説教「神の国の一員であるということ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書20章17-28節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所は読み通すと、一見わかったような気がしますが、実は難しいことがいろいろあります。それらを一つ一つみていくことで、天の父なるみ神の私たち一人一人に対する御心を明らかにしてまいりましょう。

まず、イエス様が自分の受ける受難と恥辱に満ちた死について、そして死からの復活について予告します。その時、弟子のヤコブとヨハネとその母親がイエス様の前に進み出て、母親が嘆願します。神の国が来たら息子たちを王様イエス様の左大臣、右大臣にして下さい、と。ここで起きる疑問は、なぜイエス様が死と復活を予告したタイミングに、母親はこの嘆願をしたのかということです。それは彼女が、イエス様の死と復活が神の国の到来に関係すると直感したからなのですが、どうしてメシア救世主の死と復活が神の国の到来と関係するのか?この疑問からみてみましょう。

イエス様が地上におられた時代のユダヤ教社会では、自分たちの民族の将来について次のような期待が抱かれていました。それは、かつてのダビデ王のような王が登場して、この王が油を注がれて聖別された者、つまりメシアとして、自分たちを支配・抑圧しているローマ帝国を打ち破って、かつてのような王国を再興してくれる、さらに諸国に大号令をかけてこれらを従わせ、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させるという期待です。そのような期待がでてきたのは、旧約聖書にそのようなことを預言するとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ士族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。またイザヤ書11章に、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言があります。同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。こうした預言をみれば、将来ダビデ家系から卓越した王がでて外国勢力を追い出して王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が持たれたとしても不思議はありません。福音書の中に「熱心党」と呼ばれるグループが登場しますが、これは機会があれば占領者であるローマ帝国に対して反乱を起こして武力で独立を回復しようと目論んでいた人たちでした。イエス様の弟子たちの中に「熱心党のシモン」という人が出てきますが、きっとイエス様が武力で王国を再興させる指導者になると思ったのでしょう。しかし、彼らにとって、イエス様が十字架にかけられて処刑されてしまったのは、期待外れ以外の何ものでもなかったでしょう。

このような、ダビデ家系の王が現れてイスラエルに民族自決国家を実現するという考えは、王様にしても王国にしても今存在する現世に実現するものです。ところが実は、当時のユダヤ教社会には、メシアについても王国についてももっと違った考え方がありました。まず、今存在するこの世はいつか終わりを告げる。その時、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる。その際、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らないものとして神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こる。かつてこの世で生きていた時に天地創造の神を信じてその意思に忠実であった者たちは神の国に迎え入れられる。この一連の大変動の時に、指導者的な役割を果たすのがメシアである。彼は、神の国という新しい世に最終的な平和を打ち立てる。大体そういう考え方です。現世的なメシアと王国復興の考えと随分違います。終末論的なメシアと神の国の考え方と言ってよいと思います。余談ですが、このような考え方を示す書物が、紀元前2、3世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました。1

どうしてこのような考え方があったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書65章17節、60章19~20節にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章1~3節、こうした今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考え方に従うと、現世的な王の下で現世的な民族自決国家を実現すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は来るべき世の出来事を意味するものだというふうに理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考え方からすれば、現世的なメシアや王国復興の考え方は、旧約聖書の預言をまだまだ取り込めていないということになるでしょう。

こうしてみるとヤコブとヨハネの母親は、イエス様の死と復活の予告を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考え方を持っていたことを窺わせます。しかし、彼女のメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。到来する神の国は死者の復活に関係があると理解していながらも、その国は現世の国のように支配層と非支配層があると考えて、それで自分の息子を右大臣左大臣に取り立てて下さい、と嘆願したのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えるのであります。それがどういう国かと言うと、本日の箇所の最後でイエス様が言われます。「人の子は仕えられるために来たのではない。仕えるために、そして自分の命を多くの人たちのための身代金として捧げるためにきたのである。これと同じように、お前たちの間でも、大いなる者になりたいと思う者は、お前たちの中で仕える者となりなさい。」2 つまり、神の国の秩序は、誰かが誰かの上に立って支配するというものでなく、お互いが仕え合っているという関係にある。王であるイエス様が自分の命を犠牲にしてまで仕える立場に徹した以上、王に従う者はみなそれに倣わなければならない、というのであります。

ヤコブとヨハネの母親が示したような終末論的な神の国の到来の考えは、確かに旧約聖書の預言に基づくものでした。現世的なメシアと王国復興の考え方よりも旧約の預言を網羅しているようにみえました。しかし、それでもまだまだ大事なものが沢山抜け落ちていたのです。イザヤ書53章には、メシアが人間の救いのために自分を犠牲にするという有名な預言があります。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、恐らく有名ではなかったのかもしれません。というのは、神の国を興し栄光に輝く者が苦しみを受けて打ち捨てられるなど、不可解だからです。しかし、十字架と復活の後は、不可解でもなんでもなくなりました。イエス様は、十字架と復活の前に全てをご存知だったのです。まさに彼こそが、旧約聖書の預言の全体を把握して正確な神の国の考えを持っていたのです。もちろん、これは、彼が神の御子であるため神の意思を全てわかっていたからなのですが、彼の場合は、神の意思について正しい理解を持っていただけではなく、神の意思そのものを実現することもやってのけたのです。

 

2.本日の福音書の箇所の次に進みましょう。イエス様は、母親の嘆願を受け付けませんでした。イエス様の呆れ返った様子が母と息子の三人とイエス様のやり取りから窺われます。「お前たちは何を欲しているか自分でわかっていない」。嘆願した本人からすれば、右大臣と左大臣にしてくれと頼んでいるのだからわかっているつもりなのですが、イエス様からすれば、この嘆願は神の国のなんたるやを知らない、的外れなものだということになるのです。神の国とは支配する者とされる者が二分している国ではなく、構成員がお互いに仕え合う関係にある国であるということは先ほど申し上げました。

「私が飲む杯を飲むことができるか」というのは、イエス様が受けることになる受難をお前たちも味わうことができるかという意味です。二人の若者は「できます」と答えます。立派な覚悟ですが、おそらく大臣になれるなら、たとえ火の中水の中という意気込みだったのでしょう。ここでイエス様は、そう、確かにお前たちは私の杯を飲むことになる、と預言します。これで二人の運命は決せられてしまいました。というのは、ヤコブは使徒言行録12章2節に記されているように、ヘロデ・アグリッパ1世によって殺害されてしまうからです。兄弟のヨハネについては不明ですが、おそらく安逸な人生ではなかったでしょう。

このようにイエス様の預言は二人の若者の運命を確定してしまったので、それは少し残酷なものに思えます。しかし、ここで注意しなければならないのは、この預言は二人の若者を何か不幸に定めたということではないのです。キリスト信仰者に対する迫害は、イエス・キリストの名とその福音を宣べ伝える時に起こりました。ヤコブはその宣べ伝えが命を伴う危険があると知っていたでしょう。また、かつて主に「お前は私の杯を飲むことになる」と言われていたことを覚えていたでしょう。もはや主は地上にはおられず、主の御名と福音を宣べ伝えれば、大臣になれるどころか、命を危険にさらすことにさえなる。ヤコブはそれを知っている。それなのに宣べ伝えをやめなかった。どうしてでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃して、神の国がどんな国であるか本当にわかり、それまで大臣などと言っていたことが全く意味を失ったからでした。イエス様の十字架の死と死からの復活から本当に大切なものが自分に与えられたとわかり、それを出来るだけ多くの人に伝えたい、同じ大切なものを他の人たちにも受け取ってもらいたい、そういう思いで生きるようになったためでした。その大切なものがあまりにも大きくて、目の前にある脅しや恐怖が小さくみえてしまうほどだったのです。イエス様が二人の若者に「お前たちは私の杯を飲むことになる」と言ったのは、実に「お前たちはそれくらい大きな大切なものを受けることになるので、受難の杯を飲むことが出来るのだ」と言っているのであります。3

それでは、イエス様の死と復活から与えられた大切なものがなんであるかについて見てみましょう。それは、人間が自分を造られた神との結びつきを回復できたということ、そしてその結びつきの中でこの世の人生を歩むことができるようになり、順境の時も逆境の時も自分の造り主である神から守りと良い導きを得られて歩めるようになったということ。万が一この世から死ぬことになっても、その時は造り主である神が手をとって御許に引き寄せてくれ、永遠に造り主である神のもとにいられるようになったこと、であります。どうして、そのような造り主との結びつきが失われていたかと言うと、創世記の初めにありますように、最初は良いものとして造られた人間が神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったからでした。そこで人間は死ぬ存在となり、神との結びつきは失われてしまいました。ところが、神はこの不幸な状態をなんとか変えようとして、それでひとり子をこの世に送り、人間の罪から来る罰を全て彼に背負わせて人間の身代わりとして十字架の上で死なせて、この彼の犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのでした。人間は、このひとり子イエス様をまさに自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることができるのであります。これが、イエス様の死と復活から与えられた大切なものであります。

ところで、ヤコブとヨハネに起きたのと同じことがペテロにも起きました。ヨハネ21章18~19節で復活された主はペトロが将来どのような最後を遂げるかを預言します。「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」これを言われたペテロ本人は、この主の言葉を生涯覚えていたでしょう。しかし、彼は全く怯むことなくイエス・キリストの名と福音を宣べ伝えていったのです。彼も、イエス様の十字架の死と死からの復活から大切なものを与えられたとわかった一人でした。この大切なものについて、私たちは、まだ知らない人に対しては明らかにし、既に知っている人に対しては忘れてしまわないように支え合ってまいりましょう。

 

3.神の国というのは、天の国、天国とも言い換えられます。天国と言うと誤解が生じると思います。一般には、天国と聞くとなにか、人が死んだ後で羽が生えたようになって空高く飛んで行って、何か安住の場所があって、「天国から私たちを見守ってくれている」などとよく言います。時々、仏教関係の人でもそのような言い方をする人がいて驚かされます。どうして、極楽浄土と言わないのだろうか、しかもまだ三十三回忌も済んでいないのに、と。しかし、この点はキリスト教徒も同じです。あれ、まだ主の再臨もなく復活も起きていないのに、もう天国にいるのか、と思ってしまいます。4

聖書が明らかにしている天国、神の国とは、今ある天と地が過ぎ去って新しい天と地にとってかわられるという、今のこの世が終わる時に目に見える形で現れるものです(ヘブライ12章26~29節)。その時、イエス様が再臨し、死んだ者が復活させられ、その時点で生きている者と併せて、神を信じその意思に忠実であった者が迎え入れられるところです。誰が迎え入れられて迎え入れないかという時に、最後の審判というものが起こるのです。迎え入れられた者は、自分を造られた造り主である神の御許に永遠にとどまることになります。そこは、悲しみも嘆きも労苦もなく死もないところです(黙示録21章4節)。神の国が結婚式の盛大な祝宴にたとえられるのは(同19章7~9節)、今の世での信仰の戦いの労苦が何十何百倍にもなって労われるということであり、神が全ての涙を拭い去るというのは(同21章4節)、今の世で被ってしまった不正や不正義が最終的に完璧に清算され晴らされるということです。

 そうなると、人は死んだ後は復活の日まではどこで何をしているのか、という疑問がおこります。このことについては、私は説教の場でルターの教えに基づいて教えたことがあります(2013年11月17日市ヶ谷教会)。ごく簡単に言うと、人は死んだ後は復活の日までは、神のみぞ知る場所にて安らかに眠っている、ということです。たとえ、この世の時間の尺度から見て500年眠っていることになっても、眠りに入った本人にしてみれば、ほんの一瞬にしかすぎないということです。瞬きした瞬間に、あれ、いつの間に寝ていたんだろう、としか思えない間隔で、目を開けた瞬間もう復活の壮大なドラマが始まっているというものです。

 しかしながら、神の国の一員になれるのは、主の再臨の日、復活の日まで待たねばならないということではありません。イエス様を自分の救い主と信じてこの世の人生を歩むようになった段階で、その人は神の国の一員となっています。復活の日にそれが見える形になるのです。今は見えませんが、天の父なるみ神の目には見えています。たとえ、人生の歩みの中で出てくる困難、苦難のために、神は自分のことを忘れてしまったのか、背を向けられてしまったのかと疑うことがあっても、イエス様を救い主と信じ、そのイエス様を自分のために送って下さった自分の造り主である神を信頼して歩む限り、その人が神の国の一員であることになんの揺らぎもありません。そのような時でも、否、そのような時こそ、神はしっかり見守っていて下さるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 今この世にあって私たちは見えない形で神の国の一員であるのですが、その一員であるならば、お互いが仕え合うようにしなければならない、とイエス様は教えられました。洗礼を受けてキリスト信仰者となっても、誰も完全な人にはなれません。それで、仕え合うということが大事なのです。今この世で見えない形で神の国の一員である私たちが仕え合うということについて、ルターが次のように教えていますので。それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「キリスト信仰者にとって、この世の人生は、信仰と愛と十字架の人生である。しかしながら、この三つのものは、この世の人生の間に完全なものになることは決してない。これらのものが完全になっているのは、キリストにしかない。キリストは、我々が目指して進んでいくために、我々の目の前に備え付けられた太陽である。我々の中には、弱い者もいれば強い者もいる。弱い者は苦しみを受けることがほとんどない。なぜなら、神はその者が耐えられないことを知っているからである。強い者は苦しみを多く受ける。なぜなら、神は、その者が耐えられると知っているからである。

 我々は全てキリストを目指し、キリストに倣う者でなければならない。この世の人生とは言わば、信仰がひとつの段階から次の段階へ、愛もひとつの段階から次の段階へ、忍耐も十字架もひとつの段階から次の段階へと絶えず進んでいく旅路のようなものである。人生において、出来上がった義は存在しない。あるのは、義に「なっていく」ということである。我々はまだ目的地に到達していないのである。まだ旅路の途上なのである。ある者は先にいて、別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが、ただ我々が歩む意思を捨てずに進んでいれば、神は満足したもう。そして、主が自ら決められた日に再臨される時、彼は我々の信仰と愛のまだ欠けているところを一気に満たし、瞬く間に我々をこの世から永遠の命、復活の命に移しかえて下さる。

 ところで、この世の人生を歩んでいる間は、我々はいつも、お互いの重荷を背負い合っていかなければならない。ちょうど、キリストが我々の重荷を背負って下さったように。我々の誰一人として完全な者はいない以上、なおさら背負い合う必要があるのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


1 例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩篇があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます。

2 マタイ202627節のギリシャ語の表現「お前たちの間ではεν υμιν」「お前たちの仕える者υμων διακονος」「お前たちの僕υμων δουλος」に注意すること。

3 ギリシャ語の「飲むことになる」という未来形πιεσθεは、「飲むことが出来る」という可能の意味も持ちます。

4 まだ復活が起きていないのに、神の御許に引き上げられた者として、創世記5章に登場するエノクと列王記上下に登場するエリアが挙げられます。モーセは「死んだ」ことになっていますが(出エジプト記345節)、葬ったのは神自身なため(同6節)、誰もモーセの死については確かなことが言えない状況があります。マルコ9章などでイエス様の姿が変わった時に現れたのがエリアとモーセだったというのは、それに何か関係しているのではと思われます。

四旬節第二主日の聖書日課 創世記12章1-8節、ローマ4章1-12節、マタイによる福音書20章17-28節 

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