2024年6月23日(日)聖霊降臨後第五主日 主日礼拝  説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

「夏に宣教師がフィンランドに一時帰国するため、その間のスオミの礼拝は協力牧師が担当します。」

説経題 「嵐を叱るイエス」             スオミ教会 2024623日(日)

聖書 マルコ福音書43541

マルコ福音書4章では「種まく人」譬え話をイエス様はガリラヤ湖で舟の上から群集に語ってこられました。41節を見ますと、「イエスは再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群集が傍に集まってきた。そこでイエスは舟に乗って腰をおろし湖の上におられたが、群集はみな湖畔にいた。イエスは譬えでいろいろと教えられた。」とあります。

そうして435節以下では、その日の夕方になって話しは一転して湖の上での大自然を相手にした奇跡を弟子たちに見せられるのでありました。今日の聖書であります35節から見ますと「その日の夕方になってイエスは『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。さぁここで、この一言で弟子たちは恐らく吃驚仰天したのではないでしょうか。弟子たちの中には、ペテロをはじめ何人もの、このガリラヤ湖で漁をしていた漁師たちです。何十年もこの湖で過ごしてきて、この湖がどうなるかも知り尽くしている漁師たちです。夕方になり、日も暮れようとしている時、暫くすれば周囲は闇につつまれます。どう考えても不安と恐怖の念がペテロたちの心をよぎります。

しかし、イエス様の一声です。「向こう岸へ渡ろう」え?これからですか、と言いたい。弟子たちは感心できない状況を知りつつも、あえてイエス様に抵抗できない・・・・。ここでルカ5章の始めの場所と非常によく似ていることに注目したい。54節にイエス様がガリラヤ湖の岸辺で群集に教えられて話し終わった時、シモン「沖へ漕ぎ出して網を降ろして漁をしなさい」と言われた。そのペテロが言ったんです。「先生、私たちは夜通し苦労しましたが何も獲れませんでした。しかしお言葉ですから網を降ろしてみましょう」。漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり網が破れそうになった」。とあります。シモン・ペテロがイエス様に、はじめは出漁の勧めを断って言います。「私たちは夜通し苦労して漁をしても何も獲れませんでした。漁師たちのこれまでの経験から今更網を降ろしても何も獲れないくらいわかり切っている、とっさにそう思ったのでしょう。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう、と言って実際、行動を起こして漁をして行きます。長年の経験や理屈ではない自分たちの誇りも何も捨てて、しかしお言葉ですから、とここにイエス様への信頼から起こる行動へと、お言葉に従ってゆくのです。

結果は自分たちが一度も想像だにしない大漁を見るのです。あの時イエス様に従っていった喜びが湧き出て、今またここに信頼と信仰から彼らを主イエス様の言葉へ決意させていったのです。たとえ、どんなに恐ろしい困難な状況が起ころうとしても、我が主と仰ぐイエス様に従う喜びがここに秘められている、と言っても良いかもしれません。36節を見ますと「弟子たちはイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」。対岸のゲラサ地域までの中間地点まで凡そ11km離れた頃から急に突風にあおられ暴風と激しい雨に舟は浸水し危険な状態になってきました。もう戻ることも出来ません。進むしかない。暗闇の中で更に恐怖が襲ってきます。ところが、この恐怖の弟子たちに対してイエス様は舟の艫の方で眠っておられるのです。ガリラヤの漁師を長年やってきた弟子たちはこのような暴風になる事もわかっていました。それを敢えてイエス様の言葉に従ってきたのです。“イエス様大変です、舟が沈みそうです。”もはや絶体絶命の時になんと言うことでしょうか。嵐の中で恐怖のどん底にあえぐ弟子たちと、かたやイエス様は舟の後ろで平安の中で眠っておられる。この対比はいったいどういう事でしょう。この事を人生の歩みで考えてみますならば、風と波の渦巻くこの世の支配の只中で困難の極みに苦しむ弟子たちの姿はまさに当時、ローマ皇帝の激しい迫害の下で苦しむキリスト教会の姿、そのものであろうと言う見方もあります。<大切な事は>嵐の中で翻弄する弟子たちと主イエス様の対比だけの話ではありません。初めから主イエス様がずうっと、この舟の中に共におられる、と言う事です。弟子たちがこれまで自分たちの経験から暗闇の海に舟で渡ろうなんてとても無理な事、危険にあうであろう、とイエス様に抵抗はしたものの、そこにイエス様の言葉に一切をかけて信頼して舟を漕ぎ出したのです。

<言い換えますなら>嵐吹くであろうこの世の困難に向って神の支配の下に想像もつかない神の次元の力と権威を持ち給う、この御方、主と仰ぐ、この御方に従ったのです。この御方と共にいる事に対する信頼と喜びとが秘められていたはずです。ところが現実の嵐の中の舟ではこの世の荒れ狂う自然の力の前に弟子たちは一溜まりもない自分たちの無力の空しさでどうにもならないのです。何もかもお手上げ、死を前にしています。“イエス様起きてください。助けてください。私たちは死にそうです。”イエス様なら何とかしてくださる。イエス様というお方の存在、神の力をもって奇跡を起こされる、神の権威をお持ちのイエス様をどれほど信頼を持って見ていたでしょうか。私たちも信仰生活の中でこの世の襲い来る困難に主イエス様をどれほど信頼し、そのみ力を頼って信じているでしょうか。あれほどガリラヤの湖の何もかも知り尽くして嵐の恐ろしさも知り尽くしていたにもかかわらず今、嵐の只中で全く無力です。自然の力の恐ろしさ、私たちも知らされます。大地が裂け、揺り動かされ、津波の押し寄せる前に人間は全く無力です。私たちは直接この身に会ったいませんがテレビの映像で知らされます。さて、今日の聖書を見ますと38節には“弟子たちはイエスを起こして「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか」と言った39節、イエスは起き上がって、嵐を叱り湖に「黙れ!静まれ!」と言われた。すると風は止みすっかり凪になった。

何と言う事でしょう。イエス様のこの大自然の力、狂ったように襲い来るものに向って一声で叱り飛ばされたら風はたちまち止み湖は凪となったのです。大変な奇跡です。「黙れ、静まれ」と言うイエス様のこの言葉は実は全く同じ言葉を悪魔につかれた者に向っても叱って言われました。マルコ125節に記されています。ガリラヤ湖の破壊的な力で荒れ狂う嵐にも、また汚れた霊に取り付かれて暴れまわる男に対してもイエス様はこれを叱り飛ばし完全な勝利を表したのです。もう一方で嵐の中にあっても同じ舟の中に平和のうちにイエス様が共におられる、この信頼に屈服してしまっている弟子たちを、この言葉で目覚めさせ叱っておられるのです。だから40節を見ますとイエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。この言葉こそ弟子たちの心を揺さぶりイエス様に寄せていた信仰、絶対的信頼を新たに目覚めさせられたのであります。誰もが自分の内にある信仰の足らなさに目覚めさせられ「主が共にいます」と言うこの信頼への重さを新たにさせられるのです。主イエス様がご自分の命を与えてくださっている、それほど愛されている、この恵みを知るとき新たな信仰の歴史が起こり生かされて創りかえられてゆくのであります。   アーメン

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