ニュースブログ

歳時記

尾根緑道のコスモス

〈よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 ヨハネ12:24〉

尾根緑道の花畑にコスモスの花が咲き出しました。この畑は春には菜の花が、秋にはコスモスが。夫々、季節に応じて花を咲かせています。後ろに見えるのは桜美林学園の講堂でしょうか、このあたりの土地はは戦後間もなく学園の創立者の清水安三氏が買い占めていてくれたお陰で今も当時の自然が色濃く残っています。1918年、清水安三氏は中国で貧困に喘ぐ子女を対象に学校を設立しました。そのために彼は中国で絶大なる信頼を得ていました。今ではどうか知りませんが桜美林学園では生徒の修学旅行は中国でした。安三氏のおかげで桜美林学園の生徒たちも中国では歓待されていました。娘が高校時代に中国に修学旅行で行った時も文革後の険悪な世相にも関わらずに歓待してくれたと言っていました。まさに、安三氏は中国に於ける一粒の麦だったのかなと思っています。

スオミ教会 手芸クラブのご案内 

himmeli

次回の手芸クラブは10月21日(水)10時~13時に開催します。

himmeli一足早くクリスマスに向けてフィンランドのクリスマス・オーナメント「タハティ(星)」や「ヒンメリ」を作ります。フィンランドでは藁(オルキ)で作るクリスマス・オーナメントは伝統的なもので、現代でも手作りの「星」や「天使」や「ヒンメリ」は昔ながらのクリスマスの雰囲気を高めてくれます。天然の藁で作るオーナメントは僅かな光が当たっても白い控えめな輝きを放ち、暗い冬の季節のお部屋で不思議と心を和ませてくれます。どんな形のオーナメントにするかはご自由にお決め下さい。

フィンランドのクリスマス・オーナメントを是非ご一緒に作ってみましょう!

手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

持参するもの:パールピン20本

参加費: 1000円

himmeliお子さん連れの参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み
paivi.yoshimura@gmail.com
℡ 03-6233-7109
スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106

olkitähti

牧師の週報コラム

私の礼拝説教の作り方

この夏フィンランドのカルックで開催されたSLEYの研修大会でのこと、夕べのサウナの時間、牧師や神学者たちとサウナに入って湖でひと泳ぎしてはまたサウナを繰り返して桟橋で一息ついていた時、一人の神学者が私に聞いた。 「君は礼拝説教を作る時、何の注釈書を使うのか?」 「何も使わないよ、原語の聖書(つまりギリシャ語、ヘブライ語、アラム語)で十分だよ」と答えると、周りにいた者がホォという感じでこっちを見たので、発言を少し注釈して聞かせた。

もちろん注釈書は大学の研究員をしていた時は使った。それが仕事だったから。基本中の基本は、英語の Anchor Bible と Word Biblical Commentary、ドイツ語は Herder と Evangelisch-katholischer Kommentar の4つ。それらをもとに他のものへと幅を広げていったわけだが、どれも議論がちゃんと組み立てられているかどうかと懐疑的・批判的な目で見たので、注釈書はどれもケチをつけるためのものになってしまった。それで説教を作る時にはあまり使う気がしなくなってしまった。ならば直接原語の聖書にあたって自分の目で見た方が話が早い。

原語の聖書にあたる際、いつも日本では何が問題かということを意識して、その問題解決を翻訳でなく原語の聖書に見つけるというスタンスを取っていると思っている。例えば、死者にお伺いを立てたりコミュニケーションを取ろうとする日本的霊性には復活の信仰を対峙させる、この世の不条理に対しては人間を相手にした正しさ(正義)と神を相手にした正しさ(神の義)という視点でどう乗り越えられるかを考える等々。日本語の聖書でも解決は見つかると思うが、日本語の感性に流されないためには聖書を何度も何度も読み通す必要がある。私は、原語で一回根気よく読んだら、翻訳の10回分になるのではないかと思っている。(ただし、原語で読むと言っても解説書に頼るのは苦労を他人にさせることになりダメ。あくまで文法書と辞書を使って自分で格闘しないと。ないしは日本語で10回以上読み通さないと。)

忘れてはならないことは、原語で読んでも直ぐ解決を得られないことが多いということだ。一つの単語に沢山の意味がある、どれを選ぶか?この語はどこにかかるか?この形は統語論的にどう説明できるか?等々。一つ違えば意味も大きく違ってくる。そこで、ルター派の私はそういう分岐点に差し掛かった時はルター派の教義を道しるべにしている。信仰義認、律法と福音の関係、信仰と理性の関係等々の争点でルター派の基軸から外れないように歩を進める。そう言うと、なんだ結局は正統主義に流れているだけじゃないかと言われてしまうが、実はそうなのである。使徒的伝統に立つことをモットーとしているのでそれでいいと思っている(※)。ただ私の問題は、「一致信条集」をきちんと学んでいないこと。そこは、ヘルシンキ在住の神学者・高木賢氏がフォローしていて毎週私の説教を見てコメントしてくれる。彼は聖書を原語で何度も読み通す強者で、一致信条集もラテン語とドイツ語で読みこなすまさにウォーキング・ルーセランなのだ。

(※ 使徒的伝統に立つとはどういうことかについては週報コラムの10月4日号を参照のこと。)

 

牧師の週報コラム

使徒的伝統に立つキリスト信仰とそうでない信仰
先週の週報コラムの終わりで「使徒的伝統に立つキリスト信仰」ということを述べました
。今回は、それはどんな信仰かということについてです。
4つの福音書が出来上がるのはイエス様が天に上げられてから一世代か二世代経った後の
こと。主の昇天から福音書が出来てくるまでの30~50(プラスアルファ?)年の間にキリ
スト教徒たちがアクセスできた教えは、イエス様にまつわる使徒由来の伝承と使徒たちが
書いた手紙が中心。なので、その後に出来上がった福音書はみな使徒の観点の影響下にあ
ると言ってよい。みな使徒の観点の範囲内に収まるものなのだ。トマスやユダの名を冠し
た福音書が存在するが、使徒の観点からはみ出ているので聖書には加えられなかった。聖
書を通してイエス・キリストを知ろうとすれば使徒的な観点にならざるを得ないのは当然
である。
これに対して、実際のイエスは使徒の観点とは別物という考え方もある。19世紀のドイツ
の釈義学界でこの考え方が強まった。第二次大戦後は英語圏にも広がっていく。例えば、
初期のキリスト教徒は外者との区別を強調するため教えが厳しくなった、イエスの言行の
記述で厳しいものはそうした後のキリスト教徒の考えで着色されたか創作されたものであ
る、実際のイエスは厳しくなかった、というような言説だ。このようにして多くの学者が
使徒的な観点から自由に様々なイエス像を発表してきた(自由主義!)。聖書に収められ
なかった"福音書"も一次資料として用いられようになり、初期のキリスト教はこんなに多
様性があったと。キリスト信仰が使徒的伝統から”解放”されればされるほど、処女懐胎
も復活その他の奇跡も、古代人のファンタジーか言葉の綾の如く扱われるように。聖書的
でなければない程、アカデミックな研究になると言わんばかりだ。こうしたアカデミズム
は、聖書が伝えない(または隠している)真理を暴き出したような達成感をもたらし、人
によっては信仰が深まったという錯覚に陥ることもある。
私は、学者がその時その時の斬新な学術的手法を用いて作り上げたイエス像が信仰の対象
になるとは思わない。というのは、この世を去らねばならない時が来たら、財産であれ業
績であれ名声であれ知的集大成であれ人間が生前築いたものは何も次の段階に携行できな
い、丸裸なのだ。人間が限りある頭脳で築き上げ、いつかは別の結論に置き換えられるか
もしれないイエス像が何の役に立とう?
そこで使徒的な伝統に立つキリスト信仰の出番となる。天地創造の神が処女を介してひと
り子を私に贈って下さった、そのひとり子が十字架上の死を遂げることで私を罪と死の支
配から贖って下さった、死を遂げた彼が神の力で復活して永遠の命に至る道を私に開いて
下さった、その主の死と復活に私は洗礼を受けることで結びつけられた、そして聖餐に与
かることでこの結びつきを私は実感できる。こられがあれば、次の段階に身を投じる時、
受け取って下さる方が確実におられとわかるので何も恐れることはない。もちろんその時
は意識はないかもしれないし、認知症でわけがわからなくなっているかもしれない。しか
し、意識がなくなるまで聖餐を受け続けて結びつきの実感を保ちたいし、認知症になって
も結びつきの実感が余韻として残るくらいに聖餐を受け続けたいと思うのだ。

DSC_3767

歳時記 今の一号遺跡

〈 10私は自分の願いを何でも満たそうとした。どんな楽しみも心の赴くままに求めた。一生懸命に働き,心には喜びが生まれた。この喜びこそ私が一生懸命に働いて得た報酬だ。 11  私は,自分の手で行った全てのこと,苦労して成し遂げたことを振り返ってみた。すると,全てはむなしく,風を追うようなもので,この地上に本当に価値 のあるものは何もなかった。伝道の書2:10、11〉

遺跡のあるこの地域の明治時代と現代の地形図を並べてみました。明治時代までは恐らく馬牧が盛んであった当時と地形的には大きく違わっていないと思います。しかし、大規模な団地の造成がはじまると耕作地であった谷戸は調整池となり墓のあった丘は団地の一角に組み込まれてしましました。散歩の折に池を見下ろすベンチに腰かけて往時の姿を空想しています・・・馬が遊ぶ丘の草原と農民たちが畑仕事をしている谷戸と・・・そんな景色を思い描いています。この景色中で変わらぬランドマークは標高131 の風の丘公園だけになりました。

2026年10月4日(日)午前10時半 聖霊降臨後第19主日 礼拝説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年10月4日 聖霊降臨後第19主日

イザヤ5章1-7節
フィリピ3章4b-14節
マタイ21章33-44節

説教題 「神の国の実を結ぶ者は誰か?

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに - 実現済みの預言ではなく現代にもかかわるたとえ

 本日の福音書の日課は、ぶろう畑の所有者と雇われ農夫についてのイエス様のたとえの教えです。この教えは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章のぶどう畑の話を土台にしています。両者は似ていますが違いもあります。イエス様はたとえの教えをユダヤ教社会の指導的立場にある人たちに話しました。彼らは旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ畑の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、すかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すとわかったでしょう。ところが、イエス様のたとえにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ます。農夫がそうですし、所有者が送った僕や息子もしかり。指導者たちは「この預言者の再来と民衆に担がれている男はイザヤ書の聖句を引き合いに出して何を言おうとしているのだ?」と首を傾げつつ耳を傾けたでしょう。

イエス様のたとえにはイザヤ書の引用ということの他に、当時の社会と経済の状況が織り交ざっている面もありました。ブドウ畑の所有者は畑を農夫に任せて旅に出たとあります。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先になるのかと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ畑を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者と労働者が異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が自国に帰ったということでしょう。こうした背景がわかると、農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたのは筋が通ります。普通だったら、そんなことをしたらすぐ逮捕されて自分たちのものなんかになりません。しめしめ、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国だ、邪魔者はいない、ブドウ畑は俺たちのもの、ということです。

そうなると、このたとえはブドウ畑の外国人所有者に対する現地労働者の反乱について言っているように聞こえるかもしれません。しかし、イザヤ書の聖句が土台にあることを忘れてはなりません。そうすると、所有者に対する反乱は神に対する反乱であることがわかります。所有者が送った僕が殺されるというのも、イスラエルの民の歴史を振り返れば神が送った預言者たちを国の指導者たちが迫害したことだとわかります。そうなると邪悪な農夫たちは国の指導者を指すとわかります。

それならば、所有者の息子は誰のことなのか?所有者が神を意味するなら息子は神の子ということになる。指導者たちが神の子をも殺してしまうなどと言っている。それは一体なんのことか?そこで指導者たちは思い当たります。そう言えば、この男は自分を神の子と自称しているそうではないか。まさか…と思った、まさにその時でした。イエス様が指導者たちに質問しました。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、農夫たちをどうするか?」まだたとえの本当の意味がわかっていない指導者たちは当たり前のように答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸すだろう。」

この答えの後でイエス様は「隅の親石」の話をします。家を建てる者が捨てたはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22

23節の聖句です。これは、イエス様の十字架と復活の出来事を知っている私たちから見れば意味は明らかです。捨てられた石は十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経てキリスト教会の基、まさに隅の親石になったのです。その親石を捨てた「家を建てる者」とは、イエス様を十字架刑に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にこの詩篇の聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた家を建てる者は愚か者であることがわかります。それは、たとえの邪悪な農夫と重なってきます。一体、この男はイザヤ書と詩篇の聖句を引き合いに出して何を言いたいのか?指導者たちはイエス様の次の言葉を固唾を飲んで待ちました。

 そこでイエス様は全てを解き明かします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていはユダヤ民族以外の民族を指す言葉です。日本語でよく「異邦人」と訳されます。ここにきてイエス様の教えの全容がはっきりしました。イエス様はイザヤ書のたとえを土台にして彼の時代の社会経済状況を織り交ぜて話されたのでした。それは、イザヤ書の預言はまだ完結していないことを教えているのです。かつてイスラエルの民は神が期待する実を結ばなかったためにその社会は衰退と混乱に陥って最後は強大な敵国に滅ぼされて祖国を失ってしまった。それと同じように今も、もし神が期待する実を結ばなければ神の国を受け継ぐ資格を失ってしまうのだと教えているのです。イエス様の時代の700年以上も前に預言されてその後のバビロン捕囚で実現済みと思われていたことは実はイエス様の時代にもあてはまるということを教えているのです。

 これを聞いた指導者たちが激怒したのは無理もありません。ブドウ畑を神の国と言うのなら、その所有者は神です。神が送ったのに迫害され殺された僕たちは旧約聖書に登場する預言者たちです。邪悪な農夫はユダヤ教社会の指導者たちのことです。その指導者たちが神の子も殺してしまうなどと言う。我々が神の子を殺すとでも言うのか?この男が神の子だと言うのか?これこそ神に対する冒涜だ!しかも、我々ユダヤ民族が受け継ぐことになっている神の国が取り上げられて、異邦人が受け継ぐようになるなどと言う!冗談も休み休みにしろ!このように怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした。

 しかしながら、神のひとり子が指導者たちによって殺されるということ、そして、ユダヤ民族に代わって異邦人が神の国を受け継ぐようになるということ、これらはイエス様の十字架と復活の出来事の後でその通りになったのです。イエス様の復活から50日後にキリスト教会が誕生しました。イエス様を救い主と信じたユダヤ人に加えて同じ信仰を持つ異邦人がなだれ込んで来るようになりました。さらに西暦70年にユダヤ民族の首都エルサレムとその神殿はローマ帝国の大軍の攻撃により壊滅し、その後キリスト教の主流はユダヤ人キリスト教徒から異邦人キリスト教徒に移っていきました。このようにイエス様の言われたことは見事に実現してしまったのです。それでは、イエス様のたとえは実現済みの預言として片付けてしまっていいのでしょうか?

そうではないのです。イエス様のたとえは現代の私たちの地点から見たら確かに実現済みの預言にしか見えないかもしれませんが、実は現代を生きる私たちにどう生きるべきかを教えているのです。これからそのことを見ていきましょう。

2.神の国とは

 イエス様のたとえの教えが今を生きる私たちにも関わっていることがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられると言っていることに注目します。新共同訳では、神の国に「ふさわしい実」を結ぶ民族となっていますが、ギリシャ語原文を見ると、「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい実」ではなく、ずばり「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」は、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の「異邦人」です。つまり、ユダヤ民族かどうかに関係なく、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられると言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とは何なのか?もし「神の国にふさわしい実を結べ」と言われたら、頑張ってふさわしいものを目指さなければならないと頑張りを要求するものにならないでしょうか?ところが、「ふさわしい」がなくて、ずばり「神の国の実そのものを結べ」と言われたら、どうでしょう?何をどうすればいいのか途方にくれてしまうのではないでしょうか?実は、この「神の国の実を結ぶ」ということが、イエス様のたとえが今を生きる私たちに関わっていることなのです。どういうことか見ていきましょう。

 「神の国の実を結ぶ」がどういうことかわかるために、まず「神の国」とは何かをわかる必要があります。これはスオミ教会の説教で何度もお教えしたことです。少し復習します。

 神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を用いて認識・把握できるこの現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とこの中にあるものを造られた後は自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、愛するひとり子を御許からこの世に贈り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 神の国は今は私たちの目に見える形で私たちのもとにはありません。しかし、私たちのもとに目に見える形で来る日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を再創造する、そういう天地の大変動が起こる時、再臨されるイエス様がその時点で生きている、神の目に適う者たちと、その日眠りから目覚めさせられて復活する者たちを一緒にして神の国に迎え入れられます。もちろん、最後の審判があることも忘れてはなりません。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。それが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。それが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを言い当てています。

 このように神の国は神聖な神の神聖な意思が貫かれているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとはそのような神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神のもとにいることができなくなり、神との結びつきが失われてしまいました。それで人間は死の力に服する存在になってしまったのです。この辺の事情は創世記3章に詳しく記されています。

 神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間に自分との結びつきを回復させようと考えました。結びつきが回復すれば人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。この世から別れることになっても、復活の日まで安らかな眠りにつき、その日が来たら目覚めさせられ、神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の神の国に迎え入れられます。こうしたことが可能になるためには結びつきを失わせている罪を人間から除去しなければなりません。人間は罪のない清い存在にならなければならないのです。しかし、人間は神の意思に完全に沿うように生きられないのでそれは不可能です。

 この問題を解決するために神はひとり子のイエス様をこの世に贈りました。人間の罪を全部ひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上で神罰を受けさせて死なせました。神は文字通りイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に開かれました。そこで今度は私たち人間の方がイエス様の命じられた洗礼を受けると、彼の死と復活に結びつけられて新しい命を生きるようになります。洗礼の意味を自覚している者は、イエス様は本当に私を罪と死の支配から贖って下さった真の救い主なのだという信仰に満たされています。それでその人にはイエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになるのです。罪を償われたのでその人は神から罪を赦された者と見てもらえるのです。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになったのでその心は感謝と畏れ多い気持ちに満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようという心になります。

 もちろん、キリスト信仰者と言えどもこの世ではまだ肉を纏って生きていますから、まだ罪を内に持っています。しかし、信仰者は神の意思に反することが自分にあると気づくと神に背を背けずに直ぐ神の方を向いて赦しを祈り願います。すると神は信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてこう言います。「お前の罪はあそこで赦されている。だからもう罪を犯さないように。」そのように信仰者を新しいスタート地点に立たせてくれるのが罪の赦しです。赦しとは罪を許可することではありません。罪は犯してはいけないのです。行いや言葉だけでなく心の思いも神の意思に反することは罪なのです。そんな罪ある私たちが神との結びつきを持てるようになるために神のひとり子の犠牲がなければならなかったのです。キリスト信仰者は神の意思に反する罪をイエス様の犠牲に免じて不問にしてもらって新しく出直すことを繰り返す種族です。そのことは本日の使徒書の日課フィリピ3章の中で使徒パウロも言っています。「過去のことは顧みないで前にあるものに身を乗り出すようにして自分はゴール目指してひたすら走る」と(13~14節)。ゴールとは、言うまでもなく神の国へ迎え入れられる地点です。

3.勧めと励まし - 神の国の実を結ぶとは?

 イエス様は神の国の実を結ぶ者に神の国が与えられると言われました。罪の赦しという神からのお恵みを頂いて神の国への迎え入れを目指して歩むキリスト信仰者に神の国が与えられているのです。迎え入れの日はまだ先ですが、洗礼を受けることでゴールに到着できると神から約束してもらえました。途中で息切れすることがあっても聖餐式が呼吸を整えてくれます。迎え入れの日はまだでも神の国は聖餐に与かるキリスト信仰者の中で始まっているのです。では、キリスト信仰者はどのようにして神の国の実を結ぶのでしょうか?次の2つの仕方で結びます。

 まず、キリスト信仰者は罪の赦しという恵みを頂いたので神の意思に沿うように生きようと志向します。神の意思に沿うようにしようとするのは、神に目をかけてもらうためとか、何か褒美を期待してするのではありません。全く逆です。こちらはまだ何もしていないのに一足先に神の方が私に目をかけて罪の赦しをお恵みのように与えてしまった、だからもう神の意思に沿うように生きるしかないと観念する。そのように神の意思に沿うことが手段ではなく結果になっていることが神の国の実を結ぶことです。パウロが本日のフィリピの手紙の中で義について述べていました。義とは、神聖な神の御前に立たされても大丈夫でいられる、焼き尽くされない状態のことです。律法を守ることで人間が自分の力で獲得しようとする義とイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神が与えてくれる義の二つが言われていました。信仰のゆえに与えられる義はまさに救いの結果として神の意思に沿うことになる義です。律法を守ることで獲得しようとする義は神の意思に沿うことを救いを得るための手段にする義です。パウロはそれをゴミと言います。

 もう一つの大切なことは、罪の赦しという恵みの中で生きると、罪を自覚し赦しを祈り願い、イエス様の犠牲に免じて赦しを頂いて新しく出直す、このことを何度も何度も繰り返す生き方になります。そうすることで神の意思に反することに与しない、罪に反抗する生き方をしていることを証しすることになります。これも神の国の実を結ぶことです。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しという恵みに留まって神の国の迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

注目!フィンランドのコーラスグループが10月11日のスオミ教会の礼拝で歌います!

 フィンランドのユヴァスキュラ市のコーラスグループ “ソイセリ(Soiseli)” が10月12日ふじみ野市(埼玉県)で開催されるコンサート・イベントのために来日、その前日の11日にスオミ教会の礼拝でも歌います。中世の教会音楽からシベリウス作曲の讃美歌まで幅広いジャンルのメロディーは賛美の雰囲気を一層高めるでしょう。礼拝後のコーヒータイムの時にも歌って下さいます。この機会にも是非スオミ教会にお越し下さい! ソイセリ合唱団とは?  フィンランドのユヴァスキュラ市に拠点を置き、現在約20名の団員を擁するアカペラの合唱団です。指導と指揮を務めるのは2003年からフィンランドに在住している石山千佳子さん。
小編成であることの利点を生かした声楽アンサンブルとして活動を始め、2021年に初舞台を踏みました。その後、人数も増え、2025年に小規模な混声合唱団へと発展、「歌う喜び」と「仲間意識」を大切にし、歳を重ねても美しい響きと正確な音程を保てる合唱団を目指しています。
レパートリーはフィンランドの民謡が中心ですが、季節に合わせた選曲や新しい曲にも積極的にチャレンジしています。 高齢者施設や様々な団体のイベントで演奏しています。

 10月12日にふじみ野市にて開催される「音楽と文化でつながるフィンランド交流イベント」の詳しい案内はこちらのリンクからご覧ください。秋の一日、フィンランドの音楽と文化に触れる一時を是非お楽しみ頂ければと思います。

https://fujimino-bunkakyokai.com/event/Finland_traditionalculture

牧師の週報コラム 

日本でキリスト教の第四の波は起こるか?

この夏フィンランドのSLEYの研修大会で「SLEYの日本伝道125年-何を達成し何が達成されていないか」というワークショップを担当した。 私自身も含め出席者たちの驚きは、SLEYが1961年に日本福音ルーテル教会と合同して以後、受洗者数は一貫して減少してきたことだった。何のための合同だったかと疑問が生じても無理はない。SLEYは1930年代に自分たちが設立した教会や幼稚園から成る「福音ルーテル教会」という教団を結成した(ただし法人格は財団法人)。戦中戦後の紆余曲折を経て米国のルーテル教会を背景とする日本福音ルーテル教会に合同する決定をして教団を解散、設立教会と幼稚園はみな合同先に移譲した。日本福音ルーテル教会の年間受洗者数は1960年は500人超。戦時中の事実上ゼロ状態から僅か15年で急上昇したわけだが、それ以後は減少に転じ40年かけて2000年の150人まで下降。以後、漸減の状態で現在に至っている。

日本で最初にキリスト教が広く受け入れられたのは室町末期から江戸初期にかけての頃。群雄割拠の下剋上の時代に、真の救い、永遠に滅ばないもの、心の平安を説くキリスト教が多くの日本人の心を捉えたことは想像に難くない。しかし、天下統一が成るや為政者の権威と支配に盾突くものと映り、徹底的に弾圧されてしまった。

次は明治維新後。欧米との圧倒的な力の差を見せつけられた日本人は国のあらゆるレベルで欧米に倣った改革を断行。キリスト教は精神的なレベルの改革だったか。日本は途上国レベルから一気に五大国の一つに駆け上がるが、1930年代からの国粋主義、軍国主義の猛威の前に教会は窮地に立たされてしまった。

そして敗戦後のキリスト教ブーム。戦後すぐに洗礼を受けた方の何人かと話をしたことがある。皆さん共通して口にした言葉は、あの頃は価値観の空白があった、それをキリスト教が満たしてくれたということだ。当時はどこの教会の礼拝も満員御礼で教会学校も子供たちで溢れかえっていたという。それが60年代70年代に入っサーっと潮が引くように去ってしまったと。では、60年代以後の日本人の価値観は他のもので満たされるようになったということなのだろうか?それは何か?経済的な豊かさ?

しかし、今はどうだ、かつての世界第2位の経済大国は今では第4位、もうすぐインドに抜かれて5位に落ちる見込み。マスコミは何かにつけて「G7最下位」と言うが、それだとまだ世界8位か9位にいるような錯覚を起こさせる。しかし、一人当たりのGDPを見てもわかるように、かつてベスト5内に入っていたこの国は今では40位近くに転落、韓国にも及ばなくなって久しい。平均賃金は言うに及ばずだ。円の価値の下落から明らかなように今の日本は政府主導の下、後進国を目指して突っ走っているとしか思えない。国民の間に広がる経済的な余裕のなさ、武力に訴えるのが常態化した国際社会の中での立ち位置をどうするか、巨大地震を含め大規模化する自然災害にどう備えるのか、このような状況に置かれた日本人が怯むことなく立ち進んでいける支柱は何か?時の為政者が定める官製愛国心にそんな力があるのか?私は、キリスト信仰、有り体に言えば使徒的伝統に立つそれにこそ可能性があると信じている。

DSC_3767

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

 

秋の最初のフィンランド家庭料理クラブは10月10日(土)13時から開催します。

今年の夏フィンランドではラズベリーがたくさん実りました。それにあやかって今回の料理クラブではラズベリー・ケーキを作ります!生地の上にラズベリーをふんだんに並べ、ヨーグルトのクリーミーなフィリングをトッピングにすると、甘酸っぱいラズベリーの味とチーズ・ケーキのようななめらかさを合わせもつケーキができあがります!そんな味わいのあるラズベリー・ケーキを一緒に作ってみませんか?

参加費は一人2000円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、
paivi. yoshimura@gmail.com まで。