説教「キリスト信仰者の心意気」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書2章13-21節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.      はじめに 

 本日は、「キリスト信仰者の心意気」という題で説教を行っていきたいと思います。「キリスト信仰者の心得」ではなくて「心意気」です。本日の旧約聖書の日課には十戒がありましたので、「心得」の方が説教すべき事柄ではないかと思われるかもしれません。しかし、本日の福音書の日課に目を向けると、少し事情が違います。福音書の方は、キリスト信仰者たる者、これこれのことをせよ、かくかくのことはしてはならない、という神の掟に縛りつけることはしません。むしろ、人間がイエス様を自分の救い主と信じると、その人の心の有り様が変わっていき、神の掟は縛らなくとも守って当然という雰囲気になっていきます。本日は、そのようなキリスト信仰者の心の有り様、それを「心意気」と言って、見ていきたいと思います。

キリスト信仰者の心意気とは何かと言うとき、イエス様が本日の福音書の箇所で自分のことを神殿であると言っていることが鍵になります。ヨハネ福音書の記者ヨハネが21節で注釈していますが、イエス様は「神殿」という言葉に建物としての神殿と、自分の体の二つの意味を持たせています。壊された後の三日目に起こされる神殿とは、十字架の死から復活したイエス様を指す、ということです。どうして復活したイエス様が新しく建てられる神殿なのか、このことがわかると、キリスト信仰者の心意気もわってきます。以下、このことを見ていきましょう。

 

2.新しい神殿としての復活したイエス様

まず、復活したイエス様が新しい神殿であるというのはどういうことなのかを見ていきましょう。

 本日の福音書の箇所の出来事の背景として過越祭があります。それは、イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出したことを記念する祝祭です。この祝祭の主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。紀元前600年代のユダ王国のヨシア王の時代に生け贄を屠る場所はエルサレムの神殿のみと定められました(申命16章1-8節、列王下23章21-23節、歴代誌下35章1-9節)。それで、それ以後、特にバビロン捕囚以後の第二神殿期には、過越祭になると世界各地のユダヤ人の巡礼者がエルサレムに集まるようになります。もちろん、過越祭の時以外でも神殿では、「焼き尽くす献げ物」、「和解の献げ物」、「贖罪の献げ物」等々(レビ1-4章)、日常的に捧げる生け贄もありましたから、神殿には羊や牛がほとんど常に売買用に用意されていたでしょう。鳩が売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物を購入したり神殿税を納めるために通貨を両替する必要がありました。

 このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、礼拝者や巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。ただし、その便宜を購入する元手がなければできないのは言うまでもありません。このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。つまり、型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分がして自己満足になってしまいます。自分の生き方そのものが神の御心に適っているかどうかという自己吟味がないがしろにされます。あわせて、罪のゆえに損なわれた神と人間の関係を修復したり、また罪そのものを赦したりすることができるのは神しかいないのに、形式的に儀式をこなせば神は修復してくれたり赦してくれたりして当然だというような、傲慢な態度も生まれてきます。実際、イスラエルの預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11-17節、エレミア書6章20節、7章21-23節、アモス書4章4節、5章21-27節など及びイザヤ29章13節も)。

イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。イエス様は、本日の箇所に記されているように神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。どうして彼が激怒したかと言うと、本来ならばユダヤ民族をはじめ全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけを追求する場所になり下がってしまったことが原因でした。イエス様は、神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られるのであります。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞(エゲイローεγειρω)が使われています。本当ならば神殿というのは、人間が神への不従順と罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、そうして神との関係を修復する場所として存在しなければならない。なのに、それが現行のものでは見かけだおしで機能しなくなってしまった。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのであります。それでは、その新しい神殿とは、どんな神殿でしょうか?

復活したイエス様が神殿になるというのは、次のようなことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死ぬ存在となって神との結びつきを失ってしまいました。しかし、神の方では、自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして自分との結びつきを回復してあげよう、自分との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、そしてこの世から死んでも、その時は永遠の命を持つ者にして永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげよう、と決めました。ところが、人間は不従順と罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げている。そこで神は、不従順と罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子イエス様に負わせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせたのであります。つまり、罪や不従順と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になったのです(第一コリント5章7節、ヘブライ9-10章)。

イエス様の犠牲は、それまでの牛や羊などの動物を用いた生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対する罪の償いをするものではありませんでした。イエス様の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものだったのです。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊だと言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通り、イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲で以前の犠牲をすべてご破算にし、以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24-28節)、完璧な生け贄だったのです。

イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄ということだけにとどまりません。イエス様が全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪された時、罪が持っていた力も一緒に滅ぼされたのです。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力、人間が自分の造り主のもとに戻れないようにしようとする力、そういう人間を自分の支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。あとは、人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、人間は罪の支配下から脱して神との結びつきをもって生きることが出来るようになります。その時、その人は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、贖われたと言うことが出来ます。その人を買い戻すために支払われた代償が、神のひとり子イエス様が流した血だったのです。

このようにキリスト信仰者とは、神に対する罪の償いを全部してもらい、罪の支配力から贖われた者ですが、そうは言っても、罪や神への不従順に陥る危険にはいつも遭遇します。それでは、もしキリスト信仰者が罪や不従順に陥ってしまったらどうなるのか?イエス様の身代わりの罪の償いは台無しになってしまうのか?その人は罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?いいえ、そうではありません。もしその人がすぐ我に返って父なるみ神に、「私の身代わりとなって死んだイエス様に免じて赦して下さい」と願い祈れば、神は、本当にイエス様の身代わりの犠牲に免じて赦して下さるのです。それくらいイエス様の犠牲は完全なものなのです。こうして、その人はまた永遠の命に向かう道に戻ることができ、歩み続けることができます。このように罪と不従順に陥っても、イエス様がしてくれた罪の償いと罪からの贖いにしっかり踏みとどまれば、神のもとに買い戻された状態はそのままです。神との結びつきは決して失われません。こういうわけで、十字架の死を遂げて復活したイエス様というのは真に、人間の罪の赦しを完全に実現し、神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。

 

3. キリスト信仰者の心意気 - 「罪よ、お前は私に相応しくない」

それでは、このような神殿を持つキリスト信仰者、その神殿の中で生きるキリスト信仰者の心意気とはどのようなものかを見ていきましょう。

本日の旧約の日課は十戒でした。最初の掟から三番目を見ると、聖書の神以外を神として崇拝してはならない、とか、偽りと不正に結びつけて神の名を唱えてはならない、とか、安息日を安息日として守らなければならない、という内容でした。それらは、神と人間の関係を律する神の掟です。四番目から最後までは、両親を敬え、殺してはならない、性関係を無秩序にしてはならない、盗んではならない、他人を貶めることを言ってはならない、他人に属するものを妬んだり狙ったりしてはならない、という内容で、それらは人間と人間の間を律する神の掟です。人間と人間の間を律すると言っても、神の掟ですので、破った場合は、人間に対して害を与えただけでなく、神に対しても罪を犯したことになるのです。

話はここで終わりません。イエス様は、有名な山上の説教の中で、たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21-22節)、また淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)と教えられるのです。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。全ての掟がそのようなものであるならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰も守れる者はありません。このように十戒とは、人間に守るようにと仕向けながら、人間は守れない自分に気づかされるという、人間の真実を神の御前で照らし出す鏡のようなものなのです。

神聖な神の意思がこのような完全さを要求するものであれば、それに対して人間はどうするでしょうか?掟をちゃんと守れないので天罰を下されてしまうと恐れて神から逃げようとするか、またはこんな人間の本性を理解できない神の方がどうかしていると反感を抱いたり憎んだりするか、のいずれかでしょう。しかし、いずれをとっても、神に背を向けて生きることには変わりありません。

ところが、イエス様という神殿を持つキリスト信仰者は、神から逃げることもなく、神に反感を抱くこともなく、神に向き合って生きています。それは、信仰者が神の掟を内面的にもしっかり100パーセント守る汚れなき存在だからではありません。そうではなくて、イエス様という別のお方が自分を犠牲にしてまで私たちに代わって罪の償いをしてくれたこと、そして自分を身代金のようにして私たちを罪の支配下から神のもとへ買い戻して下さったこと、これらのおかげです。信仰者自身はまだ罪あり汚れありの状態ですが、罪なき汚れなきイエス様が覆いかぶさっていて下さるので、神の御前に立つことができます。イエス様がしっかり手を繋いでくれて、または腕を組んでくれているので、それで神の方も信仰者をイエス様の友だちか兄弟のように受け入れて下さるのです。

ただ、そのように受け入れられている信仰者にとって、自分の内側に残っている罪はバツが悪いものです。というのは、神聖な神は罪の汚れを憎み、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、イエス様のおかげで自分は大丈夫でいられるからです。ここで、以前は罪があるから自分は神に相応しくないという自覚だったのが、今度は、イエス様のおかげで神に相応しいものにかえてもらった以上は、罪の方こそ自分に相応しくないという自覚に変わります。その時、神の掟や神の意思というものは自分の分身のようになり、それらは守って当然という心意気になっているのです。

しかしながら、先ほども申し上げたように、人間は神の掟を100%守ることはできない。そのため信仰者と言えども自分の罪に気づかされるのであります。しかし、罪の告白をして罪の赦しの宣言を受けると、その人は再び神の方に向き直って永遠の命に至る道を歩み始めます。自分は罪を残しているのに神に受け入れられている者なので、罪の方こそ自分に相応しくないという自覚が戻り、神の掟が自分の分身のようになって守るのが当然という心意気になります。しかしまた100%守れないで、自分の内に宿る罪に気づかされ、罪の告白をし赦しの宣言を受ける。そこでまた、自分は神に受け入れられていることを確認する。こうしたことが、この世から死ぬ時まで何度も何度も繰り返されます。まさにルターが教えているように、キリスト信仰者が完全なものになるのは、私たちがこの世から死んで、罪を宿した肉が朽ち果てる時なのであります。キリスト信仰者が自分は罪を赦された者だと言いながら、なぜ毎週のように礼拝で罪に告白をし赦しの宣言を受けるのを絶えず繰り返すのかというのは、まさにこうしたことのためなのです。

 

4. キリスト信仰者の心意気 - 雲の上の太陽を知っている

イエス様という神殿を持ち、その中に生きるキリスト信仰者は、全ての罪を償われ、罪の支配下から贖われて、自分の造り主である神との結びつきを回復した者であります。そして、永遠の命に至る道を今歩んでおり、この世から死んだ後は、自分の造り主である神のもとに永遠に引き戻されて生きる者であります。

 神と結びついて永遠の命に至る道を歩んでいるとは言っても、この世の人生の歩みがバラ色になったということではありません。もちろん、いばらの部分も出てきます。無病息災、家内安全、商売繁盛は誰しもが願い求めるものです。しかし、キリスト信仰者になったからといって、病気にならないとか、愛する人に先立たれないとか、貧乏にならないとか、そういう保証は全くありません。人生の道のりでいばらの部分の割合は、キリスト信仰者であってもそうでなくてもそう変わらないのではないかと思います。否、キリスト信仰者の方がいばらの部分の割合が高いのではないかと思わせる事例も多くあります。そうなると、「なんでまた好き好んでキリスト教なんかやっているんだ」と呆れ返られるかもしれません。しかし、キリスト信仰者には、人生の歩みについて、他の人とは目の付け所が違うところがあって、そのためにキリスト教でいいのだという心意気があるのだと思います。

それでは、キリスト信仰者は人生の歩みについて目の付け所が違うと言う場合、何が違うのかというと、次のことが考えられます。健康にしろ、愛する人にしろ、財産にしろ、これを失ったら人生お終いと思ってしまうような大事なもの、そうしたものを失っても、それでも絶対に失われないものが一つ自分にはある、ということをわかっていることです。その失われないものとは、神がイエス様を用いて実現された「罪の赦しの救い」です。その救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、私たちは自分のものとすることができました。神はひとり子をこの世に送り、彼を身代金として私を罪の支配下から贖い出して下さって、私との結びつきを回復して下さった。その結びつきに生きる私は、詩篇23篇の終わりのように、永遠に神のもとに住む場所を目指してこの世の旅路を歩んでいる。こうした救いは、この世で何が起きようとも、修正も変更もなく全くそのままです。

キリスト信仰者の心意気の一つの特徴は、自分には神から受け取った救いがあるため、どんな時にもどんな状況に置かれても神に感謝する理由があるということです。こう言うと、キリスト信仰者は、不治の病になった時も、愛する人を失った時も、財産を失った時も、悲しまないで、神に感謝しているのかと訝しがられるかもしれません。そうは言っておりません。悲しみは悲しみとして悲しまなければなりません。悲しみのプロセスを通り抜けないと新しい出発ラインには進めないからです。この通り抜けには、信頼できる人の支えを受けられることが大事というのは言うまでもありません。こうしたことは、宗教に関係なく心理学的にも一般に言われていることです。

ここでキリスト信仰の観点を付け加えるならば、悲しみという暗闇が全てを覆いつくすような時でも、どこかに闇が及ばない片隅がしっかり残っているということです。それが先ほどから申し上げている、神がイエス様を用いて実現された救いということであります。片隅とは申しましたが、本当は重く垂れこめた雲の上に燦然と輝いている太陽と言ったほうが正確だと思います。キリスト信仰者は雲の下の暗い大地を見て悲しんでいますが、雲の上の太陽に思いを馳せる部分が心の中にしっかり打ち立てられている者であると言ってよいと思います。そのため、全てを失って悲しみに暮れようとも、神に感謝するものは残っているというのであります。

以上、キリスト信仰者とは、イエス・キリストという究極の神殿を持ち、その中で生きているということ、そしてその心意気というのは、罪に対して、お前は私に相応しくない、と冷たくあしらうことができるということ、また、暗雲の下にいてもその上で燦然と輝く太陽を忘れない人のように、どんな状況に置かれても神に感謝する大切なものを忘れないということを申し上げました。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

主日礼拝説教 2015年3月8日 四旬節第三主日の聖書日課 ヨハネ2章13-21節、出エジプト20章1-17節、ローマ10章14-21節 

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