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牧師の週報コラム 

僕らは二つの国の国民なのさ」

フィンランドの有名なゴスペル・シンガーソングライターのペッカ・シモヨキの曲の中に「僕らは二つの国の国民なのさ」Kahden maan kansalainenという歌があります。新約聖書フィリピ320節「我らの国籍は天に在り」とか「私たちの本国は天にあります」とか訳されている聖句に由来する歌です。キリスト信仰者とは、この世の国に属しながらも、天にある本国を目指してこの世を歩む者であるという心意気を歌い上げています。ご機嫌な感じのポップス・フォークソング・ゴスペルソングです。フィンランドの堅信礼のキャンプでも必ず歌われる若者向け聖歌の一つ、クリスチャンならみんな知っています。

何年か前にルーテル市ヶ谷教会で開催された一日教会祭にスオミ教会として参加した時に、急きょ日本語に訳して皆で歌いました。まだ不完全な訳ですが、一応歌える形にははなっています(単数形を複数形にしたのは誤訳ではなく、訳者の”神学的工夫”です!)。是非YouTubeで聞きながら試してみて下さい。(ペッカ自身が歌っています。同名の歌で歌詞メロディーが全く異なるものがあることにご注意!)

1.あしもとの  このくにも

  はてしない  てんごくも

  いつだって  ぼくらとともさ

  このくにも  たいせつな

  ともだちさ  いつかは

  わかれつげ  しゅイェスのみてつかむ

(以下を二回繰り返す)

  地にあしつけていきよう

  その目は天国みすえ

  わかるさ、どこにゆくか

  こくせき天にあるのさ

2.さわやかな  かぜかおり

  みみあらう  しおさい

  まいおちる  しろゆきもみた

  かけあしで  ときはすぎ

  くらやみが  ちかづく

  おそれるな  ふっかつはゆめじゃない

(以下を二回繰り返す)

  地にあしつけていきよう

  その目は天国みすえ

  わかるさ、どこにゆくか

  こくせき天にあるのさ

 

3.かたいつち  ほりおこし

  あらそいに  まくのさ

  ふくいんの  へいわのたねを

  すきをおく  ときがきて

  しゅうかくの ひまぢか

  おかえりと  まことのいえにつく

(以下を二回繰り返す)

  地にあしつけていきよう

  その目は天国みすえ

  わかるさ、どこにゆくか

  こくせき天にあるのさ

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2024年10月6日(日)聖霊降臨後第二十主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教

2024年10月6日 聖霊降臨後第二十主日

創世記2章18~24節

ヘブライ1章1~4節、2章5~12節

マルコ10章2~16節

説教題 「神の創造の秩序の中で生きる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

ファリサイ派の人たちがまたもやイエス様を窮地に追い込んでやろうと質問してきました。今回はモーセの律法集の中にある規定の一つで、夫が妻に離縁状を書いて別れてもいいという規定についてです。申命記24章1節にあります。別の所でイエス様は、不倫以外の理由で妻と別れたら、その妻を姦通の標的にしてしまうとか、夫と別れた女性と結婚する者は姦通の罪を犯すことになると教えていました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは広く知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか?申命記24章1節で言われていることは、妻に何か恥ずべきことがあって夫が気に入らなくなったら離縁状を書いて追い出していいと言っている、なのにこのイエスは神の掟をいたずらに厳しく解釈して人々を不安に陥れている。神の掟とイエスの教えが食い違っていることを公衆の面前でさらけ出してやろう、そういう魂胆でした。

 これから見ていくイエス様の答えは、いかに私たち人間は神の創造の秩序を深く考えないで、自分たちの思いを優先させてきたかを思い知らせるものでした。思い知らされた私たちは、どうすればいいのかと心配になります。イエス様の目的は私たちを心配させることではなく、私たちの心が彼の十字架と復活の業に向くようにすることでした。今日はそのことを見ていきましょう。

2.なぜイエス様は離婚は神の創造の秩序に反すると教えるのか?

 妻と別れてもいいのかと聞かれてイエス様は、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。別れてもいいという根拠はここにあるのだと。そこでイエス様は神の意思を明らかにします。律法に離縁状の規定があって離婚を認めているのは、人間の心がかたくなになっていることを神が考慮した結果なのだと。新共同訳では「心が頑固」と言いますが、「頑固」だと何だか頑固おやじみたいで、ちょっと微笑ましくもあり、あまり深刻な感じがしなくなってしまいます。ギリシャ語のσκληροκαρδιαは「心がかたくなな状態」という意味で、とても深刻な状態を意味します。どう深刻かと言うと、イザヤ書6章10節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下すと宣言した時、民の心を一層「かたくなにせよ

と言いました。それは、神の御言葉や業を見たり聞いたりできなくなるようにするということでした。それで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになることで、神に背を向けて神の御心を知ろうともわかろうともしない状態のことを言います。

 それでは、結婚に関して何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそうなのかというと、神の創造の秩序がそうだからと言うのです。では、神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれているギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言います。結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した父と母から離れて父と母がそうであったように一緒になることです。その一緒というのは神の目からすれば合体と言ってもいいくらいの結びつきです。それが神の意思であり、それに基づいて結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。

 それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?そこが問題の核心でした。それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間にあるからだ、とイエス様は言います。そのために神の御心を知ろうともわかろうともせず、その結果、安易な理由で別れたり、または相手を裏切って別の相手と一緒になるということが起こる。申命記24章1節の離縁状の条件は、「伴侶に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時」でした。この「恥ずべきこと」というのはヘブライ語でエルヴァト ダーバールと言いますが、「性的に不適切なこと」という意味です。いろんなふうに解釈される可能性があります。しかし、イエス様は、これを伴侶に対する裏切り、つまり不倫の1点に絞ったのです。そのようなことが起これば離縁状はやむを得ないと言うのです。そういうことがないのに伴侶のここが気に入らないとか、ましてや別の相手と結ばれたいというのが本心で嘘の離縁状を書いてはいけないと言うのです。神の創造の秩序を損なうようなことが相手側に起きてしまった時にやむを得ないものとして認められると。ところで、創造の秩序を損なうことは、伴侶を裏切ることの他に、DVのような伴侶に命の危険をもたらす事態も入れてよいと思います。十戒の第5の掟から明らかなように、命の危険をもたらす事態は神の意思に反するものだからです。そういう重大なこともないのに別れるのは、神の創造の秩序を損なうことになるのです。

 ここで私たちは一つ大事なことに気がつかなければなりません。それは、人間の心からかたくなさが取れて、神に背を向けた生き方をやめよう、神の意思をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?

 そのような心を持てるために私たちキリスト信仰者は、創造主の神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを思い返します。ひとり子のイエス様は十字架の死を遂げることで、私の神の意思に反しようとする性向、罪を神に対して償って下さいました。人間は、この神のひとり子の身代わりの死は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。罪を償ってもらったら、神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから、神と揺るがない結びつきをもってこの世を生きられるようになります。この結びつきはひとり子を犠牲にして神が与えて下さったものです。ちょっとやそっとのことで切れるものではありません。人生の中で「死の陰の谷」と言われるような苦難や困難の時が来ても、神が私たちと共に歩んで下さることが本当のことになります。この世から別れる時も結びつきを持って別れます。そして、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せられて、永遠に神の国に迎え入れられます。今日の福音書の日課の終わりでイエス様は、子供のように神の国を受け入れないとそこに入ることは出来ないと言われます。子供たちはどのように受け入れたのでしょうか?イエス様の元に行くことが神の国の受け入れでした。私たちにとって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることがイエス様のもとに行くことです。

 イエス様のおかげで自分は神から罪の赦しの恵みを受けて生きられるようになったとわかった人は、パウロがローマ12章の中で言うような心と態度を持つようになります。他人に対してへりくだる、高ぶらない、悪に対して悪で返さない、善を持って悪に勝つ、喜ぶ者と喜び、泣く者と泣く、少なくとも自分の方からは全ての人と平和な関係を保つようにする、自分で復讐しない、神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる等々。このような心と態度は、そうしないと神に認めてもらえないぞ、というような脅かしではなく、イエス様のおかげで先に神に認められてしまったからこのような心と態度が続いてくるのだ、それを忘れるなというとても重い注意喚起です。

 そうは言っても、未熟さや力不足で人間関係、夫婦関係で火花が散ってしまうこともあります。そんな時はいつもゴルゴタの十字架に立ち返ります。そこは、赦すことが自分にとっても相手にとっても大事だとわかるところです。私たちは自分が受けた大いなる赦しを、いつも思い出さなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。自分への言い聞かせは、聖書の御言葉の宣べ伝えを聞いたり(ちょうど今みなさんされているように)、自分で聖書を繙いて罪の赦しの恵みが自分の内に根付くように祈ることです。そして、私たちキリスト信仰者には聖餐式があります。それは、洗礼の時に注がれたこの恵みが自分の内に一層根付くようにする恵みの手段です。

3.なぜイエス様は離婚した後の再婚は姦淫になると教えるのか?

イエス様は離婚はいけないと言うだけでなく、離婚した後の再婚は姦通、姦淫になるなどと驚くべきことも言われます。日本語の「姦淫」とか「姦通」と言う言葉は、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語ではとても単純明快でずばり「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉です(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の言葉はadulteryで、英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、「不倫」です。

 離婚後の再婚を姦淫と言うのは少し言い過ぎではないかと言いたくなります。正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのでは?しかし、イエス様はそうは見ない。なぜでしょうか?それは、先ほど見た神の創造の秩序があるからです。

 男性と女性がそれぞれ生まれ出てきた父と母のもとを離れて神が結びつけて一つの肉になる、これが結婚です。そこに外部のものが入ってきて神がせっかく結びつけたものを壊してしまうのが姦淫です。しかし、離婚の場合は結びつきを解消したのだから再婚しても姦淫にならないのではと思われるのですが、イエス様はそうだと言われる。それは、一度一つになったら人間の目では別々になっても、神の目から見たら、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は原則消せないということのようです。つまり、神が結びつけたものは神の記録に記される、人間が解消できたと言ったら、自分には神の結びつけの力よりも強い力があると言うことになります。これは、神は認めないでしょう。離婚の後の再婚をイエス様が姦淫と言うのは、神の記録に記されたことを人間は無効に出来ないということの裏返しです。

 しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の厳しい教えを守っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと言われます。それを神の意志に反するなどと言われてはたまらない、そんな神は相手になんかしないという気持ちを引き起こします。あるいは、自分の信じたい神様はそんな偏狭な方ではない、もっと物わかりのいい方だ、と自分都合の神を持ち出してしまうかもしれません。どっちにしても創造主の神に対し心をかたくなにすることです。どうしたらよいでしょうか?

 イエス様は、人間にとっての「新しい出会い」、「人生の再出発」は神の意志に反することだと言われる。他にも心の中で描いただけでも罪だなどと言われる。そこまで厳しいことを沢山言って、人々を後ろめたい気持ちにさせて、イエス様は偉そうにふんぞり返っていたでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は人間が持つ神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべての面で神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間が神との結びつきを持てなくなってしまった状態を変えようとして身を投じたのです!それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けて人間が受けないで済むようにして下さったのです。

 イエス様を救い主と信じる心には神から罪の赦しの恵みが注がれています。イエス様のことも神の意思についても何も知らずに新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて罪の赦しの恵みを受けて生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神との結びつきを持てて神の守りと導きの中で生きられるようにしようと、ひとり子を惜しまなかった神の愛です。私たちがしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を犠牲にしなければならないほどの重大なことだったとわかれば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きるか、行うか、考えるか、言葉にするか、全てにおいて神に背を向けず、神の方を向いてするようになります。そうすれば神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しに相応しいものに変えられるはずです。

4.勧めと励まし

最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚の結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ19章12節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。

 使徒パウロは未婚者とやもめに対して結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います(第一コリント7章)。そうかと思えば、結婚しても罪を犯すことにはならない、してもいい、とも言います。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、もうすぐ最後の審判や死者の復活が起きる、そういう緊迫した雰囲気が当時のキリスト信仰者の間で強くありました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちました。今ある天と地はまだそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではありません。イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ24章14節など)。

 それでも、キリスト信仰者はイエス様が命じるように(マタイ24章44節など)いつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは何か矛盾があるように感じます。この世の終わりが来ると言うのに何の意味があるのかと。その場合は、ルターのように考えます。家族とか伴侶とか子供というものは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って忠実に世話し守り愛し育てる。もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は有限とわかればとても大事なものとわかります。贈られたものと一緒にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そして、キリスト信仰は「復活の日の再会の希望」を持つ信仰です。終末と復活が裏表になっていることがわかれば、有限でもこの世で愛情を注ぐべきものがあることは素晴らしいことだとわかります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

歳時記

 

過日、元スオミ教会の教会員であった青木さんがバッハのロ短調ミサ曲のコンサートに行かれその感激をFBに投稿されていました。この曲はマタイ受難曲と並ぶバッハの傑作で私もよく聞いています。 手持ちのCDは山梨の家に置いてあるのでyoutubeでカールリヒターの盤で視聴しました。敬虔なルター派教徒のバッハがカトリックのミサを音楽で表現したロ短調ミサ曲は一部にプロテスタントの典礼も取り入れたためにカトリックの典礼でも使用できないものになってしまいました。しかし音楽としては大変素晴らしく聞くたびに感動を覚えます。曲の構成はキリエ・グローリア→クレド(ニケア信条)→サンクトゥス(ここにプロテスタントの典礼を用いた)→「オザンナ(聖なるかな)」「アニュス・デイ(神の小羊)」「ドナ・ノビス・パチェム(平安)」私たちの礼拝の流れとよく似ている事に気づき少し驚いています。2時間あまりの大曲ですが興味がおありでしたらどうぞ。カール・リヒター+ミュンヘンバッハ管弦楽団+ミュンヘンバッハ合唱団の組み合わせは最高ですね。wunderwar!

手芸クラブの報告

この秋の最初の手芸クラブは9月25日に開催しました。今まで暑い日がずっと続いていましたが、やっと少し涼しくなってホッとした朝でした。

今回の手芸は編み物です。冬に備えてフィンガーレスの手袋を編みます。参加者の皆さんは好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。初めにフィンガーレスの出来上がり例を見て自分の作りたいものを選びます。今回編み物は初めてだったので、編み物のいろいろな基本を練習してから始めました。フィンガーレス手袋を編む時、初めは作り目を四本の編み棒に作ります。それから四本の編み棒を付け編むと丸いものになります。始めは手首のところを表編みと裏編みを交互に編みます。十段になってから毛糸の色を変えます。編み物は完成まで時間がかかるので、今回は手首のところでストップしました。参加者の皆さんは編み物にとても集中したので、時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。次回はフィンガーレス手袋の続きを編みます。

テーブルのセッティングをして皆で席に座ると肩も目もリラックスできました。フィンランドの今の季節にピッタリなフィンランド風アップルケーキをコ―ヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。そこでいつものように聖書のお話を聞きます。今回の話は、フィンランドで贈り物として頂いた素敵な靴下に教会の模様があることや、教会とはイエス様が船長でおられる船であるという内容でした。

次回の手芸クラブは10月30日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブのお話2024年9月

暑い日々が終わって涼しくなりました。今フィンガーレス手袋を編むのは早いと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、涼しい秋はもうすぐです。今フィンランドではもう涼しい秋になって朝の空気は冷たく感じます。この季節に多くの人たちは自転車で学校や仕事に通いますが、少し寒いので、手袋やフィンガーレスが必要です。今フィンランドではフィンガーレスを編み始めるのは少し遅いですが、日本では今は寒い季節に備えて良いタイミングだと思います。もちろん編む速さによりますが、編み物は完成までしばらくかかります。今日始めたフィンガーレス手袋は寒くなるまで完成すると思います。そのように頑張りましょう。

フィンランドでは編み物は夏の手芸でもあります。女性たちは寒い冬の準備のために暖かい靴下や手袋を編みます。今年の夏私たちは一時帰国して私たちの日本での働きを支える教会を訪問しました。一つ訪問した教会はフィンランドの真ん中辺にあるレイスヤルヴィという町でした。そこでの集会の終わりに私たちはこのような暖かい素敵な靴下をもらいました。模様もとても多いです。靴下のデザイナーはその集会にも参加されたレイスヤルヴィ教会の会員でした。そこで女性は模様の意味を説明してくれました。靴下の真ん中の二つの模様は特別です。一つはレイスヤルヴィの教会、もう一つはレイスヤルヴィの町の紋章を表しています。デザイナーはどうしてこの模様を選んだのでしょうか。これらはレイスヤルヴィの道しるべだからです。このデザイナーにとってレイスヤルヴィと教会は大切だからこの模様にしたのです。靴下にあるハートの模様はそれを象徴します。もし皆さんがデザイナーでしたらどんな模様にするでしょうか。

私は初めて教会の模様がある靴下をもらってとても嬉しかったです。フィンランドでは教会は地域のシンボルです。フィンランドの国民の60パーセント以上はフィンランドの国教会のメンバーで、教会に深い帰属意識を持っています。教会は人々の人生の中で重要な役割を果たします。フィンランドでは赤ちゃんが生まれたら多くの赤ちゃんは幼児洗礼を教会で受けます。洗礼を通して赤ちゃんは教会のメンバーになります。子どもは15歳になると、教会で堅信礼の儀式を受けます。多くの親戚も参加します。これは若者にとって大事な節目です。教会では後、結婚式や葬式も行いますので、人生において教会は多くのことに関わっています。教会は儀式を行う場だけではありません。教会は毎週礼拝を行いそこで聖書を通して神さまのみ言葉を述べ伝えます。神さまはみ言葉を通してご自分自身のことを私たちに教えて神さまの元に導いて下さいます。み言葉を通して私たちは神さまの意思が分かるようになります。

フィンランドの南西部にある教会は会堂に大きな帆船の模型が吊るして飾ってあります。船はどんな意味でしょうか。教会とは海で揺れる船のことを意味します。教会という船には乗客も乗って船長はイエス様です。聖書の中にはイエス様と弟子たちがガリラヤ湖を船で渡った時の有名な話があります。イエス様が弟子たちと船に乗ってしばらくしてから嵐が起きて船は沈みそうになりました。弟子たちは怖くなりましたが、イエス様は船の中で寝ていました。弟子たちはイエス様に「先生、私たちがおばれてもかまわないのですか。」と言って起こしました。Nheyob, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons イエス様はどうしたでしょうか。イエス様は起きて、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、湖は静かになりました。イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

船は天候の良い日に海で真っ直ぐ進んで行きますが、嵐の日も来ます。その時進みは難しく行くべき方向も分からなくなります。私たち人間も海の上に浮かぶ船に乗っているようなものです。私たちの人生の中にはいろんな時、生活は問題なく穏やかな時ですが、嵐みたいな試練がある時もあります。私たちは弟子たちと同じようにパニック状態になるかもしれません。イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」イエス様は弟子たちと同じ船におられ風を静めたので、弟子たちは安心しました。イエス様は私たちと一緒にいて下さると、私たちも安心できます。このようにイエス様が共にいて下さると、試練が来ても、それは軽くなるのです。

イエス様は共にいることを私たちにも約束しています。私たちはイエス様を受け入れてイエス様は天の神さまの独り子であると信じることが出来ると、イエス様はどんな時があっても私たちと共にいて下さいます。新約聖書ヨハネ黙示録には次の言葉があります。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開けるものがあれば、私は中に入ってそのものと共に食事をし、彼も、また私と共に食事をするであろう。」ヨハネの黙示録3章20節

レイスヤルヴィで頂いた素敵な靴下は足を温めてくれますが、イエス様を信じることを通してイエス様と繋がりがあるから靴下は心も温めてくれます。

牧師の週報コラム 

フィンランドの「道の教会」

日本の地方の一般道を車で走ると「道の駅」に出くわします。農産物をはじめ地域の食材や特産品の売店があったり、喫茶店や食堂もあったり、場所によっては温泉にも入れます。 高速道路のサービスエリアと違って、まさに地道に地方を旅している雰囲気を味わえ、立ち寄ってみたくなる施設です。

夏のフィンランドの地方を車で走ると「道の教会」に出くわします。フィンランド語でTiekirkkoと言い、スウェーデン語系住民が多い地方ではVägkyrka、夏の期間、道路庁の公認の道路標識としてあちこちに立てられます。「道の教会」とは、旅行や仕事で移動中の人が、標識のある教会に立ち寄って自由に見学してもよし、座って心を落ち着かせる時を持つのもよし、というフィンランド国教会の夏のオープンドア・イベントです。時間帯によってはオルガン等の演奏を聴かせる教会もあります。すべて無料です。

夏の前にホームページにその年の「道の教会」が告知されます。今年は260程の教会が指定されました。フィンランドは町の郊外に出ると、小さいながら牧歌的で可愛らしい教会が無数にあります。南西部には中世の時代に建てられた石造りの教会が多く、それ以外の地域では17001800年代に建てられた木造りの教会が沢山あります。

それらの教会を訪れると、大抵は人はまばらか、誰もいない時もあります。売店もカフェも何にもありません。サウナもです。とにかく静かのひと言につきます。石造りの教会はやや暗くひんやりし、木造りの教会は明るく暖かい感じがします。中に入ると自然に聖卓へと足が進みます。周りの壁の装飾や絵画、石造りの教会なら壁画そして天井など上下左右を見回しながらゆっくり進みます。聖卓の前で立ち止まり、正面の十字架あるいは宗教画を見上げた後、回れ右をして戻ります。途中、少し長椅子に座ってみようかという気分になります。座っていると時間が停まったような感覚になり、都会の喧騒や心の中の騒がしさが静けさに呑み込まれてしまったことに気づきます。さて出発しようかと立ち上がろうとするのですが、慌てる必要はない、もっと座っててもいいのでは、という声が心の中でするかのようです。教会は赤ちゃんの洗礼から10代の若者の堅信礼、結婚式、葬式まで人の一生と共にあります。人の一生を包み込む神の祝福に触れることができたからでしょう。

2024年9月29日(日)聖霊降臨後第十九主日 主日礼拝  説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教

2024年9月29日 聖霊降臨後第十九主日

民数記11章4~6、10~16、24~29節

ヤコブ5章13節~20節

マルコ9章38~50節

説教題 「救いを勝ち取るために良い業をするのか?救いを得たからするのか?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日の福音書の日課には二つの異なるテーマがあります。一つは、38節から40節まで、キリスト信仰者ではなくてもキリスト信仰に好意的肯定的な態度を取る人のことを神はどう見るかという問題です。

 イエス様の弟子グループに入っていない人がイエス様の名前を使って奇跡の業を行っていました。弟子たちは、グループに入っていないのだからやめさせるべきと考えましたが、イエス様はやめさせるべきではないと。イエス様グループに反対しない者はグループの側に立っている、つまりキリスト信仰に反対しない者は信仰の側に立っているというふうに聞こえます。

 さらに40節では、イエス様の弟子たちに水一杯を飲ませる者は神から報いがあると言います。相手がキリスト信仰者だという理由で飲ませる、と言っていることに注目します。キリスト信仰者に助けの手を差し伸べるのが何か問題になる状況が前提されています。言うまでもなく、迫害の状況です。困っているキリスト信仰者を助ける方は困っていないので迫害を受けていない、ということはキリスト信仰者でない人です。キリスト信仰者でない人があの人はキリスト信仰者だとわかって助けると報いがある。報いというのは、善いことをしたら、ご褒美に何かいいことがあるというようなこの世的ご利益ではありません。マタイ5章11節で「天には大きな報いがある」と言っているように、「報い」とは、将来、天の御国、神の国に迎え入れられることです。さて、キリスト信仰者でなくても信仰者を助けたらそれで天国に入れるということになります。そうなると、イエス様を救い主と信じる信仰以外にも道があることになります。本当にそうなのでしょうか?このことを後で見ていきます。

 もう一つのテーマは41節から50節まで。信仰を躓かせるもの、つまりキリスト信仰者を神の意思に反するように導いてしまうものがあることについてです。そういう者は重石を抱き合わせにして海に投げ込んでこの世から消してしまうのがいい、その方が信仰者が神の意思に反するようになるよりもはるかによい、と言います。しかし、実際にはそういう海への投げ込みは起こりません。イエス様は、ただ、その方がましだ、と言っているだけです。海に投げ込まれた方がよさそうな者たちが大手を振っているのがこの世の現実です。なので、キリスト信仰者はそういう者と手を合わせて神の意思に反しようとするものが自分の内にあることを認めてそれと戦わなければなりません。イエス様は、手足目など体の部分が神の意思に反するように導こうとするならば、それらは

り取ってしまえ、五体不満足で天の御国に迎え入れられる方が、五体満足のまま炎の地獄に投げ込まれるよりいいのだ、などと言います。とても極端なことを言っているように聞こえます。果たして私たちキリスト信仰者は、体の部分を切り取らずに五体満足の状態で天の御国に迎え入れられることができるのでしょうか?このことも後で考えてみます。日課の最後は塩について言われています。キリスト信仰者が神の意思に反しようとするものと戦うこと、これが、自分の内に塩を持っているということです。このことも説教の終わりで見ていきます。

2.信仰の告白としての良い業

イエス様の弟子のグループに入っていない人がイエス様の名前を使って悪霊を追い出していました。弟子たちはやめさせようとしましたが、イエス様はそのままにしておいてよいと言われました。その理由は、「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい」でした。これは、どういう意味でしょうか?直ぐ後でイエス様の悪口は言わないということは、一時したら言うようになるということなのか?イエス様はそれでもいいと言っているのか?ここのギリシャ語の原文はとても微妙です。可能性を表す助動詞の未来形がさりげなく使われているからです。この助動詞がある場合とない場合でどう意味が異なるかを考えながら、この個所を何十回も読み返してみました(後注)。恐らく次のようなことではないかと考えるに至りました。「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で私の悪口を言う可能性はない。」つまり、すぐ後で悪口を言う可能性はないが、一時したら言う可能性がある。言う可能性があるということは、言わない可能性もある。つまり、一時したら必ず悪口を言うようになるとは限らない。悪口を言わないまま続く場合もあるということです。イエス様の反対者になる可能性はあるが、イエス様と一緒になる可能性もあるということです。

 イエス様の反対者になる可能性としてどういう場合が考えられるでしょうか?神は何らかの理由で弟子でなくてもイエス様の名前を出したら奇跡を起こさせることをされました。しかし、神はそれをやめさせることも出来るのです。やめさせられたらその人はイエス様に背を向けるようになるでしょう。いつ神はやめさせるでしょうか?それは、その人がいい気になって、自分が何か言えば全部イエスは聞き従ってくれると錯覚するようになった時です。

 実際、イエス様の名前を出しても、奇跡が起きないという事例が使徒言行録19章にあります。ユダヤ人の祈祷師たちが悪霊に取りつかれている人に「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言いました。すると、悪霊は次のように言い返したのです。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして悪霊に取りつかれた人が祈祷師たちに襲い掛かったのです。イエス様を救い主と信じる信仰がなければ、イエス様の名前を出しても効果はなく、逆に危険なのです。

 イエス様に属していなくても彼の名前を使って奇跡を起こした人が反対者にならないでイエス様に属するようになるというのは、どういう場合でしょうか?それは、その人がイエス様の名前を使うと神の力が働くのを目の当たりにして、この名前の持ち主は一体どんな方なのだろうと真面目に考えるようになることです。その方は十字架と復活の業を遂げた救い主であるとわかって、イエス様を救い主と信じるようになることです。神がどういうわけかこの私を選んで奇跡の業を起こさせたことに対して畏れ多い気持ちになって信仰に入ったということです。このようなプロセスに入らないで、ただイエス様の名前を使って奇跡を行い続けることは神の意図するところではありません。遅かれ早かれ打ち切られるでしょう。

 以上は、イエス様に属する者ではなかったが、属するようになる可能性があることについてでした。次に、キリスト信仰者でなくても、信仰者が困っている時に助けてあげると天の御国に迎え入れられるということについて見てみます。17世紀の日本のキリシタン迫害の歴史を見るまでもなく、迫害というのはいつも恐ろしい位に徹底していています。キリスト教徒や宣教師を匿ったり世話をしたことが発覚したら、キリスト教徒でなくても全く同じ拷問を受けます。こういうふうに迫害というのは、水一杯を飲ませることさえ命にかかわることなのです。それにもかかわらず、相手がキリスト信仰者だとわかって、命にかかわるとわかって助けてあげるというのは、天の御国に迎え入れられるという報いに値するのだと言う。これは、善い業を行ったらキリスト信仰者でなくても救われるということなのでしょうか?私たちルター派の場合、救いは善い業に基づかない、救いを果たしたイエス様を救い主と信じる信仰に基づく、それとイエス様がもたらした救いを洗礼を通して自分に注ぎ込むことに基づくということを強調します。この考え方とどうかみ合うでしょうか?

 この問題で一つ思い出したことは、ルカ福音書23章でイエス様が二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられた時、犯罪人の一人が神を畏れてイエス様を救い主と信じる言葉を口にしたことです。これを聞いたイエス様はその人も神の国に迎え入れられると告げました。信仰を告白することが神の国という報いと結びついているのです。そこでキリスト信仰者でない人が自分に降りかかる危険を顧みずに信仰者を助けるというのは、どういうことか考えてみます。イエス様はそれが神の国の報いと結びつくと言っています。つまり、神はこの助ける業を信仰の告白と同等に見なされるのです。ここで注意すべきことは、信仰を告白することは、救いを得るためにする業ではないということです。イエス様を救い主と信じます、なぜならイエス様は罪がもたらす滅びから私を救って下さったからです、私に救いを与えて下さったからです、それで信じますというのが信仰の告白です。救いを得るためにする業ではありません。救いを得たからする業なのです。ルカの犯罪人は、イエス様は罪がもたらす滅びから救い出してくれる唯一の方だと信じ、それ以外のことは見えなくなったのでした。マルコの危険を顧みないでキリスト信仰者を助けることは、真に恐れるべきものは創造主の神であって、迫害を行う権力者やそれに加担する社会ではないということがわかったということです。迫害を受けているキリスト信仰者を見て、神こそが真に恐れるべき方だとわかる、それで助けることは信仰の告白になるのです。それでこの助けは人道支援ともヒューマニズムとも違うものなのです。

 ここで少し脇道に逸れますが、マタイ12章30節でイエス様は、私の側についていない者は私に反対している、私と一緒に集めない者は散らしていると言い、イエス様と一緒にいない者を反対者扱いします。この言葉は、イエス様が悪霊を追い出している時に、イエス様に反対するファリサイ派の人たちが、あいつは悪霊の頭の力を使って追い出していると中傷した時の反論です。今日のマルコのイエス様の名前を使って悪霊を追い出している人の場合は、キリスト信仰に入る前の段階のことで、イエス様はその人が信仰に入る可能性があることを言っていました。マタイの場合は、イエス様が言うように、ファリサイ派は聖霊を冒涜しています。既にこの時点でイエス様に背を向けてしまっているのです。それで、厳しい言い方になったのでしょう。

3.イエス様が五体満足で天の御国に入れるようにして下さる

次に信仰に躓きを与えるもの、神の意思に反しようとさせるものとどう戦うかについて。最初に申し上げたように、この世は神の意思に反するように導く力が沢山働いています。それなので、キリスト信仰者はそういう力と結びついて神の意思に反しようとするものが自分の内にあることを認めてそれと戦わないといけないのです。どう戦えばいいのでしょうか?イエス様は、手足目など体の部分が神の意思に反するように導こうとするならば、それらは切り取ってしまえ、五体不満足で天の御国に迎え入れられる方が、五体満足のまま炎の地獄に投げ込まれるよりいいのだ、などと言います。しかし、汚れた部分は切り取って残ったきれいな部分だけで天の御国に行くことは可能でしょうか?それは不可能です。なぜなら、人間は全身全霊が神の意思に反するもの、罪に染まってしまっているというのが聖書の立場だからです。いちいち切り取っていたら、何もなくなってしまう位に染まってしまっているのです。イエス様もそのことはわかっています。人間は自分の力で救いを得ることは出来ないということをイエス様はこの極端な言い方で教えているのです。私たちは救いのために自分の力では何もできないと思い知ります。

 だから、父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。私たちが罪の罰を受けないで済むようにひとり子に罪を負わせて代わりに罰を受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。しかもそれで終わらず今度はイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。私たちがこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、イエス様が打ち立てた罪の償いと罪の赦しを自分のものにすることができます。そして永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、それを神との結びつきの中で歩むようになります。この世にある限り、肉を纏う私たちの内にはまだ罪が残りますが、そんなのおかまいなしに、洗礼を通してイエス様の無罪(むつみ)、神聖さ、義を衣のように頭から被せられます。この神聖な衣をはぎ取られないように、しっかり掴んで歩むのがキリスト信仰者の人生です。この衣を手離さないでしっかり纏い続けることが、罪に反対して生きていることの証になります。たとえ、神の意思に反することが出てきてしまっても、心の目をゴルゴタの十字架に向ければ、あそこに罪の赦しがあるとわかります。あの方のおかげで体の部分を切り取らなくてよいと安心し、感謝に満たされます。このように罪の赦しという神の恵みに留まることが出来れば、罪の鋭い棘はどんどん鈍くなっていきます。まさにイエス様の神聖な衣を被せられて、その重みで罪を圧縮していくのです。イエス様の神聖な衣をしっかり纏っている限り、私たちは何も切り取る必要はなく、五体満足で天の御国に迎え入れられるのです。

4.勧めと励まし

本日の日課の終わりのところで塩について言われていました。「火で塩味をつけられる」というのは、その前にある地獄の火とは全く異なる火です。人が塩を持てるようにする火です。その塩を持てれば互いに平和に過ごすのが当然になると言うのです。塩は何を意味するのでしょうか?パウロは「ローマの信徒への手紙」の中で、キリスト信仰者とはイエス様を救い主と信じる信仰によって神から義と認められた者、洗礼を通してイエス様の十字架の死と復活に結びつけられて罪に背を向け永遠の命に向かって生きるようになった者であると言います。そのキリスト信仰者がこの世でどういう心と態度を持つようになるかについて同じ手紙の12章で詳しく述べられています。他人に対してへりくだる、高ぶらない、悪に対して悪で返さない、善を持って悪に勝つ、喜ぶ者と喜び、泣く者と泣く、自分で復讐はしない、神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる等々あります。今日の日課の終わりと同じ、全ての人と平和な関係を保てということもあります。そういう心と態度のことです。これらは、キリスト信仰者はしなければ神に認められないと言っているのではなく、神に認められたからこのような心と態度を持つようになるのだ、忘れるなという注意喚起です。こういう心と態度が塩です。火で塩味を付けるというのは、恐らく洗礼を暗示していると考えられます。洗礼者ヨハネは、イエス様は聖霊と火を持って洗礼を授けると予告しました。聖霊降臨の時、弟子たちの上に炎のような舌が分岐して下ったとあります。洗礼を通して、私たちの全身全霊は新しい心と態度を持つように焼き直されたのです。兄弟姉妹の皆さん、私たちにはこの塩が備えられていることを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)

原文は以下の通り。可能性を表す助動詞がδυνησεταιあります。

ουδεις γαρ εστιν ος ποιησει δυναμιν επι τω ονοματι μου και δυνησεται ταχυ κακολογησαι με

原文からこのδυνησεταιを取りのぞいたら次のようになります。

ουδεις γαρ εστιν ος ποιησει δυναμιν επι τω ονοματι μου και ταχυ κακολογησει με こちらの方が、「奇跡の業を行った直ぐ後でイエス様の悪口を言わないが、一時したら悪口を言う

の意味がはっきりすると思います。原文のようにδυνησεταιがつくとどう違ってくるかということを考えに考え、説教文にあるような見解に達しました。

聖餐式

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

牧師の週報コラム 

教会の日曜礼拝は人生という旅路の休憩所

この夏フィンランド滞在中、トゥルク市にあるSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)のルター教会の礼拝に参加した時のこと。 礼拝中に牧師が二人の信徒を前に呼び出して、会衆の前で質問。「あなたはなぜ教会の礼拝に参加するのか?」一人は大学生の女性、もう一人は小さな子供がいる30代の父親。

大学生の答えは、友達に会えること、若者が多い教会なので新しい友達が出来ることも期待している、と。因みにルター教会の礼拝出席者数は200300人位あり、(クリスマスシーズンを除く)通常の礼拝ではフィンランドで最も礼拝出席者が多い教会の一つである。ヘルシンキ市にある聖心教会(これもSLEY)はさらに多く300400人位。しかも、どちらも若者や子供連れ家族が年配者より多い。私が90年代にルター教会に通っていた頃は100人位で年配者の方が多かった。世代交代が見事に成功したのだ。90年代以後、フィンランド国民の教会離れが進み、国教会所属率は80%台から60%すれすれまで落ち、多くの教会の礼拝は人がまばらになってしまったのとは全く対照的な展開を遂げた。

若い父親の答えは、自分にとって人生とは天の御国を目指して歩む旅のようなもの、その旅路の中で日曜礼拝は荷物を下ろして休憩できる場である、聖書の御言葉と聖餐式を通して霊的な栄養を得て、また荷物を背負って歩み出せる、一週間後また休憩所で一息つけるんだとわかって歩めるのは素晴らしいと。

父親の答えには多くの聖書の御言葉が凝縮されている。大海原に船出して嵐に遭遇しつつも神に助けられて望みの港に到着するという詩篇107篇、実際に嵐を鎮める力を示したイエス様(マルコ4章など)、旅人の出発から目的地到着まで神が守って下さるという詩篇121篇、神に贖われた者たちが危険から守られて大路を進み、嘆きと悲しみが消え去る目的地に歓喜の声で迎え入れられるというイザヤ35章、苦難の時も良い羊飼いに守られ野原や水辺で憩う時を持ちながら目的地に進むという詩篇23篇、自分はその羊飼いであると証ししたイエス様(ヨハネ10章)、復活の日に復活に与ることを目指してひたすら走るというパウロ(フィリピ3章)、そして「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」というマタイ1128節の主の言葉などなど。

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歳時記

< 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩篇103:15・16>

葛の花

家人が一輪の葛の花を摘んできました。手に取りその臭いを嗅ぐと驚くほど素晴らしい香りでした。そう、春に咲いていた桜の「駿河台匂い」の香りに近いかもしれません。駿河台匂いは仄かな香りでしたが葛の花はもっと自己主張の強い香りです。残念なことに花の命は儚くすぐに萎んでしまいました。先日思い切って葛の葉の採取に膝の痛みと相談しながら小散歩に出かけました、幸い膝はおとなしくしてくれていたので採取は成功でした。採取した葛の花をコップに挿してそのふくよかな香りを楽しでおります。花房を丹念に見ると先端の明るい銀鼠色の蕾が下に向かって次第に紫色を帯びた深みのある色になり最後に開花して紅紫色の花弁になります。この見事な色のグラデーションが葛の花の深みを帯びた紅紫色にしているのは蕾時代の銀鼠色のせいかもしれないと独り合点しています。余談ながら葛からは葛粉、葛布など古来から日本人の生活に欠かせない大事な植物でした。

<葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり  釈迢空 >

2024年9月22日(日)聖霊降臨後第十八主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教

2024年9月22日 聖霊降臨後第十八主日

エレミヤ11章18~20節

ヤコ3章13節~4章3、7~8a節

マルコ9章30~37節

説教題 「道徳論や人権論とは異質なキリスト信仰」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様と弟子たちの一行はエルサレムに向かって南下する旅をしています。今日の日課の出来事は、一行がガリラヤ湖畔の町カファルナウムに来た時の話です。少し前にイエス様は自分がエルサレムでユダヤ教社会の指導者たちに捕らえられて殺される、しかし、三日後に復活すると予告していました。それを聞いて驚いたペトロがそんなことがあってはならないと反対すると、イエス様はペトロを厳しく叱り、お前は神のことを思わず、人間のことを思っている、と言われました。弟子たちにとってイエス様は期待のヒーローでした。イエス様の権威ある教えを聞いて無数の奇跡の業を味わった人たちも思いは同じでした。当時ユダヤ民族はローマ帝国に支配されていたので、いつかそれを打ち倒してかつてのダビデ王の王国を復興させてくれる王の到来を期待していたのです。イエス様に注目が集まったのも無理はありません。

 私たちは、メシアという言葉が救世主を意味すると知っています。もともとの意味は「香油を頭に注がれて聖別された者」で、ユダヤ民族の伝統では王様がメシアの代表格でした。それでイエス様の時代、メシアを民族を超えた全人類の救世主と考える向きはほとんどありませんでした。なので、イエス様をメシアと言って担ぎ出してしまうと、ローマ帝国から反乱者と見なされて弾圧されてしまいます。神が定めた救世主の目的を果たすまでは邪魔されてはいけないのです。十字架と復活の出来事が起きる前、なぜイエス様は自分がメシアであることを公けにするのに消極的だった理由がわかります。ガリラヤ地方に来た時、人々に知られたくなかったのも、このように理解できるでしょう。。

 本日の福音書の個所で、イエス様は再び自分の受難と復活について予告します。弟子たちは恐れて何も言えません。このイエス様の驚くべき予告を聞かされた弟子たちは混乱してしまったようです。これから、ユダヤ民族の将来にとって何か途轍もないことを起こす偉大な方が、自分は殺されてしまう、しかし復活する、などと言われる。これは一体何なんだ?この方は自分たちが考えるような偉大な方ではなかったのか、それともやっぱり偉大な方なのだが、それは自分たちが考えるのとは違う偉大さなのか?それで、誰が偉い者かという議論が起こったと考えられます。

 それに対するイエス様の答えはこうでした。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、子供を真ん中に立たせて抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 これを読んだ人は、ああ、イエス様は、人間謙虚さが大事、高い地位にふんぞり返っている者は偉くもなんともない、自分を低くして他人に仕える者が本当に偉いのだ、と道徳論をぶっていると思うでしょう。子供を受け入れなければならないと言っているは、聞く人によってはイエス様は子供の人権擁護の先駆者だと考える人もいるかもいれません。しかし、そういうことではないのです。聖書とは、キリスト信仰について教える書物であると同時に、読む人をキリスト信仰に導く神の御言葉です。イエス様のことを道徳論者とか人権擁護者に理解する読み方は、別にキリスト信仰がなくても読める読み方です。イエス様を道徳論者とか人権擁護者に仕立て上げると、古今東西無数にいる道徳論者や人権擁護者の一人にすぎなくなります。

 私たちキリスト信仰者は聖書をキリスト信仰なしで読むことはしません。信仰をもって読む者です。それで、今日の福音書の個所も、道徳論、人権論とは全く異質なものが見えてくるのです。今日の説教では、この異質なものを明らかにしようと思います。次の3つのことに焦点を当てて明らかにします。一つは、キリスト信仰にとって「仕える」とは何なのか?二つ目は、「わたしの名のために子供を受け入れる」と言う時の「わたしの名のために」とはどんな意味なのか?三つ目は、キリスト信仰にとって「受け入れる」とは何なのか?

2.キリスト信仰にとって「仕える」とは

イエス様は一番先になりたい者は一番後になりなさいと言い、一番後になるとはみんなに仕えることであると言いました。本当に偉大な者とは人々に仕えられてふんぞり返っている者ではなく、逆に全ての人に仕える者が偉大なのだと。ここで「仕える」とは具体的に何をすることでしょうか?お仕えする相手の要望に聞き従い、お世話をすることでしょうか?召使いのようになることでしょうか?全ての人々に対してそのようなことができるでしょうか?一人や二人だったらできるかもしれませんが、人数が多くなるにつれ難しくなり、全ての人というのは不可能です。

 ここで、全ての人に仕えることをしたのはイエス様本人であったことを思い出しましょう。イエス様はどのようにして全ての人に仕えたでしょうか?それは、彼が予告した十字架の死と死からの復活をもってしたのです。どうして、十字架と復活が全ての人に仕えることになるのか?それは、人間が創造主の神に対して、その神聖な意思に反しようとする性向を持ってしまっている(聖書はそれを罪と呼びます)、そのために人間が神との結びつきを失ってしまった、それで人間は神との結びつきを失ったままこの世を生きなければならず、この世を去った後も神のもとに戻ることができない状態になってしまった、この状態から人間を救い出すために神はひとり子のイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせたのでした。人間が持ってしまっている神の意思に反すること、つまり罪の神罰を人間が受けて滅びてしまわないために、イエス様が身代わりになって受けて死なれたのです。これがゴルゴタの十字架の出来事でした。しかし、事はそれで終わらず、創造主の神は今度はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されました。

 そこで、今度は人間の方が、これらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、それでその人は神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も結びつきは失われず、復活の日が来るとイエス様と同じように復活させられて神の御許に永遠に戻れるようになったのです。これが、イエス様が全ての人に仕えたということです。

 それでは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者にとって人に仕えるとはどういうことになるでしょうか?イエス様は、罪の赦しの救いを全世界的に打ち立てました。しかし、人間は信仰と洗礼を通してそれを自分のものにしないと、打ち立てられた救いの外側に留まってしまいます。人間の救いを計画した神とそれを実行したひとり子イエス様の願いは、全ての人がこの救いを自分のものにすることです。なので、キリスト信仰者にとって人に仕えるというのは、人々が救いを自分のものにできるように働きかたり、考えたり、祈ることが仕えることになります。まさに神が全ての人に仕えたことを受け継ぐことです。

3.「わたしの名のために」の意味

次にイエス様が子供を受け入れる時に「わたしの名のために」と言っていることに注目します。「私の名のために子供を受け入れる」とはどういうことでしょうか?「~のために」はいろんな意味があります。「合格するために一生懸命勉強する」と言う時は目的とか目標です。イエス様の名前が子供を受け入れる目的、目標になっているというのは意味が通るでしょうか?「悪天候のために遠足は中止です」と言う時は原因とか理由の意味です。イエス様の名前が子供を受け入れる原因とか理由になっているというのも意味が通るでしょうか?「家族のために仕事を頑張る」と言う時は何かに利益をもたらす、何かを支えてあげる意味になります。イエス様の名前は私たち人間が何かをして支えてあげなければならないようなか弱いものでしょうか?このように、日本語で何となくわかったような気分でいたことが、少し突き詰めて見ると実は何を意味しているのかわからなくなることが多くあります。

 聖書でそうことが起これば、すかさず原語のテキストを見てみます。ギリシャ語でエピ(επι)という前置詞が使われています。これが「~のために」と訳されているのですが本当でしょうか?エピに続く単語は属格、与格、対格のいずれかの格変化をします。格に応じて意味も変化します。今日の個所のエピには「私の名前」が続きますが、「名前」は与格です(ονομα⇒ονοματι)。古典ギリシャ語の文法書によると(後注1)エピに与格が続くと、まず場所を表す意味や時間を表す意味があります。「私の名前」は場所でも時間でもないので当てはまりません。そこでもう一つ、比喩的な意味というのがあります。その中にもいろいろな選択肢がありますが、それらを見比べて一番当てはまると思われたのは、「~に依拠して」とか「~という条件の下で」という意味です(後注2)。イエス様の名前に依拠して、イエス様の名前という条件の下で子供を受け入れるということ。つまり、子供を受け入れる時、イエス様以外の名前には依拠しない、イエス様以外の名前を条件にしない、他でもないイエス様の名前に依拠して子供を受け入れる、イエス様の名前を条件にして受け入れる。それでは、イエス様の名前に依拠して、その名前を条件にして子供を受け入れるとはどういう受け入れなのでしょうか?

4.キリスト信仰にとって「受け入れる」とは

ここでイエス様が成し遂げられた救いを思い出します。イエス様は自分を犠牲に供することで神に対する人間の罪を人間に代わって償って下さいました。人間が神罰から免れて神との結びつきを持てるようになる可能性を打ち立てたのです。さらに、死から復活されたことで死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を人間に切り開かれました。イエス様の名前に依拠して、名前を条件にして子供を受け入れるというのは、まさに子供をイエス様が成し遂げた救いの中に迎え入れるということです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにすることが出来る、永遠の命、復活の命に至る道を歩むことが出来る、子供だからまだ無理だとか、早いとか、そんなことはない、大人のキリスト信仰者はそれをわかって、子供も救いの中に迎え入れなさいということです。

 このような教えは、当時のギリシャ・ローマ世界にとって革命的なことでした。というのは、十字架と復活の出来事の後で罪の赦しの福音が地中海世界に宣べ伝えられていきますが、そこは子供や女性の地位が何もないような世界でした。確かに古代ギリシャ・ローマは進んだ文明も持っていましたが、生まれたばかりの赤ちゃんの間引きは日常的に行われていました。最初ユダヤ教がそれに異を唱えました。人間は神に造られた、母親の胎内の時から神に知られているという視点に立っていたからです。キリスト教も同じ視点を受け継ぎました。キリスト教が長い迫害時代の後、ローマ帝国内で地位を確立すると間引きの風習は禁止されました。イエス様は、子供たちにも天使がついていて神の御顔を仰いでいると言われました(マタイ18章10節)。大人についている天使と何ら遜色はないというのです。これも当時の人たちには衝撃的に聞こえたでしょう。

 このように「受け入れる」とはイエス様の成し遂げた救いの中に迎え入れることだと言うと、それは別に子供に限ったことではないかと言われるかもしれません。その通りです。イエス様の成し遂げた救いは大人子供関係なく全ての人のために打ち立てられました。それを神はどうぞ受け取って下さいと全ての人に提供して下さっているのです。人はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してそれを受け取ります。救いが「全ての人に」向けられているということを如実に示しているのが、子供を受け入れなさいというということなのです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにできる、永遠の命、復活の命に至る道を歩める、だからイエス様の打ち立てた救いは本当に全ての人に向けられているのです。赤ちゃんや小さな子供の場合は先に洗礼を受けて救いを受け取ります。それから両親と教会が、あなたの受けた洗礼はこういう意味があるんですよ、と教え育てて、イエス様を救い主と信じる信仰を意識化していき、堅信礼へと導いていきます。(世の人はこれを聞いて、子供の人権侵害だと騒ぐかもしれません。宗教2世の問題を引き起こすものだと。悲しい世になってしまいました。)

 子供をはじめ救いの外側にいる人たちをその中に迎え入れる者は、もう既にイエス様を受け入れており、イエス様を送られた神を受け入れています。それが、外側にいる人たちを迎え入れることで、イエス様と神を受け入れていることが一層証しされるのです。

4.勧めと励まし

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちも、イエス様が打ち立てた罪の赦しの救いは全ての人に提供されていることを覚えて、まだ受け取っていない人たちが受け取ることができるように働きましょう。とは言っても、今はいろんな宗教団体が社会問題を引き起こす時世ですので、誤解や警戒を生まないように何ができるだろうかと悩んでしまいます。しかし、あなたの信仰について教えてほしいと言う人が出たら、しめたもの、何も遠慮することはありません。ペトロの次の言葉の通りにしなさい。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」(第一ペトロ3章15~16節)。教えてほしいという人がなかなか出なくても、慌てる必要はありません。皆さんが、神と結びつきをもって人生を歩んでさえいれば、順境の時も逆境の時も神から変わらぬ守りと導きを受けているんだという生き方をしていれば、そして将来いつの日か自分もイエス様の復活に与ることになるんだという希望を持っていれば、それを雰囲気を感じ取った人が興味を持って聞いて来るようになるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

後注1 私が使用している古典ギリシャ語の文法書は、Jerker Blomqvist & Poul Ole Jastrup著の”Grekisk/Grækisk gramatik”です。用いている辞書は、Ivar Heikel & Anton Fridrechsen編の”Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”。

後注2 比喩的な意味の他の選択肢は、~に対する命令、(感情表現の動詞と一緒に)その感情の原因、~しようとする意図・目的。

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。