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6月8日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章12節ー14節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 6月8日19時45分~

聖句 ヨハネによる福音書14章12節ー14節
「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

ピアノと歌 ミルヤム・ハルユ宣教師
ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスク宣教師

 

聖餐式

木村長政牧師による聖餐式が執り行われました。中野時代に戻ったかのような感じがして懐かしかったです。

2022年6月5日(日)聖霊降臨祭 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年6月5日 聖霊降臨祭

使徒言行録2章1-21節
ローマ8章14-17節
ヨハネ14章8-17、25-27節

本日聖霊降臨祭の礼拝のストリーミングはインターネットに不都合が生じたため中断してしまいました。お詫び申し上げます。以下に説教テキストを掲載しますのでご一読下さい。

説教題 「聖霊を受けた者がなすべきこと」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の想像を絶する力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の今日、イエス様が約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちはこの信仰を携えて復活の日を目指してこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 本日の説教は三つのテーマについてお話しようと思います。使徒言行録が伝える聖霊降臨の出来事をよくみると、私たちはイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生れます。最初にそれを見ていきます。二番目のテーマは聖霊とは何者かについて、イエス様が本日の福音書の日課の中で「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいます。それはどういう意味か明らかにします。毎年教えていることのおさらいですが、これがわかると私たちは神に対して感謝の気持ちに満たされます。三番目は、そのような聖霊を受けた者のなすべきことが同じ福音書の日課で言われているので、それを見ていきます。聖霊は自分の考えに基づいて信仰者一人ひとりに様々な賜物を与えます。それで、なすべきことは人それぞれ違ってくるかもしれませんが、みんなに共通してなすべきことが日課で言われています。それは、イエス様を愛して彼の掟を守ること、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。

2.聖霊降臨とイエス様の再臨を待つ者であるとの自覚

 まず、聖霊降臨の出来事からイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生まれることについて。聖霊降臨が起きた時、駆け付けた群衆は、イエス様の弟子たちが神の偉大な業についてなんと自分たちの言葉で語っているのを聞いてびっくり仰天します。当時のエルサレムは、地中海地域と現在の中近東の地域から大勢のユダヤ人が集まる国際的な都市でした。弟子たちはそれぞれの民族の言葉で話をし出したのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。

 弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったでしょうか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。もう一つ神の偉大な業として考えられるのはバビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、人知を超える神の歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還を果たしたという出来事です。さらに、神が私たち人間を含め万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も神の偉大な業に付け加えてよいでしょう。

 ところが弟子たちが語った「神の偉大な業」には、以上のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃して、その証言者となったイエス様のことでした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の想像を絶する力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これも、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうしてユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。

 そこでペトロは群衆に向かってこの不思議な現象を説明します。ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(2章14ー21節)では、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の成就であると説き明かします。後半部分では、イエス様の出来事そのものについて説き明かします(22ー40節)。本日の日課は前半までです。実は後半部分が群衆の神への立ち返りをもたらす決定打になっています。しかし、今日はそこには立ち入らずに前半部分だけを見ます。

ペトロは、この不思議な現象はヨエル書3章1ー5節で預言されている神の霊の降臨であるとわかりました。このように、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったのです。ところでペテロは、ヨエル書を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言います。「終わりの時に」はギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヨエル書のヘブライ語原文では「終わりの日々」とは言っておらず、「その後で」と言っています。これはペトロが改ざんしたのではなく、旧約聖書のギリシャ語訳が「終わりの日々に」と訳したことに倣ったのです。翻訳した人たちは原文の意味を終末論の観点で確定したのです。ペトロはそれに倣ったのでした。

それでは「終わりの日々」とはどんな日々か?イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になりました。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が終わって新しく創造され直す天地大変動の時です。その時そこに唯一の国として神の国が現れて、誰がそこに迎え入れられるか最後の審判が行われます。そのため、イエス様の再臨を待つ日々は終わりに向かう日々で「終わりの日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちましたが3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。

19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われています。これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。初めは、神の掟を破り続けたイスラエルの民が罰として外国の軍隊に攻められるという神の怒りの日と考えられていました。バビロン捕囚の後の時代には、この世が終わり天地の大変動が起きて神の罰が下される日という具合に終末論的に理解されるようになりました。イエス様の十字架と復活の出来事の後は、さらに彼の再臨が「主の日」に加わりました。

21節を見ると、そういう天地の大変動の時に無事に神の国に迎え入れられるのはイエス様の名により頼む者たちであると言われています。ペトロの説明の後半は、群衆に主の再臨に備えてそういう者になりなさいと導く内容です。

こうして聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。この宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。共に主の名により頼み、共に主の再臨を待つ群れが誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

3.弁護者、真理の霊

 次に、聖霊とは何者か?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて話します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。お前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、再臨の日までお前たちがこの世で孤児になることはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊とは、何が真理でそれが私たちにどう関係するのか?これらのことは以前もお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。

 聖霊は私たちを何に対して弁護してくれるのか?私たちを告発する者に対してです。何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟に照らされて、外側も内側も神の意思に沿えない者であることが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。悪魔のそもそもの目的は人間と神の間を引き裂くことです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けてしまったりすれば、それはもう悪魔にとって万々歳なことになります。

 人を落胆させたり神に背を向けさせてしまうものは、罪の他にもあります。私たちがこの世で遭遇する不幸や苦難です。神が私にこんな仕打ちをされるということは、私に何か至らないことがあるということなのか?自分に原因があると思って絶望してしまったり、あるいは、私の何が悪くてこんな仕打ちを!と神に原因を見て失望してしまったりします。これも悪魔の目指すところです。

私たちがどんな状況にあっても神の愛を疑わず信じ神のもとから離れず留まることが出来るように助けてくれるのが聖霊です。聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架で死なれたことで自分の罪を償って下さったとわかっています。それで、イエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いているのです。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。聖霊はすかさず私たちの方を向いて次のように促してくれます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています。」キリスト信仰者には洗礼を通してこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さいます。その時、私たちは本当にこれからは神の意思に沿うように生きていかねばという心を強くするでしょう。

 不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と天地創造の神との結びつきは失われていないとわかります。神との結びつきがあるからには神の守りと導きもあるとわかります。あの方は十字架の上で犠牲になられたが、神の想像を絶する力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足下に踏み潰しておられる。そのような方と私は洗礼によって結び付けられている。そういうふうにわかると不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていた不幸や苦難が、今度は逆に、存在して見捨てることをしない神と一緒にくぐり抜けるためのプロセスに変わります。真に詩篇23篇4節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。波風たける時も一緒に歩んで下さる神に心が向くようになります。

次に聖霊が「真理の霊」とはどういうことか?キリスト信仰の観点では人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ないということです。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2000年前に現在イスラエル国がある地域のナザレ出身のイエスは旧約聖書と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史上の人物理解に留まります。

 ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活した、これで彼が神のひとり子であることが旧約聖書の預言から通して明らかになります。では、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪の償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの次に到来する新しい世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を与えられて神の国に迎え入れて下さる。それが実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊は私たちがこの真理をわかり、それを持ってこの世を生きられるように働くのです。

人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、聖霊が働くからです。この聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間を聖霊の働きの中に閉じるのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、聖霊の働きにすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないぞ、とか、救い主は沢山いるぞ、イエスはそのうちの一人にすぎない、とか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは耳に届かなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持っているので、霊的に安全地帯にいることになります。

4.聖霊を受けた者がなすべきこと

 さて、洗礼を通して聖霊を常駐させることになったキリスト信仰者に共通してある、なすべきことを見ていきましょう。まず、イエス様を愛して彼の掟を守ることです。ヨハネ14章15節でイエス様は言われます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をまもる。」私たちがイエス様の掟を守ることは、彼を愛することの当然の帰結として出てくるということです。ここで言われていることは、掟を守れ、掟を与えた者を愛せ、ということではありません。イエス様を愛するならば掟を守るのが当たり前になるということです。宗教改革のルターはまさにこの箇所について、「いかにしたらそのようなイエス様を愛する愛が持てるようになるか?」と問い、次のように答えます。それは、「人間の心は惨めなので、何か外部から来る素晴らしいものを味わうことがないと、人間は愛することができない。」それでは、外部からくる素晴らしいものとは何でしょうか?

 それがわかるためには、キリスト信仰者はどうしてイエス様を自分の救い主として信じるようになったかを振り返ればよいでしょう。

 イエス様が私たちの救い主となったのは、言うまでもなく、彼のおかげで私たちが天地創造の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになったからです。神との結びつきをもってこの世の人生を歩めるようになると、順境の時にも逆境の時にも何ら変わらぬ神の導きと守りを得られるようになり、この世から別れても復活の日に復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられるようになりました。これが外部からくる素晴らしいものです。これがあるからイエス様を愛することができ、神を全身全霊で愛することができ、隣人を自分を愛するがごとく愛することができるのです。

 次のなすべきことは、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言います。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を癒した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?

弟子たちがイエス様の業を行うと言うのは、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に向かう道を歩める可能性を開いて下さいました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものにすることができるようにしました。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにするという点では同じ業を行っているのです。

さらに弟子たちの場合は、活動範囲がイエス様よりも急速に広がりました。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、弟子たちの場合は遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。その意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うようになったと言えるのです。弟子たちの活動はイエス様が天に上げられた後で本格化します。イエス様は自分が天の父のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束していました(ヨハネ14ー16章)。聖霊は福音が宣べ伝えられる場所ならどこででも働き、福音を聞く人を神のもとに導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られて弟子たちが福音を伝道して群れがどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、私の名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。神との結びつきを持てて永遠の命に至る道を進む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは「この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように」ということに行きつきます。同時に、まだ結びつきを持てておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない人たちについては、「その歩みが始まりますよう」にという願いになります。イエス様がその通りにしてあげると約束されたのですから、たとえ何年何十年かかってもそれを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者のなすべきことです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

歳時記

チガヤ

子供の頃よく新しく出た花芽を食べました、ほのかに甘く不思議な味でした。チガヤは万葉時代には茅花(チバナ・ツバナ)とも呼ばれていました。万葉集にも大伴家持と紀郎女の洒落た相聞歌があります。「戯奴(わけ)がためわが手もすまに春の野に抜ける茅花そ食して肥えませ」(おまえのために私が手も休めずに春の野で抜き摘んだ茅花ですよ。食べてお太りなさい。)紀郎女 巻8 1460番歌 家持の返歌「わが君に戯奴(わけ)は恋ふらし賜りたる茅花を喫(は)めどいや痩(や)せ痩す」( わが君に私めは恋しているようです。頂いた茅花を食べてもどんどんと痩せていきます)大伴家持 巻8 1462番歌

6月1日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」吉村博明 宣教師、フィリピの信徒への手紙1章27節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 6月1日19時45分~

聖句 フィリピの信徒への手紙1章27節
「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」

ピアノと歌 ミルヤム・ハルユ宣教師
ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスク宣教師

 

手芸クラブの報告2022年5月25日

5月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨の近づきを感じさせる雨多い週でしたが、ちょうどその日は太陽が輝くすがすがしい日になりました。

今回は先月に続いてコースターを編みました。前回同様に初めにコースターのいろいろなモデルを見て自分の作りたい編み型を選びます。少しチャレンジを増やして先月と違ったモデルを選ばれた方もいらっしゃれば、その日初めて来られて少し簡単なモデルを選ばれた方もいらっしゃいました。各自、モデルに従って編み続けていきます。皆さん異なるモデルだったので、それを見るのも楽しかったです。おしゃべりをしながら楽しく編み続けていくと時間が経つのも忘れてしまいます。

大体の方は出来上がったので、コーヒータイムの時を持ちました。今回も手芸クラブと同じ時間帯に「チャーチ・カフェ」を開きました。壁掛けのモニターに映し出されるフィンランドの景色を眺め、讃美歌に耳を傾けながら、ムーミンマグカップのコーヒーとフィンランド風菓子パン”プッラ”が味わえるひと時です。コーヒータイムの時に旧約聖書の詩篇121篇の天の神様の守りについてお話を聞きました。

次回の手芸クラブは6月22日に予定しています。

 

手芸クラブのお話2022年5月25日

今回の手芸クラブでは先月に続いてコースターを編みました。かぎ針で編むコースターは簡単に早く作れて、可愛いものが出来上がりますので、テーブルの飾り物にもなります。レストランや喫茶店などのコースターはカートンかプラスチックの安いものが多いです。それにはよく会社の広告がのって客さんが持って帰っても大丈夫なものです。それである人たちはコースターを趣味として集めます。コースターはカートン、プラスチック、木、コルク、布などいろんな材料で作られます。コースターはただの飾り物ではありません。コップの下に置くことにはちゃんとした意味があります。テーブルに冷たいか暑い飲み物のコップをそのまま置くと、しばらくするとコップの染みがテーブルに残ります。コースターはテーブルに染みが残らないようにしてテーブルを守るのです。

同じように私たちの身近にあって、普段はあまり気がつきませんが私たちを守る物がいろいろあります。傘はその一つでしょう。もうすぐ雨の日が多い梅雨の季節に入ります。私たちは塗れないように傘を持って出かけます。傘は大事な守りものです。傘がなかったら体は塗れてしまって簡単に風邪をひいてしまします。

私たちの身近にあって私たちを守る物はいろいろありますが、物だけではありません。子供を守る一番身近な存在は親です。しかし、私たち人間には知恵と力に限りがあります。親も人間です。私たちは全てのことは出来ません。

ところが聖書は、私たちを守ってくださる、私たち人間よりもっと知恵や力がある方について教えます。それは天と地と人間を造られた神さまです。旧約聖書の詩篇には神様の守りについてたくさん書いてあります。「主があなたを助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。主はあなたを守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」詩篇121篇の3節と5節です。

私たちは生活の中で問題がなく全てがうまく行く時、私たちは神さまのことなど簡単に忘れてしまいます。私たちは「神様はいなくてもうまく生活出来る」という態度です。しかしこれは私たちが命と人生のことを深く知らないからそう考えてしまうのです。全てがうまく行っているようでも、それは一時的なことでいつかは試練が起こります。その時のためにいつも心がしっかりしていることが必要です。どうしたらしっかりした心を持てるでしょうか?それは今言った詩篇のみ言葉、天の神さまは私たちが試練にあっても私たちから離れることはなく、眠ることなく働かれ私たちを守ってくださる方だと、神さまを信頼することです。「主はあなたを覆う陰」と言うので、神さまが私たちと一緒にいることは見ることが出来ないし感じることも出来ません。しかし、聖書に書いてあるから本当のことなのです。聖書には神さまがひとり子のイエス様を私たちに送って、イエス様は私たちのために十字架にかかり死から復活したことも書いてあります。これは本当に起こったことなので、私たちは神さまを信頼することができるのです。

皆さんも、このように神さまの守りを信頼することが出来るでしょうか?

2022年5月29日(日)主の昇天主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2021年5月29日 昇天主日

使徒言行録1章1-11節
エフェソ1章15-23節
ルカ24章44-53節

礼拝をYouTubeで見る

説教題 「イエス様の昇天とキリスト信仰者の大いなる人生観」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

 イエス様は天地創造の神の想像を絶する力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で弟子たちの目の前で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。今日は昇天日の直近の主日で「昇天後主日」とも呼ばれます。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天のみ神のもとから送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日がそれを記念する日です。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

 イエス様の昇天はとても奇想天外な出来事です。日本語で「天国に行った」と言うと、普通は「死んでしまった」と理解します。しかし、イエス様は生きたまま天に上げられたのです。もちろん、一度十字架の上で死なれました。しかし、神の想像を絶する力で復活させられたので通常の肉の体ではない復活の体を持っていました。それで、死んだのではなく生きた状態で上げられたのです。全く不可解な出来事です。

 イエス様の昇天は天国についていろいろ考えさる出来事です。天に上げられたイエス様は今、天の父なるみ神の右に座していて、かの日にはそこから来て生きている人と死んだ人とを裁かれます、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週唱えられます。私たちもこの説教の後で唱えます。果たしてそんな天の国が存在するのか?近年ではキリスト教会の牧師の中にも、天国などないと言う人もいます。ジョン・レノンの歌みたいです。また、ある神学校では先生が学生に復活などないと教えるところもあると聞いたことがあります。そのような人たちは聖書に書いてある天国とか神の国、復活をどう考えているのでしょうか?おそらく、そういうものは人間の心の中、頭の中に存在するもので、人間の外側に形を持って存在するものではないと考えているのではないかと思います。彼らからすれば、天国や神の国や復活が存在すると言う人は時代遅れで暗黒の中世の思考レベルと言われてしまうかもしれません。しかし、聖書はそういうものはまさに人間の外側に実質的に存在し、いつの日か必ず目の前に現れるとはっきり言っています。本説教でもそれに則って話をします。まず、天国が実質的に存在することを言葉で言い表してみます。天国が実質的に存在すると納得できると今度は天地創造の神が私たち人間にわかってきます。以下、そうしたことを見ていきます。

2.天国、神の国は実質的に存在し死者の復活は実質的に起こる

 天国が人間の心や頭の存在ではなく実質的に存在するということについて。まず、私たちの上空にそのような国が本当にあるのか?地球を大気圏が取り巻いていることは誰でも知っています。大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くとオゾン層がある成層圏、その上に中間圏等々いろんな圏があって、それから先は大気圏外、つまり宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、これまで天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天国とか神の国は恐らく見つからないのではと思います。

 どうしてかと言うと、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは「信仰」というものと全く別世界のことだからです。成層圏とか大気圏というものは人間の目や耳や手足を使って確認できたり、長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し把握し終えていません。果たして確認・把握し終えることができるでしょうか?

 信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には人間の目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の国もこの確認や計測ができる世界ではない、もう一つの世界のものです。現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点では天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたことになります。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。その場合、天地と人間を造った創造主は存在しなくなります。そうなれば自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の計測可能な化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もありません。死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった人が心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心理作用という言い方になっていくでしょう。

 ところがキリスト信仰者は、自分自身も他の人間もその他のものもみな現実世界とそこにあるものは全て現実世界の外側におられる創造主に造られたと考えます。それなので、人間の命と人生はこの現実の世界の中だけにとどまらないと考えます。聖書には終末論と新創造論と死者の復活があります。それで、今のこの世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時に神の国が唯一の国として現れて、そこに迎え入れられると命と人生が永遠に続くと考えます。このように、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがっているというとてつもない人生観を持っています。

 日本では普通、この世の人生が終わると、その次は天国にしろ極楽浄土にしろ、別のところに移動すると考えられます。死んですぐそこに到達すると考える人もいれば、33年くらいかかると言う人もいます。どっちにしても、あの世とこの世は同時に存在しています。それなので、この世から去った人があの世からこっちを見ているというイメージがもたれます。

 ところがキリスト信仰では事情が全く異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰には終末論と新創造論と死者の復活があります。今の世が終わって新しい天地が再創造される、今はこの世の反対側にある神の国がその時に唯一の国として現れる。黙示録21章では「下って来る」と言われます。そのため、今の世と次に到来する世は同時並行ではありません。次の世が到来したら今の世はなくなっているのです。それじゃ、到来する前にこの世から死んでしまったらその時までどこで何をしているのかと聞かれます。キリスト信仰の死者の復活から答えが見つかります。前もって亡くなった人たちは復活の日の目覚めの時まで神のみぞ知るところで静かに眠っているのです。ただ、聖書をよく見ると、復活の日を待たずして天のみ神のもとに上げられた人たちもいます。しかし、それは例外的で基本は復活の日まで眠ることです。イエス様もパウロも死んだ人のことを「眠っている」と言っていました。

3.キリスト信仰者の大いなる人生観と神の意図

 このようにキリスト信仰では人生を、この世の人生と次に到来する世での人生を二つ合わせたものとして考えます。実にキリスト信仰者の人生観は二つの世にまたがる大いなる人生観です。この人生観を持てると、天地創造の神がどうてひとり子を私たちに贈って下さったのかがわかってきます。それは私たちの人生から次の到来の部が抜け落ちてしまわないようにするためだったのです。つまり、人間がこの世の人生と次に到来する世での人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

 それでは、ひとり子を贈ることで人間がどうやってそのような大いなる人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てなくなってしまっている。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまい、人間はそれを代々受け継ぐようになってしまったからです。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまいました。そこで神は、失われてしまった神と人間の結びつきを復興させるために人間の罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。

 どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間が持つ罪を全部イエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせたのです。つまり罪の償いを人間に代わって果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で死から復活させました。これで死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ります。罪を償ってもらったので神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ天の神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ててその道を進んでいきます。この世を去った後は復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。

 このようにして人間はイエス様の十字架と復活の業のおかげと、それをそのまま受け取る洗礼と信仰のおかげで、この世の人生と天の御国の人生を合わせた大いなる人生を生きられるようになったのです。

4.キリスト信仰者に対する神の責任

 このように、天国、神の国、復活というのは実質的にあると捉えることができると、なぜ天地創造の神はひとり子を私たち人間に贈られたかがわかるのです。それは、私たちがこの世の人生と天の御国の人生を合わせた大いなる人生を生きられるようにするためだったのです。しかも、神は私たちを大いなる人生の道に置いて下さっただけではありません。その道をしっかり歩めて最後には復活を遂げて天の御国に迎え入れられるように世話を焼いて下さることもするのです。そのことも見ておきたく思います。神は私たちをスタートラインに立たせて、はい、あとはがんばってね、だったのではありません。私たちがゴールに到達できるのがさも自分の責任であるかのように私たちをいろいろ支援して下さるのです。そのことが本日の使徒書の日課エフェソ1章からも明らかになります。それを少し見ていきましょう。

 19節から21節を見ると、一度死んだ人間を復活させるということと、その者を天のみ神の御許に引き上げるということ、このことがまずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーを要するということが言われています。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違う言葉で言います(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。私たちの新共同訳聖書では「力」という言葉は2回しか出て来ません。もう一つはどこに消えてしまったのでしょうか?エネルギーという言葉も2回あり(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)もあります。このようにパウロはこの神の想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようと頑張っているのです。日本語訳はそれが見えにくくなって残念です。とにかく死者に復活の体を纏わせて復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方だということが言われています。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというのです。

 ところがそれだけにとどまりません。ここからが大事なポイントです。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです(19節)。つまり、キリスト信仰者も将来、かつてのイエス様と同じように神の莫大な力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それを自分にも及ぼして下さる、それがわかれば、復活を目指す旅路は安心して進むことができます。

 22節と23節を見ると、パウロは教会のことを「キリストの体」と言います。ここで言われる「教会」とは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に向かう道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。それが「キリストの体」です。

 そこで、その体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる、目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると、キリストの体の部分部分である私たち信仰者もキリストの一部分としてこの世の権力や霊的な力を足蹴にしている者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている私たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまいます。イエス様が人間を罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまず神の意思に沿うことも力不足で出来ず、死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝るイエス様に繋がっている信仰者なのにどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世の中にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世とは、人間がこの世の人生で終わるようにしてやろうという力が働いているところです。大いなる人生なんて無理だよ、と。それで、人間が父なるみ神に目と心を向けないようにしてやろうとか、そのようにして人間が神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いています。これらは既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらは将来イエス様が再臨される日に全て消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の莫大な力が今度は私たち信仰者にも働くのです。その結果、イエス・キリストの体は全部が天の御国の中に置かれることになります。聖書のあちこちに預言されているように、その時は新しい天と地が創造されるので、この世自体がなくなってしまうからです。

 そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実の中で生きていくことになります。一方では全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられるという現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ16章33節で次のように言われたのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 もちろん、いくら守られているとは言っても、攻めたてられたらそんな気はしません。しかし、私たちが部分として繋がっているこの体は神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているのです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。そこで私たちとしては、聖餐式で霊的な栄養を受けながら、また説教を通して神の御言葉の力を及ぼされながら、神がイエス様を用いて打ち立てて下さった罪の赦しを自分にとって確かなものにしていきましょう。

5.罪の赦しと神の意思に沿う生き方

 最後に、神の意思に沿うように生きる力はどこから得られるかについてひと言述べておきます。私たちは罪を自覚し、それを神のみ前で告白して赦しの宣言を受ける、これを繰り返すことで罪の赦しを自分にとって確かなものにしていきます。しかしながら、そのようにしても神の意思に沿えない自分に気づくと、罪の赦しでは足りない、神の意思に沿えるようになれる何か特別の力が必要だと思う人が出てきます。もちろんお祈りすれば、神はその力を与えて下さいます。しかし、それは罪の赦しと切り離されたものではありません。罪の赦し抜きで神の意思を成し遂げようとすると、イエス様抜きでそうすることになり律法主義になっていきます。ファリサイ派と変わりありません。神は私がこの世の人生で終わらないで大いなる人生を持てるようにと、ひとり子を犠牲にすることをされた、それくらい私のことを大事に思って下さった、イエス様自身も、あなたのためなら私はそれでいいと言って十字架に向かわれた。こうなうともう、神の意思に沿わない生き方など考えられなくなります。ここにキリスト信仰者の力があります。その力は罪の赦しを確かなものにすればするほど備わるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

 

歳時記

赤花夕化粧(アカハナユウゲショウ)

路傍には色々の小さな花が咲いています。名前を知りたくともなかなか分かりません。ネットの写真と見比べながら同定するのも楽しいものです。 かねてから気になっていた花の名前が同定出来ました。確信は出来ませんが「アカハナユウゲショウ 」というらしいです、

5月25日19時45分水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」、ミルヤム・ハルユ宣教師、コヘレトの言葉 3章 1~8節、11節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 5月25日19時45分~

聖句 コヘレトの言葉 3章 1~8節

「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。」

コヘレトの言葉 3章 11節

「神はすべてを時宜にかなうように造り、
また、永遠を思う心を人に与えられる。」

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ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスク宣教師

歳時記

花樗 (はなおうち)

楝、 樗はいろいろな呼び名があります。あうち・あふち・おうち、その他栴檀というのもあります。

公園の楝の木に淡い紫色の花が咲きました。足元をよく見ると小さな花びらがいっぱい落ちていました。拾い集めて水を張ったガラス器に浮かべて眺めています。花の中央の黒い突起は雌蕊でしょうか、花の割には大きいなと思いました。

「どむみりと樗や雨の花曇り」
             芭蕉

「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに 」

          万葉集 第5巻798番歌 詠み人知らず