説教「まず神の国と神の義を求めよ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書6章24~34節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.先々週、先週に引き続き、本日の福音書の箇所もイエス様の「山上の説教」のところです。「山上の説教」はマタイ福音書の5章から7章にかけて続く長い説教です。この説教が終わった時、聞いていた群衆は驚嘆したと書いてあります(28節)。なぜなら、天地創造の神の意思についてイエス様が教えた時、それは律法学者のように教えたのではなく、まさに神から権威を授かった者として教えたことが誰の目にも明らかだったからであります(29節)。本日も、そのような天の父なるみ神の権威に満ちたイエス様の教えに耳を傾けてまいりましょう。

 本日の福音書の箇所は、山上の説教のほぼ真ん中にある6章の終わりの部分です。この6章というのは、人間が自分中心の考え方や生き方から離れて神中心の考え方、生き方を持てるようになるための教えが沢山あります。本日の副申書の箇所はその教えのそうまとめのようなところです。本日の箇所をよりよくわかるために、6章全体を足早にみてみましょう。

はじめに、1節から6節にかけて、慈善をするときとお祈りするときは、他人に見られないようにしなさいと教えます。少し飛んで16~18節では、断食するときにも他人に見られないようにしなさいと教えます。これらは、神の御心に適う行いであるが、もしそれらを他人に褒められたり、感心されたり、評価されるために行うのならば、それらはもはや神に栄光を帰するものではなくなって、人間が自分に栄光を帰する手段になってしまう。そういう人は他人に見てもらった段階で行いの報いを既に得ているわけであります。天にいます父なるみ神だけに見てもらえれば後は誰にも知られなくてもいいという人は、善い行いの報いを神からいただけるのです。

慈善とお祈りについて教えたところでイエス様は、お祈りの仕方についても教えます(7~13節)。これも人間が自分を中心にして行うお祈りでなく、神を中心にして行うものです。「神様、あれをして下さい、かなえて下さい、与えて下さい、そのためにあれをしますから、これをしますから」と長々とおねだりしたり、いろんな条件をつけたりするお祈りは、神を信じる者にふさわしくないと言う。そういうお祈りは、神に拠り頼んでいるように見えても、実は自分を中心にしている。そもそも天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた造り主である神は、祈る人が真に必要としているものを既にご存じである。だから、祈るのなら神を中心に据える祈りをしなさい、ということでイエス様は「主の祈り」を教えるのです。本日の礼拝でも後ほど、この祈りを一緒にいたしましょう。

祈りについて教えた後で、今度は、赦すことについての教えがあります(14~15節)。これは「主の祈り」の中にある一つの課題を少し詳しく教えるものです。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じる人は、まさに信じることで罪と不従順を神から赦されて、神との結びつきを回復した者となれた。そうして、この世の人生では神から守りと良い導きを絶えず順境の時も逆境の時も得られるようになる。万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主である神のもとにいることができるようになる。あなたが、このようなとてつもない大きな恩恵を神から受けているとわかったならば、他人があなたにした過失をも赦してあげることができなければならない、という教えです。これも、自分中心の考え方から離れて神中心の考え方を持って生きなさいという教えです

これらの教えの後で、19節から21節までの「地上に積む富、天に積む富」の教えがきます。人間が自分を中心にして積み重ねたものは、名声にせよ、金銭的なものにせよ、永遠に保たれることはない、遅かれ早かれ朽ち果ててしまうものだ。しかし、神を中心に据えて考えたり行ったりして積み重ねたものは、たとえ名声を博さなくても、金銭的にたいしたものでなくても、朽ちることなく、永遠の輝きを持つものである、と教えます。

それ続く22・23節に、「目は体のともし火」というたとえの教えが来ます。これはちょっとわかりにくいたとえかもしれません。「目が澄んでいる、濁っている」と言うと、何か視力の良し悪しを言っているように聞こえます。ギリシャ語のハプルースαπλουςという語が下地にありますが、「単純な、素直な」という意味があります。この意味をあてはめるとたとえがわかりにくくなるので、通常は目が「澄んでいる」とか目が「健康である」と訳されます。しかし、6章のはじめから続いている教え、「人間の自己中心の考え方、生き方から離れて神中心の考え方、生き方を持ちなさい」という教えからみると、「単純、素直」の意味でも問題ありません。つまり、「目が素直」というのは、目が単純かつ素直に神に向いているということで、神を中心に据えた考えがあり、生き方をしているということであります。それに反して、「目が濁っている、目が悪い」というのは、自己中心の考え、生き方をしているということであります。このたとえで大事なことは、目が単純かつ素直に神に向いているとき、その人の体全体が輝くということです。つまり、たとえ、病気を患っていても、貧しい境遇にあっても、神を中心に据えて考え生きる人は、その存在そのものが輝くということであります。これとは逆に、目が神に向いていず、自分にしか向いていなければ、どんなに健康でも、裕福な境遇にいても、その人の存在は暗闇同然ということなのであります。

以上、マタイ福音書の6章1節から23節まで、神を中心に据えた考え方や生き方についての教えが沢山つまっていることを見てきました。これらの後で、本日の箇所である24節から34節までが来るのです。先ほども申しましたように、それは、神中心の考え方や生き方の教えの総仕上げです。まず、24節に神と富の双方に仕えることはできないという教えがきます。その次の25節から32節までのところで、生活の必要物に心を奪われるなという教えが続きます。そして33・34節で、「まず、神の国と神の義を求めよ、そうすれば、天の父なるみ神は生活に必要なものも与えて下さる。明日や将来どうなるかは、その時になって神がどんな道を示して下さるのかがわかるから、今の時点では明日将来のことを思い悩む必要はない。今の時点では、この今の時点にある務めを一生懸命果たしなさい」という教えで終わりとなります。「神の国と神の義を求めれば、必要なものは全て与えられる」というのは、ちょっと信じがたいことです。誰もが必要なものを手に入れるためにあくせくしているのに、それが、神の国と神の義を求めれば、神から与えられるというのです。一体どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?以下、そのことを見てみましょう。

 

2.まず、24節で、イエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えられます。「仕える」というのは、ギリシャ語では「奴隷として仕える」という意味の単語です(δουλευειν)。奴隷というのは主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能なわけであります。イエス様は、人間の神ないし富に対する関係も同じだと教えるわけであります。つまり、どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になるのであります。

 もちろん、人間が富の奴隷にではなく、主人になることもできます。そのことについて、ルターは次のように教えます。「もし人が財産の主人ならば、財産が人に仕えるのであり、人が財産に仕えることはない。どのようにして財産が人に仕えるかと言うと、例えば君が衣服の無い人を見つけたとする。すると君はお金にこう命ずる。『親愛なる金貨君、出発しなさい。あそこに衣服の無い貧しい裸の男がいる。行って彼に仕えなさい。』また次のようにも命ずる。『お前たち価値あるお金よ、あそこに、治療を受けられない病人がいる。彼のところに急行し、すぐ助けてあげなさい。』財産をこのように扱える者が、財産の主人なのである。」

 しかし、もし財産や所有することが人を束縛してその虜にしてしまい、ルターの教えるように財産を扱えない人はもうその奴隷であり、もはや神に従属していないのであります。イエス様の意図ははっきりしています。神と富の双方に仕えることはできない、どっちか一方にしか仕えることができない以上は、あなたたちは、神に仕えなさい、神に仕えることで富の主人になりなさい、と教えるのです。そして、25節の「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか云々と思い悩むな」と続いて行きます。「だから、言っておく」というのは、ギリシャ語では「それゆえ(δια τουτο)、お前たちに言っておく」、つまり、「お前たちは富にではなく神に仕えなさい。それゆえ、お前たちは、神に仕える者である以上は、何を食べようか云々と思い悩んではならない」ということなのです。食べる物や着る物など生活の必要物は、もちろん、なくてはならないものです。しかし、それが心や頭を支配してはいけない、ということなのであります。天の父なるみ神こそはお前たちの造り主であり、お前たちが何を必要としているかご存知で、お前たちの生活の必要物を準備して下さる方である。なのに、自分の造り主を忘れる位に心と頭を必要物のことで一杯にしてはならない。また必要物のことを心配しすぎるあまり、神がそれを準備してくれることを忘れたり、疑ったりしてはならない、神を信頼しなければならない、というのがイエス様の教えの主旨です。

 ここのイエス様の教えで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この有名な「空の鳥」「野の花」のたとえは誤解されることがあって、「空の鳥が種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもせず、それでいて神は養って下さる」と聞くと、人によっては、「ああ、働かなくても神様は養ってくれるのか」と理解する向きがあります。イエス様は、働く必要はないと教えてはいません。イエス様が教えていることは、「種まきもせず、刈り入れもせず、倉にも納めることもしない鳥たちを神は十分に養って下さるのだから、お前たちのように種まきをし、刈り入れをし、倉に納められている者たちは、もっと養って下さるのだ。だから、なおさら心配の必要はないのだ」ということです。同じように、「働きもせず、紡ぎもしない野の花を神はきれいに装って下さるのだから、働いて、紡いでいるお前たちは、もっと素晴らしく装って下さるのだ。だから思い悩む必要は何もないのだ」ということです。つまり、働くことが前提されているのです。

 それでは、富に対しては主人として、神に対しては従属する者として生きる者は、あとは働きさえすれば、必要物は満たされてくるかというと、ここでイエス様はひとつ大事な事柄を付け加えます。神に仕える者には追い求めているものがある。それは生活の必要物ではないが、それを追い求めているからこそ、必要物があとから付いてくるものである。それでは、神に仕える者が追い求めるものは何かというと、それが「神の国と神の義」なのであります。33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「加えて与えられる」というのは、ギリシャ語の動詞に忠実に訳せば「付け足される」とか「付け加えられる」です。「求めなさい」というのは、ギリシャ語のニュアンスで「求めることを常としなさい」、「求めることを常態としなさい」となります。1つまり、ここは、「富ではなく神に仕える者であるお前たちは、働きつつも、いつも神の国と神の義を求めていなさい。そうすれば、生活の必要物は神の国と神の義の付け足しのようについてくる。だから、必要物のことを心配する必要はない。神に仕える者とは、それくらいに神を信頼する者である。この間、お前たちの心と頭を支配するものは、神の国と神の義でなければならない。」これがイエス様の教えの主旨です。それでは、神に仕える者が心と頭を一杯にし、追い求めなければならない「神の国と神の義」とは何かを見てみましょう。

 

3.イエス様が活動を開始する直前、洗礼者ヨハネが現れて、「神の国が近づいた」と宣べ伝えました。そして実際に神の国は、イエス様と一体となって到来しました。神の国がイエス様と一体となってきたというのは、彼の行った無数の奇跡の業、難病や不治の病の人たちを完治したり、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、嵐のような自然の猛威を静めたり、悪霊を追い出した等々の業にあらわれています。つまり、神の国とは、あらゆる邪悪なもの危険なものの力が及ばない国、神の意思と力で満たされた空間ないし領域です。今は私たちの目には見えませんが、将来今の世が終わりを告げる日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時、「ヘブライ人への手紙」12章26・28節に記されているように、全ての被造物が崩れ去って、唯一崩れ去らないものとして現れてくるものが神の国です。2000年前に神の国がイエス様と共に到来したというのは、人々に前もって神の国というものを少し身近に体験させる意味がありました。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。難病や不治の病を治してもらったり、悪霊を追い出してもらったり、自然の猛威から助けられても、助けられた人たちはまだ神の国の外側に留まりました。なぜなら、神の国に入れるためには、人間が神の目から見てふさわしい者になっていなければならない。神の意思を100%実現できる者でなければならない。つまり、神の義を体現していなければならないのです。そんなことは罪の汚れに満ち、神聖な神から切り離された人間には不可能です。

神は、この惨めな人間が神の国の中に入れるようにしました。どのようにしてかというと、まずひとり子のイエス様をこの世に送られた。そして、神への不従順と罪の汚れにまみれた人間が本来受けるべき裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせた。神は、このイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪と不従順は赦すことにしたのであります。私たち人間は、これらのこと全てが自分のためになされたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えられた罪の赦しの救いを受け取ることができるようになったのです。こうして、私たちはまだ罪の汚れを残しているにもかかわらず、イエス様を救い主と信じる信仰によって、神から罪の赦しを得て神の国に入ることが可能となったのです。神は、私たちの汚点には目を留めず、私たちが洗礼の時に被せられたイエス様の清さをみられるのです。このような仕方で、私たちは神の義を体現することができるようになったのです。こうして、私たちは今、イエス様を救い主と信じる信仰によって、今は目に見えない神の国の中にすでに迎え入れられ、神からの守りと良い導きを得ながらこの世の人生を歩み進んでいます。そして、今の世が終わる日には、神の国の一員であることが目に見える形で現れます。

以上から、「神の国と神の義を求める」というのは、実に、イエス様を救い主と信じる信仰に入って、その信仰にしっかり留まることであることが明らかになりました。「山上の説教」を最初に聞いた人たちは、「神の国と神の義を求める」ことが具体的に何をするのかわからず、途方にくれたでしょう。しかし、イエス様の十字架と復活の後は、何を意味するかがはっきりわかるようになったのであります。イエス様は、言うならば、御自分の死と復活を行うことを通して、「神の国と神の義を求める」ことが具体的に何をするのかを明らかにしたのであります。

私たち人間が神の義を得られて、神の国に迎え入れられるようにしようと、神がイエス様を犠牲にしてまで実現して下さった救い、私たちがこの救いを思い起こし、神から受けている恵みのあまりにも大きいことを思い知った時、それまで自分を押し潰すかのように圧倒していた心配事や思い悩みは急にしぼんで影が薄くなります。イエス様が「思い悩むな」と言うのは、無理して頑張って心配事を忘れろ、ということではありません。また、無関心を決め込むことでもありません。忘れようと頑張っても心配事は消えません。ただ、自分が神からどれだけの恵みを受けているかがわかった時に初めて、心配事は自分を圧倒する力を失い、冷静に向き合って取り組めるものに変わるのです。その時、神こそが本当に全身全霊をもって信頼するに値する方だとわかり、心配事を全て打ち明けて委ね、神からの解決と助けを安心して忍耐して待つことができるのです。逆に、救いを受け取っていない人は、自分を圧倒するような心配事にどう対処するのでしょうか?圧倒しようとする力はそのままで、それに向き合わなければなりません。それだからこそ、出来るだけ多くの人が、イエス・キリストの救いの福音を聞くことができるように、そして、その救いを受け入れることができるようにと願ってやみません。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

1 動詞が現在形であることに注意

 


主日礼拝説教 顕現節第八主日
2014年2月23日の聖書日課  イザヤ書49章13-18節、第一コリント4章1~13節、マタイ6章24~34節


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