2024年3月10日(日)四旬節第四主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師 

主日礼拝説教 2024年3月10日 四旬節第四主日

民数記21章4-9節
エフェソ2章1-10節
ヨハネ3章14-21節

説教題  「君は心の目でイエス様の十字架を見つめられるか?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

旧約聖書と新約聖書は互いに密接に繋がっています。旧約聖書に来るべき救世主のことが預言されていて、それがイエス様の出来事で実現して新約聖書に記されました。それで、旧約、新約はそれぞれ天地創造の神の人間救済について計画段階と実現段階を述べていると言うことができます。このように聖書は全体として神の人間救済についての書物です。

 旧約と新約が互いに密接に繋がっているということは預言の実現だけではありません。それは、旧約にある出来事は将来のイエス様の出来事を初歩的な形で先取りしていたということがあります。その一つの例は、エルサレムの神殿で行われていた礼拝でした。イスラエルの民は神殿で毎年、罪を償う儀式として大量の牛や羊を生贄にして神に捧げました。それが、イエス様が十字架の上で死なれたことにより、人間の全ての罪の償いが果たされたということが起こりました。それで何かを犠牲にする必要はなくなり、神殿の存在理由がなくなってしまったのです。神殿の儀式は罪の償いの実物ではなく、実物はイエス様の十字架でした。神殿の儀式はそのミニアチュアのようなものだったのです(礼拝の説教中に一つ思い当たり、ひょっとしたら自動車のコンセプトカーと実際に生産販売される自動車の違いのようなものではないかとも申しました)。神殿では大量の生贄を毎年捧げなければならないので、神に対して罪を償うというのはとても大変なことだということは誰にでもわかりました。それが神のひとり子の一回限りの犠牲で未来永劫しなくていいということになったのですから、イエス様の犠牲の力の凄さと言ったらありません。

 本日の福音書の個所のイエス様の教えにもミニチュア/コンセプトと実物の関係があります。遥か昔モーセがシナイの荒れ野で蛇の像を掲げて、それを見た者が毒蛇の毒から救われた、それと同じように十字架に掲げられたイエス様を信じることで人間は永遠の滅びから救われるという教えです。これもイエス様の十字架が実物でモーセの蛇の像はそのミニチュアという関係にあることを示しています。今日はこの関係をよく見て神の私たちに対する愛と恵みをより深く知るようにしましょう。

2.信じるとは、心の目で見つめること

本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3章1ー21節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、神の愛と人間の救いについて、そして人間は洗礼を通して新しく生まれ変われるということについて教えられます。

 まず、イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げた出来事は、本日の旧約の日課、民数記21章の中にありました。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度も民を苦境から助け出したのですが、それにもかかわらず民は、一時するとそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に反抗したことを罪と認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に赦しを祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを見つめる者は「炎の蛇」に咬まれても命を落とさないで済むようになりました。新共同訳では、作った蛇を「見上げる」とか「仰ぐ」と訳していますが、9節のヘブライ語の動詞ヒッビートゥ、プラス前置詞エルは辞書によると英語のlook atgaze atです。「見上げる」、「仰ぐ」ではなく、「見つめる」とか「注目する」です。じーっとよーく見ることです。

 イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分を同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見つめると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたという共通点にとどまらない深い意味があります。

 本日の民数記の個所に「炎の蛇」が2回出てきます。最初は神がイスラエルの民に対する罰として「炎の蛇」を送ります。その次は神がモーセに「炎の蛇」を作りなさいと命じます。興味深いことに各国の聖書は最初の蛇を「炎の蛇」と訳さず「猛毒の蛇」と訳しています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。ところが、ヘブライ語の辞書を見ると「猛毒の蛇」はなく、「炎の蛇」です。欧米の翻訳者たちはきっと、古代人は蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんなふうに考えて辞書にはない「猛毒の蛇」で訳したのではないかと思われます。つまり、「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、合理的な解釈をしたのでしょう。どうも欧米人にはそういうところがあるように思われます。しかし、その欧米で作られた辞書に「炎の蛇」とあるのだから、別に「炎の蛇」でいいじゃないか。それと、神がモーセに作りなさいと言った「炎の蛇」も、各国の訳はそう訳していません。素直じゃないと思います。

 さて、モーセは「炎の蛇」を造りなさいと言われて青銅の蛇を造ってそれを旗竿に掲げました。それを見つめた人たちは命が助かりました。これは一体どういうことでしょうか?次のように考えたらよいと思います。

 モーセがとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱なのでまさに「炎の蛇」です。しかし、だんだん冷めて固まります。それを言われた通りに旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。何の力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主の神に対して不従順になって神の意思に反しようとする性向つまり罪を持つようになってしまいました。それが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。これが堕罪の出来事です。

 イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うというのは、まさに神の意思に反する罪を犯すと、罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは冷たくなった蛇の像でした。これは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。つまり、神が与える罪の赦しは、罪の死に至らしめる力よりも強いことを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見つめた者は、冷たくなった蛇の像が現している罪の無力化がその通りになって死を免れたのです。

 これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。罪が人間に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを回復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送りました。彼に全ての人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせました。イエス様は全ての人間を代表して全ての罪を神に対して償って下さったのです。それと、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせの形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされて罪はその力を無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力です。人間がこの世から去った後も造り主のもとに迎え入れられなくする力です。まさにその力が打ち砕かれ無力化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そればかりではありません。一度滅ぼされたイエス様は三日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられました。復活が起きたことで死を超える永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。他方、イエス様と共に断罪された罪は、もちろん復活など許されず滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。

 このように神はひとり子のイエス様を用いて全ての人間の罪の償いを全部果たし、罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。そこで人間がこれらのことは歴史上、本当に起こった、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いと罪からの贖いがその人に対してその通りになります。ここでまさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。荒れ野の民は悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見つめました。そして蛇の像が表していた罪の無力化がその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが私たちはイスラエルの民が青銅の蛇を見つめたように肉眼でゴルゴタの十字架を見ることは出来ません。それははるか2000年前に立てられたものです。それで、モーセの蛇の場合と違って、イエス様の十字架の場合は「見つめる」ではなく「信じる」と言うのです。しかし、イエス様を信じるというのはゴルゴタの十字架を心の目で見つめることでもあります。次にそのことを見てみましょう。

3.一度だけでなく、何度でも見つめること

イエス様の十字架を心の目で見つめることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時に起こります。肉眼の目を通して見たわけではないのに、まるで肉眼の目で見たのと同じように頭の中に映像があるのです。もう心の目を通して見ているとしか言いようがありません。

 そこで、イエス様の十字架を心の目で見つめることは洗礼の時の一回だけで終わらないこと、洗礼の後も何度も何度も繰り返して見つめることになることを忘れてはいけません。どうしてかと言うと、キリスト信仰者になったと言っても、神の意思に反する性向、罪はまだ残っているからです。確かにキリスト信仰者になったら注意深くなって神の意思に反することを行いや言葉に出さないようにしようとします。それでも頭の中では反することを考えてしまいます。また、人間的な弱さがあったり本当に隙をつかれたとしか言いようがない

注意があって罪を言葉や行いで出してしまうこともあります。そんな時はどうなるのか?イエス様が果たしてくれた罪の償いと贖いを台無しにしてしまったことになり、神罰を受けるしかないのでしょうか?

 いいえ、そうではない、ということを毎週、本教会の説教で申しています。自分に神の意思に反することがあった時は、すぐそれを神の御前で認めて赦しを願い祈ります。「イエス様を救い主と信じますので赦して下さい。」そうすると神も次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあの十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで今も打ち立てられて微動だにしていない。イエスの犠牲に免じてお前を赦す、だから、これからは罪を犯さないようにしなさい。」

 こうしてキリスト信仰者はまた永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻れて再びその道を進み始めます。ここで明らかなように、御国に向かう道に戻れて再出発できたのは、心の目で十字架を見つめることができたからでした。心の目で十字架を見つめることは、キリスト信仰者がイエス様を救い主であると確認する仕方です。キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることの繰り返しです。それで、十字架を見つめることは何度もします。そうやって何度も再出発します。キリスト教は真に再出発の宗教と言ってもいいくらいです。そもそも神は、人間が永遠の命が待つ神の国/天の御国に挫けずに到達できるようにとイエス様の十字架を打ち立てたのでした。私たち人間の救いのためにひとり子を犠牲に供しても良いとしたのでした。これが人間に対する神の愛です。そのことをヨハネ31416節はよく言い表しています。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。それほどに神は世を愛された。それで、独り子をお与えになった。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(後注)。」

4.信じない者は信じるに転ぶ可能性を秘めている

ヨハネ3章の本日の箇所の後半(18ー21節)で、イエス様は自分を信じない者についてどう考えたらよいか教えています。キリスト信仰者にとっても少し気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。

 3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言います。これは一見すると、イエス様を信じない人は既に地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたら穏やかではないでしょう。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになって以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。それでみんながみんなこの世を去った後は復活の日に永遠の命に与れず神の御国に迎え入れられなくなってしまう、永遠に自分の造り主と離れ離れになってしまう危険にある。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正します。信じなければ状況は何も変わらず、滅びの道を進み続けるだけです。これが「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。逆に、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それは軌道修正がなされたことになります。その時、「裁かれている」というのは過去のことになり今は関係ないものになります。

 3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と救いの道を用意して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。

 3章20節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒されたくないからだと言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない人は悪行を覆い隠そうとする悪人、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように聞こえて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るのではと思います。しかし、それは早合点です。キリスト教は本当は独善的でも何でもない。そのことがわかるために、キリスト信仰者とそうでない人の違いを見てみます。そうでない人は造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が全て造り主の神にお見通しという考え方がありません。そもそも、そういうことを見通している造り主自体を持っていないのです。

 キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口にした言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果は、いつも沿っていないので、そのために罪の告白をしてイエス様の犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で罪の告白と赦しを行っている通りです。これからもわかるように、イエス様は「信じる者は善い業しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は善い業を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身の真の姿を造り主である神に知らせるということです。善い業もしたかもしれないけれど実は罪もあった、それで罪も一緒に神に知らせるということです。私は神であるあなたを全身全霊で愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでしたと認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。

 このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善い業が人目につくように明るみに出すためではありません。3章21節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善い業も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなります。そうなると、神の前で自分を誇ることができなくなります。

 翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、神の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいためにイエス様をこの世に送られたのでした。神はイエス様を用いて救いを整えて、全ての人間にどうぞ受け取りなさいと言ってくれているのに、多くの人はまだ受け取っていません。また一度受け取ったにもかかわらず、十字架を見つめなくなってしまう人たちもいます。人間を救いたい神からみればとても残念なことです。それなので、キリスト信仰者は救いを受け取っていない人には受け取ることが出来るように、既に受け取った人は手放すことがないように働きかけたり支えてあげたりしなければなりません。受け取っていない人が受け取ることが出来るように、既に受け取った人が手放すことがないようにするというのは、詰まるところ人々が心の目でゴルゴタの十字架を見つめることができるように導くことです。見つめることができるようになれば、死を超える永遠の命に向かって進めるようになります。隣人愛の中でこれほど大事なものはないのではないでしょうか?主にある兄弟姉妹の皆さん、このことをよく心に留めておきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注)ヨハネ316節の訳し方について。ουτωςを後ろのωστε~と結びつけて考えると、「神はひとり子を送るほどに世を愛された」となります。これは一般的な読み方です。

 もう一つの読み方は、ουτωςを前の14節と15節で言われていること、つまり、「モーセが荒れ野で蛇を上げたのと同じように人の子も上げられなければならない、それは彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった

ουτωςはこれを受けているという見方も可能です。そうすると訳は、「彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった。そのように神は世を愛した。それで、ひとり子をこの世に送られた」になります。

 どっちがいいか、是非皆さまでご検討下さい。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

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