説教「最後の審判で神は何を裁くのか」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章31-46節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日は、聖霊降臨後最終主日です。教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では、「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それは最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。

本日の福音書の箇所は、キリスト信仰者が社会的弱者や病気その他の苦しみにある人たちを助ける行動へと駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終わりの日に到来する人の子であると31節で言っているので、再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで、多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮した者、特に子供たちに主の面影を見て、支援や救援に乗り出して行くのであります。

しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるか、それとも永遠の火に投げ込まれるかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かということが中心になってしまう。つまり、人間の救いは善い業をしたことに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の考えと相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本は、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場を強く出します。私がフィンランドに住んでいた時、隣の市の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの日」の頃でした。地元の新聞に三人の候補者をいろいろテストする特集記事があり、本日の箇所であるマタイ25章31~46節と信仰義認の関係をどう考えるかという質問が向けられました。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でありたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。

問題は、ルター派だけに限られません。善い業を行えば救われると言えば、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。J・イェレミアスという第二次大戦後ドイツの世界的に著名な新約学者などは、歴史上のイエスのこの箇所での意図は、まさにそこにあったと言っているほどです。そんなことを言ったら、仏教徒だって、イスラム教徒だって、果てはヒューマニズム人間中心主義を追及する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っているので、みんなこぞって神の国に入れることになります。しかし、それは、ヨハネ14章6節におけるイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?

この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言うならば、本日の箇所は、善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も、信仰による救いを教えていることがわかります。これから、そのことをみてまいりましょう。ひょっとしたら、本説教は途中まで聞くと、この箇所を拠りどころとしてさまざまな支援活動に携わるキリスト教徒を憤慨させてしまうかもしれません。しかし、最後まで聞けば、本説教は、支援活動に水を差すものでは全くなく、活動に新しい土台を据えるものであることがわかると思います。

 

2. 最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、全ての諸国民を御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで、普通見落とされていることですが、実は、この最後の審判の場には、人々のグループは二つではなく、三つあります。40節で再臨の主は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言いますが、これがその三つ目のグループであります。つまり、主の兄弟グループも同じ場にいるのです。日本語で「この最も小さい者」の「この」と言っているのは、ギリシャ語原文では実は複数形なので「これらの」という意味です。全文を原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」となります。つまり、主は、羊と山羊の二グループに対し、「ほら、みなさい」と、兄弟グループを指し示しているのであります。

それでは、この主の兄弟グループは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は、物理的身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような抽象的な意味です。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような存在です。社会の基準からみて価値なしとみなされる存在です。従って、主の兄弟たちは子供には限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいと思います。

では、この主の兄弟グループは、もっと具体的に誰であるか特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えがすぐに得られます。10章で、イエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、宣教に派遣します。その際、使徒たちに宣教旅行の規則を与え、迫害に遭遇しても神は決して見捨てはしないと励まします。そして、使徒たちを受け入れる者は使徒たちを派遣した当のイエス様を受け入れることになる(10章40節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(41~42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」の「小さい」ミクロスμικροςは、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことについて述べているので、この「小さい者」は、子供は指しません。使徒たちです。使徒とは誰のことかと言うと、イエス様が自分の教えることをしっかり聞きとめるようにと、また自分がなさる業をしっかり見届けるようにと、選んだ直近の弟子たちであります。そして、イエス様の教えと業だけでなく、彼の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を命を賭してでも宣べ伝えるようにと選んだ弟子たちであります。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。マタイ10章では、使徒を受け入れて、渇きに苦しむ使徒に水一杯を与える者は、報いを受けられると言っていますが、本日の箇所でも同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をしてやり、病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言うのであります。

 

3.以上から、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを社会的弱者・困窮者一般と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは、どうなってしまうでしょうか?キリスト者とは人を助けてこそキリスト者たりうると考えている人は、支援の対象が福音を宣べ伝える使徒に限られていると聞いたら、なんと視野の狭い解釈だと怒ってしまうでしょう。しかし、これは解釈ではなく、書かれてあることに忠実な理解なのであります。それでは、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう弱者・困窮者一般の支援は考える必要はないということになるでしょうか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ10章25-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者一般の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということにあります。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申し上げましたが、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは別にキリスト教徒でなくても、仏教徒でも、イスラム教徒でも、人間中心主義的な無神論者でも、無宗教の人も、みなわかるし、実践しています。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。本説教は、そのことも明らかにしていくことになります。

 さて、使徒というのは、先ほども申しましたように、イエス様が、自分の教えをしっかり聞きとめるようにと、また自分の業をしっかり見届けるようにと、選んだ者たちです。実際に彼らは、イエス様の教えと業そして十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、この神の人間救済計画実現の福音を宣べ伝え始めました。こうして福音が宣べ伝えられていく時、人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では、使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろな仕方で支援してあげる人たちが出る。他方では、福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出る。ここで思い起こさなければならないことは、支援をした人たちは、支援することで、逆に使徒と同じ仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。その意味で、支援した人たちというのは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだから助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音を信じたから、彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのであります。つまり、支援した人たちは、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った者たちであります。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった者たちであります。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、信仰を持つに至ったか至らなかったか、ということが、神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのであります。そういうわけで、本日の箇所は、善行義認なんかではなく、文字通り信仰義認を教えているのです。

 

4.以上から、イエス様の取るに足らない兄弟たちとは使徒を指し、彼らに対する支援は彼らが携えてきた福音を受け入れることから生まれてきたことが明らかになりました。ここで大きな疑問がいくつか出て来ます。神の国に迎え入れられるか否かの基準は、使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、使徒たちを支援するのが当然というくらいにまで福音を受け入れることと言うならば、使徒の後の時代の人たちはどうなるのか?12使徒の中でヨハネが一番長生きしたとして、どんなに長くとも西暦100年位とすると、それ以後の人たち、使徒と接触することもなく、支援しようにもできない人たちは、最後の審判ではどうなるのか?イエス様は、西暦100年以後の人たちは最後の審判は関係ないと思っていたのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。イエス様の教えの主眼は、使徒を受け入れて支援するか否かではなくて、使徒が携えてきた福音を受け入れて、その結果として使徒を支援するかどうかということなのです。中心的なことは、福音を受け入れたかどうかということです。福音を受け入れたかどうかということは、使徒の時代の後もずっと今の時代の私たちにもあてはまることですので、私たちも皆、最後の審判の該当者です。もちろん、本日の箇所には、使徒たちをいろいろな仕方で支援することが記されていますが、これは、もし仮に使徒たちが今生きていたら、私たちも同じように支援してあげる準備が出来ていなければならない、と理解すべきです。逆に言えば、それくらい彼らが携えてきた福音を受け入れなければならないということです。

 ここで、使徒たちが携えてきた福音とは何かということについて触れておきます。福音とは、一言で言えば、人間が失っていた大切なものを人間の造り主である神が取り戻して下さったという、素晴らしい知らせであります。人間が失っていた大切なものとは、自分の造り主である神との結びつきです。このもともとあった結びつきは、人間が神への不従順に陥り罪を犯したために失われてしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。神との結びつきを失った人間は死ぬ存在となり、人間は代々死んできたように代々罪と不従順を受け継いできました。

これに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしよう、この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげようと決めて、それを実行するために、ひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは以下のことです。人間に浸みついている不従順と罪が神との結びつきを妨げているので、まずイエス様に人間の罪を全部背負わせて、あたかも彼が全ての張本人であるかのようにして全ての罪の罰を受けさせて死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしました。これがゴルガタの丘の十字架で起きた出来事です。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命の扉の門を人間に開かれました。

人間は、こうしたことが自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を自分のものとして所有でき、その瞬間から罪の赦しが効力を発揮するのです。こうして人間は神との結びつきを回復でき、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、それからはずっと、順境の時にも逆境の時にも、絶えず神から良い導きと助けを得られて生きられるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御許に引き寄せて下さり、人間は永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのです。以上が、使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音であります。

人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」がまさに自分のためになされたのだとわかった時、神に対する深い感謝から、神の意思に従って生きるのが当然という心を持つようになります。また、神から受けた恩寵の大きさから自分の利害のちっぽけさがわかるようになって、自分の持っているものに執着せず、それを他の人々のために役立てようという心を持つようになります。キリスト信仰にあっては、善い業とは救われるために行うものではなく、救われた結果として生じてくる実のようなものだと言われる所以です。

ここで、神の意思に従って生きるという時の「神の意思」について。2週間前の説教でもお話ししましたが、神の意思とは、要約すると、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することの二つに尽きます。神への全身全霊の愛とは、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、この神が自分にどれだけのことをして下さったかがわかるようになった時です。隣人愛ですが、キリスト信仰にあっては、それは全身全霊を持ってする神への愛を土台にしています。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行いが神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかを吟味する必要があります。神は、全ての人間が「罪の赦しの救い」を受け取るようにと望んでいるので、キリスト信仰者は隣人愛を実践する際には、このことを念頭に置かなければなりません。

 

5.使徒たちが携えてきた福音を受け入れてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることが、最後の審判の日に神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの基準になる。このように言うと、次のような疑問が沸き起こります。それは、福音を受け入れるもなにも、福音を伝えられないで死んでしまった人たちはどうなるのか?態度決定する機会も与えられずに、お前は福音を受け入れなかったと言われて火に投げ込まれてしまうのはあんまりではないか、というものです。この疑問は、特に多くの日本のキリスト信仰者にとって微妙なものではないかと思われます。というのは、復活の日、キリスト信仰者の自分は信仰者でなかった肉親に再会できないのだろうかという不安が生じるからです。

近年ではキリスト教会の中でも、いろんな宗教があるというのはいろんな登山道を登って同じ頂上に到達するようなものだという考え方をする人が増えてきたように思われます。そんなご時世ですから、先ほどのイエス様の言葉、彼こそが天地創造の神のもとに到達する唯一の道、命、真理であるという言葉をそのまま信じると、お前は時代遅れの世間知らずだなどと言われてしまうでしょう。しかし、そう言われるのを承知の上で話を続けていきます。

福音を伝えられずに死んだ人に対する神の処遇はどうなるのか?これについて、黙示録20章の預言を手掛かりにしてみます。そこでは、死者の復活と最後の審判が起きる時、最初に復活させられて神の御許に引き上げられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たちと述べられています(4節)。それ以外の人たちの復活はその後に起こりますが、その時、それらの人たちがこの世でどんな生き方をしてきたかが全て記された書物(複数形)が開かれて、それに基づいて判決が下されると述べられています(13~15節)。それ以外の者たちとは、文字通り、信仰のゆえに命を落とした者たち以外の全部の人たちです。つまり、まず、信仰を持っていたが、特に命と引き換えにそれを守るような極限状況には置かれないで済んだ人たちがいます。そして信仰を持たなかった人たちもいます。信仰を持たなかったというのは、洗礼を受けたがそれが何の意味を持たなかった人たちがありましょう。また、福音を伝えられたが受け入れなかった人たちがありましょう。そして、福音自体が伝えられなかった人たちがおりましょう。これらの人たちは全てひっくるめて神の記録に基づいて判断されるのです。

ただ、ひょっとしたら、洗礼を受けたあの人は、私たちの目から見て信仰者に相応しくない生き方をしていたが、実はイエス様を唯一の救い主として信じる信仰を追い求めて苦しんでいたのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実の詳細は神の記録に残されており、私たちはその内容を知ることはできない。だから、その人の処遇は神に任せるしかない。また、ひょっとしたら、洗礼を受けなかったあの人は、ルカ23章に出てくる強盗が息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白して神の国に迎え入れられたように、死の直前に改心があったのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実を知っている神に任せるしかない。そういうわけで、福音が伝えられなかった人たちについてはなおさら、神に任せるしかないのであります。

キリスト信仰を持たずに死んだ人と復活の日に再会できるかどうかという問題について、このように全てを神に任せるというのは、大抵の場合、心に平安をもたらします。しかし、時としてそれでは物足りないというような不安も出てくるのではないかと思います。そのような時は、アブラハムが神に対して罪の町ソドムのために祈ったことを思い出すとよいでしょう(創世記18章)。神はソドムの町をその大きな罪のゆえに滅ぼすと宣言します。それに対してアブラハムは、もし町の中に50人神の意思に従う正しい人がいたら、彼らを罪びとと一緒に滅ぼしてしまうのですか、と聞く。それに対して神は、その50人のゆえに滅ぼさないと答える。それに対してアブラハムは、それでは正しい人が40人いたら、30人いたら、20人いたらと必死に値切っていき、最後は10人いたら町を滅ぼさないというところまで譲歩を引き出します。結果は、正しい人は10人いなかったので、町は焼き尽くされてしまいましたが、それでも、神はアブラハムの必死の祈りを聞いて恩赦の枠を広げたのです。

ここで注意しなければならないことがあります。それは、神がその祈りを聞いてあげたアブラハムという人物は、中途半端な信仰の持ち主ではなかったということです。使徒パウロが大きく指摘したように、アブラハムは信仰によって義とされた信仰義認の第一人者です(ローマ4章9節)。そのような人の祈りが神の恩赦の枠を広げる影響力があったのです。もしあなたが、キリスト信仰を持たずに亡くなった方との復活の日における再会を望み、その望みを神に打ち明けるのならば、あなたは、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰をしっかり持つ者として打ち明けなければなりません。中途半端な信仰の持ち主ではいけません。中途半端でない信仰とは、神を全身全霊で愛するのが当然であり、それに基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するのが当然であるという心を持っていること、そして、洗礼と聖餐式が与える罪の赦しの恵みの中にしっかりとどまっていることです。そのよう者として神に望みを打ち明けるならば、使徒パウロの次の言葉は真にその通りになる筈です。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4章6~7節)

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように    アーメン


聖霊降臨後最終主日
2014年11月23日の聖書日課  マタイ25章31-46節、エゼキエル34章11-16、23-24節、第一テサロニケ5章1-11節


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