説教「主イエスは心を落ち着かせる道」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章1~14節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所は、イエス様が十字架刑に処せられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時のイエス様の教えです。初めにイエス様は、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じられます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが大きな不安を抱き始めたために、イエス様が述べられた言葉です。それがどんな不安であったか、少し考えてみましょう。

例えば、私たちは、言葉の通じない外国で単身で生活しなければならなくなったとしたら、いろいろ心配になり不安を抱くでしょう。ただ、冒険やかけ離れたことが好きな人だったら、むしろ心配になるどころかウキウキしてしまうかもしれません。いずれにしても、新しい土地で何かをしようという目的心があるならば、不安や心配を超える希望を持っているので、不安や心配はあってもそれらに心が圧倒されることはありません。それでは、別に外国に行かなくても、長く住み続けた場所にいて、何かの原因で周囲の人たちが自分のことをよく思っておらず敬遠している環境の中にいるとします。その中である人だけは自分のことを分け隔てなく付きあってくれて、困ったことがあればいつも相談に乗ってくれたり手助けをしてくれるので、その場所に住むことは平気だった。ところがある日、その人は遠くに引っ越さなければならなくなってしまった。さあ、頼りにしていた人がいなくなってしまった今、自分はこの場所で一人でやっていけるだろうか。この場合は、不安や心配を上回る希望自体がなくなってしまうので、それらに心が圧倒されてしまい、心が騒ぐことになるでしょう。

本日の福音書の箇所でイエス様が「心を騒がせるな」と言った時の弟子たちの状況は、今申し上げたことに似ています。弟子たちにとって、イエス様は頼れる最高の人でした。イエス様は、無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、またわずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど、無数の奇跡の業を行いました。同時に、天と地と人間を造られた神の意思について人々に正しく教え、それまで神の意思を代弁していると自負していた宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそ、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する本当のユダヤの王と信じていました。そして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現の日が近づいたと期待に胸を膨らませました。ところが、イエス様は突然、弟子たちに対して、自分はお前たちのところを去っていく、自分が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めます(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも驚きます。イエス様が王座につけば、自分たちは直近の弟子ですから何がしかの高い位につけると思っていたのに、主は突然、自分は誰もついて来ることができない所に行く、などと言われる。それではダビデの王国はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえ、イエス様は支配者やエリート層の反感を買っているのに、力ある彼がいなくなってしまったら、取り残された自分たちは迫害されてしまうではないか?こうして弟子たちは、希望が失われ、不安と心配で心が圧倒された状態に陥ったのでした。心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれるように取り残された弟子たちが、心を騒がせないで済む希望について、イエス様は教えていきます。それを以下に見てまいりましょう。

 

2.イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて、弟子たちを自分のところに迎える、と言われます。「あなたがたをわたしのもとに迎える」というのは、ギリシャ語の原文では、イエス様が弟子たちを御自分と父なるみ神のいるところに、それこそ手で引っ張るようにして(引き上げ)連れて行く(παραλημψομαι)、という意味です。このイエス様の言葉には、十字架と復活の出来事から始まってこの世の終わりの日に至るまでの人類の歴史の期間が凝縮されています。

まず、イエス様が十字架に掛けられて死んだことによって、罪の力、つまり人間と神との結びつきを破壊する力が消えました。どのようにして消えたかと言うと、人間が本来神から受けるべき罪の罰を、イエス様が代わりに受けました。そこで今度は、人間の方が、イエス様は本当に自分の身代わりになって死なれたのだとわかって、彼を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神は、それならばイエスの犠牲の死に免じてお前を赦そう、と言って、その人の罪を赦す。そのようにして、堕罪以来失われていた神と人間の結びつきが回復するのです。もちろんキリスト信仰者になっても、人間はまだ肉をまとって生き続けますから、罪の思いは持ち続けてしまいます。しかし、今の自分の人生は神のひとり子イエス様の犠牲の上に成り立っている、それに相応しい生き方をしなければ、と絶えず言い聞かせていけば、神はイエス様の犠牲に免じて絶えず罪を赦して下さり、またその人に絶えず良い導きと助けを与えてくれるのです。

イエス様の十字架での犠牲の死に加えて、父なるみ神はイエス様を死から蘇らせました。これによって、死を超える永遠の命、復活の命に至る扉が人間に開かれました。こうしてイエス様を救い主と信じて、神から日々罪の赦しを得て人生の道を歩む者には、罪はもはやその人を神から引き離す力を失っており、その人が永遠の命、復活の命に至る道を歩むことを邪魔できないのです。このように、ひとり子イエス様を用いて私たちを罪の支配下から解放して下さり、永遠の命、復活の命に至る道に置いて下さった父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。

さて、イエス様がまた戻ってくるというのは、今は父なるみ神の右に座しているイエス様がこの世の終わりの日に再臨することを意味しています。この時、大々的な死者の復活が起こり、最初の弟子たちをはじめイエス様の群れに繋がる者たちが父なるみ神のもとに引き上げられることになります。

これらのことを言われた後でイエス様は、「わたしがこれから行こうとしている所に至る道をお前たちは知っているのだ(新共同訳では「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」)と言われます(4節)。つまり、イエス様が行こうとしている場所とそこに至る道の両方を、弟子たちは知っていて当然という口調です。それに対してトマスが当惑した様子で言います。あなたがどこへ行くのかわからない以上、そこに至る道というのもわからないのです、つまり、両方わからないのです、と。これに対してイエス様は次の有名な言葉を述べられます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。これで、イエス様がこれから行こうとしている場所は、天の父なるみ神のいるところである、すなわち天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主のいるところであることが明らかになりました。そして、イエス様自身がその父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。その道を通らなければ、だれもそのもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道なのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉に定冠詞がついています(η οδος, η αληθεια, η ζωη 英語やドイツ語の訳も同様で、the way, the truth, the life、der Weg, die Wahrheit, das Lebenと言っています)。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味を持ちます。いくつかある道の中の一つということでなく、この道を通らないと創造主のもとに行けないという唯一の道なのであります。

こういうことを言うと、現代の宗教界の中では煙たがれるでしょう。ああ、キリスト教はやっぱり独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だな、と。最近よく聞かれる考え方にこういうのがあります。つまり、人間がこの世の人生を終えた後、天国でも極楽浄土でもなんでもいい、何か至福の状態があるとすれば、そこに至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが、到達点はみな同じなのだ、という考え方です。キリスト教界の中にもそのように考える人がいます。しかしながら、神の言葉とされる聖書に主イエス様の言葉としてある以上は、煙たがれようがなんだろうが、やはり御言葉を水で薄めるようなことはしないで、そのままの濃度で保つべきではないかと思います。それに、同じ到達点と言っているものは本当に同じなのかどうか考えてみなければならないと思います。つまり、諸宗教が目指す至福というものは果たしてみんな同じものなのかどうか。キリスト教で至福とは、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えられた創造主との結びつきがそのひとり子の働きのおかげで回復して、それで人間は造り主のもとに戻れるようになったこと、これが至福ということになります。他の宗教でも同じなのでしょうか?

 イエス様は道以外にも、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのは、次のようなことです。人間と造り主との結びつきが失われた原因は罪にある。造り主の神としてはただ、人間のために結びつきを回復したい。そのためには罪を無力にしなければならない。こうした人間の惨めな有様とそのような人間に対する神の愛は打ち消せない真理としてある。それゆえに、この神の愛の実現のためにこの世に送られたイエス様は、真理そのものなのです。

命の決定版ということについて。イエス様が、「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは、今のこの世の人生だけでなく、次の来るべき世の人生と一緒にあわせた、とても長い時間枠の「命」、「生きる」を意味します。死から復活させられたイエス様は、まさにそのような長い「命」を「生きる」方です。加えて、彼を救い主と信じる者たちに、同じ長い「命」を「生き」られるようにされます。それで、イエス様は命の決定版なのです。

 

3.7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい、御子と父は一緒の存在であるということが、7節から11節まで強調されます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は考えました。つまり、イエス様と父なるみ神は一緒の存在であるということがまだ信じられないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったかもしれません。十字架と復活の後になって、弟子たちは、イエス様は真に天の父なるみ神から送られた神のひとり子であることがわかりました。さらに、イエス様は父の人間に対する愛のために自分を犠牲にするのも厭わずに父の計画を忠実に実行したということもわかりました。それくらい、御子は父に従順だったのであり、彼が教え行ったことは全て、父が教え行ったことであり、彼が自分から好き勝手に教えたり行ったのではないということもわかったのであります。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくい言葉です。というのは、イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様の父なるみ神のもとへ行くこととどう関係があるのか、すぐ見えないからです。

弟子たちがイエス様の行う業を行うという時、まっさきに考えなければならないことは次のことです。つまり、イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられる可能性を開きました。これに対して、弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで、人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していきました。しかし、双方とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

さらに、弟子たちの場合は、イエス様が活動したユダヤ・ガリラヤの地方をはるかに遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで、救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。この意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになると言えるのです。また、この弟子たちによる福音伝道と救いの群れを拡大する宣教活動は、イエス様が天に上げられた後で本格化しました。どういうことかと言うと、イエス様は父なるみ神のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束されていました(ヨハネ14~16章)。聖霊は、福音が宣べ伝えられる場所ならどこでも、人々が人間の惨めな有様やそれに対する神の愛をわかるように働きかけます。このように、イエス様が天の父なるみ神のもとに戻って、聖霊が送られたからこそ、救われた者の群れがどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければならない、あまりにも利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまう、とわかるからです。神との結びつきが回復して永遠の命に至る道を歩む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは、この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように、ということに行きつくのではないかと思います。同時に、まだ結びつきが回復しておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない隣人のために、結びつきの回復と道の歩みが始まりますように、という願いも切実なものになると思います。イエス様がその通りにしてあげよう、と約束された以上は、たとえ何年、何十年かかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の重要な任務です。

 

4.以上、本日の福音書の箇所を駆け足で見てきました。最初に述べた問題に戻ってみましょう。それは、イエス様が天の父なるみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになるが、それでも彼らが心を騒がせないで済む希望を持つことができるとイエス様は教えられました。それはどんな希望だったでしょうか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰によって、自分は父なるみ神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて今その道を歩んでいるという救いの確信があるということです。その道が間違いのない正しい道であることは、それがイエス様自身が切り開かれた道だからでした。そして、自分がこの道を歩めるために、また他人が歩めるようになるために、願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束されたことも、大きな希望を与えるものです。

最後に、御子と父が一緒の存在だとわかると、我々の心は平安になり、全てのことは神の御心のままに起こってよいという心意気になるものだ、とルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「主イエスは、自分を知れば自分をこの世に遣わした父も知ることができると言われた。どうしてそのようなことが可能なのだろうか?それは、こういうことである。君は、自分の命を投げ打ってまで君に仕えたイエス様が神そのものであると知った時、イエス様は実は父が与えた任務を果たしたにすぎないということがわかる。その時、君の魂は、任務を果たされた御子を通して、それを与えた父へと高められる。こうして君の心は父に対する信頼で溢れて、父を愛するようになる。

父なるみ神をこのように知ることができれば、君は、全てのことは神の御心のままに起こってよい、と言って、神の決定権を受け入れられるようになる。なぜなら父なるみ神は、君にとって全てになっているからだ。この時、君の心は、神の住む場所として全てのことを静かに受け入れられる、へりくだったものに変わる。まさに、主イエスが、父と共に自分を愛する者のところに行って、父と一緒にそこに住むと言われたことが実現するのである。

我々は、神の栄光、力そして知恵をしっかり知りうる地点に到達しなければならない。その地点に立つ時、我々は、我々に関する全てのことを神が決定するのを受け入れられるようになる。また、全てのことには神の意図と影響力が働いているということもわかる。その時、我々はもはや何ものに対しても恐れを抱かなくなる。寒さや空腹、地獄、死、悪魔、貧乏その他これらに類するものは恐れる必要がなくなる。なぜなら、我々の内に住む神は、悪魔、死そして地獄に存在する力の総量よりも勝っているからである。このようにして、我々の内で、この世的なことの全てに反対する勇気が成長していくのである。我々には神がおられ、また神の栄光と力と知恵も我々に与えられている。それだからこそ、あとは、我々は何をも恐れずに、我々に課せられた義務をしっかり遂行するだけなのである。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように     アーメン

 

 主日礼拝説教 2014年5月18日 復活後第四主日の聖書日課 使徒言行録17章1~15節、第一ペトロ2章4~10節、ヨハネ14章1~14節

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