説教「キリスト信仰者の希望」、神学博士 吉村博明 宣教師、第一ペトロ3章8-17節、ヨハネによる福音書14章15-21節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の使徒書である「ペトロの第一の手紙」3章15節に、「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」とありました。「あなたがたの抱いている希望」というのは、ギリシャ語の原文に忠実にみると「あなたがたの間に存在している希望」で、要はキリスト信仰者がひとつの同じ希望に与っているという意味です。「あなた方が共有している希望」と言ってもよいでしょう。キリスト信仰者たるものはそうした共有する希望を他の人たちに説明できなければならない、もし誤解されたり疑問を抱かれたりしたら弁明できなければならない、と使徒ペトロは勧めます。私たちは、キリスト信仰者の共有する希望を他の人たちに説明したり弁明したりすることができるでしょうか?そもそもキリスト信仰者の希望とは何なのでしょうか?本日は、このキリスト信仰者の希望について、本日の日課の箇所に基づいて明らかにしたいと思います。希望とは、一般的には、こうなったらいいな、とか、こうなってほしいとか、何か願ったり望んだりする事柄です。似ている言葉に「期待」があります。しかし、「希望」は「期待」より、ずっと深くて広い事柄です。期待していたことが叶うと、「期待通りになった」と言います。叶わなければ、「期待外れだった」です。希望についても、「希望通りになった」とは言いますが、「希望外れだった」とはあまり聞きません。希望していた事柄がその通りにならなかったり、そうならないことがもう火を見るよりも明らかになると、希望が失われ、「絶望」になります。この場合、事態は「期待外れ」よりも重大かつ深刻です。そのような時、「生きる希望を失った」という言葉さえ口にしたりします。例えば、大切な人、愛する人に先立たれた時の気持ちは、この言葉の通りだと多くの人が感じるでしょう。大切なものを失ったという喪失感が大きいと、生きる意味自体がなくなってしまった感じがするのです。しかし、喪失感をあくまで感情の問題と捉えて、周りの人がしっかり支援すれば、感情は大きくなったり小さくなったりするものですから、支援を通して感情を落ち着かせることは可能です。これが出来れば、たとえ喪失の事実は消えなくとも、生きる新しい意味を見いだすことも可能です。

キリスト教では、葬儀や墓地で行う礼拝で、「復活の日における再会の希望」を強調します。どういう希望かというと、人間は死ぬと外見は肉体が滅びて朽ち果てた状態になるが、人間の造り主である神のみぞ知る場所に安置されて安らかに眠る。そして、復活の日が来ると目覚めさせられて、朽ちない復活の体を与えられて永遠に生き始める。そこで懐かしい人たちと再会する。そういう希望です。キリスト信仰では、この「復活の日における再会の希望」が喪失感の感情を肥大化させない抑止力になっていると言えます。ただし、キリスト信仰者といえども、喪失感に陥っている人に対して、いきなりこの希望を説くことは禁物です。まず、その人の喪失感をしっかり受け止めてあげなければいけません。そうでないと、いくら希望を説かれても空虚な言葉にしか聞こえなくなってしまうでしょう。また逆に、感情を無理やり押し殺すようなことをすると、問題の先送りのようなことになって後でいろいろな弊害が出てくる危険があります。過酷な現実のために信仰が揺らいでしまった時、それを再び確固とした基盤にのせられるためには、それなりの時間と多くの祈りが必要なのです。

いずれにしても、キリスト信仰者の希望は、「死からの復活」ということに結びついています。「ペトロの第一の手紙」のはじめをみると、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」て下さったと記されています(1章3節)。「生き生きとした希望」というのは、ギリシャ語の原文に忠実にみると、「生きている希望」です。つまり、「死なない希望」とか「潰えることのない希望」とか「朽ち果てない希望」ということです。そのような希望が、イエス様の死からの復活を通して私たちに与えられたと言うのであります。

このようにキリスト信仰者は、「死からの復活」に結びついた、潰えることのない希望を持っている。そのような希望を持つと一体どうなるかということが、「ペトロの第一の手紙」の本日の箇所に明確に述べられています。その部分を今一度引用します。

「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさあい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(3章13~17節)。

ここで言われていることは、善いことを一生懸命しても、ほめられたり評価されるどころが、逆に自分たちがキリスト信仰者であるということのために、危害を加えられることがある。一生懸命善いことをしても、平穏無事な生活をもたらすことに全く役に立たないことがある。しかし、キリスト信仰者にとって、善いことはするのは、自分の何かの役に立つとか立たないとかいうことに全く関係がない。なぜなら、善いことをするのは、自分が救い主と信じてやまないイエス様の意思だからである。それで、自分が善いことをするのは、周りの人たちが自分にどんな態度を示すかということと全く関係がないのである。本日のペトロの教えの初めにはこうありました。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)。使徒パウロも同じように、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(ローマ12章17節)と勧めます。善を行うことが、自分に害を及ぼす者に対してもそうだと言うのは、納得しがたいものがあるかもしれません。しかし、どんな状況に置かれても、心が神のみに向けられていれば、神の意思と自分に及ぼされる害の二つの天秤皿は、すぐ神の意思の皿がストンと落ち、自分に及ぼされる害の皿はふわっと上昇します。それ位、キリスト信仰者にとっては、神の意思は重く、自分に及ぼされる害は軽いのです。

そこで、自分に害を及ぼす者が、おかしいなあ、これだけ害を及ぼしても、平気で善いことを続けられるのは一体どうしてなのだろう、普通だったら動揺して善いことをするどころではなくなるのに、と不思議がり始める。キリスト信仰者は感覚がずれているのか鈍感なのか?それとも、及ぼされる害を痛くも痒くもないように感じさせる、何か大きなものを心に持っているのだろうか?そうだとしたら、それは一体何なのだ?もしそのように聞いてきたら、信仰者はただ、信仰者が共通して持っている希望について、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」弁明しなければならない。つまり、害を及ぼす者に対して、害が自分を委縮させたとか恨み憎しみを抱かせとか、自分の心を引っ掻き回すことは全くなかった、それ位、自分の心は神に向けられていたことを示す。「正しい良心」というのは、自分はただ神の意思に沿おうとしているだけで他に動機はないので神に対してなんのやましいところはない、という心の平安です。これがあると、害を及ぼす者が騒ぎ立てても、心は平安のまま保たれます。

周囲の者がどんな態度で来ようとも、自分の心は神の意思に向けられているので、周囲の者の態度と無関係に善を行うことができる、それがキリスト信仰者の心意気だ、とペトロは教えるわけです。害を及ぼされるのは残念で嫌なことだが、まあ、それはそれとして、神は、そんなことにいちいち注意を逸らされていてはいけない、お前はただ私の命ずることに聞き従っていればよいのだ、すなわち、全ての人に善を行いなさい、と命じられる。このような神の意思にキリスト信仰者の心がしっかり向けられているのは、信仰者が「死からの復活」に結びついた、潰えることのない希望を持っているからに他なりません。以下、その希望をもう少し具体的に見ていくことにします。そのためには、本日の福音書の箇所が役立ちます。

 

2.本日の福音書の箇所の初めは、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をまもる」というイエス様の言葉です。「掟をまもる」という動詞は、ギリシャ語の原文では、「わたしを愛しているのならば、わたしの掟を守らねばならない」という命令文にもなるし、または、「わたしを愛しているのであれば、私の掟を守ることになる」という未来の意味にもなります(ギリシャ語の未来形)。いずれにしても、私たちがイエス様の掟を守るということは、彼を愛することの当然の帰結として出てくるということです。掟を守るというと、なにか強制されているような感じがします。果たして私たちは、強制を強いる者を愛することができるでしょうか?しかし、ここで言われていることは、掟を守れ、そして掟を与えた者を愛せ、ということではありません。そうではなくて、イエス様を愛するならば掟を守るのが当然になるということです。ルターはまさにこの箇所について、「いかにしたらそのようなイエス様を愛する愛が持てるようになれるか」と問い、次のように答えます。それは、「人間の心は惨めなものなので、何か外部から来る素晴らしいものを味わうことがなければ、人間は愛することなどできない」というものです。それでは、外部からくる素晴らしいものとは何なのでしょうか?

 それを知るために、キリスト信仰者は、どうしてイエス様を自分の救い主として信じるようになったかを振り返る必要があります。

 イエス様が私たちの救い主となったのは、言うまでもなく、彼のおかげで、私たちが天と地と人間の造り主である神と結びつきを回復できて、この結びつきを持ってこの世を生きることができるようになったためです。神との結びつきをもってこの世の人生を歩むことになると、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分の造り主のもとに永遠に迎え入れられるようになります。

イエス様はどのようにして私たちが神との結びつきを持てるようにして下さったかと言うと、それは、その結びつきを持てなくなるようにしていた原因であった、人間に内在する罪と神への不従順を無力化したのです。罪や不従順が無力化されたというのは、それらが力を持っていたからですが、どんな力を持っていたかと言うと、人間が神と結びつきを持てないようにする力、この世の人生の歩みでは神との結びつきがない状態にとどめて、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに戻れなくするような力です。

それでは、罪と不従順のそうした力が、どのように無力化されたかと言うと、神はイエス様に人間の全ての罪を請け負わせて、本来人間が受けるべき罪の罰を全部イエス様に受けさせて十字架の上で死なせられたのです。そこで神は、イエス様の犠牲の死に免じて人間を赦すこととしました。人間は、このことが真に自分のために行われたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神の罪の赦しがその通りになります。神から罪の赦しを受けるということは、神との結びつきができたということになります。こうしたことが、神のひとり子の犠牲の死によって実現したのです。

そればかりではありません。神は一度死んだイエス様を復活させることで、今度は永遠の命、復活の命に至る扉を人間に開かれたのです。こうして神との結びつきを持つことになった者は、永遠の命に至る道に置かれることにもなり、今の世の命と次の世の命を両方合わせた一つの大きな命を生き始めることになるのです。私たちがこのような新しい命を生きられるようになったのは、自分のひとり子を犠牲にしてまでも人間を救おうと決心された神の愛と、その神の決心を受け入れて実行されたイエス様の愛があったからでした。

このような神とイエス様の愛を知った時、人間の心はどう変わっていくかということについて、ルターが次のように明らかにします。「こうして、イエス様をこの世に送り、彼を用いて罪の赦しによる人間の救いを実現した神は、我々にとって愛すべき父親となった。御子を犠牲に供しなければならなかったのは、我々が罪の支配から抜け出すことができないでいる弱さのためであった。しかし神は、弱さの塊にしかすぎない我々を受け入れて下さり、死に至る病から癒して下さった。この父なるみ神に対して今度は、我々の方が心の底から愛を注ぐようになるのは当然のことである。加えて、このような神の愛を受けた以上は、我々もまた、神が我々にして下さったのと同じように隣人に対しても振る舞うようになるのは当然なことである。このようにして、我々は神と御子の意思とその掟を守るのが当然という心意気になっていくのである。そうなると我々はもはや、他に仕える神々などを持たなくなる。こうして、十戒の第一の掟は当然のこととなる。また、神の御名にのみ祈りを捧げ、神の御名のみを賛美するようになり、こうして第二の掟も当然になる。さらに、我々は、神が自ら決定し実行することを認め受け入れようという心になっていく。神よ、あなたが善かれと思われることを成し遂げ給え。それに対して我々は騒ぎ立てず異議も唱えず、ただ、あなたに信頼して静かにしています。だから安息日はしっかり守ろう。これで第三の掟も当然のこととなる。十戒の残りの掟についても同様である。全ての人に対して、気遣いとへりくだりの心を持って接しよう。父母を敬おう。隣人を愛し仕えよう。なぜなら、神が私にして下さったように、私も隣人にするのが当然という心意気になっていくからだ。」

 このように、神がイエス様を用いて私たちのために成し遂げて下さったことが、本当に素晴らしいことだとわかれば、私たちは神を全身全霊で愛することが当然であると思うようになり、その神がそうしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となるのです。神の愛と恵みのなんたるやを知った時、私たちの心に神への愛、隣人への愛が点火されるのです。人間が正しく愛することができるためには、全てに先だって神の人間に対する愛があることを知ることが大切なのです。このことは、「ヨハネによる第一の手紙」の中で強調されています。

「神は、ひとり子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(4章9~12節)。

 

3.以上みてきたように、キリスト信仰者は、天の父なるみ神と御子イエス様の取り計らいによって、神との結びつきが回復できて、今は永遠の命に至る道に置かれてそこを歩んでいます。この新しい命を生きられるようにして下さったみ神とイエス様への感謝と賛美が、信仰者をして神への愛と隣人愛に駆り立てていくことも明らかになりました。敵対する者に害を及ぼされても、心はしっかりと神の意思に向けられています。使徒パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント4章17節)と述べましたが、これは神の約束です。今この世で艱難を受けても、それは次の世で永遠の栄光をもたらす。だから、キリスト信仰者にとって艱難とは永遠の栄光をもたらす貴重な材料のようなものでさえあるのです。復活の日に、朽ち果て腐る今の肉体にかわって、神の栄光を体現する復活の体を与えられて永遠に生きるようになる。これがキリスト信仰者の希望の中心にあるのです。このような希望があるから、周囲の者がどんな態度を取って来ようとも、自分の心は神の意思に向けられているので、周囲の者の態度と無関係に善を行うことができるのであります。

 周囲の者の態度と無関係に善が行えるというのは、ペトロやパウロが勧めるような何か害を及ぼされた時だけに限りません。例えば、そんなことやって一文の得にもならないじゃないか、とか、あんな人にはそこまでしてあげなくてもいいんじゃないの、とか、ちょっとお人好しすぎるんじゃないの、とか言われてしまう位に公平無私を貫く時もそうです。しかしながら、キリスト信仰の場合は、それが倫理的道徳的に立派だから頑張ってやる、ということではありません。キリスト信仰者が最初に注目することは、何が倫理的道徳的に立派なことかということではありません。そうではなくて、ああ、私は自分の造り主である神とちゃんと結びつきがあるのだろうか?ああ、イエス様の十字架と復活のおかげでちゃんと結びついているのだ。よかった、安心した。これが、キリスト信仰者が最初に注目する事柄です。この安心感のゆえに、キリスト信仰者は、その他のことで自分が損をしたとか、悪口を言われたとかいうようなことはそんなに重要なことではなくなり、結果として公平無私の状態になっていくのです。立派な倫理道徳実践者とは、目のつけどころが違うのです。キリスト信仰者は、今のこの世の段階で永遠の命に至る道を歩んでいる、とか、この朽ち果てる体が神の栄光を体現する体に変えられるとか、そういうことばかり言っているので、目のつけどころが違うと言うよりは、視点がずれていると笑われてしまうかもしれません。でも、まさにここのところが、キリスト信仰者が公平無私になっていく時の鍵なのです。

日本人なら誰でも知っている宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」は、公平無私の思想の結晶として日本人の心を強く惹きつけてきました。しかし、その詩の終わりで「そういう者に私はなりたい」と言っているように、公平無私を希求する心がその思想の根底にあります。キリスト信仰の場合は、そういう希求とは無縁なところから始まります。それは、自分と造り主である神との関係は大丈夫だろうか、というある意味で自己中心的なところから始まります。しかし、それが結果として、自分でも気づかないうちに公平無私の大海に向かって流れていくのです。それはまた、可憐な花が、自分は可憐かどうか全然気にすることもなく、自分が可憐だと全く気づかないでそのように咲いているようなものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように       アーメン


復活後第五主日の聖書日課 使徒言行録17章22-34節、第一ペトロ3章8-17節、ヨハネによる福音書14章15-21節 

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