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2023年1月1日降誕節第二主日 主日礼拝

司式・説教 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
聖書日課 イザヤ書63章7~9節 (旧1164頁)、ヘブライ2章10~18節(新402頁)、 マタイ2章13~23節(新2頁)
讃美歌 49、198、164、467

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説教題 「全知全能の神とこの世の悪」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神は悪に対して無力か?

本日のマタイ福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。

初めに、2章15節にある言葉「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11章1節にある神の言葉です。イエス様親子はヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに避難しました。そして王が死んだのでイスラエルの地に帰還できました。マタイはこの出来事がホセア書の預言の実現とみました。あるいは初代のキリスト教徒たちがそう見て、マタイが福音書を書いた時にそれに倣ったということかもしれません。

二つ目は、2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これはエレミア書31章15節の引用です。ヘロデ王が赤ちゃんのイエス様を殺そうとして、どこにいるかわからないのでベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺しにするという残虐な事件が起こりました。マタイないしは初代のキリスト教徒たちがエレミア書の預言はこの事件を指しているとみたのです。

三つ目は、2章23節にある言葉「彼はナザレの人と呼ばれる」。実は、旧約聖書の中にこれと同じ預言の言葉は見当たりません。ひとつ明らかなことは、ナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉ネーツェル(נצר)と関係があります。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。同じイザヤ書の53章には人間が受けるべき神の罰を神の僕がかわりに受けて苦しむという預言があります。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した人たちは、エッサイの若枝ネーツェルとはイエス様のことだとわかりました。このようにイエス様が「ナザレの人」と呼ばれたのが預言の実現だったというのは、彼が住んでいた町がナザレだったということよりも、ネーツェル預言があったからでした(「ナザレ」については、この他に民数記6章1-21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係を考えることも可能です。ただ、これらは預言の言葉ではないので本説教では立ち入りません。)

ところで、本日の福音書の中で一番難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件です。一人の赤子の命を救うために大勢の子供たちが犠牲になったことに納得しがたいものを多くの人は感じるかもしれません。もし、その赤子は将来救世主になる人だから多少の犠牲はやむを得ない、などと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちが助かるようにするのが本当ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつはっきりさせておかなければならないことがあります。それは、幼児虐殺の責任はあくまでヘロデ王にあって神ではないということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、まず東方の学者たちを導いてヘロデに報告しに行かないようにしました。それから、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこないのに気づいたヘロデ王は、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」でした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の暴挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙でした。

そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は創造主で全知全能と言っているのにヘロデの暴挙も予想できないというのは情けないではないか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えつかなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の登場を許してきたのか?なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか?そもそも、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか?もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ウクライナの戦争もコロナも東日本大震災もなかったはずではないか?人間はただただ至福の状態にいることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。

そういうわけで、本説教では、神は本当に悪に対して力がないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。

2.全知全能の神とこの世の悪 ― キリスト信仰の観点

もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にいることができるではないか、そうではないのは神に力がないか、あるいは神など存在しないからではないか?この問題についてキリスト信仰者はどう考えるかということを以下に述べていきたいと思います。

聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいました。そして、それは創造主の神の御心に沿うものでした。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまったことが、創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになってしまいます。つまり善いことだけでなく悪いこともできるようになってしまいました。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順になったことがきっかけで神の意志に反する罪が人間に入り込み、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったのです。人間は別に神のようになる必要はなく、神のもとで神の守りの中で生きていればよかったのに、神のようになりたい神と張り合いたいという考えを持ったことが間違いの元だったのです。

ところで、何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと煙たがれます。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。神の意志に反しようとする性向です。神の意志とは十戒に凝縮されています。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、妬むな等々、実際にそうしてしまうだけでなく心で思い描くことも罪があることを示しています。もちろんこの世には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っていることの証なのです。

このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道に入ってしまいました。そこで人間から不従順をつきつけられた神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。失われてしまった結びつきを人間が取り戻せるために神は計画を、人間救済の計画を立てました。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていき、最後にそれはイエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現しました。そのことを明らかにするのが新約聖書です。

それでは、神と人間の結びつきはどのようにして回復したでしょうか?人間は皆、罪の呪いのために死の滅びに定められています。その呪いをイエス様が全部自分で請け負って、私たちの身代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれました。神のひとり子の犠牲の死が人間にとてつもなく大きな意味を持っていることが、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのはなぜか?それは、人間を死の滅びに陥れる悪魔の力を無力にするためであった。そのためには、神のひとり子が犠牲になって人間が陥る死を代わりに死んでもらわなければならない。その神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が陥る運命にあった死をイエス様が代わりに死んで下ったことで人間が陥らないですむ状況を作って下さったのです。

そういうわけでイエス様が人間と同じようになったのは、ヘブライ2章15節の言葉を借りれば、生きている間ずっと死に対する恐怖の中にいて罪の奴隷になっていた者たちを解放するためだったのです。それでは人間を解放した後はどうなるのか?罪の奴隷状態から解放されるのはわかった、じゃ、どこへ解放されるのか?それは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになって、この世から別れる時も神との結びつきを持って別れられ、将来復活の日が来たら、神との結びつきを持つ者として目覚めさせられる、そういう神との永遠の結びつきへと解放させられるのです。

もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもなかったでしょう。人間として受けたので本当の罰受けになって人間の罪を償うことが出来ました。ヘブライ 2章17節で言っている通りです。そして18節で言われるように、イエス様は神のひとり子でありながら人間として試練を受けて苦しみました。それがあるので試練を受けている人たちを助けることが出来るのです。痛くも痒くもなかったら試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、それがわかるのです。

イエス様の十字架の死が起きたことで、人間が死の滅びに陥らない状況が生み出されました。もう一つ大事なことが起きました。父なるみ神は想像を絶する力でイエス様を死から3日後に復活させました。これにより死を超えた永遠の命が存在することがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。解放された人間が行く行き先が確立したのです。悪魔は人間を死に陥れる力を無力にされただけでなく、行き先も奪われてしまったので二重の打撃です。

神はこのようにして人間に救いを整備して下さいました。今度は人間のほうが、神が整備した死に至らない状況、復活と永遠の命に導かれる状況、そうした状況に人間が入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて整備した救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら整備された状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためであった」とわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けるとイエス様が果たした罪の償いを純白な衣のように被せられます。そうするとと、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せてもらった償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。なにしろ、神のひとり子が十字架で流した血が神との結びつきを回復させる代償になっているからです。あとは、この高価な衣をしっかり纏って、その神聖な重みで内にある罪を圧し潰していきます。かの日に神の御前に立たされる時、しっかり纏っていたことを認めてもらって、今度は神の栄光に輝く復活の体を与えられます。

このようにキリスト信仰者は復活の日の永遠の命に向かう道に置かれてそれを歩んでいきます。神との結びつきがあるので順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方ということは、平穏と無事だけでなく苦難や困難もあります。しかし、それは詩篇23篇でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時があるのです。しかし、聖書の御言葉の繙きを通して聖餐を通して祈りを通してイエス様はいつも私たちと共におられるので災いを恐れる必要はないのです。イエス様の衣を纏って進む限り、復活と永遠の命に向かっていることには何の変更もないのです。

以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからという見解は、キリスト信仰の観点ではズレた見解ということです。キリスト信仰の観点では、悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を立ててそれを実現した、そして人間一人一人がこの救済に与れるようにと手を差し伸べている、という見解になります。もちろん、これはこの世の観点からはズレた見解です。しかし、それでいいと言うのがキリスト信仰です。キリスト信仰の観点で見れるようになれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということで悩むことはなくなります。神がこの私にこんなに大きな救いを果たして下さったということの方に目が向いて、自分が復活の永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。

3.正義と赦し

終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場です。黙示録20章4節を見ると「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられています。彼らの場合は、神の書物に記された旧い世での行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が御心に従って造り上げたものに対して、また神が御心に従って与えて下さるものに対して、それらを受け取った人たちに対して酷い仕打ちをする者たちの運命は火を見るよりも明らかでしょう。ヘロデ王の行いもこの観点から判断されます。

人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示しています。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判的になる人もいます。しかし、キリスト信仰はこの世での正義は諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うようにしようとするものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。

最後に、キリスト信仰は罪の赦しを専売特許のように言うくせに、炎の地獄とか最後の審判とか言うのはどういうことか?やっぱり赦しはないということなのか?それについてひと言。もちろん、キリスト信仰は先ほども申しましたように罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはまず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことと表裏一体になっています。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をするという方向転換とも表裏一体になっています。それなので、方向転換もなし、イエス様にひれ伏すこともなしというところには本当の赦しはありません。これを逆に言うと、どんな極悪非道の悪人でも、このような神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

宣教師の週報コラム  フィンランドの「クリスマス平和宣言」

12月24日のクリスマス・イブの日、フィンランドのトゥルク市には14世紀から続いている「クリスマスの平和宣言」という行事があります。その日、ブリンカラという名称で親しまれる市の会館前の「旧大広場」に大勢の群衆が集まります。トゥルク大聖堂の12時を知らせる鐘が鳴ると、軍楽隊の伴奏で群衆は一斉にルターの讃美歌「神はわがやぐら(日本のルター派教会の教会讃美歌450番「力なる神は」)」を歌います。歌い終わると会館のバルコニーから市の儀典担当者が巻物を広げて次の宣言文をフィンランド語とスウェーデン語で高らかに読み上げます。

「明日は、もし神がお許しになるのであれば、我々の主であり救い主でおられる方の恩寵溢れる降誕の日である。それゆえトゥルク市にクリスマスの平和を宣言する。市民はこのお祝いに相応しい敬虔さをもって祝い、静かに騒ぎ立てぬよう振る舞わなければならない。なぜなら、この平和を破り、違法あるいは相応しくない行為によってクリスマスの平和を乱す者は、重大事案が生じたことになるので法令がそのために別途定めている刑罰に処せられることになるからである。終わりに、トゥルク市に居住する全ての住民にとってクリスマスのお祝いが喜びに満ちたものになるように。」

読み上げた後、再び軍楽隊の伴奏で今度はフィンランド国歌を斉唱し、最後は「ポリ市民行進曲」の演奏で終わります。大体15分位の内容ですが、テレビ中継され国民のほとんどが注視するひと時と言っても過言ではありません。ヨーロッパでは中世から同じようなクリスマスの平和宣言はどこでも行われていたそうですが、現在も続けているのはフィンランドのトゥルク市だけだそうです。(2021年12月19日初掲載)

「クリスマスの平和宣言」をYoutubeで見る

歳時記

クリスマスおめでとうございます。

Hyvää joulua.

更け行く夜にヘンデルのメサイアを聞きながらキリスト生誕の出来事に思いを馳せています。

ソプラノが歌いそして語りかけています。

And the angel said unto them, Fear not: for behold, I bring you good tidings of great joy, which shall be to all people. For unto you is born this day in the city of David, a Saviour, which is Christ the Lord.

天使は彼らに言った。恐れるな。見よ。私は汝らに大きな喜びの良い知らせをもたらす。

それは全ての人々に対するものであろう。 汝らのために、今日、タヴィデの街において

一人の救い主が生まれた。キリスト、主である。 ルカ2:10~11

2022年12月25日(日) 降誕祭/クリスマス 聖日礼拝

主日礼拝説教 2022年12月25日降誕祭

イザヤ52章7-10節

ヘブライ1章1-12節

ヨハネ1章1-14節

説教題 「キリスト教徒は光を目指す」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.天地創造の前からいた神のひとり子

はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の1章1節から18節までは、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを述べているところです。皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にあります。父、御子、御霊の三位一体を構成する神の御霊、つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味ではイエス様誕生の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者ヨハネがイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに分析・総括して、その結論を冒頭に述べているわけです。

「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるのではないでしょうか?実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです(後注1)。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いて、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。

 この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」という名前を付けられるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に贈られてからです。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地が創造されて時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に贈られたのでした。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

 それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子は人間の肉体を持ってこの世に生まれ出る前は一体どんな風だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語のロゴスという言葉はとても広い意味を持っています。紙に書き記して文字になる「言葉」や、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容のある「話」や「スピーチ」を意味したり、また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄が全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を背後で司っている力というか頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語で「世界理性」と訳されたりします。

 ただ、こういう森羅万象を背後で司るロゴスというのは古代ギリシャの哲学の話です。ユダヤ教キリスト教とは何の縁もゆかりもない、人間の頭で考えて生み出された概念です。翻って、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにする、それを人間はただ受け取るという立場です。生み出す大元はあくまで神という立場です。哲学では、生み出す大元は人間の頭です。

 一見すると、ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様のことを、森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたように見えます。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいてイエス様を捉えたのです。そこで、このとてつもないお方を、ギリシャ語の世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

 では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22

31節をみると、この「知恵」は実に人格を持つものとして登場します。まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたと言われています。しかし、ひとり子の役割は同席だけではありません。ヨハネ1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってでしょうか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は「神の言葉」という側面を持つとわかれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的に「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せるのです。

 このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。興味深いことにイエス様は地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ11章49節、マタイ11章19節にあります(後注2)。イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来た者であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

2.ことばは肉となったが神の栄光を映し出していた

 父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、父なるみ神のもとから人間のいるこの世に贈られてきました。人間の女性マリアから肉体を持つ人間として生まれました。ただ、聖霊の力が働いたため処女から生まれたという生まれ方をしました。なぜ神のひとり子はこのような仕方でこの世に贈られたのでしょうか?そもそも、なぜ神のひとり子はこの世に贈られなければならなかったのでしょうか?天の父なるみ神のもとで神の栄光に包まれてのんびりしていればよかったのに。

 それは、天地創造の後に堕罪の出来事が起きて、人間が神の意志に反する性向、罪を持つようになってしまったためでした。そのために人間と神の結びつきが失われて、人間は神との結びつきがないままこの世を生きることになり、この世を去った後も結びつきがないまま、神のもとに戻って生きることができなくなってしまいました。そこで神は人間が自分との結びつきを持ってこの世を生きられるように、この世の人生を終えた後は復活の日に復活させて永遠に自分のもとに迎え入れることができるように、それでひとり子をこの世に贈ったのです。ひとり子を贈って何をさせたかというと、人間の罪を全部引き受けさせて人間に代わって神罰を受けさせて人間が受けないで済むように代わりに全ての罪を神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。今から2000年位前の世界の中で起こった出来事です。

 なぜ神はこの大役を他の誰でもなくご自分のひとり子に担わせたのでしょうか?それは、人間の全ての罪を全部引き受けて未来永劫に神に対して償うことが出来るためには、神のひとり子が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。どうせ神なんだからと、受けた罰が痛くもかゆくもなかったら話になりません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、普通の人間が全ての人間の罪を背負って神罰を受けて全ての人間の罪を神に対して償うことなどは不可能です。自分の分が精一杯で、しかも受けたらそれで滅んで終わってしまい新しい出発も何もありません。そこで、人間を救うのに他に手立てがないと見た神は、それを全部自分のひとり子に引き受けさせることにしたのです。通常の生殖作用を通してではなく聖霊の力で処女から生まれさせたので神聖さを持っています。神聖な神のひとり子の犠牲なので犠牲としてはこれ以上のものはありません。また、人間の肉体を持っているので人間として神罰を受けられます。これが、神聖な神のひとり子が人間の姿かたちを持って生まれたことの意味です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。聖書の神の本質について大いなる真理がここにあります。まさにキリスト信仰の核がここにあります。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。

「わたしたちの間に宿られた」と言いますが、「私たちと共に生き生活した」と言った方がはっきりします。当時の人々はイエス様を通して天地創造の神の知恵と力を見ました。神の栄光を見たのです。正確には垣間見たのです。罪ある人間は神の栄光を直視することはできないからです。神の栄光は被造物の太陽の光よりも強い光です。イエス様がそのような栄光を現わした出来事もありました。現在のレバノンとシリアの国境にあるヘルモン山と推定される高い山の上でした。さらに弟子たちをはじめ大勢の人たちが死から復活したイエス様を目撃しました。復活の主を通して神の栄光を垣間見たのです。私たちが神の栄光を直視できる日がやがて来ます。それが復活の日です。その日、復活させられる者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は罪を償ってもらい神との結びつきを持ってこの世を生きることになり、結びつきを持ってこの世から別れ、神と結びついた者として復活の日を迎えることになります。

3.永遠の命に導く光

 ヨハネ1章4節と5節をみると、命と光と闇について言われています。「命」は、ヨハネ福音書ではたいてい、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神のことばなるお方は乙女マリアから生まれる前に永遠の命がある方だったと。永遠の命は「人間の光」であったと(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文では「照らす」とは言っていません。ただの「人間の光」です。「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」、イエス様そのものです。

 どうして「人間を照らす」と訳したかと言うと、9節に「全ての人を照らす」と言っているので、そうしたのではないかと思います。ここで「人を照らす」とはどういうことかに注意します。これは人間に光を照射するような照明器具のような意味ではありません。フォティゾーというギリシャ語の言葉は、見えない状態を光の力で見える状態にするという意味があります。神との結びつきを失い罪を持つ状態に甘んじて生き神の愛も恵みも見えない状態の人間が見えるようになるという意味です。キリスト信仰者はそのような光を持っているのです。ヨハネ8章12節でイエス様が言われる通りです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」先ほど申しましたように、ヨハネ福音書では「命」は「永遠の命」を意味するので、「命の光」は「永遠の命に導く光」です。

 さらに5節を見ると、「人間の光」つまり「永遠の命に導く光」が闇の中で輝いていると言います。闇とは、神と人間の結びつきを失わせ人間が永遠の命を持てないようにしようとする力が働いているこの世のことです。その中で輝く光とはその反対の力、神との結びつきを人間に持たせて強めてあげようとする力です。まさにイエス様のことです。

 5節はさらに「暗闇は光を理解しなかった」と言います。これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞カタランバノーが元にあり、訳仕方がわかれるところです。前にもお話したことがありますが、この個所は他の国の言葉ではどう訳されているか見てみました。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)は、日本語と同じで「暗闇は光を理解しなかった」です。前にも言ったことがありますが、原文がどう訳されているかいろいろ比べてみると、日本語と英語の聖書が一致して、フィンランド語とスウェーデン語とルターのドイツ語が一致するということが多いです。それで、聖書の翻訳には日米同盟と欧州連合の対決があるようだなどと言ったことがありますが、よく考えるとそういうことではないことがわかりました。フィンランド語とスウェーデン語の訳というのはそれぞれの国のルター派教会が訳したものです。それに対して、日本語と英語の聖書はキリスト教のいろんな教派が合同で訳したものです。それなので、ルター派以外の考えも反映されてくるのではないかと思います。(とは言っても、スウェーデンの最新訳はルター派の伝統から離れてしまったところがあるので、ルター派の考えが反映されていると言えなくなってしまいました。)

 話が横道にそれましたが、「暗闇は光を理解しなかった」がいいのか「支配下に置けなかった」がいいのか。どっちでしょうか?一つの考え方として、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。それで日本語や英語のように訳していいかもしれません。しかし、悪魔は人間を罪の支配下に置こうとして人間から神との結びつきを失わせようとしても、その企みはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。

 イエス様は人間のための光、これがあるおかげで暗闇の中でも消えない光を私たちは持つことが出来ます。肉眼の目では見えないけれども心の目でいつも見ることが出来る光です。それは私たちがいつも見続けることができるようにと消えることなく絶えず輝いています。しかし、光の方はこのように輝き続けているのに私たちの方でそれを見失うことがあります。自分の内に神の意志に反する罪があることに気づいて神との結びつきが大丈夫かどうか不安になる時がそうです。また、どうしようもない困難や苦難に陥って神との結びつきがあるなどと思えなくなってしまう時がそうです。

 しかし、私たちキリスト信仰者は聖書を繙くたびに、み言葉に聞くたびに光は消えていないこと、光は輝き続けていることを確認できます。そして罪の赦しの祈りと赦しの宣言を受けることで神との結びつきには何の変更もないことを確信できます。ざらに聖餐式のパンとぶどう酒を通して主の血と肉を受けることで神の方で結びつきを維持して下さっていることを知ることが出来ます。何があっても神との結びつきは失われないのです。それがわかれば目はまた開き光が見えます。永遠の命に導く光です。

 このように、人間のための光は私たちの方で見えなくなる時があっても、それは光の方が消えたのではなく、私たちの目が見えなくなっただけのことです。再び光が見えるように、そのために聖書の御言葉と聖餐が与えられているのです。御言葉と聖餐を唯一の確かな手掛かりにして神のもとに立ち返ることで光はまた見えるようになります。キリスト信仰者は光を目指して進むのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1)「あった」ηνが過去形なのに注意。もし「はじめ」が天地創造の時を指して、その時点で「ことば」が出てきたということならば、過去形のηνではなくて、アオリストのεγενομην/εγενηθηνにすべきでしょう。

(後注2)。もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。

本日の礼拝のオンライン配信は事情により二ケア信条までといたします。ご了承ください。

2022年12月24日(土)17時 降誕前夜/クリスマスイブ礼拝

降誕祭前夜礼拝説教 2022年12月24日

スオミ・キリスト教会

ルカ2章1-20節

説教題 「神ともにませば激動恐れるに足らず」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれ、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。

ところでフィンランドでは、ちゃんと教会に通う家族なら、クリスマス・イブの晩は御馳走が並ぶテーブルに家族全員がついて、まず家族の誰かが「クリスマス福音」を朗読するのをみんなで聞いて、それから食べ始めたものです。我が家はそうしていますが、現在教会離れが急速に進むフィンランドで果たしてどのくらいの家庭がこの伝統を続けているでしょうか?

御馳走を頂く前に「クリスマス福音」を読み聞かるというのは、誰のおかげでこのようなお祝いが出来るのか、そもそもクリスマスとは誰の栄誉を称えるお祝いなのかをはっきりさせます。それは言うまでもなく、今から約2000年前に起きたイエス・キリストの誕生を記念するお祝いです。そのイエス様を私たち人間に贈って下さった天地創造の神の栄誉を称えるお祝いです。それでは、どうしてそんな昔の遥か遠い国で生まれた人物のことでお祝いをするのか?それは聖書に従えば、彼が天地創造の神のひとり子でありながら、全ての人間の救い主となるべく天上の神のもとからこの地上に送られて、マリアを通して人間として生まれたからです。話が昔の遠い国の人たちだけでなく、国と時代を超えて現代の日本に生きる私たちにとっても救い主となるために生まれたからです。そのような方のために祝われるお祝いなので、御馳走の前にお祝いするわけを思い返すためにクリスマス福音の読み聞かせをするのです。そして、イエス様を贈って下さった神に感謝して御馳走を頂きます。神がそんな贈り物をして下さったからには、私たちもそれにならって誰かに何かプレゼンする。また、神がひとり子を贈って下さったのは、国と時代を超えて全ての人間一人ひとりのことを気に留めて下さっているからです。それで私たちもカードに「良いクリスマスと新年を迎えて下さい」と書いて、あなたのこと忘れていませんよ、と伝える。そういうのが、本来の趣旨にそうクリスマスの祝い方です。もちろん、教会の礼拝に行って、神に賛美の歌を歌い、聖書の朗読と説教者のメッセージに耳を傾け、神に祈りを捧げることも忘れてはいけません。ちょうど今しているようにです。

近年はどこでも、クリスマスのお祝いの栄誉を称える面がどんどん脇に追いやられて、お楽しみの面が肥大化する傾向があります。そちらの方がお祝いの目的になっているのがほとんどかもしれません。しかし、いくらそういうふうになっていっても、イエス様の誕生がなかったらクリスマス自体も存在しなかったという事実は誰も否定することは出来ません。

2.「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。真っ暗な夜に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。電気や照明などありません。空に輝く無数の星と地上の一つの小さなたき火が頼りの明かりです。そこに突然、神の栄光を受けて輝く天使が現われ、闇が一気に光に変わる。天使が救い主の誕生を告げ、それに続いて、さらに多くの天使たちが現れて一斉に神を賛美し、その声は天空に響き渡る。簡潔で詩のような賛美の言葉は次のことを言っていました。「神は天上で永遠の栄光に満ちておられる。神の御心に適う人たちは地上で神と平和な関係に入れる。」

賛美し終えた天使たちは姿を消し、あたりはまた闇に覆われる。しかし、羊飼いたちの心には何かともし火が灯されていました。もう外側の暗闇は目に入りません。彼らは何も躊躇せず何も疑わず、生まれたばかりの救い主を見つけようとベツレヘムに向かいました。そして、一つの馬小屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つけます。

この話を聞いた人は、闇を光に変える神の栄光、天使の告げ知らせと賛美の合唱、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフと動物たち、ああ、なんとロマンチックな話だろう、本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。

3.ところが、この「クリスマス福音」はよく注意して読むと、そんな淡い甘い期待を踏みにじるような非情さがあることに気づかされます。それは、その当時の政治状況がこの出来事の上に重い暗い影を落としているということです。人の人生や運命は権力を持つ者が牛耳ってもてあそび、普通の人はそれに対して何もなしえないということです。民主主義の時代になっても権力に抑制を効かせることはなかなか難しいのに、ましては民主主義のない昔だったらなおさらです。権力の言われるままになり、もてあそばれてしまいます。そういうことを「クリスマス福音」は明らかにしているのです。

それがわかるために、ヨセフとマリアはなぜ自分たちが住むナザレの町でイエス様を出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのかを考えてみるとよいでしょう。答えはクリスマス福音書から明らかです。ローマ帝国の初代皇帝(在位紀元前27年から紀元14年)アウグストゥスが支配下にある地域の住民に、出身地で登録せよと勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはかつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘム出身なので、それでそこに旅立ったのでした。出産間近のマリアを連れて行くのはリスクを伴うものでしたが、占領国の命令には従わなければなりません。当時の地中海世界は人の移動が盛んな、今で言うグローバル世界だったので故郷を離れて仕事や生活をしていた人たちは多かったと思われます。皇帝のお触れが出たということで大勢の人たちが慌てて旅立ったことは想像に難くありません。

やっとベツレヘムに到着したマリアとヨセフでしたが、そこで彼らを待っていたのはまた不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た旅行者が大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフは宿屋の主人に必死にお願いしたことでしょう。馬小屋なら空いているよ、一応屋根があるから星の下よりはましだろ、と。生まれた赤ちゃんはすぐ布に包まれてました。飼い葉桶にそのまま寝かせると硬くて痛いから、馬の餌の干し草をクッション代わりに敷いたでしょう。以上がイエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれた真相です。

子供向けの絵本聖書を見ると、この場面の挿絵は大抵、嬉しそうにすやすや眠る赤ちゃんを幸せそうに見つめるマリアとヨセフがいて、その周りをロバや馬や牛たちが可愛らしく微笑み顔で見つめているというものです。羊飼いたちも馬小屋の近くまで来ています。東の国の博士たちももうすぐ貢物を持ってやってきます。ああ、なんとロマンチックな場面なんだろう!でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬小屋か家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、妻の実家が酪農をやっているので、よく牛舎を覗きに行きました。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用足しなどしないので、全て足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。天地創造の神のひとり子で神の栄光に包まれていた方、そして全ての人間の救い主になる方はこの地上に贈られた時、こういう不潔で不衛生きわまりない環境の中で、まさに辱められたような状態で人間としてお生まれになったのでした。

このようにイエス様の誕生の出来事は実はロマンチックなおとぎ話なんかではないのです。クリスマス福音書に書いてあることを注意して読めば、マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったことがわかります。普通の人の上に影響力を行使する者たちがいて、人々の人生や運命を牛耳ってもてあそんだことに翻弄されたことだったのです。

4.しかしながら、聖書を本当に読み込める人はこれよりももっと深く広い視点を持って読むことが出来ます。どんな視点かと言うと、普通の人の上に影響力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にそれらの者に影響力を行使する方がおられるという視点です。その上の上におられる方がその下にいる影響力の行使者の運命を牛耳っているという視点です。この究極の影響力の行使者こそ、天地創造の神、天の父なるみ神です。神は既に旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であり、処女から生まれることも全て前もって宣言していました。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、この約束を実現する条件が出そろったと見なしてひとり子を贈られたのでした。あるいはこうかもしれません。神はその当時存在していたいろんな要素を自分で組み合わせて、約束実現の条件を自分で整備したのかもしれません。いずれにしても、この世の影響力行使者たちが我こそはこの世の主人なり、お前たちの人生や運命を牛耳ってやると得意がっていた時に、実は彼らの上におられる神が彼らを目的達成の道具か小細工にしていたのです。

人間的な目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ影響力行使者に引きずり回されもてあそばれたかのように見えます。しかしながら、彼らはただ単に神の計画の中で動いていただけなのです。引きずりまわされるとか、もてあそばれるとかいうことは全然なかったのです。なぜなら、神の計画の中で動けるというのは、神の守りと導きを受ける確実な方法だからです。そういうわけで、イエス様誕生にまつわる惨めさは、実は神の目から見たら惨めでもなんでもなく、神の祝福を豊かに受けたものだったのです。そのようにして二人には究極の影響力行使者である天地創造の神がついておられ、その神に一緒に歩んでもらえる者として、彼らはこの世の影響力行使者たちの上に立つ立場にあったのです。

実は私たちもまた、マリアとヨセフと同じように、究極の影響力行使者の神がついて神に一緒に歩んでもらえる者になることが出来ます。どういうふうにして出来るかと言うと、マリアから人間としてお生まれになったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることによってです。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、彼が十字架の死を引き受けることで私たちの罪を全て神に対して償って下さったからです。それに加えて、死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を切り開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人間は神の愛する子となり神の守りと導きの中で生きることになります。究極の影響力行使者の神が共におられる者になるので、この世の影響力行使者たちの上に立つ立場になります。しかしながら、この世の影響力行使者はローマの皇帝のような目に見える具体的な行使者だけではありません。使徒パウロが教えるように、影響力行使者には目には見えない霊的なものもあります。それらは、人間が罪の償いがされない状態に留まることを望んで、人間と神との間を引き裂こうと躍起になるものです。しかし、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、彼がして下さった罪の償いを自分の内に取り込んでしまったので、見えない影響力行使者はもう何もなしえません。

そのように神の愛する子となり神が共におられる人は、目に見える影響力行使者と目に見えない行使者双方の上に立つ者となります。それなので、人間的な目では惨めな状態にあっても、心が騒いだり慌てふためくことはありません。なぜならそのような者の目は遮られないので、この世の影響力行使者の上に本物の影響力行使者をいつも見ることができます。この世の影響力行使者と戦争状態にあっても、究極の影響力行使者とは永遠の平和があります。それでキリスト信仰者の心は人間の理解を超えた平安を持てるのです。世界で一番最初のクリスマスの夜に神を賛美した天使たちの言葉は信仰者にとって真理です。

「神は天上で永遠の栄光に満ちておられる。神の御心に適う人たちは地上で神と平和な関係に入れる。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

クリスマスイブ礼拝は都合によりオンライン配信しませんのでご注意ください。

スオミ教会・家庭料理クラブの報告


12月のスオミ教会・家庭料理クラブは10日に開催しました。今回はフィンランドのクリスマス料理の定番の中から「ポテト・キャセロール」Perunalaatikko と「ビーツ・サラダ」 Rosolli を選びました。あわせてデサートにクリスマス・クッキーも作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にポテト・キャセロールを作ります。今回は伝統的なポテト・キャセロールと少し違って甘味を出すためにジャガイモだけでなくサツマイモも入れました。ジャガイモとサツマイモを茹でてからハンドミキサーでマッシュします。牛乳など他の材料を混ぜて焼き方型に入れ、あまり高くない温度で焼きます。

次はビーツ・サラダの番です。茹でた野菜をサイコロ状に切って種類ごとにお皿にきれいに並べます。参加者が大勢いたおかけで色とりどりの華やかなサラダがすぐに出来上がりました。サラダの酸っぱさを和らげるクリームも作ります。生クリームをホイップしてスパイスとビーツの汁を少し加えるとピンクの可愛らしいクリームの出来上がりです。

最後はクリスマス・クッキー「ピパルカック」を焼きます。生地を伸ばして花や星やハートなどいろんな形の型どりをして沢山のクッキー生地を鉄板に並べます。鉄板をオーブンに入れると教会中クリスマスの香りで一杯になりました。

参加者の皆さんにとってフィンランドのクリスマス料理を作るのは初めてだったので、試食が楽しみでした。出来上がったポテト・キャセロールとビーツ・サラダをそれぞれのお皿に盛りつけて、さあ、頂きます!ポテト・キャセロールが入った型はあっという間に空っぽになりました。クリスマス料理やクッキーをゆっくり味わいながら、モニターを通してフィンランドのクリスマスの歌を聴きました。終わりにフィンランドのクリスマス料理やクリスマスの過ごし方、そして聖書に出てくるクリスマスのお話も皆で一緒に聞きました。

今回の料理クラブも無事に楽しく終えることができ、天の神さまに感謝です。

料理クラブは年明けの1月はお休みになります。次回は2月第2の土曜日に予定しています。日にちが近づきましたら教会のホームページの案内をご覧ください。何を作るか、ぜひお楽しみに!

それでは皆さま、天の父なる神さまが豊かに祝福されるクリスマスをお迎え下さい!

料理クラブのお話2022年

今日皆さんと一緒に作ったポテト・キャセロール「Perunalaatikko」とビーツ・サラダ「Rosolli」は昔からあるクリスマス料理です。オーブン焼きの温かいキャセロールの種類は多くて、ジャガイモの他にニンジンやルタバガと呼ばれるスウェーデン・カブのキャセロールも作られます。一番人気のあるのはポテト・キャセロールですが、作り方が少し難しいので、自分で作らないで店で買う家庭が多いです。今日は簡単な作り方で作りました。甘味を出すためにサツマイモとシロップを入れましたが、伝統的な作り方はジャガイモだけから甘味を引き出します。ジャガイモだけでどうやって甘くなるのでしょうか?それは、茹でたジャガイモをマッシュしてその中に小麦粉を少し混ぜて、大体50℃位の温度に3時間から5時間くらい置いておくと、ジャガイモのでんぷんが分解されるので甘味が出るのです。そのマッシュポテトをあまり高くない温度で焼きします。これが伝統的なポテト・キャセロールの作り方です。

ビーツ・サラダは伝統的なクリスマスサラダの一つです。サラダの名前「Rosolli」はロシア語から来たものです。このサラダはクリスマスの時だけでなく、一年のお祝いの食卓にもよく出されます。このサラダにはいろいろな野菜が入っているので、私の母は秋の収穫が終わってからよく作りました。

フィンランド人はクリスマス料理の伝統をとても大事にして、母親が作ったクリスマス料理が子供に受け継がれて、どの家庭でも昔お母さんが作ったものと同じ種類の料理を作ります。料理の味と香りを通しても、それぞれの家庭のクリスマスの雰囲気が作られると言ってもよいです。

クリスマスの時に毎年同じ料理を作ったり、同じ過ごし方でクリスマスをお祝いすることで、フィンランド人は安心感を得ていると言えます。クリスマスが近づくと、たいていの子どもたちは「今年も豚肉のオーブン焼きやポテト・キャセロールを作るの?」と親に聞きます。作りますよ、と答えると、子どもはホッとした顔をします。これで今年も同じ雰囲気のクリスマスになると感じて安心するのです。しかし、今の世界の動きはこの2、3年の間にとても大きく変わってしまって、前は当たり前だったことが今はそうではなくなってしまいました。このため、クリスマスにいつも同じ料理を作ったり同じ過ごし方でお祝いできるかどうか、来年も出来るのだろうかと多くの人々が不安を感じるようになったかもしれません。

この間フィンランドのテレビのニュースを見ていたら、今フィンランド人は誰を一番信頼しているかについての世論調査がありました。調査の結果、フィンランド人が一番信頼しているのは、国境警備隊、救急隊、救急医療センターでした。これは、今のフィンランド人が大きく変わる世界の中で安全と安心を重要なものと考えていることを表わしています。それで、安全と安心を与える機関に対する信頼が高まったのです。さて、この変化する世界で私たちは誰を信頼するでしょうか?

聖書には信頼について沢山書いてあります。今教会のカレンダーはアドベントの期間に入ったので、クリスマスの前やクリスマスの時に起きた出来事について聖書に書かれてあることを見てみたいと思います。その中で、イエス様の母親になるマリアとマリアの夫になるヨセフが天の神さまに対して持っていた信頼は私たちの心を動かします。

CC0昔ナザレという町にマリアという若い女性が住んでいました。彼女はダビデ家のヨセフと婚約していました。ある日天使のガブリエルがマリアに現れてこう言ったのです。「おめでとう、恵まれた方。神さまはあなたと共におられます。」とても驚いたマリアに対して天使は続けて言いました。「あなたは神さまから恵みを与えられました。これからあなたは神の力で身ごもって男の子を産むことになります。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者になり、いと高き神の子と呼ばれる。彼に神はダビデの王座を授ける。彼は永遠に神の民を治め、その支配は終わることがない。」天使の言葉はマリアには完全に理解できないことでしたが、それは旧約聖書の預言が関係しているとマリアにはわかりました。マリアも旧約聖書に預言された救い主はいつ来られるかと待っていたからです。マリアは神さまがメシアを送る約束を果たす日がついに来たのだと分かったのです。それで天使に次のように言ったのです。「私は主にお仕えする者です。お言葉の通りにこの身になりますように。」マリアは神さまを信頼していたので覚悟が出来ていました。しかし、婚約者のヨセフがこのことをどう思うか心配があったでしょう。

Dennis Jarvis from Halifax, Canada, CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, via Wikimedia Commonsマリアの妊娠に気づいたヨセフは結婚をやめることを考えました。しかし、ヨセフには天使は夢の中に現れて次のように言ったのです。「マリアのお腹の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は将来、人間を罪から救い出す。だからマリアと別れてはならない。結婚しなさい。」ヨセフも旧約聖書に預言されていた救い主を待ち望んでいました。それで、その時がついに来たのだ、それは自分とマリアを通して本当のことになるのだとわかりました。ヨセフはマリアを妻として迎えることにしました。

マリアとヨセフの将来の見通しは最初に考えていたことと大きく変わってしまいました。この先何が起こるのか予想がつかず、二人とも不安を感じたかもしれません。それでは、なぜ二人は神さまが与える課題を受けいれたのでしょうか?それは、神さまが本当に信頼して大丈夫なお方であることを旧約聖書から学んでいただからです。神さまが救い主を送って下さるという約束を必ず守ると信じていたからでした。

旧約聖書の詩篇62篇9節には次のように書いてあります。「力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し御前に心を注ぎ出せ。神は私たちの避けどころ」。このみ言葉は私たちにも向けられています。今世界が大きく変わっていてどこに向かっているか誰もわからない時でも、私たちは神さまが示される道を進んで行くことができます。その道はいつも平らではなく坂道もあれば曲がり道もあります。しかし、神さまのみ言葉が生きる土台にあれば、神さまは信頼して大丈夫な方と分かり、神さまが示される道を歩むことが出来ます。たとえクリスマスの過ごし方が前と違うものになっても、イエス様が私たちの救いのためにこの世にお生まれになったというクリスマスの本当の意味は変わりません。変化が激しい世の中で、変わらない神さまの愛とみ言葉は本当に信頼できるものです。クリスマスの本当の喜びは、本当に信頼できる方を持つことがで見いだすことが出来るのです。

 

2022年12月18日(日)待降節第4主日 主日礼拝

田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マタイ1章18〜25節

「神はご自分の民を罪から救うために」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、はじめに

 アドベントの第4週を迎えました。この主の日の朝、主イエス様が私たちに与えてくださっているみ言葉は、使徒であるマタイを通して「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」とはじめているように、主イエス・キリストご自身の誕生についての証しです。ルカの福音書が、母マリヤに起こった出来事を証言しているのに並行して、マタイは、父方ヨセフに起こった出来事を証言しています。いずれの箇所も、このイエス様の誕生が、人の思いや知恵によるものでなければ、人の計画や努力によるものでもなく、どこまでもそれは、神が遥か昔から約束された人類の救いの約束を、まさしくその通りに、神が、人のために、恵みとして実現してくださったのだという素晴らしいメッセージが、今日、私たちに伝えられています。

2、神の計画:罪人を用いて

A, 罪人マリヤを通して

 今日の箇所は「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と始まり、その後、ヨセフが婚約者マリヤが結婚前に妊娠したことを知り、マリヤを密かに去らせようとしたところに、天の使いが夢で現れ「その子は聖霊によるものである」と告げられていきます。その通り、イエス様は聖霊によって世に来られる真の神様であることがルカ、そしてマタイ、双方からもはっきりとわかるのですが、それは聖霊によって「一人の罪人」であるマリヤに妊って、人間の肉体を持った赤子として生まれるという方法を神様は取られました。そのように救い主イエス様は、私たちの神であり、真に神である方ですが、神の姿で、あるいは、目に見えない聖霊の幽霊のような姿であるとか、あるいは、人間が思い浮かべるような神の力に溢れたような姿、形で来たのではないということです。一人の罪人の胎に宿り、もちろん聖書にある通り、罪はない方ですが(ヘブル4章15節)、私たちと同じ弱さを持った人間の肉体をとり、赤ちゃんでお生まれになられたのです。これは人の思いや理性では信じられない思い付かない計り知れないことですが、聖書は私たちにはっきりとその事実を指し示しているのです。

B, 約束の系図

 ですからマタイは、この福音書を、1章1節から「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と言う言葉で始めていないでしょう。人間の側から見て導入として入りやすい書き方をすれば、1章1節を「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」という書き始めた方がわかりやすかったかもしれません。しかし主はマタイを通じて、その言葉では始めないでしょう。むしろ今日の箇所の直前を見ていただくとわかるように、人間の側から見れば、単調で何の意味があるのかと思うかもしれない系図から主は語り出しているのです。そのことは何を伝えていますか?そう、まさしくそれは、イエス様、真の神であるお方が、人の家系の流れにおいて、つまり、人の間に生まれるのだという証です。ある人は言うかもしれません。これはヨセフの家系ではないか。イエスはマリヤに聖霊で宿ったとあるのだから、ヨセフの血筋ではないではないかと。しかし、イエス様はきちんとルカを通じて、マリヤの系譜も記してくれています。ルカの3章23節〜38節で、ぜひ確認していただきたいのですが、そのルカ3章23節に、ヨセフはエリの子と書かれています。マタイを見てわかる通り、ヨセフの父はヤコブという人物です。ではエリとは誰かというと、これはマリヤの父です。ですから義理の息子という意味でエリの子です。そのマリヤの父エリから遡って系図が書かれていて、しかも、ルカの場合は、最初の人アダムにまで遡って書かれているのです。ヨハネは福音書で証ししているでしょう。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネ1章14節

 イエス・キリストの誕生。イエス・キリストは天地万物の創造者である真の神です。しかし同時に、その真の神である方が、罪深い人間の体を通して、肉体をとり、人となり、人と人との間に宿られた、来られた、お生まれになられたのです。これは実に不思議です。人の思いでは計り知れない、理解できない。信じられないことです。しかし神はこの聖書を通し、マタイ、ルカ、ヨハネを用いて、これが救い主イエス様の誕生なのだと、まず私たちにはっきりと伝えているのです。

C, それは罪人の系図でもある

 さらにこの系図を見れば、実に、大いなる不思議と恵みがあります。その系図は、「神の系図」ではありません。「聖人の系図」でもありません。そう、それはまさしく「罪人の系図」であるということがわかるでしょう。確かに偉大な信仰者とも呼ばれるアブラハムやダビデの名前があり、マリヤもヨセフもアブラハム、ダビデの家系であることはわかります。しかし、旧約聖書は、ダビデが巨人ゴリアテを倒した武勇伝やいかにも敬虔な綺麗事だけを記録しているのではなく、ダビデが一度ならず何度も罪を犯したことも正直に記録しています。マタイの記した系図を見ると、1章6節「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。つまりまさしく、読む人であれば誰でもわかる、あのダビデの罪と悔い改めの出来事さえも隠さず記しています。アブラハムも100%完全で、罪も穢れもない、信仰も完璧な人間としては決して描かれていません。何度も弱さに葛藤し、失敗し、それでも彼が信仰の父であるのは、彼が完全であったからではなく、神の約束とわざが完全であり、神がその約束のゆえに、アブラハムを絶えず教え、戒め、日々悔い改めに導きながらの、信仰に歩んだ生涯であったからではありませんか。その孫のヤコブしかりです。それだけではない、この系図にあるダビデの子孫のソロモンに始まる王達の歴史を見るなら、まさに罪人の歴史であり系図ではありませんか。神はその罪人の系図を知らなかったのでしょうか?そうではありません。わかっていてあえてその系図を私たちに示しています。聖書が「人の間に」と言われるとき、それは、「神の間」でもない。「神のような完全な人々の間でも、聖人君子の間」でもない、「罪人の間」にこそイエス様は宿られる。お生まれになるのです。そして、その罪人を用いて救い主の誕生という素晴らしことをなされるということを私たちに示しておられるのです。Luthran Study Bibleのこの聖書箇所の奨励がとても感謝なので紹介します。

「イエス・キリストの系図で、マタイは、罪人や恥ずべきことを隠そうとしていません。実際にマタイはそれらを目立たせています。イエスが生まれる家計には、売春婦、姦淫の罪を犯すもの、暴力的な人、そしてその他、説明できる他の罪を犯した人々をも含んでいます。このことは私たちを驚かせるかもしれませんが、事実は、キリストの系図を構成しているのは、罪人に他ならなかったということです。イエスの先祖は、私たちが救い主を必要とするのと同じくらい、救い主を必要としていたのです。もし神が、主の恵みにおいて、そのような欠点のある罪深い人々を用いることができるなら、今、救い主の罪のない生贄を証し、その主を信じている罪人を、主はどれだけ沢山、用いることができるでしょうか!主イエス・キリストよ、あなたが救うためにこられた人の間に、一人の罪人である私を加えてくださったことを感謝します。」(p1578、 Lutheran Study Bible(ESV), Concordia Publishing House, 2009)

 イエス・キリストの誕生。それは、救い主は、止むを得ずにではない、知らなかったからでもない、あるいは、人間の側の計画や思いでもない。まさにその罪人の間、罪人を用いて、その罪人のために、つまり私たちのために、救いと罪の赦しを実現することこそを神の意図、ご計画とされた、その通りに神が100%なさった、その成就なのです。

3、神がなさった約束の成就

A, 人の側には恐れと戸惑い

 事実、この後、そのことこそ現れています。まず、罪人である人間の側には何があるでしょうか?何かそんな素晴らしいことをなせるものがあるでしょうか?いや、そこには、戸惑いと恐れしかありません。

「18:イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していおたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

 「母マリヤとヨセフは婚約していたが」とあります。ユダヤ教の習慣では、婚約というのは、すでに法的に結び付けられている関係で、結婚の第一の段階でした。しかしそこには「二人が一緒になる前に」とあります。それは、マリヤは一緒に住んではおらず、性的な関係も持っていなかったことを証言しています。しかし、その状況で、妊娠しました。もちろんそれは書かれている通り聖霊によるものでした。しかしルカの1章には、マリヤに起こった出来事についても書かれていますが、マリヤはみつかいの「聖霊によって男の子を産む」という知らせを受けた時に、即座に信じて、もう驚き踊って感謝して、という状況ではありませんでした。その知らせに、恐れ、戸惑ったことが書かれています。そう、この出来事は人間の側、ヨセフにとってもマリヤにとっても、恐れであり戸惑いでした。ヨセフもこの知らせに戸惑っています。19節

「19:夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

 ヨセフは神の律法に従って生きることを望んでいた人でした。ですから、まだ夫婦としての関係を持っていない状況で、マリヤが子を宿したと聞いて、ヨセフはマリヤがヨセフに不誠実を犯したのだと始めは思ったのでした。そこで、彼は彼女との婚約関係を解消しようとするのです。しかしそこに「ひそかに」とあるでしょう。英語の聖書(ESV)ですと”quietly”ともあり、黙って、そっと、静かに去らせようともわかります。なぜなら、律法(申命記22章23−24節)は、婚約した女性が、姦淫の罪を犯したなら、石打ちにされなければならないも教えていたからであり、それほどまでに社会においては恥ずべき重大なことであったからでした。ヨセフはマリヤのためにも、静かに人知れず、婚約を解消し、マリヤを静かにさらせることで解決しようとしたのでした。

B, 人の決心がなるのではない、神の約束を神がなさる

 しかし、人間の心配や恐れと人間のそのような知恵を絞った解決が、神の計画を覆したり、邪魔したり、ならないようにしたりすることは決してできないのです。まさに19節では「決心した」ともある固い決意にあるヨセフ、そのままでは、ヨセフとマリヤは夫婦にならず、イエスはナザレの大工の家の子としても育たなかったかもしれない、そんなヨセフの決心に、主は介入されます。

「 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 御使いがヨセフの夢の中で現れて言います。「夢」とありますが、旧約聖書では、一般的な啓示の方法であり、有名なのは、創世記のヤコブ(イスラエル)の子ヨセフの夢を通じての啓示があるでしょう。ここで神は御使いを通してヨセフに語りかけます。「恐れず」つまり「恐れてはいけない」と。ルカの福音書でも、御使いは、マリヤに「恐れなくても良い」と語りかけています。御使いというのは、神ではありませんが、神のメッセンジャーであり、神の言葉を伝える、被造物です。もちろん、旧約聖書を見ると、御使いが裁きのために遣わされる場面はありますが、神が御使いを通して私たちに働く基本的な様がここにはあります。それは、メッセンジャーは、みことばを携え、恐れを取り除くというその役割です。世の中は罪の世ですから、人には恐れや不安が満ちています。しかし、神と神の言葉、何よりそのイエス・キリストの約束は、その罪の世に不安と恐れで生き、罪に刺し通され悔いる私たちに、さらに重荷を負わせ恐れさせ心配させるのではなく、「恐れなくて良い」とどこまでも平安を与えてくださるお方であり、その言葉であることが、ここにも教えられます。

C, 御使いは律法で導かない

 そんな恐れるヨセフ、密かに婚約を解消しようとするするヨセフに、神は御使いを通して告げます。「その子は聖霊によるのだ」と。さらには具体的なことも約束しています。それは男の子だと。名前はイエスとつけなさい。皆さん、この箇所も物凄く幸いな事実を教えられます。この「恐れず」という言葉。あるいは「恐れるな」と言う言葉。聖書には多いですが、それは「命令」のようですから一歩間違うと律法になります。つまり私たちが自分の力で頑張って、恐れないようにしなければいけない。頑張って恐れないようにしようとか、人間の意志の力でその神に応えなければいけないかのように、人は考えやすいです。それは例えば「いつも喜んでいなさい」(第一テサロニケ5章16節)とかも命令だからと、律法と理解する人がいます。自分の力や意志の力で神のために、いつでも喜んでいなければいけないのだと。つまり律法なんだと。それは救いや信仰は、神の恵みだけでなく、数パーセントの人間の意志の力の協力が必要なんだと教えるような教会の人々はそう考えたり教えたりします。しかしそうではありません。なぜ恐れるな、または、恐れなくて良いと神様は私たちに言われるのでしょうか?それは、神様の、神様がこれから実現するという計画と約束がそこにあるがゆえでしょう。ここでもそのことがわかります。恐れなくていいのは、それが人ではなく聖霊によるものであり、人ではなく「神が」聖霊によって、男の子をマリヤに産ませるのであり、名前も人が決めるのではなく、「神が」イエスと決めているからであり、そして何と幸いではありませんか。その子がなす救いの計画がはっきりと告げられています。「この子は自分の民を罪から救うからである。」と。そう「恐るな」、あるいは、「恐れなくていい」のは、神が確かにその通りに実現する神ご自身の約束があるからこそ「恐れなくていい」なのです。恐れからの解放、平安、喜び、何であっても、神がそのように励ますのは、人間の側が自分の力や意志の力でそうしなければいけないという律法ではなく、イエス様の約束が100%真実であり、その通りに実現するから、心配しなくていい。恐れなくていい。喜んでいなさい。なのであり、平安はそのようにしてイエス様が、その約束によってもたらす平安だということなのです。ですから恐れるなも、喜んでいなさいも、そして信じるという信仰も、決して「人がなさなければならない」「律法」ではない。紛れもなくそれは「神がなす」「福音」だということなのです。

D, 御使いは確信を得させるためにどうするか?

 そしてこのところ、マタイは、まさしくイエス様に用いられている誠実な真の宣教師です。ここで、この福音書を読む人達に確信を得させるために、彼は、現代間違って流行りがちな、自分の理性や知識や人間の巧みな説得力で確信させるとか、文化的な手段や適用とか魅力的なアトラクションとか例話など、そんなものは用いいません。マタイははっきりと私たちに証しします。

「22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 と。まさしく今日の第一の聖書朗読の箇所、イザヤ書10章14節の預言です。マタイは、その聖書を引用して、その主が預言者を通して言われたことが実現するためであったと、聖書がこう言っている。聖書がこう約束してきた。指し示してきた。そのことが実現するのだと主の約束は真実であるということこそを指し示し、マタイはイエスの復活の後にもちろんこの福音書を書いていますから、それは、その約束の通りに実現したのだというメッセージも同時にあると言えるでしょう。マタイははっきりとしています。系図もそうですが、それは神が約束した通り、聖書の通り、みことばの通りにその通りになったのだ。聖書がそう言っているからその通りそれは事実、真実なのだ、というメッセージなのです。

 残念なことに、聖書をそのまま信じることは理性に照らせば馬鹿馬鹿しいことであるという教えが流行って、イエス様の処女懐胎などを神話と言ったり、色々、人間的な理屈で説明をつけて、聖霊によって身籠るなどないんだ、処女が聖霊によって妊娠するなんてないんだ、それは、弟子達の作り話なんだという教えや説教があるかもしれません。しかしそのような教えは、神もなければ、神の言葉の力や真実さもありません。信仰もありません。信仰があったとしても、それは人間の理性や知識を根拠とした、神の前ではなんの力のないものであり、その辺の新興宗教となんら変わりありません。それは、福音と恵みに生かされる真の平安の信仰ではなく、キリストは結局は優れた模範者や偉人で、それにならって生きていくのが福音なんだという、結局、律法による信仰、道徳しか教えられず、それは何より平安はないのです。

4 結び:神はご自分の民、私たちを罪から救うために

 イエス様がマタイを通して私たちに語りかけるメッセージは、真実な福音がその通りあなた方一人一人のために実現したのだ、そして今日も約束は実現する、だから安心して行きなさいと遣わすメッセージです。私たちは、どこまでも罪人です。生まれながらに神を信じない神に背を向けて生まれ、育ち、大人になるだけではない、自らでも聖書の言葉もイエス・キリストも見出すことも、信じることもできない。そして、神の創造の時の御心を一つも行えず、自らでは、神の戒めの第一の戒め、心をつくし、思いを尽くし、精神を尽くして神を愛することができない、そればかりではなく、隣人さえを愛することできない存在です。隣人を愛していると思っているようで実は、自分自身しか愛することができないことに気付かされる存在。それは私自身が、聖書の律法に照らされるときに、刺し通される自分自身の惨めな姿であり、救いようない罪人は私自身です。

 しかし、皆さん。神の計画は、そんな罪人を滅ぼすことでも見捨てることでもありませんでした。事実、創世記3章、イエス様は、すでにアダムの堕落の時から女の子孫が悪魔を滅ぼすとも約束しておられましたが、その約束の通り、堕落した罪深い女の子孫の罪人の系図の先に、ヨセフとマリヤがいます。その二人の罪人の間に、約束の通りに、女の子孫を、神は与えてくださいました。預言者の約束の通り以上に、その神の最初の約束の通りに、その神の言葉は、実現しました。その通りに、罪人の間に生まれ、その救い主は、罪人の間に育ち、罪はありませんでしたが、罪人と一緒に食事を、友となり、そして、その罪とその結果である、苦しみ、悲しみ、絶望、そして何より死を背負って、つまり、それは私たちが負わなければならない全てのものをその身に負って、私たちのために十字架にかけられ死なれるでしょう。その十字架のために、つまり私たち一人一人のためにこの御子は生まれるのです。「この子は自分の民を罪から救うからである。」とある通りに。その身代わりの十字架のゆえに、私たちの罪が赦されるため、そして罪赦され、義と認められ、私たちの義ではなくイエス様の義を受けて、そして、復活の新しいいのちによって、今日も私たちが新しくされ平安のうちにここから出ていくことができるためです。

 私はクリスチャンホームで生まれ育ちましたが、先日、年老いたクリスチャンの母から電話があり、母は色々な不安や恐れに生きる中で、それは人間ですから当然あるのですが、あるクリスチャンから、「信仰者なんだから、もっと一生懸命、心配しないで、熱心に信じないと天国に行けないよ」と言われので、自分は天国に行けないのかと不安になっていると話してくれました。私はそれを聞いて切なくなりました。皆さん。そういう考えや励ましは間違いであり福音を律法に混同し歪めています。皆さんは心配しないでください。皆さんは確実に天国に行けます。なぜなら、私たちの何かではなく、神の約束、神のみ言葉によって信仰が与えられ、人の名前ではなくキリストの名で洗礼を授けられ、その私らちを新しく生まれさせたイエス・キリストの福音によって、今日も明日もいつまでも、日々悔い改める私たちに、イエス様が、その十字架と復活のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるからです。救いの確信は、私たちが律法を一所懸命、自分の力や理性で実現するから確信があるのではありませんし、それでは一生確信はありません。救いの確信は、イエス様の揺るぎない、朽ちることのない、真実のみことば、約束、福音のゆえです。今日もイエス様は悔い改めを持って主の前にいる一人一人に、この十字架のゆえに言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ救いの確信を持って、安心して、今日もここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

クリスマスのご案内


チラシを見る(pdfファイル)

12月24日 (土) クリスマス・イブ

16時から 北欧のクリスマスのホットドリンクglögi とクリスマスクッキー
piparkakkuを提供します。フィンランドの⺠族楽器カンテレの演奏などを
聞きながら味わいましょう。

17時から クリスマス・イブ礼拝

司式説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
聖書箇所 ルカ2章1〜20節
讃美歌を歌いながら歴史最初のクリスマスの出来ことに至る歴史と、
救い主イエスさまの誕生を覚えるメッセージに耳を傾けましょう。

礼拝のなかでカンテレやバイオリンの演奏もあります。

 

12月25日 (日) クリスマス

10時30分から 主の誕生礼拝 / クリスマス礼拝

司式・説教 吉村博明 SLEY宣教師
聖書箇所 ヨハネ1章1〜14節

礼拝後 コーヒーとお菓子でささやかにクリスマスをお祝いします。

 

コロナウイルス感染対策上のお願い

既にまん延防止措置は解除され、今ではマスク着用の緩和が言われるようになりましたが、感染はまだ続いています。多くの公共施設やイベントでは消毒や体温測定を続けています。そのためスオミ教会も、まだ以下の感染対策を継続しますので、ご理解とご協力をお願い申し上げます。
– 発熱その他症状のある方の出席はご遠慮下さい。受付にて体温測定します。37°C以上ある方のご参加はお断りしますので、お家を出る前に体温確認されるようお願い申し上げます。

 

 

歳時記

丹沢

冬晴れの日に桜美林教会前の展望台から丹沢が良く見えていました。主峰「蛭ヶ岳」の右側に富士山も見えていました。標高1673mの蛭ヶ岳は山梨や長野の山々に比べればまったく地味な山ですが、丹沢好きの者にとっては憧憬の山です。東西南北どちらからも登れますが奥まったところにありますので日帰り登山では少々きついかもしれません。南側から登って北側に下山するのが最終バスに間に合うのでよく利用していました。今頃の時期は日没との競争で慣れた道を駆け下りて行きました。この山を見る度に当時の事を思いだしています。