説教「命の水」木村長政 名誉牧師、ヨハネによる福音書4章5節~26節

今日の御言葉は、イエス様が、サマリヤの女と出会われた出来事です。

3節から見ますと、イエス様と弟子たち一行はユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた、とあります。ガリラヤへ行くのに、サマリヤ地方を通らねばなりませんでした。シルカというサマリヤの町に来られ、そこにヤコブの井戸がありました。時は正午頃であります。イエス様は旅に疲れて、井戸のそばに休まれたわけです。

私はイスラエルの旅で、四月のはじめでありましたが、このヤコブの井戸の所へ行きました。 日本では、とても想像できない程の暑さです。バスの中ではクーラーを目いっぱいかけて冷房しても暑い、バスから一歩外へ出たら、もう、ひどい暑さです。30~40℃近い、焼けつく砂漠の荒野の中を通って行くわけです。 ましてや、イエス様の時代、歩いて3~4日の旅です。 ともかく、ものすごい暑さの中、のどはカラカラに渇いて、一杯の水が欲しいのです。

7節を見ますと、ちょうどそこへ、サマリやの女が水をくみに、このヤコブの井戸へやって来ました。さっそく、イエス様は「水を飲ませて下さい」と願われたのです。弟子たちは食べ物を求めに町へ行って、イエス様とサマリヤの女との対話が始まります。ごく自然に、「水を飲ませて下さい」というイエス様の願いに対して、サマリヤの女は、その願いを素直に受け取らなかった。

なぜなら、第一には、サマリヤの女は男の人と話をする等ということは、決してしないのです。次に、イエス様がユダヤ人であることは、見てすぐにわかります。ユダヤ人に対して、サマリヤ人とはもう昔から憎しみ合っていました。民族との間に深い溝があったからです。 ですから、サマリヤ女としては、イエス様の願い等とうていできないのです。 それでサマリヤの女は言います。「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」。 ここに、イエス様は一杯の水さえ飲むことを拒まれています。 ユダヤ人とサマリヤ人とは、同じ器に唇をつける事はできない。ユダヤ人から見れば、サマリヤ人は混血の人種で、異邦人扱いですから、異邦人の使うどんな物も、共通に使用するのを律法で禁じていたからです。

この福音書を書いていますヨハネが、ここで、私たちも含めて人々に示そうとしている事は何か、といいますと、イエス様が神の子として、この世に来られた使命を果たそうとされるのが、いかに困難であるかということです。 イエス様はどんな状況、どんな相手にも分け隔てなく、敵をも愛する愛をもって、その道を探し求めて行かれるのですが、至る所でその道は閉ざされ、壁に突き当たるのでありました。 イエス様は、ここで、女の不信に対していささかも退く事なく、かえって、救い主としての御心を、彼女に示していかれるのであります。

10節に、すごい言葉がほとばしり出ています。 「もし、あなたが神の賜物を知っており、又、『水を飲ませて下さい』と言ったのが誰であるか知っていたなら、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えられたであろう」。

ここには二つの大事な言葉を言われています。一つは「神の賜物を知っていたら・・・」、もう一つは「生ける水」のことです。

暑い真昼ののどの渇きをいやす一杯の水が、今、イエス様の口をついて出る水は、渇くことのない「生ける水」の次元へと変わっていきます。 天の神様が、イエス様を遣わされたのが何のためであるのか、神がイエス様にあって、人間に与えるものは何であるのか。 これは神の賜物のことを知っていたら、彼女はイエス様の方へお願いしたであろう、と言っておられるのです。 神の賜物とは、神からの啓示の言葉のことです。それは、神の救いの御旨を、人間に知らせてくれるものです。 イエス様が、彼女に与えるものは、彼女がイエス様に手渡すことのできるものよりも、比較にならぬ程大きなものでしょう。 それは、水ではあるが、生ける水であって、真に人を生かす飲み物である。

私たちは普通、「生ける水」等と言いません。ユダヤでは普通によく使った言葉なのです。 池の水とか、ためてある水、とどまっている水は生ける水とはいいません。そうしたたまり水に対して、山の小川のように、サラサラと流れる水、冷たいおいしい水、又、泉からわき出る新鮮な水を、「生ける水」といいます。 著者のヨハネは、この言葉によって、イエス様の御心の深みを開いて、私たちに示していきます。

イエス様は、真理を見通す明るいまなざしで、渇いている女の心の底まで見通されたのです。彼女は人生の中で今、長いこと待ちこがれた焼きつく渇きをもって、イエス様の前に立っているのです。 イエス様は、彼女のために生ける水と、又救い主の御旨を持っておられた。 それを彼女に与え、その賜物で彼女のやんだ心を健康にすることがおできになるのです。サマリヤの女は、この時まだイエス様の中にユダヤ人を見て、こだわりを持っていたでしょう。 彼女がイエス様を理解し、又、自分自身をも理解するように、又、彼女の満たされない要求、不安、心の渇きがどこから来るのか、どのようにして、いやされるのか、これらの事がわかるために、イエス様は彼女の目を開かれたのでした。何よりもまず、彼女には、イエス様に対する不信感がまだあった、そして、イエス様に言っています。

11~12節を見ますと、「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその『生きた水』を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。 サマリヤの女は、イエス様の持っておられる能力の限界を計ったのです。水を手に入れる等どうして出来るだろうか、と思いめぐらした。いぜんとして彼女はユダヤ人であるイエス様を見ている。この人は自分をサマリヤ人より上に置いている。サマリヤ人が聖なる井戸として、非常に骨折って掘った族長ヤコブを過小評価しているのではないか。

彼女は心の内に言うのです。 サマリヤの女は、自分たちの民族が誇らしげに、聖なる井戸を見てきた。その井戸を少し軽蔑して言っているのではないか。 しかし、この言葉の中には、何かもっと高度なことを言っているようにも感じているのでした。 イエス様は、ここで本格的に御自身の恵みの目的を現わされていかれるのです。

13~14章のみことばです。「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者は誰でもまた渇く。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る』」。イエス様が与える水からは、いつも新鮮な泉が湧き出て来るものである。そのイエス様からの賜物は、何か一種変わったものではなく、真実に私たちに与えられるもの、私たちを助け、内側から私たちを捕らえて、新たにするものであります。 イエス様が与えられるもの、それは永遠であり、永遠の命の与え主として、今、この女に御自身を現されたのです。 イエス様がそのようになさるのは、イエス様の愛から永遠の命が育つことによって、そうなるのです。 この永遠の命が、その人の中に受け入れられ土台となってしまうなら、それは渇くことのない「生ける水」を飲んだからであります。

15節で女は言った。「主よ、私が渇くことなく、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」。 今や、彼女は、ユダヤ人等という人種や歴史を越えて、イエス様に近づいていくのであります。イエス様は、彼女の心の内側の暗い部分に、彼女のまなざしを向けていかれる。 そこで彼女は、自分自身が真実、貧しく悲惨であり、すべてを無気力にしてしまう魔力が巣くっていることを知らされるのです。

16説を見ますと、イエスは彼女に言われた「行って、あなたの夫を呼んでここに連れて来なさい」。 この言葉で、この女は悲惨なすべてのものが、明るみに出されていくのであります。女は答えて「わたしには夫はいません」と言った。するとイエスは言われた。「夫はいませんとは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」。 これまで何人もの夫に、身も魂も栄養も良心も、すべてをささげて尽くして来た。しかし、とどのつまりはすべて砕かれ、今ある夫は、公然と交わりを結ぶ夫ではない。

こうして彼女は、あらゆる努力をしたあげく、孤独で恥に満ち、踏みにじられ、貧しく、愛なしに立っていた。 今、イエス様は、このような悩み、やつれて、渇いた彼女を、生ける水を必要としている姿に見られるのであります。 「5人の夫があったが、今いるのは夫ではない」と、ずばりと言われたイエス様の言葉が、悔い改めに招き、裁きの光りとなって彼女の良心に射し込み、彼女を服従させるものとなっていった。そして彼女は言うのです。「主よ、私はあなたを預言者と見ます」。 こうして彼女の心にかかっている神様を礼拝することで、イエス様との話は移りますが、イエス様は大事なことを示される。

21節のみことばです。 「イエスは彼女に言われた。『御婦人、私のことを信じなさい。あなたが、この山でもなく、また、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時がきている』」。 イエス様がこの婦人に、生ける水を与えよう、と話されたのは、その生ける水を見つけるためにエルサレムに巡礼しなければならない、という意味ではない。 それよりももっと、高度なことが示されているのであります。

23~24節にそれが示される。 真実の礼拝者たちが御霊と真理をもって、御父を礼拝する時が来る。今、その時が来ている。神は霊でありますから、礼拝する者は、御霊と真理をもって礼拝しなければならないのだ、ということ。 天の御父は、このような礼拝者を求めておられるのです。 婦人は、イエス様の言葉が、これまで自分を支えていたすべてを越えているのに、気づいたのでした。

25節になりますと、女はイエスに言った。「私はキリストと呼ばれるメシヤが来る事を知っています。そのお方が来られたら、私たちにすべてのことを宣べ伝えるでしょう」。サマリヤの人たちも、キリストを望み見る希望にあずかっている。この婦人も、その望みを期待していたのでした。 イエスは彼女に言われた。「あなたと話している私がそれである」。 この一言の言葉で、彼女はどんなに驚いたことでしょうか。

イエス様は、まことにサマリヤの女に「生ける水」を与えられました。 このような親しみと、恵みと、ゆるしとをもって彼女に語りかけ、彼女のまちがいを正していかれたお方、これこそ、神の御名によって恵みを与えられる、キリストであります。永遠に支配されるキリストであります。私たちの救い主イエス・キリストであります。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 
四旬節第三主日  2014年3月23(日) 

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