ニュースブログ

手芸クラブの報告

shugeikurabu

shugeikurabu5月の手芸クラブは28日に開催しました。週の初めは曇りの日が多かったでしたが、この日は太陽が輝いて爽やかな一日でした。

今回の作品はかぎ針編みのスマホケースですが、前回のバンド織りのキーホルダーを続けたい方はそちらも出来ることにしました。

スマホケースの方は、初めにモデルを見て自分の作りたい編み型を選びます。それから綿の糸にかぎ針棒を合わせて編み始めます。まず自分のスマホの幅に合わせて鎖編みをします。その後はモデルに従って細編みで円を描くように編みます。そして、いよいよ楽しい模様編みの番です。

長綱でモデルに従って模様を編んでいくと、「可愛い!模様ができてくる!」との声が聞こえてきました。スマホケースはおしゃべりをしながら楽しく編み続けていくうちにどんどん出来てきます。

前回バンド織が途中までだった方たちは続きを一生懸命織りました。可愛いピンク色のキーホールダーや春っぽいの織物のNauhaが出来上がりました。

nauha

今回のスマホケースは途中まで編んだので次回はその続きをします。出来上がりはどんなものになるでしょうか?楽しみです!

今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。ルバーブケーキを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、かぎ針編みのことや詩篇の「主はあなたの守り手」のお話がありました。

次回の手芸クラブは6月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブ5月28日お話

フィンランドでは、かぎ針編みは人気がある手芸のテクニックの一つです。かぎ針で作られる作品は幅広くてインテリア用のカーぺットから細密なオーナメントまで様々です。他に必要な道具もなくかぎ針と毛糸があれば編むことが出来ます。

かぎ針編みは古くからある手芸のテクニックですが、いつ頃始まったかははっきり分かりません。1500年頃には修道院で修道女たちが編んでいたと言われています。1800年代後半、かぎ針編みはフィンランドに拡がって女性たちはシーツやタオルなどの端のレースの部分を編むようになりました。綿で編まれたレースは細かくてとても美しいものでした。当時編み方を紹介する雑誌などなかったので、女性たちは互いに編み方を教え合い新しい模様やテクニックが出来るようになりました。shugeikurabuかぎ針編みの基本が出来るようになってベッドのカバー、テーブルクロス、服など多様なものが編まれるようになりました。糸の太さを変えることで、細かく複雑なレースや厚みがあるカーぺットも編むことが出来ます。

今日は皆さんと一緒にスマホケースをかぎ針編みで作り始めました。皆さんが編まれたものは編み方や糸の太さによって仕上がりが異なるので、それぞれが素敵な作品です。かぎ針編みのスマホケースは携帯電話の出し入れがやさしく、衝撃からも守ってくれます。

ところで、日本の電車には「携帯電話はお守り」という広告をよく見かけます。携帯電話は非常に便利でどこにいても人と連絡を取れたり、さまざまな情報を調べたりできるので、今では私たちにとって「お守り」のようなものになっているかもしれません。携帯電話を持っていることで安心感が得られるからです。しかしどうでしょう、携帯電話は本当に私たちを守ってくれるでしょうか?何が私たちを本当に守ってくれるのでしょうか?

聖書はこのことについてはっきり教えています。旧約聖書の詩編には「主はあなたの守り手」という箇所があります。

「どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守りあなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」
詩篇121篇3~8節

私たち人間にとって命を守ることは何よりも大事なことです。怪我などがしないように自分自身を守るのは当たり前のことです。親は子どもを守ります。しかし、私たち人間にの知恵と力には限りがあります。私たちは全てのことを自分の力で行うことが出来ません。聖書は私たちを守ってくださる、私たちよりもっと力や知恵がある方について教えています。その方は私たちの全てを知っておられ、出発の時から帰る時まで私たちを守ってくださるのです。その方は天と地と人間を造られた天の神様です。先ほど読んだ詩篇には神様はどのように私たちを守って下さるかが次のように語られていました。「主があなたを助けて足がよろめかないようにしまどろむことなく見守ってくださるように。主があなたを守る方あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」詩篇121篇3,5節です。

天の神さまは私たちの前に様々な道を開いてくださいます。全てのことがうまく行くと、私たちは神様のことを簡単に忘れてしまいます。「神様なんかいなくても生活はうまく出来る」という態度にします。しかし、時には私たちが進みたくないような坂道や曲がり道も歩まなければなりません。その道は試練の道であり、そんな道は歩きたくないと思いますが、もし神さまが示した道なら進まなければなりません。

試練の時、神さまは眠っておられるのか、そばにおられないと思ってしまいます。しかし、神さまは私たちがどこを進んでいるかよくご存じです。人生の試練の時も、神様は決して私たちのそばから離れず、眠ることもなくいろいろ働いておられるのです。天の神様は一時も目を離さないで私たちを守ってくださるので、私たちはどんな道でも安心して歩み続けることが出来ます。

詩篇には「主はあなたを覆う陰」と書いてあります。私たちは神さまが共にいることを目で見たり、感じたりすることは出来ませんが、聖書に書かれてあるから、私たちは信じることが出来ます。それで神様の守りは信頼して大丈夫なのです。どんな道でも神さまはいつも私たちを守って共に歩んで下さいます。このことを心で受け入れると、神さまへの感謝の気持ちが生まれます。

 

 

歳時記

定家葛(Teika kazura)

<天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 コヘレト3:1>

過日、長池公園を散歩をしていたら道の奥の方から上品な甘い香りが漂て来ました。この香りは以前にも・・と香りのもとを探していたら定家葛の生垣に出ました。折から花は満開、香りの元も全開で素晴らしい時期に来たと喜びました。以前も書いたかも知れませんが、歌人藤原定家と恋仲とされていた式子内親王との物語を思い出しました、式子内親王の墓に絡みついていた葛を定家葛と呼ぶようになった、と謡曲「定家」に詠っています。私事ですが私は式子内親王の歌が好きです、天皇家の娘とは思えない天真爛漫な姿が歌にも現れていて、そこが好きなのかも知れません。

「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」  式子内親

2025年6月1日(日)主の昇天後の主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2025年6月1日 昇天主日

使徒言行録1章1-11節

エフェソ1章15-23節

ルカ24章44-53節

説教題 「イエス様の昇天 ― なぜこの世を生きるのかという問いに対するキリスト信仰者の答えはそこに」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

  1. はじめに

 イエス様は天地創造の神の想像を絶する力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で弟子たちの目の前で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。今日は昇天日の直近の主日で「昇天後主日」とも呼ばれます。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天のみ神のもとから送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日がそれを記念する日です。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

 イエス様の昇天は私たちの理解を超える出来事です。日本語で「天国に行った」と言うと、普通は「死んでしまった」と理解します。しかし、イエス様は生きたまま天に上げられたのです。ただし、生きたままとは言っても、死からの復活を遂げたので普通の肉体ではない復活の体をお持ちでした。復活の体を持つというのは死を踏み越える命、永遠の命を持つということです。イエス様はそのような者として天の父なるみ神のもとに上げられたのでした。

 イエス様の昇天は私たちの理解を超える出来事ですが、いろいろ考えていくと、なぜこの世を生きるのかという問いに対してキリスト信仰者はどう答えるかを明らかにしてくれます。今日はそのことを見ていきましょう。

2.昇天とはいかなる現象か?

 最初に昇天とはいかなる現象かをみてみます。以前にもお教えしえしましたが、これは極めて聖書的な現象です。大事なことなので復習しておきます。

 新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書かれています(1章9節)。これを読むと、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていくか、ドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実のものと思いません。イエス様の昇天を同じようにイメージしてしまったら、誰も真面目に受け止めないでしょう。

 そこで、ギリシャ語の原文を見てみます。雲は上空でイエス様を覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲に類する現象がイエス様を運び去ってしまったのです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけです。その中か上にいるイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みにフィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように訳しています(後注)。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが」と言いますが、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に上がった後に雲が出てきてイエス様を覆い隠してしまったという理解を与えてしまいます。

 聖書には旧約新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあります。モーセが神から掟を授かったシナイ山の雲しかり、イスラエルの民が運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様が高い山の上で姿が変わった時も雲が現れて神の声が響き渡りました。また、イエス様は裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると予告しました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言います。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨すると。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来るということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天は聖書的な出来事の一つなのです。加えて、冒頭で申し上げたように、イエス様の体は復活の体でした。復活後のイエス様は空間移動が自由にでき食事もするという天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主の神と同質な方なので天使以上の方です。体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だった、そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

3.天の御国とは?

 これで、イエス様の昇天は聖書的な出来事、現象であるとわかりました。次に、天の御国について考えてみます。天に上げられたイエス様は今、父なる神の右に座している、と毎週キリスト教会の礼拝の信仰告白の部で唱えられます。私たちもこの説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのでしょうか?

 これも毎年述べていることですが、人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数のロケットやスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても恐らく見つからないのではと思います。

 なぜかと言うと、ロケット技術とか地球や宇宙に関する知識は信仰と全く別世界のものだからです。地球も宇宙も人間の目や耳や手足を使って確認したり、長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っていることはこうした計測確認できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして、し終えることなどできるでしょうか?

 信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えたことに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、この現実の世界は森羅万象の一部分にしか過ぎないという位に広大な森羅万象を見据えるのが信仰です。天の御国もこの現実の世界を超えたものです。

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界が森羅万象の全てだと言うことも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来ただけで、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。

 ところがキリスト信仰者は、自身も含め現実の世界とそこにあるものは全てこの現実の世界の外側におられる創造主に造られたと見ます。なので、創造主と結びついていれば、命と人生はこの現実の世界の中だけにとどまらないと考えます。皆さんご存じのように聖書には終末論と新創造論があります。この現実の世界は始まりがあったように終わりもある、その時は新しい天と地に再創造される、その時に神の国が唯一の国として現れて、そこに迎え入れられると命と人生がまた続いていくと考えます。このようにキリスト信仰では、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがるという死生観になります。

 日本では普通、この世の人生が終わると、天国にしろ極楽浄土にしろ別のところに移動すると考えられます。死んですぐそこに到達すると考える人もいれば、33年くらいかかると言う人もいます。どっちにしても、あの世とこの世は同時に存在しています。なので、この世を去った人はあちら側からこちら側を見ているというイメージがもたれます。

 ところがキリスト信仰では事情が全く異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰には終末論と新創造論があります。今はこの現実の世界の外側にある神の国がその時に唯一の国として現れます。黙示録21章では「下って来る」と言われます。そのため、今の世と次に到来する世は同時並行ではありません。次の世が到来する時、今の世はなくなっているのです。それじゃ、到来する前に死んでしまったらどうなるの?と聞かれます。答えはキリスト信仰に特異な復活の信仰です。到来する前に亡くなった人たちは復活の目覚めの日まで神のみぞ知るところで静かに眠っているのです。ただ、聖書をよく見ると、復活の日を待たずして天のみ神のもとに上げられた人たちもいます。しかし、それは例外で基本は復活の日まで眠ることです。イエス様もパウロも死んだ人のことを「眠っている」と言ったのはそのためです。それなので、亡くなった方が起きていて地上の私たちを見守ってくれるというイメージは復活の信仰を持つキリスト信仰者には起きないのです。私たちを見守るのは死んだ人の霊ではなく天地創造の神です。神はかの日に眠れる者を起こして復活させて懐かしい人たちとの再会を果たして下さるのです。

4.今のこの世と次に到来する世の二つにまたがる命と人生

 このようにキリスト信仰では、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがるという死生観になります。この死生観に立つキリスト信仰者は、どうして神はひとり子を私たちに贈って下さったかが分かります。それは、私たちの命と人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。人間が今のこの世と次に到来する世にまたがる命と人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。命と人生が二つの世にまたがっているということは、本日の使徒書のエフェソ1章21節でも言われています。キリストが全ての上に立つのは「今のこの世だけでなく次に到来する世においても」と言っている通りです。

 それでは、イエス様を贈ってどうやって人間が二つの世にまたがる命と人生を持てるようになるのでしょうか?人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の命と人生は持てませんでした。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまい神との結びつきを失ってしまったからです。神の意思に反する罪は行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした罪が神と人間の間を切り裂いてしまい、人間は代々、罪を受け継いでしまったというのが聖書の立場です。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するためにひとり子を贈って彼に大仕事をさせたのです。

 イエス様は人間に宿る罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を全部受けられました。罪の償いを人間に代わって果たして下さったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。そこで人間が、ああ、イエス様は私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。その人は罪を償われたので神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ってその道を進んでいきます。この世を去る時も神との結びつきを持って去り、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世とこの次に到来する世にまたがる大きな命と人生を持てるようになったのです。

5.勧めと励まし

 このように神は私たちが大きな命と人生を持てるようにして下さいました。本日の使徒書エフェソ1章でパウロはそれが保証済みであることを述べています。最後にそのことを見ておきましょう。

 まず、神には十分な力があることが言われます。一度死んだ人間を復活させることと、その者を天のみ神の御許に引き上げることは、まずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーを要することが言われます(19~21節)。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つの異なる言葉で言い表します(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。エネルギーという言葉も2回(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)も出てきます。このようにパウロはこの想像を絶する莫大なエネルギーを何とか人間の言葉で描写しようと苦労しているのです。新共同訳は「力」という言葉を2回しか出さず、彼の苦労が見えません。とにかく死者を復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主の神はそれをお持ちであるということが言われているのです。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというのです。

 ところがもっと肝心なことが言われます。神はこれと全く同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者たちにも及ぼされると言うのです(19節)。キリスト信仰者も将来、かつてのイエス様と同じように神の莫大な力を及ぼされて復活を遂げて神の御許に上げられるというのです。これを聞いたらハレルヤ!と叫ばずにはいられなくなるのではないでしょうか?

 神が莫大な力を及ぼしてあげようと待機していることに加えて、キリスト信仰者は道の歩みにおいても間違いなく守られていることもエフェソ1章からわかります。パウロは教会のことを「キリストの体」と言います。ここで言われる「教会」とは天の御国に向かう道に置かれて、それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。それが「キリストの体」とも言われるのです。

 その体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると同じ体の部分である私たち信仰者もこの世の権力や霊的な力を足蹴にしている側にいるはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている私たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまいます。イエス様が罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまず神の意思に沿うことも力不足で及ばず、死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝っているイエス様に繋がっている信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 それは、イエス様を頭としても体の方はまだこの世の中にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世は、命と人生は全部ここで終わりだよ、二つになんかまたがっていないよ、と言って私たちの目を曇らせます。私たちが神に背を向けるように、神との結びつきを見失うようにと、そういう力が働いています。これらは既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらはイエス様が再臨される日に全て消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の莫大な力が私たち信仰者にも働き、イエス・キリストの体は全部が神の国の中に置かれることになります。

 そういうわけで、イエス様の昇天から再臨の日までの間の時代を生きるキリスト信仰者は二つの相反する現実の中で生きることになります。一方で全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられる現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ16章33節で次のように言われたのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 攻め立てられてはいるが守られている、守られてはいるが攻め立てられる、これがキリスト信仰者の現実です。しかし、守られていることの方が攻め立てられることをはるかに上回っています。なぜなら、私たちが部分として繋がっているこのキリストの体はやがて神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているからです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。

 以上から、キリスト信仰者は、なぜこの世を生きるのかと問われたら、答えは明快です。私は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれたからです、神はその旅路を守って下さるからです、これが答えです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン

(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。

 

牧師の週報コラム

ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」6月29日の日課から)

キリスト教徒はじたばたしない、往生際が良いのだ(その3)。

『私の魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。』 (詩篇1306節)

『キリスト信仰者の魂の状態はいかなるものかと問われれば、それは主を待ち望むことに尽きるということになる。それはまたキリスト信仰者の人生そのものである。この聖句でダビデが言い表しているのは、意識の全てを満たすような真剣かつ不断の待ち望みである。彼は我々に次のように教えたいのだ。「もし君が主を待ち望むことを始めたのなら、諦めてはならない。日が沈み夜が更けていこうとも、朝は再び来るのだから待ち望むことを諦めてはならない。洗礼を受けて霊的に新しくされた人は、主を待ち望むことが人生そのものになる。その人の外面的な部分に何が起ころうとも、内なる新しい人は待ち望みながらずっと続いていく。

待ち望むことができずに、神に対して助けの時と手段と数値を設定したがる人たちがいる。そういう人たちは、いかなる仕方で自分たちを助けなければならないかを神に提案するのだ。そして、その通りにならないと、彼らは絶望して道から外れ、助けを別のところに探し求める。そのような人たちは主を待ち望むことをしない。主の方こそ彼らを待ち望まなければならないと思っているのだ。主は彼らが定めたやり方ですぐ助けられなければならないという考えなのだ。

これとは逆に、主を待ち望む者は神の恵みの業を祈り求め、いつ、どのようにして、どこで、何を介して助てくれるかということを全て神の御心に自由な気持ちで委ねるのだ。彼らは神から助けが来ることを疑わない。助けに時間がかかっても、助けの形態を神に代わって決めることをせずに待ち望むのだ。これに対して、どのような仕方で助けてあげなければならないかを定める者には助けは来ない。神の御心に合致する時を待つことができないからだ。』

DSC_3767

歳時記

野の花(続) ニワゼキショウ(庭石菖)

 <人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。詩編103:15>

かねてよりこの小さな花が気になっていました、初夏になると裏の小さな原っぱに他の草花に負けじと元気よく咲き出します。名前を調べたらニワゼキショウというアヤメ科の草花で北米からの帰化植物でした。咲き始めは4~5㎝程の小さな丈ですが今頃の時期になると10㎝以上になります。また公園などの草原を良く観察していると驚くほど豊かな植生が見られます。思わず息を呑まんばかりの小さな1mm程の可愛い花をつけるキュウリグサも見付けました、残念ながら私のカメラでは写す事が出来ませんでした。

2025年5月25日(日)復活節第六主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年5月25日復活後第六主日 スオミ教会

使徒言行録16章9-15節

黙示録21章10、22節-22章5節

ヨハネ14章23-29節

説教題

イエス・キリストのシャーローム

שלומ יהושע משיח

Η ειρηνη Ιησου Χριστου

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束します。「平和」とは何か?普通は戦争がない状態と理解されます。今私たちはウクライナやガザの戦争が一日も早く終わるようにと願い毎日祈っています。ところが世界には他にも武力衝突があったりもうすぐ起きそうなところもあったりして世界から平和が失われていく状況があります。また他国の攻撃に備えるためと言って軍備の増強があちこちで進められています。そんな時世にイエス様が平和を与えると言っても空しく聞こえてしまうかもしれません。

 ここでイエス様が与えると言った「平和」について立ち止まって考えてみます。イエス様は「私の与える平和」と言い、この世が与える平和とは違うと言います。イエス様が与える平和とはどんな平和なのでしょうか?イエス様はまた、自分の平和を与える時、この世が与えるような仕方では与えないと言います。イエス様はどのような仕方で平和を与えて下さるのでしょうか?

 このことについて宗教改革のルターが上手に教えています。以前にも紹介したことですが、要点だけ復習すると、この世が与える平和とは外面的に害悪がない状態のことである、イエス様が与える平和とは外面的にはいろんな害悪、疫病とか敵、貧困とか罪や死それに悪魔といった害悪が私たちに襲い掛かって来ても失われない平和である。この平和を頂くと、心は外面的な不幸に左右されないばかりか、不幸の時の方がかえって勇気と喜びが増し加わる。まさに使徒パウロがフィリピ4章7節で言うような「人知を超えた神の平和」です。

 このようにルターは、外面的には平和がなく不幸や害悪があっても内面的にはそんなことに動じない平和があるというのです。こんなことを聞くと、「心頭滅却すれば火もまた涼し」みたいだ、キリスト教と禅仏教には共通点があるなどと言い出す人がでるかもしれません。しかし、共通点はありません。「心頭滅却」の方は苦難や苦痛に遭遇しても心を無にすれば苦しみを感じなくなるという意味ですが、キリスト信仰の方は心を無にしません。全く逆です。神から頂くものを心で受け取って受け取ってとにかく受け取って、それで心を一杯にして苦しみに埋没しなくなる、そしてしまいには苦しみを踏みつぶして前に進んでいくということです。それなので、イエス様が与える平和を理解しようとしたら、まず神から頂くものは何かがわかってそれで心を満たさないといけません。以前の説教で今日の聖句を扱った時、イエス様が与える平和とは外面的な平和が失われても揺るがない内面的な心の平安であるとお教えしました。今回も同じ内容のことをお話ししますが、少し角度を変えて見ていきます。

2.シャロームの観点

 本日のイエス様の言葉が書かれているヨハネ福音書は古代ギリシャ語で書かれています。イエス様が言われる「平和」はエイレーネ―という言葉です。ただし、イエス様が弟子たちと会話した時の言葉はアラム語という言葉でした。ギリシャ語のエイレーネ―の元にあるアラム語の言葉は間違いなくシェラームでしょう。これは言うまでもなく、ヘブライ語のシャーロームから来ています。イエス様の時代、ヘブライ語は(後に旧約聖書を構成する)神聖な書物の書き言葉で、律法学者とかファリサイ派のようなユダヤ教社会の知識人エリートが判読できる言葉でした。一般の人はアラム語を話して生活していました。アラム語は文字はヘブライ語と同じ文字を使いますが、文法は古代シリア語に近いのでヘブライ語とは異なる言語です。

 さて、ヘブライ語のシャーロームですが、「平和」の他にもいろんな意味があります。辞書(HolladyのConcise)をみれば、健全な状態、無傷な状態、欠けるものがない状態、繁栄とか成功という意味があります。平和の意味もつまるところ、国と国、人と人との関係がそういう健全な状態、無傷な状態、繁栄した状態になるということです。アラム語のシェラームは挨拶言葉としても用いられるようになります(エズラ4章17節、5章7節、ダニエル3章31節、6章26節)。ヘブライ語のシャーロームも挨拶言葉になりました。「あなたに平和がありますように」という挨拶は、「あなたが健全な状態、無傷な状態でありますように、あなたに繁栄がありますように」という意味を持ちます。ここで大事なことは、これらの望ましいシャーローム、シェラームは、みな神から与えらるということです。それで挨拶は、神があなたを顧みてこれらの善いものをお与えくださいますように、という意味になるのです。

 そこで、イエス様が与えると言った平和、シェラーム、シャーロームとはどんなものなのでしょうか?この世が与えるようには与えないのなら、どのように与えるのか?シャーロームが健全、無傷、繁栄、成功を意味し、もしそれらが揃っていれば、シャーロームがあることになります。神が顧みて下さったと思うことができます。ところが、もし、それらがなかったらどうなるでしょう?病気になったり、傷がついたり、失敗したり、没落してしまったら、シャーロームではなくなってしまう、それは神から見捨てられてしまったことを意味するのか?ここで、ルターが教えたことを思い出します。ルターは、外面的に害悪があって平和が失われた状態でも、内面的には失われない平和がある、そのような平和があれば、外面的な厳しい状態に立ち向かっていける、そういう平和をイエス様は与えると教えるのです。健全、無傷、繁栄、成功はもちろん神が与えてくれるものです。しかし、それらがなくなってしまったら、それは神から見捨てられた証拠だなどと言ってしまったら、シャーロームを神から切り離してこの世が与えるものに貶めてしまうことになるのです。イエス様は、普通に考えたら健全、無傷、繁栄、成功はないのに、実はそれらはあるというシャーロームを与えると言われるのです。それで、この世が与えるようには与えないと言われるのです。イエス様が与えるシャーロームとはどのようなものなのでしょうか?

3.神とのシャーローム

 イエス様が弟子たちにシャーロームの約束をしたのは十字架にかけられる前日、最後の晩餐の時でした。その後で十字架の出来事が起こり、その三日後に死からの復活が起こりました。イエス様が神の力によって復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間が神から罪の罰を受けないで済むように、神のひとり子が身代わりになって受けて下さったということです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになれるのは、神がイエス様の犠牲に免じて罪を赦すことにしたからです。

 このようにイエス様の十字架の死と死からの復活は、神がひとり子を用いて人間に自分との結びつきを回復させようとする、神の救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の出来事が起きて人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が入り込んで結びつきは失われてしまいました。神の神聖さとは罪を焼き尽くさずにはおかないものだからです。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神との関係が健全・無傷でなくなり、没落と失敗になってシャーロームがなくなったのです。神と人間は敵対関係に陥ったのでした。

 しかし、神はひとり子を用いて人間が失ったものを回復する道を開いたのでした。人間はこの神の救いの業がわかった時、ああ、イエス様は本当にメシア救世主だったんだ、彼が十字架にかけられたのはあの時代の人たちだけでなく後世を生きる私たちにも向けられているんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを受けられ神との結びつきを回復するのです。神との結びつきが回復すると今度は、復活した主が切り開いてくれた道、死を超える永遠の命への道に私たちは置かれてその道を歩むようになります。神との結びつきをもって永遠の命に至る道を進むというのは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと導きを与えて下さるということです。この世から去った後も、復活の日に目覚めさせてくれて永遠に神の御許に迎え入れてくれるということです。このように神との結びつきを回復した人は神との関係が無傷な状態、無欠な状態、繁栄した状態、成功した状態になるのです。神との関係がシャーロームになるのです。まさに使徒パウロがローマ5章1節で「主イエス・キリストによって神との間に平和シャーロームを得ている」と言っている通りです。そのシャーロームはイエス様が成し遂げた十字架と復活の業を心で受け取ることで得られました。だから、イエス様が与えるシャロームなのです。この世が与えることができないシャーロームなのです。

4.失われないシャローム

 しかしながら、私たちが生きているこの世というところは、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力が沢山働いています。例えば、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者と言えども、内側には神の意思に反する罪が残っています。さすがにそれを行為に出して犯すことはしなくても、言葉に出してしまったり、心の中で思い描いたりしてしまいます。まさにその時、お前は神の前では失格者だ、赦されたなんていい気でいるのもそれまでだ、などと糾弾する者がいます。言うまでもなく悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて自覚を失意と絶望に増幅させます。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。ヘブライ語の言葉サタンには非難する者、告発する者という意味があります。文字通り、悪魔は私たちを神の前で告発するのです。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われました(14章26節)。

 私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて私たちを責めるようになっても、聖霊は神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエスの十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエスを救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです。」すかさず今度は私たちに向かって言われます。「心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているんですよ!」洗礼を通して聖霊を受けた私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた父なるみ神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい。

その時、私たちは安堵と感謝に満たされて、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正すでしょう。本日の福音書でイエス様が言われるように、彼を愛する者は彼の言われたことを守ることが本当のことになる瞬間です。キリスト信仰者は罪の自覚と告白と赦しを受けることを繰り返すことで、神との関係がシャーロームであることがますます真理になっていくのです。

 内に残る罪の他に、もう一つキリスト信仰者から神との結びつきを失わせようとするものがあります。私たちに何か神の意思に反することがあったわけではないのに苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか?神は自分を見捨てたのではないか?私のことを助けたいと思ってはいないのではないか?という疑いが生じてきます。一体自分に何の落ち度があったのかと神に対して非難がましくなります。

 このようなことはヨブ記の主人公ヨブにもみられました。神の御心に適う正しく良い人間でいたのにありとあらゆる不幸が襲い掛かってきたら、正しく良い人間でいることに何の意味があるというのか?そういう疑問を持ったヨブに対して神は最後のところでたたみかけるように問いかけます。お前は天地創造の時にどこにいたのか?(38章)一見、何の関係があるのかと言い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のことでした。私は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは私が造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、お前たち人間の知恵ではとても把握しきれない仕方で私の意思が働いている。なので、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味ということにはならない。人間の知恵では把握できない深いことがある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。

 神の目がしっかり注がれていることを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて眠れる者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなことが出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はもうだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかかり、復活されれたではありませんか!イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪を忘れてやる、過去のことは不問にする、新しく生きなさい、と言って下さるのです。

4.勧めと励まし

 神は全ての人間に目を注いでその境遇をわかってはいるがそれで満足というような薄情な傍観者ではありません。神は、人間が自分との結びつきを回復して復活の日に無事に送り届けようと、それでひとり子をこの世に贈って犠牲に供することをされたのです。なので、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がどんな境遇に置かれてもその道をしっかり歩めるように支援する責任があるのです。神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえない以上はそうなのです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのは、神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も祈りも全部、私たちを力づけてくれる神の立派な支援の形です。

 このようにイエス様を救い主と信じる信仰に留まり、罪の赦しのお恵みに留まって進んで行けば、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく見捨てられたなどということはありません。境遇を神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度に考えたら、シャーロームはこの世が与えるものになってしまいます。そうではありません。イエス様の成し遂げて下さった業のおかげと、それを心で受け取る信仰のおかげの二つのおかげで、私たちには神とシャーロームの関係があるのです。私たちの周りでこの世が与えるシャーロームが崩れ落ちても、イエス様が与えるシャーロームは最後まで残るのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

牧師の週報コラム 

ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」5月5日の日課から)

キリスト信仰者はじたばたしない、往生際が良いのだ(その2)。

『イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。』 (ルカ1714節)

『彼らがキリストを信じ始め彼から善いものを受けられるようになるや否や、キリストは彼らの信仰を鍛え試すことにした。主が目に見える仕方で彼らを癒すことをしないで、ただ単に祭司たちのところに行きなさいと言葉を発して命じたことが、その鍛え試しである。

主は私たちの信仰を鍛え試す時にも同じ方法を取られる。一体、主は私たちをどうされたいのだろうかと、私たちが理解に苦しむような仕方で私たちを試されるのだ。そのようになさるのは、私たちが彼の透徹した善性に身と心を投じるためであり、また、私たちが願い求めるものを主は与えて下さると信じて疑わないためである。場合によっては、願い求めたものよりももっと良いものを与えて下さるのだと。主の言葉を聞いた男たちは次のように考えたに違いない。「わかった、それなら私たちは主が行けと命じたところに行くことにしよう。たとえ主は、清めてあげるかあげないか、はっきり言ってくれなくても、彼のことを頼りにならない者だなどと考えたりはすまい。主はこれまでと何ら変わりのない救い主なのだ。だから私たちは、主の守りと導きに対してこれまで以上に密接に自分自身を結びつけよう。たとえ我々を清めて下さらなくても、代わりにもっと良いものを与えて下さるはずだ。それなので喜びながら主がどんな解決を与えて下さるかを待つことにしよう。」

よく見なさい、まさにこれこそが信仰にあって成長するということだ!このような試練は私たちキリスト信仰者の一生を通して絶えず繰り返される。主は、あることをもって私たちを試された後で、いつもすかさず全く別のことを始めておられる。そうするのは私たちの信仰と主に対する信頼を一層強めるためなのだが、それはあくまで私たちが最後まで信仰に立つ限りにおいてである。』

 

DSC_3767

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

doonatsu

5月の料理クラブは10日に開催しました。午前中は梅雨を思わせる雨模様でしたが、午後から晴れてきて春の天候に戻りました。今回はフィンランド的なドーナツ「ムンキ」を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、ムンキの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加えます。生地をよく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを加えて、またよく捏ねて生地を仕上げます。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。その時一休みします。参加者の皆さんが楽しそうに会話しているうちに生地は大きく膨らみました。

次に丸いプッラの形を作ります。生地を細い棒の形に丸めて切り分け、それを一個一個丸めていきます。初めは少し難しかったですが、何個か丸めていくうちに皆さん上手になってきて、きれいな丸いプッラが次々と鉄板の上に並べられていきました。そこで二回目の発酵をさせます。今回はお母さんと一緒に参加した小学生のお子さんが大人たちと一緒に上手に生地を丸めていました。

doonatsu

二回目の発酵の時におしゃべりしながら次の準備をします。丸めたプッラは大きく膨らんでから油で揚げますが、一つひとつのプッラの真ん中にドーナツの穴を作ります。それを熱した油に入れると、きれいな焼き色のムンキが次々と並んでいきます。油の温度を調整しながら揚げていくと美味しいそうなムンキが出来ます。ムンキを温かいうちに砂糖で丸めるようにまぶして出来上がりです。

doonatsu

さあ、出来たてのムンキをコーヒー・紅茶と一緒に味わいましょう!今回は特別な味わいのある「Marjapuuro」も合わせて作ったのでそれも頂きました。皆さんと一緒にムンキを頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。その時にフィンランドの春の祭り「ヴァップ」についてと、空を飛ぶ鳥の自由やそれに関係する聖書のお話がありました。

doonatsu

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝です。次回の料理クラブは6月14日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブのお話2025年5月

今日作った「ムンキ」はフィンランドの伝統的なお菓子の一つです。プッラの生地で作るものですが、油で揚げると、表面はサクサクして、中身は柔らかい味わいになります。ムンキはフィンランドの全国の喫茶店やお店で一年中売られていますが、一番売れる時期は4月の終わり5月の初めにかけてです。5月1日の「ヴァップ」という祭りの時にムンキは多くの家庭でも作られます。doonatsu揚げたてのムンキの美味しさは子どもたちの記憶にずっと残ります。この他にレモンを発酵させて作る甘酸っぱいレモナードも作ります。フィンランド語でシマと言います。これをムンキと一緒に味わうと、ヴァップの気分になります。

5月1日はフィンランドでは休みの日で、多くの人たちは様々なイベントに参加したり別荘に行ったりして楽しい一日を過ごします。長い寒い冬を乗り越えたフィンランド人が自由を強く感じる気持ちです。これから暖かい季節に変わり楽しいことが増えるので、皆が空を飛ぶ鳥のような自由を感じます。

ここで空を飛ぶ鳥の自由についてお話したく思います。息子はムーミンのシリーズが好きで今でもそのDVDを一緒によく見ます。最近見たエピソードでスノークが飛べるための翼を作りました。翼が完成すると、スノークはそれで本当に飛べるのか試してみたくなりました。彼は高い山に登って翼を背中に付けて飛び立ちました。ムーミンたちはそれを心配そうに見ていました。スノークは本当に飛べたでしょうか?驚くことに、スノークは鳥のように美しい青空をあちらこちらに飛びました。皆はそれをワクワクしながら見て自分も飛びたいと思いました。しかし突然強い風が吹いてスノークはコントロールを失って森の中にコロコロと落ちてしまいました。頭を怪我してスノークはとてもがっかりしました。

その夜スティンキーはこっそり翼を盗んでしまいました。スティンキーは体が小さくて軽いので、上手く飛べるかもしれないと思いました。スノークと同じ高い山の上に行って翼を背中に付けて飛び始めました。どうなったでしょうか。スティンキーも上手に飛ぶことが出来てもっと遠く行きたいと思って海の上まで飛んでいきました。しかしその時、また強い風が吹いてスティンキーは海に落ちてしました。tobimasuスノークもスティンキーも空を飛んでいる時は自由の喜びを感じたでしょう。しかしそれは長く続かず、しばらく飛んだ後で二人とも落ちてしまったのです。

この時私は旧約聖書の詩編のみ言葉を思い出しました。

「どこに行けばあなたの霊から離れることが出来よう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし よみに身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし 御手をもって私をとらえて下さる。」
詩編139篇7~10節

私たちもスノークとスティンキーと同じように鳥が空を飛ぶような自由を感じたいと思うことがあるでしょう。自由とは一体どういうことでしょうか。辞書を調べてみたら、自由とは、目的に向かって制限なく行動できるということでした。自分の意志を実現するために行動することです。それは特に若者にとって大切です。フィンランドには「子どもに自分の翼を試させよ」という言い方があります。それは子どもが親から離れて独立して自分の考えで生きていくという意味です。子どもは親の元を離れて自分で考えて生きることが出来るようになると、自由を感じます。

独立と自由について聖書は大切なことを教えています。先ほどの詩編の中に「どこに行けばあなたの霊から離れることが出来よう。」という言葉があります。それは、人間が自由を求める時、天と地と人間を造られた神さまから離れて自由に行きたいと願うことです。このよkagiうな気持ちはどんな時に起こるでしょうか。それは私たちが天の神さまが教えるように生きることが出来ない時です。つまり、神さまの教えに反したり何か悪いことをしてしまった時に神さま、私の好きにさせて下さいと、神さまから離れたい気持ちになります。しかし、私たちは本当に神さまから離れることが出来るでしょうか?いいえ、ダビデが言ったように「天に登っても、曙の翼を駆って海のかなたに行っても」天の神さまはそこにもおられるのです。おられるだけでなく、神さまはずっと御手を差し出して導いて下さいます。

私たちが自由を求めて失敗する時、それはスノークとスティンキーが空を飛んで落ちてしまったのと似ています。その時、天の神さまは自分に関係ないことと遠くから見ているだけでしょうか?いいえ、その時にも天の神さまは私たちと一緒にいて私たちを導いて下さるのです。私たちが落ちてしまう時も神さまは御手をもって私たちをしっかりと掴んで引き上げてくだるのです。私たちはこのことが分かって信じられるようになると天の神さまの御手の力に自分のことを全て委ねることが出来るようになります。その時、私たちはもう下に落ちないので本当に自由になるのです。

megumi

2025年5月18日(日)復活節第五主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方とあるように。 アーメン                                                         2025、5月18日(日)

聖書:ヨハネ福音書13章31~35節

題:「互いに愛せよ」

今日のみ言葉はヨハネ福音書13章31~35節です。まず、今日の聖書はイエス様と弟子たちのどういう状況で語られているか、その事を理解した方が良いかと思います。ヨハネはイエス様が十字架になる前に弟子たちと最後の晩餐をなさいます。最後の晩餐の席上で弟子たちと別れの説教をされています。ヨハネは14章から16章までに長いページを使って、その説教を書いているのです。この説教は弟子たちに語られている,謂わば遺言と言える大切な説教です。そこで今日の13章31~38節まではその長い説教の序章のような場面であります。弟子たちと最後の食事をされている時、イエス様が「私が一切れの食物をスープに浸して与える者が私の裏切り者である」と言われて、イスカリオテのユダにお渡しになると、ユダはすぐに出て行った。そばにいた弟子たちは何の事かさっぱりわからなかった。受け取ったユダはこれまで秘かに心の中で計画しつつある裏切りのプランをイエス様に見透かされたことがわかったのでしょう。そこで一刻の猶予も出来ない、すぐにユダヤ教の司祭長たちと打合せるために出て行ったのです。これでユダの裏切りがはっきりした、この瞬間、イエス様の十字架刑の死がはっきり確信されて言われた。「今や人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになったのであれば神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる」。イエス様はご自分の十字架による死がイエス様の栄光の時であると言われたのです。

これはヨハネ独特の表現であります。イエス様が十字架につく時から勝利の栄光の時は始まったと言うのです。普通の人々、特にまたユダヤ人にしてみれば、十字架の死は癒しめの極みでしょう。十字架刑こそ最も苦しい痛みの死です。しかし神様の目から見れば、イエス様が十字架に死ぬ事はご自分のひとり子を罪人の世に送り罪人の代わりに罪の処理を十字架にかけると言う、イエス様の十字架はそこに神の愛を実現する栄光の時と言う事です。しかし、イエス様は既に続けて32節でこう言われています。「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。」ここに,もう一つの「栄光」の事をお語りになります。これは十字架の「今」とは違って「すぐに」間もなく神から授けられる新しい栄光であります。神様のそばで神ご自身の世界でイエスに栄光をお授けになると言う栄光です。それは後になってわかる、イエス様が復活された後、神の世界に戻られる昇天なさる事に於いてお受けになる栄光であります。続いてイエス様は言っておられます。32節を見ますと、「子たちよ、いま、暫くは私はあなた方と共にいる。あなた方は私を探すだろう。『私が行く所にあなた方は来る事が出来ない』と、ユダヤ人たちに言ったように、いまあなた方にも言っておく。此処には7章33節のところで既に言っておられた事を弟子たちに言っておられる。

イエス様の敵であるユダヤ人に対しても言われたのですね。いま何だかんだと言っているが、もうすぐ世の光である私はいなくなる。その時はあなた方は、もう真っ暗闇になってしまって後悔しても遅い、あなた方は罪の内に死ぬであろう、とこういう警告としてお語りになったわけです。今度はその警告を弟子たちには36節以下のところで、ペテロの問いに対して言っておられるのは「私の行く所にあなたは今ついて来ることは出来ないが、後でついて来ることになる。それまでの僅かな辛抱なのだ。」というところがユダヤ人への警告と違う点です。ユダヤ人たちには「あなた方はついて来られない」また、「自分の罪のうちに死ぬだろう」と言い切っておられる。弟子たちには、私の所に確かに今は来る事は出来ないが、後になってついて来る事が出来る。この約束が弟子たちに与えられてゆくわけであります。そうして、イエス様が今暫くいなくなるときのための遺言を残されるのであります。それは「あなた方に新しい掟を与える、互いに愛し合いなさい。」33節の冒頭に「子たちよ」と言われていますが、この福音書では此処にしか出てこない言葉ですがヨハネの第一の手紙では七回も出てくる。「小さい子供よ」「かわいい子供よ」と言う愛情を込めた小さい子供に使う言葉です。過ぎ越しの食事の時には必ず家長が「どうして種無しパンを食べるのですか」、「どうして苦い菜っ葉を食べるのですか」と言う子どもの問いに答えて過ぎ越しの物語を話してやる掟になっております。いま、イエス様は十一人の大人の弟子たちを前にして丁度お父さんが子どもたちに出エジプトのお話を聞かせるように「小さい子どもたちよ」と呼びかけておられます。それは愛する子どもたちを残して、子どもたちがついて行く時の父さんの遺言のようであります。イスラエルの12の族長がそれぞれ死ぬ時には遺言のようにして語った話があると言われています。「わが子どもたちよ、見よ、私は死んでゆく、わが祖父たちの道に行こうとしている」「わが子どもたちよ、お前たちに勧める。互いに兄弟を愛しなさい。自分中心の中から憎しみを取り除きなさい。み業と言葉と心の思いとに於いて互いに愛し合いなさい」こう言って子どものついて来ることが出来ない道に旅たって行く情景が描かれています。(12族長の遺言)

34節でイエス様が言われた、まさに遺言です。「私は新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。」イエス様が此処で言われた遺言はどういう意味で「新しい」のだろうか。旧約聖書レビ記19章18節にありますとおり、「あなた自身のように、あなたの隣人を愛さなければならない」という古いモーセの昔からイスラエルで伝えられてきた戒めであります。イエス様が言われる弟子たちへの遺言の「互いに愛し合いなさい」という事がなぜ「新しい」のか。イエス様が言われる「互いに愛し合いなさい」は34節で言われたように「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」です。つまりイエス様が弟子を愛したように、イエス様が示された愛を手本にして「互いに愛し合いなさい」という意味です。この事は単なる手本と言うのではなく、もっと深い意味で「互いに愛し合う」愛が生まれてくる源であるのです。レビ記の古い戒めでは「あなた自身のように隣人を愛せよ」つまり私が私自身を愛すると同じ愛で「隣人を愛せよ」と言うのです。イエス様が弟子たちを愛した愛はそういう愛ではありません。イエス様はご自身を愛さなかった。ご自身を喜ばせなかった。ご自身を痛み、苦しみ、命を捨てる愛でした。イエス様は言われた「人が、その友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。ご自分を捨てるように愛されたのです。そのようにあなた方も互いに愛し合いなさい。これが新しい戒めです。このような愛はイエス様だけが私たちをも愛して下さっている愛です。私たちを作り変えて下さるのでなければ、とても持つ事の出来ない愛であります。

次に、ルカの福音書によりますと22章20節に、最後の晩餐の席でイエス様は盃を取り「この盃はあなた方のために流す私の血で立てられる新しい契約である」と宣言されました。今イエス様はご自身の血によって全く新しい自己犠牲的な愛を示す、契約の集団、言い換えると此処に教会が産み出されて来たわけです。こうして新しい契約で新しい戒めを与えられて生まれた教会は「互い愛し合う」それも自分を捨てるほどに互いを愛する、愛の絆によって一般の世の人々とは違うキリスト者となること。その事をイエス様は35節で言われた。「互いに会いしあうならば、それによってあなた方が私の弟子である事を皆が知るようになる。」

私たちの主イエス・キリストに従うことによって神の子とされ私たちは限りなくイエス様の歩まれた己の命を捨ててまで愛し合う愛を目指して行かねばならないのです。パウロはローマ人への手紙5章5節で言っています。「私たちに与えられた聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安があなた方の心と思いを

キリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

スオミ教会 手芸クラブのご案内

スマホケース

次回は5月28日(水)10時―13時の開催です。

スマホケースを作りましょう!

スマホケース次回の手芸クラブは、かぎ針編みのスマホケースを作ります。かぎ針編みの基本の編み方を使って編みます。それでも表情豊かな可愛いらしい模様のケースが出来ます。是非、素敵なスマホケースをご一緒に作りましょう。

前回のバンド織のキーホルダーをご希望の方はそれを作ってもよろしいです。

手芸クラブではその他にも自分の好きな編み物もすることができます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
持物持物: 綿糸 100g
糸に合わせてかぎ針
参加費 1000円

ナウハお子さん連れの参加も大歓迎。

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み
moc.l1750053473iamg@1750053473arumi1750053473hsoy.1750053473iviap1750053473
03-6233-7109

日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106