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聖書の翻訳の諸問題と課題
1月11日の礼拝の後で信徒の方から、礼拝中に朗読されたイザヤ書42章6節について質問があった。同節では、神が僕(イエス様のこと)のことを「あなたを形づくり、あなたを立てた」と言っているが、スオミ教会の礼拝で唱えられる二ケア信条(西暦325年成立)で御子は「つくられたのではなく生まれ」と言っているのと矛盾するのではないかという疑問。私は説教を準備する時は原文しか見ないから、日本語でどう言われているか気づくのは大抵は礼拝の朗読の時。その日当番の方の朗読で、あれ、と一瞬思ったが、その後の礼拝の流れに集中しなければならず通り過ぎてしまった。
ヘブライ語の文章では「形づくる」はない。「守る」という動詞ならある。6節を忠実に訳すと次のようになる。「私、主(ヤハヴェ)は、あなたを恵みによって召し出し、あなたの手を取ってあなたを守り、あなたを私と民の契約として、また諸国民の光として立てた。」
どうして「形づくる」などと訳したのか。新共同訳はカトリックとプロテスタント諸派が一緒に作った訳。諸派の中には使徒信条や二ケア信条のような古代の信条を顧みない派があって、その関係者が訳したのか?それとも、この預言はイエス・キリストと無関係であることを強調したいためにわざとこうしたのか?それなら、どうして辞書にない意味を持ちだしてきたのか?私が用いるのとは異なる辞書にその意味があったのか?(因みに私が用いているのは、HolladayのA Concise Hebrew and Aramaic Lexikon of the Old Testament。大学の神学部時代は手に負えない時は学部図書館にあったBaumgartenの大型のものを用いたことがあるが、個人ではとても所有できない。)
実は11日の福音書の個所にも問題があって、洗礼授けを躊躇するヨハネに対してイエス様が「正しいことを全て行うのは我々に相応しい」と言う下りがある(マタイ4章15節)。「正しいことを行うのは相応しい」とは少し寝ぼけた訳ではないか?「正しいこと」はここは「義なること」ではないか?英語(NIV)もルター・ドイツ語もスウェーデン語もフィンランド語も皆そう訳している(「義なること」が何を意味するかはその日の説教を参照のこと)。先日の聖書研究でわかったことだが、創世記18章16節はヘブライ語で、アブラハムの子孫が「義と正義を行うように」と言っているのに、新共同訳は「義」を削除してしまった!ルター派の翻訳委員は一体何をしていたのか?
今日の山上の説教の「心の貧しい人」(マタイ5章3節)も正確には「霊的に貧しい人」である。上記4カ国語もそう訳している。「心が貧しい」は、「あの人は心が貧しい」と批判したり、「私は心が貧しい」と反省したりして、人間関係で現れる至らなさ惨めさを意味する。「霊的に貧しい」は、神との関係で明らかになる至らなさ惨めさだ(ドイツ語のEinheitsübersetzungはまさにそう訳している)。
日本語は美しい言語であり、そこで育まれる感性には美しいものが沢山ある。だからと言って聖書の精神をその中に埋没消散させていいわけはない。それは、日本語とその感性に一層磨きをかけることが出来るものであると信じている。