い行いや働きについてこう言っています。
D,「御言葉の証言とルーテル教会の信仰告白」
「6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」フィリピ1章6節
「13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」フィリピ2章13〜14節
新改訳聖書ですと「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(2章13節)とあります。
このように世にあって良い行い、実を結ぶ働きをするのは、私たちが自分の力で果たさなければならない律法としては教えられていない。むしろそれは、イエス・キリストが良い働きを始め、志を立てさせ、ことを行わせる、成し遂げる、完成させるとそれは御言葉の約束であり福音であり、神が果たしてくださるということです。こうもあります。
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」エペソ2章10節
新改訳聖書ですとこうあります。「10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
これらの御言葉に従って、ルーテル教会はしっかりと次のように告白しています。
「彼らが神の言葉を保ち、熱心に祈り、神の恵みに留まり、受け取った賜物を忠実に用いるならば、キリストは、自ら始められた良い働きを彼らのうちに強め、増し、彼らを終わりまで支えようとしておられる」(和協信条根本宣言第11条21)
E,「真の価値ある忠実さ」
このように私たちが沢山のタラント、賜物を正しく用いるために、イエス様は何よりまず、その大きなタラントに比べれば、人から見れば、小さく思え過小評価される、与えられたその恵みを受け取り喜ぶという信仰こそをここに見ていて、その信仰によって感謝を持って恵みを隣人のために用いるこそがイエス様が「小さなことに忠実なしもべ」として喜ばれるのです。そのようなイエス様が与えてくださった恵みを受ける分として感謝し受け取る信仰にこそ、イエス様が幾倍にもその祝福を更に増し加えてくださるし、事実、その何よりの賜物である信仰にあって歩む人、つまりタラントである恵みを忠実に用いる人、イエス様が用いてくださって、隣人のために豊かに用いてくださるのです。ですから、律法と福音の区別で言うなら、信仰生活は、それが伝道であろうと宣教であろうと教会の奉仕であろうと、隣人愛であろうと、決してそれは律法ではない、どこまでも福音であるということなのです。
4、「結び」
皆さんは、今、神から与えられている、あるいは預かっている、目に見える、あるいは目に見えない神からの賜物を、どう理解しますか?溢れるばかりの物や霊的な賜物、何よりも信仰という素晴らしい賜物に与っている私たちです。しかし、現代の教会は何かとかく人間中心、自分中心になって、恵みを脇に置いたか、忘れたかのように、或いは、福音の力、聖霊の力、信仰の力が何か力のないわずかなもの小さな物であるかのようにしてしまい、むしろ人間の行いやわざの方が力があるとしてしまう。そして、そのように人の力や理性を拠り所とすると自ずと律法的になり、ただ目の前の現象や数だけで「足りない少ない」「少ないからダメだ、どうするんだ」と疑ったり不安になる。更には、「自分の目の中の針」は見えず、隣人や兄弟姉妹の悪いところばかり見えてしまい、不平や、そしてそこから勝手に予想できる合理的な否定的な結論や強迫観念に心が支配されてしまって、賜物であるはずの自分の信仰や他の人の信仰生活、教会、兄弟姉妹、牧師、等々、何であっても、それらを与えられた恵みとは逆に捉えて、「あれもダメだこれもダメだ」「あの人のせいだ、この人のせいだ」と、恵みのタラントである信仰までもネガティブに活用したり、ただ神や人を、あるいは賜物である兄弟姉妹さえも裁き、そのようなことが敬虔だと思っているような教会は少なくないように思います。しかし、それはファリサイ派と同じです。律法による教会や宣教は合理的でわかりやすく行いやすい決断や判断になるかもしれませんが、しかしそれはまさに神の言葉を疑った最初の人や、今日のタラントにある恵みに背を向け地に隠した人のようではないでしょうか。それは、忠実なしもべではなくなっています。そうであってはなりません。私たちは聖書の約束から、今日も、たとえ人の目にあってはどんなに少なく見えたり不足があるように見える現実があるとしても、しかしそれでも私たちはキリストにあって溢れるばかりの神の恵みに与ってると告白し、何より、イエス様の十字架と復活、罪の赦しと新しいいのちに今日もあずかった!と喜びを持って告白する信仰を与えられた天の御国の民です。何より今日もイエス様は「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と言って下さっています。その御言葉の約束に聞き信仰と平安のうちに今日も遣わされましょう。信仰に働く聖霊が必ず豊かな真の行いを生み、賜物は正しく用いられていき、隣人との間に、社会に、平安の実を結んでいくのです。ぜひその溢れるばかりの賜物を感謝し、平安のうちに遣わされましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
交わりのひと時:エーリック兄の帰京挨拶と近況報告。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
11月の家庭料理クラブは11日に開催しました。これまで暖かい秋の天候が続いていましたが、この朝は少し寒くて冬の季節に変わる感じでした。今回は「クリスタル・コーヒー・ブレッド」Kristallipullaを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にコーヒー・ブレッドの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れて小麦粉を加えます。生地をよく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地は出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。発酵してる間に中身のバニラ・バターを作ります。生地は大きく膨らみ、コーヒー・ブレッドの形作りをします。綿棒で生地を長方形に伸ばしてその上にバニラ・バターを塗ります。
細く切った生地を花の形にしていくと、「わぁー、こんな形にするんだ!」と驚きの声があがりました。参加者の皆さんは一生懸命花形を作って、きれいな形のコーヒー・ブレッドがどんどん鉄板の上に並べられていきます。それから二回目の発酵をさせます。
コーヒー・ブレッドの生地はあっという間に大きく膨らみ、オーブンに入れるタイミングです。少し経ってから教会の中に美味しそうな香りが広がり、皆さん、早く味わってみたいと待ち遠しそう。きれいな焼き色がついたコーヒー・ブレッドを少し冷まして、その上に溶かしたマーガリンを塗ります。バニラシュガーでトッピングすると、水晶のようにキラキラ輝く「クリスタル・コーヒー・ブレッド」の出来上がり!
テーブルのセッティングをして、皆さん席に着いて焼きたての「クリスタル・コーヒー・ブレッド」をコーヒーや紅茶と一緒に味わいました。甘いコーヒーブレッドの他に、カット野菜をのせたクラッカーも頂きました。歓談のあとで、フィンランドの「父の日」や、聖書の神が「天におられる私たちの父なる神さま」と呼ばれることについてお話がありました。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝します。
次回は待降節(アドベント)の期間の12月9日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。
皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドではいろんな種類のコーヒー・ブレッドを作ります。今日皆さんと一緒に作ったクリスタル・コーヒー・ブレッドはフィンランドで最も人気があるものの一つです。このコーヒー・ブレッドの特徴は中身のバニラ・バターとトッピングのバニラ・シュガーです。バニラ・シュガーが水晶のように輝くことからクリスタル・コーヒー・ブレッドと名付けられました。フィンランド語でKristallipullaといいます。
Kristallipullaは特に季節に関係なく作られますが、今の季節によく合うのではないかと思います。これからフィンランドはだんだん寒くなって気温が氷点下に下がるようになります。その時、木の枝の水滴が凍るので太陽の光が当たると枝が水晶のように輝いて見えます。Kristallipullaもキラキラして見えます。フィンランドは秋になると日が短くなって暗い時間が長くなるので、人々は色んな方法を考えて周りの雰囲気を明るくしようとします。コーヒータイムのkristallipullaはその一つです。
フィンランドでは11月の第2日曜日は特別なお祝いの日です。今年は明日ですが、それは「父の日」です。日本と違ってフィンランドでは「父の日」は秋の寒い季節のお祝いです。暗い季節を明るくするお祝いの一つです。この日はどのよう過ごすでしょうか。お父さんにプレゼントやカードを渡したり、飾りつけたケーキを作ったり、家族皆でレストランに行って食事をしたりします。お父さんに朝のコーヒーをベッドまで持って行くこともあります。
「父の日」は大事なお祝いの日でもありますが、これはお父さんにとって子供を育てる役割の大切さを考えさせる日にもなっています。フィンランドの普通の家庭ではお母さんもお父さんも仕事に行っています。このため子育ては母親だけでなく父親の役割も重要です。現在フィンランドでは父親は赤ちゃんの世話をしたり、子供と一緒に遊んだり、習い事に連れて行ったり、保護者会等に参加します。父親も子育てに責任を持つと、子どもとの関係は強くなります。
私の父はもう85歳になりました。父の年代の父親たちはみな仕事で忙しかったので、子育てにあまり参加出来ませんでした。それは母親の仕事でした。しかし私の父にとって父親になったことは大きな賜物でした。今年の夏父が次のように言っていたことを思い出します。「子どもが7人もいるが、一人でも多すぎたと考えたことはなかった。」
ところで、父の日や母の日になると多くの親たちは果たして自分は相応しい親なのかどうか少し考えてしまうことがあります。聖書の中に父親についてイエス様のたとえの教えがあります。イエス様はこのたとえを通して、天の私たちの父なる神さまはどんな方か教えられました。これは聖書の中でも最も有名なたとえの一つです。
ある家に息子が2人いました。弟の方は好きな勝手なことばかりやって暮らしていました。ある日弟が外国に行きたくなって、父親に言いました。「お父さん、あなたが死んだら僕のものになる財産を今すぐ分けてよ。外国に行ってしたいことがあるんだ。」父親が何を言っても息子は聞きません。父親は自分勝手な息子のことを悲しく思いましたが、財産を分けることにしました。弟はそれを全部お金に換えると遠い国に旅立ちました。
息子はそこでとても華やかな生活を送りました。高価な服を着て、そこで出来た友人たちと毎日遊び暮らしていました。しかし、いつしかお金はなくなってしまいました。ちょうどその時、その国にひどい飢饉が起こって息子は食べ物に困り始めました。だれも助けてくれる人はなく、息子は一人ぼっちになってしまいました。
それで息子は仕事を探しました。やっと豚の世話する仕事をもらえましたが、お腹はいつもペコペコでした。冷たく汚い豚の餌を食べたいと思うくらいでしたが、持ち主はダメだと言いました。その時、息子は父親の家には温かい食べ物も暖かい部屋もあることを思い出し、もう帰ろうと思いました。でも、父親の財産を無駄に使ってしまった自分はもう息子と呼ばれる資格はないとわかっていました。それで、家の雇い人の一人にしてもらえるように頼んでみようと思いました。父親の前でこう言おうと考えました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」そうして出発しました。
やっと懐かしい家が見えました。すると、最初に父親の方が遠くからやってくる息子に気がつきました。着ている服はボロボロで、全身汚く、顔も痩せていましたが、すぐ息子だと分かりました。父親は息子に向かって走って行きました。息子は父親が走り寄ってきたのに驚きました。すると父親は息子を抱きしめたのです。驚いた息子は、抱きしめられたまま言いました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はないんです。」息子が「雇い人の一人にして下さい」と言う前に、父親は家来たちに言いました。「さあ、急いで一番良い服を持って来て、息子に着せなさい。手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから最高の食材をそろえて、盛大なお祝いの準備をしなさい。息子は死んでいたのに、生き返ったのだ。見失われていたのに、見出されたのだ。祝うのは当然のことではないか!」父親が罰ではなくこのように愛をもって受け入れたので、息子は生まれ変わることができたのです。
イエス様がこのたとえを話したのは、天の神さまがどのような方であるかを教えるためでした。たとえの父親は神さまのことです。息子は私たち人間のことを指します。私たちも神さまのもとに戻って行けば、神さまは息子の時と同じように必ず私たちを喜んで抱きしめて迎えて下さいます。このように神さまの私たちに対する愛は、私たちを赦して受け入れて下さることです。天の神さまはご自分のもとに戻る一人一人を自分の子どもとして迎え入れるのです。一人でも多すぎるということはありません。
「クリスタル・コーヒー・ブレッド」や父の日のお祝いは普段の生活を明るくするものですが、天の神さまが私たちを愛して迎え入れて下さるのはもっと大きな喜びになります。そのことを覚えて日々を歩んで行きましょう。
ウェルカムフラワー
白州の家の冬支度で1泊2日の日程で山梨まで行ってきました。二人とも高速道路嫌いなので往復とも甲州街道でした。 沿道の晩秋風景は矢張り例年と少し違って晩秋とは思えない佇まいでした。到着したのが日没後だったので暗闇の中を足探りで玄関まで行きましたが伸び放題の雑草が行く手を阻み翌日の庭の様子を見るのが気になりました。あくる朝早速庭に出て見ますと案の定、庭は物凄い事になっていました。元々ここは山中の原野でしたので自然界の先祖帰りとでも言うのでしょうか。庭先の栗の木の根元が荒らされていて何か大きな動物が入り込んで動き回ったような感じです。栗の実が食い荒らされていましたので熊か猪の仕業かもしれません。近くの井手さんの家族も友人も熊を見たそうです。荒れた庭でしたが唯一つの発見は玄関に続くアプローチにノコンギクの一叢が咲いていました。まさに自然のウェルカムフラワーのようでした。
<神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 コヘレト3:11>
自分は「聖霊の結ぶ実」(※)をなかなか結べない、キリスト信仰者として失格だと意気消沈している方は、以下のルターの教えをどうぞ。 この教えはまた、自分はいい加減な信仰者と自称し、どうせ神は気前よく寛大だから別にいいのさと、神の愛と恵みを悪用している方も是非どうぞ。(※ガラテア5章22節にてパウロは「聖霊の結ぶ実」として、愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、誠実、柔和、自制をあげている。)
『キリスト信仰者に十戒の掟を守って柔和で清い者になれと命じて、信仰者に聖霊の結ぶ実を要求する人がいる。しかし、それでは、そういう実を完全に結べる者がキリスト信仰者であると主張することになり、それは誤った裁きを下すことになる。そのような主張をする者は、キリストが本当におられる所にいないと錯覚しているのである。そのような主張者に何が欠けているのか考えてみよう。その者は、キリストの国がどのような国であるか全くわかっていない。その者は次のように言うのが常だ。柔和なキリスト信仰者は決して怒ったりはしないし、忍耐強くなければならない、なぜなら、そのような実が実っていなければ決してキリスト信仰者とは言えないからだ、と。
聖書のどこにそんなことが言われているのか指し示してみよ。キリストの国がどのような国か正しく知っている者は、キリスト信仰者が時として忍耐に欠けるのを目にしても目くじらを立てない。なぜなら、聖霊の結ぶ実は律法として与えられているのではないと知っているからだ。もし聖霊の結ぶ実が律法ならば、キリスト信仰者に実が完全なものとして現われてこなければキリストが否定されてしまうことになる。そういうことではない。聖霊の結ぶ実は次のように理解すべきだ。キリスト信仰者が柔和で忍耐強いというのは、それを目指していくということなのだ。肝心なのは、実を結ぶことが始まったということであり、成長していくということだ。成長していく際にキリスト信仰者が時として悪い思いに囚われることもあろう。結ぶ実が聖霊の望むものとは反対のこともあろう。キリスト信仰者は柔和でなければならないとよく言われるが、だからと言って、我々は既にそのような者であると言うことは出来ない。そうではなくて、我々はそのような者になる過程にあるのだ。(了)』
その「過程」とは、礼拝を中心にする信仰生活であることをお忘れなく。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。 アーメン
2023年11月12日(日)
題:「救い主えお迎える用意」
マタイ福音書25章1~13節
来年は、たつ年となります。私の年です。「人生100歳の時代」と言われています。年を重ねて行くと、自分の人生の最後の幕引きを考えるものです。人は誰でも、この世での人生を終え、肉体は死んでも霊魂は、次の新たな世界へと、新しい出発を始めます。聖書の言葉を通して、次の世界への道を神様が示してくださいます。
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天の御国はどういうものか、イエス様は様々な譬えを用いて語っておられます。今日の聖書で「1
人の「おとめ」の譬えを話しておられます。マタイ福音書25章を見ますと、「そこで、天の国は、次のように譬えられる」こう言ってユダヤでの婚姻の状況で花婿を迎える10人のおとめの譬えが語られます。さて、この譬えを理解するには、ユダヤの結婚手続きを知っておく事が必要です。ユダヤでは男女が結婚するのには三段階の手続きがありました。題1は、男性と女性の双方の両親が息子、娘らの結婚の約束を取り交わすものです。題2は、ユダヤの結婚式です。それは通常、花婿の家で幾人かの証人たちの前で行われ、その席上、花婿から花嫁の父に結納が贈られました。
この日から二人は法律上の正式の夫婦ですが、まだ一緒にすごしません一年の後、一緒にすごし始めることになります。いよいよ第3段階で二人の目出度い喜びの婚宴です。普通は大勢参加できるよう、夕刻から始まります。まず、花婿は親族か友人の家で身支度を整えます、その間、自宅は女中たちの手で婚宴の会場をしつらえます。夕刻、花婿と花婿の友だちは花嫁の家へ迎えに行きます。そこで花嫁の友だちは花嫁を美しく着飾り花婿の家の婚宴の席へと導きます。その行列は松明とランプとで照らし出され沿道の家々から花嫁の美しさをたたえ祝います。賑やかな行列が会場に着くと宴会が開かれ、幾日もの間、歌と踊りと酒とで目出度い時を祝いました。これが通常行われていたのです。ところで、イエス様の譬えでは「10人のおとめ」は花婿を迎え出る女たちです。その場面について、色々議論がありますが、通常とは違って花嫁の家で宴会が開かれる場合もありました。ここでも花婿が花嫁の家に来て婚宴を催すので、花嫁の家の玄関で花嫁の
代理として花婿を迎えようとしていた花嫁の友人たちのことが「10人のおとめ」であります。(なぜ、おとめが10人であったか、は当時の習慣であったかもしれません。)この譬えで大事なことは「10人のおとめ」のうち5人は思慮が浅く、5人は思慮深い者であったことです。では、5人の「思慮深さ」はどこにあったのでしょうか。イエス様譬えの終わりに「だから、目を覚ましていなさい。その日、その時があなた方にはわからないからである。。」と結んでおられます。(13節) これは24章42節でも言われている言葉ですが、この「思慮深さ、賢さ」が文字通り「目を覚ましていた」ことにあると、考えると。25章5節を見ますと10人が10人とも居眠りをして寝てしまった、とあります。無理もありません、花婿が来るのが遅すぎて「夜中」になってしまったからです。ですから、「寝てしまった」こと自体は非難の的として語られていません。恐らく、ここでは、花婿の到着が予想以上に遅かったことを強調しているのです。そして、突然、出迎えの支度をしなくてはならなかった、この驚きを力説するための表現です。イエス様は24章42節で「目を覚ましていなさい」と言ったのを「用意をしていなさい」と言い換えらえています。「だから、あなた方も、用意していなさい、人の子は思いがけない時に来られるからである」。
25章10節でも「思慮深いおとめ」は「用意の出来ていた、おとめ」と言い換えられています。ですから、おとめたちの「思慮深さ、賢さ」とは、たとえ、一時は居眠りするにせよ、よそ事に心を奪われるにせよ、ともかく「花婿だ、出迎えに出なさい!}と言う、叫びが、終末前兆として告げ示された時、出迎えられる「用意をしている賢さ」の事です。では、「用意」は、どういう点にあったのでしょうか。それは、思慮の浅い女たちは、あかりを持っていたが「油を用意していなかった」といことです。しかし、思慮深い女たちは、自分たちのあかり、と一緒に入れ物の中に「油を用意していた」この点にあります。<もう少し申しますと>5人のおとめの賢さは、二つの点に現れています。第1には、花嫁の友として、花婿を迎えるには「あかり」を灯す事が絶対必要であり、それが結局、油があるか、無いか、にかかっている、と理解していた点です。よくわかって実行しています。第2には、花婿が何時来るか、わからないので別の器に油を用意した、それほど花婿の来る時、出迎える時、に対して慎重な備えをとっていた、ということです。では、「あかり」や「油」は何の比喩なのでしょうか。明らかに「あかり」というのは花嫁の代理として花婿を迎える資格を与えられている者です、それが、彼女たちを、他の女たちから区別する目印なのです。さて、私たちキリスト者として、他の人たちと区別できる印といったら何でしょうか。私どもは、日曜日に教会に行って礼拝します。又教会が洗礼を受け聖餐式にあずかったりします。目に見える印でしょう。それに対して、その「あかり」を照らす根源となる力、たとえで言う「油」は言うまでもなく、内的な目に見えない信仰です。聖書で言われる「聖霊」のことと言っていいでしょう。<つまり>賢いキリスト者は主の再臨を待つ、日々の生活において、まず目に見える信仰生活、教会生活をし、そして目に見えない聖霊が働いて下さる信仰に生かされている実感を感謝することでしょう。次に賢さの第2は、いくら再臨が遅れても、いつでも備えをしていること、それの忍耐と希望をいだいて待つことであります。
パウロは、聖霊の油によって、照らされる「あかり」を聖霊そのものに見立てて、テサロニケ第1の手紙で5章19節に「御霊を消してはいけない」と警告しています。更に、テモテへの第2の手紙3章1節と5節には「終わりの日には、人々は信心深い様子をしながら、その実、信心の力を否定するようになります」とあります。聖霊の油の切れた人は、今は信仰を形の上だけ、保っているが、中身はギスギスした、戒律主義的な、見せかけにすぎません。次に他の浅はかな5人のおとめたちの会話を見ますと、「その日、その時がわからない」と言っても、前触れがないわけではない。」6節には「さあ!花婿だ!迎えに出なさい」と叫ぶ声がした、ことによって暗示されています。その時、5人の愚かな女はランプの油がなくなりつつ、あるのを見て、他の5人に油を求めます。すると、賢い女の返事はこうでした。「私たちと、あなた方とに足りるだけは多分ないでしょう。店に行ってあなた方の分をお買いになる方が良いでしょう」(19節)彼女たちの言葉は、いかにも意地悪な返事のようにも聞こえます。この返事の言葉は、率直に言って、こう訳すべきだ、と言います。「いいえ、駄目です。私たちとあなた方とには足りません」。このように、はっきり、足りない、と分かっているので、買いに行ってもらう外に仕方がないのです。たとえ同情心があっても、油を分けてあげるほどの余裕がないのです。だから、言われた方も、そう意地悪とはおこらないでしょう。自分たちが明らかに不注意でしたから。早速、買いに走りますが、もう夜中です、店など開いていません。彼女たちは,締め出されるほか仕方がありません。<言い換えますと>聖霊は信者から信者へと、おいそれと分け与えられるものでは」ありません。使徒言行録8章20節には「神の賜物が金で得られる等と思っているのか」。と言っています。「神の賜物は、金では買えないし、兄弟姉妹の間で取引する事もできません。」直接、神の言葉に従って神に祈りを求めることによってだけ、恵が与えられるものです。パウロはロマ書12章3節でこう言っています。神が各自に与えられた信仰の量(はかり)に従って慎み深く思うべきである。(口語訳)「つまり、それぞれに、聖霊の賜物を量(はかり)に従って分け与えられておられます。」つまり、一人びとり、神からいただいている油はその人自身になくてはならぬものです。「私たちとあなた方とには足りない、余りはないのです。聖霊の油は信者一人びとりが、各自養い、育て、貯えておかねばならないものです。マタイ福音書7章14節には、「命の至る門は狭く、その道は細い」とあります。つまり、富を抱えたままで、そこに入るより、駱駝が針の穴をくぐる方がたやすい。それほど門は狭い、ということです。聖霊の油を豊かに持つ友に兄弟姉妹のよしみで、一緒に連れ込んでもらう事は出来ない、それほど狭いということです。クリスチャンの信仰はこの点、徹底的に個人的であります。1人1人の神との関係です。1人1人立たねばならないのです。ですから、主を迎える備えに於いては1人1人が自分自身に信仰を確かめていなければなりません。ヨハネ黙示録3章11節、フィラデルフィアにあてた手紙にこうあります。「私はすぐに来る。あなたの栄冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」。信仰は命、宝のような命、それを他人をあてにして、眠ってはならない。人に分けてやろう等とうぬぼれてもならない。1人びとりが誰にも頼れない。誰にも奪われてはならない。これなしには、私は生きてはいけない。そういうものを宝のように固く守って、用意すべきであります。次に、愚かな点は神の賜物の不足を女たちが終わりの時まで忘れていて、そのために求め始めたのが遅すぎた、という点です。終末の日まで、今は恵みの日、救いの日です。終末には確かに前触れがあります。マタイ福音書24章33節に「すべて、これらの事を見たなら人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」。前触れがあってから何とかしようと思って眠っていてはなりません。店の閉まらない間、光のある内に油を買い求めておくべきです。この意味するところは、普段から、み言葉を聞き、神に祈ることであります。終わりの日では遅すぎます。終わりの日、はまだまだ先のことと思ったりします。
若い人は自分がいつ死ぬか、考えてもいません。元気なお年寄りは、自分はこんなに元気だ、自分が死ぬなんて考えたくない、そうすぐには来ないと思いたい。しかし、いつ、どんな状況で、その日、その時が来るか誰にもわからない。この世での終わりの日,死はその人にとっての終末であります。今日のみ言葉の譬えの終わりに25章10節「愚かなおとめたちが買いに行っている間に花婿は到着し5人の花婿と一緒に婚宴の席に着き、戸が閉められた。後になって他のおとめたちが来て「ご主人様、ご主人様開けて下さい」と言ってもわたしはお前たちを知らない。と言われる。神様の恵みの手段は用意の出来ていない者には戸が閉められる。今日という日、終わりの日がいつ来ても用意が整えられ聖霊を求めていることこそが私たちにも警告されているのであります。
人知ではとうてい測り知ることの出来ない、神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
フィンランドの祝日「全聖徒の日」に想う
キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。 加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドでは11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。国の祝日です。今年は昨日の11月4日でした。大方のフィンランド人はその日、教会の墓地にロウソクを持って行って墓に火を灯します。風で消えないようにガラスや耐熱プラスチックの瓶に入っているロウソクです。
日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランド人も墓に花を飾りますが、「供える」という意識はありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、または見えない誰かに語りかけることもしません。墓はあくまで家族の記念碑です。それに、キリスト信仰では、見えない誰かに語りかける時、相手は父なるみ神と御子イエス様以外にはありません。日本人の場合は、亡くなった方が今もまだ身近にいるような雰囲気があり、お墓や仏壇がその雰囲気を作り出す役割を果たします。
キリスト信仰では、亡くなった方は思い出の中に残るので、故人の思い出/メモリーを尊重するというふうになります。フィンランドで墓にロウソクの火を灯すのは思い出をともし火のように輝かせることを象徴する行為と言えます。かの地では「故人の思い出に蝋燭の火を灯す」という言い方をします。日本人の場合は尊重するのは故人の今身近にいる霊とか魂になるので、現在も故人と繋がりがあることが意識されます。それなので、尊重するのが過去の思い出になってしまったら、今は故人との繋がりがなくなってしまうと心配する人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰があり、復活の日に懐かしい人と再会できるという希望があります。それで、あの方と共に過ごせた日々を何物にも代えがたい大切なものとして胸に留め、そのような方を与えて下さった神に感謝しつつ、復活の日の再会の希望が叶いますようにと神に願いながら、自分自身、復活の日に向かって今を生きるというスタンスになると言えます。
全聖徒の日、白夜の季節が終わった北欧の暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「小羊の血で衣を白くされた大群衆」を彷彿とさせます。
追記 全聖徒の日の前日のフィンランドのテレビニュースを見た時、墓石会社の人のインタビューがありました。今フィンランドは教会離れ聖書離れが進んでいるが、まだ故人の思い出を尊重する伝統は続いている、ただし、将来この伝統が続くかどうかはわからない、などと話していました。聞くところによると、最近国教会に属するクリスチャンの中にも、亡くなった人は今空高くどこか雲の上にいて下にいる私たちを上から見守ってくれているなどと言う人も出てきているそうです。それはキリスト教的ではありません。この世の人生を終えた方は今、神のみぞ知るところにいて復活の日まで安らかに眠っていて、その日に目覚めさせられるというのがキリスト教の復活だからです。