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2026年3月15日(日)スオミ教会説教
聖書:ヨハネ福音書9章1~41節
説教題:「生まれつき盲人の奇跡」
今日の福音書、ヨハネ福音書で大変長いですが読んだだけでわかります。まず、1~12節を見ますと、此処ではイエス様が通りすがりに生まれつき目の見えない人を見てこの人の目が見えるようにして下さった。と言う奇跡の業をなさいました。その、癒された業のいきさつを6節~7節に記しています。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、シロアム”遣わされた者”と言う意味の池に行って目を洗い、すると目が見えるようになって帰ってきた。」イエス様が病人を癒したり驚くべき奇跡の業をなさった時はたいていイエス様の力によって出来事が起こっています。ところが、此処でのイエス様はわざわざ唾をしてその唾で土をこね、そのこねた土を目の見えない彼の目に塗って、それをシロアムの池で洗いなさい。と言われています。どうしてイエス様の一言の言葉ではなくて今までとが違った手作業をいくつも踏んで行われているのでしょうか。この奇跡の業をなさったのが”安息日”でありました。当時のユダヤ教の掟によれば”安息日には全ての仕事を休む”と言う事になっていました。ところが、イエス様のこの盲人になさった奇跡の業は安息日にはしてはならない三つか四つの労働であったわけです。つまり、掟を破っていると言う事で此処にファリサイ派の人々が騒いだわけです。イエス様はユダヤ教の掟を知らなかったのではない、ご承知の上でなさった。そこで、ユダヤ教のファリサイ派の人々が先ず見えるようになった盲人を呼んで尋問しています。
問題は「彼の目を開けてくれた人物」はどんな人なのか、と言う事です。17節で盲人は言います。「私の目を開けてくれた人、あの方は預言者です」。ここで彼が「預言者だと思います」と言う意味の彼の本当の預言者は旧約聖書にある職業での預言者ではない。16節でこう記しています。「どうして罪ある人がこんな印を行う事が出来るだろうか」。正直にそのまま言っていますね。33節では目が見えなかった彼が言っております。「もし、あの方が神から来た人でなかったら何一つ出来なかった筈です。」彼は全身で自分に起こった出来事を現わして、あの方は神から来た人です、とまで言っています。そういうところから見ますと彼の言った「預言者だと思います」と言うのはまさに「神から来た超自然的な人物である」と言っているのです。ファリサイ派の人たちの中で色々と意見が分かれます。いったいどう考えるべきか。そうして遂に18節~23節にありますように、見えるようになった彼の両親を呼びつけて尋問しています。確かに息子は生まれつきの盲人であったのか、確かめています。更には「どうして生まれつき見えなかった息子が見えるように治したのか」「一体だれが治したのか」と問い詰めています。すると両親は「本人に聞いてください。もう大人ですから」と答えています。それが両親の自然の気持ちでしょう。そして、彼らはどうしてもすっきりしない。埒があかないので24節以下でもい一度盲人であった彼を呼びつけまして「神の前で正直に答えよ、私たちはあの者が罪ある人間だと知っているのだ」。ここまできますと彼らはイエス様を安息日に掟を破った罪人だと頭ごなしに言ってきます。元盲人であった彼はきっぱりと反論して言います。恐らくファリサイ派の人々がどんな酷い事をしかねないユダヤ教の人々である事もしった上で、彼にしてみれば命がけで反論します。「あの方が罪人かどうかは私にはわかりません。ただ、知っているのは目の見えなかった私が今は見える、と言う事です。」ここで彼はまさにありのまま神の前で告白しいる言葉です。あの、お方イエス様が成して下さった神の業によって自分の身に起こったこと。生まれつき見えなかった真っ暗な世界が、今は素晴らしい光の世界に何もかもが輝いて見えているというこの事実を喜びを持って証しているのであります。話の経過は私たちは読めばよくわかる話です。
著者のヨハネは何故こんなにもユダヤ教のしつこい尋問の事を長々と詳しく書いているのだろうか。18~23節のところで両親を呼びつけている場面で特にくどくどと記しているのです。特に問題なのはこの両親が「本人に聞いてくれ」と言い逃れたと言う事です。これはよく考えれば、ごく当たり前の事です。言い逃れでも、何でもない本人が一番よく知っている事です。両親がその場にいたわけではありません。息子が飛んで来て”眼が見えるようになったよ”と喜び勇んで両親にもとへやって来たのです。それで「あれに聞いて下さい、もう大人ですから」自分の事は自分で話すでしょう」と両親が言っていますが、問題はそう言わざるを得ないようです。著者のヨハネは22節でこう記しています、「両親がこう言ったのはユダヤ人たちを恐れていたからである。」ユダヤ人たちは既にイエスをメシヤである、と公に言い表す者がいれば会堂から追放すると決めていたのである。両親が「もう大人ですから、本人にお聞きください。」と言ったのはそのためである。イエス様の時代にはまだイエスに味方する者はユダヤ教から破門するぞ、と言うような決定はなされていなかった。とこう考えた方が自然でしょう。だから、福音書でも古い時に書かれたマルコやマタイにはそうした記事は出てきません。ずうっと後の時代に書かれたヨハネ福音書だけが、此処の箇所にもう一つ12章42節で書いているのです。そこで、22節の文章は正確にはイエス様の生きていた時代、と言うよりもずうっと後の紀元1世紀終わりの頃、つまりヨハネがこの福音書を書いている当時の状況を織り込んだ文書ではないか、と進歩的な神学者たちは解釈した、恐らくそうでしょう。紀元1世紀の末の頃にはもうキリスト教とユダヤ教とがはっきり違う宗教だと考えられるようになっていた。そのような状況の中でイエスを信じるか、迫害を恐れてしまうかと問われている。目が見えるようにして頂いた彼は必死に告白しています。29~34節を見ますと、ファリサイ派の人々が言っています。「我々は神がモーセに語られた事は知っているが、あの者が何処から来たのか知らない」。彼は答えて言った。「あの方が何処から来られたか、あなた方がご存知ないとは実に不思議です。あの方は私の目を開けて下さったのに。神は罪人の言う事はお聞きにならないと私たちは承知しています。しかし、神を崇めその御心を行う人の言う事はお聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開ける人がいるなどと、これまで一度も聞いた事がありません。あの方が神のもとから来られたのではなければ何もお出来にならなかったはずです」。彼はありのまヽの真実を述べてます。こう言った彼をついに外へ追い出した。35節以下を見ますと、イエス様は彼と出会って「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った「主よ、その方はどんな人ですか」彼はまだ盲人であった時、イエス様の顔を見ていませんので、自分の目の前の方がどんな方かわからなかったのですね。かれは言う「その方を信じたいのですが」。
すると、イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのがその人だ」。彼はどんなに嬉しかったでしょうか。彼の人生は180度、全く新しい世界に生きる事が出来るようになったのです。だれでも、まことに主イエス様と出合う人は全く新しい霊の世界に、その人の魂そのものが神の霊の世界にまで至る事が出来るようになるのです。彼は、「主よ信じます」と跪いたのでした。ヨハネがこの福音書を書いている時代のキリスト者たちはユダヤ教からの迫害に会って外に追い出されたり捕えられ殺されるような時代の只中で「イエスこそ、私の救い主、主キリストである」と命をかけて告白し戦っていった信仰者への励ましの福音であります。彼は生まれつき見えない真っ暗な世界から今は「見える」と言う彼が全身で受けた恵みの事実だけを告白しているのであります。イエス様がなして下さったこの奇跡は一つの象徴としてこの業を彼に起こさせ、そして私たちへのメッセージは肉体の目が見える世界から「信仰によって」霊的な目が開かれ、それにまことの霊の御国の光輝く栄光の世界を見る事が出来る希望が与えられているのです。此の世の物の世界では見えない暗黒から霊の世界が見えてくることこそイエス様が望んでおられる奇跡の意味です。神の世界から、此の世の人間へと遣わされて神の御国が見えるように霊の目が開かれるように。イエス様はあらゆる教え、奇跡の業を成して行かれたのであります。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン