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主日礼拝説教 2024年5月26日
イザヤ6章1-8節、ローマ8章12ー17節、ヨハネ3章1ー17節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地とその間にある全てのものを造り、私たち人間をも造って命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。
そうは言っても、三位一体はわかりにくいです。三つあるけれども一つだという。いち足す、いち足す、いちは三ではなくて一であると。どのようにしてそんなことが可能なのかと頭で考えると、もう無理です。しかし、キリスト信仰者はこういうものなんだと受け入れている。どうして受け入れられるかと言うと、三つがどういうからくりで一つになっているのかということはあまり気にかけないからです。それよりも、なぜ三つが一つでないといけないのかということの方が重要だからです。なぜ三つが一つなのか?それは、三つの人格が一つであることで神の愛というものがどのようなものであるかがよくわかるからです。
まず、神は創造主として私たち人間を造りこの世に誕生させました。これが造り主としての人格です。ところが、人間の内に造り主の意思に背こうとする性向、罪が入り込むようになってしまったために、神はひとり子を贈って、彼を犠牲の生贄にすることで私たち人間を罪と死の支配から解放して下さいました。これが贖い主としての人格です。こうして、私たちは罪の赦しの恵みの中で生きられるようになりましたが、人生の中でいろんなことがあって恵みから離れそうになります。そのたびに聖霊から指導や支援を受けられ、神の目に相応しい者として生きられます。これが、私たちを日々、汚れから清めて下さる人格です。
三つの人格の機能は別々のものに見えますが、それらは一丸となって一つのことを目指しています。それは、人間が罪と死の支配から解放されて永遠の命に至ることが出来るようにするということです。このように三位一体は私たちに進むべき道を示すだけでなく、それを進める力を与えてくれるものなのです。
以上のことは毎年、三位一体主日の礼拝説教で述べていることですが、今日は同じことを少し角度を変えて見ていこうと思います。どんな角度から見ていくかというと、キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」、「新たに生まれる」とはどういうことかを考えながら三位一体の神を見ていくということです。
まず最初に思い起こさなければならない大前提は、私たちは創造主の神に造られたということです。それを思い起こしたら、次に考えなければならないことは、造り主と私たち人間の関係はどうなっているのかということです。関係はいいのか?よくないのか?聖書の観点では、よくないというものです。どうしてよくないのか?それは、創世記に記されているように、神に最初に造られた人間が神の意思に背く性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで死ぬ存在になってしまったからです。使徒パウロがローマ5章で述べるように、人間誰でも死ぬというのはみんな最初の人間から罪を受け継いでいることのあらわれです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいます。悪いこともするが良いこともするという人もいます。それでも、全ての人間の根底には神の意思に背く罪が脈々と続いているというのが聖書の観点です。このように人間が罪を持つ存在であるとわかると、神は全く正反対に神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。
罪を持つ人間にとって神の神聖さとはどんなものであるか、それについて本日の旧約の日課イザヤ6章の個所はよく表しています。預言者イザヤはエルサレムの神殿で肉眼で神を見てしまいました。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が王なる万軍の主を見てしまったのだ」。これが罪ある人間が神聖な神を目にした時の反応です。罪の汚れを持つものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。
イザヤは自分自身の罪と自分が属している民族の罪を告白しました。すると天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤは大やけどを負いませんでした。それは、炭火が焼き尽くしたのは肉体のように目に見えるものではなく、目に見えない霊的なものだったということです。それは何か?セラフィムが、お前の不正は償われた、お前は罪から贖われたと言います。イザヤは自分も民族も汚れた唇を持つと告白しましたが、それは、神の意思に背く不正と罪があることを認めたのでした。このように聖書の観点では、清めというのは罪からの清めを意味します。罪というのは、先ほども申しましたように、神の意思に背こうとする人間誰しもが持ってしまっている性向です。背きには、造り主である神をないがしろにして、別の何かに願いをかけたりをしてしまうような神との関係での背きがあります。それと、他人を傷つけたり見下したり、嘘をついたり広めたり、他人のものを妬んだり、妬むだけでなく実際に横取りしてしまったり、不倫をしたり等々、人間関係で神の意思に背くこともあります。背くというのは、そうしたことを行いや言葉で出してしまうだけでなく、心の中で思ってしまうこと全てを含みます。聖書の観点ではそういうことが汚れなのです。そういうことが霊的なことなのです。このように聖書の観点では、「清め」とか「汚れ」とか「霊的」というのは極めて倫理的な事柄なのです。
この点は他の宗教ではどうでしょうか?汚れと言ったら、倫理的な事柄ではなく、病気とか不運とか何か不都合なことを意味し、そういう不都合を取り除くことや予防することを汚れからの清めと言うのが多いのではないでしょうか?もちろん、イエス様も汚れた霊を追い出したり、重い皮膚病の人を癒してあげたりしました。しかし、よく見ると、汚れた霊の追い出しや皮膚病の癒しはサラッとしています。追い出して下さい、癒して下さいとお願いされると、イエス様は、出ていけ!治れ!と一声かけただけでみなその通りになりました。しかし、神の意思に背く罪については、イエス様が一声かけたらみんな義人になったという奇跡はありません。倫理的な汚れはその他の汚れよりも手ごわいのです。そう言うと、いや違う、汚れた霊の方が手ごわいと言う人もいるかもしれません。しかし、それは本当ではありません。どうしてかと言うと、汚れた霊とか悪霊というのは人間と神との結びつきを失くすることを本業としています。なので、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを確立してさえいれば、汚れた霊や悪霊は手出しが出来なくなるのです。病気や不運の問題も、神との結びつきの上に立って治療や立ち直りを行っていくだけです。日本人もこういうスタンスに立てるようになれば、祟りなど汚れなどと言われて惑わされることはなくなるでしょう。
それでは、罪の汚れを持つ人間が義人になることが出来るためにはどうしたらいいのか?イエス様は本日の福音書の日課の個所で、人間は新たに生まれなければならないと教えます。次にそれについて見ていきましょう。
その前にイエス様に教えを乞うたニコデモが属していたファリサイ派について少し述べておきます。それは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということをとても重視したグループでした。彼らは旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に実践していました。自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。ただし、清めというのは、異教徒がいる広場から帰ったら体を清めるだとか、外の汚れが体の中に入り込まないために食事の前に手を洗うとか、そういう外面的な清めでした。
イエス様に言わせれば、神の前での清さというのはそのような外面的なことではない、心が神の意思に沿うものになっているという清さでなければならない。マルコ7章にあるファリサイ派との論争の中でイエス様ははっきり言いました。外から体の中に入るものは人を汚さない、だから手の清めをしないで食事をしても心を汚すことはない。食べたものはお腹に入って便となってトイレに流されるだけだと。人を汚すのは、人間の心から出てくる悪い思いである。すなわち、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別であると具体例をあげます。ここからもわかるように、イエス様は汚れとは倫理的な汚れであるとはっきりさせます。神のひとり子が神の意思はこれだと教えたのです。
神の意思が人間に倫理的な清さ、しかも、行為や言葉だけでなく思いも含めた全人的な清さを求めているとすると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるなどと言って自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様はファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のニコデモはイエス様の教えと行動に何か真実を感じ取ったようです。彼は人目を避けるかのように「夜に」イエス様のところに出かけます。そしてイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。
さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである「新たに生まれる」について見ていきましょう。「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。貧乏な人が生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことが悔しい人が生まれ変わったら有名になりたいとか。または、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃん/おばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現するものと言えます。時として、自分は前世では別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。ただ、輪廻転生の生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなります。
聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明はイエス様に目覚めさせられて朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を持って吉村博明として神の国に迎え入れられます。
そうすると、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」というのはどういうことでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないということです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。さすがイエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモです。ファリサイ派とは言え、聖書をちゃんと読んでいるので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれて出てきてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われて、年とった自分がそのまま母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。
ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。どんな誕生なのかと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは、どういうことでしょうか?
人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのですが、それは単なる肉の塊です。その肉の塊は、創世記2章やエゼキエル書37章で言われるように、神から霊を吹き込まれて生きものとして動き始めます。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神からの霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊を注がれると霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。
それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。どういうことか以下に見ていきましょう。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)
風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、その生まれが風の動きのように起こるだとか、そのようなことはどのようにして起こるのか?彼の問い方には途方に暮れた様子がうかがえます。
これに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規則とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。イエス様は核心部分に入ります。
「天から地上に下った者つまり『人の子』以外には天に上る者はいない(13節)。
イエス様は自分が「水と霊による新たな生まれ」を起こす者であることをこのように言って証し始めます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということを言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。14節です。
「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。」
これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起こると言うのです。これは何のことでしょうか?
イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。神の意思に背こうとする罪のゆえに人間と神との間に果てしない溝が出来てしまった。しかし、神は人間が自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげようと、そしてこの世から別れた後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それで溝を超えて私たち人間に救いの手を伸ばされました。その救いの手がイエス様でした。神はこのひとり子をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせました。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出しました。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受ける、つまり神が伸ばしてくれた救いの手を掴むと、この償いと赦しの状況に入れることになります。それからは自分から救いの手を振り払うことをしない限り、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後は永遠に造り主のもとに迎え入れられるようになります。このように神との結びつきを持って生きる者は、永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して進みます。まさにイエス様が言われたこと、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。このように新たに生まれて霊的な者になるというのは、神との結びつきを持って神の国を目指して歩む者になるということです。
しかしながら、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのため神の意思に背くことはしないように注意するようになりますが、それでも考えを持ってしまったり言葉に出してしまったりします。このように人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つの凌ぎ合いが始まります。
これがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。使徒パウロも認めているように、「他人のものを妬んで自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐそう思ってしまう自分、神の意思に背く自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ沿うのが不可能だと言うのなら、無駄なことはせず感情感覚のままに行けばいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲は意味のないことだったということになります。逆に、心の奥底から完全に沿えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。
そのような時は心の目をゴルゴタの十字架に向けます。まさに、そのような時のためにあの十字架は打ち立てられたのです。その時、聖霊が心の耳に囁くように教えてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神のひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神罰を受けられたのではなかったか?あの方の尊い犠牲と、あの方を真の救い主と信じる信仰のゆえに、神はお前に罰を下さないと言って下さっているのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦してもらったのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。救いに関してお前は先を越されたのだ、あとは何も考えずにその後を追いかけるのだ。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。
モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、人の子も高く掲げられなければならない。彼を信じる者が永遠の命を得るために。
神はそのような仕方でこの世を愛を示された。それで人の子を贈られたのだ。彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るために(ヨハネ3章14~16節)。
こうしてキリスト信仰者は聖霊の働きで神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを再び思い知り、神聖な神の意思にすっぽり包まれているとわかって、そこから外れないようにしようと襟を正します。そうして、また先を越されたことの後追いが始まります。
キリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そうすればそうするほど、神と人間の結びつきを失わせようとする罪は立場と面目を失い、圧し潰されて行きます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ8章13節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。日本語訳みたいに威勢よく一気に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。
主にある兄弟姉妹の皆さん、このように私たちには造り主の主と贖い主の主、そして日々、汚れから清めてくれる主がいつも共にいてくれるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。