説教「天の御国からこの世への働きかけ」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書24章44-53節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.十字架の死から復活したイエス様が40日間、弟子たちをはじめとする大勢の人たちの前に姿を現した後で、天の父なるみ神のもとに上げられた。これがイエス様の昇天と言われる出来事です。私たちが用いる新共同訳の使徒言行録では、イエス様は弟子たちが見ている前で、みるみると天高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに理解できます(1章9節)。ところがギリシャ語の原文をよくみると、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという表現です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を下から支えるようにして一緒に上がっていった。地面にいる者から見れば、下から見上げるのですから、見えるのは雲の底だけで、その上にいる筈のイエス様は見えません「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを指します。各国の訳も今申し上げたことに沿っています。フィンランド語では、雲がイエス様を運び去って弟子たちの視野から消えた、という訳です。スウェーデン語の訳は、雲がイエス様を取ったので視野から消えた、です。ルター版のドイツ語訳も、雲がイエス様を拾い上げるように弟子たちの目の前から運び去った、という表現です。英語訳のNIVを見ると、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて、雲が隠してしまった、という訳です。雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていないので、上げられ始めた段階で雲が出現したのでしょう。新共同訳では、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず、スーパーマンのように空高く天に上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような理解が生まれてしまいます。正確な訳とは言えません。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、イエス様を下から支えるように運び去ったのが通常の雲であるにせよ、雲と表現されるような現象であったにせよ、昇天とは真に奇想天外な出来事です。ただ、大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れられることでしょう。しかし、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画に出てくるようなSFX特殊視覚効果技術による撮影を現実のものと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。もっとも、最近のキリスト教徒も、同じように考える人が多いかもしれません。

天に上げられたイエス様は今、天のみ国の父なるみ神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられますが、それじゃ、どうやってそんな天空の国の存在が確認できるのか、と問われるでしょう。地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以後、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われているような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるのでしょうか?それとも見つからないと結論づけられるのでしょうか?

ここで立ち止まって考えなければならないことがあります。それは、これまで述べてきたロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰とは全く別の世界の話であるということです。成層圏とか大気圏というようなものは、人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり、重さを量ったり、計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして築かれるものです。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超える事柄に関係しています。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関わりを持っています。天の御国も、この確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書によれば、天のみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたのですから、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

他方で、目や耳などで確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てで、それ以外に世界などない、と考える人たちもいます。そのような人たちにとって、天と地と人間を造られた創造主などは存在しません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くなどということも全く考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理的現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人も、亡くなった人が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それは亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す人の心の有り様だと言うでしょう。

信仰に生きる者にとっては、人間を含めてこの現実の世界にあるもの全て、現実の世界そのものは全て創造主に造られものになります。それで、自然界や人間界に起きることには、神の意思が働いていると考えます。もし起きた出来事が大災害のように大きな不幸をもたらす場合、神の意思は人間の思いと理解をあまりにも超えすぎてとてもついて行けない、ということが起こります。しかし、このような場合でも、人間の命と人生というのは、本当はこの現実の世界と神のいる天の御国の二つにまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだと思い返す時、神に対する反発や疑いは静まり始めます。さらに、人間の命と人生から天の御国が欠け落ちてしまわないために、また、人間が今の現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を形作れるようになるために、まさにそのために父なるみ神は御子イエス様を私たちに送って下さったのだ、このことを思い返す時、神を愛し慕う心も戻ってきます。

 イエス様の昇天の出来事とは、まさに、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を持てるようにするという、神の意思が働いている出来事なのです。以下、このことを見てまいりましょう。

 

2.イエス様が天に上げられなければならなかったのは、一つの理由として、死から復活したイエス様は復活の体を持っており、それは神の栄光を体現する神聖な体でもあるので、存在するには、この罪深い世よりも、神のいる天の御国のほうが相応しいと言えます。復活の体の神聖さについては、復活祭の礼拝の説教でもお教えしたことですので、ここでは振り返らずに先に進みましょう。

 ここで少し脱線しますが、神のいる天の御国が存在するのに相応しい場所だったら、なぜ復活後すぐ天に上げられず、40日間も留まっていたのか、と疑問を抱かれるかもしれません。この短い期間の地上の滞在には重要な意味があります。まず、この期間にイエス様は弟子たちに、十字架の死と復活の出来事をもって旧約聖書の預言が実現したということ、旧約聖書はそもそも自分について予告する書物であることを明らかにしました。本日の福音書の箇所であるルカ24章45節「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」、これをギリシャ語原文に密着して理解すると、「イエス様は、弟子たちが旧約聖書をこのように理解できるようにと、彼らの理解力を曇らせていたものを取り除いた」という意味です。イエス様の十字架の死と復活がなかったならば、誰も旧約聖書の意味も目的もわからなかったでしょう。それが、死も復活も両方行った方が、まさに身をもって、旧約聖書の意味と目的を明らかにしたのです。

イエス様が地上に留まることは、また、大勢の人たちに復活というものがあるということをわからせる意味がありました。「コリントの信徒への第一の手紙」の中で使徒パウロは、どれくらいの人たちが復活した主を目撃したかを記しています。直近の弟子たちの次には、500人以上の人たちの前に現れた、そのうちの大部分は今なお生き残っている、と述べています(15章6節)。つまり、目撃者の多くはまだ生き残っているのだから、疑う者は彼らのところに行って直に聞くがよい、ということであります。もし、復活したイエス様が即、天に上げられてしまっていたら、弟子たちは旧約聖書の意味も目的もわからないままで、復活はあると言ってもなかなか信じられなかったでしょう。

 こうして、弟子たちに旧約聖書の意味と目的を理解させ、大勢の人に復活があることをわからせた後で、イエス様は復活した者に相応しい場所である天のみ神のもとへ上げられました。イエス様の昇天から10日して、今度は彼が送ると約束されていた聖霊が天から地上に送られることになります。これが聖霊降臨と呼ばれるもので、次主日は世界中のキリスト教会でこのことがお祝いされます。

さて、イエス様が天に上げられた理由を考える時、一つにはそれが復活の体を持つ者にとって相応しい場所だからだと申し上げました。それだけではありません。イエス様が天に上げられることで、人間の歴史は新しい局面を迎えることとなったのです。イエス様の昇天とは、実は、人間の歴史にとって一つの大きな分水嶺なのです。どういうことかと言うと、天に上げられる前の人間の歴史とは大体次のようなものでした。堕罪の時に壊れてしまっていた神と人間の結びつきを神が回復しようとして、相応しい時が来るまで歴史を進めさせ、その都度その都度、自分の意思と計画を人間に知らしめた。この知らしめたことが旧約聖書になりました。やがて相応しい時が来た時、神はひとり子をこの世に送って、彼を用いて神と人間の結びつきを回復させる可能性を打ち立てた。それは、人間と神の結びつきを壊していた原因であった人間の罪を全部イエス様に請け負わせて、罪の罰を全部彼に受けさせて、彼を十字架の上で死なせて、彼の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしたということです。神から罪の赦しを受けた人間は神との結びつきを回復することとなります。神との結びつきを回復した人間は、天の御国に至る道に置かれてその道を歩むようになり、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを得られて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御手によって引き上げられて、神のもとに永遠に戻れるようになります。このように、神は、イエス様を用いて人間の救いを準備完了にしたのであります。あとは人間の方がそれを受け取ればよい、という状態にしたのであります。この状態をもたらしたところまでが、イエス様の昇天までの人間の歴史でした。

イエス様の昇天後は、今度はこの神の準備した救いを人間が実際に受け取っていく時代となりました。ここでは、イエス様はこの現実の世界から天の御国に移られてしまったのですが、かわりに天の御国から聖霊が送られて、これ聖霊を洗礼を通して注がれた者たちが重要な役割を担うようになりました。彼らの働きを通して、多くの人たちがイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けて、神の準備した救いを受け取っていくこととなったのです。救いを受け取った者たちが、今度は他の人たちが救いを受け取ることができるように働いていくことになりますが、この時、無理解や反対にも多く遭遇します。ひどい時には迫害も起こります。しかし、多くのキリスト信仰者たちは、この現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を歩んでいることを思い出して、迫害の最中にあっても、また現実の世界の最後の瞬間にも神への感謝と賛美を絶やさなかったのであります。

この信仰者の働きの時代は、イエス様が再び来ると約束された再臨の日まで続きます。イザヤ書65章17節や66章22節(60章19~20節も)それに黙示録21章1節に、神は終わりの日に今ある天と地に変わって新しい天と地を造られると預言されています。これは、今のこの現実の世界が崩れ去って、天の御国が目に見える形で現れる日です。その時にイエス様が再臨されるのです。

3.そういうわけで、イエス様の昇天から再臨までの間の時代を生きる私たちは、信仰者の働きの時代を生きているのです。その時代の始まりの部分は、新約聖書の使徒言行録によく描かれています。実に私たちは、使徒言行録の続編の時代を生きているのです。無理解や反対や迫害に遭遇しても、イエス様を救い主と信じて大きな命と人生を獲得する人たちは増えていきました。しかし、信仰者の群れが躍進しようが停滞ないしは沈滞しようが、無理解、反対、迫害は決してなくなることがありません。どうして、イエス様の福音に対して無理解、反対、迫害が生じてくるのでしょうか?

それは、この現実の世界の中には、どうしても、人間がこの現実の世界の命と人生しか持てないようにしてやろうという力が堕罪の時から働いているのです。大きな人生など持てないようにしてやろう、とか、人間が自分の真の造り主に目と心を向けられないようにしてやろう、とか、そのようにして人間が自分の造り主である神と結びつきが持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いているからなのです。この力は、堕罪の時からずっと今もこれからも、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされるまでは働き続けるのです。しかし、この現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を歩んでいる者にとっては、絶えず天のみ神からの助けと良い導きを得られるので、心配は無用です。悪い力は、神との結びつきを壊そうとして私たちの人生を引っ掻き回そうとするでしょうが、引っ掻き回せるのはせいぜいこの現実の世界の人生だけです。イエス様を救い主と信じる限り、大きな人生そのものには何の影響も害もありません。

 最後に、キリスト信仰者の人生には悪魔の引っ掻き回しはつきものであるが、信仰者はその引っ掻き回しを受けても大丈夫なくらい強い守りの中にいるということを、ルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。それは、マタイ11章27節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」のルターの解き明しです。

 「『全てのもの』とは文字通りに全てのものである。全てのものが、我々の主イエス・キリストの手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。何ものも、このことの例外になりえないのである。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。

 このことからも、キリストの御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、我々に真の知識と真の光が与えられる。もし、キリストが全てのものを手中に収め、また父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自身述べているように(ヨハネ10章28~29節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ないのである。確かに悪魔は、機会を見つけては、キリスト信仰者をありとあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。結婚を壊して不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬むことや憎むことに心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと悪魔は仕向けてくるであろう。しかし、悪魔の攻撃に遭遇しても、キリスト信仰者はたじろぐ理由も必要もない。なぜなら、我々には、悪魔をも足蹴にしている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ我々を真にお守り下さる方なのだ。

もちろん、悪魔の攻撃は君をとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも身の毛がよだつ恐ろしいことだ。だからこそ、君は祈らなければならないのだ。君が堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちも君のために祈らなければならないのだ。どんなことがあっても神が君を見捨てることはない。これは揺るがないことである。キリストは、必ず君を苦境から救って下さる。そうである以上、君の方から簡単に神の御国を離脱するようなことはあってはならないのだ。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように     アーメン

 

 2014年6月1日 昇天主日の聖書日課 ルカ24章44-53節、使徒言行録1章1~11節、エフェソ1章15-23節

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