牧師の週報コラム

これぞ、キリスト信仰の死生観

イエス様が死者を蘇らせる奇跡を行ったことは、会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)やラザロ(ヨハネ11章)等々の事例があります。 ヤイロの娘とラザロの蘇らせの時、イエス様は死んだ者を「眠っているにすぎない」と言って生き返らせました。ただし、彼らには、将来の復活の日に起こる復活が起こったのではありません。なぜなら、二人ともその後で寿命が来てまた「眠り」についたのであり、今、本当の復活を待っているからです。それではなぜイエス様はこれらの奇跡を行ったのでしょうか?それは、復活させられる者にとって死は「眠り」にすぎないということと、その「眠り」から目覚めさせる力があるのは彼をおいて他にはないということを前もって具体的に人々にわからせるためでした。

以下は、マタイ9章24節のイエス様の言葉「娘は死んではいない。眠っているだけだ」についてのルターの説き明かしです(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月8日の日課から)。これぞキリスト信仰の死生観の真髄!

「我々は、自分の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストと固く結びついている者にとっては、死とは全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休息用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって墓から飛び出し、天上にいます我々の主、救い主に迎え入れられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の約束の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、眠っている間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただくことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

主の約束の言葉「私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。」ヨハネ傳福音書11章25節

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