ニュースブログ

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の家庭料理クラブは4月13日(土)13時に開催します。

今フィンランドはやっと暗い冬が終わり日照時間が長くなる季節になりました! それで4月の家庭料理クラブでは「太陽」の名を冠したコーヒーブレッド、「アウリンコ・プッラ」を作ります。太陽はフィンランド語でアウリンコと言います。カルダモン風味のプッラの上にレモン風味のクリームをのせると、見た目だけでなく味も早春の柔らかい陽の光を感じさせるものになります。クリームの周りにアイシングの飾りつけをしてお日さまらしくします。

アウリンコ・プッラを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1、500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、
まで。

電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会

牧師の週報コラム

イースターおめでどうございます!

クリスマス夜の同様に、天使はイースターの朝にも良いお知らせを告げに現れました。

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 

婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。(マタイによる福音書 2801 節–02節、05節 – 08節)

罪と死と悪魔の力に打ち勝たれた、私たちの救い主は生きておられます 〜 ハレルヤ!!!

「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、           

喜び躍ろう。」(詩編/ 118024節)

この良いお知らせをこれからもご一緒に広げましょう!

主にあり、

Päivi & Martti Poukka

2024年3月31日 ヘルシンキより

セイヤ&パーヴォ・ヘイッキネン夫妻

Pääsiäismessuun kokoontunut Suomi Kirkko seurakunta!

Elämme alkuvuotta 2024. Tuo määrä vuosia on kulunut jostakin todella käänteentekevästä historian murroskohdasta. Aikaa lasketaan ennen sitä ja sen jälkeen. Toki on muitakin ajanlaskutapoja. Mutta Kaikkivaltiaan, Iankaikkisen Jumalan Poika syntyi ihmiseksi 2024 vuotta sitten. Ajatus on huimavan suuri  historiallinen tapahtuma; todellinen käännekohta.

Kuten tiedätte, hän kasvoi vastasyntyneestä vauvasta aikuiseksi, noin 33 vuoden ikään. Evankelistat Matteus, Markus, Luukas ja Johannes kirjoittivat Pyhän Hengen johdatuksessa Hänen elämänsä, opetuksensa, kärsimisensä, kuolemansa, kuolleista ylösnousemisensa ja taivaaseen paluunsa valtavista  teemoista. Johannes, päättäessään evankeliuminsa kirjoittaa: “On paljon muutakin, mitä Jeesus teki; ja jos se kohta kohdalta kirjoitettaisiin , luulen, etteivät koko maailmaan mahtuisi ne kirjat, jotka pitäisi kirjoittaa.” Johannes 21: 25 Mutta kaikki tarpeellinen on kirjoitettu, kaikki. 

Tunnemme tämän Pyhän Kirjan nimellä RAAMATTU. Tämän Raamatun sanaa, Vanhaa ja Uutta Testamenttia pastorinne teille opettaa ja julistaa. Ja sitä samaa Raamattua te myös kotonanne luette. 

Evankeliumikirjojen, Matteuksen, Markuksen, Luukkaan ja Johanneksen evankeliumit sisältävät Vapahtajamme Iankaikkisen ennalta olemisen, ihmiseksi syntymisen, noin 33v. vuotta kestäneen ihmiselämän, hänen kärsimisensä, kuolemansa, kuolleista ylösnousemisensa ja taivaaseen paluunsa tosiasiat. Ja myös sen, että Herra palaa näkyvällä tavalla tälle maapallolle, josta Japanikin muodostaa osansa. 

Niin, ensimmäisenä Pääsiäisenä herätti Jumala kuolleista  Ainoan Poikansa; Hänet, joka todellisesti kuoli meidän syntiemme tähden. Liian monet ihmiset ohittavat olankohautuksella tuon ennen kuulumattoman sanoman, tuon historiallisen tapahtumaan. Ja se ohitus on seurauksiltaan äärimmäisen suuri vahinko. 

Mutta älä sinä ole yksi niistä, jotka tuon Hyvän Uutisen kuultuaan  ohittavat sen olankohautuksella; älä. Pysähdy miettimään, ala tutkimaan yhdessä ja yksin, mitä ja KUKA Jeesus on! Ja teet löydön tai paremminkin sinut löydetään. Johannes kirjoittaa evankeliuminsa I luvussa Andreas nimisestä ihmisestä, joka lausuu ihmetellen ja iloiten veljelleen: “Me olemme löytäneet Messiaan…” Kristuksen. Se tapaaminen oli hänen elämälleen  käänteen tekevä.  Ja sitä se olisi sinullekin. Kuuntele tarkasti pastorisi opetusta/julistusta. Hän kuuluttaa HYVÄÄ UUTISTA. 

HYVÄÄ PÄÄSIÄISTÄ!

Paavo ja Seija (muinoiset Suomi-Kirkkolaiset.)

 

シルッカリーサ&ペッカ・フフティネン夫妻

スオミ・教会で集まっている皆様

今週中天の父なる神様の大いなる恵みや愛を感動しています。世の罪を取り除く神の小羊は三日に復活された。このすばらしいことをスオミ・教会の皆さんを含めて全世界のクリスチャンが感謝します。

イエス様の御復活おめでとうございます

Pekka Sirkka-Liisa HuhtinenHelsinki

高木賢氏

「彼は侮られて人に捨てられ、

悲しみの人で、病を知っていた。

また顔をおおって忌みきらわれる者のように、

彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

まことに彼はわれわれの病を負い、

われわれの悲しみをになった。

しかるに、われわれは思った、

彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、

われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲しめをうけて、

われわれに平安を与え、

その打たれた傷によって、

われわれはいやされたのだ。」

(「イザヤ書」53章3〜5節、口語訳)

十字架で私たちの罪のゆえに死んでくださり、私たちを義とするために復活してくださった主イエス様に感謝します。

高木賢 (フィンランド・ルーテル福音協会)

 

ティーナ&ミカ・ラトヴァラスク夫妻

スオミ教会の皆様へ、

イエス・キリストはこう言われます。

「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、

また生きている者である。一度は死んだが、見よ、

世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」

(ヨハネの黙示録11617節)

この聖書の箇所は、私たちに勇気や希望をもたらしてくれます。どんな試練や困難があっても、恐れる必要はありません。復活された主イエスは、世々限りなく生きておられ、天と地の一切の権能を授かって、死と陰府の鍵を持っています。全能の神は私たちを愛しておられ、キリストは私たちの罪の罰を受けてくださったので、イエスの名を呼び求める私たちは基本的には大丈夫です。

明るい春の日差しが、スオミ教会に届きますように。

世界中のクリスチャンと一緒に復活祭をお祝いしましょう!

ティーナとミカ

 

ペンティ・マルッティラ牧師

Ylösnousseen Herramme Jeesuksen Kristuksen nimessä,

Tokion Suomi-seurakunta tekee erittäin arvokasta työtä, kun se todistaa Herrastamme Jeesuksesta Kristuksesta.

Sillä maailmassa ei ole muuta toivoa kuin Jeesus, Hänen kuolemansa ja ylösnousemuksensa.

Omalla kuolemallaan Hän voitti synnin, kuoleman ja paholaisen vallan.

Jokainen, joka uskossa laittaa toivonsa Jeesukseen, saa synnit anteeksi ja iankaikkisen elämän Jumalan yhteydessä.

Tätä ilosanomaa meitä kutsutaan julistamaan kaikkialla.

”Älkää te peljätkö; sillä minä tiedän teidän etsivän Jeesusta, joka oli ristiinnaulittu. Ei hän ole täällä, sillä hän on noussut ylös,” (Matt. 28:5-6)

Pentti Marttila

Aasian aluekoordinaattori

 

イヴァン・ラプテヴ監督

2024年3月31日(日)復活祭/イースター 聖餐式礼拝

主日礼拝説教 2024年3月31日 復活祭

イザヤ書25章6~9節
第一コリント15章1~11節
ヨハネ20章1~18節

説教題 「永遠に散り終わらない桜の木の下で」
― 今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいことを目指して

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が父なるみ神の想像を絶する力で復活されたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた翌週最初の日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。先ほど朗読された第一コリント15章に記されている通りです。まさに世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。

 本日の説教では、最初にヨハネ20章の出来事を見て、復活とはいかなる現象かということと、イエス様の復活は私たちが将来復活できるために起こったということを見ていきます。これらは以前にもお教えしたことですが復習します。その次に、私たちの復活とはどんなものか、将来復活する者として私たちはこの世をどう生きるかということを考えてみようと思います。

2.ヨハネ20章の出来事

復活とはいかなる現象か?よく混同されますが、復活は死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で言う復活は、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を纏わされて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 復活の体について、使徒パウロが第一コリント15章の本日の日課の後のところで詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それはまた、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物の体です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前もお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのも、イエス様は天にいるのが相応しい神聖な体を持っている、そのイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。

 神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様と地上の体を持つマリア。以前にもお教えしたことですが、イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われますが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も、スウェーデン語訳の聖書も、フィンランド語訳の聖書も、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」です(後注1)。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

 イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えれば、マリアが仮にイエス様にすがりついていたとしても、ここは原文通りに「触れてはならない」と言った方がよいと思います。それはイエス様の次の言葉を見ればわかります。「私はまだ父のもとへ上っていないのだ」(17節)。触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだと言うのです。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。このほうが、すがりつくなと訳すよりも前後の繋がりがはっきりします(後注2)。

 さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。この世離れした感動を覚えさせる光景です。

 本当なら危険極まりないことなのに、なぜイエス様はすがりつくのを許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちたお方だからでしょうか?そんな常套文句で満足したら、肝心なことが見えなくなってしまいます。イエス様は、マリアが今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上、彼女も復活の日に復活の体を持つ者になるとわかっていました。それが理由です。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」このことをパウロは第一コリント15章20節で述べています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

3.イエス様の復活に続く復活

イエス様の復活が私たちの復活の先駆けで、私たちが将来復活できるために復活された。じゃ、私たちはこの世を去ったらみんな復活するのか?ここのところは注意が必要です。私たちはイエス様が復活したことを信じなければならないのです。復活を否定する者には復活は関係なくなってしまうのです。そう言うと、じゃ、イエスは復活したということにすればいいんだな、世界には不思議な現象が沢山あるんだから、そういうものの一つだと考えればいいんだ、と言う人も出てくるかもしれません。しかし、それではダメなんです。どうしてか?イエス様は復活に先立って十字架にかけられて死なれました。それで、なぜ神のひとり子ともあろう方があのような惨めな死に方をしなければならなかったのか?これがわかった上で復活が起こったことを信じないといけないのです。復活の本当の意味をわかって信じないと信じたことにならないのです。

 では、なぜイエス様は十字架で死ななければならなかったのか?それは、私たち人間が持ってしまっている神の意思に反しようとするもの、それを聖書は罪と呼びます、その償いを神のひとり子が私たち人間のために神に対して償うためだったのです。人間と神との結びつきを失くさせていた原因である罪をイエス様が自分を犠牲にして償って下さった、人間が神から罰を受けないで済むように守って下さったということなのです。それだけではありません。父なるみ神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、私たち人間にその扉を開かれたのです。

 私たち人間は、この方こそ救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを回復でき、この世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになります。この世から離れる時も神との結びつきを持ったまま離れられ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて、肉の体に代わる復活の体を纏わされて、「神の国」と呼ばれる御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様が十字架の死を遂げて備えて下さった罪の償いと罪の赦しを私たち人間はそれを信じることと洗礼を受けることで自分のものにすることができます。そして、イエス様が切り開いて下さった復活に至る道を神との結びつきの中で進んでいきます。これが私たちの復活になります。

 私たちの復活についてもう一つ忘れてはならないことがあります。それは、聖書によれば復活は将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる時に起こるということです。聖書には終末と新創造の観点があります。今ある天と地はかつて創造主の神が造ったものだが、それはいつか終わりを告げて神は新しい天と地に創造し直すという観点です。今は目に見えない手の届かないところにある「神の国」が新創造の時に唯一の国として見えるものとして現れ、復活を遂げた者たちが迎え入れられるというのです。それなので、聖書で言う死者の復活は、かの日に一斉に起こることなのです。他の宗教だったら、一人ひとりこの世を去って各々ある年数を経たらこの地上とは別の安楽なところに行くという見方かもしれませんが、キリスト信仰ではそうではないのです。かの日には天と地は一新され、今の天と地はないのです。ここのところがキリスト信仰の死生観と他の宗教のが大きく違っている点ではないかと思います。パウロもイエス様も言うように、一人ひとりがこの世を去っても復活の日まではみんな眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。

4.今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいこと

このような復活の信仰に立って自分が向かおうとしているところがわかると、今度は今のこの世をどう生きるかということもはっきりしてきます。復活の信仰に生きる者が向かっている「神の国」について、聖書にはいろいろな描き方がされています。黙示録19章では結婚式の祝宴にたとえられています。花婿は今の世が終わる時に再臨するキリスト、花嫁は「神の国」に迎え入れられた者たちの集合体です。「神の国」が祝宴にたとえられるのは、そこに迎え入れられた者たちがこの世での労苦を全て労われる至福の場だからです。さらに黙示録21章を見ると、「神の国」は嘆きや苦しみや労苦がないばかりか死もないと言われます。そこで神は迎え入れられた人たちの涙を全て拭われると言います。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。つまり、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が神の決済で最終的かつ完全に決着がつけられるということです。最後の審判があるのはそのためです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書25章でも、神が死を永久に滅ぼすところが言われています。そこは祝宴があるところであり、神はその席につく人たちの涙を拭われます。7節で「布が滅ぼされる」と言うのは、肉の体に替えて復活の体を着せられることを意味します。

 ところで私は最近、こうした復活の信仰を否定する方と話をしました。その方は、人間は死んだら、もう何もかも消えてなくなってしまうと。私は礼拝の説教で、消えはしない、人間は復活を遂げると体の有り様は変わっても同じ名前を持つ自分は続くと言ったことがありますが、その方はそれに反対して言いました。人間一人ひとりは川と同じである、川にはそれぞれ多摩川、荒川と名前があるように人それぞれに名前がある、しかし、川が海に流れ込んだら、もう川はなくなって大海の中に消散してしまう、それと同じように人間も死んだら名前も何もなくなって果てしなく大きなもののなかに消散してしまうのだと。

 そのような考え方は、人間は肉の塊が全てという考え方です。もちろん人間には考えたり感じたりする部分もあるので単なる塊にすぎないと言えないかもしれないが、でも死ねばそれも肉と一緒に消滅するのでやはり肉の塊の部分にすぎなくなります。ただし、その方はこの世を生きる時、正しいこと倫理的なことを考えることは重要であるともおっしゃっていました。つまり、人間はどうせ消滅するのだから、この世でどう生きようが関係ない、好き勝手に生きればいいという考えはとらないと。しかしながら、正しいこと倫理的なこともこの世限りのことなので、死んだらそれも何も関係ないものになってしまいます。

 キリスト信仰では、正しいこと倫理的なことは復活や神の国が前提にあります。この世では、例えば他の人に何か危害を加えてしまって償いをしなければならなくなった時、一方ではこんな程度の償いでは納得いかないという思いが出ます。他方ではこんなに償わなければならないのはあんんまりだという思いが出ます。そのように完全な正義の実現は困難です。この世での正義はある時点での最適なものを目指すということにならざるを得ないと思います。でもそれも実現できるかどうかわかりません。しかし、復活の信仰は、最後の審判の時に全知全能の神が誰も文句が言えないような裁定をして完全な正義を実現するという見方をします。その内容はこの世の私たち人間にはわかりません。それは今は隠されているのです。しかし、それはかの日に明らかになるという見方を復活の信仰はするのです。なので、もし人間が、俺は完全な正義がわかった、今からそれを実現するなどと言ったら、神でない人間が神を気取ることになり大変なことになります。

 このように復活の信仰に生きる者は、完全な正義など自分は神ではないからわからない、神がそれを知っていて、それをかの日に実現して下さる、だから、今この世で私がすべきことはその神の意思に沿うように立ち振る舞うだけだ、人を傷つけない、欺かない、噓をつかない、妬まない、見下さない、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざさないようにしよう。神の意思に反することが周りにあれば、それに反対し、それに与しないようにしよう。神の意思に反することが自分に中に出てきてしまったらあれば神に赦しを祈り、イエス様の十字架の償いの力を与えてもらって襟を正そう。それなので、復活の信仰に生きる者は、何かを成し遂げようとして、たとえ上手く行かなかったり道半ばで終わってしまっても、神の意思に沿うように行っていたのであれば無意味だったとか無駄だったということは何もないのです。この世は負け犬の言い分だと言うかもしれませんが、そうではないというのがキリスト信仰なのです。逆に、何かを成し遂げたとしても神の意思に反してしたのであれば、かの日には全部ひっくり返されてしまうのです。それなので、人間は肉の塊で死んだら消滅するという考えは、神の意思に反して何かを成し遂げようとする人たちにとって都合のいい隠れ蓑になる危険があります。

 ここまでは復活を正義の視点から見てきました。最後に感性の視点で見てみましょう。フィンランドでは6月になると急にいろんな種類の花と木々の葉っぱの緑が一斉に咲き乱れ、この世とは思えないとても色彩豊かな季節になります。5月までは花も緑もなかったのでその変化の急なことと言ったらありません。日本では2月に梅、3月、4月に桜、5月にツツジ、6月にアジサイという具合に季節の花が順々に交替に咲くのとは大きな違いです。昔ある初夏の日、パイヴィと家の近くの森を歩いていた時、日本人にキリスト信仰の天の御国の素晴らしさを説明するのにこのフィンランドの初夏を紹介するのはいいのではないかと言ったことがあります。もちろん、天の御国、神の国は今ある天と地が終わった後のことなので、同じ自然形態があるという保証はありません。それが感性的にみてどれくらい素晴らしいかは、今の世の私たちには隠されていてわからないのです。それでも、そこがどれだけ素晴らしいところかを前もって、今持っている感性で予見するように感じ取ることは出来るのではないかと思いました。黙示録の終わりに書いてあることだけでは少し無味乾燥に感じられるならば、神の国はどれだけ素晴らしいところかを知るために、今この世で素晴らしいこと美しいことに触れることは将来の神の国の素晴らしさ美しさの氷山の一角のそのまた一角に過ぎない、それ位に神の国の素晴らしさはすごいのだ、ということがわかるだけでも意味があると思いました。

 そこでフィンランド人にとって、6月の自然の開花が神の国のとっかかりになるのであれば、日本人にとって感性に訴えるとっかかりはなんだろうかと考えました。それは、やはり桜の花ではないでしょうか?何週間か前にパイヴィと近くの神田川の桜並木に行った時のことです。もちろん並木はまだ立ち枯れの様態でした。そこに一本だけ河津桜が満開に咲いていました。それを見て、あと何週間かしたら周囲のソメイヨシノは満開になるのだと目に浮かびました。それで、河津桜は第一コリント15章で言われる、イエス様は復活の初穂で、彼に続いて私たちも復活するということを思い出しました。桜並木が満開になれば、その下にはシートが拡げられてあちこちでピクニックをする人たちで賑わうでしょう。詩篇23篇5節で神が羊飼いに導かれた者たちに食卓を整えられると言われます。ヘブライ語の原文では敷物を拡げて食事を供するという意味です。復活の日の祝宴はまるで桜の季節の野外の宴のようです。

 日本人にとって天の御国の素晴らしさを予見するのに、桜の木の下の宴会を持ち出すのはその感性に訴えるものでしょう。しかし、中には、その桜は永遠に咲きっぱなしなのか、桜は散ることが日本人の感性に訴えるのだと言う人もいるかもしれません。そのような人には次のように言ったらどうでしょうか?その桜は確かに散る、しかしそれは永遠に散り終わらないのだ、と。

 主にあって兄弟姉妹でおられるみなさん、このように創造主の神は、完全な正義を予見する理性と完全な素晴らしいものを予見する感性が備わるように私たち人間を造られたのです。今は隠されて見えないが、かの日には明らかになる完全な正義と素晴らしいものを満喫できる神の国を私たちキリスト信仰者は心に抱いて、聖書の御言葉を道しるべにしてそこに向かって歩んでいるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

後注1

ドイツ語のルター訳の聖書はRühre mich nicht an!、スウェーデン語訳の聖書はRör inte vid mig、フィンランド語訳の聖書はÄlä koske minuun、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。

後注2

このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。

 しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意します。ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

歳時記

復活祭おめでとうございます。

今年も復活祭がやってきました、その度に今日のこの写真を取り出して往時を思い出しています。元気だった頃、冬の北八ヶ岳の天狗岳に登りました。頂上の手前で同行の一人がピッケルを持っていなかったために恐怖心から登頂を断念して急遽下山することになりました。雪の急斜面の下山はピッケルなしでは危険なので私もエスコートしながらくだり終え事なきを得ました。でも頂上を目前にして下山することに何となく釈然としないまま帰路につきました。帰路は中山峠を越えて稲子温泉に向いました。中山峠に差し掛かった時突然雲が切れて一条の光が差し込んできて思わずその光の神々しさにイエスの復活とはこういうことなのかと感じました。それまでの釈然としない欝になっていた気も晴れてとても満ち足りた気持ちになった事を復活の日になると思い出します。

2024年3月29日(金)19時 聖金曜日 礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネの福音書19章16−30節

「イエスは何を「成し遂げられた」?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 聖金曜日の今日の箇所は、18章から記録されているイエス様の受難の記録の一部になりますが、「ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した」で始まり、「イエスは、自ら十字架を背負い」と続き、そして最後は、「成し遂げられた」(30節)、これは新改訳聖書では「完了した」と訳されていますが、その言葉とともに「息を引き取られた」あるいは「霊を引き渡された」と「死」で結ばれる、とても意味深い箇所であります。もちろんこの死は復活へと繋がるのですが、このところは何より私たちキリスト教信仰の核心が伝えられいると言えるでしょう。聖金曜日のこの日、神はこのみ言葉を通して、私たちにその信仰を問いかけているのです。「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」、そし十字架の死で「何が成し遂げられ、何が完了したのか」をです。今日はそのことを18章19章の流れを踏まえながら、共にみ言葉から教えられていきましょう。

2、「十字架の前に義人はいない」

「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」それは、私たち人間の最も深刻な、そして最悪の現実である罪のために他なりません。この今日のところのみならず、18章からは、まさに人間の圧倒的な罪深い姿、現実がまざまざと記されていきます。まず18章3節では、園で祈っていたイエスと弟子たちのところに、裏切ったユダが「一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。」とあります。イスカリオテ・ユダはわずかなお金のためにイエスを裏切りユダヤ人指導者たちに引き渡します。彼はイエスと一緒に過ごしてきたのですから、イエスが暴力的革命家でも混乱で社会を転覆しようというお方ではないし、その弟子たちも決して武装蜂起しようなどとも考えていないことはよく分かっていたことでしょう。しかし、彼は前もって宗教指導者たちと計画を立てたのでしょう、そんなイエス一人を捕まえるために、数人の兵士ではありません。わざわざ一隊の兵士たちと、そして武器を持ってやってきているのです。ルカ22章52節にはそれを見たイエスの「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。」という言葉もあるのです。

 この行動は、イエスがそれほどまでして逮捕することが必要な犯罪人であることをまさに周りに印象付けています。事実、この後イエスは、極悪人のかけられるローマ最悪の処刑である「十字架」を負わされるよう扇動されていくのです。次に書かれているのは、ユダの裏切りに乗った祭司長やパリサイ派たちや役人などです。彼らは、社会の宗教エリートであり指導者でもありました。幼い時から律法と預言をよく学び、他の誰よりも自分たちはその律法の内容や教えを知っているだけでなく実践もしていると自負している人々でした。しかし皮肉なことに、そんな彼らが、その律法と預言が指し示してきて、その約束の通りこられた救いの御子とその正しい聖書の教えを受け入れられないのです。それどころか自分たちの伝統とプライドを守ることに躍起になりイエスに対して妬みを抱き続けてきました。そして何度もイエスを陥れようとしながら、その敵意と妬みが最高潮に達して、このようにユダと共謀しこのイエスの逮捕へと行動しているのです。その彼らの行動には、信心深さや聖書的な根拠などはもはや見られません。民に神のみ言葉を指し示して、信仰による行いに導き駆り立てるどころか、民をその敵意と妬みに巻き込み、そして偽りと策略によって煽動します。そして、18章39節以下では、罪のないイエスよりも明らかな犯罪を犯した強盗のバラバを釈放してほしいとまで叫ばせ、今日の箇所の直前の19章15節では彼らは「私たちには、皇帝の他に王はありません」とさえ叫ばせるのです。実に節操のない言動ですが、これが、妬みと憎しみによる自己中心な感情と欲求の実であり、罪の実であり、偽りの実の現実なのです。彼ら宗教指導者たちは、自他共に認める聖書をよく知り行いも立派な人々でした。表向きには社会に尊敬もされる敬虔な人々と見られていたでしょう。しかし、そのような「人の目」に評価され、いかにでも振る舞うことのできる人間の行いの敬虔さというのがこのように、十字架の前、神の言葉の前、神の前にあっては、いかに脆く、愚かなものであるのかが教えられます。

 では次にピラトはどうでしょうか?ピラトは、18章38節や19章4節で、イエスには「私は、あの人には罪を認めません。」とイエスには十字架刑に値する様な罪はないことを何度か認めているのです。さらには、19章12節にあるように、イエスを釈放しようとさえ努めます。しかし、彼はローマ社会で実績を残してきて皇帝に託された責任あるローマの総督、高官ではありましたが、王でもなければ神でもありません。彼も一人の罪人にすぎません。彼も何が正しいことかわかっていて、その内なるところではそこには良心も理性も働いたことでしょう。しかし、ユダヤ人の勢いや強い言葉と暴動を恐れ、そしてやはりそこには自分のプライドとメンツという自己中心な感情や欲求が勝り、正しい罪のない、十字架刑に値しない人を十字架刑に引き渡す法的な実行者責任者になるのでした。周りにいるローマ兵も、上司上官に言われるがまま、無実の男を平気で鞭打つだけでなく、残酷なほどにイエスの肉体を苦しめ、辱め、馬鹿にします。そして無実のイエスの肉を十字架に釘打つ刑の執行者となるのですした。

 そして、忘れてはいけません。十字架の出来事の、その周辺の人々として、目を閉ざしてはいけないのは、イエスの弟子たちです。彼らはイエスと一緒にいたから、信仰が与えられていたから、イエスの味方、弟子だからと、罪から自由な、立派な、完全な、聖人君子であったでしょうか?とんでもありません。弟子の一人ユダは、最初に見たように、わずかな金のためにイエスを裏切り売り渡しました。ペテロはイエスの御心ではない、剣で歯向かい、大祭司の僕の耳を切り落としてしまいます。そしてヨハネによる福音書にはありませんが、マルコの福音書14章50節には、「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

とあるのです。彼らは、この前に、イエスから弟子の誰かが裏切ることをことを予め伝えられたときに「まさか私ではないないでしょう」と皆がいい。ペテロは「他の誰が裏切っても自分は決して裏切らない」と言い、そんなペテロにイエス様が「あなたは三度私を知らないという」と告げられた時には、マルコ14章31節にこうあるのです。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

 ペテロだけではない、他の弟子たちも皆、自分は決して裏切り者にはならない。決して知らないなどとは言わない。ペテロは「他の誰が裏切っても自分は裏切らない」「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22章33節)とまで言うのですが、ユダ以外の他の弟子みなも同じ思いと自信があったことでしょう。彼らの意思では、決して嘘ではない意思の表明であったと思われます。しかし、そのような立派な人間の意思や決心も神の前にあって、神の計画の実現の前にあって、十字架の前にあって、いかに無力で脆く、決してその通りに実現しないし、実現できないことが福音書は伝えているでしょう?何よりペテロはその証人ではありませんか?彼は一人、イエス様の審問が行われている大祭司カヤパの庭に入って、イエスを見に行きます。しかし、18章15節以下、ペテロは前に豪語した、自分の立派な決意を実践したのではなく、イエスの言っていた通り、三度、イエスを「知らない」と言ったのでした。誰よりも強い意志と立派な敬虔に忠実従おうとする言葉を表してきたペテロですが、彼の意思、決意、自信は何一つなりませんでした。ただただイエスの言葉だけがその通りになったのでした。

 みなさん、今日のところからまず教えられることは、神の前、十字架を前に、ここに罪のない正しい人は誰一人いません。もちろん、「人の前」、ローマ社会、ユダヤ社会では、それなりの地位があり、功績と名声があり、立派な行いと敬虔な振る舞いで、人々からも尊敬される人々は沢山いたでしょう。しかし、この「十字架の前」、イエスが背負われる十字架、そして完了したという、その神の計画の前、み言葉の前にあって、今見てきた通り、正しい人はいませんね。罪のない人は一人もいませんね。もちろん女性達は、墓に至るまでついてはいきました。人の目には、そんな弟子達よりは立派に見えます。しかし、その女性達は聖女であり罪はなかったとは聖書には書かれてはいません。彼女達もやはり罪人でした。神の前に、義人はいないのです。まず何よりも、聖書は、その現実を私たちに突きつけています。

3、「例外はいない:「自分に限ってはそんなことはしない」と言い切れるか?」

 もちろん、人間の理性や善を信じたい、自分はそんなに悪い人間ではないという人々の中には、自分は良い人間だから、意志も強いし罪も犯さないから、自分に限っては、彼らの様にはしないと言いたい人もいるかもしれません。しかし、もし自分が、これまでの自分の地位と行いに誇りとアイデンティティーを置いてそれを支えにそれを守って生きてきたユダヤ人宗教指導者としてその場にいたならどうでしょう?あるいは、日頃その様なユダヤ人たちに指導され、敬意を払うこと、従うこと、倣うことが当たり前の日常で、そのような社会的大多数の価値観の生活する一人であったならどうでしょう?大多数派の価値観や声に動かされず、自分は決して煽動されない、それでも否と言える自信がありますか?あるいは、ピラトのように実績と名声に支えられやっとつかんだ総督の座にありながら、その治める地のユダヤ人が暴動を起こさないようにしなければならない、実績に傷をつけてはならない、そんな立場で群衆が「イエスを十字架につけろ」と叫び続ける中でも、周りの声が望まない正しい判断をあなたは絶対することできますか?あるいは、上官の命令には絶対のローマ兵の立場であったならどうでしょうか?それでも、総督の決定、上官の命令に逆らってでも自分は鞭打たない、釘を打たないとあなたは断言できますか?そして、ペテロのような決心を持った強い敬虔な言葉を発しながら、自分もイエスと一緒に仲間として十字架にかけられるかもしれない恐怖の中、「あなたは仲間でしょう」と問われた時に、自分はそれでも弟子達のように逃げない、ペテロのように「知らない」と否定しないと言い切れ断言できる人がいるでしょうか?仮に断言できたとしても、実際にその場で、なんの躊躇いもなく、葛藤もなくそれを実行することができる人がいるでしょうか?私はその自信がありません。いや、たとえ、その様な、立場に置き換えるということがフェアではないとしても、しかし聖書は、まさに堕落の初めから、はっきりとその人間の罪の事実を、つまり、人は神のみ心、み言葉を、疑い、反対し、背くものであり、そして間違った道をいくものとなったことをはっきりと私たちに伝えているでしょう。神はノアの洪水の後に「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」(8章21節)と言っています。そして神の怒りを受けてなおも背いていく神の民の性質について、神は、イザヤを通して、こう言っています。イザヤ書57章17節(新改訳)

「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおもそむいて、自分の思う道を行った。

 そう、聖書が変わることなく何千年もそのようにはっきりと伝えてきた人間の事実、現実が、十字架の前にまざまざと実現しており、はっきりとしているのです。「義人はいない。一人もいない」そのことです。イエスが引き渡される時、イエスが自分で十字架を負う時、そこにはただただ人の罪が取り囲んでいます。人の罪が、救い主として、王としてこられた約束の救い主、御子キリストを拒むのです。そのように私たちの罪こそが、どこまでもキリストを拒み、必要ないとし、そして「十字架につけろ」と叫び、殺すのです。ここで見てきた罪深い一人一人は、、私たち一人一人であり、私たちの姿であり、私たちも御子キリストを拒み十字架につけた一人であり、そこに例外はないのです。もちろん、私自身もその一人であることをまずここから教えられるのです。

4、「福音の核心:何のために?何を成し遂げた?」 

 しかし、「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」、そして「何が成し遂げられ、何が完了したのか」その究極の答えもここにあるでしょう。イエス様は、マタイの福音書26章53節以下で、ペテロが剣を持って祭司の僕の耳を切り落とした時に「53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ26章53節)と言っています。しかしその後、こう言っています。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」と言っています。つまり、その取り囲む人間の圧倒的な罪を「天の軍勢を送って」断罪し火で焼き滅ぼすことができるけれども、しかしそれが神の御心、聖書の約束ではなく、その様にするのではなく、まさに「必ずこうなると書かれている聖書の言葉が実現する」ために、つまり、そう、これまでまっすぐと目をむけ弟子達にも伝えてきた十字架にかかって死ぬことのために。つまりその取り囲む彼ら、そして私たちの罪を全てその身に負って、私たちの代わりにその罪を報いを、裁きを、死を受けて、私たちを滅びから、永遠の死から、罪の報いから救うため、罪から贖うことをイエス様はどこまでも見ているし従っているのです。ヨハネ18章でも11節、イエス様はこのように言っています。

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と。この逮捕の前に、イエス様は園で祈っていたでしょう。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(26章39節)と。その祈りに対する父が与えてくださった答え、その杯は今、まさに表されたからこそ今こそそれを飲むべきではないかとイエス様はペテロに伝えていることがわかります。さらにヨハネ18章36節でも「36 「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

 とピラトに答えています。まさに神の与える杯、神の御心、それは、地上の国とは違う神の国をイエスは見ていて、この罪に溢れた裁判も断罪も、神の御心、杯として、黙って受けているでしょう。なぜですか?それはご自身がその人類の全ての罪を黙って背負って、十字架にかけられて死ぬためではありませんか。罪人が受けなければならないその十字架という刑罰と死、それは罪人である私たちが受けなければならない十字架であり、刑罰であり死のはずでした。しかしまさに、イエス様はこのように、人間の神への罪、敵意を一身に黙って受けて、十字架に従われることによって、人類の代わりに、つまりそこにいた全ての人々、そして私たち一人一人の代わりに、その罪の報いである、私たちが受けなければならなかった刑罰と死を受けられているのです。しかし、そのイエス様のこの十字架のゆえにこそ、神の御心は実現したことを聖書は伝えていますね?ヨハネはここで、「聖書の言葉が実現するため」(24節)「聖書の言葉が実現した」(28節)「聖書の言葉が実現するため」(36節)と繰り返しています。つまりこの福音書を記したヨハネもまさに、この十字架、この救いには、人の思いは一切ない、これは、神の御心が実現することなのだと繰り返していますが、その御心とは何ですか?それは遥か昔から神が一貫して約束されてことでした。創世記3章の約束もそうですが、イザヤを通しても変わることなく神はその身代わりの死による贖いの御心を伝えています。イザヤ53章

「5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。〜10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」

 と。みなさん、私たちを罪から贖う十字架の死はその変わることのない神の救いの御心の実現なのです。「完了した」「成し遂げられた」。何がですか?その神の御心がです。剣によってでも、革命や暴力によってでもない、天の軍勢の裁きによってでもない、神の御子が、神ご自身が私たちと同じ肉体を取り人となられ、私たちの代わりに、私たちが受けなければならない罪と滅びという大きな深刻な、そしてどうすることもできない問題、十字架の死を全て代わりに背負われて、死んでくださった。その十字架のゆえに神は変わることなく私たちに罪の赦しを宣言してくださるのです。私たちは神の前に圧倒的な罪の現実に絶望するしかありませんでした。しかし、その罪を認め悔い改めて十字架の前に立ち、その神の御子キリストの贖いは私のためであると信じるものは誰でも、その罪の赦しがそのままその人のものになるとイエス様は約束しています。誰でも悔い改める者に、イエス様は「あなたの罪はこの十字架ゆえにもう赦されています。だから心配しなくて良い。安心して行きなさい」と言ってくださるのです。その罪の赦しのため、その平安のため、安心のため、安心していくことができるその救いのために、「引き渡され」「自ら十字架を背負い」そして「完了した」「成し遂げられた」なのです。

5、「成し遂げられた:福音はまだ未完成で残りは人が完成させなければならない」ではない」

 そして大事なのは「完了した」「成し遂げられた」のですから、救い、罪の赦しは100%イエス様が果たしたということです。つまり、福音は未完成であり後はクリスチャンの努力で福音を完成させなければならないという教会もある様ですが、そんなことは決してない。福音や救いは、残りの半分は後は私たちが果たしてくださいというものでも決してないということなのです。「完了した」「成し遂げられた」とイエス様が私たちのために宣言してくださっていることは幸いです。福音というのはイエス様が完了し、完成してくださったものを、そのまま受け取るだけのものなのです。そのルター派の教えに対し、「福音の後にやっぱり律法の力や人間の数%の努力や意思の力も必要だ」と教える教会では「物足りない、だからルター派は弱いんだ」と言いますが、決してそんなことはありません。人間には決して実現できないことを成し遂げ「完了した」と宣言してくださったイエス様のその福音が何にもまして、人の思いを超えて遥かに力があることは明らかではありませんか?むしろ人の力ではどんなに立派な良い行いをしても敬虔そうに装えても限界があったでしょう?しかし、イエス様の福音こそ、逃げた弟子たちを命をかけた宣教師に変えました。迫害者でありパリサイ派であったパウロを、180度変えてイエスの福音に生き伝えるものにしたでしょう。それは人間の力や律法ではない、福音によって遣わされた平安な宣教の証しなのです。「未完成」ではなく「完了した」罪の赦しをはっきりと宣言され、その完全な罪の赦しを受けるからこそ、私たちは罪の赦しの確信をもち、救いの確信を持ち、安心していくことができるのです。

6、「結び」

 結びます。私たちが神の前にどこまでも罪人であることを知ることはとても大事な聖書のメッセージです。そんな暗い、人が聞きたくないことはやめて、罪とか悔い改めなど語るのはやめて、もっと明るいポジティブな愛とか成功とか繁栄とか語りましょう。もっと人が集まり人が支持するような万人受けするような教えで教会を沢山の人で満たしましょう。聖書の古い暗い、聞きたくない教えは蓋をしてもいいから、皆が受け入れやすい様に聖書を解釈して、今の社会風な教えと教会を変えましょう。そのように人間に都合のいいように方向転換する教会は少なくありません。事実、それが正義であるかのように讃えられ、罪と悔い改め、十字架の罪の赦しを説教することが時代遅れとか悪であるかのようにさえされます。事実、人の前では、その様な方向転換の教会が見た目は栄え、数的に大きくなるようなことはあるのです。しかし、人中心で神の言葉を再解釈することが堕落の初めであり、変わることなく自己中心、人間中心こそ、神を排除しようとする十字架を取り囲む人々に溢れていた罪の現実ではありませんか?それは現代においても、結局は、理性と感情とマンパワーによる教会へとなって行きますが、平安は無くなってしまします。それは世の与える平安は伝えられますが、イエスが与える平安は絶対に伝えられません。聖書はいつまでも変わらぬ真理と救いと真の平安を伝えています。私たちはどこまでも罪人である。しかしその罪のためにこそ、イエス様は十字架にかかって死なれた。それが御心であった。それが救いの「完了した」であったのだと。私たちが罪人であることがはっきりとわかり認め悔い改めに導かれるからこそ、聖書が伝える真の救い、十字架と復活にある、罪の赦しと新しい命の素晴らしさ、真の神の愛がわかります。それが私たちを平安にし、救いの確信を与えるのです。罪を知らされる、悔い改めに導かれるからこそ、そこに、真の天からのいのちの光、神の前に安心して歩むことができる平安な道が開かれているのがわかるのです。今日もイエス様は宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。ぜひそのまま福音を受け取り、安心してここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

牧師の週報コラム

フィンランドの幸福度とルター派キリスト教の関連性?

国連が毎年発表している「世界幸福度ランキング」で今年もフィンランドが1位になった。7年連続だそうだ。何を基準に幸福度を決めるのかというと、1人当たりのGDP、社会福祉、健康寿命、自由、寛容度、腐敗に対する認識の6項目についての評価だそうで、これらを基にした幸福度はフィンランドだけでなく北欧諸国が軒並み高い(デンマーク2位、アイスランド3位、スウェーデン4位、ノルウェー7位、日本は51位)。

北欧諸国と言えば、宗教は伝統的にルター派のキリスト教が主流である。それでか、北欧諸国の幸福さとか先進性とルター派には何か関連性があるのか、ルター派には国民を幸せに先進的にする要因があるのか、というような質問を時たま受けることがある。

それに対する私の答えは、物事はそんなに単純なものではないということである。まず各国のルター派教会の所属率だが、この30年位の間に急激に低下した。1980年代まではどこの国も国民の90%以上がルター派の国教会ないし中央教会に所属していた。ところが、昨年の統計ではスウェーデンは52%、フィンランドは62%まで低下。国内分布でも、ヘルシンキ首都圏では50%を切っている。ここまで落ちたら、法制度上特別な地位を持つ「国教会」の存在理由はあるのだろうか?(スウェーデンのは2000年に国教会をやめて一宗教団体になった。)

それから、フィンランドの話だが、国教会に属する人たちに、どのように信じていますかと聞くと、大半は教会が教えるようには(つまりルター派の信条集に基づいて)信じない、自分の信じたいように信じるという答えが返って来る。SLEYをはじめとする国教会のミッション団体の教会から一歩外に出れば、周りの普通の教会はそういう風潮に呑み込まれてしまって、ルター派の信条集どころか真に聖書に基づいて教えるところは少なくなってしまったと思う。国教会に属しているからと言って、聖書的、ルター派的とは限らないのだ。

他にもいろいろあるが、私の結論は、30年位前だったら国民の幸せ度や先進性の要因をルター派に探し求めても良かったかもしれないが、国民の教会離れ聖書離れがここまで進んだら、別の視点で考える必要があるだろうというものだ。

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2024年3月24日(日)枝の主日 主日礼拝  説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2024年3月24日 枝の主日

イザヤ63章15節-64章7節

第一コリント1章3-9節

マルコ15章1-47節

説教題 「受難週と主の再臨を待つ者の心構え」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

今日は教会のカレンダーでは「枝の主日です。イエス様がろばに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城した出来事を覚える日です。群衆はイエス様が進む道の上に衣服や木の枝を敷き詰め、王様を迎えるように出迎えました。このエルサレム入城の後、イエス様は十字架の受難の道に進んで行かれます。しかし、群衆は今、王としてお迎えしている方にそんなことが起こるとは夢にも思っていません。彼らは、この方こそ、ユダヤ民族を占領しているローマ帝国とそれに取り入る民族の指導者たちを追い払って、民族に真の独立と解放をもたらして下さると期待したのでした。その期待は見事に外れましたが、その代わりに一民族の期待をはるかに超える全人類の運命に関わる大きなことが起こりました。

 このように今日はイエス様のエルサレム入城を覚える「枝の主日の日ですが、ルター派教会のカレンダーでは、受難週の最初の日という扱いにもなっています。今日から始まる週はイエス様が受難の道を進まれる週であり、その頂点としてイエス様が十字架にかけられたことを覚える聖金曜日があります。イエス様は死なれた後、墓に葬られて金曜日、土曜日そして日曜日の朝まで葬られた状態にいます。そして日曜日の早朝に神の力によって復活させられます。

 今日の福音書の個所は、ルター派教会の聖書日課を見ると2つ選択肢があります。一つは「枝の主日」の日課で、イエス様のエルサレム入城の出来事を扱ったマルコ11章ないしヨハネ12章。もう一つは、受難週の最初の日の日課で、最後の晩餐から十字架にかけられるところまでを網羅したマルコ14章と15章が定められています。今回、どっちを選ぼうかと迷いました。以前は「枝の主日」を選んでいました。しかし、今年はやり方を変えようと思いました。というのも、スオミ教会は小さな教会なので平日に礼拝を行うと集まる人はとても少なくなります。それは聖金曜日も同じ。フィンランドだとイースター期間は金曜日から翌週の月曜日まで休みですが、日本はそうではありません。聖金曜日の礼拝に出席できないと一つまずいことが起きます。枝の主日でイエス様が歓呼の中で迎えられて、次の日曜日には復活してしまって、めでたしめでたしになってしまう。受難なんかどこにもありません。何だか全てが春のおめでたいカーニバルのようになってしまいます。

 そこで、スオミ教会で受難週の平日の夕刻に礼拝をやってもある程度人数が集まる日が来るまでは「枝の主日」はお預けにして、受難週の最初の日でいこうと思います。そうすると、マルコ14章と15章の2つの章を見ることになりますが、これを全部読むと30分以上かかります。これと別に説教の時間も考えないといけません。二つ合わせたら、ちょっと長すぎかなと思いました。幸運なことに、ルター派の聖書日課では、マルコは15章だけでもよいという選択肢もありました。それで、今回はそれを選んだ次第です。ただ、それでもイエス様の受難の前半部分が抜け落ちてしまいます。そこで、本説教ではまず、イエス様がエルサレムに入城するマルコ11章から逮捕される14章の終わりまでを駆け足で振り返ってみて、その後で15章を少し詳しく見てみようと思います。受難週の時、聖書を繙きながらイエス様と一緒に歩むように一日一日を過ごしていくと、主の再臨の日を待つ心構えが出来てくると思います。

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イエス様がエルサレムに入城した後で何が起きたか?エルサレムの神殿で商売をしていた人たちを追い出した出来事が大きなものとしてあります。イエス様の行動は一見すると、神聖な神殿で金儲けなどけしからんと言っているように見えます。しかし、そうではありません。エルサレムの神殿は、人間が神との関係を正常にするために神の意思に反する罪を償わなければならない、それを動物の生贄を捧げて果たす場所でした。そのような儀式はそれはそれで人間に罪があることを自覚させ、罪はそのままにしてはいけないということを思い起こさせるものでした。しかし、規定通りに儀式を行ったら罪が消えて神のみ前に立たされても大丈夫でいられるかと言えば、そうではなかったのです。

 そのような人間の手による罪の償いは不完全なものだからもう終わりにする、それに代えて神が完全な償いを人間に備えてあげよう、それでイエス様をこの世に贈ったのでした。神殿から商人を追い出したイエス様は当然のことながら宗教指導者たちから非難を受けます。商人と言っても、彼らはお土産屋さんを営んでいたのではなく、神殿で捧げる生贄用の動物を売っていた人たちです。その意味で彼らは神殿の宗教システムの一部だったのです。マルコ14章を見ると、イエス様が大祭司の前で取り調べを受けた時、彼が神殿を破壊して三日で新しいものを建てるなどと言ったという証言があります。ヨハネ福音書を見ると、宗教指導者たちに神殿を破壊してみろ、そうしたら私が三日で新しいものを建てると言っています。イエス様が破壊するのではありません。三日で新しい神殿を建てるというのは、まさに、人間が造った神殿では完全な罪の償いは不可能だったが、イエス様の十字架の死と三日後の復活によって可能になるという意味でした。

 ユダヤ教社会の宗教指導者たちは、イエス様の活動に心穏やかではありません。あの男は旧約聖書の教え方があまりにも凄すぎる。人々はみなその通りだと信じていく。しかも、奇跡の業も行う。人々はますます彼を信奉し、偉大な預言者とか、かつてのダビデ王の王国を復興してくれるユダヤ民族の王などと担ぎ上げている。このままでは我々の権威が揺らいでしまう。さらによくないことは、占領国のローマ帝国とはせっかく波風立てずにうまくやっているのに反乱の疑いを持たれたら軍事介入を招いてしまう、そうならないうちに早く始末しなければならないと考えるようになっていました。そこに、神殿からの商人追い出しの事件が起きました。これは現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦でした。指導者たちはイエス様を捕まえて死刑にすることに決めました。ユダヤ民族の解放と王国の復興を待ち望む人々の期待が高まっている時に、事態は正反対の方向に進んでいたのです。しかし、その正反対の方向がまさに神が考えていた正しい方向だったのです。なぜなら、それによって十字架と復活の出来事が起きたからです。

 神殿からの商人追い出しから逮捕までの間、イエス様は人々に教え続けます。教えはよく見ると、どれもが将来イエス様を救い主と信じるようになる者たちは彼が再びやって来る再臨の日までどういう心構えを持つべきかを教えているとわかります。マルコ11章から12章までです。

 イエス様が通りかかった時、実を実らせなかったイチジクの木は枯れてしまいました。イエス様が来る日に実がなっているように準備をしていなければならないのです。そのような準備には祈りが必要であると教えます。祈りを絶やさないことが準備をしていることになるのです。ただし祈る時、心の中で誰かを赦せないということがあってはならないとも教えます。イエス様の犠牲のおかげで神から罪の赦しを受けられて、それでイエス様を救い主と信じるようになったのであれば、彼の再臨を待つ者の心構えとして他者を赦すことは当然のことになるのです。

 イエス様はまた、たとえの教えで、ぶどう畑の小作人が所有者の息子を殺害して罰として滅ぼされてしまう。そして、ぶどう畑は別のものに与えられる話をします。これは、罪の赦しの救いを地上で管理する者が神殿儀式のユダヤ教からキリスト教会に移ることを意味します。キリスト教会は主の再臨の日まで罪の赦しの救いを世の人々に伝え、かつそれを受け入れた人たちがその救いを携えてその日まで歩めるように支えなければならないのです。

 イエス様はまた、神に選ばれたユダヤ民族は占領者のローマ皇帝に税金を納めていいのかどうかという挑発質問に対して、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せばよいと答えました。この世の権威と権力は絶大なものに見えても、その上に立つもっと絶大な権威に目を向けなければならないということです。主の再臨を待つ者は、いつかは衰退して消え去るこの世の有限な権威権力に目を奪われず、その上に立つ永遠に栄光に輝く神の無限の権威に目を向けていなければならないのです。

 さらに、死者の復活などないと言う宗教指導者たちに対してイエス様は、彼らがいかに旧約聖書をいい加減に読んでいたかを暴露します。主の再臨を待つ者は聖書を繙く時、聖書と復活と永遠の命は切っても切れない関係にあることを忘れてはいけないのです。

 イエス様はまた、ユダヤ教社会の膨大な数の掟の中で、一番重要な掟は二つ、神を全身全霊で愛することと、神への愛に立って隣人を自分を愛する如く愛することであると教えました。膨大な掟集が二つに集約されてしまいました。しかし、そのためにこの二つの掟は途轍もなく広い深い掟になったのです。そのような偉大な掟に自分のあるがままの姿を照らし合わせると、神の意思に沿うことができない無力な自分に気づかされます。実はこれが罪の赦しの救いの入り口に立つことになります。イエス様は、この二つの掟に納得した律法学者のことを、お前は神の国から遠くない、と言ったのはまさにそのことです。主の再臨を待つ者は神の前に無力な存在であることを忘れてはいけないのです。だから、そんな自分を神の御前で大丈夫にして下さるイエス様が待ち遠しくなるのです。

 さらにイエス様は、メシアの意味について、当時一般的に考えられていた民族の王様の意味を越えていること、かつてダビデが主と呼ぶくらいに越えている方であると教えます。人間の罪を償い、人間を罪の支配下から贖い出して復活を遂げた主、そして、いつか再臨される主は本当の意味でのメシアなのです。

 イエス様はまた現行の神殿システムが宗教エリートを特権階級にしてしまうことや、神殿への捧げものの価値が外見で評価されてしまって、捧げる心が顧みられない現状を批判します。主の再臨を待つ者は、神によく見られるようになるために捧げるのではなく、神から罪を赦してもらったから捧げます、という心にならなければならないのです。

 以上の教えはマルコ11~12章にあります。今見てきたように、どれもが、イエス様の再臨を待つ者のこの世で生きる心構えについて教えています。次の13章でイエス様は、イスラエルの地の近い将来の出来事から始めて、今のこの世が終わりを告げてイエス様が再臨する日までのことについて預言します。「キリストの黙示録と呼ばれる箇所です。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫でいられるように目を覚ましていなさいと命じます。主の再臨の日まで目を覚ましているというのは、今まで見てきたような再臨を待つ者の心構えを持ってこの世を生きることです。

 一連の教えが終わった後、事態は急速に受難に向かって進んで行きます。ある女性が非常に高価な香油を惜しみなくイエス様に頭からかけます。本当は遺体に塗って亡くなった方に最大の敬意を払うものでしたが、女性はイエス様がまだ生きている時に行いました。イエス様の受難と死はもう回避できないという印でした。イエス様はこの世の王として君臨するのではないことがはっきりしました。しかし、無残な殺され方をされるが、実は高価な香油を塗られるに値する高貴なことなのだと、無残さの裏側に大きな真実があることを示す行為だったと言えます。

 そして、イエス様は弟子たちと一緒に過越し祭の食事をとります。イエス様はイスカリオテのユダが宗教指導者たちと組んでイエス様を引き渡す役を引き受けたことを知っています。また、イエス様が逮捕されたら他の弟子たちも逃げ去ってしまうことを知っています。これから全く一人で通過しなければならない受難が待っていると知っています。しかし、全てをやり遂げたら、人間はイエス様の犠牲のおかげで罪の償いを自分のものにすることができるようになります。このように罪を償ってもらった人はイエス様を救い主と信じる信仰を携えて世を神の子として歩めるようになります。信仰者が主の再臨の日まで信仰に留まって歩むことが出来るように、歩む力を得られるように、イエス様は最後の晩餐の時に聖餐式を設定して下さいました。主の再臨を待つ者にとって洗礼に並ぶ大事な儀式です。

 食事の後、イエス様は弟子たちと一緒にゲッセマネに行ってそこで祈ります。イエス様はこれから起こる受難がどれほど辛く苦しいものであるかよく知っています。なぜなら、誰か一人の人間の罪ではなく、全ての人間の全ての罪の罰を神から受けなければならないからです。最初イエス様は、それを避けられる可能性を神に祈ったほどでした。しかし、神の意思が実現することが自分の思いよりも大事だと祈り直します。イエス様は全てを神の御手に委ねたのです。弟子たちは疲れ果てて眠ってしまいました。イエス様も同じ位疲れていたでしょう。しかし、イエス様は立ち上がって進みました。このように私たちが弱くても、イエス様は私たちのために立ち上がって私たちの代わりに進んで下さるのです。

 まさにその時でした。指導者たちの回し者が押し寄せてきました。イエス様は逮捕されてしまいました。弟子たちは逃げ去ってしまいました。イエス様は最高法院に連行され、大祭司のもとで尋問を受けました。訴えは食い違いが多く、筋の通った決定的なものがありません。業を煮やした大祭司がイエス様に聞きます。お前はメシアなのか?そうだ、とイエス様は答え、さらに、人の子は神の右に座して、天の雲と共に到来すると、自分の再臨について述べます。怒り狂った大祭司は、イエス様が神を侮辱したと叫び出し、一同は死刑に処するべきと一致します。イエス様に容赦ない暴行が加えられました。遠くから様子を伺っていたペトロは、お前はあの男の仲間ではないかと聞かれ、三度、イエス様との関係を否定してしまいます。そしてイエス様が言った通りになってしまったと気づきました。あれほどどんなことがあってもついて行くと言ったのに、なんという失態!ペトロは激しく泣いてしまいます。イエス様を信じた者が周りに対する恐れから否定してしまうというのは途轍もない後悔を引き起こします。しかし、後でペトロは罪を赦され、信仰を公けにする者に変わります。主の再臨を待つ者とは、信仰を公けにする者なのです。

 イエス様は最高法院からローマ帝国のユダヤ総督のピラトの元に送られます。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあり、死刑は支配国の法律に基づいて行われたからです。ピラトはイエス様がひょっとしたらユダヤ民族の王かもしれないと思ったようです。宗教指導者たちがイエス様を引き渡したのは、彼が多くの人たちの支持を受けたため、自分たちの権威が脅かされると恐れたからだとわかっていました。別にこの男が王だとしても、ヘロデもローマに服従したし、誰が王になってもローマは服従させる自信はあります。

 さて、過越し祭の時にはユダヤ人の希望を聞いて死刑囚を一人釈放する慣行がありました。今ピラトの前に宗教指導者たちが集めた人たちがいます。ピラトが提案しました。ユダヤ人の王イエスを釈放しようか?しかし群衆は釈放するのはバラバだと叫びます。十字架刑はイエスだ、と。彼らは指導者の指示通りに叫んだのです。驚いたピラトが、イエスは一体どんな悪事を働いたのかと聞きますが、群衆はただ十字架につけろと叫ぶだけです。ピラトは十字架につけるのはイエス様に決め、バラバを釈放しました。そこからは屈強なローマの兵士たちがイエス様に対して容赦ない暴行を加えます。その後、イエス様は自分が吊るされる大きな十字架の木を背負わされて処刑場まで運ばされます。恐らく半殺しのような状態だったのでしょう、背負いきれなかったので、兵士たちは通行人のシモンに命じて一緒に運ばせました。

 ゴルゴタの処刑場に着くと、さっそく十字架につけられました。両腕を左右に引き伸ばし、両方の手首と一つに重ねた足首に五寸釘を打ち付けるのです。激痛といったらなかったでしょう。当時十字架刑は最も残酷な死刑の仕方でした。十字架の上で苦しんで死んでいく様子をずっと公けにさらしものにするのです。通りがかりの人が見て、指導者たちと一緒になってイエス様に嘲りと侮辱を叫びます。民族の解放者のように騒がれていたのに、なんだあのざまは、と。ついこの間、ロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムの町に入城した面影は全くありません。

 イエス様が十字架につけられて3時間ほどたった正午の頃でした。大地が突然暗くなるという事態が起きました。イエス様が神罰を受けて苦しまれている状態を象徴する現象でした。暗い状態は午後3時位まで続きました。ちょうど暗さが収まって明るくという境目の時に、イエス様が母語のアラム語で叫びました。「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのか?」これを聞いた人たちは、昔生きたまま天に上げられた預言者エリアが来て彼を天に上げてくれるように頼んでいると誤解しました。イエス様が直ぐ息を引き取らないようにと海綿に酸いぶどう酒を含ませて棒に付けて飲ませようとしました。しかし、イエス様はそのまま息を引き取られました。

 ちょうどその時、神殿では大変なことが起きました。神殿の中の最も神聖な場所で、大祭司だけが入れて神と対峙する至聖所の前にかかっている垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。イエス様が十字架につけられて激痛の中を苦しんでいる時、大地が暗闇に覆われた時、イエス様は人間の全ての罪の罰を受けたのであり、同時にイエス様と抱き合わせの形で罪も滅ぼされたのです。暗闇が終わってイエス様が息を引き取ったのと同時に、罪ある人間と神聖な神を分け隔てていた垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。まさにイエス様の体を神聖な犠牲として捧げたので、人間と神を分け隔てていたものがなくなったことが明らかになった出来事でした。不思議な暗闇の中でイエス様の前に立って一部始終を見ていたローマの軍隊の隊長はイエス様が息を引き取るや否や暗闇が終わったことに恐れを抱いたのでしょう。この方は本当に神の子だったと叫んだのです。

 イエス様の十字架刑の細かい出来事を見ると、例えば、兵士たちがイエス様の服を分け合うためのくじ引きを引いたこと、酸いぶどう酒を飲ませようとしたこと、またイエス様が最後に叫んだ言葉、これらはみな旧約聖書に預言されていたことでした。イエス様の受難は全て神の計画通りに進んだということです。

 さて、イエス様が亡くなられた後、最高法院の議員ヨセフがピラトのもとに行ってイエス様の遺体の引き取りを願い出ました。彼は神の国を待ち望む人でした。つまり、イエス様が神の国について熱心に教えたことを信じたのです。ということは、今の世が終わる時に起こる死者の復活も信じていました。復活に与る者が神の国に迎え入れられます。今イエス様は死なれました。この後どうなるのか?あの方は3日後に復活すると言っていたそうだが、今の世がまだある時に復活が起こるのだろうか?しかし、今はまだ何もわかりません。しかし、今しなければならないことは、イエス様の遺体が宗教指導者に引き取られて打ち捨てられるようなことがあってはならない。彼は勇気を出して占領国の総督ピラトの元に行きました。幸いなことに引き取りは認められて、イエス様の遺体を埋葬します。彼が埋葬したおかげで、3日後の空の墓の出来事が起こりました。イエス様の復活の重要な証拠になったのです。このように、主の再臨を待つ者は、他人がどう見ようが何を言おうが、イエス様が教えたことを信じて彼に敬意を抱いて行動すると、神は予想もしない大きな業をもって返して下さるのです。

 主の再臨を待つ者の心構えは、福音書の受難の出来事の他にも、本日の旧約の日課イザヤ書50章と使徒書の日課フィリピ2章にも示されています。

 イザヤ書50章は、イエス様が暴行を加えられる場面を想起させます。しかし、この主の僕は、神が自分の正しさを認めてくれているとわかっています。暴力をもってしても曲げられないと。主の再臨を待ち、神の罪の赦しの恵みの中で生きる者は、誰かが私を訴えようとしても、天地創造の神が私の無実の証言者になってくれているので、私にはやましいところはないという気概を持てるのです。

 フィリピ2章は、パウロがキリスト信仰者は自分のことだけを考えるのではなく、他の人たちのことも考えなければならない、それはイエス様がそうだったからだと言います。どのようにそうだったかと言うと、『神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたからです。この世で、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だったからです。』主の再臨を待つ者は、自分のことだけを考えるのでなく他の人たちのことも考える時、イエス様を身近な例として持っているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

歳時記

「この青い空の下で」

この歌はへイッキネン牧師時代に牧師夫人のセイヤさんが交わりの席で皆で歌ったフインランド(sley)の教会の歌です、八谷姉の伴奏ですぐに覚えました。讃美歌ではありませんがとても歌いやすく皆にも親しまれました。へイッキネン牧師にお願いしてこの歌をスオミ教会の愛唱歌、テーマソングにしたいとお願いしたら快諾され以来スオミ教会で長く歌い継がれてきました。フインランド語の歌詞を見ると何処にも青い空という単語が出て来ません。この歌を翻訳したのはペッカ・フフティネン牧師の夫人シルッカ・リーサさんでした。音楽の造詣に深く日本語にも堪能な夫人ならではの名訳だったと思います。

     193 Saman korkean taivaan alle

  • Saman korkean taivaan alle / on syntynyt kerran hän, / joka lahjoitti maailmalle / uuden toivon ja elämän. / Saman korkean taivaan alle, / luokse maailman kärsivän.


  • 2. Saman korkean taivaan alle / kerran kohosi ristinpuu. / Siinä turva on hukkuvalle, / vaikka kaatuisi kaikki muu. / Saman korkean taivaan alle / nousi toivon ja elämän puu.


  • 3. Saman korkean taivaan alla / tänään kylvämme siemenen. / Valta ei ole kuolemalla, / Jeesus Kristus on voittanut sen. / Saman korkean taivaan alla / yhä ääni soi rakkauden.

    作詞:Anna-Mari Kaskinen 1990

    作曲:Jukka Leppilampi 1991

1.この青い空の下に お生まれになった彼 希望あたらしい いのち 与えて下さった

 この青い空の下に 苦しい人のため

2.この青い空の下に 十字架たてたよ 嵐が吹く 寒い夜も 支えの十字架で

 この青い空の下に 希望の木たてたよ

3.この青い空の下に 今日も種をまいて 死にはもはや力はない イエスは死に打ち勝ち

 この青い空の下に 聞こえる愛の声 

 明日に向ってひらく 希望の花ひらく

訳:Sirkka-Liisa Huhtinen 

この歌詞をdeeplでざっくり訳しますと。

1.同じ高い天の下で、/彼はかつて生まれ、/世界に新しい希望と命を与えた。/ 同じ高い天の下で、/苦しむ世に。
2 同じ高い天の下に/かつて十字架の木があった。/ 溺れる者のための避難所がある。/ 同じ高い天の下に/希望と命の木がよみがえった。
3.同じ高い天の下で/今日、私たちは種を蒔く。/ 死には何の力もない、/イエス・キリストはそれに打ち勝った。/ 同じ高い天の下で、/それでも愛の声は鳴り響く。

この歌の出典は次の通りです。

シオンの笛-福音的歌曲集(Siionin kannel –sley)

「私たちの人生で最も大切なことを歌ったコミュニティ・ソング集です。福音主義運動のこれらの歌は、何よりも救い主の限りない愛と福音の喜びに共鳴している。一緒に歌っても、一人で歌っても楽しめる。

牧師の週報コラム

 ロシアのフィンランド系少数民族のルター派教会について

SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)はロシアにも宣教師を派遣しているが、同国での協力教会はフィンランド系少数民族のルター派教会である。正式名称を「イングリア福音ルーテル教会」と言う(以下イングリア教会)。

 ロシアのサンクトペテルブルグを中心に半径50100キロ範囲の地域は伝統的にフィンランド系民族が住む地域でイングリアと呼ばれる(フィンランド語でインケリ)。同地域は中世の時代からカトリックとロシア正教が覇を競い合う地域だったが、1500年代の宗教改革の時代にスウェーデンがルター派の国になり、1600年代にはバルト海をほぼ内海とする大国に。その時に多くのフィンランド人がイングリアに移住して同地域はルター派の地域となった。イングリア教会の正式な設立年は1611年である。

 ところが、1700年代初期の大北方戦争でロシアがスウェーデンに勝利すると、イングリアはバルト三国の大半と共にロシア領に。さらにピョートル大帝がイングリアのど真ん中に大都市サンクトペテルブルグの建設を開始。イングリア・フィンランド人は同地域で少数派に転落。他方で、1800年代初期にフィンランドがスウェーデンからロシアに半独立国のような形で併合された結果、フィンランドのルター派教会とイングリア教会の協力関係が深まることに。加えて、ナポレオン戦争後のロシアは欧州キリスト教の擁護者の自負が強かったこともあって、イングリア教会は帝国の保護も受けられ発展を遂げていく。多くの立派な教会堂が建てられたのもこの時期である。

 ところが、1917年のロシア革命後は共産党政権の下で徹底的に弾圧を受け、1930年代から60年代までは公けに活動ができなくなり、江戸時代日本の潜伏キリスト教徒さながら、地下で集会を守っていた。70年代に入って弾圧が収まり出し、ペレストロイカの時代になってフィンランドをはじめとする諸国の支援を受けられるようになり、接収されていた教会堂を次々と取り戻して通常の教会活動を再開、1991年には法的な地位を回復した。ところが、現政権の時代になってからロシア語化の圧力が高まり、若い世代のフィンランド語習得も減少を続け、礼拝もロシア語で行われる所が増えてきてしまった。現在のイングリア人にとってアイデンティティーの中核はルター派の信仰なのである。

 イングリア教会の神学校が修士課程を設置したことで博士レベルの講師が必要ということになり、昨年春SLEYから私に打診があった。今の国際情勢のもとでは現地で教えることなど出来ないが、オンラインで良いということなので引き受けた次第である。 

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スオミ教会・家庭料理クラブの報告

3月の料理クラブは9日に開催しました。冷たい北風が吹く日でしたが、太陽は明るく輝き春間近を感じさせる日でもありました。今回はイースター・復活祭に向けてパイナップル・ココナツケーキを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。初めにケーキの材料を測ります。小麦粉は測りではなく計量カップで測ると新しい方々はビックリ。ボールのマーガリンと砂糖をハンドミキサーでよく泡立てて他の材料を順番に加えると、生地はあっという間に出来上がります。生地をパイ皿に伸ばしてからオーブンで焼きます。その間にケーキの上にのせるものを準備します。水切りをしたパイナップルを細かく切ったり、トッピングのココナツを鍋で温めます。その時、オーブンからカルダモンの香りが広がってきて、中を見るとケーキもきれな色になってきました。焼き上がったケーキを取り出し、その上にパイナップルをたっぷりのせて、さらにトッピングのココナツをのせます。ケーキを再びオーブンに入れてきれいな焼き色が出るまで待ちます。すると今度はココナツの香ばしい香りが教会中に広がりました。「どんな味になるかなぁ」と皆さん、興味津々。出来上がったケーキはどれもきれいな焼き色がついて美味しそうでした。

今回は段階がいろいろあって作業の交替もあったので、少し忙しい雰囲気になりました。今回はまた幼稚園と小学生のお子さんがお母さんと一緒に参加して、大人たちと一緒に一生懸命にケーキ作りをしました。

出来たてのパイナップル・ココナツケーキを早速コーヒー・紅茶と一緒に味わいます。「美味しい!」の声があちらこちらから聞こえてきました。「カルダモンとパイナップルとココナツの組み合わせがこんなに美味しくなるとは!」と驚きの声もあがりました。こうして皆さんと一緒に美味しさ一杯の雰囲気で歓談の時を過ごしました。この時にフィンランドのイースタ・復活祭や神さまから頂く新しい命についてのお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さま感謝です。次回の料理クラブは4月13日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブの話2024年3月

イースター復活祭が近づく季節になりました。フィンランドではイースターは一年の中でクリスマスの次に大きなお祝いです。イースターは日曜日になりますが、前の金曜日から翌日の月曜日まで4日間フィンランドは休みになります。この大きなお祝いのために家庭では様々な準備をします。家の掃除を普段より丁寧に行い、イースターのお祝いの料理やいろんなお菓子を作ります。

私の母はイースターのお祝いも大事にして、いろんな種類のケーキやクッキーを作りました。それでいつも早めに準備を始めました。母が毎年必ず作った伝統的なデザートの一つにMämmiというものがあります。それは、ライ麦とライ麦のモルトで作った甘い黒い色のデザートです。作り方はライ麦とモルトをお湯に混ぜて、それを何時間も暖かい場所に置きます。そうすると甘味と黒い色が出ます。それに少しシロップと塩を入れてからオーブンの型に入れて低い温度で何時間も焼きます。母はいつもMämmiを大きい鍋で作りました。作る時に鍋を冷やさなければならないこともありました。冷やすために母は鍋を雪の中に置きました。私たち兄弟姉妹はいつもMämmiを少し早めに味見したかったので、この時を楽しみに待っていました。母が気づかないうちに子供たちは雪の中の鍋の中身を味見して指のあとが鍋の表面に残りました。味見した鍋のものは美味しかったですが、イースターのお祝いの日に出来たてのMämmiに生クリームか牛乳をかけて食べると、Mämmiの本当の美味しさがもっとよく分かりました。Mämmiは今もイースターのデザートの一つですが、作る家庭はあまりありません。お店で買うものになりました。

CC BY-SA 3.0 via Wikimedia CommonsMämmiの色は黒ですが、それはイースターの色ではありません。フィンランドではイースターの色は黄色とうす緑色と言われています。今日皆さんと一緒に作ったパイナップル・ココナツケーキはきれいな黄色なので、イースターにピッタリの色です。このケーキは私が一番初めに先生を務めた専門学校でもイースターのお祝いの時に良く作られました。ケーキの生地に入れるカルダモンとケーキの上にのせるパイナップルとトッピングのココナツは美味しい組み合わせです。フィンランドではパイナップルの他にピーチやアプリコットもイースターのケーキやお菓子の飾り物です。イースターの黄色にピッタリ合うからです。

黄色とうす緑色はどうしてイースターの色でしょうか?それは、イースターは神様から新しい命を頂くお祝いなので、黄色は卵の中から出るひよこの色、うす緑色は木の新しい葉っぱの色になり、それで新しい命を象徴する色になるのです。

ところで、最近フィンランドの女性の雑誌には、人はどのように新しく変わるかという記事がいろいろあります。人はどのように変わるでしょうか?私たちは外見を変えることで新しくなりたいと思うことがあります。髪の型を違うものにしたり、素敵な新しい服を着たりすることで、外見を変えることが出来ます。それで自分自身が新しく変わったと感じるでしょう。しかし、しばらく時間が経つと、また新しく変わることを望むでしょう。私たちはもっと深い意味で人生を新しく変えることを望むこともあります。

聖書の中には多くの人たちの人生が新しく変わったことについて書いてあります。一つの有名な話を紹介したく思います。それは、ザアカイという人の話です。ザアカイの人生はどのように新しく変わったでしょうか?

イエス様がエリコという町に来られた時の話です。大勢の群衆がイエス様を出迎えました。町には徴税人で大金持ちのザアカイという人が住んでいました。ザアカイは人々から決まり以上の税金を取ってお金儲けをしていたので人々から嫌われていました。ザアカイはイエス様を一目見たいと思いましたが、背が低かったので群衆に遮られて見ることが出来ません。そこで、道端にある大きなイチジクの木に登りました。木の上からだったらイエスがよく見えるでしょう。2006-09-08 by MMBOX PRODUCTION, www.christiancliparts.netザアカイは木の上からイエス様が道を歩いて来られるのを見ていました。するとイエス様は、ザアカイがいる木の方に近づいて来て、木の下で立ち止まって、見上げて大きな声で言いました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まろう。」これを聞いた群衆は驚いて言いました。「なんでイエス様は、あのような罪深い男の家に行くのだろう?」

ザアカイはどうしたでしょうか?彼は急いで木の上から降りてきて、イエス様を自分の家に連れて行きました。イエス様はザアカイが人々に嫌われていたことをご存知でした。イエス様はザアカイの家で神様について教えました。それを聞いたザアカイは、「主よ、私がしたことは間違いでした。これからは心を入れ替えます。今までだましとってきたお金を四倍にしてみんなに返します。」と言いました。それを聞いたイエス様は、「今日、神様はこの家の人たちを救って下さいました。」と言われました。ザアカイはイエス様を受け入れて、彼が世の救い主であることを信じるようになったので、人生が新しく変わったのでした。

このようにイエス様はザアカイがいるところに立ち止まって、自分のもとに来るように呼ばれました。イエス様は私たちがいるところも良くご存じで私たちのことも名前で呼ばれます。私たちもイエス様を受け入れると、ザアカイと同じように新しいものに変わってイエス様と共に人生を歩むようになります。イエス様の姿は見えませんが、イエス様は「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と聖書で言われています。

私たちはイースターの時期に自然も新しく変わることを見ることが出来ます。これから咲く桜の花もその一つです。それまで枯れたような桜の木がピンク色の花で一杯になると、いつもイースター・復活祭の新しい命のことを思い出させます。皆さんも今年は桜を見てイースターの喜ばしいメッセージを覚えて下さい。