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覚悟と胆力を養うキリスト信仰その3
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月27日の日課から)
『この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った』 (マタイ4章22節)
『ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師が主イエスの呼びかけに応じて全てを捨てて従って行ったのを聞いて、キリスト信仰者も同じように財産、家、妻子を捨てて行かなければならないのかと思うかもしれない。しかし、そういうことではない。心のどこかで家、財産、妻子を捨てていなければならないということなのだ。つまり、家族と共に暮らし、彼らのために糧を取得し、彼らの世話をするのは神の定めである以上そうするのであるが、それと同時に心のどこかで捨てていなければならないということなのだ。もし実際に捨てるべき時が来たら、全てのものを神に委ねなければならない。これがまさしく神のゆえに全てのものをいつでも捨てる用意があるということである。このような思いでいることができれば、あなたはもう全てを捨てていることになる。心は囚われた状態になってはいけない。心から独占欲、執着心、依存心を洗い清めなければならない。
このようにすれば、財産があっても、心で捨てることが出来ている。そして実際に捨てるべき時が来たら、あとは神の名においてそうするのだ。ただしそれは、「私は別に妻子や財産なんかなくても良いのだ」などと無感情のようになって捨てることではない。そうではなくて、次のような切ないとも言えるような思いを持つことなのだ。「神さま、あなたがお許しになる期間、私はそれらを自分の許に留めます。あなたがお許しになる期間、彼らを世話することであなたにお仕えします。」
自分の心の状態はどれかよく注意しなさい。何を持っているか持っていないか、それが沢山あるかないかといったことに心が占拠されないようにしなさい。今自分のもののように見える財産があっても、それを脇に置いておきなさい。あたかも最初からそんなものはなかったかのように、あるいは、いつでもなくなってしまうもののように。そうすることで私たちは常に神の国に結びついているのである。』(以上ルターの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました)
所有するものをさも所有していないかの如く振る舞うというのは、ボンフェッファーの著作のどこかにもあったと記憶しています。
「主が与え、主が取られたのだ、主の御名はほめたたえられよ」ヨブ記1章21節
今自分のもとにある人は神が許された期間あるものなのだとわかれば、それは一層愛おしいものになって、その人と一緒にいる時間は貴重なものになって、一層大切にするのではないでしょうか?