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ニュースブログ | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

交わり

今日の教会ランチは久しぶりにカレーライスでした、パイヴィー先生の愛情のこもったカレーを美味しく頂き総会に備えました。

 

スオミ教会年次総会

本日スオミ教会の年次総会が浅野直樹主管牧師の立会いの下で開かれ教会が抱えている諸問題について討論し合いました。最後に2019年度の主題「礼拝を大切にし、そこで神と主イエスを知って豊かに恵みと平和に与ろう。」と主題聖句・第二ペトロ1章2節「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」を採決して閉会となりました。

 

歳時記

散歩の途中で見つけたカエデの実です。ムーミンに出てくるステインキーに似ていませんか?我が家ではムーミンは今でも人気があり孫と一緒に見ています。ムーミンの中で人気者は誰と聞くと大抵の子供はミーとステインキーと答えてくれました。両方とも個性の強いキャラクターが人気の秘訣のようです。

 

説教「ペトロとエレミアの召命と遺産」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書5章1一11節、エレミア1章9一12節

主日礼拝説教 2019年1月27日顕現節第四主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、漁師のペトロにイエス様が「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言ってペトロが付き従っていくところです。そのいきさつが他の福音書とは違う角度から詳細に記されています。旧約聖書の方は、イエス様の時代から600年以上さかのぼった昔、ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされてしまう少し前、神がエレミアを預言者に任命した時のやりとりが記されています。ペトロとエレミア、この二人が置かれた時代と状況は全く異なりますが、二人とも神から召命を受けて、一人は人間を捕る漁師として、もう一人は預言者として活動し、その中で天地創造の神の意志や計画を明らかにしていき、それが聖書という形で後世に伝えられることとなりました。聖書の中にペトロとエレミアの遺産があると言ってもよいでしょう。もちろん、ペトロやエレミアだけでなくイザヤやパウロやその他大勢の召命受けた人たちの遺産が聖書にはあるわけです。

本日の説教では、ペトロとエレミアの召命の出来事をよく見て、彼らの遺産がどういうものか、よりよくわかるようにしたいと思います。自分たちの活動を通して神の意志や計画について明らかにして後世に伝えようとしたこと、これを彼らの召命の出来事と結びつけて考えると、天地創造の神の意志や計画は私たちにもっと身近なものに感じられるのではないかと思います。

 

2.ペトロの召命と遺産

  舟も沈まんばかりの大量の魚。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまいます。なぜペトロはこの時、罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが、そう告白するに至った原因のように書かれています(θαμβος γαρ περιεσχεν αυτον [.......] επι των ιχθυων [.....])。それでは、ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?そして、恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?まずそのことを見ていきましょう。

イエス様は湖の岸辺で群衆に教えています。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から、次のような内容であったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないが、その罪の赦しが間もなくメシアの働きで実現すること、人間は神の意志を正確に知って悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないこと、こうしたことが考えられます。

岸辺には大勢の群衆が集まってイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。その時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっているのを目にします。ちょうど漁師が舟から降りて、向こうで網を洗っているところでした。イエス様はペトロの所有する舟に乗って、彼に命じて岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教え続けました。ひと通り教えた後で再びペトロに、もう少し沖合まで漕いで魚を捕るべく網を投げるよう命じます。

ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと応じます。夜の暗い時というのは、魚捕りに最適な時なので、それで何も捕れないのであれば、日中明るい時はなおさら捕れないではないか。ペテロの応答にはイエス様の命令に対する懐疑が窺われます。しかし、それでも、あなたのお言葉ですから網を投げ入れてみましょう、と言って言う通りにします。

無理に決まっているじゃないか、という思いで網を入れたところ、大変なことが起きました。網も破れんばかりの夥しい量の魚がかかりました。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、このままでは二そうとも沈んでしまう位の量の魚で舟は溢れかえります。文字通り想定外の出来事が目の前に起こり、恐れを抱いたペトロは叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何に恐れを抱いたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白となったのです。

それでは、ペトロはどうして神に罪の告白をするようになったのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことをみたからです。神の力が働いたのをみたということは、神が自分の間近にいた、ということです。

神を間近に見ることが人間に罪の自覚を呼び覚まして、大きな恐れを抱かせることはイザヤ書6章によく描かれています。イエス様の時代から700年以上も前のこと、ユダの王国が王から国民までこぞって神の意思に反する道を歩んでいました。そのような時代状況の中で預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の間に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから」(4節)

(ヘブライ語原文に忠実な訳)。神を目の前にして起きる罪の自覚の悲痛な叫びです。そこでは、神聖な神と汚れに満ちた人間との間の絶望的な隔たりが一気に示されます。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう強力な炎のような力があります。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇にあてられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。

このように、人間が真の神を間近に見る場合、その神聖さと全く逆の自分の汚れを思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方ですので、神を間近に見てしまった時に強い恐れが生じるのは当然なのです。

さて、罪の告白をしたペトロですが、それに対してイエス様は、お前の罪を赦すとか、赦しの宣言はしません。ただ、お前はこれからは人間を捕る漁師になるのだ、と言われます。神が身近にいることを示した方がそう言う以上、従わないと認めた罪深さを放置することになってしまいます。ここは言われたとおりについていくしかありません。漁師のペトロは網と舟を置いてイエス様に付き従います。

「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?宗教団体の勧誘員になれということでしょうか?でも、ペトロや他の弟子たちは人々をイエス様のもとに集めたでしょうか?むしろ集めたのはイエス様自身ではなかったでしょうか?もちろん弟子たちが宣教に派遣されたことがあります。ただ派遣先はユダヤ民族に限られて、仕事の内容も神の国が近づいたことを宣べることとその神の国がどういうところがわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちの教えを受け入れた町々から人々がイエス様のところにぞろぞろやって来たかどうかは不明です。むしろ、もうすぐ起こる十字架と復活の出来事に備えて旧約聖書の民であるユダヤ人に待機させるような働きだったのではないかと思います。

イエス様の十字架の死と死からの復活が起きると様子は変わります。ペトロや弟子たちが中心となってエルサレムに教会が誕生し、彼らの宣べ伝えを聞いて、また業を見て教会につながる人がどんどん増えていきます。やがて教会の輪はユダヤ民族の境を超えていきます。こうして見ますと、イエス様がこの地上におられた時のペトロたちの任務はどちらかと言うと、イエス様の教えたこと行われたこと、そして彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったのではないか。それがイエス様が父なるみ神のもとに帰られた後は、彼こそは旧約聖書に約束されたメシア救世主である、それを自分たちが見聞きしたことをもとに証言する、たとえ命はないぞと脅されても怯まずに宣べ伝える(イエス様の復活の後ペトロにはもう主を見捨てて逃げた面影はありません)、そういうしっかり目撃してそれを証言し宣べ伝えることに「人間を捕る漁師」の本質があるのではと思います。

ペトロをはじめとする弟子たちが目撃したことには、旧約聖書の内容が一気にわかるようになることがありました。イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、メシア救世主というのは一民族を異民族支配から解放してくれる民族の英雄ではなくて、天地創造の後に神と人間との間に生じた問題を解決してくれるまさに人間一般にとっての救い主であるということが明らかになったのです。神と人間の間に生じた問題とは、神に造られた人間が造り主に対して不従順になって罪を持つようになったために神との結びつきが失われてしまったこと。結びつきがないままこの世を生きることになってしまい、この世を去った後も永遠に造り主のもとに戻れなくなってしまう問題でした。それを神は解決しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送られて、罪の神罰を全て彼に受けさせて人間の代わりに罪の償いをさせました。これがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させることで永遠の命に至る扉を人間に開かれました。

人間は、これらのことが全て自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神からこの罪の赦しをお恵みとして与えられます。罪を赦された人間は神との結びつきを回復してこの世を生き始め、この世を去る時も神のもとに戻れるという確信の中で去ることができます。この世を生きている時も、自分は何も償いをしていないのに赦された、だから、これからは神のひとり子の犠牲を台無しにしないようにしっかり生きようと心がけ、何が神の御心に沿う生き方かを考えて生きるようになります。

ペトロや弟子たちが「人間を捕る漁師」になって忠実な目撃者、証言者となって伝え遺したものが、後世の人たちにこのような信仰と生き方を与えるものになったのです。新約聖書の中にペトロの伝え遺したものはどれだと見つけることができるでしょうか?ペトロの名がついた手紙はありますが、2つしかありません。しかし、イエス様の言行録が記録された福音書の中には、ペトロの目撃談、証言録が織り交ざっているのです。もちろん、他の弟子たちのもです。そもそも福音書とは、弟子たちの目撃談、証言録を土台にして出来上がっています。福音書の他に新約聖書には、イエス様が全ての人間の救い主であるという信仰を表明する使徒たちの手紙があります。旧約聖書を引き合いに出しながら表明しています。それらの書簡はまた、天地創造の神の御心に沿うように生きようと志向するキリスト信仰者はこの世でいかに生きるべきか、同じ信仰を持つ者同士はいかに支え合うべきか、またその共同体はどうあるべきか、そして共同体の外とはどう関わるべきか、そうした実際的なことも教えます。本日の第二コリント12章でも、信仰者の共同体はイエス・キリストの体であり、一人一人の信仰者はその体の部分である、聖霊の賜物について考える時このことを忘れてはいけない、ということを教えています。

後世の私たちが聖書の御言葉を通して、イエス様を救い主と信じて天地創造の神の御心に沿うように生きようと志向するならば、その時は文字通りぺトロをはじめとする使徒たちの網にかかったことになります。この世の対岸にある神の御国に引き上げてもらうためにかかったのです。

 

3.エレミアの召命

 次にエレミアの召命とその遺産についてみてみましょう。本日の個所は1章の9節から12節までですが、召命の出来事は4節から始まっています。4節から8節までは先週の日課でしたが、先週は別に大きなテーマがあったのでこちらの解き明かしは出来ませんでした。今日一緒に見れてよかったです。

エレミアの召命は、先ほど述べたイザヤのエルサレム神殿での出来事と似ています。イザヤは自分は罪で汚れた者であると告白し、神のみ使いから燃え盛る炭火を口に当てられ清められました。エレミアは神の手が直接口に当てられます。燃え盛る炭火ではないですが、神聖な神の手が触れるので、生身の人間は普通は耐えられないでしょう。しかし、イザヤ同様に火傷一つ負わず何事もありませんでした。

ところが違いもあります。エレミアの場合、イザヤのような罪の告白がありません。イザヤでは罪の告白があり、清めが行われて、神のみ使いも清めを宣言します。神が御手をエレミアの口に当てたというのは罪からの清めというよりは、語るべき言葉を与える仕草のように見えます。私、預言者にされても人前でどう話していいかわかりません、と言ったことに対する神の回答ということです。同じことがダニエル10章にもあります。神のもとから遣わされた者がダニエルに宣べ伝えなさいと命じるが、ダニエルには力がない。その者がダニエルの唇に触れるとダニエルは少しずつ話し始めます。

ただ私としては、エレミアの場合も、やはり罪からの清めがあるような気がしてなりません。というのは、エレミア書1章をヘブライ語で読んでいて9節の「わたしの口に触れ主はわたしに言われた」というところにさしかかった時、あれ、イザヤ書の6章7節と同じじゃないかと気づいたからです。イザヤ書のその個所は「彼は私の口に火を触れさせて言った」ととても解説的に訳していますが、ヘブライ語の原文はどちらも「私の口に触れ、言った」で同一です。(どうしてこんなことに気づいたかというと、私10数年前とある理由でイザヤ書の6章全部をヘブライ語で暗記する必要があって、どうやら今でも覚えているのですが、それで、あれ同じだ、と気づいたのです。)エレミア1章9節にさしかかった時、一瞬エレミアの時代から100年ほど遡ったエルサレムの神殿でのイザヤの清めの出来事が脳裏によぎって、それでエレミアの召命にも罪の清めの要素があるのではないかと思った次第です。個人的な思いなので、ここでやめておきます。

エレミアの召命に戻りましょう。ここでの神とエレミアのやり取りのなかで一つ謎めいたことがあります。それは、神がエレミアに「アーモンドの枝」を見せて、それが神の言葉が成就するための「見張り」ということに関係しているように言っているところです。ちょっと複雑です。私たちの新共同訳を見ると、「アーモンド」の下に( )があって、シャーケードと書いてあります。ヘブライ語でアーモンドです。「見張っている」の下にも( )があって、ショーケードと書いてあります。ヘブライ語の「見張る」という意味の動詞の分詞形です。これを見ると、ああ、ヘブライ語の語呂合わせがあるんだな、とわかってきます。でも、シャーケードとショーケードじゃ、語呂合わせとしては少し遠いのではと思われるかもしれません。

そこで、ヘブライ語の記述というのは、もともとは子音文字だけでした。どういうことかと言うと、「中野区」をNKNKと書くようなものです。それぞれの子音にア、ア、オ、ウと母音をつけて「なかのく」になります。「アーモンド」の「シャーケード」と「見張る」の「ショーケード」の場合、子音はシュש、クゥק、ドゥדと同じです。書かれているは子音文字だけなので二つは同一になります。そんなこと言ったら、文章を読む時どうやって区別できるのかと思われるでしょう。そこは、神の民の悠久の歴史の中で読み方は代々ちゃんと受け継がれていました。そのために律法学者のような専門家集団がいたのです。

さて、「アーモンド」と「見張る」は、ユダヤ人にとっては身近に感じる語呂合わせかもしれないが、他の民族にはどうでもいいことに思えるかもしれません。私も以前はその程度の受け止め方でした。ところが、今回そうではないとわかったのです。これからそのことを皆さんと分かち合えたらと思います。これから申し上げることは、ひょっとしたら既に何か注釈書か参考書に書かれていることかもしれません。それでワクワクして話すことになっても、決して発見者気取りの得意のワクワクではないということをご理解下さい。

皆さんは、アーモンドはどんな植物かご存知でしたか?今回私、ネットで調べてみました。それはなんと、桜にそっくりな花を咲かせる木だったのです。薄ピンク色の花が満開に咲き、その時は葉っぱはまだありません。まるで桜です。花が終わった後に葉が出て、あのアーモンドの実をならせます。どうやって育つかと言うと、種からでも苗木からでも育てられるということですが、それに加えて枝を挿し木にしても育つということでした。皆さん、どうです、エレミアの目にしたものがアーモンドの木でなくてまさに「枝」であったことが見えてきたのではないでしょうか?日本語で「枝」と訳されていますが、ヘブライ語の単語מקלは「若芽」の意味もあります。いずれにしても、アーモンドの木ではなく、これからアーモンドになっていくものを見せつけられたのです(後注)。

神からアーモンドの枝ないし若芽を見せられて、それがアーモンドと分かったエレミアは、ああ、あれは大きくなってピンクの花を満開に咲かせて、後で葉が生い茂って実を実らせるやつだな、と一瞬目に映ったでしょう。ちょうど日本人が梅でも桜でも蕾のついた枝を見せられて、まだ花は目で見ていないのに一瞬それが目に映ったような感じがするのと同じです。そこですかさず神は言われます。ヘブライ語を直訳しますと、「お前は正しく見た。なぜなら私は自分の言葉を成就すべく見張りをするからだ(または「見張りをする者だからだ」)」、ないしは「お前は正しく見て、私が自分の言葉を成就すべく見張りをする者であることがわかった」です。いずれにしても、ここはヘブライ語の語呂合わせだけでなく、アーモンドの枝のメタファーも見抜けないといけないのです。

これでさすがのエレミアも、神の言葉が成就するというのはアーモンドが成長して開花して実を実らせるという身近な出来事が起きるように起きるのだと思い知らされたでしょう。桜でもアーモンドでも花が咲いて実がなるのは、神が成長を与えて下さるからですが、それと同じように神は御言葉が成就するようしっかり監視を与えると言うのです。これでエレミアの弱気と疑いは消え去ります。4節からずっと神が言っていたこと、お前を諸国民の預言者に立てる、私はお前と共にある、お前を苦難から救い出す、だから心配するな、若すぎてダメだなどと言うな、誰に何を言うべきか全て私が決める、それ位お前の身に起こることは全て私の手中にある、そこからこぼれ落ちることは何もない、それくらい私はお前と共にある、お前を苦難から救い出す等々、これら全てが神の力で起こるのはアーモンドが神の力で花を咲かせ実を実らせるのと全く同じことなのだと確信したのです。

 

4.エレミアの遺産

 このような素晴らしい仕方で確信を得ることができたエレミアでしたが、いざ預言者として活動を開始してみると、アーモンドの希望に満ちたメタファーは実はそんなに甘いものではないと思い知らされることばかりが起きます。何が起こったのでしょうか?

神がエレミアに宣べ伝えよと命じた預言の言葉は大きく分けて二つ、エレミアの同時代に関わるものと将来に関わるものがありました。同時代に関わる預言は、ユダの王国が滅亡するというものでした。王も民も、エルサレムの神殿で熱心に神崇拝を行っているが、それは外面的に儀式をやっているだけで、それで神の意志に沿う生き方をしているなどとはおこがましい。心の中は神の意志に反することばかりだ。罰としてお前たちはもうすぐ外国に滅ぼされる。そういうことを自国民に宣べ伝えなければならなくなります。国民は改心するどころか、エレミアを迫害してしまいます。エレミアが悲劇の預言者と言われる所以です。

将来に関わる預言を見てみます。こちらの方が同時代の預言より本質的なものです。なぜなら、神はエレミアを諸国民に関わる預言者に任ずると言ったので、もしユダ王国の滅亡だけ預言していたらユダヤ民族だけに関わる預言者にとどまります。将来に関わる預言の中に諸国民が視野に入ってくるのです。3つのことが大きなものとしてあります。一つは、国は滅ぼされて民は異国の地バビロンに連行されてしまうが、そのバビロン捕囚が終わって民が祖国に帰還できる日が必ず来るという預言です。もう一つは、捕囚から帰還した後にダビデ系の理想の王が現れて神の義を実現するという預言。三つめは、31章に見られますが、神と神の民の間に新しい契約が結ばれるというものです。

これだけ見ると、あれ、諸国民ではなくてまだユダヤ民族に関わる預言ではないかと思われるかもしれません。実はそうではないのです。紀元前6世紀終わりに祖国帰還を果たした後になってから、エレミア書の祖国帰還の預言は歴史上起きた帰還とは別のことを意味していると理解されるようになります。それは世界の終末に関係するという理解がダニエル書9章に現れます。神の義を実現する王の預言についてはもういいでしょう。キリスト信仰の観点ではイエス様ということです。

もっと興味深いのは神と人間との新しい契約です。この契約は昔みたいに人間が神の意志に反する生き方をして人間の方から破ってしまったものとは様相が異なります。神の意志を表す掟がなんと人間の心に刻まれると言うのです。つまり、書かれた掟を頭で理解したり解釈したりして行動に移すというのではなく、神の意志があたかも人間の内に自然に備わっている状態だというのです。どうしてそんなことが可能でしょうか?

ここで先ほどイエス様を救い主と信じる信仰について申し上げたことを思い出して下さい。ユダヤ教の伝統的な考え方では、他の宗教も似たり寄ったりと思いますが、神の意志とか掟を守ることで神に受け入れてもらえる、よくしてもらえるということがありました。ところが、キリスト信仰の場合、イエス様の十字架の犠牲があって人間は先に神に受け入れられてしまった、よくしてもらったということが先に起きてしまったのです。そうなると後は、この犠牲がどれだけ尊い大事なものかがわかった人たちが神に対して感謝の気持ちになり、これからは神の意志に沿うように生きようと志向しだす。そういうふうに神の意志に沿うように生きようということが、神に救ってもらうためにするのでなくなって、神に救ってもらったからその結果としてそうするのが当然になるということなのです。まさに、掟が心に刻みつけられた状態です。このことがイエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで起こったのです。エレミアは自己の民族だけでなく世界の諸国民にも関わる希望の預言をまさに自分の苦難の生涯を通して後世に伝えたのです。

 

5.ペトロとエレミアの遺産の相続者として生きる

 さて、イエス様を救い主と信じて神の意志が心に刻まれた者になったはずの私たちではありますが、どういうわけか自分の内に神の意志に反することがあることに毎日気づかされます。これは一体どうしてなのでしょうか?私たちの信仰が弱いからなのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。先週の説教でも申しましたが、信仰の目を持つようになると、かえって自分の内に神の意志に反する罪があることも見えるようになります。イエス様を救い主と信じて「愛」と「正しさ」の両方を兼ね備えて生きようとすると必ず起きてくる相克です。「愛」が正しさのない偽りの愛になってしまうか、それとも「正しさ」が愛のない裁きになってしまうか、またはその両方になってしまうか。

どうしてそうなってしまうのかと言うと、使徒パウロも宗教改革のルターも指摘したように、信仰者の内に二つの「人」、肉に結びつく「古い人」と洗礼を通して植えつけられた霊に結びつく「新しい人」ができてしまうからです。新しい人が植え付けられると、古い人は自分が神の罰に晒されていることがわかって、信仰者にただ恐れを抱かせて絶望させるか、または神に背を向けてごまかしの生き方をするように追いやろうとします。これに対して新しい人はイエス様のおかげで神の前に立たされても大丈夫でいられるという希望に全てをかけなさい、全てを託しなさいと促します。信仰者が希望にかければかけるほど、古い人は居場所を失っていきます。ルターは、この状況を木の彫刻を作ることにたとえて次のように教えます。木の彫刻は、木を彫る者が自分の作ろうとしている像に関係ない部分をどんどん削り取ることでその像がだんだんはっきり現れてくる。新しい人を形作るのは希望である。古い人がもたらすのは恐れである。その恐れがあるからこそ古いアダムを削り取ろうと動き出し、希望が成長するのである。だから、キリスト信仰者は、希望がない状態の中に置かれて希望を持つようにと定められているのである。

希望が裏切られることがないことを使徒パウロは「フィリピの信徒への手紙」1章6節で次のように述べています。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」

 この確信は、神がエレミアにアーモンドの枝を見せて御言葉が成就することを確信させたものと同じものです。兄弟姉妹の皆さん、私たちはいつも聖書の御言葉を通して同じ確信を持つことが出来るのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン


後注(ヘブライ語がわかる方にです)מקלマッケールはstatus constructusでもマッケールということでした(エゼキエル書39章9節を除いて)。それでマゾレットのמקל שקדは「アーモンドの枝(ないし若芽)」で大丈夫です。

交わり

新しく来られたKさんを交えて教会ランチをいただきました、話題は専らこのところのカラカラ天気のことでした。

今日から奏楽を担当してくださる木澤麻里さんです、木澤さんは声優としても活躍されています。

読書会:木村長政 名誉牧師

木村先生主催の読書会は「放蕩息子の帰郷」(H.ナウエン著)について先生の解説を交えながら参加者の感想を話し合うスタイルで続けられました。今日は主人公である弟の性格について話し合いました。

説教「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書4章16-32節

主日礼拝説教 2019年1月20日顕現節第三主日

 

「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ」― 聖書をめぐる大冒険

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の個所はわかりそうでわかりにくいです。イエス様が育ち故郷のナザレに戻ってユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読を担当する。読み終わった後で、書かれていることは今日実現した、と言う。会衆はイエス様の恵み深い言葉に驚きつつも、あれはヨセフの子ではないか、と言った途端、イエス様は何か会衆の気に障ることを言い始め、それで会衆は激怒し、イエス様を崖から突き落とそうとする。会衆の急変ぶりには驚かされます。一体イエス様は何をそんなに怒らせることを言ったのでしょうか?お前たちは私が別の町で行うことになる奇跡の業をここナザレでもしろと言うだろう、しかし、旧約聖書の預言者エリアとエリシャがユダヤ人でない者に奇跡の業を行って助けてあげたのに倣って、私はお前たちには奇跡の業を行わない、などと言います。かなり挑発的です。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」と自分で言って、自分でそうなるように仕向けているようです。イエス様はナザレの人たちになぜこんなに手厳しいのか?自分は神の子なのに「この人はヨセフの子だ」と言われてカチンときたのだろうか?

 いいえ、ここはそんな低次元な話では全くありません。ここは、私たちがこの世を生きる時に何を身につけなければいけないかということを教える個所です。それを身につけていないとどうなってしまうか、どうしたらそれを身につけられるのかを考えさせるところです。その身につけるものとは、結論を先に言うと、「信仰の目」です。私たちは肉眼の目を持っています。その目が働かないと生活に支障をきたします。信仰の目は、この世の荒波を乗り越えていくのに必要な目です。肉眼の目だけだと荒波はよく見えますが、それだけだと怖気づいてしまいます。これから、その信仰の目とはどんな目で、どうしたら身につけられるのかということを本日の福音書の個所をもとに見ていきたいと思います。本日の個所をもとにすると言っても、話は旧約聖書にまで広がるスケールの大きなものになります。聖書のいろんな謎が明らかになって、なんだか聖書をめぐる大冒険のような説教になるかもしれません。それでは始めてまいりましょう。

 

2. イエス様はヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神からの聖霊が降って特別な力が備えられました。特別な力とは、神の人間救済を実行する力でした。その後すぐユダの荒野で40日間悪魔から試練を受けますが、これを全て旧約聖書にある神の御言葉を盾としてはねのけました。この後、舞台はユダ地方からガリラヤ地方に移ります。イエス様はガリラヤ各地の会堂を回って、神の国が近づいたということ、それに人間の救いがまもなく実現するという福音を人々に伝えます。そして神の国が架空のものではなく実在するものであることを示すために多くの奇跡の業を行います。イエス様の評判はたちまちガリラヤ地方全域に広まりす。イエス様が幼少の時から長年育った故郷の町ナザレに入ったのはちょうどその時でした。イエス様はこれまでそうしてきたように町の会堂に入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。

 ところで、当時の会堂シナゴーグの礼拝ですが、本日の出来事がよりよくわかるために少し背景説明をします。礼拝ではヘブライ語で書かれた旧約聖書を朗読した後で、それをアラム語で解き明かしすることが行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、ユダヤ民族はもともとはヘブライ語で書いたり話したりしていました。それで神の御言葉ももともとはヘブライ語で記されました。ところが紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚で民族の主だった人たちは異国の地バビロンに連れ去られてしまいます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、彼らはその言語はだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本でも明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。

 さて、紀元前6世紀の終り頃にバビロン帝国を倒して中近東の覇者となったペルシャ帝国の計らいでユダヤ人は祖国帰還が認められます。彼らは廃墟となったエルサレムの町と神殿の復興事業にとりかかります。当時のユダヤ人の苦難と信仰の試練については、旧約聖書のエズラ記とネヘミア記に記されています。そのネヘミア記の8章を繙くと、指導者が民に向かってモーセの律法を朗読する場面があります。そこに、朗読者が「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読しアラム語に翻訳して解説したということです。ヘブライ語は一般の人にはもう遠い言語になってしまったのです。こうしてヘブライ語の旧約聖書を神聖かつ最高権威の書物として朗読して、続いて民が理解できるアラム語に訳して解説することが始まります。この形の礼拝がイエス様の時代にも続いていたのです。

ナザレの会堂の礼拝に戻りましょう。そこの会堂長は、その日の聖書の朗読と解き明しを誰にお願いするかということで、これを今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエス様に依頼しました。会堂は会衆で一杯だったでしょう。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されました。巻物というのは私たちが手にするような、紙を束ねて綴じる方式で作った本ではありません。動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことがある死海文書というのもこの形式の書物です。

イエス様は立ってヘブライ語で朗読しました。神に油注がれた者、つまりメシアが神の霊を受けて、何かに囚われた状態にある人に解放を告げ知らせる。心を打ち砕かれた人に心の癒しを与え、目の見えない人に見えるようになるという喜びの知らせを伝える。神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる。そういう内容の個所でした。

これは、旧約聖書を知っている人ならイザヤ書のあそこだとわかる個所です。私たちが手にする聖書では61章の初めの部分です。ところが、よく見るとルカ福音書に記されている引用はイザヤ書の当該箇所と少し違っています。引用は正確ではありません。ヘブライ語のテキストには「目の見えない人が見えるようになる」というのはありません。別にヘブライ語がわからなくても、日本語訳のイザヤ書の61章を見れば誰でもわかります。「目の見えない人が見えるようになる」というのは、実はイザヤ書の42章7節にあります。とすると、イエス様はこの別の個所を朗読の時に何気なく挿入したのでしょうか?

話をさらに複雑にするのは、イザヤ書のギリシャ語訳を見ると、61章にこの「目の見えない人が見えるようになる」というのが入っているのです(1節)。なぜイザヤ書のギリシャ語訳が出てくるかと言うと、もともとヘブライ語で書かれた旧約聖書はイエス様の時代の2、300年位前にギリシャ語に訳されました。先ほど触れたペルシャ帝国がギリシャ系のアレクサンダー帝国に滅ぼされて、地中海世界の東半分はギリシャ語が公用語になっていきました。ギリシャ語を話すユダヤ人のためにギリシャ語の旧約聖書が必要になったのです。

それでは、ヘブライ語のテキストを読んだイエス様がまるでギリシャ語訳に倣って「見えない人の目が見える」ことを言ったのは何なのでしょうか?本日この個所をもとに説教する人は自分で原文を調べてか、または参考書に教えられて気づくでしょう。人によっては、ルカ福音書を書いた「ルカ」はギリシャ語で書いているわけだから、イザヤ書もギリシャ語訳の方を念頭に置いた、それでイエス様が朗読したヘブライ語の文章は脇にやられてギリシャ語訳にある「目の見えない人が見えるようになる」を入れてしまった、そういうふうに考えるかもしれません。そうなるとルカはイエス様が言っていないことを言ったことにしてしまったことになります。人によってはもっと突っ走って、この個所自体ルカの創作と言うかもしれません。そういう人たちは礼拝なんかやめて大学の神学部の教授をやればよいと思う者ですが、ここは礼拝という霊的な営みの中で聖書を解き明かす場ですので、そんなに簡単にあきらめずに踏み留まって考えてみることにします。

ルカは福音書の冒頭で何と言っていましたか?この書物は信頼できる目撃者の証言を集めてそれを纏めたものだ、と言っています。とすると、ナザレの会堂の出来事も、目撃者、おそらく弟子たちでしょう、が伝えたことが土台にあります。そこで考えられることは、イエス様はイザヤ書61章の朗読の際に42章7節を何気なく挿入したか、または、次のようにも考えられます。朗読の後の解き明かしの時にこの「目の見えない人が見えるようになる」ということを述べていたが、目撃者が朗読と解き明かしを混ぜ合わせたようなものがルカに伝わった。ルカの記述を見るとイエス様の朗読部分はあるが解き明かし部分がない形になっていることがそれを示しています。

何気なく挿入したにしても、解き明かしで言ったにしても、これが本当と言えるためには、イエス様には「目の見えない人が見えるようになる」ということにこだわりがあったと言えなければなりません。実を言うと、イエス様にはそれがありました。皆さんも、イエス様が目の見えない人の目が見えるようにする奇跡を何度も行ったことは覚えていらっしゃるでしょう。イエス様にとって目を見えるようにするというのは活動の中で大事なことでした。このことを預言者イザヤの時代から旧約聖書とユダヤ民族の歴史を貫くようにしてある一つの問題に照らしてみると、その意味が明らかになってきます。

イザヤ書6章を見ると、神の意志に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が神からの罰として心が頑なにされて目も見えないようにされる、そういう罰が言い渡されます。これは肉眼の目を塞ぐということではなく、霊的な目、信仰の目が塞がれてしまうということです。神の意志がますます見えなくなって滅びの道をまっしぐらに進んでしまうという罰です。国が滅んでしまった後に目が開かれて神の意志がわかる、そういう「残りの者

が現れるという預言も一緒です。さて、イスラエルの民は果たして信仰の目が開かれるようになったでしょうか?イザヤの時代にアッシリア帝国の大軍の攻撃から奇跡的に救われたエルサレムがその「残りの者」だったか?否でした。ユダの王国はその後も滅びの道を進んでしまい、ついにはバビロン捕囚に至ってしまいます。それでは、バビロン捕囚から解放されて祖国帰還できた者たちが「残りの者」になったか?これも否でした。イザヤ書63章17節を見ると、祖国帰還後も神が依然として民の心を頑なにしていることを嘆くところがあります。そういうわけで、イエス様の時代にもイスラエルの民はまだ目が開かれていない状態にあると理解していた人たちがいたのです。

この背景がわかると、イエス様が信仰の目を開くことを重視したことがよくわかります。肉眼の目を見えるようにしたのは、そういう具体的なことを通して抽象的なことを理解できない人たちをわからせる手っ取り早い方法でした。私は復活の日に死者を目覚めさせることが出来る、といくら口で言ってもわかってもらえないから、死んだヤイロの娘もラザロのことも「眠っているだけだ」と言って生き返らせたのも同じことです。また、私は罪を赦す権限があると言っても、そんなの口先だけだと騒ぎ立てるので、それならこれでどうだ、と全身麻痺の人を歩けるようにしたのも同じです。このように具体的な見える業を通してイエス様は信仰の目を開ける力があることを示しました。そして人間の信仰の目が大々的に開かれるような出来事を後で起こしました。言うまでもなく十字架と復活の出来事です。

そのように信仰の目を開くためにこの世に送られたイエス様ですから、ナザレの会堂の礼拝で「見えない人の目が見えるようになる」ということをイザヤ書61章に結びつけて述べたとしても全然おかしくないわけです。それにイザヤ書のギリシャ語訳がまさに示すように、イザヤ書61章と「目が見えるようになる」を結びつけて考えることはユダヤ人の間でも既に見られていたのです。

 

3.朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。席というのは説教者の座る所です。会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この言葉の後にイエス様の解き明かしが続かなければならないのですが、それについてはルカ福音書では記されていません。22節をみると、会衆みんなが、イエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、イエス様が「聖書の言葉が実現した」と言った後で解き明しを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容の話だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したとイエス様が解き明かしの冒頭で宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。

 ここで状況が一変します。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。これでは、この後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという急転回がどうして起きたのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文を忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の解き明しを聞いた会衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。(注 μαρτυρεω「証する」という動詞は、与格の目的語を伴うと肯定的にも否定的にもその者について証する意味があります。)会衆は、イエス様の口から出た恵み深い言葉に驚いている。しかしその同じ会衆が、「あれはヨセフの子の大工ではないか」とも言っている。つまり、神の恵みの言葉を価値あるものとわかって、イエス様が誰の子とか全く関係ない雰囲気が生まれた。しかし、同時に「あれはヨセフの子」ということに目が行ってしまい、せっかく価値があると思った教えが色あせてしまう。この人は神の人間救済を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、この町のみんなはそれを知っている、ということで遮ってしまったのです。神の御言葉を語るイエス様は肉眼に映る像をはるかに超えた存在に映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。

信仰の目に映るイエス様とは、まさに天と地と人間を造られた神がこれだと言って提示するイエス像です。それは、人間が限りある知識を駆使して、ああだ、こうだと言って造り上げたイエス像ではなく、聖書の御言葉を繙くことで神から知る力を与えられて、それで知ることのできるイエス像です。イエス様がそのように見えるというのは、やはり十字架と復活の出来事が起きる前は難しかったのです。

イエス様は、会衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまったことに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡でも行わない限り信じないということもわかりました。イエス様は、彼らが自分に向かって「医者よ、自分を治してみろ」と言いたくて仕方がないと見破ります。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、そうしたらお前が良い医者であると信じてやろう、ということです。さらに、カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみろ、そうしたら信じてやろう、そう言いたくて仕方がないと見破ります。

しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことはしませんでした(マルコ6章5節、マタイ13章58節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の記述とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンのらい病を完治した出来事です。やもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異教徒の民でした。預言者エリアとエリシャの時代、ユダヤ民族の北王国は神の意志に背く生き方をしていました。神は預言者を自分の民のもとには送らず、異教徒に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じであると言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥った北王国と同じ立場にある、というのです。

これを聞いた会衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き難を逃れます。普通なら群衆の押し出す力で人ひとり崖から突き落とすのはたやすいことだったでしょう。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、ゴルゴタの十字架の日までは神はイエス様が傷つくようなことは一切お許しにならなかったのです。

 

4.ところで、なぜイエス様はナザレの人たちが自分に対して攻撃的になるようなことを言ったのでしょうか?どうして、肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導かなかったのでしょうか?先ほども触れましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりすることを出発点として信仰に入ることも可能です(ヨハネ14章11節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから信じるようになった、というだけで終わってしまう危険があります。

本当の信仰とは、たとえ肉眼で見なくとも、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことを真理と信じられることです。奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るというのは、結局のところ、肉眼に頼る信仰で、必ずしも信仰の目を持ってする信仰にはならないのです。奇跡の目撃や体験がなくなると信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているのです。

それでは、なぜナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、信仰の目をもってする信仰の道を目指すことをしなかったのでしょうか?大きな原因は、彼らが自分たちには神の意志に反することがあるなどと認められなかった、ないしは認めたくなかったからです。イエス様は、彼らも罪という点ではエリヤとエリシャの時代の北王国と何ら変わりないと指摘しました。しかし、ナザレの人たちは立ち止まって自分たちの生き方を謙虚に神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。全く正反対に、自分たちは、かつて神の罰として滅亡した王国と同列視されるような罪は何も犯していない、といきり立ってしまったのです。

以上から明らかなように、信仰の目が持てて、その目でイエス様を見ることができるためには、自分が神への不従順と神の意思に反する罪を持っていることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるかもしれません。しかし、神の意志とは、行為や言葉に現れる悪のみならず、心の中に宿る悪まで厳しく問うものです。人間は最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。人間が死ぬということ自体が人間は罪を宿していることの表われなのです。

しかし、父なるみ神は、人間がこの世の人生を終えた後、造り主である自分の許に永遠に戻れるようにしてあげよう、この世の人生では永遠に至る道を守られて歩むことが出来るようにしてあげよう、それでひとり子イエス様をこの世に送ったのです。それで、人間の罪がもたらす神罰を全てイエス様に身代わりに受けさせたのです。人間が受けないで済むようにと。これがゴルゴタの十字架でした。人間は、イエス様のこの身代わりの罰受けが実は自分のためになされたとわかって、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ければ、その瞬間、イエス様の身代わりの罰受けは本当にその人に起きたことになるのです。この時、その人は信仰の目を持っています。

 人は信仰の目を持つと、自分の内に罪が宿っているのが見えます。その時悪魔はどす黒い歓声をどよめかせます。しかし、信仰の目はそれには意を介さず、内に宿る罪を透かすようにしてゴルゴタの丘の十字架に目を注ぎます。十字架にかけられた主の痛々しい肩に自分の罪が重々しく張り付いているのを見て取ります。その時悪魔は失神して倒れ、周囲は深い静寂に包まれます。一切のものから清められた空気は真冬の青空のように冷ややかでもあります。そこに天上から次の言葉が穏やかにとどろきます。「安心して行きなさい。あなたの罪は赦されたのだ。」清められた静寂に温もりが生じます。冷ややかだった冬空に春の陽光が優しく差し始めるように。その温もりが、神を全身全霊で愛そうとする心と、隣人を自分を愛するが如く愛そうとする心に躍動を与えるのです。

 兄弟姉妹の皆さん、これが福音です。これがキリスト信仰です。

 

5.こうしてイエス様を救い主と信じるようになって信仰の目を持てるようになったと私たちですが、そうは言っても、肉を纏って生きる以上、肉眼の目に頼ってしまう危険はいつもあります。どうして私たちは、そのような中途半端な状態に置かれなければならないのでしょうか?どうして、一度与えられた信仰の目が全てにならないのでしょうか?ルターは、信仰とは育たなければならないものだと教えています。そうすると、今の中途半端な状態というのは、まさに信仰を成長させるためにあるものだということがわかります。このことについて、ルターの教えをひとつ引用して本説教の締めとしたく思います。この教えは、第二コリント5章7節の聖句「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」の解き明しです。

「福音の光に照らし出された人というのは、聖書の御言葉を噛みしめながらキリストとしっかり結ばれていく人である。たとえ自分にまだ罪が残っている、自分はまだ罪の中にいると思っていても、その人は日に日に罪と地獄の外へと運び出されていくのである。

しかし、そこには戦いがあることを忘れてはならない。肉眼で見えることや感じることが聖霊や信仰に戦いを挑んでくる。同じように聖霊と信仰も見えること感じることに戦いを挑む。信仰というものはその性質上、理性が把握しようとすることには介入しない。理性がしたいようにほおっておくと言ってもいいだろう。信仰はただ、肉眼の目を閉じさせて、生きる時も死ぬ時も神の御言葉だけに依り頼むようにさせる。翻って、見えること感じることは、理性や五感で把握できる以上に進むことができない。このように、見えること感じることは信仰に対峙するものであり、信仰は見えること感じることに対峙するのである。この戦いで、信仰が成長すればするほど、見えること感じることは廃れていくのであり、逆もまたしかりである。

罪、驕り高ぶる心、憎む心、独り占めしようとする心、その他のあらゆる神の意志に反するものが、キリスト信仰者である我々の内にまだぶら下がっているのは、それらが逆に我々を鍛えさせてくれるからなのである。御言葉に依り頼みながらそれらに戦いを挑んで鍛えられていくと、我々の信仰は一日一日と前進する。そして最後には、頭のてっぺんから足のつま先まで完全なキリスト信仰者になれて、完全にキリストに覆われて、天の御国の真の労いの祝宴の席につけるのである。我々は信仰の戦いを考える時、海の荒波を思い浮かべるが良い。波は次から次へと岩壁に押し寄せ、それはあたかも力ずくで岩壁を砕こうとしているかのようである。しかし、砕かれるのは波自身であり、砕かれては消え去ることを繰り返すだけである。罪の攻撃もこれと同じである。罪は、我々を打ち砕いて絶望に追い込もうと、それこそ覆いかぶさるように襲いかかってくる。しかし、力が足りず退散しなければならないのは罪の方である。なぜなら、罪はこの世の終わりの日に音もなく消え去るように既に定められているからだ。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように  

アーメン

説教「平和な生活を送るように」木村長政、コリント第1 7章8~16節

2019年1月13日(日)

コリント第1 7章8~16節  

       題「平和な生活を送るように」

 いよいよ新しい年が始まりました。

 昨年に続いて、コリントの信徒への手紙第1のみことばに聞いて参ります。

 先程、7章8節から16節まで読んでいただきました。

 そこでお分かりのように、パウロはコリントの教会の中で、結婚に関した質問に答えて、7章から書いています。まず1~8節のところで言っているのは、一言で言いますと、「神は人それぞれに賜物をお与えになっているので、その人その人の人生を、結婚するもよし、独身ですごすも良し、神に対して従順な生き方をしていきなさい。」と言っているんです。

 もう少しふみこんで2節~3節ではこう言っています。男はみだらな行いを避けるため、めいめい自分の妻を持つがよい。又、女はめいめい自分の夫を持つがよい。そしてお互いにその務めを果たしなさい。実にいい事を言っていますね。

 パウロ自身は独身で、福音の伝道に邁進したのです。カトリック教会の教職となる人は、パウロのように独身の誓いを立てています。司祭となって「一生を神に捧げます」という固い誓いを持って伝道しています。

 これに対して、宗教改革者ルターは、カトリック教会の中で修道士でありましたが、大胆にも、教職者は独身を貫くという誓いを破って、修道女(ケート ・フォン・ ボーラ)と結婚しました。

 それで、ルーテル教会の牧師はどうかと言うと、ルターにならって結婚して、伝道しています。中には独身者もいることでしょう。或いは、中には夫婦それぞれ牧師で、各々違った教会を受け持って伝道しています。どんな家庭になるでしょうかね。又、中には主人は牧師として伝道して、洗礼を受けるように働いていますが、妻である婦人は洗礼を受けないで、私クリスチャンじゃありませんというケースもあったり、聞いてびっくり、どうなっているんでしょうね。そのうちクリスチャンになりますよ、と言うのでしょうか。

 さて、パウロは結婚について8節から見ますと、、今度は未婚者や、やもめに言います。私のように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身をこがすよりは結婚したほうがましだ、と言うのです。

 コリント教会の中での、不品行な人たちの問題から始まって、結婚と離婚の困った問題にまで及びます。

 離婚はなるべくしてはいけない、と言います。そこには必ず子供がいることでしょう。その子供たちがどんなつらい思いをするのか、いたましことです。私はこれまでに、いくつものケースを見てきましたね。親同士はののしり合っても子供にとってはお父さんでありお母さんです。どうしてそんな言葉がでるのと心で泣いているんです。子供の心に傷をもたらしてはいけないと思いますね。しかし、結局、親の身勝ってで子供の心に大きな負担を残してしまいます。アメリカ等では、簡単に男と女が好きになり結婚しますが、簡単に離婚してしまいます。日本にも、だんだんそういう傾向になってきているとすれば、良くないと思います。

 聖書の教えは、互いに愛し合いなさい、ゆるし合いなさい、ということです。この手紙でパウロは、結婚についてどうありなさい、と教えるのではなく、その中に、救いがどう生かされねばならないか、ということを示そうとするのです。そこでパウロは、未婚者や、やもめの人に対しては、私のように1人でおれば1番良い、と言います。パウロはこの時、たしかに独身者であったようです。しかし、ダマスコでの改心の前には実は、以前、結婚していたのではないか、研究者は想像しています。そうすると今は、やもめに似たことになってしまった、ということになります。やもめでいるのもつらいことであるなら「結婚してもいいよ」と言っています。結婚したらしたでいろんなつらいこと、戦いもあ

るよ、と言いたげであります。どちらにしても、主の救いをまっとうすることができるかどうか、そのことが大切なのであります。独身や、やもめになっているにしても、結婚しても、どちらがよく主を信じ、主に仕えることができるか、ということです。その事は、その人が与えられた境遇によってちがうのであります。パウロは自分のような生活だけが神に仕える道である、とは思っていなかったでありましょう。同時に「人間生活おける結婚の意味」というようなことも、問題にしてはいなかったと思います。彼が一番心をかけていたことは、どうすれば救われるか、まちがいのない信仰生活をおくることができるか、ということであったでしょう。そのあと、パウロは少し変わったことを申します。それは10節の「命じるのはわたしでなく、主である」というのと12節に「これを言うのは主ではなく、わたしである」と言っています。同じような信仰のすすめをしながら、二つに分けて、主の言葉と、自分の言葉にしています。どうもパウロは、主の権威というものと自分の力とを、よく知っていたからでありましょう。

 ここにもう1つの事があります。12節以下です。それは、不信仰者の妻のことです。信仰のない妻にも色々ありましょう。この当時のことであれば不信仰者と言っても、異教徒の者であったかもしれません。信仰がちがうから結婚しないと、厳密に考えたでしょうか。そんなことをのりこえて二人は結婚したいと、夫婦になったでしょう。キリスト者の数が非常に少ない日本のような国では、信仰を持たない人との結婚は、珍しくありません。パウロが言うのは、何があるにせよ信仰がなくても、結婚して共に喜んでいる場合には離婚してはいけない、と言っています。

このことは大切な事であります。そういう結婚が、決して恥ずべきことではない。むしろそこに神の御業の働くことをパウロは考えていたにちがいありません。離婚してはならないということは、1つには、神の合わせられた者であるから離婚してはならないということであります。ここで離婚してはならないという場合は、婦人の夫が信者でなくても、信仰もった婦人と生活することを喜んでいる場合であって、結婚によって信仰者が汚されるか、それとも反対に信仰なくてもきよめられるのであるか、

そういう問題であります。パウロは、結婚そのものは神がお定めになった神聖な生活であるはずである、と考えていました。従って夫と妻とがこの結婚の、神聖ということで生かされるはずであります。もしどちらかが信仰をもたない者であった場合、どうであるか。パウロはその場合にも、その結婚が神聖であると申します。

 14節を見ますと「なぜなら、信者でない夫は信者である妻のゆえに聖なる者とされ、又信者でない妻は信者である夫のゆえに、聖なるものとされているからである。」これは驚くべき言葉でありますね。信者でない夫、又は妻を持った信者にとっては、大きな慰めではないでしょうか。その時です。そこに、両親が信仰によって祝福を受けることができれば、すばらしいことです。たとえ夫だけ 或は妻だけがその祝福を知るだけでも、その子は神の祝福にあずかる、というのであります。ところが身勝手な人間は、そういう子供の誕生について、あの神聖な喜びもやがて忘れはて、目の前の、この世の喜びに心ひかれてしまいます。世俗的なことに、もう夢中になってしまいます。しかしその時です。夫又は妻が信仰を持ち、その子供のまことの幸いのために祈ることができたら、事は全く変るはずであります。パウロは今その事を含めて、ここにきよめがある。神様によって「聖なる者とされている」ではないか、と言うのです。そうであるなら信仰のない夫をもつ妻、又信仰のない妻をもつ夫は、ここに大いなる確信と誇りとをもっていいのであります。そして、その家庭の土台とならねばならないでありましょう。

 14節にパウロは書いているでしょう。「もしそうでなければ、あなた方の子は汚れている事になる。が、実際はきよいではないか。」パウロの確信に満ちた、固い決心がよくわかります。現代の日本で、夫婦そろってクリスチャンは少ないのです。実際、夫か妻どちらかが、まだ信仰を持つに至らない。夫婦の生活は複雑で簡単にいきませんよ。それを、自分を良く知らない私は、牧師なりたての若ぞうが伝道熱心のあまり家庭にふみこんで失敗ばかり、何度そのむずかしさを味わったことでしょうか。

 ところでパウロは15節を見ますと、いとも簡単に「去る者は去らしめなさい」と言っているのです。彼に言わせれば、神の御心を知らずそれに背く者は、もうどうしようもないと言うのです。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚というものに縛られてはいません。パウロの確信のあらわれの言葉です。そうして更に重要な言葉でむすびとしています。それは「平和な生活を送るようにと、神はあなた方を召されたのです。」

 ここでパウロは何を言おうとしているのでしょう。平和に召されたのだから、なるべくなら争いごとはさけなさいと説明しているのでしょうか。そうかもしれません。しかし、この言葉で言っていることは何かと申しますと、神はいたづらに人を造られたのではないはずであります。その上、神は、キリストの十字架による救いをお与えになりました。神が平和を望まれるとは、並大抵のことではありません。神のみ子が犠牲となっておられるのです。

 神はどんな平和をお求めになるのでしょうか。ただ平穏な、波の立たない平和であったでしょうか。

もちろん、そうではないでしょう。神は、神のみが神とされ、神のみこころが行われることを望まれるでありましょう。神はそういう平安をつくるために、夫婦とか家庭とかいうものをお造りになったのではないでしょうか。

 創世記にありますように、男のために女をつくったという話から始まって、人間の男女の生活は決して平安ばかりではありませんでした。しかし神は、あなた方を平和にくらせるためにおつくりになった、というのがパウロの確信でありました。

 信仰のない夫を信仰に導きたいと思わない妻はありますまい。同じように、信仰のない妻を信仰に導きたいと願わない人もないでしょう。しかし、そう簡単にはいかない。その戦いは容易ではありません。伝道は涙の苦闘と言ってもいい。祈って、祈って、祈っていくしかない。それでパウロは言うのであります。

 16節で「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうしてわかるのか」という。「夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうしてわかるのか」と言っています。何のために悲観的に見えることを、パウロは言うのでしょうか。もちろん彼は悲観して言っているのではありません。神の助けなしに、どうしてそれができるのか、と言うのであります。神は必ず勝利されるにちがいないではないか。あなた方の力は弱いかも知れないが、神は必ずこのよき平和をきずき上げて下さるにちがいないではないか。パウロは最後に、勝利の言葉をもって励ましているのであります。       アーメン・ハレルヤ

交わり

今日エッサイ君は流感で休みです、早く元気な姿を見せてくれるよう皆で願いました。14日ヨハンナさんはヘルシンキに戻ります、しばしの別れを惜しみました。

説教「森羅万象の上に立つ神と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章1-12節、エフェソ3章1-12節

主日礼拝説教 2019年1月6日(顕現主日)

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.キリスト教は損をしている

本日の福音書の箇所は、何かおとぎ話めいて本当にこんなことが現実に起こったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来るとか、王子様の星をみたことが学者たちの異国訪問の理由であるとか、その星が学者たちを先導して王子様のいる所まで道案内するとか。こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてくると思います。以前この個所をもとに説教した時、そこに記された出来事は歴史的信ぴょう性が高いということを説明しました。歴史を100パーセント復元することは不可能であるが、この個所は80パーセント位は復元できて、もう歴史的事実と言ってもいいのではないかということをお話ししました。それを言った後で今度は、信仰というのは実は歴史を100パーセント復元できて信ぴょう性に問題なしと言って持てるものではない、ということもお話ししました。じゃ、どうやって信仰を持てるかと言うと、2000年前の彼の地で起きた出来事は現代を生きる自分に向けられて起こされたのだとわかった時に持てるのだと述べた次第です。

その後で思ったのですが、ひょっとしたらキリスト教ほど損をしている宗教はないのではないか?というのは、世界中のいろんな宗教の中で歴史的信ぴょう性とか歴史の復元とかうるさく言うのは他にはないのではないか。みんな、教祖が言ったとされること行ったとされることを全て書かれてあるとおりに、(書かれたものがなければ)言い伝えられたとおりに、教祖は本当にそう言った行った、と歴史の検証などしないでそのまま受け入れているのではないか?それならば、キリスト教も他と同じように検証など復元などとうるさいことを言わないで、聖書に書いてあることをそのままこれが歴史的事実だと言って、頭ごなしに受け入れればいいのではないか?

それがそう簡単に行かない事情がキリスト教にはあります。というのは、先ほど申しました、「信仰というのは2000年前に起きた出来事が現代を生きる自分に向けられて起こされたと分かった時に持てる」ということが絡んでくるからです。聖書に記されている出来事が本当は起きていなかったら、この「自分に向けられて起こされた」ということもなくなってしまいます。信仰のために出来事は歴史的に起こったことでなければならないのです。

近代以前ですと、このことは大きな問題ではありませんでした。というのも、大方は聖書に記された出来事は歴史そのものと考えられていたからです。ところが、19世紀のドイツで歴史学の手法が聖書学に適用されるようになると様相は一変します。どんな手法かというと、歴史を復元する際に書かれてあるものを鵜呑みにしない、批判的に見るという手法です。以後これが聖書学の主流になりました。例えば、「何々福音書に書かれているこのイエス様の教えは実はイエス様自身が言ったのではなく、初期のキリスト教徒たちが自分たちの考えをイエス様が言ったことにして福音書に記載した」というような研究結果が山のように出てきました。

さて、このような学術研究を前にして現代のキリスト教徒はどうすればよいのでしょうか?ある人たちは、なんだ聖書なんて神の言葉なんて言いながら実は人造的な書物だったんだと見切りをつけて、もう奇跡など信じない、ただ聖書はさすがに聖書だけあって現代にも通じる斬新な思想や感動的な話で満ちている、それらを自分の行動原理にして世界や自分を良くしよう、そういうふうに考える人たちがいます。そうなると聖書は自己啓発ないし一種のイデオロギーの書になります。これと対極的に、学術的な研究を「悪魔の学問」と言って、それに背を向け、聖書に書かれた出来事が一字一句歴史的事実だと言って譲らない人たちもいます。

私自身はどうかと言えば、国立大学の神学部で神学を学んだので、そこでの聖書学はまさに学術的な歴史研究でした。ただ、学術的な手続きをちゃんと踏まえていれば、聖書に書いてある通りの結論になっても問題なしというところでした。当たり前のようですが、大学によっては、聖書に書いてあるのと違う結論になった方が学術的と見なすようなところもあるのです。それで、私が所属した研究グループは、たとえ世界の研究者の大半が「このイエスの言葉はイエスが言ったのではない、後の創作だ」という学説を支持しても、「否、第二神殿期の歴史的文脈に照らしてイエスが言ったとしてもなんら問題ない」と反論する学派でした。

その意味で私が属した学派は、聖書に対して保守的な態度を取るところでした。ただし、学術的研究の世界ですので、反保守の学派に反対論を打ち立てても、また反論に晒されるのは承知の上です。それに対してまた反論していきます。まさにイタチごっこの世界です。そこで私が気づいたことは、信仰というのは学術的研究の結論に基づかせるのは危ないということでした。現在学会で多数派に支持されている結論でも時がたてば覆されるかもしれません。そんなものに基づいて、これこそがイエス・キリストの実像だなどと思って信じていたら後で取り返しのつかないことになります。じゃ、何に信仰を基づかせたらいいのか?それはもう、使徒たちが後世に遺した証言と信仰しかないと思います。使徒たちが迫害をものともせずに伝えたこと、イエス様はこう教えられた、こういう業を成し遂げられた、十字架にかけられて三日目に蘇られたということ、これらは学術的研究の結論は変転を遂げても変わらないものとしてあります。

学術的研究というのは、森羅万象の中で理性で解明できることを理性で解明するというものです。これに対して信仰は、森羅万象の中には理性で解明できないものがあると見越していることに関係しています。そういう信仰を持つ人は学術的研究に不向きかと言うとそうではないと思います。森羅万象の中に理性で解明できないものがあると観念しつつも、理性で解明できることは何かを明確にしてそれを解明しようとすることは出来るからです。ただし、解明できて暗闇に大きな光を投じたと思っても、実はそれはもっと大きな闇の中の小さな光に過ぎなかったことに気づかされるかもしれません。森羅万象というのはそういうものだと思います。

聖書の観点では森羅万象はどういうものかと言うと、それは全ての造り主である神の意志に従うものです。森羅万象は創造主を超えらず、森羅万象の上に立つ創造主の意志に服するというものです。この観点は、私たちが大いなる暗闇に直面した時に途方にくれないために大切なものです。本日の説教では、森羅万象の上に立つ創造主の神は、私たち人間が大いなる暗闇を前にしても途方にくれないようにしてくれる方であることを証しすることを目指します。

 

2.マタイ2章1ー12節の歴史的信ぴょう性について

 その前に、本日の福音書の個所の歴史的信ぴょう性について先ほど80パーセント位復元出来るのではないかと申しました。そのことについて述べておきます。これは以前の説教でも述べたことです。その時にもお断りしましたが、不思議な星の動きについてはいろいろな説があります。以下に申し上げることは、私がフィンランドで読んだり聞いたりしたことに基づくバージョンであるということをお含みおき下さい。

近代の天文学者として有名なケプラーは1600年代に太陽系の惑星の動きを解明しますが、彼は紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座のなかで異常接近したことを突き止めました。他方で、現在のイラクを流れるチグリス・ユーフラテス川沿いのシッパリという古代の天文学の中心地から当時の天体図やカレンダーが発掘され、その中に紀元前7年の星の動きを予想したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するということは、普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。

そこで、イエス様の正確な誕生年についてですが、本日の福音書の箇所に続くマタイ2章13ー23節によれば、イエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年としてひとつ有力候補になります。ここで決め手となるのは、ローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録がありません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上してきます。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

次に、東方から来た謎の学者グループについて見てみましょう。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、前に述べたように、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学が非常に発達したところで、星の動きが緻密に観測されて、それが定期的にどんな動きをするかもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って、占星術も一緒でした。つまり、星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。従って、もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れであると考えられたのです。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、東方の学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、土曜日はユダヤ民族が安息日として神を崇拝した日と連想できるので、この星はユダヤ民族に関係すると理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。以上から、木星と土星の魚座のなかでの異常接近を目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

 それでは、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみます。イエス様の時代の約600年前のバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失わず、イスラエルの伝統を守り続けました。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からうかがえます。バビロン捕囚が終わってイスラエル帰還が認められても、全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残ったユダヤ人も多くいたことは、旧約聖書のエステル記からも明らかです。そういうわけで、東方の地ではユダヤ人やユダヤ人の信仰についてはかなり知られていたのではないかと思われます。「あそこの家は安息日を守っているが、かつてのダビデ王を超える王メシアがでて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じ待望しているぞ」という具合に。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた人たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようだったでしょう。

学者のグループがベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ人の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書そのものを研究することはしなかったでしょうから、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王と王の取り巻き連中の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くしてユダヤ民族の王についた人なので、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて驚天動地に陥ったことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。日本語訳では「不安を抱いた」とありますが、ギリシャ語の単語の意味は「驚愕した」です。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムでの幼児大量虐殺の暴挙に至ったのでした。

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景全てに見事に裏付けされることが明らかになったと思います。しかしながら、問題点もあります。2つのことが大きな問題としてあります。せっかく歴史的信ぴょう性が大丈夫そうになったのに、何をまた馬鹿正直に、と思われるかもしれませんが、どうせ損な宗教ですから、お付き合い願います。問題の第一は、昨年12月30日の説教でイエス様親子がどのくらいエジプトに避難していたかということを考えました。もしマリアの出産後の清めの期間が律法の規定通りの3か月だったとすれば、イエス様の誕生は紀元前4、5年になってしまいます。紀元前7年にするとイエス様が清めの儀式のためにエルサレムの神殿に連れて行かれるのが2,3歳くらいになってしまい、少し大きすぎてしまいます。説教でも申し上げたのですが、イエス様の誕生からヨルダン川での洗礼までの出来事の一次資料はヨセフやマリアが周りの人に話したことが伝承されたというものしかありません。それで歴史の復元に空白部分が出るのはやむを得ないのです。

 

3.森羅万象の上に立つ神と私たち

 もう一つの問題点は、東方の学者グループがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。SFじみていて、まともに信じられないところです。先ほど、木星と土星の重なるような接近は紀元前7年はしつこく何回も繰り返されたと申しましたが、そのことを考えてみましょう。エルサレムからベツレヘムまでの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したというのも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みます。その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。劇的な出来事を言い表す時、立場を入れ替えるような表現も起きてくるのです。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星の可能性も否定できません。

さらなる可能性として、天地創造の神が星に類する現象を起こして、それを見た人間は星としか言いようがなかった、そんな現象の可能性を考えることも出来ます。ただ、これは大方の人は認めがたいかもしれません。というのは、木星と土星の接近とか彗星や流星であれば、自然の法則に従う現象なので理性で受け入れられます。ところが、何者かの意志が働いて超自然現象が起きるというのは理性では受け入れられないからです。しかしながら、聖書の観点では自然の法則というのは、何者の意志も働かない自動機械的な動きではありません。先ほども申しましたように、森羅万象は創造主の神の意志に服するので、自然の法則も神の意志に従って働き、神の意志を超えたりそれに反するような働きは出来ません。惑星の異常接近も彗星や流星も全て神の意志の範囲内のことです。

そうなると人間は神の意志に服する森羅万象の中であまりにもちっぽけで無力な存在です。神の意志が働く自然法則を人間はコントロール出来ないどころか、それにコントロールされるだけです。

ところが神は、そんな無力でちっぽけな人間に森羅万象の上から目を注がれ、人間を森羅万象の中で無防備状態に留めておかないと言われるのです。そのことが詩篇8篇で次のように言われています。

「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」(4ー5節)

天体を配置された創造主の神はまさに森羅万象の上に立つ方です。その方が森羅万象の只中にいる、点にも満たない人間に目を注いで心に留めて下さる、顧みて下さる、と言うのです。どうしてそんなことがありうるでしょうか?宇宙はあまりにも広大です。森羅万象の上に立たれる神はどうやってその宇宙の中のほんの片隅の小さな星にいる小さな人間なんかに目と心を向けられるのでしょうか?たいていの人は、自分はそういう途方もない方が心に留めて下さったとか、顧みて下さったとか、全然感じられないと思うでしょう。しかし、そのような思いにとらわれる時こそ、まさにその神がひとり子イエス様を私たち人間に贈って下さったということを思い出します。これが神の私たち人間に対する顧みであり、心に留めて下さることの証拠であり実例です。

この世に送られたイエス様は、父なるみ神がどんなお方で、何を人間に望んでおられるか、人々に教えられました。それに加えて、神が今おられ、いつの日か新しい天と地が創造される時に現れる神の国がどんなところであるかも教えられ、またそれを奇跡の業を通して人々に垣間見せました。そして、十字架の死を遂げることで、人間を神から切り離す原因となっていた罪、神の意志に反する罪、その償いを人間に代わって神に対して果たされました。さらに死から復活させられることで、死を超えた命の国でもある神の国に至る道を人間のために開いて下さいました。

本日の使徒書の日課エフェソ3章に使徒パウロが神からお恵みとして与えられた任務の一つに、「キリストの途方もない豊かさを異邦人に伝えること」が言われています(8節)。新共同訳では「キリストの計り知れない富」と言って何か財宝みたいですが、「キリストの途方もない豊かさ」の方がいいと思います。どんな「豊かさ」 かと言うと、神と人間の間にあった落差を埋めた豊かさです。その落差は途方もないものだったので、それを埋めた豊かさも途方もないものでした。神の御前であまりにも足りなさすぎ欠けすぎ至らなすぎの人間を満たしてあげて、神の御前で欠けるところがない、至らないところがないようにして下さいました。そのような途方もない豊かさが神のひとり子の十字架の死と死からの復活によって生み出されたのです。あとは人間の方がこのイエス様を救い主とわかって洗礼を受けることでこの豊かさに満たされます。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる限り満たされ続けます。エフェソ3章12節を見ると、キリスト信仰者というのは神の御前に出ても全く大丈夫という心で御前に出ることができるのだ、そのことはイエス様を救い主と信じる信仰にあって確信できるのだ、と言っていますが、まことにその通りです。

兄弟姉妹の皆さん、現実の生活の中でいろいろな課題に直面して取り組んでいる時、果たして父なるみ神は本当に自分のことを顧みて下さっているのか、心に留めて下さっているのか、信じられなくなる時があるかもしれません。新年の礼拝の説教でも申し上げましたが、そういう時は、神はひとり子イエス様を贈って下さったくらい私のことを心に留めて顧みて下さった方なのだから、その他のことで心に留めないなどということはありえないのだ、だから、どんな結果を見せてくれるかは神にお任せして、自分としては出来るだけのことをしよう、ただし神の意志に反しないように正しく行おう、神が見せてくれるどんな結果にも必ず神の良い導きが続くはずだ。そういう心意気で行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
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  • 2月 27日 10:00 am
    手芸クラブ
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    主日礼拝
    司式・説教吉村博明宣教師(ルカ9章28~36),礼拝後交わり、役員会。
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