説教「『汝の敵を愛せよ』とは、一体どんな愛なのか?」神学博士 吉村博明 宣教師、 マタイによる福音書5章38~48節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.先週の主日に続いて、今週もイエス様の山上の説教が続きます。先週申し上げましたように、イエス様はこの説教で十戒をはじめとするモーセ律法の正しい理解について教えます。十戒や律法を正しく理解するとは、それらを与えられた方の意思を正しく理解すること、つまり天と地と人間を造られて私たちに命と人生を与えられた父なるみ神の意思を正しく理解することです。イエス様は、人々が十戒も律法も神の意思も正しく理解していないことを知っていました。それで、教える際にはいつも、「かつて次のような掟が与えられて、それについてこう言われてきたが、私は次のように言う」と前置きを述べて、正しい理解を教えていきます。それができたのは、もちろんイエス様が神のひとり子だからで、父であるみ神の意思を正確に知る立場にあったからです。

38節と39節で、イエス様は、律法では「目には目を、歯には歯を」と言われているが、悪人には手向かってはならない、と教えます。これは、一体どういうことか?悪人が何か悪さをしようとして、それをそのままにせよとは?右の頬を打たれたら左を差し出せ、とか、下着を取ろうとする者には上着を取らせよ、とか。イエス様は、悪がしたい放題するにまかせよ、悪をそのままのさばらせておけ、と言っているのでしょうか?

イエス様はそのようなことを教えてはいません。それでは何を教えようとしているのか?以下、それを明らかにしてまいりましょう。

「目には目を、歯には歯を」という掟は、出エジプト記21章22~25節やレビ記24章17~20節に出てきますが、申命記19章16~21節にはどうしてこのような掟が必要なのか理由が記されています。それによると、裁判沙汰になった時、一方が他方を陥れようとして嘘の訴えをしたとする。訴えが嘘であると判明したら、その嘘つきが嘘をつくことで相手を陥れようとしたのと同じ状態を嘘つきに味あわせなければならない。つまり、目には目を、ということです。そして20節で言われます。「ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。」つまり、「目には目を、歯には歯を」というのは、こういうことをしたらこういう報いが来るぞ、他人の目を失明させた者は自分の目を失明させねばならなくなるぞ、ということで、同じ悪が自分にも跳ね返ってくるとはっきりさせることを通して悪を控えさせるという、人間が悪に手を出さないようにする抑止力だったのです。

しかしながら、もともとは悪に対する抑止力として始まったこの掟は、反対の結果をもたらしてきました。それは、損害を被ったら仕返しをしてもよい、あるいは、仕返しをしなければならない、というふうに理解されるからです。そうなると、収拾がつかなくなることが沢山でてきます。例えば、子供が取っ組み合い掴み合いのケンカを始めたとします。間に入って止めた大人が、何が原因なのかと聞くと、A君は、B君がぶったから仕返ししたと言います。B君になぜぶったのと聞くと、A君が気にさわることを言ったからと言う。それにそんなに強くぶってないのにA君は強くぶち返したと付け加えます。それに対してA君は、強くぶち返したのはB君の方だ、だから自分も強く仕返しした、というふうになっていきます。子供のケンカでなくても、仕返しをする時はたいてい受けたダメージ以上のダメージを与えようとするのが常でしょう。受けた以下のものでは仕返しをしたという気がしないからです。

そういうわけで、イエス様の教え「悪人には手向かうな」というのは、実は、「悪を成す者に対して仕返しや報復はするな、悪を成す者と同じ手は使うな」という意味なのであります。悪の好き放題にさせろとか、悪をのさばらせていい、ということではないのです。右の頬を打つ者に対して殴り返すな、ということであります。ギリシャ語では正確には「右の頬を平手で打つ」ですが、これは当時の人たちにとって、公けの場で侮辱することを意味しました。それで、侮辱されても侮辱し返すなという意味になります。また、誰かが法律に訴えて所有物を悪賢く合法的にかすめ取ろうとしても、同じ手口を使って相手から取り上げるな、ということであります。しかし、疑問が生じます。なるほど、悪人には手向かうなというのは、悪人に対して報復するなということを意味するのか、でも、悪に好き放題させるのに変わりはないのではないか、悪をのさばらせることになってしまうのではないか、と。

ここでイエス様の教えをもう少し詳しく見てみましょう。イエス様は、右の頬を打たれたら打ち返してはいけないとは言いますが、打たれたままでいなさいとも言いません。相手に左の頬をさし出しなさいと言います。また、悪賢く合法的に所有物を取られてしまったら、同じ手口で相手から取り去ってはいけないと言いますが、そのまま取られて泣き寝入りしなさいとも言っていません。下着に対する上着ですから、取られたもの以上のものを相手に取らせなさいと言います。ギリシャ語のニュアンスでは「取らせなさい」というより、相手に「放り出してしまいなさい」がいいと思います。41節の「1ミリオンではなく2ミリオン行く」という話は少しわかりにくいですが、当時の人たちがこれを聞いて思い浮かべるのは、ローマ帝国の兵隊が現地の人を強制的に道案内させたり荷役をさせたりすることです。つまり、占領者が無理矢理1ミリオン(約1、5キロメートル)の距離の荷役労働を課したら、それを屈辱と思わずに命令者について歩き、歩き終わってもそのままもう1ミリオン追加で歩いてしまいなさい、ということです。

こうなると、悪を成す者が最初に目論んだことを上回るものをその者につき返すということになります。突き返された者はどう思うでしょうか?右の頬を打って相手を侮辱することを目論んだ者が、左の頬を突き出されたら、どう思うか?折角こいつを、名誉を傷つけられた悔しさに打ちひしがせてやろうと思ったのに、こいつときたら左頬を出してきやがった。一体何なんだこれは?こいつは自分の名誉にこだわっていないのか?それじゃ、侮辱した甲斐がないじゃないか。また、他人の所有物を悪賢く取り上げた者が、もっと値段のはるものを目の前に放り出されたら、どう思うか?わざわざ手間をかけてかすめ取らなくとも、持って行きたかったらどうぞ持って行って下さい、と突き出されてしまった。一体何なんだこれは?また、1ミリオン荷役労働に服させて占領者の優越感に浸っていたら、こちらは何も言わないのに突然さらにもう1ミリオン歩き出されてしまった。何なんだこれは?このように、最初の目論みを上回るものを突き返されると、最初の目論みが何だかちゃちなものに見えてしまいます。これは、悪を成す者の面目を失わせることになります。

42節を見ると、イエス様は「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と言われます。これは、これまで教えてきた「悪を成す者に仕返しや報復をしてはならない、悪を成す者と同じ手を使ってはならない」ということと結びつきがないようにみえます。しかし、結びついています。この「求める者には与えなさい」という掟は、申命記15章7節がもとになっています。「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」つまり、あなたに求める者、借りようとする者は貧しい者である、だからあなたは貸し与えなさい、ということですが、あなたを侮辱しようとする者、所有物を取り上げようとする者、強制しようとする者、これらの者も基本的には貧しい者である。だから、侮辱される者、取り上げられる者、強制される者は貧しくない者なのだから、貧しい者に対しては貸し与える態度で臨まなければならないということなのであります。

そういうわけで、侮辱する者、取り上げる者、強制する者に対して仕返しや報復をしない、同じ手を使わないでいる時、侮辱される者、取り上げられる者、強制される者はする者に対して一段高い立場に立つことになります。一見すると侮辱した方が高く、侮辱された方が低く見えますが、本当は侮辱する方が貧しく、される方は貧しくないので、こちらが高いのであります。力関係の高い低いは、道徳的には逆転するということであります。

イエス様が教えることは、道徳的に崇高なものを目指す人にとって受け入れられますが、たいていの人は尻込みするでしょう。崇高な道徳は素晴らしいと思うが、自分は名誉や所有物を犠牲にしてまでそれを実現させる器ではない。誰か立派な人がやってくれればいいと思うのではないでしょうか?しかし、イエス様は、立派かどうかに関係なく、こうしなければならないと教えられる。それはちょっと無理ですよ、イエス様、と思われる方はイエス様の次の教えを見ていくといいと思います。

 

2.43節と44節。あなたたちは、汝の隣人を愛せよ、汝の敵を憎めよ、と教えられてきたが、私はあなたたちに命じる。あなたたちは敵を愛しなさい。あなたたちを迫害する者たちのために祈りなさい。「汝の隣人を愛せよ」という掟はレビ記17章18節にありますが、「汝の敵を憎め」という掟はモーセ律法の中には見られません。掟にないことが、どうして教えられてきたのでしょうか?レビ記で言う愛すべき隣人とはイスラエルの民に属する同胞を指しています。それで、同胞愛としての隣人愛の裏返しとして、敵は憎んでもよいという考え方がユダヤ民族の苦難の歴史と相まって生まれてきたと考えられます。隣人を愛せよという掟は裏を返せば敵を憎めよということだから、これも掟であるというふうになってしまったのでしょう。しかし、イエス様は命じます。敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ、と。ここでも、イエス様は私たちに崇高な道徳の実践者になれ、と命じておられるのでしょうか?45節を見るとイエス様の意図がわかってきます。

45節。敵を愛し、迫害する者のために祈るのは、おまえたちが天の父なるみ神の子となるためである。なぜならば、神は悪人にも善人にもご自分の太陽を昇らせ、神を畏れる者にも神に背を向ける者にも雨を降らせるからである。こう聞くと、なるほど、神は悪人にも、神に背を向ける者にも気前よくしてくれるのか。悪さをしようが善をしようが神は恵んでくれるのなら、別に悪に留まっていたっていいわけだ、そういう理解がされる危険があります。しかし、イエス様は、悪はしたい放題でいいとか、のさばっていてよいとは教えていません。実は全く逆のことが言われているのです。

どういうことかと言うと、神が悪人にも、神に背を向ける者にも太陽を昇らせ、雨を降らせるというのは、これらの者が神の用意した救いに与れるようにするという意図があるのです。神が用意した救いとは何かと言うと、以下のことです。人間は自分の造り主である神との結びつきがこの世でも次の世でも失われてしまっている、それを神は人間が自分との結びつきを持ってこの世の人生を歩むことができるようにし、この世から死んだ後は永遠に自分のもとに戻れることができるようにした、これが救いです。どのようにしてこの救いができたかと言うと、人間と神との結びつきが切れた原因は人間に罪と不従順が入り込んで、人間が死ぬ存在になったからですが、神は独り子のイエス様をこの世に送って、人間の罪からくる罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせた。神はこの御子の身代わりの死に免じて人間を赦すことにした。人間はこのイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の赦しの救いを受け取ることができ、神との結びつきが回復した者となれる。そうして人間はこの世の人生の歩みでは、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死んでも永遠に自分の造り主のもとにもどれるようになったのであります。

神は、イエス様を用いて実現された救いを善人だけでなく悪人も受け取るように意図しました。それで、善人だけでなく悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせるのです。もし、太陽が善人にしか昇らず、雨が義人にしか降らないとしたら、悪人や神に背を向ける者はすぐ滅びてしまいます。神が彼らにも太陽を昇らせ雨を降らせるのは、彼らが一日も早く救いを受け取るようにと猶予の時間を与えているのです。もし悪人が、神は自分にも太陽を昇らせてくれるのだから、自分の悪を認めてくれているんだ、だから悪のし放題でいいんだ、と思ったら、それはとんでもない誤解で、それは神の意図に対する大きな裏切り行為です。そのままで行けば、この世の段階で何か罰が下るか、そうでなくても最終的には最後の審判の日に罰を下されるでしょう。

神としては、悪人も自分との結びつきを回復してほしいという意思なのですから、既に結びつきを回復した者はこの神の意思に従って、その実現のために悪人や敵に対してどんな働きができるかを考えなければなりません。悪人だから敵だから滅びてしまえ、というのは神の意思に反することです。悪人や敵のために祈らなければなりません。自分を迫害する者のために祈れというのは、天の父なるみ神よ、迫害を終わらせて私を助けて下さい、という自分のための祈りではありません。父なるみ神よ、あの迫害する者がイエス様を救い主と信じてあなたの用意された罪の赦しの救いを受け取ることができるようにして下さい、と悪人や敵のために祈ることです。言うまでもないことですが、悪人や敵がイエス様を信じて救いを受け入れることになったら、迫害もなくなります。悪人や敵が神との結びつきを回復できるように働きかけ、またそれを祈ること、これがキリスト信仰者にとって敵を愛するということであります。

先ほど、悪を成す者に仕返しや報復をしてはいけない、悪を成す者と同じ手は使ってはならない、敵を愛さなければならない、というイエス様の教えは崇高な道徳の実践ではないかという疑問を投げかけました。キリスト信仰にあっては、これらのことは崇高な道徳の実践ではありません。それでは何かと言うと、それはただ、父なるみ神の意思に従って生きることそのものであります。ひとり子を犠牲にするのも厭わない位に私たちのことを思ってくれた父なるみ神の意思、日々私たちに良い導きと助けを与えてくれ、たとえこの世から死ぬことになってもすぐ御許に引き寄せてくれる父なるみ神の意思に従って生きることそのものであります。もし、神が用意した救いもなく、イエス様もなくて、これらの教えを実践しようとすれば、それこそ人間の崇高な道徳の実践となり、立派な英雄的な人しか行えなくなります。崇高な道徳の実践とは、人間がこうだと決めた意志の実践です。だから意志の強い人しかできません。しかし、神の意思に従って生きるキリスト信仰者は、自分の意思にかえて神の意思を前面に押し出そうとする者です。もちろん自分の意思と神の意思が衝突することもありますが、それでも神の意思を立てようとする。そういう内的な戦いをする者です。神の意思を立てようとする者にとって、イエス様の教えは当たり前のことなのであります。

 

3.イエス様が山上の説教を行った時、それはまだ彼の十字架の死と死からの復活が起きる前のことでした。まだ、神が罪の赦しの救いを実現する前でした。そのため、説教を聞いた群衆は、悪を成す者に報復をしてはいけないとか、敵を愛せよとか聞いた時、崇高な道徳の実践にしか聞こえなかったでしょう。先週の箇所のイエス様の教え「悪さをされても腹を立てるな」「姦淫の目をもって異性を見るな」、これらも同様だったでしょう。しかし、十字架と復活によって状況が一変したのです。神がイエス様を用いて実現した救いを受け取ることで、これらの教えは、全ての信仰者の心を掴み方向づけるようになったのです。

十字架と復活の出来事の後で、この「悪を成す者に報復をするな」、「敵を愛せよ」というイエス様の教えを、神の意思に従う者の立場から、使徒パウロが大きく取り上げました。「ローマの信徒への手紙」12章17~21節で彼は次のように教えます。

「だれに対しても悪に悪を返せず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」

「せめてあなたがたは」というのは、他の者がキリスト信仰者との平和共存に反対しようとも、信仰者はそれを受けて立つことはせず、一方的になっても平和共存路線を貫きなさいということです。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」というのは、裁くのは神の仕事であって、起きた不正義に対しては神が報いと償いをする。それは最終的に最後の審判の日に実現する。だから、不正義の報いと償いは神に任せて、信仰者は以下のことに専念しなさいと言います。

「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」

善をもって悪に報いてやった敵の頭に燃える炭火を積むとは、一つには敵が自分の悪行を恥じ入る意味があります。もう一つは、敵が悔い改めない限り、ただただ最後の審判で自分が受ける裁きを自ら確定していくことを意味します。

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

悪に対抗するのに悪をもってすると、悪に頼ったことになり、悪に負けたのである。悪に本当に勝つには善をもって悪に立ち向かうしかないのである。その時、敵は悔い改めるかもしれないし、改めない場合は、あとは神がその者を完全に裁くことになる。どっちにしても、善をもってする場合、悪は打ち負かされる運命にあるのである。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。


主日礼拝説教 2014年2月16日(顕現節第六主日)
聖書日課  レビ記19章17~18節、第1コリント3章10~23節、マタイによる福音書5章38~48節


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